映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

シリアル・ママ(1994年)

2015-01-29 | 【し】



【息子の担任教師の場合】ホラー映画好きの息子を「おかしい」と断じた挙句「家庭に問題がある」と批難。
  →気に入らねぇ。→轢き殺す
【娘の男友達の場合】(娘の片思いなのに)娘を振ってほかの女とデートだぁ?
  →気に入らねぇ。→刺し殺す
、、、以下、殺人続く。

・・・ひょ~。

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 まんまと一杯食わされました、、、。ハハハ・・・。そっか、あの名高い『ピンク・フラミンゴ』(未見だけど)の監督さんでしたか。いやぁ、参りました。

 冒頭、「これは実話である・・・云々」という字幕が出てくるんですが、これに、見事に引っ掛かったというわけです。さすがに、終盤、「あり得ん・・・」と悟りましたが。

 つまり、フェイク実話モノだったわけですね。

 でも、これが効いているのですよ、悔しいことに。だって、こんなおばさんいるかよ、と思いながらも、どこかこのシリアルおばさんのビヴァリー(キャスリーン・ターナー)に共感しちゃってるんですもん。そんなことくらいで「殺し・・・?」とは思うけれども、その一方で、気に入らん奴は問答無用で天誅!なんて、現実ではほぼ不可能ですからね。それを目の前で、映像とはいえ、行動に移しちゃっているオバサンがいるんだから、こりゃタイヘンです。

 キャスリーン・ターナーという配役が絶妙でした。この人じゃなければ、こんなにブラックな内容をこんなにあっけらかんとした作品にはできなかったでしょう。

 本作は、何かの本に面白いと紹介されていたので、しかもキャスリーン・ターナー(別に好きじゃないけど、なかなか個性的な女優さんなので)主演とくれば、まあ、見てみようかな、と思っちゃったのです。

 正直、本作で被害に遭った方々は、もれなく「気の毒過ぎる」としか言いようがありません。中でも、一番キョーレツだったのは、老女を骨付きラム肉で殴り殺しちゃうの巻、でしょうか。・・・嘆息。

 いずれのケースも、理由は実に「些末なこと」です。そんなことで殺されていたら、私なんか、もう100回くらい殺されているはずです、たぶん・・・。

 でも、生きていると、というか生活していると、ある人の言動に無性に腹が立ってしまうことって、フツーにありますよね。頻度は低いかも知れないけれど、必ず経験しているはずです、どなたでも。

 私の場合、そういう出来事に接すると、脳内で、ある格闘技ゲームのmyメインキャラにご登場いただき、難しいコンボを決めて、最後は相手を壁に叩きつけるか踏みつけるかしている映像を映し出しています。あるいは、何かのRPGでロケットランチャーなんぞを相手にぶっ放している映像とか・・・。といっても、もうゲームなんて何年もやっていないのですが。・・・まぁ、そんなんで全然スッキリなぞしませんが、気休めに妄想して、どうにか自分をなだめている訳ですよ。

 本作も、その一つでしょうね。妄想を、現実に映像として見せてくれている、ってことで。さすがに、妄想でも私は「殺し」はしませんが。・・・いや、殺してるか、ロケットランチャーだもんね。

 ビヴァリーは裁判にかけられますが、見事自己弁護に成功し、無罪を勝ち取ります。この裁判も、もちろんただの皮肉です。んなバカな・・・、という展開ですが、実際、こういうことがあるのでしょう、刑事裁判では。

 しかし、ビヴァリー、無罪を言い渡されたその直後、またやっちまいます・・・。自分に無罪の評決を出してくれた陪審員の1人の女性を、、、。沸点低過ぎなビヴァリー、、、嗚呼。

 なんとなくですが、見ている私の脳内では、快感物質と不快感物質が同時に分泌していたような気がします。、、、でも、やっぱり見終わった後は、なんともイヤ~な感じだったかな。

 若干エグいシーンもありますが、概ね見られます。
 



気に入らないヤツ皆殺し




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みんなのアムステルダム国立美術館へ(2014年)

2015-01-26 | 【み】



 5(4かな)年後に再開するはずで閉館し、改修工事に入ったアムステルダム国立美術館(ライクス)であったけれども、エントランスの構造の問題で計画は右往左往・・・。

 果たして、予定よりはるかに遅れて、ようやく2013年4月、オープンにこぎつけました。

 閉館期間、なんと10年! その間のあれこれを記録したドキュメンタリー映画。


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 前作『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』は見ていない(というか、前作があったことも知らなかった)のだけれど、本作だけでも十分、改修工事の成り行きが分かる、なかなか面白い作品です。

 ライクスといえば、なんつってもあの「夜警」が思い浮かぶんだけれど、「夜警」と言えばグリーナウェイの映画『夜警』だけれど、内容をほとんど思い出せない、、、がーん。ま、あんまし面白くなかったしな、、、。今度気が向いたら再見してみようかな。

