映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

タイム・オブ・ザ・ウルフ(2003年)

2016-04-26 | 【た】



 天災か人災かは分からないけれど、何かが起きて、世界、、、少なくともヨーロッパ辺り一帯は終末を思わせる事態に陥っている。そんな中でサバイバルが始まっており、ある一家~夫婦と子ども2人~が、ありったけの食糧を抱えて別荘へ避難してくる。

 が、しかし、その別荘には見知らぬ親子が侵入し占拠しており、男が夫にライフルを向けている。夫は男と交渉しようとするが、男は問答無用でライフルをぶっ放し夫は死んでしまう。残された妻・アンナ(イザベル・ユペール)は、その親子に食料と車を奪われ、命からがら、娘エヴァ(アナイス・ドゥムースティエ)と息子ベニー(愛称ベン)を連れて逃げる。自転車を引きずりながら彷徨する母子3人、、、。

 『ピアニスト』以前の企画ながら資金不足で撮影できずにいたが、『ピアニスト』のヒットによりようやく制作が実現。311を経験した日本人にとっては衝撃の問題作。  
 
  
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 『マジカル・ガール』を見て、本物の不条理映画を見たいと思い、未見のハネケ作を見ることに。なんともはや、期待を裏切らぬ、いや、それ以上の映画でございました。こういう作品を撮る人と、マジカルなんちゃらの監督を同じ土俵で語られるのは、ハネケ好きとしてはやはりとっても心外。

 上記の作品情報のリンク先より、Wikiの方が詳しいので、内容の詳細についてはそちらをご覧ください。

 熊本で震災のあった折も折、アンナたち母子3人が行きついたあの駅舎のようなところは、まさに震災の度にテレビ画面に映し出される避難所の光景にそのまま当てはまります。もう、これだけで、平常心では見ていられない。

 ハネケは、本作を03年に撮っています。もちろん、それまでにも恐ろしい天災・人災は世界中のあちこちで起きていますけれども、あのような絶望感が充満した世界というのをシンプルに描き出してしまうというハネケの想像力が恐ろしいです。もしかして未来予知能力でもあるのか? と思ってしまうけれども、そうではなく、やはり彼の卓越した想像力なのでしょう。

 本作も、背景の説明は一切なく、いきなり話は展開します。しかし、展開されていく出来事の一つ一つは、不条理どころか理にかなったもので地続きです。突飛なエビソードのつぎはぎなどでは決してない。だからこそ、見ているうちに、少しずつ状況が分かって行くのだけれど、分かるほどに緊張感が増し、見ている者を精神的に追い詰める。

 、、、これぞ、見る者の脳をフル回転させ、その精神をギリギリと追い詰める、真の不条理映画なのでは。

 直截的な描写はほとんどないのです。夫が射殺されるシーンも、隣に立つイザベル・ユペール演じる妻・アンナの顔に血飛沫が飛ぶだけ。でも、不安感をかき立てる演出はこれでもか、とやってくれます。

 例えば、アンナとエヴァ、ベニーの3人が、途中、藁が積まれた納屋のような所で一夜を過ごすことになるのですが、ここのシーンが、まさにもう、真っ黒な暗闇なんです。画面全部隅から隅までベタの闇。これはコワい。そして、緊迫したエヴァの声、、、「ママ、起きて! ベンがいない!!」 そしてともされるアンナのライターの小さな灯。ボヤっと浮かぶアンナの顔。、、、暗闇はそれだけでも恐怖を煽るものですが、この、完全なる漆黒の闇というのは、自分のいる場所が分からない、自身の存在さえも疑わしくなる、足下が危うくなる恐ろしさです。

 母子3人は、ここではないどこか、、、希望のある地へ向かう列車が通ると言われる駅(?)に辿りつき、その駅舎にとりあえず落ち着きます。この駅舎には、最初は10人足らずの人しかいなかったのが、途中で大人数が押し寄せてきて、あっという間に避難民ひしめき合う避難所の様相を呈してしまう。そして、次第に、曲がりなりにも秩序が生まれ、統率する者が現れ、物々交換が成立し、人の思惑がぶつかり合う場所へと変貌していく。その過程が、実にサラリと鮮やかに描かれています。その巧みな描写に、ただただもう息をするのも忘れて緊張して見入ってしまう。

 この駅舎で、実に様々なことがあるのですが、それは、まんま人間の日常生活の縮図。平穏な時にも、どこにでも普通に起きていたことが起きている。盗み、レイプ、ケンカ、自慢話、音楽、笑い話、、、。違うのは、皆が生存競争という小さい檻の中に放り込まれているということ。逃げ場はどこにもない。そこで生存競争を勝ち抜いたとしても、一体どんな未来が待っているというのか、、、。

