映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

スリー・ビルボード(2017年)

2018-02-17 | 【す】



以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 ミズーリ州の寂れた道路に掲示された巨大な3枚の広告看板。そこには警察への批判メッセージが書かれていた。設置したのは、7カ月前に何者かに娘を殺されたミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)。

 犯人は一向に捕まらず、何の進展もない捜査状況に腹を立て、警察署長ウィロビー(ウディ・ハレルソン)にケンカを売ったのだ。

 署長を敬愛する部下(サム・ロックウェル)や町の人々に脅されても、ミルドレッドは一歩も引かない。その日を境に、次々と不穏な事件が起こり始め、事態は予想外の方向へと向かっていく……。

 =====ここまで。

 予告編からシリアスなサスペンスを予想していたのだけれど、蓋を開けたらブラックコメディだった、、、ごーん。

   
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 何かを見に行った際の予告を見て、ううむ、、、と思いつつも興味を引かれたので、見に行ってまいりました。凄惨な事件が発端であり、かなりの暴力シーンもあるにもかかわらず、結構笑えるシーンが多くて、、、、笑っちゃった。


◆孤高のミル姐さん

 真っ赤なバックに黒い文字の告発文句の書かれた看板が3枚並ぶ。この光景だけでインパクト絶大。画になる。

 ……しかし、日本の警察も不祥事だらけでお粗末だけど、アメリカの、しかも田舎のそれは比べものにならないくらいにヒドイ様子。本作の舞台がミズーリに設定されたのも、ファーガゾン事件でその名が差別と格差のアイコンとなったからかも知れないけれど、それにしてもこのザマったらない。少なくとも、日本の警察署には、一晩中ちゃんと人はいるシステムになっているもんね。おまけに、警察官が一般市民をボコボコにしたら、さすがに大問題になるし、警察官は逮捕されること間違いナシだが、ミズーリでは警官クビになって終わり、、、ってホントかね? どっひゃ~、って感じだわ。そんなとこ住みたくないよなぁ。無法地帯やん。

 あれじゃぁ、そら凶悪犯罪の犯人でも捕まらんわけだ。署長がいくら地元民に慕われているっていったって、それとこれとは別の話だし。ミルドレッドがあのような大胆な行動に出るのも道理というもの。実際、看板が掲げられて警察は重い腰を上げているのだから、捜査の実態なんて推して知るべしだ。

 日本であんな看板が掲げられたらどうなるのだろうか、、、。と、想像してしまった。そもそも、看板を掲げてくれる代理店があるか、って話だよね、我が国の場合は。国家権力にケンカ売るなんてちょっと、、、と尻込みするんじゃないかね。特に今の日本ではそうなりそうな感じがする。仮に、看板を掲げても、アッと言う間にネット民の餌食になって、掲げた主も、代理店も、吊し上げられるのがオチだろうなぁ。

 まあ、本作でもミルドレッドは地元で白眼視されるんだけど、そこで怯まないのが素晴らしい。孤高の闘うアウトロー、、、ハリー・キャラハンとダブっちゃったわ。

 でもねぇ、、、そう思って見ていられたのも中盤まで。後半、警察署に放火するシーンは、ちょっとミル姐さんやり過ぎ、、、と思って引いてしまった。気持ちは分かるが、あの行為に大義名分はない。あそこまでやったら看板掲げた意義が根本的になくなっちゃう。……まあでも、これは映画なのだ。

 そんなアウトローなミル姐さんも、どこからか現れた野生の鹿に、ふと心を許して涙する、、、。また、何かと力になってくれる小男ジェームズに八つ当たりしてしまい、「しかめっ面の広告女でみんなを非難してばかり」と言われて、ひどく落ち込む、、、。

 とにかく、ミル姐さんの取り返しのつかない後悔の念と、怒りと、そのやるせなさで全編覆い尽くされていて見ていて辛い、、、、と言いたいところだが、それがそーでもないんだな、これが。


