映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

クライマーズ・ハイ(2008年)

2015-09-26 | 【く】



 1985年8月12日に起きた日航ジャンボ機墜落事故を背景に、群馬県の地方紙「北関東新聞」でのスクープを巡る社内攻防の一部始終を描く。

 NHKでもドラマ化されており、個人的には迷うことなくドラマに軍配。


 
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 原作未読。横山作品は、映画化されたものが多いようですが、どれも読んだことも見たこともなく、唯一見ているのがこの「クライマーズ・ハイ」のドラマ。そして、本作。

 ドラマ版を見た際に、あの日航ジャンボ機墜落事故を巡る新聞社内部の話、という点に興味を抱いて見たのですが、そこへ登山の話や主人公の悠木の家族の問題等々が絡み、こんな重厚な話だったのか、、、と意外に思い、ドラマも非常に秀逸で印象に残りました。で、映画では悠木を、かつて愛した堤真一が演じるというので、今となってはどうでも良いといえばどうでも良いんだけれども、一応、ドラマも良かったし見てみようと思って鑑賞した次第です。

 しかしながら、本作は、ドラマ版に完敗です。もう、比べ物にならないくらい、ドラマ版の方が素晴らしい。やはり、大森寿美男は凄いと改めて思いました。

 本作は、とにかく、全編にわたり描写が散漫。高嶋政宏演じる安西なんて登場している意味がないし。もちろん、現在シーンで、安西の息子(小澤征悦)との登山を描くために必要なんですが、本作では、登山シーンがゼンゼン意味のないシーンになっちゃっているのがすごく残念。何で登山シーンが入るのか、原作も、ドラマも見ていない人からすれば、イマイチピンと来ないんじゃないでしょうか。それがクライマーズ・ハイというタイトルそのものにつながる重要なファクターにもかかわらず、本作ではただ展開の流れをぶった切るおじゃまなシーンに成り下がっちゃっておりました。これは明らかに脚本が悪い。

 その点、ドラマは、悠木がスクープを載せるか載せないかについての決断と、クライマーズ・ハイを見事に絡めていたため、しっかり見ている者に伝わったと思います。

 あと、やはり、本作で大切なのは、「新聞を作るとはどういうことか」であり、また「地方紙の存在意義は何か」であります。この2つの重要な柱を、映画の脚本では見失っていたのではないでしょうか。

 ドラマには、交通事故で死亡した男性についての描写があり、同じ人間の「死」にもかかわらず、ジャンボ機墜落事故との記事の扱いの違いを男性の遺族に問い掛けられ答えに窮する悠木が、改めて新聞の意義について苦悩しながら自問するという大事なシーンがあったと思いますが、本作にはそれがありません。原作はどうなのか知りませんが、もし、原作にあって、映画でそれをカットしたのであれば、やはり、脚本としてはお粗末です。

 また、私がドラマを見て、深く刺さった悠木のセリフに「俺たちは、新聞紙を作ってるんじゃない、新聞を作ってるんだ!!」というのがありました。これは、新聞業界全体に対する強い戒めになるセリフでもあり、私自身もゼンゼン知らない世界の話じゃないだけに、とても心に迫るセリフでした。映画にはこれがない。堤真一が神妙な顔をして「俺たちは新聞を作ってる」と2度言っていたように思いますが、それではダメなのです。そこが、本作の脚本はダメだな、と思った最大の理由かもしれません。

 笑っちゃったのは飲み屋でのケンカのシーン。地方紙の悲哀を描いたシーンのはずなんですが、かなり寒い。遠藤憲一演じる社会部長と悠木の会話で、連合赤軍(作中、レンセキレンセキと連呼していたのは、連合赤軍のことなんですね、、、。しばらくしてから分かりました)の件で、地元紙である北関東新聞は、全国紙に内容で負けた、と悠木が部長に詰め寄ります。すると、部長が気色ばんで「負けた? どこにだ?」と怒鳴り返す。で、悠木の返答は、、、

「朝毎読売、それとサンケイですよ!」

 この「それとサンケイですよ!」って、原作にもあるんですかね? 業界で産経新聞を新聞だと思っている人なんて、どんくらいいるんでしょうか? あれこそ、新聞紙だと思うんですけど。どうやら、フジテレビがスポンサーっぽいシーンがあちこちに紛れ込んでいたので、そのための配慮か? と思いますが、それにしてもあの露骨な悠木のセリフは、作品全体の質をも下げる、サイテーのセリフでした。サイテーすぎて笑えましたけれども。

 あと、本作全般、セリフが非常に聞き取りにくいです。肝心なセリフが聞き取れない、という場面がいくつもありました。演出上、そういう喋り方が必要だとは思えず、観客視点の欠落した制作の自慰行為なんで、やめていただきたい。

 まあ、とにかく、一見社会派の硬派な作品に見せかけた、中身スカスカのハリボテ映画です。これでは、520人の犠牲者は浮かばれないし、ご遺族の気持ちを逆なでしているような気さえします。

 堤真一、、、昔は好きだったんだけどなぁ。大河ドラマ「武田信玄」で、長男の武田義信を演じていた頃が、一番ステキだったかも。朝ドラ「マッサン」では、久しぶりに意気な演技を見られましたけれど。本作では、ちょっと、、、脚本のせいでもあるけど、魅力的な人物ではなかったです。






とにかく、原作を読んでみようと思いました。




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インドシナ(1992年)

2015-09-24 | 【い】



 仏領インドシナで暮らすフランス人女性エリアーヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)は、今は亡き親友夫婦の忘れ形見で安南の皇女であるカミーユを養女として、親友夫婦のゴム園経営を引き継いで、実の父親と3人で暮らしていた。

 ある日、絵画のオークション会場でフランス軍将校のジャン・バチスト(ヴァンサン・ペレーズ)と出会い、2人は恋に落ちるのだが、エリアーヌを奪われると恐れた父親が2人の仲を引き裂く。そして、偶然、街中で起きたテロに遭遇したカミーユをジャン・バチストが助けたことで、運命の歯車は回り出す、、、。

 植民地における宗主国出身の女性と将校、そして現地の娘の愛憎劇を描いた壮大な物語。


 
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 本作は、大昔にBSで放映されたのをVHSビデオに頑張って録画したのに、間違って上書きしちゃって、当時、ソフト化されていなかったのでガーン、、、となったことをよく覚えています。その後、大分経ってからじゃなかったですかねぇ、DVD化されたのは。長い年月を経て、ようやく見ました。

 これ、レジス・ヴァルニエ監督だったのですね~。見終わってから確認して、やっぱりそうか、と思いました。レジス・ヴァルニエ監督作品というと、『イースト/ウエスト 遥かなる祖国』という素晴らしい映画があります。どこか、本作と語り口が似ているので、もしやと思いました。、、、つーか、見る前にそれくらい予習しとけよ、って感じですが、、、。

