映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

ディーパンの闘い(2015年)

2016-02-27 | 【て】



 以下、公式サイトのあらすじのコピペです。====ここから

 主人公は、内戦下のスリランカを逃れ、フランスに入国するため、赤の他人の女と少女とともに“家族”を装う元兵士ディーパン。辛うじて難民審査を通り抜けた3人は、パリ郊外の集合団地の一室に腰を落ち着け、ディーパンは団地の管理人の職を手にする。

 日の差すうちは外で家族を装い、ひとつ屋根の下では他人に戻る日々。彼らがささやかな幸せに手を伸ばした矢先、新たな暴力が襲いかかる。戦いを捨てたディーパンだったが、愛のため、家族のために闘いの階段を昇ってゆく──。

====コピペ終わり。

 ディーパンを演じたアントニーターサン・ジェスターサンは、かつてタミル・イーラム解放の虎(LTTE)に属していたリアル戦士だったお方。

  
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 スリランカがそんなに長いこと内戦状態にあったことさえ知りませんでした。インドの隣の島国で、紅茶が有名で、決して貧しい国ではないということくらいしか漠然と知っていなかったので、内戦が長く続いていたとは思いもよりませんでした。世界には、知らない所でたくさん内戦、内乱、動乱、頻発しているのでしょうね、、、。

 で、本作ですが、、、。うーーん、タイミング的なものもあってのカンヌ・パルムドール受賞でしょうか、、、と、穿ってしまう。何かこう、もやもやが残るんです。もやもやの正体は何だろうと考えたんですが、もしかすると、世間の評に反して“嘘くさい”と思っちゃったのかも、という気がします。

 いや、ストーリー的にはむしろ、リアリティがあると思います。

 3人はパリへ来てから一つ屋根の下の暮らし始めるわけですが、そこはやはり赤の他人同士なのでそれなりに軋轢があります。ここで、ニセ妻(母)であるヤリニが結構、見ている者をイラつかせる自己中女です。最初は、ディーパンだけが働いていたんだけど、生活費が足りなくて、ヤリニに「お前も働け!!」とディーパンは怒るんですが、「家事だって立派な仕事よ!!」と言い返して、平和な日本のリアルな夫婦の会話でもありそうなやりとりが、ちょっと笑えたり。

 あれがありこれがあり、3人は次第に、ぎこちないながらもニセ家族が板についてくるんですけれど(ディーパンとヤリニは途中で寝ちゃいますしね)、そこはやはりニセ家族、いざとなると、ヤリニの自己中が復活し、再び険悪に。ニセ家族でなくたって、リアル家族でも、自己中全開な親や子による摩擦なんてフツーにあるもんな、と納得したり。

 でも、嘘くさいと思ったのは何なのか、、、。監督のインタビュー記事を読んで、ちょっと分かった気がします。

 この映画のテーマは、愛のために闘うこと、愛による人間・家族の再生、ということのようです。これが嘘臭さを感じた最大の理由かも。、、、なんかね、出来すぎな話、というか。かといって、別に、ご都合主義という感じはしないのです。ロジカル過ぎる、理にかない過ぎという感じかなぁ。例えて言うと、自然な感じを作り過ぎて、却って人工的に見えちゃう、みたいな。、、、ゼンゼン分からないですか。すみません。

 偽装家族は、そもそもは生きるためのもの。そこには愛どころか、最初は、情さえも介在していなかった。でも、現実に一緒にいる時間を積み重ねていくうちに、互いに情が生まれていき、それが愛に昇華された、、、ということなんだと思うのですが。そういうことは実際よくあると思うし、吊り橋効果じゃないけど、尋常じゃない状況に置かれれば、精神的な昂揚が恋愛感情に変質することはあると思うので、そこは良いんですけど、、、。

 いくら生きるためのギリギリの策とはいえ、この3人は、過去を捨てることに一切の迷いがない(ように見える)し、あまりにもあっさりとニセ家族を演じられちゃっているんです。そもそも論になっちゃいますが、ここが引っ掛かっちゃったんだと思うのですよね、、、。つまり、出だしで躓いていたわけです。

 それに、3人だけになったら軋轢があるとはいえ、外面的にはノープロブレムで、偽装がバレそうになる危機が訪れることもなく、、、。

 だから、所々では共感できても、違和感は通底してあったような。で、終盤、ディーパンが、本当に闘うシーンは、ストーリー的には確かに彼はああするしかなかっただろうと思いますが、結構、唐突な感じがして、意外な展開というか、見ながら内心「え゛~~~!?」って感じでした。ディーパン役の人は元リアル戦士だったというだけあって、闘いっぷりも堂に入っていて、そこはリアリティありまくりでしたけれども。

 ラストシーンが、夢ではないかという説があるようですが、私は、普通にリアルな描写だと思って見ていました。自分のために命懸けで闘う姿を見たら、ああいうラストもありだろうな、と。

 ただ、ディーパンは本当に、ニセ家族のために闘ったのか、、、という疑念もなくはないです。監督が愛のために闘ったと言っているんだから、疑念もクソもないんですが、私的には、もしかすると、ディーパンは戦士としての使命感に突き動かされていただけなんじゃないか、とも、ちょっと思います。そう思って見ると、ラストが夢だという説も、一理あるかも。、、、いやでも、やっぱりこれは見方としてはかなり屈折し過ぎよね。

 なんか、まとまりのない感想な上に、ケチばかりつけてしまったけれど、見応えはあります。取ってつけたようなフォローが辛いとこですが。





“闘い”とは、目に見えないものとのことかと思っていたら、リアルファイトだった!!




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東海道四谷怪談(1959年)

2016-02-25 | 【と】



 ご存じ、お岩さんが、ろくでなし伊右衛門に毒殺され、成仏できずに幽霊となって伊右衛門を呪い殺すという、あのお話。タイトル通り、歌舞伎を意識した作りの様です(歌舞伎の同演目を鑑賞したことはありません)。

 伊右衛門を演じた天知茂の出世作。

  
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 映画版、四谷怪談と言えばコレ! と言われている本作を見てみました。

 怖がりのくせに怖いの大好きな私、、、。ですが、本作は、ほとんど怖くはなかったです。お岩さんが毒殺されるシーンで、形相が醜く変わり、髪がごっそり抜け落ち、苦しみもがきながら亡くなるところは、怖いというより、とにかくお岩さんが可哀想です、、、。

 話の筋は、誰もが知っている超有名怪談ですから、やはり映画化となれば、見せ方ですよね。本作は59年という制作年で、カラーですが、その色彩がとても美しいです。お岩さんや、お袖、お梅が着ている和服の鮮やかなこと。そして、血の赤い色と、周囲の対比。これだけでも見る価値ありでした。有名な、直助を斬殺するシーンは、確かに幻想的。

