映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

愛する映画の舞台を巡る旅Ⅲ ~デリー(インド)~その①

2019-02-27 | 旅行記(海外)
**カオスの首都** vol.1
 




 前からず~っと行きたかったインド。特に『きっと、うまくいく』を見てからはその思いを強くし、ラストシーンの美しさに、是非あそこに行きたい! と思って、その場所はどこかと調べたら……。そこは、パンゴン湖という、中国(チベット)国境のちょっとやそっとじゃ初心者が行ける場所ではないと分かり、また、その他舞台になったシムラーの街も北部ということで、ならばまずは、インド北部を訪れてみたい、と思っておりました。

 そこで目についたのが、昨年のベトナムに続き、またまた“おひとりさまツアー”「女性限定」プラン。いくら魅力的な国とはいえ、怖い話もそれなりに聞くし、昨年、なかなか快適だったおひとりさまツアーなら安心かなと思い……。北部のデリーとアグラ2か所だけだけど、インド入門編として訪れるにはちょうど良さそう! というわけで、昨年9月に申し込んだのでした。

 ご存じのとおり、インドはビザが必要なんだけれど、これも旅行社の方で手配してくれるし、やはりツアーのこういうところは有り難い。ビザ申請のための写真の細かい指定があったり、申請書には、両親の出生地まで書かされるのでビックリ。当然、パキスタンに行ったことがあるか、とかの質問事項もあり……。また、私は職業柄、一般的な6か月の観光ビザは取れないかも知れないと事前に言われ(実際おりたのはJ-T(Journalist visiting India for tourism purpose)という3か月ビザ)、まあ、それでも全部自分で手続きするよりはかなり楽だったのだと思う。

 とかなんとか言っているうちに、アッと言う間に出発日はやって来て、行ってまいりました。インドの旅行記です。 


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 出発は、成田から、11:05発JAL0749便で、集合が8:35と結構早い。成田までは、京成成田スカイアクセス特急がやはり便利。スカイライナーよりは20分ほど時間がかかるが、特急料金はナシで、京成本線よりも速い。自宅を6時過ぎに出て、小心者ゆえ電車が止まったらどうしよう、、、とか思ったけれど、8時前には成田に無事到着。

 そのまま団体カウンターで受付し、添乗員のR子さんとご挨拶。そのまま、JALのカウンターに連れて行かれチェックイン。すると、「本日プレミアムエコノミーが満席のため、ビジネスクラスにご案内します」と、何とアップグレード。ラッキー!

 そう、このツアー、プレミアムエコノミーのツアーだったのです。ビジネスクラスはテレビや広告でよく見るから知ってはいたけど、プレミアムエコノミーってどんなん??という単純な好奇心から。

 ……というわけで、ラウンジは出国ゲートの先にあるので、とっとと出国手続きを済ませ
 

11:05デリー行き。スリランカ航空とのシェア便


 ラウンジに入ると、早い時間だけど結構人がいる。





飲み物とクッキー数種類


 この上階にはデリがあるらしいけど、お腹は空いていなかったのでこちらの片隅を陣取った。搭乗前の集合時間10:40までは時間があるのでダラダラ文春読んだり、ボーッと着陸機を眺めたり、、、。

 10:40に搭乗口で、今回のツアー参加者6名が集合。確か7名参加と聞いていたけど? と思ったらR子さんから、「もう1名は現地集合です」と案内あり。当然、全員女性。年齢層は、多分、40代~60代。

 で、いよいよ搭乗。


これがビジネスの座席!


 へぇー、これがビジネスクラスなのね、、、とビジネスクラス初心者の私。何か、個室感が良いわ。……でも、エコノミーのように足下に荷物を置けないのがちょっと、、、。必要なものは小ロッカー(座席の横の取っ手が付いている所)に入れて、あとの荷物は全部、頭上の棚に入れろと。


アメニティ(アイマスクは写真撮る前に使っちゃいました)



画面もまあまあ大きく、タッチパネルの感度も良いけど、リモコンメイン使用だった


 離陸してほどなく、飲み物とスナックが出される。冷たい緑茶を所望。 



 ポケ~ッと映画『天才作家の妻 -40年目の真実-』を見ていたら、1時間ほどして食事が来る。和食と洋食があったけど、和食をお願いした。

 まずは前菜。こんな箱に入れられて出て来て、、、



 開けると、小皿料理が6種類。


(上左から)筑前煮、蟹鼈甲餡、本鮪のお造り、(下左から)水菜春菊木ノ子浸し、鮑柔らか煮、鯛のフライ黄身醤油温度卵・白滝真砂和え


 ちゃんとメニューをもらってきたのだ! どれも美味しかったけど、まあ、こんなものか、、、というのが正直なところ。

 続いてメイン&ご飯。


(上左から)牛バラ肉、冬菇椎茸白味噌仕立て、鰤の照り焼き、香の物、ご飯、味噌汁


 デザートは、ほうじ茶ロールケーキ&コーヒー。



 ロールケーキの生地がやや乾燥気味なのが残念。味は悪くないけど。コーヒーは意外に美味しかった。

 で、結構お腹が膨れ、一息つきたくなる。さすがビジネスシート、フルフラットになって足が伸ばせるのが有り難い。

 が、実は、この間、少し揺れておりました。一時、CAさんたちもシートベルトサインが出てサービス提供が中断になったくらい。……でも、大昔だけど、ロンドンからの帰りの便(ヴァージンアトランティックだった)がかなり揺れて、それこそCAさんが転んだり尻もちついたりしていたし、NYからこれも帰りの便(ユナイテッドだった)が相当揺れて、こっちはマジで怖かったので、今回の揺れはサービス提供中断になるほどだったのかと驚いた。もしかすると、最近は昔より乗員の安全重視になったのかもね。

 と、揺れながらも、中断していた映画『天才作家の妻~』の続きを見る。

 ふ~ん、という感じで見終わると、とりあえずエンターテイメントのプログラムはどんなものかと、音楽をチェックしたが、どうもイマイチ。今朝の7時のNHKニュースなんぞがあったので、気分転換に見る。