◆怒りはちゃんと表出した方が良い感情です。

 笑える、と最初に書いたけれども、何が笑えるって、ミル姐さんを取り巻く人々。

 サム・ロックウェル演じる警官ディクソン、ミル姐さんが看板を依頼する広告代理店のオーナーの兄ちゃんレッド(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)、ミル姐さんの元夫、元夫の19歳の彼女、ミル姐さんを何かと助けるジェームズ、みんな一見ヤバそう、バカそう、、、で、実際、ヤバくてバカな一面をあちこちで発揮してくれるシーンが笑える。アハハな笑いじゃなくて、クスッ、とか、グフッとか、そういう笑い。あー、あるある、いるいる、、、え? いるかこんなヤツ!! みたいな。

 本作の面白さの最大の要素は、ここだと思う。つまり、どの登場人物も、全てしっかり多面体で描かれているということ。ヤバそうでバカそうな人々も、決してそれだけじゃない、ってこと。人間、そんな単純な生き物じゃないんだよ、って。

 ただねぇ、私は、だからこそ気に入らない展開が2カ所あったのよ。一つは、署長が自決しちゃうとこ。もう一つは、ディクソンが署長の手紙を読んで一瞬でイイ警官に豹変しちゃうとこ。

 署長の遺書が読まれても、何で彼が自殺しちゃったのか、今一つピンとこなかった。膵臓がんで治る見込みがなく、治療で苦しむから、、、みたいな内容の遺書だったけれども、どうせ死ぬんだとはいえ、幼い娘が2人いて、妻もいる身で、そらねーだろ、と思う。おまけに、あの状況で自殺すればミル姐さんがさらに追い詰められると分かっていての自殺。看板の維持費を罪滅ぼし(?)に遺してのこととはいえ、何だかなぁ、、、と。これは、私自身が自殺に対して非常に嫌悪感を持っているから、というのも大きいが、、、。そこに納得できる理由があれば別だけれど、この署長の自殺にはそれがないように思える。ただの自己完結。それって、究極のエゴじゃない? そして、ストーリーを面白くするため、といった発想から“自殺”を盛り込んでいるシナリオは、もっと嫌悪感を抱いてしまう。本作がそうなのかは正直分からないのだけれども、あそこで署長が自殺する必然性が感じられない。展開上、見ているものを裏切るための“ツール”として自殺を選択したのだとしたら、脚本家としては尊敬できぬ。

 そして、ディクソンの豹変については、あまりにご都合主義な感じを受ける。ならば、署長が生きている間にどうしてイイ警官になれなかったのさ。署長を慕っていて、署長にも可愛がられていたのに。おまけに、命の危機を省みずに、よりにもよって毛嫌いしているミル姐さんの娘の事件のファイルを抱いて火の海の中を脱出する、ってのは、、、ううむ、これは映画だからってことで納得するしかないのか?? まあ、生きている好きな人に言われる言葉より、死んだ好きな人に言われたような気になる手紙の言葉の方が、心に沁みる説得力があるのは分かりますけどね。それにしてもね、、、というツッコミは、イチャモンに近いんですかね?

 本作のキーワードは“怒り”だそうで、元ダンナのおバカ彼女のセリフ「怒りは怒りを来す」のセリフに集約されていて、怒りが物事を悪い方へ持って行くみたいなニュアンスだけれど、怒りって大事な感情なんだよ。あんまり理性でコントロールしすぎるのも良くないと思う。きちんと、怒りは怒りとして表に出さないと。怒りは怒りを来すかも知れないけれど、怒りを封じ込めると、それは恨みとか、念とか、もっと厄介な感情に変質していくんじゃないかなぁ。だから、ミル姐さんが看板掲げたのは正しい怒りの表現だったと思う。警察署に放火したのは、正しくない怒りの表現だったけどね。……というか、あの放火は、怒りと言うより、ヤケクソ、八つ当たり、って感じかな。

 まあでも、ラストシーン、ミル姐さんとディクソンがアイダホに向かう車の中で、「それは道々決めよう」と話して終わるのは良かった、、、。怒りを、恨みにしなくて済みそうな余韻が良いと思う。


◆その他もろもろ

 なんと言っても、ミル姐さんを演じた、フランシス・マクドーマンドが素晴らしかった。もう、男か女か分からないユニセックスな感じで、キレイに見せようとかゼンゼンないところが、却ってステキだった。彼女の家の前にあるブランコでのシーンが印象的。そこからは例の3つの看板が見下ろせる。ここで、署長やマクドーマンドと話をするミル姐さん。どんなにアウトローな厄介おばさんでも、彼女の心の奥底を思うと、やはり哀しい。そんな哀しみと怒りを、ユーモア交えて好演されておりました。これは主演女優賞でオスカーかもね。

