映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

婦系図(1962年)

2021-11-27 | 【お】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv20476/


 
 以下、DVD発売元であるKADOKAWAの本作紹介ページよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 早瀬主税(市川雷蔵)は柳橋の芸者お蔦(万里昌代)と恋仲だった。

 彼は十二のとき、酉の市の雑踏で、帝大のドイツ文学教授・酒井俊蔵(千田是也)の懐をスリ損じたが、酒井の温情により家に伴われ、そのまま書生として養育された。

 それから十年。学問も修め、立派に成人した主税は、参謀本部に職を得るが、その彼に兄妹のようにして育った酒井の娘・妙子がいつか恋情を向けてくる。

 妙子の好意を受け入れては義理ある先生に申し訳ないと決心した主税は、酒井の家を出て、知り合いの魚屋、めの惣(船越英二)の世話で家を見つけ、かねてから恋仲だったお蔦と暮らし始める。

 お蔦の姉芸者・小芳は酒井先生の想われ人だったが、将来ある身で芸者を打ちに入れるのは出世の妨げと主税をいさめ、酒井の娘・妙子は実は自分の生んだ娘だと告白し、身分の違う二人が結ばれる不幸を説くのだった…

=====ここまで。
 

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 ついに自宅のPCが壊れました、、、、ガーン。まぁ、10年使ったからなぁ。その間、故障もなく動いてくれていたのですが、数か月前から、ときどき反応が遅くなることがあり、フリーズ回数も増えてきたので、そろそろヤバいかなぁ、、、とは思っていたのですが、それはいきなりやってきました。ハードディスクの警告メッセージが突然現れて、一気に瀕死状態に。

 いつかやろうと思っていた、いろいろなデータのバックアップもしていなかったので、どうなることやら……と冷汗ものでしたが、どうにかほぼ全て救出し、かろうじて機能していたROMに避難させることができました。もうUSBメモリーさえも読み取ってくれなくなっていたので、ROMが作動してくれたのが救いでした……やれやれ。

 新しくPCを買うにも、なんせ10年ぶり。スペック見てもチンプンカンプンに等しく、よく分からないので、職場の親切なシステム担当者の男性に予算とかメーカーとか条件を挙げて選んでもらいました。今、半導体不足で、やっぱりPC市場にも影響は出ているらしく、メーカーによっては納期がすごく遅くなるものもあったみたいですが、どうにか注文して1週間で新しいのが届きました。

 そのシステム担当の人にも「よく10年ももったねぇ」と驚かれたんですが「今は大体5年だよ」と言われ、決してお安くないPCを5年ごとに買い替えるのかぁ、、、とどよよ~んとなりました。私のPCの使い方なんて、ワープロ+ネット(+ときどき画像編集)くらいなもんで、前はゲームもやっていたけど、今は全然だし、それで5年でウン万円ずつ飛んでいくのは、マイクロソフトやらメーカーに都合よすぎなんじゃないのか?と思っちゃいますね。これで3代目ですが、長く使いたいと思っております。初代も、10年くらい使いましたけどね。

 で、ようやく映画の感想です。


◆日食見物シーンがっ!!!

 最近、原作の方をウン十年ぶりに再読したので、雷蔵は結構好きだし、見てみようと思った次第。……けれど、肝心の終盤の場面が期待外れで、ガックシ、、、でした。

 中盤までは、雷蔵の演じる主税の雰囲気と、お蔦さんがイイ感じで、2人の別れのシーンもなかなか泣ける演出で良かったのだけれど、原作の一番の見せ場である、終盤の日食見物シーンがなく、ラスト主税が自殺するオチにもなっておらず、雷蔵が悲しげにたたずんでジ・エンド、、、ってんで、あり~??ってな感じでした。

 上記のあらすじには全く出てこないんだが、原作では、恩師酒井の娘・妙子を、成り上がりの河野家が家格を上げるのに利用するため嫁にとりたいと言ってくる件がかなり重要なのだけど、本作では、主税とお蔦の悲恋物語に終始して、原作とはテーマが変わってしまっている。

 まあ、小説と映画は別物だから、それはそれで構わないけど、河野家総出で日食を見物する場面で、主税が河野の主を罵倒し、河野家に修羅場が展開されるシーンは、やっぱし見たかったなぁ、、、と。原作での主税の河野に対するセリフはものすごく説得力があり、感動するシーンなので、なおさら、、、。これがあるからこそ、主税のそれまでの優柔不断なキャラが鮮やかに反転して悲劇となるのに、、、うぅむ。


◆その他もろもろ

 まあ、それにしても主税の恩師・酒井の描かれ方は、原作よりも酷い。自分も芸者に自分の子を産ませておきながら、芸者に対するあまりにもひどすぎる差別的な言葉の数々は、聞いていて耳を塞ぎたくなるほど。当時はそれが普通だったのかも知れないが、これで人にものを教える仕事をしているんだから呆れるばかり。しかも、お蔦が死にそうになったら「私が悪かった、許せ」とか言っちゃって、ヘンなオジサンだ。あれほど忌み嫌っていた職業の女性が、死にそうになっているからってそこまで態度を変えるって。