 個室っぽい感じの空間ではあるけど、寝そべっていると通路を人が結構通って気になってしまう。普段、仕事をしているときは昼食後などモーレツに眠くなることが多いのに、何故かあんまし眠くならない。……仕方がないので、再び映画を見ようかと、あんまし面倒くさくなさそうな邦画『泣き虫しょったんの奇跡』をチョイス。棋士である瀬川晶司氏の名前とエピソードは知っていたので。

 まぁ、“しょったん”の子供時代から大人になるまでのシーンがあるんだけど、子役の子たち(小学生時代と中学生時代の2人)はどちらもお目々ぱっちりな顔なのに、成人すると松田龍平って、どーなん?? とかなり興醒め。松田龍平ありきなら、子役ももう少し同じ系統の顔を選べよ、と内心ツッコミまくる。おかげで内容があまり頭に入ってこない。……が、しょったんのお父さん(國村隼)が非常によく出来たお方で感動。そんな直後に、このお父さんが突然、交通事故で亡くなってしまう、、、という辺りで、到着前の軽食がやって来る。

 こちらも和食と洋食があって、今度は洋食をお願いした。


チキンとキノコのドリア、フレッシュフルーツ


 まあ、美味しいけど、さすがビジネス! という感じでもなかった。こんなものか。

 そうしているうちに、ようやくデリーに到着!! 現地時間で18:00前。日本との時差3時間半なので、10時間ちょっと乗っていたことになる。でも、そこまで長さを感じなかったのは、やはりビジネスでゆったり出来たからなのかも。


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 インドの空港や鉄道の駅などの、いわゆる公共交通機関は全部、写真撮影禁止と聞いていたし、デリーの空港に着陸する際の機内アナウンスでも「撮影は禁じられております」と言っていたので、マジメな私はそれを守って写真を撮らなかったんだけど、ふと気付けば、結構皆さんあっちでもこっちでも写真撮りまくりであった。私も1枚くらい撮っておけばよかったかなぁ、、、などと思うけど、ネットに画像は溢れているので、まあいっか。

 『きっと、うまくいく』の冒頭で、ファルハーンが、このインディラ・ガンディ国際空港を人の流れに逆らって走っていたのは、こことは別のターミナルなのかな~、などと思いながらキョロキョロ。 

 入国審査のおじさんに、結構ジロジロ顔を見られ、パスポートの顔写真のページを機械に読み取らせているみたいなんだけど、機械の感度が悪いのか何度も読み取り部分を拭いたりして、ちょっとイラッとくる。やっぱり疲れているのね、私、、、と思った。

 なんとか無事に入国し、荷物もちゃんと出て来て、他のツアーの皆さんも滞りなく、、、ということで、出口へ。ここで、現地ガイドのアラームさんと合流。

 で、いきなりアラームさんが流暢な日本語で「すみません、バスが渋滞に巻き込まれているのでちょっと遅れます」と。……ううむ、さすがインド。いろいろ遅れるのがインドと聞いていたけど、初っぱなからいきなりとは、インドに来たんだわ~~と、なぜか嬉しくなる。

 でも、思ったほどは待たず(15分くらいだったかな)、無事にバスがやって来て、バスの乗り口でアラームさんがマリーゴールド(生花)のレイを「ようこそインドへ~~」と言いながら1人ずつに掛けてくれる。嬉しいが、マリーゴールドの香りが微妙。マリーゴールドはインドでは神様に捧げる花だとか。お祝いとかでも飾るそうな。


アラームさんから掛けてもらったマリーゴールドのレイ


 マリーゴールドを首からぶらさげて、一同、ホテルへ向かう。

 空港周辺は軍の施設がほとんどです、、、とアラームさんが言っていたが、もう辺りは暗くて、あんまし外の様子は分からなかった。でも、ベトナムの市街地の雰囲気とちょっと似ている感じ。車やバイクが無秩序に走って、クラクション鳴らしまくり。ベトナムよりは、車の数の方が多かった。ベトナムはバイク群が圧倒していたけど、こちらはメインは車、という感じ。オートリキシャもちらほら。

 途中、マーケットの脇を走る。


専門店が並ぶマーケット。スパイス店&鞄店&ヒンドゥー教関連の絵画店(?)



こちらは布屋さんの結構有名なお店らしい


 アラームさんが一生懸命説明してくれるんだけど、こっちも写真撮りまくったりして、なかなかタイヘン、、、。

 このバスの中で、5,000円を3,000ルピーに両替してくれ、さらになんどもしつこく「絶対に水道の水を飲まないでください。うがいや歯磨きもミネラルウォーターでしてください」とアラームさんが言っていた。

 そうして、バスに揺られること約1時間で、これから2泊するホテル“ピカデリー・ジャナクプリ”に到着~~。着いたのは8時前くらいだったかしらん? あんまし覚えていないけど、R子さんとアラームさんがチェックインしてくれている間、私たちはロビーでぐったり、、、。ウェルカムドリンクの(多分)パイナップルジュースをいただき、そうこうするうちに、R子さんから部屋のキーをもらって、ようやく部屋へ、、、。


ダブルの部屋。なかなかキレイ





水回りもキレイ。でもお湯がちょっとぬるかった、、、


 機内での軽食の後、翌日の朝食まで食事がないので、パンか何か用意してきた方が良いです、、、と、事前にR子さんに電話で聞いていたので、大好きなパン屋さんのメロンパンを持参してきたんだけど、なるほど、そういえばちょっとお腹が空いているかも、、、と思って、メロンパンにかぶりつく。インドでメロンパンか~~、とどうでも良いことを思う。

 まあ、とにかくくたびれていたので、明日からの観光に備えて、この後、割とさっさとベッドに入ったものの、何となく寝落ちしないままウダウダしていたけど、どうやらそのまま眠ったらしい。

 明日はいよいよ、世界遺産を訪れます!