 お岩さんが亡くなった後、いわゆる戸板返しを始めとした復讐シーンは、かなり劇画チックで、仕掛けもあちこちに施され、おぉ! という驚きの連続。怖がっている暇はありません。

 やはり、というか、意外にもか分からないですが、全体に様式美を感じます。怪談というより、幽霊譚、と言った方が良いかもです。カリカチュアなんで、全体が幻想的とは言えませんが、ラストシーンでお岩さんが菩薩(観音?)となって昇天する映像も、なかなか神々しくて美しいですし、怪談という言葉からイメージされるおどろおどろしさよりは、幽霊譚という幻想的な感じのする言葉の方がしっくりくるかな、と。

 しかし、本作の特筆事項は、何と言っても天知茂に尽きるでしょう。とにかく、若い! そして、色気がありますね~。こりゃ、女泣かせです。後の、明智小五郎を演じていた頃の彼しか知らなかった私にとっては、かなり衝撃的でした。顔が、明智小五郎よりも大分骨ばっている感じで、細いです。まだトレードマークの“眉間の皺”もないし、メイクのせいもあるでしょうが、陰影が濃い。ちょっと、「独眼竜政宗」の渡辺謙に似ているかも。

 まあとにかく、出世作となったのも納得です。すごい存在感です。主役だから当たり前っちゃ当たり前なんですが、、、。決して、正統派美男子という訳じゃない、ちょっと悪人顔なんですが、本作ではそれが見事にハマったのでしょう。明智小五郎も、本当は、善人なのか悪人なのかちょっと分からない所がありますから、そういう謎めいた役なんかは、ピッタリですよねぇ、、、。三島由紀夫が見初めたのも分かる気がする。

 お岩さんを演じた若杉嘉津子さんの演技がまた、凄い。なよなよと弱々しく、それでいてちょっと、イラッとさせる女を、実に巧みに演じておられまして、これは伊右衛門でなくても、男なら逃げ出したくなるかも、、、と見ている者に思わせる。幽霊になっちゃった後はまあ、、、アレですけれども。

 、、、とかなんとか、結構、この文章、緊張しながら書いております。だって、ヘタなこと書いたら、お岩さんに祟られるんじゃないか、、、とか考えちゃって。基本、迷信とかあんまし気にしない方ですが、このお岩さんネタに関して、いい歳こいたオバハンになっても気になっちゃうんです。何でかしら、、、。




天知茂に尽きる。




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サウルの息子(2015年)

2016-02-23 | 【さ】



 以下、公式サイトのあらすじコピペです。====ここから

 1944年10月、アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所。サウルは、ハンガリー系のユダヤ人で、ゾンダーコマンドとして働いている。ゾンダーコマンドとは、ナチスが選抜した、同胞であるユダヤ人の死体処理に従事する特殊部隊のことである。彼らはそこで生き延びるためには、人間としての感情を押し殺すしか術が無い。

 ある日、サウルは、ガス室で生き残った息子とおぼしき少年を発見する。少年はサウルの目の前ですぐさま殺されてしまうのだが、サウルはなんとかラビ(ユダヤ教の聖職者)を捜し出し、ユダヤ教の教義にのっとって*手厚く埋葬してやろうと、収容所内を奔走する。そんな中、ゾンダーコマンド達の間には収容所脱走計画が秘密裏に進んでいた・・・。 *ユダヤ教では火葬は死者が復活できないとして禁じられている。

====コピペ終わり。

 “息子とおぼしき少年”ってのがキモ。……それにしても、終始揺れる画面に、激疲れ、、、。

  
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 もうすぐアカデミー賞の発表ですねぇ。本作も、外国語映画賞の本命だそうで。アカデミー賞、、、あんまし世間が騒ぐほどの価値を感じませんけれども、一応チェックはしちゃいます、、、。

 で、感想ですが。世間は絶賛の嵐の様ですが、、、正直、私はあんまりグッときませんでした。そもそも、“息子とおぼしき少年”ってのが、どうしても、見終わって何日か経った今になっても、やっぱり腑に落ちないのです。

 ここから、ネタバレバレになりますので、悪しからず(これからご覧になる予定の方は、お読みにならない方が良いです)。

 どうしてサウルは、本当の息子ではない少年を“息子”と思って、あそこまでユダヤ教式の埋葬にこだわったのか。1)あの時点でサウルは既に精神的におかしくなっていたのか、2)息子と仮定して行動することで生きる意味を見出そうとしたのか、3)実は本当に同じくらいの年齢の息子がいて少年がよく似ていたのか、はたまた、4)本当はホントに彼の実の息子だったのか。

 まあ、どれでも当てはまりそうな気がします。どう解釈しても良いと思います。私は、3)と4)はあり得ないと思いました。明確な根拠はないけれど、周囲の者たちに「お前に息子はいないだろう」と言われていることや、彼の少年の埋葬への執着ぶりが実の息子へのそれと考えるには違和感を覚えるものがあったことなどが理由といえば理由ですが、もっと直感的なモノです。

 本当に血を分けた息子であれば、、、何と言うか、埋葬方法よりも、少年の遺体そのものに執着する気がしたというか。サウルは少年の遺体を持ち歩くんだけど、それがどうも、、、息子への愛というよりは、ユダヤ教信徒としての教義への忠誠みたいなものに見えたんです。

 しかし、一方で彼は、ゾンダーコマンドとして、同胞の虐殺作業を担っている。これは教義に対する最大の背信行為ではないのか……? そこに、矛盾というほどの明確なものではないけれども、何かこう、、、とにかく腑に落ちないものがあったのです。

 唯一、納得する解釈は1)の、サウルはもう精神的におかしくなっていた、というものですが、、、。なんか、それも違うような気がしてしまうし。

 パンフの監督のインタビュー記事は一応隅々まで読みましたけれど、ううむ、、、ピッタリの言葉が見当たらないけれど、イマイチ私にはやはり“腑に落ちない”です。

 別に、どの映画も腑に落ちなければいけないわけじゃないし、腑に落ちなくても、何か分からないけどグッとくる、ってのも確かにあります。でも、これは、腑に落ちないし、グッとも来なかった、、、。

 こういう、ストーリー自体はフィクションながら、確かな記録を基に作られた映画はその部分では説得力があります。ゾンダーコマンドなる存在が何をしていたのか、絶滅収容所がどういうものだったのか、収容されていた人々が監視の目を逃れてどんな行動をとっていたのか、、、さんざん今まで映像や書物で見聞きして来たけれども、やはり圧倒的なものがありました。

 映像も、既にさんざん批評されていますが、特殊な撮影方法で、サウルの視点や行動を集中的にフォーカスしているというのは、確かに斬新なんでしょう。手振れの映像は、結構平気な方ですが、本作はかなり疲れました。

