映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

ある一生(2023年)

2024-08-11 | 【あ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv85932/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1900年頃のオーストリア・アルプス。孤児の少年アンドレアス・エッガー(イヴァン・グスタフィク)は渓谷に住む、遠い親戚クランツシュトッカー(アンドレアス・ルスト)の農場にやってきた。しかし、農場主にとって、孤児は安価な働き手に過ぎず、虐げられた彼にとっての心の支えは老婆のアーンル(マリアンヌ・ゼーゲブレヒト)だけだった。

 彼女が亡くなると、成長したエッガー(シュテファン・ゴルスキー)を引き留めるものは何もなく、農場を出て、日雇い労働者として生計を立てる。その後、渓谷に電気と観光客をもたらすロープウェーの建設作業員になると、最愛の人マリー(ユリア・フランツ・リヒター)と出会い、山奥の木造小屋で充実した結婚生活を送り始める。しかし、幸せな時間は長くは続かなかった……。

 第二次世界大戦が勃発し、エッガーも戦地に召集されたもののソ連軍の捕虜となり、何年も経ってから、ようやく谷に戻ることができた。

 そして、時代は過ぎ、観光客で溢れた渓谷で、人生の終焉を迎えたエッガー(アウグスト・ツィルナー)は過去の出来事がフラッシュバックし、アルプスを目の前に立ち尽くす−。

=====ここまで。


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 地獄の暑さでムダに疲弊する日々、、、。でも、折角、1日の映画の日にあわせて取った夏休み、有効に使わねば!!と、暑い中を映画3本ハシゴしました。映画館に入ってしまえば涼しいけれど、駅からそこへ辿り着くまで、ほんの数分歩くだけで汗だく、、、って、やっぱし異常だよなあ、この暑さ。


◆“生きる”ってそういうこと。

 どんな平凡な者の人生でも、それは一本の小説になる、、、という言葉はよく聞くけれど、本作はその言葉をまさに体現している映画である。

 エッガーの一生を、それこそ、幼少期から晩年までを2時間で描くというので、何となく散漫になりそうなところを、巧みな演出と話法で見せてくれる。全体に淡々とした語り口なので、途中眠くなりかけたが、全体としては面白く見た。

 とにかく、エッガーという人間が、実にタフなのだ。タフといっても、運命を自ら切り開く猛者ではない。むしろ、運命には逆らわない。かと言って、自身の意志がないのではなく、実に主体的に生きている。絶対に折れない柳のような人なのだ。こういう人は強い。

 幼少期に養父に折檻されて、片足を骨折、以来、歩くときには足を引き摺るようになるエッガーだが、本人はそのことをまったくネガティブに捉えていない。愛する人と結婚して子も授かり幸せに暮らしていたが、妻が出産前に亡くなってしまっても、失意で動けなくなるなんてことにはならない。とにかく、前に進む。

 考えてみれば、生きるってそういうことなんだよなぁ、、、と思った。

 もう大昔のことだけど、ホントに生きていたくない、、、と思うような事態に直面したときに、もの凄く哀しくて息をするのも苦しいくらいのはずなのに、ふとお腹が空いていることに気付いて愕然としたことがある。こんな状況なのに、私は空腹を自覚しているのだ、、、という事実が衝撃的だった。これが、生きるということか、、、と思い知らされた。それでいて、いざ何かを口に入れようとしても、食べ物は喉を通らない。なんと矛盾した生き物だろう、、、。

 エッガーも、きっとそうだったんだよな、と。妻がいなくなって哀しみに打ちひしがれていても、腹は減る。捕虜になって絶望しても、やっぱり腹は減る。とりあえず空腹をなんとかしよう、、、とりあえずこの苦痛をやり過ごそう、、、としているうちに、いつの間にか生きるために生きていることに気付く。

 歴史の流れから見れば、エッガーの人生など取るに足りないものだろうが、歴史はそういう無名の人々の人生があってこそ成立している、ということが、こういう映画を見るとよく分かる。


◆その他もろもろ

 幼少期~老年期までのエッガーを3人の俳優が演じているのだが、青年~壮年期のシュテファン・ゴルスキーと、老年期のアウグスト・ツィルナーが、全く違和感がなくて、いつチェンジしたのか分からなかったくらい。顔の系列が似ているんだろうなぁ。

 その若いエッガーを演じたシュテファン・ゴルスキーは、なかなか精悍なイケメンやった。時々、ちょっと玉木宏っぽい?かなと。あんまり喋らない役だけど、日々を真面目に生きるというエッガーのキャラに合っていた。

 幼少期のエッガーを演じたイヴァンくんは、ウクライナ出身だそう。1歳でオーストリアに移住したのでドイツ語はもちろん堪能。可愛かった。

 ほとんどが、山間のシーンで、景色が実に美しい。妻とお腹の子を失う雪崩のシーンとか、どうやって撮ったんだろう? すごい迫力だった。

 ポスターが、山をバックにした壮大な感じの画像だったので、前に見た「帰れない山」(2022)みたいな映画かな、、、と勝手に想像していたが、ちょっと違ったかな。でも、「帰れない山」の山男ブルーノと、本作のエッガーは通じるところがあるような。……いや、でもエッガーはブルーノみたいな最期を選ばないだろうから、根本的に違うと言った方が良いのかも。

 本作の原作は、ローベルト・ゼーターラーの同名小説だそうで、ベストセラーなんだとか。この方、元々俳優だったのだが、脚本を書いたことが切っ掛けで小説も書くようになったという経歴らしい。原作は、ブッカー賞もとっている。原作も面白そうだけど「キオスク」が面白そう、、、と思ったので、早速図書館で予約しました。

 

 

 

 

 

 

やっぱりナチスが出て来た、、、。

 

 

 

 

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哀れなるものたち(2023年)

2024-08-03 | 【あ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv81465/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 自ら命を絶った若き女性ベラ(エマ・ストーン)は、天才外科医ゴドウィン・バクスター(ウィレム・デフォー)によって胎児の脳を移植されたことで奇跡的に蘇生する。

 世界を自分の目で見たい、という欲望に駆られたベラは、放浪者の弁護士ダンカン(マーク・ラファロ)に誘われるまま壮大な大陸横断の冒険に繰り出していく。子どもの目線で世界を見つめる彼女は、旅のなかで平等と自由を知り、時代の偏見から解き放たれていく。

=====ここまで。

 ヨルゴス・ランティモス監督作品。


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 もうさんざんネット上で感想が書かれているので今さら感半端ないのだけれど、一応、備忘録的に感想を書きます。

 オスカー4冠って、何で受賞したのかな? と調べたら、エマ・ストーンが主演女優賞で、あとは美術や衣装、メイクで受賞しているとのこと。確かに美術は凄かった。

 「バービー」との2本立てで、1本目に「バービー」を見て、何となくウンザリしていたので、2本目の本作も乗り切れるだろうか、、、と心配しながら見始めた。で、いきなり脳移植かよ、と。あんまり本作の予備知識なかったので、、、。

 脳移植ってんで、マンガ「ブラック・ジャック」を思い出してしまっていた。私は「ブラック・ジャック」大好きで、あのマンガには脳移植の話がいくつかあったが、いずれも本作みたいに医学実験的なお話ではなかった。フィクションで映画なんだからと言えばそれまでだが、「ブラック・ジャック」と比較してしまい、生命の尊厳を悪気なく蹂躙している感じがどうにもイヤだなぁ、という嫌悪感を禁じ得なかった。もちろん、ランティモス監督は、脳移植をするゴッド、というか医学に対する批判的眼差しで描いているのだが。

 それで着いて行けなくなったというわけではないし、一応興味深く見ていたのだが、中盤に掛けては、脳内に心の声「ナニコレ、、、? 女はセックスの洗礼を受けずして大人にならんてか??」が渦巻いた。私はこの歳になって、今更だけど、“何なら生理もセックスも私の人生になくて良かったんですけど……”と日々感じているので、余計にね。

 話題のてんこ盛り性描写シーンもねぇ、、、。セックス描写って、ほぼワンパターンなので飽きるんだよね。こっちはポルノ映画見に来てるわけじゃないんだからサ。必要性を感じられれば良いのだけど、エマ・ストーンの裸のシーンのほとんどはカットしても展開に問題ないでしょ? 冗長感否めず。

 あっという間に知能を獲得したベラは、その後、自分の過去(ヴィクトリアという名であったことや、夫に虐げられていたことなど)を思い出して、改めてその忌まわしい過去と決別し、ベラとしての自身を取り戻す、、、というのは、一応、フェミ的に女の自立を描いたハッピーエンディングなのだよね。

 医者になったベラが、元夫にヤギの脳を移植して、元夫が四つ這いで庭を歩き回る画は、滑稽ではあるが面白いとは思えなかった。理由は冒頭に嫌悪感を覚えたのと同じだと思う。

 医者に造られた女が、あれがありこれがありして、結局、自ら医者になりました~! っていうブラックファンタジー・コメディだと割り切って見れば、そこそこ楽しめるのだろうケド。

 実在の都市の名前が章立てのように出て来るけど、かなり非現実空間的なセット(CG?)で、見た目に楽しい。時代考証とかもゼンゼン無視なんだろうけど、ファンタジー仕立ての美術はオスカーゲットも納得。

 エマ・ストーンは主演女優賞だったらしいのだが、申し訳ないけど「体当たり演技賞」だったんじゃないか。私はこのブログでも、脱ぎ惜しみする女優は好きじゃないと何度か書いて来たが、ムダ脱ぎする女優もあんまり好きじゃない。もちろん、監督の演出次第だから、女優の意向がどれくらいあるのかは分からないが、脱げばいいってもんでもないでしょ。本作での主演女優賞は、どう見ても、あんだけ全裸晒して頑張ったんだから、、、という感じがしてしまうのだよね。他のノミネート作品を見ていないので、的外れかもしれないけど。

 

 

 

 

 

 

エマ・ストーンの眉毛が気になって仕方がなかった、、、。

 

 

 

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ありふれた教室(2022年)

2024-05-19 | 【あ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv85534/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 仕事熱心で正義感の強い若手教師カーラは、新たに赴任した中学校で1年生のクラスを受け持つことに。

 そんなある日、校内で相次ぐ盗難事件の犯人として教え子が疑われる。校長らの強引な調査に反発したカーラは、独自の犯人捜しを開始。するとカーラが職員室に仕掛けた隠し撮りの動画には、ある人物が盗みを働く瞬間が記録されていた。

 やがて盗難事件をめぐるカーラや学校側の対応は噂となって広まり、保護者の猛烈な批判、生徒の反乱、同僚教師との対立を招いてしまう。カーラは後戻りできない孤立無援の窮地に陥っていくのだった……。

=====ここまで。

 ドイツ映画。


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 予告編を何度か見て、何となく見てみようかな、、、と思い、劇場まで行ってまいりました。久々のシネスイッチ銀座。


◆カーラ先生、初動を誤る。

 学校などの閉鎖空間で盗難事件が起きたら、やっぱし監視カメラ設置したら?って考えるわね。イマドキ、教師によるわいせつ、生徒同士のいじめ、盗撮、学級崩壊、、、と、学校を舞台にした問題は枚挙にいとまがないわけで、監視カメラが人権侵害って、どっちが人権侵害だよ??という気がする。監視カメラなんぞ必要ない、というのは、最早ファンタジーなのでは?

 ただ、カーラ先生は、こっそり独断でパソコンの動画撮影をオンにしてしまったのが、まあ、、、勇み足といえば勇み足だったかな。でも、彼女が動画撮影しようとしたのは、生徒が疑われたこともあるけど、その直前に、同僚がコーヒー代を入れる瓶だか缶だかから小銭をくすねるのを目撃してしまったからだ。私がカーラ先生でも同じことしたかも。だって、単純に気持ち悪いし、証拠を押さえようと思うのは普通の感覚ではないか?