 とにかく、本作に出てくる社会的地位のある男たちは、みんなサイテー。これが明治のスタンダードだったのかもね。なにしろ、原作の主税は鏡花自身を投影しているとのことなので。尾崎紅葉に芸者のすずさんと別れろと言われ、鏡花自身は別れたように装って付き合い続け、後年、結婚したというのだから、なるほど、日食見物シーンの主税のセリフは、鏡花の本心だったのだろう。道理で説得力があるわけだ。

 雷蔵は、相変わらず美しく品があって良かったけれど、見せ場はあんましなかったような。お蔦を演じた万里昌代が美しい。2人の別れの舞台は湯島天神。梅の季節になったら久しぶりに行ってみようかな。

 

 

 

 

 


マキノ版、衣笠版も見てみたいなぁ。

 

 

 

 

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『キャンディ・キャンディ』に思う[4]

2021-11-14 | 映画雑感

『小説キャンディ・キャンディ FINAL STORY』から感じること②

 

 

 この記事では、便宜上、マンガ『キャンディ・キャンディ』を「正編」『小説キャンディ・キャンディFINAL STORY』を「小説F」と表記しています。

 また、“あのひと”が誰かを考察する趣旨ではありません

 

~小説Fをお好きな方は、以下お読みにならないでください。読まれるならば自己責任でお願いします。~

 

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>>>>[3]からの続き

 

 もう1つ強く感じたことは、原作者は、正編の“テリィとキャンディの永遠の別れ”を軌道修正したかったんだな、ということ。


◆続編にほかならない2つの新要素

 正編の終わり方では、テリィとキャンディは“訣別”、2人の未来はないとしか読者は受け止められない。それはもう絶対的なものとして。だからこそ、多くの読者は嘆き、落胆したわけよね。原作者にもその嘆きは数多く届いていたというくらい。

 裁判経緯を記した原作者自身のHPで見ると、リメイクの話が泥沼裁判の発端だったようだが、リメイクの話が立ち消えになったのは、リメイクのはずがいつのまにか「続編制作」にすり替わっていたから、だという。原作者は、正編でキャンディの物語は完結しているという姿勢を崩しておらず、正編後の話をするつもりは、当時はなかったということだろう。

 けれども、小説Fでは、思いっ切り「続編」にも等しい、2つの新要素(スザナの死と、テリィからの手紙)をぶち上げたわけだ。

 これは、正編の余韻を大切にしたければ書くべきことではないし、書く必要のない要素でしょう。でも敢えて書いたということは、余韻を損なうことになるのは承知の上だったということ。そうまでしてこの新要素2つを入れたというのは、“あのひと”が誰であれ、テリィとキャンディの未来に含みを持たせたかったとしか思えない。つまり、軌道修正したわけだ。

 実際、“あのひと”が誰かは曖昧にした、と原作者自身が書いている。正編でキャンディの物語は完結した、という原作者の姿勢を貫くのであれば、これは禁じ手に等しい。

 別に2つの新要素を書いたことを全否定するつもりはないが、前述のとおり、雑だし安易だという感は拭えない。

 これだけ、“あのひと論争”を長引かせるほどに、小説Fは巧みな仕掛けがされている証拠であり、そこはさすがと言うべきところなんだろうけれど。

 私が小説Fの担当編集者だったら、これはナシだと言うだろうな。原作者でなければできないことを敢えてしないばかりか、実に中途半端なことをしている。ま、編集者のタイプによるけれど、私ならNGだ。

 恐らく、原作者は、自身の手で決着をつけるのが怖いのだろう。“あのひと”をアルバートさんと明記しちゃえば、テリィ派は絶望し、再び嘆き悲しむ。でもテリィとしちゃえば、アルバート派は憤るだろう。どっちにしても、原作者は非難される。引いては正編の価値を更に貶めることになりかねない。

 “あのひと”が誰かをきちんと描くには、長い物語が必要なのです。けれど、それを書くことはもうないでしょう。《下巻p.336》

などと「あとがき」に記しているが、まさに、その「長い物語」を書かなければいけなかったんではないの? こんな新展開をチョイ見せするくらいならば。これでは、ファンに媚びただけであって、ファンの期待に応えたことになっていない、、、ということを、どうして編集者は言わなかったのだろうか。

 若しくは、原作者は「長い物語が必要」などともったいぶって言っているだけで、実はそんなものは頭の中にさえなかったのか。そうは思いたくないけどね、、、。

「それを書くことはもうないでしょう」などとセンチなこと言ってないで、今からでも遅くないから書けば良いのに。アルバート派だろうがテリィ派だろうが、全ての読者が満足・納得する物語なんてそもそも存在し得ないのだから、著者の信念で書けば良いだけでは。マンガの連載のように、読者の反応を過剰に気にすることなどない。そう思っている読者も多いはず。

 私はテリィ派だが、キャンディとハッピーエンディングでなくても構わないですよ、と著者にはエールを送りたいなぁ。だからといって、アルバートさんと……てのは生理的に受け付けないのだが(義理とはいえ親子、、、)。キャンディには自立した女性として、富豪との結婚なんて安易な落とし所に収まって欲しくない、というのが本音。

