映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

12日の殺人(2022年)

2024-04-01 | 【し】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv84664/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 2016年の10月12日の夜、グルノーブル署で、引退する殺人捜査班の班長の壮行会が開かれていた頃、山あいのサン=ジャン=ド=モーリエンヌの町で、21歳の女性クララが、友人たちとのパーティの帰り道、突如何者かにガソリンをかけられ火を放たれた。そして、無残にも彼女は翌朝焼死体で発見される。すぐに後任の班長ヨアン(バスティアン・ブイヨン)率いる新たな捜査チームが現場に駆けつける。クララが所持していたスマートフォンから、彼女の素性はすぐに明らかになった。

 クララの親友のナニーの協力などもあり、クララと交際歴のあったバイト先のウェズリー、ボルダリングジムで知り合ったジュール。そしてあろうことか彼女を「燃やしてやる」というラップを自作していた元カレのギャビなどが捜査線に上がっては消えていった。だが、クララと関係を持っていた男たちは、一様にして彼女が奔放な女性だったことを示唆していた。 懸命な捜査が続いたが、事件を解決まで導く確信的な証拠もないまま捜査班は解散となってしまう。

 それから3年後。ヨアンは女性判事(アヌーク・グランベール)に呼び出され、新たなチームを作り再捜査に乗り出すことになった。今度は女性捜査官のナディア(ムーナ・スアレム)も加わり、クララの三周忌に彼女の墓で張り込みをすることになった。果たして、仕掛けていた隠しカメラに写っていたのは…。

=====ここまで。

 冒頭で「未解決事件」とハッキリ字幕が出る。よって、本作はサスペンス映画ではない。


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 本作のこと、何で知ったんだろう、、、思い出せないけれど、多分、チラシかな。監督ドミニク・モルの前作『悪なき殺人』はちょっと興味があったのだが、気付いたら終映していて、その後忘れていた。で、本作の監督が彼だと知って、ちょっと見てみようかなと思った次第。

 未解決事件というのは見に行く前から知っていたのだけど、サスペンス映画だと思って見に行くと肩透かしを喰らうでしょう。これから見に行く方はお気を付けください♪

~~以下、もしかすると男性はお読みにならない方が良いかもです。男性を貶める意図はありませんが、ちょっと悪口になっていますので。~~


◆男の加害性を自覚せよ。

 最初に言っておいた方が良いと思うので書いちゃうが、本作は、フェミ映画です。なので、マッチョな事件捜査モノが好きな人が見に行くと、期待外れなだけでなく、不快な思いをする可能性が高い、、、と思う。

 このブログでも時々書いているが、女は“女”というだけで男が怖いんですよ。私はもう50代のオバチャンなので、昔に比べりゃ大分楽になったけど、若い頃は、やっぱしセクシャルな面でそれなりに嫌な思いもしたし、多分男が思っている以上に警戒して生活していたと思う。

 夜道を一人で歩いているだけで、女は警戒心Maxになる。これ、男にはなかなか分かんないみたいだけど、ほとんどの女はもの凄く警戒して歩いている。「自意識過剰だろ!」とバカな男どもは笑うけど、運悪く性被害に遭えば、そういう男どもは「お前に隙があったんだろ!」とか平気で言うんだよな、これが。ふざけんなよ。

 ……ということを、この映画は描いているのだ。ね、男の人たち、何か居心地悪いでしょ?

 男からしてみれば、男っていうだけで変態扱いされたり殺人犯扱いされるのは心外だろうけど、実際、変態はほとんどが男だし殺人犯の大半は男なので、そう言われることについては甘んじて受け入れてください。

 んでもって、おかしなことに、これらの頭のネジが外れた男たちを検挙しようと必死に追い掛けているのも、ほとんど男だってこと。男の世界で完結しているのだよ、被害者以外。んで、被害者の女は、そこでは大抵が“ヤリマン”“アバズレ”扱いされてしまう。そんな犯罪の被害者になる女はそんなもんだろ、っていう男たちの思考回路。

 百歩譲って、被害者の女が“ヤリマン”だったら? “アバズレ”だったら? 男からしたら、そりゃ殺されるのも仕方ないとか言うわけ? それって、前述の「お前に隙があったんだろ!」と言って被害者女を責め立てる男たちとどこが違うんだ?って話。

 つまり、加害者だろうが、警察官だろうが、男たちの思考回路、おかしいだろ!? ってのが、この映画の主たるテーマです。

 どーですか? 男性の方々、それでもこの映画見たいですか??


◆被害者は女のコだもんね。

 でね、私は本作のお話、割と序盤からヘンだと思ったのだ。

 どこがって、警察の人たち、みんな犯人を端から“男”と決め打ちしてるわけ。……ね、ヘンでしょ? そら、あんな真夜中に、人通りのない所で、あんな残虐な方法で若い女性を焼殺するなんて、確かに男の仕業っぽい。ぽいけど、捜査機関として決め打ちはマズいだろ、、、と。

 あの犯行、女性でも十分できるでしょ。ガソリン掛けて、火をつけたライターを投げるだけ。絞殺とか刺殺とかに比べて、ゼンゼン力業いらないですもん。

 でも警察の人たちは、被害者が「若い女性」で「派手め」ってので、大方犯人を男だと思っている。その先入観を持って、聞き込みに当たる。女友達にも聴取するけど、それは被害者が亡くなる直前まで一緒にいたという親友のみ。あとは、みーんな男、男、男、、、。で、その内容から、被害者がさらに「男出入りが激しく」て「肉食系」でってので、殺された理由がほぼ「痴情のもつれ」へと収束して行っちゃう。

 そら、統計的に殺人犯の大半は男だけどさ、、、。あの決め付け方は、被害者の親友が言っていた通り「彼女が女のコだから」である。

 被害者が若いイケメンだったら、多分、犯人は男と女の両面から考えただろう。でも、被害者がイケイケのギャルだと、警察の理屈では、犯人は男なんである。

 結果的に未解決事件だから犯人は分からないまま。ほとんど犯人は男であるという前提でエンドマークとなるが、女かもよ? と、私はまだ思っている。……いや、多分男だろうと私も考えているが、女の可能性もアリだということである。


◆その他もろもろ

 というわけで、本作は捜査員たちがひたすら容疑者を追う姿を描いているのだが、事件の影響を受けて、捜査員たちにもちょっと精神的に変調を来してしまう者が出てくる。

 まあ、あんな凄惨な現場に接したら、いくら警察官でも人の子、ダメージを受けるのも無理からぬ。

 主役の捜査員ヨアンを演じたバスティアン・ブイヨンは、良くも悪くもクセがなく、インパクトが薄いのだが、ほとんど出ずっぱり。表情はあまり変化がない(笑顔がない)けど、演技は確かで、被害者の自宅を初めて訪れた際に、被害者の少女時代のあどけなさの残る写真を目にして、不覚にも固まってしまったときの演技が素晴らしかった。

 未解決事件を追うというストーリーを象徴して、ヨアンがバンクを自転車でグルグル回っている映像が時折挟まれる。そして、終盤ではバンクから峠の上り坂へと移り、その峠を超えられるだろうか、、、みたいなヨアンの独白が入る。そのシーンの背景に映る山岳地帯の風景が美しいのだが寒々しく、本作は終始心和む画は一つもなかったな、、、と感じた。

 本作は、あの『落下の解剖学』(2023)と同じ、グルノーブルが舞台となっており、未解決事件であることも同じだが、『落下~』はアカデミー賞とか海外で評価を受けた一方、本作はセザール賞の主要部門を受賞している。どっちがどうというのもないけど、個人的には、本作の方が何となく好感を持てた気がする。

 

 

 

 

 

 

マッチョ絶滅すべし!!

 

 

 

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シェラ・デ・コブレの幽霊(1964年)

2024-03-09 | 【し】

作品情報⇒https://www.cinemacafe.net/movies/33229/


以下、アマプラの紹介よりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 ゴーストハンター(マーティン・ランドー)が、死んだ母親から電話がかかってくるように見える男の事件を調査する。その過程で、メキシコのシエラ・デ・コブレという村で起きた幽霊騒ぎや、昔起きた殺人事件の背後にある恐ろしい秘密が浮かび上がってくる。

=====ここまで。

 なんと制作国アメリカではお蔵入り作品。


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 名前だけは聞いたことがあった本作。昔、探偵ナイトスクープで取り上げられて話題になったらしいのだけれど、私は、そのときに知ったのかどうかは記憶にない。Jホラーにも影響を与えたとかでその名を耳にしたのかも。

 そんな忘れていたような本作のタイトルを、何とTwitterのタイムラインで目にしたのであります! アマプラで見られるとあるではないか。おー、どらどら、、、幻の作品と言われているのなら、この機に見ておこう、、、というミーハー根性で見た次第。

 アメリカでお蔵入りになった理由は、「あまりに恐ろしい映像描写ゆえに試写会で体調を悪化させる者が続出したためであるとも伝えられている」なんてwikiに書いてある。

 まあでも、所詮、アメリカのお化け映画だからな、、、と思って見たら、案の定、怖さはゼンゼン。でも、思ったより見るに堪える作品になっていた。

 これは、ホラーではなく、ミステリーやね。

~~以下、ネタバレです。~~

 一応、お化け、じゃなくて幽霊は出てくるんだけど、ストーリーとしては、その幽霊が出て来る背景を探る、、、というものになっていて、これが終盤で意外な方に展開し、ラストも救いがないあたりは、アメリカン・ホラー(いやだからホラーじゃないって)にしては大人な作品になっていると感じた次第。

 見どころとしては、マーティン・ランドー演ずるゴーストハンターのオライオンが、本業は有能な建築家っていう設定だからか、オカルト現象に対してロジカルに解明しようとするところ。まあでも、一応、幽霊だからオカルトなんだけど。

 序盤は、死んだ母親から電話がかかって来て、死んだ母親の霊が云々、、、っていう話なんだが、これもミスリードで、実は、、、という明らかになる背景がそれなりにひねりが効いている。

 ほかには、いかにも怪しい家政婦の老婆が実は、、、ってのも、なかなか面白かった。まあ、途中で分かっちゃうといえば、分かっちゃうけど、展開が推測できても、人物描写やストーリーがしっかりしていれば、ゼンゼン問題ないでしょ。実際、この老婆は、最後の最後までカギになる人物で、この人のおかげで、ラストは救いがないことになるのだ。

 この映画は、ゴーストハンターものではなく、ある意味、母と娘の確執物語と言える。こういう背景が設定されているとは予想もしていなかったので、なかなか面白いと感じたのかも。

 マーティン・ランドー、一見、悪役っぽい顔だけど、本作では冷静で知的な紳士だった。この方は、刑事コロンボの「二つの顔」で双子役(一人二役)を演じているんだけど、その時の印象で、悪役っぽいと感じていたのかな、、、。コロンボでの彼も、なかなかステキだったよなぁ。割と最近まで長生きされたのですね、、、。「手紙は憶えている」(2015)にも出ていたんだった。

 彼の演じるオライオンは建築家だからか、その自宅の建物がもの凄い変わっていて(というかバランスが悪そう)個性的。内装も、豪邸の割に、階段がチープな螺旋階段とか、、、。で、中盤でこのヘンテコな建物の中が見たいっていう若いお姉ちゃんが出て来て、オライオンと「じゃあ(夜の)8時にここで待ち合わせよう」とか約束するんだけど、その後、ラストまでこのお姉ちゃんは出て来ない、、、。どうなったんだ、あのお姉ちゃん。

 あと、特筆すべきは、幽霊の映像。映像技術の未熟な時代のものだけど、モノクロを活かした、まあまあグロい映像になっていた。今見れば、そりゃあゼンゼン稚拙で怖くないけど、当時の人たちが見れば、割と驚いたんじゃないかしらん、、、。

 ……しかし、本作の何がJホラーに影響を与えたんだろうか。うぅむ、、、分からん。でも、多分、、、じゃなくて、もちろん、見終わったときに“時間のムダ”とかは思わないと思いますよ。


 

 

 

 

 

オープニングから割と映像が凝っている作品です。

 

 

 

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シェフ 三ツ星フードトラック始めました(2014年)

2023-12-26 | 【し】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv56908/


以下、ソニーの商品紹介ページ(?)よりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 ロサンゼルスの有名レストランで料理長を務めるカールは、口うるさいオーナーや自分の料理を酷評する評論家とケンカして店を辞めてしまう。心配する元妻イネズの提案で、息子パーシーを連れて故郷のマイアミを訪れたカールは、そこで食べたキューバサンドイッチの美味しさに驚き、フードトラックでサンドイッチの移動販売をすることを思いつく。

 カールはイネズやパーシー、仲間たちの協力を得て、マイアミからニューオリンズ、ロサンゼルスへと旅を続けながら、本当に大切なものを見つけていく。

=====ここまで。


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 職場に「団地ともお」の“ともお”がそのまんま大人になったような男性がいるんだけど、彼が、この映画が公開された当時「すねこすりさん、これ、すげぇ~良かった!まぢでっ!!見てみて!!!」と、細い目を1本線にして満面の笑みでオススメしてくれたのでした。

 まあ、ちょこっと面白そうかなぁ、とは当時も思ったものの、あんましそそられないなぁ~、と長らく放置してしまい、、、(ごめん、ともお)。先日、BSでオンエアしていたのを録画して、ようやっと見たのでありました。


◆ん~~~、やっぱりごめん、ともお。

 結論から言うと、面白いけどつまんなかった、、、という矛盾した感想となったのだった。

 見ている間はお気楽に、アハハ~!と見られるし、鑑賞後感も良い。けれど、噛み応えが無いというか、見て終わり、、、な作品だった。

 普段からちょっとクセのある映画ばかり見ているせいか、どうも素直に画面を見ていられない。平和に話が進んでいても「この次のシーンで何か大問題が起きるのでは?」「この後、とんでもない悲劇が起きるかも??」とかドキドキしながら見てしまう。……で、結果、何もなく、いたって平穏無事に終始したストーリーは、私にとってはあまりにも単調過ぎるように感じられてしまうのだった、、、ごーん。

 つまり、山ナシ谷ナシ、ハッピー&ラッキー、みんなイイ人、イエ~イ!! な映画は、最早私の心には何も響かないのである。……これって、哀しむべきこと?

