映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

女相続人(1949年)

2016-09-27 | 【お】



 19世紀半ばのNY。医師で財産持ちの男オースティン・スローパー(ラルフ・リチャードソン)と、適齢期(死語?)を過ぎた一人娘キャサリン(オリヴィア・デ・ハヴィランド)が高級住宅街の豪邸に2人で暮らしている。そんな地味で晩稲な娘が、イケメンだが文無し無職の男モリス・タウンゼンド(モンゴメリー・クリフト)と恋に落ち、、、。

 ま、トーゼン、お父さんはモリスが財産狙いのだめんずだと考えて娘の恋路を阻み、キャサリンは相続権を失ってでもモリスと結婚しようとすると、モリスは駆け落ちの約束をすっぽかすわけですが、、、。

 この映画はそんなストーリーからは想像もつかない衝撃的な映画です。見終わって、もの凄い余韻。ワイラー監督、恐るべし。


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 ちょっと、今回の感想は長くなります。

 またまた、何でこのDVDをリストに入れたのかまったく記憶になく、送られてきたので見てみたのですが、、、、これは、衝撃大です。


◆ウィリアム・ワイラー監督作品と言えば、、、

 ウィリアム・ワイラー監督の映画というと、私には『ローマの休日』でも『ベン・ハー』でもなく、圧倒的に『コレクター』なんですよねぇ。そもそも、名画の誉れ高い前者2作は、恥ずかしながらちゃんと見たことないもので、、、。『嵐ケ丘』は見たはずなんだけれども、記憶にない、、、がーん。

 というわけで、どうして本作を見ようと思ったのかは思い出せませんが、よくぞリストに入れたものだと自分を褒めたいですね。

 もとは戯曲だそうで。なるほど、、、という気がします。印象的なセリフが多かったので、紹介がてら、、、。


◆最悪な父親

 ま、本作をそこまで秀逸なものにした最大の要素は、父娘の関係の描き方でしょう。一見、仲の良い父娘。人格者の医師で、一人娘を慈しみ、使用人からも慕われるジェントルマンな父。そして、そんな父を尊敬し、逆らうことを知らずにひたすら従順な娘。

 でも実は、この父親は心の中では娘をまったく認めていない。蔑んですらいるのです。娘と共に出席したパーティ会場で、父親はキャサリンがダンスをしている最中、親類の女性にこんなことを言っています。

 「娘は名門の学校を出た。音楽や踊りの習い事も、寝る前には社会の常識も教えてきた。のびのびと育てたがご覧のとおりだ。平凡で世間知らずの娘になってしまった」

 我が娘に対する言葉として、これだけでも怒髪天なんですが、親類の女性の「彼女に失礼だわ。期待し過ぎよ」という諫言に対し、さらに侮辱の上塗りをします。

 父「あの娘の母親を(知ってるだろう)? 気品があり、しかも明るかった。彼女の娘なのに、、、」
 女性「母親と娘を比べてはいけないわ。亡くなった奥さんを美化しすぎているわ」
 父「それは言わんでくれ。死んで初めて分かった。彼女の大切さが、、、」

 ……どーです、この会話。この父親のキャサリンを語る言葉の数々。これだけでもう、父親は地獄行きです。ま、実際、彼はこの後、地獄を見るのですが。

 恐らくこの男は、生前の妻も、心から愛して大切にしてはいなかったと思いますね。死んで初めて分かった、なんて、亡き妻からすれば噴飯ものなセリフなわけで。私が亡き妻だったら、呆れてモノが言えないと思うなぁ。そんなふうに勝手に美化して思い出してばかりいるより、現実に我が娘を全力で愛して、娘の幸せのために犠牲になってくれる夫の姿を空の上から眺めたいものです。

 それに、いくら表面的に良い父親を装っていても、いざとなると本性が牙を剥くのです。モリスとの結婚を貫こうとするキャサリンに対し、こんな暴言を吐きます。

 「今まで黙っていたが真実を教えてやろう。(モリスの目的はキャサリン自身ではなく)財産だ、それしかない。信じたくないだろうが、お前は昔から取り柄のない娘だった。唯一の例外は、刺繍ができることだ」

 つまり、モリスのようなモテ男が、お前なんかに惚れるわけねーだろ、このブス!! と言ったも同然な訳です。……この暴言により、キャサリンの父親への信頼は見るも無残に砕け散りました。

 このセリフは、その表面的な意味ではソフトに聞こえるかも知れませんが、その核心は、「初めて言うが、今までずっと親の私はそういうふうに娘であるお前のことを認定してきた。それだけの人間でしかなく、だからお前の考えも判断も到底信用も出来なければ尊重する意味がない」というものであり、まさに、娘への死刑宣告なのです。

 大げさな、、、とお思いのあなた。あなたは人の親ですか? であれば、大げさだと思わない方が良い。

 こういう人格を根こそぎ否定するような侮辱の言葉を、赤の他人ではなく、実の親に言われるということが、子どもの心にどれほどの衝撃を与えるか、世界中の親という存在は覚悟した方がよい。

 この父親のさらに悪質なところは3点あります。

 1つ目は、今までは理解あるよき父親を演じて来たこと。腹の中では亡き妻と比較しては蔑んでいたのに、表面を取り繕って25年もキャサリンを欺いてきたのです。

 2つ目は、結局自分が一番大事な人であること。なんだかんだ言っても、結婚に反対したのはモリスに自分が築いた財産を食いつぶされるのがイヤだからです。娘が相続した遺産は娘のものだと思えない。もの凄く自己チューな上に、強欲です。

 3つ目は、自覚がないこと。亡き妻が素晴らしかったのに、こんな娘で、、、と彼は思っている。しかし、キャサリンは、その亡き妻と自分の間に出来た子であり、亡き妻の良い所に似ても似つかぬのであれば、そのダメダメ要素は自分が授けたものであるはずだ、ということに思いが至らない。自分がどんだけ素晴らしい男だと思っているのか。傲慢甚だしい。

 こんな父親が側にいては、キャサリンに訪れようとする幸せも逃げて行ってしまうのは、むしろ自明の理であります。なんと罪深い父親。

 しかし、この父親の一番の罪は、今まで書いてきたものではありません。一番の罪、それは、キャサリンを“完全な人間不信”にしてしまったことです。

 山岸凉子の作品に『天人唐草』というのがありますが、あれと話はちょっと違いますが、似ていると思いました。あの主人公、岡村響子の行き着いた先よりは、キャサリンの方がまだマシかも知れません。キャサリンはどこの誰とも分からない男にレイプされてもいないし、少なくとも一生喰うに困らない財産と、心は凍りついても正気な頭はありますので、、、。


◆キャサリンの変貌ぶりが見もの

 本作の見どころは中盤以降。もちろん、そのための序盤なのですが、序盤~中盤にかけてのキャサリンのダサさ、従順さ、素直さ、そういうものが後半、モノの見事に、それこそオセロの白を一気に黒に裏返すがごとく反転していきます。美しく垢抜けたキャサリン、しかし、性格は冷たく、頑なに、、、。

