映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

離愁(1973年)

2022-08-30 | 【り】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv12461/


以下、映画.comよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。
 
 1940年。ベルギーとフランスの国境近くに住むラジオの修理工ジュリアン(トランティニャン)は、ドイツ軍の侵攻から逃れるため妻子とともに村を離れることに。

 妊娠中の妻と子どもは列車の客室に乗せ、自身は家畜車で移動する彼は、ある駅で列車に乗り込もうとする若いユダヤ人女性アンナ(ロミー)と出会う。

 初めは言葉すら交わさないジュリアンとアンナだったが、次第にひかれ合うようになっていく。

=====ここまで。

 
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 渋谷のBunkamuraル・シネマで今月「没後40年 ロミー・シュナイダー映画祭」が開催されていました。チラシを見ていたので行きたかったのですが、何しろこの酷暑とコロナの異常な感染状況にすっかり行く気が削がれてしまいました。

 渋谷駅からBunkamuraまで歩いて行くのを考えるだけで、うへぇ~~という感じになってしまうのですよねぇ(渋谷がそもそも苦手)。本当は、同じくBunkamuraで開催中の「かこさとし展」にも行きたいのだが、暑いのがどうにもダメな私には、あの場所は高い高いハードルです。うぅむ、、、でも見たいなぁ。

 ロミー・シュナイダー映画祭は、好評だったのか、追加上映がされる様子。でも、これも折角だけど行けない(日程的に)。

 本作は、長らくソフト化されていなかったようなのだけど、割と最近DVD化されたみたいです。ロミーとトランティニャンの共演でラブストーリーだと聞き、ラブストーリー苦手だけど、TSUTAYAで借りて見てみました。もう1か月くらい前に見たのだけど、全然記憶が薄れない素晴らしい映画でした。


◆ラストが全て。

 いやぁ、、、見終わって呆然としてしまった映画は久しぶりかも。

 ジュリアンとアンナは、列車を降りた後、一旦別れる(というか、アンナが無言で立ち去る)のだが、3年後、アンナはナチスに捕まって、彼女が持っていた身分証明書にジュリアンの名前があったことから、ジュリアンはナチスの支配下にあったフランス警察に尋問を受けることに、、、。

 尋問する方も「何かの手違いで勝手に名前を使われただけでしょう」などとジュリアンに言う。しかし、この身分証明書は、実は3年前に列車を降りた際に、ジュリアンがユダヤ人のアンナを「私の妻です」と係官に言って、どさくさに紛れて作ったものだったのである。

 警察は「もう帰っていいですよ」と言ってジュリアンを見送るそぶりをしつつ「せっかくだから女に会ってみますか」といってアンナをジュリアンの前に連れてくるのだ。

 しばし緊張感が取調室に充満するが、ジュリアンが立ち上がり出口に向かう。そのまま扉を開けて部屋を出て行けば、ジュリアンは無事に今までどおり妻子と平和に暮らす日々が待っているだろう。……けれど、ジュリアンは、その扉の前で振り返る。ハッとするアンナ。2人の様子を見守る警察官。

 ラストは、ジュリアンの手に片頬を覆われて泣き崩れるアンナのストップモーションでエンドマークである。この幕切れが痛い、、、。この後、2人がどうなるかは容易に想像がつくわけで、それでも敢えて、あそこでジュリアンが扉を開けて出て行かなかったことに、本作を見た多くの人は心揺さぶられたのではないだろうか。


◆なぜジュリアンは、、、

 ラストまでは比較的淡々とした描写で、列車内のシーンが大半を占める。臨月の妻と子供は客車に乗せるが、席が足りずに、ジュリアンは貨車に乗らざるを得ず、そこでアンナと出会う。

 アンナは最初から謎めいており、服装も黒いワンピースで頭髪もひっつめといたってシンプルなのに、何とも言えない色気を放っている。ジュリアンは、最初からアンナに心奪われていたようにも見える。

 避難する列車の旅で皆どこか刹那的である。貨車内では飲んで歌ったり踊ったり、時には喧嘩したりと、一見どこにでもある人間の営みがそこでは展開され、このまま無事に目的地に着くかと思われたその手前で、突然、空からドイツ軍の機銃掃射を受けて、さっきまで踊っていた人々がバタバタ倒れる。生と死が入り乱れる。

 そんな空気が支配している中で、普通の精神状態ではないだろう美男美女が乗り合わせれば、そりゃまあ、ああなるのも道理かな、と思う。一種の吊り橋効果というか。

 しかし、本作の場合、吊り橋効果などという心理学用語が吹っ飛んでしまうあのラストである。3年経っても、ジュリアンのアンナへの思いは1ミリも摩耗していなかったということか、、、。

 なぜ、妻子のあるジュリアンにとって、しかも子供は幼子でかわいい盛りのはずだが、妻子でなくアンナだったのだろう。……などという問いは野暮というか、愚であるのだろうけど、あの後、ジュリアンは拘束されるに違いなく、恐らくは殺されるか、よくて収容所送りだろう。収容所から生きて還れる確率は高くない。そう考えると、ジュリアンは、あの後、自分の行動を悔いた瞬間もあったのではないか?

