映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

愛する映画の舞台を巡る旅Ⅲ ~デリー→アグラ(インド)その⑤~

2019-03-29 | 旅行記(海外)

** 列車の旅 ** 

 

関連映画:『バジュランギおじさんと、小さな迷子』(2015)

 

 

その④につづき

 本日はいよいよアグラへ移動。楽しみにしていた列車の旅! このツアーに決めたのも、この列車の移動があったから。

【3日目のスケジュール】

①ハズラット・ニザムディン駅→②8:10発ガティマンエクスプレス乗車(9:50アグラ着)→③レンタルサリー屋さん(サリーに着替え)→④タージマハル(2時間ほど)→⑤昼食(中華料理)→⑥本場のチャイにてティータイム→⑦アーユルヴェーダ体験(シロダーラ含めて90分)

 本日も盛りだくさんなメニュー。

 朝5:30にモーニングコールが鳴る予定だったけれども、5時前には目が覚めてたので起きてしまった。身支度をしていると、早々にモーニングコールが鳴り、え、もう5時半か?と思ったら、まだ5時過ぎだった、、、。

 列車内で軽食が出るとは聞いているけど、朝食を食べないと落ち着かない私としては、一応、何でも良いからお腹に入れておきたい。朝食は6時からということで、6:30にロビーに集合だから、そのまま出発できるよう荷造りして6時過ぎにレストランへ。まだ開いたばかりだったが、ほぼ昨日と同じメニューのビュッフェ。早いからか、朝食を食べていたのは、ツアー内で私を入れて3人だけだった。

 皆さん、時間厳守。6時半にはバスに乗り込み、ハズラット・ニザムディン駅へ。デリー駅ではないのね、、、。

 気温は分からなかったけど、多分、7~8℃だったのでは。かなり寒い。

 ガティマンエクスプレス(ガティマン急行)は、2016年から運行している新しい列車。今のインドでは最速だそう。ハズラット・ニザムディン駅は始発駅なのだって。

 アラームさんは「エアインディアはいつも遅れるけど、ガティマンエクスプレスは遅れないよ」と言う。

 『バジュランギおじさんと、小さな迷子』では、少女シャヒーダーがパキスタンからお母さんとデリーまで電車で来て、パキスタンに帰る途中でお母さんとはぐれてインドに取り残されたのだった、、、。あの列車の路線は何というのかな。調べてみたけどよく分からなかった。

 ニザムディン駅は階段が多くて、荷物を運ぶのが大変だということで、ポーター希望の人は600ルピー(or1,000円)で承ります、、、と事前にお知らせがあった。東北からお越しのマダムが「私、お願いします」とポーター希望し、ほかの人々は自前。

 40分くらいで、駅に着いたらしい。

駅前ロータリー

 

ハズラット・ニザムディン駅

 

 で、バスを降りるなり、わらわらと寄ってくるポーターの方々。荷下ろしをしているとどんどん増えるポーターの数。すかさずアラームさんが値段交渉開始。

赤い服を着ているのがポーターの印(左の赤いマフラーしているのがアラームさん)

 

 が、これがなかなか交渉成立しないらしく、だんだんアラームさんの口調も喧嘩腰っぽくなってくる。おいおい、、、大丈夫か? と思って見ていると、アラームさんが、自分のとマダムのと2つスーツケースをゴロゴロ引いて動き出す。どうやら、値段交渉が決裂したみたい。アラームさんも絶対引かないところがスゴい。

 すると、ポーターのお兄ちゃんたち、慌てたのか数人がアラームさんに着いてくる。どうやら、その値段でいいから運ばせて、ってことを言っているみたいだが、アラームさん無視してスーツケース両手で引きずってスタスタ歩く。私たちも、好奇心の塊でコトの顛末を見届けるべく必死で着いて行く。

 ……で、駅の入り口に来て、ようやくそのうちの1人と交渉が成立したらしく、お兄さん、タオルをぐるぐるっと巻いて頭に乗せたかと思うと、マダムのスーツケースをその上にひょいと乗せ、すいすいと階段を上がっていく。

 見ていた私たちは、しばしボーゼンとなって、良かったね、、、インドでの交渉はあれくらい強く出ないとダメなんだね、、、などとホッとするやら驚くやら。

 

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 階段を上がったり下がったりしたものの、それほどヘビーでもなく、どうにかホームに降り立つ。

 

工事中……??

 

 ちょうどこのツアー出発の1週間くらい前に、インドで列車の脱線事故があったというニュースが日本でも流れていたが、このような様子や、かなりスゴイ車両(ホントに旅客車?みたいなの)が通ったり止まったりしているのも見ると、メンテナンスとか確かにちょっとどうなんだろう、、、と思う。

 列車を待っている間に、座席のくじ引き。7人+2人のガイド&添乗員で計9名のツアー、3人と6人に座席が分かれているからということで、R子さんお手製のくじを引き、私は66番。3人組の方らしい。

 ……そうこうするうちに、ガティマンエクスプレスがやって来た。さすが、国内最速特急とあってキレイな車両。

 

ガティマンエクスプレス

 

66番はここ

 

両隣は、窓側にまたもマダム、通路側にはカーンマーケットのカーマ・アーユルヴェーダで爆買いしていたお姉さん。

列車内。ほぼ満席っぽかった

 

 この写真に写っているお兄さんたち、この数分後、マジ喧嘩をおっぱじめてビックリ。一人が帽子を被った男性の頭を思いっきり殴りつけていて、数人が止めに入りながら車両から出て行って、おいおい、、、と思って見ていたら、数十秒後に、帽子の男性以外みんな何事もなかったかのように戻ってきて、またビックリ。

 ちょっと写真では分かりづらいが、車両の座席が、半分は進行方向向き、半分は反対向きに固定されている。我々3人は進行方向向きだった。

 しばらくすると、音もなく列車は動き出し、時計を見れば、8:10ちょうど。定刻出発!

 駅を出ると、田んぼのような光景が広がり、写真撮ろうとしたところへ、早くも軽食サービスが始まり、、、

軽食というより、しっかり朝食だった

 

 慌ただしく配られたものがこれ。真ん中のアルミホイル色のものがカレー。

ベジタブルカレーだった

 

 このカレー、割と辛めで、非常に美味しかった! やっと本場のカレーを食べた感じ。辛いというよりスパイシー。カレーの横のはパラーターというらしいがチャパティといわれれば聞いたことある。ナンとはちょっと違うけど、まぁ、これをカレーにつけて食べると何とも香ばしくて美味しいのであります。

 マダムは辛いのが大好きだそうで、嬉しそう。爆買いのお姉さんも、美味しいを連発。

 パンにはバターとジャムも付いていて、マンゴージューズがすごく美味しくて感激! 後からカップにお湯を注ぎに来てくれ紅茶をいただきながら、甘いものも、、、と思ったが、結構お腹がいっぱいになったので、これはお持ち帰りに。……と思っていたら、この後さらに、バナナが1本ずつ配られてきて、これがまた日本で食べるバナナとほとんど同じなんだけど、何だか妙に美味しく感じたのは、列車の旅のおかげかな。

 1時間40分しかないから、さっさと配って、さっさと食べて、さっさと回収! って感じだったけど、想像以上に充実した軽食サービスで大満足。

 そして、アッと言う間に(ホントにアッと言う間だった)アグラに到着してしまった。9:50の定刻到着だった! 

 

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 列車を降りたらもの凄い人で、写真を撮っている余裕などなく、アラームさんを見失わないように着いていくのがやっと。

アーグラー・カント駅

 

 ……どうにか、駅の外に出たところで、後ろを歩いていた添乗員のR子さんが、「あ! アタシ、リュック忘れた!!」と叫ぶ。えぇっ!!となって振り返ったが、R子さんは「先行っていてください~~」と言って、スーツケースを引きながら駅の方に既にダッシュしている! 「あ、スーツケース(持って行きますよ、の意味)~~!」という私の声はもう届かなかった。

 しかし、さすが添乗員さんは、動きが違うというか、ムダがない。アッと言う間に人混みに消えたかと思うと、数分でニコニコ人混みから現れた! 「いや~、間に合いました。すみません!」などと言いながら、ちゃんと背中にはリュックが背負われており、私たちもホッとする。

 ここからバスに乗り、サリー屋さんへ。このツアーは女子限定の女子ツアーだからか、ちょっと女子っぽいメニューがあるのが面白い。サリーを着る機会なんてめったにないだろうから、着替えるのは面倒だけど、ちょっと楽しみだった。

 

アグラの街並み。選挙?ただの宣伝?こういう看板はいたる所にあった

 

 駅からバスで15分くらいだったろうか、サリー屋さんに到着。ここで、サリーをレンタルして着付けてもらう。

サリー屋さん

 

 ものすごいたくさんのサリーの中から好きなのを選べと言われても、正直言って困る。サリーは着てみたいが、それで記念写真を撮ろうとか、そういう思い入れはまるでなかったので、パッと目に付いたものを選択。方やじっくり選ぶ人も……。

 選んだ人から地下へ降り、そこで店員のお姉さんにサリーを着せてもらう。

 サリーって1枚の布で完結していると思っていたけど、違った。半袖の上着(というのか)をまず着る。私は、7分袖のTシャツの上から着たが(タンクトップになっている人もいた)、この上着は丈は短くて、バストとお臍の真ん中くらいまで。ボタンをしっかり留めて、さて、ここから大きな1枚布をくるくると身体に巻き付ける。といっても、ただ巻き付けるのではなく、布の折り方、襞の入れ方があるらしく、店員さんは(当たり前だが)実に手際よく布を操り、私の身体に巻き付けていく。ウエストをかなりぎゅうぎゅうに絞られてピンで留め、背後から前身頃に布を肩に掛けるように垂らすが、ところどころでズレないようにピン留めする。このピンで留める際に、グイッと絞められるので、正直言ってちょい苦しい。

