映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

変態村(2013年)

2023-04-29 | 【へ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv35597/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 山中で車のトラブルに見舞われ、孤独な初老の男バルテルが営むペンションに立ち寄った巡業歌手のマルク。親しげに接してくるバルテルは次第に異様な言動を見せるようになり、マルクは監禁されてしまう。 

=====ここまで。


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 以前から気になっていた本作だけど、ちょっと手を出しづらく(だってタイトルが、、、)。でも、同じ監督の映画で昨年公開された「依存魔」が面白いとの感想がTwitterでいっぱい流れて来て劇場に行きたかったのだけど、なかなか都合がつかぬまま終映。

 で、「依存魔」だけでなく、「変態村」「地獄愛」と併せて、“ベルギーの闇3部作”と言われているのだと知り、やっぱり制作年順に見た方が良さそうじゃない?と思い、いざ、DVDをレンタル。

 というわけで、まずは第一弾の「変態村」から。


◆変態というよりは、、、

 これは、変態村というよりは「狂人村」とかの方が内容的には合っていると思う。バルテルは、イッちゃってるおっさんだし、ここの村の人たち(なぜか男しかいないんだ、これが)も漏れなくヤバい。変態というと、嗜好の問題という感じだが、バルテルにしろ村人にしろ、頭のネジが外れている系。

 とはいえ、そんな村人たちの中でも、バルテルのヤバさは頭一つリードしており、そんな男の営む宿に宿泊してしまったのが運の尽き。マルクが途中で逃げ出すチャンスは、、、まぁ、なかっただろうなぁ。道に迷い&車の故障、ってのは、こういうホラー(と言って良いのか)では定番だけど、その後の受難の酷さはなかなかのレベルだった。殺人鬼みたいなのも怖いけど、こういう監禁&性暴力もおぞましい。古くは、「コレクター」とかがあるけど、本作はそれともちょっと路線が違うような。

 途中、村人たちが豚と交わっている(しかも集団で)シーンとか、居酒屋みたいな店で一斉にダンスを始めるシーンとか、、、ヘンなシーンがいっぱい。特にダンスのシーンは、あまりにも異様で可笑しく、声を上げて笑ってしまった。

 どこまで行ってもマルクは救われず、ラストも何とも言えない異様な終わり方。あれは、一応マルクにとっては救いのある終わり方なのか? 自分を追いかけて来たおっさんは底なし沼に沈んで行ったけど、ふと見上げれば十字架に干乾びた人間の死骸が、、、。あれは、マルクの前の犠牲者だったのでは、、、。

 ……というか、バルテルは、妻グロリアに逃げられた、と言っていて、マルクをグロリアだと思い込んでいる、、、という描写なんだが、それが終盤になると村人たちもマルクをグロリアだと思っていて、ラストで底なし沼に沈んでいくおっさんは、マルクに「なぜ戻って来た? オレのことを愛していたか?」とか言うんだよね。しかも、その前には、マルクは村人たちに輪姦されるシーンまである。

 つまり、グロリア(が実在していたのかどうかも謎だが)は、村人の共有だったのか? では、あの豚と交わっていたシーンは、もしや、、、??とか、良からぬ妄想をしてウゲゲ、、、となったり。

 まあ、あんまし突き詰めて考える必要のない映画なんだが、考えちゃいました。


◆邦題がナイス。

 本作は、何と言ってもその邦題のインパクトがなかなか良いと思う。原題は「Calvaire」で、ゴルゴタの丘。そこから派生して受難とか苦難という意味もあるらしい。

 これ、そんな邦題つけていたら、絶対誰の目にも止まらなかったと思うのだが、敢えて「変態村」という、かなりタブーに近い邦題を付けたのが奏功したと言えるかも。どんなん??と思うじゃない、とりあえず。内容に忠実に「狂人村」とかにしていたら、やっぱしインパクトとしては弱くなっていただろうなぁ。なんかC級下らん映画、って感じしかしないもんね。

 こんなタイトル、一昔前だったら、例えば窓口で「「変態村」1枚ください」とか言うのって、まあ、結構心理的ハードル高いけど、今ならネットでチケット買えるし。DVDも、カウンターに持って行くのは憚られるけど、ネット宅配レンタルならノー・プロブレムだし。

 監督のインタビューを特典映像で見たけど、この人、かなり面白い。もう、ヤバい系の映画大好き!!っていう愛が溢れていて、ちょっと笑ってしまった。けど、好感持ちましたよ。やっぱし、これくらいの思い入れがないと、面白い映画なんて撮れないだろうから。

 前述の、居酒屋のダンスシーンは、ネット情報によれば「イヴ・モンタンの深夜列車」のオマージュだとか!!! 「イヴ・モンタンの深夜列車」未見だけど、絶対あんなヘンなシーンじゃないと思うなぁ。

 ……というわけで、第二弾の「地獄愛」へと続きます。

 

 

 

 

 

 

 

グロリアは果たして実在したのか、、、

 

 

 

 

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ペルシャン・レッスン 戦場の教室(2020年)

2023-01-21 | 【へ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv78458/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。
 
 ナチス親衛隊に捕まったユダヤ人青年のジル(ナウエル・ペレーズ・ビスカヤート)は、処刑される寸前に、自分はペルシャ人だと嘘をついたことで一命を取り留める。

 彼は、終戦後にテヘランで料理店を開く夢をもつ収容所のコッホ大尉(ラース・アイディンガー)からペルシャ語を教えるよう命じられ、咄嗟に自ら創造したデタラメの単語を披露して信用を取りつける。

 こうして偽の<ペルシャ語レッスン>が始まるのだが、ジルは自身がユダヤ人であることを隠し通し、何とか生き延びることはできるのだろうか──。

=====ここまで。


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 昨秋に公開された『キュリー夫人 天才科学者の愛と情熱』(2019)は、東京での上映が立川にあるkino cinéma立川髙島屋S.C.館だけでした。この劇場は配給会社キノフィルムズの直営館だと思われ、都心での公開に広げてもらえないだろうかと密かに期待していたのだけれど、それはないまま終映となってしまった。がーん、、、。まあ、DVDか配信に期待するしかない。

 で、本作も同じで、公開時は立川だけで上映しており、都心の便利さに慣れた身には立川まで片道1時間半掛けて出向くのはかなりハードルが高いのですよねぇ。贅沢言ってんじゃねぇよ、と怒られそうですが、、、。都心への展開がなければ、本作も見逃しかなぁ、、、と思っていたところ、渋谷で上映開始との情報がTwitterで流れてきました。やったー!

 などと書くと、さも期待していたかと思われるでしょうが、実はそうでもなく、ウリ文句で「『戦場のピアニスト』『シンドラーのリスト』に続く、ホロコーストを題材とする戦争映画」等と書かれていて、シンドラーはともかく、マイ・ベスト5に入るだろう映画『戦場のピアニスト』が引き合いに出されているからには、食傷気味のナチものとはいえ、この目で確かめておかねば、、、という感じだったのです。

 ……で、早速見に行ってまいりました。


◆なぜ虐げられている側が罪悪感を抱くのか。

 そんなわけで、斜に構えて見に行った次第。実際、中盤くらいまではあんまし、、、だったが、やはり「いつジルの嘘が露呈するか、、、」とヒヤヒヤするので、退屈する余裕はまったくなかった。

 けれど、中盤以降は一気に引き込まれ、終盤ではハラハラし、ラストでKOされた、、、という感じだった。いや、これはかなりの逸品だと思う。

 中盤くらいまであんましだったのは、ジルが捏造するペルシャ語の語感がどうにもピンと来ない(というか、そもそもペルシャ語なんかまったく知らないのにピンと来るも来ないもないのだが、、、何か響きとかが凄くヘンだなぁ、、、と)のと、コッホ大尉のキャラがどうもなぁ、、、いや、“実はイイ人”じゃないとかそういうことではなく、キレやすくてすぐ怒鳴るし、ぶっちゃけ、あんまし頭がおよろしくないという印象だったからです、はい。

 このコッホ大尉は、他の収容者には容赦ないのに、ジルにだけは食べ物をあげたり、重労働をさせなかったりと、ジルをことのほか厚遇するのだけど、その様はかなり異様。上官にも指摘されるのだがコッホ大尉は「ペルシャ語をマスターしたいから」とかシレっと言う。

 こんなエコひいきをされていて、次第にジルも、生きて収容所を出たいという気持ちに変化が起きる。そらそーでしょう。周りはどんどん人が入れ替わり(というか、死んでいき)、自分だけはいつまでもそこにいて、、、。しかも、そこにいられる理由は嘘なのだ。これが、本物のペルシャ人であれば、この葛藤もまた違うものだったのだろうけれど、同胞は無体に殺されていくのに、自分は嘘で生き延びているのだから。

 とはいえ、ジルがそれで罪悪感を抱く必要は、本来はないはずなのだ。理不尽に殺されることに知力で抵抗しているだけなのだから。それなのに、“自分だけが、、、”等と後ろめたく思い、この映画を見た観客にさえ「自分だけ生き延びればよいのか」的な感想を持たれるという、その状況こそが非難されるべきであって、いかにこのホロコーストが狂っているかということを脇へ置いてしまう人間の思考回路が怖ろしい。

 それで、ジルは中盤で、収容者の移送の列に自ら加わる。コッホ大尉からは、移送の度に別の作業に出ていろと言われたが、そのときは、別の収容者と服を交換し、移送される身となった。移送先でどうなるかは分かった上でのことで、もう死んでもいいと思ったわけだ。けれど、そこでもコッホ大尉から救出されて生き延びてしまうことに。

 ジルは、何度もウソがバレそうになる危機に直面しながら、なぜか事態がバレない方に動く。本作は実話からインスパイアされたほぼフィクションであるけれど、現実に生還した人々も同様だったに違いない。結局、偶然が重なった上に、ほんの少し運が良かったために死ななかったということなのだろう。