その②につづく
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ヴィクトリア女王 最期の秘密(2017年)

2019-02-24 | 【う】



 上記リンクからあらすじのコピペです。

=====ここから。

 インドが英領となって29年目の1887年、ヴィクトリア女王(ジュディ・デンチ)の即位50周年記念式典で記念金貨“モハール”を献上する役目に任命されたアグラに住む若者アブドゥル・カリム(アリ・ファザール)は、もう一人の献上役モハメド(アディール・アクタル)と共にイギリスへ渡る。

 18歳で即位してから長年女王の座に君臨してきたヴィクトリアは、最愛の夫と従僕を亡くし心を閉ざしていた。細かく決められたスケジュールをこなし、思惑が飛び交う宮廷生活に心休まらない日々を送るなか、金貨を献上しに現れたアブドゥルの、物怖じせず本音で語りかけてくる態度に心を奪われる。

 彼を気に入ったヴィクトリアは、式典の期間中、彼を従僕にする。ヴィクトリアはインド皇帝でもありながら現地に行ったことがないため、アブドゥルから言葉や文化を教えてもらい、魅了されていく。

 次第に二人の間には身分も年齢も越えて強い絆が生まれるが、周囲の猛反対に遭い、やがて英国王室を揺るがす大騒動を巻き起こす……。

=====ここまで。

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 『きっと、うまくいく』でジョイ・ロボを演じていたアリ・ファザールがジュディ・デンチと共に主演、脚本はあの『リトル・ダンサー』リー・ホールということで、見に行って参りました。


◆いきなりタージマハルが出て来て感激!

 アリ・ファザール演じるアブドゥルは、インドのアグラ出身。アグラといえば、タージマハル。本作のオープニングは、タージマハルを遠景にアグラの市街地をアブドゥルが歩くシーンでありました。まぁ、、、なんと、こないだ行ってこの目で見てきたばかりのタージマハルではないの!! 感激。

 で、アブドゥルがイギリスへ行き、ヴィクトリア女王に出会って、女王のお気に入りになって、女王が亡くなるまで側で仕えた、約13年間の出来事を描いているのが、本作であります。

 冒頭で、「この物語は事実です、そのほとんど(almost)において……」という字幕が出るんだけど、根本的に事実と異なるのは、もしかすると“アブドゥルがハンサムである”という本作の設定かも。というのも、エンディングの直前に出てくる実際のアブドゥルと女王の写真(絵かも)を見ると、あんましハンサムに見えなかったから。後からPCでもう一度その顔のアップや、他のアブドゥルの肖像を見ると、ちょっとでっぷりした感じだけど、顔の作りはまあまあなのか……?? とも思った。痩せたらもう少しイケメンに見えたのかもね。

 ……それはともかく。本作では、アブドゥルがハンサムだから女王の目に留まった、ということになっていて、史実はどうあれ、それはそれで良いと思った。ただハンサムだから目には留まったものの、その後、女王が彼のための部屋を宮殿にしつらえるまでに肩入れしたのは、アブドゥルがなかなか気が利く、頭の回転が速い青年だったからだろう。本作では、その切っ掛けになったのが、アブドゥルが女王の足下に跪いて、靴にキスをするというシーンで描かれる。これも実話かどうか知らないけれど、アブドゥルもなかなかのヤツだな、、、と感じた。

 こういう実話モノだと、ありがちなのが、寵愛を受けた者は野心など抱いておらず、純粋に女王のためを思ってひたすら尽くすパターンなんだけど、本作は、アブドゥルも野心家に描いているのが、逆に私には好印象だった。

 アブドゥルと共にイギリスに送り込まれた男モハメドは、アブドゥルが女王の従僕に引き立てられると、アブドゥルのお世話係にさせられる。モハメド自身は、イギリスを憎悪しており、早くインドに帰りたくて仕方がないのだが、アブドゥルは女王だけでなく宮殿や暮らしなどに魅力を感じて、宗主国に対する複雑な感情が見られない。その辺をモハメドにも非難されるが、アブドゥルはお構いなし。一番気の毒なのは、何と言ってもモハメド。彼はイギリスの気候が身体に合わず、ただでさえ嫌いな国にいるというストレスに加え、寒さと生活習慣の違いに衰弱していき、インドに帰ることなくイギリスで病死してしまうのだから。

 そんな現実がありながらも、アブドゥルは女王の側から離れようとせず、女王が死期を悟った際に「もうインドに帰りなさい」と言っても、「いいえ、私は最期まであなたの側にいます」と言って、実際、その通りにした。

 当然、女王の周辺者たちは、そんな状況を良しとせず、アブドゥルを排除しようと躍起になる。彼の目の前で彼を貶めるようなことを散々言われたりされたりしても、アブドゥルはめげずに、女王の側にいつづけるのだから、かなりの強者。

 したたかに居続けたアブドゥルだったが、女王が亡くなると、その息子エドワード7世にアッと言う間にインドに追い返され、女王の身の回りにあったアブドゥルに関する手紙類は全て焼却処分された。だが、最近になって、アブドゥルの遺品に彼の付けていた日記が発見されたことから、詳細が分かったということらしい。


◆モハメドの存在感

 本作は、序盤は、コメディタッチで、劇場でも所々で笑いが起こっていたが、中盤以降は結構シビアな展開になるのが意外だった。脚本のリー・ホールは、決して女王とアブドゥルの関係を好ましいもの一辺倒では描いていない。むしろ、中盤以降は批判的に感じる。それを象徴するのが、モハメドの存在。

 前述したとおり、モハメドはイギリスを嫌っていて、アブドゥルの言動にも批判的だ。しかし、女王の側近がアブドゥルを排斥しようとして、モハメドにアブドゥルの身上を聴取しようとするシーンが、この映画のある意味キモだと思う。

 つまり、インドに帰りたいモハメドは、ここで側近たちの動きを利用し、アブドゥルを売るという選択肢もあったはず。でも、彼はアブドゥルと女王の関係について、ぶっちゃけて言えば「ざまぁ見ろ」的な言葉を側近に投げつけるのだ。お前ら偉そうにしているが、お前らの頭上に君臨している女王は、お前らが見下しているインド人を師と仰いでいるのだゾ、バカじゃねーの、、、、とね。そうして、自分がインドに帰る機会を潰してでも、インド人としての矜持を保ったモハメドの態度は、イギリスに憎悪を抱く者にとっては溜飲が下がることだろう。私は、当事国の人間でないけれど、このシーンは心に沁みた。
 