 ディクソンを演じたサム・ロックウェルもとっても良かった。田舎のおよそやる気のなさそうな警官を、その腹の出かかった中年体型と、いっつも二日酔いっぽい振る舞いで見事に表現。差別主義者とはいえ、大した思想に基づくものじゃなく、ただそういう環境で育ったからそうなった、というだけの単細胞な感じがよく出ていて笑わせてもらいました。レッドのオフィスに殴り込みに行くところは圧巻。あのイカレっぷり、もうほとんど狂った人って感じだった。

 署長は、ウディ・ハレルソン。イイ人役だったけど、この人は、やっぱし悪人顔のような気がする。ミル姐さんの元夫役ジョン・ホークスもgoo。見るからに壊れたDV男って感じでヤバかったけど、面白かった。

 でも、私が一番印象に残ったのは、代理店の兄ちゃんレッドを演じたケイレブ・ランドリー・ジョーンズかな。ディクソンにボコボコにされて、入院している病室に、今度は火傷したディクソンが運ばれてくる。そこでのレッドとディクソンのやり取りが実に可笑しい。憤りながらも、ディクソンにオレンジジュースを入れてあげるレッド、イイ奴だ。この、ケイレブ・ランドリー・ジョーンズは、これから有望株なのでは? と思ったんだけど、どーですかね。

 音楽もなかなか良かったなぁ。ディクソンが署長の手紙を読むとき、ABBAの「チキチータ」が流れるのが意外だった。何でチキチータだったんだろ? まあ、歌詞がディクソン宛の署長の言葉と通じるモノがあるといえば、あるかも、、、だけど。
 


  








ありきたりなオハナシではないです。




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ベロニカとの記憶(2015年)

2018-02-11 | 【へ】



 トニー(ジム・ブロードベント)は、定年後、趣味の延長で小さな中古カメラ店を営み、離婚した元妻や娘ともそこそこ良い関係を保って穏やかな日々を過ごしていた。

 そんなある日、遠い昔の初恋の女性ベロニカの母親セーラ(エミリー・モーティマー)から、「添付品をあなたに遺します」と書かれた遺言がトニーの下に届く。けれども、肝心の添付品がない、、、。トニーが弁護士に確認すると、その添付品はセーラの日記だと分かる。しかも、その日記を、娘のベロニカがトニーに渡すことを拒んでいるという。

 これをきっかけに、トニーは若かりし頃の自分と向き合うことに、、、。ベロニカに恋をしていた頃の自分の本当の姿とは、、、?

   
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 シャーロット・ランプリングが出演ということもあり、封切り時から見に行きたかったのだけれど、何かとバタバタしていてようやく見ることができました。彼女は、現在の老いたベロニカ役。……そんなに期待していたわけじゃないけど、思っていたのと(良くない意味で)違う感じの作品でした、、、。 


◆記憶の上書きって、そこまで都合良くできるものか??

 なぜ、セーラは、自分の娘ではなく、娘の大昔の恋人に自分の遺言を託したのか。この辺りの謎解きが本作のタテ糸となっているんだけど、謎解き自体はそれほど意外性はない、という感じ。……まあ、フツーに考えて、そのようなものを赤の他人に託すってことは、娘に知られたくないことが書かれているから、ってことでしょうな。そして、その通りの展開になるわけで。

 トニーとベロニカは、ベロニカの家にトニーが泊まりに行くほど親しくなってもなかなか一線を越えないまま、そのうち、トニーの友人であるエイドリアンが、「ベロニカと親しくなった」と告白の手紙をよこしてくる。恋人同士のつもりだったトニーとしては驚くが、「ゼンゼン問題ないよ!」などと書いた葉書を返し、手元にあったベロニカとの写真は全て、ベロニカとの思い出の場所である橋から川に投げ捨てて気持ちを整理した。

 ……というのが、トニーの“ベロニカとの記憶”なんだけど、事実は全く違うものだったことが後から分かる(その事実の内容は敢えて書きません)。

 どうして、トニーがそんな全く異なる記憶をしていたか。、、、それは、その出来事の直後に、エイドリアンが自死したから。エイドリアンが自死した理由はよく分からなかったが、結局、ベロニカともそれっきりとなっていたのだった。

 誰でも、自分に都合の悪いことは、勝手に脳内変換して記憶するということはしているはずだけれども、こんな重大な事をここまでキレイに記憶を書き換えているというのは、果たしていかがなものか。人一人亡くなっている出来事でショックによる健忘症とでも考えれば良いのか?