 終盤、モリスが、5年ぶりにキャサリンを訪ねてくるシーン。叔母のラヴィニアが何とかキャサリンに女性としての幸せを味わってほしいと、2人をとりもとうとします。言い訳がましい上に、白々しいセリフを吐くモリスですが、キャサリンはその夜、結婚しようと約束し、彼の気持ちを受け入れるかに見せて、一旦、モリスを帰します。が、しかし、キャサリンはその後、ラヴィニアにこんなことを言うのです。

「彼はまた現れた。同じ嘘を並べながら、さらに強欲になって。初めは財産だけだったのに、今は、愛まで欲しがっている。来るべきでない家に2度も訪れるとは。3度目は許さない」

 ショックを受けるラヴィニアをよそに、おめおめと再び現れたモリスを完全に拒絶するキャサリン。外で戸を激しく叩くモリスの横顔に被るエンドマーク。

 でも、思うに、キャサリンはまだモリスのこと、好きなのです。それは、キャサリンの微妙な表情に現れている気がします。私がキャサリンなら、たとえ嘘だと分かっていても、モリスと結婚しちゃうなぁ。だって好きなんだもん。好きな男があそこまで言ってくれるのです、嘘でも。

 灯りを手に、玄関の戸をモリスが打ち鳴らす音を聞きながら、決然と階段を上がって行くキャサリンは、なにかこう、、、荘厳でさえありました。そして、哀しい。とても。復讐は果たしたかも知れないが、キャサリンの心はこれでもう、一生閉ざされたままの可能性が高いのですから。

 この一連の終盤のシーンについて、ネットの感想など見ると、“女はコワい”みたいのがチラホラありました。コワいと書いているのは大抵男性の様でしたけれど、コワいってどこが? 本当に怖いのは、何度も言うけど、父親ですよ、本作では。

 娘が生まれてこの方、ずーーーっと、腹の底ではバカにし続けてきた、娘を欺き続けてきた父親。ああ、やっぱり『天人唐草』の父親と同じに思えます、私には。


◆モリスは本当に財産“だけ”が目的だったのか。

 さて、本作のもう一つの主眼は、果たしてモリスは本当にキャサリンを愛していたのか、ですが、、、。まあ、これは本作の中では意図的に曖昧にされています。見る人によって受けとめも違う、、、というか、まあ、大抵は財産目当てに軍配ですよね。

 でも、父親があそこまで決め付けなかったら、、、? 見る人の見方も変わるのでは。私は、ロミジュリの変型版という解釈もアリだと思うのです。

 親に反対される結婚だけれど、当人たちの気持ちだけは確かである。少なくとも今は。1点の曇りもない(つまり財産度外視ではない)、、、わけじゃないけれど、でも愛していることは間違いない。そういうのだってアリでしょう。純粋に、無一文でも愛さえあれば、ってのじゃなければ愛ではない、なんて決め付けすぎない方が、案外幸せなんじゃないでしょうか。

 同じ山岸凉子の作品に『ブルー・ロージズ』というのがありますが、これはキャサリンのように引っ込み思案で晩稲な女性がある男性と恋愛関係になるんだけれど、相手は元カノと復縁してしまい、、、。結果は別れとなるけれど、でも、女性は、恋愛経験を通して、一人の男性に愛されたことで自信を得ます。「自信とは愛情だった。……自分を愛せるということは、ひとをも愛せるということなのだ」という女性の心の声のセリフが印象的です。

 キャサリンがどこか自信なさげで、凡庸に見えたのは、父親に愛されていなかったから。ルックスが人並みでも、キラキラしている人って、普通にいるじゃないですか。キャサリンも、序盤でパーティの支度をしながらラヴィニアと交わす会話はユーモアもあり、決して気の利かない凡庸な娘ではありません。そしてもし、モリスの愛を知ったら、、、。キャサリンは、その後モリスと破綻しても、人間不信などにはならず、また誰かを愛することが出来る人間になれたはず。


◆その他もろもろ

 オリヴィア・デ・ハヴィランドは本作でオスカーを受賞しているそうですが、なるほどの演技です。前半と後半の明暗の素晴らしさ。前半の野暮ったさと言ったら、、、もう、娘というより“オバサン”に近い。モリスに恋してからは、オバサンぽいままだけれど、恋の悦びを全身にまとって素晴らしい。可愛く見えるんですもん。モリスにすっぽかされた後、ガックリと、自室への階段を上がるときの、あの暗い階段が聳え立つシーンが、何ともいえず切なく哀しいです。

 モリスを演じたモンゴメリー・クリフトは、私的には好みじゃないけど、なるほどイケメンです。リズの恋人でもあったとか。モンティ自身はバイセクシャルだったそうですが、確かに、これは男にも女にもモテそう、、、。

 そして、悪し様に罵って来た父親を演じたラルフ・リチャードソンは名演ですね。最期、娘にも看取られない憐れな父親役ですけれど、顔には知性も品性もあって、ちょっと意地悪そうで、ぴったりのハマリ役。






原作(ヘンリー・ジェイムズ著『ワシントン広場』)を読んでみたくなりました。




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ナイトクローラー(2014年)

2016-09-21 | 【な】



 コソ泥して盗品の金属を売りさばいてどうにか生活していたルイス(ルー)・ブルーム(ジェイク・ギレンホール)は、たまたま事故現場でパパラッチの仕事ぶりを見かけ、興味を持つ。見よう見まねで、自分もパパラッチ稼業を始めたところ、どうやら性に合っているのか、撮った映像を地元のマイナーTV局が思いの外良い値で買ってくれた。

 これに味を占めたルーは、真正パパラッチに変貌していく。犯罪スレスレのことも平気で行い、いかに衝撃的な映像を撮るかに心血を注ぐようになる。

 ある日、決定的な大スクープになると確信するネタを掴んだルーは、超スクープ映像を撮影するべく、夜陰に紛れて立ち回るのだが、、、。

 ジェイク・ギレンホールが痩せすぎでコワいけど、面白い。傑作!


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 昨年、劇場に行きそびれました。やっとこさDVD鑑賞にこぎ着けました。


◆ルー君は、まさに、、、

 まあ、客観的に見たら、ホントにもうゴキブリ(以下「G」)みたいなルー君なんですけれども、ここまで突き抜けたG野郎は、むしろアッパレだとさえ思いますね。

 Gに良心だとかモラルだとか、そんなもんあるわけない。万人に嫌われようが疎まれようが、ただただ己の欲望を満たすために行動あるのみ。手段選ばず。これぞ、Gの真骨頂でしょう。いつもはコソコソ人目を忍んで暗闇を這い回っているけど、見つかったらば一転、対象物の真正面に羽音を立てて飛んで向かって行く。何者もが避けて通りそうな腐敗臭漂うモノでも物ともせずにかっ喰らう、、、。

 まさにGの生態そのものじゃありませんか、ルー君。


◆最初からイッちゃってるルー君。

 登場シーンのジェイク・ギレンホールの顔が、もう既にヤバい。こんな人、街中歩いていたらコワい。一目で危ない人って分かる人、そうそういないけど、ルー君はそれ。目がギラギラ、笑った顔は口が耳まで裂けている。ギャ~~~、口裂け男ぉ~~!!