 原作者がどうしてもそれは書けないというのなら、新要素2つなどぶち上げず、もっと人物描写を細やかに、正編を知らない読者でも読むに耐える骨太の小説を書けと、私が編集者なら説得するね。それこそ、『あしながおじさん』や『赤毛のアン』に匹敵するような後世に残る児童文学を目指して書け、と。それが出来るのは、原作者であるあなたしかいないのだよ、とね。アラフォーのキャンディなど登場させずとも良いではないか。

 ただまあ、これは私のただの勘繰りだが、「あとがき」で、小説Fの執筆については迷いがあったが、版元から度々口説かれたというようなことも書いてあり、恐らくこの版元には下心はあっても志はなかったのかな、という気はしている。真相は分からないからこれ以上の言及は控えるけど


◆小説Fの意義

 ……とイロイロ文句を書いたものの、何度も言うが、原作者の真意は分からない。

 感じるのは、原作者よりも、小説Fの担当編集者の方が罪深いかも、ってこと。少なくとも、小説Fは、独立した小説としては後世に残り得ない代物になっているのだから。正編をリアルタイムで読んでいた、今や50代のテリィ派の傷を舐めるだけの作品、、、というのが言い過ぎならば、リアルタイムの読者たちで内輪ウケするだけの作品、かな。

 正編終了後にいろんなことがあり過ぎて、原作者の考えが根本的に変わったということは大いにあり得るし、あって良い。それに、原作者が小説Fを後世に残る作品にしようなどと、ハナから考えていなかった可能性も十分にある。……であれば、小説Fが往年のファンを楽しませるだけのものであっても構わないわけで。

 皮肉にも後世に残るのは、発禁となった正編であって、間違っても小説Fではない。将来、著作権が切れて復刊があるとしても、それは正編だけだろう。つまり、キャンディの「物語」は、どこまで行っても、あの作画者による絵と一体となったマンガ『キャンディ・キャンディ』のことのみを指すのだ。

 だから、小説Fが正編の価値を貶めていたとしても、それは今だけ、せいぜい今後数年かそこらだろう。けれど、正編は今後、発禁が続いても語り継がれて永く残り、少女漫画史上から消えることはない。萩尾望都著『一度きりの大泉の話』の中でも言及されていたしね。正編の存在は、おいそれとは消えないはずだ。だから、小説Fが正編にとってどんな存在であれ、キャンデイの「物語」は自立しており、正編で語られていることが全てなのだ。

 私にとって、小説Fは、いずれ2人は一緒に幸せになれるのだよ、、、と思えることで、正編の「テリィとキャンディの生木を裂くような別れ」のシーンを読むときの絶望感が緩和される、、、、という存在でしかない。

 なので、小説Fについて言及することは、多分この先あまりないと思います。私にとって、やはりキャンディの「物語」は、マンガ『キャンディ・キャンディ』に尽きるからです。

 ……というわけで、次回以降は、テリィについて思うところを書いて行こうと思っております。

 

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『キャンディ・キャンディ』に思う[3]

2021-11-12 | 映画雑感

『小説キャンディ・キャンディ FINAL STORY』から感じること① ~その2~

 

 

 この記事では、便宜上、マンガ『キャンディ・キャンディ』を「正編」『小説キャンディ・キャンディFINAL STORY』を「小説F」と表記しています。

 また、“あのひと”が誰かを考察する趣旨ではありません

 

~小説Fをお好きな方は、以下お読みにならないでください。読まれるならば自己責任でお願いします。~

 

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>>>>[2]からの続き

 

◆セリフを“いじる”

 また、正編から小手先としか思えないセリフの言い回しの変更が見られるのも残念。そこを変える必然性ってある?というのが目につき、変えるではなく“いじる”という印象だ。

 例えば、テリィが聖ポール学院を去りアメリカへわたる際にキャンディへ当てた手紙の文言。

 正編「キャンディ/ぼくは学院をやめてアメリカへいくことにした/やりたいことがある/どこにいてもきみのしあわせをいのる/テリュース」
 小説F「キャンディ/ぼくは学院をやめてアメリカに行くことにした。やりたいことがある。/どこにいてもきみの幸せを祈っている/テリュース」《下巻p.135》

 些末なことの様だけど、「きみのしあわせをいのる」と、「きみの幸せを祈っている」ではニュアンスが変わる。英語だと、多分どちらも「I pray for your happiness」なんだろうが、正編の方が決然としたものを感じる。何より、文体として流れが良いのは明らかに正編だろう。小説Fのは“字余り”感がする。

 ちなみに、正編では「きみのしあわせをいのる」は、何度かキャンディがテリィを思うときに繰り返し出てくる文言であり、結構重要なフレーズ扱いだった。だから私の記憶にも深く刻まれたのであり、ここを敢えて変えた原作者の意図が全く理解できない。