 私もイイ歳になって、昔のことを色々思い出しては気絶しそうになることが度々あり、そういうときは、都合の悪い部分に関して記憶喪失になりたいとさえ思うほどで、むしろ、恥ずべき行為ほど鮮明に覚えている気がする。もちろん、その記憶にも修正が掛かっており、事実はもっともっと悲惨なものかも知れないが、少なくとも、トニーほどあからさまな“記憶喪失”は、ちょっと信じがたい。

 でも、、、本作を見て思い出したのだけど、私がフェイスブックなどのSNSを絶対にやらない理由(詳細は『ソーシャル・ネットワーク』に書いたけれど、要は、自分が誰かを知らないうちに傷つけたことがないという確信がない、ということ)を知り合いに話したところ、「今までの人生、そんなヒドいことばっかしてきたの? 自意識過剰じゃない?」と、もの凄く脳天気に笑いながら言われ、それがまた、かなりショックだったのよねぇ。確かに、自意識過剰かもだけど。(脳内変換したのではなく)封印した記憶を掘り起こされるのって、イヤじゃないの? というか、掘り起こさせるのがイヤだ。SNSとは、そういう封印した(恥ずべきor辛いor哀しい)記憶を問答無用で開封させてしまうところが、私にとってハードルが高いのだけれど、、、。これ、書き出すと長くなるからこの辺でやめときますが。

 ただ、あまりに辛いことに遭遇すると、確かに、過ぎ去ってからその時期を振り返ったとき、あまり思い出せないことが多い、というのも事実。辛かった、ということは覚えているけど、その頃に自分が何をしていたかとか考えていたかとか、あんまり覚えていない。多分、辛すぎて忘れようとする脳の作用なのかも知れない。

 しかし、トニーのように、自分の恥ずべき行為をあそこまでキレイに別の記憶に書き換えてしまうのは、やっぱりちょっと違う気がするのよね。ううむ、、、この辺りの展開を受け容れられるか否かで、本作への感想もゼンゼン違ってくるんでしょう。私はちょっと、受け容れられないクチです。


◆トニー、嫌い、、、。
 
 ……ということを脇へ置くとしても、正直言って、私は、現在の老人となったトニーが、非常にデリカシーのない、図々しい自己チュー男に感じてしまい、ハッキリ言って嫌悪感すら抱いてしまった。

 例えば、トニーの娘・スージーが出産を控え病院に駆け込んだ際、別れた妻が後からやってくるんだけど、その妻に、ベロニカのことをしゃべったり(時と場所をわきまえろよ、、、)。ベロニカに冷たくあしらわれた後、ベロニカをつけ回したり、それだけにとどまらず、ベロニカと一緒に歩いていた青年に別の場所で偶然を装い声を掛けたり(図々しいなぁ、、、)。その青年を、ベロニカとエイドリアンの息子だと勝手に思い込んだり(相変わらず思い込み激しいなぁ、、、)。

 ダメ押しは、終盤。自分の記憶とは全く異なる事実を突き付けられて、反省したのは良いとしても、ベロニカに謝罪の手紙を書いてそこに「自分にできることがあったら言ってくれ」とか「自分の店に来てくれ」とか書いたり(デリカシーなさ過ぎ、、、)、別れた妻に「自分勝手だった、許してくれ」などと、それこそ勝手な謝罪をしてみたり(どこまで自己チューなんだ、、、)。ゼンゼン反省してないやん。

 この終盤は、原作にはなくて、映画化に当たって創作されたものだとか。そうだろうなぁ。こんなゆるいエンディング、ちょっとセンスが悪い。これで、トニーの株をさらに下げたと思うなぁ。ここで、ああ、良かったね、と思う人もいるんだろうけど、、、。どーだか。