 まあ、なんとも壮大なオハナシでございます。幼かった養女カミーユが大人になって赤ちゃんまで産んで、その子が大人になるまで、足掛け40年近いお話です。40年経っても、ドヌーヴさまはお美しいまま、、、。いや、マジで、撮影当時48歳とは思えぬ美貌です、ドヌーヴさま。でもってまた、作中での衣装が素敵なことといったら。ため息が出てしまう。何を着てもお似合いというか、気品があるのですよね~。

 このドヌーヴさま演じるエリアンヌが、思いがけず恋に落ちるフランス軍将校ジャン・バチストを演じるヴァンサン・ペレーズが、まあ、イイ男には違いないんだけど、ドヌーヴさまに比べるとやや見劣りが、、、。誰なら良いかな~、、、ブノワ・マジメルとかはどーですかね。若すぎるか。ちょっと、ヴァンサン・ペレーズは品がないというか。ま、好みの問題ですけれど。

 植民地政策の功罪(と言っていいのか)を垣間見せられる作品です。エリアンヌは気丈な女主人で、現地の使用人たちを鞭打つ一方で、フランス軍の横暴から守ることもします。エリアンヌ自身、親友から受け継いだゴム園をとても大事にしており、植民地政策に反感を持つ現地の人間によるテロに遭いながらも、そのたびに立ち上がる、もの凄く強い女性です。ドヌーヴさまがとても魅力的に演じています。

 そんなエリアーヌがちょっと女性としてのはかなさ、弱さを見せるのがジャン・バチストとの恋愛。一瞬で終わりますが、エリアーヌの身を焦がすような思いが伝わってきてとても切ないです。

 結局、養女カミーユは自分と同じ男を好きになり、挙句、許嫁を捨ててその男の下に走り、逃亡生活の果てに子どもまで作って産むという、何とも壮絶な人生。

 最大の見どころは、カミーユとジャン・バチストの逃亡劇で、エリアンヌ自身は飽くまで受身な存在です。彼女自身が能動的に動いてドラマが動く、ということはありません。いわば、エリアンヌは運命と父親と植民地政策に翻弄された女性だった、ということだと思います。そして、対照的にカミーユは飽くまでも意思のままに生きた女性。ジャン・バチストとは引き裂かれたけれど、その子については潔く養母に託し、自らはレジスタンスに生きた女性となっています。

 母と娘の対照的な生き方を見せつつ、植民地という今から見れば特異な場所における、宗主国の人間と現地の人間の置かれた立場の違いも浮き彫りにしているところは秀逸だと思います。

 ジャン・バチストの悲惨な最期を見たエリアンヌは取り乱しますが、その姿から、彼女は、ジャン・バチストが養女の産んだ赤ん坊の父親になってもまだ、彼のことを愛していたのだと分かります。それがまた哀しい。

 そういう人間の心のひだを一つ一つ丁寧に描いているから、本作は見応えがあるのだと思います。 ストーリーを追うと、ふ~ん、、、という感じなんですが、その辺がこの監督の凄いところでしょう。そして一つ一つのシーンにほとんど無駄がなく、また映像がとても美しいのです。そういう点では『イースト/ウエスト 遥かなる祖国』もそうでした(ちなみに、『イースト/ウエスト~』にもドヌーヴさまはご出演で、すごい重要な役どころを演じておられます)。

 こういう作品こそ、映画と呼ぶにふさわしいのではないでしょうか。決して、スペシャルだろうが何だろうかTVドラマでは真似できない境地です。






出番は多くないけれど、ドヌーヴさまの魅力を堪能できます。




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殺人地帯U・S・A(1961年)

2015-09-20 | 【さ】



 以下、 ぴあフィルムフェスティバルの紹介ページ(http://pff.jp/37th/lineup/fuller04.html)からコピペです。

~~~~
 12歳の時に目の前で愛する父を殺されたトム。心に誓った復讐を成し遂げるべく父と同じ暗黒街に足を踏み入れ、記憶に焼き付けた男たちを巧妙な嘘と罠で追い詰めていく。遂に黒幕まで辿り着いたとき・・・・

 フラー自身は嫌いだという「復讐」という設定を用い、売春、賭博、麻薬からなる犯罪組織の構造と、組織撲滅を目指す連邦政府の役人の間を行き来する一匹狼の主人公を通じて、アメリカの暗黒面を浮かび上がらせた野心作。フラーが生まれて初めて観たギャング映画『暗黒街』(27年/ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督)の思い出から着手したと語っている。

~~~~コピペここまで。

 前から興味のあったフラー。DVD化も結構されてきたので見てみたいと思っていたら、こんな企画を見つけてしまい、ソフト化されていないことと、今回の上映が2回だけ、ってことで、何だか見に行かなきゃいけないような気になって行って来ました。

 まあ面白かったけど、私としては、クルーゾーっぽいのを期待していたので、かなり違っていました。


 
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 京橋のフィルムセンターなんて一体何年振りに行ったのやら、、、。京橋界隈も大分変ってしまっていて、びっくり。フィルムセンター内部は以前のままでしたが。行ったら、当日券のための長蛇の列。一応前売りを買っておいたので並ばずに済みました。とはいっても、満員ではなかったですね。結構入ってはいましたが。

 さて、本作です。正直、私の好みではなかったな~。面白いんですよ、それは否定しません。ストーリーは単純だけど、展開がまあまあ早いし、音楽の使い方とか、古さは嫌でも感じますけど、見ていて飽きません。

 でもまあ、サスペンスとしてどうか、というと、見ていてあんまりドキドキしないし、主人公のトム自身が絶体絶命のピンチに陥るところがラスト以外ない、ってのも物足りない感じ。かと言って、展開がめまぐるしく変わって、どんでん返しの連続、ってわけでもなく。

 フラーについて大して知識はないんですが、なんとなく、「クルーゾーみたいなのかな?」という印象を受けていて、私はクルーゾー作品が好きなのもあって、勝手に期待値が上がってしまっていたのですね。しかも、錚々たるビッグネームが影響を受けた、なんて聞けばなおのこと、、、。

 そもそも、私は、映画史について詳しくないし、鑑賞に当たっても大抵はストーリーと人物描写、あとは美術とか音楽とか、そんなところを見ているので、本作の何がそんなに凄いのか、というのはイマイチ分かりませんでした。玄人受けする作品なのかもな~、と思いました。

 なので、いつもどおりのミーハー見地からの感想です。

 冒頭、少年トムがコソ泥を働き、額に怪我をして、それを育ての親である売春パブ(?)のオバサンが手当てして絆創膏を貼ってくれるんだけど、その貼り方が、、、。でっかいガーゼに細いテープ1か所止めで、どう見てもヘン。なんかこれで初っ端から緊張感がキレてしまいました。

