映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

逆転のトライアングル(2022年)

2023-03-28 | 【き】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv79377/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 人気インフルエンサーでもあるモデルのヤヤと男性モデルのカールは、豪華客船クルーズの旅に招待される。客船には一筋縄ではいかないセレブたちと、彼らからの高額なチップのために乗務員たちが笑顔を振りまいていた。

 しかしある晩、船が突然難破し、無人島へ漂着。食べ物も水もSNSもない極限状態に陥るが、生き残りを懸けた人々のヒエラルキーの頂点に立ったのは、優れたサバイバル能力を持つ船のトイレ清掃係だった。

=====ここまで。


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 『フレンチアルプスで起きたこと』『ザ・スクエア 思いやりの聖域』のリューベン・オストルンド監督作で、カンヌのパルムドールだったとかって聞いたので、どうしようかなぁ、、、と思ったけど、一応劇場まで見に行った次第。前2作には遠く及ばない、かつ、超絶汚い映画で、見終わって不快度Maxになりました。

 これがカンヌのパルムドールって、、、。あの『アンダーグラウンド』とか『戦場のピアニスト』とかと並列に語られるのは、ハッキリ言って納得いかんなー。


◆男は奢るべきか論争
 
 上記のあらすじの前に、第一幕的なものがあり、そこで、ヤヤとカールのしょうもない性別役割分担論争が繰り広げられる。……んだけど、これが、なんだかもうグダグダでどーでもよい感じである。要は、男が奢るのがアタリマエってのはおかしいやろ、って話なんだが、ああでもないこうでもないとやり取りした挙句に、意外にも、ヤヤが結構本質を突いたことを言って唸った。

 つまり、「女は妊娠・出産すればどうしたって仕事ができなくなり収入が途絶える。それをカバーできる経済力のある男かどうかを女は見極める必要がある」といった趣旨のことを言うのだよ。

 これね、男性からすると??かも知らんが、女性にとっては割と切実な問題なんだよね。たかだか食事代を奢るか奢らないかで、そんなの見極められるか、というのは、まあそうなんだが、詰まるところ、自分の稼いだ金を自分以外のものに惜しみなく使える男かどうか、ってのを女性は見たいってことなんだよね、、、、多分。

 やはり、夫となる男が、「オレの稼いだ金だ!オレの自由に使って何が悪い!何で妻や子どものためにオレの稼いだ金が消えていくんだ!!」とか言うようでは困るわけよ、女としては。女は、絶対的に出産前後は働けませんので。さらに、子どもが小さいうちは働こうと思えばどこかに預けにゃいかんわけで、それには金がかかるわけで、それは夫にも払う義務があるわけよ。育児は妻の役目、預けるなら妻の蓄えだけで賄え!!とか言う夫なんか持った日にゃ、女としては安心して子供作れないでしょ。

 まあ、それ以前に男女の賃金格差という厳然とした現実もあるしねぇ。女が子供を産むってのは、肉体的にも物理的にも、割とリスキーなことなんです。

 で、問題は。デートで金払いの良い男=育児や妻のケアに惜しみなく金を使う男、かどうかである。これね、多分、まあまあ“イコール”じゃないかね、という気がします。統計とったわけじゃないし、私はそもそも出産も育児もしていないので、ただの肌感覚だけど。飽くまで、私の貧弱な経験則から、、、という意味。私の戸籍上の元夫が、私から見ると超吝嗇家だったんだけど、これは結婚前から想像ついたもんね。具体的エピソードは敢えて書かないけど、そこそこ稼いでいるくせに、そんな使い方してるから、そういう人間性になるんだよ、けっ、、、って感じやった。

 話を戻して。だから、ヤヤはイイ線を突いている。妻のケアと育児に金を使える男かどうか、見極めは大事。男も女を見極めればよいのだ。お互い品定めするのが、結婚の現実、、、ごーん。


◆後半、、、陳腐過ぎ(呆)。

 第一幕の後、上記あらすじの内容が展開されるのだが、、、言っちゃ悪いが、面白くなかった。

 豪華クルーズ船が遭難する前の第二幕で、リッチを戯画化したような船客たちが嵐で船酔いしてゲロ吐きまくる、、、というシーンが延々続いて、もう汚過ぎてとてもじゃないが正視できなかった。すんごい長いんだ、これが。もういいって、、、と言いたくなるくらい。

 レストランが阿鼻叫喚の地獄絵図と化している時に、船長は、客の一人と船長室で酒を飲みながら、マルクスだの共産主義だのとカードゲームをしながら騒いでいる。こういうのも、金持ちを揶揄しているんだろうけど、ちょっと安易過ぎて、鼻白む。

 もっと白けるのは、第三幕で、クルーズ船でトイレ掃除をしていた中年女性アビゲイルが、そのサバイバル力をもってして、遭難して漂着した島で女王様になるっていう展開。これ、私は原作も読んでいないし映画も見ていないが、桐野夏生の『東京島』と通底するものがあるじゃないか? 日常では歯牙にもかけられない存在が、特殊環境で能力を発揮して一発逆転!という、、、。

 ……てなわけで、まあ、どうしてこんな陳腐なストーリーかつ描写の作品がカンヌで最高賞となったのか、分からん。審査員長がヴァンサン・ランドン、審査員にはアスガー・ファルハディもいたらしい。ヴァンサン・ランドンは単に好みじゃないというだけだが、アスガー・ファルハディはクリエイターとしてあんまし信用できない気がするので、何でこんな作品選んだんだよ!というガッカリ感もないけど、でも、本作を見ると、ホントにこの人たちに審査するだけの眼があったのかどうか、疑いたくはなる。

 でも、ネットの感想をざっと見たところ、絶賛している人も少ないながらいるので、刺さる人には刺さる作品、ということかも知れぬ。私にはまったく、、、だったけど。

 というわけで、ゼンゼン映画の感想になっていなくてスミマセン。

 

 

 

 

 

 


とにかく、汚い!!!もう、ホントに汚いです。

 

 

 

 

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劇場版「きのう何食べた?」(2021年)

2022-07-05 | 【き】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv71168/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 街の小さな法律事務所で働く雇われ弁護士・ 筧史朗 【シロさん】 (西島秀俊)とその恋人で美容師・矢吹賢二【ケンジ】(内野聖陽)。同居する二人にとって、食卓を挟みながら取る夕食の時間は、日々の出来事や想いを語り合う大切なひととき。

 ある日、史朗の提案で、賢二の 誕生日プレゼントとして「京都旅行」に 行くことになる。しかし、この京都旅行をきっかけに、二人はお互いに心の内を明かすことができなくなってしまう…。

 そんななか 、史朗が残業を終え商店街を歩いていると、偶然、賢二を目撃する。その横には見知らぬ若いイケメンの青年(松村北斗)が…!さらに小日向大策(山本耕史)から井上航(磯村勇斗)が居なくなったと相談を受け…。

 穏やかであたたかい毎日が一変。当たり前だったはずの平凡でゆっくりとした日常を取り戻すことはできるのか―シロさんとケンジの今後の人生を揺るがす、物語が始まります。

=====ここまで。

 人気ドラマの映画化。

 
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◆生きていれば絶対にやってくるもの……それは“老い”

 ご存じ、よしながふみのマンガ『きのう何食べた?』がドラマ化され、W主演の2人が好感度抜群で話題になり、遂には映画化、、、。と、よくある邦画の流れですが、ドラマが好きだった(原作は未読)ので劇場まで行く気はしなかったけど、DVDを借りて見てみました。

 まあ、想像どおりというか、ドラマと雰囲気は同じ(アタリマエだが)だし、シロさんとケンジの相思相愛ぶりも盤石というわけで、意外性はないのだが、結構泣けました。……これ、若い人より、私くらいの中高年世代にウケているっての、すごい分かるわ。

 ドラマではそれほどでもなかったけど、本作でのテーマはズバリ“老い”。老いは誰にも必ずやってくるもの。この世はとかく不平等だけれど、唯一平等なのは“時間”でしょうかね。それさえも、恵まれたものとそうでないものには等しくないと言う(感じる)人もいるでしょうが。……とにかく、どんなに素敵なカップルであっても必ず直面するのが“老い”。

 普段はシニカルなシロさんがやたら旅行で気の利くアテンドをしてくれて優しさを見せると、ケンジは「……おかしい、シロさん、もしかして病気? 深刻なの?」となる。一方、いつも明るいケンジがちょっと浮かぬ顔をして、シロさんに内緒で病院に行っていることを知ったシロさんも「あいつ、病気なのか? オレに何も言わないってことは、相当深刻な病気なのか?」という具合。

 秘密=浮気、、、ではなく、秘密=病気、となるのが中高年……なのか? まあ、そうでないカップルもいっぱいいるとは思うが、このケンジとシロさんが、相手の体調のことを考えて激しく落ち込み悲観的になるという描写は、かなり身につまされる。

 ゲイカップルで、法律婚が(今の日本では)できないことが、彼らを余計に不安にさせている、、、のかもしれないが、法的に夫婦であっても、相手を失う恐怖は大差ないのではないか。早く死ねばいいのに、、、と思っているカップルもいるだろうけどさ。

 ただ、男性の方が、概ねパートナーの喪失に耐性が低いらしいので、シロさんとケンジのカップルも、先々心配だ、、、。どっちかと言うと、ケンジの方が、シロさんよりは耐性がありそうだけどねぇ。シロさんは、ケンジがいなくなったら、本当にヤバいと思うわ。

 歳をとることは悪いことばかりではない。抽象的な言い方になるけど、いい意味で枯れる、というかね。私は若い頃より、はるかに精神的に健全で自由だし、知識欲も今の方がある気がする。さらに割といろんなことがどうでもよくなって、代わりに、若い頃には背伸びしても分からなかった文学やら映画やらが多少は理解できるようになる。……んで、一番大事なもの、それは“健康”となるわけよ。だから、シロさんとケンジの互いを心配し過ぎる描写は身につまされたのだ、私は。

 大事な人を見送るって、想像しただけでも苦しい。昔、職場で一緒だった女性は、夫より一回り年下で、普通に考えれば夫の方が先にいなくなるわけだが、それだけは絶対に耐えられないとしょっちゅう言っていて、夫にも「私より先に死んじゃイヤ!!っていつも言ってるの」とかなり真面目な顔をして話していた。それを聞くといつも私は違和感を禁じ得なかったのだが、だって、それって自分が先に死んじゃったら後は野となれ山となれ、、、ってことやん?? 夫の遺された身の辛さとか考えないわけ?? と。2人一緒に死ぬ、、、なんてラッキーな事態が起きれば別だけどさ。