 若い頃のトニーはフツーの好青年だと思って見ていたけど、あんまりな記憶喪失ぶりに、どんどん印象が悪くなるし。

 若かりしベロニカも、なんだかいけ好かない。トニーの心をもてあそぶみたいな言動にイラッとくる。それに、正直言ってあんまり魅力的な少女に見えない。可愛いけれど、なんというか、それだけ、みたいな。カメラが趣味で、フランス語に興味があって、、、みたいな描写もあるんだけど、今一つベロニカの魅力につながっていない。

 ベロニカの母親・セーラは、意味深な存在として描かれており、正直なところ、この辺で展開がうっすら予想がついてしまった。まあ、別に、それで見ていて興味が削がれるわけではないので構わないんだけどね。

 とにかく、登場人物がみんな、ちょっとね、、、、という感じで、あんまし好きになれない人ばっか、ってのがツライとこ。


◆その他もろもろ

 シャーロット・ランプリングの出番は少なくて、併せて10分くらいかしら。もうちょっとあったかな。、、、でも存在感はさすが。相変わらず、クールビューティでござんした。彼女の冷たい眼差し、シビれるわぁ~。

 若いベロニカを演じていたフレイア・メーバーという女優さん、可愛いけど、長じてシャーロット・ランプリングってのは、あまりにも雰囲気が違いすぎるというか、、、。もう少し、キャスティングを考えても良かったんじゃないのかしらん。フレイアちゃんは、そばかすだらけの小悪魔・ビッチタイプで、クールとはゼンゼン違う感じだったから。

 肝心の、若いトニーを演じていたビリー・ハウルは、なかなか好演。老いてジム・ブロードベントになる、ってのは、良いのか悪いのか、、、。ビリーくん、まあまあ可愛い顔しているし、演技もgooなので、今後も活躍するかもね。

 スージー役のミシェル・ドッカリーは、「ダウントン・アビー」以来。貴族のお嬢様の方がハマっていたような。本作では、あんましスージーのキャラがよく分からない脚本で、ちょっと存在感薄かったかなぁ。あと、「ダウントン・アビー」で、最終版にミシェル・ドッカリー演じるメアリーと結婚したタルボット役のマシュー・グードも、トニーの学校の先生役で出ていました。

 原作は、『終わりの感覚』というタイトルの小説とのこと。珍しく、邦題の方がイケてると感じたのは私だけ?



 






実の父親にマタニティー教室に一緒に来てもらいたい娘って珍しくない?




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女の一生(2016年)

2018-02-05 | 【お】



 19世紀後半のフランス北部ノルマンディーに暮らす、男爵家の一人娘ジャンヌ。修道院から帰ってきたばかりの世間知らず箱入り娘が、よりにもよって女癖がめっぽう悪い、落ちぶれ子爵家の息子を婿にとって結婚することになったことで、人生が一転、彼女の思いがけない方にばかり転がっていく、、、。嗚呼。

 原作はあの有名なモーパッサンの「女の一生」。原題を直訳すると、「ある人生」とかそんな感じらしい。
   
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 終映ギリギリになってようやく見に行ってまいりました。雪が積もる積もると天気予報に脅されていたけれど、1日の夜、映画の日だからか、岩波ホールも思ったよりは人が入っておりました。


◆女だけじゃなく、男も生きにくそうなこの時代。

 共和制の社会になったとはいえ、まだまだ旧い貴族社会の陰を大いに引きずっている時代にあって、女性が自立するだのなんてことは想像だにできないわけで(というか、男性もなかなか生きにくそう)、女の一生はまさしく“結婚次第”だったというのが、ある意味怖ろしいほど切実に伝わってくる映画。この時代の貴族の話というと、お国は違うけれどTVドラマ「ダウントン・アビー」とかもそう。誰と結婚するかで、人生ほぼ決まっちゃう。ああ~、ヤだヤだ。100年前に生まれていなくてホントに良かった。

 で、ジャンヌは子爵ジュリアンと結婚するんだが、ジュリアンは子爵とは言え没落貴族なので財産も資産も何にもナシ男クン。あるのは性欲だけ、、、かどうかは知らんが、ジャンヌと結婚する前から、ジャンヌの侍女ロザリと関係を持っていたというトンデモ野郎。……まあ、でも、この時代の元貴族なんて、そういうことも珍しくなさそうだけどね。ロザリとの不貞が露見し、涙ながらにジャンヌに許しを請うジュリアンは、その後再び、近所の伯爵夫人とW不倫。懲りないヤツ。伯爵に見つかりあっけなく殺される。