 学校に警察権力の介入を嫌う傾向はいずこも同じだけど、こんだけ頻発していたら、警察に届出しても良かったのかも知れん。警察も何ができたか分からんけど、犯人へのプレッシャーにはなるでしょ。

 ただ、カーラ先生、盗難現場が撮影された後の行動が、ちょっと(というか、かなり)マズかったと思う。要は、初動を誤ったということ。

 特徴的なシャツの柄だから、間違いないだろう、、、けど、顔は映っていないし、財布を確実に盗ったかどうかもイマイチあの動画では判別できなかったように見えた。私がカーラ先生だったら、あれだけで本人に問いただすことは絶対しない。人を疑うには、それ相応の確実性のある根拠がなければ、危険過ぎる。あの段階で本人に問いただして良いのは、もっとバッチリ犯行状況が分かり、犯人の顔も判別できる程度の映像である場合に限られるのではないか。

 疑われた女性クーンさんは学校の事務員で、その息子オスカーの担任はカーラ先生だ。クーンさんはものすごい勢いで否定し、自身の子を使ってまで盛大に無実を訴える。私的には、クーンさんは犯人だろうと感じたけれどね。あの激高の仕方とか、あそこまで執拗にカーラ先生を攻撃するとか、我が子をダシにして巻き込むなど、常軌を逸している。誰でも疑われれば怒りを覚えるし、濡れ衣ならなおのことだが、それが濡れ衣でない場合で罪から逃れようとするならば“攻撃は最大の防御”の手段一択だ。

 とはいえ、あそこまで無実を派手に主張されたら、疑った方は圧倒的に不利だよね。ましてや、相手は生徒の保護者。……だからこそ、確実性の高い証拠が必要なわけで、、、。カーラ先生はやはり短慮だったとしか言いようがない。

 けど、対応のまずさは彼女だけでなく、学校も相当マズい。特にあの校長。不寛容方式(ゼロ・トレランス方式)を掲げているんだが、その割に自身の責任は巧妙に回避するという、典型的な“ズルい大人”を体現してしまっている感じである。結果的に、事態は思わぬ方へ転がっていくことになる。


◆追い詰められるカーラ先生だが、、、

 カーラ先生は確かに初動を誤ったけど、その後は、予期せぬ事態の連続にもかかわらず、私はカーラ先生の対処は結構冷静で良かったんではないかと思っている。

 感情的に叫び出す保護者たちにも下手に反論せず、その後、子供たちとギクシャクしても頭ごなしに子供を従わせようとせず、良くないことは良くないと言う一方で、子供たちをなるべく追い込まないようにするなど、彼女の行動原理は生徒目線で割と一貫していたように思う。自分を正当化するために我が子をダシに使うクーンさんより、よほど人格的には信用に足りる人に見えた。

 オスカーはある事件を起こして、10日間の停学処分となるのだが、なぜか平然と登校してきて自分の席に座っている。カーラ先生が「学校に来ちゃダメなの。このまま帰らないと警察を呼ばなければならなくなる」と説得しても、無言のまま頑として席から立とうとしないオスカー。他の生徒たちを別の教室に移して、校長始め他の先生たちと説得するものの、オスカーは動かない。外が大雨の中、母親のクーンさんが迎えに来ても、ハンストよろしく動かない。

 ……という緊迫した終盤の描写で、幕切れは、警察による強制排除である。ただ、その描写がある種喜劇にさえ見えるラストシーンになっている。

 あそこで警察が介入してきたら、結局、校内で起きた一連の窃盗事件にも捜査が及ばざるを得なくなり、クーンさんは息子の行動により窮地に立たされることになるのではないか、、、などと勝手に後日談を想像してしまった。


◆口答え、上等!!

 カーラ先生はポーランド系で、他のポーランド系の同僚にポーランド語で話しかけられると「職場ではドイツ語でお願い」と言う。また、イランだったか、ムスリムの両親が教師たちの前で母国語で会話していると「ここではドイツ語で話してください」と教師に言われる。……という具合に、学校ではドイツ語で話すことを求められる。

 このことを、ネットの感想で「多様性と言いながらおかしい」と書いている人がいたけど、そうなのかね?? ドイツ語がデフォルトの空間で、他にも大勢人がいる場所で、一部の人たちにしか分からない言葉で喋るってのは、逆に不信感を招くだけじゃないかという気がするのだが、、、。
 
 外国の学校が舞台の映画やドラマを見ると、日本の学校との違いに驚かされることが多い。本作でも、カーラ先生の担当は7年生(日本では中学1年生)だが、生徒たちはビックリするくらいに自律性に富み、批判精神が育っており、またそんな生徒たちに教師も手を焼いてはおらず、しっかり対峙している。

 何方かのTwitterに、本作の学校はドイツでも標準的なレベル(つまり特別ハイレベルではないということ)らしいのだが、これこそが“思考力の育っている子供たち”なのでは? 文科省のお役人さんたちに見てもらった方が良いと思うわ。

 正直、同調圧力の強い日本の同年代が、将来、彼らと互角に渡り合えるとは到底思えない。相手が教師だろうが先輩だろうが、おかしいと思うことをおかしいと指摘できることは、ものすごく大事だと思う。日本語には「口答えする」という言葉があるが、大抵は、子が親にとか、生徒が先生にとか、酷い場合は、妻が夫にとかである。これって、つまり、おかしいと思っても、親の言うこと、先生の言うこと、夫の言うことには黙って従え、の裏返しである。「口答えするな」という言葉が発せられる言語体系ってことは、日本語を使う日本人の思考体系でもあり、そういう言語からはなかなか批判的精神は養われにくいだろうな、、、などと絶望的な気持ちにもなった。

 本作は、サスペンス・スリラーとか、ある人はサスペンス・ホラーとか言っているみたいだが、私にはサスペンス要素よりも、教育現場の彼我の差に愕然とさせられた方が大きかった。教育は大事だよ、、、本当に。

 

 

 

 

 


終始、舞台は学校。

 

 

 

 

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青いカフタンの仕立て屋(2022年)

2023-08-05 | 【あ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv81303/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 ハリムとミナは伝統衣装であるカフタンドレスの仕立て屋を営んでいる。ハリムは仕事を愛しながらも、自身を伝統から弾かれた存在であると苦悩し、妻のミナはそんな夫を誰よりも理解し支えてきた。

 しかし彼女は病に侵されており、彼女に残された余命は残りわずか。そんな2人のもとに若い職人ユーセフが現れ、3人は青いカフタン作りを通して絆を深めていく。

 ミナの最期が刻一刻と近づいていくなか、夫婦はある決断を下す。

=====ここまで。


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 本作は、見てからもう1か月以上経ってしまった、、、ごーん。感想を書けないまま時間ばかりが過ぎてしまったのだけど、なかなか良い映画だと思ったので、サクッと感想を書いておきたい。

 上記あらすじにもあるとおり、ハリムとミナは仲の良い夫婦なんだが、ハリムは同性愛者であるということが割と序盤で分かる作りになっている。彼自身がカミングアウトするシーンはないけれども、それを示唆する描写が序盤からあちこちにあり、中盤でユーセフとのやりとりで明解となる。

 本作の紹介では、イスラム教社会での同性愛者が主人公であることが前面に出ているけれど、蓋を開ければ、夫婦と若い男との三角関係を描いたシンプルなメロドラマである。あまりイスラム教とか、同性愛のタブー性とか、それは背景ではあるが、ストーリーや人間の描写については実に普遍的なものであると感じた次第。

 ハリムは自身の性的嗜好に葛藤はあるのだけれども、イスラム社会だからとりわけその葛藤や苦悩が深い、、、という描き方はしていない。妻のミナはそれを知っているし、ハリムは共同浴場で性的欲求を解消することもしている。もちろん、おおっぴらではないが、それはイスラム社会でなくても、欧米でも、もちろん日本でも似たり寄ったりではなかろうか。市民権を得てきたとはいえ、同性愛者が皆、屈託なく自身の性的嗜好をオープンにできる社会になっているとは言い難い。

 最終的に、ミナは病で亡くなり、紆余曲折あったものの、カフタンの仕立て屋はハリムとユーセフの2人で切り盛りしていくことになる。私生活でも2人はパートナーになるのだろう。もちろん、表向きは店の主人と従業員という関係だけれど。

 ときどき映画やドラマで、妻や夫が死ぬときに遺される配偶者に「自分が死んだら、良い人見つけて幸せになって」とか言うシーンがあるけれど、本作はそういうベタな展開はないけど、それに通じるものがあるかなと。特に、若くして亡くなる場合に、こういうシーンが見られる気がするのだが。

 自分ならどうかなぁ、、、と考えてしまった。もうこの歳だと、今さら他のパートナー見つけてよろしくやりなよ、と言うことも言われることも、ちょっとなぁ、、、。よろしくやりたければ好きにしろ、としか思わないし、自分自身はそんな気力もエネルギーもないというか、そもそも面倒クサい。ただ、ウチの人が実はゲイだったら、、、という想定は非現実的なので、バイセクシャルだったら、、、と考えてみたんだが、それでも同じかな。自分が死んだ後、相手がどうしようがどーでもいいし、それでウチの人自身がハッピーならそれが良いに決まっている。私が「良い人見つけてね」なんて言い残して行くのも、何かお門違いな気がするなぁ。

 人間の心というのは、なかなか理屈じゃ説明がつかないわけで、本作は、そういうところを巧みな描写で掬い取って描いている。同性愛というのは、1つのファクターではあるが、同性愛でも異性愛でも、嫉妬や葛藤という感情の動きに違いはないはず。

 伝統衣装のカフタンが美しく、縫製作業も度々映るのだけど、見入ってしまった。日本でいうと、振袖とか、打掛とか、、、そんな感じかしら。インドでサリーを着たときは、見た目よりも締め付けのキツいのに驚いたけれど、カフタンも一度着てみたいな~。

 

 

 

 

 


カフタンのブルーが実に美しい。

 

 

 

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アシスタント(2019年)

2023-07-01 | 【あ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv81302/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 名門大学を卒業したばかりのジェーンは、映画プロデューサーという夢を抱いて激しい競争を勝ち抜き、有名エンターテインメント企業に就職した。

 業界の大物である会長のもと、ジュニア・アシスタントとして働き始めたが、そこは華やかさとは無縁の殺風景なオフィス。早朝から深夜まで平凡な事務作業に追われる毎日。常態化しているハラスメントの積み重ね……しかし、彼女は自分が即座に交換可能な下働きでしかないということも、将来大きなチャンスを掴むためには、会社にしがみついてキャリアを積むしかないこともわかっている。

 ある日、会長の許されない行為を知ったジェーンは、この問題に立ち上がることを決意するが――。

=====ここまで。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 公式HPのintroductionにもあるとおり、本作は、あの#Me Too運動がきっかけで制作された映画です。正直言って、雨後の筍かと思うくらいに最近多いですね、フェミ映画。私は好んで見る方だし、フェミ映画はどんどん作られてほしいので歓迎だけど、こんだけ続々出てくると怖いのは反動です。実際、SNS上のアンチはなかなか酷いです。ほとんど憎悪に近い書き込みも少なくない。男女どちらが書き込みしているのか分からないけど、女性にもミソジニーは多いからなぁ。

 フェミ自体は大事なのだが、そのために行動している人たちの中には、わざわざ敵を作るような言動をしている人も少なくないので(こういうことを書くだけでアンチ・フェミ認定されるんだが)、これはなかなかに厄介な問題なのであります。

 で、本作は公開前からフェミ界隈では話題になっており、90分弱という短い尺でもあるので、劇場まで行ってまいりました。


◆闘争心を維持できなかったの。ごめんね。

 主人公のジェーンは、良い大学を出て、有名な会社に就職した、一見勝ち組(ってヤな言葉だね)な女子である。

 が。

 新入社員としてのジェーンの現実は、学歴など何の役にも立たない会長の身の回りの世話を始め、同じ部署の男性社員の尻拭いまでもさせられる。てめぇがやれよ!的なことがほとんど。

 ……これね、見ていて非常に辛かった。私ら世代は、均等法施行後数年目のバブル崩壊直後世代なのだが、当時は均等法なんてのは単なるお題目で、会社はほぼオッサン都合で動いており、女子社員は「女のコ」とか言われて、オッサンだけでなく同期も含めた全男性社員のケア要員としてしかみなされていない、、、というケースはザラであった。私は同期男子と2人で同じ部署に配属されたが、課員の机拭き、お茶出し(コーヒーの好みまで覚える)、カップの片付け、等々は、同期男子には要求されず、私にだけ課されたことだった。会議の前の準備もそう。会議の後の片付けもそう。同期男子はやれと言われないし、やらない。やろうともしない。女がやるのがアタリマエで、彼は私をせめて「手伝う」という概念さえも持っていない。

 んでもって、こっちは曲がりなりにも「総合職」などという有難い名称をいただいているので、仕事面では同期男子と同じ量を振られるわけだ。だけど、途中で上司や先輩が外出から戻って来たら、私は手を止めてお茶を入れなきゃいけないが、同期男子はそんなことはしなくてよいから、そんだけ彼は仕事が捗るわけだ。ここで私が「仕事が立て込んでるから」という理由でお茶を入れないと「何でお茶持ってこねーんだよ、気の利かねえ女だな。これだから4大出た女なんか取るとメンド―なんだよ」とか言われるのが分かっていて、それがムカつくので仕方がなくお茶を入れるために仕事の手を止めるわけだ。これが、バブル崩壊直後世代総合職女子の日常であった。

 で、それとほぼ同じ光景が、21世紀に制作された映画でも描かれているって、これどーなの?? しかも、ジェンダーギャップ最下位に近い日本じゃなくて、もうちょっとマシなはずのアメリカの話。

 いや、、、私らも、それでも闘ったこともあるのよ。「男子社員にも分担してもらいたい」とか言ってね。でも華麗にスルーされるだけなんだよね。「そんなこと言わずに黙ってやれ」とさえ言われない。んで、何かゼンゼン別の場面で嫌味を言われるわけよ。例えば、私の友人は(別の会社だが)、名刺を作ることになったときに、他の男子社員と同じ四角い名刺をオーダーしようとしたら「さすが、4大出た女性は“角が立つ”ねぇ、ハッハッハ!!」と笑われたんだとか。彼女は最初、意味が分からなかったと言っていた。私もその話を聞いたとき??であったが、彼女によれば、その後、その場に居合わせた4大卒先輩女子に「私も言われた。私なんか、角丸くした名刺にした方が良いんじゃない?って言われて、角丸名刺にしたんだよ」と解説されたってんだから、すげぇ話である。