 こればかりはね、、、。神のみぞ知るなのだ。だからこそ、シロさんもケンジもビビりまくっているのだよね。……分かる、分かるよ。


◆その他もろもろ。

 ドラマ版同様、美味しそうな料理がふんだんに出てくるので、空腹時に見ると辛いかも。あの簡単ローストビーフとか、私でも作れそうな気がしたなぁ。

 西島さんは、『ドライブ・マイ・カー』より、シロさんの方がハマっている。そもそも楽しそうに演じている。まあ、作品のカラーが全然違うから当たり前か。

 内野さんは、相変わらず上手い。……というか、ケンジが地なんじゃないか、というくらいにナチュラル過ぎる。先日観た舞台「Mバタフライ」では、フランス人外交官役だったけど、ときどきケンジ入ってんじゃない?ってツッコミ入れたくなるような演技があって、ちょっと笑ってしまった。彼の演技力をもってしても、やっぱしどっからどう見ても東洋人のガリマールってのは違和感が拭えず、見ていてちょっと入り込めなかった。割り切って見られる人にとっては良かったと思うけど、、、。

 個人的には、ドラマ版でも感じたが、山本耕史が素晴らしいと思う。硬軟キャラの切り替えが実に巧みで、出番は少ないけれど、インパクトは絶大。ジルベールなんかより、小日向さんの方が私は素敵だと思うわ。

 このドラマ(本作も)は、やはり生々しさがないのがウケる理由でしょうな。ほのぼのがベースで、時折、ゲイカップルならではの葛藤が顔を覗かせる、、、という。これでソフトでもラブシーンがあったら、ここまではウケなかったに違いない。もちろん、主演2人の演技(特に内野さんのケンジ)に負うところが大なんだが。

 原作はまだ現在進行中のようなので、ドラマ版も続編とかできるかもね。ファンは待ち望んでいるのでは。続編出来たら、私も見ます、もちろん♪

 

 

 

 

 

 

 

 

ケンジのイメチェンにビックリ。

 

 

 

 

 

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金の糸(2019年)

2022-03-10 | 【き】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv75624/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 ジョージア・トビリシの旧市街の片隅。作家のエレネ(ナナ・ジョルジャゼ)は、生まれた時からの古い家で娘夫婦と暮らしている。今日は彼女の79歳の誕生日だが、家族の誰もが忘れていた。

 そんななか、娘婿の母ミランダ(グランダ・ガブニア)にアルツハイマーの症状が出始めたので、この家に引っ越しさせると娘が言う。ミランダはソヴィエト時代、政府の高官だった。

 そこへエレネのかつての恋人アルチル(ズラ・キプシゼ)から数十年ぶりに電話がかかってくる。やがて彼らの過去が明らかになり、ミランダは姿を消す……。

=====ここまで。

 ちなみに本作のタイトルは、日本の伝統的な技術“金継ぎ”から着想を得たそう。


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 閉館が決まった岩波ホール。閉館までなるべく見に行こう、、、と思っていたのに、前回のジョージア映画祭は行けずじまい。

 本作もジョージア映画。老いて、身体の自由も利かなくなり、死を嫌でも意識する日々を送る人々を描いているんだけど、暗くなく淡々とした映画でした。

 79歳の自分の誕生日を誰も覚えていない、、、というのは、そんなに寂しいものなのか。一緒に暮らしている人がいるのに忘れられているのは、やっぱり寂しいのかな。寂しがっていたところへ、かつての恋人から久しぶりに電話がかかってきて、寂しさも吹っ飛んでいたエレナさん。どういう経緯で別れたのかは詳しく分からないけど、いがみ合って別れたのではない様子。

 でも、私はこのエレナさんの反応が、あんましピンと来なかった。私も、似たような経験があるので……。エレナさんが嬉しそうだったので、別に良いのだけど。それに、それこそ死を身近に感じる歳になると、愛憎も浄化されて、たとえ修羅場を経て別れた男でも昔懐かしい人に昇華され、枯れた会話がしたくなるものなのかもなぁ、、、なんて思いながら見ていました。

 ストーリー自体は特にどうということもないのだけど、やはりこれは旧ソ連の国の映画だ、、、と思ったのが、エレナの娘婿の母ミランダの存在。

 この方は、今はアルツハイマーで記憶も怪しいけど、昔はソ連の政府高官だったという設定で、何となくそんな感じがする役者さんなのよね。背筋がピンとしているというか。ソ連じゃないけど、『僕たちは希望という名の列車に乗った』(2018)に出てきた旧東独シュタージの女性・ケスラーと、雰囲気がちょっと似ている。ミランダさんは現役じゃないから大分丸くなっていらっしゃるが、きっと現役時代は、ケスラーみたいだったんじゃないかな、、、。

 しかも、エレナがソ連時代に著した小説を発禁処分にする判断をしたのが、ミランダその人だったのだ。エレナはその後20年、著作物を発表することができなかったわけだから、ものすごい因縁。ちょっと出来過ぎではないかという気がするが、いや、ソ連時代なら十分あり得るのかもしれないとも思う。

 このミランダは、とにかくソ連時代は良かった、、、とノスタルジーに浸っており、認知症の症状も相まってか、現在とソ連時代が交錯している様子。終盤では徘徊に出て、今は廃墟となったソ連時代のものと思われる建物の中を雨傘を差してさまよう姿は、何とも痛々しい。

 エレナにしても、アルチルにしても、話すことは過去の思い出ばかり。現在は外出もしないで家の中で全てが完結している人生だから、そうなるのかも知れないが、これが歳をとるということだ、と言われると、これから歳をとっていく者としてみれば、あまり楽しい気持ちにはならないよなぁ。ただご本人たちは、まったく別々の人生を生きてきたけれど、それぞれが自分の来し方にそれなりに納得している(というか、納得させているのかもだが)様なので、こういうのはその境地に達してみないと分からないことなのだろうね。

 ジョージアも、ソ連時代からロシアには何かと介入されている国だから、今のウクライナ情勢をどう見ているのだろう。今日の新聞を見ていたら、アフリカやアラブ諸国は、かなり冷ややからしい。アメリカがアフリカから距離を置いたところへ、抜け目なく中国・ロシアが食い込み、今や中国の食い物にされている現状で、ウクライナが侵攻されようがどうしようが知ったこっちゃない、というのも、背景を聞かされれば無理もないとも思う次第。

 ロシアも中国も、あまりにも国土が広すぎると統治が難しいから、ああいう独裁体制にしたがるのかな。抑え込んでいないと、あちこちで独立騒動になって収集つかないもんね、、、。だとしても、プーチンは今回のことで無傷ではいられまい。終結後も、侵攻以前と何も変わらなければ、それは地球の未来の敗北だ。

 話を本作に戻すと、エレナの部屋がとても素敵だった。古い集合住宅で、外観はかなりボロっちいけど、部屋の中はキレイで心地よさそうだった。本作は、ほぼエレナの部屋だけで話が進むし、展開もゆったりで、序盤はちょっと退屈だったけど、ミランダが登場してからは緊迫感があって面白かった。

 先日までのジョージア映画祭では、ゴゴベリゼ監督の若い頃の作品もかかっていたらしい。彼女の両親はスターリンに粛清されており、父親はそれで亡くなっているとのこと。母親は映画監督の芸術家だったが、強制収容所から生還した後は映画を撮らなかったという。監督自身は、ソ連時代に製作した映画が、ソ連映画祭で賞を何度かとっている。

 

 

 

 

 

 

 

 


いつの時代もどこの国でも、プロパガンダに真っ先に利用されるのが、メディアと芸術。

 

 

 

 

 

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去年の夏突然に(1959年)

2021-12-25 | 【き】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv2301/


  以下、Amazonよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 1973年。南部ニューオリンズの州立病院外科医クックロウィッツ(モンゴメリー・クリフト)は、ビネブル夫人(キャサリン・ヘプバーン)から莫大な資金の提供を条件に、夫人の姪であるキャサリン(エリザベス・テーラー)にロボトミー手術を施すことを依頼される。

 キャサリンは、ビネブル夫人の息子セバスチャンが“謎の死”を遂げて以来、記憶をなくしてしまったというのだ。

 しかし、クックロウイッツは彼女と接していくうちに手術の必要がないと判断し、そして次第に彼女の忘れ去った記憶を甦らせることに成功するが・・・。
 
=====ここまで。
 

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 もう年末。オミクロン株とやらは市中感染しまくっている模様で、しかも年末年始の民族大移動により、きっと年明けはまた感染爆発……なんでしょうねぇ。あとどのくらい続くのやら。

 さて、本作は、あのテネシー・ウィリアムズの戯曲が原作の映画です。なぜ本作を見る気になったかというと、先日、岡田将生主演の舞台「ガラスの動物園」を見たときに購入したパンフのコラムで、本作について“ロボトミー手術”つながりでチラッと触れていたからです。

 テネシー・ウィリアムズというと、私の中では『欲望という名の電車』なんですが、私、この『欲望~』が嫌いでして。嫌いな理由は、ストーリーとか何とかよりも、マーロン・ブランドに負うところが大きいのですが、、、。なので、テネシー・ウィリアムズ作品にはあまり食指が動かないのですよね。ただ、「ガラスの動物園」は、戯曲を本で読んでいて、歪んだ母子関係の話が他人事とは思えず、、、。

 テネシー・ウィリアムズの実姉ローラもロボトミー手術を受けて、術後は亡くなるまで施設で過ごしたとのことですが、この手術には問題が多くて、短い期間で廃止になっている、、、というようなことを、BSの「フランケンシュタインの誘惑」でも紹介されていましたね。

 「ガラスの動物園」は、ローラをモデルにしたといわれるローズの話が縦糸となっています。今回初めて舞台を見たのですが、文字で読んでも十分痛い話なんだけれど、演劇として見せられるとさらに痛い、、、というより、心臓を掴まれるような苦しさを覚えるものでした。

 本作も、そういう系の映画だろうとは想像していましたが、想像をはるかに超えるエグくてグロい、怖ろしい映画でした。


◆タブー事項満載

 本作は、ジャンルでいえばサスペンスになるのかな。セバスチャンが何で亡くなったのかが明かされていくという。みんシネでもサスペンスになっている。みんシネでの評価は低くて、レビューもごもっともな意見なんだけど、私は割と面白く見た次第。

