映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

チャイナタウン(1974年)

2015-02-26 | 【ち】



 元警察官で、今は探偵事務所を開いているギテス(ジャック・ニコルソン)は、ある女性から夫の浮気調査を頼まれる。難なく依頼に応える仕事をしたギテスだが、浮気現場を写した写真が、なぜか新聞一面を飾ったことから、自分が嵌められたことを知る。

 真相を探り始めたギテスは、思わぬ巨悪の存在を知り、その泥沼から這い出そうとしている美しい未亡人イヴリン(フェイ・ダナウェイ)を救おうとするが・・・。

 ポランスキーが手掛けたハードボイルド作品。 

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 書き記すことが一杯あって、何から書けば良いのやら。

 まずは、ジャック・ニコルソンですね。若くて、かなりのイイ男です。それも、どこか胡散臭さのする、、、。役どころが私立探偵だから、ってだけじゃなく、彼は絶対的にアッパークラス的なインテリ風イイ男ではないです。どこか野卑た、、、しかし、不思議と下品でないのです。これは、美貌を誇りながら下品さが滲み出てしまってどうしようもないアラン・ドロンとは、ある種、対極にあります。ジャック・ニコルソン、この時、37歳ですかね。いやぁ、、、37歳でこの仕事。スゴイ、としか言いようがありません。

 主役について書いたので、流れ的には、やはりお相手、フェイ・ダナウェイでしょうか。彼女は、逆に、翳のある上品な女性が似合いますねぇ。イヴリン、ぴったりです。線状の眉毛が印象的。

 でもって、監督のポランスキーです。今回、本作を見たのは、ポランスキー作品をできるだけ見ようと思ったからですが、何の予備知識もなく見たせいか、こんなんも撮るんだ、この人は、、、と、半ば口あんぐり状態でした。『戦場のピアニスト』撮った人と同一人物ですよ? 『ローズマリーの赤ちゃん』撮った人でもあるんですよ? そして、『毛皮のヴィーナス』も、、、。なんちゅう守備範囲の広さ。作風というか、作品に流れる雰囲気も、全部バラバラ。大抵、同じ監督の作品って、どこか通じるものがあるでしょ? でも、この作品たちにそういうものはないと思うんだよなぁ。すごいわ、この人、やっぱり。

  というわけで、名作の誉れ高い本作、ハードボイルドの雰囲気を堪能させていただきました。一言で言うと、「セクシーな映画」ですね。

 ただ、かなり話は複雑で、ちゃんと頭働かせながら見ていないと分からない作品ですよね。水の利権が絡む、トンデモ爺ぃとの対決、という思わぬ展開に目が離せませんでした。

 なので、都合、2回見たんですよ。そしたら、イロイロと疑問が、、、。

疑問① 夫の浮気写真が新聞に出た時、イヴリンは、なぜギテスを告訴したのか?
 だって、そーでしょ? ただの覗き趣味的な話じゃない、って、イヴリンには容易に察しが付くはずです。イヴリンは、実父のノア・クロスが街のフィクサーであり、トンデモ爺ぃであることを知っています。その実父が夫と対立していたことも、夫が浮気していたことも、その浮気相手のことも知っていた。実父の差し金と、容易に察しが付くはずではありませんか。仮に、告訴がパフォーマンスだとしても、実父を刺激するようなこと、わざわざするでしょうか? 夫がますます追いつめられる、果ては殺されることくらい、分かりそうなもんです。

疑問② 夫が死亡したとき、イヴリンは、コトの背景が分かったのではないか?
 つまり、実父が殺したということを、です。理由は、疑問①に同じです。水の利権の詳細は分からなくても、察しがつくはずです。このまま、ロスにいては我が身と娘の身も危ないと分かりそうなもんです。なぜ、早々に逃げなかったのか。

疑問③ ギテスは、なぜ、イヴリンが身を隠す前に警察に電話したのか?
 警察の目をくらますため? とも思ったのですが、イヴリンに夫の浮気相手が誰なのかを正す前に電話しています。「大至急来い」と言っています。イヴリンが夫殺しの真犯人と確信していたから? でも、この時、二人はもう男女の関係になった後です。イヴリンを少なからず愛し始めていたはずのギテスなのに、なぜ、わざわざそんな危険なことを?