 ルー君の生い立ちが気になるところだけれど、そういうのは一切描写無し。まあ、推して知るべしですけどね。

 彼の部屋がまた、何とも言えない。わびしい部屋なんだけれど、小ぎれいにしていて、実際、ルー君、結構きれい好きっぽい。助手のリックがガソリンをちょっと車体に着けただけで「塗装が剥げる! 今度こんなことしたら殺してやる(クビにしてやる、、、だったかも?)」とか言うんです。なんか、こういうところが、ルー君の歪みを見事に表していて秀逸。

 あと、自分を売り込むことにはもの凄い饒舌になるルー君。盗んだ金属を売りに行った社長に、「志が高くて覚えも早いです(だから雇ってくれ)」とかベラベラ喋る喋る。挙句、社長に「コソ泥は雇わない」とバッサリやられるんですけど。映像を売りに行った先のTV局のディレクター・ニーナ(レネ・ルッソ)にも、同じような文句を、これまた立て板に水のごとく、、、。でもこれが、聞いている方からすれば、ただの誇大セリフだとバレバレなところが悲しいルー君です。

 でも、ルー君の強みは、そんなことには全くめげない傍若無人さ。プライドなんかない。だって、彼はG野郎なんだから、、、。


◆我々視聴者はG以下。

 本作の何が一番気に入ったかって、もちろん、ハッピーエンディングなところです。変にルーに辛酸を舐めさせたり挫折させたりしない。つまり、説教臭くないのです、全く。

 ある意味、ブラックコメディですよねぇ。Gがトントン拍子で成功していく物語なんて、、、。

 でもって、そうさせているのは、我々一般社会。社会のニーズがあるから、Gが躍進するのです。皆、Gの姿を見れば、露骨に嫌悪感を表すクセに、Gが自分たちの知らない所で苦労してやっとの思いで手に入れた腐敗臭プンプンの代物には喜んで喰いつくんですからね。サイテーなのは、ルー君たちではなく、私たち視聴者なのです。G以下、ってことだわね。

 そう、本作は、ハッピーエンディングでなければならないのです。必然です。

 とはいえ、ルー君の起こした会社の今後は、順風満帆だと思うか? と聞かれれば、それはNOかなぁ。なぜなら、ルー君、いずれはやっちまうと思うのです、犯罪を。こちらの思い描く刺激的な映像のために、仕込み過ぎ、度を超し、、、。

 なーんて予想してしまう私は、所詮、常識人。Gは、全生物が滅んでも生き残ると言われる、地球上最強生物。いずれは、世界を睥睨するポジションに上り詰めるかも知れませんね、、、。まあ、それも面白いですが、映画でなら。


◆アメリカのニュース番組って、ホントにこんな映像流してるの?

 私も昔は、ワイドショーとか時々見てましたけれど、今は、まあそもそもTVを見なくなりました。先日、休暇をもらった際に、たまたま平日の昼間にTVを時計代わりにつけてしまったら、もう、うんざりするようなゴシップネタがあっちの局でもこっちの局でも、、、。しまった、と思って消しましたけれども。

 でも、本作に出てくるパパラッチの撮る映像は、日本のワイドショーなんて子ども騙しでさえない、真っ当なものに思える、それはそれはエゲツナイものでした。本当にこんな映像がお茶の間に流れているのでしょうか、アメリカでは、、、。日本のゲームが暴力的だとかって文句言っているけど、実際の血まみれ映像流している方が、何倍も罪だと思うんですが、、、。それって、私の感覚がやっぱりヘンなのかな。

 そして、これは日本でも言えることだけれど、TVで流れる映像は、決して真実とは限らないってこと。ルー君は、事故現場でより印象的な映像を撮るために、遺体を動かしたり、被害者宅の冷蔵庫に貼ってある写真を並べ替えたり、、、改竄しまくり。でも、視聴者は、そんなことは知らないわけで、それがそのまま真実だと思い込む。、、、恐ろしいけど、普通にやっていることよね、メディアは。

 ストーリーに則った映像の方がよりインパクトがある。だからストーリーからずれたものは排除する、あるいは、ストーリーに合うように手を加える。ニュース映像とは、作られたものなのです。北朝鮮のように、ニュース番組であってもLIVEじゃないと分かっている方がむしろ、視聴者が騙される確率はグッと下がるかも。ニュース番組で流れる視聴者の撮った映像だって、本当にそれが何の手も加えられていない、、、映像を加工していなくても対象を動かしたり排除したりしていないという保証はどこにもないのです。映像=真実、という私たちの脳みそに強く刷り込まれた思い込みを、この時代に生きる私たちは捨てるべきでしょう。

 図らずも、本作は、そういうことを見る者に教えてくれます。全く説教臭くなく、笑えるほどにブラックに。


◆その他もろもろ

 ジェイク・ギレンホールは、もう、凄いを超えて、不気味です。役者だからって、それこそちょっと度を超している気がする。どうしてもトイ・ストーリーのウッディーに見えるんですが、こんなに痩せぎすのウッディー、子どもが見たら泣くよね、、、。

 ニーナ役のレネ・ルッソ、60過ぎとは思えない色気と美しさ。ダン・ギルロイ監督の奥様なのねぇ、、、。知らなかった。調べたら、彼女の出演作で見た映画、ゼロだった! 名前しか知らなかったもんなぁ。「被害者は貧困層やマイノリティじゃダメ。富裕層の白人が一番よ」などとルー君にアドバイスする雇われディレクター役を、微妙な立ち位置が伝わる芸達者振りで見せてくれました。素晴らしい。

 あと、カーチェイスの映像が迫力満点でした。ルー君、あんな運転これからもしてたら、成功する前に死ぬよ、マジで。






本作は、G映画です。




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太陽のめざめ(2015年)

2016-09-17 | 【た】



 若い母親(サラ・フォレスティエ)は、夫に捨てられ、乳飲み子と6歳の男児マロニーを抱えて全てに行き詰ったのか育児放棄してしまったらしい。マロニーが2か月も学校を休んでいることで、判事フローランス(カトリーヌ・ドヌーヴ)に裁判所に呼び出され、思うにまかせぬ現実にブチ切れ、マロニーの目の前で「こんなガキ、くれてやる!」と捨て台詞で部屋を出て行ってしまった。見慣れた光景なのか、表情はいたって普通のマロニー。

 10年後、不良少年に成長したマロニー(ロッド・パラド)は、母親の愛情に飢えているせいか、極度のマザコンで、なおかつ感情のコントロールが効かず異様な攻撃的性格となっていた。問題ばかり起こすマロニーだが、フローランスは温情ある措置をとりつづけ、かつては不良少年だった教育係ヤン(ブノワ・マジメル)をつけ、なんとかマロニーを立ち直らせようとしたのだが、、、。

 手の付けられない暴れん坊少年マロニーくんの成長譚(?)。


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 カトリーヌ・ドヌーヴとブノワ・マジメルの出演、かつ評判も良い、となれば見たくなりますわ。、、、が、これは私はちょっとイヤかも。その理由を書きます。