 そしてやはり、こういう終末状況で出てくるのが、謎の秘密結社、的な話。世界に36人しかいない“正義の団員”についてもっともらしく話している爺がいる。かつて、世界が危機に瀕したとき、その団員の1人が裸になって火に飛び込み生贄になることで世界を救った、、、という話。いかにも胡散臭い話だけれど、離れた所でベニーはジッとそれを聞いていた。

 もし、本作を、311の前に見ていたら、、、受け止め方が違っていたと思うけれど、もうあれを経験してしまった者としては、本作で描かれているこの絶望的状況は、まさに放射能汚染による地球破滅、という状況にしか見えません。

 家畜の牛が大量に焼かれている光景、ベンが時折流す鼻血、荒涼とした草原、汚染されている地下水、、、どれをとっても結びつけて見えてくる。

 そして、決定的だったのは、終盤の衝撃的なシーンです。10歳に満たないであろう少年ベンは、恐らく、父親を殺されたことで精神的にとてつもない衝撃を受けたと思われ、本作でもほとんど喋らず心を閉ざしていますが、時折り姿をくらまし、彼がこの状況に絶望という言葉でさえも軽く感じるほどの絶望を胸に抱いていることが伝わってきます。

 夜中、皆が眠っている中、ベンは一人目を見開いたまま、大量の鼻血を流している。拭っても止まることなく出てくる鼻血。、、、ベンは起き上がって外に出てくると、焚火の側へ行き、火を大きく起こすと、服を脱ぎ始めます。大量の鼻血を流しながら。裸になったベンは、焚火を見つめている。

 正直、このシーンは、見ていて苦しくなりました。もう、ひたすら苦しい。息ができない、窒息しそうな感じでした。ここで泣けた、という感想をいくつか見ましたが、私は、涙が出る余裕もなかった。もう、ヒリヒリするような、胸がギリギリする感じです。

 ベンは、夜回りをしている男性に、その行動を阻止され抱きしめられますが、ホッとするというより、私は放心してしまいました。

 ラストは、車窓から見た風景が延々約2分間。暗い森から、スーッと明るい開けた場所に出ます。近くの木々は飛ぶように流れて行きますが、遠景の小高い丘や森はゆっくりと左から右へと移動していきます。、、、果たしてこのラストを救いと見るか、妄想と見るか。

 私は、救いだと思いたい。ベンの行動が救ったのだかどうかは分からない。でも、何か、奇跡的な何かが起きて、ここではないどこかに向かう列車に、彼らは乗れたのだ、、、と。

 こんな寓話をハネケが描くだろうか、と思うけれども、ハネケが「ヒューマニズムなき芸術は存在しない。ヒューマニズムが芸術家の存在理由であり、意思の疎通こそ人間的で、それを拒むのはテロリストである」と特典映像のインタビューで言っていることからも、そうだと考えたい。ハネケのいうヒューマニズムは、人間至上主義的なそれではなく、恐らく、理性に基づく人間性尊重・礼賛、というようなものだと私は思う。であれば、やはりあの車窓から見る流れる光景は、アンナたち母子が見たものと思いたい。

 、、、ところで、本作は何気に豪華キャストです。イザベル・ユペールはいまさら言うこともないのですが、娘エヴァを演じていたのがアナイス・ドゥムースティエで、感激しました。彼女は『彼は秘密の女ともだち』で初めて知った女優さんだったのですが、とてもクレバーな女優さんだと感じていました。本作を見て、それを確信しました。この不条理極まる作品で、彼女はやはり素晴らしい演技をしています。もちろん、ハネケの演出が良いからでしょうが、それに応える能力のある俳優だということです。エヴァが、駅舎で亡き父に手紙を綴るシーンが良いです。ベンを演じた少年もとても可愛く、本作はこの2人に負うところ大と言って良いでしょう。

 不条理映画、余白を敢えてつくる映画、見る者に考えさせる映画とは、こういう映画を言うのだよ、カルロス・ベルムトさん。









やっぱり、ハネケが好きだー!




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(秘)色情めす市場(1974年)

2016-04-18 | 【ま】



 戦後復興期を過ぎ、右肩上がりの日本(?)でエアポケットのような大阪ドヤ街・釜ヶ崎。トメは、元締めのおばはんにフリーでやっていく宣言するところから始まる。フリーの、娼婦である。

 母・よねも40代(?)になって娼婦を続けており、トメ自身も父無し子、知的障害のある弟の実夫(さねお)も同じく。しかし、トメは流しで客を引きながら生きていく。

 、、、圧倒されるパワーに見終わってからヘロヘロ状態。どこが“ロマン”ポルノやねん!!
 