疑問④ ギテスは、なぜ、イヴリンがチャイナタウンを抜け出す前に、ノア・クロスと接触したのか?
 だって、絶対にノアのことだから、イヴリンのいるところへ連れていけ、って言うに決まっているじゃないのサ。ギテスは非常に洞察力の鋭い探偵なのに、どーしてイヴリンの身に危険が及びそうなことを敢えてしたのでしょうか? ノアのヤバさに気付いていたはずなのに。まさか、チャイナタウンまでノアを連れて行くことになるなんて思っていなかったんでしょうか?

、、、とまあ、こんな具合ですが。どなたか、お分かりになる方、教えてください~~。

 とはいえ、水の利権にまつわる話は非常に面白く見ました。「水」って、ちょっと、、、ね。日本でも「水」関係は、、、。

 そもそも、水利権ってのは、ものすごく複雑かつ強固なものの様なので、こういう因縁めいた話のネタにはもってこいの材料かも知れません(脚本を書く方も勉強しないといけないので大変そうだけれど)。ましてや、開拓の名残り色濃いロスが舞台となりゃ、なおのこと。まさに、ハードボイルドです。
 


ジャック・ニコルソンにもセクシーな時代があったのね。




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戦場でワルツを(2008年)

2015-02-22 | 【せ】



 レバノン戦争に派兵された際の一部の記憶が完全に欠落していることに気付いた映画監督のアリは、記憶を喚起すべく、当時の関係者や仲間を訪ね歩く。

 自国の、他国への侵攻を真正面から批判した意欲作。

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 レバノン戦争については、ネットで拾い読みした程度の知識なので、偉そうに語ることは控えます。あくまで、本作を見た感想を。

 ドキュメンタリーアニメ、と銘打っているけれども、ドキュメンタリーというか、再現だよね、これは。人の記憶を取材して、それをアニメでビジュアル化した。これが、実写の再現映像だと、ドキュメンタリーとは言えず、また、実話に基づく映画、とも言い切れず、もの凄く中途半端な立ち位置になりそうで、ある意味、アニメという手法を採用したのは正解だったと思います。アニメといえば、見る側にとってはそれだけですでに作り物であることが織り込み済みですからね。

 本作は、アリ・フォルマン監督自身の自叙伝的作品だと思いますが、自身が兵士として戦争を体験しているだけに、兵士としての独白には、やはり説得力がありました。つまり、彼自身「何で自分がここで、こんなことをしているのか分からない」ということです。戦場にいて、命懸けの任務に着いている人自身が、です。もちろん、兵士がみんなそうだとは思いませんが、こういう兵士もいるんだということ、これが現実なんだな、と。

 彼は生還しましたが、もし、死んでいたら、何で自分が死んだのかも分からないまま、人生を終えていたことになる訳です。

 結局、彼は、記憶を呼び起こすことになりますが、それは、思い出さない方が良かったんではないかと思われるほど、悲惨な内容のモノでした。映画としては、もの凄いバッド・エンドです。なので、見終わった後も、非常に重苦しい感じになります。

 昨年の暮れに『戦場のピアニスト』を見て衝撃を受けたけれども、今回、アニメとはいえ、そこに描かれていたのはやはり同じ光景でした。違うのは、撃たれていた側が、銃を撃っている側になっていたことです。

 やっぱり、虐殺というのは、誰でも被害者にも加害者にもなり得る、人間の根源的な部分が引き起こす行為なのだと改めて思いました。

 アリが記憶をなくしていたのは、いわば、精神的な防御反応によるものだったと思われますが、本作に関するアリ・フォルマンの記者会見の映像を見たところ、彼は、その事実をかなりきちんと受け止めているのだと感じます。まあ、そうでなければ、こんな作品、作ろうとはしないでしょうが。

 本作については、パレスチナ側からの見方が完全に欠落しているという批判があるようですし、事実、パレスチナの描写はほとんどありません。ですが、私は、監督がそうした意図が、何となく分かる気がしたのです。多分、自分が経験したこと、実際に見聞きしたこと以上でも以下でもないものを作りたい、ということだったのではないでしょうか。パレスチナのことを描けば、そこには監督の想像や憶測や、ともすると偏見ととられかねない思考が反映されかねません。彼はそれを避けたのだと思います。それこそが、クリエイターとして失格だ、と思う人もいるでしょうが、私は、監督が身をもって「殺らなければ、殺られる」日々を過ごしたからこそ、立ち位置を明確に、自分の心の風景を描く、という所に置くことに徹したのは理解できる気がするのです。だから、アニメだった、のではないかな、と。