 ちょっと謎めいたストーリー、圧倒的な歴史的事実、斬新な撮影・演出、と三拍子揃えば、世間の注目度が上がるのも当然でしょう。作品の価値がどの程度のものか、私ごときが云々言うことじゃありません。きっと素晴らしい作品なのでしょう。というか、制作者のクリエイティブ精神は素晴らしいとは確かに思うのです。でも、心にはそれに比例した響きがなかったのです。どうにも不思議な感覚です。

 本作を見ている間、特に中盤以降、頭の片隅で『炎628』がありました。何か似ているなぁ、、、と。何が、と言われると難しいのですが、絶望の描き方みたいなものが、、、ですかね。フリョーラの顔が脳裏をチラついていました。で、監督のインタビューを読んだら『炎628』が大きなインスピレーションになった、と言っているので、私の感覚はものすごいハズレじゃないのか、、、と思ったら却って混乱した気がします。ま、大したことじゃないんですが。





ラストのサウルの笑顔が印象的。




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眼には眼を(1957年)

2016-02-20 | 【め】



 中東のとある国に赴任している白人医師ヴァルテルは、腕が良く冷静で、公私の別を明確にする人間である。

 ある雨の晩、ヴァルテルは仕事を終え、アパート(?)の自宅でくつろいでいたところ、アパートの入り口に1台の車が乗りつけるのが見える。何だろうと思って見ていると、管理人が車から降りてきた男に応対したかと思うと、ヴァルテルの部屋の電話が鳴る。どうやら、今来た男の妻が車に乗っており、腹痛を訴えているので診てもらいたいと言ってきたらしい。ヴァルテルは、しかし、もうオフであることから管理人に応急処置の方法を教え、車で20分行けば病院があることを伝えろと言って電話を切る。男は納得したのか遠目では分からないが、再び車に乗り込み走り去って行った。

 翌朝、出勤途中のヴァルテルは、昨夜の男の車が無人で路上に停まっているのを見掛け、不審に思う。病院に着いた後、当直医だった若手医師から、男の妻は、最初は盲腸だと思ったが、その後、状態が悪化し緊急手術したところ子宮外妊娠と判明し、手術の甲斐なく死亡したことを聞かされる。しかも、車が途中で故障したため、男は妻を連れて雨の中6キロも歩いたことも知った。

 その出来事以降、ヴァルテルの身に不審なことが続けて起きる。どうも、その男ボルタクに尾行までされていることに気付くヴァルテル。遂に、ヴァルテルはボルタクに事情を説明しようと接触を図るのだが、そこから、思いもよらない地獄絵巻にヴァルテルは引きずり込まれていくのであった、、、。

 なんという逆恨み、、、。じわじわと苦しめ、嬲り殺すという、まるでアリ地獄のような恐ろしさ。復讐譚はやっぱり不条理だ。  

  
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 これも「観ずに死ねるか!傑作絶望シネマ88」で紹介されていたので、復讐譚は苦手なのに見てしまいました。

 ヴァルテルのとった行動は、何ら倫理的にも問題ないし、もちろん法にだって触れない、あくまで正当なモノ。ボルタクの車が故障したことなんて、ヴァルテルには何の関係もありません。

 なのに、ボルタクはヴァルテルを恨む。もし、ヴァルテルが遊びに行っていて不在だったら? ボルタクはヴァルテルを恨まなかったんじゃない?

 そう、そこにいたのに、診もしなかったじゃねーか、お前。、、、ってことです。そして、ヴァルテル自身も、そこに負い目を感じてしまっている。これは人間ならそう思うのも当然でしょう。でも、結果がどう変わっていたかなんて、誰にも分からない。ある意味、ボルタクの妻は、そういう運命だったのです。

 大切な人をそういう形で亡くしたら、、、。自分ならどうするだろうかと、想像してみました。確かにヴァルテルを恨むかなぁ。殺してやりたいと思うかも。しかし、車が故障したのはヴァルテルのせいではないし、病院に着いた後、誤診したのは当直医であってヴァルテルではない。私なら、むしろ、恨むのは病院と当直医なんじゃないかなぁ。

 つまり、ボルタクは、腕のいいヴァルテルなら誤診はあり得ない、だから最初からヴァルテルが診ていれば妻は助かった、、、という思考回路だったのか?

 ボルタクの執念深さは、ちょっともう、私の理解を遥かに超えていて、訳が分かりません。大体、ボルタクは夜道で車が脱輪したところをヴァルテルに助けてもらい、しかもそこから自宅まで120キロもあるのに、ヴァルテルは夜中にもかかわらずボルタクと娘を送ってくれたのですよ? 普通、いや、私ならそれでもう、ヴァルテルに対する逆恨みは消えるような気がします。娘もいるのだし、娘の将来のために生きようと思うなぁ、多分。

 でも、ボルタクは違う。同居している親や妹がいるから娘の将来は彼らに託せばいいと考えたのか、自らの命と引き換えに、ヴァルテルを砂漠におびき出し、見渡す限りの砂漠地帯を、水も食料も潰えた後もひたすら歩き回らせるという、、、想像を絶する方法で復讐するのです。自らの死と引き換えの復讐なんて、もう、復讐される方に勝ち目はありません。

 ヴァルテルの行動もイマイチ理解できないんだよなあ。ボルタクの家人に砂漠地帯に病人がいると言われると、遥かな道のりを車で行くのです。これがボルタクの罠だと、普通なら直感しそうな気がするんですが。仮に鈍感でも、そんな遠くまで行かないでしょ、普通。それこそ「悪いが仕事があるので」と言って帰っても良いのに。そこが、ヴァルテルの負い目につけ込んだボルタクの巧みなところでもあるんだろうけど、、、。遠路はるばる行ったのに、当の病人は村人たちがヴァルテルに触らせないし、仕方なく車に戻ると、車のタイヤが外されているという、、、。やり方がえげつなさ過ぎ。

 ヴァルテルも人が良いというか、歩いて帰ると決めた後、「こっちの方が近い、信じるか信じないかはあなたの自由だけど」というボルタクの巧みな誘導に乗っちゃうのだよね。車で来た道を戻れば確実なのに。そんな恐ろしい男の言うことを信じるってことは、そいつに自分の運命を託してしまうこと。冷静に考えれば分かるのに、平常心のヴァルテルなら分かっただろうに、状況的に、ボルタクのおびき出しに乗ってしまったのです。嗚呼。

 「あの山を越えればダマスの町だ」とボルタクに言われ、その山を越えるがそこには砂漠が広がるだけ。怒るヴァルテルに、ボルタクはこう言い放ちます。「一つ山を間違えた。先生だって間違えることあるでしょ?」と。こえぇーー。これぞまさに「眼には眼を」。