◆妊娠&出産で一発解決

 始めに本作の結末から書いてしまいますが、大いなるネタバレですので、悪しからず。

 マロニーは、はずみでしたセックスで妊娠させた女の子に子どもを産ませ、父親になったことで立ち直るきっかけを得る、というのがこの映画のオチです。これが、一番イヤな理由。誰もが手を焼き頭を悩ませる問題を、妊娠&出産で一発解決するというのはよくあるパターンですが、ものすごく安易で、最も嫌いな解決策なのです。

 映画はここで終わりなので良いですが、マロニーがあの後、父親としてそれまでとは別人のように真面目な大人になれると、皆さん本気でお思いで? まさかでしょう。これは、マロニー2世を再生産する物語であって、マロニー更生の物語とは言い難いのでは。誰もが内心そういう感じを薄々抱いたのでは。

 魅力的なキャラであるフローレンス判事や、教育係のヤンの存在のおかげで、マロニーが葛藤しながら大人になっていくように描かれていますけれど、よくよく考えると、彼自身、本質的には変わっていないと思うのです。

 赤ちゃんができる直前にも、弟を誘拐して自らの無免許運転の車(しかも盗んだ車)に乗せ、挙句、事故って弟を怪我させています。で、結果的に刑務所送りとなり、、、。刑務所ではマロニーは泣いています。この涙はでも、母恋しさであり、刑務所に入れられた情けなさであり、彼が本当に“気づき”を得た涙には、私には見えませんでした。

 というか、マロニーが“気づき”を得た瞬間が、本作にあったのでしょうか、、、。私には分からなかったです。

 パンフに、精神科医の斎藤学氏がこう書いています。「少年拘置所を脱走したマロニーは、正に人工流産の措置を受ける寸前のテスを、手術室に乱入して助け出す。この瞬間、マロニーは17歳とは言いながら大人の男になった」、、、そーでしょうか? そんな楽観的な見方で良いのでしょうか?

 我が子を得たことが、“気づき”を得たということなんだよ、というご意見も当然あるでしょうが、そこがイヤなんです、私は。

 子どもが出来ただけでそれまでメチャクチャだった人間が、ころりと真人間になれるのであれば、世界中の不良少年たちはパパになれば良いのであって、何も福祉施設や関係者が汗水たらして支援する必要なんかないのでは??



◆親は一人じゃない

 本作のマロニーの母親は育児放棄していますが、その原因はいくつかあって、身近な人の手助けもなく孤独であることや、経済的にひっ迫していることです。

 でもこれは、本来、母親だけが抱え込まなければいけない問題ではないはず。子どもは、女一人では絶対に出来ません。男がいるから出来るのです。父親が物理的にも経済的にも母親を助ければ、これらの問題の多くは解決できます。母親の未熟な精神は解決しませんが。

 日本でも、数年前に大阪で育児放棄の事件が起きましたが、あの時、叩かれたのは母親だけです。父親については誰も問題視しない。親権が母親なんだから、ってことでしょうか。今の日本では共同親権は認められていません。しかし、父親は親権がなくても、親には違いなく、子を世に送り出した以上、育てる義務は本来母親と同様にあるのです。なのに、誰も父親を責めない。

 逆パターンもあります。母親が逃げちゃって、父親が子と取り残され、育児が出来ずに子を放置、、、。そして子が亡くなり、父親が逮捕されたけれども、母親は直截的には何の責任も問われない。、、、おかしくないか?

 つまり、未熟な男(女)が、未熟な女(男)とテキトーにセックスした結果、子をなして、生物学上は父親(母親)になっても、社会的には父親(母親)になり切れず、妻(夫)もろとも子を捨てるケースは掃いて捨てるほどあるってことです。その場合、捨てた方は、捨てた後に子に災いが起きても責められるどころか、責任さえ問われない。

 マロニーも、生来、我慢が出来ない性質で、最大限の我慢を強いられる子育てを順調に何年もできるのか。途中で放棄し、彼女と子を捨て、彼女が育児放棄に陥ったとして、マロニーはどう責任をとるっていうのか。

 本作は、そういう意味では、ものすごく無責任な解決策を提示した罪深い映画とも言えるのでは?

 そこまで悲観しなくても、、、と言われるかもしれませんが、フィクションの世界であるからこそ、そういう安易な展開にしてほしくなかったのですよ、私は。


◆ローチなら、、、

 本作は、ちょっと扱うテーマが、ローチの映画に通じるものがあると感じます。ローチだったらどう描くかなぁ、、、と思いました。ローチの映画にも、未熟な少年に子が出来て、、、という話の映画『天使の分け前』があります。他にも、少年に子が出来ちゃう話はあるかも知れませんが、私が見たローチ作品で思い浮かぶのはこれだけです。

 ただ、天使~では、子が出来ることは、作中でのメインテーマでは全くありません。目立たないサイドストーリーです。子が出来るほかに、主人公には能力を発揮する分野が見つかるという、メインストーリーがあります。飽くまで“自分の力で自分の居場所を確保する”ことが主題。そう、自力で立ち上がってなんぼでしょう、人生。それに加えて子が出来れば、確かに、真っ当に生きるその後の道が見えてエンディングを迎えても、見ている方は納得できる。

 ローチ作品に一貫しているのは、人生で躓いたとき、立ち上がるのは自分自身でしかない、けれども、ほんの少しだけ周囲の暖かい見守りも必要、というもので、そこがとても共感できて好きです。それ故、非常に内容はシビアで胸締め付けられるものが多いけれども、必ず一筋の光明は見いだせる。救いとまでは言えない、そんな甘い映画はローチは作らないけれども、完全な絶望も描かない。本当に、一筋の光明、、、という程度のものが提示される。

 ローチのシビアさは求めていないけれど、それにしても、本作はあまりにもイージーだと思いました。だからイヤなんです。


◆その他もろもろ

 16歳のマロニーを演じたロッド・パラド君、“アラン・ドロンやリバー・フェニックスの再来”なんて言われているとか。、、、そ、そーかなぁ。私は、ずーっと彼の顔を見ながら「勝地涼に似ているなぁ~」でした。似てませんかね? 彼をもうちょっと目力強くしたら、ロッド君、って感じでは? 本作が本格的な初演技だったとかですが、初めてとは思えない役者っぷりでした。セックスシーンにも堂々と挑んでおられました、下半身晒して、、、。すげぇなー、フランス人の少年は。

 すぐキレる役、って難しいだろうなと思いました。常にイライラし、自分をコントロールできない、そういう“感じ”を纏うってのは、なかなか出来る芸当じゃないはず。でも、ロッド君、マロニーが地じゃないか? と思えるほど実にナチュラルに演じておられました。素晴らしい。

 ドヌーブ様は、今さら何も言うことはありません。後姿は、ものすごく肥えてオバサンですが、不思議と醜くなく、老いても年相応に美しい。ムリに若作りしたりせず、老いながら美しいを体現されている。知的な判事役、ハマっていました。