 で、ここまで改修工事が長引いた最大の理由は、建物のエントランスの構造を、現状を無視して変更しようとしたことにある、ということが分かりました。もともと、エントランスは自転車が通れる道路が突っ切っていたのですが、それを美術館としてはオシャレな通路兼広場的なものにしようとした結果、自転車愛好家たちの団体(サイクリスト協会)の猛烈抗議運動を受けて、計画が頓挫したのでした。

 美術館側の人々は、サイクリスト協会のことを「民主主義をふりかざし」と言って頭を抱えていました。、、、が、正直、これって、やっぱりそもそもの計画が無謀だったんじゃないのか、としか思えませんでした。だって、大勢の利用者がいたわけですよ、自転車でその通路を通っていた人々が、、、。市民の美術館なのに、市民の生活を妨害する、となったら、そもそもあり方が問われても仕方ないでしょ、って思っちゃうんですけれど。

 でも、日本だったら、ここまで反対派と妥協するなんてこと、ないだろうなぁ、と思いました。どんなに抗議運動があっても、強硬に計画を実行するか、裁判沙汰になるか、ってとこでしょう。裁判になったら、まあ、市民は負けますよね。

 行政が市民の頭上からおっ被せるように何事かを計画するのは、やはり混乱の最大の原因です。対話重視の姿勢を見せないとね、最初から。

 、、、そのほか、内装面でも問題が続々噴出。壁の色の問題などは、興味深く見ました。フランスの内装会社の社員は、もはや呆れ顔、というか、投げ出したい、という感じを隠さないし。閉館期間が長引いたことで、思いがけず所蔵品の見直しや修復に時間と力を入れることができ、学芸員や修復師たちの働きぶりもまた、面白いです。

 10年の間に、館長が交代しちゃっていたのですね。前館長は、サイクリスト協会との闘いに疲れ果て、それこそ、館長職を「投げ出した」格好で描かれていました。ま、気持ちは分かるけれども、、、。

 日本の金剛力士像(今は廃寺となった島根県奥出雲町の岩屋寺の山門にあったものだそうです)を、学芸員が入手するところも出てきます。そして、それを公開するに当たり、京都市の大覚寺から僧侶らを招いて供養が行われたとのことで、その厳かな供養の様子もかなり詳細に撮られていまして、見入ってしまいました。作者不詳の仁王さんの表情も、素晴らしいです。日本の美術の海外流出など懸念する向きもあるかも知れないけれど、こうやって海外の方々に広く見ていただくのは、日本の廃寺に放置されて忘れられているより、よほど価値があると思います。

 ちなみに、本作は、改修後の館内の案内がほとんどありません。チラッと展示状態が紹介される程度、、、。件のエントランスについても、同様です。つまり、本作は、あくまでも改修工事の過程が主眼の映画なわけですね。

 しかし、今年は美術館がらみのドキュメンタリー映画目白押しですね。ナショナルギャラリーのも見たいなぁ、と思っているところです。

 普段はまあほぼ見ることがかなわない、美術館の裏側、一杯見られます。
 



女王臨席の再オープン式がド派手でびっくり




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トラッシュ! この街が輝く日まで(2014年)

2015-01-24 | 【と】



 ブラジル・リオデジャネイロ郊外のスラムで暮らすラファエルは、ある日、ゴミ山の中から財布を拾う。この財布が、ラファエルと、その友人ガルド&ラットの少年3人を、大人の陰謀の世界へと巻き込む、、、。この財布、一体何なの?

 ・・・スラム街を舞台にしたファンタジー。


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 監督のスティーヴン・ダルドリーは、私の最愛の映画の1つである『リトル・ダンサー』を撮ったお方。これまで4作撮っていて、前作『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』は未見だけれど、4作とも一般に評価は高いですね、、、。

 まぁ、正直、私には、『めぐりあう時間たち』も『愛を読むひと』も、それほど、、、。特に『愛を読むひと』は、原作のオハナシが悪いんだろうけど、好きじゃないわぁ。みんシネでもかなりこき下ろしてしまいましたが、でも、本音の感想です。

 本作は、監督が彼だからというのも少しあるけれど、単純に宣伝を見て面白そうと思ったから見てみました。

 、、、で、思ったのは、スティーヴン・ダルドリーという人は、少年を撮らせると非常に上手いなぁ、ということでした。実に生き生きと見せてくれます。これは、『リトル・ダンサー』のジェイミー・ベルもそうでした・・・。

 ゴミ集積場で拾った財布に秘められた謎を、拾ったラファエルと親友ガルド、地下排水溝で暮らすラットの3人が、知恵と少年ならではの身軽さで解いていきます。まあ、この謎解き、一応ミステリーと言って良いでしょう、これだけで、見ている方の興味は引っ張られて最後まで行けます。