◆嗚呼、片想い。

 自分がペルシャ人だと言って、適当なペルシャ語を口にするのは簡単だが、自分が出まかせで言ったペルシャ語を、自分も覚えなければいけないというのは相当の難行である。しかも、収容者たちは筆記用具を持つことが許されていないから、ジルに“書いて覚える”という手段はないのだ。これはツラい。

 ジルがとった手段は、人の名前と関連させて覚えるというもの。でも、それだって、誰にでもできることではない。……というか、少なくとも私には絶対ムリだと自信を持って言える。しかも相手のコッホ大尉は勉強熱心で、一生懸命覚えるのだから、ますますジルは苦しい。

 実際、不意に「木はペルシャ語で何というのか?」と問われて、慌てたジルが咄嗟に口にした単語は、既に使用済みだった、、、ので、マジメに暗記していたコッホ大尉はすかさず気付いて「やっぱりお前は嘘をついていたのか!!」とボコボコにされる。ジルは「同じ音でも意味の違う単語がある!」と言い逃れようとするのだが。

 この危機をどう脱出したか、、、というと、気を失ったジルがうわ言で、偽ペルシャ語を口走っているのをコッホ大尉が見て「うわ言をペルシャ語で言うのだから、やっぱりコイツは本物のペルシャ人なんだ!!」と思う、、、というわけ。……やっぱし、この大尉、ちょっと、、、でしょ。

 まあ、とにかく、ジルにとっては、自身の記憶力の素晴らしさと、大尉のあまり良いとは言えない頭が、これ以上ないというくらいに運良く奏功したのだった。

 大尉のオメデタさは終盤いかんなく発揮され、自分が厚遇しているからと、ジルも自分のことを信頼し、好感を抱いているだろうと勝手に思い込み、どんどんジルに肩入れしていく。冷静に考えて“そんなわけねーだろ!”と分からないのだ。さながら壮絶な片想いをしている様に見えるほど。そして、片想いだと分かったときには、、、という、かなり憐れなオチが待っている。このオチも、コッホ大尉のオメデタさに合っている。もう少し、大尉が賢い人なら、きっと違った行動に出ていただろうな、と。

 ちなみに、ジルは、無事に生還する。


◆SS(親衛隊)って、、、

 本作は、ラストにジルが膨大な偽ペルシャ語を覚えて生還したことの“意義”が描かれており、このシナリオは巧いなぁ、と思った。実際、歌による犠牲者の名前の伝承、いわゆるオーラルヒストリー(口頭伝承)は、『天才ヴァイオリニストと消えた旋律』(2019)にも描かれており、そういうことは実際にあったのだと思われる。

 また、本作では、ナチ側の人々の人間ドラマをかなりの尺を割いて描いているのも特筆すべきかと。“ナチもの”では、大体ナチの組織内力学に係る人間関係を描くことは多いが、彼らも人間として恋愛したり、嫉妬したり、どーでも良いことをチクったり、、、と言ったことを結構丁寧に描写している映画は珍しいのでは。

 私がコッホ大尉にあんまし好感を持てなかったのは、頭の悪そうなオメデタイ人だからというだけではなく、SS隊員であることも大きい。『戦場のピアニスト』でトーマス・クレッチマンが演じたホーゼンフェルト大尉もやはり主人公シュピルマンの生還に大いに貢献したが、彼は陸軍(国軍)の大尉だった。SS(親衛隊)か国軍かの違いに意味はない、という見方もあるかもだが、私は、この違いは結構見逃せないと感じている。コッホ大尉は、その口ぶりから恐らくイデオロギー的に大した考えもなく雰囲気でSSに加入したようで、それがますます彼のオメデタさや頭の悪さを象徴しているように思えてならない。

 そんな印象を、パンフでマライ・メントライン氏が書いているコラムを読んで、さらに強くした。

 コラムでは親衛隊の説明も結構詳しく書かれているが、その中で面白いと思ったのは、「親衛隊の内的な問題は……ぶっちゃけ実業的な大口のコネがないゆえ(軍事的にも民事的にも)あまり仕事がなく、「軍事官僚組織ごっこ」を肥大化させつつ展開するしかなかったことだ」というところ。「親衛隊の戦犯でもそれなりの割合でイデオロギーに無関心な者が居た」とも書かれていて、コッホ大尉は、まさにコレであると思う。そして、本作は「そんなナチス親衛隊内の空気が見事に活写された珍しい映画で、正直、それだけでも価値がある」と。さらにコッホ大尉のことを「知的権威性を渇望する、満ち足りぬ、悲痛な悪」と手厳しい。……けど、まあそういう描写だったもんね。

 このコッホ大尉を演じたラース・アイディンガーは、ドイツでも有名な個性派俳優とのことで、メントライン氏曰く「日本でいえば遠藤憲一みたいなタイプだ」とのこと。へぇー。この人が演じている、というだけで、ドイツ人にとっては「ただのナチものじゃないでしょ」と察しが付くらしい。また、「本当は、原作となった短編小説は映画と別の意味でスゴい」ともあって、是非とも原作であるヴォルフガング・コールハーゼ著の短編小説を読んでみたいものだが、、、邦訳は出ていない様なのが残念。

 ジルを演じたのは、ナウエル・ペレーズ・ビスカヤート。『BPM ビート・パー・ミニット』でブレイクしたお方。『天国でまた会おう』(2017)での演技も良かったが、本作では、ドイツのエンケンにちょっと食われ気味。彼自身も、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、フランス語の4か国語を話せるのだそうな。言語のセンスがあるのだね。

 

 

 

 

 

 


「何語を喋っているんだ??」とテヘランの空港で言われてしまうコッホ大尉、、、嗚呼。

 

 

 

 

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返校 言葉が消えた日(2019年)

2022-01-20 | 【へ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv72461/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1962年、蒋介石率いる国民党の独裁政権下の台湾。市民は、相互監視と密告が強制されていた……。

 翠華高校に通う女子高生ファン・レイシン(ワン・ジン)が放課後の教室で眠りから目を覚ますと、何故か学校には誰もいない。校内を一人さ迷うファンは、政府から禁じられた本を読む読書会メンバーで、秘かに彼女を慕う男子学生ウェイ・ジョンティン(ツォン・ジンファ)と出会う。

 ふたりは協力して学校からの脱出を試みるが、どうしても外に出ることができない。それでも、消えた同級生や先生を探し続けるファンとウェイ。

 やがて、悪夢のような恐怖がふたりに迫るなか、学校で起こった政府による暴力的な迫害事件とその原因を作った密告者の哀しい真相に近づいていく……。

=====ここまで。

 2017年に発売された台湾の大ヒットホラーゲーム「返校」を実写映画化。


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 昨年の劇場公開時に見に行きたかったのだけれど、コロナとか何とかで、結局行けずじまい、、、。というわけで、DVDを借りて見ました。確かに、ホラーゲームっぽかった。

 この時代の台湾を描いた映画といえば『悲情城市』(1989)、『牯嶺街少年殺人事件』(1991)が有名なのだけれど、私はどちらも一応見たが、どちらも消化しきれていない。それはひとえに、私が台湾の歴史を知らなすぎるからだが、本作は、そんな私でも普通に楽しめるエンタメ映画になっている。

 目が覚めたら誰もいなくなっている、、、という始まりが、いかにもゲーム的。

 その後の展開も、道が壊れていてある場所から出られなくなっていたり、クリーチャーが出て来たり、よく知っている人がゾンビみたいになっていたり、、、と、ゲーム的要素満載だが、映画としてもなかなかのクオリティで見せてくれるのだ。

 何より、(これはゲームの出来が良いということなんだろうが)ストーリーが謎めいていながら適度に考えさせられて、最後には「ああ、そういうことか!」とオチもある程度分かるように作っている。全体に暗い画面が多いのだが画が美しいシーンが多く、制作陣の意気込みが感じられて、見終わった後、爽快とは違うが満足感は大きい。

 徹底的な言論統制下にあるチクリ社会。そんな中でも、やっぱりいるのが、反逆者たち。権力者たちの目を盗んで禁書を「読む会」なんてものをわざわざ作る。一人でこっそり読んでりゃいいものを。……まあ、一人じゃ禁書を入手できないという事情もあるんだろうけど。この舞台設定だけでホラーになる、、、というところに目を付けたのはゲーム開発者の慧眼でしたな。

 どんな社会でも根本的な人の営みは同じというか、、、。「欲」ですね、やっぱり。知識欲、性欲、物欲、支配欲、、、、挙げればキリがない。

 ファンは、禁書を読む会を主宰している教師・チャン先生に思いを寄せているのだが、行き違いから、チャン先生が読む会に属している女性教師と親密だと勘違いし、チャン先生と女性教師を引き離したいというだけの思いから、読む会の存在を密告してしまう。そこから壮絶な弾圧が始まるのだが、誰が密告したのかが、本作の鍵となる。

 チャン先生はじめ、読む会のメンバーは凄惨な拷問を受け、ウェイ以外皆殺される。そして、結局ファンが密告者であることも露見し、ファンは周囲から白眼視されるようになる。ファンの両親も不仲で、父親は汚職で逮捕され、家族崩壊に至る。現実の悲惨さに堪えられなくなったファンは、学校で密告のお詫びとばかりに首を括るのだが死にきれない、、、。

 なぜか、以前はなかったはずの墓が学校の中にあったり、終盤、読む会の部屋にファンが戻ろうとするシーンが、序盤でファンが目覚めた後に読む会の部屋に行くシーンにつながったりという辺りが、本作の謎解きのヒントですかね。

 中学生の淡い恋心がトンデモな事態を引き起こした、、、だけのオハナシといえばそれまでなんだが、独裁時代の史実を背景にして、サスペンスフィクションに仕立て上げたその構成力が素晴らしい。

 日本のホラーゲームも相当のクオリティなんだろうけど(最近全くゲームやっていないのでどんなゲームがあるか知らないのです、スミマセン)、こういうゲームあったら面白いのに。自国の黒歴史をホラーゲームに仕立てるというのは、それなりに文化の成熟が求められるので、今の日本ではムリかな。

 台湾の歴史について、せめて常識レベルには知っておきたいので、これからイロイロ面白そうな本を探そうと思います。 
 

 

 

 

 