 いやまぁ、一応、谷はあるんだよね、序盤。YouTubeが炎上して店をクビになるっての。でも、その後のリカバリーは全くノープロブレムでスルスルと話が進んでいく。本人が努力するとか何とかではなく、周りがあれやこれやとお膳立てしてくれる、試みは全て吉と出る、結果、大成功!!ってさ、あーそーですか、の最たるもんじゃん。現実はそんなに甘かねぇよ、とか言いたくなるわけよ、性格が歪んでいる者としては。

 え?? 名シェフになるまでに努力したんだよ、、、って? そんなん映画で描かれてないから知らんわ、、、って。

 本作は、ファンタジーだと割り切って見れば楽しいし幸せになれて良いよね~~、というわけで、ともおの推し映画なのも納得ではある。職場のともおは、アバウト営業マンだからな。

 ちなみに、ともおには感想は言っていない。もう、ともおは覚えていないだろうから、この映画をかつて私に激推ししたこと。そういうヤツなのよ。……いや、これは悪口じゃないのよ。そういうところが彼の良さだってこと。 

~~以下、ネタバレバレです。~~


◆ラストが、、、

 ファンタジーと書いたけど、ちょっと、どうもなぁ、、、と思ったのはラストのオチ。

 何と、カールと元妻イネスは、復縁して再婚パーティを盛大に開くのである。それがラストシーン。……はぁ??まあそら、世の中そういうことはあるでしょう。でもさあ、絶対また上手く行かなくなるの、火を見るより明らかやん、この2人、、、、とかって思う私は、やはりリアリストなのか?

 何か、そこまでは内心ツッコミを入れながらも、まあ、割り切って見ていたつもりだったんだけど、最後の最後でズッコケた。

 別れた男と復縁、、、私にはあり得んわ~。別に嫌いになった人はいないけれども、正直、もう違う世界で生きていたいと思ってしまう。こういう映画や話を見たり聞いたりすると、ホントに不思議で分からなくて、ちょっとイヤな気持ちにさえなるんだよね、、、何でだろう。どうして復縁なんてする気になれるのか、、、。
 
 とはいえ、2人の息子ちゃんは可愛いし、カールの作る料理はどれも美味しそうだし、こういう映画にケチをつける方が野暮ってもんだろう。

 疲れたときとか、ボーッとしながら見られる映画ではあるが、落ち込んでいるときに見たら、「こんなウソくさい話あるかよ!!」って却って落ち込むかも知れない危険はあるかもね、、、いや、ないか。

 ゼンゼン感想文になっていなくてスミマセン。

 

 

 

 

 


キューバサンドイッチ、めっちゃ美味しそうだった。食べてみたい。

 

 

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シック・オブ・マイセルフ(2022年)

2023-10-21 | 【し】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv82408/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 シグネの人生は行き詰まっていた。長年、競争関係にあった恋人のトーマスがアーティストとして脚光を浴びると、激しい嫉妬心と焦燥感に駆られたシグネは、自身が注目される「自分らしさ」を手に入れるため、ある違法薬物に手を出す。薬の副作用で入院することとなり、恋人からの関心を勝ち取ったシグネだったが、その欲望はますますエスカレートしていき――。

=====ここまで。


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 少し前に、TwitterのTLに本作の予告が流れてきました。その時のスチール画像を見た瞬間、『オテサーネク』やん??と思って、強烈に印象に残りました(オテサーネク、好きなもので、、、)。

 

左が本作、右が『オテサーネク』。……似てませんか?

 

 でまあ、あらすじとか一応チラッと見たけど、この画像で内容を期待して良さそうと直感したので、公開直後のサービスデーに見に行ってまいりました。いやぁ、、、期待に違わぬ、、、どころか、期待のはるかナナメ上を行く作品でござんした。ひょ~~。

 ちなみに、上記のあらすじは若干ピントズレな気がしますね。シグネは恋人の関心を引きたかったからあんなことをしたわけじゃないと思うんですが、、、。公式HPでコレはどーなのかしらん。


◆肥大化した自己顕示欲を持て余すシグネ。

 死愚ね、、、じゃなくて(なかなか的を射た変換だ)、シグネという女性が本作の主人公なんだが、ここまでイッちゃってるヤバいキャラは、なかなかいないのではないか。彼女に匹敵するヤバいヒロインとしては、、、『パッション・ダモーレ』のフォスカ、『私、オルガ・ヘプナロヴァー』のオルガ、『地獄愛』のグロリア、、あたりが思い浮かぶが、方向性がかなり違うかな。フォスカとグロリアは一人の男に執着し過ぎなストーカー気質、オルガは対人距離感のオカシな人だった。シグネは、自己顕示欲の塊。もう、まさにビョーキ。

 自己顕示欲、、、誰にでもあるものだと思うけど、大抵の人はそれをあんまし露骨には出さないようにする。目立つの大好き人間もたくさんいるけど、彼らだって、例えば自分が期待していたより周囲の反応が薄かった時に「何それ、そんだけ?そんな程度?アタシのことバカにしてんの??」なんて相手にグイグイ追及しないでしょ。せいぜい「え、もっと褒めてよ!」とかおちゃらけて言う程度じゃないか?

 でもシグネは言っちゃうのだ。「何それ」って。

 ヘンなロシアの薬をのんだ副作用で顔面崩壊した後、いかがわしい事務所の紹介でモデルをすることになったシグネ。それを自慢げに友人夫婦に喋るが、友人夫婦は「その事務所、障がい者を見世物にしてるって噂聞いたから、、、」と心配するわけだが、シグネは「何それ、アタシにはモデルなんかできっこないとか思ってるわけ??もっとスゴいって言いなさいよ!!」(セリフ正確じゃないです、ゼンゼン)とか言って絡んで、友人夫婦を呆れさせてしまうのだった。

 このシーンは後半なんだけど、もう、序盤からシグネはヤバさ全開である。

 注目を集めるためなら、食物アレルギーだと大ウソをつく、犬に顔面を嚙みつかせようとする、、、挙句の果てが、ロシアの“リデクソル”という脱法ドラッグ。それをのむと、副作用で皮膚が爛れると知り、シグネはそれをヤク中の友人にネットで大量に購入してもらい、せっせと服用するんである。

 ……もう、、、あーあ、、、って感じのシーンが続くのよ。

 顔面が崩壊することよりも、周囲に注目されないことの方が、シグネにとっては我慢ならないらしい。注目を浴びるなら、顔面が崩壊しようが病気になろうが構わない。ところどころ挟まるシグネの「こうなったらいいのにな~」という妄想シーンがまたイタい。妄想とリアルが微妙に曖昧に提示され、シグネのヤバさを暗示しているようで、ある意味コワい。

 結局、シグネの自己顕示欲は満たされないまま終わる、、、ごーん。


◆シグネは性格が悪いのか?

 シグネがこうなったのには、きっと生い立ちに何らかの原因があるんだろうと思うが、そこは全く描かれないので分からない。母親は出てくるが、イマイチ存在感が薄く、シグネにアサッテなアドバイスをするだけなところを見ると、やはり、シグネは愛情不足な環境だったのではないか、と推察される。

 彼氏トーマス(この人もかなりヘンな人ではある)は、シグネが顔面崩壊して入院すると、「もっとオレが話をちゃんと聞いてあげればよかった」と後悔して、泣く。トーマスは、シグネが嘘をつきまくっていることを分かっているし、シグネが顔面崩壊してその後も体調がどんどん悪くなっても、彼女から離れようとしない。これは、愛なのか、、、それとも共依存、、、? 多分、後者なんだろう。

 シグネは、自己顕示欲を満たすために、その矛先が自身の肉体改造へと向かったのだが、これが反社会的行動になって他者へと向かったのが『私、オルガ・ヘプナロヴァー』のオルガだろう。どちらが良いとは言えないが、他人を物理的に傷つけないだけ、シグネの方が罪がないかも知れぬ。

 ネットの感想に、「シグネの性格が悪過ぎる」と書いている人がいたんだが、それはまあ間違いじゃないけど、彼女の場合はもう性格とか何とかではなく、病気なので、きちんと精神科で治療を受けないといけない状態なわけよ。性格が本当に悪いかどうかはその後の問題。私は見ていて、序盤こそ「何このヤバい人、、、」と思ったが、途中から可哀相になってしまった。彼女はこのまま適切な治療を受けない限り死んでしまうだろうから、どうにか救われてほしい、、、と思って祈るような気持ちで最後まで見た次第。……ま、救われなかったんだけど、本作内では。

 
◆バズりなんかじゃダメなのよ。

 “承認欲求”全盛の現代で、その塊みたいな主人公シグネだが、本作ではそのツールであるSNSはあくまで遠景にしか描かれていない。SNSは、結局、承認欲求を瞬間的に満たすための道具に過ぎないことを踏まえてのことだろう。シグネが妄想する理想は、TVのインタビュー番組に出演したり、体験記を出版してその本がベストセラーになったり、、、というもので、バーチャルでのバズりではないところがミソである。彼女にとって、バズりではダメなのだ。

 これは、本作において案外重要なことではないか。ネットでのバズりなんてのは、誰にでも起き得ることで、運やタイミングも左右する。しかも一時的で打ち上げ花火に終わることがほとんどだ。シグネでなければならない理由は全くない。けれど、TV番組に呼ばれる、本が売れる、、、ってのは、シグネ自身にスポットライトが当たった結果のことであり、彼女の夢想はここにあるのだ。

 有名人の全てが、才能があったり、努力の人であったり、、、というわけでもない。シグネから見れば“何であの人が、、、?”な人もいるのだろう(その一番身近な例が彼氏のトーマスかもだが)。何でアタシじゃないわけ? あの人が注目浴びてるのにアタシが注目されないのヘンじゃない? って感じじゃないか。シグネが可哀相なのは、あんな姿になっても、集団セラピーの場で、まだ自分を過剰演出してしまうところ。ぶっちゃけ、不幸自慢。

 でもさ。仮にシグネが一躍注目を浴びたとしても、世間はすごく忘れやすいから、すぐにシグネに集まった注目も潮が引くようになくなってしまうと思うのだよ。そうすると、シグネの場合、注目を浴びる前よりもさらに承認欲求が強くなるか、世間に忘れられたことにショックを受けて激しい鬱になるか、、、とにかく、注目が集まっても病むと思うのよね。どっちにしても、彼女に必要なのは、やっぱり“治療”でしょ。

 本作はノルウェーが舞台なんだが、北欧映画って、そんなにたくさんは見ていないけど、こういう人間の醜悪さを容赦なく描いちゃう作品が結構ある気がするなぁ。一度は行ってみたいな、ノルウェーとかアイスランド。

 

 

 

 

 

 


犬の飼い主がシグネを罵倒するシーンが、不謹慎だが笑えた。

 

 

 

 

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地獄愛(2014年)

2023-05-05 | 【し】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv62744/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 シングルマザーのグロリア(ロラ・ドゥエニャス)は、友人に勧められ出会い系サイトで知り合ったミシェル(ローラン・リュカ)と会うことに。すぐに激しく恋に落ちるが、彼は寂しい女性を夢中にさせて欲求不満を満たし生計を立てる結婚詐欺師だった。

