映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

山の焚火(1985年)

2020-12-10 | 【や】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv10994/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1984年、アルプスの山奥。人里離れた農場につつましやかに暮らす一家があった。十代の姉ベッリ(ヨハンナ・リーア)、弟(トーマス・ノック)、母(ドロテア・モリッツ)、父(ロルフ・イリッグ)の四人だ。聾唖者の弟は、学校には通わず、山地で働く父の手助けをしながら、将来教師になることを夢見ている姉から文字や算数を教わっている。時々、奇妙な行動をとる弟に頭を悩ます家族だったが、それぞれ深い愛情に結ばれていた。

 夏も終ろうとしているある日、芝を刈っていた弟は故障した芝刈り機に腹を立ててそれを崖から突き落として壊してしまう。怒った父親は、彼を家から追い出し、山の一軒家に追いやってしまった。

 日がたっても弟はなかなか戻ってこないので心配した姉が弟を訪れる。久しぶりに再会する姉と弟。焚火を囲んで楽しく食事をした二人は一つの布団で寄りそって夜を明かした……。

 晩秋の頃、父が弟のもとへやって来た。微笑む父に抱きつく弟。平和な日々は再び始まろうとしていた。

 しかし、思ってもみない事態が起こった。姉が弟の子供を身ごもったのだ。ベッドに伏せる日が多くなる姉。冬を迎えたある日、姉は母にそのことを打ち明けた。その事に気がついていた母は、ただ黙認した。

 しかし、母からそのことを聞いた父は狂乱し、銃を持ち出して姉を撃とうとするが、止めようとした弟ともみ合いになり銃が発砲し、父が絶命。母もショックのあまり息を引きとってしまった。

 雪のふりしきる家で、姉弟で、両親の葬式を行なうのだった。

=====ここまで。


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 存在は知っているけど、なかなか見る機会がない映画、ってのがあって、これもそのうちの一本ですね。VHSはあったみたいですが、既に幻となっているようだし、DVDはamazonにありますが、6ケタの値段がついているという、、、誰が買うねん?? な世界。

 そんな本作をスクリーンで見られる機会が巡って参りましたので、一年で今が一番忙しい仕事を放り出して早稲田松竹に終映ギリギリに見に行って参りました。いやぁ、、、見て良かった。


◆坊や、、、目覚める。

 ストーリー的には、割とありがちな姉弟の近親相姦モノなわけだけど、そんな言葉で総括するのも憚られる、非常に文学的な映画であった、、、。これぞ、映画っていう味わいを堪能した感じで、見終わって、決してハッピーな話じゃないのに、何故か心が熱くなって家路についたのだった。

 両親も姉も、聴覚に障害のある末息子を「坊や」と呼んでいることから、この家族の持つ危うさの全てが察せられる。最初は「坊や」??と思ったが、しばらくして納得した。

 あんな閉ざされた空間で、一家4人が暮らしていれば、いつか家族の危機が訪れることは分かりきっている。家族とは、いつまでも同じ形態で存在できる集合体ではないのだ。子は育って大人になるし、親は老いる。親は老いて朽ち果てるだけと言えばそうなんだが、子は大人になると、色々と厄介事を抱えるのだ。厄介事の最たるものが、陳腐な言い方だけど“性(セックス)への目覚め”である。

 「坊や」と呼んでいれば、その時は永遠に来ない、、、なんてのはただの親のエゴであり妄想であって、その時は必ずやってくる。坊やは、聴覚に障害があるだけでなく、知的にも障害があると思しき描写が数々あり(父親譲りの癇癪持ち、ということになっているが)、身体の成長の割には行動や表情は幼く、坊や効果が見られる。でもそれも中盤まで。

 ……そもそも、この家族がどうしてこんな人里離れた山の上で孤独に暮らすことになったのか、それが分からないのだが、父親が変わり者のようで、やはり「坊や」に障害があることに起因している様子。母親は、坊やに障害があると知ってから性格が変わってしまった、、、と、ベッリの祖母(ベッリの母親の母親)が言っている。ベッリが学校を辞めた(辞めさせられた?)ことも関係があるみたい。