 ラスト、ヴァルテルに傷付けられ力尽きたボルタクが、「もう動けない。行って助けを呼んできてくれ、ここをまっすく行けばダマスの町だ」とヴァルテルを先に行かせる。再びとぼとぼ歩きだすヴァルテルの後姿を見て、ボルタクは、何と笑うのです。声を上げて。そして、画面は空撮に切り替わり、ラストシーン、ヴァルテルの行く先に広がるのは、、、乾燥した砂漠の山々。まさに絶望の映像です。

 まあ、この後、ヴァルテルもボルタクも干からびて死ぬのでしょう。

 ボルタクとヴァルテルが、砂漠の谷を渡るケーブルカー(といっても、細いケーブルに、板だけの乗り場がぶら下がっている粗末なモノ)に乗るシーンがあります。もうこれが、怖い!! しかも途中で止まりかけるんです。で、再び動き出した反動で、ヴァルテルの水と食料の入った袋が深い深い谷底へ落ちていくという、、、。もう、今、こうして書いていても掌に汗が出てくるほど怖いシーンでした。

 何となく本作のタッチはクルーゾー作品のそれと似ている気がしました。見ている者をギリギリと追い詰める感じ。終始緊張を強いられるところとか。アンドレ・カイヤットという名前は初めて知りましたが、他の作品も見てみようかな。

 それにしても、、、やっぱし、復讐譚は嫌いかも。松本清張が本作をお好きだったそうで。阿刀田高は、本作を見て書いたのが「霧の旗」じゃないか、と推理しておられます。ううむ、、、。






ラストの絶望の映像、画面の左下にヘリの影が。




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ヴィオレット―ある作家の肖像―(2013年)

2016-02-19 | 【う】



 ゲイで作家崩れ(?)の男モーリスと夫婦を装って田舎の村で暮らすヴィオレット。2人はパリから戦争を逃れて来たのだった。が、偽夫婦とはいえ、ヴィオレットはモーリスに愛を求めて「抱いて!」と身を投げ出すものの、激しくモーリスに拒絶され、「そんなに苦しいなら小説でも書け!」と吐き捨てるように言われるという惨めな日々を送っていた。

 そして、モーリスは失踪。ヴィオレットは生活の糧にと闇の食品売買をしながら、心の隙間を埋めるべく、モーリスに言われたように小説を書き始める。そうして書き上げた作品を、なんと無謀にも、時代の寵児ともてはやされていたボーヴォワールに「読んでくれ」と押し付ける。

 しかし意外にも、その作品をボーヴォワールは高く評価し、ヴィオレットは晴れて小説家デビューを果たすのだが、処女作はまったく売れず、世間からは完全に無視された。絶望するヴィオレットに、ボーヴォワールはさらなる執筆を勧める。愛情に飢えるヴィオレットは、自らの骨身を抉るかのように書き続け、「私生児」でようやく日の目を見ることになる。

 それは、ヴィオレット自身について赤裸々に綴った小説であった。ボーヴォワールは、このときまで、ウンザリしつつもヴィオレットを生活面でも精神面でも支え続けたのだった。そして、「私生児」では序文も書いたのであった。
  

  
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 見に行こうと思いつつ雑事に追われ、ようやく終映ギリギリに滑り込みセーフで先週、見てまいりました。いつものことだけど、岩波ホールはガラガラでした。

 さて、正直な第一の感想は、「こんなオバさん、そばにいたらヤだ!」でございました。もうね、、、マジで、このヴィオレット、ヤバいです。今時の褒め言葉ではなく、本来の意味でヤバいです。

 処女小説「窒息」(・・・というタイトルだけでもコワい)が売り出された後、彼女は本屋に行きます。しかし、自分の本は置いていない。で、彼女は店員に「ヴィオレット・ルデュックって人の書いた『窒息』は置いてないの?」とキレ気味に聞きます。店員は著者名はおろか、本のタイトルさえ知らんという様子。するとヴィオレットはブチ切れ「この店は売れっ子の本しか置かないのね!!」と言って商品の本を手当たり次第店員に投げ付け、さらに「彼女(ヴィオレットのこと)は才能ある作家で、私は彼女の信奉者なのよ!!」と叫ぶのでありました、、、ごーーん。

 正直、このシーンで私は思わず声出して笑っちゃいまして、近くの人にチラッと「?」な感じで見られてしまいました。でもこれ、笑うところだと思うんですよ。

 だって、もちろん行動はエキセントリックで自意識過剰なんだけれども、ある意味、人間臭いというか、ものすごい正直な人間の行動じゃないですか。普通はこういう行動に出たくても出られないんですよ。誰だって、自分のデビュー作の扱いがどうなっているかは異常に気になるに決まっているし、それを、バレバレなんだけれども他人を装って書店に偵察に行っちゃう。行っちゃうだけじゃなくて、店員に八つ当たりして、著者の宣伝=過剰自己アピールまでしちゃうんだから、“痛い女性”と思うのを通り超えて、共感を覚えてしまったのです。ヴィオレットよ、あなたはエラい!! と。

 まあでも、最初に書いた通り、現実に身近にいたらイヤですよ、もちろん。だから、ボーヴォワールは凄いなぁ、、、と心の底から感心しました。彼女もヴィオレットのヤバさは十分分かっているし嫌悪しているのですが、半面、その文学の才能は冷静に評価していて、なおかつその才能の芽を摘んではならぬと、ヴィオレットの生活面も遠回しに支えるのです。

 本作は、ヴィオレットと母親、ヴィオレットとボーヴォワール、という2本の関係を軸に描かれているのですが、とにかくこのヴィオレット、母親を始め、ことごとく片想いなんですよねぇ、、、。これがちょっと切ないというか、あの性格じゃ仕方ないというか。あそこまでいつも一方通行の想いだと、愛を死ぬほど渇望してもムリないと思います。ようやく振り向いてくれたと思った男は妻子持ちだし、、、。

 母親に愛されなかったことに大きな意味があると本作は描いているように思いますが、愛されなかったこともそうだけど、ヴィオレット自身は自分の出自が私生児であることに強い負の拘りがあるように感じました。それと、容貌のコンプレックス。彼女にとっての2つの負の拘りは、彼女自身を追い詰める。何事もうまくいかないのをそのせいにする。そして、それは母親が悪いと。実際、私生児であることを母親に激しくなじるシーンがあります。

 ま~ねぇ、、、子は親を選べないから、言いたくなる気持ちは分かるんだけど。でも、それは言ってもしょーがないんだよねぇ。もう変えられない事実なわけで。

 思うに、ヴィオレットは、今でいうところのパーソナリティ障害の一種ではないかと感じました。実際、精神病院に入院するシーンもありますし。史実では本人も納得して入院した様ですけど。ホントに、壊れるか壊れないかの境界線上を常に歩いて生きている女性なので、周囲の人間は大変です。