 ちなみに、私の場合は、別の日に「あのとき、ああいう事言ってたよね。君、ああいう事、よく言うよね、、、(苦笑)」とネチネチ言われるのがパターンだった。新人で仕事もできないくせに偉そうに権利主張してんじゃねぇ、、、と言外に含んでいるのは、いくら鈍感な私でも分かっていた。でも、それとこれと同じ土俵で語ること自体がオカシイでしょ、って話なんだよ、バカめが!! 仕事できないのは同期男子も同じだろーが。

 もっとヒドい例だと、咳をしている男がいて、私が何も声を掛けずにいたら「普通さ、先輩が咳してたら“風邪ですか? 大丈夫ですか?”ぐらい言わない? 言おうと思わない??」とか言われて、意味が分からなかったこともある。そもそも、そいつが咳をしていること自体、意識の範疇外だったのだ。「てめぇの母親じゃねぇんだから知らねぇよ!ボケ!!」とか言ってやれば良かった、、、と後で気付いたときにはもう遅かった。悔しくてムカついた。

 でも、そういう日常の繰り返しは、地味に心を削られるので、あっという間に闘争心は摩耗して無くなってしまうのである。

 本作のジェーンも、まさにそうである。闘おうとしたが、ものの見事に玉砕する。

 私らがもっと闘っていれば、もう少しマシになっていたのかも知れん。だから、ジェーンがああいう目に遭っているのは、私ら世代にも責任があるかも知れん。……だけれども、闘うことを強いられること自体がおかしなハナシなんじゃねーのか?? 何で男は男ってだけでケアされる側なのさ、、、ってことよ。

 喜んでケアしている女もいるから、まあ、これは男VS女という問題ではないのであるが。

 ちょっと、ウン十年前の怒りを思い出して言葉が汚くなってしまいました(いつもか)。


◆新入社員の将来を人質にとる悪質さ。

 本作内でも、とにかく、男たちは誰もジェーンに「ありがとう」を言わない。言われなかったよなぁ、、、私も、全く。机拭いてやったのに「電話のボタンの間に埃溜まってるの、オレ、嫌いなんだよぉ、、、」とか言われてね。私は無視しました。でも、ジェーンは似たようなケースでは、ちゃんとやってあげちゃう。……というか、やらないと居づらくなるのだ。将来を人質に取られているので。

 そう、私は、入社して1か月目には「こんな会社辞めてやる!!」と決意したので、無視できたのだ、きっと。実際辞めたのは2年近く経っていたけれども。

 本作内でも、会長も先輩男子社員も、ジェーンに超絶理不尽なことを要求していながら、気まぐれに「君は優秀だ」とか言って、グルーミングするのである。それで、将来に希望を持っているジェーンは惑わされるのだ。それはただのグルーミングだよ、と言ってあげられる同じ立場の先輩女子社員もいない。ジェーンは孤立無援なのだ。

 必死に就活を勝ち抜いて、念願の会社に入った人は、なかなか辞める決断は出来ないかも知れぬ。だって、夢と希望を持って入社したのだし、そのために、頑張ったのだ。若い時代の貴重な時間を犠牲にして。それを無に帰するような選択はしたくないのは当然だ。

 本作は、とことん救いがない。何のオチもない。ただただハラッサーに囲まれた1日を淡々と描写しているだけの映画である。だからこそ、リアルだし、見るべき映画になっている。ただ、これはアンテナの無い人が見ても、何も引っ掛からない映画でもある。

 ある意味、リトマス試験紙的な作品と言っても良いだろう。

 

 

 

 

 

 


ジェーンはあの会社にあの後どれくらいいるだろうか、、、。

 

 

 

 

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ある男(2022年)

2023-05-27 | 【あ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv74754/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。
 
 弁護士の城戸(妻夫木聡)は、ある女性から亡くなった夫、大祐(窪田正孝)の身辺調査を依頼される。

 依頼者である里枝(安藤サクラ)は、離婚を機に子どもと故郷へ戻った際に大祐と出会い、再婚して幸せに暮らしていたが、不慮の事故で彼を亡くしてしまう。悲しみに暮れるなか、法要に訪れた大祐の兄、恭一(眞島秀和)が遺影に写る男を見て、「これは弟ではない」と告げたことで、夫がまったくの別人であったことが判明。

 依頼を受けて亡くなった男の正体を追う城戸は、衝撃の真実を知る。

=====ここまで。


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 先日、3泊4日で台湾へ行ってまいりました。めっちゃ過密スケジュールで体力使いましたが、楽しかったです。……で、行き帰りの飛行機の中で、この映画を見ました。機内であんまし集中力を要する映画は見られないタチだし、本作は、原作者の平野啓一郎氏のTwitterで存在を知っていたので、まぁ見てみるか、、、という感じで選んだ次第。

 原作未読ですが、これ、日本アカデミー賞(賞価値の是非はともかく)で何部門も賞を獲っているらしく(平野氏もTwitterでお喜びだった)、その時点で邦画界のレベルの低さを如実に物語っていると頭が痛くなりそうです。

 ……というわけで、本作をお好きな方は、この後お読みにならない方が良いです(読まれる場合は自己責任でお願いします)。悪意はありませんが、かなり悪口になっていますので。


◆小説と映画は別物と考えられない監督なのか。

 見終わってから知ったのだが、本作の監督は、あの『蜜蜂と遠雷』の石川慶で、その名前を見てちょっと納得したというか、あぁ、、、と思った。というのは、本作の監督は、原作モノを映像化するのがかなり下手くそだという印象で、『蜜蜂と遠雷』も同じだったからである。

 私が一番??と思ったのは、ヘイトスピーチの映像が何か所か挟まれていたところ。これ、多分、原作はきちんと意味のある話になっているのだと思うが、本作では完全に浮いていて、まったく意味のないシーンとなっている。城戸が在日三世であることに絡めて、、、だろうが、だから何だ?である。というか、在日三世として被差別者である、という城戸のアイデンティティは、本作全般に全く活かされていない。

 なので、それに絡む柄本明の怪演も、全然生きておらず、ただただゲームのラスボス的な印象ばかりが目立ってしまっている。

 さらに、ヘンと言えば、城戸のような人権派弁護士が、ああいう女性を妻にするだろうか?ということにメチャクチャ違和感があった。ああいう女性というのは、簡単にいうと、チャラい外見まんまのちょっと頭悪い、、、というか、想像力の乏しい女である(演じているのは真木よう子でハマっているのだが、妻夫木と夫婦役ってのも、単純に違和感がある)。この妻・香織は、成金の娘のようで、苦労知らずっぽいが、あまりにも城戸とは人間としての素地が違い過ぎる。こういうキャラ設定、原作でもそうだとしたら、、、ちょっと平野氏、いろんな意味でヤバいと思う。

 というわけで、意味深なラストシーンも、城戸のアイデンティティがゼンゼン効いていない、ただの妻の浮気問題に矮小化されてしまい、オチになっておらず、シナリオとしては非常に稚拙であると感じた次第。平野氏はこんなシナリオでホントに納得しているのかね?……まあ、原作者の本音など知る由もないことだが。

 結局、人間のアイデンティティって何なんだ、、、ってのが本作のテーマなんだろうが、残念ながらそれはほとんど見る者に伝わってこないよね。見る側も、これはミステリー? 社会派ドラマ? 何映画?? という感じの戸惑いはずーーーっと感じながら見ることになったんじゃないかしらん。

 原作モノを映像化する場合、やはり、思い切って削ぎ落とすところを決めて、縦糸をきちんと決めないと、こういうヘンテコで薄っぺらい作品になりますよ、、、という典型的な映画になっている。


◆その他もろもろ

 日本人は、戸籍で人となりが定義付けられているわけだが、戸籍が別人と入れ替わったら、その人は別人になっちゃうのか、、、?と言えば、ならないわけで、人間って何なんでしょうね?……ということなんだろうけど、結局、人間は一人一人ラベリングせざるを得ないわけで、名前だってその一つ。

 親が犯罪者で、その消しがたい汚点を消すためならば戸籍さえ誰かと交換したいと思うのも、、、まぁ、ありなのかね。むしろ、仲野太賀が演じていた本物の大祐みたいに、借金取りから逃げるため、、、とかの方が分かる気がするなぁ、私は。戸籍で親の存在を消したところで、自身の中にその血が流れているのは変えられない。それが身体全体を搔きむしりたくなるほど嫌だと言っていた窪田正孝演ずる偽大祐の行動として、どうもね、、、。

 役者さんたちは皆さん熱演で頑張っておられたが、妻夫木くんは、こういう反骨・知的職業の役には向いていないような。演技力の問題ではなく、顔に険しさやピリッとした感じがないもんね。もうちょっとソフトな路線の方が合っていると思うなー。童顔だし、大人の男の役はかなりハードルが高いと見た(妻夫木くんのファンの皆様すみません)。

 あと、どうでもよいことだけど、小籔千豊の役って必要? 尺に制限のある映像作品においては、いなくて良いキャラはいない方が良い。原作でどういう役目を与えられていたのか分からないけど、少なくとも本作内では何ら存在意義のない、いなくてよい役だった。

 

 

 

 

 

 


もっとシナリオをブラッシュアップすべき。

 

 

 

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愛する人に伝える言葉(2021年)

2022-10-31 | 【あ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv77727/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。
 
 膵臓癌を宣告されたバンジャマン(ブノワ・マジメル)は、母親であるクリスタル(カトリーヌ・ドヌーヴ)と共に、名医のドクター・エデの元を訪ねる。

 ステージ4の膵臓癌は治せないと告げられ、バンジャマンは自暴自棄に陥ってしまうが、エデは彼に症状を緩和させるための化学療法を提案する。

 一方で、母クリスタルは息子の病気は、自分が過去にかけた心労のためではないかと悩むようになる。

=====ここまで。

 
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 先日、健康診断がありまして、ウチの職場では大抵皆さん、健診の日は休むんですよね。私は、以前は健診終わった後仕事に行っていたんだけど、ここ数年は休んじゃってます。朝8時半に健診スタートすると、人も少ないから待ち時間も少なくスルスルとメニューをこなして、どんなに時間かかっても1時間足らずで終わります。9時半スタートだと全然違って、待ち時間が長くなり、どんなに短くても1時間はかかるという、、、。

 で、9時半に健診センターを出て、その時間でも開いているカフェでモリモリ食べて(朝食ヌキですからね)、一息ついたら遊びに行くわけですヨ。

 今年は、映画。新聞の評で、本物の医師が、モデルとなった自分の役でそのまま出演しているというのを読んでいて興味を持った次第。それに、ドヌーヴとブノワ・マジメルのコンビだし。


◆生きることは死への歩み。

 膵臓がんは確か非常に見つかりにくいがんだと聞いたことがある。見つかったときはかなり進行していると。本作でのバンジャマンも、もう治る見込みがないとはっきり医師に宣告される。

 で、当然知りたいのは「余命期間」である。バンジャマンと一緒にいる母親のクリスタルは「あとどのくらい?」とエデに聞くのだが、バンジャマンは聞くことにためらいを見せる。クリスタルは「私だけ聞くのはダメなの?」と言うが、エデは「それだと親子で分断が起きてしまいおススメしない」と答える。

 序盤のシーンなんだが、なかなか初っ端からシビアである。

 結局、バンジャマンはその次の機会にクリスタルと一緒に、自分の余命期間を聞く。「あと半年から1年」と。

 そこから、バンジャマンが亡くなるまでの、彼の死に様を描いたドラマなのだが、序盤のシビアさからはちょっと想像とは異なる方向性の映画であった。つまり、死をどう受け入れるか、、、とかじゃなくて、「どう死ぬか」を描くのだ。受け入れるも何も、死ぬのは自明なんだと。だから、葛藤劇にはなっておらず、死に向かって生きよう!という緩めのポジティブ映画になっていた。

 でもそれって、別にバンジャマンだけの問題じゃなく、全人類の問題なのよね。生ある者全て、生まれ落ちたその瞬間から「死に向かって生きる」ことを強いられているわけで、がんで余命宣告を受けた人特有のオハナシではない。

 つまり、この映画は「生きること」を描いた映画なのだ。

 だから、がんドラマにありがちな、患者が容貌が変わるほど痩せこけるとか歩けなくなって倒れるとか、、、そういう描写はない。それがリアリティがないと感じる人もいるだろうが、私は好感を持ったクチである。本作の描きたいのはソコじゃないのね、と。


◆バンジャマンが選んだ自分の死の場面

 一番印象に残ったシーンは終盤の、バンジャマンの死の場面。彼の死自体は静かで穏やかだった。私が、うわ~~っ、、、と思ったのは、まさにその死に目に、母親であるクリスタルは逢えなかったというシナリオ。数分前まで、バンジャマンの横に居たのに、である。というのも、確か中盤でエデ医師がクリスタルに言うこんなセリフがあるからだ。