 が、その直後、4人の男が1人の男を袋叩きにしているところにトムは出くわしますが、その描き方が、袋叩きにしているところはトムの背後の壁に影絵で写し、トムの表情をアップで撮っていて、これが結構面白いといえば面白いかな。袋叩きにされた男が動かなくなり、見に行くと、それはトムのお父さんだったんですけれど、、、。

 その後、ギャング(?)の仲間入りをして、一方では検察のスパイもして、っていうハードボイルドっぽい雰囲気なんだけれども、そうすると必須なのが美女の存在。というわけで、お約束のように美女登場。彼女は娼婦ですが、トムと相思相愛になるんですね。トムに「あなたの子を産みたい!」なんて言って迫るんですが、トムは「冗談だろ」(正確なセリフ忘れました)みたいに軽くいなしちゃう。でも、その後、復讐を果たしたら今までの自分とは変わって落ち着きたいと思い直したトム、やっぱり結婚したい、と彼女に打ち明け、抱き合うんですけど、、、。その時彼女は「あなたのキスって素敵……(うっとり)」(これもちょっと違うかも、、、)て言うんだけど、ゼンゼン二人はキスしていないし、彼女の体にトムがむしゃぶりついているわけでもなく、ただ、抱き合っているだけ、、、というラブシーン。んん~、なんだかなぁ。時代のせいなのかも知らんが、もうちょっと気の利いた撮り方あったんじゃないの~? と言いたくなる。

 本作だけを見て言うのも何だけど、もしかしてフラー氏、あんまし女性の扱い得意じゃない? と思っちゃいました。女性の撮り方がね、、、。全然キレイじゃないです。

 お客さんの入りは、会場の7~8割くらい、ってとこでしたでしょうか。でも、結構寝ている人が多かったです。私の両隣の男性も爆睡。近くからはイビキも、、、。私は辛うじて眠りませんでしたけれど。

 まあ、まともな感想文を書くのなら、もう1回くらい見ないとダメだと思うし、本作がフラー作品初の私にとっては、フラーの良さはまだ全然理解できていないと思います。なので、これから見に行く方への参考にはならないものです。貴重なフィルムが来ているようなので、興味のある方は是非、足を運ばれてはいかがでしょうか。

 あと、どうでも良いのですが、あそこの椅子って、あんなに座り心地悪かったっけ~? 座面が何か、前下がりになっている気がしました。座っていてすごく疲れます。私の席だけが椅子の調子が悪かったのなら仕方ないのですが、そうでもなさそうな、、、。ま、本当にどーでも良いことなんですけど。





人を呪わば穴二つ、ってやつです。




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不機嫌なママにメルシィ!(2013年)

2015-09-18 | 【ふ】



 ギヨームは、フランスの裕福な家庭ガリエンヌ家3人兄弟の末っ子。このギヨーム、母親に、上の兄2人とは明らかに違う扱いを受けている。差別とかというよりは、ちょっと女の子みたいな扱い……? 何しろ、母親が子どもたちを呼ぶときは「男の子たちとギヨーム!」なのである。だから、ギヨーム自身も、自分はもしかしてゲイなのか? と思うようになる。

 一方の父親は、ギヨームに男らしくあってほしいと願っている。レスリングとかサッカーをやってほしいと思っている。なので、ここは一発、荒療治! と思ったのか、イギリスの全寮制男子校にギヨームを放り込む。が、しかし、ここでギヨームの個性は逆に開花することに、、、。自由平等博愛のおフランスよりも、伝統階級社会イギリスの方が、ゲイに寛容だった!!

 監督・主演ギヨーム・ガリエンヌの自伝的映画。まあ、自分探しモノです。結末がちょっと、え?な感じですが。

 
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 『イヴ・サンローラン』で、ピエール・ニネとの濃厚ラブシーンを演じていたギヨーム・ガリエンヌが、1人二役(ギヨーム&お母さん)というので面白そうかな、と思って見たんだけど、、、。正直、イマイチでした。

 まず、内容云々の前に、このギヨーム・ガリエンヌさんの頭髪が天パーなのかくりんくりんで、しかも丸顔ぽっちゃり体形ってことで、なんか、脳科学者の茂木健一郎さんに見えちゃって、もうダメでした。そっくりなんだもん。

 ギヨーム・ガリエンヌさん本人が、本人を演じておられるわけですが、高校生(?)の本人を演じていて、さすがにちょっと無理があるというか、一人だけ老けてて浮いているというか。元は舞台劇ということなので、舞台なら実年齢とか多分あんまし気にならないんだろうけど、映像はちょっとキツイかな。

 正直、どうも作品にあまり入れなくて、細部を覚えていないのですよ。数日前に見たばかりなのに。見ている間も、何度も睡魔に襲われたし。

 何でかなぁと考えてみたんですけど、、、。別に、ナルシシズム全開でもないし、家族の描写とかもそこそこ面白いし、音楽も結構楽しいし、、、とこき下ろす要素は見当たらないんですよね~。なのに、なぜか退屈。

 ギヨームとそのお母さんの関係にスポットを当てつつ、ギヨームの自分探しを追うんだけれども、「オレってゲイなの?」というのが終始一貫、ギヨーム君の中には、恐れみたいな感じであって、自分でも受け入れつつあるんだけど、でも違和感はつきまとう、、、。確かに、ゲイか否かというのは、アイデンティティに大きく関わる問題なので、本人にとってはものすごく重大問題だったのは分かりますが、それにちょっとメルヘン調というか夢物語調なテイストを加えて、捏ね繰り回している様を延々やられても、、、。

 公式HPとかにあるような爆笑とか、私はまったくなかったなぁ。ギヨームが、ダイアン・クルーガー演じるナースに浣腸されてたシーンは、面白いというより、意味不明だったし。

 しかも、ラストは、美女と出会って、美女と恋愛関係になって結婚することになったから、「なーんだ、オレ、ゲイじゃなかったんだ! ヤッタ~!」みたいなノリのオチってどうなの? と。じゃ、いままでのあの延々悶々は何だったのサと。ゲイじゃなかったのは、それはそういう結果として自覚したことなので構わないんだけど、どうも、ゲイじゃなくてホッとした、良かった、的な雰囲気が支配的なのが気になるのです。

 もっと言っちゃうと、「何だ、オレ、マトモだったんだ~~!」みたいな感じに見える。結局、ゲイへの偏見をあんな風にコメディ仕立てのメルヘンチック劇画に見せてただけ? と、意地悪おばさんは突っ込みたくなってしまう。