 下界は汚れている! とか、そういう極端な思想でもなさそうだけど、「坊や」という呼称からも、それに近い感覚がありそうな感じはした。そうでなければ、子どもに教育を受けさせないという究極のネガティブな発想は出て来ない気がする。

 それを確信したのは、終盤、ベッリが坊やの子を妊娠していると知ったときの父親の取り乱しぶりから。猟銃持ち出してきたもんね。ああ、やっぱり、、、って感じだった。まあ、冷静に受け止めた母親の方が、むしろスゴいとも思うが。

 この後、父親が猟銃の暴発で死んでしまい、そのショックで母親も亡くなるという悲惨な展開になるんだが、ラストに向けて悲壮感があまりないのが良い。ベッリは悲しみにくれるのだけど、坊やと、これから生まれてくる子のこともあってか、両親を弔うときには、何かこう、、、凛とした大人の女性に変貌していた様に感じた。

 最初は両親をベッドに寝かせ、棺に入れた後は、庭先に棺を埋めるのだが、顔は見えるようになっていて、その顔の部分に家のガラス戸を外して嵌め込んでいるのは坊やなのだった、、、。夕暮れになると、それに灯がともされ、両親の眠る顔が明るく照らされる。冷静に考えればかなりホラーな画かも知れないが、実に幻想的なシーンになっていて感動させられる。


◆“山”と“焚火”

 閉ざされているとは言え、天空の世界で繰り広げられる、実に人間的なドラマなんだが、これが、アルプスの雄大な自然を背景にしていなかったら、ゼンゼン違う話になっていたんだろうなぁ、と思う。

 例えば、都会であった場合、田舎でも寂れた農村だったら、、、? とか色々考えると、この物語はアルプスの山間だからこそ映画として成立し得たのだとつくづく納得させられる。他の舞台装置であれば、もっと俗っぽい話になっていたと思うから。あの、雲を下に見るような、アルプスの山々を背景にしていると、なぜか神聖な、厳かささえ感じる。

 あの自然を見せられると、何でベッリは山を下りて学校へ行こうとしないのか、とか、この家族はどうやって現金収入を得ているんだろうか、とか、そうはいっても姉弟で近親相姦て、、、、などという現実的なツッコミを入れるのを忘れてしまう。

 あの状況で、焚火を囲んでいれば、ちょっと感覚的に異次元の世界に行ってしまうことはアリかも知れない。たとえ姉でも弟でも、それが日頃から愛しい存在であれば、互いに肉体的につながりたいと思うものなのかなぁ、、、。

 山で合体、、、といえば、あの『ブロークバック・マウンテン』なんだが、あのケダモノ的な合体シーンと一緒にするのは違う気はするが、山の持つパワーってのはあるのかも。

 しかも、本作の場合、“焚火”まであるもんね。焚火には癒やし効果があるとかで(科学的な話ではありません)、焚火の音のBGMとか、焚火の映像とか、癒やしを求める人のためにあるのだそうな。焚火とまで言わなくとも、炎を見ると癒やしにつながるという話もあって、部屋を暗くしてアロマキャンドルを焚くとリラックスできる、というのもその効果の現れなんだとか。

 ベッリと坊やが結ばれるシーンを見ると、確かにそうかもな~、などと思ってしまった。好きな人と結ばれたい!!と強く願うのならば、その人と焚き火をすると良いかもね。……って、何の話だ?

 脱線ついでに、私は暖炉のある部屋に憧れているのだが、欧米では普通に集合住宅にもあるらしい暖炉、日本じゃめったにお目にかかれない。そもそも、煙突から煙が出たら、即ご近所問題になるだろうしなぁ。すぐ目の前で火が焚かれている、、、なんて素敵ではないか。

 そう言えば、暖炉の前でのラブシーンって、映画や海外ドラマで結構ある気がしてきたなぁ、、、調べたことないけど。……あ、私は別に、そういう意味で暖炉に憧れているわけではありません、念のため。


◆ムーラー監督

 フレディ・M・ムーラー監督の映画は、そもそも日本でもあまり多く公開されていない上に、ソフト化されているものも少ないレアものの様で、私も、本作以外には『僕のピアノコンチェルト』(2006)しか見たことがない。