 アリ監督が会見で語っていた中で、印象的だったことは、イスラエルの指導者たちは、その後のパレスチナ侵攻等の軍事面において、結果がいかなるものであっても、一切責任をとらないし、それどころか、責任を感じてさえいない、他人事のように語っている、と言っていたことです。そうだろうなぁ、と思いました。結局、戦争で悲惨な目に遭うのは前線の兵士たちと、末端の市民たちなのですからね。

 我が国も、今、あれこれと自衛隊の派遣について言われていますけれど、一番派遣したがっている人も、最高責任者を自称する割に、実際、どんな責任をお取りになったのか、ゼンゼン国民には見えないですもんね。実際、そうなったときの彼の対応、容易に目に浮かびますわ。

 本作を見て、思い出したことがあります。95年にウィーン・フィルの日本公演を聴きに行ったとき、指揮はジェームス・レヴァインだった(彼自身ユダヤ人)のですが、演奏の冒頭で、「先日暗殺されたラビン首相に黙とうを捧げたい」と言って、団員・聴衆全員が黙とうしたのでした。あれ以来、イスラエルとパレスチナは泥沼が続いています。レヴァインは、今の彼の地の現状を、どう思って見ているのでしょうか。
 


『おくりびと』とオスカーを争った作品。こっちが本命だったらしい。




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ブレッド&ローズ(2000年)

2015-02-16 | 【ふ】



 不法移民のマヤが、移民としての権利に目覚め、仲間とともに闘い、勝利を得ながらも、自分の犯した罪から本国へ強制送還されるという苦いお話。

 マヤを目覚めさせるのは、エイドリアン・ブロディ演じる、アメリカ人の白人青年サム。ま、2人は恋仲になるんですけどね、お約束通りに、、、。

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 『戦場のピアニスト』のパンフを読んだら、エイドリアン・ブロディが、自身の役者人生に影響を与えた監督として、ローチの名前を挙げていまして、彼の出演したローチ作品が本作でした。何と、脚本も見ないで出演を決めたとか。そんなの、これが初めてだったと、書いてありました。

 エイドリアン・ブロディの出演作は、実は、何気に見ていたのですが、彼を認識していなかったのですね、私。『戦場のピアニスト』で、初めて名前と顔をしっかり認識した俳優さんだったのです。

 ローチ好きの私ですが、本作のことはあんまりよく知らなくて、当然、エイドリアン・ブロディが出演していたことさえ知らず、パンフの記事を見て、ようやく見てみようと思った次第。

 社会派、社会派と言われるローチです。私は、彼へのそういう呼称は実はあんまし好きじゃないんだけど(リベラル=社会派、じゃないと思うんだけどなぁ)、こういう作品があると、まあ、そういうレッテルがベッタリ貼られるのは、致し方ないな、と納得せざるを得ませんでした。そういう作品でした、これは。

 なんつったって、扱っているテーマが労働運動ですからねぇ。しかも、不法移民のです。移民というだけでもハンディなのに、不法とくれば、もう何をか言わんやです。

 正直、主人公のマヤが、私はあんまり好きじゃないのね。なんつーか、最初からアマちゃん丸出しなんです。実の姉、ローサに翳があるので、これは何かある、と思って見ていたら、案の定、、、。もちろん、マヤは若いので、仕方がないのです、アマちゃんなのは。若さゆえに、正しいことが好きだし、それを主張するし、自分の欲望にも正直です。怖いものなしなんだよね、ある意味。自分も通って来た道だけに、見ていて嫌悪感を催すのだと思います。

 ですが、マヤは頭も良い。サムが彼女たちの権利を主張し、立ち上がろうと鼓舞するのだけれど、そんな彼に冷や水を浴びせます。「あなたのリスクは何?」、、、これは、言われたサムは堪えるでしょう。実際、ガツンと来ていた様子です。

 でもって、サムには猛烈果敢に挑み、まさしく肉食女性で、こういうところは、正直羨ましいというか、私にもこれくらいのガッツがあればなぁ、というか。・・・ま、それなりに当たって砕けてきた訳ですが、ここまで猛然と挑んだことは、ありませんでした、はい。

 痛いのは、ローサの人生です。彼女は、本当に苦労してきたのです、自分のためではなく、家族のために。彼女の感情が爆発するシーンは、涙なくして見られませんでした。

 ローチが描きたかったのは、こういう、不条理でしょう。これは、彼の全作品に通底するものです。出自で人生が決まっちゃう不条理。でもって、弱者への眼差しに欠ける社会への怒り。ローサのあの哀しい告白は、ローチの怒りそのものだとも思います。

