映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命(2023年)

2024-05-12 | 【え】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv85247/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1858年、ボローニャのユダヤ人街で、教皇から派遣された兵士たちがモルターラ家に押し入る。枢機卿の命令で、何者かに洗礼を受けたとされる7歳になる息子エドガルドを連れ去りに来たのだ。

 取り乱したエドガルドの両親は、息子を取り戻すためにあらゆる手を尽くす。世論と国際的なユダヤ人社会に支えられ、モルターラ夫妻の闘いは急速に政治的な局面を迎える。

 しかし、教会とローマ教皇は、ますます揺らぎつつある権力を強化するために、エドガルドの返還に決して応じようとしなかった…。

=====ここまで。

 19世紀にイタリアで起きた「エドガルド・モルターラ誘拐事件」をマルコ・ベロッキオが映画化。


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 劇場で何度か予告編を見せられ、こういう“時代物”が好きなので、つい見に行ってしまいました。分かっていたけど、やっぱし宗教は、、、とゲンナリして帰路につきました。


◆どこから見ても“組織的犯罪”

 カトリックを始めとする各種宗教のヤバさは、これまで何度も何度も映画で見て来たので、本作も、正直って驚きはないが、強烈な不快感と憤りを覚え、鑑賞後感はすこぶる悪い。

 これ、どこから見てもれっきとした“拉致誘拐”である。何が、洗礼だよ。額に水掛けただけやんけ……と、信仰のない者は思う。

 ある動作が、それがどんな些細なものであっても、ある宗教ではとてつもなく大きな意味を持つことがあるのは頭では理解できるが、幼い子供を、神の名の下に拉致誘拐までしちゃう根拠となるのは、控えめに言って“狂っている”。

 今、篠田節子著『仮想儀礼』を読んでいるのだが、金目当てでインチキ新興宗教を興した2人の男が、どんどんヤバいカルト沼にハマって行く様がこれでもかと執拗かつ容赦なく描かれており、怖いというより気味が悪い。カトリックとインチキ新興宗教を同列に語るなと怒られそうだが、この映画を見る限り、逆に、どこが違うのか教えていただきたいくらいだ。

 モルターラ家は、敬虔なユダヤ教家庭なのだが、7歳で拉致されて、カトリックの洗脳教育を受けたエドガルドは、結果的には、骨の髄までカトリック教徒となる。死の床にある実の母親に会いに行った中年エドガルドは、ユダヤ教徒として生きて来たその母親にカトリックの洗礼を授けようとする。母親自身も当然拒否し、家族にも阻止されるが、エドガルド自身は大真面目である。


◆不満とかスピルバーグとか、、、

 成長したエドガルドは、時々、奇行を見せる。皆が首を垂れて教皇を迎えているときに、突然立ち上がって教皇に体当たり(てかタックルみたいに見えた)したり、教皇の亡骸が納められた棺を馬車から引きずり降ろして川に投げ込もうとしたり、、、。あれは、洗脳されたものの、迷いが時折現れるってことを描いているのかしらん?

 教皇に体当たりしたことを咎められ、床に舌で十字架を3つ描け!なんて言われて、実践するエドガルドの姿は、何とも滑稽で気分が悪く、正視していられなかった。

 全編を通じて、理不尽に翻弄されたエドガルド自身の内面描写が乏しく、彼が一連の出来事をどのように受け止め、何を考えていたのか、、、は本作ではほとんど描かれていない。それが垣間見えるのが、前述の奇行くらいなのだが、突飛な行動レベルにしか見えず、イマイチ制作者の意図が分からない。

 ただ、パンフを読むと、実際のエドガルドは、教皇に忠誠を尽くしていたものの、内面では葛藤を抱えて苦悩していたらしく、長期間寝たきりになるほどの病気にも見舞われていた、、、のだそう。どうせなら、そういう描写ももう少し入れてくれた方が、映画としては、より奥行きが増したと思うんだけど。

 この「エドガルド・モルターラ誘拐事件」については、スピルバーグが映画化に挑戦したものの断念した、、、ってのが本作の宣伝文句になっている。あのスピルバーグがっ!とか、箔付けになるのって日本だけじゃない? 知らんけど。

 スピルバーグが断念した理由は、エドガルドを演じる子役を見付けられなかったかららしい。本作で幼いエドガルドを演じていた少年は2,000人の中から選ばれたんだとか。なかなかの演技巧者で驚いた。

 スピルバーグが映画化したら、間違いなく英語で制作されていただろう。この物語を全編英語でやられた日にゃ興ざめも甚だしいので、内容に多少の文句があったにしても、イタリア語でベロッキオが監督してくれて大正解だったと思う。スピルバーグだったらもっと内容が良かったとも思えないしね。

 それにしても、紛れもない拉致誘拐事件であるにもかかわらず、神の名の下ならば、犯罪が犯罪でなくなる謎原理。劇場に貼ってあったクリスチャン新聞を読んで、ますます憤りを覚えたので、参考までに貼っときます。

 

 

 

 

 

 


「洗礼を受けたこの子は、永遠にカトリック教徒なのだ」(盗人猛々しい)

 

 

 

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エクソシスト(1973年)

2022-05-05 | 【え】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv1133/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです(長いので編集しています)。

=====ここから。

 北イラクの古代遺跡。アメリカの古生物学者でありカトリックの神学者でもあるメリン神父(マックス・フォン・シドー)は、発掘中に悪霊バスズの偶像を発見し、いつか再びこのバズスと対決することを異様な戦慄と緊迫感のの中で全身に感じていた。

 アメリカ・ワシントンのジョージタウンでは、ロケのため臨時に借家住まいをしている人気女優クリス(エレン・バースタイン)は1人娘のリーガン(リンダ・ブレア)の身に異変が起こり始める。また、クリスが主演した映画を監督したバーク・デニングス(ジャック・マッゴーラン)が恐ろしい死に方をする。

 医者もお手上げ状態に万策つきたクリスは、“悪魔払いの儀式”を行なってもらおうと、カラス神父(ジェイソン・ミラー)に頼み込む。カラス神父は一旦は断るが、リーガンの状態を見て“悪魔払いの儀式”を行なうことを決意する。カトリックの中でも数少ない悪魔払いの経験者、メリン神父が呼ばれカラス神父を助手に悪魔との壮絶な闘いが始まった。

=====ここまで。

 オカルト・ホラー映画の金字塔。

 
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 先日BSでオンエアされていたので、懐かしさもあって録画してしまいました。最初から最後まできちんと見たのは初めて、、、。


◆怖いか、怖くないか

 本作を初めて見たのは、高校生の頃だったか(大学生だったかも)、深夜放送でたまたま、、、だった。私が見始めた時点では既にリーガンの顔が特殊メイクになっていて、怒涛の後半へ向けた辺りだったと思う。

 とにかく目が離せなくて、怖いというよりも「なんだこれは、、、すげぇ、、、」という感じだった記憶がある。

 その後も何度かTVで目にしたけれども、いずれもながら見で、きちんと画面に向き合って見たことがなかったので、今回、冒頭にイラクでの発掘シーンがあったのを初めて知った次第。なので、そーだったのかぁ、、、なことがいっぱいだった。

 白状すると、今回見るまでは本作のことを、ただのホラー映画であって、あの時代だから話題になったんでしょ? くらいの認識だった。でも、それは大間違いだった。

 本作は、ホラーというよりは、深みのあるオカルト映画であると認識を改めた。オカルトで深みがあるって、かなりレアだと思う。いや、オカルトにも優れた作品はあると思うが、扱っている素材がナンセンスと紙一重なわけで、往々にしてB・C級になりがちという意味。

 序盤のイラクのシーは、何気ない発掘描写に見えるが、その風景や音、人物や犬の戯れ、時計が突然止まるなどの不可思議さ、、、といった細かい描写が積み重なって、マックス・フォン・シドー演ずるメリン神父の顔に緊張が表れ、パズズの像と対峙するカットは不穏そのもの。

 本作は、悪魔祓いに目が行きがちだけれども、主眼はそこではなく、人間の弱さ、葛藤、自身との向き合い方、、、だと強く感じた次第。

 リーガンの顔が特殊メイクになる前までは、怪異現象だけでなく、カラス神父の心情やバークの人としての厭らしさ等が丁寧に描かれる。リーガンについても、そもそも父親とは別居していて、母親も不在がちであることを割と念入りに描いている。こういった心の隙を悪魔に憑かれるということの暗示である。

 ネット上の感想で(みんシネでもあったが)、「何でリーガンに悪魔が憑いたのかの説明がない」というようなことが結構書かれていたが、いやだからちゃんと描かれていたじゃないの、、、と思ってしまった。

 あと、多かったのが、「怖くない」からツマラナイ、系の感想。まぁ、確かに、ホラー映画としての怖さは薄いと思う。けれど、これは前述したように“人の心”の問題を描いているのであり、そういう視点で見れば、本作はかなり怖い話である。“悪魔憑き”だと思うから怖くないという感想になる。

 みんシネでの魑魅さんのレビュー「この映画が怖くないと云うヒトは感性が鈍いか、現実しか見つめないヒトでしょう。」という一文が、まさに的を射たものだと思う。昨今の展開の速いホラー映画が「ホラー映画」だと定義している人から見れば、本作は、余計なことに尺を割いて肝心なことが描かれていない、と見えるのかもね。

 けれど、神父VS悪魔の壮絶な闘いシーンでの、リーガンの首が360度回るのとか、身体が完全に宙に浮くのとか、リーガンの背後にパズスの像が現れるのとか、、、これらは神父たちに見えたものではあるが、事実だったかどうかは分からない。神父にそう見えただけ、かも知れないではないか。

 という具合に、オカルト映画でありながら、実に立体的な作品なのである。オカルトをバカバカしいと思わせない丁寧な制作の姿勢に志を感じる貴重な映画だと思う。


◆その他もろもろ

 メインの舞台であるジョージタウンの街並みが実に美しい。ロケシーンの大学(?)と思しき建物の大きさ、荘厳さに圧倒される。やっぱり欧米の建物はデカい。デカさが根本的に日本と違う。

 悪魔祓いの舞台となるクリスの家もすごく素敵。間取りも内装も、一時停止してじっくり見てしまった。あんな素敵な家に、短期滞在でいいから寝泊まりしてみたい。悪魔はご遠慮願うが。……でもあの家も、借りている設定なんだよね。あんな事件があった後、次の借り手がつくのだろうか、、、。

 カラス神父のジェイソン・ミラーが、どことなくスタローンに似ている気がしたんだけど、そんなことを感想に書いているレビューは目にしなかった。カラス神父がスウェット着てランニングしているシーンがあるんだが、ロッキーのテーマソングが頭の中で鳴っていました、、、ごーん。

 あと、メリン神父がクリスの家にやってくるシーンの画が美しい。霧がかったモノトーンの画面に「チューブラー・ベルズ」の音楽が被り、雰囲気もサイコー。

 ちなみに、この当時、マックス・フォン・シドーは40代だったというのだから、ビックリ。特殊メイクとはいえ、80代くらいに見える。息絶えているシーンでの彼の顔は蒼白で、実に怖ろしい。

 wikiによれば、カラス神父の役をポール・ニューマンやジャック・ニコルソンが希望していたというのがビックリ。ポール・ニューマンのカラス神父、、、かなり見たかったかも。ジャック・ニコルソンはどっちかというと、憑かれる方でしょ。また、クリス役には、オードリー・ヘプバーンも候補に挙がっていたそうで、それはそれで見たかったなぁ。

 この後、続編が色々作られたみたいだが、意外に、3が評判が良いらしいので、見てみようかな、、、などと思っている。

 

 

 

 

 

 

 


悪魔より怖いのは、やっぱし人間ですかね。

 

 

 

 

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英雄の証明(2021年)

2022-04-10 | 【え】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv76228/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 イランの古都シラーズ。

 借金の罪で投獄され服役するラヒムは、婚約者が偶然、17枚の金貨を拾うという幸運に恵まれる。借金を返済すれば出所できるラヒムだったが、罪悪感に苛まれ、落とし主に金貨を返すことを決意。

 その善行がメディアで話題となり、ラヒムは“正直者の囚人”として英雄扱いされることに。

 ところが、SNSからある噂が広がり、状況は一変。父を信じる幼い息子までを巻き込む大事件へ発展していく。

=====ここまで。

 
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 今や、巨匠の感さえあるアスガー・ファルハディ監督作。……といっても、私は『別離』も『セールスマン』も未見です。見たいなぁ、、、と思いながら劇場行きを逃し続けて、DVD鑑賞もいまだ果たせず、、、でありました。本作は時間の都合がついたので、劇場まで行ってまいりました。


◆それ犯罪じゃないの?