 ミシェルの正体を知ってもなお彼を愛し、きょうだいと偽って彼のそばで詐欺の手助けをしていくグロリア。しかし募らせた嫉妬心が暴走し、グロリアは女性を殺してしまう。

 さらにグロリアとミシェルはとどまることなく狂気をエスカレートさせていき……。 

=====ここまで。


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 前回の「変態村」に続き、“ベルギーの闇3部作”の第2弾。 

 これ、元ネタがあったということを、本作を見るに当たって初めて知った次第。“ロンリー・ハーツ・キラー事件”と言われているらしいが、これをネタにした映画は既にいくつか作られていて、1970年制作の『ハネムーン・キラーズ』、2006年制作の『ロンリーハート』が知られているみたい。『ロンリーハート』では、この狂気のカップルを、トラボルタとサルマ・ハエックが演じているというのだから、面白そうかも、、、。

 で、本作は、それらのリメイクではなく、元ネタが同じというだけの別作品。

 「変態村」でも受難の男を演じていたローラン・リュカが、本作でも巻き込まれ結婚詐欺師役。本来なら、結婚詐欺師は巻き込む側のはずだが、この事件の場合は、巻き込まれちゃったというのがこの元ネタの異常さ。相手が結婚詐欺師と分かっても、なお、その男に着いて行く女、、、。

 グロリアは、ミシェルと出会う前は、友人に出会い系サイトを勧められても気乗りしない様子だったのに、ミシェルに会って一晩寝たら激変。その激変っぷりが、ちょっと見ている方の想像を超えるレベルで着いていけない。

 いや、詐欺師なのに何で?というツッコミもあるだろうが、まあ、そこは詐欺師でも好きになっちゃったなら仕方がないかな、、、と一応、想像の範囲内なんだが、それにしたってあそこまで熱狂的に一人の男に惚れるって、正直、スゴいなぁ、、、と感嘆してしまう。そこまでハマれる男に出会ったこと、、、ないもんね。

 ミシェルは詐欺以外に能がない男なので、生きるために詐欺師を続けざるを得ない。真っ当な仕事などいまさら出来ないわね、あれじゃ。で、詐欺師なので、口が上手い。だから、全然本心じゃなくても、カモの女に甘い言葉のシャワーを浴びせることなど朝飯前である。ミシェル自身が「セックスも仕事のうち」と言っているとおり、それは、あくまで“お仕事”なんであるが、グロリアはそれを頭では理解できても、感情のセーブが効かないのである。ミシェルがカモの女とイイ雰囲気になると、我慢できなくなってカモを殺しちゃう。

 最初の殺人の後、遺体処理シーンがなかなかの衝撃である。グロリアは哀しそうな顔をして歌を歌い終えたかと思うと、でっかい解体用の糸鋸をニュッと振りかざして、ギーコギーコと遺体の足を切断し始めるという、、、シュールかつ悪趣味な画であった。切断箇所にはボカシが入っていたけど、、、。

 一度殺しちゃうと、後はもう歯止めが利かなくなるのか、簡単に殺してしまう。

 正直、なんだかなぁ、、、と思いながら呆れて見ていたが、最後の被害者を殺しちゃうシーンは、ハッキリ言って凄く嫌悪感を抱くものだった。今、思い出しても胸クソ悪い、、、。ミシェルが少女を逃がしたのがせめてもの救い。

 もちろん、2人は最終的に捕まることを予感させる終わり方なのだが、後味はかなり悪い作品だと思う。

 元ネタのカップルは分からんけど、本作のグロリアはミシェルを愛していたというよりは、ひたすら独占したかったんじゃないのかね。……というか、失うのが怖くてたまらなかったのだろうね。一度夫を失う経験をしているからか、ミシェルを失ったら、、、と考えると発狂しそうになるくらい怖かったんだと思う。実際、発狂してるしね、、、あんなおぞましいこと何度も、、、。

 一方のミシェルはというと、グロリアが殺人を犯すたびにパニくるのだが、一時的で、とにかく先のことを考えることが出来ない人なんだと思う。人を騙すことには長けていても、場当たり的で、グロリアと一緒に行動を続けるとどうなるか、、、ってことを考えられない。考えるのがメンドクサイ。成り行きに任せればいっか、、、みたいな思考の人。グロリアが荒れ狂っていると、“いないいないばぁ”みたいな子供だましでなだめようとする辺り、この男の底の浅さが知れる。

 ラストの被害者になる女性には、ミシェルはかなり本気になっていたように見受けられ、グロリアに何かを入れた飲み物をしきりに飲ませるシーンがあったので、私はてっきり少量ずつ毒を盛って自然死に見せかけてグロリアを始末しようとしているのだと思って見ていた。……が、結果的には、グロリアに飲ませたのは一時しのぎ的な睡眠薬で、女性とセックスする時間稼ぎをしたかっただけのようであるし、グロリアに脅されて自ら女性を手に掛けるという、、、あんまし好きな言葉じゃないけどほかに思いつかないから使っちゃうけど、“クズ”である。

 ある意味、お似合いのカップルとも言えるが、殺された女性たちにしてみれば、ひどい災難である。

 まあ、ごちゃごちゃ考えることを拒絶するようなオハナシではあるが、こんなカップル、どう見ても狂っているし、理解はできんけど、本人たちとしては確かに“どうしようもない愛”なのかも知れない。そういう意味では、このタイトル「地獄愛」は、まさに的を射たものであると、またまたこの邦題に感心してしまった次第。

 

 

 

 

 


第3弾の「依存魔」は、ちょっと時間をおいてから見ようかな。

 

 

 

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SHE SAID/シー・セッド その名を暴け(2022年)

2023-02-11 | 【し】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv78914/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 ニューヨーク・タイムズの記者ミーガン・トゥーイー(キャリー・マリガン)とジョディ・カンター(ゾーイ・カザン)は、ハリウッドに君臨する映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインの数十年に及ぶ性的暴行について調査を開始する。

 取材を進める中、ワインスタインが過去に何度も記事をもみ消してきたことが判明。さらに、被害にあった女性たちはそのほとんどが示談を受け入れており、証言すると訴えられるという恐怖や、当時のトラウマによって声をあげられずにいた……。

 問題の本質は業界の隠蔽構造だと知ったミーガンとジョディは、調査を妨害されながらも信念を曲げず、証言を決意した勇気ある女性たちと共に突き進む。

 そして、サバイバーたちによって遂に沈黙が破られ、ワインスタインによる悪質な事件の全貌と真実が明らかになっていく……。

=====ここまで。


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 スルーしようと思っていたけど、巷で評判が良いのでやっぱり見に行きました。


◆ノミネートゼロは妥当なのか?

 ご存じ、#MeToo運動が広がるきっかけとなった、アメリカ映画界セクハラ事件を世に問うた記者たちの悪戦苦闘を描いた映画。少々実話モノに食傷気味でもあり、ゾーイ・カザンがちょっと苦手なこともあって、スルーするつもりだった。

 何で見ようと思ったかというと、Twitterで賞賛のツイートがチラホラ流れて来ていたのと、本作が今度のアカデミー賞の賞レースにかすりもしなかったことで、一部フェミの間で批判が上がっていたから。

 そーか。じゃあ、どんな映画かこの目で見ておこう、という気になった次第。

 で、結論から言うと、面白いし真面目に作られた良い映画だけど、まあ、ノミネートゼロなのはそれほど不思議じゃないな、ってこと。

 何でどの部門にもノミネートなしだったのか、真相は分かるはずもないけど、私が感じたのは、既視感が強いということ。この手の“ヤバいネタ”を世に出すためのメディアの裏側を描く映画では、古くは『大統領の陰謀』(1976)とか、最近では『スポットライト 世紀のスクープ』(2015)とかが既にオスカーをゲットしているし、フェミ系映画としては割と斬新な切り口の『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2020)がオスカーをゲットしている。別に、フェミへの眼差しに欠けるから、フェミ映画として本作を無視した、ってことでもないように感じる。

 本作が賞レースに乗るには、それらの既出作品を超える何かがなければならないという、かなり高いハードルが最初からあったともいえる。


◆事実を確実にニュース化するということ。

 こういう、メディアの裏を描いた作品を見ていつも思うのは、やっぱし、事実を公にする、報道するためには、多大なコストがかかるってこと。

 なぜなら、あるネタが事実かどうか、ウラをとるのは、人間がするしかないから。近未来ではAIができるようになるのかも知れないけどさ。やはり、人が動く=金がかかる、なわけよ、ぶっちゃけ。その人が、大手メディアの記者だろうが、フリーのライターだろうが、動けば、普通に交通費や人件費がかかる。場合によっては、飲食費や宿泊費も余計にかかる。手間もかかるが、その手間にも金がかかっている。

 ネットのタダ記事に馴らされている現代人は、金を払って情報を買うことの意義を忘れがちだが、事実を、しかも重大で、ヤバければヤバイ事実ほど、それをニュース化するには、膨大なコストがかかるのだ。逆に言えば、タダで出てくる情報なんてのはゴミみたいなもんだということ。所詮“安かろう悪かろう”なんである、情報も。

 もちろん、金だけじゃない。こっちの方がもっと重要だろうが、取材力・調査力が必要不可欠だ。この能力は、一朝一夕に培えるものではない。そこに既にもの凄い時間と費用がかかっているわけだが、この能力なくして、重大な不都合な事実を暴くことなど不可能である。

 それが証拠に、ワインスタインは多大なコストを掛けて情報をコントロールしていたではないか。そこまでして、己の性欲・支配欲を満たそうとする思考回路は理解不能だが、世に出したくない、不都合なネタほど、手段を選ばず隠蔽されている。だから、それを掘り起こそうとすれば、財力・知力・胆力が必要なのである。

 本作で主役の2人の記者ミーガンとジョディは、そういう意味ではまだ若干経験値が足りないのだが、そこを絶妙にカバーして彼女らを導くのがパトリシア・クラークソン演ずる上司レベッカ・コルベットである。彼女の経歴は分からないが、恐らく彼女も、男社会だったニューヨーク・タイムズで数々の修羅場をくぐって来たツワモノだろう。この方が実在したのかどうか(多分実在だろう)分からないが、こういう人がいるというのは、若い2人の記者にとってどれほど心強かったろうと思う。

 真相に迫る過程はやはりスリリングであり、ワインスタインは声と後ろ姿でしか出て来ないが、直接2人が対峙する終盤のシーンは、本作の白眉である。彼女たちは、レベッカたちに鍛えられて、ワインスタインらを前に堂々としたもんだった。エラい!!

 多大なコストをかけて、やっとの思いで記事化されたのは良いが、問題はそれを出すタイミング。何であれ、重大スクープは出すタイミングが命取りになりかねない。ライバル紙の動きも気になるし。本作では、ネット社会での記事の出し方も考えさせられるラストシーンとなっている。その一瞬は、呆気ないほどである。

 ただ、驚いたのは、ジョディが被害者の一人に会いに行くシーンで、本人が留守だったためにその夫と話をするんだが、被害に遭ったことを夫にベラベラ話しちゃうんだよね。これ、マズいんじゃないの??とビックリ。だって、夫に秘密にしていたかもしれないし(実際、夫は知らない様子だったし)、あまりにも不用意だと思うのだが。その後、被害者本人と話すシーンが出て来て、この件は何事もなかったかのようにスルーだったのが、ますます??だった。


◆怖いんだよ!!