 その謎の中身は、書いても良いんだけれど、書いちゃうと本作を見る価値が半減するのでやめておきます。つまり、本作は、この謎解きが全て、ってことです。

 もちろん、先般見た『ゴーン・ガール』ほどひどくはありません。少年たちの成長譚も描かれていますし、何より、彼らが大変な危険を冒してまで謎に挑んだその理由は「そうすることが正しかったから」という、極めてシンプルなもので、それが逆に説得力があるしグッとくるのです。子どもの頃って、そうやって、突っ走ることがあるよな、と単純に共感できますので。

 しかし、ミステリーものにしては、ちょっと脇が甘いというか(暗号を解くカギになる聖書の入手が簡単すぎたり、暗号解読がスムーズ過ぎたり。一番気に入らないのは、財布の持ち主だったジョゼの娘ピアが出てきて、その後少年たちと行動を共にしていくところだけど)、ミステリーの顔をしたファンタジーと言った方が良いかも知れません。

 少年たちが正しいと思ったことを貫いた、大人たちの世界に怯むことなく挑戦し成し遂げた! それによって、社会をも動かした! つまり、謎を秘めたあるものを入手→謎解きの旅に出る→さまざまな困難に出会う→謎を解く→英雄になる、という、ファンタジーの王道を行く筋立てです。

 別にそれが悪いとは思わないし、本作は、決して駄作だとも思いません。、、、でも、何か物足りないのです。

 それは恐らく、少年たちに、謎解き以外の「葛藤」があんまりないからかも知れません。ラファエルたちは貧しいけれども、彼らの周囲は割と「良い人」たちばかりだし(そもそも、彼らの親はどーしたんだろうか・・・?)、自分たちの境遇を楽しんでいるようにさえ感じられるのです。「ここから抜け出したい!!」という強い思いがあるように見えないのよね。

 例えば、同じ貧困を生きる子どもたちを描いたブニュエルの『忘れられた人々』とか、もう、とんでもなく悲惨でしょ。ああいう切迫感が、本作の3人の少年にはないのです。

 敢えて描かなかったのか、それとも、描き足りなかったのか・・・。それは監督に聞いてみないと分かりませんが。私は多分、敢えて描かなかったのだろうと思います。だから、これはこれで、作品としてアリだとも思いますが。私的には物足りなかった、というだけで、、、。

 書き忘れていましたが、本作の最大の魅力は、ちゃんと「ポルトガル語」で作られていることですね。これは英断でしょう。英語でやられていたら、もうファンタジーなんか超えてウソ臭い作り話に成り下がっていたと思うので。『愛を読むひと』で反省したんですかねぇ。

 そう、「正しいことだから!」なんて、躊躇なく声にして言えるのは、子どもの特権かも。大人になると、正しいことが時にはアダになることを知るし、正しいことが良いこととは限らないことも分かってしまうし、それはそれで良いんですけどね。信じられることを信じるままに行動できる、それは、掛け値なしに素晴らしいことです。

 ラストの札が舞うシーンには賛否あるようですが、私は、あれで良いと思いました。



少年たちにとって正しいことは、大人にとって不都合なことだった。




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マーラー(1974年)

2015-01-20 | 【ま】



 死期の近いマーラーは、故郷へ戻る列車の中で、来し方を走馬灯のように映し出した夢を見る、、、。 

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 1974年の作品だったのか・・・。私が学生時代に宣伝していたような記憶があるので、てっきり80年代の作品かと思っていたのだけれど。

 さて、ケン・ラッセルです。同じケンでも、ローチとはあまりにも異次元の、でも同じイギリス人監督です、、、。

 なぜ本作を見ようと思ったかというと、昨年の夏に『パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト』を見た際、ラストにラッセルへの献辞があったからです。彼の作品には興味がありながら、これまで見ていなかったので、これを機に見てみようかと。

 はてさて、これは好き嫌いが分かれる作品でしょうが、私は結構「好き」です。マーラーを演じたロバート・パウエルのエキセントリックな演技も良いし、妄想シーンの演出がものすごく好みに合ってしまいました。特に、有名なマーラーが改宗するシーンですね、、、。サイコー。

 こういう発想がよくできるなぁ、と感心してしまいます。こういう人の頭の中を覗いてみたい。

 マーラーの音楽自体は、あんまし好きじゃない、、、というか、好きでも嫌いでもないのだけれど、こうして映画のBGMとして使われるのを聴いていると、何だかすごく良い曲のように聴こえるのです。何故だろう。あんまし聞いたことない10番とか、凄い素敵! と思っちゃいました。今度改めてじっくり聴いてみようかな。