 とにかく、キャサリン・ヘプバーン演ずるビネブル夫人が登場シーンからもう異様過ぎで、一見してヤバい人だと知れる。そして、案の定、息子のセバスチャンとの関係がマザコンを超えた、疑似近親相姦ではないかと思わせるものであることが徐々に分かってくる。

 けれど、本作のおぞましいのは、実はセバスチャンは、そんな母親との関係を、自分のある目的のために利用していただけであり、それが結果的に彼を陰惨な死に追いやる原因となっていた、、、ということ。これが終盤に明かされる。

~~~以下ネタバレです。~~~

 本作が制作されたのは1959年だけど、よくこの時代に、こんな内容の映画が作れたな、、、と思う。今でもちょっと描き方を考えてしまう内容だろう。

 つまり、セバスチャンは(はっきりとは明かされないが)同性愛者であり、その死因は、旅先の男達に“食い殺された”(つまりカニバリ=人肉食)のである。

 これが、終盤、リズ演ずるキャサリンの告白で明かされる。そのものズバリではなく、匂わせるセリフと描写なので、理解するのに少々時間を要する。

 セバスチャンがそれまで母親のビネブル夫人と母子密着で度々外国に旅行していたのは、美しいビネブル夫人に釣られて寄ってくる男たちを狩るのが目的だったから。今回は、もはや中年になったビネブル夫人ではその役割を期待できなくなり、セバスチャンは、姪の若い女性キャサリンをお供に選んだというわけだ。

 当の夫人は、息子のそんな性癖には気付いておらず、クックロウィッツの問いかけにも、セバスチャンについて「あの子は童貞だった」などと言う。ヘプバーンの異様な外見とエキセントリックな演技が、セバスチャンがキャサリンと旅行に出たのは、母親である夫人との距離が近すぎて逃れたくなったからだ、、、と観客をミスリードする。

 さらに、ビネブル夫人がキャサリンにロボトミー手術をするようクックロウィッツに頼んだのは、キャサリンがセバスチャンの死に接したショックで精神に異常を来したからであり、あくまでキャサリンのためと思わせる。

 ……が。

 夫人はセバスチャンの性癖に、実は気付いていたのでしょ。まさか息子がカニバリで殺されたとは知らなかったけれど、ゲイであることが死の遠因であることは察しており、それをキャサリンに知られたことを夫人は分かっていた。息子が同性愛者であることが公になるのを恐れていたのだろう。だから、ロボトミーでキャサリンを廃人にしたかった、、、と私は見た。

 けれど、さしものビネブル夫人にとっても、我が息子が、男たちに食い殺されたことの衝撃が大きすぎたのか、夫人の方が本当に発狂してしまう。

 ……なんと怖ろしい話だ。


◆その他もろもろ

 終盤、おぞましい告白をするキャサリン役のリズは頑張っているんだろうけど、演技は単調で芝居がかっており、正直なところ怖さは半減。その告白シーンに、リズが透け透けの水着を着せられ海から上がって来たり、セバスチャンが男たちに襲われたりする回想シーンが被るという演出がなされており、リズの肉感的な映像とあまりにえげつない話の内容に鼻白む感じもありつつ、おぞましさにウゲゲ、、、となって、正直なところ、鑑賞後感はかなり悪い。

 セバスチャンが襲われるシーンはあのオカルト映画『ザ・チャイルド』を思い出してしまった、、、。

 一方、医師クックロウィッツを演ずるモンゴメリー・クリフトも、病んだキャサリンを救う有能な精神科医(脳外科医?)という感じには見えず、これは演出がイマイチなのではないかという気がする。

 とはいえ、ヘプバーンの演ずるイッちゃっているビネブル夫人は圧巻。屋敷内のエレベーターに乗って現れる冒頭の登場シーンからして異様だが、あまりに異様でむしろ笑える。

 キーパーソンであるセバスチャンは後ろ姿とか、足だけしか映らず、顔は映らない。でも、私のイメージするセバスチャンより、ちょっとゴツそうな感じだった。すね毛が結構モジャモジャやったし、、、。

 テネシー・ウィリアムズ自身が同性愛者であり、実の姉がロボトミー手術を受けることを止められなかったことを生涯悔やんでいたというが、本作を見ると、そのことが彼自身の創作活動にいかに大きく影響しているかが分かる。

 

 

 

 

 


本作の邦訳戯曲は出ていないみたい、、、残念。

 

 

 

 

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キャッツ(2019年)

2021-07-25 | 【き】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv68387/

 

以下、wikiよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 人間にロンドンの路地裏に捨てられた白猫ヴィクトリアは、猫たちの集団ジェリクルキャッツに出会う。

 彼らはジェリクルボールという月夜の舞踏会を開こうとしていた。猫たちはジェリクルボールでパフォーマンスを競いあい、最終的に選ばれた1匹の猫が、天上に昇って新たな生を得る権利を手にするのだ。ジェリクルキャッツに迎え入れられたヴィクトリアは、ジェリクルボールを前にさまざまな猫と出会う。

 だが同じころ、お尋ねものの猫マキャヴィティは、ジェリクルボールの有力候補となる猫を1匹また1匹とさらっていた。

=====ここまで。


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 前回が犬映画だったから、今回は猫映画、、、というわけではありません。たまたまです。……というか、前回の感想文があまりに雑すぎ酷すぎで、大いに反省しました。愚痴を書きすぎるとろくなことになりません。

 でも、ちょっとだけ愚痴りますと、一昨日のオリンピックの開会式は見なかったんだけど、ニュースで見たらかなりショボい、、、。アニメやゲームで責めるなら、ゴジラに火吹かせてバッハ人形大炎上!!とかやればいいのに、、、と思いました。それくらいやったら、世界から日本はむしろ賞賛されると思うんですけどね。

 と、愚痴はこのくらいにして、今回はもう少しマトモな文章を書こうと思って本作を真面目に見始めたんですが、、、。


◆あまりにも“薄い”ストーリーに脳内???が充満する。

 前評判で、“キモい”“つまらん”というのは散々聞いていて、そのつもりで見たせいか、衝撃はあまり受けなかった、、、、けれども、まあ確かにキモいなぁ、、、と。

 私はミュージカル嫌いなので、当然、本作の舞台も見ていないし、ストーリーも知らない。キャッツ=メモリー、くらいの認識しかない人間が本作を見ると、正直なところ、かなりツラい。なぜなら、話が「何かよー分からん」から。

 上記のコピペにもあるとおり、歌や踊りのパフォーマンスを競い合って、選ばれた猫が天に昇る、、、ってのが、さっぱり意味が分からない。それって選ばれた方が良いの?ホントに??と思ってしまって。

 だって、「天上に昇って新たな生を得る」って、つまりは「死ぬ」ってことなんじゃないのか? ……とか、常識的なことを考えてグルグルしていたんだけど、途中からそういうの止めました。考えても分からなかったし、もっというと“もうどーでもええわ”ってなってしまって。

 見終わって思ったのは、ストーリーはやはりどーでも良かったんだな、、、ってこと。本作で見るべきは、踊りと歌でしょう、やはり。あのヘンなルックスはさておき、ロイド・ウェーバーの音楽はメロディアスだし、役者たちの歌唱力も素晴らしい。ダンスも、振り付けが良いのか悪いのかはよく分からんが、動きが面白く、身体能力の高いダンサーの踊りは見ていて楽しい。だから、ミュージカルとしてはそれだけで十分やん、、、と。

 基本的にミュージカル嫌いの人間は、ミュージカルをどう鑑賞すれば良いのかが分からないのだ。ストーリーもそれなりに重みがあるミュージカルとなると、2時間の尺では収まらないだろうしね、、、。イチイチ歌ってたんじゃ先に進まないわけで。

 それにしても、終盤、 ジェニファー・ハドソン猫が気球みたいなのに乗って上空に消えていくのを見て、私はあの“風船おじさん”を思い出してしまったよ、、、。風船おじさん、行方不明のままだった気がするが。


◆その他もろもろ

 ロイド・ウェーバーの楽曲は耳なじみの良いものが多く、CDを何故か数枚持っているのだが、メモリーを歌っているのは、あのバーブラ・ストライサンド。この歌を聴いて、私は彼女に対するイメージが少し変わったといっても良いくらい、割と細く透き通った声。ジェニファー・ハドソンとは比べものにならないくらい可愛らしい。

 J・ハドソンの2回目のメモリーはド迫力でビックリしてしまった。TVで見てもド迫力だったのだから、スクリーンで見たらさぞスゴかっただろう、、、。余談だけど、彼女は泣きながら歌っているので、鼻水が垂れているのが気になってしょうがなかった。CGなんだから消してあげれば良いのに、、、と思ったのは私だけ?

 評判の悪い“猫人間”だけど、キモいというよりも、何かものすごく中途半端だよなー、と見ていて思った。こんなに猫に近づけたルックスでCG加工するのなら、いっそ、猫そのものにしちゃえばいいのに、と思ったよ。ライオンキングの実写版みたいのがあったと思うけど、ああいうのにしちゃえば? と。本物みたいなカワイイ猫たちが歌って踊っているのなら、そっちの方が見たいかも。

 主役の白ネコを演じたフランチェスカ・ヘイワードがスゴい可愛かった。あんな化粧を施されてあんなに可愛いとは。本業はバレリーナと聞いて、納得。歌もまあまあ上手かった。

 ジュディ・デンチ様は、なんというか、、、見てはいけないものを見てしまった感があり、どう受けとめれば良いのか分からなかった、、、、ごーん。特典映像にインタビューが入っていたけど、彼女は若い頃、このキャッツの舞台に出演が決まっていたらしい。怪我で出られなくなったと言っていた。本作では一応歌もあるけど、まあ、あれを歌っているというのかどうか、、、ううむ。

 そのデンチ様演ずるオールド・デュトロノミーが行方不明になって、何とか見付けようとして、手品ネコにデュトロノミーを出現させようという話の流れも??。理解しようとしてはいけないと思って見ていたけど、、、手品でしょ? 魔法使いじゃないでしょ?? とか、やっぱし常識で理解しようとしてしまう自分の小ささが情けない、、、。

 舞台版は、超ロングランの大ヒットミュージカルだそうだが、こんなストーリーでどうしてそこまで多くの人を惹き付けるのか、ミュージカル苦手人間にはちょっとよく分からない。音楽が良いのは認めるけれど、ここまでイミフなストーリー、、、、ツラかった。

