映画 ご(誤)鑑賞日記

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告白小説、その結末(2017年)

2019-03-16 | 【こ】



以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 心の病から自殺した母親との生活を綴った私小説がベストセラーとなった後、スランプに陥っている作家デルフィーヌ(エマニュエル・セニエ)。そんな彼女の前に、熱狂的なファンだと称する聡明で美しい女性エル(エヴァ・グリーン)が現れる。

 差出人不明の脅迫状にも苦しめられているデルフィーヌは、献身的に彼女を支えてくれ、本音で語り合えるエルに信頼を寄せていく。やがて、ふたりは共同生活を始めるが、時折ヒステリックになり不可解な言動を発するエルに、デルフィーヌは困惑する。

 はたしてエルは何者なのか、なぜデルフィーヌに接近してきたのか……。

 ある日、エルの身の上話に衝撃を受けたデルフィーヌは、彼女の壮絶な人生を小説にしようとするが、その先には想像を絶する悪夢が待ち受けていた……。
 
=====ここまで。
 

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 この映画、昨年公開時に劇場に見に行ったんです。が、見終わって自分なりに腑に落ちていたのだけど、後からパンフを読んで???となってしまい、感想を書くのを躊躇する部分もあり、お預けになっておりました。この度、DVDで再見し、まあ納得したので、感想を書くことにしました。


◆本作は恐怖映画か?

 小説家&熱狂的なファン、あるいは、小説家&ゴーストライター、という2人の小説やら映画はよくある設定だと思うが、本作もその1つだと思って見ていると、最後の最後で、はぁ??となる。……というか、そういう風に作っているからなんだけど。

 で、どういうことだろう? と考えるというか、まぁ、そんなに考えなくても、“……多分、そういうことだろう”と腑に落ちる。で、腑に落ちたつもりでパンフを買って帰ってきて、家で読んでみて、“ハレ……??”となった。というのもパンフにこんなことが書いてあったから。

 「アンリ=ジョルジュ・クルーゾーの映画『悪魔のような女』を思わせるサスペンスと恐怖を織り込んで観客を得体の知れない暗闇に誘い込んでゆく。この映画を究極の恐怖映画と呼んでみてもいいくらいだ」(映画評論家/河原晶子氏の寄稿の一部)

 「オープニングのシーンとラストのシーンは、いずれも主人公のサイン会の様子を主観アングルで撮っていて見事に相似形をなし、いわば円環構造になっているのだが(中略)、最後の最後にゾッとすること請け合い」(幻想文学研究家・翻訳家/風間賢二氏の寄稿の一部)

 ……ええ?? 恐怖映画? ゾッとする? そんな映画だったか? と、私は自分がこの目で見て頭で納得したことが信じられなくなってしまった。何か重大なものを見落としていたのか? と。かといって、もう一度劇場に行く気にもならなかったので、DVDが出たら見てみようと思っていた。

 で、今回DVDで再見し、劇場で見たときと、やっぱり同じ印象だった。私にとっては、恐怖映画でもゾッとする映画でもなかった。はて、上記のお二人は、どうして本作をそんな風に評したのかしらん?

~~以下ネタバレです(本作を見るつもりの方はお読みにならない方が良いです)~~

 恐らく、本作は、風間氏が指摘しているように、ポランスキーの『反撥』『テナント/恐怖を借りた男』とテーマが同じだから、それで、“怖い”というキーワードが出て来て、ああいう評になったのかなぁ、と。テーマってのは、「妄想に取り憑かれる人」を描いているということ。でも、本作は、確かにテーマはそうかもしれないけど、前2作とは見せ方がゼンゼン違うし、『テナント~』はそもそも怖いというよりブラックコメデイの要素の方が強いから、ちょっと恐怖映画のカテゴリーに入れるのも違う気がする。まぁ、これは見る人の感覚の違いかもだけど。

 つまり、本作でのエルは、デルフィーヌの裏キャラである、ということ。エルは実在しない女、なんだと思う。これはおそらく多くの人が分かることで、分かる様に仕掛けがされているので、このこと自体は、実はネタバレというほどのことでもないのだけど、知らずに見た方がゼッタイに面白いはず。察しの良い人は途中で気付くだろうけど、まぁ、ラストでジャジャ~ン、という風にしたかったのだろうということは分かる。