 とはいえ、ローチの厳しいところは、マヤにキッチリ落とし前をつけさせているところです。弱者ならオールオッケーとはさせない。マヤが犯した罪が原因で、彼女は権利を獲得しながら、その勝利に酔っている真っ最中に、強制送還を言い渡されるのですね。この辺がローチらしい、かな。

 エイドリアン・ブロディは、なるほど、良い俳優さんです。本作を見て、それは非常によく分かりました。オスカー後は見ていないので、彼がその後、どんなふうに脱皮したのか知りませんが・・・。いや、『グランド・ブダペストホテル』で見ていたのだった、そーいえば。でも、ほとんど記憶ないなぁ、、、。あの作品自体、あんまし残るものがなかったもんなー。ごめん、エイドリアン君。
何が別の作品で見てみますわ。

 


「ケン・ローチは社会派」と言われる所以はこういう作品があるからだね




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イリュージョニスト(2010年)

2015-02-14 | 【い】



 流しの老いぼれ手品師タチシェフは、いよいよ自分の居場所のなさに覚悟を決めつつある今日この頃。が、しかし、そんなある日、自分のことを手品師ではなく、魔法使いと信じ込んだ少女アリスが、流しの旅に着いてきてしまう。

 アリスに我が娘の面影を見たタチシェフは、魔法使いを演じ続けるが、そんなの長続きするはずもなく、少女は少女で成長していく・・・。タチシェフの下した決断は、、、。

 ジャック・タチが残した脚本をアニメ化した作品。タチシェフとは、タチの本名なんだって・・・。知らなかった。

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 こないだまでギンレイで『ぼくを探しに』 がかかっていましたね。再見しに行く気にはならなかったけれども、ちょっと、シルヴァン・ショメという監督さんに興味を抱いたので、これまでの作品を見てみようと思った次第です。

 予備知識はアニメだってこと以外ほとんどなくて、もちろん、ジャック・タチの脚本とも知らずに見たんだけれど、なんというか、とっても切ない作品でした。

 とにかく、セリフがほとんどないのね。そして、絵がとっても美しい。アニメに一家言ある人間ではないので、技術的にどうこう書けませんけれど、手書きの人物と、背景の3Dがよくマッチしていて、奥行きのある絵になっています。何だか、背景だけ見ていると、アニメであることを忘れそうになることも。それくらい、よく出来た絵です。

 アリスは、スコットランドの離れ小島に住む世間知らずの娘、という設定で、タチシェフが手品付きで赤い靴をプレゼントしてくれたのを、魔法でプレゼントをくれたと思い込むわけですが、、、。タチシェフが島を離れると着いてきて、エジンバラで同じ宿に泊まり共同生活を始めます。

 タチシェフとしてみれば、自分の身の振り方を考えていたようなときに、アリスが自分を尊敬の眼差しで見て慕ってくれているのは、ある意味、自尊心をくすぐられたのだと思います。娘の面影、というのは、最後まで見て初めて分かることで、これは副次的なものという気がします。

 結局、魔法使いごっこは長続きせず(そのために、タチシェフは慣れないバイトまでするんです、資金稼ぎのために)、タチシェフは少女の下からそっと消えます。これには、ほかにも理由があって、少女が若い男性に恋をするからなんですが、これを知ったタチシェフは、いつまでも自分が側にいて魔法使いやっていることは、却ってアリスにとってよろしくないと判断したのでしょう。あるいは、いずれ、自分はアリスにとって邪魔になり、今よりさらに惨めな手品師になってしまうことを、無意識のうちに予感したのかも。

 特典映像で、プロデューサーが言っていたコメントが印象的です。「この作品はとてもシンプルで、失うことと、手放すことを描いている。人生にはそういうことが付き物で、誰かを解放することで、自分も喪失感から自由になる」

 確かに、、、。私のとるにたりない人生でも、そういうことはあったもんなぁ。昨年だったか、TVで島田雅彦が、幸せとは、「断念の後の悟りだ」と言っていたけれども、まさに、これはそういうことでしょう。固執していたものを手放すことで、自らも解放されるという、、、。

 タチシェフが手放したものは、一元的には、アリス自身、アリスからの尊敬の念だけれど、それは詰まる所、自分の手品師としてのプライド、、、。あれほど大事にしていた手品の小道具でもあるウサギを野に放つのは、その象徴シーンかも。