 いやしかし、それは、ラッセルの素晴らしい演出があってこそかも知れません。きっとそうなんでしょう。

 アルマは、ちょっとイメージと違って、楚々とした感じの女優さんでした。もう少し、ファム・ファタール的な、アルマの写真に雰囲気の似た肉感的な女優さんでも面白かったのでは。ロバート・パウエルが鶏ガラみたいなんで、好対照でビジュアルにも良いんじゃないかと思うんだけど。ラッセルは、なぜあの女優さんを起用したのかしらん。

 でも、マーラーって、作曲家の中では、ベートーベンやシューマンと並んで、よく映像化されていますよねぇ。マーラーの何がそんなに創作意欲を刺激するんでしょうか。楽聖映画は他にもいろいろあるけれど、本作は、アンビバレンツ度でいえば群を抜いているでしょう。単なる下品な刺激作ではもちろんありません。

 誰でもわかる、あの名作のパロディもあって、笑えるところも多々あります。

 ラッセル入門としては、まあ、正解だった様な気がします。これから、ラッセルの世界へと、いざ旅立たん!!



ビョーキなマーラーが素敵




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ジミー、野を駆ける伝説(2014年)

2015-01-18 | 【し】



 かつて、自らの信念の下に行動したことで村で権力者たちを敵に回し、追われるようにニューヨークへ渡ったジミー。10年ぶりに故郷アイルランドの片田舎に戻って来た。

 ・・・しかし、田舎の村は、10年経っても全く変わっていなかった。

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 ローチの新作ってことで、一応、見に行ってまいりました。初日の初回に行ったんだけれど、観客の年齢層、かなりお高めでした。わざわざ初日から来るなんて、ローチのファンくらいなもんだと思うけれど。

 さて、アイルランドが舞台の映画です。『麦の穂をゆらす風』と時代設定は近いですが、こちらは、内戦そのものは描かれておりません。しかし、内戦による分断が真っ黒な影を落としています。

 ジミーは、書物好きの母親に育てられたこともあり、自身も書物に親しんで成長してきたのですね。

 日本では、最近の若者は、、、と、読書離れが言われていますが、本を読まないことって何か問題が? という素朴な疑問も湧きます。私自身、決して読書家と自称できるほどは読んでいませんし。、、、ただ、ゼンゼン本を読まないと、モノを考えるという「頭のクセ」をつけるのは難しくなるかな、とは思います。本に限らず、新聞もそうかな。書いてあることに教えられたり疑問を持ったりするということは、考えるという頭の働きです。特に、疑問を持つということは大切で、「これって本当?」「なぜ?」ということにぶつかることで、考えるわけでしょう。

 そんなの、本読まなくても出来るしやっている、という方もいるでしょう。現代は、本以外にもいろんな情報や知らない世界を垣間見るツールに溢れていますからね、、、。

 本というか活字を読むことの良さは、恐らく、自分の思考を言語化する訓練ができるところにある、という気がします。ある程度の語彙と思考力がないと、考えをまとめて言語化し、自分のものへと昇華させていくこともできないし。

 そう、ボキャ貧はつらいのだ、、、。実感を込めて。

 話がヨコへ逸れましたが、モノを考えるクセをつけた人間は、往々にしてリベラル思想の傾向があるかと思います。ある意味、自然な流れだと思いますが、ジミーもそうです。しかも、ただ考えるだけでなく、それを行動に移し、自己犠牲を厭わないという「高潔」な人なのです。こういう人物は、権力者からすると、もの凄く「イヤ」でしょうねぇ、、、。

 案の定、当時の権力者である、カトリック教会の神父や、大地主たちに目を付けられ、結局は、いくら高潔な人物であっても、絶対的な岩盤権力に太刀打ちできず、ジミーは再び故郷を追われ、二度とアイルランドの地を踏むことはできなかったという、、、。

 本作を見ながら、英国のやったことの罪深さを思うと同時に、アイルランドの地勢的な悲劇を思い、また、組織としての宗教の問題の根深さを思い、何ともやるせない気持ちになりました。こういう話を見聞きすると、本当に、宗教とは、却って人を苦しめる存在なのではないかとさえ思えてきます。

 そもそものキリストの教えはよく知らないけど、アイルランド映画などの宗教がらみの悲劇を見ていると、結局、カトリックは信者に「考えるな」と言っているとしか思えないんだよなぁ。考えずに信じろと。教会を。それが、本当に宗教として、神の教えとして、あるべき姿なんでしょうかねぇ。すごく疑問です。

 ただ、本作では、ジミーを追い詰めるカトリックの神父も、絶対的にイヤな奴という描き方はされておらず、ジミーの生き方については敬意を持っているのです。また、最終的に、ジミーは愛する女性とも、愛する母親とも二度と会えない、という悲劇的な結末でありながら、彼を慕う多くの人々に温かく見送られて去る、という、希望も見出せるエンディングとなっています。