 『僕の~』は、これまた本作とはゼンゼン雰囲気の違う映画だったが、詳細は忘れてしまっているけど、なかなか良い映画だった記憶がある。こちらは、DVD化されてレンタルもできるので、また、見てみようかな。

 本作と、『我ら山人たち』『緑の山』の3本が、伝説の三部作「マウンテントリロジー」と呼ばれている。確か、何年か前にどこかの劇場で上映していた(チラシをもらってきた記憶がある)けど、結局見に行けなかった。どれも、なかなかお目にかかる機会のなさそうな作品なので、いつかまた上映の機会があれば、そのときは是非3作とも見てみたい。

 

 

 

 

 

 


本作は、年明けに池袋の新文芸坐で上映される様です。


 

 



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やがて来たる者へ (2009年)

2019-09-01 | 【や】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv48241/

 

 

 以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1943年12月。イタリア北部の都市ボローニャに程近い小さな山村。ドイツ軍とパルチザンの攻防が激化するなか、この村にも戦争の影が徐々に迫ってきていた。

 両親や親戚と暮らす8歳のマルティーナは、大所帯の農家の一人娘。生まれたばかりの弟を自分の腕のなかで亡くして以来、口をきかなくなっていた。ある日、母のレナ(マヤ・サンサ)がふたたび妊娠し、マルティーナと家族は新しい子の誕生を待ち望むようになった。

 だが戦況は悪化、ドイツ軍が出入りし始め、地元の若者たちは密かにパルチザンとして抵抗を続ける。幼いマルティーナにはどちらが敵で、どちらが味方かよくわからない。

 そして両者の緊張の高まるなか、1944年9月29日、ドイツ軍がパルチザンを掃討する作戦を開始する……。

=====ここまで。

 

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 第二次大戦下では、イタリアはドイツと同盟関係にあったのでは? と思ったが、そーいえば、確かゼッフィレッリの自伝に、彼がパルチザンとして闘っていたことが書かれており、そのときに、ムッソリーニが囚われた後に、北部イタリアをナチスドイツが、南部を連合国が占領し、大戦末期はかなり悲惨な状況だったということをちょこっとだけ調べたな、、、と思い出したのでありました。詳しくはもちろん知らないのだけど、それにしたって……本作を見るまですっかり記憶が抜け落ちていたというのがオソロシイ。

 

◆声を出さない美少女マルティーナ

 冒頭、さっきまで人がいたんじゃないか、と思われるような状態の“もぬけの空”になった家の中をゆっくりとカメラが舐めるように映していき、それが髪の短い少年(?)の視線だと分かる。尋常じゃないことが起きた直後と分かる。

 が、一転して、ベッドにもぐっている少女マルティーナと、その隣のベッドに眠る両親が映り、……ハレ??今の冒頭のシーンは何? となるが、この冒頭シーンはいわずもがな、一家全員虐殺された後に、髪を短く切ったマルティーナが家に戻って来て見た光景ということになる。

 かように、本作は説明的なセリフもシーンも一切ないので、少々??となる箇所があるのだけれども、中盤以降に全部それが見ている者の腑に落ちるように作られており、そのシナリオの構成は素晴らしい。

 何より、主人公のマルティーナを演じたグレタ・ズッケーリ・モンタナーリちゃん(覚えられない)の美少女ぶりが嘆息モノである。8歳とは思えぬ大人びた視線。口が利けないという設定なので、彼女の表情の演技は、その“目”が主なのである。あまり、というかほとんど笑わなかったと思う。

 彼女の目には、近所のおじさんたちのパルチザンも、ドイツ兵も、どっちも良くてどっちも悪く見える。ドイツ兵はいわずもがなだが、パルチザンの男たちも、ドイツ兵に穴を掘らせたかと思うと、背後から銃でドイツ兵の頭を撃って、その穴に落とすということをやらかしていて、マルティーナは偶然その場面を見てしまうのだ。しかも、その殺されたドイツ兵は、マルティーナたちに優しくしてくれた兵士だった。彼女にしてみれば、なぜ殺す必要があるのか分からない。