 ヴィオレットを演じたエマニュエル・ドゥヴォスという女優さんは、付け鼻して特殊メイクで演じているそうですが、素顔も大して違わないような。ヴィオレットは常に口がへの字で、不平不満だらけなのを体現しています。容貌コンプレックスのせいか、服装はちょっとメルヘンチックで可愛さ追求系。そのアンバランスさがまた、この女性のヤバさを際立たせている気がします。

 ま、何であれ、彼女が自分の著作物で報われて良かったです。もし報われなかったら、本当に精神的に病んでしまったと思うので。身勝手なヤツだったけど、偽夫婦を演じていたゲイのモーリスは的確な助言をした、ってことですね。
 
 2時間超えの長めの作品ですが、割と長さを感じることなく見られます。




側にいたらものすごく困るオバサンのお話。




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恥(1966年)

2016-02-16 | 【は】



 以下、アマゾンの紹介文よりコピペです。====ここから

 <ストーリー>
 元バイオリにストのヤーンとエーヴァは戦争を避けて街の中心地から離れた小島で静かに暮らしていた。しかし、内戦が激化し、敵軍が島へ浸入してきたことで戦禍を被る。気が付けば両陣営が2人の家に乱入し平和な生活はすっかり破壊されてしまう。凄惨な争いを目の当たりにしたことでヤーンとエーヴァも変わってしまっていた……。

<ポイント>
 ●マックス・フォン・シドー×国際派スウェーデン女優リヴ・ウルマン主演
 ●信仰がなく政治的な立場を持たない普通の人々が、戦争に翻弄される様子を描く。恐ろしく残虐な人間の本性が戦争によって浮き彫りになっていく。戦争の不条理さを訴えるのが難しかったベトナム戦争の時代に、ベルイマンが描いた問題作。

====コピペ終わり。

 ということだそうです。ベルイマン作品は初見なのですが、救いのない内容にあらすじなぞ書き様もなく、アマゾンさんに頼ってしまいました。しかし、鑑賞後感は、、、違う意味でちょっと救われた感じにもなりました。
  

  
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 『地獄に堕ちた勇者ども』で、ヴィスコンティ映画は不親切だということを書きましたが、ベルイマン氏もそのようですね、、、。ってまだ1本しか見ていないけど、多分、本作がこういう作りでありながら、他の作品が親切な作りだとは到底想像できません。とはいえ、ヴィスコンティみたいな“アホは見んでよろしい”みたいな雰囲気はありませんが。

 大体、本作における重大な背景となる戦争ですが、何の戦争だか分かりません。というか、設定となる場所も不明だし、、、。解放軍、という言葉が出てくるくらいで、戦争の背景についての説明はまったくありません。

 、、、が。確かに、そんなことは本作においては割とどーでも良いのか、と見ているうちに思って来ます。つまり、戦争そのものというより、戦争によって人間がどうなるかを描いているわけだから、あえて○○戦争という背景が分かるものにフォーカスしなかったのだろう、と、まあ、アホなりに想像はできます。

 この夫婦は、元はオーケストラのバイオリン弾きということなので、芸術家夫婦なわけですね。ある意味、感性はお互い共鳴する部分があるのでしょう。しかし、本作での2人は、どうもこう、、、微妙に噛み合っていないというか、ズレているのです。夫婦なんてズレているもんだ、と、平和な時にのたまっているのと違って、何と言うか、、、とにかく、不穏なんです、この夫婦。

 その不穏さを感じる要因は、どっちかというと夫にあります。非常に怪しいんです、この男。怪しいというより、いかがわしい。見た目がじゃなくて、言動が。

 序盤でのシーン。夫婦は不妊のようで、妻が「子どもが欲しい」と言うと、夫は「戦争が終わってからにしよう」と返す。どうやらこの夫婦は一時期夫の仕事の都合か何かで別々に暮らしていたらしいのだけれど、その間の夫には不貞疑惑があるらしい。その時の不特定多数の女性との関係が不妊の原因ではないかと妻は疑っている。しかし、そのことを妻に言われると「また蒸し返すのか」と不機嫌になり、「愛していたのは君だけだ」とか言う。そして「愛なんて知らないくせに」「自分を愛しているだけのくせに」と妻に返される。和やかな雰囲気にそぐわぬトゲのある会話、、、。

 しかもこの夫はヘタレで、ちょっと状況的に追い詰められるとキレて投げ出そうとしたり、かと思うと「愛してる」とか言って妻にすがりついたり。なんだかなぁ、、、ヤだ、こんな男、と思っちゃう。

 でも、妻もちょっと不可解。まあ、夫を愛しているというよりは情があるということなんだろうけど、夫を突き放したり、罵ったりする一方で、スキンシップを求めたり。かと思うと、別の男(市長)と不貞行為(?)に及んだり。、、、ううむ。

 まあ、夫婦だから当然イロイロあって、揉めたり仲良くなったり罵り合ったり慰め合ったり、というのは分かるのですが、どうもこう、、、夫婦の痴話喧嘩を超えた、ただならぬ空気が常にこの2人には纏わりついているのです。

 この夫に対するイメージ、、、人間的に、セコい、コスい、超利己的、、、。その印象は、話が進むにしたがって確信へと変わってきます。

 終盤、夫の決定的な厭らしさを見せつけられるシーンが立て続けにあり、ようやく妻は夫と別々の道を行く決心をしたかに見えるんだけど、結局夫とともに小舟に乗り海へと出る。

 船で眠ってしまった夫婦だけれど、気が付くと、船の回りを兵士の死体が埋め尽くしていてギョッとなる。そして、妻はうわ言のような詩のようなセリフ――戦火に包まれるバラを見ながら赤ん坊を抱いていた――を夫につぶやき、ジ・エンド。、、、嗚呼。

 夫を嫌悪し、夫に絶望しているのに、その夫と小舟に共に乗り、海原を漂う。私だったら、ゼッタイこんな夫と運命共同体になりたくないので、一緒に小舟などに乗らないけれど、この妻は乗るんだよね。でも、それが夫を愛しているから、とは到底思えない。

 なんというか、こう、、、より深い絶望から逃れるために浅めの絶望を選ぶ、みたいな感じ。戦争は終わる気配はなく、このままではどんどん夫婦は溝が深くなるだけ。だったら、他に頼る術のない小舟に一緒に乗ることでせめて傷を舐め合いましょう、、、という風に感じたラストでした。ノアの方舟、てなところでしょうか。見渡すばかりの海原に漂う小舟は、まさに救いの感じられない画です。

 それはともかく、このタイトル『恥』です。何を意味するのか。

 もう「生きること」そのものが“恥”だと言われているような気がしました。生きることとは恥をかくことだ、とね。恥をかかずに生きていけるものか、ということではないでしょうか。

