映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

わらの犬(1971年)

2016-07-26 | 【わ】



 アメリカでの暮らしに嫌気のさした宇宙数学者のディヴィッド・サムナー(ダスティン・ホフマン)と、妻エイミー(スーザン・ジョージ)は、エイミーの故郷であるイギリスの片田舎の村に引っ越した。

 これで、穏やかに研究に打ち込めると思っていたディヴィッドだが、田舎ゆえのムラ社会的な人間関係や風土と、自らの信念である非暴力主義の相互作用により、だんだんと村人たちから侮られ、嫌がらせをされるようになる。非暴力主義のディヴィッドはやり過ごしていたのだが、そんなディヴィッドにエイミーは次第に不満を募らせ夫婦の関係も微妙に悪くなって行く、、、。

 ある日、ディヴィッドとエイミーは、教会の催し物からの帰り道、精神障害を持つ村の男ヘンリーを車で轢いてしまう。慌てた夫婦は自宅にヘンリーを連れ帰る。が、ヘンリーは、少女を誘拐したと誤解されて村のならず者たちに追われている身だった。ディヴィッドの家にヘンリーがいると知ったならず者たち5人が、ヘンリー奪還のためにやってくる。

 恐れをなしたエイミーは、ヘンリーをならず者たちに引き渡すようディヴィッドに懇願するが、非暴力が信条のディヴィッドはそれを拒否。ならず者たちを我が家へ一歩たりとも入れるものかと、徹底抗戦に打って出る。

 そして、遂にディヴィッドが……っ!!

 (いつものリンク先であるWalkerは、あらすじに明らかな間違いがあったので、今回はWikiにしています)


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 なんと、今さらですがペキンパー作品デビューです。あんまし興味なかったというか、、、食わず嫌いだったというか、、、。TSUTAYAでレアものだったので、リストのトップに置いておいたら、タイミングが良かったのか送られてきましたので、見てみました、、、。


◆怒りを表すことが恥だと思っているディヴィッド

 普段、周囲から嘲りの対象だった人物が、ろくに抵抗も見せずに内心は怒りのマグマを最大限まで溜めた挙句に暴発する……、ってこれは、あの「津山30人殺し事件」と構図は同じじゃないですかねぇ。暴発の仕方がちょっと違いますけど。理不尽に対する怒りは、ある程度はきちんと感情として表出させ解消していかないと大変なことになります、という典型で、本作もまさにそれを描いた映画です。

 まあ、ただ、困ったことに、本作のデイヴィッドもそうだけど、こういう人たちは大抵、自分の感情を自覚できていない、言語化して認識できていないんではないかと思われるんですよね。理不尽なことをされてモヤモヤした感情はあるけれどもそれが怒りだと認識できない、あるいは敢えて認識することを避けている。怒りを制御することは往々にして難しいわけで、特に、デイヴィッドは怒りを表すことを恥だと思っている節もある。なぜなら彼の信条は非暴力であるから。怒りを相手に伝えることは恥でも何でもないのにね。

 そして、ある時、その怒りが臨界点に達すると、彼らは自分の感情を言語化して向き合うというステップを難なく飛び越えて、一気にとんでもない暴力行為に訴えて表出させるという、その飛躍が大き過ぎて、一般凡人の理解を超えてしまうのです。

 デイヴィッドは、あの精神障害者のヘンリーを守る使命感に駆られてラストで暴発したわけではもちろんなく、ヘンリーはトリガーに過ぎず、自らの信条に意地になってしがみつくことで、アンコントロール状態に陥っちゃったんでしょうねぇ。インテリに多い気がするんですが、自分の信条を非常事態に陥っても貫こうとする、いや、貫かねばならないという融通の利かなさ。

 ま、自分にきちんと向き合ってこなかった、自分の気持ちを自分できちんとケアしてこなかった、もっと言えば、自分を大切にしてこなかったことによる、当然の帰結でしょう。

 おまけに、ディヴィッドが何度も口にする「ここはオレの家だ」が、さらに彼の人間性を矮小化させて見せるのです。自分の縄張りをほんの少しでも侵した相手を過剰に攻撃する、ヌマチチブみたいなディヴィッド。なんか哀しい。

 とはいえ、あの状況で、どうすれば良かったのか、、、。ヘンリーをならず者たちに引き渡せばよかったのか。なぜ、ヘンリーを家に連れてきてすぐに警察か救急車を呼ばなかったのか、という疑問が残るわけですが。やはり、こうなる前に、ならず者たちにナメられないようにその場その場で手を打っておくべきだった、、、ということなんでしょうけれども。

 私だったら、そもそもヘンリーを家に入れる前に夫に全力で抵抗するかなぁ。エイミーが嫌がるのはよく分かる。でも、入れる段階で夫に嫌だと言わないと、入れちゃってからイヤだって言ったって、外に出す方が難しいよ。こうなったらもう手遅れよね。


◆ヌマチチブと化したディヴィッド

 かくして、ディヴィッドの壮絶な闘いが始まるのですが、火事場の馬鹿力じゃないけど、彼のどこにあんな力があったのか、もうRPGのように、軟弱主人公キャラが弱っちい武器を駆使してならず者たちを一人また一人と倒していく、、、。

 その倒し方が実にディヴィッドのキャラを物語っている。ちまちましていて、理詰めで動く。逃げ出そうとする妻も許さない。なわばりを侵すもの許すまじ!! とばかりに、みみっちいながらも、確実に目的を一つずつ果たしていくあたり、もう、ディヴィッドがチチブに見えて仕方なく、恐ろしい暴力シーンにもかかわらず、なんだか苦笑が浮かんでしまいました、、、。

 ヌマチチブは、ハゼ科の小魚で、ものすごい排他性の強さが特徴です。その侵略者に対する過剰な攻撃は、魚とはいえ憎たらしいというか、まるで可愛げを感じられないのです。

 ダスティン・ホフマンの小柄で唇の薄い顔立ちがまた、いっそう、チチブを連想させ(顔が似ているということではなくて)、もう、早く終わってくれ!!とさえ思っちゃいました。


◆セックスのためだけに配された女の役

 まあ、秀逸な作品だろうとは思いますが、正直、見終わって、何とも言えない憤慨を覚えたのも事実ですね。何でかなぁ、としばらく考えたのですが、多分、女性の描き方が気に入らないんだと思います。

 ストーリーに絡む女性は、ほぼエイミー1人。あとは終盤、ジャニスがヘンリーを誘惑するくらいですね。エイミーはほとんどセックスを体現した存在で、彼女はストーリーにほとんど影響を与えていないどころか、ただただ、男たちの性的欲求の対象としてしか描かれていない。しかも、研究に集中したい夫に相手にされないと自分を持て余して、自分をレイプした相手に自分からしがみついて行くという、とにかく、回りの男もエイミー自身も“セックスのためだけにいる女”という認識なわけです。彼女が主体的になって動く展開はまるでナシ。