 妄想といっても、『テナント~』のような多重人格というほどのものではなく、デルフィーヌが追い詰められた精神状態で、ちょっとイッちゃってたってことかなと思う。だから、やっぱり『反撥』に通じるものはあると思う。ただ、『反撥』ほどサイコタッチな描写ではないし、ヤバさもあそこまでではない。というのも、デルフィーヌは『反撥』のドヌーヴ演ずるキャロルみたいに精神が崩壊しちゃっているという感じではないのよね。というか、そういう演出の仕方をしていない。飽くまでも、サスペンスの範疇であり、『反撥』のオカルトっぽさはない。だから、別に見ていて、得体の知れない怖さは感じなかったんだよね、私は。

 とはいえ、見方によっては、デルフィーヌという小説家は、基本的に私小説を書く人として、そのモデルにした人物に憑依される=多重人格になる、という風にも解釈は可能かも。そうすると、やはり『テナント~』にも通じるものがあるとも言える。

 ただ、本作は何となく不安な空気は本作全体を最初から最後まで支配していて、その理由を知りたくて最後まで見せられてしまう、という感じの映画。だから、まあ、正直言ってあまり深みのある映画ではない。


◆2度目以降の楽しみ方

 深みがないと書いたけど、結末を知った上でもう一度見ると、イロイロ面白い発見が2度目以降はあるのは確か。

 中盤以降、デルフィーヌとエルは化粧や髪型、服装がよく似てくる。そっくりではないのだけど、デルフィーヌが髪を一つにまとめているときは、エルもそうだし、着ている服も、似たような色合い・材質のものになっている。これは、この2人が同一人物の裏表であることのメタファーなんだろうね、多分。

 あと、不可思議なことがイロイロと起きるが、これも、エルがデルフィーヌの裏キャラだと考えて矛盾があまりない。そもそも、エルは、デルフィーヌとしか接していない。デルフィーヌ以外の人は、誰もエルを見ていないし、認識していない。こういうことも、最初は気付きにくいかもだけど、2度目以降はよく分かる。

 エルがデルフィーヌに話した身の上話はどう解釈するのか、、、。これは分からないけど、身の上話自体は大して面白い話じゃなかったし、それをメモしたり録音したりしたものは途中で全部破棄されているから、本筋にはあまり関係のないことなのかも。だから、デルフィーヌがラストに上梓した小説には反映されていないと見た。

 前述の“モデルにした人物に憑依される”ってのも、再見してみて思い至ったこと。本作には冒頭とラストで2度サイン会のシーンが出てくるんだけど、冒頭のデルフィーヌと、ラストのデルフィーヌが別人みたいなルックスになっているのね。特に、ラストシーンのデルフィーヌは、一瞬フラッシュバックで現れるエルと同じ髪型とメイクをしている。冒頭のサイン会の身なりは、表紙になっている亡きお母さんの感じに似ているようにも見えるし。

 ……とかいう具合に、制作者の意図を勝手にあーでもない、こーでもない、と思いながら見るには面白い映画かも。でも何度も言うけど、ポランスキー作品にしては、あんまし味わい深い映画とは言い難い。


◆その他もろもろ

 エマニュエル・セニエは、本当にイイ役者さんだと、改めて思った。『毛皮のヴィーナス』を見たときも思ったけど、演じる役によってゼンゼン見え方が違う役者さんってのは、やっぱり素晴らしいと思う。本作でも、かなりヤバい女性を、ヤバくなさそうに演じていて非常に上手いと思った。

 エヴァ・グリーンは大作りな顔が印象的。エマニュエル・セニエとはゼンゼン違う容貌なのに、だんだん2人の雰囲気が近付いてくる感じとかは非常に面白い。これは2人とも良い役者の証拠だろう。

 デルフィーヌの夫役が、なんとヴァンサン・ペレーズでビックリ。なんかただのオッサンになってしまったのね、、、と、ちょっと哀しくもあり。『インドシナ』では凜々しかったのになぁ。いい歳の取り方って難しいのね。……とはいえ、彼は決して小汚いオッサンになっているわけではなく、十分ステキなおじ様だと思いますが。

 ポランスキーも80代後半。創作意欲が枯れていないことは、映画ファンとしては有り難い限り。守備範囲の広い人だから、きっとまた毛色の違う作品を出してくれるに違いない。……というか、期待している。本格的なホラーとか撮って欲しいなぁ。
 










デルフィーヌの部屋が素敵、、、。




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