 本作には原作があるらしいが、原作はもっとドライな話で、エンディングも違うものになっているらしい。


◆その他もろもろ

 ロミーは、エキゾチックな美しさ。

 途中、井戸の水でジュリアンとアンナが身体を洗うシーンがあって、ロミーは下着姿になるのだけど、これがとっても素敵だった。決して若いピチピチのギャルではないけれど、実にキレイなのだ。セクシーという感じではない。むしろ、黒いワンピース姿のロミーの方がよほどセクシーだった。

 トランティニャン、やっぱり若い頃はハンサムでイイ男だなぁ。『Z』での颯爽とした姿をまた見たくなってしまった。

 ネットで感想をザッピングしたところ、ジュリアンとアンナについて“絶望的な愛”と書いている人がいた。“絶望的”な“愛”かぁ、、、とちょっと考えてしまった。2人に待っているのは死だから? この先2人が共に生きることができないから? アンナのあのラストショットは、絶望的な愛の涙ではないと思うな~。ジュリアンの自分への思いが命と引き換えのものだったことに対する喜びの涙だったと思うのよ。というか、少なくとも私がアンナなら、そうなる。自分が愛する人の、自分への思いを目の当たりにして、絶望的な愛だなんて受け止めない。そんな愛情を、生きている間に一度受ければ、もう死んでもいいじゃん、、、と思う。

 95分と短めだけど、充実感を味わえる、でも、鑑賞後感はかなり重い映画だった。少し時間をおいて、また見たい。

 

 

 

 

 

 

 

 

原作を読みくなったので図書館で予約しました♪

 

 

 

 

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リトル・ジョー(2019年)

2020-08-23 | 【り】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv71141/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 バイオ企業で新種の植物開発に取り組むシングルマザーのアリス(エミリー・ビーチャム)は、ある日、特殊な効果を持つ美しい真紅の花の開発に成功する。その花は、ある一定の条件-必ず暖かい場所で育てること、毎日欠かさず水をあげること、そして何よりも愛すること-を守ることで、持ち主に幸福感をもたらすという。

 そんななか、アリスは会社の規定を犯し、息子のジョー(キット・コナー)への贈り物として花を一鉢自宅に持ち帰る。だが“リトル・ジョー”と命名したその花が成長するにつれ、ジョーが奇妙な行動をとり始めるのだった。

 一方、アリスの同僚ベラ(ケリー・フォックス)は、愛犬ベロが一晩リトル・ジョーの温室に閉じ込められて以来、様子がおかしいと確信。その原因が花の花粉にあるのではないかと疑念を抱く。

 そして、アリスの助手クリス(ベン・ウィショー)もリトル・ジョーの花粉を吸い込み、いつもとは違う様子を見せ始めていた……。

=====ここまで。


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 連日の酷暑で、もうヘロヘロ。おまけにマスク、、、。ほとんどゴーモンに近いけれど、電車の中や映画館内では、やはりマスクを着けないといけないし。屋外で人通りがほとんどない自宅から最寄り駅近くまではマスクしませんけどね。連日、感染者ウン百人とか聞いていると、なんだかもうコロナなんかどーでもええわ、って気分になってくる。それより、熱中症での死者数の方が多いくらいなんだもん。

 で、そんな地獄のような夏も後半に入り、ツクツクの声を聞きながら毎日仕事に行くのもイヤなんで(?)、最近はほとんど週一ペースで休んで劇場へ脚を運んでいる次第。あ゛~~、早く秋ちゃん来ておくれ。


◆あら、、、? 何か変わった??

 本作はボタニカル・スリラーと言われているんだが、それは、このリトル・ジョーと名付けられた花が花粉を飛ばして人間を支配しようとする、、、という設定になっているからだろう。でも、支配すると言っても、人が幸福感を得られるようにして支配していく、、、ってのがミソ。

 人に幸せをもたらす、、、、この“幸せ”ってのがヒジョーにクセモノ。

 ジョーは母親アリスとの2人暮らしが良いと思っていたし、アリスもジョーとの暮らしが良いと思っていた。少なくとも、アリスはジョーと2人でいろんなことを語らいながら楽しく暮らすことが、自分にとっての幸せだと思って疑っていなかった。けれども、リトル・ジョーがもたらした幸せは、自分が思い描いていた幸せとは全然違うものだった。ジョーは、離れて暮らしていた父親と暮らしたいと思うようになり、アリスもジョーの気持ちを尊重したいと思うようになり、ジョーもアリスも父親もメデタシメデタシ、、、?