 演じているスーザン・ジョージ自身が魅力的なので見られますけど、エイミーという女性はまるで魅力がない人物像です。こんな妻だったら、ディヴィッドでなくても、早晩飽きるでしょう。

 むしろ、出番はちょっとだったし、最後は殺されちゃうジャニスの方が、本作ではキーマンですよねぇ。彼女がヘンリーを誘惑したから、終盤の惨劇が起きたわけですから。


◆ダスティン・ホフマン

 ダスティン・ホフマンという俳優を、私はあまり好きじゃないし、本作を見てもそれは変わらないけど、ディヴィッドはハマり役だったのではないでしょうか。ディヴィッドが、大柄でイケメンだったら、そもそも、あんなならず者たちもおいそれとエイミーを狙ったりはできないでしょ。

 やっぱり、人間、押し出しって大事ですよね、残念ながら。

 

 



ノーブラにセーター一枚で外を歩ける感性が同じ女性として理解不能。




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フランス組曲(2014年)

2016-07-22 | 【ふ】



 第二次大戦下、ドイツに占領されたフランス。中部の町ビュシーには、パリから避難民が殺到する中、ドイツ軍が駐留することに。町一番の豪邸には、出征した夫を待つリュシル(ミシェル・ウィリアムズ)が、気位の高い姑(クリスティン・スコット・トーマス)とともに暮らしていた。そこにドイツ軍中尉ブルーノ(マティアス・スーナールツ)が滞在することになる。

 ブルーノは、リュシルや姑に紳士的に接し、また、軍人になる前は作曲家だったと言い、リュシルの家にあるピアノを奏でることもあった。時折り聞こえてくるブルーノの弾くピアノの音に聞き入るリュシル。こうして、2人は次第に惹かれ合っていくのだが、、、。

 原作は、アウシュヴィッツで亡くなった作家イレーヌ・ネミロフスキーの未完の遺稿で、戦後60年を経てベストセラーになったとか。未完だったせいか、ラストはかなり??な展開なのが残念。

 

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 劇場公開中に行けずじまい、、、。やっとこさ、DVDで鑑賞しました。


◆“ロミジュリ”の発展系のオハナシ

 国と国とが敵対する関係でありながら、男女が互いに惹かれ合う……というわけで、これはスケールの大きい「ロミオとジュリエット」と言えましょう。悲恋の定番です。しかも、本作はリュシルが人妻ですから、さらに“不倫”要素が加わります。

 まあ、不倫といっても、リュシルの場合、夫が出征したのは結婚して間もないようですし、そもそも、よく知りもしない男と死を目前にした実父の言うままに結婚したということで、夫婦間の愛情以前に、2人の関係がそもそもちゃんとできていない状況で放り出され、宙ぶらりんの状況だったわけで、これは夫以外の男を好きになるなと言う方がムリな話です。

 なので、戦地にいる夫は、リュシルにとって、というか本作ではあまり枷にはならないですよねぇ。その代り、枷になるのが、こわーい姑です。あとは何といっても最大の枷が、惹かれる相手の属性(憎き敵国の軍人)。枷が大きいほど恋は燃え上がるものです。

 もし、日本が、例えば中国かロシアに占領されてしまって、中国かロシアの軍人が我が家に滞在したら、、、。その軍人はなかなかのイケメンで紳士的、なおかつ知的。こわい姑が目を光らせてはいるけど、戦地にいる夫に対する思い入れは希薄で、来る日も来る日もそのイケメン軍人が家の中をウロウロしていたら、、、。しかも、向こうもこちらに気がある様子。……ということを妄想してみましたが、やっぱり、夫への愛情の度合いで、答えはゼンゼン変わってくるだろうな、と思いました。夫を愛していれば、イケメンだろうが知的だろうが、恐らく眼中に入ってこない。でも、夫に対して愛情がほとんどなく、なおかつ、夫と正反対のタイプの軍人だったら、、、、これはリュシルの気持ちが分かっちゃうかもですねぇ。

 おまけに、本作では、夫には、実はリュシルと結婚する前から愛人がおり、子どもまでいたと途中で分かっちゃう。しかも、姑も公認だったという、、、。これで、リュシルの心のブレーキは外れましたねぇ。自分も好きじゃないのに、そいつに前々から愛人がいたんなら、貞節を守るのバカバカしいと思うでしょ、そりゃ。ブルーノに一気に傾くのもむべなるかな、という感じです。

 なんというか、こういうリュシルの心の動きに説得力を持たせている構成がニクいなぁ、と思います。


◆サイドストーリーも良い

 ただ、本作は、2人の悲恋がメインストーリーのはずなんですが、これは割と薄味で、むしろ、サイドストーリーである、サム・ライリー演じる小作人夫婦の話の方がインパクトが強いです。

 ブノワ(サム・ライリー)は、貧しい小作農で、その家にはブルーノの部下ボネ中尉が滞在しているのですが、このボネが、まあ、かなりのイヤなヤツで。ブノワの奥さんマドレーヌに乱暴しようとし、ブノワに殺されちゃうんですが、ここから、話が一気に緊迫します。ブノワを捜索するドイツ軍、匿うリュシルと姑、密告する町長夫人と、それぞれの思惑が交錯する。

 特に、町長夫人が密告したことで、結果的に、ブノワが見つからないのは町長の責任とされてドイツ軍によって銃殺刑に処せられるという展開は、恐ろしくてゾッとしました。しかも銃殺の現場で指揮を執ったのはブルーノです。、、、この町長夫妻も貴族の出で気位が高く、夫人が密告したのも、ドイツ軍に優遇してもらうためだったのですが、裏目に出ちゃうという皮肉。こういう、生死が紙一重という出来事が、実際にも多々あったのだろうなと思わせるエピソードです。

 こういった、サイドストーリーが厚いので、じゃあ、メインストーリーがぼやけているかと言うと、終盤まではそんなことはありません。リュシルとブルーノは、戦争がなければ出会わなかっただろうけど、戦争があったから決して成就しない恋、でもあります。つまり、2人の恋は、戦争の上に成り立っているということ。この恋が成就してしまうことは、やはり、あり得ないのです。

 あり得ないという結論は分かっていても、終盤の展開は、ちょっといただけない。


◆未完の原作ゆえの終盤か

 リュシルと姑に匿ってもらっていたブノワは、自ら「パリに行く」と言い、リュシルが「じゃあ私が連れて行く」と、ブルーノに通行許可証をもらって検問を突破しようとしますが、あることからリュシルを怪しいと勘付いていたブルーノの部下の機転により、検問でブノワが見つかってしまう。でも、ブノワが拳銃で大立ち回りを演じ、そこへ、部下の言葉でリュシルの身が危ないと直感したブルーノが1人オートバイに乗って駆け付ける、、、。検問所のドイツ兵は皆死に、ブノワを乗せた車を運転して走り去るリュシルを、ブルーノは黙って見逃す、、、。そこへ、「彼はその後亡くなったと聞いた」というリュシルのナレーション。