 そもそも論として、イランというお国では、拾ったものをしかるべき場所へ届ける制度がないのでせうか???(パンフにもその辺の言及はない)

 日本の場合は警察(交番)とか施設の管理者とかに届けるわけで、ラヒムさん(正確に言えば婚約者だけど)の行為は、横領(占有離脱物横領)という立派な犯罪になる。

 それはまあ別に良いのだけど、本作内でラヒムさんが金貨入りバッグを拾った事実を公表しようとしたのは、金貨が想像以下の金額でしか換金できないと分かったからであり、もし納得いく金額で換金出来たら、ラヒムさん、絶対公表しなかったと思うのだ(婚約者だってその気マンマンだったわけだから)。んで、公表すると決めたラヒムさん、自分で「金貨入りバッグ拾いました」なるチラシを作ってあちこちにベタベタ貼っている。こんなことしたら、そら悪意のある人が名乗り出てくるのは当然の成り行きだ。これがイランでの常識なのか、、、? 謎。

 ……という具合に、序盤の展開で私の頭の中には???が一杯浮かんでしまい、ラヒムさんイケメンだけど、なんだかなぁ、、、という感じであった。

 でも、それもこれもあれも、お国の違いということで頭の中では脇に置き、映画に集中することに。

 正直者として刑務所のイメージ戦略に利用され、さんざん持ち上げられた挙句、噂が噂を呼び、あっという間に叩き落される。どこにでもある光景が描かれる。

 ラヒムさんを全うな善人として描いているわけではなく、成り行きで話してしまったプライベートなこと、嘘ではないけど盛ってしまったエピソード、良からぬアドバイスに安易に乗ってしまったこと、、、これらがぜ~~んぶラヒムさんの立場を追い詰めるように作用してくる。……あーあ、、、という感じで話はどんどん進むのだが。

 私が、それでもやっぱり引っ掛かってしまったというか、解せなかったのは、金貨入りバッグの落とし主を名乗る女性を探し出せないからと、ラヒムさんは婚約者の女性を落とし主の替え玉として証人に仕立てちゃうんだが、それがこの事件の致命傷にならないこと。ここで、ちょっと着いていけなくなりました。

 証人を捏造って、私の感覚からすると“即アウト”なんだが、本作内では「それは嘘でした」で流されており、致命傷となったのはその後、ラヒムさんが金の貸主と取っ組み合いの喧嘩をして、その動画が拡散されたことなんだよね。このへんの仕組みが、私の中では、いくらお国柄の違いとは言え、ゼンゼン理解できず、気持ち的に脱落しました。

 司法制度の違いなので、本作の構成にケチをつけても仕方がないのだが、ラヒムさんの善行(?)を持ち上げて寄付を申し出たなんちゃら協会の人たちも、ラヒムさんが金の貸主と乱闘騒ぎを起こした(その動画が撮られちゃったからだろうけど)ことばかりあげつらってラヒムさんを責めるけど、私がその協会の人だったら、むしろ、乱闘騒ぎは(もちろん暴力だから許されることではないが)本人同士の問題に過ぎないことで、証人捏造はそもそも違法だし、人としてそっちの方がよっぽどモラルに反していて許し難い行為で憤りを覚える。いくら追い詰められたって、それをやっちゃったら、彼の行動全てが嘘になってしまう、ちゃぶ台返しだと思うのよね。でも、映画の中では軽~くスルーされて、もう何が何だか、、、。え、問題そこ??状態だった。


◆剽窃騒ぎ

 ファルハディ監督作品を初めて見たわけだが、ネットの感想を見ると、彼の信者みたいな人たちの絶賛レビューも結構ある。信者はそういうもんだから別に良いのだけど、私は本作について、前述のような引っ掛かりを差し引いても、さほどグッと来なかった。

 シナリオとしてはよく出来ていると思うけれど、いかんせん、ラヒムさんが(すみません)トロ過ぎて、あんまし可哀そうだと思えなかったのが致命的。

 見た後に知ったのだが、本作は盗作疑惑があるらしく(詳しくお知りになりたい方は検索してください)、その経緯がまた本作と被るのよね。盗作の告発もSNSで尾ひれ背びれが着いて大事になって行った様だし、現実に裁判沙汰になっている。まあ、経緯を読む限りは、盗作とまでは言えないかもだが、少なくとも「原案者」として名前をクレジットしなかったのは、監督側の明らかなミスだろう。こんな脇の甘いことで大丈夫か??と言いたくなる。

 アイデアは、誰が最初か、、、というのは判断が難しい場合ももちろんあるだろうが、今回、監督を告発したのは彼の元教え子だということで、その辺りはもっと慎重である必要はあっただろうね。ちょっと嫌だなと感じたのは、この元教え子を自身の事務所に呼び出して「自分の作品(元教え子が実習で制作した動画。you tubeでも見られます)の原案は監督に帰属する」との確認書に署名を要求したという話。慎重さをそういう風に発揮するなんてね。元教え子の名前をクレジットに入れるだけで済んだのに、陰湿だと感じる。

 ネット上の監督信者みたいな人たちは、盗作ではない!と主張しているが、実際盗作かどうかは私は知る由もなく、そんな疑いがあると知ったところで、本作に対する私の印象はほとんど変わらない。そんな根本的な問題でミソがつく時点で、監督は反省した方が良いとは思うケド。ラヒムさんと一緒で、疑いの眼差しで見られちゃうのは仕方ない、、、って皮肉だよね。剽窃ってのは、100回中99回やっていなくても、1回やったら、その他の99回もやったと疑われる、そういう性質のものなのだから。

 他のファルハディ監督作品も、見てみようと思う、、、けど、しばらく後かな。

  

 

 

 

 

 

 


ラヒム役の俳優さんは、元テニスプレーヤーだそうです。

 

 

 

 

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SNS-少女たちの10日間-(2020年)

2022-02-19 | 【え】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv72736/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 巨大な撮影スタジオに3つの子供部屋を造り、幼い顔立ちの18歳以上の3名の女優が“12歳・女子”という設定のもと、部屋に設置されたパソコンを使いSNSで友達を募集した。

 すると、2,458名もの成人男性がコンタクトを取り、卑劣な誘いを仕掛けてきた。

 精神科医、性科学者、弁護士や警備員など専門家の万全なバックアップやアフターケアを用意し、10日間撮影を続けた。すると、撮影されているとは気づかず、未成年に対する容赦ない欲望の行動は徐々にエスカレートし、児童への性的搾取者が徐々に本性を現し始める……。

=====ここまで。

 ドキュメンタリーというか、リアリティ・ショーというか、、、。


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 昨年、劇場公開時にメディアでも取り上げられて話題になっていたけど、劇場まで行って見る気にもならず、DVDが出たので見てみることにしました。


◆想定内だったんですけど、、、?

 3人の女性を選ぶ面接シーンから始まるのだが、ここですでに、この面接に応募した女性たち23人のうち19人が、ネットで性的いやがらせの経験がある、、、という話になっており、いきなりのカウンター。

 12歳の振りをした18歳以上の女性3人が、いわば実験台となって、ネット界の実態を垣間見せてくれるわけだが、本作の感想をネットで4本くらい読んでみたところ、そのうち3本は男性で、お三方とも「衝撃を受けた」とか「ショックだった」とか書いていた。お三方とも、本作に出てきた男たちのゲスっぷりがショックだというのだ。

 私は遠い昔に10代だったわけだが、20代を過ぎ、30代を過ぎ、40代を過ぎても、男からの性的な目線というのは場面を問わずしょっちゅう感じたし(もちろん不快極まりない)、最近は大分楽になって来た実感はあるが、それでもやはり不快な視線はまだまだある。それは私が女性として魅力的か否かとかは全く関係なく、女性のほとんどがそういう“女性の体形”をしているがために“性的な目線”に常に晒されているってことなんだが、だから、本作で顔にモザイク掛けられていた下劣極まりない男どもの言動など、わたしにとってはゼンゼン“想定内”なのであった。

 そりゃ、私はSNSでの交流などやらないから、いきなり見知らぬ男に性器を見せられたり、裸になれと脅されたりした経験はない。ないが、本作のような設定で、こういうことをする男がいる、しかもいっぱいいることなんか、不思議でも何でもなかった。

 本作の“実験”では、次のルールがある。

① 自分からは連絡しない、② 12歳であることをハッキリ告げる、③ 誘惑や挑発はしない、④ 露骨な性的指示は断る、⑤ 何度も頼まれた時のみ裸の写真を送る(偽の合成写真)、⑥ こちらから会う約束を持ちかけない、⑦ 撮影中は現場にいる精神科医や弁護士などに相談する

 12歳って、小学6年生だよね。連絡してくる男たちは、40代とか確か60代もいた。女性たちが「私12歳だけどいいの?」としつこく聞くが、皆「いいよ、ゼンゼン問題ない」とか言っている。現場にいる精神科医によれば、これらの男たちはほとんど小児性愛者ではないだろうとのこと。小児性愛者は、小児の裸にあまり執着を見せないらしい。が、本作で出てくる男たちは、ほとんどが女性たちに「脱げ」と言う。

 つまり、12歳でも身体が大人の女なら、見ず知らずの関係であるのだから、あわよくばセックスまでして、都合が悪くなったらポイできる、、、ということなんだろうな。確かに、本作で見る限り、出てくる男たちは“小さい子が好き、、、”という感じではなかった。

 終盤、上記のルールを一部破って、男たちの一部と3人の女性たちがカフェみたいな店で直接会うことになる。彼らは、公共の場では周囲の目を気にして、女性がちょっと声高に「何であんなこと言ったの?」みたいに詰問するとうろたえたり、女性に親から電話が掛かってくると焦ったりする。要は、痴漢と同じで、自分がヤバい状況にならなければ、自分の欲望を暴発させることに何のためらいもない輩ということ。

 最終的に、本作では、連絡してきた男のうちの1人に突撃し、監督と実験台となった女性3人たちとが直接対決していた。けれど、大勢で1人の男を責め立てるばかりで、「どうしてそういうことをしたのか」ということに切り込んでいないのが、思いっきり期待外れな展開であった。突撃するなら、監督2人(男性と女性の2人が監督を務めている)だけで男に会い、責めたてるのではなく、じっくり男の話を聞いた方が良かったのでは。

 それなりに意義のある企画だとは思うが、ああいう終わり方では、企画意図が分からなくなっちゃう。ただの「お下劣男図鑑」になっちゃった感あり。


◆男性性について。

 前述の男性お三方は異口同音に「ショック」と言っている一方で、「そんな男ばかりじゃないと言いたいが、直視しなければならない現実」みたいなことも書いていた。この男性たちの受けた「ショック」は、男性性そのものに対するショックでもあるのかもね。でも、オレは違う、、、と。

 先日見た『ドライブ・マイ・カー』について、批評家・杉田俊介という人の論考をWebで読んだのだが、男性性に絡めて書いてあって、もの凄い違和感を覚えた。

 男は強くあるべしという「男らしさ」を社会に求められて弱音も吐けず、溜め込んでしまいがちだが、『ドライブ~』は、「正しく傷ついて」良いのだ、と男たちを男性性から解放するものだ、、、みたいな論調だった。しかも「女性的な感情」という言葉もあり、具体的に何を指すのかは分からないが、文脈からは弱音を吐いたり涙を見せたりすることは「女性的な感情」と言いたいらしい。でも、私の印象では、政治家でも芸能人でも、謝罪やら何やらで会見して泣いているのはモレなく男なんですけどね。