 ……で、アッと言う間に着付け終了。ホント、5分かそこらだったと思う。私はこの日、ボトムはジーンズを履いていたんだけど、サリーの裾からジーンズの裾がちょこっと出ていたのを見つけた店員のお姉さん、これを見えないように折れと言う。なので、仰せの通りに折ったんだけど、折りが甘かったのか、まだ少しジーンズがのぞいていて、それをお姉さんは見逃さず、「まだ出てる!」といわんばかりに指さすので、すみません!って感じでどうにか折り込んで隠すと、「よろしい!」という感じでニッコリ笑ってくれた。

 プラス1,000ルピーで、アクセサリーもコーディネートしてくれるというが、私はパス。でも3人の方々は、サリーに合ったアクセサリーをお姉さんたちが見立ててくれて(これがホントによく合っていてキレイだった)髪飾りやイヤリングなどしていて、とってもキレイで素敵だった。

 アラームさんの説明によれば、サリーを着る際は、下着を身に着けないんだそうな。つまり、パンツも履かないってこと。インドでは、外で用を足すことも多いから、女性はそういう場合、サリーを着たまま(捲ったりせず)用を足すんだそうな。「便利だよ~」とアラームさん。……なるほど、、、まぁ、暖かい所ならパンツ履かなくても良いと思うけど、日本で冬場パンツ履かなかったら絶対風邪引くよな、、、などと心配してしまった。この日も朝寒かったが、インドだって朝晩は寒かろうに、、、と思ったが、そういえば、列車の中でサリーを着ているおばさまたちがいたが、お腹が見えていたよなぁ、、、。つまり地肌にサリーを着ているということ。しかも半袖で、上着は着ていなかった。慣れれば寒くないのだろうか、、、。

 、、、というわけで、全員着替え終わったところで、再びバスに乗り、サリーを着た7人のおばさんs、いざ、タージ・マハルへgo!!

 

 

 

その⑥につづく

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ともしび(2017年)

2019-03-26 | 【と】



以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 ベルギーの小さな地方都市のアパートで、慎ましやかな日々を送る老年に差し掛かったアンナ(シャーロット・ランプリング)と夫(アンドレ・ウィルム)。小さなダイニングでの煮込みだけの夕食は、いつものメニュー。会話こそないが、そこには数十年の時間が培った信頼があるはずだった。

 だが翌日、夫はある疑惑により警察に出頭し、そのまま収監されてしまう。

 しかし、アンナの生活にはそれほどの変化はないかに見えた。豪奢な家での家政婦の仕事、そのパート代で通う演劇クラスや会員制のプールでの余暇など、すべてはルーチンの中で執り行われていく。自分ひとりの食事には、煮込み料理ではなく、簡単な卵料理だけが供されることくらいがわずかな変化であった。

 ところがその彼女の生活は、次第に狂いが生じていく。上の階から漏れ出す汚水、ぬぐうことができなくなった天井のシミ、そして響き渡るような音を立てるドアのノックの音……。なんとか日常を取り戻そうと生活を続けるアンナだったが、そこに流れ込むのは不安と孤独の冷たい雫。やがてそれは見て見ぬふりが出来ないほどに、大きな狂いを生じていく……。
 
=====ここまで。
 
 『まぼろし』『さざなみ』ときて、『ともしび』。邦題、ひらがな4文字が続くけど、これってやっぱり意図的だよね?


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 シャーロット・ランプリングが好きなので見たかったのだけど、なかなか都合が付かず行けず仕舞いか、、、と諦めていたところ、ぽっかり時間が出来たので、終映ギリギリに滑り込みで見に行って参りました。『まぼろし』も『さざなみ』もまあまあだったと思うのだけど、これは、、、うぅむ……という感じ。


◆老いるということ。

 ほとんどセリフがないのよね、これ。ほぼずーっと、シャーロット・ランプリング演ずるところのアンナの姿を追っている感じ。だから、彼女の演技がほぼ全ての映画とも言える。

 夫が収監された罪状は分からないけど、まぁ、多分、幼児性犯罪だと思われる。序盤で、外から女に「あんなことして恥ずかしくないのか?」みたいなことを叫ばれていたり、息子には「迷惑だ、帰れ!」と激しい拒絶に遭ったり、動かした洋服ダンスの裏から夫が隠していた写真(何が映っているのかは映画では映らないから分からない)が出て来てそれを見てアンナが愕然としたり、、、という辺りでそれを臭わせる。

 老いて、夫婦ふたりの生活をささやかに楽しもうと思っていたであろう老女が、突然独りぼっちで世間に放り出されてしまった、、、というお話なんだが、正直なところ、見終わった後の気分は悪かった。テーマがテーマだから重くなるのは仕方がないが、どうも悲観的に過ぎる気がして、、、。

 夫がそんな犯罪で刑務所行ったら、息子だけじゃなくて友人などの他人だって冷たくなるだろから、独りぼっちになってしまうのは、まあ道理だと思う。しかし、飼っていた犬にまでそっぽを向かれるのは、何だかあんまりな気がする。犬ってどこまでも裏切らない生き物だと思うけどなぁ、経験上。序盤のシーンで、アンナが食事の支度をしている側で彼女を見上げていた姿は、決して懐いていない感じではなかったと思うんだけど。ダンナにより懐いていたとしたって、あれはないだろう。

 まぁ、犬のことを抜きにしても、何かこう、、、ただただ現実に押しつぶされていく老女の様を描いているのがなぁ。アンナはずっと受け身なんだよね。唯一、自ら動いた、孫の誕生会に出向いたというシーンも、息子にあそこまで拒絶されるという結果になるし。その後、駅のトイレの個室で号泣するアンナが気の毒すぎて見ていられない。

 老いるってそういうことなのかね? そこまで無抵抗になるってこと? そこまで現実は老いに非情なのか? あまりにも老いに対してネガティブすぎる感じがするんだけど。

 息子とは、夫の逮捕以前からそもそも確執があったらしいのだけど、それらを含めて、アンナという一人の女性はこれまでいろいろな現実に向き合ってこなかった、見て見ぬふりをしてきた、自分と向き合ってこなかった、そういう“事なかれ主義”的な生き方の代償がこれなんだよ、みたいなことを、監督は言っている。

 「『ともしび』では献身といった思いに囚われ、不安や依存によってがんじがらめになってしまった、現実から目をそらす女性の悲痛な内面を描いています」
 「(この映画の)核心というのは、夫が逮捕されて去ったことでアンナは自分自身と折り合いをつけなければならなくなるということです。(中略)ストーリーの中心が依然として主人公の内面、彼女の当惑、絶望であるということが重要なのです」


 ……確かに、自分と向き合うことをしようとしない人間は、どこかでしっぺ返しを喰らうとは思う。しかし、私は、アンナと息子以上に、親とは断絶しているが、母親がもし手作りケーキを持参で出向いてきたら、いくら私でも、あの息子みたいに追い返すことはしない(できない)だろうと思う。喜んで招き入れはしないが、少なくとも、家には迎えるだろう。父親が犯罪を犯したこととは別次元の話では? あるいはそこは、息子と娘の違いなのか。もしくは、日本と欧米の文化の違いなのか。

 いずれにしても、とにかく、この監督の言っていることは分かるのだけど、描き方は好きじゃない。

 
◆71歳のシャーロット・ランプリング

 衝撃的だったのは、思った以上にシャーロット・ランプリングが年老いていたこと。『さざなみ』(2015)は本作の2年前の作品だけど、グッと老いた感じがしたのは私だけ?

 アンナが着替えるシーンが頻繁に出て来て、その度に、彼女の下着姿が晒される。プールで泳いだ後にシャワーを浴びるシーンでは、全裸になっている。あそこまで露出する必要性があったのだろうか、、、? 私的には、ちょっと過剰な気がしたのだけど。あんなに脱ぎまくらなくても、十分、彼女が老いたことは伝わっているのに。

 終盤、海岸に打ち上げられたクジラを見に行くシーンが何というか、非常に哀しい。ただ死んだクジラを見に行くだけなんだが、それを見ているアンナの姿が痛々し過ぎる。

 あと、ラストシーンも怖い。ずんずんとヒールの音だけを響かせて地下鉄の階段を降りていくアンナの後ろ姿を映しているんだけど、私は、あのままアンナが、、、と思ってドキドキしながら見ていた。心配した展開にはならず、呆気ないエンドマークで、思いっきりどよよ~んとなる幕切れだったけど。

 シャーロット・ランプリングも撮影時71歳。『さざなみ』までは本当に美しいと思っていたが、本作では、哀しいかな美しく見えなかった。やはり、あまりにも受け身過ぎる役ってのは、彼女の魅力をも曇らせているのではなかろうか。それが本作を見て一番残念に思ったことかも知れない。









演技のレッスンシーンが面白い。




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ちいさな独裁者(2017年)

2019-03-24 | 【ち】



以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 第二次世界大戦末期の1945年4月、敗色濃厚なドイツでは軍規違反を犯す兵士が増えていた。

 命からがら部隊を脱走したヘロルト(マックス・フーバッヒャー)は、道端に打ち捨てられた車両のなかで大尉の軍服を発見する。それを着てナチス将校に成りすますと、ヒトラー総統からの命令と称する架空の任務をでっちあげるなど言葉巧みに、道中で出会った兵士たちを次々と服従させていく。

 “ヘロルド親衛隊”のリーダーとなり強大な権力に酔いしれる彼は、傲慢な振る舞いをエスカレートさせ、ついには大量殺戮へと暴走を始めるが……。
 
=====ここまで。
 

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 どうやら、日本公開版はカラーだったようですが、私が見たのはドイツ公開版のモノクロでした。予告編はカラーですね。私が見に行ったのは、1週間限定のモノクロ上映期間中だったみたい。そうとは知らなかったけど、なかなか面白かったです。こんなことが実際あったなんて、唖然、、、。