 、、、うーん。これは、どうなんでしょうか。私は、検問でリュシルもブノワも捕まり、収容所で、看守と収容者としてブルーノとリュシルが一瞬だけすれ違う、、、みたいな展開の方が良かったかな、という気がするんですけれども。

 ブルーノは、なんだかんだ言っても、やはり無茶なことをやってしまう破天荒さはないので、いかにリュシルを愛していたと言っても、愛が勝ってしまうことはないと思います。まあ、本作の展開でも愛が勝つ訳じゃないんだけど、なーんか、ものすごい中途半端な感じ。だったら、ブルーノは飽くまで軍人として生き、リュシルを愛で救うことは出来なかった、とした方が、悲惨ですけど腑に落ちます。

 原作がどこまで書かれていたのか分からないんですが、ブノワが匿われていたところ辺りまででしょうか。もし、原作者が最後まで書いていたら、どんな展開になったのでしょう。私は、飽くまで救いのない悲惨な話になっていたように思うんですけど。
 

◆その他モロモロ

 クリスティン・スコット・トーマスが出ているのは知っていたんですが、あの姑が彼女だと認識するのに少々時間がかかりました。老けたとかというより、化粧と髪型のせいだと思いますが、一瞬、ジェレミー・アイアンズが女装したのかと思っちゃいました。まあ、相変わらずの貫録で圧倒していましたが。特に、ブノワを匿うときの彼女は、キリッとして腹を括る感じがよく出ていて素敵でした。

 ミシェル・ウィリアムズは、すごい美人、というわけじゃないけど、何となくはかなげでリュシルによく合っていたと思います。終盤、ブルーノとの恋を吹っ切ろうとする強さを見せるところも好演でした。

 ブルーノを演じたマティアス・スーナールツは、私的にはあまり好みの顔じゃないんですが、気の優しいイイ男にうまくハマっていたと思います。あんなステキな人が身近にいたら、そら、クラッと来ますね。

 一番存在感があったのは、ブノワを演じた、サム・ライリーかも。顔が小さくて長身で、何か、ちょっと小作農っていう感じじゃなかったけど。
 



 



原作を読んでみたくなりました。




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太陽の蓋(2016年)

2016-07-17 | 【た】




 311の震災と原発事故、その時、官邸で何が起きていたかを、ある記者の視点から掘り起こす。総理や官房長官らは実名。

 綿密な取材を基に構成されていることは分かりますが、再現ドラマではないので、念のため。

 

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 演劇『BENT』を鑑賞後、夕方時間があったので見に行ってみました。


◆本作品を制作する意義

 総理や官房長官等が実名ということからも分かりますが、本作はかなり官邸の側に立った作品で、東電関係者や、被災者の方々見たら、憤りを感じる部分も多々あるだろうな、とは思います。思いますが、それでも、こういう映画を作ったその志には、敬意を表したい。

 アメリカだったら、もっと早くに作られていたでしょう。日本の映画業界は、こういう政治色の濃い、実際に起きた事故や事件についての映画を作ることに、非常に腰が引けているので、まずはよく作ったな、と思います。

 出演した役者さんも、相当、覚悟を要したことでしょうし、監督を始めスタッフも大変だったろうと思います。こういう映画を作ることに、役者や制作者たちが過剰な覚悟を求められること自体、現在の日本の業界風土がいかに幼稚であるかを物語っており、まずは、こういう幼稚な業界気質を、映画愛好者たちによって改善していくことが第一歩ではないかという気がします。


◆あの時、官邸で何が起きていたか

 大分前に、菅直人著『東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと』を読んでいたので、菅さん実名での作品ということは、多分、あの本の内容と概ね一緒だろうとは思っていましたが、だから、本作を見て初めて知ったことはほとんどなかったように思います。

 菅さんの本を読んだ時も思ったし、NHKの検証番組を見た時も思ったんですが、原子炉が爆発しなかったのは、本当に、ただただ“運が良かった”という、運頼みだったことの恐ろしさです。そして、本作でもそれは描かれていて、何度聞かされても戦慄する事実です。やはり、映像で見ると当時の切迫感はさらに増しますね、、、。正直、怖かったです。

 そして何より、原発を動かしていた東電自身も、ほとんどお手上げ状態だったということには、恐怖ではなく憤りを覚えますねぇ。

 私は個人的に、20年ほど前、東電社員に知り合いがおり(今はゼンゼン関係ありませんが)、まあ、恐らく幹部候補のエリートだったと思います。原発に当時から懐疑的だった私は、その人に「原発ってヤバくない?」と、素朴な感想を述べたところ、一笑に付されたので「チェルノブイリのことだってあるしさー」と畳み掛けたら、「あんなこと、あるわけねーじゃん。あれは、ソ連だから起きたんだよ。日本で起きるはずないって、ガハハハ!」と能天気に言っていたのを、今も鮮明に覚えております。東電には申し訳ないけど、その人1人のせいで、私は、その時、東電を“1ミリも信用できない会社”に勝手に認定しました。だから、東電のCMや広告を見ると、無性にムカムカと腹が立ったものでした。

 なので、福島の事故対応を見ていても、怒りとともに、やっぱりな、というどこか諦めに似た気持ちもありました。あんな人が幹部候補にいるような会社、ろくでもない、という予感は、当たっていたと思いますね。本作でも、東電は徹底的にダメダメに描かれており、私のような者からすれば、最早、怒りを超えて不謹慎ながら笑いさえ覚えます。

 あとは、役人たちの能天気ぶりというか、無能ぶりというか、、、。作品冒頭、官邸で、福島で何事か起きているらしい、という一報に、総理が経産省の担当者に「どうなっているんだ?」と尋ねると、「分かりません」と他人事のような答え。総理が「専門家だろ!」と畳み掛けると「私は、東大の経済出です!!」、、、脱力です。これが、日本の頭脳集団のはずである、官庁組織の実態なのです。

 あの時、官邸で何が起きていたか、、、という問いに対する答えは、もしかすると、「何も起きてはいなかった」かも。官邸も、東電も、ただただ混乱していた。皆が、右往左往していた。誰も、何も、事態をきちんと把握できていなかった。出来るような仕組みが、そもそもなかった。だって、原発は100%安全なんだから。


◆あの時、もし、、、

 私は、今も昔も、菅さんに特別な思い入れは全くありません。ずっと以前、今じゃ信じられませんけど、彼が厚生大臣時代に“次期総理に期待する人ナンバー1”になって人気者だった頃は、そういう人気に懐疑的でした。それは、菅さんの政治家の資質を見抜いていたとかではゼンゼンなく、私自身の性格の問題で、世間でもてはやされているものに、とりあえずは疑ってかかる、というひねくれ目線が常に働くからなのです。

 でも、事故当時の菅さんの言動、、、ヘリでの現地視察、東電への早朝乗り込みetc、、、は、私は、よくやったと思います。一連の彼の言動は今も非難轟轟で、右寄りの新聞など、いまだに菅さんを極悪人みたいな扱いしていますけれども、誰が総理であっても、事故自体は起きていたわけで、その後の対応についても、東電が官邸を蚊帳の外に置いたことは同じだったでしょう。