 この2人のほかにも登場人物はいるのですが、いずれもなんというか、人生の黄昏を描いていて、これも切なさを感じさせますねぇ、、、。老いるって、でも、切ないばっかりでもないでしょうに。喜劇王ジャック・タチの裏面ってことかしらん。

 タチシェフから見れば、人生の幕の引き方、ということになるけれど、アリスの視点から言えば、本作は、彼女の大人への成長物語でもあります。あまりにも世間知らずだった彼女が、短い間に広い世界を垣間見、恋までするんですからね。タチシェフとの魔法使いごっこが終わって島に戻りました、ハイ、めでたしめでたし、という童話ではありません。

 これからの彼女の人生は、何となく波乱を予感させるのですが、そう感じたのは私だけ・・・?

 まあ、意地の悪い見方をすれば、アリスは、もしかしたら全て承知の上だったかも、という可能性も。あの島を抜け出したかったところへ、タイミングよく優しそうなタチシェフが現れた。そこへ乗じて、、、なーんて。アリスが、あの後島に戻りそうな感じがしないので、余計にね。ま、一つの可能性です、飽くまでも。

 タチシェフが、作中、映画館に迷い込むシーンがあり、その時、スクリーンに映っていたのは、あの『ぼくの伯父さん』でした。『ぼくの伯父さん』なんて、もう大昔に見てあんまし覚えていないけれど、魚の形をしたオブジェの噴水(だったっけ?)が、もの凄く印象に残っています。そのオブジェも映っていまして、そこで初めて、タチシェフという名前からして、ジャック・タチとの関連に気付いたという、、、。すごい鈍い、我ながら。

 シルヴァン・ショメ。やっと覚えました、お名前。美的センスが良いなぁ。話題の『ベルヴィル・ランデブー』も見ることになりそうです。



自分をがんじがらめにしているのは、案外自分自身だったりする。




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おみおくりの作法(2013年)

2015-02-11 | 【お】



 ジョン・メイ、44歳、独身。几帳面で慎重派の男。22年間、役所で、身寄りのない人々の葬儀から埋葬までを、淡々と、しかし、故人に敬意をもって担当して来た。

 が、突然の解雇通告。今、手掛けているビリー・ストークの葬儀と埋葬が終わったら職を離れることに・・・。このビリー、相当の曲者だったらしいが、彼の一人娘ケリーにも接し、どうにかケリーの臨席の約束も取り付けた。これで、最後のお勤めを終えられそうだ・・・。

 と、安心して、いつになく慎重さを欠いた行動に出た途端、、、!!


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 昨今、悲劇の象徴みたいに言われる“孤独死”がテーマです。ジョン・メイが扱うのは、例外なく孤独死した人々の、いわば後始末です。ジョンの上司が言うように、「火葬して終わり」でも良いわけです、法的にも倫理的にも。

 でも、ジョンは、故人の人となりや好きだったものなどを遺品から見つけ、手厚く弔うのです。これは、彼の性格でもあり、仕事をする上での信条でもあるのでしょう。本人も、この仕事を「好き」だと言っています。

 彼の仕事は丁寧ですが、それは故人への敬意から来るものであり、孤独死したことへの憐みではないことが、見ていると非常によく伝わってきます。本作に好感が持てる最大の理由はここです。孤独死なんかしちゃって可哀想、という上から目線は、ジョンには一切ありません。

 ただ、彼がクビを言い渡されたのは、その丁寧な仕事ぶりが割に合わないと上司に判断されたからで、まあ、これは人の価値観の違いなので、上司を責めるのも無理があるかも知れません。ジョンは、仕方なく受け入れます。今扱っているビリー・ストークの件が終わったら、という条件付きで。

 で、ビリーのことも、相変わらず根気よく調べます。その過程で、これが最後の仕事ということで、ちょっと気持ちが開放的になったのか、いつもなら飲まない酒を瓶ごとホームレスたちと回し飲みしたり、アイスクリームは食べない主義なのに、配送車から落っこちたハーゲンダッツを食べたりするんだけれど、この辺の描写が可笑しい。劇場でも笑いが起きていました。イギリス独特の雰囲気だと感じました。

 ジョンは、これもやはり最後の仕事だったからでしょう、自分のために購入していた墓地の一区画をビリーの埋葬場所にと譲ってしまいます。そこは、日の良く当たる見晴らしの良い場所。ジョンがそれをビリーに譲ろうとしたのには、ビリーの生きざまをちょっと羨ましく思ったというのもあるでしょうが、ビリーの娘、ケリーに惹かれたのも大きかったと思われます。