 本作は、実際にあった事件を映画化しているということで、主要登場人物は実名である。こういうところは、正直、本当に羨ましい。邦画界でこれを実現させられる骨のある映画会社はゼロだろう。……というか、アメリカ映画では基本実名なんだが。邦画界も、もっと自国の観客を信頼してはどうか。どこを向いて映画を作っているんだろうか。

 ワインスタインのやってきたことは、セクハラなんてもんじゃなく、立派な性犯罪である。なのに、長年黙認されてきたってんだから、この手の問題の闇は深い。とにかく、セクハラもそうだが性犯罪の場合、加害者よりも被害者が責められるという、特異な社会構造がある。加害者が100%悪いのに、なぜか被害者に非があると言われる。お前が誘ったんだろ、隙があったんじゃねーの、等々。

 しかも、本作では、ワインスタインはその財力にモノを言わせて、金で相手の口を封じ、被害者の弁護士も巨額の成功報酬に目がくらんで、刑事告発をさせなかったというのだから、もう、被害者にとっては地獄である。まさに“加害者天国”。メディアも法曹界も映画界も、こぞって天国の演出に加担していたってことだわね。

 でもこれ、アメリカに限らず万国共通だと思うわ。当然、日本もね。で、被害者は沈黙させられる。

 印象的だったのは、被害者が一様に、被害に遭遇した時の心情を「怖かった」と言い、その後、被害について口にすることも「怖かった」と、常に恐怖感を口にしていたこと。もうね、これは、もの凄くよく分かる。私もセクハラレベルの被害なら、かつていくつも遭遇しているので。ましてや、犯罪ともなれば、、、。

 取材する2人も(原作読んでいないので分からないが)、実際はもっと緊迫した局面が多々あったに違いない。自らの意志で調べているとはいえ、恐怖感は相当なもんだったろう。

 ネットの感想で、男性によるものをいくつか見たが、やはり『SNS-少女たちの10日間-』(2020)でも見かけたのと同様、「こんなひどいことが実際あったなんて!」的なことを書いている人がいた。確かに酷いけど、女の私から見れば極めてリアルな話でしかなかった。中には、「大好きな映画の世界でこんなことが、、、」というのもあり、オメデタ過ぎて笑ってしまった。この問題での男女の認識の差って、永遠に埋まらないのかも。

 良かったのは、あんまし“女だから”的な要素が強調されていなかったことかな。記者2人は子持ちのワーキングマザーだが、仕事と子育ての両立!!みたいな切り口はほぼなく、ミーガンが若干産後鬱っぽくなっているくらいで、日常としての描写に徹している。

 ミーガンを演じたキャリー・マリガン、あんなにハスキーで低い声だったかしらん?? なんか、出産後で育児に疲れている感じがよく出ていた。

 本作は、ブラピが出資しているのね(アンジーにDVで訴えられていたのは却下されたのか?)。グウィネス・パルトロウも実名で声だけの出演をしている。ワインスタインの制作した映画をみんシネで検索したら、ものすごい数で、しかも、DDLやHBCの出演作も複数あり、ヴァルタン主演の「マンイーター」もだった!! もしや、DDLやヴァルタンも傍観者だったのではないか、、、と不安になる。もしそうだったら、かなりガックシだなぁ、、、。

 

 

 

 

 

 


相変わらずダサい邦題(何とかならんのか、、、)

 

 

 

 

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ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地(1975年)

2023-01-17 | 【し】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv74419/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 思春期の息子とブリュッセルのアパートで暮らすジャンヌ(デルフィーヌ・セイリグ)は、湯を沸かし、ジャガイモの皮を剥き、買い物に出かける。そんな平凡な暮らしをしているジャンヌだったが……。

=====ここまで。


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 昨年、渋谷だったかで「シャンタル・アケルマン特集」があったのだが、都合がつかなくて行けず仕舞い。中でも、本作は是非見たいと思っていたので、あーあ、、、という感じでいたのだが、早稲田松竹が新年早々かけてくれました。他の作品も見たいけど、何といってもアケルマンといえば本作。

 いやぁ、、、これは見て良かったです。というか、見ないと損かも。


◆ジャンヌのルーティン

 映画にしろ小説にしろ、良い作品というのは“省略の美”が大事だと言われるし、同意である。そういう意味では、本作はその対極にあるといってもよい映画であって、省略しないことの意義を納得させられる稀有な作品である。200分の映画だけど、ゼンゼン長さを感じなかったのがスゴい。

 朝、起床したジャンヌが息子を学校へ送り出すまでのルーティンの映像がず~~~~~っと流れ続ける。長回しでほとんどカットがない。でも、見ていて飽きない、ゼンゼン。それは、ジャンヌを演じるデルフィーヌ・セイリグの動きに無駄がなく、品があって美しいから。家の中でも靴を履く欧米ならではで、ジャンヌが歩くコツコツと鳴る足音がまたイイのだ。

 ストーブに火を入れ、息子の靴を磨き、コーヒー豆を挽いてコーヒーを淹れる、、、と、文字にすると味気ないけど、見入ってしまう。

 見ていて思ったのは、YouTubeの動画ブログによくある“〇〇ルーティン”みたいだなぁ、、、ということ。動画ブログも色々だが、人様の極々プライベートな時間・空間での行動を見るのは、覗き趣味的なのかも知れないが、ハッキリ言って面白い。例えば、同じコーヒーを淹れるという動作一つとっても、人によって「へぇー、こんな風にするんだ」という発見がある。そんな私的な部分は、一昔前までは、まったくのナゾだったのだから。

 とはいえ、動画ブログでも演出は当然あるだろう。本作でも、制作裏話を聞くと、ジャンヌの一つ一つの動きについて実に細かくアケルマンとセイリグは打ち合わせをしたのだという。観客がスクリーンに見たジャンヌのモーニング・ルーティンは、彼女らの計算しつくされた動きだったのだ。

 キッチンでの映像が多く、腰より少し上くらいの高さに設置された固定カメラは、淡々としたジャンヌの動きをひたすら映し続ける。普通の映画だったら、数秒、長くて1分くらいでカットになるシーンだろうが、ここまで執拗に描写する必要があるのか、、、?と思って見ていると、その必要性は、中盤以降からだんだん感じて来て、ラストでこれまでのあの延々とした映像がなぜ必要だったのかを理解できるようになっている。

 見終わって、ボー然、、、。うわぁ、、、やられた……って感じだった。


◆真似しちゃダメ。

 つまり、ジャンヌの規則正しいルーティンに、ほんの少しの綻びが生じ、それがどんどんジャンヌを思わぬ方へと導いていくことになるのだ。

 昨日と同じ直線のラインをなぞっているはずなのに、ある箇所で0.1ミリズレてしまって、元のラインに戻れないでいるうちに、元のラインと自分の進むラインがどんどんどんどん、1ミリ、1センチ、10センチ、、、、と離れて行ってしまう。……そんな感じなのよ、この映画は。

 その些細なズレは、あの省略のない連続した映像があってこそ、見ている者たちにジワリと伝わるのだ。そして、ジワジワと恐怖感が襲ってくる。これは何かが狂っていく前兆だ。……でも何が?これくらい、別に大したことないじゃん。……いやでも、何かヤバいでしょ、このズレ、、、!!!

 それが、普通の映画みたいにカット割りでつないでいれば、説明的になって、ヤバさを演出するばかりにあざとくなる、、、という結果になりかねない。手に汗握るジワジワとした恐怖はあんまし味わえないだろう。

 でも、だからって、こんな演出を実践してしまうアケルマンの発想と実行力には恐れ入る、、、としか言いようがない。真似してみたとしても、きっと本作のような効果は生まれないだろう。誰もが出来る芸当ではない。

 セリフが異様に少ない映画なのだが、その少ないセリフの中でも、ジャンヌと息子の短い会話にギョッとなる。ジャンヌは亡き夫と愛情なく結婚したことを話すと、息子が「自分は好きじゃない人とセックスなんかできないと思う」(セリフ正確じゃありません)と返す。するとジャンヌは「セックスなんて大した問題じゃない。あなたを授かったんだし」とシレっと言うのである。

 この会話で、この母と息子の関係性は十分に察せられる。こういう、何でもなさそうなシーンに横面を張られた気分になるのだった。

 本作が名画だとか、見るべき映画だとか言われるのも納得。滅多にこんなことは書かないが、書いちゃいます。「見ないと損」です。アケルマンのBlu-rayが出るらしいのだが、欲しい、、、。

 

 

 

 

 

 


じゃがいもをゆでる時間も決まっていたのに、アイツのせいで……

 

 

 

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少年の君(2019年)

2022-10-08 | 【し】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv73154/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 進学校に通う成績優秀な高校3年生のチェン・ニェン。全国統一大学入試(=高考)を控え殺伐とする校内で、ひたすら参考書に向かい息を潜め卒業までの日々をやり過ごしていた。

 そんな中、同級生の女子生徒がクラスメイトのいじめを苦に、校舎から飛び降り自らの命を絶ってしまう。少女の死体に無遠慮に向けられる生徒たちのスマホのレンズ、その異様な光景に耐えきれなくなったチェン・ニェンは、遺体にそっと自分の上着をかけてやる。しかし、そのことをきっかけに激しいいじめの矛先はチェン・ニェンへと向かうことに。

 彼女の学費のためと犯罪スレスレの商売に手を出している母親以外に身寄りはなく、頼る者もないチェン・ニェン。同級生たちの悪意が日増しに激しくなる中、下校途中の彼女は集団暴行を受けている少年を目撃し、とっさの判断で彼シャオベイを窮地から救う。

 辛く孤独な日々を送る優等生の少女と、ストリートに生きるしかなかった不良少年。二人の孤独な魂は、いつしか互いに引き合ってゆくのだが・・・。

=====ここまで。

 
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 昨年の劇場公開時に見そびれ、ようやっとDVDで見ました。


◆いじめと受験戦争

 オープニングでいじめ云々のテロップが出るのだが、確かに、本作は“いじめ”が背景にある。いじめは、洋の東西を問わず、大人も子供も、人間の集う所にはついてまわる現象と言って良いのでは。これは、人間の、というか生き物の持つ気質みたいなもんじゃないかと常日頃思っている。あのさかなクンが言っていたけど、“お魚ちゃん”たちの間でも、群れで1匹の魚を小突き回したり仲間はずれにしたりという、いじめ現象が見られるのだとか。

 日本でも、もちろん“いじめ”は多発しており、被害者の自殺に発展する場合も少なくない。本作も序盤で被害者の女子生徒が投身自殺を図る。しかも現場である学校で。

 その学校が、国内有数の進学校という設定で、どうやら苛烈な受験戦争がいじめを誘発していると言いたげである。

 しかし、それは間違っている。前述のとおり、いじめはどこにでもあるのだ。受験戦争や進学校は、関係ない。日本では、進学校で、しかも高校でのいじめってのは、むしろ少数派ではなかろうか。最近の高校は知らんけど、、、。私が高校生だった頃も、同様に社会ではいじめが問題になっていたが、進学校に来るような子たちは、“いじめる時間があるならお勉強”という感じが多いし、自分のことで手一杯だったんじゃないか。陰で悪口、とか、ケンカ、くらいならあったろう。もし深刻ないじめがあったとすれば、本作のように、劣等感を持った子が拗らせていじめ行為に走る、、、というパターンか。

 なので、本作で主人公のニェンちゃんをいじめる美少女は、浪人生でイマイチ出来がよろしくない、というのはリアリティがあると言える。

 もう一つ、本作の背景にあるのは、まさにその“受験戦争”である。なかなかの壮絶っぷりは、さすが中国、科挙の国。今の日本のセンター試験よりもかなり厳しそうに見えた。しかも一発勝負の様である。

 この一発勝負ってのが、日本でも物議を醸し、少年少女たちの心身に悪影響を与えているという根拠不明な理屈で弊害だけがフォーカスされ、入試制度は猫の目改革の憂き目に遭っている。が、正直なところ、受験戦争経験者としては、そんな悪影響は、実社会に出てからの悪影響の比ではない、、、と思う。

 一発勝負は、確かに容赦ないが、公正性・透明性でいえば他の方法より利があるだろう。今の大学入試は、受験生の経験値がモノを言う制度になりつつあるように感じる。けれど、経験値を積めるのは、結局のところ、家庭環境がモノを言うのであり、生まれ落ちた家庭で人生の既定路線が敷かれてしまうという、かなり問題の多い制度だと思う。

 一発勝負でも家庭環境格差は解消しきれないが、少なくとも経験値とかいう、本人の努力ではいかんともしがたい部分で逆転の機会を奪われることは避けられる。本作のニェンちゃんのように死に物狂いで勉強すれば、それこそ“一発逆転”のチャンスが誰にでもあるというのは、社会にとって罪より功の方が大きいのではないか。階層固定化を一定程度緩和できるし、希望が持てれば活気のある社会にもなる。今の日本のように、諦めムードが覆いつくしている社会もちょっとは変わるんじゃないかしらん。

 中流より上の人々は、自分たちが良ければ下々のことはどーでもええ、と思っているかも知らんが、下々の層が厚くなれば、中流も上流もどんどん下に取り込まれて相対的に地盤沈下していくのは避けられない。まあ、もう今の日本はそうなっているけれども。だったら、海外脱出するからええんだ、とか思っているかも知らんが、外国はそんなにお人好しではないと思うよ。

 で、映画の話だ。

 とにかく、ニェンちゃんは、投身自殺事件の際にとった行動が原因で、自身がいじめのターゲットとなる。けれど、とにかく現状から脱出すべく、イカサマ通販で日銭を稼ぐ母親を反面教師に、必死で勉強するのだ。その必死さが画面を通して伝わって来て、胸が痛くなる。

 そんなニェンちゃんが、チンピラたちのケンカ現場に通りがかったのが縁で、チンピラの一人シャオベイと知り合う。学校でも家でも居場所のないニェンちゃんにとって、あばら家で一人暮らしのシャオベイとの空間は、心落ち着く場所になる。


◆“優等生とチンピラ”

 ……というわけで、優等生少女とチンピラ少年の組み合わせ物語は、割と定番。

 本作は、東野圭吾の小説のパクリ説もあったらしいけど、私はそれを読んでいないので何とも言いようがない。ないけど、この手の話は、別に目新しくもなんともなく、日本の少女マンガにもあったし、恐らく、世界中の小説や映画やドラマで掃いて捨てるほどにはあると思うよ?