 ともあれ、こういう都合の良いときだけ、男性性で括って語るなよ、と感じた。男性優位とか性犯罪とかの話で、男性性で一括りにされれば「そんな男ばかりじゃない」と言うくせに。辛くても弱音も吐けず、溜め込んでいる女性もいっぱいいるんですけど? 現に『ドライブ~』でも、辛い思いを抱えていたのは男の家福だけじゃなく、女のみさきもだったじゃん。なんで“男だけの物語”にするのか。

 『ドライブ~』が社会的な男性性からの男性の解放映画だというのなら、本作は、身体的な男性性を男性が自覚する映画、であって欲しい。男性性の持つ加害性をコントロールするにも、まずは“自覚すること”の第一歩が大事なので。

 正直なところ、本作の感想としては、もっとイロイロ、いっぱい、書きたいことはあるんだが、あまりにも長くなるし、今までにもあちこちで細切れに書いているから重複になるだけな感じもあるので、今回は自重することとしました。

 

 

 

 

 

 


日本でも似たような状況だと思います。

 

 

 

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エイブのキッチンストーリー(2019年)

2020-12-22 | 【え】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv71428/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 イスラエル系の母とパレスチナ系の父を持ち、文化や宗教の違いから対立する家族の狭間で悩む少年エイブにとって、料理を作ることが唯一の心の拠りどころだった。

 誰にも自分を理解してもらえないと感じていたある日、エイブは世界各地の味をかけ合わせた“フュージョン料理”を作るブラジル人シェフのチコと出会う。

 フュージョン料理と自身の複雑な背景に共通点を見いだしたエイブは、自分の手料理で家族を一つにしようと決意する。

=====ここまで。


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 新聞で評を読んで、ちょっと見てみたくなりまして、劇場まで見に行って参りました。


◆ユダヤ VS ムスリム、ジジババの仁義なき闘い

 予告編も見ていたので、大体、予想どおりの雰囲気だった。ちょっとモメるけど、ほぼ、ほのぼの。安心して見ていられるのは、疲れたときに見るには助かる。

 エイブは、アブラハムと呼ばれたり、イブラヒムと呼ばれたりするわけだが、正式にはエイブラハムであり、本人は「エイブがいい」らしい。信じる神が違うと、同じ名前なのに呼び方が違ってくるのだ。ややこしいのう、、、。

 料理好きなエイブは、自分で作った料理をSNSにアップしたり、フードフェスに行ったりしているのだが、そのフードフェスでブラジル人のチコが出していた「アカラジェ」という料理に感動する。祖母がよく作ってくれる「ファラフェル」をジャマイカ風にアレンジしたものだと、チコは言う。ここでエイブは、食文化のミックスに目覚めるわけ。食の“フュージョン”だって。

 夏休みに母親のすすめで料理のサマースクールに参加するエイブだが、まるでオコチャマな内容に、早々にスクールには見切りを付け、スクールに通う振りをしながらチコの店に行って手伝いをする。そうして皿洗いから始めて、だんだん料理が上達する、、、という具合に、非常に和やかにオハナシは進む。

 途中、スクールに通っていないことが親にバレるけど、大した騒動にはならず。強いて、“転”となるのは、後半の感謝祭ディナーのシーン。両親と両祖父母に父方の叔父が一堂に会する。エイブは、イスラエルとパレスチナのフュージョン料理で皆をもてなそうとするが、当然、モメる。そのジジババたちの何と大人げないことよ。ジジババの年代では、まあ仕方ないとは言え、見ていて不快度が増すだけ、、、。父母が一生懸命、「エイブのディナーなんだからやめて」と止めてもお構いなしのジジババ。

 で、エイブは傷ついて、ジジババ達がハッスルしている隙に家を抜け出しチコの店へ。エイブがいなくなったことに気付いた大人達は大慌てで……、となれば、あとはもう展開は想像がつくが、その想像どおりになる。


◆予定調和、上等!!

 でもこういう映画は、こういう予定調和で良いと思うわ。見ている方もそれを期待して見ているのだし。要は、それをどうやって見せてくれるか、なわけで。

 といっても、本作は見せ方も王道で、特別奇をてらうこともない。ストーリーも演出も想定内となると、あーハイハイ、って感じに普通はなるんだけれども、エイブを演じるノア・シュナップが可愛いし、表情豊かで演技も良いので、それだけで十分見せてくれている。

 しかも、料理がどれもこれもすごく美味しそう。もちろん、料理の映像もとてもキレイに撮っていて、空腹時に見ると辛いかも。ファラフェルって食べたことないから、一度食べてみたいんだよなぁ、、、(涎)。

 また、大人げないジジババたちではあるが、孫のエイブを愛しているのは間違いなく、それは十分伝わってくる。両親は割と賢明な人たちで、悩みながらもエイブに宗教を敢えて強いない、というか無宗教で育てている。それでも、離婚の危機に瀕するのだが。

 ブラジルからの移民のチコも、エイブの複雑な家族背景を理解し、子ども扱いしないで料理を教えている。エイブがジジババたちの大喧嘩に心を痛めているときも、安易に慰めるでなく「問題からは逃げられない、立ち向かえ」なんて言う。

 ……と、エイブを囲む大人たちがなかなかイイ味出している。ジジババたちも、さすがにエイブが家出したことで反省したのか、最終的には、エイブの料理でもってイスラエルとパレスチナはフュージョンするのだ。

 イスラエル VS パレスチナをテーマにした映画といえば、昨年見た『テルアビブ・オン・ファイア』だが、面白さで言えば、『テルアビブ~』の方が遙かに面白い。毒もあるしね。本作は毒もないし、笑いも大人しいが、現実の対立があまりに酷いので、しばしフィクションの世界で夢を見るにはこれくらいのソフトさがちょうどいいのではないか、と思う次第。

 民族間の対立はどこも深刻だけれど、個人間で付き合うと、そういう属性ってほとんど意味がなくなるものよね。私も、中国人や在日韓国人の友人がいるけれど、人と人として付き合っているわけで、彼らは多才でとても尊敬している。属性で人を見ると見誤ることの方が多いと思うが、人間は基本愚かな生き物だから、そういう色眼鏡ってなかなか外せないのよね。だから、映画や小説といったフィクションの世界で、それこそフュージョンすることが可能だと見せることは、たとえキレイ事だの建前だのと冷笑されたとしても、意義深いと思う。

 

 

 

 

 

 


監督がなかなかイケメンです。


 

 

 



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永遠のマリア・カラス(2002年)

2019-07-07 | 【え】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv32511/

 

 絶頂期のように歌えなくなったディーバ、マリア・カラス(ファニー・アルダン)は、最愛の男で海運王のオナシスにも捨てられ、失意の中でパリの高級マンションの自宅に引きこもりの日々を送っていた。そこへ、長年の友人であるプロデューサー・ラリー(ジェレミー・アイアンズ)が企画を持ち込んでくる。それは、歌声はカラス全盛時のものを映像に被せ……つまり口パク……カラス主演でオペラ「カルメン」の映画を撮る、というもの。

 最初は鼻であしらうカラスだったが、ラリーの熱心な口説きにほだされ、次第にヤル気になる。久しぶりの現場復帰は、彼女に生きる力を甦らせる。そんな生き生きとしたカラスを見て、ラリーも幸せを感じるのであった。

 しかし、全てを撮影し終え、完成試写会も行った後になって、カラスは公開中止をラリーに求めるのであった。

 

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◆ゼッフィレッリ亡くなる。

 もう随分な高齢だから、いつ訃報を聞いてもおかしくないとここ数年は覚悟していたけれども、実際にその日がやって来ると、やっぱり寂しいし悲しかった。

 私が映画を見るようになったのは、ゼッフィレッリのおかげといっても良いくらい。映画を見て、本当の意味で“感動”を覚えるという体験をしたのは、ゼッフィレッリの『ロミオとジュリエット』が最初だったから。まだ、10代だった私にとって、あの豪華絢爛たるセットと衣裳、哀愁を帯びた音楽、そして美しい主演2人が繰り広げる恋愛メロドラマの世界は、まさしく“別世界”だった。ビデオによるブラウン管での視聴だったけど、約2時間という短い間とはいえ、私は図らずも“異空間”に連れて行かれたのだ。あのときの体験がなければ、映画を見ることの楽しみなど分からないままだったかも知れない。

 だから、私にとって、ゼッフィレッリは特別な人なのよ、、、。一度も会ったこともないのに、特別なの。直接会えなくても、この世のどこかにいるのだと思えるのと、もうこの世のどこにもいないのだと思い知らされるのでは、やっぱり心の持ちようがゼンゼン違う。

 そんな寂しさを紛らわすべく、心の小さな穴を埋めるべく、そして、ささやかな追悼の思いを込めて、彼の作品を改めて見てみた次第。

 

◆ゼッフィレッリのカラスへの愛

 本作は、もちろん公開時に劇場で見ているが、その後、まったく再見していなかった。BSでオンエアしているのをチラ見したことはあったけれど、本当にチラ見。今回、ゼッフィレッリ作品の再見に当たって本作を選んだのは、もう一度ちゃんと見たいと思いながら、何となく見ないままになっていたから。

 で、オープニングでいきなり「こんなだったっけ、、、?」とビックリ。いきなりロック全開で、カラスが主人公の映画と思えぬ幕開けなのだ。そして、ロンゲを後ろに結わえたジェレミー・アイアンズの登場。え゛ー、こんな髪型してたっけか?? こういう髪型、正直言って彼は似合わないね。彼の演じたラリーは、ゼッフィレッリの投影された役柄であることは誰の目にも明らか。作中でもラリーはゲイだしね。

 とにかく、ラリーは、扱いが難しいカラスのあしらいが非常に上手い。きっと、実際にゼッフィレッリとカラスの関係も似た感じだったのだろう。ゼッフィレッリの自伝、タイトルもまんまの『ゼッフィレッリ自伝』 にも、カラスのことはかなりのボリュームで描写があったように記憶している。

 ちなみに、この自伝は結構面白いし、読み応えもある。いささか総花的ではあるけれど、映画はもちろん、オペラ演出でのあれこれ、もちろん彼自身の出自や生死を彷徨う事故等々、もりだくさん。私は、この本を10年くらい前にamazonで買ったんだけど、絶版になったのか今やとんでもない値段がついていてビックリ! まあでも、面白いから未読の方には図書館ででも借りて、是非読んでみていただきたいわ~。

 ……ともかく、カラスは、ラリーを信頼して口パクでの復活を心に決める。この口パク映画の撮影シーンがまた豪華で目の保養になる。この辺は、さすがゼッフィレッリ。彼の演出した「カルメン」は、クライバー指揮による舞台でのライブ映像のDVDがあるが、この絢爛豪華な舞台を彷彿させるシーンがあちこちにあり、見ているだけで楽しい。

 面白いのは、ラリーと若い恋人マイケルの描写。マイケルは画家の卵で、才能もあるらしい。カラスをマイケルのアトリエに連れて行って、そこでカラスは彼の絵にインスパイアされたりもする。ベッドで2人が全裸で横たわっているシーンとかもあり、こういう描写を入れたゼッフィレッリの心理を深読みしたくなる。

 カラスの孤独や苦しみの描写はあまりなく、前半にちょっとあるくらいだが、それでもファニー・アルダンの素晴らしい演技で胸打たれる。歌うことが全ての人にとって、歌えなくなることがどれほどのものなのかは、もう想像を絶する。だから、口パクでも復帰してエネルギッシュに撮影に取り組むファニー・アルダン演ずるカラスは、見ている者にとってホッとさせられる。これは、きっと、ゼッフィレッリ自身がこの映画を撮ることで、カラスを失ったことによる心の傷を癒やしているのだろうと感じる。