◆制服脱げばタダの人。

 制服の持つ力は、思いのほか怖ろしい。本作のストーリーの前提は、この“制服の威力”にある。

 制服って独特の魅力があると思う。個人的に制服にまつわる思い出と言えば、高校進学の際、その学校の制服にちょっと憧れていたので、実際に着ることが出来たときは嬉しかったなぁ、、、くらいのささやかなもの。そんな具合に、自分自身は制服には高校卒業後まるで縁のない生活をしてきたが、身近なところで制服の威圧感を覚えると言えば、そらなんつったって「警察官」の制服でしょう。あれこそ、日常的に目にする“権力”の象徴だ。

 つまり、着ている“人”がどんな人であれ、着ている“モノ”がモノを言う、それが制服。

 ヘロルトも一兵卒でありながら、大尉の制服を着ただけで、周囲が一変してしてしまう。制服の怖ろしいところは、それを着ることで、周囲だけでなく、自分自身もその制服を着る人間になったような錯覚に陥ることではないか。ヘロルトも、何やらしぐさや佇まいがちょっと偉い人っぽくなるのである。脱走兵だったときは背を丸めてこそこそちまちま動いていたのに、大尉の制服を着た後は胸を張って堂々とした動きになるのだ。しゃべり方まで偉そうになる。この変貌ぶりがかなりリアルで気味悪い。

 とはいえ、制服に騙されない人もいる。大尉の制服のズボン丈がヘロルトの脚より長いことを見逃さず、ヘロルトがニセ将校だと見抜きながらも、敢えて自分の身を守るために行動を共にする輩もいるのだ。というのも、脱走が横行していたこの頃、単独で行動していると脱走兵とみなされるリスクが高く、皆、脱走兵でなくとも兵士たちは必ず複数で行動したがったという。また、脱走兵が複数で行動していても、ただの雑魚兵の塊よりは、上官がいる塊の方が脱走兵に見えなくて良かったということだろう。それで、ヘロルトがニセ将校と分かっても、こいつと同じ塊にいた方が安全だという判断が働いたということらしい。いずれにしても、“制服の威力”を利用しているということに違いはない。

 ヘロルトは実に巧みにウソをついて、身元がバレそうになる危機をいくつも回避するのだけど、このウソの巧さは天性のものかも。制服を着たからウソも巧くなるってもんじゃないだろうし。見ている方は、いつバレるかと冷や冷やもの。特に、ヘロルトが脱走したとき追い掛けてきていたのがアレクサンダー・フェーリング演ずる将校ユンカーなんだけど、このユンカーと、ニセ大尉ヘロルトが顔を合わせ、同じ車に乗り合わせるシーンがある。ユンカーがヘロルトの顔をマジマジと見て「前にどこかで会ったな」と言うところなどは緊迫感MAX。ヘロルトはしどろもどろになることなく適当に答えてその場をしのぎ、結局ユンカーはヘロルトが誰だったか思い出さずに去って行くのだけど。

 調子づいたヘロルトは、遂に、同志であるドイツ兵を大量に虐殺した後、ベルリンに戻ってやりたい放題しているところを見つかって捕えられる。

 本作はナチ映画だけど、ナチス内部での虐殺を描いているところが、他のナチ映画と異なる。というか、こういう題材のナチ映画って、あまりお目に掛かったことがないような。ドイツ軍内部でも様々に対立があったのは知られているし、ヒトラー暗殺の企ても多かったと聞いているから、内部抗争はイロイロあったと想像するけど、ここまでエグい虐殺があったというのも正直ショッキングだった。

 実在したヘロルトについては、本作の公式HPに結構詳しく説明がされているし、wikiにも載っているので、ご興味のある方はそちらを読まれることをオススメします。


◆人間だもの。

 この映画でおかしいのは、ヘロルトが制服以外に何ら身分を証明できるものを示さない(示せない)のに、(前述した一部の者を除き)誰もがヘロルトが大尉であると信じ込んでしまうことだ。ヘロルトがあまりに堂々としていることや、簡単にヒトラーの名を口にすることで、よほど偉い将校だと相手に思い込ませてしまう。

 これって、今、社会問題になっているオレオレ詐欺と、人間心理としては同じなのかなという気がした。人間は、どうしても合理的にモノを考えようとする生き物だと思うから、Aという事象とBという事象が、冷静に考えればつながるはずがなくても、特異な場面に置かれているときは脳内でムリヤリAとBを結びつける合理的な理由を探して自分を納得させる、ということをしているのだと思う。だからこそ、詐欺は古今東西横行し、永久不滅な犯罪なのではないか。騙す方が巧いのもあるかも知れないが、人間の心理の働きが、そもそも“騙されやすい”ように出来ているのではないか。

 ヒトラーが独裁者になれたのだって、結局、詐欺みたいなもんで、みんな脳内で都合良く物事を解釈しているうちに、現実がおかしな方向へ行っていた、、、ということだと思うのだよね。詐欺の被害者のほとんどは「自分だけは騙されないと思っていた」と言うそうだが、つまりはそういうことだ。自分は騙されやすいのだ、と思っていた方が良いということ。“人を見たら泥棒と思え”とは世知辛いかも知れないが、それくらい“とりあえず疑え”というのは大事なことかも知れぬ。

 もっと厄介なのは、おかしいと思いながらも、敢えてそれに乗っかることで身の安全を図ろうとする者もいるってこと。本作でも、ヘロルトの気の狂った虐殺行為に、安易に加担してしまう者たちが大勢いる。戦時下だから、、、ってのとはちょっと違うような気がする。これは、イジメの構造と同じだろう。自分もイジメる側にいないとイジメられるから、、、ってやつ。ヤるかヤられるか、の場面で、どれだけ正義に基づいた行動ができるのか。

 騙されやすく、流されやすい、、、。それが人間の本質なのだ。本作が描いているのは、そういうことだと思う。

 “ヘロルトは特異な人間”と安易に断じるのは、その時点で既に、騙されているのかも。脳内で都合良く解釈して納得している、、、のだから。

 







途中からかなりエグい描写の連続です。




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愛する映画の舞台を巡る旅Ⅲ ~デリー(インド)~その④

2019-03-20 | 旅行記(海外)
**カオスの首都** vol.4

 





その③につづき

 昼食は、ベジタリアンカレーだそうで、こちらのお店へ。  


 やはり観光客御用達のお店らしく、外国人でいっぱい。飲み物が出てくる前に出て来たのはこちら。このお店はタンドリーチキンがウリらしく、、、

 

タンドリーチキンとコロッケ風の揚げ物


 こうして見るとショボいし、小さいチキンだけど、味は確かに良かった。続いて飲み物のマンゴーラッシーが出て来て 



 カレーが出てくるまでの間に、自己紹介タイムとなる。参加者7名、1人ずつ、このツアーに参加した理由みたいなものとか、どこから来たかとか、、、。

 現地集合した方は、ヨーロッパ在住の方で、デリーに来る前にバラナシに行ってガンジス川の日の出を見てきたんだとか。おまけに、空港でロストバゲージに遭い、この時点で2日経っていたけどまだ荷物が出てこないと(結局、最後まで出てこなかった)。

 あとの6名は、サイクルリキシャに一緒に乗った東北から参加のマダム以外は、皆さん、首都圏近郊からご参加。勤続30年の休暇を利用して、とか、連休を利用して催行決定しているツアーを探したらこのツアーが目に付いた、とか、皆さん、参加の動機はイロイロ。おひとりさまツアーに複数回行っている人も何人かいらした。

 ……とか話しているうちにカレーが出て来た。


 緑のは見たとおりほうれん草カレー。ベジタリアンカレーということだったけど、バターチキンもあった。やっぱり定番なんだろうか、これは。観光客向けだからか、どれもあまり辛くなくて拍子抜け。超激辛はさすがにちょっと、、、だけど、私は辛いの好きだから、何となく物足りなさもありながら、味は悪くない。ナンは当然おかわり自由。


 ちゃんとデザートのアイスクリームとチャイも出て来て、かなりお腹一杯になる。

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 空腹も満たされたところで、お次はクトゥブミナールへ。

 午前中に行ったフマユーン廟より時代は遡り、12世紀末~13世紀のインド最古のイスラム遺跡群とのこと。
 

 

クトゥブミナール


 「勝利の塔」という意味らしい。高さは72.5メートル。1206年に奴隷王朝を打ち立てるクトゥブ・ウッディーン・アイバクが、北インドを制圧した記念に建立したのだが、建立時は最下部の1層目だけで、その後、後継者により建て増しされていったそう。以前は、内部に入れたそうで、369段の階段があるんだとか。今は入れないけど、入れても369段上る根性はないなぁ、、、。高所恐怖症だし。

 このアイバクという人は、自分の力を誇示するために、もともとあったヒンドゥー教の寺院を破壊して、その廃材も利用しつつ、これらのイスラム建築を造ったんだとか。でも、アイバクは王朝を築いたわずか4年後に没している。その時点で、この塔の1層目は完成していたらしい。

 

有名な錆びない鉄塔(右側)


 

サンスクリット文字でチャンドラグプタ(2世)を称えているらしい


 この鉄柱、「アショカ王の鉄柱」と呼ばれているんだけど、実際は4世紀グプタ朝のインド統一記念で建てられたもの。以来、1700年経っているけど錆びていないことで有名。純度99%だから、と言われているらしいけど、確かに鉄なのに錆びないのは不思議。とはいっても、柵があるのは多くの人が触って(御利益があるらしい)ちょっとだけど錆びが出て来たからだとか。今はご覧の通り触れない。

 グプタ朝は仏教が最も栄え、ヒンドゥー教も浸透した時代だということだから、この鉄塔がアイバクに破壊されなかったのは幸運だったのか。それとも、どこかから持ってこられたのか? ここにこの鉄塔があるのも、実は謎らしい。

 アラームさんの解説は詳しいけど、「チャンドラグプタ」なんて高校生以来聞いた単語のような、、、。

 

 