 なので、私は割と冷めて見ていたのだが、本作が見終わって鮮烈な印象を残すのは、終盤からオチにかけての展開があるからだろう。ここでは敢えて書かないけど、決してハッピーエンディングにはなり得ない終盤への展開が、見ている者をハラハラさせる。

 シャオベイとニェンちゃん2人の痛々しい思い遣りが、ホントに痛い。私がニェンちゃんだったら、そもそもあの状況で試験に受かると思えない、、、ごーん。あそこで合格できちゃうニェンちゃんの学力と鋼の精神力に唖然とさせられた。

 ネットの感想を拾い読みしたら、あの終盤は蛇足ではないかと書いている人もいたけれども、ニェンちゃんが合格して、良かったね、、、じゃ、つまらん映画だったと思うなぁ。つまらんは言い過ぎか。ありきたりな映画になっていたと思う。

 本作は中国(香港)映画なんだが、中国映画には良い映画が多い、、、というか、良い映画が日本に入ってきているということなんだろうが、検閲をかいくぐっての制作であることを考えると、相当のエネルギー量である。台湾映画も良作が多いイメージがあるし。邦画も頑張って欲しいなぁ。

 ニェンちゃんを演じたチョウ・ドンユィ(周冬雨)は、撮影時27歳だったとか。普通に高校生に見えるのが凄い。透明感があって、屈折した感じを上手く表現していて良かった。途中で、髪の毛を刈って、シャオベイと2人で同じ頭になるシーンが印象的。……誰かに似ているなぁ、、、と思ってずーっと見ていて、誰だか分からなかったのだが、見終わって、あーコンマリだ!!とスッとした。コンマリって、あのときめく片付けの、、、。

 シャオベイを演じたイー・ヤンチェンシー(易烊千璽)くんはアイドル?らしいが、演技は確かだった。ちょっと高橋大輔に似ている??と思って見ていたのだが、、、どーでしょう?

 余談ながら現実的なことを言っちゃうと、優等生少女とチンピラ少年の物語は、飽くまでも青春の一幕ですね。大人になると、違いがあり過ぎてムリだと思うわ~。男と女が逆でも、、、やっぱムリかな。チンピラがチンピラのままだったら、、、という前提だけど。チンピラを脱出した物語が、『マーティン・エデン』(2019)かな。でも、やっぱしダメだったもんね。ブロディ主演の『ラブ・ザ・ハード・ウェイ~疑惑の男~』(2001)という超マイナー映画も優等生女性とチンピラ男の話だったけど、こちらは大人同士でラストはハッキリ描かれていないが、あんまし上手く行きそうな感じはしなかった。

 本作はラストで、2人のその後、、、と思しきシーンが出てくるんだが、はて、どうなっているでしょう。見てのお楽しみ、ということで。


 

 

 

 


 

 


いじめの首謀者は、美少女で超絶イヤな女。

 

 

 

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情熱の航路(1942年)

2022-05-28 | 【し】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv4452/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです(長いので編集しています。また、青字は筆者加筆です)。

=====ここから。

 ボストンの名望家、ヴエール家の娘に生まれたシャーロッテ(ベティ・デイヴィス)は、少女時代を専制的な母親・ヴェール夫人(グラディス・クーパー)と神経病のために不幸に過して来た。しかしジャクイス医師の親切な治療と義姉の聰明な取扱いとによって、今ではほとんど神経病の跡をとどめぬまでに治癒していたので、彼女は許されて初めて漫遊旅行に旅立ったのであった。

 その船中で彼女はジェリィ・デュランス(ポール・ヘンリード)に逢い2人はやがて激しく愛し合うようになった。しかし、ジェリィには既に妻があり、シャーロッテと同じように不幸な少女時代を過している神経病の娘があった。

 シャーロッテはジェリィと美しく別れて旅から帰ると、間もなくエリオット・リビングストンと婚約をしたものの、ジェリィへの愛情がたち切れず婚約を破棄。このことは彼女の母親を怒らせ、激しい口論となった結果、ヴェール夫人は心臓マヒで急死してしまった。

 シャーロッテは再びジャクイス医師の診療所に療養に向かうと、計らずも同じ療養所でジェリィの娘ティナに出逢う。シャーロッテはこの少女に憐みと愛情を傾けるようになって、自らこの少女の療養に手を貸した。やがて1人の少女へ注がれる同じ愛情によってジェリィとシャーロッテは以前の激しい情熱を通り越した静かなしかし深い友情によって永久に結ばれることになった。

=====ここまで。

 ベティ・デイヴィス主演作。

 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 今、早稲田松竹でイーストウッド特集が行われておりまして、1日1回だけ『ダーティ・ハリー』がモーニングショーで上映されております。スクリーンで見るのは実は2度目で、約2年ぶりだったんですが、やっぱし何度見ても良くできた映画だとしみじみ思いました。感想は、近々書きたいと思っております(いつになるやら、、、)。

 さて、本作は全然知らない映画だったのですが、映画友が見て印象に残ったと言っていて、どらどら、、、と思って見た次第。……確かに印象には残りますね、いろんな意味で。 


◆支配的な母親のおかげで病む娘

 前半と後半で印象が全く異なる映画だった。

 序盤、もの凄いおっかないお母さん・ヴェール夫人が出てくる。ベティ・デイヴィス演ずる娘のシャーロッテは、自分が歳とってからできた、いわゆる“恥かきっ子”だと本人の前で言って憚らず、メイクから化粧から立ち居振る舞い、行動に至るまで、娘の総てを支配する。おかげで、シャーロッテは神経を病んでいるのだけど、そら病むわね、あれじゃ。

 でも、シャーロッテの幸いなのは、そういう状況を客観的にオカシイと感じて、行動してくれる人がいたってこと。それはシャーロットの義理の姉で、名高い精神科医であるジャクイス氏を連れて来てくれるのだ。こんなこと、現実ではなかなか望めない展開である。

 ヴェール夫人は、ジャクイス医師にきっぱりと「あなたは間違っている」と指摘されるのだが、当然、彼女は自分がオカシイなどと認めない。認めないけど、第三者(しかも、この場合専門家)に冷静に指摘されることの意味はとてつもなく大きい。第三者に介入されることで、被支配者は救われる。ジャクイス医師は、この母娘を物理的に離し、シャーロットの精神的なケアに専念させるわけで、この処置がいかにシャーロットの人生にポジティブな影響を及ぼしたか、計り知れない。シャーロットにとって、ジャクイス医師は命の恩人である。

 療養の結果、精神の回復が見られたとして、一旦、家に帰るシャーロットだけれども、その後船旅に出て、そこで妻子持ちの男と出会って恋に落ちて、、、と、いうのが後半の展開になる。

 この男ジェリィの妻もかなりヤバい人らしく、2人いる娘のうち末娘ティナを虐待(ネグレクト)している、とジェリィ自身がシャーロットに語る。

 前半と後半で印象が異なると書いたけれども、“母娘の確執”は全編に通底しているといえばそうなわけで、ただ、この“取り扱い注意ネタ”が、終盤で男女の恋に都合よく使われるのはいただけない(後述)。


◆これが大人の恋なのか?

 ジェリィとの恋物語になってからは、おおむね退屈で、ふー-ん、、、って感じで見ていたのだが、ベティ・デイヴィスが恋する乙女な部分を見せるシーンもあり、私の中でのベティ・デイヴィスのイメージとはちょっと被らなくて意外な感じも、、、。

 ジェリィは、妻子がある身でも堂々とシャーロッテに「愛している」とか言って、シャーロッテもそれに目をウルウルさせながら応える。でも、ジェリィには離婚という選択肢は全くないらしいのだよね。これは、当時の社会がそういうものだったのかねぇ。どうもその辺が見ていて違和感ありまくりで、ふー-ん、という感じになってしまっていたのだ。

 ジェリィとシャーロッテは2人ともヘビィスモーカーで、ジェリィが煙草を2本くわえて煙草に火をつけて、1本をシャーロッテに渡すというシーンが何度も出てくるんだが、このシーンが、本作公開当時に話題になって、流行ったんだとか、、、。私はちょっと、生理的にこれはイヤかもなぁ、、、と思って見てしまった。こういうのも、ふー-ん、となってしまった一因か。

 でも、一番白けたのは、やはり、シャーロッテがティナの面倒を見ることになるというラスト。これはどう見ても、ジェリィとの叶わぬ恋の代償行動そのものでしょ。人ひとり世話するってことの重みがまるで感じられない。映画だからいいじゃん、、、とかいう問題ではないと思うのだが。これで幸せを感じているシャーロッテも、結局のところ、自分の母親と大差ないことをしている自覚はまるでないよね。自分がいかに独善的か、などと微塵も思っていなさそうなのが、終盤、ヒロインに失望してしまうという、なかなか辛い展開である。


◆その他もろもろ

 ベティ・デイヴィスは、序盤、母親に過剰に抑圧されているシャーロッテの演技がさすがである。一目で病んでいると分かるルックスもだけど、おどおどして、言いたいことも言えずにいる様を実にうまく演じている。また、母親の呪縛から解放されて垢抜けたシャーロッテになってからの、自信を付けて堂々とした様子は、ベディ・デイヴィスそのもので、堂に入っている。

 ジェリィを演じたポール・ヘンリードは、『カサブランカ』でしか知らなかったが、本作ではちょっとイメージが違った気がする。最初の登場シーンも地味で、あまりイケてる感じでもなく、、、、。ジェリィの、何となく優柔不断なキャラには合っていたと思うけど。

 ジャクイス医師のクロード・レインズがなかなか素敵だった。『アラビアのロレンス』にも出ていたとは。『スミス都へ行く』『カサブランカ』にも出ているらしい。『スミス都へ行く』は名画と評判だけど、私は全然好きじゃないので、もう一度見ようとは思えないけど、『カサブランカ』は久しぶりに見てみようかな。ポール・ヘンリードももう一度ちゃんと確認してみたい気もするし。

 ちなみに、ポール・ヘンリードはこの後、ベティ・デイヴィスが主演した『誰が私を殺したか?』で監督もしているとのこと。『誰が私を殺したか?』多分未見なので、見てみたい。
 
 

 

 

 

 

 


シャーロッテの眉毛の太さの変化に注目。

 

 

 

 

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シンプルな情熱(2020年)

2022-04-29 | 【し】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv73256/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 「去年の9月から何もせず、ある男性を待ち続けた」と追想するエレーヌ(レティシア・ドッシュ)。

 パリの大学で文学を教える彼女は、仕事もしたし、友だちと映画館へも行った。だが、彼と抱き合う以外のことは現実感がなく、何の意味もなかったのだ。

 彼の名前はアレクサンドル(セルゲイ・ポルーニン)、あるパーティで出会った、年下で既婚者のロシア人だ。友人のアニタ(キャロリーヌ・デュセイ)からは「のめり込まないで。いずれロシアに帰るのよ」と忠告されていたが、エレーヌには今の恋を生きることが全てだった。

 アレクサンドルからの電話をひたすら待ちわびるエレーヌであったが、彼から「次にいつ会えるかわからない、3週間フランスを離れる」と告げられる。彼の不在に耐えられなくなったエレーヌは、息子とフィレンツェへの旅に出る。

 そして、3週間後、アレクサンドルからの連絡を待つエレーヌのもとに、1本の電話が入るが…。

=====ここまで。

 セルゲイ・ポルーニンで話題になった映画。

 
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 いろいろ疲れておりまして、考えなくてもよい、なんかどーでもいい映画を見ようと思い、本作を選びました。……などと言っては、本作の関係者や、本作をお好きな方に怒られそうですが、誰が脱いだだの、誰が大胆なエロシーンやっただのが話題になる映画でロクなのがないのはお約束でございます。

 ……というわけで、本作もやっぱりそうでした、、、ごーん。


◆ポルーニンはセックス(の演技)しかしていない。

 想像はしていたけれど、ここまでとはね。ポルーニンが服を着ているシーンはごくわずかで、あとはほぼ裸体。もういいって、、、と途中で言いたくなったのは、私だけ、、、?