 こういう実話を単なる美談で描いてしまってはつまらない。これでも大分、キレイに脚色しているはずではあるけど、それでも側近たちの右往左往ぶりや、あからさまな差別発言などが容赦なく描かれているのは、結構なことだ。だからこそ、皮肉も効いている。

 また、ネットでは、女王がアブドゥルに恋愛感情を抱いたのではないか、そういう感情で他の人より寵愛を受けて優位になるなんて、、、というような感想があったが、所詮、女王も人間で女性だ。日頃、孤独で寂しい老女にとって、見目麗しい若い男が目の前に現れれば、心動かされるのは自然な成り行き。恋愛感情を抱いたって不思議じゃない。もちろん、女王の抱いた恋愛感情は、若い頃のそれとは質が違うはずで、肉欲より、精神的なつながりを欲するものだと思う。そういう感情すら否定するのはいかがなものか、と逆に思う。そして、見た目の良い人間が、誰かに寵愛されるのもまた、人の世の常ではないか。そういうことが歴史を動かしてきたなんてのはいっぱいあるのだから、それを否定してしまってどーする? とさえ思うのだけど。

 人間、そんな単純で潔癖じゃないのですよ。


◆ヴィクトリア女王って、実は、、、

 それにしても、この映画を見て、私は、ヴィクトリア女王って実はあんまし賢くなかったんじゃないかと思うようになった。長く女王の座にあったから、それなりに賢い人だと思っていたが、在位期間と教養・能力は、決して比例しないのではないかと感じる。

 なぜなら、彼女は、夫の死後、何度も身分の低い者を寵愛して周囲の反感を買い、トラブルを起こしているのである。アブドゥルが初めてではないのだ。自分のやることなすことが、どういう影響を及ぼすのか、ということを女王として自覚せず、学習せず、同じことを繰り返している。これって、ちょっとどーなの??と思うんだけど。

 ただの貴族の奥様なら別に構わないけど、女王だったら、その辺はもう少し自覚的に行動して欲しいと側近たちが憤るのも無理ないよなぁ、と思う。

 孤独な女王だから心の支えが欲しい、、、ってのは分かるけど、その心の支えを却って危機に陥れるような偏愛ぶりは、異常でさえある。実際、アブドゥルに爵位を与えようとしたときは、周囲に精神状態を疑われるが、これも致し方ないという気がする。

 wikiには、やはり女王がイマイチ賢くなかったことについて「人物」欄に書かれている。まぁ、所詮wikiなので話半分としても、決して思慮深い女性でなかったことは確かなようだ。

 その女王をジュディ・デンチが好演していた。彼女は女王役がよく似合う。大分お年を召したけれど、相変わらずの存在感だった。

 アリ・ファザールは、好青年で、野心家アブドゥルにしては、ちょっと可愛すぎる感じもしたが頑張っていたと思う。彼は今回、オーディションでこの役に選ばれたとのこと。『きっと、うまくいく』では悲劇的な青年役だったが、出番は少なかったけれど光っていたものね。これから世界的な活躍が期待できるかも。

 女王に「ろくでなし」呼ばわりされる長男バーティ(後のエドワード7世)を演じたエディ・イザードは、憎ったらしいオッサンを好演。首相のソールスベリーを演じたマイケル・ガンボンもすっとぼけた感じで、相変わらず素晴らしい。

 

 







アブドゥルはインドに追い返された8年後に46歳で亡くなったとのこと。




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母という名の女(2017年)

2019-02-20 | 【は】



 上記リンクからあらすじのコピペです。

=====ここから。

 メキシコのリゾート地、バジャルタ。

 クララ(ホアナ・ラレキ)とヴァレリア(アナ・ヴァレリア・ベセリル)の姉妹は、海辺の家に2人で暮らしていた。17歳のヴァレリアが妊娠したため、姉のクララは離れて暮らす母、アブリル(エマ・スアレス)を電話で呼び寄せる。お腹の子の父親は、クララが経営する印刷所でアルバイトしていた17歳の少年、マテオ(エンリケ・アリソン)だった。

 やって来たアブリルは、クララやマテオと会話を重ね、ヴァレリアの不安を和らげるように接する。アブリルに不信感を抱いていたヴァレリアも、その様子を見て徐々に信用し始める。

 やがて生まれたヴァレリアの娘は、“カレン”と名付けられるが、ヴァレリアに代わってカレンの世話をするうち、アブリルは独占欲を芽生えさせてゆく。カレンを自分の管理下に置こうとするアブリルに、反発を強めるヴァレリア。娘との関係が悪化する中、ついにアブリルは、深い欲望を忠実に遂行する……。

=====ここまで。

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 昨夏、公開されたときに劇場に行きそびれ、ようやっとDVDで見た次第。想像していたのとゼンゼン違う内容で唖然、、、。


◆サイテーな鑑賞後感

 見終わった直後に思ったことは、「何かイヤなもん見ちゃったなぁ~、ウゲゲェ、、、」でありました。

 何がイヤかって、母親が、娘の恋人と、、、ってのもキモいけど、とにかく、この映画に出てくる人みんな、ゲスなんだよね、ホントに。母親としてとか女としてとか以前に、人間としてどうかというレベルの話で。母親だけじゃない、娘も、その恋人も、父親も、みんな。こんな腐った人々の織りなす物語だから、何というか、キョーレツな腐臭を放っているのも不思議ではないけど。……それにしても、という感じ。

 この作品のキャッチコピー「母性などない。あるのは欲望だけ―― 隣にいるのは母ではなく、女という怪物だった……」ってのも、ちょっといただけないよなぁ。“母性”って、母親の話になると、すぐに使われる言葉だけど、安易だよねぇ。

 ……だったら、どうして劇場に見に行こうと思ったのか、というと、もっと違う内容を想像していたからであります。私が想像していたのは、娘に嫉妬した母親が、良き母親を装って娘の人生を間接的に支配しようとする、娘の意思をことごとく邪魔するようなことをする、そういう陰湿な“怪物”ぶりを見せる話なのかと思っていたのです。

 でも、このアブリルは違う。このオバハンは、怪物なんかじゃない、ただのケダモノ。怪物ってある意味褒め言葉だと思うのよ。凡人には太刀打ちできない知能犯的な感じがあるというか。