 花(というか花粉)に接する前とは、正反対の結果が、アリスとジョーのそれぞれの幸せであった、、、、ということだ。

 結果的には、みんながそれぞれちょっとずつ変化することで、みんなハッピー♪なんだから、これはこれでまぁ良いんじゃないの? 欲望が満たされること=幸せ、じゃないんだからさ~、、、、、ボタニカル・スリラーなんかじゃなくファンタジーじゃない?? などと、鑑賞直後は思った。

 でも、よくよく考えてみたら、これはかなりヤバい話だなぁと。

 アリスよりも、ジョーが先に花粉を浴びてしまうことで、アリスの目にはジョーがそれまでのジョーと違っているように感じる。けれども、アリスも花粉を浴びると、そのジョーに対する違和感が消え、アリス自身もそれまでのアリスとはちょっと違うように、本作を見ている者には感じられるのだ。

 つまり、自分の親しんでいる人やモノが、“なんかちょっと変わったかも……?”という「違和感」は、実はもの凄く重要なものではないか。

 リトル・ジョーを独裁者に置き換えて“体制の変化”に当てはめて考えると分かりやすい。何か最近ヘンだ、、、という感じがしばらく続いていくうちに、その違和感に慣れて行き、いつしかそれが普通になる。リトル・ジョーの放つ花粉を、支配者の繰り出す言説に置き換えると、確かにこれはボタニカル・スリラーだ。“幸せ”になるからこそ、余計に、違和感はなかったことにされてしまう。ヘンだと思ったけど、結果、幸せなんだからイイじゃん、、、と。本当にイイのか? その先に落とし穴があるんじゃないのか??


◆フェミ要素はいらん。

 最初に花粉の影響を受けるのが“犬”ってのがスリラーっぽい。あの『遊星からの物体X』を思い出しちゃったわ~。だから、本作ももっとグロくてエゲツナイ方向に話が進むのかと身構えていたら、全く違った、、、。

 本作の評や、監督のインタビュー等を読むと、アリスがワーカホリック気味のシングルマザーであることが、本作の重要な背景であるとされている。アリスは、潜在的にジョーに寂しい思いをさせているという“負い目”があった。それが、リトル・ジョーを介して顕在化したのだ、と。ジョーが父親と暮らすことで、アリスは仕事に集中できるようになる、、、それがアリスの本当の幸せだったのだ、、、と。
  
 こう言っちゃナンだが、そういうフェミ的な解釈は正直言ってウザいなー、と感じてしまった。イマドキ“働くシングル・マザー”の“負い目”なんぞを持ち出してくるなんて、案外この監督、保守的なのかな。

 両親が揃っていたって、寂しい子どもはいっぱいいるし、寂しい思いをしている子どもが漏れなく不幸なわけではない。親が、自分を最優先にして何かを犠牲にしていると感じるのも、子どもにとってはかなりの負担でしょ。子どもは成長するから、親が一生懸命生きる姿を理解できる時は必ず来るわけで。子どもにとっての真の幸・不幸なんて、親や周囲の大人が安易に判断できるほど単純な話じゃないだろう、、、と思うんだけどね。


◆その他もろもろ

 アリスを演じたエミリー・ビーチャムは、本作でカンヌの主演女優賞を獲っているらしい。独特の髪型は、もちろん演出なんだろうが、ちょっと古い70年代を思わせる感じ。デリバリーばかり利用していて、やたら、料理が出来ない母親の描写が強調されていた。このアリスのキャラ造形も、ちょっと類型的だよね。最初の食事のシーンで出てくるのは寿司で、寿司の入っていた紙袋に「活」の漢字が見えていたが、色合いがどうも中華風なところが何となく可笑しかった。

 ベン・ウィショーのクリスは、やはり独特。イマイチ何考えているのか分からない。

 リトル・ジョーという名の花が、何とも不気味。意思を持って花を開いたり閉じたりして、花粉も飛ばす。この花には話し掛けることが大事なんだが、リトル・ジョーじゃなくても、植物は話し掛けると良いらしい。毎日誉めながら水やりをした花と、毎日貶しながら水やりをした花では、全然花の咲き方が違うとか、翌年の花の付き方が違うとか、そんな話を聞く。まぁ、実際はどうなのか知らんが、私は、生花の定期宅配を6年以上続けているんだけど、萎れた花を棄てるときは「ありがとね~」と言って棄てている。これは花に対してどうこうというより、私の気持ちの問題なんだが、、、。

 あと、本作は、映像と音楽がかなり個性的だった。オープニングの映像など、あまり他の映画で見たことがない。音楽は、雅楽が使用されていて、効果音として耳障りな音も多用されている。この雅楽は、スリラー効果を狙ったモノだと思うけれど、欧米の方々にはともかく、日本人の私には何か絵面とBGMが全然合っていないようにしか見えず、ヘンテコな感じだった。監督の何人目かの夫が日本人(故人)で、その方のアルバムから使用しているらしい。

 まぁ、見に行く前の期待感と、見終わった後の実感で言うと、ちょっと良くない方に裏切られた感じがしたので、の数は少なめです。

 

 

 

 

 

 