 ケリーは、身寄りのない犬(ま、捨て犬ですね)の飼い主を探す仕事をしていまして、ジョンは、ケリーが優しく犬に接している姿を見ています。それでいて、父親ビリーに対する複雑な思いも抱えている。この二面性にグッときちゃったのかも知れません。

 そうして、ケリーも心がほぐれ、ジョンの人柄にも好感を抱き、亡き父親の葬儀に出ようと決意します。彼女はジョンに言います。「お葬式の後、お茶でもしませんか?」

 ジョンは、失業はするけれど、新しい人生の予感を得ます。

 しかし、、、。ここから先は、書けません。書きたくない、という方が近いかな。結論だけ書くと、ジョンも孤独死するのですが。

 ラスト、ジョンが埋葬された後のお墓に、ジョンがこれまで手厚く弔ってきた孤独な霊たちが集って来ます。なんてことないシーンですが、これで、私の涙腺は決壊してしまいました。

 一緒に見に行った映画友に、劇場を出た後「どーだった?」と聞かれたのですが、ラストで大泣きした割には、案外さっぱりしたもので、「ジョンはあれはあれで、幸せな人生だったのではないかと思った」というような感想を話しました。そして、少し時間の経った今も、やっぱりそう思います。

 ジョンは、自分が好きだと思える仕事に携わり、自分が納得するやり方で22年間勤めてきたわけです。確かに、結婚せず家族もいない、傍から見れば“地味で寂しいヤツ”だったかもしれないけれど、人生の幸せ度というのは、傍目から見て計るものではなく、自分の感じ方でしかありません。だから、概ね幸せ、だったのではないでしょうか。

 それに、これは常々思っていたことだけれど、孤独死=不幸、という世間の図式も、ハッキリ言って、孤独死した方々に失礼千万なモノの見方じゃないですかね。独りで死ぬのが、そんなに悲惨なことでしょうか。こんだけの長寿社会、生涯独身率もどんどん上がっていく社会で、孤独死なんて、日常茶飯事になるのは目に見えています。

 それは、誰かに見とられる死に方がこれまでは多数派だったから、孤独死=不幸、に映るだけで、孤独死が当たり前になったらそんなもんか、ってとこでしょう。それに、多くの人に囲まれて死んだって、死ぬ人はたった独りで旅立つことに変わりありません。

 孤独死の最大の問題は、遺体が長期にせよ短期にせよ放置されるところにあるのであって、亡くなり方の不幸度の問題ではないはずです。そんなことは、他人はもとより、たとえ縁者であっても知る由もないことです。孤独死という一側面だけを見て、故人の人生を周囲が勝手に評価するな、と言いたいですね。

 ジョン・メイも、孤独死だったけれども、充実した人生だったことでしょう。少なくとも、そういう描写でした。地味ぃ~な逸品です。

 イチャモンをつけるとすれば、この邦題ですね。沢木も新聞で書いていたけれど、私も、最初に本作の予告編を何かで見た際、やっぱり『おくりびと』が頭に浮かびましたもん。これはセンスが悪い。

 ジョン・メイを演じていたエディ・マーサンは、44歳の役にしては若干老けている気がするけれど、実にイイ味を出していました。監督さんが彼に当て書きしたというだけあって、まさにピッタリの配役。また、ケリーを演じていたのは、ドラマ「ダウントン・アビー」でメイドを演じているジョアンヌ・フロガット。彼女も地味ながら、知的な美人です。適役でした。




どんな死に方しても、こんな風に葬ってもらえたら、人生すべて◎と思える




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狩人と犬、最後の旅(2004年)

2015-02-08 | 【か】



 本物の狩人と、彼の飼う犬ぞり用の犬たちとの、厳しくも満たされた日々を追ったドキュメンタリー(というか、再現?)映画。

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 大分前にBS放送分を録画していたので、予備知識なく鑑賞。まあまあ面白かった。

 ノーマン・ウィンターというお方は、実際にロッキー山脈で狩人としての生活をされているらしい。まあ、制作から10年以上経っているので、現在も続けているのかは不明だけれど。

 自分でも「最後の狩人」と言っていたが、それくらい、もう、狩人として生活している人はほとんどいないんだろうなぁ。お仲間も作中には登場するけど、彼も「もう辞める」って言ってたし。