 ファニー・アルダンの衣裳がまた素敵。カラス自身が実際にシャネルを愛用していたそうだが、本作でもカラスの衣裳はシャネルが提供しているとのこと。本当に、どれも実にファニー・アルダンに似合っていて美しい。こういうところにもゼッフィレッリのカラス愛を感じるわ。

 終盤はいささか呆気なく、まあ、その辺が物足りなさを感じる人もいるみたいだけれども、私はゼッフィレッリ映画は酷評しない主義なので、これはこれで良いと思う。実際、カラスの死には謎も多く、ゼッフィレッリ自身は殺されたと主張しているくらいだから、この後のことは余韻持たせた描写にしたかったのだろう。そうでないと、あまりにもバッドエンドになってしまうもんね。

 

◆再びゼッフィレッリについて。

 それにしても、本当にゼッフィレッリは映画でもオペラでも数多の超一流アーティストたちと仕事をしていて、ただただ溜息ものである。クライバー&ゼッフィレッリの舞台なんて、この目でライブを見られたら死んでもええわ、、、と思っちゃう。ああ、この舞台を見られた人たちがただただ羨ましい。DVDで見たって、、、ねぇ。まあ、ライブじゃクライバーは後ろ姿(つーか頭の上の方だけ)しか拝めないから、彼の麗しい指揮っぷりが前から映っているのを見られるのはDVDならでは、とも言えるか。クライバーの信者としては、やっぱりそのお姿を見たいものだから。この頃のクライバーは、ホントにセクシーなのよねぇ、、、。

 前出の自伝には、きら星のごとく世界中のスターの名前が登場する。一番印象に残っているのは、エリザベス・テイラーとリチャード・バートン夫妻のエピソード。ゼッフィレッリは、この夫妻による「バージニア・ウルフなんかこわくない」の舞台版の演出を手掛けたのだが、そのときのエピソードが凄まじいのだ。もう、このお話のまんまのスポイルカップルだったらしい。たしか、ゼッフィレッリも見ていてウンザリしたみたいなことが書いてあったような、、、。

 ちなみに、ゼッフィレッリが監督したこの夫妻による『じゃじゃ馬ならし』でも、まさにそう。こんなんで何で結婚しようと思ったのか、謎すぎる。ま、私はこの夫妻はどっちもあんまし好きじゃないから、さもありなん、という感じだが。

 本作が、ゼッフィレッリにとって映画の遺作ということになったようだけど、私が一番好きなゼッフィレッリ映画は、もう断然『ムッソリーニとお茶を』だ。ロミジュリも素晴らしいが、ゼッフィレッリの自伝的な映画でもある『ムッソリーニとお茶を』は、何度見ても感動する。これだけの豪華出演陣を差配できるのもゼッフィレッリだからだろう。

 まあ、異論のある方も多いだろうけれど、ゼッフィレッリは私にとって特別な映画監督なのです。カラスが彼にとって永遠だったように。

 

 

 

 

 

永遠のフランコ・ゼッフィレッリ

 

 

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英国総督 最後の家(2017年)

2019-04-07 | 【え】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv65336/

 

以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

 =====ここから。

 1947年、デリーのイギリス総督の大邸宅。インドを返却するため6か月間の最後の総督の役職を引き受けたルイス・マウントバッテン卿(ヒュー・ボネヴィル)が妻エドウィナ(ジリアン・アンダーソン)と娘とともに2階に暮らし、下の階には500人ものヒンズー教徒、イスラム、シーク教徒の使用人が住んでいた。

 2階では連日連夜、政治のエリートたちがインド独立の議論を行い、世界に多大な影響を与える歴史的な決断がなされようとしていた。彼らはインドを分断し、パキスタンに新しい国を作り出すという、人類史上最も大きな移民政策を打ち出そうとしていたのだ。

 一方、新総督のもとで働くインド人青年ジート(マニッシュ・ダヤル)と令嬢の秘書アーリア(フマー・クレシー)は互いに惹かれ合っていたが、宗派が違う上に、アーリアには幼いときに決められた婚約者がいた。

=====ここまで。

 インドとパキスタンの分裂を割と分かりやすく描いてくれている映画。

 

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 昨夏公開時に、見に行こうかなぁ、、、と思いながらも、何となくポスターがイマイチそそられない感じで、結局行かずに終映、、、。DVDで見てみました。

 

◆手際の良いシナリオだけど、、、

 タイトルにもなっている“総督 最後の家”は、今の大統領官邸らしいのだが、その建物のスゴさが映像からでも伝わってきて圧倒されそうになる。とにかくデカい。やっぱり、ヨーロッパの人間が造る建物はデカいなぁ、、、と改めて思う。そこまでのデカさが本当に必要なのか?? と、この映画を見てもやっぱり思った。でもって、そこで働くインド人は500名を超えるとか。……まぁ、雇用を生んでいたとも言えるのか。

 マウントバッテン卿はその名の通り貴族だし、甥っ子がチャールズ皇太子とのことで、なるほど、穏やかで品があるはずだわと納得(チャールズ皇太子に品があるかというのは、また別問題)。妻のエドウィナはかなり左寄りのリベラルだけど、仲は良さそうだし、なかなか面白い取り合わせの夫婦。いくらエドウィナがリベラルと言ったって、そこは身分あっての似非リベラルだろうから、まあね、、、という感じだけど。

 この映画を見て良かったのは、インドとパキスタンが分裂したいきさつについての入門編となってくれそうなところ。きっと実際はもの凄く複雑で混乱の極みだったと思われるが、本作は2時間弱の枠内でコンパクトにまとめられており、インドとパキスタンとイギリスそれぞれの思惑の絡み合いなども通り一遍ながら描いてくれている。

 個人的には、ジートとアーリアのラブストーリーなどいらなかったと思うクチだが、まぁ、こういうのもないとエンタメ映画としては成り立たないとでも言うところか。手垢の付きまくったインド版ロミジュリで、正直見ていて白けてしまった。二人の成り行きも想像通りだし。面白くもなんともない。

 そんなことに時間を割くのなら、もっと国境線の確定に際してチャーチルが暗躍していたその辺りを丁寧に描いてくれた方が有り難い。そうすると、かなり映画のジャンルも変わってくるかも知れないが、それだったら、多分迷わず劇場に見に行っていたと思う。結局見に行かなかった最大の理由は、ポスターからどうもヒューマニズム系の匂いがしたからで、この題材を扱うのにイギリス目線でヒューマニズムもクソもあるか、という気がして足が向かなかった。

 分裂が確定的になった後、総督が500人の使用人たちに自分で国籍を選ばせ、総督邸内のあらゆる財産を分割するシーンが印象的。自分の国籍を選ぶのに躊躇のなかった人も多かったみたいだけど、そういうものなのかねぇ、、、と、ちょっと想像し難いものがあった。私だったら、いくら信仰の上ではお隣の国に行った方が良くても、人情としては割り切れないよなぁ、、、などと思ってしまって。まあ、実際は分裂後、民族大移動が起きて、それはそれは大変な混乱だったそうだから、やっぱり映画なんだよね、その辺は。

  

◆イギリスって、、、

 それにしても、イギリスはホンマ悪いやっちゃなぁ~、、、と思っちゃいましたね。反乱を抑えるために都合良く宗教対立を煽っておきながら、手に負えなくなったら放棄、後は野となれ山となれ的なそのやり方に、今の混乱するイギリスも、さもありなんと思うわ。

 この映画では、インドが独立して、総督夫婦はその地にとどまってインドのために尽くした的な描かれ方だったけれども、当初はインド連邦としてイギリス連邦に加わったので、形式的には総督は存続したんだとか。その地に留まったのが総督夫婦の自発的なものなのかどうかは知らないが、ちょっと美化しているっぽい。

 引っかき回した張本人が、それを収集しようとしてこんだけ尽力しました、、、みたいなことを描いていると言うと身も蓋もないが、アメリカのベトナム戦争ものしかり、イラクものしかりで、自業自得なくせに被害者面している映画はどうもいただけない。本作が被害者面しているとは言わないけど、まぁ、その辺は上手くかわしている。

 ネルーやジンナー、ガンジーが実物にそっくりで、エンディングで実際の映像が出てくるんだけど、まったく違和感がないくらい。主役のマウントバッテン卿が一番実物とイメージが違っているが、マウントバッテン卿を演じたヒュー・ボネヴィルは「ダウントン・アビー」でもクローリー伯爵を素晴らしく演じていて、こういう気品のある役が似合う人だ。実際のマウントバッテン卿は、若い頃の画像を見るとなかなかのイケメンで日本にも来たことがあるらしい。

 

 

 

 

 

インド史等々、知らないことが多すぎるので、もう少しお勉強しようと思いました。

 

 

 

 

 

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エンジェル、見えない恋人(2016年)

2018-11-01 | 【え】



 以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 マジシャンの恋人が失踪し、ルイーズ(エリナ・レーヴェンソン)は心を病んで施設に入る。そこで生んだ息子のエンジェルは不思議な特異体質を持っていて、誰の目にもその姿が見えなかった。ルイーズは世間との接触を一切経ち、懸命に息子を育てた。

 エンジェルは、ママが小さい頃に両親に連れられて行ったという湖のほとりにある小屋の話が大好きな、優しい男の子に育った。

 ある日、ふと施設の窓から近所の屋敷を覗き見たエンジェルは、そこにいた女の子のことが気になって仕方がない。間もなく、エンジェルは施設を抜け出し、屋敷に向かう。庭でブランコに乗っていた盲目のマドレーヌは、エンジェルに話しかける。驚いたエンジェルが「ぼくのことが見えるの?」と尋ねると、「見えないけど、声と匂いがするから」と答える。マドレーヌはエンジェルの秘密に気づかない。

 彼らは次第に心惹かれ合っていき、二人きりの幸福な時間を過ごす。一方、ルイーズの容態は悪くなるばかりだった。そんな折、マドレーヌが視力を回復させる手術を受けることになる。「あなたの姿を見られる」というマドレーヌに対し、エンジェルは自分の秘密を伝えられなかった。

 それから数年が経ち、その間にルイーズは亡くなってしまう。

 ある日、マドレーヌ(フルール・ジフリエ)が屋敷に戻ってくる。美しい女性に成長し、視力も完全ではないが回復した彼女はエンジェルの姿を探す。しかし彼を見つけられないマドレーヌは、姿を見せてほしいと書いた手紙をルイーズのお墓に置く。実はすぐそばにいたエンジェルは、昔みたいに会いたいので目を閉じてほしいと返事を書く。

 再会した二人は、再び夢心地の時間を過ごすようになる。しかし、エンジェルの姿を見たいというマドレーヌの想いは消えない。エンジェルは、ついに自分の秘密を打ち明けることになる。

=====ここまで。

 ジャコ・ヴァン・ドルマルが、監督ではなく制作・総指揮の作品。

 
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 ジャコ・ヴァン・ドルマル監督作品が割と好きなので、まあ、これは監督ではないけど一応見ておこうか、と思って劇場まで行ってまいりました。まぁ、ある意味、ジャコ・ヴァン・ドルマル風ではありながら、ちょっと亜流な感じを受けたのは私だけ……?