 ただこれが、もし、自民党政権だったら、、、ということは考えさせられますね。

 可能性は2つあり、1つは、東電がもう少し官邸に協力的になっていて、結果は同じだったにしても、東電と官邸の意思疎通はマシだったかもしれない、ということ。もう1つは、原子力政策を猛然と推し進めてきた自民党は、東電から上がってきた情報を隠蔽するかもしれない、ということ。いずれにしても、自民党政権だったら、菅さんよりマシな対応が出来ていたとは、到底思えません。

 何より、見ていて胸が詰まったのは、やはり、福島で被災された人たちの描写です。何を書いても上っ面になるので詳細は書きませんが、こういう人たちが今もたくさんいるのに、それを東電や政府は、どう思うのだろうか、、、と疑問は消えませんね。


◆その他もろもろ

 本作で、菅さんを演じたのは、三田村邦彦ですが、ズラが丸分かりで、深刻なシーンなのに、何か可笑しかった。三田村さん、久しぶりに見たなぁ。あんまし歳とらないですね、彼。必殺の秀のイメージが強いんですが、あまり崩れていないような。

 一番ハマっていたのは、枝野さんを演じた菅原大吉さんですかね。髪と耳たぶは付けたんだと思いますが、ちょっと猪首な感じとか口元とか、よく研究しているなーと。途中から、枝野さんに見えましたもん。

 北村有起哉演じる記者は、まあ狂言回しなので、ああいう描写になるのかな。何日も泊りで仕事している割に、顔も服もキレイなのはいただけないけど、無力感を覚えながらも取材を続ける姿は、なかなかサマになっていました。余談ですが、舞台『BENT』でも素晴らしかったです。彼は、ホントに声が良いですね。お父さん譲りでしょうか。舞台でも良く通る声で、映画の中でも渋い低音で一際耳を引く声でした。

 冒頭の紹介文でも書きましたが、本作は、よく取材された誠実な作品であることは間違いないけれど、再現ドラマではないので、これが現実にあったことだと鵜呑みにするのは危険だと思います。いくつも報告書が出ていますし、関係者による本もたくさん出ていますから、様々な立場からの話を見聞きして、真実を自分なりに探って行くしかないと思います。

 願わくば、東電の立場から描いた映画が作られると良いなあと。どんな内容にしても、顰蹙を買いそうではありますが、それでも、作る価値はあるのでは。もし、そうなったら、、、東電社長は、誰が演じるんでしょうか。

 本作について、作中にも登場する寺田さんがHPで感想を書いています。へぇ、と思うことも書かれていたので、読んでみても良いかもです。


班目さんの描かれ方が印象的。





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顔のないヒトラーたち(2014年)

2016-07-14 | 【か】



 1958年、西ドイツ・フランクフルトで検察官となったばかりのヨハンは、交通違反事案ばかりを処理して退屈していた。が、ジャーナリストのグニルカが、ナチスの親衛隊員だった男が、教師として堂々と生活している事実を把握し、告発する。上司たちが引き止めるのを振り切って、この告発に対し動き始めるヨハンであったが、、、。

 50年代のドイツでは、ナチスが強制収容所で何をしていたのか、ほとんど知られていなかった。ヨハンと、一部の検察官たちの働きによって、初めて広く国民にホロコーストの一端が明かされるきっかけとなったアウシュヴィッツ裁判が開かれるまでの、ヨハンの激闘を描いた作品。
 

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 また、ナチスです。昨年、劇場で見そびれまして、ようやくDVD鑑賞いたしました。


◆だから日本は、、、と言われる理由。

 アウシュヴィッツ裁判の初公判は1963年だそうです。ヨハンが、事実の一端を知ってから、5年経っていたのですね。5年も、というより、たった5年で初公判にこぎつけたなんて、すごいと思いました。だって、起訴するには、それなりの捜査と証拠が必要なわけで、あの膨大な書類と被害者・加害者の人々を相手に、恐らくは膨大な書類を作成し、準備をしたのでしょうから、それを思うと、5年は早い方なのではないかと感じたのですが。

 先日『帰ってきたヒトラー』を見たら、今のドイツ人の多くにはナチ・アレルギーなんてないみたいに見えました。そして、私は、戦後の敗戦国としての歩みにおいて、ドイツに日本が劣っているだとか、ドイツは素晴らしいが日本は無責任だとか、そういった一面的な論評に与する気はさらさらありません。

 ありません、が。

 本作を見て痛恨の極みだと感じたのは、やはり、日本人は、自らの手できちんとあの戦争について総括していないということです。

 本作で描かれたアウシュヴィッツ裁判をきっかけに、ドイツがナチスを含めて戦争について総括できたかどうかは分かりませんが、少なくとも、自国民の手によって、戦時、何が実際に行われていたのかを明らかにしようとした人々がいて、それによって、国としてたとえ建前であったにせよ恥部を世界に自ら晒したことは事実です。

 日本は、東京裁判を判決のみならず、裁判まるごと受け入れてしまった一方で、自ら敗戦を直視し、その原因を探り、何が間違いだったのかを丁寧に検証し、自らの手で総括することはせずに今日まで来てしまいました。東京裁判が不当だと、当初から議論があったのですから、別に屈辱にまみれながら受け入れることなどせずに、自分たちで自分たちの過去を冷静に厳正に裁けばよかったのです。そして、国際的な評価を受ければ良かったのではないか。

 それと同じようなことを感じたのが、先日イギリスが発表したイラク戦争の検証結果ですね、、、。アメリカも既に検証結果を公表していて、「間違いだった」と認定しているし、イギリスの調査委員会も間違いを認めています。どちらも、膨大な量の報告書の様ですが、、、。日本も既に一応外務省(独立委員会ではない)が検証し、結果を一部公表していますが、A4用紙4枚分だとか。しかも、「追認やむを得ず」という内容です。究極の「人のせい」。、、、これでは、自浄作用がないと世界から認識されても仕方がないのではないでしょうか。独立国家として判断したのなら、人のせいにしていてはいけません。そして、こういう姿勢は、やはり、先の戦争及び敗戦についても同じだという目で見られても、反論できないのではないでしょうか。

 とかく、ドイツと比べられる日本の戦後処理ですが、やっぱりここが致命的だな、と本作を見て改めて思いました。今に至ってもこうでは、敵に塩を送っているようなもんです。


◆戦争モノでいつも感じること

 というわけで、映画に話を戻しますと、ヨハンは、よく殺されなかったな、、、というのが一番の感想です。あのご時勢で、あそこまで負の歴史に切り込もうとしたら、ナチスの残党に暗殺されてもおかしくなかったと思います。