いわゆる“ボディ・スナッチャーもの”です。

 

 


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リンドグレーン(2018年)

2020-02-13 | 【り】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv68583/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 スウェーデン南部スモーランド地方にある教会の土地で農業を営む信仰に厚い家庭に生まれ、自然の中で兄弟姉妹と共に伸び伸びと育ったアストリッド(アルバ・アウグスト)。

 やがて思春期を迎え、率直で自由奔放なアストリッドはより広い世界や社会へ目が向きはじめ、教会の教えや倫理観、保守的な田舎のしきたりや男女の扱いの違いに息苦しさを覚えていった。

 文才を見込まれ地方新聞社で働くようになった彼女は才能を開花させはじめるが、その矢先に予期せぬ方向に人生が進んでいく。

=====ここまで。

 「長くつ下のピッピ」「ロッタちゃん」などで有名な児童文学作家アストリッド・リンドグレーンの、作家になる前の波乱に満ちた半生を描いた映画。 
 

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 公開しているのは知っていたんだけれど、岩波ホールはサービスデーがない(まあ、あの劇場のコンセプトだからそこは納得しているが)ので、1日の映画の日を待って見に行って参りました。


◆アルバ・アウグスト

 リンドグレーンの本は、小学生の頃に「長くつ下のピッピ」を、ドラマを見た後に図書館で借りて読んだことを覚えているんだが、内容は覚えていない。気に入っていたドラマも、ほぼ忘れている。同じく小学生の頃に放映していた「大草原の小さな家」は割と断片的にではあるが覚えているのに、ピッピの方は、ピッピの姿や格好がうっすら記憶にあるくらいで、この違いは一体何??

 だから、特別リンドグレーン作品に思い入れがあったわけではないが、数年前に見た『なまいきチョルベンと水夫さん』はかなり気に入ってしまって、劇場で見た後DVDまで買ってしまったくらい。あと、岩波ホールの前に掲示されていた本作の看板のスチールがすごく魅力的で、見たいな~、と思わせてくれた。

 、、、というわけで、見に行った次第。その前に午前十時の映画祭で『アラビアのロレンス』を見てヘロヘロになっていたのだけれど、あまり期待していなかったからか、想像以上の感動作で得した気分。

 何しろ、主役のアストリッドを演じたアルバ・アウグストが本当に素晴らしい。映画監督ビレ・アウグストの娘さん。母上も女優さんとのことで、まあ、サラブレッドですね。サラブレッドだからといって、生まれついて才能があるとは限らないところが世の常なんだけれども、このアルバ嬢は、天性のものがあるように感じた。16歳から24歳くらいまでを演じるんだけれど、当時25歳だったとは思えないくらい、10代の少女がハマっていた。

 そういう見た目のことよりも、表現力の確かさが、もう凄いとしか言いようがない。新聞社の社長ブロムベルイと不倫関係に陥るところとか、妊娠して親とも軋轢が生じ戸惑い続けるところとか、何より、どうにか無事に出産できてホッとするのも束の間、息子を手元に置いておけなくなって生木を裂かれるような苦しみにあえぐところか、、、、本当にいろんな側面を表情豊かに演じていて、ただただ圧倒されてしまった。

 この演技でいろんな賞をもらったそうだが、そりゃそーだろう、、、と納得。これは、末恐ろしい俳優の誕生だ。


◆同級生のお父さんと、、、。

 それにしても、アストリッドがハマった不倫の相手であるブロムベルイなんだが、この人、アストリッドの同級生のお父さんなんだよね。ハッキリ言って冴えないおっさん。まあ、アストリッドのことは本気で愛していたみたいなんだが、それでもなぁ、、、。今の日本だったら犯罪だもんね。ただ、この場合、アストリッドもおっさんのこと本当に好きで、どちらかというと彼女の方が積極的だった、、、というふうに本作では描かれている。実際はどうだか分からんが、おっさんに迫るアストリッドは、実にストレートで、ある意味爽快でさえある。あんな風にされたら、おっさんは不可抗力で即陥落だわね。普通だったら、そんなおっさん、スケベ爺ィとか罵ってやりたくなるだろうが、ブロムベルイに対してはそういう感じにならなかった。

 ただまあ、やっぱり、この親子みたいなカップルってのは、どうしたってちょっとムリがあるわけで、そもそもアストリッドが妊娠したことはおおっぴらに出来ないから、ってんで、隣国のデンマークでの出産を余儀なくされる。さらに、ブロムベルイは妻と離婚できないどころか、アストリッドとのことが露見したせいで姦通罪で起訴され、下手すりゃ刑務所行き!!という事態にまで追い込まれる。だから、アストリッドは判決が出るまで息子を施設に預けざるを得なくなる、、、。

 結局、刑務所行きは免れるものの、2人が一緒になることはなかったのは、まあ、道理かなと感じた。アストリッドは、両親(特に母親)の反対などから、赤ん坊をなかなか引き取ることも出来ず、どうにか職を得て息子と一緒に暮らせるようになった頃には、2歳半になっていた息子は施設の里親を“ママ”と呼び、アストリッドを拒絶する、、、。