 母親が娘に嫉妬するということは、普通に見られる現象だと思うけれども、その反動で、娘の男に手を出してセックスまでする関係になるってのは、ないとは言わないが、かなり稀だろう。まだ、実の母息子の近親相姦の方がありそうな気がする(根拠はありません、ただの勘)。どうしてそこまで稀かと思うかというと、娘の男が拒絶反応を示すだろうと思うから。母親が仮にその気になっても。少なくとも私が男なら、そんな状況、反吐が出ると思うから。

 そういう意味で、この娘の婚約者も、相当のゲスであります。いくら、自分の娘カレンをアブリルに盗られたからと言って、ヴァレリアをほっぽり出してアブリルに着いていくなんて、頭オカシイんじゃないか、としか思えない。

 本作の原題は、“Las hijas de Abril ”で、アブリルの娘という意味だから、まあ、ヴァレリアのことだろう。姉のクララもアブリルの娘だけど。つまり、本作の真の主役は、ヴァレリアのはずだが、このヴァレリアも相当のゲスである。どうゲスなのかは、もう書く気にもならんので、興味のある方はこの映画をご覧ください。

 まあ、ゲス度でいうと、ダントツはアブリルだろうけどね。娘の男と寝たからじゃありませんよ、念のため。終盤にアブリルがとった行動が、ゲスの極みだからです。

 
◆分かりやす過ぎて、、、

 しかし、この監督ミシェル・フランコという人は、何でこんなイヤな映画を撮ったんだろうか。彼の経歴を見ると、「陰湿極まりないイジメで自分の娘を傷つけた少年たちに凄惨な復讐をする父親を描いた『父の秘密』(12)で、第65回カンヌ国際映画祭の「ある視点」部門グランプリに輝き」とある。

 家族の抱える闇を描く作品は、私は基本的に好きだけど、本作に関しては、まったくダメだった。

 どうしてこんなに拒絶感を抱くのか考えてみた。そして至った結論は、「あまりにも分かりやす過ぎる話だから」ということ。

 家族の抱える闇を描くというのは、見る人によっては、今一つピンとこないという人が必ずいるものではなかろうか。人間はそれぞれ育ってきた環境がみんな違う。だから、誰もが“これは問題だ!”という家族というのは、描くのが難しいと思う。そして、仮に、問題を認識できても、家族間でその問題を解決できないことが理解できない人が一定数いるものだ。

 しかし、本作の場合は、多分、99%の人がオカシイと認識するだろう。それくらい、明らかにオカシイ話なのである。そして、本作は、終わりまでに、ある意味、問題を解決できている。そんなに簡単に解決できるものではないのが、本来の家族の抱える闇なのだ。

 つまり、本作は、家族の抱える闇とか何とか、そんなメンドクサイ話じゃなくて、ただの頭のオカシイ人たちの狂ったオハナシでしかない、ということ。だから私の期待していた内容と乖離がありすぎて、ダメだったのだろう、、、と思うに至った。

 それでも、本作を撮った監督の意図というか、動機というか、それは分からないままだ。本作を好きな方には申し訳ないが、一見それなりの顔をした作品だけど、実際は、底の浅いイヤミスみたいな映画だな、というのが正直な感想であります。








この監督の他の作品も、ある意味、興味ある。




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天才作家の妻 -40年目の真実-(2017年)

2019-02-19 | 【て】



 上記リンクからあらすじのコピペです。

=====ここから。

 アメリカ・コネチカット州。現代文学の巨匠ジョゼフ・キャッスルマン(ジョナサン・プライス)と妻ジョーン(グレン・クローズ)のもとに、スウェーデンからノーベル文学賞受賞の吉報が届く。友人や教え子らを自宅に招いたジョゼフは、スピーチで最愛の妻に感謝の言葉を告げる。満面の笑みを浮かべて寄り添うふたりは、誰の目にも理想的なおしどり夫婦に見えた……。

 授賞式に出席するため、ふたりはストックホルムを訪れる。旅に同行した息子デビッド(マックス・アイアンズ)は駆け出しの作家で、父に対し劣等感を抱いている。

 そんななか、ひとりホテルのロビーに出たジョーンは、記者ナサニエル(クリスチャン・スレーター)から声をかけられる。ジョゼフの伝記本を書こうとしている彼は、夫妻の過去を事細かに調べていた。ふたりが大学で教授と学生という関係で出会い情熱的な恋に落ちたこと。既に妻子があったジョゼフをジョーンが奪い取る形で結ばれたこと。作家としては二流だったジョゼフがジョーンとの結婚後に次々と傑作を送り出してきたこと……。そしてナサニエルは、自信ありげに核心に迫る質問を投げかける。

 「“影”として彼の伝説作りをすることに、うんざりしているのでは?」

 実は若い頃から豊かな文才に恵まれていたジョーンだったが、出版界に根づいた女性蔑視の風潮に失望し作家になる夢を諦めた過去があった。そしてジョゼフとの結婚後、ジョーンは彼の“影”として、自らの才能を捧げ、世界的な作家の成功を支え続けてきたのだ。

 そして授賞式当日。複雑な感情をひた隠し、華やかに正装した夫妻は、人生最高の晴れ舞台が待ち受けるノーベル賞授賞式の会場へと向かう……。

=====ここまで。

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 先日、インドに行く飛行機の中で見ました。劇場に行こうかと思っていたのだけど、機内鑑賞で十分だった、、、。


◆女なんだから。女のくせに、、、

 作家になることを夢見る若きジョーンに「女流作家は認められない時代だから諦めろ」みたいなことを言うのは、エリザベス・マクガヴァン演じる評論家だか文学者だか、あるいは編集者だったか、、、あんましよく覚えていないが、とにかく、その女性の一言がジョーンの夢を粉砕したのである。

 本気で作家になりたければ、それくらいで諦めるな、という意見もあるだろうが、時は1950年代である。そんな正論は「寝言は寝て言え」に近い時代なのだ。賢いジョーンだからこそ、そこは身に沁みて悟ったのだと思われる。