インドは84手だそうな


 こちらは、エロチックなレリーフなんだって。イマイチよく分からないけど、“84手”が彫られているのだとか。……というアラームさんの解説を聞いて、ロスバゲのお姉さんがすかさず「84手もあるの? 日本じゃ48手って言われてます」とアラームさんに質問する。アラームさんが何て答えていたのかは聞いていなかったけど、、、。多分、雨風でちょっと浸食されちゃっててハッキリは分からないなぁ、残念。
 
 で、ここで解散となり、また30分後に出口で集合となる。

 

回廊

 

 

回廊の柱のレリーフ

 

 

回廊から見上げるクトゥブミナール


 

クトゥブミナール壁面の彫刻。コーランが刻まれているとのこと


 

モスク礼拝堂の跡(崩れてしまったのだ)


 何でも、この建造物の工事に携わったのはヒンドゥー教徒(or仏教徒)だったから、イスラム建築の工法を知らず、イスラム独特のアーチ型が持ち出し構造になっていたため崩れてしまったのだとか。

 

 

 


  それにしても、インドの建造物に施された彫刻の見事さには圧倒されてしまう。とにかく至る所レリーフで装飾されていて、一体、どれだけの労力と技術を要したのかと想像すると、気が遠くなる。実に細かい作業だったに違いない。

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 というわけで、世界遺産に圧倒されて、お次はカーンマーケットへ。ここも自由行動。

 カーンマーケットは、デリーでは有名なマーケットで、観光名所化しているらしい。外国人も多かった。高級店が並んでいて、服飾、化粧品、雑貨、食品、、、と専門店が目白押し。

 


 この裏路地で、インドの旅で最初で最後のネコに会ったんだけど、うっかり写真を撮り忘れた。インドでは、圧倒的に犬が多くてネコはここでしか見なかったなぁ。きっと、いるところにはいるのだろうけれども、、、。

 ここでは、私は職場へのばらまき土産(チョコのお菓子)をゲットしただけで、あとはお店を見て回った。紙製品のお店があって、可愛い便箋やら付箋やら紙袋やらがたくさん並んでいたけど、まぁ、東京に戻ればこういうのは一杯あるもんなぁ、、、と冷めた目になってしまって、ブツは買わず。カーマ・アーユルヴェーダで爆買いしている方がいらしたけど、皆さん、あんまり精力的に買い物していなかったみたいだった。見る方が楽しいんだよね、こういう所は。

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 本日の予定を終えて、ホテルに戻って夕食。

 

 


 卵スープに癒やされた、、、。

 明日はいよいよ、アグラへ移動! 楽しみにしていた電車の旅。6時半集合だから、今夜は早く寝よう。






その⑤につづく



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天国でまた会おう(2017年)

2019-03-18 | 【て】



以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 1918年第一次世界大戦中の西部戦線。休戦目前にも関わらず、上官であるブラデル中尉から不条理な攻撃命令が下り、アルベールは生き埋めに。そんな彼を御曹司のエドゥアールが救うが、その際に顔に重傷を負ってしまい、ショックを受ける。

 二人がパリに戻ったところ、世間は戦没者を称える一方で帰還兵には冷たかった。アルベールは仕事も恋人も失い、エドゥアールは生還したことを家族にひた隠しに。そこに声を失ったエドゥアールの思いを通訳する少女を加え、彼らは人生を巻き返すため、国を相手に大胆な詐欺計画を立てる。
 
=====ここまで。
 

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 チラシのデザインに何となく惹かれて劇場へ、、、。原作者が「その女アレックス」の著者だったと知ってビックリ。ゼンゼン雰囲気が違う作品のような(ちなみに本作の原作は未読)。


◆日本じゃ不発??

 フランスで大ヒットとかいう鳴り物入り(?)の割に、上映劇場は都内でシャンテだけだし、今月1日に公開したのに早々に終映だし、何で??と思いながら劇場へ。サービスデーだってのに、半分くらい空いていた。ううむ、、、。

 ……と思って見たんだけど、見終わってみて、何となくその理由が分かった気がする。まあ、一言で言えば、あんまり一般ウケしない作品だから、、、じゃないかと。私は結構気に入ったけど、全体的にちょっと散漫な感じはするし、世界観がダメな人にはダメかな、と思う。

 散漫な感じをさせる最大の要因は、上記あらすじにある「国を相手に大胆な詐欺計画」という部分がイマイチ説得力がないところ。分かりにくいんだよね、詐欺の内容が。“追悼記念碑”のカタログだけ作って、実際の記念碑は作らずに金だけもらってズラかる、、、って、正直言ってピンとこない。この詐欺の内容は、ある意味、このストーリーのキモなわけだから、もう少しキレが欲しい。フランス人には、これがブラックユーモアとして効いているのかしらん? その辺が不思議。

 さらに言えば、エドゥアールは、自分の顔が衝撃的な変形をしたことによって、戦争を憎み、戦争をした国を憎み、こういう詐欺を企てたわけだが、その詐欺を働くまでの描写がいささか弱い。なので、人によっては唐突感を抱くと思う。この辺りがもう少し丁寧に描かれていると、説得力があったのに、もったいない気がする。

 この辺は映画の前半。ただ、前半も、特に序盤は、塹壕戦の生々しいシーンは迫力満点で、非常に怖ろしい。その後、エドゥアールがパリに戻って詐欺を働くまでが前述の通りイマイチだけど、中盤以降は結構展開も早く、面白いと思う。エドゥアールとアルベール共通の敵であるプラデルとのエピソードや、エドゥアールと父親との確執とその顛末、アルベールとポリーヌの恋の行方など、見どころは多い。

 ただまぁ、やっぱりストーリー的にはちょっと弱いよね。

 重要なキーマンであるプラデルってのがどうしようもない男なんだけど、戦場でのプラデルとアルベールのかなり重要なエピソードが伏線になっているはずなのに、話が進んでも一向に回収される気配がなく、??となって終わりそうになったところへ、最後の最後に、一応オチらしいものが用意されているんだが、これも人によってはオチとは思えないものかも。というか、かなりのご都合主義に感じるかも。まぁ、私には許容範囲だったけど。

 あと、エドゥアールと父親の確執が序盤にサラリと映像で紙芝居みたいに見せられるだけなので、どれほど深刻な確執なのかが分かりにくい。だから、ラストの感動的かつ衝撃的なシーンが、人によってはうまく消化できないかも。これもまぁ、私には許容範囲だったけど。

 ……てな具合に、ううむ、、、という部分が挙げれば一杯あるので、こういうところが気になる人にとっては、???、、、ってことになるんだろうな、と思う。


◆世界観が命。

 多分、この映画を気に入るか否かは、その世界観を好きか好きじゃないか、というところに懸かっていると思う。

 私はこういう凝りに凝った美術やセット、衣裳、美しい映像、芝居がかった演技、、、etcは結構好きなので、ストーリーが弱くても脳内でフォローしちゃえるんだけど。ある意味、この映画は、そういう世界観の部分では非常に上手く出来ていて、それらの要素がぴったり噛み合って、実に素晴らしい。単純なファンタジーはダメだけど、こういうブラックファンタジーは好きなんです、私。ブラックファンタジーは、その世界観が全てといってもいいくらい大事。

 原作を読んでいないので原作の雰囲気は分からないが、「その女アレックス」から考えて、原作がファンタジーだとはちょっと想像しにくいんだが、いずれにしても、この世界観を映像で実現させたのは素晴らしいと思う。フランスのセザール賞5部門受賞!と宣伝しているけど、5部門のうち3賞=撮影賞、衣裳デザイン賞、美術賞はやはり本作の世界観に寄与したものとして納得。ちなみに、他の2部門は、脚色賞と監督賞。脚色賞、ってのは、ストーリーをこき下ろしてきた私としてはちょっと意外だけど。恐らく、長編の原作を手際よく映像化したということに対する評価では?

 まぁ、いずれにせよ、本作は、じっくり深く味わうにはいささか物足りない部分もあるものの、ある意味、映画らしい映画だと言えると思う。結局、こういう作品はTVドラマなんかじゃ作れないし、劇場の大きなスクリーンで見てこそのものだと思う。その世界観を体感する、ということ。劇場で、その映画の持つ雰囲気と魅力に浸れる、これも映画の一つの楽しみ方だと思う。

 だから、私は結構好きよ、この映画。DVDが出たら、もう一回見ても良いくらい。TVで見るとショボいかも知れないけど、、、。


 







大人のためのブラックファンタジー映画




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告白小説、その結末(2017年)

2019-03-16 | 【こ】



以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 心の病から自殺した母親との生活を綴った私小説がベストセラーとなった後、スランプに陥っている作家デルフィーヌ(エマニュエル・セニエ)。そんな彼女の前に、熱狂的なファンだと称する聡明で美しい女性エル(エヴァ・グリーン)が現れる。

 差出人不明の脅迫状にも苦しめられているデルフィーヌは、献身的に彼女を支えてくれ、本音で語り合えるエルに信頼を寄せていく。やがて、ふたりは共同生活を始めるが、時折ヒステリックになり不可解な言動を発するエルに、デルフィーヌは困惑する。

 はたしてエルは何者なのか、なぜデルフィーヌに接近してきたのか……。

 ある日、エルの身の上話に衝撃を受けたデルフィーヌは、彼女の壮絶な人生を小説にしようとするが、その先には想像を絶する悪夢が待ち受けていた……。
 
=====ここまで。
 

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 この映画、昨年公開時に劇場に見に行ったんです。が、見終わって自分なりに腑に落ちていたのだけど、後からパンフを読んで???となってしまい、感想を書くのを躊躇する部分もあり、お預けになっておりました。この度、DVDで再見し、まあ納得したので、感想を書くことにしました。


◆本作は恐怖映画か?