◆パラドックス

 カップルの片割れが、見えなかったときは上手く行っていたのに、見えるようになったら破局した、、、とかいうオハナシは結構ありそうだけど、本作は、それと似て非なる話。

 “見えないときには確かにいたのに、目が見えるようになったら、いなくなってしまった”……それは、あなたのことです、エンジェル。

 冒頭に書いたオハナシとどこが違うか、、、。目が見えるようになったら、もう一方の片割れの本当の姿が見えた、というのが、冒頭の話。こういう話の場合は、大抵“見えないときの方が、人間的にピュアだった”的な、ある種の寓話みたいなものが根底にあるように感じる。もっというと、説教臭い。見えるようになってからの世界が“現実”であり、見えないときの方が幸せでいられた、みたいな。

 でも、本作は、目が見えなかったときも、見えるようになってからも、片割れの姿をビジュアルで認識できない。だから、見えるようになってからの世界として描かれている、中盤以降の方が、むしろファンタジー色が強くなっていて、これが、ありがちなおとぎ話とは決定的に違う構成だと思う。しかも、マドレーヌは、見えるようになって、“現実”を知ってからの方がむしろエンジェルを深く愛していくようになるのである。

 目が見えないときの方が確かに感じられたその人。見えるようになったら、どこにいるか分からなくなる、、、というのは、なかなか面白いパラドックスです。

 終盤、エンジェルがマドレーヌに真実を明かす際、彼女の前に姿を現すに当たり、ビジュアル化するため(だと思うが)、白い布を被っている。そこにエンジェルがいることが分かる。そして、マドレーヌがエンジェルの姿を見ようと布を取ると、そこには何もない、、、。実際には透明のエンジェルがいるわけだけど、全く見えない。

 まあ、確かに、透明であっても確かに存在しているのだから、体温や触感はあるわけで、しかもちゃんと言葉によるコミュニケーションも可能で、それは視覚がない世界で相手とかかわることと同じと言えば同じだよなぁ、、、。

 むしろ、透明で、エンジェルの顔や形が分からないからこそ、マドレーヌの目が見えるようになってからも、エンジェルに幻滅することなくいられたのかも。だって、永遠にエンジェルを理想化することができるから。

 触感では顔の輪郭は何となく分かっても、ちゃんとは分からない。玉木宏かムロツヨシかの違いは、多分、触っただけじゃ分からんだろ、と思うわけ。私だったら、相手の顔が見えたとき、玉木宏なら以前より好きになる可能性が高いが、ムロツヨシならその可能性は低い、、、と思う(ムロファンの皆さん、すみません)。でも、見えないけどそこにいる、触ることは出来る、というのであれば、本当はムロツヨシでも、玉木宏だと勝手に認識することは可能でしょ。そうすれば、私は、玉木だと思い込んで、テンション上がったままでいられるわけだ。

 おいおい、顔だけじゃねーだろ、というツッコミが聞こえてきそうだけれど、もちろん、顔だけじゃありませんよ。ただ、見なくてよいものを見なくて済む半面、見なくてはならないものも見られない=真実を知らぬまま、って面もあるよね、、、というハナシです。まあ、何でも真実を知ることが最善ではないので、それはそれで良いのだけど。


◆あの映画の下世話なあのシーンが、、、

 でもまあ、本作の面白いところはそこくらいで、あとは、イマイチ私には入り込めない世界でした。

 特に、マドレーヌが視力を得た後、エンジェルが真実を打ち明けるまでの描写が、かなりドン引きで、、、。エンジェルは真実を打ち明けるまでの数日間、マドレーヌに目隠しをさせたまま一緒に過ごすんだけど、当然、セックスもするわけで、、、。何しろエンジェルは透明人間だから、マドレーヌ役のフルール・ジフリエという女優さんの一人芝居になるわけ。一人で、マスターベーションではなく、相手がいるセックスをする芝居をする、、、って、ものすごい難しいと思うし、見ている方も、正直なところもの凄く気まずい感じになるのよねぇ。見ちゃイケナイものを見ている気分、というか。マスターベーションのシーンならゼンゼン良いんだけど、何でだろう、、、。

 気まずいというよりは、やっぱし違和感なのかも知れないけれど。

 あと、透明人間っていう設定だけに、イロイロ突っ込みを入れたくなるシーンが多々。例えば、エンジェルがものを食べるシーン。食べたものは、どうしてエンジェルの身体に入った瞬間見えなくなるのか? とか。エンジェルがマドレーヌをお姫様抱っこするシーンも、CGだろうけど、やっぱりもの凄くヘンだったし。片方が透明だと、本当にあんな風になるのか??という疑問が。

 正直、マドレーヌの一人でセックスシーンを見ていたら、『インビジブル』で透明になったケビン・ベーコンが、エリザベス・シューの胸を触るシーンを思い出しちゃったよ。あれは、スケベ心、覗き趣味でやったいたずらだから一緒にするなと怒られるかもだけど、、、。透明人間のエンジェルが、マドレーヌの乳房を触ったり、乳首を吸ったりするのがCGで描かれるのは、いささか不快感さえ覚えてしまった。……はて、何でだろう。やっぱし違和感かな。

 あの『インビジブル』でのシーンを自著でイラストを描いていた石川三千花が、本作のパンフ(買ってないけど)でイラスト入りコメントを寄せていたので、余計に、そのシーンが甦っちゃったんだよな、、、。

 
◆やっぱし監督として映画を作って欲しい

 ジャコ・ヴァン・ドルマルっぽいカラーは何となく出ていたような感じがあるけれど、ちょっとファンタジー要素が強すぎて、私はあまり好きじゃないかな、本作は。音楽や映像はとても良かったけど。

 制作って、どれくらい作品づくりに関わるのか分からないけど、、、というか、作品によってまちまちなんだろうけど、やっぱり、私は監督ジャコ・ヴァン・ドルマルが好きだわ。彼の独特の人生観というか死生観、美意識、音楽的&映像的センスetc……が好きなんだよね。だから、いくらお金出してプロデュースしていたって、監督として作品づくりに全責任を負う立場でない限り、やはり彼らしさを作品から感じるのは難しいのだろうな、と。

 『神様メール』からもう3年経っているけど、彼は寡作だから、、、次作はまだ何年か先ですかね。早く作って欲しいとは思うけど、こればかりは仕方がない。気長に待っています。







少女時代のマドレーヌが可愛い!!




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エヴァ(2018年)

2018-07-21 | 【え】



 以下、公式HPよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 ベルトラン(ギャスパー・ウリエル)は他人の戯曲を盗んで発表し、一躍成功を掴んだ。しかし2作目を期待されるがペンは進まず、パトロンから矢の催促を受ける。

 ベルトランが執筆のための別荘に着くと、吹雪で立ち往生した男女が窓ガラスを割って家の中に入り、くつろいでいた。ベルトランは文句を言おうと、バスタブに浸かっていた娼婦エヴァ(イザベル・ユペール)に近寄るが、一瞬で彼女に心を奪われる。次作の題材という名目でエヴァに近づくが、冷たくあしらわれる。

 思うようにならない関係に苛立ちを募らせると、周囲の人間を巻き込み、官能と破滅の道に向かっていく……。

=====ここまで。

 このあらすじは、、、正しいのか??


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 毎日暑くてゲンナリ、、、。正直、映画を見に行くのさえ面倒くさく感じるほどの暑さでウンザリ。私は、寒いのは割と平気だけど、暑いのは本当に、ホントウに、ほんっとにダメなんです。職場の人に“白くま”と呼ばれております。そんな白くまが、敢えて劇場に足を運んでまで本作を見に行ったのは、そらなんつったって、主演がユペール様だからですよ。しかも、娼婦役で、予告編を見たら、「謎の娼婦“エヴァ”」とか「彼女は男を破滅させる」とかの宣伝文句が出てくるし、何せ、タイトルに付いているキャッチコピーが「官能と誘惑」「すべての男たちが、この女に狂わされる」とかって煽っているので、どらどら、どんな映画だろ、、、、とユペールが好きなら思うわけよ。相手はギャスパー・ウリエルだしね。

 が、しかし……。白くまは、暑さを克服できぬまま、うなだれて帰ってきたのでした、、、ごーん。
 

◆キャッチコピーに偽りあり。

 時々、、、というか、割としょっちゅう、作品のキャッチコピーがあまりにもズレまくっているのではないか、と疑問に思うことがある。本作もそう。フランスでどんなキャッチコピーが付いたのか知らんが、一体、エヴァのどこが、“謎の娼婦”で、本作のどこが“官能と誘惑”で、誰がエヴァに“狂わされ”ているというのだ??? まったくのトンチンカンもいいとこだろ。

 ……と、私はこの映画を見ながら、途中で思ったわけよ。だって、別にエヴァに謎なんてないし、誰も官能を体現などしていない上に誘惑などもしていない。まして、ベルトランが破滅したのはエヴァのせいではなく、彼が盗作したからであり、完全なる自業自得で、本作のどこにもサスペンス色などなかったから。……はぁ? ともやもやを抱いたまま劇場を後にした。そして、パンフを開くと、目に飛び込んできたのが「ファム・ファタールという男の幻想」と題して仏文学者の鹿島茂氏が書いていたコラム。コレを読んで、私のもやもやは一気に晴れた。

 もう、このコラムが本作の全てを語っており、これ以上、私が駄文を書く必要などないとさえ思える。けれども、ちょこっと駄を承知で感想を書いてしまう。

 以下、ネタバレなんでよろしくお願いします。

 つまり、鹿島氏は「エヴァに謎はない。それは、ベルトランの主観を排して、客観的にエヴァの言動を検討してみれば即座に明らかになることである」と書いている。そうなのよ。観客は、客観的にエヴァを見ているから、このキャッチコピーがトンチンカンに思えるわけ。そして、じゃあ、何でベルトランはそんな“謎のない”エヴァを謎めいた女と感じたのか。鹿島氏はこう断ずる。

 「ベルトランの未熟さ、いいかえれば作家ではなく、「盗作家」であることからくる眼力のなさゆえなのだ」

 、、、、、もうね、これ以上ないっていう解説。

 そう、ベルトランは、そもそもバカなのであります。それも、可愛げのあるバカとか、共感できるバカではなく、もう、同情の余地の全くない、イライラして怒りさえ覚える“真正バカ”ってヤツ。何でこんなバカに、婚約者のカロリーヌが執着しているのかさっぱり分からん、と、恋は盲目とは言うものの彼女までバカに見えて困ってしまった。しかも、彼女はベルトランのバカさ故に死んでしまうしね、、、。浮かばれないったらありゃしない。こういう真正バカにだけは惚れてはいかん。

 冒頭、ベルトランが盗作に及ぶ過程が、結構長く描かれる。この長い描写が鍵だろう。ここで、ベルトランは、作家として、自らの内面と向き合わなければならない、という苦労をすっ飛ばしたばかりに、自らの内面から物語を創出することができない、致命的な“作家”になっちまったわけだ。もちろん、そもそも作家になる能力や才能があったかどうかは分からない。分からないが、デビュー作でこれをやっちまったら、次作以降、自らの内面と向き合うなどという苦行ができるわけがない。

 私がベルトランだったら、デビュー作が売れたとしても「これはたまたま良いアイデアが思い付いただけだから」とか何とか言ってごまかし、職業作家になどなる気はありません、と宣言して雲隠れするなぁ、、、と思った。そうすれば、盗作自体もバレなかった可能性が高いし、美味しい思いだけして、後はテキトーに生きていったって良いのだから。もともと、ベルトランが作家になりたかったのかどうかさえ分からないが、本作を見る限り、作家志望だったようには思えなかった。それならばなおのこと、一発屋の称号を自ら掲げて、後は悠々自適でいいじゃないの、と思うんだけど。

 大体、自分が盗作以上の次作を書けるか否か、なんて自分が一番よく分かるってものでしょう。ベルトランは、だからバカなんだよ。分かっていなければ本物のバカだし、分かっていても作家を続けようと思ったのならば、もちろんこっちも本物のバカだ。


◆ユペール主演だから、、、

 ……というわけで、ユペールの謎の娼婦っぷりを堪能することは出来なかったけれども、相変わらず、ユペールらしさ全開で、それは大いに楽しめた。

 彼女は、謎のある女としてエヴァを演じてはいないと感じる。娼婦としての身の上話で、彼女は、「夫は美術商」とベルトランに嘘をつくものの、それは謎を演出していたのではないだろう。夫が刑務所にいるとは言いたくなかっただけだ。彼女が偽っているのはそれくらいで、後は、別にベルトランに嘘はついていないし、娼婦なんだから敢えて多くを語らないのは当たり前だ。そういう、割り切った現実的な女性を、淡々と彼女は演じている。