  
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 映画友が絶賛、、、というほどではないけれど、なかなかイイから是非! と言っていた本作を、やっとこさ見ました。

 多分、私にとって日活ロマンポルノはこれが初めてじゃないかな。ほかにも面白そうだな、というのはイロイロあるのですが、どうも敷居が高かったというか。

 しかし、これ、ハダカやエロシーンを当て込んで見に行ったオッサン達は、一体どう思ったんでしょうか。何か、エロを堪能できる作品じゃないですよねぇ。私は、とにかく疲れました。見終わって、グッタリ、ヘロヘロ、、、。なんつーか、もう、こんな思いしてまでポルノ見たいと思いません、、、ってのが鑑賞後すぐの感想。

 トメが客に提供するセックスは、なにかこう、、、スポーツに近い感じの、セックスというよりは、筋トレみたいな感じ。こういう感じでも、男性客って良いものなんスか? 分からないけど、私が男だったら、ちょっといたたまれないなぁ、、、。だって、お片付け感たっぷりで、、、。だったら、自家発電した方がまだしも、とか思っちゃうんですけど、これって私が浅はかなだけなんですよねぇ、きっと。

 トメに対比して描かれているのであろう、宮下順子演じる文江も娼婦なんだけれど、こちらはいわゆる典型的な男好きするウブを装うプロの方、という感じ。真珠を入れていること“だけ”が自慢みたいなアホおやじに良いようにされて、結局は、好きな男もろとも爆死。アホおやじが好きな男から文江を強奪し、代わりにダッチワイフを与えたんだけど、なんとそのダッチワイフに好きな男はプロパンガスを入れてしまって、プロパンガス入りダッチワイフを釜ヶ崎中持ち歩くという、それはそれはシュールな光景が展開されます。爆死したのは、そのガスにアホおやじのタバコの火が引火したからですけれども、その場に、文江もいて3人とも、、、。爆発する瞬間は、近くを国鉄と思しき電車が走っており、このシーンもかなりのシュール度です。

 トメさんは言っています。「女は喰いっぱぐれる心配がない」と。彼女の生き様を見ると、この言葉がもの凄い説得力を持ちます。しかし、これは、まさに精魂使い果たし、骨身を削って稼ぐ、壮絶な人生であり、喰いっぱぐれのなさに見合ったものなのかどうか、見ていて辛くなってきます。

 終盤の、カラーになるシーンですが、、、。私は、あれはちょっと生理的にダメでした。実夫が持ち歩いている鶏が見ていられなかったし、実夫が常に口から涎を垂らしているのもダメだった。彼がどうしてああいう行動をとったのかが、イマイチ私には分かりませんでした。実の姉と関係してしまったことと何か関係があるのでしょうか?

 トメの母親よねさんも壮絶。妊娠しながら商売している。稼がな生きていかれへん、と、娘と客先で鉢合わせる。もう、何でもアリの世界。

 何とも言えない、蠢く暗いパワーは感じたし、それにKOされて、脳みそが揺れてしまいました。正直なところ、私がこの作品に対して何事かコメントするのは、あまりにもハードルが高い。もっとロマンポルノについてのベースがあれば感想の書き様もあるのだろうけど、初っ端としては、かなり上級者向けの作品を見てしまったのかも知れません。

 しかし、トメさんというのは、凄まじい女性です。男に身を売りながら、実態は、男を喰らっている、という感じ。実は、本作を見ながら、ゴヤの描いたあの「我が子を喰らうサトゥルヌス」が頭に浮かんでいたのですよねぇ。もちろん、サトゥルヌスがトメさんですが、、、。

 いやぁ、、、ちょっと顔洗って出直してまいります。失礼いたしました。

 





とにかく、凄まじい、、、。




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処女の泉(1960年)

2016-04-13 | 【し】



 信心深い両親の下で甘やかされて育った世間知らずのわがまま娘カーリンは、教会へローソクを届けに行くことに。そんなあまちゃんカーリンを日頃から妬ましく思っていた下女のインゲリも一緒だ。

 必要もないのにダダをこねて一張羅でめかしこみ馬に乗って野道を進むカーリンと、誰の子か分からない子を妊娠したインゲリは、途中で言い争いになる。「私は結婚するまで純潔を守るわ」とカーリン。「夜道で抱き寄せられて組み敷かれたらどーする?」とインゲリ。