 この映画を見ていて、母親が昔話していたことを思い出していた。ある著名な日本画家の妻は、結婚前は夫に引けを取らない才能を持つ画家だったが、結婚して夫を画家として大成させるために自分は筆を折った、、、ということを、「偉い人やろ、夫のために(嘆息)」と、さも美談として私に言って聞かせたのである。母親は娘に「(勉強で)誰にも負けるな」と尻を叩く一方で、優秀な男に尽くす女を理想像の一つとして娘に押し付けるという、何とも矛盾する教育をしていたのである。そういう母親自身が、夫(私の父親)に自己犠牲を払って尽くしている場面は、娘の私はただの一度だって見たことがない。でも母親には自分が夫に尽くさないのには正当な理由があるのだ。「自分が尽くすだけの値打ちのない男だから」……娘の私から言わせてもらえば、父親の方がよほど自己犠牲を払って我慢していた夫婦だったと思うが。

 ……それはともかく、そんな風に、夫のために自己犠牲を強いられた女性は多いだろう。それを自己犠牲と認識していたかいないかは分からないが、ジョーンはしていたのだ。最初は、自覚はなかったかも知れない。しかし、どこかで割り切れない思いはずっと抱えていただろう。アタリマエだ。

 才能があるのに“女なんだから”という理由で、“女のくせに”と出る杭は打たれ、その才能の芽を摘まれた女性は、歴史を辿ればきっと枚挙に遑がないに違いない。

 そして、それは21世紀においてもまだまだ岩盤リアルである。大体、“女流”作家という言葉自体が、えらく失礼な言葉ではないか。男流作家という言葉がある? 女流=傍流という意味なのでは? こういうことを書くと、すぐにフェミだ何だとアレルギー反応を示す人々がいるけど、そういう人々に限ってフェミをイメージでしか捉えていないからタチが悪い。まあ、フェミにもツッコミ所満載な脇の甘さがあるのは認めるけれど。


◆ジョーンという女性をどう見るか。

 じゃあ、私はこの作品を見て、ジョーンに共感したのか、、、というと、実はそうでもなかった。

 途中まではね、まあ、嗚呼、、、と思って見ていたのだけれど、終盤、夫のノーベル賞授賞式でブチ切れるところで着いていけなくなってしまった。なぜそこでキレる?? それは恐らく、夫が、気恥ずかしくなるような歯の浮きまくった妻を称えるスピーチをしたからだろう。しかし、それまで理性的だったジョーンが、あの場でキレるというのは、ううむ、映画としての見せ場なのは分かるが、あまり賢いとは思えない行動ではないか。

 もちろん、あの場でキレるのが一番夫にダメージを与えることになる。だから、そういうシナリオにしたのだと思う。けれども、ジョーンのキャラから言って、あれはないだろう。あんなことをするくらいなら、とっくにジョーンは夫に見切りを付けていたのでは?

 もっというと、私は、ジョーンが40年もあの夫婦関係を維持してきたことの方が違和感を覚えた。なぜなら、あまりにも夫に魅力がないから。小説家としての才能もイマイチ、女癖は悪い、不健康で自己管理も出来ない、見栄っ張りで傲慢、、、と、良いところが見当たらない男なのだ。それでも、ジョーンは彼を愛してきたというのなら、何もあんな場面でブチ切れることはないだろう、、、と。

 夫婦というのは、良くも悪くも“割れ鍋に綴じ蓋”なのである。40年も持続した関係なら、どっちもどっちのはずだ。妻だけが上等で、夫だけがゲスという関係は成立し得ない。もしそうなら、とっくに破綻しているはずだ。

 ……と書いてきて思ったのだが、いや、あそこでブチ切れるようなレベルの妻だから、あの夫と40年も夫婦でいられた、、、のかも知れないなぁ。夫婦が産み出した文学作品はハイレベルだったかも知れないが、当の夫婦自体は低レベルだったのかも。……うん、それなら納得だ。

 
◆その他もろもろ

 グレン・クローズは、ものすごい貫禄あるオバサンになっていてビックリ。もう、御年72歳だそうで。オスカー最有力と言われているようだけど、果たして受賞なるでしょうか。ちょっと作品自体が地味でイマイチだから、ビミョーな感じではあるけど。まあ、ノミネート何度もされていながら、まだ受賞したことがないようなので、是非、受賞して欲しいですけど。割と好きなので、彼女。

 ジョーンの若かりし頃を演じていたのは、グレン・クローズの実の娘アニー・スターク。道理で似ているわけだ。見た目が違和感がないなぁ、と思いながら見ていたら案の定。演技も悪くなかったし、決して親の七光りなんてのじゃないと思う。

 夫の若い頃を演じていたのがハリー・ロイドというイギリス人俳優だけど、まあ、これがホントにヤな野郎で。こんな男の何が良くてジョーンは惚れたのか、、、。分からん。趣味悪い。

 現在の夫役は、ジョナサン・プライス。『未来世紀ブラジル』は映画自体も私は全然ダメだったし、ジョナサン・プライスもあまり良い印象はない。本作でも、どうにもいけ好かない役で、相変わらず印象悪いまま。彼に罪はないけど、すんません。

 夫婦につきまとうジャーナリスト役・ナサニエルをクリスチャン・スレーターが好演。『薔薇の名前』の頃の面影ナシ。

 先日、NHKのクロ現で、川端康成と三島由紀夫の自殺を取り上げていて、2人の自殺とノーベル賞を関連付けていた。2人ともノーベル賞が喉から手が出るほど欲しかったらしい。川端は受賞し、三島は候補に挙がっていながら受賞しなかった。そして2人とも自死した。……ノーベル賞って、凡人からするとあまりにも想像できないものだけど、もらって幸せになれるモノじゃなさそうだよね。昨日も、NHKスペシャルで、ノーベル賞を若くして受賞した田中耕一さんのその後についてオンエアしていたけど、苦悩の16年とか言っていたものね。前から、なんであんな高齢者にばかりあげるんだろうとナゾだったけれど、やはり、人生の花道を飾るべく死にそうな爺さん・婆さんにあげるのがその人のためだ、ってノーベル財団側は分かっているのね。

 あと、本作は、ジェンダーの側面からも批評されているけれど、私は上記に書いたとおり、ジョーンがあんまし上等な女性に思えないので、そういう視点で語る値打ちのある話にも思えない。ただ、この映画は、男性ウケはあまり良くないのではないかな、という気はする。なんたって、当の夫がジョーンがブチ切れたショックで、心臓発作で授賞式直後に死んでしまうのだからね。しかも、その後、帰国する機内でのジョーンの表情が、、、、。あれで、世の殿方はちょっと憤慨するんじゃないかしら。まあ、あのシーンをどう見るか、受け止め方はイロイロでしょうけど。

 







ノーベル賞受賞者には専属カメラマンが着くんだ~!!