 で、ゲイじゃなかったことをお母さんに報告すると、お母さんは複雑な反応を示すんです。つまり、ギヨームがゲイじゃなくてホッとした、んじゃないのね、お母さんは。で、それについてのギヨームの理由付けが「お母さんは、ぼくが女性を好きになることが嫌だったからだ」というもの。ん~~、実際そうだったのかも知れないけど、なんかそれも、ちょっと、、、。

 という具合に、ラストでかなり疑問が残る作品となりました。おフランスのエスプリなのかなんか知らないけど、どうも私はフランスもののコメディってダメなのが多い気がする。少なくとも、本作の笑いのセンスは、理解できませんでした、、、。

 ギヨーム・ガリエンヌのお母さんの演技は面白かったです。仕草とか物腰が女性そのもの。メイクも違和感なし。この辺りはさすがだな、と思いました。別にフォローするわけじゃないんだけど。






本作の主役は脳科学者の茂木健一郎氏ではありません。




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フィオリーレ 花月の伝説(1993年)

2015-09-15 | マイケル・ヴァルタン



 あらすじは、書くと長くなりそうなので、リンク先でご覧願います。

 代々受け継がれた(と思われている)呪いに翻弄されるベネデッティ家の人々の長い長い物語。愛するヴァルタンは、フランス兵と、イタリア人大学生の2役を演じており、流暢なフランス語とイタリア語を拝聴(!)できます。

 タヴィアーニ兄弟監督作品。

 
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 ベネデッテイとは、祝福されたという意味なのですね。ベネデッテイと聞いて思い浮かんじゃったのは、ミケランジェリなんですが、彼の出身地はトスカーナではないですよねぇ。ま、本作とゼンゼン関係なくて当たり前なんですけれども。ミケランジェリもある意味、ちょっと呪われた人かも、、、と思っちゃうくらいドタキャン魔の変人だったし(でも、私は、彼のライヴをドタキャンではなく、チェリビダッケの急病で聴き逃したのでした、、、いまだに残念。その後チェリーは間もなく亡くなりましたし)、レジスタンスで闘っていた過去もあったし、ちょっと通じるものはあるかも。

 それはともかく。

 本作のお目当ては、もちろん、ヴァルタンです。彼がヨーロッパで俳優やっていた頃の作品ですので、若い! 美しい! 見て良かった。フランス育ちだからフランス語が流暢なのは分かりますが、イタリア語もネイティブみたいに聞こえます。英語しゃべってるとこしか見たことなかったんで、何だか新鮮でした。やはり、彼はヨーロッパの方が雰囲気は合っているような、、、。

 タヴィアーニ兄弟監督作なので、ちょっと期待したんだけど、内容的にはかなりイマイチでした~~。雰囲気は良いんですけどね。

 そもそも、ベネデッティ家の呪いの根源となった最初の伝説(フランス軍将校のジャンとエリザベッタの恋物語&軍用金盗難被害によるジャンの銃殺)がですね、なんだかな~、なんですよ。ジャンとエリザベッタの恋が始まるのが、ものすごく唐突感バリバリで、「は? なにそれ(ポカ~ン)……」でして。でもって、ジャンをヴァルタンが演じており、なるほど、伝説の美しいフランス軍将校というのは分かります。が、エリザベッタは、、、演じているのはガラテア・ランツィという女優さんですが、どうもこう、、、老けて見えるというか、一目で恋に落ちるにはちょっとテンションが上がらない感じで、、、。う~ん、ヴァルタンの相手にしては地味過ぎる。

 しかも、ジャンがアホ過ぎで、銃殺されてもまったく同情できない! 軍用金の取扱責任者なのに、軍用金を乗せたロバをその辺につないだまま、エリザベッタとどっかの草むらでよろしくやっている、、、。そら盗まれるだろ。しかし、これでエリザベッタは妊娠して、ベネデッティ家の呪われた歴史が始まる訳です。

 ガラテア・ランツィは2番目の伝説にも2役ということで出てきて、正直、見ていてちょっと混乱してしまった。兄役も2役で、1番目のエピソードと同じ俳優さん(これまたクドい顔で、正直苦手、、、。マジな話、ちょっと正視できなかった)で、1番目の伝説との間に100年くらいの間隔が開いているってのを理解するのに時間を要しました。

 2番目の伝説も身分違いの恋。またかよ、、、って感じで、この話はかなり退屈でした。毒キノコで兄を毒殺する場面もなんか中途半端。

 で、3番目の伝説、というか、ここからは伝説じゃないんだけど、ヴァルタンがまたまた登場。ヴァルタン演じるマッシモは、かなりのヘタレです。苦労知らずでええとこのぼん、という感じ。キアラ・ガゼッリ演じるレジスタンス女とのラブシーンは、キアラが美少女なんでなかなか画になっていました。大胆なヌードも見せています(キアラが)。ヴァルタンはチェロなど弾いて、それがいかにも嘘くさくない弾き方で、やるなぁ~、と嬉しくなったり。

 そして、現代。マッシモとキアラの子ルイジの2人の子、兄と妹。この2人が、ベネデッティ家の呪い、、、というか、恐らく、老いたマッシモの独白を聴いて涙した妹には、ベネデッティ家の祝福が、笑っていた兄は帰りの車の中でこっそり金貨を1枚握りしめてさえいることからベネデッティ家の呪いが受け継がれる、、、というような意味かな、と思いました。ま、ゼンゼン違うかもですが。

 とにかく、ストーリーのスケールはものすごく大きいのだけれど、一つ一つの伝説というかエピソードに魅力が薄く、描写も散漫な感じがして、おまけに説明不足な点も結構あるので、見ていて睡魔に襲われること必至。

 タヴィアーニ監督というと、イタリアの土着性とかよく言われますが、私がみたタヴィアーニ作品は、『太陽は夜も輝く』にはそれはほとんど感じられなかったし、『塀の中のジュリアス・シーザー』はまた全然毛色の違う作品だったし、本作はそれらに比べればなるほどイタリア臭のするものですが、、、土着性とまでいわれるとちょっと違うかな、という感じでしょうか。

 やはりタヴィアーニ監督作品のエッセンスは『父/パードレ・パドローネ』『サン★ロレンツォの夜』にあるのでしょう。これらを見ないと、彼らの作品についてとやかくいうことは出来ないんだろうな、と、本作は思わせる作品でした。

 でもまあ、若くて眩しい美しさのヴァルタンを拝めたので良しとします。





ヴァルタンはヨーロッパで活躍していた方が良かったんじゃないかなぁ。




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彼は秘密の女ともだち(2014年)

2015-09-12 | 【か】



 7歳から親友だったローラとクレール。成長過程ではイロイロあったけど、2人ともよき伴侶を得て、幸せな関係が続くはずだった、、、。ローラは長女リュシーを産んで間もなく病死してしまった。

 喪失感が大きすぎるクレール(アナイス・ドゥムースティエ)を心配した夫ジル(ラファエル・ペルソナ)は、ローラの夫ダヴィッド(ロマン・デュリス)やリュシーと会ってきたらどうか、と勧める。クレールは、勧められるがままダヴィッドを尋ねると、なんと、ダヴィッドはローラの服を着て女装し、リュシーに授乳中だったのであった。

 衝撃を受けるクレール。その場では拒絶を示すが、ダヴィッドの正直な告白と説明に、軟化し、ダヴィッドの行動を受け入れていく。ダヴィッドはクレールに誰にも言わないでと懇願し、その一方でどうしても女装して外出したいという。そして、クレールはその希望を叶えてあげる。女装したダヴィッドに、クレールはヴィルジニアという名前をつけ、そうして2人の秘密の時間を持つうちに、2人の関係は「親友の夫と妻の親友」という関係から微妙に変化していく、、、。

 果たして、2人の、いや、クレールの夫・ジルを含めた3人の行く末は……!?