 パンフには、ジミーがローチと「高潔さ」という意味で重なる、と書いてあったけれど、まあ、そういう見方もあるだろうけど、なんだかなぁ、、、。確かに、ローチも信念の人だし・・・。でも、なんか芸術家と高潔って、イマイチ相性の悪い言葉のような気がするのです。ローチは、やはり芸術家であって、活動家ではないわけで・・・。

 最近のローチ作品は、初期の頃よりパンチがない分、「救い」があるような気がしていて、本作でもそれを感じたのだけれど、それは彼が80歳という高齢になったからなのかな。というか、あと何本、彼の新作が見られるのかと思うと、私なんかがそんなこと感じても仕方ないけれど、どうしたって焦りを覚えます。

 本作では、アイリッシュダンスや音楽がふんだんに出てきて、リヴァーダンス好きな私にとっては、それも嬉しかったです。ゲール語の詩の響きも良かったし。邦題はちょっと大げさですけどね。原題どおり「ジミーのホール」じゃタイトルにならないのは分かるけど、、、。

 ローチ好きにとっては、期待を裏切らない良作だと思います。


アイルランドの緑が美しく哀しい




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毛皮のヴィーナス(2013年)

2015-01-16 | 【け】



 オーディションに遅れてきた女優ワンダと、オーディション会場から帰ろうとしている演出家トマ。最初こそワンダを追い返そうとしたトマだが、次第に彼女のペースに乗せられて・・・。

 ラストは、驚愕とともに思わず笑いが、、、。

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 本作は、度々予告編を見ていたので、ポランスキーだし見てみたいなぁ、と思っていて、ようやく先日見に行った次第。

 いやぁ、しかし、これは面白い。というか、不思議な感覚に襲われました。

 最後まで見て思うに、ワンダはトマの書いた戯曲を、最低の女を装いながら最高の方法でぶった切った、ってことでしょうねえ、これは。彼女の怒りを、妖艶に、かつ知的に、最上の趣向でぶつけたわけですね、トマに。

 トマの書いた戯曲と、本作は見事にリンクし、最初こそオーディションとしてワンダとトマは「演じて」いますが、次第に、虚実の境が曖昧になってきます。もちろん、観客もトマ同様にワンダに誘われて、次第に、どこからが素の彼らで、どこからが演技なのか、もう分からなくなってくるわけです。

 まあ、でも、これは想定内の展開です。

 問題は、その曖昧さに酔いそうになって来たところで、いきなり横面を張られたかのように「現実」を差し入れてくることです。トマも、本作を見ている私たちも、ワンダに良い様にヤラれます。そしてまた、曖昧の世界へ・・・。

 キーになるフレーズがありまして、「神、彼に罪を下して一人の女の手に与え給う」。これは「聖書外伝、ユディト記」からの一節だそうで(と、作中でトマが言っております)、このフレーズが、まさしく、本作を貫くテーマ、、、というか、ワンダが体現するものです。

 考えてみれば、ユディトですもんね。本作のラストは暗示されていたわけです。いや~、やられました、、、。

 トマは結局のところ、自分の書いた戯曲の女が自分自身の投影だということに、ワンダによって自覚させられるわけですが、その後がね、、、。これって、もしかして、ポランスキーの願望だったりして。

 マゾと言えば、月並みに谷崎潤一郎が思い浮かぶけれど、ラストシーンなんか、「痴人の愛」そのものじゃんかー、と思った方は少なくないはず、、、!?

 それにしても、本作のコピーにもある通り、ワンダとは一体、何者だったのでしょうか。

 ワンダを演じたエマニュエル・セニエが素晴らしく、下品な商売女風から、知性ある貴婦人風まで、瞬時に演じ分け、顔や声まで違ってくるのだから、なんともはや、圧巻です。ちょっと前に見た『母の身終い』で、主人公の男が通りすがりの情事を交わす相手が、このエマニュエル・セニエでした。本作とは、似ても似つかぬ人物造形。恐れ入りました。

 マチュー・アマルリックは、『チキンとプラム ~あるバイオリン弾き、最後の夢~』で初めて見て、その後『グランド・ブダペスト・ホテル』、そして本作と続いて、どれも同じ人とは思えないくらい、ゼンゼン違う顔を見せてくれています。

 オープニングとエンディングの音楽も素敵です。90分ちょっとの異世界への入口と出口にふさわしい音楽です。

 いまだに『戦場のピアニスト』の余韻にとり憑かれているというのに、こんな作品を見せられちゃって(って見に行ったんだけれど)、ポランスキーさま、あなたはなんちゅーことをしてくれるのでしょうか。私のこの持って行き場のない心持を、どーしてくれるのさ、と言いたい。