 というわけで、今回も、前回同様の駄文となってしまいスミマセン、、、。
 

 

 

 

 

 

 

しばらくミュージカル映画見るのはやめておこうと思います。
  

 

 

 

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霧の中の風景(1988年)

2018-11-03 | 【き】



 以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 12歳の少女ヴーラ(タニア・パライオログウ)と5歳の弟アレクサンドロス(ミカリス・ゼーケ)は、ドイツにいると聞かされている父に会いに行きたいがため、毎日夜のアテネ駅にやって来るが、列車に乗る勇気はなかった。しかしある日、ついにふたりは列車に飛び乗った。切符がないふたりはデッキで身を寄せて眠る。夢の中でヴーラは父に向けて話しかけるのだった。

 無賃乗車を車掌にみつかったふたりは途中の駅で降ろされ、行き先を尋ねる駅長(ミハリス・ヤナトゥス)に伯父さんに会うのだ、と答える。警官がふたりを連れて伯父(ディミトリス・カンベリディス)の勤める工場を訪ねると、伯父は警官(コスタス・ツァペコス)に、ふたりは私生児で父はいない、と話す。それを立ち聞きしたヴーラはショックをうける。警察署に連れていかれたふたりはそこを逃げ出し、旅を続ける。

 山道でふたりは、旅芸人一座を乗せたバスに乗せてもらい、彼らと行動を共にする。その夜、ふたりはバスの運転手オレステス(ストラトス・ジョルジョグロウ)と、道に落ちていたフィルムの切れはしを拾う。そこには白い霧の中に、見えるか見えないか程度にうっすらと一本の樹が写っていた。

 旅芸人たちと別れたふたりは、雨のハイウェイでヒッチハイクしたトラックに乗せてもらうが、翌朝アレクサンドロスが眠っている間にヴーラは運転手(ヴァシリス・コロヴォス)に犯される。

 次に乗った列車で警官に見つかりそうになったふたりは、逃げこんだ工場でオレステスと再会する。ふたりはオレステスのオートバイで海岸を走り、テサロニキ駅にたどりつく。

 再びオレステスと別れたふたりは、ドイツを目指して歩き始める。北方の駅で、ヴーラは人のよさそうな兵士(イェラシモス・スキアダレシス)を誘い切符代を稼ごうとするが、彼は何もせず金を投げ捨てるようにして去った。

 夜行列車で国境までやってきたが、旅券がないふたりは、川べりで監視の目を盗んでボートに乗る。彼らに向けて放たれる一発の銃声。

 翌朝、霧の中で目覚めたふたりが対岸に降り立つと、ゆっくりと霧がはれ、緑の草原と一本の樹が現われた。ふたりは手を取り合ってその樹に向かって駆け出すのだった。

=====ここまで。

 字幕は池澤夏樹氏。

 
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 アンゲロプロス作品初体験。難解で評価も分かれている様ですが、、、私には非常に印象深い作品でありました。


◆青い鳥はいずこ、、、

 送られてきたDVDには短い特典映像があり、字幕担当の池澤氏が、アンゲロプロスにインタビューしていた。アンゲロプロスは本作について「娘に語って聞かせていたおとぎ話を映像にした」と言っていた。

 まぁ、確かにおとぎ話かも知れぬ。これは、あの『青い鳥』のアンゲロプロス版なのだ。……って、『青い鳥』の戯曲を(恥ずかしながら)読んでいないんですけどね、私。そもそも童話といって良いのか微妙ではあるが、、、。まあ、でも誰でもオハナシは大体知っている。本作を見て、同じことを感じた人はきっと多いと思う。

 この2人の姉弟の父親は、本当にドイツにいるのか? 多分いないでしょう。母親の身近にいる男なんじゃないかと思うけれど、母親は姉弟に「お父さんはドイツにいる」と言っているんだよね。ちなみに、この母親は冒頭にチラリと姿が出てくるだけで顔は映らないので、どんな女性かさっぱり分からない。けれども、彼らの“叔父”という男が、この姉弟のことを「私生児だ」と言っているところから、どんな母親か、おおまかな輪郭を見ている者に想像させる。おそらく姉弟の父親は同じではないだろう。姉ヴーラは「ママのことは好きだけど、パパに会いたい」というようなことを弟に語っているシーンがあるので、別に母親が嫌いで姉弟で逃げ出した、というわけではなさそうだ。

 本作での“青い鳥”は、その未知なる父親だ。子どもは、……というか、人間という生き物は自分のルーツを知りたがるものなのだ。父親がいないのであれば、どんな男なのか知りたいと思うのは、ほとんど本能に近いものなのだろうと思われる。

 しかし、父親に関する具体的な手がかりを何一つ持っていない彼らは、当然、父親に会えるはずもない。彼らが会うのは、行きずりの人たち。

 会いたい人の下にはなかなか辿り着けないが、姉のヴーラは、その行きずりで出会った青年に恋をする。これで、ヴーラにとっては旅の意味合いがかなり変わってくる。父親に会いたいだけの旅ではなくなるのだ。しかも、この恋をしている途中で、ヴーラは別の中年男にレイプされてしまうという、非情な経験をする。しかし、ヴーラは弟とその後も旅を続け、一旦離ればなれになった青年と再び出会う。ヴーラの心の波は激しく上下していたことだろうなぁ、、、。

 この、オッサンにトラックの荷台でレイプされるシーンが、何とも痛い。……というか、恐ろしい。レイプシーンはゼンゼン映っていないのだけど、その間、幌のような幕が下りた荷台のバックをただひたすら写し続けているのです。そして、オッサンがその幕をかき分け出て来て立ち去り、しばらく後に、ヴーラの、ソックスがくるぶしまでおろされた脚が幕の下からのっそりと出てくる。力なく荷台の端に座ったヴーラの脚には真っ赤な血が滴り出て来て、荷台にも広がる。その血をヴーラは指で掬うと、荷台に擦りつける。この一連の描写に、見ている方も凍り付く。


◆ブラック・ファンタジー

 しかも、このレイプの後に青年と再会して、ヴーラの受けた傷が少しは和らいだかと思った矢先に、ヴーラはこの青年にまともに失恋するという、、、、なんでこんないたいけな少女にそこまでの試練を与えるのかね、アンゲロプロスは。

 青年の腕の中で泣きじゃくるヴーラに、青年は「最初は誰でもそうなんだ」と言って彼女の頭を優しく撫でる。あっけなく散ったヴーラの初恋。もしかすると、レイプで受けた傷よりも、この失恋の傷の方が、彼女にとっては痛手だったかも知れない。

 そんなズタボロになったヴーラに、しかし、アンゲロプロスは手を緩めることなく試練を与え続ける。手持ちの金が底をついたヴーラは、何とか電車賃を入手しようと、駅にいた軍人の男に「金をくれ」と直談判する。軍人は、対価を得ようと、物陰に彼女を連れ込むものの、さすがに自分に恥じたのか金だけ置いて立ち去る。これで、見ている者はホッとして一瞬油断するのだが、無事に電車に乗った姉弟に、今度はパスポートを見せなければならないという難題が降りかかるのだ。

 結局、彼らは国境を夜陰に紛れてくぐりぬけると、ボートで川を渡ろうとし、監視に見つかってしまうのである。そこで響く銃声、、、。

 これまでとは打って変わった穏やかな別世界のようなラストシーンの映像から察して、まあ、多分、姉弟はあの銃声により亡くなったと考えるのが妥当なのでしょう。

 ……一体、ヴーラの人生は何だったのか。幼い弟の人生は、、、? 戯曲『青い鳥』のようなオチはなく、もう一つの青い鳥かと思いかけた恋は逃げ去り、最初の青い鳥である父親には、その気配にすら触れられなかった。

 特典映像で、アンゲロプロスは「本作は一貫してファンタジーだ」とも言っていた。確かに、最後まで姉弟には“まだ見ぬ父親の存在”という希望があったから、ファンタジーという括りに偽りはないだろう。それにしても、あんまりにも過酷すぎるブラック・ファンタジーである。


◆空飛ぶ右手

 ところどころ、不思議なシーンが挟まれるのが印象的。

 姉弟が警察署から逃げ出すシーン。雪が降る外にいる人々は動きが止まっている。その中を、人々の間を縫うようにして姉弟は走って逃げていく。その後、姉弟はある広場に行き着くが、そこでは、結婚式を終えたと思われる新郎新婦が建物から出てくるが、新婦の方は何やら泣いている様子。しかも、広場には、どこからか馬が引きずられて来て、姉弟の脇でその馬が置き去りにされる。姉弟がよく見ると、その馬は死んでいる。

 青年と再会した後、岸壁に3人で来たシーン。海の中から何かがヘリコプターによって釣り上げられる。だんだん姿を現したそれは、何と、人差し指の欠けた巨大な人間の右手の形をしたモニュメント。ヘリコプターに釣られたまま持ち去られていくのは、いかにも何かを暗示しているようであるけれど、それが何なのかはさっぱり分からない。

 本作は、極端にセリフが少ない。映像で姉弟の旅がどんどん展開していく。ところどころで、姉弟が父親に宛てた手紙の形をとってナレーションが入るけれども、ヴーラが弟以外の人と会話らしい会話をするシーンは皆無だろう。

 過酷な状況に置かれて、過酷な経験をする子どもの話を描いた映画はたくさんあると思うが、本作は、その中でもかなり悲惨度は高いのではないか。アンゲロプロスの意図が、私には分からなかった。

 けれども、何とも言えず、心に深く印象が残ったのも事実。見てもすぐに忘れてしまう作品の方が多い中、本作は、一度見たら脳裏にこびり付くシーンが多い。それこそが、映画として存在価値がある作品だということでしょう。

 他のアンゲロプロス作品も、ぼちぼち見ていきたいと思いました。



 



本作では、ギリシャの隣はドイツ、、、らしい。




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君の名前で僕を呼んで(2017年)

2018-05-19 | 【き】



 以下、公式HPよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 1983年夏、北イタリアの避暑地。

 17歳のエリオは、アメリカからやって来た24歳の大学院生オリヴァーと出会う。彼は大学教授の父の助手で、夏の間をエリオたち家族と暮らす。はじめは自信に満ちたオリヴァーの態度に反発を感じるエリオだったが、まるで不思議な磁石があるように、ふたりは引きつけあったり反発したり、いつしか近づいていく。

 やがて激しく恋に落ちるふたり。

 しかし夏の終わりとともにオリヴァーが去る日が近づく……。

=====ここまで。