 そりゃ確かにイイ男で、バレエダンサーだけあってその身体も引き締まっており、肉体美。……でも、それだけだよね。演技らしい演技はしていない。セリフを喋っているシーンももちろんあるけど、上手いか下手かも分からないくらいに、下手そうではある。

 顔もイケメンというよりは、エキゾチックなイイ男、という感じかな。いかにもロシアっぽい冷たさがある。

 こんなことを言うと身も蓋もないけど、本作はポルーニン鑑賞映画であり、それ以上でもそれ以下でもないです。ストーリー的にも山なしオチなし。

 彼はどうやら将来的に俳優としても活躍したいらしく、本作もその足掛かりになれば良いと思っているんだろうな。でもなかなか厳しそうな予感。ほかの作品を見ていないので分からないけど、他のもほんのチョイ役みたいだしなぁ。

 バレエダンサーから役者、というと、スケールが違い過ぎるが、パッと思い浮かぶのは草刈民代だが、彼女の芝居はうぅむ、、、という感じだよなぁ。バレエも演技の一つだから、同じ表現者として、お芝居が上手くても不思議ではないはずなんだけど、、、。やはり、セリフを喋る、というのはハードルの高いものなんだろうな。ポルーニンも今後どうなるんですかね、俳優として。……あんまし興味ないけど。


◆セックス観の個人差

 上記あらすじには、エレーヌさんの「恋」とあるけど、私には、ただ発情していただけにしか見えなかった。

 エレーヌさんは言っている。ポルーニン演ずるアレクサンドルは「プーチン好きの頭空っぽ男」だと(いえ、もっとマイルドな言い回しでしたが、ぶっちゃけこういうことかと)。

 こういう話って、やはりその人のセックス観がものすごく感想に影響するよなぁ。私は、エレーヌさんみたいに、「こいつ頭空っぽだな」と思いながら、「でもセックスはサイコー」というふうに割り切れないので、全然エレーヌさんの心理が分からないのです。……というか、ちょっと羨ましい。そこまで何も考えずに素晴らしいと感じられるセックスに溺れられることが。

 いかに自分が頭でセックスしてきたか、、、ということを、こういう映画を見るたびに思い知らされて、なんだかなぁ、、、という気持ちになる。

 恋愛初期ってのは発情期なので、会えばセックスセックスセックス、、、という時期があるのは分かるけど。でも、私の場合は、相手との将来が絶対的にないと分かっていたり、相手のことを全人格的に好きだと思えなかったりした場合、セックスしたいと思えなかったなぁ。つまり、エレーヌさんみたいに、観念抜きでの恋愛を経験していないのだ。……というか、できなかったと言った方が近いのか。

 もちろん、ポルーニンみたいな超絶イイ男に出会ったことはないしね。イイ男なら何人か出会ったけど、私のセンサーは全然働かなかったのだ。……残念。

 そのうちの一人は、とあるサークル内随一のモテ男で、確かに話も面白いし、かなりのイケメンだし、背も高いし、頭も良いし、多趣味で全方面偏差値80くらいの人だった。一部の男子たちにやっかみ半分で「種蒔き〇〇」と呼ばれていたくらい、彼の毒牙にかかった女性は多かったらしい。……というか、女性の方から毒牙に嚙まれに行っていたみたいだった。

 ある夏、サークルで合宿があって、私はちょっと遅れて参加せざるを得なくなり、成り行きで種蒔きさんの車に乗せて行ってもらうことになった。差しではなく、もう一人種蒔きさんの同級生の男のR先輩も一緒だった。無事に合宿を終え、帰りも種蒔きさんの車にR先輩と共に乗せていただき東京まで戻って来た。で、その後、他の数人と一緒にゴハンを食べ、いざ帰宅しようという段になったとき、種蒔きさんが私に「家まで送るよ。乗っていけば?」と言ってくれた。けど、私は長時間運転して疲れている種蒔きさんに家まで遅らせるなど申し訳なさ過ぎると本気で思っていたので、頑なに断った。何度も「乗って行きなよ」と言ってくれたが、何度も断った。家も近かったしね。

 それからしばらく経って、ある日、種蒔きさんに「オレはあなたのアウトオブ眼中なんだね」と笑いながらサラッと言われ、???となったのだけど、その話を友人にしたところ「アンタ、ほんと鈍いねぇ」と呆れられたのだった。「送るよ」は「お誘い」だったんだ、と。げげっ、、、そーなの?? 友人曰く「あんなイイ男、一度くらい寝ておけば良かったのに!」だと。

 もし、あの時、種蒔きさんの車で送ってもらっていたら、私もエレーヌさんみたいな経験ができたんだろうか、、、?? 当時の私は、男としては全然魅力を感じていなかった種蒔きさんがいくら「乗って行きなよ」と言ってきても、微塵もお誘いだなんて思わなかったのである。むしろ、「この人はこんなふうに面倒見が良いから女が勘違いしちゃうんだろうなー、罪な男やなー」としか思っていなかった。友人にそう話したら「アンタは糠に釘女」と言われてしまった。

 つまるところ、種蒔きさんは、女だったら誰でも良かったんだ、と腑に落ちたけど、彼を巡って争っていた女性たちは、エレーヌさんみたいな体験をしたんですかね? 今となっては知る由もないけど。

 種蒔きさんは頭空っぽじゃなかったけど、やはり、どんだけイイ男でも頭空っぽクンは、私は嫌です。私にとってセックスとは頭でするものなので。相手が空っぽだったら哀しすぎるじゃないの。

 ……なんか、全然映画の感想から外れてしまいました。スミマセン。

 

 

 

 

 

 

 

ポルーニンはウクライナ生まれのプーチン熱烈支持者だそーです。

 

 

 

 

 

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親愛なる同志たちへ(2020年)

2022-04-17 | 【し】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv76704/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1962年6月1日、フルシチョフ政権下のソ連で物価高騰と食糧不足が蔓延していた。第二次世界大戦の最前線で看護師を務め、共産党市政委員会のメンバーであるリューダは、国中が貧しい中でも贅沢品を手に入れるなど、党の特権を使いながらも父と18歳の娘スヴェッカの3人で穏やかな生活を送っていた。

 そんな中、ソ連南西部ノボチェルカッスクの機関車工場で大規模なストライキが勃発。生活の困窮にあえぐ労働者たちが、物価の高騰や給与カットに抗議の意思を表したのだ。

 この問題を重大視したモスクワのフルシチョフ政権は、スト鎮静化と情報遮断のために高官を現地に派遣する。そして翌2日、街の中心部に集まった約5000人のデモ隊や市民を狙った無差別銃撃事件が発生。リューダは、愛娘スヴェッカの身を案じ、凄まじい群衆パニックが巻き起こった広場を駆けずり回る。

 スヴェッカはどこにいるのか、すでに銃撃の犠牲者となって“処分”されてしまったのか。長らく忠誠を誓ってきた共産党への疑念に揺れるリューダが、必死の捜索の果てにたどり着いた真実とは……。

=====ここまで。

 アンドレイ・コンチャロフスキー監督作。コンチャロフスキーの弟、映画監督のニキータ・ミハルコフは熱烈プーチン支持者で、ウクライナでは逮捕状が出ているらしい。

 
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 制作は2年前だが、日本での公開が、こういうタイミングになるとはね、、、。このご時世で、ロシアものは何でもかんでも排除せよ、とか言っている人たちがいるみたいだけど、こういう時こそ、あの国のことをよく知るべきでしょ。

 ……と思って、劇場まで行ってまいりました。


◆期待ハズレ、、、がーん。

 ストーリー自体はいたってシンプルで、序盤はいささか退屈でさえあった。ストが起きて、デモ隊へ発砲された辺りから緊迫するものの、展開としては非常に単調、全体的には平板な印象を受けた。

 まず、画角がスタンダードサイズ(プログラムによると1.33:1とのことなので、微妙に違うみたいだが)で、さらにモノクロなのだが、これで過去の史実を扱う映画っぽい演出にはなっているが、そこに映っている画は割とフツーで、テレビドラマを見ている感覚に近かった。技術的なことは分からないけど、もう少しカメラワークとか何とかならなかったものか。

 とはいえ、細部の描写などは凝っていて、女性が後頭部に銃弾を受けて、その血が飛沫となる様は、明らかに心拍に応じて細かい血飛沫が窓ガラスに当たるなど、こだわりが伺える。

 けれども、肝心の展開が凡庸なので、私の気持ち的には、喰いつきが良くないまま終わってしまった感じだ。


◆リューダの人物造形が、、、

 ロシアものは結構面白く感じることが多いのだが、本作がこれほどピンと来なかったのは、主人公リューダの描き方にあると思う。

 彼女は、共産党員で、ゴリゴリの共産主義者でありながら、ストの現場で国家による国民の虐殺場面を目撃したことで、共産党への信頼が揺らぐわけで、それは本来ジレンマなどと言う甘っちょろいものではない。自身の足元が崩れていくアイデンティティの崩壊に直面しているはずなのだ。

 けれども、スクリーンの中の彼女は、スト現場で銃弾飛び交う中を娘を必死で探し回ったり、娘が殺され埋められたという場所で狂ったように地面を掘り返したりするシーンはあるものの、それは、母親としての葛藤にしか見えず、彼女自身の共産党への信奉が崩れていくこととは直截的には結びついていない。

 リューダの父親は、元コサックで、コサックの制服をいまだに着ている、隠れ反共産党という設定なんだが、強いて言えば、この父親とリューダが酒を飲みながら話すシーンが彼女の共産主義への揺らぎが垣間見えるくらいである。

 思うに、リューダのキャラ設定が甘かったのではないか。アイデンティティ崩壊を描くのであれば、母親<共産主義者、というキャラにした方が良かった。リューダは娘の身の危険を知ってからは、ほぼ母親全開なのだ。これでは、母と娘の物語になってしまい、ソ連の矛盾にまで切り込めないのは無理もない。


◆ロシアは偉大なり、、、ってか。

 KGBの描写も多いのだけど、あんまし必要性が感じられなかった。もっと言うと、ちょっと弁解がましく見えたというか。監督は、本当にこの虐殺事件を批判しようとして本作を撮っているのだろうか、とさえ思ったくらい。

 なので、本作を見終えて劇場を後にしたときの正直な感覚としては「消化不良」であった。感想も書けないかも知れないなぁ、、、とも思った、

 その数日後、新聞に本作の紹介と併せて、監督のインタビューが載っていたのを読んで、私の消化不良感の根っこを見た気がした。

 彼は現在のウクライナ情勢について質問され、こう答えている。

 「西欧と東欧の対立は何世紀にもわたる古い問題だ。西側のリベラルな哲学に誘惑されたウクライナ人に深い同情の念を抱いているが、彼らは東欧の人間で西欧の人間とは違う」「今起きているのはロシアとウクライナのコンフリクト(衝突、紛争)ではなく、ロシアと米国のコンフリクトだ。ウクライナ人はその犠牲者なのだ」

 あーー、そういうことね。

 同じ記事で、監督は本作について「自分が信じていた理想が崩れていく人間の悲劇を描きたかった」と語っているが、監督自身、ソ連に対して幻滅しながらもアイデンティティの崩壊にまでは至らなかったのだ、多分。でなければ、「東欧の人間」とか「西欧の人間」とかいう属性の仕分け方はしないだろう。そして、飽くまでも「VS アメリカ」であって、ロシアが帝国主義からソ連を経験しても脱し切れていないことに何の疑問も抱いていないのだ。イデオロギーは大したことではなく、偉大なロシアであることが監督自身のアイデンティティに厳然と根を下ろしているということだろう。

 道理で。だから、この映画はこういう作品になったのね、、、と、私的にはかなり納得できてしまった。

 コンチャロフスキー監督作は『マリアの恋人』(1984)しか見たことがないが、結構良かった記憶がある(みんシネでも7点付けてるし)。ニキータ・ミハルコフ監督作だと『12人の怒れる男』(2007)だけだが、この方あの『黒い瞳』も撮っているのよね、、、。いずれ見たいと思っている映画の一つだけれど、プーチン万歳の人だと分かった上で見るというのもなかなかツラいものがあるなぁ。

 コンチャロフスキー監督は、あからさまなプーチン支持ではないものの、おそらく弟と断絶もしていないのだろう。

 ロシア人の80%がプーチン支持というニュースも眉唾だと思っていたけど、案外実態に近いのかもしれない、、、。

 

 

 

 

 

 

主演の女優ユリア・ビソツカヤさん('73年生まれ)は監督('37年生まれ)の妻だそうです。

 

 

 

 

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白い牛のバラッド(2020年)

2022-03-24 | 【し】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv75532/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 テヘランの牛乳工場で働きながら耳の聞こえない幼い娘ビタを育てるミナは、1年前に夫のババクを殺人罪で死刑に処せられたシングルマザー。今なお喪失感に囚われている彼女は、裁判所から信じがたい事実を告げられる。