マゾとか倒錯とかより、これはある女の華麗なる激怒の表現、と見た




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グレートレース(1965年)

2015-01-10 | 【く】



 ニューヨーク~パリ間、決死のレースに挑むレスリーとフェイト教授。パリにゴールするまでのナンセンスドタバタコメディ。 

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 この作品、ある「コロンボ解説本」を読んでいて、その存在を知りました。ジャック・レモン扮するフェイト教授の助手として、ピーター・フォークが出演しているのですが、そのことが本の中でチラッと触れられていました。

 しかも、「今はビデオでもなかなか見られない」みたいなことが書いてあり、見られないと言われると見たくなるのが人情。BSでオンエアしていたので録画した次第です。

 さて、まあ、面白くないとは言いませんが、なんかねぇ、、、。オープニングの序曲とか、インターミッションとか、見ていて楽しいけど長くて飽きるし。ドタバタもやり過ぎるとちょっとウンザリしてきます。

 また、ナタリー・ウッドが扮する女性記者マギーが、取材と称してレースに同行するんですが、ただのトラブルメーカーでしかなく、おまけに、甲高い声で終始絶叫しているので、それもちょっと、、、。

 ヒーローのレスリー(トニー・カーティス)VS 悪役フェイト教授、という分かりやすい対立構造だけれど、レスリーの魅力がイマイチ分かりません。そもそもレースの車だって、レスリーのは高級メーカーに作らせた車で、フェイト教授のは助手と一緒に自分たちで作った車です。本作の主軸をなしているフェイト教授の起こす問題は、彼の助手の有能さがあってこそで、助手が発明したり開発したりした技術を基にしているのです。どう見たって、フェイト教授と助手の方が魅力があるし面白い。

 まあ、悪役に魅力がないと、作品自体成り立たないのですけれどね。逆にいえば、レスリーに魅力がなさ過ぎるんですが。見た目もそれほど、、、。

 あのパイ投げのシーンは、正直、閉口しました、汚すぎて、、、。あそこまでやる必要あるんですかね。

 コメディって、難しいですよね。相当、質が良くないと作品としての良さが出ないし。笑いのセンスの違いもあるし。

 強いて良かったところを上げると、衣装や美術ですかね。あと、音楽。ラスト近くで、ナタリー・ウッドが歌うシーンはなかなか素敵でした。歌詞の字幕もカワイイ。

 ってことで、見てしまえばなんてことなかった作品でした。あ、若いピーター・フォークは非常にイイ味を出していました。彼はコメディアンとしてもなかなかですね。このあと、コロンボでブレイクするわけですが・・・。


ドタバタ過ぎて着いて行けない




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ストーカー(2002年)

2015-01-08 | マイケル・ヴァルタン



 写真の現像サービスカウンターに勤める冴えないおっさんサイは、長年、現像を請け負っていたある家族に理想を抱き、自らをその家族の一員として妄想に耽る日々、、、。

 が、その憧れの家族に、とんでもない秘密があることを知ったサイは、怒りを膨らませ、同時に職場を解雇されたことで自暴自棄となり、膨らませた怒りを爆発させてしまう。

 これのどこがストーカー・・・?

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 とんでもない邦題がついた外国映画は一杯あるけれど、これもその一つ。配給会社の担当者は、ホントにこの作品を見て、この邦題に決めたのか、大いに疑問。

 ロビン・ウィリアムズ演じる主人公サイは、もう、とてもとても孤独な中年男なのです。彼の部屋の無機質なことと言ったら、あれを見ただけで泣けてくる。不幸なことに、彼は独りを楽しめる心の豊かさを持ち合わせていなかった、、、。これは、本作では描かれていないが、恐らくは彼の生い立ちにその理由がありそう(ラスト近くで何となくそれを暗示するシーンがあります)。

 で、彼は自分の理想の家族を顧客の中に見つけます。それが、美男美女の夫婦に一人息子の3人家族であるリッチなヨーキン家。が、この夫、浮気していたのである。それも、サイが写真を現像して発覚するという次第、、、。

 折悪く、長年、サイがヨーキン家の写真の現像を「注文枚数+自分用1枚」と水増ししていたことがボスにバレて、あえなくクビ(自分用のが積もりに積もって何百枚に。その分タダで稼働させていたわけだから、店には大損害、ってことだわね)。

 精神のバランスを崩したサイは、破れかぶれで、浮気夫とその愛人にとんでもない手法(詳細はちょっと書きたくない)で制裁を加えます。この時、最大の屈辱を味わう夫を演じていたのが、ヴァルタンな訳ですが、、、。こんな形で、彼の全裸を拝むことになろうとは。嗚呼、、、。