 そして、何より、ヨハンがあそこまで行動できたのは、上司である検事総長バウアーのバックアップがあってこそ。バウアーはユダヤ人だった、というのが大きい。見ていて、このバウアー、実は悪者で、どこかでヨハンを陥れるようなことをするのではないかと最初は思ったのですが、そうじゃなかった。バウアーがいなければ、ヨハンの行動も潰されていただろうことを思うと、アウシュヴィッツ裁判を実現に導いた最大の功労者はバウアーと言って良いかも知れません。

 印象深かったのは、あの悪名高きメンゲレを逮捕しに行ったシーンです。食事会の席で「メンゲレはどこだ?」というヨハンに、出席者が次々に立ち上がり庇う。背筋がゾッとなりました。そして、メンゲレが実際に行ったという人体実験の生々しい証言、、、。想像もつきませんが、事実だというのだから、そっちの方が驚愕です。

 、、、まあでも、ナチス関連を始め、戦争モノを見ると、人間は、本当に、実にアッサリと、理性というか人間性を自ら捨てることの出来てしまう生き物なのだ、と思い知らされ、嫌になります。恐らく、私自身も例外じゃないのでしょう。そう思うと、自分が自分で信じられなくなります。映画やTVで目を背けてしまうような残虐シーンを、自らリアルに行ってしまうのかも、、、。あり得ない、と今は思っているけれども。


◆その他モロモロ

 ヨハンとマレーネのロマンスは、まあ、ちょっとした清涼剤みたいなものですかねぇ。あと、ヨハンが自分の父親がナチの党員だったことに大ショックを受けて葛藤しているあたりは、実際にそうだったのかも知れませんが、ちょっとありがちな感じで、私は引いてしまいました。母親がああいう人だから、父親に理想像を抱いていたのかも知れませんが、清濁併せのむことを受け入れられない歳でもないだろうになぁ、、、と。まあ、アイデンティティに関わることではありますけれども。

 ヨハンを演じたアレクサンダー・フェーリング、典型的な金髪碧眼の美青年ですなぁ、ヒトラーが好みそうな。今後、トーマス・クレッチマンみたいに、ナチの幹部の役を演じることもあるかも知れませんね。










しかし、この邦題はイマイチ。
原題は“沈黙の迷宮”? 沈黙シリーズと誤解されるから??




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裸足の季節(2015年)

2016-07-11 | 【は】



 トルコ・イスタンブールから1000km離れた田舎町に住む美しい5人姉妹、長女ソナイ、二女セルマ、三女エジェ、四女ヌル、末娘ラーレは、10年前に両親を亡くした後、祖母と叔父エロルによって育てられてきた。

 5人は楽しく学校に通っていたある日、帰り道に海岸で男子生徒たちに肩車されて騎馬戦ごっこをして、海水にまみれながら大はしゃぎをして楽しんだが、それを近所の人に目撃されていた。そのご近所さんは、祖母に姉妹の行動をチクったため、祖母は怒り、それを聞いた叔父エロルは激昂。エロルに5人姉妹は病院に連れていかれ、ソナイとセルマは“純潔検査”を受けさせられる。

 その日を境に、5人は学校へ行くことを禁じられ、部屋に閉じ込められるという軟禁状態に置かれる。そうして、祖母とエロルの連れて来た相手と長女から順に見合いさせられ、強引に結婚させられることに。

 末娘のラーレは、姉たちが嫌々結婚していく様を見て、何とかここから脱出したいと真剣に考え始める。そして、三女のエジェが結婚を前に自死したことを機に、脱出のために準備行動を開始する。

 四女ヌルの婚礼の日。鬱々とするヌルをレーラは叱咤し、遂に2人は逃亡を図る。2人は無事逃げ遂せるのか……?!

 

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 それほどそそられた訳じゃないのですが、用事があって休みを取りまして、用事はすぐ終わるから美術館か映画にでも、、、と思ったんですが、美術館もう~ん、という感じだし、映画もその日のサービスデーが本作を上映している劇場だけだったので、まあ見てみるか、、、、くらいな感じで見てみました。

 正直言って、私にとっては他人事じゃない話の映画で、終始、心がぞわぞわしていました。他人事じゃない、ってのは、私も望まない結婚を強いられたことがある、ってことです。詳細は省きますが。


◆名誉殺人と地続きのオハナシ

 それにしても、、、。ときどき新聞等で目にする“名誉殺人”のニュース。多くは、パキスタンやインドで、しかも殺されるのはほとんどが女性。明らかに女性の人権軽視の風習に、強い憤りを覚えるのだけれども、先日もこんなニュースが……。

 こうやって女性たちを簡単に殺す男性たちは、じゃあ、未婚の女性と絶対セックスしないんでしょうか。そんなはずありませんよね。するから殺される女性が発生するのでしょ。自分たちは良いけど、お前らはダメっていう典型的なパターン。何で女だけが貞節を強要されるのか。殺しはしないまでも、女だけに処女性・貞淑・従順を求める思想は古今東西、程度の差はあれ今でも厳然とはびこっていると思いますけれども。

 例えば、、、。二女セルマの結婚初夜の後、新郎の両親が「ベッドのシーツを見せろ」としつこく部屋の外でわめいている。初夜に新婚夫婦のシーツを見せる風習があるのは、聞いてはいたけど、映像で見せられるとえげつなくて鳥肌が立ちました。出血しなかったセルマに新郎は「身の破滅だ!!」と怒鳴る。で、セルマは、新郎の両親によって医者に連れて行かれ処女膜の存否検査を受けるという、、、どこまでもどこまでも女性の尊厳を踏み躙る悪しき習慣の数々。

 それでも前半は画面も雰囲気も比較的明るく、5人姉妹の置かれた状況はどんどん厳しくなっていくのに、あまりそういう鬱屈した感じは前面に押し出された描写ではありません。雰囲気が一転するのは、終盤、三女エジェが自死してしまってからでしょうか。一気に切迫していきます。


◆逃げろ!!

 本作を見て、「何で彼女たちは逃げないのか?」「なぜ、彼女たちは嫌なものは嫌だと自己主張を通さないのか?」と、感じた方もいるのでは? 私には、彼女たちが逃げられない、身動きが取れない心理が分かってしまう。三女エジェが自死を選んでしまう心理も分かってしまう。

 私も、事情を知る数少ない知人に言われました。「逃げれば?」「なんでイヤって言わないの?」とね。「イヤ」なんて何百回も言いましたよって。でも、恐怖で精神をコントロールされている側には、逃げればどうなるかを想像し、思考停止してしまうのです。私の場合はそうやって、精神的に親にすっかり支配されて逃げる勇気が持てないことを自身に対し正当化していただけですが、本作の姉妹たちの場合は、本当に殺される危険があるわけだから逃げ出せなくて当たり前です。何されるか分からないとは思いましたけど、殺される危険がなかった私でさえ、親が恐ろしくて逃げられなかったのですから、、、。