 ブノワ・マジメルは、結構久しぶりに見たのですが、え゛~~~、これがあのブノワ・マジメル?? と思っちゃうほど、老けましたね、彼。もちろん、オッサンになってもイイ男ですが。なんか疲れた感じがセクシーです。

 セクシーと言えば、終盤、ヤンがマロニーに「愛してる」って言われるシーンがあるのですが、その時の、ブノワ・マジメルの照れっぷりが実に可愛い、というか、セクシーなシーンでした。前出の斎藤学氏も「マロニーがヤンに「ジュテーム」という場面にエロティスムを感じた」と書いておられて、おぉ、同じことを感じた人がいたのだ、と嬉しくなりました。

 あんまりストーリー的には好きじゃありませんが、映画としては見どころ一杯だと思います。





子が出来ただけでオコチャマがオトナになるなら苦労しないよ。




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アスファルト(2015年)

2016-09-13 | 【あ】



 フランスのとある郊外にある古びた団地。寒々しい灰色をした外観で、しょっちゅうエレベーターは壊れ、ときどき不思議な(不気味な?)音が響き渡る。そこに住む人々と、空からやって来た宇宙飛行士、ふらりと仮住まいに来た落ちぶれた女優、近くの病院に勤める看護師たちとの、不思議な、心ふれ合うドラマが淡々と語られる。

 ちょっとシュールで、ファンタジックな物語。


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 何かの映画の予告編で見て、面白そうだな~、と思っていたので劇場まで見に行ってまいりました。


◆孤独な人々の織り成す人間ドラマ

 本作に通底するものは、恐らく“孤独”。出てくる人たちは、皆、どこか孤独なのです。孤独な赤の他人同士が、思いがけず心通わせ合う3つのドラマが実に巧みに行き来しながら展開します。3つのストーリーには何のつながりもないけれど、脈絡なく映像が流れる割には、一貫したトーンがあって、全体で一つのオハナシを見ているような感覚になります。これって、ある意味、凄いことなのかも、、、と思います

 主要な登場人物は6人。団地の住人&誰か、という組み合わせで3組、計6人。

 団地2階の住人スタンコヴィッチ&看護師、鍵っ子のシャルリ&落ちぶれた女優ジャンヌ・メイヤー、アルジェリア移民の女性ハミダ&宇宙飛行士ジャン。なんじゃそれ、な組み合わせ。

 でも、集合住宅って、ある意味、なんじゃそれ、な集合体ですよねぇ。いろんな世界の人々がごった煮のごとく居住している空間、それが集合住宅・団地。

 ただ、本作の場合は、空から宇宙飛行士が降ってくるのが、まあシュールと言えばシュールなんですが。

 人間なんて、所詮、みんな孤独なんだよ、、、と言われているような気がしてきます。


◆凸凹な男女たちがそれぞれに展開する心温まるお話

 スタンコヴィッチは2階に住んでいるから、エレベーターの修繕工事費用を出すのを渋る。絶対にエレベーターを使わない約束で他の住民たちと何とか折り合い、費用を出さずに済んだと思ったら、間もなく、足を悪くして車いす生活に、、、。ま、人生そんなもんですよねぇ。いつか足が不自由になる、なんて、今普通に歩ける人間は想像だにしませんから。エゴを通して、それがモロに自分に還ってくる。

 でも、本作はそういうことを説教する映画ではありません。そこから、このスタンコヴィッチの意外なドラマが始まるのです。DVDで『マディソン郡の橋』を見て感化されたのか、深夜の病院で夜勤の看護師(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)に出会うと、自分を「カメラマンで、ロケハンに来ている」などと大嘘を言って、そこから看護師との不思議なやりとりが展開し、、、。

 一番心温まる話は、アルジェリア移民の女性ハミダ&宇宙飛行士ジャン(マイケル・ピット)のそれ。フランス語しか話せない老女と、英語しか話せない宇宙飛行士の青年だけど、なぜか意思疎通がちゃんとできている。ハミダがとても優しくて、最初は警戒気味だったジャンがどんどん心をほぐされていく過程を見ているのが心地良いです。言葉は大事だけれど、言葉だけでは足りないものが、やはり人と人とのふれあいにはあるのだなぁ、と。

 ハミダが「クスクス作るわ!」と言って、「クスクス」を連発すると、ジャンも笑顔になって「クスクス!」と返すシーンとか。そして、ハミダが作ったクスクスを、美味しい美味しいと言って食べるジャン。料理って、人と人との心の距離を縮めたり広げたりするものなんだなぁ、と。

 一番印象的なのは、そら何と言っても、鍵っ子のシャルリ(ジュール・ベンシェトリ)&落ちぶれた女優ジャンヌ・メイヤー(イザベル・ユペール)の巻。シャルリは、高校生だと思うけど妙にクールで、自分よりはるか年上のジャンヌに物怖じすることなく接する。彼女の出演した古い映画を見てその良さを理解したり、彼女が舞台の大役を取り損ねて酔いつぶれているのを優しく介抱したり、歳だけ喰ったオヤジよりもよっぽど大人な男。

 ジャンヌが15歳の役に執着していることに異を唱え、90歳の役の方がよっぽど存在感があると喝破。ジャンヌをその気にさせて、オーディションのための映像まで撮ってあげてしまうという、なんという青年!!

 こんな子が隣に住んでたら、私だったら、ちょっと平常心じゃいられないかも、、、。なんか、全部見透かされているような感じがして落ち着かないわ。


◆“幸せ度”は幸せを感じる能力が高いか否かで決まる

 最終的に彼らはどうなるのか、、、。まあ、あんまり明確な結末というのはないんだけれど、ジャンはNASAがお迎えに来てくれて、団地を去ります。お迎えのヘリコプターが飛び立つシーンが終盤にあるのですが、これがまた、どこか寒々しい団地を背景にしているのに、すごく美しい。

 ただ、団地に響き渡る謎の大きな音の正体は、最後にちゃんと明かされます。なるほどね、、、と。

 そんなに伏線が張られているわけじゃないけれども、ラストに向けて、ちゃんと見ている者の心を満たしてくれるように作られていて、そういうところもgooです。変に予定調和でもなく、悲劇でもなく。

 本作は、好みが分かれるかも知れませんが、でも、とても丁寧に作られた味わい深い逸品だと思います。

 人生とは不条理なことだらけで、悲しいことだらけだけれども、その中にも小さい心温まることや嬉しいこと楽しいことがあって、それを掬い取れる人が、人生を豊かに幸せを感じながら過ごせるのだよ、と言われているみたいな感じがしました。

 
◆その他もろもろ

 ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ、やっぱり美しいですね。もう50過ぎですけど、年齢相応の美しさがあって、くたびれた夜勤中の看護師役なのにオーラがありました。

 宇宙飛行士のジャンを演じたマイケル・ピット、トム・ハーディに何となく似ていて、どこかで見た顔だなぁ、、、と思っていたら、あの『ファニーゲームU.S.A』に出ていたのですね。映画は見ていないけど、ポスターで見た顔だったんだ。フランス語しか話せないハミダとのコントみたいなやり取りがすごく面白かったです。

 イザベル・ユペールは、もう、圧倒的な存在感。彼女が出てくるだけで、画面が締まるというか。なんなんでしょう、彼女。相変わらず、無表情っぽい顔なのに、すごい表現力です。カメラに向かって演技するシーンが、すごくグッと来てしまった。役の上でもだけど、女優として命懸けている、という感じが悲壮感も伴って、それでいて生き生きとしていて、とてもセクシーでした。

 でも、本作での特筆事項は、そりゃあもう、ジュール・ベンシェトリ君でしょうねぇ。監督サミュエル・ベンシェトリの息子さんで、お母さんはマリー・トランティニャン。あの、ジャン・ルイ・トランティニャンのお孫さんってこと。あんましお祖父さんに似ている感じはないけど、すごくキュートなルックスで、中身は大人な男とのギャップが、これまたグッとくる。これは、末恐ろしい若者が現れたものですな、、、。やっぱり血は争えない、ってことでしょーか。








クスクスが食べたくなってしまった!