 最近、年齢的なもののせいか、太宰治じゃないけど、私の人生、恥だらけ、、、と思うことがしょっちゅうあります。よせばいいのに、恥の一つ一つをほじくり返すように思い出しては叫び出しそうになることもしばしば、、、。と言って、後悔しているわけでもなく、ただただ、自分のアホっぷりに恥じ入る訳です。今も十分アホだけれども、あん時の自分はその何乗もアホだったよなぁ、、、。だから、本作を見て、ほんのちょっとだけ、私自身は救われた気がしたのです。戦時下の人間のそれと、泰平の世に生きる私のそれと同じ土俵に乗せて考えるのは不謹慎かもしれないけれども、所詮、人間なんて恥かいて生きていくものなんだ、恥ずかしいことばっかして過ぎていくのが人生なんだ、と言われたような気がして、自分だけじゃないんだぁ、、、と。

 こんなことを書いて、後に読み返して、また恥だと思うんだろうな、、、と予感しながらも、その昔、「モノを書くことは恥をかくことだ」とある先生に言われたこともあるし、、、ま、いいか。
 
 




リヴ・ウルマンが美しいです。




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狼の挽歌(1970年)

2016-02-09 | 【お】



 一匹狼の殺し屋ジェフ(チャールズ・ブロンソン)が、ヴァネッサ(ジル・アイアランド)といういわくつきの悪女に騙され続け、挙句、取り巻きの男たちもろとも彼女も葬ってしまうことに、、、。

 決してイケメンじゃないのに、渋いゼ、ブロンソン   

  
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 チャールズ・ブロンソンといえば、私なんかの世代はしょっちゅうテレビで放映していた『狼よさらば』と、マンダムのCMでおなじみのオジちゃんです。子ども心に、決してオトコマエじゃぁないけれども、なんかカッコエエなー、このおっちゃん、と思って見ていたのはよく覚えています。ゼンゼン笑わないし。かといって、無表情、というわけでもなく、、、。

 大分前にBSで録画してあったのを、ようやく見ました。

 冒頭、美女とパンツ一丁のブロンソン。やっぱし、ムサイおっちゃんだよなぁ、顔だけ見てると。でも、どこかキマッてる。美女のビキニの紐解いたりしちゃって。その手つきもどこか不器用な感じだけど、悪くない。

 セリフはないまま、その美女と車に乗ると、お決まりの、なぜか誰かにつけられる、、、という展開。ここからが見もののカーチェイス。

 私は、カーチェイスといえばイーストウッドだと思っているのですが、ブロンソンのそれもなかなかカッチョ良かったです。圧巻は、車幅ギリギリの階段を無理矢理上がって行くところ。ガックンガックンなりながら、上がり切る。しかし、そんな苦労したのに、敵は結構すぐに追いついてきちゃう。うーーん、ナンダカ。

 で、やっぱり一緒に乗せていた美女は、裏切り者でござんした。いわゆる悪女ってやつですね。男たちを手玉にとって、自分は上前を見事にはねていく、ってやつです、峰不二子みたいに。、、、でもまあ、ジル・アイアランドはおキレイなんですが、あまり悪女の迫力はないですねぇ。可愛すぎです。
 
 マフィア(?)の親玉は、テリー・サヴァラスで、迫力あります。この人はやっぱし悪役が似合うなぁ。彼が演じるウェーバーに雇われていた弁護士スティーブが結局はラスボスなんですが、迫力ではテリー・サヴァラスの方が圧倒的です。でも、テリー・サヴァラスでは弁護士役はちょっと、、、ってことでしょうか。

 この弁護士スティーブ、どっかで見た顔だなぁ、、、と思いながら見ていたんですが、こないだレビューを書いた『地獄に堕ちた勇者ども』でシャーロット・ランプリング演じるエリザベートの夫ヘルベルト役を演じていた人だった! ウンベルト・オルシーニ。道理で、見た顔のはずだわ。ヘルベルトは頭の良いリベラル派の正義漢でしたが、本作では、知性派でマフィアも出し抜く悪徳弁護士、と対極にある役どころ。まあ、、、ブロンソンとサヴァラスに挟まれてちょっと影薄かったかも。この人、『ルートヴィヒ』にも出ていたんでした。知らんかった。

 ブロンソン演じるジェフは、殺し屋としての腕前は一流なんだろうけど、なんつーか、ちょっと殺し屋にしては人間臭すぎるよな~。ヴァネッサがどうしようもない女だと分かっていながら、好きなもんだから何度でも騙される。自分を殺そうとした人間を消しに行っても、そこで、ウェーバーの手下に証拠を握られ利用される。、、、超一流の殺し屋ってのは、やっぱし冷酷非道なわけで、まあ、だからジェフは、ラストでああいうことになっちゃうんですけれども、、、。

 ウェーバーが新しいビルを手に入れて、それをジェフに案内するシーンがあるんですが、そのビルが特徴的で、エレベーターが外付けというのか、ガラス張りで、大通りから丸見えなんですよ、上がったり下りたりするのが。、、、で、それを見て、このエレベーターがもしや狙撃現場になるのか? と思っていたら、ホントに終盤そうなっちゃうんだからビックリ。

 スティーブに寝返ったヴァネッサが、2人でそのエレベーターに乗ります。最上階の会議室に向かうところ。エレベーターに乗った時は意気揚々、最上階でエレベーターの扉が開いたときには死体になっている2人、、、。そう、ジェフが向かいのビルからこのエレベーターに狙いをつけて2人を射殺したんです。スティーブが最初に殺られ、残ったヴァネッサは、ガラスの壁に両手を広げてジェフの方に向かって呟きます、「一発で殺して、、、」と。もちろん、ジェフには聞こえませんが、なかなかの見せ場ではないでしょうか。

 まあ、ストーリー的にはかなりお粗末な感じはありますが、個性豊かな俳優陣のおかげで、それなりに楽しめます。





ジル・アイアランドはブロンソンの2番目の妻だそうです。




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クライム・オブ・パッション(1984年)

2016-02-08 | 【く】



 ジョアナ(キャスリーン・ターナー)は、昼間は有能なデザイナー、夜はチャイナブルーと名乗る娼婦。ある日、ジョアナは企業スパイではないかと上司に勝手に疑われ、その上司がジョアナの身辺を探るべく、ボビーという男性を探偵として雇う。

 そのボビーは、セックス嫌いの妻との夫婦関係に行き詰まりを感じていた。そして、ジョアナの夜の顔を知り興味を抱いて、チャイナブルーに迫る。そして2人は、、、。

 ケン・ラッセル監督作品。相当ヘンな映画だけれど、何と、90年にTV地上波のしかもゴールデンタイム「日曜洋画劇場」で放映されていた! よく放映したよなぁ。90年はまだギリギリ、TVも元気だったんだね。
  