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 ジェームズ・アイヴォリーという名前は、もう何年も聞いていない気がしていたところ、今年、オスカーを、しかも脚本賞をゲットしたというニュースを聞いて、へぇ~、生きてたんだ、おいくつ? ……と思ったら、なんと89歳だって!! ひょえ~、一体どんなシナリオをお書きになったのかしらん、、、と興味津々で、劇場まで行ってまいりました。


◆アイヴォリー氏、健在。

 少し前に『モーリス』(4K)を見ていたのもあるけど、これは、現代版「モーリス」やね! と思ってしまった。まあ、モーリスでいえば、クライヴがオリヴァー、モーリスがエリオ、、、?? いや、どちらもちょっと違うかな。

 それにしても、89歳のアイヴォリー氏が書いたシナリオは、30年前の『モーリス』にひけをとらない美しさと瑞々しさで、というより、むしろ本作の方が、舞台が北イタリアの夏で明るいイメージがあるせいもあってか、若々しさを感じたくらい。もちろん、その一方で、『モーリス』と通じる部分も多々感じられ、アイヴォリー作品が好きな者としては非常に嬉しく思った次第。

 やはり、人と人が惹かれ合い、恋に落ちていく紆余曲折を描くのが、アイヴォリーは非常に上手い。本作でも、エリオとオリヴァーが互いに気持ちを確認するまでに結構な時間を要しているんだけど、それが見ていて必然を感じさせられる。相手が同性であるが故に、なおのこと互いに慎重になるのも然り。音楽をうまく話に入れ込んで、登場人物のキャラや心情を端的に描いて見せるのも、アイヴォリーのお得意技。

 本作は、『モーリス』同様、同性愛にスポットが当たりやすいが、これは男女を問わない物語に仕上がっているのも素晴らしい。同性愛がテーマの作品の場合、“これが異性愛だったらただのベタなメロドラマやん”と言いたくなる作品は多いけど、本作は、そういう感覚を見ている者に抱かせない。人を好きになるって、こういう痛みを伴うものだよなぁ、、、という普遍的なことが描かれていると思う。

 原作者のアンドレ・アシマンがどんな人かゼンゼン知らないけど、まあ、きっと彼にも同じような経験があるのでしょう。エリオのお父さんは、アシマンの実父がモデルだそうで、終盤、エリオにお父さんが“恋の痛み”について話すシーンが秀逸なのだけれど、あの話の内容は、アシマンの実父が話したことなんだとか。あのシーンは、本作のキモといってもいいだろう。アシマンが言いたいことは、あのお父さんのセリフに凝縮されているのだと思う。アイヴォリーも、あのシーンを本作のハイライトとしてシナリオを書いたに違いない。


◆現代の貴族。

 本作は、設定が1983年となっていて、エリオ君は、私よりちょこっとお兄さんになるけど、ほとんど同世代と言って良いわけで、1983年時の自分とのあまりのかけ離れぶりに衝撃を受けてしまった。私が、やれ夏期講習だ、やれ宿題だ、やれ模試だ、、、と、ジメジメした猛暑の下で這いずり回っていた頃、エリオ君は、あの爽やかなイタリアの美しい青空の下、英語とフランス語とイタリア語を自由に駆使して、文学を論じたり、作曲したり編曲したり、セックスしたり、同性との恋を経験したり、、、って、こういう文化的レベルの差って、もうどーしよーもないわね。

 そりゃもちろん、日本でも、エリオ君みたいな夏休みを過ごしていた若者はいただろうし、アメリカ人の若者がみんなあんな夏休みを過ごしていたわけじゃないのは承知の上だけど、言ってみれば、エリオ君の家庭は現代の“貴族”だわね。お父さんはもともとアッパーのインテリ。お母さんは美しくて、何カ国語も自由に話せて教養もあって、家事なんか一切しなくて、美味しいモノを食べて、夫と楽しくハイソな会話を楽しんで、、、という生活がアタリマエであり、優雅そのもの。……そんな両親の下に生まれたエリオ君が、あのように優雅な夏休みを送るのは、これまたアタリマエなのよね。

 どこかヨーロッパの雰囲気を感じさせる一家に加わるアメリカ人青年のオリヴァー。彼は、美しくて育ちが良さそうだけど、どこから見てもアメリカ人。日本人の私の目で見ても、彼がヨーロッパの現代の貴族には見えない。これがミソだよね。

 私は、エリオが先にオリヴァーに惹かれたのかと思っていたけど、中盤、オリヴァーは最初からエリオが好きだったと言うのを聞いて、ちょっと意外だった。というか、2人ともお互いに最初から惹かれ合っていたのだと思うな、多分。バレーのシーンで、私も、オリヴァーがエリオにモーションを掛けたのは分かったけれど、その後のエリオのリアクションが、何だか可愛かった。明らかに戸惑っており、もうこれでキマリ、って感じのシーンだった。

 初めてキスした後も、一気に怒濤の流れになるわけではなく、微妙な押し引きがあり、ううむ、、、という感じだったんだけど、ようやく2人が互いに感情をぶつけ合って結ばれたときは、何だかホッとしたよ、オバサンは。あー、やれやれ、良かった良かった、みたいな。

 やはり、この辺も、貴族的というか、品があるなぁ、と。たとえ、エリオが桃を使って自慰行為をしようが、旅先でエリオがゲロった直後にオリヴァーがキスしようが、何かこう、、、品性を汚さない一線がしっかり守られているのが、私はすごく良いなぁ、と思った。これは、アッパーな人たちを描いているから、というだけでない、作り手の矜持みたいなものだろう。恋愛を真摯に描くと、こうなるんだと思う。

 そして、やはり、本作も『モーリス』同様、片方が女性と結婚することで、2人の関係に強引に終止符が打たれる。切ないなぁ、、、。同じ同性愛でも、女性同士の恋愛を描いた『キャロル』は、(多分)ハッピーエンディングだったけど、男性同士の場合は、やはりどちらかの結婚にてジ・エンドとなってしまうものなのか、、、。

 本作には、続編があるかも(?)とのことで、……というか、原作は30年後が描かれており、この後、世界的にエイズが社会問題化していくことなども盛り込まれているらしい。


◆その他もろもろ

 エリオ君を演じたティモシー・シャラメは、なんとなくあの『ベニスに死す』のビョルン・アドレセンを思い出させる、、、と思ったんですけど、どーでしょう? ゼンゼン違う? 何となく中性的な感じとか。本作の撮影時、22歳だったとのこと。17歳に十分見えたのが凄い。非常に難しい役どころだったと思うけど(ビョルン・アンドレセンみたいに、黙って佇んでりゃ良い的な役じゃないからね、、、)、鮮烈な印象を残す演技で、これはこれから引っ張りだこになるかもねぇ。美しいけど特徴がある顔なので、ビミョーかもだけど。

 オリヴァーのアーミー・ハマーは、背も高くて美しいし、品もあるしで、非常に良いと思うんだけど、、、アーミーファンの方には申し訳ないんだけど、24歳の役にはちょっとオッサン過ぎる気がしたんですが、、、。なんつーか、遠目のショットが、どう見ても24歳ではないオッサンのシルエットなんだよね。短パンも、オッサンなら似合っているけど、24歳の青年ならオッサンぽくてダメだと思うし、、、。あと、一番ヒドかったのはダンスシーン。スローな音楽はまだしも、アップテンポなダンスを見せるシーンでは、明らかにその動きがオヤジ。……マズイでしょ、あれは。

 彼は、TVドラマ『デスパレートな妻たち』に出演していたとのことで、彼の出演シーン、見直しちゃいましたよ。当時、二十歳くらいでしょうか。なるほど、二十歳のアーミー・ハマーは、二十歳っぽい青年でした。きっと、彼の24歳は、本作のようなオッサンではなかったはず。24歳という年齢設定でないとダメだったのかなぁ。実年齢の30歳くらいでも良かったんじゃないの? 30歳のオッサンが17歳の少年に、、、って犯罪か? だったら、エリオ君を24歳にしちゃうとか。

 あと、、、本作でケチをつけるところといえば、『モーリス』同様、出てくる女性の描写が、エリオ君のお母さんも含めて、杜撰だってことかな。キレイだけど、それだけ、みたいな。本作はあくまで、エリオとオリヴァーの話であって、出てくる女性は都合良く配置されているだけ、ってのがヒドいといえばヒドいけど、そもそも、男の同性愛モノ=男尊女卑的思想がベースにある話なんで、この辺は致し方ないところか、、、。

 まあ、ケチを付けると言えばそれくらいで、、、。こういう作品こそ、映画にする意味のある作品、良い映画の要素を全て備えた作品、と言うのだと思う。何度でも見たいか、と言われると、そこまででもないけれど、見ておいて損はない映画だと思います。










ハエがぶんぶん飛んでいる、、、




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奇蹟がくれた数式(2016年)

2016-11-11 | 【き】



 19世紀末、南インドに突如現れた、天才数学者ラマヌジャン(デヴ・パテル)と、彼を“発掘”し、その偉業を支えた英国ケンブリッジ大学のハーディ(ジェレミー・アイアンズ)の物語。

 昨年の『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』に続き、再び天才数学者にスポットライトを当てた映画の上梓。もしかして天才数学者ブーム?
 

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 非常に魅惑的な数学者、ラマヌジャンの半生を映画化、しかもハーディをアイアンズが演じるってことで、勝手に期待値が上がっていたらしく、見終わっての正直な気持ちは、ガックシ、、、という感じでござんした。


◆ただでさえ天才数学者を描くのは難しい

 もう、本作は脚本の失敗、これに尽きると思います。あれがあってこれがあって、32歳で病気で死にました、っていう脚本。

 本作を見終わって、ラマヌジャンはどういう人だったのか、彼の何がそんなに凄かったのか、、、見た人は分かるでしょうか? 分からないと思いますね。分かったことは、彼が厳しいヒンドゥー教の戒律を守って異国の地で苦労し、周囲の差別・偏見も加わりストレスが溜まって病気になった、、、ことくらいではないでしょうか?

 ただまあ、これは“天才数学者”を描く宿命でもあります。一般の観客に、彼の発見した公式の凄さなんて、数学的な説明をしたって分かりません。だから、ついセリフで「これは凄い」とか周囲の登場人物に言わせるという安易な手法を選択してしまう。本作は、見事にそこに嵌ってしまったと感じます。

 ハーディがラマヌジャンの“証明の必要性を理解できていない”というところに気付いた後は、ラマヌジャンの発見した公式の証明に精力を注いだという肝心の話が抜けているのも致命的。本作では、ハーディがひたすらラマヌジャンに証明の重要性を説いているだけで、それでは、ラマヌジャンの凄さが伝わらないのも無理はないかと、、、。