 ババクが告訴された殺人事件を再精査した結果、別の人物が真犯人だったというのだ。賠償金が支払われると聞いても納得できないミナは、担当判事アミニへの謝罪を求めるが門前払いされてしまう。

 理不尽な現実にあえぐミナに救いの手を差し伸べたのは、夫の旧友と称する中年男性レザだった。やがてミナとビタ、レザの3人は家族のように親密な関係を育んでいくが、レザはある重大な秘密を抱えていた。

 やがてその罪深き真実を知ったとき、ミナが最後に下した決断とは……。

=====ここまで。

 イランとフランスの共同制作。


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 イランの映画というと、ここ数年では監督のアスガー・ファルハディの名をよく聞くけれど、私はファルハディ作品は未体験。本作は、新聞か何かで評を読んで、見てみたくなって、劇場まで行ってまいりました。


◆取り返しのつかないこと。

 冤罪で死刑、、、これほどの不条理ってあるだろうか。

 しかもシングルマザーとなったミナにとって、イランの社会は日本以上に冷たい。アパートから突然追い出され、新居探しもままならず、、、。そこへ、夫に多額の借金をしていたという男レザがやってきて、ミナに救いの手を差し延べる、、、のだが、このレザという男、どう見ても訳アリ。

 レザが何者なのかは、割と早く明かされて、冤罪の判決を下した判事アミニその人なのだ。レザは、自責の念にかられて、名を偽り、ミナに償いをするつもりか、新居を格安で提供するなど何かと世話を焼く。ミナもレザのことを信頼し、直接的な描写はないが、おそらく男女の関係になる。シーンとしては、ある晩、ミナが鏡を見ながら真っ赤な口紅を塗り、ベールを外して、レザの部屋に入っていく、、、というもの。

 レザ=アミニには息子がいるのだが、息子は家庭を顧みなかった父親を嫌悪しており、兵役に行ってしまい、さらに悪いことに亡くなってしまう。ショックで倒れるレザを献身的に看護するミナ。2人の関係はどんどん深まる。

 けれど、レザの正体が思わぬ形で明かされ、それを知ったミナがどうしたか、、、が終盤へのオチとなる。

~~以下、結末に触れています。~~

 ミナは、レザに毒入りミルクを与え、強引に飲ませて、レザを殺す。いや、本当にレザが死んでしまったかどうかは分からないが、ミルクを飲んだ後、苦しみながら椅子から崩れ落ちて床に倒れ込んだ。

 本作の冒頭、一頭の白い牛が無機質な広場みたいなことろにポツンと立っている。また、ミナが働いているのはミルク工場で、本作では雌牛が象徴的に扱われている。これは、コーランに雌牛の章というのがあることに関係するらしいが、その辺はよく分からないのでスルーするけど、ラストシーンでも再び、白い牛が広場に立っている画が出てきて、要は、この牛は生贄ということのようである。

 つまり、ミナの夫は、犠牲となったということの象徴らしい。確かに、冒頭とラストの白い牛が佇む画は、それだけでもの凄く不穏である。

 さらに言えば、犠牲になったのは、ミナの夫だけでなく、レザもまたそうであったということなのだろう。レザは判事として役割を果たしただけ、なのかもしれず、冤罪はレザのせいというよりは、イランの司法制度に冤罪を産む原因があるのだ、、、と。

 イランでは、イスラム法により罪が裁かれるというが、本作のパンフによれば「イスラームは創造主たる神のご意志によってあらゆる予定があらかじめ定められているという運命論(カダル)を取っている」とのこと。「予定があらかじめ定められている」って日本語としてどーなの??というツッコミはさておき、冤罪となるのも神のご意志、、、と言われても、納得できまへん。だからこそ、ミナは、判事に謝罪を何度も求めに行ったわけよね。

 終盤は、そうなる予感はあったけど、本当にそうするのか、、、と見ていてちょっと絶望的な気持ちに。ミナは娘を連れて、レザが手配してくれた家を出るのだが、今後を考えると、さらに絶望的になる。レザが死んでしまっていれば、当然、殺人罪だろうし、それでミナが拘束されたら、幼い娘はどうなってしまうのだろう? とか、、、。これは映画なんだから、そこまで考えなくても良いんだよね、、、。はい、考えないことにします。

 レザにミルクを飲ませる前、ミナは、また鏡に向かって真っ赤な口紅を塗るのだが、その時の顔つきは、前述の、レザの部屋に行く前のそれとは違っている。また、ミナに「(ミルクを)飲んで!」と強く言われ、ミルクを飲むときのレザの表情から、レザは覚悟してミルクを飲み込んだのだと思われる。そのときのレザの表情が実に雄弁だった。


◆死刑、イラン映画、、、

 死刑、日本では賛成の方が世論では多いらしい。私も以前は、積極的に賛成でないにせよ、極刑としてはアリではないかと思っていた。けれど、大きく考えが変わったのは、裁判員裁判が開始されることになったとき。この制度、イロイロ怖ろしい。被告人が有罪か無罪かの判断だけでなく、有罪の場合はその刑罰まで決めるのだ。しかも、全員一致ではなく、多数決。

 この制度が開始されて以後、私は一貫して死刑には反対だ。その後、裁判官の死刑判決を下すときの精神的な負担の重さを見聞きし、ますます反対の意が強くなった。

 死刑賛成の主な理由は、犯罪の抑止力と遺族感情だそうだ。

 抑止力については、科学的には証明されていないとのこと。皮肉なことに凶悪犯罪を起こした犯人の犯行理由が「死刑になりたかったから」というのはどう考えればよいのか。

 遺族感情は、私は遺族になったことがないから軽々に語れないが、映画『瞳の奥の秘密』(2009)を見て考えさせられた。妻を殺された男が、犯人を死刑にしたくない(死んでしまえば楽になれるから、という理由)がために、犯人を自らの手で監禁し、社会的に抹殺するという荒業に出るのだが、詰まるところ、犯人にとって「死んだ方がマシな罰」を遺族によって課せられたというわけだ。その行為自体を肯定するのではなく、罪に見合った罰とは何なのか、ということを考えさせられた。遺族感情と一口に言っても、遺族も色々で、全員が極刑を望むとは限らない。また、判例から極刑の可能性が低い事件で、「犯人を極刑にして欲しい」と遺族が署名活動をしているといったニュースを見ると、申し訳ないけど法治国家の前提に対するあまりの無知さに、遺族に対する同情の念など吹っ飛んでしまう。刑罰の見直しを求めて署名活動をする、というのなら分かるけど。

 本作の舞台であるイランも死刑が残る国で、執行される件数は日本よりはるかに多い。さらに、日本よりも怖ろしいのは、拷問による自白の強要や結論ありきの公判が珍しくないということ。日本でも自白の強要は起きているが、拷問は憲法で絶対に禁止されている。

 そんな状況で冤罪が発生しない方がおかしいわけで、それでいて死刑制度がしっかり機能しているなんて怖ろし過ぎる。本作内では、冤罪だったから賠償金あげる、でも間違いは認めないし謝罪もしない、全て神の思し召し、、、とされてしまうのだから、冤罪で殺された者は永遠に浮かばれない。

 本作はイランでは上映禁止になっているというが、まあ、それはそうだろう。また、ファルハディの影響が随所に見られるらしいが、私はファルハディ映画を見ていないので分からない。

 イラン映画というと、キアロスタミの名前くらいしか出てこない(あと、マルジャン・サトラピもイランだったな、そういえば)が、小粒でピリリ系と勝手に思っている。本作もそうだと言って良いと思う。『亀も空を飛ぶ』『 ペルシャ猫を誰も知らない』とか、前から見たかったので、近々見ようと思う。

 

 

 

 

 

イスラム法には「同害報復刑(キサース)」が制定されている、、、らしい。

 

 

 

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ジェヴォーダンの獣(2001年)

2022-02-23 | 【し】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv32634/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 18世紀の仏の田舎町で、奇怪な事件が発生。謎の野獣が、100人以上もの村人を襲ったのだ。学者フロンサックは国王に命じられ、従者マニと共に調査を開始。やがて事件の裏に、意外な人物の存在が浮かび上がる。

=====ここまで。


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 ギャスパー・ウリエルの事故死のニュース、本当に驚きました。37歳、、、何ということだ。彼の映画は何本か見ているが、本作はデビュー作とあちこちのプロフィールで書かれていて未見だったため、見てみた次第、、、、なんだけど、……え、ホントに出てた??


◆ムダに長いような、、、

 ジェヴォーダンの獣については、NHKのBS「ダークサイドミステリー」でも取り上げられており、こういう分野は大好物なのだけど、本作は存在そのものを知らなかった。こういうネタが基の映画は、大抵ハズレな予感があったので期待はしていなかったが、今でも謎だらけの出来事だからいくらでもストーリーを展開できちゃうという面白さもあり、本作も終盤でかなりトンデモな展開にしていたけれど、そこそこ楽しめた。

 ヴァンサン・カッセルが主役扱いなのに、序盤はイマイチ存在感が薄い役なんだが、絶対コイツ何かあんだろ、、、、と思わざるを得ないので、そう思って見ていたら、案の定、中盤からお得意のヤバい系キャラ発揮!! そうこなくっちゃ!

~~以下、結末に触れています。~~

 獣の正体は、、、? そうです、もう、皆さんお分かりですね。ヴァンサン・カッセルがラスボスです。

 ストーリー的には、割と話が大きくなっていて、国の転覆を図る秘密結社の親玉が、獣を操っていた、、、ということで、蓋を開けてみれば陳腐なんだけど、そこへ辿り着くまでかなり勿体つけていて、中身は薄いが一応は見せてくれる作りになっている。

 何より、衣装や美術が凝っていて目に楽しい。獣の動きは稚拙だけど、20年前ならこんなもんか……という感じ。役者さんたちも、何か楽しそうに演じていた。そら面白いだろうね、こんな中世そのものみたいな世界に入り込んじゃうわけだから。300年前にタイムスリップした感覚になるかも。

 どういうわけか、新大陸(アメリカやね)の原住民マニも出てきて、このマニが無駄にアクションを披露する。ハッキリ言って、いらんやろ、、、なシーン。でもまあ、演じるマーク・ダカスコスのキレの良い動きで見ていられるけれど。しかもマニは終盤殺されちゃうしね、、、。結構酷い殺され方をする。

 終盤にもラスボスのヴァンサン・カッセルと、主役のサミュエル・ル・ビアン演ずるフロンサックの対決シーンでアクションがあるけど、ややショボい。てか、アクションがメインディッシュの映画じゃないから、やっぱしいらんやろ。それに、獣が案外すんなり大人しくなっちゃうのもつまんないといえばつまんないかな。どうせなら、自分を操る主に反逆して暴れまくるとかして、ヴァンサン・カッセルにトドメを刺す!なんてのもアリだったんじゃ、、、。

 フロンサックとラスボスの妹の恋物語が結構ネチネチ描かれるんだけど、うぅむ、これもいらんかったんじゃ、、、。まあでも、ラスボスは、腹違いとはいえ妹に恋してしまっての暴走、、、ということも描かれているので、いらないとまでは言わなくとも、もう少しサラッとでも良かったような。というのもこのヒロインがあんまし魅力的じゃなかったのよね。

 モニカ・ベルッチも出ていて、夫婦で出ていたのね、、、。この人は、ホントに惜しげもなくスルッと脱いじゃうよなぁ。美しいから良いけど、ホント、こともなげに脱ぐ。脱ぎ惜しみする女優さんたちには、ちょっと見習っていただきたいくらい。

 という具合に、あまり真面目に感想を書く感じの映画ではありませんでした、、、ごーん。


◆ウリエルはどこだ!!

 で、ギャスパー・ウリエルです。彼のデビューを見るために、本作をわざわざ借りたのだ。

 ずーーーっと、目を皿のようにして見ていたけど、彼を見ることなくエンドマークが、、、。え?? 出てたの?? どこ???

 ネットで見ると、彼の役は「ルイ15世」と書いてあるサイトもあり、けれど、ルイ15世がそもそも出てこない。え゛、、、なぜ? 本当にこれが彼のデビュー作なんだろうか?

 で、もう一度、最初から見ましたよ、早送りしながら。でもいない。ウリエルはどこにもいない!!