 ……こんな出来事が、アストリッドが児童文学作家としてデビューする以前にあったのか、と驚いた。本作は、息子と心を通わせるようになったところで終わっており、アストリッドとピッピやチョルベンがすんなり私の頭の中ではつながらないままだが、生まれたばかりの実の息子との2年半にも及ぶ空白は、私の想像を超える爪痕をアストリッドの心に遺したのだろうということくらいはうっすら分かる。


◆その他もろもろ

 アストリッドの母親ハンナは、信心深くて保守的な人間として描かれており、アストリッドの不倫や出産には終始冷たい姿勢を崩さなかった。それでも、彼女なりにアストリッドを心配し、愛しているのは伝わるのだが、この母娘の間にはずっとわだかまりがあったように思う。このまま終わってしまうのか、と思って見ていたら、終盤、思いがけないシーンがあり、ハンナの意外な一面が描かれる。そのシーンは、実にさりげなく、でも、印象的で、この展開だけでも、本作は秀逸だと言えると思う。

 そのハンナを演じたマリア・ボネヴィーがとても美しくて、母親と言うより、少し歳の離れた姉、、、って感じだった。ビレ・アウグスト監督の『エルサレム』(1996)では主役を演じているらしいので、また機会があったら是非見たい。

 アストリッドが息子を預けた施設の里親マリーを演じていたトリーネ・ディアホムは、もうホントに女神のよう。温厚で優しくて寛大で、、、って私にないものばかり持っている素晴らしい女性。こんな人、実在するんだ、、、と唖然としてしまった。

 監督のペアニレ・フィシャー・クリステンセンは女性で、リンドグレーン作品を読んで大人になったというお方。これまでにもいくつか作品を撮っているみたいだけど、今後も楽しみな監督さんだ。

 アルバ・アウグストの父親であるビレ・アウグストの監督作品というと、『レ・ミゼラブル』(1998)、『リスボンに誘われて』(2013)くらいなんだが、『愛と精霊の家』(1993)とか『ペレ』(1987)とか話題作も撮っているのよね。『ペレ』ってパルムドール獲ってるのね、、、知らなかった。今度見てみようかな。
 

 

 

 

 

 

 

2歳半の「息子ラッセを演じた子役の坊やの百日咳の症状は完璧」       

                                ーーby細谷亮太氏(パンフより)

 

 

 

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リヴァプール、最後の恋(2017年)

2019-04-11 | 【り】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv66603/

 

以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 1981年9月29日、ピーター・ターナー(ジェイミー・ベル)の元に、かつての恋人グロリア・グレアム(アネット・ベニング)がランカスターのホテルで倒れたという知らせが飛び込んでくる。「リヴァプールに行きたい」と懇願するグレアムに対して、ターナーは自分の実家でグレアムを療養させることにした。

 グレアムはターナーの家族やリヴァプールを懐かしむが、まったく病状を明かそうとしない。心配になったターナーは主治医に連絡を取り、病状を確かめる。グレアムの死が近いことを悟ったターナーは、不意に彼女と楽しく過ごした日々を思い出すのだった……。

=====ここまで。

 ジェイミー・ベルが出ていなきゃ見に行かなかった映画。

 

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 『リトル・ダンサー』がベスト5に入る私にとっては、ジェイミー・ベルは“滅多に会わない遠縁の子”みたいな感じなのであります。つまり、遠くから見守っていたい存在。『リトル・ダンサー』以降、実は結構色んな作品で頑張っているんだけど、どうもパッとしない感じが続いていて、遠縁のおばばにしてみれば心配の種であったのです。そこへ来て、今回はほぼ主演格での出演作ということで、ラブストーリーは得意分野ではないけど頑張っておばばは見に行きましたよ、劇場へ。

 

◆恋多き女性の実態は、、、。

 最初に書いておくと、私はグロリア・グレアムという女性があんまり好きになれない。彼女は“恋多き女性”なのではなく、ただの“男依存症女”だと思う。彼女が美しくて、有名女優だったから絵になっただけの話で、その辺の平凡な女が同じことをやっていたら、好き者と言われるのがオチだろう。彼女は、自分では恋愛しているつもりでも、男の存在がないと生きていられない人だったのだと思う。

 男を取っ替え引っ替えしているから好きになれないというのではなく、彼女の依存するのはたまたま“男”だったけれども、その対象が、同性であれ、友人であれ、我が子であれ、とにかく、誰かに依存する“他人依存症”なところがイヤなのよ。私は親に依存された身なので。

 本作でも、ピーターはグロリアに依存され、振り回される。ピーター自身はそれを“真剣な愛”だと思っているし、まあ、それはそうだったんだろう。こんな回顧録(本作の原作本)も書いているくらいなんだから(まあでも、これで一儲け、、、ってのも当然あったでしょ、そりゃ)。