 その、ラマヌジャンの数学者としての特異体質を伝えるためには、やはり、彼の生い立ちを多少なりとも描くべきだったと思います。港湾事務所の会計士からいきなり話が始まっているので、唐突感が否めない。


◆ラマヌジャンを映画にする無謀さ

 というか、そもそも、このような特異な天才を描こうとしたことが無謀だったのかもという気もします。

 大体、ラマヌジャンという人は、後世の数学者たちも「何でこんな公式を発見できたのか?」と、彼の思考回路がまったく想像できない、そういう、ある意味、人間離れした頭脳の持ち主な訳です。大抵の公式は、ある程度の必要性に迫られて、必然性から発見されているわけですが、ラマヌジャンの発見した公式は、何に使えるかもさっぱり分からない、ただただそこに誰も見たことのない数式が提示されているのです。前後の脈絡がないのです。

 そんな人を、映画にしようとした時点で、こうなる運命だったのかも。だって、本作にもありましたが、実際にラマヌジャン自身「神が降りて来て教えてくれた」と言っているくらいなのです、、、、。

 ラマヌジャンの実母との関係、若い妻との関係も描かれていて、こちらの方が、ラマヌジャン自身の葛藤よりは分かりやすいかもです。実母の息子への執着ぶりと、いわゆる嫁姑の葛藤、夫婦が離れ離れでいることの葛藤、、、誰もが想像しやすいことですからね。

 同じ、天才数学者を描いた『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』は、同じく、数学的な説明がないのにもかかわらず、チューリングの天才ぶりが本作よりは伝わるように描かれていたと思います。

 ただ、チューリングは、「エニグマの解読」という国家レベルの必然性に迫られ、苦悩の果てに解読した、という分かりやすいストーリーがあるので、ラマヌジャンを描くよりは大分シナリオも書き易いでしょう。もちろん、『イミテーション・ゲーム~』のシナリオも困難を極めたことは容易に想像できますが。

 それくらい、ラマヌジャンは、その存在が不思議な人なのです。

 ハーディは、ラマヌジャンの「神が降りて来て教えてくれた」という説明には懐疑的で、ラマヌジャンの発想の柔軟性にその真実を求めているらしいですが、私としては、ラマヌジャンはやはり、空から降りてきた、神が遣わした天才、と思った方が腑に落ちます。

 でも、そんなこと、映画で描いたら、オカルト映画か、とんでもないB級映画になってしまいかねない。やはり、映画が手を出すには、あまりにも人間離れした人物、それがラマヌジャンなのではないかという気がします。


◆美しさの探究
 
 『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』の感想文にも書いたけれど、ラマヌジャンを知ったのも、テレビ番組「天才の栄光と挫折~数学者列伝~」でした。

 その中の、講師の藤原正彦氏の話で忘れられないことがあります。

 藤原先生が、ラマヌジャンの故郷の寺院を訪ねた時、その建物のもつ様式美に魅せられたのだとか。このように美しいものに日常的に接していたラマヌジャンには、美に対する意識が、知らないうちに形成されていたのかも知れないと。

 数学者は、その数式に“美しさ”を求めるのだとか。これは、物理学者も似たようなことを言っているのを聞いたことがあるので、多分、そうなのでしょう。公式の美しさ。正しさには美しさが必ず伴うものだ、という彼らの美意識。

 ラマヌジャンのノートに書き残された膨大な数式は、どれも、実に“美しい”のだそうです。

 藤原先生は、天才は、美しさのあるところからしか生まれない、というようなことを言っていましたが、それはある意味、そのとおりかも、、、と思いました。美しさの定義は難しいけれども、“美”の探究心がないところに、素晴らしい発想や創造性は生まれ得ない、という気がしたのです。

 そういう意味では、本作に描かれたラマヌジャンの故郷の風景や建物、留学したケンブリッジの中庭や中世からの建物が、非常に美しかったのが印象的です。
 






J.アイアンズの実年齢以上の老け様が哀しい。




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キャロル(2015年)

2016-03-18 | 【き】



 クリスマス前、デパガとして働くテレーズ(ルーニー・マーラ)の前に、娘へのクリスマスプレゼントを買いに現れた貴婦人キャロル・エアード(ケイト・ブランシェット)。二人にはお互い恋人or夫がいたが、一瞬で惹かれ合う。

 1950年代のニューヨークを舞台に繰り広げられる女性たちの恋愛物語。

  
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 もう、あちこちで大勢の方々がイロイロ書かれているので、今さら感が強いですが、思ったことなどをいくつか。

 一言で言うと、美しい映画、です。主役2人の女優が美しい、映像も美しい、美術も美しい、衣装も美しい、50年代のニューヨークの冬の風景も美しい、、、などなど。美しかったものを挙げれば、いっぱい。

 惜しむらくは、男性の描かれ方が非常に杜撰だったことですかね。女性2人の目線から描くとああならざるを得ないのかも知れませんが、あまりにもヒドい。もう少し、彼らを人間としてきちんと描いてほしかったです。あれじゃあ、女性2人がああなるためだけにご都合的に登場させられたとしか見えません。俳優さんたちも演じていて辛かったのでは。

 “女性同士”の恋愛、ってのが本作の主眼に、巷の宣伝のせいで(?)なっているような気がしますが、これ、男と女の話だったら、ゼンゼン世間での受け止められ方が違っていたでしょうね。“ただの不倫モノやん”で一蹴されていてもおかしくないかも。でも、同性同士だとそれがオブラートに包まれる。

 同じ意味合いを持っていた映画としては『ブロークバック・マウンテン』(以下、「ブロマ」)が思い浮かびます。あれは、男性同士版『マディソン郡の橋』だと私は思うんですけど、本作同様、異性間での物語なら“ただの不倫モノやん”なわけですが、男性の同性愛だと、なぜか高尚な文学作品ぽくなる。

 ブロマは、私は、正直なところ嫌いな映画で「みんシネ」でも酷評してしまったんですが、同じ意味合いを持つ本作は、さほど嫌悪感を覚えなかったんですよね。、、、なぜでしょうか?

 本作の女性2人は、周囲と闘って(?)、自分たちの人生を歩む選択をします。そして、それまでの過程においても、自分たちの運命(つまり同性を愛したこと)を悲観したり隠したりすることなく、当然、自己憐憫に浸ることもなく、現実を見据えて、しかもきちんと自立して生きています。片や、ブロマの男性2人は、関係を持った切っ掛けもイマイチ謎(衝動的にヤッちゃった、みたいにしか見えなかった、私には)だし、その後も隠れてこそこそこそこそ、めそめそめそめそ、自己憐憫に浸りまくった挙句に、最終的に片方が死亡、、、。

 この違いが多分キモです。

 まあ、ブロマは、“ゲイが虐殺される場面を目撃したことによるトラウマ”という、ゲイに対する(本人たちの)精神的抑圧が本作より大分強かったので、仕方がないという気もしますが、それでも、あの自己憐憫ぶりは、正直見ていてウンザリしたのを今もよく覚えています。しかも、確か片方の男は、ゲイを隠して普通の生活をする前提(つまり自分を偽ることに葛藤がない)で、相手と逢瀬を重ねていたはず。この辺の、割り切り方とかも、凄くイヤだったような。妻だけじゃ物足りない男が若いおねーちゃんを性欲の捌け口に愛人にしているのと同じじゃん?

 片や、本作の女2人は、完全に開き直っています。同性同士であることにはほとんど葛藤がない。異性間の恋愛描写と同じなんですよね、テレーズが帰りの電車で一人涙するところとか、キャロルが通りを歩くテレーズの姿を車の後部座席で目で追っているところとか、、、。しかも、異性の恋人or夫との関係は清算することが前提です。自分を偽らないための選択。ブロマの男2人との違いは歴然、、、という気がするのですが。

 とはいえ「開き直れ」なんて、まあ、言うのは簡単です。今でこそ世間の認知も進んできたところですが、ブロマは60年代ですからね。そら、おいそれとカミングアウトはできないでしょう。だからこそ、50年代を生きる、本作の女性2人はアッパレだとも思うわけです。

 私が一番感動したシーンは、キャロルが、夫と双方の弁護士を交えた交渉の場で、涙ながらに、共同親権を諦め面会権だけを求めたところ。そこでのキャロルのセリフ「自分を偽って生きるなんて、人生の意味がない!」(セリフ正確じゃありません)が、もの凄くグサリと刺さります。本当にその通りだと。

 終盤、リッツで再会する2人。テレーズに一緒に住もうというキャロル。断るテレーズ。そこへテレーズの友人男性がジャマに入る。キャロルは席を立ち去り際、テレーズの肩にそっと手を置く。そっと、、、でも、離し難いというように。この一瞬でテレーズの心は氷解するのです。

 そして、あの意味深なラスト。キャロルの視線と、テレーズの視線。あれは、もちろんハッピーエンディングであるはずです。キャロルのあの複雑な視線を演じるケイト・ブランシェットに、座布団100枚!!って感じです。

 衣装が素敵でした、どのシーンでも。キャロルはもちろん、テレーズの衣装がとてもとても素敵。いろんな意味で見応えのある作品です。





音楽も良かったです




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恐怖ノ黒電話(2011年)

2015-12-03 | 【き】



 DV&ストーカー夫と離婚し、古びたアパートに引っ越してきたマリー。部屋には、前の住人がそのままにしていった古い黒電話があった。

 ある日、電話が鳴るので出てみると、女性の声でマリーに訳の分からない因縁をつけてくる。最初は適当にあしらうが、2度、3度とかかってくるうち、どうやら声の主の女性は、1979年を現在進行形で生きている様である。つまり、過去からの電話だったのだ。

 不思議な電話だが、女性が悲しそうに打ちひしがれているのを聞いて、マリーは同情心を起こして話し相手になってやる。しかし、これが全て、運のツキ、、、。

 ジャンルはホラーみたいですが、怖いというよりは、悲しいお話のような気がしました。、、、でも、考えようによってはかなり怖いかも。
 
 
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 なんだかB級ホラーみたいなタイトルに惹かれ、かなり以前にレンタルリストに入れたものが送られてきました。どれどれ、、、と見てみました。