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ジュリアン(2017年)

2019-02-03 | 【し】



 11歳の少年ジュリアンは、両親が離婚するに当たり、「アイツ(父親アントワーヌ)とは二度と会いたくない」という手紙(陳述書)を裁判官宛に提出する。母親ミリアムも、離婚後は一切アントワーヌとは関わりたくないため、単独親権を主張する。しかし、アントワーヌは、そんな手紙をジュリアンが書いたのは、母親に何か吹き込まれたからであり、子どもにとって父親は必要だと強く主張し、共同親権と共に、隔週末の面会権を求める。

 ミリアムとジュリアン、そして長女ジョゼフィーヌは、アントワーヌと関わらずに済むよう、電話番号を頻繁に変えたり、転居したりしているのだが、驚いたことに、裁判所はアントワーヌの主張を認め、ジュリアンはこれから2週間に1度、アントワーヌと週末を過ごさなければならなくなる。

 そうして初めての週末がやって来る。アントワーヌがミリアムの実家にジュリアンを車で迎えに来る。行きたくないジュリアンはベッドの上で動こうとしないが、アントワーヌは実家の前で車のクラクションを執拗に鳴らし、携帯にも電話をかけてきてミリアムを恫喝する。その様子を見てジュリアンは、自分が我慢するしかないと、まるで生け贄になるかのようにアントワーヌの車に乗り込むのであった。

 最初こそ、アントワーヌの実家で祖父母も交えてどうにか過ごしていたが、次第にアントワーヌはその暴力性を剥き出しにして、ジュリアンを脅してミリアムに再接近しようと画策し始める。ジュリアンは母親を守りたい一心で嘘を突き通そうとするのだが、、、。


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 昨年から、公開されたらすぐ見に行こうと決めていたので、早速、見に行って参りました。


◆共同親権

 若いシングルマザーの育児放棄が時々ニュースになっているのを見て、そして決まって母親だけがまるで鬼母だとばかりにメディアや世間から集中砲火を浴びている状況を見て、“どうして父親の責任は問われないのか?”と憤りを覚えると同時に、日本も共同親権を認めて、離婚後も父親の義務をきちんと履行させるようにしたら良いのに、と思っていた。

 けれども、何年か前に、共同親権の問題点……つまり、DV家庭の場合の共同親権について新聞かネットで記事を読み、私の考えは非常に底が浅い短絡的なものだと思い知らされた。また、最近では、憲法学者・木村草太氏のTwitterを時々見る機会があり(精神科医の斎藤環氏のTwitterをよく見るのだけど、斎藤氏が時々木村氏のツイートをリツイートしているため)、そこで、単独親権派VS共同親権派の凄まじいやりとりを見て、この親権問題は、私の思うよりも遙かに複雑で難しいのだと衝撃を受けている。

 つまり、DV家庭の共同親権は論外ながら、母親が子どもを父親に会わせたくないがためにありもしない父親のDVを捏造・偽証して父親の面会権を奪っているケースが実際に起きており、こういう不条理を防ぐためには共同親権を早く法整備すべきだという人々もいるのである。そして、木村氏(共同親権反対派)のTwitter上では、それはそれは凄まじい両派のやりとりがなされていて、正直なところ、見ているだけで暗澹たる気持ちになってくる。

 私は、木村氏に何の思い入れもないし、木村氏の主張が全面的に正しいとは思わないが、共同親権主張派の書込みにも賛成できかねるものが多い。そして、今の私は、共同親権慎重派である。

 そこへ持ってきて、本作の鑑賞である。ほとんど、ダメ押しに近い。

 アントワーヌに親権と面会権を認めた裁定がとんでもない誤りであることは、その直後から明かされていて、終盤それが社会的に暴露される事件が起きてしまう。

 オープニングの、裁判所の調停シーンが結構長いのだが、本作のパンフによれば、調停は20分くらいしか開かれず、裁判官はその短い時間でのやりとりで裁定を下さなければならないらしい。つまり、夫婦の実態を調査する時間はないのだ。私が判事なら面会権は認めないだろうと感じたので、作中で認められたのは非常に驚きだった。ジュリアン自身の赤裸々な手紙が読まれたにもかかわらず、どうして裁判官は認めたのか、その理由が知りたかったが、作中で説明はなかった。

 パンフ内で、フランスでは「司法の考えでは、暴力が子どもではなく親に向けられている場合は、親子のつながりを断つ必要はないとされています」と、監督のグザヴィエ・ルグランはインタビューに答えている。この考え方はちょっと信じがたい。でも、多分、作中の裁判官も、こういう基本方針に基づいたのだと思われる。

 確かに、アントワーヌは、最初から最後まで、作中でジュリアンに暴力を直接はふるわない。しかし、ジュリアンを怯えさせるようにモノに当たったり、大声で怒鳴ったり、車を乱暴に運転したりしているのである。これは、暴力をふるっているのと同じことでしょ? 現に、ジュリアンはビクビクしていて、アントワーヌから少しでも身を離そうという素振りを見せ、ある時は、急に走り出してアントワーヌから逃げ出しもするのである。ここまで怯えている息子との「つながりを断つ必要はない」という司法の思考回路は信じがたい。DVを舐めているとしか思えない。

 ……というよりも、司法でさえも、家庭内暴力の闇は分からないのだ。家庭内で起きているあんなことも、こんなことも、外からは見えない。夜、その家の窓に灯りがともっていれば、そこには暖かい一家団欒があるだろう、、、と想像することはあっても、そこで凄まじいDVが展開されているだろうとは想像しにくいものがある。だからこそ、これは対処が難しいし、なかなか悲劇が後を絶たない原因でもあるのだろう。