 “言葉尻くらいで目くじらを立てるな……”と思われる人もいるだろうが、セリフの言葉尻ほど大事なものはない。この言葉尻は、それを語る人の人物像を表す重要なファクターの一つだ。脚本家の大石静氏が、以前エッセイだったかTVのトークだったかで「言葉尻を脚本から勝手に変える役者は好きじゃない」という趣旨のことを言っていたが(ちなみに彼女は役者が変えても文句は言わないといっていた気がする)、それはそうだろうな、と感じた。セリフは、ライターが考えに考えて書いているのに、役者がどういう根拠で変えたにせよ、ライターに相談なく変更するのは、ライターへの敬意が希薄な気がするね。物語を紡ぐというのは、神経も思考力も消耗させるものなのだ。それでも大石氏が役者に文句を言わないのは、役者が演ずることもまた、創造の一環だと理解しているからだろう。創造とはそれくらい敬意を持って尊重されるべき行為なんである。

 でも、小説Fでの改変は、原作者自身の手によるものだ。だからこそ、余計に分からない。正編より良くなっているのなら分かるけど。まあ、正編より悪くなっていると感じているのは少数派なのかもしれないけどね……。

 あとドン引きしたのは、キャンディの悪口を吹込みに来たイライザにテリィが言い返すシーンのセリフ。

 正編「ご忠告ありがとう/ついでにあの子にぼくのことも忠告してやってくれないか/テリィは たばこお酒は人なみ以上/けんか数十回規則違反数万回の不良だとね」
 小説F「ご忠告、ありがとう。ついでに、おれのこともあの子に忠告してくれないかな。テリィは、喫煙、飲酒、万引き、喧嘩、お手のもの。規則違反なんて数万回の不良だってね」《下巻p.107》

 ……「万引き」って。喧嘩や規則違反とは、まるで別次元のことやん。イライザがキャンディは盗みグセがあるなどと言ったことへの当てつけだとしても、、、である。キャンディが盗みを働いたこと(実際はイライザの捏造だが)は正編でもテリィにチクっている。これ、テリィを思いっ切り貶めているではないか(気にならない人はならないかもだが)。そして、この改変も、やっぱり言い回しの流れが悪くなって、“字余り”感が漂う。

 というか、こんな風に“いじる”姿勢に、もの凄く嫌らしさを感じるのだ。

 こういう嫌らしさは、小説F全編を通してひしひしと感じる。確かに、正編の作画者に対して第三者からは計り知れない嫌悪感を抱いている原作者として、無理からぬ心情であることは理解できる。けれど、正編を愛する読者には与り知らぬ話。

 ハッキリ言って小説Fは、そもそも小説として非常にお粗末(中身スカスカな一方でマンガの余白を過剰に説明しウザい。特に下巻)である。正編を読んでいることを前提に書かれているとしか思えない。正編の存在がなく、小説Fだけが世に出たと仮定して、一体どれだけの人の心に届くだろうか。これは著者の執筆姿勢としていかがなものか。甘え若しくは怠慢なのでは?

 少なくとも、小説Fだけを読んだら、私は絶対テリィを好きにはならない。むしろ嫌いかも。それくらい、正編とのキャラの乖離に苦しむ。そして、そのキャラのほとんどは、前述してきたような彼の“セリフ”に負っている。キャンディの魅力も色褪せているように感じるけれど、私はもともとキャンディのことは好きでも嫌いでもない(というか、少なくとも友達になりたい人ではない)ので、ガッカリ度は小さいのが救いかも。

 原作者は、裁判を通じて作画者によって正編を傷物にされたと思っているだろうが、私の目には、小説Fを上梓したことによって、原作者も同じ轍を踏んだ、と感じている。

 とはいえ、これは原作者だけの罪ではないのだよな、、、多分。

 

 

>>>>[4]に続く

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『キャンディ・キャンディ』に思う[2]

2021-11-07 | 映画雑感

『小説キャンディ・キャンディ FINAL STORY』から感じること① ~その1~

 

 

 この記事では、便宜上、マンガ『キャンディ・キャンディ』を「正編」『小説キャンディ・キャンディFINAL STORY』を「小説F」と表記しています。

 また、“あのひと”が誰かを考察する趣旨ではありません

 

~小説Fをお好きな方は、以下お読みにならないでください。読まれるならば自己責任でお願いします。~

 

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>>>>[1]からの続き

 

 小説Fを読んで、強く感じたことが2つある。

 1つは、原作者の、作画者との合作である正編から、キャンディの「物語」を必死で切り離そうという執念みたいなものである。


◆展開の改悪

 正編の方が明らかに優れていると思える展開がいくつもあり、言っちゃ悪いけど、小説Fは正編の劣化版(もっと言えば、改悪版)としか思えない。

 例えば、アニーが孤児院出身であることがイライザに露見するくだり。

 小説Fでは、アニーとキャンディの間だだけでコトが解決してしまう。あれほどキャンディに対しわだかまりを抱えていたアニーが、その当のキャンディに「アニーのバカ!甘ったれるのもいい加減にしてよ!」《下巻p.43》、「ポニーの家の、孤児院のどこがいけないの?」「アーチーに知られるのがなんでそんなに怖いの!?」《下巻p.44》とか正論でもって叱られて(説得されて)、ケロッと素直に反省して仲直りするのだ。仲直りのシーンの2人のやりとり。