 森に入る手前で、インゲリは急に怯え始め、ここから先には進みたくないと言う。カーリンは無邪気に「私は平気、一人で行くわ」と森に入って行く。

 果たして、彼女を待ち受けていたものは……。
 
  
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 カーリンの描かれ方に、ベルイマンの意地悪な眼差しを感じたんですけど、私だけかしら。

 カーリンは、森の中で羊飼いの見るからにヤバそうな兄弟に強姦され、殺され、一張羅を剥ぎ取られ、放置されます。何というおぞましさ。その一連の様子を、実はインゲリが森の陰で見ていたのです。

 本作の時代設定は16世紀らしいですが、カトリックは後から入って来た宗教で、インゲリは、土着の神オーディンを信仰しているのですね。朝には下働きの前にオーディンに祈りをささげています。インゲリにとって、このカーリンの一家はカトリックなんぞを熱心に拝んでいて、おまけに裕福だからって娘をさんざん甘やかして何だよ、みたいな感覚なのが、序盤数分のシーンで見事に分かります。

 まあ、カーリンは言ってみれば、わがままで甘ったれの純粋無垢、裏を返せば、世間知らずで頭がおよろしくない者の象徴的なキャラでしょう。インゲリにしてみれば、カーリンが薄汚い下劣な男たちに犯されるのを見て溜飲の下がる思いだったのでしょう。終盤、そう言ってカーリンの父テーレに懺悔するシーンがあります。しかし、まさか、カーリンが殺されるとまでは思っていなかったインゲリは、事態が急変し、恐ろしさのあまり固まってしまったのです、、、。その時のインゲリの表情が何とも言えないです。

 インゲリ役の女優さんは、野生児みたいな若い女性を存在感たっぷりに演じていますが、正直言って、インゲリの存在が本作であんまし効いていないのですよねぇ。インゲリを通して何を描こうとしたのか、ベルイマンの意図がイマイチ分かりません。森を目の前にして急に畏れを見せたインゲリですが、そこに神オーディンの信仰による何かがあったのでしょうか。いずれにしても、折角魅力ある役者さんなのに、ちょっともったいない。

 一方のカーリンは、まあ、イラッとする女子で、悲劇的な最期は可哀想ですが、それまでのわがまま一杯っぷりと、インゲリに対する隠しようのない侮蔑感のせいで、因果応報という言葉をいやでも思い起こさせます。因果応報にしては、あまりに過剰な報いですけれども。

 ちょっと「赤ずきんちゃん」の話が脳裏をよぎりましたねぇ。一種のベルイマンの警告みたいなものでしょうか。考え過ぎですかね。

 何でタイトルが『処女の泉』なんだろう? とずっと見ていて疑問だったんですが、ラストで分かります。、、、が、何だかここで一気に宗教映画っぽくなっちゃって、私はかなり引きました。これまで見てきた『恥』とか『仮面/ペルソナ』とか、宗教が背景にあるのは分かりますが、どこか突き放した一線を引いた感じがあったように思うんですけれど・・・。本作は、カーリンの父テーレが、神に語りかけるのです。「神よ、あなたはすべて見ていたはずだ、それなのに黙っていた、なぜだ!?」とか言って天に向かって叫ぶ。そして、カーリンの遺体を抱き上げたその場所から、泉が湧きだす、、、。

 テーレは、その前に、娘たちを殺した兄弟3人を復讐として殺しています。しかも末っ子はまだ子どもだったにもかかわらず殺してしまった、、、。で、神に叫び、挙句「カーリンの遺体のあった場所には、教会を建てます」等と言って許しを乞うているかのよう。

 何だかなぁ、、、と思ってちょっと調べてみたら、この脚本は、ベルイマン自身は嫌だったらしいのですね。脚本を書いた人がどうしても入れたい、と言って引かなかったために、このシーンが入ったと。、、、ううむ。

 まあでも、人間の内面を冷徹な目で描いた作品、という風に解釈すれば、今まで見た2作品とも同じですかねぇ。あんまし宗教映画っぽくない方が好きですけど。他の作品はどーなんでしょうか。追々見て行きたいです。

 ちょっと飛躍しますが、私は、テーレが3兄弟を殺すシーンを見ながら、ブロンソンの『狼よさらば』を思い出していました。詳細は覚えていないのですが、あの作品も妻と娘を理不尽に殺されたり犯されたりして、復讐鬼と化す男の話ですが、最後は救いがあったような、、、。なんというか、全然ジャンルも毛色も違う作品ですが、テーレのキャラが多くは語らぬ男気ある家長として描かれており、ブロンソンの役のキャラと少しダブってしまったというのもあります。『狼よさらば』久々に見てみたくなりました。





ヒキガエル入りサンドイッチをおあがり。






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ニッポン無責任時代(1962年)

2016-04-11 | 【に】



 平均(たいら・ひとし)は、一見、お気楽屋のお調子者だが、実は機を見るに敏く、都合の良い方を選んで“楽して得する”生き方を地で行くツワモノ。「サラリーマンは辞表を出したらオシマイよ」などとうそぶきながら、自分はあっさりクビになってもちゃっかり後釜を見つけている。

 植木等が、一見お調子者サラリーマンを演じて一世を風靡した本作。本作が公開されて54年、植木さんが亡くなって早9年が経つけれど、無責任時代のニッポンは、今もバッチリ継続中!
 