 小説家&熱狂的なファン、あるいは、小説家&ゴーストライター、という2人の小説やら映画はよくある設定だと思うが、本作もその1つだと思って見ていると、最後の最後で、はぁ??となる。……というか、そういう風に作っているからなんだけど。

 で、どういうことだろう? と考えるというか、まぁ、そんなに考えなくても、“……多分、そういうことだろう”と腑に落ちる。で、腑に落ちたつもりでパンフを買って帰ってきて、家で読んでみて、“ハレ……??”となった。というのもパンフにこんなことが書いてあったから。

 「アンリ=ジョルジュ・クルーゾーの映画『悪魔のような女』を思わせるサスペンスと恐怖を織り込んで観客を得体の知れない暗闇に誘い込んでゆく。この映画を究極の恐怖映画と呼んでみてもいいくらいだ」(映画評論家/河原晶子氏の寄稿の一部)

 「オープニングのシーンとラストのシーンは、いずれも主人公のサイン会の様子を主観アングルで撮っていて見事に相似形をなし、いわば円環構造になっているのだが(中略)、最後の最後にゾッとすること請け合い」(幻想文学研究家・翻訳家/風間賢二氏の寄稿の一部)

 ……ええ?? 恐怖映画? ゾッとする? そんな映画だったか? と、私は自分がこの目で見て頭で納得したことが信じられなくなってしまった。何か重大なものを見落としていたのか? と。かといって、もう一度劇場に行く気にもならなかったので、DVDが出たら見てみようと思っていた。

 で、今回DVDで再見し、劇場で見たときと、やっぱり同じ印象だった。私にとっては、恐怖映画でもゾッとする映画でもなかった。はて、上記のお二人は、どうして本作をそんな風に評したのかしらん?

~~以下ネタバレです(本作を見るつもりの方はお読みにならない方が良いです)~~

 恐らく、本作は、風間氏が指摘しているように、ポランスキーの『反撥』『テナント/恐怖を借りた男』とテーマが同じだから、それで、“怖い”というキーワードが出て来て、ああいう評になったのかなぁ、と。テーマってのは、「妄想に取り憑かれる人」を描いているということ。でも、本作は、確かにテーマはそうかもしれないけど、前2作とは見せ方がゼンゼン違うし、『テナント~』はそもそも怖いというよりブラックコメデイの要素の方が強いから、ちょっと恐怖映画のカテゴリーに入れるのも違う気がする。まぁ、これは見る人の感覚の違いかもだけど。

 つまり、本作でのエルは、デルフィーヌの裏キャラである、ということ。エルは実在しない女、なんだと思う。これはおそらく多くの人が分かることで、分かる様に仕掛けがされているので、このこと自体は、実はネタバレというほどのことでもないのだけど、知らずに見た方がゼッタイに面白いはず。察しの良い人は途中で気付くだろうけど、まぁ、ラストでジャジャ~ン、という風にしたかったのだろうということは分かる。

 妄想といっても、『テナント~』のような多重人格というほどのものではなく、デルフィーヌが追い詰められた精神状態で、ちょっとイッちゃってたってことかなと思う。だから、やっぱり『反撥』に通じるものはあると思う。ただ、『反撥』ほどサイコタッチな描写ではないし、ヤバさもあそこまでではない。というのも、デルフィーヌは『反撥』のドヌーヴ演ずるキャロルみたいに精神が崩壊しちゃっているという感じではないのよね。というか、そういう演出の仕方をしていない。飽くまでも、サスペンスの範疇であり、『反撥』のオカルトっぽさはない。だから、別に見ていて、得体の知れない怖さは感じなかったんだよね、私は。

 とはいえ、見方によっては、デルフィーヌという小説家は、基本的に私小説を書く人として、そのモデルにした人物に憑依される=多重人格になる、という風にも解釈は可能かも。そうすると、やはり『テナント~』にも通じるものがあるとも言える。

 ただ、本作は何となく不安な空気は本作全体を最初から最後まで支配していて、その理由を知りたくて最後まで見せられてしまう、という感じの映画。だから、まあ、正直言ってあまり深みのある映画ではない。


◆2度目以降の楽しみ方

 深みがないと書いたけど、結末を知った上でもう一度見ると、イロイロ面白い発見が2度目以降はあるのは確か。

 中盤以降、デルフィーヌとエルは化粧や髪型、服装がよく似てくる。そっくりではないのだけど、デルフィーヌが髪を一つにまとめているときは、エルもそうだし、着ている服も、似たような色合い・材質のものになっている。これは、この2人が同一人物の裏表であることのメタファーなんだろうね、多分。

 あと、不可思議なことがイロイロと起きるが、これも、エルがデルフィーヌの裏キャラだと考えて矛盾があまりない。そもそも、エルは、デルフィーヌとしか接していない。デルフィーヌ以外の人は、誰もエルを見ていないし、認識していない。こういうことも、最初は気付きにくいかもだけど、2度目以降はよく分かる。

 エルがデルフィーヌに話した身の上話はどう解釈するのか、、、。これは分からないけど、身の上話自体は大して面白い話じゃなかったし、それをメモしたり録音したりしたものは途中で全部破棄されているから、本筋にはあまり関係のないことなのかも。だから、デルフィーヌがラストに上梓した小説には反映されていないと見た。

 前述の“モデルにした人物に憑依される”ってのも、再見してみて思い至ったこと。本作には冒頭とラストで2度サイン会のシーンが出てくるんだけど、冒頭のデルフィーヌと、ラストのデルフィーヌが別人みたいなルックスになっているのね。特に、ラストシーンのデルフィーヌは、一瞬フラッシュバックで現れるエルと同じ髪型とメイクをしている。冒頭のサイン会の身なりは、表紙になっている亡きお母さんの感じに似ているようにも見えるし。

 ……とかいう具合に、制作者の意図を勝手にあーでもない、こーでもない、と思いながら見るには面白い映画かも。でも何度も言うけど、ポランスキー作品にしては、あんまし味わい深い映画とは言い難い。


◆その他もろもろ

 エマニュエル・セニエは、本当にイイ役者さんだと、改めて思った。『毛皮のヴィーナス』を見たときも思ったけど、演じる役によってゼンゼン見え方が違う役者さんってのは、やっぱり素晴らしいと思う。本作でも、かなりヤバい女性を、ヤバくなさそうに演じていて非常に上手いと思った。

 エヴァ・グリーンは大作りな顔が印象的。エマニュエル・セニエとはゼンゼン違う容貌なのに、だんだん2人の雰囲気が近付いてくる感じとかは非常に面白い。これは2人とも良い役者の証拠だろう。

 デルフィーヌの夫役が、なんとヴァンサン・ペレーズでビックリ。なんかただのオッサンになってしまったのね、、、と、ちょっと哀しくもあり。『インドシナ』では凜々しかったのになぁ。いい歳の取り方って難しいのね。……とはいえ、彼は決して小汚いオッサンになっているわけではなく、十分ステキなおじ様だと思いますが。

 ポランスキーも80代後半。創作意欲が枯れていないことは、映画ファンとしては有り難い限り。守備範囲の広い人だから、きっとまた毛色の違う作品を出してくれるに違いない。……というか、期待している。本格的なホラーとか撮って欲しいなぁ。
 










デルフィーヌの部屋が素敵、、、。




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愛する映画の舞台を巡る旅Ⅲ ~デリー(インド)~その③

2019-03-12 | 旅行記(海外)
**カオスの首都** vol.3
 




その②につづき

 ラール・キラー前の広場からバスに乗り、10分か15分くらいで着いたのが、フマユーン廟

 まずはチケット売り場へ行くが、この日は、社会科見学日和なのか、やたら子供たちが多い。しかも、みんな超フレンドリー。日本人のおばさん集団に、思いっきり笑顔で、ハローだのナマステーだの手を振ってきたり握手を求めてきたり。


スマホを向けると大喜びで手を振ってくれる


 アラームさん曰く、この男の子たちは、割とイイとこの子たちだろう、とのこと。他の学校の生徒たちと思われる集団もいたし、とにかく大賑わいだった。

 で、アラームさんがチケットならぬ、入場コインを渡してくれる。これを入り口の機械に入れるとゲートが開くという仕組み。このコインは出口で回収される。


使い込まれた入場コイン



ゲートを入ったところ。通路右端の物体は犬です

  

西門が見えてきた。やはり、いろんな宗教が混在している国。ダビデの星も


 この西門をくぐる手前にトイレがあって、皆さん、トイレタイム。で、待っていると、どこからか幼稚園(?)の一団が現れ、トイレを待つために整列し始める。みんなお行儀が良くて可愛い。


引率の先生のファッションが素敵


 皆さん揃ったところで、門をくぐると


フマユーン廟




 ここで、自由行動となって、30分後くらいに西門外で集合と言われる。皆さん思い思いに行動。私は早速、正面の入り口からやや急な階段を上って、廟の上階部分へ上がる。で、見上げたところ。


このアーチ型開口部はイーワーンというそうな


 このフマユーン廟は、タージ・マハルの原型になったものだそうで、1565年にフマユーン妃、ハージ・ベーガムによって造営されたムガル朝2代皇帝フマユーンの霊廟。アラームさんの事前レクチャーでフマユーン帝の壮絶人生を知ると、また見え方も違ってくる……ような気がする。

 でも、私はそんな歴史の云々よりも、そのデカさに圧倒されてしまった。ドイツに行ったときも、建造物のデカさにギョッとなったけど、こちらも大きさでは引けを取らない。天皇の墓である古墳も、大きいものは相当の大きさだけど、あれは大きいっていうより、広いといった方が良いよね。建築物でこのデカさってのは、日本ではあんまり目にしない気がする。東大寺の大仏殿も大きいけど、なんかちょっと基準が違うというか、、、。やはり、木造と石造りの差なんだろうか。

 などと思いながら、先ほどくぐってきた西門を見てみると、、、


人がいっぱい、、、


 上階をぐるりと一周できるので歩いてみる。





 とにかく、芸が細かい。日本の超絶技巧の工芸品も溜息ものだけど、この天井や床、棺など、イチイチ細かくて見入ってしまった。大理石がこんなに美しいものだったとは。




本物の棺は地下にある



またまた社会科見学(?)の子供たち。可愛い



フマユーン廟内のナイカ・グンバド(フマユーンの理髪師の墓)と廟外のニラ・グンバド(青いドーム)