「……ごめんなさい、キャンディ……わたし、恥ずかしい」/(中略)/「わたし、アーチーに話すわ。わたしがブライトン家の養女だってこと……ほんとは、ほんとはキャンディと同じポニーの家で育ったっていうこと……」/「そうこなくっちゃ!」/二人はしっかりと手を取り合う。/「変わっていないわね、キャンディ!」/「アニーだって!」/手を取り合ったままふたりは微笑した。《下巻p.45》

 ちなみに、正編では、雨の中、岩場の間に入り込んで一人泣いているアニーを見つけたキャンディがアニーを呼ぶが、アニーは岩場から出て来ない。そこで、キャンディはアーチーに「あなたでなきゃだめなの」と言って、アニーの説得役をアーチーに託すのだ。アニーの心が強くなるのは、愛するアーチーが「きみがでてくるまでここにいる」と言って雨の中待ってくれたからであって、「孤児院出身であること」を“他ならぬアーチー”に「どこでそだとうときみはきみじゃないか」「強くなるんだ」と言ってもらえたからである。

 嫉妬心や後ろめたさを抱いている当の相手キャンディ本人に「甘ったれるな!」などと言われて、アニーの心が氷解するはずないだろう。このとき正編でのキャンディは、「どんなことをしてでもまもってあげる」と、アニーの気持ちにひたすら寄り添い、決して「甘ったれるな」などと残酷な正論を口にしてはいない。

 それに、この一件が起きることで、キャンディ、アニー、アーチーの関係が変わるきっかけにもなっているのに、小説Fではその流れも断ち切られている。

 これは明らかに「改悪」だと思う。

 まだある。

 キャンディが、乗馬するテリィをアンソニーだと錯覚して失神し、テリィに助けられるシーン。長くなるけど正編での展開を敢えて書くことにする。

  • キャンディが夜遅くに庭伝いにステアとアーチーの部屋へ行くつもりが、間違って隣のテリィの部屋へ飛びこんでしまう。
  • そこで偶然、女優エレノア・ベーカーの写真を見つけ、テリィが彼女の隠し子だと知ってしまう。テリィはキャンディに「このことをだれにもいうなよ、いったらおまえを……メチャクチャにしてやる」と口止めする。
  • キャンディはステアたちの部屋へ行き、そこで床に落ちているエレノア・ベーカーのブロマイドを見つける。ステアとアーチーは彼女のファンで他にもあるブロマイドをキャンディに見せるが、その中にアンソニーの写真が混じっていて、キャンディはそのアンソニーの写真をステアたちからもらう。
  • 一方のテリィは自己嫌悪に陥り、夜中にもかかわらず乗馬に。
  • 自室に戻ったキャンディはアンソニーの写真を見て哀しみにくれていたところ馬のいななきを聞き、バルコニーに出る。テリィの乗馬姿を見てアンソニーと錯覚して動転、階段から落ちて失神する
  • キャンディの悲鳴を聞いたテリィは、キャンディを抱えて医務室へ運ぶ。

 、、、となる。このとき、テリィに抱えられたキャンディがうわ言で「アンソニー」の名前を口にする

 一方の小説Fは、これに似たシーンはもっと早い段階で、キャンディとテリィが出会って間もない時期の話として出て来る。聖ポール学院でキャンディが初めて朝のミサに出席し、テリィが乱入騒ぎを起こした(このシーンは正編にもある)直後に、このシーンが挟まれる。テリィの起こした騒動のおかげでミサが長引き、女子たちがテリィの話題でもちきりになっているのを横目に、キャンディはアンソニーのことを思い出す。ちょっと長いけどその場面を抜粋。

そのとき、ふいに森の奥から馬のひづめの響きが聞こえてきた。/キャンディはハッと息を止めた。/(中略)/キャンディは影になって駆けてくる馬上の人を止めようと両手を広げた。/馬のスピードはゆるまない。/「来てはだめっ!」/叫んだ瞬間、キャンディは悲鳴を上げて気を失っていた。/(中略)/「アンソニー!」/うっとりとその名を呼びながら目を開けたキャンディは、次の瞬間、ギョッとして体を起こした。/キャンディをじっと見つめていたのは、テリュース・G・グランチェスターだったのだ。/(中略)/「アンソニー、なんてつまんない名前で呼ばないでくれ」/(中略)/「つまんない名前なんて……あんなすてきな名前はないわ! テリュースのほうがよっぽど、つまらない名前じゃないの!」《上巻p.269~270》

 あのねぇ、、、疾走してくる馬の前に立ちはだかるなんて、文字通り「自殺行為」で、ヘタすりゃ死ぬし、テリィだって大怪我でしょう。ヘンすぎる。

 また、テリィがアンソニーのことを貶すのは、正編では、それがキャンディの初恋の人だと分かった後、つまり無意識の嫉妬から出た言葉であり、上記のように、アンソニーが何者かも知らないうちから無意味に貶めるようなことをテリィが言うシーンはない。貶す内容も「(バラづくりなんかして)ひよわでナヨナヨした奴」レベルの話だ。大体“人の名前を貶す”ってのは、人格を疑いたくなるような言動なんだが、、、。応戦するキャンディのキャラも下げていると思うがどうだろう。(どうでもいいが、アンソニーといえば、あのレクター博士はアンソニー・ホプキンス、、、)