 ただ、このジュリアンとの結婚までのいきさつがちょっと意外だった。この時代なら、親が決めた相手と結婚するもの、みたいな感じかと思っていたら、ジャンヌの両親は、「ジュリアンをどう思うか」とジャンヌに何度も問い質すのよね。娘の気持ちが一番大事だ、って。そして、ジャンヌは「私はとっても気に入ったわ!」と答えた。

 ジュリアンにしてみれば財産狙いの結婚だから、男爵家に入り込めればそれで良かったんだろうけれど、、、。

 ジュリアンにとって、ジャンヌはあんまり、、、というかゼンゼン魅力的な女性じゃなかったんだろうな、と思う。今で言うところの、タイプがまるで違う2人、ってやつ。欲深で吝嗇で自己中で女好きのアウトドア系男からしてみれば、大人しくて受け身過ぎるインドア系ジャンヌは、反応がつまらないし食い足りない感じだったんじゃないかな。……とはいえ、ああいう男は、どんな女が妻になっても浮気するから、ジャンヌはあんな男と結婚してしまった時点で苦労を背負い込んだも同然なわけ。

 若くして未亡人になったジャンヌは、ジュリアンの忘れ形見ポールを溺愛。しかし、ポールはジュリアンを遙かに超えるトンデモ野郎に成長し、遂には男爵家の財産を食い潰す、まさに穀潰し息子に。

 嗚呼、自分の生き方を自分で決められないなんて、、、。悲惨。


◆報われないジャンヌの一生。

 本来なら、ジャンヌみたいな女性は、私は嫌いで、こきおろすパターンなのだけれど、本作に関してはそういう感想は持たなかった。例えば『ボヴァリー夫人』のエマが悲惨な人生を歩むことになるのは、エマが頭悪すぎで自業自得だ、とか思うわけだけど、本作におけるジャンヌに対しては、そんな風に思えない。

 ジャンヌを好きとは言えないけれども、嫌いとも言い切れない。何かこう、時代の犠牲になった感じを受けたというか。ジャンヌは性根の悪い人間ではないし、頭が悪いとも感じなかった。それは、ポールが幼いときに寄宿学校で問題を起こした際の、ジャンヌと彼女の父親(ポールの祖父)とのやりとりを見ていれば分かる。ジャンヌは、ポールが寄宿学校には合わないことを見抜いており、違う環境を用意してやればポールにも違った人生が開けることを分かっている。しかし、古い考え(厳しい環境で勉強させなければいけない)に凝り固まっている父親を論破するだけのパワーがないのだ。彼女なりに精一杯の反論をしているのだが、父親を言い負かすことはできない。

 これは、この時代の背景があると言っても良いだろう。例え我が子の問題であっても、我が子にとっては祖父である父親の意見を無視することが出来ないのだ。そうして自分の気持ちは押し殺す。

 だいたい、ジャンヌは、ジュリアンとロザリの不貞が露見したとき、離婚を望んでいたのに、ジュリアンの嘘泣きにほだされた神父と実母にジュリアンを許すよう説得されて、泣く泣く、再構築をせざるを得なかったのだ。ここでもジャンヌは自分の気持ちを押し殺すしかなかった。それに、この神父の後任で来た若い神父は、ジュリアンが伯爵夫人との不貞を知った際、それを伯爵に知らせろと執拗に迫る。ジャンヌが「伯爵の心情を思うと到底出来ない」と拒絶しても、「神の思し召しだ」とか何とか、ものすごい強引。それでも出来ないというジャンヌに、しまいには逆ギレ。ジャンヌがこうしたい、ということにはそうするなと言い、そうはしたくない、ということには、そうしろと強迫する。これのどこが神の思し召しぢゃ!!