 帰ってきてから、ちょっとインド建築の本など読んでみたら、ムガル朝はモンゴル出身だから、このフマユーン廟も中央アジアの影響を色濃く受けているのだそうだ。世界史は苦手だったので大半のことは覚えていないけど、ムガル朝がモンゴル出身だったとは、覚えていないどころか初めて知った気がする。自分の無知を知る旅……。


生け垣からリス現る(リスはこの旅で頻繁に目撃した)

 

修復の様子が展示されている


 集合時間になり、集合場所へ。お次は紅茶屋さんへ。


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 バスで連れて行かれた紅茶屋さんは、「へ? ここがお店?」というような普通の建物(すみません、写真撮りそびれましたので、トリップアドバイザーのリンク貼っておきます)。お店は地下にあり、まあ、観光客向けの、ちょっとお高めの“Top Quali Tea”というダジャレみたいな名前のお店。

 まずは一同座らされて、紅茶について簡単にレクチャーを聴かされる。紅茶で一番上等なのは、ダージリン、その次がアッサム。で、そのダージリンでも特に高級なのが、このGOLDってやつね! と英語と日本語とヒンディー語混じりの説明を熱心におじさんがしてくれる。GOLDというのは、ダージリンの茶葉の種類のようで、一級品らしい。そして、さらにイギリス統治下でイギリス人たちが好んで飲んだ(ホントか?)というWHITEという種類を紹介してくれるんだけど、このWHITEは、茶葉を発酵させていないというのが特徴だとか。

 説明は、ちょっと話半分で聞いていたんだけど、試飲してみたら、これがどちらもメチャメチャ美味しいの!! 正直言って、こんなに美味しい紅茶をいただいたのは、生まれて初めてじゃないかと思うくらい。淹れ方とかにもよるとは思うが、茶葉の等級というのは侮れないと改めて思い知る。……考えてみりゃ、日本茶だってそうだもんな、、、と当たり前のことに思い至る。実際、WHITEは発酵させていないので、色も紅茶の色ではなく、薄い緑茶みたいな色で、味はまさに“玉露”。本当に上品で美味しい。これはぬるめのお湯でじっくり淹れると美味しそう。

 ……というわけで、カモネギ日本人観光客は、このGOLDとWHITEのセット(日本円で5,000円くらい)を迷わずお買い上げ。中身にも惚れたけど、箱がまた可愛いので、これは買うしかないでしょ。




箱がステキでしょ?


 さらに、インスタントのチャイも試飲させてもらったところ、これまた、実に美味い! 甘さはほんのりで、スパイシー。こんなチャイ、日本の高級店でも飲んだことないかも。こちらも1箱ゲット。ううむ、もっと買ってくれば良かったかも、、、と思いネットで検索したら、通販サイトもあった!



1箱10袋入り。1袋につき130mlの少なめのお湯で。沸騰したお湯はNG


 友人たちへのお土産は、GOLDの茶葉が70%入ったファーストフラッシュのティーバッグ10コ入り。こんな小さな箱なのに10コも入っている。5箱買うと1箱おまけというので、1箱は自分用に。帰国後、もうとっくに飲んじゃいましたが、、、。



 というわけで、結構散財いたしました。

 ……で、そろそろお腹も空いた頃。お次は、ベジタリアンカレーを食べにgo!





その④につづく

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グリーンブック(2017年)

2019-03-10 | 【く】



以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 1962年、アメリカ。ニューヨークのナイトクラブで用心棒を務めるイタリア系のトニー・リップ(ヴィゴ・モーテンセン)は、粗野で無教養だが、家族や周囲から愛されている。

 “神の域の技巧”を持ち、ケネディ大統領のためにホワイトハウスで演奏したこともある天才黒人ピアニスト、ドクター・シャーリー(マハーシャラ・アリ)は、まだ差別が残る南部でのコンサートツアーを計画し、トニーを用心棒兼運転手として雇う。

 正反対のふたりは、黒人用旅行ガイド『グリーンブック』を頼りに旅を始めるが……。
 
=====ここまで。
 

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 言い訳がましいですが、別にオスカーを獲ったから見に行ったわけではありません。ヴィゴが結構好きなので見に行ったのです。……それにしても、史上最低のオスカー作品賞だそうで。まぁ、どんな作品でも文句言う人は必ずいます、ってことね。


◆予定調和にもクオリティってものがある。

 冒頭から、ヴィゴが出ているんだけど、容貌が違いすぎて、最初の1分くらい、それがヴィゴだと分からなかった!! 何この顔がデカいおっさん!! と思ったらヴィゴだった!

 それもそのはず。本作のために、何と14キロも増量したってんだから、そら顔も膨れるわ。頬張った顔の細マッチョのイメージしかなかったヴィゴ。腹も出ているし、立派なおっさん体型で、何だかちょっと可愛かった。

 ヴィゴ演ずるトニーは、何とも愛嬌のある男で、憎めない。一方のマハーシャラ・アリ演ずるドン・シャーリーはちょっと気取った感じ。バディものとしてはお約束の対照的なキャラ。

 予備知識はほとんどなく見に行ったけど、もうこの冒頭10分の展開で、最後までの成り行きが想像でき、それを大きく裏切ることなく本当にラストまで行くという、実に予定調和そのものな作品なのに、むしろ“お約束ならでは”の安心感と、人種差別という取扱注意なテーマをユーモアを交えて深刻になりすぎずに描写している辺りが、却って良かったのではないかと思う。

 私がいたく感心したのは、トニーは、一見ああだけど、実際には自分の職務に非常に忠実で、最初からドンとの契約を確実に履行する姿勢に徹していること。たとえ黒人が嫌いでも、ただ金が欲しいだけだからでも、とにかく、契約した以上はその内容をキッチリやり遂げようとする。まぁ、アタリマエっちゃぁ当たり前なんだけど。ピアノがスタインウェイかどうか確かめ、そうでないと分かると会場の管理人と喧嘩してでもスタインウェイを準備させるんだけど、私がトニーだったら「この会場にはスタインウェイはないんだってよ」と言って終わらせちゃいそう。また、ドンが面倒なもめ事に巻き込まれた時だって、テキトーに知らん顔することだってできただろうに、敢えてその面倒な場面に身体を張って乗り込み、場を納める手際はさすが!という感じ。ドンが見込んだだけのことはある。

 そして、トニーはとにかく家族思い、特に妻大好き男で、毎日毎日妻に手紙を書いているのが微笑ましい。間違いだらけの手紙でも、毎日送ってくれるのは、私が妻なら感激だ。そして、この手紙にまつわるドンとのエピソードが実に良い。ラストシーンの伏線になっているし、妻のキャラもよく表れていて、この辺りのシナリオはとっても上手い。

 人種差別にまつわる描写も多いが、私が一番、心に響いたのは、雨の中でドンがトニーに自分の心の内を叫ぶシーン。黒人でありながら、多くの黒人とは違う自分、白人に尊敬されながらも白人から差別される自分、アイデンティティの部分で完全な黒人とはいえず、白人になれるわけでもないという、我が身の置き所のなさは、想像することしか出来ないが非常に孤独だろうと感じられ、いたたまれない気持ちになる。それを聞いているトニーの表情がまた切ない。

 また、トニーがある場所で同じイタリア系のダチに遭遇するシーンがあるのだが、彼らのイタリア語での会話を聞いたドン(イタリア語も解すると後で分かる)は、トニーが仕事を辞めてしまうのではないかと本気で心配し、ダチたちと飲みに行こうとするトニーに「給料を上げるから、仕事を継続してくれ」と、それはそれは切羽詰まった表情で申し出る。この場面は、私は思わず涙してしまった。当然、トニーは辞める気などなかったのだけど、ドンの気持ちを考えると胸が痛い。

 トニーが石を盗るシーン、2人でフライドチキンを食べるシーン、、、などなどトニーとドンの心の距離がどんどん縮まるエピソードが描かれ、人種差別の露骨なシーンにギョッとなりながらも、十分楽しめる内容になっていると思う。

 
◆史上最低の作品賞、、、?

 私は、障害者モノと、人種差別モノは、基本的にあまり好きじゃないから見ない。好きじゃない理由は一応あるけど、書くと長くなるのでここでは割愛するが、まあ、誤解を恐れず簡単に言ってしまえば、見方が難しいからである。

 とはいっても、出演者次第では今回のように見るわけだけど、“やっぱり見なきゃ良かった”と後悔する作品が多い中、本作は見て良かったと素直に思える良作だったと思う。

 本作が、アカデミー賞で作品賞に輝いたことで、かなり批判が出ているんだとか。作品賞に値しないなどと、散々な言われ様だ。批判の主流は、「『グリーンブック』が現代的な問題を描いていない」というものらしい。授賞式では、スパイク・リー監督が、結果に不満で会場から退席しようとして止められたというエピソードもある。まあ、出て行きたいなら出て行かせてあげれば良かったんじゃないの? と思うが。

 大体、アカデミー賞が、そこまでの賞なのか??っていう素朴な疑問を一映画ファンとしては抱いてしまうけれども、まあ、映画業界の人々にとっては、そりゃ、ノミネートで終わるのと受賞するのじゃ天と地の差があるのだろうという想像はつく。実際、はぁ?という受賞作は過去にも結構あるけど、受賞作となれば劇場が激混みになったりもするわけで。

 そもそも、映画というのは本来娯楽であり、何も、社会問題を提起することにその本質的な役割があるわけじゃない。人種差別を描いているからといって、それを深刻かつリアルに描かなければダメだというのは、勝手な思い込みだろう。本作のように、ちょっと一緒に旅したくらいで、差別者と被差別者の間に友情が成立する、というのは安易すぎるという批判は、そっちの方が安易だと思うんだけどね。一体、映画にどんな高尚さを求めてんだよ、って話。少なくとも、本作は、差別を茶化したり揶揄したり等というふざけた態度ではなく、至極マジメに作られていることは間違いない。それだけじゃダメなの?