 それに、キャンディがアンソニーと錯覚するに至った経緯は、どう見ても正編の方が説得力がある。アンソニーの写真、そのアンソニーの写真を入手するきっかけとなったエレノア・ベーカーのブロマイド、それがテリィの出生の秘密でもある、、、。実によく出来た構成だと思うのだが。

 小説Fでは、キャンディがエレノア・ベーカーのことを知るのはこの大分後になっており、どうも、一つ一つの出来事がブツ切りな感がある。正編を知らずに読めば「ふーん」だろうが、正編を前提に書いているとしか思えないこの小説で、正編を思い浮かべながら読まれるのは著者も重々承知だろう。であれば、正編より明らかに必然性の感じられない展開は、改悪と言われても仕方がないと思うのだが。

 話は少し逸れるが、正編でテリィがキャンディを助けるのは、あくまで“そっと”である。シスターに命じられてキャンディを医務室のベッドに寝かせた後、再び、キャンディがうわ言で「アンソニー」の名前を口にするのを聞き、テリィはキャンディの閉じた目から流れる涙をそっと拭うのだ。そしてシスターたちが来る気配がすると、テリィは窓から出て行ってしまう。その後、渡り廊下を部屋へ戻るキャンディを、庭から遠く見つめているテリィは、キャンディのうわ言を思い出して気にする、、、という、情緒あるシーンなのに、小説Fではテリィは思いっ切りキャンディに自分が助けたことをアピールしており、ここでもテリィのキャラが変わってしまっている。

 テリィのキャラは、小説Fを通じて、正編よりかなり“改悪”されていると、私の目には映る。余計なことを書き過ぎだし、書くべきことは書いていない。

 展開の改変に話を戻すと、改悪例は挙げれば他にもいろいろある。スザナがキャンディから劇団に届いたテリィ宛の手紙を何通も隠していたり、反対にスザナからテリィと別れさせてしまったことへの懺悔の手紙がキャンディ宛に送られて来たり、、、。どこまでスザナを貶めるのか。ファンサービスかも知れんが、こういう手法は個人的に好かん(私自身がスザナをそれほど嫌いじゃないってのもあるだろうが)。 

 「改悪」が言い過ぎなら、ほとんどの改変に必要性が感じられず、正編を“切り刻んで組み替えた”印象だ。原作者として、やってはいけないことをやってしまっているようで残念極まりない。

 

 

>>>>[3]に続く

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『キャンディ・キャンディ』に思う[1]

2021-11-06 | 映画雑感

『小説キャンディ・キャンディ FINAL STORY』がもたらしたもの

 


 少し前に、少女マンガ『キャンディ・キャンディ』の愛蔵版(中公新社刊)を5年ぶりくらいにじっくり読みました。連載時(70年代後半・小学生でした)にリアルタイムで何度も何度も読んでいたし、その後も何度も何度も読んでいるので、愛蔵版を入手してからは、じっくり読むのは5年に一度くらいのペースになりました。読まずとも絵もセリフも脳裏に浮かぶので、、、。

 読む度に、あれこれと思うことがあるのですが、今回、それらをちょっと文字にしておこうという気になりました。

 ただ、マンガ『キャンディ・キャンディ』について書くには避けて通れない本があり、それは2010年に上梓された『小説キャンディ・キャンディ FINAL STORY』です。これは、ざっくり言うと、マンガの後日談を含めた原作者によるリライト小説ですが、なぜ避けて通れないかというと、マンガ『キャンディ・キャンディ』にまで影響を及ぼしかねない後日談が新たに展開されていたからです。

 ちなみに、私が読んだのは、マンガ『キャンディ・キャンディ』(原作 水木杏子 作画 いがらしゆみこ/単行本全9巻&愛蔵版全2巻)と、『小説キャンディ・キャンディ FINAL STORY』(名木田恵子(=水木杏子)著/上下巻)のみです。小説版は『小説キャンディ・キャンディ FINAL STORY』以外にもいくつかある様ですが全て未読、アニメは全く見ていません。

 私の手元にあるのは愛蔵版のみで、単行本は持っていません。愛蔵版を買ったのは、確か94年頃で、原作者VS作画者の泥沼裁判はその直後から始まり、裁判の結果(原作者の全面勝訴)、キャンディの絵に関するものは一切封印されることになったので、当然、マンガも絶版。よくぞ愛蔵版を買っておいたものだと、後になって思いました。

 『小説キャンディ・キャンディ FINAL STORY』も今は絶版となっており、図書館で借りて読みました(読んだのは2度)。

 マンガを好きだった者にとってみれば、この裁判は最悪な出来事であり、判決も(原作者の権利が認められたことは良かったのですが)キャンディ関連の絵は一切お蔵入りという最悪の結果です。仕方のないこととはいえ、これについては思うところもあるので、追々触れることになると思います。