「患者は、死ぬタイミングや立ち会う相手を自分で決めることがある」

 バンジャマンが若い頃、ある女性との間に子ができたのだが、クリスタルの猛反対に遭い、女性と別れ、子供を手放した過去がある。バンジャマンはまだ消化できずに引きずっている。余命宣告を受けた後も、そのことでクリスタルを責めるシーンもある。クリスタルも罪悪感から逃れられないでいる。

 ……という深い確執を抱えた母と息子である。その息子が、母がトイレに立ったほんの数分の間に息を引き取るのである。何というシーンだ。バンジャマンはそういうタイミングと立ち会う相手を自分で決めた、、、ということか。これは、クリスタルにこれ以上ない十字架を負わせることになるのではないか。

 が、クリスタルの表情は割と落ち着いていたのが、これまたどう捉えればよいのか、混乱してしまった。

 クリスタルは、そこに至るまで、バンジャマンの余命を聞いて様々な思いで動揺したり悲しんだりするわけだが、そんな彼女にエデ医師は、こうも言っていた。

「旅立つ許可を与えましょう。死んでもいいという許可が最大の贈り物です」

 つまり、彼女のあの落ち着きは、自分が息子に許可を与えたのだな、、、という思いだったのだろうか。……うぅむ。


◆死ぬときに愛する人に言うべき5つの言葉

 タイトルの「愛する人に伝える言葉」どおり、本作にはハッとさせられるセリフが多い。

 バンジャマンが治療に後ろ向きなのをクリスタルが責めるシーンで、バンジャマンが言う。「これは僕の病気だ、母さんのじゃない!」これも結構、うわ~~~っとなる。言う方の気持ち、言われる方の気持ち、、、どちらも想像するのがキツ過ぎる。

 エデ医師が弱って行くバンジャマンにかける言葉も考えさせられる。死ぬときに、愛する人に言う5つの言葉である。

私を赦して
私は許す 
ありがとう
愛してる
さようなら

 順番はどうでもいい。この5つの言葉を愛する人に言ってあげなさい、とエデ医師は言う。

 果たして、私は言えるだろうか、、、、と考えてしまった。そもそも誰に?? 愛する人、、、とは。私には子がいないし、親とは断絶しているし、パートナーはいるけど、この5つの言葉を言う相手なんだろうか、、、と。さようなら、は言えるかな、、、とか。……いやでも、私が先に逝ったら、あの人は多分腑抜けになるだろうから(別に愛されているから、とかではなく、気持ちの切り替えが超絶下手な人だからです)、私がちゃんと見送るべきだろうから、こんな言葉をかけることはないな、、、とか。するとますます言うべき相手がいない、、、ごーん。

 どう死ぬか、というのは、どう生きるか、の裏返しなのだなぁ、とつくづく感じさせられた映画だった。


◆その他もろもろ

 ドヌーヴ&ブノワ・マジメルというと、あの『太陽のめざめ』なんだが、監督も同じエマニュエル・ベルコである。内容的には本作の方が好きかな。

 ドヌーヴはセリフが少なく、表情や佇まいでクリスタルという人物を演じていた。ほとんど笑顔のシーンがなく、全編基本辛そうで、見ているこっちも辛かった。

 バンジャマンは39歳の設定なんだが、ブノワ、どう見たって50代だろ、、、という容貌で、年齢設定をもう少し上げた方が良かったんじゃないのか、、、と、思った。けど、ブノワはやさぐれたキャラが似合う。若い頃の美青年も美しかったけれど、オジさんになった今はちょっと荒れた感じがなかなかgoo。

 が、何といっても本作で特筆すべきは、エデ医師を演じたガブリエル・サラ。本業はもちろん医師なんだが、エデを演じられる俳優をベルコ監督が探したものの見つからず、結局、エデのモデルであるサラ本人に演じてもらうことになったらしい。演技素人とは到底思えない素晴らしさで、やはり、本業で修羅場をくぐってきた人は違う、、、と圧倒された。

 バンジャマンが生き別れた息子くん役の男の子が可愛かった。オスカー・モーガンというお名前のようだが、ググっても、“オスカー俳優・モーガン・フリーマン”とかしか出て来ない、、、。

 

 

 

 

 

 

クラゲ柄のネクタイなんてあるのね♪

 

 

 

 

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アデルの恋の物語(1975年)

2022-08-07 | 【あ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv11495/


以下、AmazonのHPよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。
 
 1863年、イギリスの植民地カナダの港に一人の娘が降り立つ。

 彼女の名はアデル・ユゴー(イザベル・アジャーニ)。かのフランスの大文豪ヴィクトル・ユゴーの娘。彼女は父と共に亡命中に出逢い、恋に落ちたイギリス軍中尉ピンソンを追って単身大西洋を越えてきたのだ。

 しかしやっとの思いで見つけたピンソンの心は、既に冷め切っていたことを知る……。

=====ここまで。


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 少し前に「ヴィクトール・ユゴー言葉と権力 ナポレオン三世との戦い」(西永良成著/平凡社新書)という本を読んで、ユゴーといえば、レミゼかアデルくらいのイメージしかなかった(映画絡み)のだけれど、この本を読んでイメージがかなり変わったというか、、、。亡くなったときに国葬されたフランスの英雄であったとは知っていたけど、なぜ英雄とされていたのか知らなかったので。……で、なるほど、このような人物ならば国葬もされるのか、と多少理解しました。引き換え、今我が国で国葬されようとしている人は、、、控えめに言って、国賊じゃないですかね?

 それはさておき、その本の中で、このアデルの事件も少しだけ触れられていたけど、精神的なダメージについて言及されていたのは長女の水難事故の方でしたね。アデルの件もまあ大変だったんでしょうが、外国でのことだったし、どうしようもなかったんでしょうかね。ちょっと本の内容も忘れかけているので定かじゃないですが、、、。

 で、そんな本を読んだ後に、『生誕90周年上映 フランソワ・トリュフォーの冒険』という企画があって、本作をスクリーンでどうしても見たいと思いまして先月行ってまいりました。ほかにも見たい作品があったんだけど、スケジュール的にちょっとタイトだったんですよねぇ。……と思っていたら、来週からアンコール上映されることになっていた!! 

 というわけで、ようやく感想です……。


◆私を見て!!

 本作を初めて見たのは、多分、30年くらい前だと思う。その後、1~2回見たように思うが、スクリーンで見たのは今回が初めて。で、前回見てからは、少なくとも10年くらい経っているので、大方忘れており、一番ビックリしたのは、ピンソンが私の記憶していたのより(優男だけど)イケメンだったってこと。

 ……これ、アデルを演じたのがアジャーニでなければ、映画として成立していなかっただろうと思う。トリュフォーが長年企画を温めながら実現しなかったけれど、アジャーニを見てすぐさま脚本を書いた、っての、すごくよく分かる。圧倒的な美女だからこそ、狂っていく様が映像として見られるのであって、並みの容姿だったらホラーですよ、マジで。アジャーニだから、悲劇の映画になっているけど。

 今回、初めて引っ掛かったのは、アデルが“書くこと”に結構こだわりを見せていたこと。あまりに偉大な父親なもんだから、彼女が書きたいと思って、実際に書いているのだが、それらは父親のビッグネームが圧倒して端からなかったことになっていくわけね。何かを“書いた”ことにすらならないという、、、。

 ピンソンへの手紙、ユゴーへの手紙、日記(手記)等々を紙を買っては書くのだが、映画の中でもそれらがどうなったのか、ちゃんとは描かれていない。ピンソンへの手紙のうちの何通かは、ピンソンに届けられたんだけど。

 演じたアジャーニは18歳だったけど、実際のアデルは、30歳過ぎだったらしい。で、本作内でも度々描かれていた姉(ユゴーの長女)の水死。前述の本にもあったように、ユゴーはこの水死事件にはかなり消耗した様で、アデルにしてみれば、自分の書いたものが端から埋もれていく中で、父親の消耗を目の当たりにし、父親のにとってのアデル自身の存在意義を大いに疑うことになったのに違いない。

 そんな折に出会ったピンソン。優男ピンソン、アデルがユゴーの娘だからと、甘い言葉を浴びせたのだろう。アデルが真に受けたのも、それでピンソンに病的にハマったのも無理はないという気がする。彼女の承認欲求は極限に達していたのだ、、、。

 若い頃の私には、そういう背景は全然見えていなかった。今回も、んん?という感じだったが、考えながら時間が経って、ようやくピンと来たというか。前述の本を読んでいたのが大きかったかも。

 けれど、結局、アデルはピンソンにも必要とされず、彼女の承認欲求は行き場を失う。そりゃ病むわね、、、。

 この映画を、ストーカーものだと言ってしまえば、それはそうかも知れないが、アデルの置かれた立場を思うとただただ辛い。だって、彼女はそうはいっても、自分がユゴーの娘であることを支えとしているのだ。そんな矛盾を自己の内面に抱えて、苦しくないわけがない。


◆その他もろもろ

 それにしても、アジャーニさまの美しいことよ、、、。もう、スクリーンに釘付けだった。

 だんだんヤバくなっていく様が実にリアル。『カミーユ・クローデル』もそうだったけど、こういう“こわれゆく”人間を演じさせたら、彼女の魅力は全開になる気がするなぁ。それはやはり、あの美貌のなせる業でもあるだろう。

 ピンソンを演じているのはブルース・ロビンソン。私の記憶よりだいぶイケメンだった。今回wikiで調べたら、彼は、俳優よりも脚本書いたり監督したりで活躍している様子。ゼッフィレッリの『ロミオとジュリエット』にもベンヴォーリオ役で出演していた!!知らんかった。

 ピンソンが軍の訓練中に、アデルが現れるシーンがあったのだが、アデルが完全に病んでしまった後より、このシーンが私は一番キツかった。客観的に見れば、KYなヤバい女でしかないのだが、もうそういう話じゃないんだよね、、、。

 ただ、史実的に言えば、アデルは30歳を過ぎていて、当時の30歳過ぎの女性と言えば、今の感覚とは大分違うだろうから、ピンソンもかなり恐怖を感じたことだろう。傍から見ても、アデルに同情する人は少なかったかも知れぬ。当時は、父親のユゴーも亡命中だったようで、なかなか身動きが取れなかったというのもあるだろう。まあ、ユゴーも決して清廉潔白じゃない人だったから、見放していたのかもしれないが、、、。

 カミーユ・クローデルも、アデルも、長い間精神病院に入れられてそこで人生を終えている。嗚呼、、、。

 

 

 

 

 

 

 

 

偉大過ぎる親を持つと、子は生き辛いかもね。

 

 

 

 

 

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アナザーラウンド(2020年)

2022-05-12 | 【あ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv73152/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 冴えない高校教師マーティン(マッツ・ミケルセン)と同僚3人は、ノルウェー人哲学者の“血中アルコール濃度を一定に保つと、仕事の効率が良くなり、想像力がみなぎる”という理論を証明するため、実験を行うことに。朝から飲酒を続け、常に酔った状態を保つことで授業も楽しくなり、生き生きとしてくる。

 だが、すべての行動には結果が伴うのだった……。

=====ここまで。


 
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 マッツ・ミケルセンがまあまあ好きなこともあって、昨年の公開時、行きたいなぁ、、、でもメンドクサイなぁ、、、と思っているうちに終映してしまいました。……ので、DVD借りて、このほどようやく見た次第。


◆飲んだら乗るな。乗るけど飲んだ。

 予備知識はほぼないままに見たのだけど、想像していたのとゼンゼン違って、序盤“え、、、何の映画??”と思ってしまった。お酒を飲んで飲んで飲みまくるオハナシだったとは。

 マッツ演ずる高校の歴史教師マーティンは、生徒や保護者らに「先生の授業はつまらん!」と吊し上げを喰らうほど、教師としては終わっている状態。これじゃぁいかん、、、と本人もちょっと思っているところが、この後、アルコールに付け入るスキを与えることになるわけだが。一種のミドル・クライシスですかね。

 同僚の誕生会(いいオッサンが4人集まって誕生会を開いてあげるってのが、結構イイなー、と思ったわ)で、最初は「オレは車だから」とか言って水を飲んでいたマーティン、つい一口飲んだのがへべれけになるまで飲んでしまい……。

 その後、ちょっと飲んでいる方が良い、、、、からと言って、一杯ひっかけて授業、ってどーなのかね? ほかの3人も一杯ひっかけて授業に臨み、イイ感じだと。それで調子に乗って、実験と称して、血中濃度を上げていくあたりは、見ていてちょっとハラハラしてしまった。なんか決定的なことやらかしてクビになるんじゃないのか、、、とか。体育教師で、サッカーコーチを兼ねている(?)トミーが、体育館に隠していた酒瓶が見つかったときは、あーあ、やっぱし、、、、と思ったけど、クビになるより哀しいことに。

 アルコール濃度を上げるきっかけになった飲み会でも、マーティンは「オレはやめとく。家族との時間を大事にしたい」とか最初は言っていた。でも、やっぱり途中で一口、、、。こういう人って、映画の中じゃ愛すべきキャラだけど、リアルでは一緒にいると結構ストレス溜まるし迷惑だと思うわ~。

 案の定、家族にも愛想を尽かされる。ただ、あの妻の言動は、私にはイマイチよく分からんかった。つまり彼女は浮気していたってこと?? 「それでよくオレを責められるな!!」とマーティンがブチ切れていたけど、そんな妻とやり直したいとマーティンが謝罪しても、彼女は頑としてそれを受け入れなかったのに、終盤、メールで「やっぱり寂しい」とか言ってくる。子供や浮気相手を巻き込んでおいて、何なんでしょう、この人。浮気相手に振られたのかね?