  
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 ちょっと前にBSでオンエアしていたのを録画してあったので、やっとこさ見ました。率直に言って、こういう気の利いたコメディ映画について、あれこれ語るのは野暮だと思いました。

 なので、ここからは単なる独り言みたいなものです。

 植木さん、結構好きだったんですよね~。ああいうキャラだけれど、顔はよく見ると結構、スッキリ系の男前だし、歌はうまいし、若い頃は体のキレも良いし。私が知るリアルタイムの植木さんは、おじさんというより、おじいさんに近いお歳になっていたけれども、バカをやっていても品があると感じたものです。

 そう、コメディアンとは、下品・下劣では、目も当てられないくだらないものになってしまうけれど、品性があるからこそ、笑いに昇華できるのだと思うのです。

 後年、「名古屋嫁入り物語」で頑固者の花嫁の父を演じていたのも、割と好きだったなぁ。デフォルメされた名古屋弁と、植木さんのキャラが絶妙にマッチしていて笑えました。調べたらなんと、10本も作られていたのですね。私が見たのはそのうちの半分にも満たないと思いますが、共演していた川島なお美さんも鬼籍に入られ、時の移ろいを嫌でも感じますね……。ネイティブ名古屋弁の川島さんもとってもチャーミングでした。

 本作は、ちょっとミュージカルっぽいです。植木さんの歌うシーンがかなり多いので。歌への移行も違和感なく、唐突に歌いだすということはありません。あの「スーダラ節」もありますし、「無責任一代男」の歌詞も笑えます。アハハと笑えるというより、イヒヒ、、、というか、ムフフ、、、というか、イ行やウ行のちょっと屈折した笑いです。

 平均さんの行動は、一見、行き当たりばったりに見えるけれど、実はかなり計算ずくで動いていて、あれなら、何もサラリーマンじゃなくても、別の稼業でも十分成功できる才覚をお持ちなのでは? と思っちゃいますが、そこはやっぱり、無責任の最たるものということで、敢えてサラリーマン稼業を選んでいるわけですよねぇ。そこも、自分を知った上での計算ずく、ってのがイイです。

 あと、太平洋酒の氏家社長、ハナ肇も素晴らしい。偉そうにしているけれどバカで人を見る目がない、何でこんな奴が社長なの? 的な社長を好演です。

 しかし、果たして平均さんは本当に“無責任”でしょうか? 無責任というより、いい加減キャラって感じ。サラリーマンは気楽な稼業と言っていますけれど、彼は実質はフリーランスみたいなものではない? 自分の才覚だけで世間を渡り歩く、、、本作では世間が“会社”という狭い組織だからそう見えないけれども、世間だって大きく捉えれば組織であり、平均さんは自分が都合よく活躍できそうな会社(=世間)を嗅ぎ分け渡り歩いている、“フリーのサラリーマン”だと思います。

 フリーって、なんだかんだ言って、結局はすべて自己責任。本作の登場人物の中で、平均さんと同じ程度にフリーな身分の人は、新橋の芸者さんと、バーのお姉ちゃんくらいでしょ。あとの社長だの会長だの、結局は、組織の傘下にある人々で、責任回避術を心得ているのでは。

 だから、平均さんは、責任取らされてクビになる。クビになっても、ちゃんと次を見つけ出す。大したもんです。

 この頃の邦画って、増村保造作品を数本程度で、あまり見ていないので、これを皮切りにコツコツ見て行こうかな、、、と思っております。




コツコツやる奴はごくろうさん!!