 だから、ラーレはスゴイ。勇気があるというより、彼女があそこまで無謀な行動に出られたのは、13歳という年齢もあったかな、という気がします。あまり“おとなの事情”なるものに縛られないでいられる年齢でしょ、ギリギリ。これがあと2年くらい経つと、身動き取れなくなってくる。事実、四女ヌルはラーレの強引さがなければあのまま結婚してしまっていたわけです。

 とにかく、自らの意志で、自力で(トラック運転手の兄ちゃんの力を借りたけど)、逃げ遂せたのは、素晴らしいと思います。

 逃げ出そうとするヌルとラーレを必死に捕まえようとする叔父エロルに、誰か男性の声が「いいから、もう行かせてやれ」と言います。ああいう社会でも、そういう風に考える男性もいるのだなぁ、と少し救われる思いもします。トラック運転手の兄ちゃんにしても、この声の主の男性にしても、こういう風習に漠然と疑問や理不尽さを感じている男性はいるんでしょう、きっと。いて当たり前だと思いますけれども、いてくれることにホッとするのも事実。いくら、女たちだけで踏ん張って逆らったって、男たちの協力や理解がなければ、こんなおかしな岩盤風習、とてもじゃないけど切り崩すことなど出来ません。社会全体で取り組まなければならないことなのです。もちろん、一筋縄では到底かなわないことですが、、、。でも、何事もアリの一穴からです。


◆見合い市場における男性優位の実態。

 しかし、、、本人の望まない相手との結婚を押し付けられる……、この屈辱感、苦痛、絶望感、、、。所々、身につまされて見ていて息ができなくなりそうになりました。私が当時感じたことは、、、こんなことのために今まであれこれ頑張って生きてきたのだろうか、、、というもの凄い徒労感と虚無感、そして、もう死んだ方がマシ、いっそ出家して尼になりたい、、、とか。

 本作の中でも周囲の人が言っていましたが「(今はイヤでも)結婚すればそのうち(相手のことを)好きになるから」というアレ。もう、吐き気がします。そして、四女が結婚式目前で逃げ出すときに言った「こんなオヤジとあんなことするなんて絶対イヤ!!」というセリフ。もうホント、そのとおり! だったら、女として干からびて一生終えた方がマシ、ってね。

 理不尽極まりないのが、“男が気に入ること”がプロポーズの条件なのです。女が男を気に入るか否かは度外視される、最初から。でもって、男が気に入れば、後は、プロポーズを本人ではなく親が親にするんですからね。女の意思は、まるでそこに介在しないという気の狂ったシステムです。

 でもでも! 実は、現代の日本だって(というか少なくとも20年前までは)、お見合いの世界じゃ、圧倒的に男性優位なんだよねぇ。特に(容姿の残念な)社会的条件の良い男はね。女は年齢と容姿(と一応学歴も)がほぼ全て。しかも女は、断れば「身の程知らず」と罵られ、断られると「価値のない女」と謗られる。それくらいならまだゼンゼンいいけど、女が断っても、条件の良い男が結婚したいと言えば、女の拒絶はなかったことにされる。「女性は望まれて結婚するのが幸せなんだ」「あんな(条件の)良い男は一緒になればそのうち好きになる」とか言われてね。男は拒絶すれば即聞き入れられるのに。この不公平たるや、いかに。本作と根っこは同じ世界です。

 余談ですが、お見合いというシステムって、体質的に合う人・合わない人とハッキリ分かれると思いますねぇ。私はまるで合わない派でした。合う人は、結婚相手にある程度分かりやすい条件があること、相手に好意を持たれることで自分もそこそこ好意を持てる柔軟さがある人、年齢的に○歳までに絶対結婚したいというような明確な目標のある人、、、等々ですね。私みたいに、好き嫌いがハッキリしていて、条件より感性、みたいな人はダメです、見合いは。


◆その他もろもろ

 5人姉妹のうち、三女エジェを演じた役者さん以外は、皆演技経験がなかったとか。つまり、本作が役者デビュー作。、、、とはとても思えない、生き生きと、また、キラキラしていました、みんな。5人ともすごく美しいですしね。もう、眩しいほど。これは監督さんの手腕でしょう。

 ラストのヌルとラーレの脱出劇は手に汗握りますが、一応ハッピーエンディングですし、そこまでは割と淡々とした描写で、エジェの自死も悲惨な出来事だけれど、比較的サラッと描かれています。なので、鑑賞後感は悪くないです。

 ただまあ、映画としては、(好みの問題ですけど)身にはつまされたけれど、グッとは来なかったような。冒頭の海辺での5人姉妹と男子たちの戯れるシーンや、5人姉妹が狭い部屋で折り重なって眠るシーンなどは美しくて印象的だけど、、、。もう一度見たい、という感じではないですね。

 とにかく、彼女たちのような、そして、名誉殺人などと言う名の犯罪の被害者たちのような、理不尽な人権蹂躙が、今も世界のあちこちで行われていることだけはしっかり胸に刻んでおきたいと思います。





原題“Mustang”(野生の馬)
エクボのぉ~・ヒミツあげたーいーわ~、、、とは関係ありません、もちろん。




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帰ってきたヒトラー(2015年)

2016-07-08 | 【か】



 あの、人類史にその名を深く大きく刻んだ独裁者ヒトラーは、自殺したと思われていましたが、実は死んでいなかったのです。2014年のある日、突然、ワープして現代のドイツに現れました。

 ヒトラーは、現代の民主主義で自由経済の世に蘇っても、やはり、ヒトラーでした。

 考えてみれば、先の大戦下においても、ヒトラーは、大衆に圧倒的に支持されて生まれた指導者でした。つまり、彼は、天才的スピーチ力だけではない、大衆を魅了する人間力も持ち合わせていた人だったのです。現代に蘇った彼も、とても魅力的な人なのです。

 テレビに出て、ヒトラーのものまねタレントとして人気者になったアドルフ・ヒトラー。ついには、彼の映画まで制作されることになります。果たして、その結末は……?

 現代の世相と見事にマッチした、笑った後に背筋が寒くなる秀逸なブラック・コメディ。
 

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 、、、昨年、原作の上巻を3分の1ほど読んで挫折したのですが、、、それは話がつまらないというよりも、訳文がどうも好きじゃないというか、何か読んでいてイライラする感じがありまして。映画化されたことも知ってはいたのですが、大して興味なかったんですけれども、主演俳優のオリヴァー・マスッチさんのインタビュー記事を某紙で読んで、俄然、見る気になってしまい、劇場へ行ってまいりました。サービスデーだったせいか、8割がた席は埋まっていた感じです。
 

◆構成が素晴らしい

 本作は、その構成が実に巧みだと思いました。

 現代にワープしてきたヒトラーを、TV局をクビにされそうになった冴えない社員サヴァツキが偶然発見し、ソックリさんかなりきりタレントだと思い込んで「これは使える!」と直感した彼は、クビを免れるために、ヒトラーを使った企画を上司に提案します。