 この“愛”という名の依存ほど厄介なモノはない。ピーターとグロリアの場合は、本作ではグロリアが随分長い間ピーターの家に居候したみたいな描写になっているが、実質的には6日間ほどだったらしく、6日間じゃ、そらキレイな思い出で済むはずよ。NYでの2人の楽しい生活も、1年にも満たなかったようだし、2人の関係は泥沼にならずに済んだから、このようなロマンチック・ラブストーリー(?)になっただけの話。

 しかし、実際には、他人依存症者に“愛”を振りかざして依存される者は、ハッキリ言って地獄です。本人は愛だと信じているから、依存された方は彼らを冷たくあしらえば(理不尽にも)罪悪感に苛まれる。でもね、それが依存する側の狙いなわけで、こっちはまんまと相手の思う壺にハマっているわけ。愛は愛でも自己愛、自分のことしか考えていないただの自己チューなだけなの、実態は。自分が生きやすいように、手頃な人間をコントロールしたいだけなのね。

 だから、本作でもグロリアは、ピーターにとんでもない迷惑を掛けているのに、ピーターに「病院に行け」「治療を受けろ」と言われているのに、そんなの聞く耳持たずに自分の意の向くままに行動する。ピーターは家族に「グロリアの息子に託せ」と説得されるが、「愛しているから(見捨てるようで)辛い」と言って泣く。このピーターの涙が、罪悪感そのものなんである。……ったく。

 末期癌と医者に言われた後、敢えてピーターに冷たくして関係を強制終了させておきながら、結局、ピーターに頼ってくる。こういうところがね、、、何かイヤ。ピーターと強制終了させて終わりに出来たなら、もうちょっと好きになれたかも知れないケド。少なくとも、ピーターのことを考えての行動と思えるから。

 本作のストーリー自体も平板で、こう言っちゃ悪いけど、かなり陳腐。年の差がなければ、そこら辺に転がっている三流以下の難病モノ。だったら、演出が良いかというと、まあ、それも特別どうという感じもなく、、、。映画としてもイマイチ。

 ジェイミー出演作のことを悪く言いたくないんだけど、そう感じてしまったのだから仕方がない。

 

◆ええ役者になったのぉ、ジェイミー!

 ……とこき下ろしてきたけれど、遠縁のおばばとしては、ジェイミーがとっても良い役者になっていたことに、心底感動した。これは嘘偽りのない感想。

 演出自体はパッとしないけど、ジェイミーの一つ一つの演技は素晴らしかった。表情や仕草、佇まいが、実に雄弁にピーターの心情を表わしており、相当彼は苦労してここまで来たんだろうと想像する。このまま役者として精進を続ければ、いつか必ず良い役が巡ってきて、ビリー・エリオット以上のブレイクを果たすだろう。

 ピーターとグロリアがノリノリでダンスするシーンがあるんだけど、ダンスはやっぱりジェイミーの十八番、実にキレの良いダンスを見せてくれて、おばばは感激。

 NYでグロリアに追い出されることになったとき、家族に説得されてグロリアを息子に託して別れたとき、その時々に見せるジェイミーの表情が実に素晴らしい。ええ役者になったのぉ、、、ウルウル。

 そうよ、良い作品に恵まれて実力がなくても人気者になって大物扱いされるより、こうして地味な作品でもコツコツ努力を続けて地力を蓄えた方が、長い目で見れば役者としては絶対に良いはず。彼はまだ若い。これからきっとチャンスはあるはず。おばばは期待しているよ。

 グロリアを演じたアネット・ベニングは良い歳のとり方をされている様子で、容貌は経年変化を見せているけれど不自然さは全くなく、チャーミングさは相変わらずで素敵だった。ジェイミーの相手役が彼女で良かった。大胆に脱いでいたのも立派。こういう肝の据わった役者さんは好きだわ。彼女の出演作は『アメリカン・ビューティ』しか見ていない(多分)ので、『リチャード三世』とか評判が良いから是非見たいと思っているけどDVDもちょっと手の出ない値段になっちゃっているし、、、。ジェレミー・アイアンズと共演している『華麗なる恋の舞台で』も見たいなぁ。こっちはレンタルできそうだから見てみようかな。

 イギリスの誇る名女優ジュリー・ウォルターズが、本作ではジェイミーの母親役だった。『リトル・ダンサー』から20年近く経っているのだからムリもないが、大分お歳を召されて一回り小さくなったような感じだった。出番も少なく、こんな素晴らしい俳優をもったいない使い方で、やっぱりこの監督はイマイチなのでは。あのドラマ「シャーロック」を手掛けた人らしいが、「シャーロック」は私はダメなクチだったから合わないのかな。