 夫婦は割れ鍋に綴じ蓋とはよくいったもんだ。一応、この夫婦は修復の兆しを感じさせる展開となっている。


◆マッツの、マッツによる、マッツのための映画。

 面白かったけど、正直なところ、映画全体として言えばあんましグッとは来なかった。

 なので、本当なら6個くらいなんだが、ラストシーンがね、、、。もう全部マッツが持って行ってしまいました!みたいな良いシーンだったので、1個プラスしてしまった。

 さすが、元ダンサーだけあって、身体のキレが素晴らしいマッツ。あのお歳で、あの動きができるって、相当日頃から鍛錬しているのでしょうねぇ。彼が踊りだした途端、一気に画がイキイキし始めたもんね。やはり、ああいう全部持って行っちゃうくらいのパワーがある人が、世界的な俳優になれるってことなんでしょう。

 サッカーチームの“めがね坊”が可愛かったなぁ。試合前に整列しているとき、隣のトミーの手をそっと握りに来るのとか。一生懸命走っている姿も可愛い。ほろ酔いでコーチしているトミーの策がじゃんじゃんツボって勝っちゃうし。

 マーティンの妻役の人、どっかで見た顔だと思って調べたら、『恋に落ちる確率』(2003)のヒロインだった! あの映画、まあまあ良かったんだよなぁ、、、あんまし覚えてないけど

 彼女がマーティンに「この国の男たちは半分は飲んだくれ」みたいなこと言っていたのが可笑しかった。そうなんだ、デンマーク。

 ああ、デンマーク。また行きたいなぁ。本作も、街並みとか、家とかインテリアとか、ステキだった。日本の、というか東京の貧しい住宅事情と比べちゃうと、どうにも寂しくなるなぁ。

 

 

 

 

 

 


飲み過ぎ、注意。

 

 

 

 

 

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青い鳥(2008年)

2022-03-19 | 【あ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv37577/


以下、wikiよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 一見平穏な新学期を迎えた東ヶ丘中学校。しかし、その内面は前の学期に起こった、いじめ自殺未遂事件に大きく揺れていた。

 新学期初日、当該学級である2年1組に、極度の吃音症である村内(阿部寛)が臨時教師として赴任してくる。彼が初めて生徒達に命じた事は、事件を起こし既に転校している生徒・野口哲也(山崎和也)の机を教室に戻す事だった。

 毎日「野口君、おはよう」と無人のその机に向かい声をかける村内の行為に、生徒・教師・保護者の間には波紋が広がるが村内は止めようとしない。

 そんなある日、野口へのいじめに加担したと苦しむ園部真一(本郷奏多)は、その思いを村内にぶつけるのだった。

=====ここまで。

 重松清の短編小説を映画化。


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 邦画をあんまし見ない私が、わざわざDVDをレンタル(いまだに動画配信を利用していない)してまで見たのは、あべちゃんが好きだからでは、もちろんありません。本郷奏多くんが出ているからです。

 というのも、今期の朝ドラ、久しぶりに毎日見ておりまして、これに2月くらいから本郷君が登場したのです。ヒロインひなたと恋仲になる五十嵐文四郎役を本郷君が演じていたのですが、この“文ちゃん”のキャラがツボだったんです。正直なところ、本郷君自身は線が細過ぎてちょっと、、、なんだけど、文ちゃんのキャラには実にピッタリで。文ちゃん、いわゆるツンデレなんですよ。私、リアルでもバーチャルでも、男も犬も、基本“ツンデレ”に弱いのです、、、ごーん。

 朝ドラでは、7年も付き合ったひなたを振って(?)お別れ、退場してしまい、現在激しい“文ちゃんロス”なんですが、それよりも、番宣も兼ねて出演した「あさイチ」での本郷君を見たら、文ちゃんとゼンゼン顔が違う!! 同じ人なのに、ここまで違うものか、、、と愕然となりました。ドラマ内でも表情がコロコロ変わり、役者としても引き出しが多そうだな、とは思って見ていたのですが。しかも、私、本郷くんを今まで結構目にしていたはずなのに、名前と顔が一致していなかったのだと分かり、他の作品での本郷くんを見てみたくなったのでした。

 ……というわけで、映画の感想です。


◆落ち着いた良い映画

 “いじめ”がファクターとなる学校モノ。あべちゃん演ずる村内先生は説教臭くなく、映画自体も説教臭くなく、邦画では珍しく静かな小粒でピリリ系の良作だった。

 村内先生が吃音である必要性を疑問視する感想をネット上で見かけたけれど、重松氏自身が吃音であったこともあるだろうが、彼が吃音であることで、生徒たちは彼の発する言葉にイヤでも注意を向けさせられ、先生の言葉の重みが増す効果があるのだなぁ、、、とホームルームシーンを見ていて感じた。

 主なシーンは、中学2年生の教室内でのもの。中2病とか言われるけど、中学生は一番心身ともに変化が大きい時期だから、先生も生徒も大変だよね。本作では被害者の自殺“未遂”となっているけど、現実には未遂ではないケースも起きている。

 本作では、いじめがいかに良くないか、などという陳腐なお題目は見事にスルーし、“他者の痛み”にいかに思いを致すか、その難しさを描いている点が秀逸だ。道徳的な正しさとか、泣きへの誘導とかがないところもgoo。いじめの現実はそんな安易な着地点には収まらないってことを、きちんと描いていると思う。

 本郷くん演ずる園部が、村内先生に、何で野口の机を戻したり、ここにはいない野口に挨拶したりするのかと聞いた時の、村内先生の答えがグッとくる。「それは責任だ」ってね。「いじめの加害者になってしまったことを忘れない責任」「被害者は一生忘れない。だから、加害者も忘れてはいけない」ということだけど、これは本当に大事なことだと思ったわ。加害者は忘れるからね、大抵の場合。

 あと、バスの中のシーンも良かった。子どもたちが、ぶつかってお婆さんの荷物をふっとばしたのに知らん顔していたら、村内先生、子どもの腕をつかんで「お婆さんに謝るんだ」と一言。威圧するでなく、それでいてたった一言で子どもたちの心に届くように言葉を発するのは、なかなか難しいシーンだったろうな、と。

 村内先生が、何で校舎の屋上に度々上がって物思いにふけっているのか、とか、時々取り出して眺めているあの写真は何なのか、とか意味深なままで終わってしまった描写もあるけれど、とにかく村内先生のバックグラウンドが全く描かれないので、それは敢えてそういう描写にしたんだろう。私がちょっとイヤだな、と思ったのは、あの目安箱みたいな箱に「青い鳥」と名付けていること。青い鳥って、、、ねぇ。

 でもまあ、全体的には好感の持てる良作でした。


◆本郷くんとか、文ちゃんとか、、

 本郷くん演ずる園部は、割と優等生っぽい位置付けかな。野口とも対等に話せる仲だったけど、野口をからかっている連中のノリに一度だけ乗ってしまった。それを、園部はとても悔いていて、葛藤している。

 結構、難しい役どころだと思うが、本郷くん、繊細そうなルックスで好演でした。

 朝ドラの文ちゃんは、一見無愛想ながら、ひなたの家族にすんなり馴染むところとか、実はひねくれていない性格なのが本郷くんの雰囲気に合っていた(本郷くん自身は、自分のことを“子役からキャリアが長いせいか、うまく立ち回ることのできるひねくれ者”と言っているみたいだが)。ひなたと別れるシーンは、見ているこっちまで号泣しちゃったよ。

 ひなたは、文ちゃんに振られたと言っていたけど、文ちゃんはひなたに「東京に一緒に帰ってほしい」「自分にとって一番大事なのは、叶わない夢なんかじゃなくひなたなんだ」とその前に言っており、それを蹴ったのはひなたやろ、、、と思うんだが。若いから、文ちゃんが夢を諦めることをひなたは受け入れられなかったんだろうなぁ。

 私がひなただったら、絶対一緒に東京行くね。夢を食っては生きていけないし、何より好きな人をそう簡単に手放すなんて、私は絶対したくないので。相手が一緒に来てくれと言っていて、物理的な障害がなければ、行くしかないでしょ。それで結果的に上手くいかなくなったとしても、だ。文ちゃんが最初から「別れたい、一人で東京帰る」と言ったのなら、そりゃ振られたことになるし、それでも着いていくとは言いにくいけどさ。一緒に来てくれ、、、って言ってるのよ、好きな人が。行かない理由がないわ、私なら。

 なんか朝ドラの話ばっかになってしまったが、文ちゃんはこの後また登場すると私は思っている。理由は、2つあって、1つは、来週(25日)、本郷くんが「チコちゃん」に川栄ちゃんと一緒に出演するから。朝ドラは4月8日までで、3月25日の後2週間もあるわけで、これっきりの人が、ヒロインと一緒に番宣兼ねてラストに向けて盛り上がる時期に別番組に出てこないだろ、、、という勘ぐりから。

 もう1つの理由は、ひなた編になってから、すぐに文ちゃんは登場しており、ひなたと7~8年付き合っていた設定になっている。実際にドラマに登場していた時間は長い。現実にはどんだけ長く付き合おうが、ただの通過人であることは珍しくないが、これはドラマである。ひなたにとってただの通過人に過ぎない男のことを、これだけの尺を割いて描写するはずはない。藤本さんが書く脚本で、そんな意味のない構成になることは考えにくい。ひなたとハッピーエンディングになるかどうかはともかく、文ちゃんのその後は必ず描かれ、それはひなたと何らかの関わりがあるものになっているはず。

 チコちゃんに叱られている本郷くんには興味ないけど、文ちゃんのその後には興味津々なのだ。


 

 

 

 

 

 

人間の集まるところ、いじめアリ。

 

 

 

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アマデウス(1984年)

2021-10-27 | 【あ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv440/

 
 以下、wikiよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1823年11月のある夜、ウィーンの街で自殺をはかった老人・アントニオ・サリエリが、精神病院に運ばれた。彼は病床で「許してくれ、モーツァルト!君を殺したのは私だ」と言い続けていた。

 後日、病状が安定したサリエリを神父フォーグラーが訪問し、話を聞こうとする。当初は神父を蔑み拒否していたサリエリだが次第に軟化する。そして、にわかには信じ難い驚愕すべき内容の告白を始める。

 サリエリは、若い頃は音楽への愛と敬虔な信仰心に生きており、オーストリア皇帝ヨーゼフ2世に仕える作曲家として、人々から尊敬されていた。しかし、彼の前に天才作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが現れたことが、サリエリの人生のすべてを変えてしまう。

 その類い稀なる音楽の才能は大衆から称賛され、天真爛漫かつ下品で礼儀知らずな人間性は他の作曲家から軽蔑を受ける。しかし、ただ一人サリエリだけは、「モーツァルトの才能が神の寵愛を受ける唯一最高のものであること」を理解してしまい、自分はモーツァルトの真価が分かる才能しかない凡庸な人間だと思い知らされる。

 そしてモーツァルトへの激しい嫉妬に苛まされるサリエリの苦悩が、大きな悲劇を生んでいく。

=====ここまで。
 

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 “いまさら名画”シリーズ2作目は、特に意図はありませんが、本作を選びました。ディレクターズカット版じゃない、オリジナルの方を見ました。

 この映画、どこでも褒めちぎられており、みんシネでも平均点8.36点(本日時点)でランキングTOP20(レビュー数30以上)に入り、古い本で恐縮ですが『戦後生まれが選ぶ洋画ベスト100』(文春文庫)でも、堂々8位にランキングしております(ちなみに1位は『2001年宇宙の旅』)。

 公開時のことは全く知りません……。その後、テレビで何度もオンエアされているので、ながら見なら何度もしていますが、最初から最後まできちんと見たのは今回が初めて。ながら見していたときから、本作の素晴らしさがイマイチ分からなかったのだけれども、それは「ちゃんと見ていないからだ」と自分に言い訳をしてウン十年生きてまいりました。

 話は逸れますが、モーツァルトの曲(全部知っているわけじゃもちろんないが)の中で一番好きなのは「クラリネット協奏曲」なんですが、本作内ではちらりとも流れませんでしたね、、、ごーん。


◆天才と秀才

 あまりに有名な映画なので、感想はいたるところで語り尽くされた感があり、まさしく“いまさら”感が半端ない、、、。けれど、敢えて書くぞ、感想を。

 エンドロールが流れ始めて思ったことは、「え、、、、これで終わり?」でした。長いので、やっと終わった感もあったけど、それだけに、ちょっと拍子抜けでござんした。

 良かったのは、衣装とか美術とか。あとオペラのシーンはどれも目に楽しい。

 あの時代、電気がないから、灯りといえば、炎なんだよね。豪華シャンデリアも、舞台のライトも、ぜーーんぶ本物の“火”……という、本筋とは関係ない所にやたらと目が行ってしまった。こないだ見た『コレクティブ 国家の嘘』の冒頭シーンで、火が舞台装置に燃え移ってあっという間に大火災、、、だったのを思い出し、昔はあんなに本物の火を一杯使っていて、火事にならなかったなんてスゴイな、、、と。まあ、これは、中世くらいの映画を見ているとよく感じることではあるけれど。実際は、あれだけの蝋燭の火、相当な熱で暑かったんじゃないかしらん?とも思ったり。