 

 


ファン役のワン・ジンちゃんが可愛い。

 

 

 

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ペイン・アンド・グローリー(2019年)

2021-08-28 | 【へ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv70635/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 脊椎の痛みから創作意欲も果て、生きがいを見出せなくなった世界的映画監督サルバドール(アントニオ・バンデラス)。心も体も疲れ果て、引退同然の毎日を過ごすなか、サルバドールは自身の記憶をたどっていく……。

 子供時代と母親、その頃移り住んだバレンシアの村での出来事、マドリッドでの恋と破局。その痛みは、サルバドールの中に今も消えることなく残っていた。

 そんな折、32年前に撮影し、長らく封印されていた作品の上映依頼が彼のもとに届く。思わぬ再会が心を閉ざしていたサルバドールを過去へと翻らせ、彼の心にもう一度生きる力を呼び覚ましてゆく……。

=====ここまで。

 アルモドバル版『ニュー・シネマ・パラダイス』だそーです。


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 これも、昨年公開時に見に行きそびれたのでした。コロナがなければ見に行っていたと思うけど。昨年からそんなんばっか、、、。それでも敢えて見たい!! というほどの映画もないといえばないんだよな~。

 アルモドバル監督作は、初めて見たのが『トーク・トゥ・ハー』(2002)だったと思うが、これがもうホントにダメで、、、。どうしてダメだったかも思い出せないくらい“とにかくダメ!!!”で、私にしては珍しく、途中で見るのを止めた数少ない映画の一つ。なのに、その後、なぜか『ボルベール/帰郷』(2006)をまたまたレンタルして見たら、これが結構良かった! とはいえ、アルモドバル作品はあんまし見たいと思えず、、、。本作は、何となく“枯れた感”があるような印象だったのと、スチール画像が結構いいな、、、と思ったので見てみようと思った次第。

 見終わってからネットを検索したら、アルモドバル版『ニュー・シネマ・パラダイス』とか書いてあったけど、私は映画好きを自称していながら『ニュー・シネマ・パラダイス』未見なんで、へぇー、としか、、、。

 老いて、あちこち身体にガタが来て、心まで弱って行く、、、、そして、再生の兆しが見える、ってのはよくある話だけど、最後まで退屈することなく見ました。アルモドバル自身とも言えるであろう、サルバドールを演じるアントニオ・バンデラスが良い感じに枯れていたのとか、サルバドールの部屋のインテリアがメチャメチャ素敵とか、ヘロインにハマって行くところがリアルでイタいのとか、、、。

 でも、私が心惹かれたのは、サルバドールの少年期のシーンの数々。母親ハシンタ(ペネロペ・クルス)と、父親が見つけた洞窟の家にやって来るサルバ少年。ハシンタが洞窟の家にかなり抵抗を見せるのだけど、すぐに切り替えて「住みやすくするわ」と夫に言うシーンとか、結構好きかも。

 この洞窟の家でのシーンが印象的なのが多いのよ。近所の字が読めない青年にサルバ少年が字や四則演算を教えてあげるんだけど、教え方がなかなか上手い。たかだか小学3年生か4年生くらいの少年で、あれだけちゃんと教えられるって凄いわ~と感心。

 本作の冒頭で、「刺激が強いので一部映像を加工しています」みたいなお断り文言が(もちろん日本語で)出るんだけど、どこでそれが現れるのかと思って見ていたら、終盤、サルバ少年に字を教えてもらっていた青年が全裸になるシーンだった。サルバ少年の家の壁にタイルを貼る作業をした青年は体が汚れたので、全裸になって水浴びをするんだが、これを隣室から見てしまったサルバ少年は発熱してぶっ倒れる、、、。別に、お兄さんの全裸を見たから発熱したわけじゃないんだが、そんな風に思わせる描写になっているのが笑えた。

 で、この青年は絵を描くのが好きで、サルバ少年の絵を描くシーンもある。この絵が、ラストに向けて鍵になるのだけれど、まあ詳細は敢えて書かないでおきます。この絵がステキで、絵にまつわるシーンも良いシーンだった。

 ……などなどの少年時代のシーンは実は、、、というのがラストシーンで明らかになるのだけど、これも見てのお楽しみということで。老いたサルバドールが再生したことも分かる、面白いラストだと思うわ。

 まあ、ストーリー的にはどうということはないのだが、私自身が歳を重ねて、こういう映画をちゃんと見ることが出来るようになったのかな~、と感じる次第。若い頃見ても、多分、あんましピンと来なかっただろうなと。そんな映画はいっぱいあるけど。大体、映画とか文学とか、もちろん若い頃に接することも大事だが、ある程度の人生経験を積まないと見たり読んだりしても分からないことが多いと思う。そういう意味では、歳をとることは良いことだと思う。まあ、同時に若い頃の自分があまりにも愚かで馬鹿であったと恥ずかしくなるばかりでもあるんだけれど。そして、懲りずに今も恥を上塗りして生きているわけだけど、、、ごーん。

 相変わらず、色彩豊かな画面がアルモドバル映画だな~、と思って見ていました。衣装のコーディネートとか、ホント、素晴らしい。ああいうセンス、私にもちょっとだけでイイから欲しいわ、、、。

 

 

 

 

 

 

 

 

『ニュー・シネマ・パラダイス』を見てみよう、、、かな。
  

 

 

 

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ペトルーニャに祝福を(2019年)

2021-06-05 | 【へ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv70780/

 

以下、上記サイトよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 北マケドニアの小さな町。32歳のペトルーニャは、とりたてて美人ではなく、恋人はおらず、大学に通ったものの仕事はウェイトレスのアルバイトをしている。

 就職面接を受けたところセクハラに遭った上に不採用になってしまったペトルーニャは、その帰り道、司祭が川に投げ入れた十字架を男たちが追いかけ、手に入れた者には幸せが訪れると伝えられる女人禁制の伝統儀式・十字架投げに出くわす。

 思わず川に飛び込み幸せの十字架を手にしたペトルーニャだったが、女が取るのは禁止だと男たちは猛反発。教会や警察を巻き込んだ大騒動に発展してしまう。

=====ここまで。


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 『ブータン 山の教室』を見に行ったときに予告を見て、面白そうかも、と思って岩波ホールへ行ってまいりました。見てびっくり、ゼンゼン想像していたのと違っていた……。


◆女はだまってトイレ掃除してろ!

 まあ、これは一言で言ってしまうと、ザ・フェミ映画です。これは見る人を選ぶ作品だろうなぁ、、、。私は平気だったけど、合わない人はまるでダメだと思うわ、コレ。

 予告で見たときは、もっとコメディ要素の強い、カラッとした作品という印象だったんだけど、実際に見てみたら、思いのほか暗くて、ユーモアもないわけじゃないけど、全体にシリアスな印象。なので、正直言って、あんまし面白くはありません。途中、ちょっと退屈だしね、、、。

 女人禁制の祭事に、図らずも女性が飛び入り参加しちゃったわけだが、こういう訳の分からん性差別風習ってのはタチが悪い。本作では、男たちがペトルーニャに対していきり立っていたけれど、当の女性がその風習を大事に守っていることも多い。ペトルーニャの母親も、ペトルーニャが十字架をとってしまったことを知って「この化け物!!」とか言うんである。化け物って、、、、アンタの産んだ子でしょーが。

 私の母親も割とミソジニーの気が強くて、そのイミフな言動に驚かされたことはイロイロあるが、中でも目が点になったのは、私が結婚するときに「夫婦は対等だから夫に遠慮などする必要はない」とか言っている同じ口で「トイレ掃除は男にさせてはいかん」と言ったことだ。母親とは建設的な会話は一切望めないので、私はその言葉に反論せずスルーしたが、母親はその理由を真面目な顔でこう言った。「夫にトイレ掃除をさせるような妻は夫を出世させることは出来ん」……つまり、サゲマンだと。、、、アホらし。

 まあ、結論から言うと、トイレ掃除をさせるさせない以前に、ほとんど一緒に暮らさなかったので、そういう問題自体が発生しなかった。それに、相手が出世しようが、失業しようが、私にはどーでも良いことだった。好きでもない(というより嫌いな)男と結婚しなきゃならない自分の運命を呪いながら、とにかく一日も早く離婚することだけを考えて動いていたので。トイレ掃除がどーのこーのなど、その時は忘れてたわ、、、ハハハ。けれど、ふと冷静になって思いだすと、結構腹が立つ話ではある。

 世代的なものもあるかも知らんが、私よりゼンゼン若い女性でも、嬉々として「男を立てる」的なことを言っている人もいるしなぁ。以前TVで見たが、日本の田舎では、地方議会に女性が立候補しようとすると、家族総出で止めに掛かるというのが珍しくもないそうだ。世間体が悪いらしい。この問題は、ホントに根深いし、タチが悪い。

 本作で驚くのは、ペトルーニャは、習慣を破りはしたが、別に罪を犯したわけではないのに、警察に勾留されてしまうこと。ペトルーニャは何度も警察官や検事に「私は逮捕されたのか?」と聞くが、もちろん逮捕はされていない。でもって、その警察署に、祭りに参加していた興奮した男どもが押し掛けてくるのだ。もう、頭がおかしいとしか思えないが、彼の地ではそれが現実らしい。

 この話には元ネタがあり、実際に十字架を取った女性は、現在はロンドンで暮らしているという。誹謗中傷が酷くて街にはいられなくなったらしい。そっちの方が犯罪じゃないのか?
 

◆女性に勇気を与える映画……か?