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めぐりあう日(2015年)

2016-09-08 | 【め】



 理学療法士のエリザ(セリーヌ・サレット)は、実の両親を知らない。自分のルーツを知りたくて、実母が住んでいるらしいフランス北部のダンケルクに一人息子のノエを連れて移り住む。そして、理学療法士として働く傍ら、実母探しをする。

 しかし、実母は“匿名出産”をしており、たとえ実の子が望んでも、母の身元を知ることは出来なかった。正攻法で母を探す道が閉ざされたエリザだが、エリザの下に、ある女性が腰を悪くして通ってくるようになった。その女性は、息子ノエの通う学校で働くアネット(アンヌ・ブノワ)で、ノエに目を掛けていた。

 エリザが素手でアネットの背や腰をマッサージし治療する。そんなスキンシップを伴う治療を重ねることで、2人の間には特別な空気が流れだすのだが、、、。

 自身が幼い頃にフランスに養子に出された経験を持つというウニー・ルコント監督の『冬の小鳥』(2009年)に次ぐ自伝的映画だとか。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 『冬の小鳥』は未見なんですが、映画友が見て「なかなか良かった」と言っておりました。そちらを先に見てから本作を見た方が良かったのかも知れませんが、私にはあんまりピンと来ない作品でした、これは。


◆子は親を選べない。

 実の両親を知らずに成長する、というのがどういうことなのか、感覚的に分からないのですが、想像すると、ものすごく心もとない、不安な感じが常につきまとっているのではないかな、という気がします。どこかこう、、、自分に自信が持てないというか。養父母が愛情深く育ててくれても、やはり、実の親への思いはまた別物でしょう。だから、エリザが実母を必死で探そうとする気持ちは、分かるつもりです。

 また、アネットが図らずも妊娠したことで匿名出産という手段によりエリザを産んだ、ということについても、子どもを捨てるなんて、、、とは思いません。私はそもそも子を持ちたいと思ったことがないのですが、我が子というのがどれほどの存在なのかも想像することしかできません。きっと、そんな想像を軽々と凌駕する存在なんでしょう。、、、だからって、アネットのしたことが母親としてとんでもない、と単純に批判するのも違うような気がします。

 若いアネットの行動や気持ちも、また、エリザの行動や気持ちも、どちらもまあ、人としては理解の範疇にあるものです。

 監督が「親に捨てられた子どもは誰しも、実の親のことを空想しながら暮らし、大きくなるものです」と語っているけれど、それはそうだろうなぁ、、、と。どこか理想化されるのではないかな、自分を捨てた親なのに、、、ね。それは、自分が愛されなかったことを受け入れられないことの裏返しなのかも知れませんが。

 でも、捨てられなくても、親に虐待されている子も大勢いるわけで、ホント、こういう話の数々を見聞きすると、“子は親を選んで生まれてくる”などと言うのがいかに大人にとって都合の良い理屈かと、腹立たしくなりますわ。

 「親も子を選べない」とは、私の両親の言葉ですが。こんなのが出てきてスンマセンでしたねぇ。だったら作るな・産むな、と言いたいよ、こっちは。


◆何の根拠もなく、ただ“感覚”だけで互いに母娘と分かる“エスパー母娘”

 ハナシの前提は理解できるのに、なぜピンと来なかったか。

 それは、エリザとアネットが互いに実の母娘であることを“何となく感覚で”分かったからです。

 本作は、監督の自伝的作品らしいが、もちろん設定はイロイロ異なるのだけれども、監督も、実母と“何となく感覚で”分かったんですかねぇ。パンフを読みましたけれど、それに関する説明はなくて。『冬の小鳥』に描写があったのかも知れませんが、、、。

 エリザは患者の身体を素手でマッサージ等によって施術するんですが、その肌と肌との感覚が、2人の血のつながりを呼び覚ました、みたいな展開は、私にはちょっとトンデモな話にしか思えませんでした。

 確かに、アネットの住んでいるであろう町に移住してきたわけだし、偶然出会う可能性はゼロではないだろうけれど、何となく分かるものだろうか? と。

 この肝心の実の母娘の、母と娘としての再会の経過が、私にはあまりにも説得力がなさ過ぎで、まったく気持ちが着いて行けませんでした。この人たちは、エスパー母娘!?


◆邦画『愛を乞うひと』を思い出し、、、

 ただまあ、アネットは登場した後から意味深な描写なので、彼女がエリザの実母であろうことは見ているものには初期から想像がつきます。つまり、本作は、母探しのミステリー作品ではない。母と娘がいかにして互いを気付いて行くか、というのがミソなのですね。そのミソが、私にはまったく納得できないものだったので、作品に対しての感想は低調なんですけれど、一つ一つの要素はとても丁寧に作られた良い作品なんだろうと思います。

 私は、あまり“偶然”というものに支配された物語が好きではないのです。何でもロジカルでないと気が済まないわけではありません。ただ、生まれてから一度も会っていない肉親を、“感覚で”探り当てる、というのは、いかにもファンタジー過ぎて、この作品のシリアスな構えにそぐわなすぎるように思いました。

 お話自体は、実の母と娘の絆を取り戻しつつありそうなエンディングで、一応、報われる結果なんですけれど。自分のルーツを手繰りあてたことによって、エリザにしてみれば、これまでの人生が肯定できるものになったのではないかしらん。それまでの足元が揺らぐような心もとなさが、一気にか幾分かかは分からないけれど、解消されたことは間違いないでしょうね。

 ちょっと邦画『愛を乞うひと』を思い出しました。あれは、母親に捨てられたのではなく、虐待された挙句に、娘自ら逃げ出したハナシでしたが。恩讐の果てに再会した実の母と娘のシーンは、あまりに辛く、胸が苦しくなりました。

 でも、本作は、そういうヒリヒリするような感じはありません。虐待という要素がないからだと思うけど、母と娘の、敢えて言っちゃうと“感動的な”再会が描かれています。

 内容が内容だけに好きな映画とは言い難いけれど、より心揺さぶられたのは、やはり『愛を乞うひと』の方ですね。本作は、私にとっては、いろんな意味で中途半端な感じがしました。