 
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 職場に試写会の案内が来ていた頃から、気にはなっていたんだけれど、どーしよっかなぁ、と思いつつ、もうすぐ終映になると知って、やはり見ておこうと思い、劇場に足を運びました。

 オゾン監督作品はいくつか見ているけれど、やはり『海をみる』の衝撃がキョーレツ過ぎて、その後の作品は、面白いけど至極まともな作品に見えます。でも、本作は、彼の代表作になる可能性もあるのではないでしょうか。それくらい、映画としても面白し、奥の深い逸品だと思いました。

 わざわざ書くことでもないけれど、私自身は、女で、異性愛者であります。男と女は、生物学的には明らかに違いがあると思います。男は出産できませんからね。でもって、街中で明らかに女装している男性を見たら、やはり、「ん?」と思います。違和感でしょう、それは、多分。その違和感は、男としてのティピカルな格好ではない、という考えに根差すのだと思います。ジェンダーバイアスってやつです。これがいわゆる性差別の話につながるんですけれども、ジェンダーアレルギーのある方は少なくないと思われますが、そもそもジェンダーバイアスを持っていない人間なんて、多分いないと思います。だから、極端にいえば大抵の男は男の格好をし、女は女の格好をしているわけです。ただ、そういうバイアスを持っていることに自覚的か否か、というのは、結構重要で、さらにいえば、自覚している人の中でその差別を「性差だから当たり前」と思っている人々が少なくないことが、このジェンダー、性差別、果てはLGBT差別の根っこになっちゃっているような気がします。そのまやかし論の最たるものが「『差別』と『区別』は違う」ってやつですが、これは書きだすと、到底枠内じゃ収まらないので、今回はやめときます。でも「『差別』と『区別』は違う」なんて得々と言っている人を見たら、要注意だということだけは明記しておきます。

 何でこんなことを長々と書いたかというと、クレールも、そのバイアスに苦しみ、その苦しみを乗り越える、というのが本作のお話だからです。 
 
 クレールとローラの長い間の親友関係は、冒頭に映像で非常に手際よく説明され、それが親密すぎる少女たち特有のプラトニックを少しはみ出た感じのものであったことが分かります。クレールにとってローラは、まあ、魂の一部みたいな存在だったのでしょう。だから、若くして亡くなったその喪失感は、恐ろしく大きかった。女ともだちで、そこまで喪失感を感じる存在は私にはありません(と断言するのもいかがなものかとは思うが)が、大切な人を失う喪失感は分かります。

 それよりクレールがダヴィッドの女装癖を知った時の拒絶反応の方が私はオドロキだったかな。女装癖なんて、そこまでの奇癖じゃないでしょう。性的嗜好に関係なく女装願望のある男性は少なくない、と聞いたこともありますし。変身願望でしょ。私は男装趣味はないけど、ふだん着ないものを着て特別な格好をすると、気分が高揚することって誰にでもあるでしょ。ダヴィッドの場合は、それが高揚を超えて、自分らしさとして認識していくから特異な感じがするかもだけど、根っこの部分は割と単純な気がします。実際、ダヴィッドはゲイではないですし。

 ま、このクレールの反応は、その後の展開のためかなとも思いますが。徐々に受け入れていく、という彼女の変化のね。

 ヴィルジニアとクレールの初めてのショッピング&映画鑑賞のシーンは、本当に楽しそう。シーンとしても面白い。ヴィルジニアが女顔負けの女装男じゃなく、男が女装しているのがモロ分かる、というのがミソです。ダヴィッドの内なる嗜好というよりは、女性への憧れ、女性になりたい、という気持ちがよく表れている気がします。それが証拠に、最初の頃は、過剰フェミニンな女装なんだけど、ラストではすごくナチュラルな格好、、、女装というより、自己表現としてのファッション、になっているのです。

 秘密を共有した2人の関係が変化するのは、まあ、トーゼンですよね。気の毒なのは、クレールの夫・ジルです。この夫、ものすご~~く良い夫なのね。イケメン、金持ち&有能、妻思い、家事&育児能力バッチリ、と、言うことなし男。こういうキャラにしたのは、クレールのその後を描くのに、夫から逃げるためとか、夫婦関係が破綻したからとか、そういうネガティブな描き方をしないためでしょうね。こんなに良い夫なのに、、、みたいな。ま、全てに優等生な人間って、概して面白くないんですけどね。ジルもまあ、そういう感じはあります。
 
 ヴィルジニアとの関係、ジルとの関係、この2つの関係の間で、クレールは揺れるのです。ヴィルジニアを受け入れている反面、ジルとの夫婦関係を維持するために「あなたは病気よ。医者に行った方がいい」とヴィルジニアを否定して傷付ける。しかし、ダヴィッドがヴィルジニアを封印してしまうと、ヴィルジニアが異常に恋しくなる。そして、ヴィルジニアとクレアは、互いの思いをぶつけ合うけれど、、、。そのシーンは、なんか見ていていたたまれないというか、キツかった。

 結局、クレールは自分の気持ちを自覚し、それに正直に行動することにしたのでしょう。本作は言ってみれば、その過程が丁寧に描かれた映画、です。

 ラストシーンは、小学生になったリュシーと、ヴィルジニア、妊婦姿のクレールの3ショットです。これをどう解釈するかは、見ている人の自由だと監督は言っているけど、まあ、クレールのお腹の子の父親はヴィルジニアでしょう、、、と、私は解しました。

 いわゆるジェンダーに対する強烈な問題提起、とも捉えられるでしょう。でも、私は、そこは割とスルーで、誰かを好きになるとか愛するとかってのは、何なんだろうなぁ、と漠然と考えてしまいました。同性に愛を感じた経験はないけど、それって、私の単なる思い込みなんじゃないのか、とか。愛って何なんでしょうか。