 なお、以下、便宜上、マンガ『キャンディ・キャンディ』を「正編」『小説キャンディ・キャンディFINAL STORY』を「小説F」と表記します。

 これから書くことは、正編をご存知ない方には??な内容になります。


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◆終わらない“あのひと”論争

 小説Fは、正編終了から長い年月(「アンソニーの死から20年以上がたった今でさえ」《上巻p.218》とある。一方あとがきで、「第二次大戦を目前にした頃のキャンディ」が原作者に語りかけた《下巻p.335》とか書いてある)が経った現在のキャンディ(35歳前後か。1899年生まれのキャンディなので、1939年だと40歳)の回想という形で書かれたもの。

 で、現在のキャンディには、一緒に暮らす“あのひと”がいる。あのひとは「愛するひと」《上巻p.232》なのだ。小説Fのラストシーンはこう締めくくられている。

そのとき、突然、部屋の灯りがともった。/「灯りもつけずに、どうしたんだい? キャンディ」/わたしを、いつもときめかすやさしいその声――。/あのひとが扉の前でわたしを見てほほ笑んでいる。/わたしの大好きな微笑。/あのひとが帰って来る車の音が聞こえなかったなんて。/「おかえりなさい!」/わたしはこの言葉が言える幸せに声をつまらせながら椅子から立ち上がると、あのひとが広げた腕の中に飛びこんでいった。《下巻p.331》

 でも、この“あのひと”がハッキリ名指しされていないがために、ネット上では論争(?)となり、小説Fが絶版になった今も現在進行形。

 もちろん、“あのひと”の候補はアルバートさんテリィの2人に絞られるんだが、小説F中に、現在描写として散りばめられた材料が、どちらにも取れるようになっているわけです。これは、原作者自身が意図したもので、小説Fの「あとがき」で以下のように書いている。

みなさまに、おことわりしなくてはなりませんね……。/それは“あのひと”のこと――。/はじめから曖昧にしようと決めていました。/(中略)/そう、“あのひと”が誰かをきちんと描くには、長い物語が必要なのです。けれど、それを書くことはもうないでしょう。/それに、“あのひと”を明かしてしまうと、長年の読者たちの夢を奪うことになるかもしれない、とも思いました。(きっと、賛否両論でしょうが)謎は謎のまま、想像の世界を楽しんでもらえたら、と(ちょっと、いたずらっぽく)願っています。《下巻p.336》

 ……なんとじれったい。

 まあ、正編のラストシーン(ポニーの丘で待つアルバートさんに向かってキャンディが笑顔で駆け寄る)を見て、アルバートさんとキャンディが結ばれることを予感した読者たち(これらの人びとを、便宜上「アルバート派」と呼ぶことにします。ネット上でもそう言われているしね)にとっては、この小説Fはそれをダメ押しするものになったのでしょう、、、多分。

 しかし、私のように、あの正編のラストシーンを見ても、“キャンディはアルバートさんと結ばれる”とは全く受けとれず(ウィリアム大おじさまと丘の上の王子さまの正体が明かされただけと受けとめた)、かつテリィLoveだった読者たち(こちらは便宜上ネットの呼称に倣って「テリィ派」とします)にとっては、むむっ??っとなったこと必定。

 なぜなら、小説Fでは、初めて明かされた新展開があったから。それは、スザナの死と、その後のテリィから届いた手紙の存在(詳細は後述)。

 これで、長年、キャンディとテリィの絶望的な別離に心を痛めていた大勢のテリィ派(もちろん私も)は色めきたったわけですヨ。テリィとキャンディの間の、最大の障害であったスザナが死んだ!! しかも、その後テリィからあんなストレートな思いを伝える手紙がキャンディの下に届いていた!!!

 そら、論争になるわね。論争になるってことは、アルバート派の方々も、これはもしや、、、という一抹の懸念がある証拠でしょう。

 ……というような前提があった上で、揺るぎないテリィ派である私には、“あのひと”はテリィに決まっているんだけど、でも、アルバートさんでも別に良い。正直なところ、どっちだって良いのだ。原作者がわざわざ「曖昧にした」と明かしているんだから、原作者の真意など分かりようがない。

 絶対的に分からないことで思い悩むのは虚しいし、原作者も言っているように「想像の世界を楽しんで」しまえば良いではないか。ネット上には、“あのひと”について微に入り細を穿った検証がなされたサイトや、小説Fの内容を基にした二次小説が書かれたサイトがたっくさんあります。私もその一部を興味深く拝読しました。

 

◆テリィ派は小説Fを喜んで読んだのか。

 しかしですね、、、正直言うと、私は小説Fに好意的になれない

 テリィ派が驚喜する新展開の2つの要素が含まれていて、多少報われた思いがしたのは確かだけれど、小説Fを好意的に受け止められない理由も、まさに、この2つの新展開要素。スザナの死と、テリィからの手紙。