 上記のリンク先に書いてあるように、「入り口」になることの意義は大きい。たとえ、当事者にとって満足する内容でなくとも、そういう事実があったことを知るだけでも大きな一歩になる人々も大勢いるのだ(もちろん私もその一人)。

 映画に過剰な期待をするのもヘンだし、映画の影響を過小評価するのも傲慢だと思う。所詮映画、されど映画、なのだ。

 

 





音楽が良かったのでサントラを買います。




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愛する映画の舞台を巡る旅Ⅲ ~デリー(インド)~その②

2019-03-05 | 旅行記(海外)
**カオスの首都** vol.2

 

 

 

その①につづき

 

 翌朝は7時から朝食で、6:30にモーニングコールをしてくれる、とのことだったけれども、5時過ぎから目が覚めてしまい、しばしベッドの中でもぞもぞしていたけれど、眠れそうにもないので起きてしまった。

 

 実は、夜中にお腹が痛くて(空腹の胃痛?)目が覚めて、寝ていれば治るだろうと思っていたけどゼンゼン痛みが引かないので、仕方がないからゴソゴソ起き出して持参したバ〇ァリンを気休めにのんだところ、、、これがビックリするぐらいよく効いて、アッと言う間に痛みがどこかへ行ってしまい、その後、5時過ぎまで熟睡したらしい。それにしてもバ〇ァリンおそるべし。私は、あんまり強い薬は好きじゃないから、ロキ〇ニンとか手を出さないようにしているが、バ〇ァリンもなかなかだ。旅先では有り難いことこの上なかった。

 

 荷物整理をしたり、身支度をしたりして、7時キッカリに1階のレストランへ。お約束のビュッフェスタイルで、結構人がいて写真を撮れる状況にない。朝からカレーは当然だけど、パンやサラダ、卵料理、加工肉類等々、種類は豊富。ガイドのアラームさんに、生野菜もやめた方が良い(水道水で洗っているので)と言われていたので、野菜といえば焼きトマトくらいで、あとは野菜カレーとパンと、、、お腹が空いていたのもあって結構モリモリ食べた。牛乳も美味しかった。

 

 コーヒーをもらおうかと思ったら、どうやらコーヒーマシーンが調子悪いらしく、ボーイさんたちが数名であーでもないこーでもないとやっている。当面直らなそうだから、諦めて部屋に戻る。

 

 出発時刻は8:30なのに、なぜか私は8時と勘違いしていて、結構慌てて8時5分くらい前に部屋を出てエレベーターホールに行くと、ちょうどホテルのおじさまがエレベーターに乗ったところ。ニッコリ笑ってくれたので「ナマステ~」と手を合わせながら挨拶すると、おじさまも挨拶を返してくれ、日本人? 東京から来たの? 観光? アグラ行く? と矢継ぎ早に英語で質問が飛んでくる。アグラには明日行く! と答えたところで、エレベーターが1階につき、おじさまが楽しんでおいで~、と言ってくれて急いで降りる。

 

 ロビーへ小走りで行くけど、アラームさんもR子さんも、誰もいない。あり~? と思って集合時刻を確認すると、あと30分あった!! というわけで、また部屋に戻り、ダラダラして、今度は8:20頃ゆっくりロビーに降りてきた。

 

   
部屋からの眺め。窓ガラスがあんましキレイじゃなくて、、、。目の前の青い屋根は地下鉄の駅

 

   
ホテルのロビー(外観は撮れなかった!)

 

 ロビーには、現地集合の方と思しき女性もいて軽く挨拶しながら、バスに乗り込む。

 

 ……というわけで、いよいよ2日目の始まり。ちなみに、このツアー、2日目は丸々デリー観光、3日目は朝早くに列車でアグラへ移動しアグラ泊。4日目は午前中にアグラ観光の後、バスでデリーに戻り、夜の飛行機で帰国、、、という3泊5日で毎日のスケジュールが盛りだくさんな欲張りツアーなのだ。ま、日程が短いからね。

 

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【2日目のスケジュール】

①サイクルリキシャ乗車体験(サイクルリキシャに乗って観光)→②フマユーン廟(1時間ほど)→③紅茶屋さんでお買い物→④昼食(ベジタリアンカレー)→⑤クトゥブミナール(1時間ほど)→⑥カーンマーケット(買い物)

 

 

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 夜中の腹痛はどこへやら、お腹も満たされ、元気そのものになった私、昨夜は暗くて見えなかったデリーの街並みが見えて嬉しくなる。天気も良いし、サイコー。

 

   
凱旋門。門の先には塔が見える

 

 バスからの撮影だからイマイチだけど、かなり大きかった。パリの凱旋門を模したものだとか。第1次世界大戦の戦死者を弔うため、1929年に建てられた門。

 

   

 

   
凱旋門近くの交差点。土曜の朝でも結構な交通量

 

 ちなみに、下の写真、交差点の向こう側に人が3人立っているのが見えるけど、あの3人は後から分かったのだけど(アラームさんの説明によれば)親子らしい。この後、交差点の真ん中に出て来て、止まっている方の車の前で、バック転やら踊りやらの芸を披露し、父親らしき大人が車に乗っている人たちに金を要求していた。車の流れが変わると、今度はまた止まっている方に移動して同じことをするらしい。実は、この旅の間、この親子と同じような人たちを道路上で頻繁に目にした。アラームさんが言うには、「ああやって僅かな生活費を稼いでいる」んだとか。

 

 そうこうするうちに、最初の目的地、サイクルリキシャに乗る場所ラール・キラー前に着いた!

 

 

   
ラール・キラー

 

“タージマハルを築いたムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、ヤムナー川のほとりに建築した優美な城塞。赤砂岩の城壁と門を持つことから「レッド・フォート(赤い城)」ともよばれる。1639年に建築が始まった。イギリス統治時代には軍事施設となり、現在も国の施設として一部の建物が使用されている。独立記念日の8月15日に首相による演説が行われる。”(JTBのガイドブックより)

 

 

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 ラール・キラーは外観を眺めただけで、目的のサイクルリキシャには前の広場から乗った。

 

   
広場からヒンドゥー教寺院、イスラム教モスク、キリスト教教会が建ち並ぶ通りを眺める

 

 私たちの乗ったバスが止まった途端、わらわらとリキシャの運ちゃんたちが寄ってきて、客引き。ガイドのアラームさんがそこで速攻交渉。事前予約とかそんなんじゃないんだね。アラームさんからは「チップ代は込みだから、運転手にチップはあげないでください」と事前に念を押される。

 

 オートリキシャ、サイクルリキシャの“リキシャ”の語源は、日本語の“力車”なんだって、やっぱり。アラームさんの解説。オートリキシャはバイクに、サイクルリキシャは自転車に台車を付けて走っている。

 

 ……というわけで、2人1組になって、サイクルリキシャに乗り込む。私が一緒に乗ったのは、東北から参加していたエレガントなマダム風。もう大学生の息子さんがいるとは思えないお若さ。

 

 で、マダムと乗った途端に自転車をこぎ出す、やたら愛想の良い運転手のお兄さん。チャンドニー・チョーック・ロードという、まあ、商店街みたいな通りを走って行く。道が(舗装はしてあるけど)でこぼこだから揺れるし、運転は荒いしで、掴まっていないとヤバい。ので、当然写真も撮れない! ふとお兄さんの足下を見れば、なんとサンダル!!

 

   

 

   
スピードが緩んだ瞬間に辛うじて撮った! 左の方に映っているのがサイクルリキシャ(私たちが乗ったのはコレじゃないけど)

 

 途中、一角で全員降りて、通りを少し散策。アラームさんが連れて行ってくれたのは、インドではメジャーなデリのHaldiram's(ハルディラーム)。

 

   

 

   
店内のケースには(よく見えないけど)美味しそうなお菓子、、、

 

 店内でも食べられるので、アラームさんが、2種類ほどお菓子を買って私たちに食べさせてくれた。写真撮れなかったし名前も忘れてしまったけど、サモサみたいなのと、ミルク味のスイーツだった。みんなで少しずつつまんだので、アッと言う間になくなり、何食べたのか分からなくなってしまった、、、ごーん。スイーツの方は、この辺(デリー)じゃメジャーなお菓子で、サモサみたいのはこのお店でアラームさんが一番好きなスナックだと言っていた。

 

 でも、このケースを見ながら、そういえば、『きっと、うまくいく』で、カリーナ・カプール扮するピアが、アーミル・カーン演じるランチョーの部屋に酔っ払って乱入してきたときに、ランチョーの部屋に置いてあった“ドークラー”というお菓子のことを思い出していた。ピアは、クジャラート州のお菓子はヘンな名前だと言って茶化していた。ドークラーは、ハルディラームのケースの中にはなさそうだったな、、、。

 

 で、再びサイクルリキシャに乗り込み、元の広場へ戻る。お兄さん、その間、時々振り返って「チップ、チップ」と要求してくるんだけど、マダムは「いいから前見てこいでちょーだい!」と笑っていた。このお兄さん、結構気が利いて、マダムと私がハルディラームから戻ってくると、「写真撮ってあげる」などと言ってニコニコ撮ってくれるし、自転車こぎながら何やら案内みたいなことをしてくれるんだけど、いかんせん回りが騒々しくて聞こえない、、、。でも、サービス精神旺盛なお兄さん、ありがとう。マダムも「こんだけ愛想良いとチップあげたくなっちゃう」と言っていた。

 

 この通りは、リキシャだけじゃなくて、人も歩いているし、車も通るし、牛に引かせた荷車も通るし、それらがぶつかりそうになりながら(というか実際私たちのリキシャも何かと少し接触していた!)縦横無尽に動き回っているという、、、(写真を撮れなかったのが残念)。おまけにもの凄く埃っぽい。思わずマスクを着けたくらい。マスクは持ってきた方が良いと言われていたけど、持って行って正解だった。

 

 ……というわけで、お兄さんには1ルピーもチップを渡すことなくバイバイし、バスに戻る。お次は、フマユーン廟へ移動!