◆その他もろもろ

 本作は、エリザのアネット探し物語ですが、エリザとノエの母息子の物語や、エリザと夫の関係、アネットとノエの関係、アネットとその母親の関係、と、いろんな家族同士のつながりが丁寧に描写されています。

 ただ、その語り口は非常に静かで、セリフも少なく、表情で見せる場面が多かったような。そういう意味では、俳優さんたちは皆、素晴らしい演技だったと思います。

 特に、セリーヌ・サレットは、エリザのすごく意志の強く、頭の良さそうな女性そのまんまで、とても美しい。あまり笑うシーンがないのだけれど、とても表情豊かです。プロフィールを見ると、かなりたくさんの作品に出演していらっしゃるけど、私が見たことのある作品はソフィア・コッポラ監督の『マリー・アントワネット』くらいかなぁ。全然記憶にありませんが、、、。





自分を捨てた母親、自分が捨てた娘。私ならどちらも会いたくない、多分。




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白雪姫、スノーホワイト、、、、あれこれ ~その③~

2016-09-06 | 番外編
 その②のつづきです。


◆母娘の確執の“核”
 
 ジェンダーだの何だのと書いてきましたけれども、お姫様が王子様に見初められて幸せになりました、というのは、白雪姫においてはサイドストーリーです。メインストーリーは、飽くまで“母と娘の確執物語”。

 そう、実に普遍的なテーマが白雪姫の本質で、この辺りも女性学では割と論じられてきたところでして、、、。

 “母と娘の確執”については、いろいろな人がいろいろな所でいろいろなことを言っておられますけれど、経験から、母と娘に確執が起きるその原因は、ひとえに、“母の娘に対する嫉妬心”だと思うのですね。

 母娘の確執の根っこ、コアな部分にあるのは、まさに母の娘に対する“嫉妬”です。

 これは、私自身が経験し、あれこれ苦しんで悩んで20年ちかく考えた末にようやくたどり着いた結論です。ここに気が付いたとき、私は母親に対する全ての不可解・疑念・疑問が一気に氷解し、腑に落ちました。

 比較的、問題の少ない母娘関係を築いてこられた方々はもちろん、現在、母娘の確執を抱えているご本人でも、「母親が娘に嫉妬??」と疑問に思われるかも知れません。私自身、そこに気付くまでに、いろいろな書物等の活字で「娘に嫉妬する母親」というものを読んでも、まったくもってピンと来ませんでした。「そんな母親いるんだ、、、? ウチも母娘の確執を抱えてるけど、ウチはこれはナイわぁ~」と真剣に思っていました。

 でも、ナイどころか、まさしく“それ”だったのでした、ウチも。


◆娘に嫉妬する母親

 娘に嫉妬する、とはどういうことか。

 それは、“娘が自分の人生を自力で歩もうとすることを全力で阻止する”ってことです。

 なぜ全力で阻止するのか。娘に執着しているから、娘の人生を利用して生き直しをしようとしているから、、、、等々言われていますが、もっと単純なんだと思います。多かれ少なかれ、自分が果たし得なかった、抑圧されてきた部分を、娘が超えようとしてしまう様を目の当たりにし、我慢ならなくなるのです。

 精神的に自立できている母親は、自分が果たせなかったことを娘が果たそうと挑む姿を見守ることができるはずですが、自立できていない母親には、それがもの凄く難しい、というより不可能なことなのです。

 自立できてない母親というのは、大抵、何かに依存している。ある人は家族に、ある人はお金や権威に、、、。一番タチが悪いのが、子に依存している母親。子が親離れしようとすることを“裏切り”と受け止めるんだからね。子は地獄ですよ、マジで。

 ここでいう自立は、経済的な自立ではなく、精神的な自立です。まあ、経済的な自立と精神的な自立は、比較的連動しているとは思いますが、必ずしもそうとは言い切れません。

 いずれにせよ自立できていないということは、自分の意思が貫けないか、もともと意思を持てない人なわけです。だから意思を持って行動しようとする人に対し、反発心が自然に起きる。

 でも、本人はそれを嫉妬心だとまるで自覚していない。特に、我が子、いえ、我が娘が意思を持って行動しようとすることが、“生意気”とか“偉そう”とかに見えるんです。だから、許せない。親を差し置いて何事か、、、とね。親である自分がないがしろにされたみたいな気持ちになるんでしょう。それが、裏切られた!になる。実に憐れな思考回路です。

 白雪姫の実母である魔女も、まあ同じですよね。彼女の場合、依存しているのは魔法の鏡。ある日突然、魔法の鏡に裏切られる。鏡は鏡の意のままにモノを言っただけなのに。

 そこで怒りは白雪姫に向かい、白雪姫を追い出すけれども、白雪姫が自分の知らない所で幸せそうにしていると、激しく嫉妬する。生意気な娘!! 許せん!! そして、毒りんごですよ、毒りんご そこまでして白雪姫の人生を破壊したいという衝動の恐ろしさ。


◆自分に自信がない人ほど攻撃的

 でもこれは、詰まる所、“自分に自信がない”ってことでしょう。

 魔女は鏡に確かめないと、自分の美貌を信じられなかった。だから、鏡に白雪姫の方が美しいと言われれば、それを真に受けてしまう。ホントは、魔女の方が美しいかも知れないのに。そして、過剰に攻撃的になる。周りはいい迷惑なんですけどね、、、。ちゃんと自己処理してくれよ、と言いたい。

 でも自信を持つ、って難しい。根拠のない自信家なら、結構いますもんね。それはそれでまた周囲に対して害悪です。

 自分なりの考え方を確立し、なおかつ独善的にならない、というのは実に難しいバランスの取り方です。でも、これは、日々意識していないとなかなかできるようにはならないし、油断すると、何かに依存したり、独善的になったりと、どちらかに針が振れてしまう。

 そうすると、何か壁にぶち当たった時に、回りのせいにするか、あの時ああしておけば良かったと後悔するか、、、どちらかでしょう。魔女は、白雪姫のせいにして、自分の存在意義をなんとか保とうとしたけれど、それは虚しい結果に終わってしまった、、、。

 依存ではなく、自分を確立すること。これが、魔女にならない唯一の道でしょう。

 母親に嫉妬されて苦しんでいる娘は、世の中にたくさんいると思うけれど、彼女たちもある意味、そんな母親に依存しているのです。まずは、その魔女的な母親から自立すること、自分の足で立つことが、苦しみから解放される第一歩だと思うなぁ。

 例の“ディズニー諸悪の根源説”も、今や昔。アナ雪では、♪ありのままの姿見せるのよ、ありのままの自分になるの~~、と歌っている。隔世の感がありまする。











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ドリーム ホーム 99%を操る男たち(2014年)

2016-09-02 | 【と】



 以下、amazonよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 フロリダ州に暮らすデニスは、日雇いで働きながら、母親と息子を養う平凡な男。だが、住宅ローンを滞納したために、自宅からの立ち退きを迫られてしまう。デニスは自宅を取り戻したい一心で、なんと住宅差し押さえビジネスに加担する。だがその非情なビジネスは彼の価値観を少しずつ狂わせていく…。

====コピペ終わり。

 住むところがなくなるなんて、、、。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 昨年、劇場に見に行きたかったんだけど、気がついたら終映してしまっていたのでした。、、、ごーん。……というわけで、やっとこさDVDで見ました。


◆鍵で現金、、、、って何?