 こうやって、自分の気持ちを押し殺すことばかりを強いられるジャンヌは、やっぱり気の毒以外の何ものでもない。ジュリアンとの結婚については「娘の気持ちが大事」などと言っていたのにねぇ、、、。思えば、この両親、ちょっと不思議なんだよね。あんまりこの夫婦の間に情が感じられないというか。父親は農作業にばかり精を出し、母親はどこか夢見がちで。やや浮世離れした感のある夫婦とでもいうか、、、。そう感じる理由は後になって分かるんだけれども、、、。ジャンヌにとって、夫婦のステレオタイプが両親だとすると、まあ、ジュリアンとああなっても仕方がないか、という気もする。

 いずれにしてもジャンヌは、自分の気持ちに正直に動けば裏目に出て、自分の気持ちを押し殺しても事態は悪化する。報われなさ過ぎる、、、。だから、彼女をこき下ろす気になど到底なれないのである。


◆スタンダードサイズの画面が息苦しい、、、。

 ところで、本作は画面がスタンダードサイズで、非常に狭苦しく感じる。多分、このサイズでありながら、アップのシーンや長回しが多いことが余計に狭苦しさを感じるのだと思うけれども、このサイズが案外、良い効果を発揮しているように感じた。

 月並みだけれども、この狭苦しさが、そのままジャンヌの抑圧された息苦しさをストレートに現しているからだと思う。監督自身は、「ジャンヌの住むごく狭い世界をあらわしている。硬く、そして逃れることができない箱(彼女自身の人生)のように」と言っているが、私には、狭いというより、苦しいという感じがした。

 また、構成は時系列が入り乱れていて、セリフの途中や、シーンの途中で、バサッと画面が転換することが多い。普通はこういう手法を使うと、ものすごく見にくくて分かりにくくなりそうなもんだが、本作はそういうことがゼンゼンない。八方塞がりの現在のジャンヌが、ふと束の間の過去の幸せな時間に思いを馳せ、画面が明るくなる。その逆もあり。とにかく、その画面転換が分かりにくいどころか、実に効果的であると思う。

 ただ、ジャンヌの実母が亡くなった後に、男女のラブレターのやり取りが朗読形式で展開するんだけど、ここが、私は、ジュリアンと伯爵夫人の不倫のやりとりかと勘違いしてしまった。終盤に実母の名前が分かって??となり、後でパンフを読んで、そのラブレターが、若かりし頃の実母と不倫相手とのやりとりだったと分かったのだけれど、、、。強いて言えば、ここくらいかな、分かりにくかったのは。それにしても、母親はかつて父親以外に愛した人がいた、、、と知ったジャンヌの気持ちはいかばかりか。

 特筆すべきは、風景の美しさと音楽。北部地方というだけあって、寒い時期の風景は心重たくなる灰色だし、春から夏にかけては、一転明るくなり、海は青く、草花も生命力に溢れる。この対比がまた、見ていて心が痛くなる。音楽は、ピアノフォルテ(ピアノの原型)を使用した、ちょっと金属質な感じの音がジャンヌの心情を表わす。やっぱり、映画には良い音楽が大事だと感じた次第。


◆その他もろもろ

 本作のステファヌ・ブリゼ監督の作品は、『母の身終い』以来2作目で、『母の身終い』もなかなかヒリヒリする良い作品だったので、その次の『ティエリー・トグルドーの憂鬱』が公開されると知ったときも、見に行こうかと思ったんだけど、主演がヴァンサン・ランドンと知って一気に萎えたというか、、、。『母の身終い』で見たヴァンサン・ランドンがどうにもこうにもダメで、、、。でも、本作もなかなか良かったから、ブリゼ監督作品、見てみようかしらん。

 ジャンヌを演じたジュディット・シュムラは、ちょっと奥目過ぎて老けて見える顔だけれど、横顔がとても美しい。17歳から50歳近くまでを演じたわけだけど、特殊メークなどもしていないであろう、どの年代も違和感なく、素晴らしい。

 設定上、イケメンというジュリアンだけれど、私の目にはイケメンに見えなかった! いえ、醜男ではもちろんないけれども、イケメン、、、かぁ? まあ、好みの問題か。

 ジャンヌの両親を演じていたのはジャン=ピエール・ダルッサンとヨランド・モロー。何となく噛み合わない感じの夫婦を好演していた。

 ラストシーンのロザリのセリフが、ある意味、本作の真意を表わしているのかも。「人生は皆がいうほど、良いものでも悪いものでもないんですね」






ロザリが連れ帰った赤ちゃんは本当にポールの子なのでしょーか??




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