  
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 ケン・ラッセル監督作&キャスリーン・ターナー主演ということで心積もりをして見たのですが、割とフツーでした。

 チャイナブルーは、コスプレ娼婦で、客の求めに応じて演じ分ける凄腕です。コトが終わった後もあっけらかんとしています。ほとんど予備知識なく見たので、一体どういう方向へ話が進むのか、、、と思っていたら。

 結局、ジョアナは、昼と夜と2つの顔を持つ女として、やはり心に深い闇というか、大きな空洞を抱えていて、ボビーと出会ったことで、ようやく愛を知る、みたいな展開なんで、ストーリーだけ見れば、実にありがちな娼婦物語でした。

 ただ、まあ、そこはケン・ラッセル、フツーの話をフツーには描かない。

 チャイナブルーを付け回す(ニセ?)牧師のピーター(アンソニー・パーキンス)がいるんですが、チャイナブルーに娼婦を辞めさせようとする=救おうとする、わけです。でもね、実は、コイツが牧師面して“ド”のつく変態でして。どのくらい変態かというと、いわゆるダッチワイフを切り刻んで(しかも血みたいな赤い液体がドバーッと出てくるという、、、悪趣味極まりないんだ、これが)一人SMに興じている、というくらいの変態です。おまけに、小道具持ち歩いていて、そのうちの1つが、先の尖ったバイブレータ、、、。モノも斬れるような鋭さ。見ているだけで痛い、

 正直、このピーターの存在意義がイマイチよく分からないんですが。ただの変態映画のためのキャラなのか。それとも、幻想を求める世の殿方のカリカチュアなのか。はたまた、聖職者の揶揄なのか。まあ、ケン・ラッセルなので、3番目かな、、、という気もしますけれども、分かりません。ラストのためだけにいるような、、、。

 ボビーとセックス嫌いの妻の、冷え切った夫婦関係を描いている部分なんかは、もの凄くフツーの映画っぽいです。ボビーがパーティーで非常に下品な出し物を演じて場を白けさせるシーンがあるけれど、まあ、でもそれもご愛嬌でしょう。

 夫婦でセックスに対して温度差があるのは、なかなかツラいだろうなぁ。ボビーの気持ちも分かるし、妻の気持ちも分かる。拒絶されれば哀しいし、でももうメンドクサイし、、、って感じかな。結構、マジメに描かれています、この辺は。

 さらに、ジョアナの苦しみも真っ当に描いています。チャイナブルーはチャイナブルーの苦しみがあったんだけれども、ボビーとイイ感じになったら今度は、それがジョアナにとっての苦しみになってしまう。、、、そう、人を好きになるってことは、苦しみなのですよ。ウキウキルンルンなんて、恋している時だけ。そういうところも、マジメに描かれています。

 というわけで、ケン・ラッセルだからって構えて見始めた割には、何だかフツーな作品で拍子抜けでした。強いて言えば、終盤ですね、印象的なシーンは。アンソニー・パーキンスが、遂にブチ切れて、あの尖ったバイブでチャイナブルーに襲い掛かります。そして、最後は、なぜかピーターがチャイナブルーの格好をして、尖ったバイブをジョアナに突き立てられて死ぬという、、、。ジョアナ自ら、チャイナブルーを葬った、ということでしょうか。

 まぁ、楽しめますけれども、あんまし人にはオススメできないです、、、トホホ。

 
 





キャスリーン・ターナーの魅力(?)全開です。




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『絞殺』についての考察

2016-02-02 | 番外編
 昨日レビューをアップした後、なぜかふと思いました。

 新藤監督が、あそこまで勉についての描写を表面的にした理由ですが、、、。もしかすると、あれは、両親の見ていた勉だったのかな、と。両親といっても、父親目線の方が強いかな、、、。

 つまり、それくらい、あの親たちは我が息子のことをちゃんと両目を見開いて見ていなかった、ということなのではないか。

 食事のシーンで勉がずっと後姿だったのも、親たちは勉の顔を見ているようで見ていなかった、、、とか。

 ブレッソンの『やさしい女』を思い出したんです。あれも、夫が自殺してしまった妻のことをゼンゼンちゃんと見ていなかった作品だったんですが、それを、飽くまで夫目線でのみ描くことで、見事に表現していたんですよねぇ。生前の妻の行動は謎だらけだし、脈絡がないように一見感じるのだけれども、実は、その行間を想像すると、妻は妻なりに足掻いていたことがぼんやりと分かる気がして来るし、それよりも強く見ている者に伝わってくるのは、いかに夫が妻のことを自分の都合の良いようにしか見ていなかったか、ということ。そう、夫目線で描くことで、夫が妻をどう見ていたかが浮き彫りになっていたのでした。

 、、、ということが、なぜだか、昨夜、拙記事をアップした後に、ふっと頭に浮かんだのでした。であれば、本作もそうなのかも、、、と。

 そう考えると、割と腑に落ちる気がしたのです。手練れの新藤監督です。私が疑問に思うまでもなく、勉の描写については十分考察されたはず。その結果があれだとすると、なるほど、あれは親の見ていた勉だったのだ、と。

 ただ、そうすると、矛盾も出ては来るんですけれど。勉と初子の描写とかね、、、。もしかすると、バッサリなくても良い設定だったかもしれません。むしろ、その方が、もっとダイレクトに、親目線であることが見ている者に伝わって来たのではないか、、、。

 勉の親父が、何度か口にするセリフがあります。「何だ、親に向かって!!」、、、これ、私も何度も母親に言われましたが、こういうことを繰り返し言う親は、どうして我が子にそんなことを言われたりされたりするのか、我が身を省みる、という視点がすっぽり欠落しているのですよね。だから、「親に向かって」なんていう、身も蓋もない言葉が出て来てしまう。しかもなんのためらいもなく。

 結局、こういう親は、自分の“願望”もしくは“思い込み”というフィルターを掛けて我が子を始め、周囲を見ているので、現実がきちんと見えていないことが多いのだと思います。そのフィルターを外す、ということに思いが至らない。もっと言えば、自分がそういうおかしなフィルターを通して物を見ていることにさえ気付いていない。

 とはいえ、実際の“開成高校生絞殺事件”の一家がそうだったのかは分かりません。根深い何かがあったのは間違いないでしょうが、親がきちんと子どもと向き合っていなかったとは言い切れません。大抵の親は、子どもに良かれと思って頓珍漢なことをしてしまうこともある訳で、子どもの性格も大きく作用するし、親がああだから子がああなっても仕方ない、的に、本作を見て納得してしまうのは危険だな、とも思います。

 いずれにせよ、何となく本作に対する感想が、ちょっとだけ変わったので、書き記しておこうと思いました。





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絞殺(1979年)