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フレンチアルプスで起きたこと(2014年)

2016-04-07 | 【ふ】



 フランスのスキーリゾート地にバカンスにやって来たスウェーデン人一家。若いトマスとエヴァ夫婦、それに娘のヴェラと息子のハリー。理想の家族を絵に描いたような家族写真をゲレンデで撮ったり、4人仲良く滑ったりして1日目を楽しく無事過ごす。

 問題は2日目に起きる。一家が最高の眺めのテラスで楽しく食事中、スキー場が人為的に起こした雪崩が、予想外に大きくなり、テラスに迫って来た。大丈夫だと余裕を見せていたトマスだったけれども、いよいよ雪崩が迫って来たら、なんと、スマホを鷲掴みにして逃げ出した。テーブル席に置き去りにされたエヴァと子どもたち、、、。

 幸い、テラスには雪煙が真っ白に覆っただけで実害は何もなかったが、雪煙が晴れて、回りも落ち着きだしたところへ、テーブル席にトマスが戻って来た。雪崩の前とは雰囲気が一変していた。

 ……楽しいはずのバカンスが一転、夫婦崩壊、家族崩壊の危機に瀕することになる。
 
  
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 昨夏公開時に、劇場に見に行けなくて、DVDにて鑑賞。

 夫婦に限らず、人間関係ってのは、非常事態に遭遇したときにその真価が試されるものだと思いますが、本作でこの一家が出会ってしまったのは、実際は、非常事態というほどのものですらなかったんだけど、図らずも夫orお父さんの正体が露呈しちゃった、という、シャレにならない話です。

 ネット評では、トマスが夫でお父さんだから、つまり男であるから、逃げたことを責められるのだ、という論調が多かったような。女子どもが逃げても責められない、とか。そーでしょうか?? 確かに子どもが逃げても責められないでしょう。でも仮に、エヴァがトマスと同じ行動をしていたら、やっぱり「母親のくせに何だ」「子どもほったらかしてそれでも母親か」と非難轟轟だったはずです。これ、男も女も関係ないと思いました。ここで、男だ女だを言うのはナンセンスでしょう。

 トマスがもし、隣に座っていた息子を抱えて逃げていたら、事態は大きく違っていたでしょうねぇ。エヴァも娘のヴェラも、夫orお父さんに失望しなかったと思います。だって、子ども2人は夫婦がそれぞれ1人ずつ守るという発想の下の行動だと説明がつくわけですからね。

 正直、自分だったらどうするだろうかと考えちゃいました。子どもがいたら、まあやっぱり、子どもを守らねば、、、とか思うんでしょうか。私には子どもがおりませんので実感としては分かりませんが。でも、甥っこや姪っこがヴェラやハリーくらいの年齢だった頃は、この子たちの両親に何かあれば、私が守らねば!! などと勝手に思っていたことはあります。子どもって、そういうふうに思わせる何かがあるんだよなぁ、きっと。

 でも、子どもがいない夫婦2人の場合だったら……? 正直、私は、相手を守ろうなどと考えずに、一人で避難しちゃうかも。だって、お互いイイ歳の大人なんだし、、、。その代り、別に相手に対して、アンタは男なんだから女のアタシを守ってよ、とも思わない気がする。少なくとも、今は思っていない、ゼンゼン。そしてアイツはどーするだろうか、、、と考えたけれども、アイツも勝手に逃げるんじゃないかな。で、お互い勝手に逃げてから、あれ、アイツどーした? 何で逃げねーんだよ、バカ!! って感じじゃないだろうか。そのままはぐれちゃうかもだよね、、、。別に彼を信頼していないわけじゃない、けれども、アタシもアタシだからなぁ、、、。そんな自己犠牲の精神を互いに相手に対して抱いている関係とは、到底言えません。

 そもそも、男は女を守るべし、というのは、女の勝手な理想の押しつけであって、そんなこと男は望まれたって応えられるわけないんだよ。確かに、男の方が腕力は勝っているだろうけど、持久力と精神力は、多分女の方が遥かに強い。「男は度胸、女は愛嬌」って言葉がありますが、あれは、男には度胸が、女には愛嬌がそもそも欠如しているから心しなさいよ、という意味だと思うんですよね~。男性自身も、そういった“マッチョ信仰”に過剰に囚われている部分もあるかも知れませんしね。マチズモなんて「バカの代名詞」だと、大分、世間でも認識が浸透してきている昨今ではありますが、、、。いずれにしても、男性性や女性性に対する妄想は、お互いに捨て去る方が幸せです。

 エヴァがトマスを執拗に責めたのは、トマスの男性性の欠如に失望したからでしょうか。、、、まあ、それもあるかも知れませんが、やはり、家族の一員であるにもかかわらず、家族より自身を最優先した、という事実にエヴァは打ちのめされたのだと思います。もし、子どもがいなくて、トマスとエヴァ2人だけのシチュエーションで同じことが起き、エヴァがねちねちトマスを責めたら、エヴァにはゼンゼン同情できなかっただろうなぁ……。本作の場合、子どもがいるし、2人ともまだ小さいからね、余計にそう思うよね。