 ……というか、見ている私も分からなくなってくる。立場を替えれば、正しいことも変わるのだ。

 どんどん環境は悪くなって行き、遂に、ドイツ軍がパルチザン狩りにやって来る。ドイツ軍はパルチザンを捕虜になどせず、問答無用で殺す。殲滅しに来たということだ。

 ちょうどその時、マルティーナの母親は出産間際で、母親と、母親の出産を手伝うためにマルティーナの祖母は家に残る。祖母は言う。「女子どもに手出しはしないだろう」

 しかし、ドイツ兵は、女子どもも容赦なく殲滅しにかかって来たのだ。

 家から教会へと逃げたマルティーナや村の女子どもたちだが、教会から排除されて1か所に集められ、機関銃で惨殺される。マルティーナはすんでのところで逃げ出し、家へと走り戻る。産み落とされたばかりで運よく殺されなかった弟を抱きかかえ、逃げて彷徨うマルティーナ。

 ラストは、赤ん坊の弟を抱きかかえたまま、それまで口が利けなかったマルティーナが、母親が歌ってくれた歌を口ずさむというシーンで終わる。

 

◆消す命、助ける命

 気が付いたら、眉間に思いっ切り皺を寄せて見ていた。何か、息をするのも忘れていたみたいな気がする。それくらい、終盤の展開は阿鼻叫喚で悲惨そのもの。グロいシーンはほとんどないのに、実に凄惨なのである。あまりに凄惨で、涙も出てこない。

 中盤までの描写は、この凄惨なシーンのためには必要なものだったのだ。つまり、貧しいながらもつつましく仲良く暮らしていたマルティーナ一家の日常を丹念に描いていたのだ。ただ、大所帯である上に、村の人々とのつながりも強いため、登場人物が多いのにもかかわらず、人物相関図が脳内で全く描けないので、ちょっと混乱してしまうのだが。

 マルティーナと一緒に暮らしている従姉のお姉さんベニャミーナが魅力的。見覚えのある顔だと思っていたら、 『マイ・ブラザー』『眠れる美女』にも出ていたアルバ・ロルヴァケルだった。彼女は、伝統と信仰に縛られた古臭い村の慣習を嫌って自立しようとする女性として描かれている。結果的に、自立は叶わずに虐殺の被害者となるのだが、その最期にドラマがある。

 ベニャミーナは機関銃の一斉掃射で、たまたま大腿部を負傷しただけで命までは落とさなかった。まだ息のあるベニャミーナを見つけたドイツ兵の将校(?)は、「自分の妻に似ている」という理由で彼女だけを助けて、兵舎へ連れて行くと手厚く介抱する。しかし、その将校の身勝手な理屈で永らえることを良しとしない彼女は、ささやかながらも一矢報いるのだった。最期まで闘う女性として描かれている。

 本作は、マルザボットの虐殺という史実を基に作られたフィクションだが、第二次大戦に限らず、戦地では似たようなことが現在に至るまで延々繰り返されているに違いない。

 ちなみに、マルサボットの虐殺を実行した元ナチス親衛隊(SS)の将校たちは、2007年に終身刑を下されている。……というか、一旦、1951年に終身刑が言い渡されたが、1985年に恩赦を受けたらしい。2007年に終身刑を受けても実効力はなさそうだ。彼らのほとんどは法廷にも現れず、祖国で年金生活を送っているのだから。ただ、21世紀になってもまだ裁かれていることには驚いたけれど。

 

 

 

 

マルティーナと弟は無事に生き延びたのだろうか、、、。

 

 

 

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やさしい女(1969年)

2015-04-27 | 【や】



 美しく知性も兼ね備えているが貧しい若い女性。本代を手に入れるために質屋に通ってくる彼女に惚れた質屋の主人の中年男。彼女を説得して、結婚。しかし、妻の、隠しようのない美しさと若さ溢れる肉体に、中年夫は次第に嫉妬の塊となっていく。