 それと、自分に嘘をつかないことの大切さ、ですかね。ベタだけど、やはり自分を偽るほど生きててシンドイことはありません。それを強いられるダヴィッドの気持ちを想像すると、こっちまで胸が苦しくなるのです。だから、それが女装で解放されるのならば、女装くらいいくらでもやればよいと思うのです。そういうことを受け入れられるパートナーで私もありたいな、と。人間としてそうなりたい。

 ローラ亡き後、ダヴィッドの家で女装したダヴィッドとクレールが一緒にいるところへ、ローラの母親が訪ねてくるシーンが面白いです。ダヴィッドが慌てて女装を解く間、クレールは必死にローラの母との時間をつなぐんだけど、やっと現れたダヴィッドは、ちょっと唇にまだ色が付いていて、ローラの母と抱き合って挨拶しているダヴィッドにクレールがそれを仕草で教えるとか。ローラの母の前でソファに座るダヴィッドだけど、なんか仕草が女ぽかったりとか。ロマン・デュリスの演技が素晴らしい。

 ロマン・デュリスは、女装する男を演じてみたい、と前々から思っていたそうな。なので、この役は、演じられて本当に幸せで楽しかった、とパンフのインタビューで答えています。確かに、ヴィルジニアはとても幸せそうでした。

 ラファエル・ペルソナ、『黒いスーツを着た男』以来ですが、イケメンだけど、やっぱし、イマイチこう、、、インパクトが薄いというか。でもパンフ読んだら、最初は、彼がヴィルジニアを演じる予定だったとか。上手くいかなかったそうで、彼自身も、ヴィルジニアよりジルの方が良い、と言ったそうな。それって役者としての能力の問題? それとも、嗜好の問題? うーん、これを読んで、私は彼の役者人生の将来は明るくないのでは、と心配しちゃったんですけど。ま、別にファンでも何でもないから良いんですけど。

 クレールを演じたアナイス・ドゥムースティエが素晴らしいです。何というか、ものすごく的確な演技をする女優さん、という感じです。雰囲気だけじゃなくて、すごく理解の深い、明晰な印象を受けました。今後、要チェックな女優さんかも。

 終盤はオゾンカラーが全開だったけど、中盤まではとても分かりやすく素直な映画だと思いました。見て損はないです、多分。





オゾン監督が痴漢役(!)でカメオ出演しています




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グレート・ビューティー 追憶のローマ(2013年)

2015-09-09 | 【く】



 若い頃に一発当てた小説の印税だけで喰ってる65歳のジェップ・ガンバルデッラ(トニ・セルヴィッロ)の自己陶酔映画。

 フェリーニへのオマージュだってさ。

 
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 ストーリーなんてほとんどないので、紹介文の書き様がなく、こんな投げやりなものになってしまいました。あいすみません。

 しかしなぁ、評判が良かったので見てみたんだけど、こういうの私、嫌いだわ~。芸術的価値とか、そんなん知らん。映画として面白いか、という視点で見れば、ところどころ、シニカルで面白いけど、あとは美しいローマの景色とかを楽しむこともできるけど、だから何だ、という感じ。

 『甘い生活』へのオマージュだとか聞いたけど、内容的にはまんま『8 1/2』だと思いましたが、、、。

 フェリーニの作品は、数作品しか見たことないのでとやかく言う気はないけど、正直、良さがあんまし分かりません。『道』はまあまあ、、、という程度。そういう人間は、本作に対して共感できる素地がもともとないんだね、多分。

 同じ「人生に黄昏ている爺が過去を振り返って陶酔する映画」でも、、、あっちは、マストロヤンニだぞ、歳喰ってもセクシーでイケメンだったから眼福だけで見れたけど、こっちはダメだって。よぼよぼの爺の画を延々見せられても、、、特にあの八の字の眉毛、見ているだけでイラつく。お前が気取って何言ったって、画にならんのよ、マジな話。何でこの役者を使ったのかなぁ。

 時折周囲をぶった切るそのセリフは的確でアイロニーに満ちて面白い。確かに、この爺はただもんじゃないんでしょう。ただの自己陶酔の勘違い親父じゃあないのは分かる。でもなぁ、、、せめて、もうちょっと見ていて気分の良いルックスの爺役者はいなかったんだろうか。でないと、こういう作品はちょっと……。

 でもって、このジェップ、ラストあたりで、過去に自分が振った女を思い出して泣いてるんだけど、もう、こういうところが、サイコーにイヤだね。この涙は、ただの自己憐憫ってヤツです。彼が何と言おうが、自己憐憫。自分の涙が美味しくて仕方がないのね。男のこういう描写って時々映画や小説なんかで出くわすけど、こういうのがカッコ良いとか、思ってるんですかね、世の殿方は。

 男って、過去の女がずーっと自分に特別な思いを抱いて生きていてくれていると思っている人が少なくない気がするけど、すごい幸せな思考回路だよねぇ。どーしてそんな風に思えるんだろうか。単なるロマンチストならまだカワイイけど、自分を買いかぶり過ぎの御目出度いオヤジなだけな気が、、、。

 それはともかく。なんかさ~、こういう有閑オヤジが無為な日々を送りつつ、世間を斜に見て、いくら鋭いツッコミ入れてても、まあ、正直言わせてもらうと「バカじゃね?」としか思えないんです、私。空回りだろうが頓珍漢だろうが、日々をカッコ悪く足掻きながら生きている人の方がよほど愛すべき人々だわ。こんなオヤジが愛するローマの街まで美しいだけで中身空っぽの上っ面の街に見えちゃう。

 何でこれがアカデミーの外国語映画賞なんでせうか? 別にいいけど、、、。他によっぽど良い作品がなかったんだろうか。と思って調べたら『偽りなき者』が同時ノミネート作品だった、、、。なぜに本作が受賞? ますますナゾ。

 本作が好きな方には申し訳ないくらい悪口ばっかし書いちゃいました。悪しからず。






爺ぃ映画が続いたので、しばらくはもうイイわ。




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ボヴァリー夫人とパン屋(2014年)

2015-09-07 | 【ほ】



 フランス・ノルマンディー地方のとある町で、長年勤めた出版社を辞め、父親の後をついでパン屋になったマルタン(ファブリス・ルキーニ)。

 ある日、マルタンの家の隣に、イギリスから若いイギリス人夫婦が引っ越してきた。夫婦の名前はチャーリー&ジェマ・ボヴァリー。マルタンは、勝手に小説「ボヴァリー夫人」とジェマ(ジェマ・アータートン)を重ねあわせて見てしまうのだった。

 そして、あろうことか、ジェマは、小説の中でボヴァリー夫人、つまりエマがしていたことと同じこと(=不倫)をしてしまっていることに驚いてうろたえる。このままじゃいかん、、、なんとかせにゃ、、、。