 とはいえ、エヴァにもあまり共感は出来ないのです。トマスをネチネチ責めるから、というのではなく、結構この女性は「形から入るタイプ」に見えるのです。いろんなことに対して自分の理想とする形があって、そこにハマっていないと欲求不満になる。こういう人は、自分と向き合うのが苦手で、物事が上手く行っている時は良いけれど、何か歯車が狂いだすと、それを人のせいにする傾向があると思うのよね。個人的にちょっと苦手なタイプです。

 一番かわいそうなのは、まあ、子どもたちでしょうか。折角の楽しいバカンスなのに、両親は不穏な雰囲気、部屋中に緊張感が充満していて、子どもはこういうのに非常に敏感ですから。

 中盤、夫婦は一芝居うって、子どもたちを安心させて、夫婦仲も修復されてめでたしめでたし、、、。と思いきや、終盤でまた一波乱ありました。あれをどう解釈するか。

 それまでもエヴァにあまり共感できなかった(といって、トマスに同情的でもなかったけど)のですが、あのラストの彼女の行動で、やっぱりこの人イヤだわ~、と思っちゃいました。バスから真っ先に降りたのもいただけないといえばいただけないけど、息子を友人カップルの男に抱っこさせたのがイヤでしたね。なぜ自分で抱っこしないのか。

 結局、人間って勝手な生き物なんだな、ということを改めて認識しました。エヴァもトマスも、似たもの夫婦です。勝手な生き物のくせに、自覚がない。自己犠牲の下に親をやっていると勘違いしている。せめて自覚しろよ、と思う。

 バスから降りずに乗って行った女性が、一番共感できたかも。彼女は、自らの勝手さを自覚していて、自覚しているからこそ自制もできる人なのよね。自覚のない奴は何であれ、ホントに扱いがメンドクサイ。

 ところで、本作は、夫婦の危機ということで『ゴーン・ガール』が引き合いに出されているようですが、個人的にはゼンゼン違うと思うんだけど、、、。本作の方が、よほど意地が悪いし捻りが効いています。まあ、マッチョ映画といえば、どちらもマッチョ映画かも知れませんけれど。そういう意味では、マチズモ思想って不滅かもですね。ゾンビみたいだわ




ヴィヴァルディの音楽が効いています。




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マジカル・ガール(2014年)

2016-04-04 | 【ま】



 白血病で余命幾ばくもない12歳の娘アリシアの望み~日本のアニメ「魔法少女ユキコ」のコスチュームを着て踊ること~を叶えるため、元教師で現在失業中の父親ルイスは、ネットでそのコスチュームを検索すると、何と90万円、ユーロに換算すると7千ユーロもすると分かり、諦めそうになるが、金策に走ることに。

 そこから、色々な偶然が重なって、思いもよらない悲劇が立て続けに起きて、なんでそーなるの? 的なラストへまっしぐら。

 アニメにゼンゼン詳しくない私は、どーすりゃええんだ、、、と置いてけぼり感で一杯になりましたとさ。、、、ごーーん。

  
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 何かを劇場に見に行った際に本作の予告編を見て、なんか面白そうかも、、、と思って、劇場まで見に行ってみた次第。

 ……で、思っていたのと全然違うタッチの作品にまず戸惑う。アニメソングとかが一杯流れてポップな感じ? とか勝手に思っていたわけだけど、ポップのポの字もありゃしまへん。すんごい静かで、暗~い作品。え、、、これ、あの予告編のと同じの?? と思ったくらい。アニメソングらしきものが出てきたのは序盤と、終盤のすんごい場違いなシーンでの2回。

 そして、あの結末、、、。う~~ん、私はあんまし好きじゃない、というのが正直な感想。

 詳しい内容は、他のサイトにお任せします。ここでは、私の思ったことをつらつらと。以下は、本作がお好きな方には不快になると思いますので、あしからず。

 本作はとにかく、不親切な作品です。これはもちろん、制作側の意図したものだということは分かります。が、作品が「不親切」というのは、その作品に考えさせる価値のある余白があればこそ生きてくるものであって、本来ない余白をありそうに見せるために「不親切」を装うのは、ちょっと違うんじゃないの? と言いたくなるのです。

 つまり、本作には、余白があるとは思えなかった、、、ということ。

 読みが浅い? そーでしょうとも、浅くて結構。本作のどこに深みがあるってのさ。

 パンフも一応、隅から隅まで読みました。町山氏の感想文も読みましたけれど、やっぱし、映画は自腹でお金を払って見るべきです。評論家の意見は一定程度割り引いて読んだ方が良いと思います。町山氏は、ブレッソンの『ラルジャン』を引き合いに出しておられましたけれど、それって本気・・・? もし本気だとしたら、少々リップサービスが過ぎるのでは?