 本作については、サリエリがモーツァルトに猛烈な嫉妬心&対抗心を燃やして嫌がらせしまくる映画、、、くらいの認識だったんだけれども、蓋を開けてみれば、別に、サリエリさん、そんなにヒドい人ではなかった。というか、極々常識的で、紳士やった。そら、腹の内はいろんな感情が渦巻いていたとしても、少なくとも本作でのサリエリの内面描写は、それを感じさせるものではなかった。

 本作は、巷では“天才vs凡人”みたいに言われているが、サリエリは決して凡人ではなく、努力の人、つまり秀才だ。だいたい凡人には天才の凄さが理解できないものだ。それに、本作で描かれているサリエリは、現実を受け入れている。才能の凄さを見抜いても、悔しくて見て見ぬ振りをし、受け入れられない人だって一杯いるのに、彼はちゃんと受け入れている。それは、誰にだって出来ることではないだろう。

 受け入れるからこそまた、苦しんでもいる。自分が逆立ちしたって叶わないことを、これでもかと見せつけられ、嫉妬に襲われるサリエリを、F・マーレイ・エイブラハムは実に巧みに演じていらした。

 けどそれは実に抑制が効いていて、それだけにサリエリの葛藤も窺えるのではあるが。強いて言えば、策士な側面があるけど、策士になり切れてもいない。バレエを採用する・しないで、皇帝にかけあってあげると言いながら何もしなかったことも懺悔していたが、そんなん、可愛いものじゃん? そんなことを懺悔するほど引きずっていたなんて、むしろサリエリさん、良い人じゃないか、、、と思ってしまったのだけど。

 レクイエムを書かせた=殺した、とサリエリは思い込んでいるのだが、まあ、そこまで呪い殺す(と思い込む)ほど醜い感情が渦巻いていたということの表れ、、、と受け止めるべきか。

 史実のサリエリの方が、きっと、もっと悪意があった人なんじゃないかなぁ。何でフィクションでこんな紳士キャラにしちゃったんでしょう?? どうせなら、もっと徹底的に嫌なヤツにした方が面白いのに。やることなすこと全部裏目に出て、モーツァルトに都合の良いように事が運んじゃう、、、みたいなブラックコメディにすれば良いのに、と思った。


◆嫉妬

 このブログでもところどころで書いているけど、男の嫉妬について、私はいくつか間近で見て来たので、実に嫌な感じしか持っていない。ただ、私の見てきた男の嫉妬の多くは、男→男、ではなく、男→女、のもの。

 もちろん、色恋の嫉妬じゃないですよ。社会的な嫉妬です。そう、「女のクセに」っていう、アレです。何かしら優れている女性に対する男の嫉妬は、実にイヤらしい。相手を貶めないと、自分を維持できないなんて、お気の毒としか言い様がない。美人を攻撃する男もいた。「チヤホヤされてイイ気になってんじゃねぇよ」って、、、。その美人さんは別にイイ気になどなっていなかった。むしろ、孤高のクールビューティだったんだけど。

 サリエリ→モーツァルトの場合、史実ではモーツァルトは気付いていたが、本作内では全くサリエリの屈折した感情に気付いていない、という描写だった。終盤「あなたに嫌われていると思っていた」と涙ながらに感激してサリエリに言うモーツァルトは、まさに天然、、、。相手が全くこちらの感情に気付いていないというのもまた、嫉妬心を抱く身としては張り合いがないというか、アウト・オブ眼中と言われているみたいで、なお惨めかも知れぬ。本作内のサリエリも、それだからこそ、あんな自殺未遂行為に及んだとも考えられる。

 孤高のクールビューティだからこそ、より嫉妬してしまうんだろうね。相手にされないから。恋愛感情だったらストーカーになるのかもだけど、社会的嫉妬の場合は、嫉妬する側がひたすら惨めになるという、、、。本作のサリエリと同じだ。

 女→男の嫉妬もきっとあるんだろう。私が見聞きしていないか、見聞きしていても認識できていないだけかも知れないが、、、。少なくとも、私自身、その能力に嫉妬心を抱いた男性(or男子)って、いないなぁ、、、。女性もいない気がするが、、、。誰かに嫉妬心を抱くほど、何かこだわりを持って努力した経験がないからなんだな、多分。こんなテキトー人生でいいのか、心配になって来た、、、。


◆その他もろもろ

 音楽は、オペラが多かったけど、オペラシーンはエンドロールを見たらやはり口パクだったんだね。

 音楽監督はネヴィル・マリナー。N響で何度か聴いたが、割と好きな指揮者だったのよね。今回、モーツァルトがピアノを弾いたり指揮をしたりするシーンがたくさんあるが、マリナー氏が指導しているらしい。モーツァルトを演じたトム・ハルスは、演奏している姿も指揮っぷりも実に堂に入っていてビックリ。ピアノを弾く姿勢など、ホントにプロの音楽家みたいだったし、指揮も実に自然な身体の動きで、やはり役者さんは器用なんだな~、と感心してしまった。

 皇帝ヨーゼフ2世を演じていたジェフリー・ジョーンズが何気にステキだった。トム・ハルスが小柄だからか、やたらと背が高く見えたが、実際大柄みたい。『クルーシブル』『スリーピー・ホロウ』にも出ていたのか、、、。

 サリエリ役のF・マーリー・エイブラハムは、オスカーも納得。少し前に見た『薔薇の名前』が印象的。『大統領の陰謀』とか『グランド・ブダペスト・ホテル』にも出ていたなんて、ゼンゼン知らなかった。

 ……まあ、超有名映画ではありますが、感想としては、普通に面白かった、というのが正直なところです。

 

 

 

 

 

 

 


実際のモーツァルトもかなりお下劣だったらしい、、、。

 

 

 

 

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アフガン零年(2003年)

2021-09-20 | 【あ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv33786/

 
 以下、「NHK アジア・フィルム・フェスティバル」HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 タリバン政権の抑圧の下で生きる12歳の少女とその母。病院で働いていた母親は、タリバンが女性の一人歩きを禁止したことにより、就労への道が閉ざされる。タリバンは、女性が男性に伴われずに外へ出る事を堅く禁じ、反した者には刑罰を与えていた。

 生活の糧を失った家族は、少女に男の子のかっこうをさせて働きに出すことを思いつく。生きるため、母と祖母は、恐怖におののく少女の髪を切る。

 少年となった少女は戦争で殺害された父の友人の下で働き始めるが、その翌日、街のすべての少年たちとともにタリバンの学校へと召集されてしまう。その学校では宗教の勉強や軍事訓練が行われていた。大勢の少年達の中で、真実を隠し続ける少女だが、宗教儀式でのささいなミスから、タリバンに疑いを抱かれる。そしてとうとう少女であることが暴かれる…。

=====ここまで。

 制作にNHKが加わっており、「NHK アジア・フィルム・フェスティバル」で上映され、カンヌではカメラ・ドール賞を受賞しているとのこと。


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 アフガニスタンにタリバン政権が復活したというニュースを見聞きすると、何ともいえない無力感を覚えます。中東情勢など、疎いもいいとこなので偉そうなことは言えないけど、本当に苦難続きの国、それがアフガニスタン、という印象。

 もとはといえば、直截的には、911の実質的な報復としてアメリカが暴走したことが引き起こした事態。911の起きる2か月前、私もNYに旅行で1週間滞在していたのだけれど、本当は、9月に行く予定だったので、ヘタしたら足止めを喰らって帰れなくなっていた可能性もあったのでした。9月から7月へ前倒ししたのは、NYの前に、友人が留学していた南ドイツへ行くことになっていて、友人に「9月は忙しくなりそうだから7月がいい」と言われたから。ドイツに1週間、NYに1週間。NYの1週間のうち後半3日間は胃腸炎で寝込んだので、実質3日間くらいしか観光できなかったのが心残りではあったものの、無事に帰国し、2か月後にあの映像をリアルタイムでTVで見たときは、怖ろしかった、、、。私は高い所苦手なので、WTCに昇る気はさらさらなかったけど、帰れなくなるのはやっぱり困るもんなぁ。

 それはともかく、911後のアメリカ(だけじゃないが)は、どう見ても異様で暴走していたような。タリバンが崩壊したとはいえ、20年後、結局復権を許すことになったのは、アメリカの失策と言うほかないのでは。

 本作は、その最初のタリバン統治下のアフガニスタンでのお話。もう、最初から最後まで、とてもじゃないが心穏やかでいられない。ヒリヒリ、ズキズキ、ドキドキのしっぱなし。恐ろしくて早送りしたくさえなるのを、どうにか我慢して最後まで見ました。

 
◆少女の名は“オサマ”

 とにかく、徹底的に女性を抑圧するのが、タリバンの方針なんである。女は独りで出歩いたらいかんのである。主人公の少女は、母親と祖母と3人女所帯のため、収入がゼロになってしまう。だから、長い髪を切って少年として、ささやかな収入を得るために働きに出されるのだ。少女が「怖いからイヤだ」と言っても、祖母も母親も「大丈夫」と言って、強引に髪をジョキジョキ鋏で切ってしまう。ヒドいと言うことなかれ、、、。こうしなければ、祖母も母親も飢え死にするより道はないのだ。

 少女は男の子として近所のミルク屋にアルバイトに行く。そこにも強引に母親が頼み込んで働かせてもらうことにしたのだ。このミルク屋のオジサンが、わりかし良い人で、タリバンが来てヤバそうになるとうまくかわしてくれ、自分も厳しい生活なのにちゃんと報酬(食べ物)をくれる。

 けれども、それはたった1日で終わる、2日目、ミルク屋で働いている少女は強引に召集(?)されてタリバンの男子教育施設へ運ばれる。そこで、ターバンの白い布を渡され、皆頭に巻くんだよね。インドでターバンを巻いている人はシーク教徒だと聞いたが、タリバンの巻いているあのターバンは、どうやら伝統主義者ということみたいだ。シーク教徒のターバンの場合、髪は伸ばしていると聞いたが、タリバンは男性の長髪は許さないということなので、ターバンはターバンでも見た目も意味もゼンゼン違うということらしい。

 とにかく、少女もターバンを巻かねばならないのだが、自分では巻けないので、少女を女の子だと知りながら親しくしている“お香屋”の男の子に巻いてもらう。

 それにしても、この教育施設、描写はわずかだが、やっぱし異様である。男児たちに、かなり高齢の爺さんが、「性器の洗い方」の指導までしているのだ。爺さんは小さな湯船に浸かって「まず右、次に左、それから真ん中、、、」とか実演する。一応、腰に布を巻いてはいるものの、少女のことを思うとハラハラする。最初は物陰から見ていた少女だったが、当然、少女も「脱げ」と言われ、爺さんの湯船に一緒に入れられ、、、とか、もう見てられない。

 当然、他の男児たちは、少女が“女”だと勘付いて、突き回し始める。「お前、なんて名前だ?」と少女に少年たちが聞くが、少女は答えられない。で、お香屋の男の子が機転を利かせて「オサマだよ!」と言って必死で少女をかばうが、多勢に無勢。しかも、女性ならではの生理現象により、呆気なく“女”とバレる。

 その後は、さらなる悲惨の坂道を転げ落ちる。オサマ=少女は、施設の庭の井戸に吊るされる。泣き叫ぶ少女。お香屋の男の子も泣いている。少女は、ブルカを被せられて投獄された後、裁判みたいなものにかけられる。死刑、石打ちの刑などに他の罪人は処せられていくが、少女には「結婚相手」が現れたことから、罰を免れることに。その相手は、60をとうに超えていそうな爺さんだ。ちなみに、この爺さんには、既に複数妻がいる。

 牢屋の中で、少女が縄跳びをするシーンが何度か挟まれるんだが、これがよりヒリヒリした悲哀を増す。自由への渇望と、現実の、残酷なまでの対照。見終わって、これほど気が重くなる映画も少ない。


◆女が悪い、、、のか?