 スザナ殺しちゃうのかーーー、ってね。邪魔者は消しちゃえ……ってか?? テリィからの手紙もだけど、雑な展開というか。いわゆる、ご都合主義的だよね、、、と。テリィ派の長年のやり切れない思いをなだめるためにはどうしても欠かせない要素であることは十分承知だけど、こう来たかぁ、、、と。

 ちなみに、スザナの死後届いた、テリィからの手紙の文面はこちら。

キャンディ/変わりはないか?/……あれから一年たった。/一年たったらきみに連絡しようと心に決めていたが、迷いながら、さらに半年がすぎてしまった。/思い切って投函する。/――ぼくは何も変わっていない。/この手紙が届くかどうかわからないが、どうしてもそれだけは伝えておきたかった。/T・G 《下巻p.283》

 ……ううむ。原作者も相当慎重に言葉を選んでこの文面をひねり出したんだろうなぁ、、、と思う。テリィのキャラを壊さないようにという苦心の跡がうかがえる。

 でも、どうだろう。

 テリィを愛する者からすると、この手紙で、、、というよりは、小説Fによってテリィのキャラは十分壊された気がするんだよね。これが小説Fを歓迎できない決定的な理由です(多分)。

 小説Fを読んで、私が強く感じたことが2つあり、次回はそれらについて書きます。

 


>>>>[2]に続く

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ハスラー(1961年)

2021-11-05 | 【は】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv7019/

 
 ハスラーとして勝負師人生を選んだエディ・フェルソン(ポール・ニューマン)は、負けを知らないことで有名な“ミネソタ・ファッツ”(ジャッキー・グリーソン)に挑戦した。出だしは順調で勝ちを重ねたため調子に乗ったエディは、酒を飲みながら試合を続け、結局36時間闘った挙句に敗れ、文無しとなる。

 飲んだくれる日々のある朝、バスステーションで、サラ(パイパー・ローリー)に出会い、恋仲になって同棲を始める。2人でそこそこ平和に暮らしていたが、結局、山師のバートに唆されて、再びハスラーとして勝負することに。サラを伴い、ケンタッキーのルイビルまで遠征するが、、、。
 

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 またまた“いまさら名画”シリーズです。1作で終わるかと思ったけど、3作目。ポール・ニューマンは、『評決』(1982)を見てイメージが変わったこともあり、ちょっと見てみようかなと。『スティング』とか『明日に向って撃て!』は一応見ているので、もう一度見たいけど、とりあえず未見の本作を先に、、、と思ったのが間違いだった。ニューマンが「第二のマーロン・ブランド」なんて言われていたのがちょっと分かる気がしたかも、、、ごーん。

 というのも、この映画、かなりマッチョ映画だからです。登場人物もほとんど男。主要な女性はサラしか出てこない。

 とにかく、“カネ”と“勝ち負け”だけの話で、正直言ってかなりつまんなかった。序盤のミネソタ・ファッツとの試合もダラダラ長いし。既にダル~~、、、って感じになっていた私。

 展開もあんまし好きじゃないパターン。女が死んで、心機一転!!ってどーなのよ。……まぁ、エディみたいな男は、それくらいのことでも起きなきゃ変われない、ってことなのかも知らんが、本質的にはそれでも変わっていないよね、この男。どんだけ負け続けても、勝つまで金をつぎ込んでしまう。これは映画だから、最後はエディが勝って終わるけど、現実だったら、ああはいかずに、またスッテンテンにされて放り出されるのがオチだわね。

 そら、ポール・ニューマンだから行きずりに近い恋でも本気になるかも知れないけど、現実には、あんなイイ男はそうそう道端に落ちておりません。なので、ある意味、おとぎ話ですね、これは。エディから見てもそうだと思う。だめんずの見本みたいな彼を全て受け入れてくれる資産持ちの賢い美人女性。いるか、そんなもん!!

 ……というわけで、かったりぃわ、くさいわ、、、で、終盤はかなり白けて見ておりました。

 ただ、ケンタッキー・ルイビルの名前が出て来たので、ちょっと、おっ!となりました。私が遠い昔、ホームステイしたホスト・ファミリーがケンタッキー州だったんだけど、シカゴで国内線に乗り換えて、ルイビルで降りたのでした。そこから車でホスト・ファミリーの家まで行ったんだよねー。懐かし。

 ま、一瞬目がぱっちり開いたのはその場面くらいだったかな。サラが自殺しちゃったシーンなんか、もう、見るの止めようかと思ったわ。

 これは、果たして名画なんでしょうか? ちなみに、みんシネでは6.9点/10点(レビュアー数79人だから多くはない)、『戦後生まれが選ぶ洋画ベスト100』(文春文庫)では、100位までにランキングしていないし、そもそもこの本の中で触れられてもいない。やっぱ、名画ってほどではないのかな。シリーズ3作目というのはムリがあるか、、、。

 この監督さん、赤狩りに遭っていたと後から知ったのだけど、本作を撮影したときもあまり良い状況ではなかったみたい? 共産党に一時期入党していたからだそうだが、これもアメリカの黒歴史ですな。

 次は何の“名画”を見ようかな。

 

 

 

 

 

 


『ハスラー2』なんか見る気せん、、、。

 

 

 

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