 娼婦に変身したときの、ブルネットのボブに真っ赤な唇、という顔が、何とも言えずイイ感じだ。御年65歳のユペールだが、若い女性とはまるで違う美しさがある。ある方のレビューをネットで拝読したが、「どう見てもお婆さんにしか見えない」と書いてあり、その方は恐らく男性だろうが、そういう風に見る人もいるんだなぁ、とビックリ。高齢の娼婦は実際にいるし、需要があるからいるわけで。まあ、見る人がどう受け止めようが自由と言えば自由だが、、、。別に、性的魅力や美しさというのは歳には関係ないというのは当たり前だけど、あのユペールのエヴァを見て「お婆さんにしか見えない」なんて、こう言っては失礼だが、ずいぶん人を見る目が幼稚なんだなぁ、と感じてしまう。ハッキリ言ってベルトラン以下だよねぇ、残念ながら。

 ウリ坊は、ん~~~、彼に責任はないと思うが、あまりパッとしていない感じだった。とにかく、バカすぎるベルトランで、ウリ坊の魅力があまり感じられないキャラだったってのも大きいかも。

 大体、あらすじにある、「次作の題材という名目でエヴァに近づくが」ってあるけど、名目じゃなくて、まさに題材のため、それが目的そのものだったんじゃない? ベルトランは、次作をせっつかれて焦っていて、これはネタに使えそう! と思ったのであって、そら少しはエヴァにセクシャルな魅力を感じたかも知らんが、ただただ次作のネタが出てこないか、それを期待してエヴァに会っていたようにしか、私には見えなかった。

 だから、「官能と破滅の道に向かっていく」なんて、大嘘だろう、と思っちゃう。ベルトランは、盗作した時点で破滅の道を自らまっしぐらに走り始めたのであって、その途中、たまたまエヴァに出会っただけのことだ。ただ、それだけ。

 だから、ベルトランとエヴァの関係はあくまで一方通行であり、それが証拠に、あのラストシーンなのではないか、と思うのだが、、、。

 ……と、文句を一杯書いてきたけど、それは宣伝のキャッチコピーとあらすじの書き方に対してであって、本作自体は、あんまし世間の評価は高くないみたいだけど、私はそこそこ面白かったと思うわ。主演がユペールでなければ、そうは思えなかったかも、だけど。というか、そもそも劇場に見に行っていなかったと思うけど。

  






エヴァが商売しているお屋敷がスゴい!!




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エル・クラン(2015年)

2018-07-01 | 【え】



 以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 1983年アルゼンチン。裕福なプッチオ家は父と母、5人の子どもたちと幸せに暮らしていた。

 ある日、二男が通う学校の友達が誘拐され、姿を消す。以降、金持ちだけを狙った身代金事件が多発し、近所の住民たちが不安な毎日を送っていた。

 そんな中、プッチオ家の主のアルキメデスは、妻の作った夕食をなぜか2階にある鍵のかけられた部屋に運ぶという不審な動きをしていた。

=====ここまで。

 実話が元ネタで、アルゼンチンでは知らない人はいない事件らしい、、、。


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 公開当時、見に行きたかったんだけど行きそびれた本作。まあ、DVD鑑賞で正解だったかな、、、。でも、アルゼンチンでは大ヒットしたらしい。予告編は異様に明るい仕立てだけど、内容は陰惨そのもの。ぎょえ~、、、。


◆ものすごい杜撰な犯行に唖然、、、。

 プッチオ家は、つまり、ほぼ一家総出で身代金目的の誘拐をしていたのです。誘拐に関わらなかったのは、三男のギジェと、二女のアドリアナだけ。実際の事件では、アドリアナも関わっていたっぽいが、よく分からない。

 本作で描かれている誘拐事件は、3件+未遂1件。実際はもっとやっていたのかどうか、それもイマイチ分からないけど、まあ、そんだけやってりゃ十分でしょ。

 この誘拐を主導していたのは、一家の主、アルキメデス・プッチオ。退役軍人らしい。……というか、この話は、アルゼンチンの独裁政治が終焉を迎え、曲がりなりにも民主国家に移行したことが大きな背景にある。つまり、アルキメデスは、軍人としてお役御免になることを見越して、生きる術として“誘拐事業”を思い付いた、ということのようだ。そこで、誘拐を思い付く、ってのがもう尋常じゃないんだけど、まあ、だからこそ全国民が知る事件にもなり、こうして映画にもなったわけだ。

 で、アルキメデスは、長男でラグビーのスター選手であるアレハンドロと共謀し、アレハンドロのチームメイトで金持ちの息子を誘拐し、なんと自宅の2階にあるゲスト用(?)バスルームに監禁する。上記あらすじにある「アルキメデスは、妻の作った夕食をなぜか2階にある鍵のかけられた部屋に運ぶという不審な動き」ってのは、人質に食事を運んでいたってこと。

 そこで人質に自筆の手紙を書かせ、生きている証拠として身代金を巻き上げると、あっさり人質を殺してしまってビックリ。確かに、あんな誘拐の仕方をしたら、生きて返せば絶対にアレハンドロが疑われるわなぁ、、、と思って見てはいたのだが、あそこまであっさり殺してしまうとは思わなかったから、唖然としてしまった。もとより、最初から殺すつもりだったわけだ。

 ほかにも、地声で脅迫電話掛けちゃったり、身代金を堂々と取りに行ったり、、、まあ、大胆というのか、杜撰というのか、こんなんで捕まらないのか? と、日本に暮らす我々は一様に不思議に思うが、これも、軍事独裁政権の名残が濃い社会だからこそ、なのかも知れない。実際、終盤には、アルキメデスの元上司と思しき大佐とかいうオッサンから電話があり「もう庇いきれん」とか言われているシーンがある。つまり、プッチオ家がやっていることはこの大佐によって隠蔽されていた、ってことかしらね。

 とにかく、どれもこれも、荒っぽく人質を拉致してきて、地声で脅迫電話を掛け、大金を巻き上げたら、人質を殺して捨てる、、、というやり方を繰り返していたプッチオ家の人々。本作では、妻(学校の先生!!)や、娘達の関与はあまり描かれていないが、実際はバッチリ関与していたらしい。

 プッチオ家が割と絵に描いたような良き家庭だったから、誘拐事業とのギャップがニュースになったんだろうけど、当時のアルゼンチンでは誘拐はゴマンとあったらしい。


◆卑劣漢アルキメデス

 それにしても、私が本作を見て驚いたのは、家族で誘拐という犯罪を生業にしていたことではない。そんな映画は、他にもたくさんある。

 何が驚いたって、アルキメデスのその人と成りである。中盤までは、家族を守るため(養うための責任感から)の誘拐ビジネスか、と思われたのだが、大間違いだった。このオッサン、もう、トンデモ爺ィなんである。

 どうトンデモかというと、家族のためでも何でもない、ただただ、自分の生きるため、自分の身を守るために、一連のことをやっていたのである。こんな自己チュー爺ィ、あんまり映画でもお目に掛かった記憶がない。犯罪を生業にしている家族の長は、概ね浪花節で、家族のために自己犠牲的な感じが多いという印象があるんだけど、このアルキメデスは違う。

 長男のアレハンドロが、もう誘拐なんかしたくないと、次の計画から抜けると宣言する。で、アレハンドロ抜きで誘拐を実行したところ、見事に失敗する。すると、アルキメデスは、アレハンドロの所に殴り込みに行って、首を窒息寸前まで締め上げて「てめぇのせいで失敗した! 白昼失敗した! 父親に対してなんてことしやがったんだてめぇ!!」みたいな(もっと酷い罵り方で)ことを吠え立てるのである。そこには、父親としての顔などなく、ただただ、自己チューな爺ィの顔があった。

 終盤、遂にプッチオ家は御用となる。アルキメデスは、弁護士や判事に「私はゲリラに脅されてやっただけだ」等と言って飽くまで潔白を主張するが、何しろ地声の脅迫電話やら証拠が満載なので、そんな言い分は認められるはずもない。判事にも「お前が罪を認めれば家族は救える」と言われ、普通のゴッドファーザーならば、一身に罪を被って家族を解放させる、というものだろうが、アルキメデスは違う。

 留置場でのアルキメデスとアレハンドロのシーンが、もうおぞましいというか、不快指数100%。アレハンドロにアルキメデスは「明日の公判では否認する。看守に殴られて仕方なく自供したと言う。殴られた証拠の傷を作るために、お前、オレを殴れ」と言うが、当然アレハンドロは拒む。すると、そこでアルキメデスがアレハンドロに浴びせる言葉が、もう、卑劣極まりないのである。

 言ってみれば、自己保身のためなら、どんな卑劣なことでも平気で実行するのである。息子に恩に着せまくり、脅迫し、思考停止させて、自分の言いなりにさせるためなら手段を選ばない。自分の身が安泰になれば、息子に嘘をつかせようが、さらなる罪を重ねさせようが一蓮托生、構わないのである。

 ……なんか、どっかの国のソーリダイジンを見ているようであった、、、ごーん。

 というか、私の母親そっくりで嫌になった。もちろん、私の母親はこんな大それた犯罪をやらかすことはないが、我が娘を思い通りに支配するため、恩に着せ、脅迫し、思考停止させるというのは、全く同じ手法なのである。だから、アレハンドロが、その後、アルキメデスをボコボコにしてしまった気持ちは痛いほど分かる。そして、恐らくそう仕向けるためのアルキメデスの罵詈雑言であったのだろうことも、また不快指数が上がる要素だ。


◆その他もろもろ

 アルキメデスは、軍の会計士であり、外交官であったようで、きっと頭は非常に良い人なんだと思う。実際、この事件で刑務所に入っている間に弁護士資格を取得し、刑期を終えたら、弁護士として活躍した、ってんだから、、、、ボーゼン、、である。再婚もして、出獄後はそれなりの生活をしていたみたいだ。

 アルキメデスを演じたギレルモ・フランチェラという人は、アルゼンチンのコメディ俳優らしい。このアルキメデス、瞬きをしないのである。ブルーの瞳なんだけど、見開いたような目で、相手や状況をじっと凝視するのが、ものすごく不気味というか、気持ち悪いし、不自然。でも、その演技が、この爺ィのイカれっぷりを表わしていて素晴らしい。

 本作では、長男のアレハンドロは、嫌々アルキメデスに協力していた、という感じだったが、実際には積極的に関わっていた様である。ただ、捕まってから精神的に異常を来したのは事実らしく、それはそれで気の毒ではある。……が、被害者のことを思えば、それも自業自得といったところか。

 アレハンドロに可愛い彼女が出来て結婚しようとして、アレハンドロ自身の人生を送ろうとすると、アルキメデスは「親を捨てるのか!」と息子を締め上げ、牙を剥いた。結局の所、頭は良いが、卑劣極まりない一人の男のせいで、家族みんなが犠牲になったというプッチオ家の悲劇を描いていたのだと思うと、コメディタッチの演出ではあるが、その根底に流れるのは極めて陰惨で、切ないものである。

 アレハンドロは、49歳で亡くなっている。アルキメデスは弁護士になって再婚して長生きしたけれど。








プッチオ家の一員に生まれたことがアレハンドロの悲劇だった。




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エスター(2009年)

2018-04-01 | 【え】



 3人目の赤ちゃんを流産したケイト・コールマン(ベラ・ファーミガ)は、悪夢にうなされる日々。夫のジョン(ピーター・サースガード)はどうしても3人目を欲しがっている様子。2人の間には、息子のダニエル(ジミー・ベネット)と、難聴の娘マックス(アリアーナ・エンジニア)がいたが、3人目の子どもを養子として迎えることを決める。

 孤児院に行ったケイトとジョンは、そこで9歳の少女エスター(イザベル・ファーマン)に出会う。夫婦はエスターを一目で気に入り、エスターを3人目の子どもと決め、家に連れて来る。

 しかし、エスターがやって来てから、家族の雰囲気は悪くなり、良くないことが続けて起きるようになる。そして、エスターも何か様子が変だ、、、。何者なの、この女の子!? ギャ~~ッ!!
 