 グロい描写もほとんどないし、ホラーとして見れば、映像的には大して怖くはありません。でも、自分ではどうしようもないところで自分の人生が勝手に変えられてしまうという話は、かなり恐ろしいですよねぇ。

 過去からの電話の主、ローズという中年女性は、まあ、言ってみれば病んでいる女性です。横暴な男尊女卑思想の頭の悪い夫の浮気に悩んでたんですね。初期の頃は、悩んでメソメソ泣いたり、マリーに悪態付いたりして、ちょっとイカレた感じだけだったんですが、回を重ねてマリーが同情心を起こし、ローズの話を聞いてこうアドバイスしてしまいます。

 「過去は変えられないけれど、未来は変えられる」

 ま、フツーによく聞く言葉ですよね。悩んでいる人にはよく掛けやすい言葉です。ついでに、こうも言います。

 「私も離婚するだけじゃなくて始末しておけばよかった」

 、、、そら、あんなストーカー男ならそう思いますわな。しかし、そんな醜い本音を、頭のネジが外れた過去の女に言っちゃったのが運のツキでした。マリーは、あくまでもローズは自分とは別世界の人間だと思っているから、油断してポロリと漏らしてしまったのですが、、、。

 でも、1979年といえば、マリーも既にこの世に生まれており、少女時代を生きていて、しかも、ローズとは生活圏が同じだった。

 マリーのアドバイスに生きる気力を得たローズは、まず、男尊女卑思想のマッチョ夫に言葉で反撃に出ます。しかし、当然、そんなマッチョ夫は一笑に付すだけ。怒り狂ったローズは、何と、79年のある日、マッチョ夫を殺しちゃうんです。殺して納戸の壁に埋めてしまう。そして、その部屋こそ、マリーの引っ越してきたアパートの一室だった、というわけ。

 本当のローズは、、、。実は、夫を殺した後、そのアパートで首を吊って自殺していたのです。ですが、マリーの助言により電話の主ローズの未来は書き変えられることに、、、。

 まずは、自殺などしない。夫を殺した後はマリーに執着し始める。中盤で、電話線を抜き、ローズからのコンタクトを一切断っていたマリーですが、ある日、携帯の電波が悪く仕方なくまた黒電話をつなげます。すると、自分を無視していたことで怒り狂っていた79年に生きるローズは、同じ生活圏にいた少女のマリーを見つけ出し、現在の大人のマリーに電話で脅迫するのです。

 悪いことは続き、大人のマリーは、ジョンという新しく恋人もでき、少し明るい人生が開けて来ていたのですが、その恋人の家もローズに突き止められ、当時は少年だったジョンはローズによって誘拐・殺されてしまう。

 そして、遂に、、、少女マリーもローズに拉致され、熱した油を掛けられる。大人のローズの体にみるみる浮き出るひどい火傷の痕。

 そう、マリーの現在はローズの手に握られてしまっているのです。暴走するローズから、マリーの未来=現在のマリーを守る手段はただ一つ、ローズを抹殺すること。果たして少女マリーは、ローズを、、、殺っちゃいます。

 ラスト近くで一瞬だけ、中年おばはんのローズが大人のマリーの前に姿を現すんですが、鉈を振りかざしていて怖いです。『危険な情事』のグレン・クローズもまっつぁおな狂態です。少女マリーに殺られた瞬間、消えるんですけれど。

 黒電話がつながっているときだけ、大人のマリーは現在の自分を辛うじて守ることが出来る。つながっていなければ、ローズによってどんな風に変えられてしまうか分からない。この設定が、もどかしくて恐ろしいです。

 まあ、マリーがあまりにも無防備で、そんな変な電話、最初にかかって来た時点で電話線を抜いてしまえ! と思うし、そもそもそんなアパート、さっさと引っ越しなさいよ、と言いたくなっちゃうわけです、常識人の私は。でもマリーは「大丈夫、越して来たばかりだし」なーんてノンキ極まりない。挙句、殺したいほど嫌っている元夫を部屋に入れてしまったり、、、。マリーさんよ、そんなだからヘンなのが寄ってくるんだよ。

 一番悲しかったのは、折角、ジョンとの出会いがあってマリーが幸せを感じ始めたそのときに、ジョンの過去をローズによって変えられちゃったことですね。何しろ、殺されちゃったのですから。

 この、ジョンを演じたスティーヴン・モイヤー、よく知らないんですが、ネットで見たら、あの、アンナ・パキンと結婚しているんですねぇ。彼女が、ドラマで共演した俳優と、周囲も目のやり場に困るほどのラブラブで結婚した、って話は何かで読みましたが、その彼が、スティーヴン・モイヤーだったのですね。なるほど、、、。アンナ・パキンも、もう30歳過ぎたんですか。早いなぁ、、、。

 地味作品だし、邦題がかなりイマイチだし、突っ込みどころもなくはないけれど、内容は悪くないです。ビジュアルで怖いのを期待すると、ちょっと違うかもですが。
 





間違い電話は一歩間違えるとトラブルのもと。サッサと切りましょう。




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吸血鬼(1967年)

2015-10-13 | 【き】



 教授と助手(ポランスキー)が吸血鬼を退治するために、あれやこれやと巻き起こす珍騒動。一応、コメディーらしいけれど、ほとんど笑えるシーンなし。、、、ごーん。

 
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 ポランスキー作品を手当たり次第に見ているので、今回は本作を見ることに。まあ、大して期待していなかったけど、それでもマジで退屈でした。これで楽しめた、と感想を書いている人もいるのだから、つくづく、人間の感性って千差万別なんだわ~~と、実感。

 教授と助手のコンビは、一応、教授がツッコミで助手がボケ、という感じでしょうか。といっても、教授は、別にヴァン・ヘルシングみたいな頼れる男って感じでもなく、肝心なところでヌケているので、だんだん見ていてイライラしてくるし。助手はポランスキーが演じていて、あれこれ八面六臂のご活躍なんだけど、一向に成果に結び付かなくて、これもイライラしてくる。

 あまりないけど強いて挙げる見所は、シャロン・テイトの美しさと、終盤の吸血鬼たちのパーティからシャロン・テイト演じるサラを救い出すところかなぁ。一応、救出シーンは、ちょっとだけハラハラというか、無事逃げおおせろっ!なんて思いながら見ることは出来ます。

 そこまでして救出したサラなのに、ラストでとんでもないオチが、、、。ま、これも、ブラックコメディと思えれば、笑えるんでしょうけれど・・・。

 でも、この作品が発表された翌年に、シャロン・テイトがあのような悲惨な最期を遂げたのかと思うと、その美しさが却って残酷に見えてしまいます。なんという不運。たらればを言っても仕方のないことだけれど、もしあんなことがなければ、彼女はその後もポランスキー作品で素晴らしい活躍をしていたかも知れないし、ポランスキーにもっと違う創造のエネルギーを与えたかも知れないわけで、、、。もちろん良いことばかりじゃなかっただろうけれど、本当に、人生、こんな形で断ち切られるなんてあんまりです。

 そう思って見るからだとは思うけれど、ポランスキーがシャロン・テイトのこと好きなんだな~、と感じるシーンが結構あちこちにあります。サラを必死で救おうと命懸けで行動している助手の演技とか、、、ほかにも随所で役以上の何かを感じます。2人が並ぶと、シャロン・テイトの方が頭半分背が高いんですけどね。ポランスキーは若い頃と今と、ほとんど面差しが変わらないな~、とかも思ったり。

 作品自体を楽しむことはできなかったけれど、ポランスキーの人生のほんの一幕と、美しいシャロン・テイトの魅力を味わいつつ、本作後に起きる悲劇にゾッとしながらこの感想文を書きました。

 




笑いのツボが合わない人にはイラつく映画かも。




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きっと、うまくいく(2009年)

2015-07-31 | 【き】



 インドの超エリート工科大学に入学し、寮で同じ部屋になったランチョー、ファルハーン、ラージューの3人。この大学、学長が学生を勉強に追い立てまくって追い詰めることで、大学の国内ランキングを上げてきたのだった。

 しかし、天才肌のランチョーは、そんな学長の方針に真っ向から疑問を呈し、飽くまでマイペースに学問を究める自由人を貫く。そんなランチョーに、ファルハーンとラージューも次第に影響を受け、学ぶことの本質と、生きることの意味、そして自分と正面から向き合うことを余儀なくされる。そんな2人が出した卒業後の進路は・・・。

 そして、自由人ランチョーは、卒業後、あれほど仲の良かった2人の前から姿を消してしまう。彼は今どこに・・・。

 学生時代から10年後、ファルハーンとラージューが、ランチョーを探す旅を通じて、過去と現在を往復しながら、彼らの青春絵巻を展開させる約3時間の長尺映画。

 
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 日本で公開されたのは2013年です。もう2年経つのか・・・。実は、本作は劇場に6回見に行きました(リバイバル上映のギンレイも含めてですが)。それくらいハマってしまった作品です。当然、みんシネにも思い入れ満載のレビューを書きました。

 本来なら、そこまでハマったのなら、10点満点の10点を付けそうなものですが、私はみんシネで9点としました。それは今も変わりません。なぜ-1点なのか。それをここでは書きたいと思います。

 本作の素晴らしいところは、非常にベタになりそうなテーマを、しかも真正面から取り上げているにもかかわらず、まったく嫌みがなく説教臭くなく、ユーモア満載で、なおかつシリアスな面も描いているところです。

 しかし、本作は一歩間違えると、かなり不愉快な映画になりかねない要素をはらんでいるのです。

 例えば、ランチョーは、天才肌ですから、彼の持論である「成功するために努力するのではない。努力すれば成功はついてくる」が通る訳です。しかし、その他の学生は(エリート大学に入っている時点で優秀に違いないけれど)凡才ですから、そんなのはタテマエ論に過ぎないと分かっているのです。「寝言は寝て言え」ってやつです。そんな理想論を堂々と掲げて、ランチョーは、ファルハーンやラージューの生き方に口を出すわけですから、正直、ウザい奴と思われても仕方がないのです。

 また、チャトゥルの晴れの舞台であるスピーチの原稿を改ざんした件では、改ざんした内容が倫理的にどうなのか、という点も引っ掛かります。正直、あそこでドン引きする人がいても不思議ではありません(私はギョッとはなったけれど、流しました。理由は後述します)。ヘタすりゃ、訴えられるレベルのものです。かの国でその犯罪が横行していることを思えば、笑えない、という人がいるのも当然の話です。 