 あっという間に夫婦仲は冷え切り、しかし、必死に夫婦の関係を維持しようと足掻く夫。彼のそばを離れそうで離れない妻の真意は・・・? そして、妻が出した答えとは。

 1986年の本邦公開以来の貴重なデジタル・リマスター版リバイバル上映。ブレッソンのキレッキレの描写は、本作も健在。


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 若い女性を演じるのは、17歳のドミニク・サンダ。もう、メチャメチャ美しい。これぞヴィーナス、って感じ。しかし、実生活では彼女は既にバツイチだったというのだから、さすがというか、何というか、、、。

 この『やさしい女』というタイトルですが、、、。はて。本作の主な登場人物は、ドミニク・サンダ演じる若妻と、夫、お手伝いの老女の、ほぼ3人ですから、やさしい女とは、それはほとんど若妻のことを指していると考えて間違いないでしょう。

 で、私は、正直、この若妻が「やさしい女」とは思えないのですよ。なぜかって、ここから先、ネタバレバレなんで、悪しからず。

 若妻は、なんと投身自殺しちゃうんです。しかも、夫婦の住まいの窓から。こんなピリオドの打ち方をする人が「やさしい」んでしょーか。

 と、思ったんですが、この作品、徹頭徹尾「夫(=男)の目線」で描かれている訳です。それを考えると、なるほど、彼女こそが「やさしい女」なのか、と。つまり、「男にとってやさしい女」ってこと。

 あれほどの美しさと知性がありながら、貧しさゆえに、あたかも質草のように、質屋の主人である冴えない中年男と結婚し、一緒に暮らしてあげるだけで、それが優しさだろう、って話。ものすごく俗悪な思考でスミマセン。でもまあ、そういう見方もアリかなと。

 なぜなら、本作は幕開けがいきなり、若妻の投身自殺のシーンであり、その後は、ベッドに横たわる若妻の遺体を前に、お手伝いの老女に対して、夫が若妻との思い出を延々と語る、という構成なのです。つまり、若妻が本当は何を考えていたのか、何を思っていたのか、まったく分からないワケ。

 これこそが、この夫の妻に対するありのままの姿だってことでしょ。要するに、妻の内面的なことを、何も理解していなかった、彼は。というか、そもそも理解しようとしていなかったのね。自分目線でばかり彼女を見て、「質屋だからって軽蔑してんのか」「余所に男がいるんだろ」と、そんなことしか彼女に対して考えていないのね、この夫は。

 実際、若妻が夫を軽蔑していたかなんて、分かりません。夫が「貯蓄したい」という言葉に軽く拒絶反応を見せるシーンがあったり、結婚を迫る中年夫に「あなたの望みは愛ではなく結婚だわ」等と突き放すシーンがあったりはしますが、彼女の心を語るセリフはありませんので、実際、彼女が何を考えていたのかは、分からないのです。夫も、もちろん見ている我々も。

 おまけに、若妻にエエカッコしたいのは分かるが、自分の過去を偽る、、、というか隠すのよ、この夫は。何で正直に自分をさらけ出せないのか、と、若いならなおさらガックシ来るわさ、妻としては。

 ただ、何度も夫の店から出ていったり、家から出ていったりするんだけど、結局、夜になると帰ってくるんだなあ、この若妻は。こいういうところも「やさしい女」なのかも。

 とにかく、ほとんどセリフがないので、若妻と中年夫の視線や仕草から、イロイロと想像するしかないんだけど・・・。

 しかし、、、もし、この穿った解釈が当たらずとも遠からじだったとしたら、、、。ある意味、男のロマンを絵に描いたようなハナシなのかも、という気がしてきた訳です。自分には過ぎた若く美しい妻、ちょこっと浮気もしているみたいだけれども、どんなに揉めても必ず自分の下に帰ってきて、夜はお互い欲望を満たし合い、寝ている間に銃を向けられていたこともあった様だが、「あなたを尊敬します」とわざわざ言いに来てくれたではないか、彼女は。しかも、自分の妻として自ら命を絶ったことで、彼女は永遠に私のもの。これ以上、男の独占欲を満たしてくれるオハナシがありましょうか。