   
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 前から気になっていた本作。何かジャケットの少女の顔がヤバいんだもの。……とはいえ、全く予備知識はなく見ました。ジャンル的にはホラーになっているけど、蓋を開けてみればサスペンスでございました。


◆なんだ、モンチャイものか……と思ったけれど、、、。

 そもそも、ケイトとジョンの夫婦は、2人の可愛い子どもがいるのに、何でわざわざ3人目を養子に迎えるのか、、、? というのが疑問なんだけど、まあ、その辺は文化の違いってやつかなぁ、、、と。アメリカでは、実子がいても養子を迎える家庭は珍しくないみたいだし。

 で、この夫婦、実は問題が。ケイトは以前アル中だった。で、酔っ払っているときに、娘のマックスが庭の池に落ちて死にかけたという事故があって、それがきっかけとなってケイトはアル中から脱したらしい。夫のジョンは、10年も前のことだけれども不倫をしていて、それが2年前にケイトにバレたんだとか。夫婦ともども脛に傷持つ身だけれど、何とか夫婦再構築を図っているところへ、ケイトの流産が起きた、、、ということみたい。

 それにしても、、、。この夫婦はあらゆる場面において非常に軽率で唖然となる。その最たるものが、エスターを養子に決める場面。孤児院で一目惚れ、、、は、まあイイにしても、エスターの過去には不幸が多いと分かっても、そのことをよく調べもせずに(孤児院の院長も詳細を把握していない様子)、「でも良い子そうだから! 可愛いから!」という短絡的な理由であっさり決めてしまう。

 ……とはいっても、仮に夫婦がもっと慎重に時間を掛けてエスターを観察したとしても、エスターの方がよっぽど賢いから、この夫婦をだまくらかして養子になることくらいはお茶の子さいさいだったろうな、とも思うが。

 中盤までは、モンチャイ(モンスター・チャイルドの略)ものかと思って見ていたんだけど、それにしたって、エスターの悪知恵の働かせぶりは子どもにしてはえげつなさ過ぎるよなぁ、、、と感じていた。車のギアをバックに入れてアクセル押して車を暴走させるなんて、ちょっと9歳のガキンチョが出来ることじゃないだろ、、、と。

 とにかく、普通、モンチャイものって『少年は残酷な弓を射る』みたいに不条理感炸裂で、親に同情しやすいんだけど、本作の場合、夫婦がマヌケ過ぎ(特に夫)なんで、不条理感より、イライラが募る。まあ、エスターを活躍させるためには、エスターを庇う存在(=夫)がいなきゃいけないのは分かるが、実子の言うことよりも、昨日来たどこのウマの骨とも知れないこまっしゃくれた娘の言うことを安易に信じる父親なんて、それだけで地獄行きだろ、、、(と思って見ていたら、ホントに地獄行きになる!)。

 そして、終盤に至り、本作はモンチャイものではないことが明らかになるのであった、、、ごーん。


◆エスターって何者??

 さて、ここからはネタバレですので、未見の方はご注意を。

 それでは、見出しの疑問について。

 そう、エスターはモンチャイなんぞではありません。立派な“大人のオンナ”だったんであります。どういうことか。

 つまり、エスターは病気(下垂体機能不全)で、身体の成長が止まってしまった。だから、外見的には9歳に見えるけれども、実際は、33歳の大人なのである、ということ。

 彼女の不幸な過去は、子どもの外見で大人の男を誘惑し、振られた腹いせに殺人を犯して来たことによるものだった、、、。

 ううむ、、、このオチには参りました。ゼンゼン想像していなかった。オカルト系に展開するのかと思っていたら、極めてロジカルな展開になっていくではないか。実際に下垂体機能不全というのは難病指定されているようで、エスターみたいになるのかどうかはともかく、彼女をただのエスパーではなく難病を抱えた哀しい背景があったという設定は、好感が持てる。

 このオチにつなげるために、上手く伏線が仕掛けられており、見終わって“なるほど、、、”となるのがニクい。伏線の一つは、エスターが決して歯医者に行きたがらないこと。そら行けないわな、33歳が9歳に化けてたんじゃ、、、とかね。他にもあるけどそれは見てのお楽しみ。

 そして、33歳の正体を現したエスターがこれまた怖い。特殊メイクで一気に老けたエスターが狂気を纏ってケイトに襲い掛かってくるわけ。ちなみに、地獄行きだと思っていたジョンは、エスターに滅多刺しにされて呆気なく絶命する。正直、ジョンのこと、ゼンゼン可哀想と思えなかった。

 エスターに焼き殺されそうになったダニエルは、多分助かったのだと思うが、最後までダニエルが元気になった姿は出てこなかったので、この辺は分からない。

 いずれにしても、なかなかよく出来たホラー・サスペンスだと思う。


◆その他もろもろ

 母親のケイト役が、またベラ・ファーミガか、、、とちょっと笑ってしまった。というのも、彼女は『ジョシュア 悪を呼ぶ少年』でもモンチャイの母親役を演じており、『ジョシュア~』のラストがどうなったかは忘れてしまったけれど、とにかく、彼女が演じていた母親が不安定すぎて、こんな母親じゃ、そら子どもはモンチャイにもなるわな、、、というような話だった気がする。

 『ジョシュア~』の母親役のイメージが結構強かったから、彼女はモンチャイもの専門か? なんて思ってしまった。『ジョシュア~』が2007年の制作だから、その2年後に本作ということか、、、。しかも2008年には『縞模様のパジャマの少年』を撮っている。こちらでも母親役で、しかもちょっとマヌケなおかーさんだった記憶がある。なんだかなぁ、、、。たまたま続いただけだろうけど、奇遇だね。

 しかし、本作は、なんと言っても子役2人の演技に尽きる。

 1人は、難聴の娘マックスを演じたアリアーナ・エンジニアちゃん。まあ、とにかく可愛らしい。喋れない役だから難しかっただろうに、実に表現豊かに演じていて素晴らしい。きっと演出が良いんだね。それは、エスターを演じたイザベル・ファーマンを見れば分かる。

 もちろん、もう1人は、そのイザベル・ファーマンなんだが、大人顔負けの下ネタを口にしたり、ジョンを誘惑したり、、、という子どもが演じるにはいささか無理がありそうなシーンも非常に不気味に演じていて圧巻。素のときの画像を見ると、ホントにフツーっぽい少女だけれど、それだけにこの変貌ぶりに瞠目である。その後、あまり出演作に恵まれていない様だけど、頑張って欲しいものです。
 








ベラ・ファーミガはモンチャイのママ役専門か!?




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エル ELLE(2016年)

2017-09-03 | 【え】




以下、公式サイトよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 新鋭ゲーム会社の社長を務めるミシェルは、一人暮らしの瀟洒な自宅で覆面の男に襲われる。

 その後も、送り主不明の嫌がらせのメールが届き、誰かが留守中に侵入した形跡が残される。自分の生活リズムを把握しているかのような犯行に、周囲を怪しむミシェル。父親にまつわる過去の衝撃的な事件から、警察に関わりたくない彼女は、自ら犯人を探し始める。

 だが、次第に明かされていくのは、事件の真相よりも恐ろしいミシェルの本性だった──。
 
=====ここまで。

 ミシェルが怖ろしいと思わなかった私は、怖ろしいオンナなんでしょーか???


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 ヴァーホーヴェン&ユペールと聞いただけで、一体どんな映画? と、映画好きならイヤでも興味津々になりますわね。

 公開翌日の初回に行ったのだけど、ほぼ満席、その次の回は満席札止めになっていた。観客は、思ったよりもゼンゼン男性が多く、しかもオジサンが多い。若い人もいたけど少数派。きっと、ヴァーホーヴェン好きか、ユペール好きな人たちが見に来ていたんだろうなぁ。私も、ユペール主演じゃなければ見なかったと思うし。

 ヴァーホーヴェン監督作は、『氷の微笑』『インビジブル』をTVでながら見したくらいで、マトモに見たことないんだけど、イメージ(というか先入観)はあって、おまけに、さんざん前評判で“ユペール演ずる女は狂っている”と聞かされていたので、見終わった時の率直な感想は、“ミシェル、狂ってなんかないやん、、、”だったんだけど。

 とはいえ、ガッカリしたのではなく、息つく間もなくスクリーンに釘付けで面白かった!!
 

◆映画にポリティカルコレクトネスを求めるバカ

 本作を見に行く前日、某全国紙の夕刊にヴァーホーヴェンのインタビューが載っていたのね。そこに、本作はレイプを肯定するかのようなものだという批判があることについて「ポリティカルコレクトネスは気にならないのか?」という問いに対し、ヴァーホーヴェンはこう答えている。

 「気にしたことは今まで一度もない。芸術家は自分の頭に浮かんだイメージを信じねばならない。ポリティカルコレクトネスのフィルターを通すことは、自らを検閲するようなもの。当たるかどうかを気にするのと同じくらい、自作の価値を下げる」

 これを読んで、私は、ヴァーホーヴェンへの尊敬の念がググッと湧いたと同時に、大分前に、なかにし礼が、(記憶が定かじゃないけど、確か)創造とは「公序良俗に泥を塗ることだ」と言っていたのを思い出した。

 映画にポリティカルコレクトネスを求めること自体が噴飯モノという気がする。もちろん、レイプは描きようによっては非常に不快極まりないものになる(例えば、邦画『重力ピエロ』とか)のだが、本作が別に“レイプを肯定している”ようには、私には見えなかったし、本作の主眼はそんなところにはゼンゼンないと思った。

 こういう作品を見て、「レイプを肯定しているのか?」と問うメディアは絶対的に存在するが、正直言って、頭が悪いと思う。それを言うなら、『重力ピエロ』の方がよほど肯定しているだろうよ、と思う。ああいう、表面的には家族愛を描いた作品には、そういう問題を見いだせないくせに、本作みたいな露骨な描写だと安易にポリティカルコレクトネスを口にする。

 ハネケの映画を、暴力的だから嫌い、という映画記者がいるとする。嫌い、というのは構わない。その人の好みに合わないのだから。しかし、もし、その人が、暴力的な映画だから暴力を肯定していてけしからん、と言うのであれば、それは勘違いも甚だしい、ということになる。その違いを、映画をネタに飯を食っている記者でありながら履き違えているというのは、やっぱり気が狂っているとしか思えない。

 本作は、だから、ゼンゼン「無問題」なのである。


◆レイプか、プレイか。

 と、前置きが長くなったけれども、冒頭のあらすじにあるように、ミシェルはそんなに恐ろしい本性の持ち主だろうか、、、? 自分を襲った男と、自分が好意を抱いていた男が、同一人物だった、、、という場合。そこでどんな反応を示すかは、ハッキリ言って人による。だから、ミシェルのような行動を取ったからと言って、別に恐ろしいとは思わない。

 自分だったらどうかなぁ、、、と考えてみた。それまでなんとも思っていなかった男に、レイプされたことをきっかけに好意を抱く、ということはあり得ないと断言できる。けれども、ミシェルの様に彼の姿を見て自慰行為にまで及ぶほど“寝たい”と思っていた男性ならば、ショックはショックだろうが、それでその男をいきなり嫌悪し即座に大嫌いになるということもないのではないか。 ……なんてことを書くと、またぞろ、レイプを肯定しているのか、と言われるんだろうねぇ。

 そうじゃなくて、混乱する、ってこと。冷静を装っていたけど、ミシェルも混乱したのだと思う。ましてや、その男は、暴力プレイでないと起たないことが分かり、ミシェルとしては複雑だったんじゃないかね。だったら、そういう“プレイ”もアリなのか?? みたいなね。でも、やっぱり、レイプはただの暴力であり、相手の人格無視の身勝手な犯罪なわけで、一周回ってようやく冷静に思考が定まったところで、あの結末なんだろうと思う。

 混乱を整理するためには、行動まで取り乱してはダメなのよ。行動を制御することで、思考も落ち着いてくる、冷静になってくる。ミシェルは、壮絶な過去(父親の大量殺人)を経験しているだけに、そういうことも分かっているのだ、きっと。


◆ミシェルの恐ろしい本性って……??