 サイは、ストーカーではなく、妄想癖のあるただの寂しいおっさんです。こんな邦題をつけるので、最初は、ヨーキン家の妻に執着していくのか、と思って見てしまいました。でも、ゼンゼン違う。

 サイが、留守中のヨーキン家に侵入するシーンがあります。なんと、ここで、サイはトイレで用足しまでします。そして、シャンパンだかワインだかを飲みながらテレビを見ているところへヨーキン一家が帰宅するのです。見ている方としては、ドキドキするシーンです。・・・が、ヨーキン一家は「Oh、サイ! 来てたの!?」などと言って彼を受け入れる訳ですが、当然、これは彼の妄想だったのです。つまり、ここがサイの理想の究極ですね。

 、、、彼は、ヨーキン家の一員になりたかった。というか、それはムリだと分かっていたから、せめて、ヨーキン家の息子の伯父になりたかった(これはラストの写真が、まんま、それを表しています)。

 なのに、夫は浮気なんかしやがって! オレの理想の家族壊しやがって! ってことで、ああいう暴挙に出たんだろうけど、ちょっとやり過ぎちゃいました。あれは紛れもない犯罪。無職になって、もう、失うもののない心境になってしまっていたのだろうな、とは思うけれども、、、。

 正直、ロビン・ウィリアムズご本人とサイがダブって仕方ありませんでした。役を演じていないときの、彼のやたらハイテンションな様子は、これまで時々テレビで見てきましたが、あのテンションは見ていて「ちょっとヤバいなあ」と感じるものがありました。同じことを感じた人は少なくないと思います。あんなにハイに針が振れてしまえば、人間、バランスをとらないといけない生き物ですから、今度は逆に大きく針が振れざるを得ません。

 そして、本作では、役の上でではありますが、その、大きく逆に振れた姿を私たちの前にはからずも晒すこととなってしまいました。きっと、私生活上でああいう状態になることはしばしばだったと思われ、、、なんだか見ていていたたまれなくなりました。

 結局、孤独、というか独りをある程度楽しめる人間、ってのは、自分をそこそこ好きな人間なんでしょう。でないと、自分と向き合うことを強制される時間を苦痛なく過ごせるはずはありません。もちろん、その孤独の度合いもありますし。サイは、自分を愛せなかったし、だから、人も寄ってこない、余計に孤独が身に沁みる、でも苦痛過ぎて自分と向き合うことを拒絶し妄想の世界に逃げる、そして、余計に自分を愛せない、という悪循環です。

 その遠因は、恐らくは性的虐待を受けていたと思しきその生い立ちにあるのだと思います。やはり、虐待を受けていた人は、自分を愛することが難しい。自己否定感に苛まれるのはムリないことです。

 ただ、彼が本当に不幸だったのは、その後、現在に至るまで、自分を愛せる存在だと思える、自己肯定感を抱ける人との出会いに恵まれなかったことですね。恋人でも、友人でも、職場の人でも、とにかく誰でも良かったんだけれど、「you、いるだけで良し!!」と体現してくれる人との出会いがあれば、、、。

 でも、本当は、そういう出会いは、自分が他者を愛さないと恵まれないモノなんでしょうけれどね。サイは、人を愛することが怖かったのかも知れない。

 あんまり、誰かを「可哀想」というのは好きじゃないけれども、サイに限っては、ほかに当てはまる言葉が見当たりません。可哀想です、サイは。

 ・・・しかし、線が細いと思っていたヴァルタンの裸体(モザイク入り)は、結構、たくましかった、、、。ま、マッチョでなかったので良かったですが。やっぱり彼はどこを切り取っても美しい・・・(嘆息)。



人を愛することは自分を愛すること。




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トースト ~幸せになるためのレシピ~(2010年)

2015-01-05 | ヘレナ・ボナム=カーター(H・B・C)



 料理ができない母親の後釜に座った継母ポッター夫人を、主人公のナイジェルは徹底的に嫌い、認めない。彼女の料理の腕を除いては、、、。

 イギリスで活躍する料理家のナイジェル・スレイター(本作を見て初めて知った)の自伝が原作だとか。

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 料理が上手い、下手、というのは、一体、何なのだろうか。

 私自身は、腕が良いとは言えないが、料理自体は好きである。余談だが、パートナー(以下Mr.P)が家にいるときは料理をしたがるため、私はもっぱら片付け役(Mr.Pには片付けという概念とセンスと能力がもともとない)なのだが、正直、腹立たしくなることもしばしば。私が料理をしても、ヤツは片付けをしないのだ(というか、できないし、教える気にもならないレベル、、、。私はそこまで根気良い人間ではない)。せいぜい、コンロ周りをガシガシ拭かせることくらいしか、ヤツができることはないのだ。ま、それだけでも助かるが、、、。