 それはさておき、、、、

 やはり、若妻は、夫を「軽蔑」していたんだと思います、実際に。なぜなら、ブレッソンのそれまでの作品『スリ』にしても、『ラルジャン』にしても、「金」で人生を翻弄される話を描いていて、どう見てもブレッソンは金に支配される人を「軽蔑」している節があるからです。、、、いや、軽蔑というよりは、「憐み」を持った視線でしょうか。

 そして、本作の主人公、中年夫の職業は、質屋の主人。しかも、前職は銀行員。どっちも「金」を扱う商売です。

 でもって、ブレッソンは、そういう男の悲しい「性(さが)」を描きたかったのでは、と。「金」などというものに支配され、人の心に寄り添い、いたわり、愛する、という、人としてかなり「鍛えられた」精神を要する営みができない。どこか、欠落した男。妻がいなくなっても、結局、妻の心を推し量ることのできない哀れな男。

 それを、セリフを一杯の雄弁な脚本にしてしまえば、おそろしく通俗的なメロドラマに成り下がるのは目に見えている。だから、こうして、極限までセリフを省いた、映像だけで二人の関係性を見せる作品に仕上げたのだろう、と。

 、、、ま、そうはいっても、現実問題、お金は大事。地獄の沙汰も何とやら、って言いますが、ある意味、真理だと思いますし。ただ、お金は人生を豊かにする「ツール」であって、それを目的にすると、人生どころか自分自身が貧しい人間に成り下がりますよ、ってことを、ブレッソンおじさまはおっしゃりたかった、、、のかも知れません。

 バーカ、そんなありふれた陳腐なところに落とすんじゃねぇ!! ってブレッソンさまに怒られそう、、、。ひぃ~~。

 原作は未読。ちなみに、原作を読んだ映画友は「原作も、よー分からんかった」と言っておりました。





ブレッソンは「お金」がキライなの




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やさしい人(2013年)

2014-11-24 | 【や】



 ちょっとだけ名の知れた中年ミュージシャン、マクシムは、自立しきれず親の家に居候。若い女性メロディと束の間恋に落ちるが振られ、荒れるマクシム。どんづまりの彼がとった行動は、、、。イタ過ぎるだめんず映画。

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 いきなりですが、、、何なんでしょうか、あのマクシムを演じるヴァンサン・マケーニュという俳優さんの髪型は・・・。毛の量が恐ろしく少ない長髪で、さらには後頭部に髪がなくて、なんつーか、カッパみたいなんだよなぁ。どうしてもそこに目が行っちゃう。

 ま、それはさておき。、、、個人的に、マクシムのようなイイ歳こいて自立しようとしない大人が好きになれない私には、何だか不思議な作品でした。意外に嫌悪感を抱かなかったのです、マクシムに。

 某全国紙の夕刊に掲載している沢木耕太郎の「銀の街から」で紹介されていたのだけれど、沢木の文章より、掲載されていた作品のショット--浴槽に浸かるマクシムをじっとお座りして見ている犬--もう、これで劇場行きが決まりでした。これ、ポスターにもなっていたのですねぇ。ホント、ステキなショットだと思います。

 そう、この犬、カニバルが、結構いい味出しています。ヴェルレーヌの詩が好きな犬、なんて、なかなか憎いじゃないですか。孤独な捨て犬だったのをマクシムの父親が拾った、ってことなんだけれど、どこかマクシムの境遇に通じる感じがします。

 マクシムも、ちょっとばかり名が知れた程度で、決して自分が納得できるミュージシャンではないし、今のささやかな名声だってこのままじゃすぐに消え去ってしまうことが彼には分かっている。メロディとの恋は、そんな彼の孤独感や焦燥感を、一時的に忘れさせてくれるものだったのかも。

 メロディに振られた後の彼は、名実ともにただのストーカーなんだけれど、私がイタいと感じたのは、ストーカーになった後より、むしろその前かな。メロディが通うダンススクールのレッスンに乱入して一人踊り狂うシーンがあるんだけれど、もう、あれはサイテーだと思ってしまいました。私がメロディだったらドン引きもいいとこです。