 私、ローンとか、金融商品とか、全く、ホントに全くの無知でして、そもそもローンなんて組んだ経験がないのです、イイ歳して。なので、イマイチ、本作内での「鍵で現金」(明け渡し期日までに鍵を返すと3,500ドルの現金が受け取れる制度)とか、理屈は何となく分からなくもないけど、ピンときませんでした。

 とにかく、本作はのっけからコワい。いきなり主人公のデニス・ナッシュ(アンドリュー・ガーフィールド)が自分の家を追い出されるんですからね、、、。まあ、ローン滞納してりゃ、いつかこういう日は来ると本人たちは分かってはいただろうけど、ここまで容赦ないとは、、、。今住んでいる家を取り上げられたら……、なんて考えたら、もうそれだけでドキドキします。生きて行けないじゃん!

 ただまあ、大昔に仕事上で必要に迫られて仕入れた知識では、日本の場合、現居住者は割と保護されているような印象がありまして(記憶が薄れているので違っていたらすみません)、本作のように、いきなり不動産屋が保安官(日本なら警察官なのかなぁ)連れて来て、法律用語まくし立てて追い出す、っていう手荒な手法は多くはないような気がしますが、、、、。大体、差し押さえになる前に、売っちゃうんじゃないですかね、、、。詳しいサイトとか調べれば分かるんでしょうかね。あんまし興味ありませんが、、、。


◆金<愛情、って図式は陳腐すぎ

 デニスが、糞尿塗れになった空き家を、たった一人で清掃しようと名乗り出るところで、「そんな根性があるのなら、なぜ定職に就かないのさ?」と、ちょこっと思いました。その後の展開でも、デニスは頭も良いし、腕も良い、若いのにとっても“使える”職人なのです。まあ、そんな彼でさえ、こういう窮地に立たされる、というところを描きたかったのかしらん。

 その後、自分たちを愛着ある家から追い出した張本人の不動産ブローカー・リック・カーバー(マイケル・シャノン)にどんどんと取り込まれていく過程が見応えあります。大金を手にして、その感触に味をしめたデニスが、法の網をかい潜りヤバいことをして、さらなる大金を手にして、、、。金の魔力、恐るべし。

 カーバーは、やっていることはえげつないけれど、見るからに血も涙もない冷血人間、という感じには私には見えませんでした。デニスが使えるヤツだと分かってからは、利用するためにあれこれニンジンをぶらさげてくるんだけれど、そのやり方は割とスマートで、この男は意外に情にもろいところがあるのでは? という風にも思えました。案の定、自分の過去を語るシーンで、なるほど、と思わせる背景がありました。

 デニスは、金の魔力に魅入られたけれど、最終的には、カーバーにはなれなかった。というより、ならなかったのだけど、なんか、私はこういう展開、あんまし好きじゃないですね。デニスは良心までは捨てきれなかった、、、。もちろん、それには、家族に去られて、金を手にしても愛する人を失っては意味がない、ということなんだけれども、そんな当たり前のことを大真面目に描かれてもなぁ、、、。ものすごい予定調和な展開で、ガックシでした。

 私が脚本家なら、デニスには、カーバーを超えるブローカーに成長してもらって、見事1%の側に立ち、そのうま味を味わったところで、思わぬ失敗(もちろん仕事で)をして、奈落の底へ、、、みたいなハナシにするなー。家族(というか人情)と天秤に掛けるなんて、なんか普通過ぎ。

 1%の人々を悪人みたいに言う風潮があるけれども、“金があっても愛がなければ幸せとは限らない”的な紋切り型の批判は、もういい加減やめたら? と思う。幸せか否かなんて、本人以外分からない。

 カーバーも、本作では転落を予想させる終わり方だったけれども、彼が作中で幸せじゃないとは言い切れない。彼なりの価値観で、楽しそうに日々を送っていたわけだし。


◆家とは何か。

 邦題の、“ドリームホーム”ですけれど。日本でも、“夢のマイホーム”なんていいますけれど、欧米でも、借り物じゃない自前の家、って、やっぱり手に入れたいものの一つなんですかね。

 カーバーが言っていました。「家なんてただの箱だ」って。

 私は、そこまで極端じゃないけれど、デニスみたいに家への拘りはないし、どっちかというと、家は“生活する場”であって、持ち物的な感覚はほとんどないです、、、。だって、自分が死んだら、今住んでいるところなんてどうなるか分からないわけで、、、。未来永劫存在するものじゃないし。

 子どもがいて、子どもに遺してやる、っていう人もいるけど、子どもだって相続税払わなきゃいけないし、払えなくて土地が切り刻まれ、そこに所狭しと日もろくに当たらなそうな配置で3階建てがにょきにょき立って行くのは、我が家の周囲でもあちこちに見られます。ああいう光景は、ちょっと好きじゃないですね。何でこんな隣の家と1メートルも離れていないような日当たりの悪い家のために、一生ローンで縛られにゃならんのだ、と思っちゃいます。ま、余計なお世話ですが。ご本人にしてみれば、それこそ、夢のマイホームを手に入れた、ってことなんですよね、きっと。

 でもそうやって手に入れたその家は、こないだ見た映画『残穢―住んではいけない部屋―』みたいに、因縁付きの土地に建っているかもしれないし。、、、なーんて、私、ちょっとネガティブ過ぎですかね?

 私みたいに、ヤドカリ&野垂れ死に、が理想の人間にとっては、デニスにも、ガーバーにも、また、デニスに家を追い出された人たちにも、誰にも共感できないオハナシでした。


◆その他もろもろ
 
 アンドリュー・ガーフィールド、シングルファーザーの設定ですが、父親役にはちょっと若いような。まだ少年っぽい。イケメンだけど、あんまし好きな顔じゃないかな、、、。マイケル・シャノンはハマリ役。良い人なのか悪人なのかイマイチ分からない感じで、淡々と自分の利になることに敏いハイエナみたいなブローカー、ピッタリでした。

 あと、アメリカの家がいっぱい見られたのも楽しかった。日本じゃ豪邸の部類に入る家も、あちらでは、そこそこ、、、って感じ。あちらの豪邸は、ホント、もうスゴイ。我が家から歩いて行ける距離に都内有数の高級住宅街があるんですけど、そこでも、あちらの豪邸の部類に匹敵するお宅は、、、、まあ皆無ですね。とにかく、スケールのデカい豪邸の数々をチラッとでも色々見られたのは面白かったですね。成金趣味みたいなセンスのない家(『クィーン・オブ・ベルサイユ 大富豪の華麗なる転落』みたいのとか)はほとんど出てこなかったのが良かったです。

 住んでみたいとは思わないけど、2~3日滞在経験くらいはしてみたいかな。広すぎて落ち着かないだろうな、多分。
 







ローンで家を買う=負債を抱えるor資産を得る、あなたはどちら?




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