 その他、3人のやらかす愚行が、あまりにもバカ過ぎるとか、迷惑すぎるとか、ラージューの自殺未遂も自業自得だとか、、、。他にも、なんだか上手く行きすぎでご都合主義っぽいとか、、、。まあ、突っ込みどころは満載です。

 これらのことを私のセンサーもどこかで微弱ながら感じ取ったために、恐らく満点を付けるのをためらったのではないか、という気がします。他に10点を付けた作品と比べ、どうしても、10点を付けることができなかったのです。

 特に、原稿改ざんについては、一瞬「は?」と、サーッと心が引いて行く感じになり掛けました。が、なぜ流したかというと、韻を踏んだ言葉遊びのひとつと解釈したからです。そして、実際、チャトゥルがスピーチしているシーンを見て、これは、世相に対する揶揄でもあると感じたからです。ま、これはかなり好意的に見て、の話です、もちろん。

 じゃあ、逆に、そんなマイナスポイントがあるのに何で9点も付けるのか、ってことです。

 これじゃ理由にならんと言われそうですが、正直なところ、私はこれを見て理屈抜きで“グッと来た!!!”のです。最初に見てエンドマークが出た時、劇場の椅子から立ち上がれませんでした。本作を見て「泣けた」という人もネットではたくさん見かけましたが、私は泣けませんでしたし、感動したというのともちょっと違いました。そう、みんシネに書いたとおり、もの凄い幸福感と昂揚感に襲われたのです。こういう感覚を覚えたのは、恐らく本作が初めてです。他の10点作品でも、こういう感覚は味わえなかったのです。これは、本作にしかない引力があるからだと思いました。

 なので、その後、5回も劇場に、なんというか、催眠術に掛かっているみたいな感じで通っていました。一種のトランス状態でしょうか。本作を見るとそういうラリッた感覚になれた、んでしょうか。自分でもよく分かりませんが、とにかく、見終わるとまたすぐ、次が見たくなる、という感じでした。6回目を見ても、やはり7回目を見たいと思いました。

 そして、アマゾンで予約していたblu-rayが手元に届き、早速見る気になったかというと、、、これが、なぜかそうではなかったんです。正直、見るのが怖いというか、実は、まだblu-rayの本編は見ていないのです。もう購入してから1年半経つというのに。特典映像は見ましたけどね。

 10個作品の『リトル・ダンサー』もそうですが、やはり、あまりにも思い入れのある作品というのは、見るのに特別な心の準備が必要になってしまいます。『ダーティハリー』も、通算100回は見ていると思いますが、今は、見るのに勇気がいるようになってしまっているし、、、。見飽きたと思いたくないんですね、多分。そして、自分がそれらの作品に抱いている感覚を壊したくないのです、テレビで見ることによって。スクリーンで見て壊されるのなら、まだ諦めもつくのでしょうが、、、。

 でも、そこまで、たかが(と敢えて書いちゃいますが)映画ごときで思い入れを持てる、というのは、またそういう作品に1本ならず何本も出会えているというのは、私は本当に幸せ者だと心から思います。そこまで振動させる心を持てていることも、良かったと思えます。何を見てもそこそこ、、、じゃ、あまりにもつまらないし、虚しいですから。

 というわけで、本作は、ある程度好き嫌いが分かれる作品かと思いますし、押し付けがましいことを書くのも本意ではありませんが、でも、まあ見て損はない映画だと思います。





劇場で見た回数最多作品です。
(2位は『リトル・ダンサー』の5回)




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北のカナリアたち(2012年)

2015-05-06 | 【き】



 北海道のとある島に赴任してきたキレイな先生、川島はる(吉永小百合)。6人しかいない分校の担当となり、コーラス指導に力を入れ、生徒たちを愛情深く(?)指導していた。が、そんなある日、はるが教師生活にピリオドを打つことになる事件が起きる。

 20年後、その6人の生徒のうちの一人・鈴木信人が殺人犯容疑で追われており、東京で暮らすはるの下に警察が訪ねてくる。信人の部屋にはるの住所と電話番号をを書いたメモがあったからだ。しかし、はるは、信人からの連絡などないと警察に話す。

 はるは、20年ぶりに島にやってきた。殺人容疑で追われている信人を探しに、そして、20年前の事件に向き合うため、、、。

  「東映創立60周年記念作品」という、バリバリの気合いが空回り気味な、小百合サマ映画。


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 もう、かなり前にBSを録画して放置してあったのですが、『天国の駅』を見たので、小百合さんものを続けて見ることに。

 むむぅ、、、これは、ちょっと、、、見ているのがキツかった。最後まで見ましたけど。正直、あんまし感想を書く気にもならない作品です。ただ、まあ、せっかく時間を割いて見たので思ったことをつらつらと。

 私の学生時代の知人(女性)が、高校の教師になったのですが、大学卒業後の最初の赴任地がある島だったのです。そこそこの規模の島で、本作に出てくるような分校しか小学校がないような小さい島じゃなかったんですが、それでも、彼女は言っていました。「島中の人にあっという間に顔を知られるので、一歩家の外を出たら、何も出来ない、男子生徒と二人で歩いたり、ましてや大人の男性とツーショットでいることさえ出来ない」と。

 なぜなら、それは、島の学校の先生だからですよ、もちろん。知人は、当然いろんな覚悟をして島へ赴任しましたが、それでもやはり、そういうプライベートがほとんどないという状況は息苦しかったそうです。それくらい、島の先生は、その職業に自覚をもった行動を強いられるわけです。

 本作でのはるさんは、ましてや夫のある身。はるさんの、夫以外の若い男(仲村トオル)との逢引きという行動には、「いかにもフィクション臭」を感じてしまう。いたたまれないというか、何とも言えない恥ずかしさを感じてしまうのです。リアリティがなさ過ぎる。ましてや、はるさんのお父さんは地方の名士でしょ。こんな軽率な先生、ちょっとあり得ない。

 別に、夫以外の人に心惹かれるのは構わないけど、真昼間から、干しワカメの陰でキスってさぁ、、、。せめて、島の外へ出て逢わせるとかさぁ、もうちょっとねぇ、、、。でないと、見ている方がシラケるんだよ、くだらな過ぎて。

 その他にも、イロイロ、何だかなぁ~、と思う所はあったけれども、まあ、ふ~ん、という感じで・・・。

 でもやっぱし、小百合さんは、小百合さんでしたね。何やっても同じ演技の俳優ってたくさんいるけど、小百合さんもその典型だよなぁ。『天国の駅』も、やっぱり小百合さんだったし。

 大体、小百合さんと柴田恭平が夫婦役って、どーなんですかねぇ? まぁ、この二人は許容範囲か。でも、小百合さんのお父さんが里見浩太朗ってのは、ちょっと、、、。ましてや、小百合さんの愛人が仲村トオルって、、、。ううむ。ま、実年齢とどーのこーの、というのも不毛ですけど、見た目的にね・・・。つーか、まあ、小百合さんありきの映画なんだもんね。

 若い俳優さんたちは旬な方々を集めて、それぞれ皆さんイイ感じでした。ただ、話の全てが、はる先生との単調な会話で進んじゃうので、退屈といえば退屈ですけれど。もう少し、彼らの役者能力を活かす方法もあったような気がします。

 何となく、見終わった後、とりとめもなく、愚痴とか文句とかを言いたくなる作品です。



しばらく小百合映画は見る気がしない




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飢餓海峡(1964年)

2014-05-31 | 【き】

★★★★★★☆☆☆☆

 昨年亡くなった三國連太郎さんの代表作として、ニュースでも何度も挙げられていた本作ですが、大分前のBSでの放映を録画し、ようやく見ました。何しろ3時間ですからね・・・。長い映画が苦手な私としては、見るのに覚悟が要ります。原作未読。

 さて、名作誉れ高いだけのことはあって、確かに力作です。役者も揃っている。中でも、八重を演じる左幸子が出色です。犬飼の残した爪を持って官能に耽る演技など凄みを感じます。また、犬飼を追う伴淳演じる弓坂刑事も味わい深く、素晴らしい。むしろ、主役の三國さんより際立っていたと思います、このお二人は。一方で、健さんは、何の役をやっても昔から健さんだったんですねぇ。

 とにかく、本作の時代、日本は皆が貧しかったのですね。田舎でも都会でも、その描写から貧しさが嫌というほど伝わってきます。皆、生きるのに必死だった。その貧しさをベースにして、実際に起きた台風での船の転覆事故と大火を絡めているという、その原作の設定が非常に秀逸だと思います。

 ところで、犬飼が味村刑事に語った、北海道から内地へ渡る過程についてだけれども、これ、皆さん信じるんでしょうか。彼は、漁父の利よろしく大金を手にしたと、、、。

 私は信じられないクチで。犬飼は網走出の2人を撲殺し海に放り出して、大金を独り占めしたのだと思えてなりません。なぜなら、船に乗る際、網走出の男がそれまで肌身離さず持っていた大金入りの鞄を、わざわざ体から離して船床に置くとは思えないからです。犬飼の言った通りが事実なら、大金もろとも海の藻屑となっていたに違いないと思うのです。犬飼は思ったに違いない、「この金で人生仕切り直せる」と。事実、彼は北海道を出ることでリセットしたというようなことを味村に話しています。そこに目の前に大金が出現し、それを奪うことを考えない方がむしろ不自然です。どうせ、どっちにしたって、彼はすでに強盗殺人及び放火事件という大罪に巻き込まれているのですからね。自制が効かなくなっていて当然です。少なくとも、私が犬飼ならそう思うと思いますね。

 しかし、本筋とは関係ないところですが、署長が弓坂刑事にお茶を点てて差し出すシーンがありまして、私、このシーンにいたく感動しました。この署長さんは、部下の意見をじっくり聞いた上で、決断は素早く冷静に下すという、上司としての鏡のような人であり、おまけに、お茶を点てるという風流も心得ているなんて、あの戦後の皆が貧しい時代に、何と粋な署長さんなんでしょうか。原作でもこういう設定なんですかね。分かりませんが。

 ちょっと後半がダレたのと、ラストが読めてしまったことが、私にはかなり興ざめだったので、星の数は低めです。
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