 本作で描かれているのは、ある一日の話である。

 終盤、ペトルーニャは当然ながら釈放されるんだが、頑なに返すのを拒んでいた十字架を、警察署から出た直後に司祭に返す。ペトルーニャは別に十字架が欲しかったわけじゃなく、「女なんだから(取っちゃいけないんだから)返せ」という理屈に抵抗したということ。

 勾留されている間に、ある警察官がペトルーニャの行動を密かに称えるシーンがある。その警察官はなかなか思ったことを言えない自分を顧みて、「君のような勇気が僕にもあれば、、、」みたいなことを言う。そして、一瞬、ペトルーニャと手を握り合って、心を通わせる。釈放される際には、この警察官はペトルーニャに「また連絡するよ」と言っている。

 本作についてネットで「女性に勇気を与えてくれる」みたいに書かれているのを見たし、パンフにも同様の趣旨の寄稿が複数載っていたが、私はあまり同意できない。この日の出来事で、ペトルーニャの置かれた状況が変わることはないだろうし、せいぜい警察官の男性と親しくなって、もしかすると結婚とか、、、ということになるかも知らんが、本質的には彼女の中に抱えた問題は何も解決されるわけではない。折角の教育も、活かされる予感はない。

 その辺が、むしろリアルだよなぁ、と。勇気を与えてくれるどころか、絶望的な現実を突き付けられているように思えるんだよね。監督のインタビューを読むと、そういうつもりで作っていないのは明らかなんだが。

 絶望していないで打破せよ、と口で言うのは簡単だが、ペトルーニャが彼女の納得できる幸せを得るためにどうすれば良いかなんて、私には全く分からない。私はたまたま東京という都会で職を得て(一応)自立できているから、自由だし、彼女のような抑圧は表面的には感じずに済んでいる。けれど、私だってほんのちょっと何かが違えば、自立できなかったかも知れないし、好きでもない男との結婚生活を不本意ながらも維持しなければならない人生だったかも知れない。どの人の人生でも、今に至る色んなことは全て紙一重なのではないか? 昨今流行りの自己責任論は、強者の論理で、安易すぎる。

 性別や出自などの属性によらず、構造的な問題に阻まれることなく、自らの意思で生き方を選択できる社会って、やっぱりユートピアなんでしょうかね。本作を見ていて、それが実現されている国って、どこなんだろう、地球上に存在するんだろうか、、、、、と、ぼんやり考えておりました。

 

 

 

 

 

 

 


セクハラおやじは北マケドニアにも居た。

 

 

 


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へレディタリー/継承(2018年)

2018-12-07 | 【へ】



 以下、公式HPよりストーリーのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 グラハム家の祖母・エレンが亡くなった。娘のアニー(トニ・コレット)は夫・スティーブン(ガブリエル・バーン)、高校生の息子・ピーター(アレックス・ウォルフ)、そして人付き合いが苦手な娘・チャーリー(ミリー・シャピロ)と共に家族を亡くした哀しみを乗り越えようとする。自分たちがエレンから忌まわしい“何か”を受け継いでいたことに気づかぬまま・・・。

 やがて奇妙な出来事がグラハム家に頻発。不思議な光が部屋を走る、誰かの話し声がする、暗闇に誰かの気配がする・・・。祖母に溺愛されていたチャーリーは、彼女が遺した“何か”を感じているのか、不気味な表情で虚空を見つめ、次第に異常な行動を取り始める。まるで狂ったかのように・・・。

 そして最悪な出来事が起こり、一家は修復不能なまでに崩壊。そして想像を絶する恐怖が一家を襲う。

 “受け継いだら死ぬ” 祖母が家族に遺したものは一体何なのか?

=====ここまで。

 キャッチコピーが凄い。「現代ホラーの頂点」「新世代のエクソシスト」「ホラーの常識を覆した最高傑作」「トラウマ級の怖さ」……ちょっと煽りすぎでしょ。

 
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 某全国紙の映画評で、映画評論家の稲垣都々世氏に、こんな風に紹介されていました。「ホラーにはめっぽう強いが、この映画には震えあがった。「現代ホラーの頂点」との海外評も頷ける」と。、、、そんなこと言われたら、見るしかないじゃないのさ。

 ……というわけで、行ってまいりました。

 ちなみに、これからご覧になる予定の方は、モロモロの予備知識なく見た方が楽しめますので、ここから先はお読みにならない方が良いかと思います。あまりネタバレはしないつもりだけど、自己責任でお願いします。


◆確かに、面白い。

 本作の読み解きは、多くのサイトでされているのでそちらにお任せするとして、、、。

 なるほど、煽りまくるキャッチコピーだけあって、決してガッカリするような映画でないことだけは間違いない。文句なく面白い。ホラー映画にありがちな先が読める展開ではない。どっちに転ぶか分からない、非常にイヤ~~~~~な感じが終始作品を支配する。

 そのイヤな感じの最たるものが、“音”。これが本作の最大の特徴ではないかと。見ている者に一息つかせる隙がまるでないんだけど、それは終始、イヤ~な音が手を替え品を替え、鳴り続けているからではないかしらん。だから、この映画は絶対劇場で見た方が楽しめる。DVDだと、この不快感は多分半減してしまうね。

 鍵になる“音”もある。それが、非常に効果的に使われているので、ギョッとなる。こういうところの造りは非常に上手いとしか言いようがない。

 系統としては、ポランスキーの『ローズマリーの赤ちゃん』とかキューブリックの『シャイニング』とかかなぁ。ハネケの『白いリボン』のオマージュと思われるシーンもある。私はどれも大好物なので、本作も、雰囲気はなかなかgooでありました。ショッキングな映像は終盤まではほとんどない(序盤に1か所あるけどモロに映っているわけじゃないです)けど、だんだんこの『継承』というサブタイトルの意味が分かってくるのが気味が悪い。


◆家族ってホラー。

 テーマが“家族”ってのが良い。そう、家族って因果な関係だけに、拗れると恐ろしいのだ。これは、監督であるアリ・アスター自身も家族に係る問題で苦労した経験があるとのことで、そうだろうなぁ、と本作を見て納得。家族モノは、非常にホラーに向いているものね。絆だ何だと世間じゃ言っているけど、そんなキレイ事じゃ済まされない家族も世の中にはゴマンとあるのよ。

 そう、この『継承』というサブタイトルは、家族ゆえの、、、なのであります。つまり、もう生まれ落ちたときから逃れられないってヤツ。

 現実世界では、本作のようなモノを継承することは(多分)ないけれども、別のモノはイヤでも継承するわけで、それが、容貌であったり、体質であったり、癖であったり、環境であったり……。良きにつけ悪しきにつけ、いずれも自分の意思では選べないモノを人間は親から授けられて生まれてくるのだから。本作は、そういう抗えない遺伝的な“悪しき”ものに翻弄される人間を描いているとも言えるのでは。

 こんな顔に産んでくれたばっかりに、、、こんなアレルギー体質に産んでくれたばっかりに、、、な~んてことは、誰にでも一つや二つあるでしょう。それを、ホラーに仕立て上げたら、こういう作品が出来ました、、、みたいな。

 家族がテーマだから、当然、主たる舞台は彼らの住む“家”である。家、、、これもホラーの定番。本作の家も、なかなかのモンです。すごく広くて素敵な家なんだけど、何だか住みたくない感じのする家。そして、案の定、曰く付きの家。

 あと、アニーが作っているドールハウスというか、ミニチュアが、ある種のメタファーになっている。アニーも結局、運命づけられている人間なわけだから、彼女が作る、彼女の家のミニチュアは、彼女によって支配されている“家族”であり“家”であることを象徴している、のでしょう。

 そういった、小道具というか、いちいち細かい設定まで、非常によく考えられていて、映画作りの志の高さを感じられるのは嬉しい限り。


◆ラスト15分が、、、

 じゃあ、なんで6つしか付けてないのさ……、ってことなんだけど。

 終盤まで良い感じだったのが、ラスト15分が、私にとっては「ドッチラケ」だったのであります。え゛~~~、みたいな。『ローズマリーの赤ちゃん』みたいに、ニュアンスを感じさせる描写で終わらせてくれれば良かったのに。ちょっとハッキリ描きすぎなのがね、、、何かね、、、。

 なので、一気に怖さも不気味さも吹っ飛んでしまい、ちょっとグロ映像があるので一瞬ウゲゲとなるものの、あそこまでやっちゃうと、何か笑っちゃいそうになり、でも何となく笑っちゃうのは不謹慎な気がして笑うこともできず、何ともいたたまれない気持ちになってしまったのよ。

 ホント、そこまでがなかなか良い味わいだったので、ちょっと残念でした。

 でも、本作で一番怖いのは、アニーを演じるトニ・コレットの絶叫顔かも。ちょうど先週、ムンク展に行って、例の「叫び」を見たんだけど、ムンクもビックリな叫び顔のトニ・コレット様でした。彼女の演技が本作を支えていることは間違いないです。

 あと、懐かしのガブリエル・バーンも久々にスクリーンでお目に掛かり、ちょっと感激。『ゴシック』とか、また見たいわ~。

 序盤で死んでしまうチャーリーを演じたミリー・シャピロちゃん、素の画像を見ると、普通の可愛らしい女の子なんだけど、本作ではメイクのせいもあってか、かなりヤバい子供になっていました。ホラー映画の子供ってのは、怖さを増す存在として最強かもね。

 最終的に、真の主役であった長男のピーターを演じたアレックス・ウォルフ君は、もしかしてインド系かな? トニ・コレットとガブリエル・バーンの両親からああいう容姿の子が生まれるものなのかなぁ、、、などと見ながらぼんやり疑問に思ってしまった。けれども、ラストのオチで、そういう問題じゃないんだ、と納得。

 いろいろ確認したいシーンもあるので、もう1回は見るかな。劇場には行かないと思うけど。









こんなもの家族に継承させたおばあちゃん、酷すぎ。




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ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書(2017年)

2018-04-30 | 【へ】



以下、公式HPよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 国家の最高機密文書<ペンタゴン・ペーパーズ>。なぜ、アメリカ政府は、4代にわたる歴代大統領は、30年もの間、それをひた隠しにしなければならなかったのか―。

 1971年、ベトナム戦争が泥沼化し、アメリカ国内には反戦の気運が高まっていた。国防総省はベトナム戦争について客観的に調査・分析する文書を作成していたが、戦争の長期化により、それは7000枚に及ぶ膨大な量に膨れあがっていた。