 あと、余談ですが。劇場に、いろんな媒体に掲載された本作の評がベタベタ貼ってあったんだけど、その中に、何の媒体かは分からないけど、芝山幹郎氏が書いていた文章を見て、私は“怒髪天”であった。だって、ピーターを演じた役者のことを「あの『リトル・ダンサー』で主役ビリー・エリオットを演じていた人」なんて書いているのだよ!! 何、演じていた“人”って!!! 彼は立派な俳優でござんす。ただの人じゃありません。それに、そんな書き方、仮にも“映画評論家”の肩書きを持つ人がするか? ジェイミー・ベルのことをそんな風に書くなんて、アンタ映画何見てんだよ、と聞きたい。……あ、ちなみに私は芝山氏のことは決して嫌いではありません。でもあの文章は許せん。きっと、私の髪の毛は逆立って天を衝いていたことでせう、、、嗚呼。

 

 

 

 

 

 

ピーターの両親があまりにも寛容でビックリ。

 

 

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リアリティのダンス(2013年)

2015-03-03 | 【り】



 ホドロフスキーの自伝的映画。幼いアレハンドロ・ホドロフスキーの身の回りに巻き起こる様々な出来事を父親ハイメの人間的成長を軸に描かれるが、、、。

 やっぱし、この人はトンデモ爺さんだ。
  

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 「リアリティ」の「ダンス」って、ヘンなタイトルだなぁ、と思ってはいたけれども、見終わって、なんとなく腑に落ちるタイトルでございました。

 見たいと思いつつ、数々の劇場鑑賞機会を逃してきた本作ですが、どうにか、今回、短い上映期間中に足を運ぶことが出来ました。・・・いやぁ、見て良かったです。ますます好きになったかも、ホドロフスキー爺さん。

 『エル・トポ』からも容易に察しがつくように、彼の父親は相当強権的・抑圧的な父親だったらしく、本作でも、少年アレハンドロに対し、父親ハイメは、とんでもない親父ぶりを発揮しています。とにかく、このハイメは、一言で言えばマッチョな馬鹿男なわけです。しかし、まあ、一応、家族愛もある。

 この親父、ある日、旅に出ます。体制転覆を狙って、指導者暗殺の旅に。これがねぇ、凄いんですよ。もう、『エル・トポ』のまんまなんだけど、決定的に違うのは親父のマッチョぶりがどんどん削がれていく様が、これでもかとしつこく描かれるとこ。救いようのない馬鹿男が、多少なりともマシになるんですな、これが。

 パンフのホドロフスキーのインタビューを読んで、納得しました。彼はこう言っています。「私にとって過去は変えられると思っています。過去というのは主観的な見方だからです。この映画では主観的過去がどういうものか掘り出して、それを変えようと思ったのです」と。

 恐らく、本当の彼の父親は、死ぬまでマッチョな馬鹿男だったのだろうけれど、彼は本作を撮ることで、自分の理想の父親がいたのだ、と、自らの記憶を上書きしたのだと思います。

 これは、母親サラの描写にも表れていて、例えば、彼女のセリフは全部オペラ調なのですが、実際の母上がオペラ歌手になりたかったがなれなかったということを踏まえて、本作の中では彼の母親はオペラ歌手になっているのです。過去を変えたのですね。

 ホドロフスキーにとっての「リアリティ」って、そういうことなのですね。自分の理想という脳内変換機を通して、実際に起きたことを「リアリティ」にする。

 でもこれって、人間誰でも、大なり小なりあることですよね。記憶の曖昧さなんて、今さらわざわざ書くまでもないけれども、自分の都合の良いように(あるいは悪いように)書き換えられていることなんてフツーにあります。特に、幼少時の記憶なんて、ホントに驚くほど現実とかけ離れていたりして、唖然とした経験は誰にでもあるはずです。

 これを、ホドロフスキーは、今回、映画にした訳です。自分の息子3人を出演させ、極めて私的な自伝映画。彼自身言っています。「これは、心の治療のようなものなのです」、、、う~、分かるなぁ。

 昨年、『ヴィオレッタ』を見た際にも書いたけれど、やはり、自分の過去(恐らくは抑圧された経験のもの)を乗り越えるには、それを、全部吐き出す=解毒する、という作業をしないとダメなのでしょう。ホドロフスキーほどの偉才に恵まれた人でもそうなのか、と思い知らされた気分です。親との軋轢って、こんなにも人生に影を落とすものなんだ、、、がーん。

 彼らの住むチリのトコビージャという町。・・・まあ、これは、見ていただくしかありませんが、こんな町で育てば、そら尖った個性が育つのも分かります。序盤の岸に打ち上げられる大量のアジのシーンは、、、正直、ドキッとさせられました。あれが、アレハンドロの記憶にあるリアルなトコビージャの象徴的な風景なんだろうな。

 手足を失った者たち、行者、アナーキスト、神父、、、と実に様々な人々が出てきますが、本当に、少年アレハンドロにとって、リアルに関わって記憶に留められているのは、父親と母親なのだということが、ラストシーンで描かれていたのだ、と思いました。ただし、ちゃんと、リアリティがダンスしている父親と母親ね。

 うーん、ホドロフスキー、いいなぁ。ホレてしまったよ。


 