 狩人が減って、野生動物たちも減ったのだって。矛盾しているようだけれども、狩人たちが適量を「獲る」ことで、うまく生態系が保たれていたのだ、とノーマンは言っている。・・・まあ、そういう側面は確かにあるんだろうな。海からマグロが減ったのも、クジラの捕獲数が減ったから、という説もあるし。真偽は調べてないけど。

 とりわけ、冬の生活は厳しく、見ていてずーっとドキドキしっぱなし。ひたすら、氷上、犬ぞりを走らせて行くんだけれど、途中その氷が割れて、ノーマンは海に落ちちゃう。しかも、ノーマンを新米リーダー犬は置き去りにして走り去ってしまい(ま、結果的には戻ってくるんだけど)、まさに生活自体が命懸けそのものってこと。

 お仲間のところには「2、3日したらそっちに着くよ」と事前に連絡を入れ、実際、もの凄い大変な思いをしてお仲間の所に辿りつく。そして、今度は近道しようとお仲間に「止めとけ」と言われた厳しい道を敢えて選んで、またまた大変な思いをして2、3日かけて家に辿りつく。

 まぁ、正直なところ、自給自足の生活には憧れがある。自然の中で、必要な分だけ獲って育てて生きる、って、ある意味、もの凄く“人間的な”生き方のように思う。そんなこと出来ないことは前提だけれど、でも、憧れる。ま、私の想像では、もう少し穏やかな気候の土地で、だけど。

 犬たちがイイ。犬って、何であんなに一生懸命なんだろうか。もちろん、ノーマンの主人ぶりが良いからってのもあるだろうけど、犬って、ホント、24時間100%なんだよなぁ・・・。昔、飼っていた柴犬もそうだった。

 BSの「世界ネコ歩き」という番組をよく見るんだけど、ネコって、常に一生懸命って感じじゃないんだよなぁ。余裕が感じられるのよね、何となく。全力で何かをやるときってのは、自分がそれをしたいときか、必然性に迫られたとき。

 犬はもともと、人間によって訓練され利用される動物だから、根本的にネコとは違うけれど、やっぱり、ネコに感じられる余裕は、犬にはない。いっつも全力。だから、健気で可愛いのだけれど。

 もちろん、ネコの可愛さもまた格別で、そこに比較する意味なんかないのは承知の上だけど。

 ノーマンは、自然に生きる狩人とはいえ、別に自然崇拝者でもなく、人間社会を批判しているわけでもない。無計画な自然破壊には反対しているけれども、説教臭くない。彼も、彼の犬たちと同様、生きることに一生懸命なのだ。

 人間社会で文明を享受して生きている人たちだって、結局、置かれた所でそれなりに生きることに一生懸命。

 人間も、犬も、ネコも、野生動物も、詰まる所、生きとし生けるものすべからく、生きることに一生懸命なわけである。人間は、ちょっと、そのことに疑問を持つことがあるだけだ。

 、、、というようなことを、本作を見ながらぼんやりと考えていました。





動物だって、人間だって、みんな一生懸命生きているのさ。




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明日へのチケット(2005年)

2015-02-04 | 【あ】



 ある列車に乗った人々の、列車内でのせいぜい数時間でのできごとを描写するだけで、その人々の人生を垣間見せる、これぞ映画の真骨頂的な作品。

 キアロスタミ、ローチ他1名、計3名の監督による連作。

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 リンク先の本作の紹介文には「オムニバス作品」とあるけれど、正確にいうと、オムニバスとは違うかと。一つの作品になっていますので。構成上、3幕に分かれている、って感じですかね、舞台でいうと。

 で、第1幕。正直、うーん、あんまし好きじゃないというか。老人が、美しい中年女性に恋心を抱く、、、っていう設定だけで、ダメでした。うーん、、、まあ、分かりますよ、美しい女性に優しくされて、ちょっと勘違いさせられるような言葉を言われたら、そういう気持ちになってしまうのは。でもねぇ、、、なんかダメでした。老人を演じた俳優さんのルックスがダメだったのかも、という気もします。

 というわけで、私が心に残ったのは、第2幕と、第3幕でございました。

 第2幕は、キアロスタミによるものです。とにかく、ここで出てくるおばちゃんが、すんごい不機嫌なわけです。最初から、フキゲン。理由は分かりません。ただただ不機嫌。イライラし、人に当たり散らすのですね。

 一緒にいる青年は、最初、誰もがこのおばちゃんの「息子」と思うでしょう。もちろん、私もそう思って見ていました。すると、途中でそうでないことが分かります。このおばちゃんと青年の関係の明かし方が実に上手いなぁ、と。