2016-02-01 | 【こ】



 超有名進学校に通う秀才の息子・勉。大人しかった勉が、ある日を境に突然、親に反旗を翻し牙を剥く。驚いてなす術ナシの両親。挙句の果てには母親を犯そうとまでするわ、家中メチャメチャに壊しまくるわで、ただただ両親は怯えるばかり。

 酒を浴びるように飲んで寝てしまった勉を、父親は「やっちまおう」と妻に向かって言うと、勉の部屋へ上がって行く。自分の浴衣の紐を解くと、片方の端を手首に縛ってしっかり固定し、余った長い部分を勉の首の回りに二重に巻きつける。そして、、、、。

 1977年、東京北区で起きた“開成高校生絞殺事件”を下敷きに、新藤兼人がオリジナル脚本を書き監督した作品。後味は悪い、、、というか消化不良。
  

  
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 ちょっと前に『観ずに死ねるか!傑作絶望シネマ88~総勢70人が語る極私的トラウマ映画論~』(鉄人社刊)という本を読みました。表紙があの『炎628』のフリョーラのドアップだったのもあって、興味を持ちまして、、、飛ばし読みでしたけど。おまけに図書館で借りたんですけど、、、。

 その中で紹介されていたウチの1本が本作でした。で、見てみようかと思いまして。

 正直言いますと、ヒジョーにつまんなかったです。ショッキングな実話をベースにした衝撃的な内容ですから、退屈することなく最後まで見られますけれども、これはダメでしょう。ものすご~く既視感のある、類型的なオハナシです。音羽さんのヌードや、近親相姦、義父殺し、童貞喪失等という、言葉にするとそれなりに好奇心を掴むものがちりばめられているけれど、話題性先行で中身が伴っていない、ってヤツです。

 つまり、新藤さんの筋立てはこうです。権威を振りかざす中身の伴わない父親と、その父親の言いなりになっている優しい母親の下で、秀才の息子は、父親の言動に矛盾を感じてそれが許せない思いを募らせていたのが、ある日突然決壊、暴発した挙句、父親が思い余って息子に手を下してしまった、、、。でもって、新藤さんの脚本は、勉が突然暴れ出した理由を、この時期の青年にありがちいな“性の問題”を引き金として描いているのです。

 何が不満って、勉がどういう青年なのかが全然描かれていないこと。最後まで分からずじまい。優秀だ優秀だ、って親のセリフと、進学校に合格&通学しているシーンくらいでしか描いていないので、どんくらい優秀なのか不明だし、どういうことに興味があってどういう性格でどういう毎日を過ごしているのか、という大切な描写は一切ありません。

 それに本作では、勉が大暴れしたのはたったの2回です。2回目の後、父親は「やっちまおう」と。そんな簡単に我が子を殺す決断、そうそうできませんよ。ま、この親父さん、情状酌量で釈放された後、罪悪感にかられて苦悩の様子も見せず、実にサバサバしてたので、そういう人なのかも知れませんけど。

 勉の父親は、学歴は不明ながら(一応セリフで「大学の門をくぐった」とあるので大卒かと思われるが、仕事はスナック経営)、絵に描いたような昭和な父親像を地で行く“えばりんぼ親父”です。食事しながら勉に、やれ「東大行け」だの「エリートコースから外れるな」だの「お前の爺さんは立派な人だった、一流ではないが二流の上といったところだな」だの、もうメシがまずくなるような話を延々。そのシーンを、勉の背後から映しているんだけど、勉がみじろぎもしないの、ご飯食べてるはずなのに。丸いちゃぶ台を両親と勉が囲んでいるんだけど、喋っているのはほぼ親父、時々合いの手を入れるのが母親。勉は一言も発さない。すんごい不自然。
 
 勉は母親とは比較的良好な関係の様なんだけど、ある晩、母親が父親とセックスしているときの声を襖越しに聞いてしまうんですよね。まあよくあることですが。で、さらに、勉には同じクラスに好きな女子生徒がいるんだけれど、この女子生徒が、実は義父(実母の再婚相手。実母は病死していない)に性的暴行を受けていることを現場を目撃しちゃって知るわけです。で、このとんでもない女子生徒の義父と、自分の親父を同類項と見なし、「お前ら下等だ」となるわけです。

 、、、ちょっとそれって飛躍が大きすぎやしませんか、新藤さん。いくら多感な高校生とはいえ、夫婦の営みと、義理の父娘の相姦じゃ、訳が違うことくらい分かるでしょ。いくら親父が中身のないえばりんぼ親父だとしても、何か、18歳くらいの少年の葛藤としては、あまりに浅い描き方だと思います。

 勉を演じているのは新人の俳優さんらしいですが、セリフがあんまりないし、彼の演技(といっていいのか、、、)の拙さも大いに影響していますが。すごい濃い顔というか、妻夫木くんをさらに濃くした感じですかねぇ。喋り方もぎこちなく、どうして彼を起用したのだろうか、と疑問。

 先日、「「子供を殺してください」という親たち」(押川剛著/新潮文庫)という本を読んだんですが、それはもう、壮絶というか、想像を絶する世界がそこにはありました。だから、本作で描かれているのは、ホントに薄っぺらくしか思えません。実際にあった開成高校生絞殺事件も、こんなもんじゃないでしょう。

 本作では勉が「七つの大罪」と題した散文で父親を罵って(罰して)いるんですけど、そんなふうに、胸の内を言葉にできている段階では、正直こんな事件にはならないんじゃないかという気がします。その時点で子どもは子どもなりのSOSを親に出しているはず。でも親は見過ごしてしまう。本作ではそういう親の“見過ごし”によって、子が何度も味わわされる絶望が完全に欠落している。

 さらにいうと、子が暴れたり引きこもったりという“身体を張った”段階ではもう、言葉で悶々とする段階はとっくに超えてしまっているんです。だから、体当たりになるんです。なのに、あくまでも新藤さんの脚本では、理屈で話が進んじゃっている。そこがもの凄く物足りなさを感じるんだと思います。
 
 本作の見どころは、唯一、音羽信子さんの熱演です。勉が死んだ後、音羽さんが演じる母親・良子は、外出する際に必ず大きな黒いサングラスをかけるようになります。なぜかというと、人に顔を見られたくないから。夫の「サングラスをかけたくらいじゃ顔は隠れまい?」との問いに「隠した気持ちになれば良いんです」と言う良子。

 昭和な親父を演じたのは西村晃さん。頭の悪い、イヤな親父を、実に巧く演じておいでです。さすがです。

 というわけで、絶望と言えば確かに絶望シネマだけど、トラウマにはならないかな。私にとっては、歯応えのない、消化不良映画でした。





雪の林の中でのセックスが寒そう




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