 フローベールの小説「ボヴァリー夫人」を下敷きに、パン屋という第三者の視点から見た、ゼンゼン別の物語が展開されるユニークな作品。

 
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 見に行こう、行こう、と思いつつ、なんやかやと先送りしているうちに、サービスデーで見に行ける時間の上映がなくなってしまった、、、。ので、夏休みをとって、ついでに美術館にも行って、ようやっと見た次第。大して期待していなかったけど、なかなか面白かったです。

 事前に『ボヴァリー夫人』の映画2本で予習しておいたのは、まあ良かったです。何も知らずに見たら面白いところが分からなかったと思うので。

 マルタンは、パリで出版社勤務の生活に疲れて田舎に引っ込んだんだけど、毎日毎日パンを焼くだけの生活に、ちょっとばかし飽きていたところへ、ボヴァリー夫妻が移住してきたわけです。マルタンの単調な日常は一転、刺激的な日々へ変貌します。

 隣人夫婦、特にジェマの行動が気になって仕方がないのですが、気になる理由はもちろん小説と夫婦の名前が一致するからだけはありません。ジェマの弾けるような若さ溢れるセクシーな魅力にKOされたからです。ジェマが散歩している後姿を見ながらの独白「この何気ない彼女の仕草に一瞬にして10年間眠っていた性欲が目覚めた」、って、、、。正直過ぎなマルタンです。

 もう、ここからはマルタン爺さんの妄想全開。別にボヴァリー夫妻は現実の生活をしているだけなのに、マルタン爺さんは、勝手に小説に当てはめて、勝手にコーフンしてるわけね。自分がジェマの相手になることがないのは分かってる。でも、ジェマのあんなことこんなことを妄想して、、、うひょ~!!みたいな。妄想しているだけなら良かったんだけど、なんと、マルタン爺さん、小説に重ね合せてジェマの不倫に介入しちゃう!! もう、ほとんど酔ってますな、妄想の世界に。

 途中、マルタンが、パン工房にジェマを案内するシーンがあって、そこで、ジェマに生地の捏ねを体験させてあげるんですが、演出がちょっとわざとらし過ぎで引きました。まず、ジェマの生地の捏ね方。もう、まんまセックスを思わせる触り方。でもって「ここ暑いわ」とか言って、ジェマはセーターを脱いだり、髪をかき上げたりするんだけど、その後、その手でまた生地を捏ねる。「汚ねぇなあ」と内心ツッコミを入れた人は私だけじゃないでしょう、きっと。マルタンとの官能シーンってのは分かりますけど、工夫がなさ過ぎ。あんなわざとらしくやらなくても、十分官能的なシーンになったのに、もったいない。

 元の『ボヴァリー夫人』みたいのを期待してしまうとトンデモ作品だけど、これは飽くまで、タイトル通り『ボヴァリー夫人“とパン屋”』で、“妄想爺ぃの覗き話”なのね。

 強いて元の『ボヴァリー夫人』に通じるところがあるとすれば、ジェマとエマに共通するキャラかなぁ。どちらも男に翻弄される人生、、、つまり、主体的に生きられない女、ですかね。

 こういう主体性のない(というか精神的に自立できていない)女性で、見た目が美しいと、悲劇だよねえ。美しいから男は寄ってくるけど、ロクなのがいない。男を自らの審美眼で主体的に選ぶということが出来ない。害虫ばっかし引き寄せちゃうアダ花みたいな、、、。

 とはいえ、私は、ジェマを演じたジェマ・アータートンが、さほど美しいとも思えなかったクチでして。テレンス・スタンプ主演の『アンコール!!』で見た時も、あんまし好きじゃないなぁ、と思ったんだけど、、、。顔も、まあキレイだけど、すごい美人じゃないし(と、作中でもマルタンの妻のセリフにある)、スタイルもセクシーだけど、私からすればちょっとゴツ過ぎ。私が最高にセクシーだと思う女優は、やっぱしモニカ・ベルッチなんで。細過ぎず、太すぎず、出るところは思い切り出て、くびれるところはしっかりくびれる、、、。そこへいくと、ジェマ・アータートンは、肩幅広くって寸胴で太いんだよなぁ。まあ、これは好みの問題なんで、別に良いのですが。

 でもって、ジェマの不倫相手の青年エルヴェを演じたニールス・シュナイダー。美青年という設定で、なるほどギリシア彫刻っぽい(実際、彫刻同様、全裸になっておられますし)けど、まあ、あんましそそられない、、、。うーーん、イマイチ。

 そうそう、イイ味だしていたのが、マルタンの奥さんです。イザベル・カンティエさんというらしい。マルタンがジェマに悩殺されてポカーンとなっても、呆れて見ていられる余裕のある奥さんです。嫌味を言ったりもしない。ジェマを「とびきり美人じゃない」と言うのも、別に嫉妬からじゃないのは明らかだし。きっと、奥さんの方が若い男にポカーンとなったら、マルタンは焼きもち焼くような気がしますけどね。でも、歳を重ねて、こういう夫婦になれるのっていいな~、と思います。

 それにしても、フランスのパンって、どれもみんな固そうですね。日本人はモチモチが好きだそうで、同じパンでもフランス人とはかなり好みが異なるとは聞いていましたが。捏ねたり焼いたりしているところは美味しそうなんだけど、出来上がったパンは、あんまし食べたいと思うものがなかったです。

 、、、と、ビジュアルでの文句ばかり書いているような。でも、ラストの意外性もなかなか(賛否あるとは思いますが)で、映画としてはかなり楽しめますヨ!






文学好き妄想爺さんの妄想全開なオハナシ。




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ベルヴィル・ランデブー(2002年)

2015-09-02 | 【へ】



 フランスのとある村で暮らすおばあちゃんと孫のシャンピオン(シャンピオンの両親は亡くなったらしい)。

 内気な(?)孫のため、おばあちゃんは、まず子犬をシャンピオンにプレゼントする。シャンピオンは喜ぶが、どうもイマイチらしい、、、。一体、この孫の興味のあるものは何なのか。

 テレビでピアノを弾いている男の画面に見入る孫を見て、おばあちゃんは埃を被ったピアノを孫に弾かせようとするが、やっぱりイマイチらしい。

 が、ある日、孫のベッドメイキングをしていたら隠されていたノートを発見したおばあちゃん。ノートには自転車の切り抜きが一杯。そうか、孫は自転車に興味があるのか、と、プレゼントしたのは三輪車であった。

 それから幾星霜。孫は自転車競技の選手として、ツールドフランスに向け、特訓中。孫の特訓をしているのは、あのおばあちゃん。でも、シャンピオンは、どうもツールドフランスではお呼びでないレベルらしい、、、。そして、そこから話は思いもよらぬ方向へ、、、。