 ある日、その文書が流出し、ニューヨーク・タイムズが内容の一部をスクープした。

 ライバル紙のニューヨーク・タイムズに先を越され、ワシントン・ポストのトップでアメリカ主要新聞社史上初の女性発行人キャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)と編集主幹ベン・ブラッドリー(トム・ハンクス)は、残りの文書を独自に入手し、全貌を公表しようと奔走する。真実を伝えたいという気持ちが彼らを駆り立てていた。

 しかし、ニクソン大統領があらゆる手段で記事を差し止めようとするのは明らかだった。政府を敵に回してまで、本当に記事にするのか…報道の自由、信念を懸けた“決断”の時は近づいていた。

=====ここまで。

 何やらもったいぶったあらすじですが、、、。やっぱし、スピルバーグはツボを心得ていらっしゃるねぇ。イヤミなくらい。

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 スピルバーグ&メリル・ストリープにトム・ハンクス、、、と聞いただけで、あんまし見たくなかったんだけど、昨今の(日本の)政治問題に絡めて、あちこちで取り上げられているのを見聞きして、何となく見てみようかなぁ、と思って劇場まで行ってしまいました。


◆肝心なことが描かれていない、、、と思う。

 なかなか面白かったです。色々と、へぇー、と思いながら見ていました。

 このペンタゴン文書を最初にすっぱ抜いたのはNYタイムズだったんですね。それを、ニクソンに潰されそうになって、ワシントンポストが引き継いだ格好になったと。

 ニクソン、、、って、もしかして一番映画化されている大統領じゃないですか? ケネディの方が多いのかな。調べてないので分からないけど、あんまりどれも良い描かれ方はされていない印象。まあ、辞め方がああだから致し方ないのかも知れないが、、、。『大統領の陰謀』でもそうだったし、ある意味、歴史に残る大統領には違いないわけで。

 本作でももちろん、ニクソン=悪人、みたいな感じです。たまに出てくるのはホワイトハウスで電話をしている後ろ姿だけなんだけど、それがまた、何となくよく似ている感じなのよ。

 まあ、あれがあってこれがあって、結果的に、ポスト紙が文書の内容の多くを暴露した、ということになり、メリル・ストリープとトム・ハンクスにとってはメデタシメデタシのハッピーエンディング。よござんした。

 私が一番不満に感じたのは、メリル・ストリープ演じるグラハムが、並み居る役員たちの反対を押し切ってまで社運を懸けてペンタゴン文書を掲載することを決意する過程。何が彼女を決意させたのかがこのストーリーでは一番キモになるはずなのに、そこが分からない。というか、ちゃんと描かれていない気がする。

 最初から、彼女には掲載する意思はあったように見えるし、確かに社運が懸かっているけど、そのことに対する怖れとか、さらにまた、極秘文書を載せることが起こす影響に対する畏れとか、あんまし感じられないんだよねぇ。役員たちに「掲載するわ!」と毅然と言い放つだけで、それで“彼女は歴史的偉大な決断をしたんだ!!”と言われても、、、。

 そもそも、このグラハムをイイ人に描きすぎなんだよね。人としてイヤらしいところがゼンゼンない。重要人物なんだから、もっと多面体で描いて欲しい。彼女は素人だけど色々頑張って、大きい決断したんだよ、偉いでしょ~。と言っているだけの映画な気がする。きっと、現実には綺麗事じゃすまない諸々のがあったはず。そういう汚い部分はぜ~んぶニクソンに押し付けて、ポスト紙の人々は皆善人で正義でございますよ、って言われても、私みたいなひねくれ者は、素直に感動できまへん。

 トム・ハンクス演じるベン・ブラッドリーが、「我々(メディア)は国民に奉仕しなくてはならない」みたいなセリフを言うんだけど、なんか、これもクサいというか。どっちかというと、反ニクソンだったんじゃないかね? 別にそれが悪いと思わないし、あまりにも正義の味方みたいな描き方もいかがなものか、と。

 まあ、とにかく、ちょっと食い足りない感は否めませんでした。


◆残念ながら、イマドキは文書くらいじゃ権力者は脅かせない。

 本作は、スピルバーグが、(現政権批判の意味合いを込めて)急いで作った映画らしいけれども、大体、自分に都合の悪いことはぜーんぶ“フェイクニュースだ!!”で済ませちゃうような人を相手に、いくら映画で批判したって、あんまし効き目なさそうだよね。そういう人種は、ある意味、無敵なわけで。真実を畏れるという感性は、やっぱりそれなりに知性と品性を持ち合わせていないと生まれてこないでしょ。バカは怖いモノなしってのは、世の常です。

 日本でもタイムリー、なんて言ったり書いたりされているけど、どうなのかね? 有名人のコメントとか、もろにそういうのもあるけど、正直、なんだかなぁ、、、と思う。だいたい、そう感じてもらいたい当の本人は、ゼンゼンそんなこと意に介してなさそうだし。蛙のツラに小便じゃない?

 昨今の文書関連の問題を見ていてつくづく思うのは、どんなに(権力者にとって)ヤバい文書が出て来たって、当人たちが「知らぬ存ぜぬ」を通せば、何だかんだ有耶無耶になってしまう、っていう素晴らしい前例が出来たなぁ、ってこと。のらりくらりかわせば、99.9%クロな出来事もなかったことにできる。これ、マジで、フェイクニュースだって喚いている人たちより、よっぽど質が悪いし、怖ろしいと思うねぇ。ウソも100回言えば、真実になることを証明して見せられたんだから。

 文書は、もはや印籠にはならない。だから、本作で描かれていることは、もう、今の日本じゃ通じないワケよ。文書くらいじゃダメってこと。

 じゃあ、何なら印籠になるのかね? 音声データ? それだって、「自分の声かどうか分からない」って言っちゃえば、有耶無耶になる。今時、動画だって簡単に捏造できる時代ですよ? もはや、権力者に突き付けて崩せる印籠なんて、あるんでしょーか?

 こんな映画作って“権力者に一矢報いた”などと少しでも制作陣たちが思っていたら、それは、大きな勘違い。……と思うが、それでも、アメリカは大手がこういう映画を作るだけ、まだ健全さが残っており、それはメチャクチャ羨ましい。日本では、大手は絶対手を出さないはずだからね。そもそも、日本のプロダクションは、日本人を信用しなさすぎだと思う。権力批判モノを作って、叩かれることばかり怖がる。しかし、市民は意外に冷静に受け止めるんじゃないかねぇ。それくらいにはこの社会も成熟していると思うよ? 自主規制ばっかしてバカみたい。

 そんなだから、権力者に舐められるんだよ。少し前なら、恥ずかしくてとっくに表舞台から降りていたはずの人々が、堂々と大手を振って歩いている。

 ノー天気映画ばっかり国民に見せているから、国民も総白痴化しているんだろうね、多分。何が思考力だよ、何が英語力だよ、バカバカしい。

 もし、今回の文書問題が日本で映画化されたら、今なら、かなりの確率でヒットするはず。儲かりまっせ。


◆その他もろもろ

 メリル・ストリープは、正直、もう見飽きた。他に優秀な役者さんはたくさんいるはずなんだから、もっと違う人を使って欲しいなぁ。トム・ハンクスは、『ブリッジ・オブ・スパイ』のドノバンと似た印象。このお二人、意外にも初共演だとか。

 個人的に印象的だったのは、バクディキアンを演じた、ボブ・オデンカーク。とても渋くてカッコ良かった。必死で文書を手に入れ、記事化することに心血を注いだ人。ベン・ブラッドリーよりも彼の役割の方がかなり大きかったような。

 スピルバーグ作品は、やはりちゃんとエンタメとしてツボを押さえているし、こういう政治ドラマにしてはとても分かりやすいし、盛り上げ方も音楽など効果的に使っていて巧みだし、、、、。

 スピルバーグ&トム・ハンクスの『ブリッジ・オブ・スパイ』と同じで、どの要素もオールAだけど、A+が1個もない、という印象。ラストが、『大統領の陰謀』のオープニングにつながる演出は良かったけど。

 いえ、良い映画だと思いますよ、もちろん。見て損はないと思います。






厚顔無恥な人には文書も意味がないという現実が怖い。




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ベロニカとの記憶(2015年)

2018-02-11 | 【へ】



 トニー(ジム・ブロードベント)は、定年後、趣味の延長で小さな中古カメラ店を営み、離婚した元妻や娘ともそこそこ良い関係を保って穏やかな日々を過ごしていた。

 そんなある日、遠い昔の初恋の女性ベロニカの母親セーラ(エミリー・モーティマー)から、「添付品をあなたに遺します」と書かれた遺言がトニーの下に届く。けれども、肝心の添付品がない、、、。トニーが弁護士に確認すると、その添付品はセーラの日記だと分かる。しかも、その日記を、娘のベロニカがトニーに渡すことを拒んでいるという。

 これをきっかけに、トニーは若かりし頃の自分と向き合うことに、、、。ベロニカに恋をしていた頃の自分の本当の姿とは、、、?

   
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 シャーロット・ランプリングが出演ということもあり、封切り時から見に行きたかったのだけれど、何かとバタバタしていてようやく見ることができました。彼女は、現在の老いたベロニカ役。……そんなに期待していたわけじゃないけど、思っていたのと(良くない意味で)違う感じの作品でした、、、。 


◆記憶の上書きって、そこまで都合良くできるものか??

 なぜ、セーラは、自分の娘ではなく、娘の大昔の恋人に自分の遺言を託したのか。この辺りの謎解きが本作のタテ糸となっているんだけど、謎解き自体はそれほど意外性はない、という感じ。……まあ、フツーに考えて、そのようなものを赤の他人に託すってことは、娘に知られたくないことが書かれているから、ってことでしょうな。そして、その通りの展開になるわけで。

 トニーとベロニカは、ベロニカの家にトニーが泊まりに行くほど親しくなってもなかなか一線を越えないまま、そのうち、トニーの友人であるエイドリアンが、「ベロニカと親しくなった」と告白の手紙をよこしてくる。恋人同士のつもりだったトニーとしては驚くが、「ゼンゼン問題ないよ!」などと書いた葉書を返し、手元にあったベロニカとの写真は全て、ベロニカとの思い出の場所である橋から川に投げ捨てて気持ちを整理した。

 ……というのが、トニーの“ベロニカとの記憶”なんだけど、事実は全く違うものだったことが後から分かる(その事実の内容は敢えて書きません)。

 どうして、トニーがそんな全く異なる記憶をしていたか。、、、それは、その出来事の直後に、エイドリアンが自死したから。エイドリアンが自死した理由はよく分からなかったが、結局、ベロニカともそれっきりとなっていたのだった。

 誰でも、自分に都合の悪いことは、勝手に脳内変換して記憶するということはしているはずだけれども、こんな重大な事をここまでキレイに記憶を書き換えているというのは、果たしていかがなものか。人一人亡くなっている出来事でショックによる健忘症とでも考えれば良いのか?