 仕方がないので、エンドロールをじっくり見ました。登場順に名前が出てくるので。確かに彼の名前はある。役名は“Louis”。ルイだよ、ルイ。そして、その前にある名前は女の子の名前で、中盤、獣に襲われながらも九死に一生を得る役なのです。で、彼女のお兄さんがその直前のシーンで、獣に食い殺された死体となって出てくるんだが、つまり、ウリエルはこの死体役だったのだ、、、、多分。

 ハッキリ言って、ほとんど顔など映っていない。これじゃあ、分かるわけがないわ、、、、と納得。

 思えば、DDLのデビュー作『日曜日は別れの時』でも、DDLが出ているはほんの数秒で顔もほとんどハッキリ映っていなかったもんな、、、。あれでデビュー作って言えるのかレベルだったんだが、本作でのウリエルもまったく同じだ。

 とはいえ、DDLもウリエルもその後、スターになったわけで、どんなスターも最初はチョイ出から始まるのだ、、、ということなのね、きっと。

 ともあれ、ギャスパー・ウリエルはもうこの世にいない。本当に残念。もっと彼の映画見たかったなぁ。未見の作品もあるので、これから見ていきたいと思います。


 

 

 

 

 

 

 

ジェヴォーダンの獣は実際にいたので、雪男とかツチノコとかとは違います。

 

 

 

 

 

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シャイニング(1980年/北米公開版)

2021-08-07 | 【し】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv11219/

 

以下、午前十時の映画祭11公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 元・教師のジャック・トランス(ジャック・ニコルソン)は、妻のウェンディ(シェリー・デュヴァル)、幼い息子のダニーを連れ、ロッキー山中の豪華ホテルにやってきた。豪雪のため冬場は閉鎖されるこのホテルの管理人に就いたジャックは、静かな環境の中で、かねてから構想していた小説を執筆しようと考えていたのだった。

 平穏な日々が続いたある日、ダニーは館内通路で突然の怪異現象を目撃し、ショックで気を失ってしまう―。

=====ここまで。

 日本で公開されたのは119分のコンチネンタル版といわれるものだそう。はて、日本公開版とはどこが違うでしょう、、、?


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 キューブリック映画は、あんまし得意じゃないんですが、本作は何度見ても面白いと思うのです。「ホラー映画の金字塔」などと言われますが、正直なところ、本作は“ホラー”と言っていいのかちょっとビミョーな感じがしますね。まあ、オカルト要素もあるし、スリラーってのもちょっと違う気がするし、、、うぅむ。

 本作のことを、怖くねー、つまんねー、と評している感想はいっぱい目にしますが、まあ、感じ方は人それぞれなのでアレですが、「つまんねー」はあり得ない。というか、ネタバレしたホラーで何度見にも耐えられる映画ってのは、そのこと自体が作品の良さを物語っていると思いますね。

 昔、みんシネに感想(読み返したらすごいテキトーでびっくり)は書いたので、思い付いたことをつらつら書きます。


◆本当に怖ろしいのは人間。

 本作のことを「つまらない」と評している人々の感想をみんシネで見てみると、多くは「意味が分からん」とか「何でそーなるの?」とか「何でもっと○○しないんだよ?」といったロジカルな面でダメだった様子。確かに、そういう視点で見れば、いろいろ瑕疵があるように見えるかも。だけど、この映画は、そもそも理解する映画ではなく、“感じる”映画なのよ。
 
 象徴的なのは、本作の構成というか展開。最近の展開の早いホラー映画を基準にすると、本作はなかなか“核心”に至らないように見える。しかも、この中盤までに手の内を色々見せちゃっているとか。ダニーが惨事を予測してしまっていたり、サブリミナルみたいに双子姉妹の血みどろ画像を入れたり。何より、ジャックが面接する時点で、ホテルで過去に起きた惨劇をセリフで説明してしまっており先の展開が読めてしまう。

 その読み通りにほぼ展開していくものだから、本作をつまらんと感じる人は、ホラーとしてなっとらん!と思うのではないかしらん。

 私が本作を初めて見たときに感じたのは、人間がちょっとずつおかしくなっていく怖さだった。ジャックの場合は、この雪に閉ざされたホテルに取憑かれたことなっていたけれども、現実でもいろんな要因で人間はおかしくなっていくことがある。本作のように環境によるものもあれば、精神的なストレスやらショッキングな出来事やらで、精神のバランスを崩すことは大いにあり得る。

 そういう意味ではなくても、例えば、何かの新興宗教にハマってしまったりとか、誰かに洗脳されたりだとか、それで人が変わってしまうこともある。もっと卑近な例で言えば、恋愛によって相手に影響されて変わるということだって、その変わり方次第では身近な人にとって“おかしくなった”と感じるだろう。

 本作の趣旨はそこにあると、私は感じた。だから、怖いなと。映画自体の怖さはそれほどでもないかも知れないが、人間の怖さは十二分に描いていると思う。

 だからこそジェットコースター的な展開にはなり得ない。人間が徐々に変化していく様を描くには、じわじわ、あれ??という描写が続いていく。そして、それこそが怖いのよ。それを怖がれるかどうかが、本作を楽しめるか否かの分かれ目といえるのではないか。

 ボディースナッチャーものだと分かりやすいからホラーとしても受け入れられやすいだろうが、本作のように虚実が曖昧で、オカルト要素もあるとなれば、見ている方としてはその曖昧さがストレスになるのも分かる。

 でも、世の中には、よく分からないことの方が分かりやすいことより圧倒的に多く、人間がちょっとずつ変化することなどは、最も分かりにくいことの一つだろう。本作の良さは、それを悪魔とか“信仰”に落とし込んでいないところ(『ヘレディタリー/継承』のアリ・アスター監督みたいに)。キューブリック自身がどういう信仰を持っていたのかとかゼンゼン知らないが、アメリカのホラーにありがちな悪魔等のキリスト教的要素が背景にあるっていうのは、信仰を持たない人間からするともの凄く興醒めなのだが、本作はそっち方向に行っていないのも、私的には面白いと感じられる所以だと思う。


◆北米公開版

 今回、本作を初めてスクリーンで見たのだけど、冒頭書いたとおり、今回午前十時の映画祭でかかったのは「北米公開版」というもので、144分もある。でも、ゼンゼン長さは感じなかった。

 私がこれまで見ていたのは多分「コンチネンタル版」で、「北米公開版」をかなりカットしたものとのこと。確かに、見ていて「こんなシーンあったっけ?」というのは所々あったが(当然だけど)、実は結構ショッキングなシーンがあった。……いや、映像がショッキングとかグロいという意味ではなく、本作の価値を根底から覆してしまいかねない、蛇足に近いシーンがあって、かなり衝撃を受けた。

 ……どんなシーンか? うぅむ、正直なところ、ここにはあんまし書きたくない。終盤の、ラストに近いところで「それはねーだろ、、、」というシーンだった。ま、ご覧になっていない方には訳が分からないと思うけれど、ご勘弁願いたい。

 というか、こんなシーンが入っていて、アメリカ人はガクッと来なかったんだろうか? いや、もっと言うと、何でキューブリックほどの人がこんなシーンを撮って、しかも入れちゃったの??というような、お粗末なシーンだと、私は思うのだが、、、。
 
 「コンチネンタル版」と「北米公開版」の違いについては、詳細を記したサイトがあるので、ご興味のおありの方は検索してみてください。

 「北米公開版」で良かったシーンとしては、狂ったジャックを食糧庫に閉じ込めた後、ウェンディが逃げる手段を考えているときにダニーが発作を起こし、ウェンディがダニーを抱きかかえると、トニーが現れて「ダニーは遠くへ行ってしまいました」と不気味な声音で喋るシーンですね。このときのウェンディの絶望を思うと、これは怖ろしい。

 後半のジャック・ニコルソンは見ていて笑えるレベルにイッちゃっている。それはもちろん、展開を知っているから見ていて余裕があるからこそなのだが、、、。少しずつおかしくなる怖ろしさを描くのに、元々狂ってるように見えるニコルソンをキャスティングしたのは間違っている、という感想もみんシネにあったけど、私はニコルソンで大正解だと思うわ~。あの終盤の狂気は、ニコルソンだからこそのシーンでしょ。

 スクリーンで見ることができて良かったです。

 

 

 

 

 

 

 

この映画のせいで、ホテルで一人で寝るときはTVつけっぱなんです。
  

 

 

 

 

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白い家の少女(1976年)

2021-02-23 | 【し】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv11589/

 

以下、TSUTAYAのHPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 人里離れた一軒家に暮らす詩人の父親と娘のリン。しかし父親は閉じ籠りっきりで姿を見せたことが無い。そして不審をおぼえた家主がその家を訪ねると、リンによって殺されてしまう。やがて彼女の犯した恐るべき事実が明らかになっていく……。

 冷酷な少女の、悪魔のような所業を描いたサイコ・スリラー。

=====ここまで。

 14歳のジョディ・フォスター主演。

 

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 いつものmoviewalkerのあらすじが長すぎるので、TSUTAYAからコピペしたのだけれども、これはこれで正しいあらすじとは言えず。「悪魔のような所業」でも「サイコ・スリラー」でもないです。

 自分で書けば良いのだけど、あらすじを書く気になる映画とならない映画とが何故かあって(その違いは自分でもあんまりよく分からないんだが)、本作も書く気にならない映画、、、。

 書く気になる映画が自分にとって良い映画、というわけではゼンゼンない。良いと思っても書くのが難しいとかメンドクサイとか思うものもあるし、なんじゃこりゃと思う映画でも書くのが苦にならないものもある。大抵は、書こうと思えばそんなに手間じゃない映画でもメンドクサイからコピペ、、、というパターン。ただ、そのコピペ元のあらすじがイマイチだったり長すぎたりすることも多くて、困るんだよなぁ。イチから書くのはやっぱり億劫で、、、。

 ……などと言い訳を長々と書く暇があったら、サッサと書けよ、と思いますが。次回からはなるべく自分でちゃんと書こう、、、、と、一応、今のところは思っております。

 で、映画の感想ですが。

 ジョディ・フォスターが演ずる主人公の少女・リンの家族というのが、典型的な“機能不全家族”で、リンは早く大人にならざるを得ない状況である。親が親として機能していない場合、子は、当然、子として振る舞えず、一人の人間としての行動を求められる。それが常態化すると、その子は精神的に自立しなければならなくなる。

 しかも、その子が頭が良くて多感な場合は、却って拗れることも多そうな気がする。“大人になる”とは言え、経験値は圧倒的に少ないわけだから、そりゃ本物の大人からすれば稚拙な部分も多くて見透かされる。

 だから、ヘンな大人が寄ってきて、頭でっかちなだけの子どもとしては巧い対処の仕方が分からず(というか、そんなものはない)、そのヘンな大人を抹殺するしかないということになる。

 ……というのが、この映画のオハナシ。

 本作でリンに絡んでくるヘンな大人たちは親子で、大家のハレット夫人と、その息子フランク(マーティン・シーン)。もう、見るからにヤバい。確かに、貸主がちょっと普通じゃなさそうな家族であれば、探りを入れたくなるのも大家さんとしては当然だと思うが、彼女の言動はそれを超えている。ほとんどイジメ、嫌がらせのレベル。フランクに至っては、実際に小児性愛者という設定みたいで、マーティン・シーンの演技が妙にリアルで気持ち悪かった。

 こんな常軌を逸したレベルのヘンな大人が絡んできたら、大人でも対処が難しいのに、13歳の少女では手に余るのもムリはない。ここで、大人顔負けの対処をして、なおかつ大人たちを追い詰めてしまう子どもだったら、それは、ホラー映画によくある“モンチャイ”(モンスター・チャイルドの略)になるわけだが、リンは別にモンチャイなんかではなく、ごく真っ当な感覚の持ち主だ。

 特に、ラストのフランクとのシーンはなかなかスリリング。紅茶を2つ用意し、1つには青酸カリを入れ、フランクと自分の前に置くリン。青酸カリ入り紅茶をどちらが飲むことになるか、、、というもので、ベタなんだけど、ジョディ・フォスターの表情が素晴らしい。警戒していたフランクだけど、まんまとリンの術中にハマるというオチは、まあ痛快ではある。

 ホラーとかサスペンスジャンル扱いみたいだけど、実際は少女モノか家族モノだろう。終始、不穏な感じで、画面も寒々しいが、別に怖くはない。

 幼い恋も描かれ、しかし、どうにも刹那的な感じがしてなんとも切ない。しかも相手の男の子は重い肺炎になってしまい、リンの孤独がますます浮き彫りになる。

 ラストではフランクが罠にはまって苦しむ様子をクールに見つめるリンの表情が、ダジャレみたいだけど凛としていて美しい。これで、当時ジョディ・フォスター14歳というのだから、そっちの方が怖いよ、マジで。

 まぁ、映画としてはちょっと食い足りないけど、デビューしたばかりのジョディ・フォスターを堪能できる作品です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あんな広い家に一人で住むなんて、13歳の頃の私にはムリ。

 

 

 


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