 ミシェルを恐ろしいとは思わないが、厄介な人であることは間違いない。母親としても、娘としても、家族を支配したがる。元夫の恋人のことも、すぐにチェックする。親友の夫と平気で寝る。こんな人、身近にいて欲しくないわぁ。

 ただ、本作では、ミシェルがどうやって凄惨な過去を乗り越えて現在までに至ったのかが、一切描かれていない。普通に考えれば、あんな父親がいれば、その後の人生苦難の連続、到底、社長になんかなれそうもないという気がする。一体、ミシェルはどうやって修羅場をくぐり抜けてきたのか。彼女の母親も、良い家に住み、かなりの財産を持っている様に見える。大量殺人者の家族の未来としては、あまりにも恵まれすぎているのではないか。

 でも、それが本作のミソだと思う。そこを敢えて描かない。見ている者に疑問に思わせ、彼女の人格形成を想像させる。彼女の強さの理由がそこにある、ということだ。ミシェルが、自宅で開いたパーティで、パトリックに自身の過去を話すシーンなんかは、ほとんどブラックコメディである。もちろん、ここではまだ、パトリックがレイプ犯だとは知らなかったわけだけど。

 前評判では、ミシェルがレイプ犯に復讐する、みたいなことが言われていたけれど、果たしてそうなのか? まるで、ミシェルが計画的かつ計算ずくで動いているかのような宣伝だったけど、むしろ、私には全てが成り行きの結果ではないかと思われた。

 “罠を仕掛けた”とか、“彼女こそが、犯人よりも遥かに危ない存在”とか、そうかなぁ?? ミシェルは犯人捜しをしたし、パトリックとプレイもしたし、その後はパトリックをおびき出すかの様に関係を終わらせ警察に話すと宣言したけれど、別に、罠を仕掛けたというほどのこともなく、犯人よりも危ない存在でもないと思う。ミシェルは、本能と葛藤しながらとりあえず理性を優先させたけれど、計画的に仕組んだ行動は何一つなく、ただただ成り行きに対処した結果がああなった、ということだと思うのだけれど、どうだろうか、、、?

 それに、とかくレイプされたことに焦点が当たりがちだけれど、本作は、むしろ、ミシェルと彼女をとりまく人間関係を描いた、映画としては割と真っ当なものだとも思う。家族にイロイロ問題を抱え、仕事でも敵が多く問題を抱え、その他の人間関係もイロイロあって、、、っていうオハナシじゃない? これだけちょっとぶっ飛んだ人間関係を抱えている人は珍しいのかも知れないけど、人間なんて複雑なもので、決して綺麗事じゃすまない、人には見せられない様なビックリなことは誰にでも絶対にある。それをためらうことなく描いちゃったのが本作なのだと思うのだけど?

 パンフには、解説者が、本作のことを「モラルハザードを描いた作品」と書いていたが、申し訳ないけどそれには首肯しかねる。人間なんて、そもそもがモラルハザードなのだよ、と思うから。


◆その他もろもろ

 それにしても、ユペールは美しいなぁ。どうしたらこんな風に素敵に歳を取れるのか。仕事を続けているから、ってだけじゃないだろう。かといって、別にムリしてアンチエイジングなどしているようにはゼンゼン見えないし。自然体でありながら美しく歳を重ねる、、、、なかなかできることじゃないような気がする。

 本作の主演を、ハリウッドの大物女優にオファーしたけど蹴られたというのは有名な話らしいが、その中には、オスカー女優もいたそうな。そんなに非道徳的な映画だろうか、これ、、、。もちろん、インモラルには違いないけど、くどいようだけど、映画ってそもそもそういうもんなわけで。

 息子役のジョナ・ブロケが可愛かった。ちょっとバカっぽい男をうまく演じていたと思う。その妻を演じていたアリス・イザーズは、いかにもビッチな感じで、どっちかというとハリウッド系女優っぽい感じ。でも凄く可愛い。ミシェルの元夫・リシャール役のシャルル・ベルリンクがなかなか渋くてカッコ良かった。

 親友を演じたアンヌ・コンシニも素敵だったなぁ。ミシェルと、過去に同性愛の関係になりそうになった、、、みたいな描写もあり、ラストシーンはミシェルと不倫していた夫と別れたと、ミシェルに笑顔で報告している辺りが、いかにもおフランスな感じ。アメリカ映画じゃあり得ない。

 エンドクレジットが流れ始めると同時に席を立つ人が多かったのが印象的だった。しかも、オジサンたちね。これ、確かに、男性と女性では受け止め方が違いそうな気がする作品だよなぁ。

 ユペールは、本作を「現実として受け止めるべき物語ではない。ファンタジーとしてとらえるべき」と、そして、自身のことを「ポスト・フェミニスト(新世代のフェミニスト)」と言っている。まあ、ファンタジーかどうかは分からないけど、フェミニストを自称する人たちにこそ、見ていただきたい作品であることは間違いない。コレを見て、怒り出す様な人は、ある意味、プレ・フェミニストなのかもね。







ミシェルの住む家が素敵




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江戸川乱歩の陰獣(1977年)

2015-03-23 | 【え】



 博物館で見かけた美女・小山田静子と、偶然、街中で再会した探偵小説家・寒川は、静子から深刻な相談を受けることに。それは、寒川が軽蔑している同業の探偵小説家・大江春泥なる男に静子が脅迫されている、というものだった。

 静子にイカレてしまった寒川は、一件を解決すると請け合うが、、、、。

 江戸川乱歩の「陰獣」原作の映画化。ま、雰囲気は良いんじゃないかしらん。
  

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 原作は何度か読んでいるけれども、最後に読んだのは一体いつか思い出せないほど遠い昔で、当然、話の内容も漠然としか記憶にない・・・。そこで、数年前(いや10年以上前か)光文社が凄い頑張って出した「江戸川乱歩全集」の第3巻「陰獣」(この巻の初版は2005年でした)を引っ張り出してきて読んでみようと思ったんだけれど、そう、この全集には、著者による自作解説ってのが、しかもあちこちに掲載されたものをできるだけかき集めて載せてくれていて、そっちを読んでみました。

 乱歩自身は、大江春泥が自分、寒川は、甲賀三郎をモデルにしたらしい。そこで乱歩が面白いのは、自分が女だったらどうなんだ? という発想でもってこの話を展開させたところですね。静子と寒川の濃厚絡みシーンもある本作、乱歩自身、自作解説で別に甲賀三郎に同性愛など感じたことはない、と、くどくど書いております。まあ、乱歩にゲイの気はないと、私は思っているけれど、こればっかりはねぇ、分かりません。どっちでも良いし。

 でもって、本作ですが、原作のどことなく妖しい感じというのは、まあまあ出ているのではないでしょうか。雰囲気はなかなかです。静子を演じる香山美子は、当然ながら素晴らしい美女な上、匂い立つような色気。ありゃ、寒川じゃなくても男ならちょっとクラッと来るでしょう。

 割と、原作に忠実に作られているっぽいですが、後半は倒錯世界が全開です。前半、かろうじて保っていた品性のバランスが、雨の降る中、寒川が大江春泥の正体を推理し静子に聴かせるシーン以降、一気に雰囲気が変わり、倒錯というか、はじけちゃった感じですね。ま、私はこういうの大好物なんで、十分楽しみましたけれど。

 香山さん演じる静子も、最初は遠慮がちに寒川と絡んでいるのですが、後半はもう、まさしくSMショーで。官能的なんかでは全くなく、香山さんの色気も吹っ飛び、もうただ苦笑するしかないというか、、、。ま、原作の静子がそういうキャラなんですが。ある意味、香山さんだから見れる作品に仕上がったのだとも感じます。色気はあるけれど、あんまし生々しくない、というかね。裸体も凄くキレイではあるけれど、そんなにグラマーでもないし。

 あおい輝彦がね、ちょっと香山さんに対しては力量不足ですね。完全に負けています。若いのでそれなりにカッコイイですが、、、。どうも知性と色気が足りん。

 ま、乱歩好きとしては、映像化された乱歩作品ってのは、正直、見るのが勇気いるんですよね。昔、土曜ワイド劇場でやっていた「美女シリーズ」くらいぶっ飛んでくれていれば、見ている方も割り切れるので、それはそれで面白いんですが、ヘンに狙った映画とか、もういたたまれなくて見てらんない、って作品、ありますもんね。あとは、ただただ下劣なグロとかね。どれとは書きませんが。

 乱歩の作品は、探偵小説(推理小説)なのに結構、穴が多くて、読み終わって釈然としないものは少なくないし、「陰獣」も原作は確かそうだったと思うけれども、本作でももちろん、野際陽子は何だったんだよ、とか、小山田六郎の死体をどうやって運んだんだよ、とか、粗がありまくりですけれども、まあ、そんなことどーでもいいよね、この作品はさ! と思えるのが、乱歩モノの特徴もあります。

 とかグダグダ書いていたら「美女シリーズ」を見たくなってきてしまった。「氷柱の美女」だけは、数年前に再見したんだけれども、子どもの頃テレビで見た時は結構怖かったのに、大人になってみると、いや~、さすが土ワイです。よくぞやってくれました、と拍手を送りたい気持ちになりました。他の作品も、親には見るなと言われながらも盗み見していたので結構記憶にありまして、是非、再見してみたいものです。ツタヤで借りられるみたいだから、見てみよう!




倒錯世界の描写は、50点くらいかなぁ。
でも、美しい香山さんは一見の価値あり。




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エル・トポ(1970年)

2014-08-18 | 【え】



 公開中の『リアリティのダンス』を見たいなぁ、と思っているんだけど、もうすぐ終映しちゃうなぁ、、、。でも、多分、ギンレイにかかるだろう、てか、今ならまだ見られるんだけどなぁ、、、。

 と、見に行く前に、ホドロフスキー作品を一つくらい見ておこう、と思って、・・・まあ、やっぱりコレかな、と。

 うーむ、見ている間中、パゾリーニの名前が頭に浮かんでしまった。なんか似ている、、、というか、かなり影響受けているんだろうな、きっと。冒頭、いきなり、素っ裸の男の子が出てきて、なんかもう、これでヤラレたぁ~、って感じ。子連れ狼みたいなノリなのに、急にその男の子を捨ててしまうんだからビックリ。「父は死んだ、一人で生きろ」ってさぁ、、、なんちゅういきなりな展開!!

 しかし・・・、虐殺、略奪、騙し、レズ、ホモ、異形 タブー、、、、何でもござれで、前半と後半ではガラリと雰囲気も変わってしまう。磔刑にされたイエスの化身みたいな終わり方の前半に続く後半は、フリークスたちの神を気取って穴掘ったりしてるんだけど、結局全部裏目に出ちゃって、神になんかなれる訳もなく。おまけに、捨てっぱなしだと思っていた息子が現れ(ってことだと思うんだけど)・・・。

 まあ、『リアリティのダンス』もホドロフスキーの自伝的な父子の物語、とあったので、この素っ裸で捨てられちゃう息子と、身勝手な父親は、彼自身の人生の投影なんだろうな、ということは容易に想像がつく。

 ただ、私は、最初から何だか好奇心を鷲掴みにされて、そのままラストまで勢いで行っちゃったクチで、正直、ヒジョーに面白かったです、ハイ。もの凄く宗教色が強いので、本来、私はちょっとダメな方かなとも思うのですが、それを凌駕する、ホドロフスキーのぶっ飛び創造力に、ヤラれました、、、、。何なんだ、この人、、、。

 シュヴァンクマイエルが、相撲の番付よろしく、変態映画番付でいうとすれば東の横綱「哲学編」てところで、ホドロフスキーは西の横綱「宗教編」てな感じじゃないでしょうか。、、、違う? そうねぇ、変態哲学映画なんて、シュヴァンクマイエルくらいしか撮ってない気もするけれど、宗教映画の変態度の強いのは他にも一杯ありそうだもんね・・・。グリーナウェイとかもそう? 彼のは宗教色ってのとはちょっと違うか、、、。パゾリーニの方がやっぱし変態度強いかな・・・。まあ、ここまでくると後は見る人の感覚次第ですけれど。

 やっぱし、『リアリティのダンス』見なくては!!

変態映画番付・西の横綱「宗教編」
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