 ここで、本作は、オリバー・マスッチ演じるヒトラーに、現代ドイツ各地を歩かせて、ドイツ人たちと交流させるという、ドキュメンタリー手法を使います。見ていて最初は全部演出かと思ったのですが、どうもこれはガチだったらしいです。監督も、マスッチ氏自身も「怖かった」と、パンフのインタビューで語っています。

 で。このときの、ドイツ人たちのリアクションがね、意外だったし、でも正直おもしろかったんです。ドイツといえば、「日本と違ってきちんと歴史に向き合い教育してきました」というイメージが、少なくとも日本周辺では定着していると思います。なので、てっきり、ドイツの一般市民は、ヒトラーを見ると嫌悪感を見せるのではないかと想像したのですが、これがゼンゼン。多くの人々は、とっても好意的。握手を求めてきたり、一緒にスマホで写真撮ったり、ハグしにきたり、、、。

 例えば、渋谷のスクランブル交差点を、東条英機そっくりさんが歩いていたら、日本人は、本作のドイツ人たちと同じ反応を示すでしょうか? どうも、それはないような気がするのですよねぇ、私は。皆、遠巻きにしながら、好奇の目で見る、、、ってのが一般的なんじゃないかなぁ。中には、握手を求めたり、親しく話し掛けたりする人もいるでしょうけどね。

 本作でも、ヒトラーに露骨に嫌悪感をぶつける人も、いるにはいたのですよ。極右の人には罵られてましたしね。

 そして、もっと驚いたのは、多くの人々が、移民に対する嫌悪の言葉や、民主主義を否定する言葉を臆せずに語っていることです。そして、いくら本物ではないと分かっていても、ヒトラーに対して、ドイツ人たちがそういう話をし、マスッチ・ヒトラーが「ならば(移民を本国に)返せば良い」と言うとわーっと盛り上がる、という光景は、正直、笑えませんでしたねぇ。

 (少なくともアジアの一部では)模範とされるドイツの戦後教育は何だったのか? 学校の授業では挙手さえ、ナチの敬礼を思わせない1本指立てでやっているのに、いざ、マスッチ・ヒトラーを眼前にすると、拒絶どころか、敬意を示しているなんて、、、。

 とはいえ、まあ、本作中のドイツ人たちも飽くまで「ヒトラーの贋物」という前提だから、こんなに呑気なんだとは思いますけどね。だって、本物の訳ないものね。マジで本物が出てきたら、それは、ブラックではなく、ホラーでしょ。

 構成が巧みだと最初に書いたのは、一つには、この半分ドキュメンタリー方式を使っていることです。ヒトラーが現代でも十分に通用する指導者になり得ることを、説得力を持って見せつけています。これが、完全な演出であれば、それはそれで面白いでしょうが、むしろ、もっとわざとらしい「嫌悪感を剥き出しにする人たち」が大勢出て来たのではないかと思うのです。原作を読んで感じたのはそこだった様な気がします。原作は、ヒトラーが、ものまね芸人として大人気者になっていき、再び独裁者への道が開ける、的な展開になりそうな感じ(最後まで読んでいないので分からないけど)でしたが、映画版は、ドキュメンタリーを挟むことで、そんなメンドクサイ過程を経なくても、もっと簡単に、再び独裁者になり得ることを見せつけてしまったわけです。

 もう一つ巧みだと思ったのは、途中から入れ子構造にし、劇中劇として、映画を制作する話にしたことですかね。これで、サヴァツキが終盤、ヒトラーが本物だと気付いて、その後の展開に活きています。劇中劇である映画で、彼を本物のヒトラーとして描くことによって、より贋物感を視聴者に植え付けることも出来てしまう。実に巧いと思います。


◆「笑うな危険」

 ただまあ、冷静になって考えてみると、やっぱりこれは笑えない話だなぁ、と思いました。

 学校教育で“民主主義は素晴らしい”的なことを教えられてきました。そして、実際に、私も、ついこないだまで、まさか民主主義が揺らぐ日は、人類にはもう来ないだろうと思っていました。高校生の頃、友人たちと、民主主義に勝る政治体制があるだろうか、という話をした際には、民主主義が至高の制度ではないものの、よりベターな選択には違いない、ということでおおむね一致したものでした。

 でも。

 民主主義は、実に脆弱です。あっという間に体制を覆すことが可能な制度なんだなぁ、と。ヒトラーも、選挙を経て権力の座に着いたことを思うと、きちんと民主主義のプロセスを踏んでいるのです。

 本作の、マスッチ・ヒトラーも、ドイツ人たちが抱える不満の数々をうまく掬い取り、テレビ番組で演説します。「この国は何だ? 子どもの貧困、老人の貧困、失業、過去最低の出生率。無理もない、誰がこの国で子供を産む? 私はテレビと戦う。『反撃放送』を行なう」と語るヒトラーに、スタジオは一瞬の沈黙ののち、爆笑が起こります。、、、そう、観客は、ヒトラーが贋物と思い込んでいるから笑っているけれど、既に、ヒトラーに心をがっちり掴まれてしまっているのです。

 やっぱり、その国の為政者とは、民度の象徴であると、つくづく思います。現在、それが最も分かりやすい形で表出しているのが、トランプ現象でしょうねぇ。誰もが、“まさか”と思っていたけれども、その“まさか”が現実になるかも知れない状況にまで来ているのですから。あれを見ると、アメリカが世界のリーダーなんて、ちゃんちゃら可笑しい、としか言いようがありません。ま、日本も人のことは言えませんけれども。

 マスッチさんは、実際にヒトラーの格好で人々に接して、あまりにも人々が友好的であること、右寄りの発言が次から次へと止まらないことに、「戸惑った」と言っています。そらそーでしょう。袋叩きに遭うかも、と恐る恐る行ったのに、むしろ敬意を払われちゃったんですもんね。「人がいかに騙されやすいか、そして人がいかに歴史からあまり多くを学んでいないかが分かった」と、パンフのインタビューで語っています。

 とにもかくにも、本作は、マスッチさんの功績大ですね。そして、何より脚本が素晴らしい。別に、現代に警告を発するみたいな大上段的なものもないし、アイロニーという感じでもない。制作していく過程で、俳優もスタッフも、むしろリアルな危機感を抱いて行った、、、という逆説的な作品のように感じました。






ジャックが撃たれちゃってショックでした




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後宮の秘密(2012年)

2016-07-04 | 【こ】



 以下、TSUTAYAの作品紹介からのコピペです。=====

 王の異母弟ソンウォン大君は狩りの途中で出会った美しい娘ファヨンを気に入り足繁く通うようになるが、それをよく思わない大妃の計略によりファヨンはソンウォン大君の兄である王の側室にさせられてしまう。

 だが5年後に王が崩御しソンウォン大君が王位を継承し状況は一変。大妃の命により先王の勢力の粛正が進められ、その矛先はファヨンの命にまで及ぼうとしていた。

 =====コピペ終わり。

 さすが韓国時代劇、、、。愛欲まみれでゲップが出そうになりました。日本の大奥モノなんてカワイイもんだわ。
 
 