 青年は、兵役義務の一環として、将軍の未亡人=おばちゃんの付添いをしていたのです。で、未亡人=おばちゃんは、亡き夫=元将軍の1周忌の墓参りに行く途中だったというわけです。・・・もちろん、これで不機嫌の理由にはならないのですが、おばちゃんが笑顔でない理由には十分なります。

 傍若無人なおばちゃんに、青年は実に従順に仕えているのですが、終盤、彼の中で何かがプツンと切れたのでしょう。おばちゃんを足蹴にして去ってしまいます。もちろん、列車内なので、どこかにはいるはずなのですが、おばちゃん、必死になって探すも見つけられず、、、。

 下車駅にて、おばちゃんは一人、途方に暮れています・・・。

 続く第3幕は、ローチによるもの。これは、ローチらしいというか。扱ったのは、アルバニアからの移民家族と、英国からの旅行青年3人組。3人のうちの1人が、列車の切符をなくします。

 慌てる3人は、どこでなくしたか、思い出すうちに、食堂車で移民の青年にサッカーの試合のチケットを見せたことを思い出し、そのチケットと切符を財布に入れていたことから、移民の青年が盗んだのではないか、という疑惑が生まれます。

 、、、果たして真相は。

 ローチのアプローチ(ダジャレではありません)は、相変わらずシビアでして、見ていてドキドキします。3人のうち、一番、移民青年を疑い、移民家族にキツく当たっていた青年が、最後にした選択が、ローチらしからぬような・・・。でも、『ジミー、野を駆ける伝説』にも書いたけれど、初期作品ではいかにもな「救い」はほとんどなかったのに、この辺りでは既に「救い」があるものを描いていたのですね。

 で、ラスト、ローマ駅に着いたとき、3人の青年たちと、移民家族、それぞれ無事に列車の旅を終えるのですが、駅を歩く人ごみの中には、第2幕で消えた青年もちゃんと歩いています。、、、と言う具合に、この作品は3幕で一つの作品なのです。

 第2幕のおばちゃんを見ていて、私は、ちょっと反省しました。パートナー(以下、Mr.P)に対する日頃の態度を、、、。

 子どもの頃、ヒステリックに喚いている母親を見て「何であんな言い方するんだろう・・・?」としょっちゅう思っていて、さんざん反面教師にしてきたはずなのに、ふとした瞬間に、私自身がMr.Pに母親とおんなじ口調で小言を言っていることに気付くのです。そして自己嫌悪に・・・。その度に、いかんいかん、と思うのですが、Mr.Pが、ゴミを床に捨てっぱなしにしていたり、タオルは広げて掛けておいてと何度頼んでも棒状に掛けてあったり、玄関に靴がハの字に脱いであったりするのを見ると、つい、冷静さを欠いてしまうのです。あのおばちゃんの不機嫌な佇まいは、私のそれと同じだ・・・、と。

 がしかし、そう思った、その日の夜に、また私は同じことをMr.Pにしておりまして、ゼンゼン反省していないことに、またまた気付きました。ま、この先も、自己嫌悪との闘いの日々なんだろうなぁ、、、。24時間、日常的に不機嫌なわけじゃないのですが・・・。

 日常的に不機嫌な人、というのは、やっぱり、精神的に何か問題を抱えているのだろうと思います。そしてそれは自分の力じゃどうしようもないこと、ではないかな。自分のコントロールの域を超えたところにある(と本人は信じている)ものに、苦しめられているのでしょう。

 でも、傍から見ると、それは、自分の心持次第でいくらでもコントロール下に置くことができるもの、ってことも。

 しかし、人生は、そんなコントロールできるものばかりじゃなく、そもそも、不条理そのものだ、と言っているのが第3幕なのです。出自なんて、本人に何の責任もありません。生まれた国が、あるいは、家庭が貧しかった、というだけで抱える不条理。これを、ローチは容赦なく描いています。

 、、、いや、3幕とも、人生の不条理さが通底しているのかも知れません。一番、表面に出ているのが第3幕であるとは思いますが。第2幕のおばちゃんも、第1幕の老人も、不条理を抱えて、折り合いをつけたりつけられなかったりしてきたのです。それが実に切れ味良く描かれています。

 多分、若い頃に見ても、ふーん、、、で終わっていたであろう作品です。味わい深い逸品です。




人生とは不条理なり。




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