 、、、なぜそんなにイタいと思ったか。まあ、冒頭書いたとおり、異様なカッパみたいな髪型の頭を大げさに振りながら踊っている姿は、ハッキリ言って「醜い」の一言だったからです。踊りも何だか究極の自己陶酔にしか見えず。醜い男の自己陶酔ダンス、こんなもん、誰が見たいかっての。ほとんど、気持ち悪いの域です。

 ただ、マクシム自身に嫌悪感を抱かなかったのは、多分、後半、彼がストーカーになっちゃったからだと思うのですね。なんかもう、破れかぶれ的な、メロディにすがるしか生きる道がない、ってことを体現しているその様が、もうイタいもクソもないというか・・・。そうか、あなた、そこまで追い詰められていたのか・・・、みたいな。

 形は違うけれど、人生折り返し点を過ぎれば、誰だって、そういう「どうしようもなさ」みたいなものって抱えていると思うのです。若い頃はそれでも、まだ自分の人生の可能性を信じることができたし、そこに逃げ道を見出せた。でも、もうこの歳になると、そんなことあり得ないって直感で分かってしまう。だから、何かにすがりたくなる。すがりたい何かが、この手からすり抜けようとすればするほど執着してしまう、そういう、心のどうしようもない動きに、マクシムは外面も構わず正直にしたがって行動した訳です。

 それで他人を傷つけているのだから、褒められたことじゃないけど。こんなサイアクな形になって表出するケースは少ないけれど、中年の男女の誰しも、みんなあると思うのだよね、人生そのものに対する焦りが。

 沢木は、マクシムを定型から外れた男の成長物語的な感じで書いていたけれど、まあ、確かにそういう見方もあると思うけれど、マクシムがレールを外れた人間の象徴とは、私には思えなかった。定型・非定型を問わずだと思うのだよね、こういうの。むしろ、定型にある人の方が、こういうのは自覚のないところで疼いている傷なんじゃなかろうか、と。

 同じ女性としては、メロディみたいなタイプは嫌いなんで、ああいう女に人生振り回されるのは、男としてサイアクな選択だとは思いましたが。もっと優しく賢い女はゴマンとおりますよ、世の中に。

 ま、良い作品だとは思いますが、何となく、好きとは言い難いので、★は少なめです。

 

生きるってタイヘンだ・・・。嗚呼。




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闇のあとの光(2012年)

2014-06-18 | 【や】

★★★★★★☆☆☆☆

 『ヴィオレッタ』を見に行った際に赤い光を放つ「それ」が出てくる予告編を見て、興味をそそられ見に行った次第。、、、で、 結論から言うと、あんまし好きじゃないですね、この映画。

(本作がお好きな方は、以下、不快になるかもしれませんので悪しからず)

 本作は、見た直後はちょっと狐につままれたみたいな感じがするのだけれど、1日、2日と時間が経つと、嘘みたいに単純明快に見えてきます。

 一見、脈絡なくシーンがつなぎ合わされているようだけれども、ストーリー的には単純です。見た目よりははるかに分かりやすい。屋外でのシーンにフレームにぼかしが入っているのですが、まあ、何となく意図することは分かるというか。多面性とか、あるいはボーダーレスってことなのかな、と。

 何が好きじゃないって、性と暴力の描き方ですね。すごい捻くれていると思います、この監督。乱交パーティーのシーンがあって、その後のシーンでは、夫婦の間のセックスレスが会話に織り込まれています。また、犬に過剰な暴力をふるうシーンや、親友だと思っていた男に泥棒に入られ挙句撃たれるというシーン、そしてラスト近くの首を落とすシーン、と、決して長くはないけれども強力な暴力シーンが折々に挟まれています。

 フレームのぼかしといい、性と暴力の描き方といい、終わってみれば、ああ、そーゆーことね、と腑に落ちる単純なことを、わざと後回しにするわけですね。つまり、最初に意味深ななぞかけをしておいて、終わってみれば、な~んだ、という感じ。見ている方としては、そーだったのか! と膝を打ちたいわけですよ。でも、そうじゃない。特に暴力シーンについては因果応報なだけなんだけど、いきなり提示してくるから一瞬訳わかんなくなるのです。それが狙いの一つだと思うけど、ちょっと、モノづくりのスピリットとしては浅ましいという気がする。志が低いというか。