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜



  TVドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」(古っ!)に始まり、その後、「イ・サン」「トンイ」と、NHKでオンエアされた韓国時代劇ドラマは結構ハマったので、韓国映画の時代物もちょっと見てみようかと思い、何となく目に留まった本作から。

 上記の、TSUTAYAの紹介文しか予備知識としてはない状態で見たのですが、飽きずに最後まで見ることが出来ました。まあ、本作は、「イ・サン」「トンイ」とは違って、完全なフィクションの様ですね、、、。


◆親の前でセックスをさせられる王様

 TVドラマを見ていても思ったんですけど、もう、マジで韓国時代劇における欲望の渦の巻き方の凄まじさといったらありません。、、、いや、恐らくは、日本の平安朝も同じくらい欲望の渦は激しく巻いていたと思うのですが、日本の平安時代の映像作品であそこまで描いちゃっているものってあるのでしょうか? 数年前の大河ドラマ「平清盛」(途中で挫折しちゃいましたけど)の舞台は平安末期で、大河ドラマとしては異色の、なかなか愛憎入り乱れた作りになっていたように思いますが、それでもやっぱり、韓国モノに比べると、まだまだ、、、大人と子どもの差がある気がします。ドラマの質がというんじゃなくて、陰謀の凄まじさという意味でね。

 本作は、映画ですから、さらに描写がエグいです。

 セックスシーンは、どれもこれも、ゼンゼン官能的ではありません。序盤の、ファヨン(チョ・ヨジョン)とクォニュ(キム・ミンジュン)のあばら家でのシーンは、まあ軽めだし、それなりの雰囲気でしたが、あとはもう、衆目の中で強制的にさせられたり、自分の欲望(性欲じゃなくて権力欲や独占欲)を相手に暴力的にぶつけたり、という、いわば苦痛を伴うセックスです。

 マリー・アントワネットは、宮廷の大勢の関係者たちの前で出産したらしいですが、それも仰天ですけど、、、。やんごとなき方々にとってセックスや出産はお世継ぎを残す重要な行為であり、だから皆の前でお仕事としてやらねばならなかった、、、ということなんですかね。恐らく、洋の東西を問わず、こういうことは支配階級の人たちの間ではあったのでしょう。

 本作でも、ソンウォン(キム・ドンウク)が王になり、母親の大妃(パク・チヨン)の命に従って結婚した王妃と初夜を迎えるに当たり、やはり王宮殿で大妃や家来たちの見守る中でさせられます。家臣に隣で、「お妃様、玉茎を受け入れなさってください」(だったかな?)なんて指図されちゃ、たまんないよなぁ。実の母親もいるんです、、、トホホ(……王様ともなると、その名も「玉茎」なわけですね、、、、)。でもって、王様、ゼンゼン気持ちよさそうじゃなかったですね。もう種馬みたいで、見てられませんでした。

 終盤の、ソンウォンとファヨンのシーンは、長年の想いがようやく遂げられて嬉しいはずのソンウォンですが、なんというか、ゼンゼンそんな感じじゃない。、、、ま、これには伏線がありまして、ファヨンがソンウォンに「本当の王になってから私を求めてください」みたいなことを言ったので、それまで大妃の言いなりだったソンウォンが大妃を放逐し、やっと真の王になった暁のシーンなわけで、、、。だから、ようやくファヨンを抱ける悦びよりも、大妃の支配を自力で振り払って真の権力者の座についたことを顕示したい、力を見せつけたい、そういうセックスなのですよね。

 一方のファヨンも、ゼンゼン悦んでいる感じじゃない。ソンウォンの乱暴な行為に驚きおののいているのかと、最初は思って見ているのですが、次第に、、、ん? これはもしや、、、? と思っていたら、案の定、、、ぎゃーーーっ!!な展開に。そうか、そういう思惑があってのセックスだったのか、、、とね。想像はついたけれども、そのシーンは、痛い上に、血がドバドバ、、、。

 女官がその寝所を見た時の、ファヨンとソンウォンの姿は、まるでミケランジェロのピエタのよう、、、。

 
◆本筋は、息子と母親の壮絶な確執物語。

 まあ、本作は、エロもグロもそこそこありますが、見どころはそこではないような。

 これは、母と子の確執物語。古今東西、普遍的なテーマです。つまり、ソンゥオンが大妃の支配から、自らの意思と力で脱する、息子の自立物語です。

 この大妃がねぇ、、、凄いんですよ。大妃ってのは、「イ・サン」でも極悪人に描かれていましたけれども、日本的に言えば、皇太后に当たる人で、王の母親なわけですね。亡き先王の妃ですから、基本的に王は大妃に頭が上がらない。大妃の院政が敷かれて、王はまさに名ばかり。

 ソンウォンの苦悩が、結構丁寧に描かれています。ソンウォン自身、決して無能な王ではなく、大妃の腹の内などとっくにお見通しだけれども、そこはそれ、儒教の下で、親に逆らえない。ソンウォンが結局、大妃を放逐できたのは、ファヨンへの想いがあったからでしょう。自らの権力欲との相互作用で、大妃に逆らうパワーを持つことが出来たのだと思います。もし、どちらが欠けても、大妃を追いやることなどできなかったでしょう。

 親を精神的に葬る時というのは、それはそれは、もの凄いエネルギーを要します。これって、いつの時代でも同じなんじゃないですかね。王と一般庶民じゃコトの重みが違うかも知れないけれども、そのエネルギー量は同じだと思います。それくらい、親というのは有形無形に子に凄まじい影響力を及ぼす者なのです。

 本作での大妃は、それを知っていて、自覚的に振る舞って息子である王を追い詰める、、、今時の流行りで言うと完璧な「毒親」です。実際、息子に毒を盛ろうとしますしね。

 ソンウォンも、折角、大妃の毒牙から逃れたと思ったのに、もっと恐ろしい毒牙がその先に待ち構えているとは、想像だにしていなかったでしょう。、、、残念でした。

 でも、ファヨンとその子(おそらく次に王になる)もまた、、、と思わせる終盤でしたね。

 
◆韓国人の名前が覚えられない、、、
 
 チョ・ヨジョンさん、確かにキレイだけど、なんかところどころ、顔が松嶋菜々子に見えるシーンがありました。キム・ミンジュンはちょっとワイルド系で隆大介(なんか問題起こしてましたよね?)っぽかったかな。ちょっと苦手な系統です、、、。キム・ドンウクは、あまりインパクトがない顔というか、、、。

 つーか、そもそも韓国人の俳優さんの名前、ゼンゼン覚えられないんです、私。あー、どうしてこう分からないんだろうか。名前から、男か女かも分からない、、、。

 一番インパクトがあったのは、やはりパク・チヨンさんでしょうか。悪女っぷりが素晴らしかった。同じ悪女でも、チョ・ヨジョンさんよりはよほど雰囲気があって素晴らしいと思いました。

 これからも、時々、韓国の時代劇、見て行きたいと思います~






砒素って、やはりポピュラーな毒なのですね。




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