 イスラム法ってのは解釈の幅が広く、服装について、別に女性の髪や肌を出すなとは明記していないそうで、(男女問わず)性的な部分は隠せ、ということらしい。だから、国や宗派によって隠す部分が異なっているわけだ。本作でも、やたら、女性たちに「隠せ、隠せ」というタリバンたちが描かれている。

 でもまあ、一連の描写を見ていてすごく疑問に思ったのは、男は「女に原因があるから」女に性欲を抱くのだ、という思考回路っぽいところ。“女の身体”が男を唆していると。そうは言ってない、と言われるだろうけど、いろんな決まりごとを突き詰めて考えるとそうとしか思えない。男本位の理屈に呆れる。だったら、性欲をいかにコントロールするかを教育しろって話。自分の下半身の暴走を女のせいにするな。

 おまけに、女の性欲は無視だしね。女に性欲がないとでも思ってんのか? 女が隠してなければ、性欲もコントロールできないケダモノなんですか?男って。

 タリバンの統治では、女性の人権蹂躙が槍玉に挙がっているが、それについて、あるブロガーさんが「日本や欧米のフェミたちは、自分たちの人権侵害には敏感だが、アフガンの女性のそれには無関心で、誰も声を上げない。彼女らは所詮、安全地帯でギャーギャー言っているだけで、自分たちさえよければそれでいい輩である」みたいなことを書いていた。

 まあ、この方は、以前にも『82年生まれ、キム・ジヨン』(2019)で取り上げたのと同じ方で、イスラム関係にも興味をお持ちでお詳しい様子。確かに、ツイッター等でもフェミ筋の方々のタリバン関連の書き込みはあまり見ない。けれど、だからといって、このブログ主が言っているようなこととはちょっと違うと思う次第。

 つまり、欧米はともかく、日本のフェミは、イスラムについて無知過ぎるんだと思う。何となくは知っている、、、けれど、具体的に知識としては分からない。よく知りもしない、しかも宗教というデリケートな背景がある問題を、それこそ日本人相手にモノを言うように言うのは、あまりにも短絡的過ぎることくらい、少し考える人ならば容易に分かること。それを、不勉強、無関心、と非難するのはちょっと浅はかではないか。イスラムについて知らないのは、フェミに限らず、大方の日本人の共通項であって、なぜならゼンゼンそういう教育をしていないから。欧米に目が行きがちで、自国の属しているアジアでさえ覚束ない、ましてや中東なんぞ別世界、、、というのが標準的な日本人ではない? 

 あとは、やっぱり自分たちの状況がまだまだ酷過ぎて、アフガンの女性云々まで具体的な行動を起こす余裕などないのが現状だと思う。そら、アフガンに比べれば日本は大分マシではあるが、性を理由にしたヘイトクライムは日常茶飯事、入試でさえされる性差別、性犯罪・痴漢被害に遭う女性の多さ、セクハラ被害の圧倒的な女性の多さ、、、等々、十分、日本の女性たちは人権侵害に日々晒されているのだ。

 だから、アフガンの女性たちに無関心で良いというわけではないが、少なくとも、日本で声を上げるだけでももの凄い風当たりなのであるから安全地帯なんぞでは全くないし、同じ女性でミソジニー全開にしてフェミを揶揄している人びとよりは何ぼかマシだと思うんだが。そういうミソジニー女性たちだって、かつてのフェミたちが勝ち取ってくれた権利に安住しているのですけれど? お忘れ??

 テロと聞くと、どうしてもイスラムとかムスリムとかにつなげて考えてしまうが、とにかく私はイスラムについて知らな過ぎるので、今さらながらもう少しいろいろ勉強したい。いずれにせよ、イスラムだけでなく、宗教というのは、本当に人間の心を救うものなのか? むしろ狭くするものなのではないか? 特に一神教の排他性は、詰まる所、排除ではないのか。排除からは何も生まれないと思うのだが、、、。

 

 

 

 

 

 

 

監督もアフガン出身の方です。
  

 

 

 

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悪魔の手毬唄(1961)

2021-07-03 | 【あ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv20362/

 

以下、上記サイトよりあらすじのコピペです(長いのでかなりカットしています。青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 流行歌手の和泉須麿子が鬼首町鬼塚村へ帰郷の途上、惨殺された。死体の傍のトランジスター・ラジオからは、須麿子の新曲「鬼首村手毬唄」の旋律が流れていた。鬼首町警察に捜査本部が置かれ、主任の磯川警部が捜査に乗り出した。

 名探偵金田一耕助(高倉健)も駆けつけ温泉宿亀の湯の“楓の間”に泊った。須麿子を失った仁礼家は鬼塚一の富豪だが、当主の剛造、妻宮子、長男源一郎、次女里子(志村妙子=太地喜和子)がいる。剛造は「手毬唄」を聴くとなぜか脅えた。

 そんな折、辰蔵という男が十八年ぶりに、剛造の前に姿を現わした。湯治客の放庵は「手毬唄」を口ずさみ、石山の部屋からは夜な夜な謡曲が聞える。仁礼源一郎と里子は、須麿子の死が半年前に剛造に届いた脅迫状に起因しているらしいというが、剛造は取り合わない。だがその直後、銃声一発、源一郎が殺された。金田一は源一郎の死を“自殺を装う毒殺”とにらんだ。

 辰蔵は荒れ果てたブドウ工場で、金田一から源一郎の死を告げられ、驚愕した。半年前、剛造が受け取った脅迫状とは、仁礼家の全財産を社会奉仕に投げ出して無一文になれ、という内容である。発信人は不明だが、青池家の誰かにちがいない。--二十年前、剛造は村一番の豪家青池の土地、財産のすべてをだまし取ったが、青池の妻と三人の子供は服毒自殺をとげた--。

 金田一は、青池の自殺した毒薬と同じもので源一郎が殺されている事実から、青池の恐ろしい執念を感じた。

=====ここまで。

 上記のあらすじのとおり、原作とはまるで別モノです。


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 予想どおり、都内のコロナ感染状況、思いっきりリバウンドしております。オリンピックは、観客を入れるだの入れないだので“ヤッテル感”を出していますが、観客の有無をネタにして、中止論を封じ込めようという意図がミエミエです。この国のトップは、自国民に死者が出ようがどうしようが、自分の権力・地位を守れればそれで良い人なんだから、こういう事態になるのは分かりきっていたことですね。

 デルタ株だか何だか知らんが、すれ違っただけで感染するなんて恐ろしすぎる。ワクチンも、打て打てと言う端からワクチン不足とか、コントみたいな現実に、もうウンザリです。苦しいとか辛いとかも十分嫌だけど、何より指定感染症に罹るとメンドクサイ、、、。それが一番罹りたくない理由ですね。だから、前回の緊急事態以降は、ほとんど劇場に映画を見に行っていない、、、。

 ……と言いつつも、一席開けしてくれている劇場で、平日昼間なら辛うじて見に行っても良いかな、、、という感じで、先日、神保町シアターに行ってまいりました。先月「横溝正史特集」なる企画上映がされていて、横溝正史モノはもともと大して興味ないのですが、高倉健が金田一を演じた映画があるらしい、しかもソフト化されていないらしい、ということで、高倉健も別に好きでも何でもないけど、何となく見てみたくなりまして。


◆嗚呼、健さん。

 ハッキリ言って、ゼンゼン面白くなかった。私、1977年の市川崑監督版のは、TVのオンエアでしか見たことないので、それと比べてどうこうというのではなく、一つの映画作品としてツマンナイ。

 健さんファンには申し訳ないけど、私は高倉健が俳優としてすごく演技力が高いと思えたことはないのだが、本作は、演技力云々以前に、シナリオがあまり金田一を上手く使えていないので、健さんはかなり損な役回りになっている気がする。事件の解決には何の役割も果たしていないし。これが、芸達者な役者だったら、もう少し見どころもあったかも知れないけど、健さんは本作でもやっぱり健さんだった、、、嗚呼。

 でもまあ、健さんの金田一が登場するシーンは印象的だった。超ど田舎の鬼首村に白いスポーツカーを疾走させてやってくるスポーツ刈り&スーツ姿の金田一。旅館のお姉さんに対してもめっちゃ感じ悪い。

 その後も、イロイロ出番はあるけど、なんか見ていて「あーあ、、、、」という感じになってしまった。台詞回しの一本調子っぷりとか、その演技のマズさは言うに及ばずだが、演出もメリハリがなくベターッとしていて、山なしオチなし。犯人がコイツだ、と分かっても意外性もなく、終盤は「早く終わらんかなー」と思っていたくらい。実質、上映時間は83分で短いのに、長く感じるという、、、。

 私はよっぽどツマンナイ映画でも、ほぼエンドロールは最後まで見る人間だが、本作はエンドマークが出て、すぐに劇場を出たくらい。健さんファンなら、若かりし颯爽とした健さんを見られるだけで良いのかも知らんが、私の場合、それだけで1時間20分は持たなかった、、、、ごーん。

 健さん自身も、本作のことは「ゼンゼン記憶にない」と言っているらしいから、多分、あんまし思い入れもなかったんでしょうな。


◆その他もろもろ

 あらすじのところでも書いたが、本作は原作とは犯人も違うし、話もまるで違う、、、、らしい。というのも、私は原作を読んでいないので。77年版をTVで見ておおよその成り行きと犯人は知っている、という程度。

 原作と映画は別物なので、イロイロ違っても良いと思うが、犯人まで違うってのはかなりビックリ。しかもタイトルの「手毬唄」が、本作ではゼンゼン事件の謎解きに関わってこないというのも、何だかなぁ、、、という感じ。これじゃあ、タイトルが死んでしまう。でも、原作者である横溝正史は「面白く見た」と言っているそうで、寛大な人なのね。

 たまたま、昨年、原作の文庫本を買ったので(「カドフェス2020 / SPECIALカバー かまわぬ」の装丁が素敵だったので)、この機会に読んでみようと思う。横溝自身にとって、本作はかなり自信作らしいので楽しみ。

 あと、若かりし太地喜和子が芸名・志村妙子で出演しているんだが、しばらく分からなかった。私の知っている太地喜和子はもうすっかり大女優になっていた後だから。雰囲気がゼンゼン違った。でも、よく見れば面差しはやはり太地喜和子だなぁ、、、と(当たり前だが)感じ、けれどまだ少女っぽさが残ってもいて、可愛らしかった。生きていたら、もうすぐ80歳だったんだなぁ、、、とちょっと感慨深い。

 ソフト化されていないから劇場まで見に行ったけれど、まあ、ムリして見に行くこともない映画ですね、正直なところ。健さんファンは見ても楽しめると思いますが。

 

 

 

 

 

 

 

健さんが演じても、相変わらず後手後手の金田一。
  

 

 

 


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アンタッチャブル(1987年)

2021-04-27 | 【あ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv641/

 

 禁酒法下のアメリカ、マフィアの暗躍するシカゴで、財務省から警察の特別調査官として派遣されたエリオット・ネス(ケヴィン・コスナー)が、アル・カポネ(ロバート・デ・ニーロ)を逮捕すべく、引退間際の老警察官マローン(ショーン・コネリー)、凄腕の新人警官ストーン(アンディ・ガルシア)、経理に詳しいウォレス(チャールズ・マーティン・スミス)とチームを組んで巨悪に立ち向かう。


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 一昨年で終了宣言していた午前十時の映画祭だけれど、昨年1年間のブランクを経て、今年から再開されました。パチパチ~~ ……は、いいけど、都内は日曜日からほとんどの映画館がまたまた休業。なんなの、これ。オリンピックが国民の命や生活よりも優先される美しい国ニッポン。スバラシイですね。

 バッハって、私にとっては偉大な人名だったんですけど。オリンピック開催に固執するオッサンのおかげで憎悪の対象となりました。今や“バッハ”と聞くだけでムカつきます。バッハを聴くのもイヤになりそうで困るぜ、まったく。

 私の周囲の人々は、もう、怒りを通り越して疲れています、みんな。国民がこれだけ疲弊しているのに、この1年で現金給付は10万円1回ポッキリ。ドケチもここまで来ると、ちょっとオツムを疑うね。選挙前なんだからジャンジャン配れば選挙も勝てたかも知れないのに、バカだよねぇ。しかも、案里案件と違って、立派な合法のバラマキじゃん。もしかしたら買収選挙帳消しの“サクラサク”で、脳なしのスガでも花咲じぃさんになれたのに。もはや何をやっても化け物しか出てこないでしょうよ、あなたの庭からは、、、、ごーん。

 ……何の話だ。いや、だから午前十時の映画祭です。本作が今月かかりましたので、宣言発令直前、滑り込みセーフで見てまいりました。何度も見ている本作ですが、スクリーンで見たのは初めて。何だか、今までTVで見ていたのとは別物のような気さえしました。やっぱり映画はスクリーンで見てナンボです。

 内容については今さらなので、今回、感じたことを思い付くまま書きます。


◆エンタメ要素フル装備映画。

 映画を見る人が、何を映画に期待しているかというと、多くの場合はエンタメだろうと思う。楽しみたいのよね。

 映画の楽しみというと、ストーリーももちろんだけど、俳優や音楽、演出、衣装、美術、カメラワーク、、、等々、いろんな要素があるわけで、本作は、そのどの要素もハイレベルで見る者に提供してくれている、類稀なる第一級エンタメ映画だと、今回スクリーンで見て実感した。 

 何と言っても、オープニングの映像と音楽。もう、これだけで、この映画、絶対面白いやろ!!と期待値が高まる。エンニオ・モリコーネって、やっぱし素晴らしい作曲家だ、、、。んでもっていきなりデ・ニーロがバーンと出てくる。何度もTVで見ているけど、昂揚感がゼンゼン違う!