 私もイイ歳になって、昔のことを色々思い出しては気絶しそうになることが度々あり、そういうときは、都合の悪い部分に関して記憶喪失になりたいとさえ思うほどで、むしろ、恥ずべき行為ほど鮮明に覚えている気がする。もちろん、その記憶にも修正が掛かっており、事実はもっともっと悲惨なものかも知れないが、少なくとも、トニーほどあからさまな“記憶喪失”は、ちょっと信じがたい。

 でも、、、本作を見て思い出したのだけど、私がフェイスブックなどのSNSを絶対にやらない理由(詳細は『ソーシャル・ネットワーク』に書いたけれど、要は、自分が誰かを知らないうちに傷つけたことがないという確信がない、ということ)を知り合いに話したところ、「今までの人生、そんなヒドいことばっかしてきたの? 自意識過剰じゃない?」と、もの凄く脳天気に笑いながら言われ、それがまた、かなりショックだったのよねぇ。確かに、自意識過剰かもだけど。(脳内変換したのではなく)封印した記憶を掘り起こされるのって、イヤじゃないの? というか、掘り起こさせるのがイヤだ。SNSとは、そういう封印した(恥ずべきor辛いor哀しい)記憶を問答無用で開封させてしまうところが、私にとってハードルが高いのだけれど、、、。これ、書き出すと長くなるからこの辺でやめときますが。

 ただ、あまりに辛いことに遭遇すると、確かに、過ぎ去ってからその時期を振り返ったとき、あまり思い出せないことが多い、というのも事実。辛かった、ということは覚えているけど、その頃に自分が何をしていたかとか考えていたかとか、あんまり覚えていない。多分、辛すぎて忘れようとする脳の作用なのかも知れない。

 しかし、トニーのように、自分の恥ずべき行為をあそこまでキレイに別の記憶に書き換えてしまうのは、やっぱりちょっと違う気がするのよね。ううむ、、、この辺りの展開を受け容れられるか否かで、本作への感想もゼンゼン違ってくるんでしょう。私はちょっと、受け容れられないクチです。


◆トニー、嫌い、、、。
 
 ……ということを脇へ置くとしても、正直言って、私は、現在の老人となったトニーが、非常にデリカシーのない、図々しい自己チュー男に感じてしまい、ハッキリ言って嫌悪感すら抱いてしまった。

 例えば、トニーの娘・スージーが出産を控え病院に駆け込んだ際、別れた妻が後からやってくるんだけど、その妻に、ベロニカのことをしゃべったり(時と場所をわきまえろよ、、、)。ベロニカに冷たくあしらわれた後、ベロニカをつけ回したり、それだけにとどまらず、ベロニカと一緒に歩いていた青年に別の場所で偶然を装い声を掛けたり(図々しいなぁ、、、)。その青年を、ベロニカとエイドリアンの息子だと勝手に思い込んだり(相変わらず思い込み激しいなぁ、、、)。

 ダメ押しは、終盤。自分の記憶とは全く異なる事実を突き付けられて、反省したのは良いとしても、ベロニカに謝罪の手紙を書いてそこに「自分にできることがあったら言ってくれ」とか「自分の店に来てくれ」とか書いたり(デリカシーなさ過ぎ、、、)、別れた妻に「自分勝手だった、許してくれ」などと、それこそ勝手な謝罪をしてみたり(どこまで自己チューなんだ、、、)。ゼンゼン反省してないやん。

 この終盤は、原作にはなくて、映画化に当たって創作されたものだとか。そうだろうなぁ。こんなゆるいエンディング、ちょっとセンスが悪い。これで、トニーの株をさらに下げたと思うなぁ。ここで、ああ、良かったね、と思う人もいるんだろうけど、、、。どーだか。

 若い頃のトニーはフツーの好青年だと思って見ていたけど、あんまりな記憶喪失ぶりに、どんどん印象が悪くなるし。

 若かりしベロニカも、なんだかいけ好かない。トニーの心をもてあそぶみたいな言動にイラッとくる。それに、正直言ってあんまり魅力的な少女に見えない。可愛いけれど、なんというか、それだけ、みたいな。カメラが趣味で、フランス語に興味があって、、、みたいな描写もあるんだけど、今一つベロニカの魅力につながっていない。

 ベロニカの母親・セーラは、意味深な存在として描かれており、正直なところ、この辺で展開がうっすら予想がついてしまった。まあ、別に、それで見ていて興味が削がれるわけではないので構わないんだけどね。

 とにかく、登場人物がみんな、ちょっとね、、、、という感じで、あんまし好きになれない人ばっか、ってのがツライとこ。


◆その他もろもろ

 シャーロット・ランプリングの出番は少なくて、併せて10分くらいかしら。もうちょっとあったかな。、、、でも存在感はさすが。相変わらず、クールビューティでござんした。彼女の冷たい眼差し、シビれるわぁ~。

 若いベロニカを演じていたフレイア・メーバーという女優さん、可愛いけど、長じてシャーロット・ランプリングってのは、あまりにも雰囲気が違いすぎるというか、、、。もう少し、キャスティングを考えても良かったんじゃないのかしらん。フレイアちゃんは、そばかすだらけの小悪魔・ビッチタイプで、クールとはゼンゼン違う感じだったから。

 肝心の、若いトニーを演じていたビリー・ハウルは、なかなか好演。老いてジム・ブロードベントになる、ってのは、良いのか悪いのか、、、。ビリーくん、まあまあ可愛い顔しているし、演技もgooなので、今後も活躍するかもね。

 スージー役のミシェル・ドッカリーは、「ダウントン・アビー」以来。貴族のお嬢様の方がハマっていたような。本作では、あんましスージーのキャラがよく分からない脚本で、ちょっと存在感薄かったかなぁ。あと、「ダウントン・アビー」で、最終版にミシェル・ドッカリー演じるメアリーと結婚したタルボット役のマシュー・グードも、トニーの学校の先生役で出ていました。

 原作は、『終わりの感覚』というタイトルの小説とのこと。珍しく、邦題の方がイケてると感じたのは私だけ?



 






実の父親にマタニティー教室に一緒に来てもらいたい娘って珍しくない?




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ベルリン・天使の詩(1987年)

2016-05-13 | 【へ】



 ベルリンの街にも(?)天使がいる。天使ダミエル(ブルーノ・ガンツ)は、ある日、サーカス小屋でブランコ乗りの女性マリオンを見て、一目で恋してしまう。以来、人間になりたいと思うようになる。

 天使が人間に恋をする……、それはつまり、天使としての死を意味する。

 それでも、ダミエルは、自らの意思で晴れて人間になる。それまでモノクロだった世界に様々な色がつき、寒さを感じるようになり、コーヒーを味わうことができるようになる。そして、ダミエルはマリオンの前に恋する一人の人間の男として現れる。

 
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 のっけから恐縮ですが、実にくだらない自分語りが少々冒頭と末尾にありますので、作品についての感想のみ読めればよいという方は、最初と最後の項目は読み飛ばしてください。


◆本作にまつわるどーでもよいハナシ

 本作を見るのは、3度目。初回は、公開時に劇場で見ています。もう30年前ですなぁ、、、。日比谷の「シャンテ シネ」でした。今回、BSでオンエアされていたので録画して見ました。

 最初に見た時は、まだ学生だったわけで、正直、今一つピンと来なかったと思います。予備知識なく見に行ったので(良いらしいよ、という先輩の言を聞いただけで見に行った)、始まって最初の15分くらいは??だったように記憶しています。ただ、不思議と退屈だとか眠いだとかは全くなく、ブランコ乗りの女性が出てきた辺りから引きこまれ、気付いたら終わっていた、、、という感じでした。

 実は、このとき一緒に行った相手が、当時、大好きだったQ男で、私が強引に誘って見に行ったわけですが、このQ男とは、その後、思いもよらないことが次々に展開し、なんと15年近い付き合いとなった挙句に、最悪な幕引きを迎えたという経緯があったので、正直、その後、この映画にまともに向き合うことが出来ずに来てしまいました。、、、ホント、鼻くそ以下の自分語りで恐縮です。でもまあ、私にとって本作とこの話は切り離せないもので、相すみません。

 ……で、2度目に見たのは、10年前。やはりBSでオンエアしているのをたまたま目にして、そのままラストまで見てしまったのでした。、、、が、見終わって、Q男についてまだ心の整理が出来ていないことを自覚させられ、がーーん、、、となり、よせばいいのに、みんシネに茶化すようなレビューを書いて自分を誤魔化すのに必死だったのでした、、、。アホですね。

 今回、見てみようと思ったのは、Q男についてのモロモロは多分もう大丈夫という確信があったし、オバハンになった今見てみたらどう感じるだろうか、という興味もあったからです。

 というわけで、やっとこさ本題の、作品に対する感想です。


◆天使とは、、、

 こんなに分かりやすい作品だったのか、、、というのが、今回見終わっての正直な感想です。最初見た時は、別に分かりにくいというほどではないけれど、うーん、、、みたいな感じだったわけで、これって、年の功なんですかね。

 “分かりやすい”という言い方は語弊があるかも知れませんが、 ストーリーは極めてシンプルで明快でしょう。だからこそ、受け止め方は人それぞれになるかと思いますが、、、。