 これをうまくさばくのが「伏線を張って回収する」ということなんです。が、この監督は、そういう単純な見せ方をするのがお嫌いなようで。そこがイヤらしいというか、小細工に見えてしまうのです、私には。別に、創造の手法にセオリーはないから、独自のやり方を追求するのは素晴らしいと思うけれど。ただ、パンフを見ると監督は「観客をリスペクトしている」と言っているけれども、そんなことは当たり前といえば当たり前で、あまりにも独り善がり的な作品が氾濫しているからそれがあたかも有り難いことかのように思われるのだとしたら、そら違うだろう、とは言っておきたいかな。

 まあ、唯一、よく分からないのが、ラストのラグビーのシーンですが。「死と生」、、、つまり「闇のあとの光」ってか? だとしたら、ますます種明かしがストレートすぎてあざとくないですかねぇ。嫌らしいでしょ、ちょっと。観客をリスペクトどころか、むしろバカにしてんの? ってなもんです。

 いえ、、、本当はもっと何か別の・・・。私の理解不足であってほしいです、マジで。
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闇の列車、光の旅(2009年)

2014-05-12 | 【や】

★★★★★★☆☆☆☆

 昨年、図書館で数か月待ちして、ロベルト・ボラーニョ著『2666』を借りた。図書館でその本を受け取った瞬間、借りて読もうなどと姑息な考えを反省した。その厚さは恐らく5センチ近くあったのではなかろうか。総868頁、おまけに2段組。借りて読もうなど無謀そのものだったと改めて反省。それでも2週間で読めるところまで読んじまおう、と頑張ったけれども、第2章の途中で時間切れと相成った。悔しいので、第3章以降を未練がましく拾い読みして、第4章のキョーレツさに閉口、、、。

 その後、まだ購入していない(ので当然読了していない)。だって、お高いんだもん。当然と言えば当然だが、税込価格7128円 (本体価格6600円)もするのである。おまけに、この本は異常に重いので、寝っころがっては読めない。別に座って読めば良いのだが、購入への心理的ハードルはもの凄く高い。

 で、本作を見て、その冒頭5分ほどで、頭に浮かんだのが『2666』だったのである。本作が醸し出す雰囲気が、まさしく『2666』だった。ボラーニョの描写から私の頭の中に湧いたメキシコの風景は、もう、まったく本作のまんまであった。なので、一気に引き込まれたというわけ。

 『2666』の続きでは、まさに、本作の前半で描かれる(恐らくそれ以上だと思うが)信じ難い悪の蔓延る世界が繰り広げられるらしいのだが、一旦、ギャングの組織に組み込まれた人間の行く先には「絶望」あるのみなのだ。殺るか殺られるか、逃げ出したくても絶対逃げられないという、底なしの地獄。もう、見ているだけで息苦しくなってくる。

 それだけに、主人公カスペルが組織のナンバー2を殺した後の展開は、少し拍子抜けである。移民でアメリカに密入国を目論む少女サイラと出会い、サイラに惚れられ、2人の逃避行が続くのだが、これが陳腐な恋愛ロードムービーっぽくなってしまっている感あり。最初は心を閉ざしていたカスペルが徐々にサイラと心を通わせていく辺りとか、ちょっと食い足りない。別に、カスペルとサイラの逃避行でも良いけれど、恋愛モードなど一切ナシで、ヒリヒリするような緊張感溢れる、絶望に追われる逃避行の過程を描いた方が、前半の描写が効いてくるのではないかと感じた。

 とはいえ、ほんの少しの希望を感じさせるラストは良いと思う。とことん救いのないハナシじゃ、見終わってドッと疲れるだけだもんね。ハッピーエンドじゃなくても、何とか未来を期待できそうなラストは、本作の場合は正解だと思う。

 『2666』も、メキシコで実際に起きた大量殺人事件がその下敷きにあるというが、本作を見るまで、なんというか、心のどこかで信じていなかった部分もあったのだが、本作を見て、そういう世界がそこには確かにあるのだ、と信じてしまえたような気がする。『2666』の続きがモーレツに読みたくなってきてしまった!!
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