 

 

 

 

その③につづく
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ナポリの隣人(2017年)

2019-03-03 | 【な】



 イタリア南部ナポリのアパートに独り暮らすロレンツォは、かつては“無敵”の弁護士だった。とはいえ、土地柄か決して清廉潔白な仕事ぶりだったわけではない。今は、老いて引退し、数年前には妻を亡くし、娘と息子がいるもののどちらとも折り合いが悪いため、以前は家族で暮らしていたアパートの半分を手放し、残りの半分に独りで暮らしていた。それでも、独りで暮らすには広すぎる家だった。

 ある日、入院していた病院を抜け出しアパートに帰ってくると、手放した方の家の玄関前に見慣れない女性が座っている。彼女はミケーラと名乗り、鍵を家の中に忘れて閉め出されたのだという。ベランダが向かいの家とつながっていることから、ロレンツォは彼女を自宅に招き入れ、無事女性は自宅に入れた。次第に、ロレンツォとミケーラ一家は親しくなる。ベランダで夫のファビオと顔を合わせ、2人の子供たちがロレンツォの家にベランダから侵入して来ることも。

 特にミケーラとは打ち解けるロレンツォだったが、週末に、一家の食事に誘われる。そこでは、子供たちには祖父のように慕われ、ミケーラとファビオ夫婦の仲の良さを目の当たりにし、ロレンツォは心が和む。

 しかし、雨が降る晩、アパートに帰ってくると、そこには救急車やパトカーが留まり、騒然としている。悪い予感がし、慌ててアパートの階段を駆け上がるロレンツォだったが、、、。

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 岩波ホールは、サービスデーがなくて、1日の映画の日に割引になるので、先日行ってまいりました。


◆肉親より他人の方が、、、

 ロレンツォが娘や息子と折り合いが悪いのは、まあ、ハッキリ言って100%ロレンツォに原因がある。つまり、妻の生前、妻の留守中に愛人を自宅に引っ張り込んでいたのである。しかも妻はそのことが原因で心身を病んで、間もなく亡くなっている。もちろん、それだけではない。基本的に仕事人間で家庭をあまり顧みない男だった様子。弁護士としては清濁併せのむ有能ぶりを発揮していたらしいが、夫として父としてはダメダメだったということらしい。

 そんなロレンツォが隣家のミケーラたちとは打ち解けるのだが、他人の方が良い関係が築けるというのはよくある話。本作も、ミケーラ一家との交流を通じて家族の良さに気付いたロレンツォが、娘や息子たちとの関係を再構築する物語か、、、と思いきや、まったく予想外の展開になる。

 ~ここからネタバレになりますのであしからず~

 ミケーラの夫、ファビオが妻と子供を撃って、自分も自殺してしまうのである。

 ファビオは、ちょっと危なっかしいなぁ、、、という感じは最初からしていた。実際、その後、そういう描写もいくつかあったので、意外な展開とは言え、あの夫ならやりかねない、、、というヘンな納得感はある。

 実は、ミケーラもファビオも、ちょっとワケありなのだ。ミケーラは両親に育児放棄されて施設で育っている。ファビオは、幼い頃、金で友情を買うような子供で、親友が崖から落ちて大けがをした際には「ボクが突き落とした」と母親に打ち明け、それを聞いて驚いた両親は、必死でその事実がバレないようにすることでファビオを守ってきたのだが、大学生になったある日「あれはウソだったんだよ」等とケロッと言ったというのである。

 何となく、ミケーラとファビオは仲が良さげだけど、ぎこちない夫婦という感じだったんだよなぁ。この“仲が良さげ”ってのがクセモノで。仲の良い夫婦って、どんなんなんでしょうか。一見、喧嘩ばかりしていて仲が悪そうな夫婦が、実は案外お互い理解し合っていたりすることもあり、、、。喧嘩したことがない夫婦が仲が良いとは限らないし。夫婦の片方が“自分たちは仲が良い”と思っていても、もう片方が同じように思っているかは分からない。夫婦といえども、心の内は“本人のみぞ知る”なのだ。

 ファビオが突然の凶行に出た理由は描かれていないから分からないけど、まぁ、ちょっと病んでいたんだろうね。ロレンツォがミケーラに心の内を少し明かしたことで楽になったように、ファビオもロレンツォに心の内を少しでも打ち明けていれば、最悪の事態にはならずに済んだのかも知れない。やっぱり、ホントに深刻なコトは、身近すぎる人には却って話しにくいものだから。信頼できそうな他人の方が、客観的に物事を見られて、冷静な言葉を発してくれそうである。まぁ、却って悪い結果になることもあり得るけど。

 子供たちはすぐに亡くなるが、ミケーラは一命を取り留め、病院で意識がないまま救命措置がとられる。ロレンツォは、ミケーラを自分の娘と偽って、毎日見舞いに行き、語りかける。そして、妻への贖罪の気持ちを口にしたとき、ミケーラは目を開けるのだ。このシーンはギョッとなる。

 驚くロレンツォは医者に報告しに行くが、医者がミケーラを診ると、ゼンゼン反応のないまま。あれはロレンツォの幻想だったのか、、、。


◆再生する可能性はあるか。

 ロレンツォは、ミケーラとアカの他人だとバレて、病院から出入り禁止を言われる。その際、警察のお世話にもなり、身柄を引き受けに来たのは娘のエレナだった。ここから、ロレンツォとエレナが父娘の関係を見直していく過程が描かれていく。

 結局ミケーラが亡くなったことで、ロレンツォがしばし放浪というか行方不明になり、エレナが探し回って、最終的に父と娘は会い、和解を臭わせるシーンで終わる。

 そのシーンが……ロレンツォが隣に座るエレナの手に、そっと手を伸ばして、2人が手を握り合う、、、というものなんだけど、うーん、これはどうなんでしょ。私なら、エレナから手を握りに行くシーンにするかな、と思った。あんな頑固爺ぃのロレンツォが、あんな風にするかな、、、というのもあるし、やっぱり、あれだけ心配して元愛人のところにまで父親を探しに行ったエレナの方から、ホッとして手を握りに行くのじゃないかな、、、という気がするから。そして、エレナに手を握られて、ロレンツォが握り返す、、、という方が、私としては感動するかも。

 まあ、どちらにしても、和解の兆しが見えたエンディングで、救われるのだから良いけれど。

 詰まるところ、家族の崩壊と再生ってことなんだろうけど、家族が幸せで素晴らしい一辺倒ではないという現実を描いているのは良いと思う。私は、家族とか血縁に懐疑的だけど、だからといって、家族を否定する気は全くない。やはり、肉親というのは、ある意味、不可分であるからこそ崩壊しても再生があり得るのだ。これがアカの他人なら、再生する必然性もないわけで。

 私も親と15年断絶しているが、実は、少し前から、親も老いていることだし、このままで果たしてよいのだろうか、、、、とボンヤリ思うことはあった。曲がりなりにも親子なわけだし。かといって、何か具体的に関係修復をしようなどという気にはさらさらならなかったけれども、少なくとも現状がベストではないという認識はあった。そんなある日、今年の年明けすぐくらいのある朝、出勤の支度をしていたら、突然家の電話が鳴り、しかも表示の番号は見知らぬ携帯電話。何か良からぬことでもあったのか、と思い「もしもし?」と出てみるが、反応はなく、人の会話の声が聞こえてくるではないか。そして、それが、母親と父親の声だと気付くのに時間はかからなかった。なぜなら、母親が父親を詰っていたからだ。朝っぱらから、母親は父親に文句を言っている、しかもその話しぶりは、私が嫌で仕方がなかったあの口調のまんまである。父親の反論する声は聞こえるが、離れているからか何を言っているのかは分からない。多分、母親がスマホの画面に触れたか何かで、間違って私の家の電話にかかったのだろう。そうとは知らずに、2人は話していたのだ。……30秒ほど聞いていたが、いたたまれなくなりそのまま黙って切った。その後、あちらからかけ直しても来ていない。

 それで、ああ、あの人は1ミリも変わっていないんだと改めて思い知り、愕然となった。老いて多少は弱って丸くなっているかもなどと思った私は大アホだ。良かった、何も具体的な行動を起こさなくて、、、。やっぱり、あの人と関わるとロクなことはないのだ。かと言って、父親に同情する気にもなれない。

 だから、私は、エレナのように、親が行方不明になって必死で探し回る、なんてことは出来ないだろうな、、、と思いながらスクリーンを眺めていた。というか、こんな風に、心配して駆けずり回るエレナが、正直、ちょっと羨ましくなっていた。私もあんな風に我を忘れて親を捜し回れたらなぁ、、、と。そう出来ないことが予見できる自分が、何だか情けなく、哀しかった。

 ロレンツォは、エレナ(シングルマザー)の息子、つまり孫を時々学校から連れ出して、2人の時間を持っていた。しかし、孫にも決して好かれてはおらず、「早く学校に戻りたい」などと言われる。終盤になると、孫に「うちに来て暮らせば、やりたいことが出来るよ」などといって、孫に一緒に暮らそうと提案している。つまり、ロレンツォは実は元々血の繋がりを求めていたのだ。

 だから、きっと、この後はエレナと父娘の関係を徐々に修復していくだろう。そして、娘と孫には看取られて旅立つことが出来るのではないか。そんな“家族の良さ”を感じられる作品だった。

 ちなみに、ヤマザキマリ氏と佐々木俊尚氏による本作についての対談の記事がネット上にあって、へぇ~と思った部分もあったので、参考までにリンクを貼っておきます。







見終わってみると、オープニングの歌詞が重い、、、。




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