 そして、背後からず~~っと映っていたケヴィン・コスナーがこっちを向くのだ。このケヴィン・コスナーがすげぇカッコイイ! 私、正直言って今まであんましケヴィン・コスナーってカッコイイと思ったことなかったんだけど、今回、アルマーニに身を包んだ彼は、まぎれもなくカッコ良かった!! それも、チョー・カッコ良かった。何でTVで見ていたときはカッコイイと思わなかったんだろう、、、。

 そうなのよ、もう、どれも見慣れたシーンのはずなのに、何というか、、、初めて見る感覚に近いワクワク感がずーーーっとありました。何なんでしょう、これ。あのシーンもこのシーンも、みんな楽しい!!って感じだった。

 でも、そんな中で今回、一番良いシーンだと思ったのは、初めてエリオット・ネスとマローンが橋の上で出会うところ。警官の制服が実に決まっている渋いショーン・コネリー。「生きて家に帰ること。それが一番大事だ」とエリオット・ネスに語るところとか、いいわ~、、、と思ってしまった。

 もちろん、あの階段でのアンディ・ガルシアも良いのだけど。意外に、アンディ・ガルシアの出番は地味なんだな、、、と。乳母車を押さえながら、銃で狙っている彼は、やっぱしセクシーでカッコエエです。

 セットも街並みも、もちろんアルマーニも、全部素晴らしかった。当時は、あまり長尺の映画はなかったのか、2時間という枠にキッチリ収めているのもgoo。それだけに展開も早く飽きさせない。シナリオが実に巧みだなぁ、、、と感心してしまった。

 本当に、これぞThe・エンタメ映画でしょう。素晴らしい♪


◆ブライアン・デ・パルマ

 本作は、デ・パルマ作品にしてはあまりにも一般ウケする作品だからか、初期からのデ・パルマのファンたちにはあんましウケが良くないらしい。本作以前のデ・パルマ作品で私が見たのは『ファントム・オブ・パラダイス』(1974)『愛のメモリー』(1976)『キャリー』(1976)くらいだけど、確かにまあ、本作とこれらの作品は、雰囲気が大分違うわね。

 そういう一部のコア・ファンの気持ちは、分からなくもない。何か、応援していた売出し中の芸能人とか歌手とかスポーツ選手が、突然メジャーになって、自分だけのモノじゃなくなるみたいな感覚かな、、、と。

 でも、良いものは良いし、一般ウケすることが一概に悪いわけじゃない。そら、安易な感じがするかもしれないし、没個性みたいに見えるのかも知れないけど、本作は十分個性的だと思うけどな~。誰もが同じ材料でこのレベルの映画を撮れたとは思えないもの。映画監督は、採算度外視で撮りたい映画を撮るためには、やっぱりヒット作も必要なんだよね。だから、こういうエンタメに徹した一般ウケする、しかもハイレベルの内容の映画を撮る腕前も欠かせない。そういう意味で、デ・パルマは高く評価されてしかるべき監督の一人であることは間違いないと思う。

 個人的には、『愛のメモリー』も好き。ビジョルドがヒロインだから、ってのも大きいけどネ。本作以降の作品は、実は1本も見ていない、、、と思うので、これから少しずつ見て行きたい。ネットじゃ低評価なのも結構あるけれども、そういうのも含めてね。

 ちなみに、本作のサントラ、アップルストアで買っちゃおうかしらん、、、と目論んでおります。

 

 

 

 

 

 

 


やっぱし映画はスクリーンで見るべし。

 

 

 


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ある画家の数奇な運命(2018年)

2020-10-11 | 【あ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv71177/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 叔母の影響で芸術に親しんできたクルト(トム・シリング)。彼には、精神のバランスを崩して強制入院していた叔母の命をナチス政権の安楽死政策によって奪われた悲しき過去がある。

 終戦後、クルトは東ドイツの美術学校に進学し、そこで出会ったエリー(パウラ・ベーア)と結婚。ところが、エリーの父親(セバスチャン・コッホ)こそがクルトの叔母を死に追いやった元ナチ高官だった。

 やがて、東のアート界に疑問を抱いたクルトは、エリーを連れて西ドイツへと逃亡し、創作に没頭していく。

=====ここまで。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 このセンスの悪い邦題にゲンナリしそうになりながらも、監督はあの『善き⼈のためのソナタ』のフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクだし、上記キャストに加え、『帰ってきたヒトラー』のオリバー・マスッチ氏もご出演とあれば、まあ、3時間超えでも見ておこうかな、、、と。

 3時間超えなんて、久しぶりだし大丈夫かなぁ、と心配しながら劇場へ行ったものの、杞憂に終わりました。


◆フィクションかノンフィクションか。

 作品にもよるが、私はあまり事前予習はしないで見る方だ。でも、旧作の場合は、みんシネで評判が良さそうなものだと“見てみようか”となることもあるので、その場合は、大抵ネタバレのレビューも平気で読んでしまう。ネタバレが致命傷になりそうな映画の場合は読まないこともあるけれど、あまりネタバレに神経質ではない。

 ……というのも、どんな作品も、実際に見てみないとレビューで書いてあることなどピンとこないと経験上分かっているから。見る前にレビューやプロの書いた批評をどれだけ読んでも、結局はボンヤリとしか分からないのであり、作品を実際に見て感じて、その上でレビューを読めば、そこで初めてレビューや批評の文章がくっきりと輪郭を持って頭の中に入ってくる。たとえネタバレを読んでいても、それが実際の作品鑑賞の妨げになったことは、多分、一度も無い。

 本作も、某全国紙の評を事前に読んでいた。そして、そこには、本作の主人公クルトのモデルが、あのゲルハルト・リヒターであることが書かれており、私でもその名は知っているので「へぇ~」とは思ったが、実際に劇場で鑑賞している間、その予備知識が鑑賞の邪魔になることはなかった。

 しかし、ネットの感想を見ると、リヒターの半生を描いた映画、つまり“ある程度ノンフィクション”という前提で感想を書いている人が結構いるので驚いた。公式HPに「映画化の条件は、人物の名前は変えて、何が事実か事実でないかは、互いに絶対に明かさないこと」という監督とリヒターの間の条件が紹介されており、それについて、伝記映画としてあり得ない!と怒っている人もいた。リヒターの名前を謳っておいて、中身はフィクションじゃねえの??と。

 けれどもたとえ、リヒターの伝記映画として宣伝していたとしても、映画は映画であり、映画で描かれていることなんて基本はフィクションだと思って見ておいた方が安全なのではないか。フィクションとノンフィクションというのは極めて曖昧で、自伝を基にした映画であっても、映像化している時点で最早“作りモノ”になっている、という前提を、見る側はきちんと弁えなければならない。基にした自伝だって、どこまで真実が書かれているかなんて、著者以外、誰にも分からない。もっと言えば、ドキュメンタリーだって、被写体がカメラの存在を認識している時点で、既に作りモノになっている可能性は高い。「ドキュメンタリー=完全なる真実」などと無邪気に信じる人は少ないだろうが、「ある程度真実」だと捉える人は少なくないだろう。この辺が、映像作品の危うさだと思う。

 だから、本作は、飽くまでもリヒターの人生をモチーフにしたフィクションなのだ。リヒターの半生を描いた映画ではない。ところどころで符合点があったとしても、だからノンフィクションということにはならない。これは、映画なんだから。


◆画家映画の割に、、、

 序盤で出てくるクルトの叔母エリザベト(ザスキア・ローゼンダール)が本作のキーパーソン。幼いクルトに強烈な影響を与えることになるこの女性は、美しく、感性豊かで、ナチが唾棄すべき退廃芸術とこきおろす美術作品を「大好き」と言うような人。このエリザベトとの序盤のシーンがどれも画的に非常に印象的で、画家映画のお約束、“作風が決まるまでの苦悩”から脱出するに当たっての鍵になると、見ている誰もが予測がつくだろう。

 そして、実際、クルトが作風を確立させていく過程で、エリザベトが生前残した言葉「真実は美しい」「真実から目を逸らさないで」が、クルトの作品となって具現化される。真実は美しい、、、かどうかは疑問だが、この辺りの展開はなかなか感動的。そして、その作品が、クルトの義父ゼーバント教授に、義父がひた隠す過去に直面させることになり、二重の意味を持たせているのもなかなか巧みな構成だと思う。

 クルトと恋に落ちて結婚する相手エリーの父が、エリザベトを死に追いやった元ナチ高官、という設定はいかにも出来過ぎで、ちょっと鼻白む感じもあるが、だからこれは映画なのだということである。

 このゼーバント教授という男、ホントに最低な人間で、見ていて非常に不快だった。SSの隊員でもあったこの男は、とにかく名誉欲と自己保身の塊みたいな人間であり、信念などなく、いかに安全に世渡りするかということしか頭にない。戦後、ソ連の捕虜になったときでさえ、「ゼーバント教授」と呼ばれることに拘り、自らの保身のためには娘の身体を傷つけることも厭わないという、狭量かつおぞましい人間なんである。

 しかも卑劣漢で、統合失調症と診断されたエリザベトを「不要な人間」判定しておきながら、自ら手を汚すのはイヤだからと不妊手術は部下にやらせる。部下が拒んでも押し付ける。

 ……まぁ、こういうエリートは、私も現実に何度か遭遇したことがあるので、いつの時代にもどこにでもいるんだろう。私が現実に出会ったのは、ほとんど(というか全員)男だったが、エリート(というか、いわゆるその時代でステータスがある)とされる男は、ゼーバント教授ほど卑劣ではないにしろ、基本的には冷血で自己中だった。別にそれならそれで構わないが、人にそれを指摘されると逆ギレするところが、どうにもこうにも小っちぇんだよね。自覚して開き直ってるんならむしろ尊敬するのに。どんなに偏差値が高くても、ああいう手合いはサイテーだ。

 あと、全体に気になったのが、エリザベト以外の女性の描き方。エリーは、服飾デザイナーの卵のはずだったんだが、クルトとデュッセルドルフに来てからも服を作っているシーンはチラッと出てくるだけで、基本、クルトとセックスしているシーンがほとんど。親の支配から脱しきれないところとかも含めて、エリーの人物像がぼやけているのはいただけない。また、エリーの母親(演じている女優さんが、ケイト・ブランシェットによく似ている)もかなり??な人で、自分の娘の堕胎手術を夫がするのに止めようともしないし、基本、全て夫の言いなりなんである。まあ、あれだけ強権的な男を相手に為す術無し、、、ってことかも知らんが、あまりにも夫婦間で葛藤がないのが不思議だ。かと言って、陰では娘に寄り添うとかでもなし、ホントに主体性のない女性で、見た目は美しいのに中身空っぽでガッカリする。

 とはいえ、全体に見れば3時間という長尺にもかかわらず、緊張感が途切れない良い作品であることには違いない。特に、東ドイツ時代の描写が面白かった。あんな絵ばかり描かされていれば、疑問を抱くのも当たり前だろう。ホントに、独裁国家ってロクでもないことばっかり国民に押し付けるんだな、と改めて認識した次第。ベルリンの壁が出来る前に西側に出られて良かったよね。

 画家映画だから、当然、画家として作風を確立するまでの苦悩が描かれ、それが本作の後半なんだが、正直言って、この後半は退屈はしないが東ドイツ時代ほど面白いとは思えなかった。私自身が現代アートに全く興味が無い(というか、ゼンゼン分からない)ので、そういう世界を見せられても、何だかなぁ、、、という感じになってしまうのよね。

 まあでも、画家映画=不幸映画、という私の勝手な公式は、本作には当てはまらないです。クルトはちゃんと成功するし。エリーは、父親のひどい仕打ちに苦しみながらも、子どもを授かることが出来たし。最初は格差婚だったけれど、それも解消されたし。


◆その他もろもろ

 クルトを演じたトム・シリングは好演していた。『コーヒーをめぐる冒険』のときより、かなり大人になったなぁ、、、という感じ。6年で印象が変わった気がする。エリーを演じたパウラ・ベーアと身長がほとんど変わらないみたいで、小柄なのかしらね。

 そのパウラ・ベーアはほとんど裸のシーンばっかりで、こりゃ撮影大変だっただろうとお察しする。もちろんキレイなんで良いのだけど、前述したとおり、役者としてはあまり演じ甲斐がない役なんじゃないかしらん、、、。

 本作の真の主役と言っても良い、ゼーバント教授を演じたセバスチャン・コッホは素晴らしかった。虚栄心に満ち、シレッと卑劣なことをしてしまう、サイテーな人間を、実に巧みに演じていた。終盤、クルトの描いたエリザベトの絵を見て打ちのめされたシーンは、本作の白眉だろう。ほとんど、クルトを喰ってしまっていた。

 でも、私が一番素敵だと思ったのは、美大の名物教授ファン・フェルテンを演じていたオリバー・マスッチ。芸術家として何が大事か、ということを、クルトに気付かせる。そのシーンでのマスッチ氏がめちゃくちゃカッコイイ。こんな教授がいる学校、羨ましい。この人にもモデルがあるらしく、戦後ドイツの現代アートの基盤を気付いた人だということだ。

 画家の映画だけど、絵はあまり出て来ない、、、というか、出てくるんだけど、本作内ではあまり重要なファクターとしては扱われていない、、、ように感じた。

 まぁ、良い映画だと思うけれど、『善き⼈のためのソナタ』の方がかなり優れている映画だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

現代アートをどう見れば良いのか、分からない。

 

 

 

 


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