ホドロフスキーが、自身を治療するために作った映画。
見た者は治療どころか知恵熱出そう、、、




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リスボンに誘われて(2012年)

2014-10-06 | 【り】



 偶然にある本を手にして読んだことから、その本の著者に惹きつけられた高校教師のライムントは、走り出した電車に飛び乗り、著者に迫る旅に出る。今は亡き著者の壮絶な過去に触れ、心揺さぶられたライムントは、自らの人生を振り返る、、、。

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜

 ジェレミー・アイアンズ主演で、シャーロット・ランプリングもご出演、とあれば、まあ、見ないわけにはいかないよな、ということで、劇場まで行ってまいりました。サービスデーだったにしては、割と空いていましたねぇ。大ヒット!満席続出!と広告に出ていた割に、普通の入りでした。

 なんつっても、かなりの豪華キャストです。ヨーロッパの実力派を揃えたり、って感じです。ですが、、、ジェレミー・アイアンズ、すごい老け様です。まだ70歳になっていないのに、すごい爺さんになってしまっていて、かなりの衝撃・・・。

 美しいリスボンの街並みを惜しげもなくバックに、ライムントが偶然手にした本「言葉の金細工師」の著者の過去に迫ります。この著者アマデウの過去が明かされていく過程の描き方が、回想シーンを多用している割にはすっきりと簡潔にされており、また、アマデウと彼を取り巻く人物たちの描写も過不足なく、非常に秀逸だと思います。

 アマデウは、将来を約束された裕福な医者であったのに、レジスタンスに身を投じ、激しい恋にも落ち、友情も壊れ・・・という青春絵巻が展開され、それを、40年経った現在から振り返るのですが、アマデウの周囲の人間たちの現在を演じている役者さんと、若い頃を演じる役者さんが、皆さん、雰囲気がかなり似ていて上手いキャスティングだなあと、そういう点でも感心します。邦画だとゼンゼン似ても似つかぬ役者が演じていることも少なくない中、こういう所も素晴らしいと思いましたね。

 ただ、ちょっとだけ難を言えば、良い映画だったなぁ~、で終わっちゃうところですね。それだけでも十分ではありますが、すごくもったいないような気もします。どうしてそう感じるのか・・・。考えてみましたが、良くも悪くも「お上品」なのかな、と。セリフで説明されるところも多いし、登場人物がみんな割と「常識的」な行動をしているのです。冒頭、電車に飛び乗ってしまうライムントを除いては・・・。良い意味での裏切りがないのですね。先が読める、というのとはちょっと違って、想定内で話が進んで行くのです。

 本作の監督、よく見たら、リーアム・ニーソン主演の『レ・ミゼラブル』の監督さんと知って、ちょっと納得しました。あの『レ・ミゼラブル』もなかなか良い作品だけど、ちょっと食い足りないというか、グッと来なかったのですね。本作と鑑賞後感が驚くほど似ています。

 あとはまあ、ラストシーンですかねぇ、ちょっと気に入らない。著者の実像に迫る旅を終え、ライムントは、アマデウの人生と自分の来し方を比べる訳です。「オレの人生、取るに足りないんじゃないか・・・」ってやつです。思わせぶりに本作はエンドマークとなりますが、こういう、ある人の劇的な人生の一幕と、自分の平凡な人生を比べて、自分の人生に価値を見出せなくなるって、あまりに陳腐なんじゃないでしょうか。

 ライムントが30代くらいの若者なら、まあ、百歩譲ってまだ許せます。がしかし、人生の夕暮れ時を迎えている爺さんです、彼。人生とは何か、生きるとはどういうことか、、、そんなこと、嫌っていうほど考えてきたはずです。

 そもそも、ライムントのそれまでの人物像と矛盾すると思うのです。確かに今の彼は、妻に逃げられ、ちょっと世捨て人っぽい。しかし、これまで教育者として生きてきて、おまけに「言葉の金細工師」という本には、今まで自分が考えてきたこと全部が書かれている、ということで旅への衝動に繋がっているはず。つまり、彼は、自分とこれまできちんと向き合ってきた人間なのです。自問自答しながら、きちんと生きてきた人、、、じゃなかったの?

 それが、ここへきて、アマデウの人生を通して自分の人生を見つめるとは、どうにも解せない展開です。そんな薄っぺらな爺さんだったのかよ、って。まあ、そんなことは百も承知な彼だけれど、ちょっとだけ感傷的になっちまった、ってことにしておきますか。

 、、、と、ケチをつけたけれど、見て損はないと思います、もちろん。

 ・・・それにしても、ポルトガルの歴史なんて全然知らないので、独裁政治がつい最近まであったこと、今も決して豊かといえない現実があることなど、初めて知ったことも多々・・・。パンフを読んで、へぇー、と思うこともたくさんありまして、これは是非とも原作も読んでみなくては、と早速、図書館で予約いたしました。


すべて人生に軽重なし




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