 で、好きである料理だが、いくら好きとはいえ、他人様にふるまっても恥ずかしくないレベルとは、到底言い難い。Mr.Pは美味しいと(お約束のように要求もしていないのに必ず言う)食べているし、私自身も、まあ、悪くないとは思うが・・・。他人様にふるまっても恥ずかしくないと言えるのは、定番レシピがあるお菓子の数種類だけだ。

 正直、要は、訓練(=頻度)だと思っていた、料理の腕の良し悪しは。もちろん、それには限度があるし、本当にセンスのある人は味だけでなく、創造性のあるものに発展させられるのだと思う。でも、他人様に出せるものレベル、であれば、訓練というか、とにかく回数をこなすことだと。だから、誰でも、ある程度こなせば、それなりになると思っていた。

 が、、、。本作の主人公ナイジェルの実母は、そもそも、「料理ができない人」なのである。材料を切ったり、計ったり、ということさえできない。生野菜を「汚い」という。フレッシュチーズも彼女にとっては「汚い」のである。だから、缶詰ばかりの食卓。あとは、トースト。この人には、食事を作る、という概念がないし、能力もないのだ。こういう人がいるのか、、、と正直驚いた。
 
 ・・・でも、良く考えれば、Mr.Pに片付けの概念も能力もないのと同じだ、、、。う~、絶望的。

 しかしナイジェルは、そんな実母が大好きで、心から愛していた。哀しいことに、この実母は、ナイジェルが小学生の時に病死する。

 同じく不器用な、でも、そこそこ金持ちの父親は、早速、家政婦を雇う。その家政婦ポッター夫人が、グラマー(というかデブ)で父親に色目を使い、見るからに品のない女性。ナイジェル、彼女を徹底的に嫌い抜く。ま、当然の反応だよな、、、。

 ただ、ナイジェルが彼女から多大な影響を受けたものが一つ。それが「料理」だった。彼女の作るものはどれもすごく美味しい。食事ってこういうものなのか、と、ナイジェルは思ったことだろう。

 そして、彼女の作るレモンパイを超えるレモンパイを作ろうと奮闘する。ここが、本作の核心部かな。

 ここで、彼女のレモンパイに負けないレモンパイを作ったことで、ナイジェルとポッター夫人の間には、決定的な、埋め難い溝ができてしまったのだと思う。ナイジェルが、ポッター夫人に教えを請えばそうはならなかったし、教えを請わずとも彼女のレモンパイに並ぶものを作れずに終わってもそうはならなかったはず。ここで、2人は完全にライバル同士として存在することになってしまったのだ、、、。

 思うに、2人とも、もの凄い意地っ張りの頑固者である。でもって、その間に立つ、ナイジェルの父親がもの凄く立ち回り下手。自分のことしか考えていない。2人が仲良く出来ない最大の原因は、父親がその緩衝剤に積極的になろうとしなかったことだ。その自覚がまるでない、子どもみたいな父親である。

 でも、そんな父親も、ナイジェルが実母を亡くした直後に、なけなしの貯金をはたいて買ってきたタラを真っ黒に焦がしてしまった夕飯のおかずを「うん、美味しい」といって、帰宅するなり嬉しそうに食べるのである。この瞬間だけ、ちょっとこの父親をイイ人だと思った、、、。

 この父親、ポッター夫人の作る美味しい料理を食べすぎたせいか、早死にする。もともと相容れないポッター夫人とナイジェルは、唯一の接点を失い、ナイジェルは早々に独り立ちする。・・・ま、当然の成り行きか。

 ちなみに、成長した青年ナイジェルがゲイであることを思わせる描写があり、その伏線として、少年期の彼が庭師のジョシュの裸を盗み見る、というシーンがあるんだけど。あんまし必要なかったのでは、、、。ゲイであるかないかなんて関係ないだろ。別にあっても良いけど、本作では何の意味もないと思う。

 本作を見て、「男は胃袋で捕まえろ」が真理だなんて思うのは、ちと違うと思うね。ナイジェルの父親は、現実主義者だった、ってこと。ポッター夫人があそこまで料理が上手くなくても、あの父親は結婚していたよ。そういう男、あの人は。

 幼いナイジェルが、亡き実母のドレスを持って踊るシーンが切ない。あの母親もどんな思いで亡くなったのか・・・。
 
 ま、当然、私が本作を見たのは、ヘレナ・ボナム=カーター出演作だからなんですが・・・。この年、彼女はあの『英国王のスピーチ』に出演しており、あっちでは王妃役、こっちでは下品な後妻役、と、さすが!なところを見せてくれています。彼女のファンとしては、どっちのH・B・Cもチャーミングで好きですが。

 映画としては、まあ、キライじゃないです。



レモンパイは大嫌いな継母の味




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