 パンフには、「単独親権か共同親権か?」と題した上野千鶴子氏の寄稿も載っていた。一部引用すると、、、

 「日本では、離婚後単独親権を9割以上妻側が取得している。だが、夫側親権と妻側親権が逆転したのは60年代半ば……(中略)……女にとって、婚家を去ることが子どもを置いて出ることと同義だった。(中略)……親権を獲得した夫が子育てをしたかというとそんなことはない。祖父母がいたから親権が持てたのだ。
 ーー中略ーー
 共同親権を別れた妻へのペナルティやいやがらせに使う夫は多い。日本でも面会権を盾に、養育費を払わない夫もいる。これが共同親権になれば、父親の権利はますます強くなるだろう。
 ーー中略ーー
 タテマエだけの形式平等を通せば、実態とのズレが生まれる。男が今のままで変わらないのなら……単独親権の日本の方がまだまし、と思えるのが、この映画の教訓かも知れない。」


 果たして、本作を鑑賞した方々はどう思われるだろうか?


◆イヤらしい男、ブチ切れる男。

 以下、結末に触れています。

 グザヴィエ・ルグラン監督は、本作を撮るに当たり、『狩人の夜』『シャイニング』を大いに参考にしたらしい。なるほど、確かにそう言われればそうかも。

 アントワーヌのイヤらしさ、不気味さ、怖ろしさは、確かに『狩人の夜』のロバート・ミッチャムを彷彿とさせる。終盤のブチ切れ、妻子宅への猟銃ぶっ放しで乗り込みに至っては、斧を振りかざして妻子を追い回した『シャイニング』のジャック・ニコルソンそのまんまである。

 とにかくアントワーヌは、本当にイヤな男に描かれている。見た目からして嫌悪感を抱いてしまう。むしろ、ミリアムはこの男の何が良くて結婚したのか、とさえ思うほど。しかも長女ジョゼフィーヌは18歳で、ジュリアンとの間に7年開きがある。ということは、アントワーヌの人格が、ジュリアンが生まれた後に変貌したということなのか? それとも、DVは以前からあって、夫婦生活もレイプまがいのものがあったのか。この夫婦の過去を想像するのが難しい。

 ジュリアンと自分の実家で両親と共に過ごしているところで、アントワーヌがキレるシーンがあるのだが、そこでキレそうになっているアントワーヌに父親が「やめろ、やめておけ」と何度も言っているし、ブチ切れた後、やはり父親に「お前はいつもそうだ、みんながうまくやっているのをぶち壊す。子どもたちがお前に会いたがらないのも当たり前だ!!」と言われている。つまり、アントワーヌの元々の気質なのではないか、暴力的なのが。

 そういう男の特徴なのか、時折、ミリアムに泣き落とし作戦に出る。「俺は生まれ変わったんだ(大泣き)」とか言って、拒絶反応を示しているミリアムを抱き寄せたり(キモい!!)、かと思うと、ミリアムが別の男とただ話しているだけで「あれが今の男か、え?」等と言って首を掴んで押さえ付けたりと、もう、最低最悪なことばかりしているのだ。どうしてそういうことをすればするほど相手に嫌われるってことが分からないのだろうか。

 これについて、やはりパンフで、夫婦問題のカウンセラーという高橋知子氏の寄稿があるので、一部引用したい。

 「DVの夫との離婚では、夫は離婚で全てを失った喪失感に常に苛まれるが、子供をもつ妻は不要なものをようやく捨てることが出来たという感覚でいることが多い。母親は、父親のような孤独感を持たない。/DVの夫は、別れた妻が自分を嫌うことさえ許せない。DVの加害者は、被害者を自分がストレスを発散するために必要な人と捉えている……(以下略)」

 ……まあ、離婚でなくても、ただの失恋でも、中島みゆきじゃないが、立ち去る者だけが美しく、去られた方は“追いかけて焦がれて泣き狂う”わけだから、ましてや、子どもにまで嫌われ去られては、自分の存在を全否定されたも同然のような気分になるのだろうか。でも、自業自得じゃんね、DV夫の場合は。


◆その他もろもろ

 ハネケやシャブロルを敬愛しているという監督だけあって、終始緊張感が支配する映画だった。特に、音が効果的。電話の音、クラクションの音、車が急発進する音、エレベーターが昇降する音、、、etc。音楽はなくても、それらの音がジュリアンやミリアムの心理を代弁していて素晴らしかった。

 イヤらしさ全開のアントワーヌを演じたドゥニ・メノーシェは、フランス人だけど、ヘンリー8世とか演じたらハマリそう、、、と思ってしまった。顔といい、体型といい、肖像画そっくりなんだもん。サイコーに嫌悪感を催す演技を見ると、きっと、良い役者さんに違いない。

 ミリアムを演じたレア・ドリュッケールは、誰かに似ているなぁ、、、と終始感じていたのだけど、いまだに誰か分からない、、、。ちょっと薄幸そうで、“お母さん”という感じは希薄な印象。

 そしてなんといってもジュリアンを演じたトーマス・ジオリア君が素晴らしかった。この脚本の状況を理解して、それをきちんと想像していないと、演技など出来ないと思うのだが、あの歳でスゴいと感心してしまった。……というか、子どもは大人が思っている以上に状況を理解し判断する能力があるっていうことだね、きっと。

 ラスト15分くらいは、手に汗握る。私が感動したのは、緊迫した状況で、緊急通報を受けた警察官が、司令室で冷静にミリアムに対し「このまま電話を切らないで。マダム、落ち着いて。警察が今向かっています。……施錠できる部屋はありますか? そこに入って入り口を何か大きなモノで塞いでください。……バスルームにバスタブはありますか? そこに入って。電話は切らないで、大丈夫、もう少しの辛抱ですよマダム、警察がもうすぐ着きます……」とずっと言葉で指示&支援し続けたこと。『シャイニング』では、シェリー・デュヴァルは孤独に闘っていたもんね、、、。この差は、恐怖のまっただ中にある人にとって凄く大きいだろうと思った。日本の警察もああいう風にしてくれているのかしらん? 110番通報したことないから分からないけれど、きっとしてくれていると信じたい。

 
 




フランスでは2日半に1人の割合でDVの犠牲となった女性が亡くなっている、とのこと。




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