 天使は、子どもと一部の大人にしか見えない存在で、人間たちの心の声が聞こえて、色彩のない世界に生きていて、空間移動は自由にできて、、、。という、割と類型的な設定です。純粋無垢、というと陳腐だけど、邪心がない存在の象徴、みたいな感じでしょうか。

 印象的なのは、地下鉄の中で人生に悲観して「どうせ破滅だ!」とか心の声が言っていた男に、ダミエルがそっと優しく顔を近づけると、ふと気持ちが軽くなって前向きになって、「どうした? まだ大丈夫さ。望みさえ捨てなきゃ何とかなる」という心の声に変わるところ。一方、ダミエルの親友、天使カシエル(オットー・ザンダー)が、自殺しようとビルの屋上にいる若者に気付いて、若者の背後に寄り添うのだけれど、若者は屋上から飛び降りてしまうというシーンも。

 天使は、つまり、別に万能の救世主なんかじゃなく、基本的には無力で、存在意義がよく分からないのだけれど、時にはなぜか人の心に何かを感じさせる。、、、まあ、あまり天使とは何かを追及することに意味はないと思いますが。


◆ピーター・フォーク

 ピーター・フォークは、彼自身の役で出演しています。そして、彼は、“元・天使”という設定。「見えないけど、いるんだろ? 見えないけど、感じる」と言って、天使ダミエルにコーヒーを飲みながら語り掛けるシーンが、なかなか好きです。彼は、見えないダミエルに向かって「手がかじかんだらこうしてこすりあわせると、暖かくなって気持ちいいんだ。君と話がしたいなあ。こっちにおいで。顔が見たい」と話し掛けて、握手を求めます。

 ダミエルが人間になる決意を固めたのは、彼とこの会話をしたからでしょう。

 ダミエルが人間になって真っ先に会いに行ったのが、元・天使のピーター・フォークです。「もっと背が高いと思った」などと彼に言われながら、この世での処世術をちらりと教示してもらったりして、ダミエルは嬉しそうにしています。

 ダミエルと、ピーター・フォークの絡むシーンは、どれも心温まります。


◆なぜ僕は僕で、君ではないのだろう?

 こういう映画に対して、“何が言いたい作品なのか”をネチネチ語るのは野暮ってもんでしょう。別に、そんなこと、本作ではどーでも良いという気がします。日常があって、人間の営みがあって、そこには、良いことも悪いこともごちゃ混ぜにあって、、、てことが、天使という存在を通して描かれているんだと思います。

 天使ダミエルが語る詩に、「なぜ僕は僕で、君ではないのだろう?」というのがあります。これ、私が子どもの頃、しょっちゅう考えていたことでした。「私」という存在、「あなた」という存在、別々の存在って何なんだろう、、、? と、不思議で不思議で仕方ありませんでした。……というより、今でも不思議に思うことがよくあります。

 同じ空間にいて、手を繋げば、互いにそのぬくもりを感じるけれど、あくまでも別々の存在。その空間から出て、別々の方向に歩きだしたら、もう別々。さっきまでそこにいたあなたは、今どこで何しているのか、私にはわからない。

 ……という、当たり前のことが、とても不思議です。だから、この詩を聴くと、何というか、心にじゅわ~~っと生暖かいものが広がる感じがするんです。


◆美しいベルリンの街並み

 本作は、そのタイトル通り、ベルリンの街並みがたくさん出てきます。今はなきベルリンの壁。中でも、西ベルリン側の、サイケな落書きだらけの壁が印象的です。この2年後、壁が壊れるなんて、本作を初めて見た時、想像もしていませんでした。

 広い図書館が何度か出てくるのですが、この図書館の建物がすごくステキです。図書館の静寂と、人々の心の声と、天使たち、、、が画になっています。モノクロが効いてるんだよなぁ。


◆元祖“意識高い系”映画

 本作は、公開当時、なんというか、今でいうところの“意識高い系”の人たちがこぞって絶賛していたことから、“気取った映画”みたいに受け取られる向きもありましたねぇ。そんな、本作には何の責任もないことでヘンな宿命づけられてしまって、ちょっと気の毒というか、、、。穿って見られていたのは否めないと思います。

 ただまあ、確かに好き嫌いが分かれる作品だとは思います。私も、ダラダラ長いなぁ、と感じる部分もあります。

 それを踏まえて、でも、嫌いじゃないです。気取った映画だとは最初から思わなかったし、30年後に見てもやはり思わなかった。ダラダラも、人間の普通の生活って、こういうダラダラというか、傍から見れば無意味なことの積み重ねだもんなぁ、と思えば、そういう描写もアリかな、と。

 最初見た時にアンチになった方も、今見てみると、案外フツーに見られるかも知れません、、、。


◆再びどーでもよいハナシ

 ちなみに、Q男は、眠ることなく最後までちゃんと見ていて、中でもダミエルが人間になって、手についた赤い血を見て感激するシーンに、いたく感じ入った様子でした。その後、Q男のことを知れば知るほど、ヒジョーに見当違いな映画に誘っていたことが分かりましたけれど。

 映画に対する感想や印象って、作品によっては、誰と見たか、いつ見たか、どんな境遇で見たか、ってことに、ヒジョーに左右されるものなんだなぁ、とつくづく思います。





あなたのそばにいるあの人は、実は元・天使かも知れない。




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ベルヴィル・ランデブー(2002年)

2015-09-02 | 【へ】



 フランスのとある村で暮らすおばあちゃんと孫のシャンピオン(シャンピオンの両親は亡くなったらしい)。

 内気な(?)孫のため、おばあちゃんは、まず子犬をシャンピオンにプレゼントする。シャンピオンは喜ぶが、どうもイマイチらしい、、、。一体、この孫の興味のあるものは何なのか。

 テレビでピアノを弾いている男の画面に見入る孫を見て、おばあちゃんは埃を被ったピアノを孫に弾かせようとするが、やっぱりイマイチらしい。

 が、ある日、孫のベッドメイキングをしていたら隠されていたノートを発見したおばあちゃん。ノートには自転車の切り抜きが一杯。そうか、孫は自転車に興味があるのか、と、プレゼントしたのは三輪車であった。

 それから幾星霜。孫は自転車競技の選手として、ツールドフランスに向け、特訓中。孫の特訓をしているのは、あのおばあちゃん。でも、シャンピオンは、どうもツールドフランスではお呼びでないレベルらしい、、、。そして、そこから話は思いもよらぬ方向へ、、、。

 見ていて不快感を覚えるほどのデフォルメキャラと世界観、そして抑圧されたシャンピオン……。なんか、ぐったり、、、。

 
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 シルヴァン・ショメ作品です。まあ映画通というかアニメ通の方々は、本作からショメ作品は入り、『イリュージョニスト』(アニメ)→ 『ぼくを探しに』(実写映画)と進むんだと思いますが、私の場合は、 『ぼくを探しに』がショメ作品との出会いでして、逆流して本作へ辿りついたので、ちょっと受け止め方がヘンかも知れません。

 というのは、本作を見て、ショメさんの生い立ちがもの凄く気になってしまったのです。この人、実は幼少期、ものすごい抑圧されて育ったのではないでしょうか。 彼の詳しい生い立ちが紹介されているものが見当たらず、『ぼくを探しに』のパンフも改めて読み直したのだけれど言及はないし、本当の所は分かりませんが、もしかして、幼い頃に両親を亡くされているのかも、、、。

 なぜなら、『ぼくを探しに』と、本作の少年の設定が驚くほど似ているからです。どちらも両親が既に亡く、本作では祖母に、『ぼくを探しに』では伯母姉妹に育てられている少年が主人公です。まあ、本作の真の主人公は、おばあちゃんですが。

 でもって、どちらの育ての親も、ものすごく少年を抑圧しているのです、しかも善意でね。これがものすごく厄介な影響を少年に与えているのも同じ。何か、見ていて苦しくなってきてしまった。『ぼくを探しに』の主人公は、言葉がしゃべれなくなって、幼少期の記憶も失っています。もちろん、特に記憶の喪失については伯母姉妹だけの影響ではないんですけどね。

 で、本作ですが。アニメとしての云々は後述するとして、、、。

 シャンピオンが閉じこもりがちな少年なのは、どう見たって、幼いうちに両親を失っていることが大きく影響しているからであり、おばあちゃんに三輪車をプレゼントされても、おばあちゃんの家の庭でおばあちゃんの傍でぐるぐる・ぐるぐる三輪車で円を描くように回っているだけです。外へ自発的に出ていこうとしない子です。

 そして、青年になったら、おばあちゃんに尻を叩かれて自転車競技のためのシゴキを受けている。おばあちゃんは三輪車に乗って笛を吹き、シャンピオンが漕ぐ自転車に傘の柄をひっかけて急こう配を上って行く、、、。つまり、シャンピオンにとって、とてつもなく重い存在になっている、ってことじゃない? しかもシャンピオンはそれに気づいていない所がまた哀しいというか、可哀想というか。

 本作の評は、概ね、このおばあちゃんの孫を思う気持ちゆえの豪快な冒険譚が好意的に解されているものが多いのですが、私にはとてもそんな風に受け止められませんでした。ツールドフランスで、全然お話にならなかったシャンピオンは、(アメリカと思しき)異国のマフィアに誘拐され、異国に連れ去られますが、おばあちゃんは海を渡ってシャンピオンを救出に行きます。まあ、救出に行くのは分かるけれど、、、。

 青年になって以降のシャンピオンは、もうほとんどキャラとしては抹殺された存在です。どこまでも受身な存在としてしか描かれていない。マフィアの賭博道具とされ、ひたすらエアロバイクを漕いでいるだけ。意思も何も感じられない。これはつまり、「生きている」のではなく「生かされている」ということ、ただの道具として。青年シャンピオンの目は、死んでいます。

 最終的に、おばあちゃんは孫を救い出すことに成功しますが、ラストシーン、老いぼれたシャンピオンはおばあちゃんの家に一人でいます。壁にはおばあちゃんと犬の写真が、、、。彼の最後のセリフは「おしまいだよ、おばあちゃん」。もうこの世にいないおばあちゃんに言うのです。……そう、彼は、独りなのです。