 また、あるネット評では、本作からハネケの作品を感じたというものがありました。あの『ファニーゲーム』とかの不条理映画に通じるとでも? ハネケ好きな者から言わせてもらうと、一緒にしないでよ、という感じでしょうか。本作にはハネケのような振り切れたインモラル、反社会性、狂気が描かれていましたっけ? それっぽい要素を散りばめてはいましたけれど、敢えて言えば、亜流、中途半端、もっと言っちゃうと子供だましにしか私には思えなかった。

 本作の何がそんなに薄っぺらさを感じるのか、、、考えてみました。

 不条理の連鎖とはいえ、『ラルジャン』にしろ『ファニーゲーム』にしろ、見ている者には、ある種の同質性を感じられる不条理だったように思います。

 例えば『ラルジャン』は、ある高校生が出来心で偽札を使ったことが巻き起こす話です。つまり、テーマは、金=人間の欲が引き起こす不条理ですね。『ファニーゲーム』は、極々平凡で平和な家族に、暴力性を持った青年2人が闖入してきたことで起きた話で、こちらは、人間が潜在的に持つ暴力性が生々しく描かれた不条理です。

 でも、本作は、、、。金欲しさに見知らぬ女を脅迫したり、その女も嘘を言って脅迫してきた男を陥れたり、、、おおもとはというと、余命わずかな白血病の娘のアニメ好き、、、と、面白そうな要素を単につなぎ合わせて、不条理劇っぽく仕立て上げただけに過ぎない、と思っちゃうわけです、私は。

 『ラルジャン』や『ファニーゲーム』は、例えば、赤い絵の具に黄色い絵の具を足せばオレンジになるように、足す色は元の色と全く異なる色でも、足した後にはきちんと新しい色が出来、さらに、別の色を足すことでまた違う色になり、最終的には黒になる、、、。でも、本作は、元の色が何色であれ、足す色は問答無用の“黒”なわけ。どんな色に黒を足しても黒にしかならないような、もの凄い唐突感と、ブツ切り感。出来事と出来事に何の関連性も意味もないのです。

 そこに、「色を重ねていった末の黒」が出来上がる奥行きが感じられない。だから、薄っぺらいと思ってしまうのです。

 じゃあ、『セブンス・コンチネント』はどーなんだよ、というツッコミが聞こえてきそうですが。でも、あれも、私にとっては「物質主義からの脱却」という筋の通った不条理劇という説得力があるのです。そして、あれこそ、描かれていない余白にこそ作品の本質があると確信させられる映画です。、、、が、本作にはとにかくそれがない。ただただ、脈絡なく監督が好きな、趣味に合った要素を並べてみただけ、じゃない?

 監督に言わせると、本作を貫くのは「愛」だそうです。親子愛、夫婦愛、師弟愛、、、とにかく人間関係における愛があるからこそ、このような不条理劇が起きてしまったのだ、と言いたいようです。愛があるなら、そもそも父親は脅迫なんかするな、と、初っ端からツッコミを入れたくなりますが。私には、ゼンゼン説得力のない説明です。

 乱歩の「黒蜥蜴」とかの使い方もムカつくんですよね、筋金入りの乱歩好きにとっては。あんなチープな使い方をして、乱歩が好きだとか言ってほしくないんだよ、みたいな。

 ダミアンとバルバラの間に、過去、何があったのかとか、ハッキリ言ってどーでもよいです。値打ちありげに描いていませんけど、どーせ何も考えていないんでしょ、ホントはそこに何があったかなんて。

 見る人によっては、アニメの○○とか、△△とか、がオマージュではないか、などと感じるものがあるらしいです。アニメなんて無知に近いので、私にはさっぱり分かりませんが。知っていたところで本作に対する見方が変わるとも思えませんし。

 タイトルの、マジカル・ガールとは、まあバルバラのことで、アリシアもそうなのかも知れません。確かに、バルバラもアリシアも、マジカル的に美しいorキュートでした。アリシアのベリーショート+コスプレにはグッときました。グッと来たのは、ホントに、アリシアちゃんだけだったなぁ、、、。

 なにより、最大の不満なところは、不条理映画なのに、見ていてギリギリ精神的に来ることもなければ、ドキドキもないってこと。私が好きな不条理映画は、ギリギリ来るしドキドキしっぱなしなんですけれど、本作は終始、え、、、何で? え? は??? なんでそうなるの~!? という???だけが脳内をグルグルしておりました。

 まあ、好奇心で最後まで見せてくれたので、は2つオマケです。

 



90万円≒7,000ユーロ、だそーです。




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