 見ていて不快感を覚えるほどのデフォルメキャラと世界観、そして抑圧されたシャンピオン……。なんか、ぐったり、、、。

 
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 シルヴァン・ショメ作品です。まあ映画通というかアニメ通の方々は、本作からショメ作品は入り、『イリュージョニスト』(アニメ)→ 『ぼくを探しに』(実写映画)と進むんだと思いますが、私の場合は、 『ぼくを探しに』がショメ作品との出会いでして、逆流して本作へ辿りついたので、ちょっと受け止め方がヘンかも知れません。

 というのは、本作を見て、ショメさんの生い立ちがもの凄く気になってしまったのです。この人、実は幼少期、ものすごい抑圧されて育ったのではないでしょうか。 彼の詳しい生い立ちが紹介されているものが見当たらず、『ぼくを探しに』のパンフも改めて読み直したのだけれど言及はないし、本当の所は分かりませんが、もしかして、幼い頃に両親を亡くされているのかも、、、。

 なぜなら、『ぼくを探しに』と、本作の少年の設定が驚くほど似ているからです。どちらも両親が既に亡く、本作では祖母に、『ぼくを探しに』では伯母姉妹に育てられている少年が主人公です。まあ、本作の真の主人公は、おばあちゃんですが。

 でもって、どちらの育ての親も、ものすごく少年を抑圧しているのです、しかも善意でね。これがものすごく厄介な影響を少年に与えているのも同じ。何か、見ていて苦しくなってきてしまった。『ぼくを探しに』の主人公は、言葉がしゃべれなくなって、幼少期の記憶も失っています。もちろん、特に記憶の喪失については伯母姉妹だけの影響ではないんですけどね。

 で、本作ですが。アニメとしての云々は後述するとして、、、。

 シャンピオンが閉じこもりがちな少年なのは、どう見たって、幼いうちに両親を失っていることが大きく影響しているからであり、おばあちゃんに三輪車をプレゼントされても、おばあちゃんの家の庭でおばあちゃんの傍でぐるぐる・ぐるぐる三輪車で円を描くように回っているだけです。外へ自発的に出ていこうとしない子です。

 そして、青年になったら、おばあちゃんに尻を叩かれて自転車競技のためのシゴキを受けている。おばあちゃんは三輪車に乗って笛を吹き、シャンピオンが漕ぐ自転車に傘の柄をひっかけて急こう配を上って行く、、、。つまり、シャンピオンにとって、とてつもなく重い存在になっている、ってことじゃない? しかもシャンピオンはそれに気づいていない所がまた哀しいというか、可哀想というか。

 本作の評は、概ね、このおばあちゃんの孫を思う気持ちゆえの豪快な冒険譚が好意的に解されているものが多いのですが、私にはとてもそんな風に受け止められませんでした。ツールドフランスで、全然お話にならなかったシャンピオンは、(アメリカと思しき)異国のマフィアに誘拐され、異国に連れ去られますが、おばあちゃんは海を渡ってシャンピオンを救出に行きます。まあ、救出に行くのは分かるけれど、、、。

 青年になって以降のシャンピオンは、もうほとんどキャラとしては抹殺された存在です。どこまでも受身な存在としてしか描かれていない。マフィアの賭博道具とされ、ひたすらエアロバイクを漕いでいるだけ。意思も何も感じられない。これはつまり、「生きている」のではなく「生かされている」ということ、ただの道具として。青年シャンピオンの目は、死んでいます。

 最終的に、おばあちゃんは孫を救い出すことに成功しますが、ラストシーン、老いぼれたシャンピオンはおばあちゃんの家に一人でいます。壁にはおばあちゃんと犬の写真が、、、。彼の最後のセリフは「おしまいだよ、おばあちゃん」。もうこの世にいないおばあちゃんに言うのです。……そう、彼は、独りなのです。

 彼の人生は、一体何だったのか。ものすごく暗い気持ちにさせられました。おばあちゃんはいいですよ、そりゃ。孫をずっと手元に置いて、愛していると思って生きていたんでしょうから。しかし、シャンピオンは、おばあちゃんの方だけを見ていた人生で、果たして彼にとってそれが意味のある人生だったと言えるのか。考えようによっては、それでも彼は十分幸せだったとも言えるでしょう。でも、人生とは、詰まる所、自分のために生きてなんぼだと思っちゃうのですよ、私は。

 シャンピオンにとって、彼の人生の何分の1が彼自身のために生きたと言えるのか。そう思うと、私はおばあちゃんが憎らしくてたまらない。あのメガネを直す仕草、無茶苦茶ムカつくんです。ツールドフランスを目指して特訓したのは本当に彼自身のためなのか。もしかしたら、彼は、両親が亡くなった瞬間からもう、彼自身のために生きることを止めざるを得なかったのではないか。そんな風に思えて切ないのです。

 ラスト、老いぼれシャンピオンの背中にエンドマークが出る前に、“両親に捧ぐ”という献辞が出ます。これが意味深です。ショメ監督のご両親、健在なのでしょうか。それとも、、、。

 そんなわけで、ショメ作品の最初に本作を見ていたら、ゼンゼン違う感想だったと思うけれど、逆流したせいで、イロイロと屈折した見方をしてしまったような気がします。

 アニメ映画としては、本作の世界観が私は、あまり好きじゃないかも。キャラも、意図は分かるけれども、ちょっと不快感を覚えるほどのデフォルメで、正直、終始嫌な気持ち、、、というか、気持ち悪いと思って見ていました。素晴らしいんですけどね、その世界観も、それを表現する手法も音楽も。それはそうなんですが、私の感性には合わなかったです。『イリュージョニスト』の方が好きだなぁ。

 特典映像で、ショメ監督と高畑勲の対談があったけど、な~んか話が噛み合っていないような。そこでショメ監督は、とにかく既視感のある作品を作りたくなかった、観客を裏切る展開にすることだけを考えた、みたいなことを言っていました。まあ、確かに、ストーリーは見ている者を裏切る展開になっています。でも、気持ち良い裏切られ方じゃなかったです、私には。ひたすら、苦しかった。

 あ、でも、オープニングのショーのシーンは面白かった。アステアやジョセフィン・ベイカーが出てきたのはビックリというか、驚きました。動きも面白い。あと、音楽はホント、素晴らしい。音楽だけ聞いていたら、十分楽しめると思います。

 ショメ監督、もしかして、心に結構深い闇を抱えていらっしゃるのでは。もちろん、それをクリエイティブなエネルギーに昇華させているのでしょうけれど。次作での設定が、ちょっと見ものです。見るのが怖いような、、、。





世界観も絵も話の内容も屈折し過ぎで苦しい




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