 彼の人生は、一体何だったのか。ものすごく暗い気持ちにさせられました。おばあちゃんはいいですよ、そりゃ。孫をずっと手元に置いて、愛していると思って生きていたんでしょうから。しかし、シャンピオンは、おばあちゃんの方だけを見ていた人生で、果たして彼にとってそれが意味のある人生だったと言えるのか。考えようによっては、それでも彼は十分幸せだったとも言えるでしょう。でも、人生とは、詰まる所、自分のために生きてなんぼだと思っちゃうのですよ、私は。

 シャンピオンにとって、彼の人生の何分の1が彼自身のために生きたと言えるのか。そう思うと、私はおばあちゃんが憎らしくてたまらない。あのメガネを直す仕草、無茶苦茶ムカつくんです。ツールドフランスを目指して特訓したのは本当に彼自身のためなのか。もしかしたら、彼は、両親が亡くなった瞬間からもう、彼自身のために生きることを止めざるを得なかったのではないか。そんな風に思えて切ないのです。

 ラスト、老いぼれシャンピオンの背中にエンドマークが出る前に、“両親に捧ぐ”という献辞が出ます。これが意味深です。ショメ監督のご両親、健在なのでしょうか。それとも、、、。

 そんなわけで、ショメ作品の最初に本作を見ていたら、ゼンゼン違う感想だったと思うけれど、逆流したせいで、イロイロと屈折した見方をしてしまったような気がします。

 アニメ映画としては、本作の世界観が私は、あまり好きじゃないかも。キャラも、意図は分かるけれども、ちょっと不快感を覚えるほどのデフォルメで、正直、終始嫌な気持ち、、、というか、気持ち悪いと思って見ていました。素晴らしいんですけどね、その世界観も、それを表現する手法も音楽も。それはそうなんですが、私の感性には合わなかったです。『イリュージョニスト』の方が好きだなぁ。

 特典映像で、ショメ監督と高畑勲の対談があったけど、な~んか話が噛み合っていないような。そこでショメ監督は、とにかく既視感のある作品を作りたくなかった、観客を裏切る展開にすることだけを考えた、みたいなことを言っていました。まあ、確かに、ストーリーは見ている者を裏切る展開になっています。でも、気持ち良い裏切られ方じゃなかったです、私には。ひたすら、苦しかった。

 あ、でも、オープニングのショーのシーンは面白かった。アステアやジョセフィン・ベイカーが出てきたのはビックリというか、驚きました。動きも面白い。あと、音楽はホント、素晴らしい。音楽だけ聞いていたら、十分楽しめると思います。

 ショメ監督、もしかして、心に結構深い闇を抱えていらっしゃるのでは。もちろん、それをクリエイティブなエネルギーに昇華させているのでしょうけれど。次作での設定が、ちょっと見ものです。見るのが怖いような、、、。





世界観も絵も話の内容も屈折し過ぎで苦しい




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ベルファスト71(2014年)

2015-08-27 | 【へ】



 北アイルランドのベルファストに派遣された若きイギリス軍二等兵士ゲイリー・フックは、現地のアルスター警察を補佐し敵対派の家宅捜索の護衛をすることに。敵対派を刺激しないため、軽装備で現地に入ったゲイリーたちだったが、アルスター警察の捜索は厳しく乱暴なもので、それに刺激された住民はゲイリーたちの部隊を取り囲み、暴動に発展してしまう。

 そのどさくさで少年にライフルを奪われたゲイリーは、少年を追いかけて部隊からはぐれてしまった挙句、反対派の過激集団に命を狙われ逆に追いかけられることに。ゲイリーは、逃げ惑ううちに、反対派の街中で完全に迷子になってしまう。どうにか追っ手をまいたものの、果たして彼はこの敵の巣窟の中から逃げ出せるのか……!

 
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 アイルランド紛争の映画は、敵味方が入り組んでいるので、集中してみていないと分からなくなるんだけれど、本作もそうでした。99分の間中、ずっと緊張を強いられる。

 まあ、とにかく、もの凄い臨場感です。カメラワークとか、あんまし詳しくないけど、凄いのです。よく撮ったなぁ、と感心します。ゲイリーが迷子になることになった最初の逃走シーンですが、細い路地をあっちへ曲がりこっちへ曲がりするんだけど、もうこれがドキドキものです。敵もすごいしつこく追いかけてくる。怖いのなんの。逃げるゲイリーは丸腰ですからね、なんつっても。追っ手は拳銃持っているんです。

 途中、親イギリス派の少年が助けてくれて、その少年とのささやかなふれあいで、ほんの少しホッとする時間もあります、一応。

 が、しかし、そんなのは一瞬で吹き飛ばされてしまう。そう、まさにゲイリーと少年のいたパブは、大爆破に遭ってしまう、、、。さっきまで元気いっぱいだった少年の体は、、、。

 ゲイリーも脇腹に深い傷を負い、気を失って倒れているところを助けたのが、カトリック派の元衛生兵の男エイモンとその娘。敵の本拠地の、しかもど真ん中のアパートに図らずも入り込んでしまったのでした、ゲイリーは。

 ・・・で、あーなってこーなって、まあ、結局ゲイリーは助かるのですが、このエイモンに助けられてから、自分の営舎に戻るまでが、本当に恐ろしいのです。これは、ここで説明してもほとんど意味がないので、実際に見るに限ります。

 アイルランド紛争の映画を見ると、いつも思うのだけど、同じ国の人同士が殺し合うって、やっぱりちょっと想像を超えた話です。世界中には珍しくない話でしょうが、思想信条の違いが、縺れた挙句に殺し合いに、、、。本作を見ても、本当に、不毛そのものです。誰も何も得ることもなく、ただただ命を落としていくだけなのです。これこそ、不毛でしょう。

 本作は、メッセージ性とかそういうものは一切前面に出ていません。ただ、ひたすらゲイリーの脱出劇を描いている「だけ」です。サスペンス映画、あるいはスリラー映画と言っても良いかも知れません。ネタとしてもいわゆる実話ものではなく、完全なフィクションだそうですし。だから、アイルランドの悲劇、みたいな感じは全然ありません。どっちに義があるとか、そういう描き方も全くされていません。ただただ、自分たちの主張のためにお互いがお互いの敵をやっつける、それだけです。だからこそ、より不毛感、虚無感に襲われます。

 戦争(紛争)なんて、結局こんなもんだわ。背景? 理由? そんなもん知らんわ。殺らにゃ殺られてまうだけだがや(なぜか名古屋弁) ・・・みたいな。

 あんまり予習しなくても分かりやすいとは思いますが、見ている間は集中力が必要です。どっちがどっちか、分かんなくなりそうなんで。見終わった後、どっと疲れるかもです。私は疲れました。





こんなの見せられると、饒舌な安倍談話が無意味に思える。




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ヘルタースケルター(2012年)

2014-06-28 | 【へ】

★★★☆☆☆☆☆☆☆

 制作に携わった多くの方々、特に、主役を演じた沢尻さんには申し訳ないけれども、本作こそ、THE「どーでもよい映画」と言ってしまいたくなる、恐ろしいほどくだらない作品でした。

 原作は未読ですが、これはやり方次第でいくらでも面白く作れた作品だと思うのです。テーマは普遍的なものだし、沢尻さんは押しも押されもせぬ美女で華もある、脇を固める俳優陣も超豪華、ってことで、こんだけ恵まれた素材を手にしながら、このつまんなさは、これいかに。

 もしかして、本作はブラックコメディーのつもりで撮られたんですかねぇ? シーンにそぐわぬクラシックBGMとか、ヒジョーにシュール感があって、もしやこれはコメディーのつもりか、と思わざるを得ませんでしたが、それにしちゃぁ、全体のグロテスク感は中途半端、大森南朋の役に至っては存在意味すら不明、ということで、見ている方は完全に置いてけぼり状態な訳ですが、、、、はて。

 まぁ、物語からイメージする写真集を作るのとは違うのですから、画にこだわるのはもちろん結構ですが、肝心要の「映画作品」にすることにもう少しこだわっていただきたかったですねぇ。いっそ、ヘンにセリフとかストーリーとか考えないで、あくまでイメージ映像だけでつないでアート系を狙うという手もあったと思うのに(まあ、もっとハードルは上がりますが)、それにしては、想像&創造力がいかんせん足りなかったのでしょうか。折角の沢尻さんの体当たり演技も、ただの宣伝シーンに成り下がってしまい、同情さえしてしまいました。

 しかし、、、本作を見て一番思ったのは別のことでした。本作に限らず、「こんな映画が世に出ることができるのに、これよりはもう少し良いと思われるシナリオコンクールの作品が世に出られないなんて、あんまりじゃないか!!」ということは、常々他の作品を見ても思うことがあったのですが、今、公開されている『超高速!参勤交代』のように、城戸賞くらいじゃないですかね、コンクールからきちんと能あるライターを掘り起こしているのは。

 そう、どうせお金を掛けて映画を作るのならば、せめてまともなシナリオの作品を撮っていただきたいのです。本作の脚本を書かれた方も、フジTVのヤングシナリオ大賞出身の方ですが、どーしてこんなお粗末なシナリオを書かれたのでしょうか。プロになるとこうならざるを得ない、というのなら、今の邦画界では脚本家を育てる土壌がないということも考えられます。良いシナリオが良い映画になる保証はどこにもありませんが、少なくとも良い映画には良いシナリオがなければなりません。それでいて、脚本家・シナリオライターの地位は依然として低いままです。監督と同じくらい、脚本家の存在はもっと尊重され、尊敬されてしかるべきなのです。

 邦画制作関係者の皆さんには、もっと、脚本家を大事に、ポスターや広告、パンフ等には監督名と同じ大きさで脚本執筆者名を載せていただきたいですね。まずはそこからでしょう。そうでないと、邦画界のお先真っ暗だと思います。漫画やゲーム原作の作品ばっかりでいいんですか?

 ま、才能ある脚本家が監督やっちゃうようになって、つまんない作品量産していらっしゃる方もいますので、一概には言えませんけどね。
 
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