映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

隠された日記 母たち、娘たち(2009年)

2014-10-29 | 【か】



 もう若くはないオドレイは、カナダで単身働いている。思いがけず、恋人とも言えぬ男の子どもを妊娠したけど、産む気になれず、といって、中絶も出来ないで、両親のいるフランスの田舎町に帰って来た。・・・が、相変わらず、母親は冷たくオドレイを寄せ付けないオーラ全開。

 居場所のないオドレイは、両親の家の近くにある、今は空き家となっている母親の実家で寝起きすることに。キッチンを片づけていたら、祖母の日記を偶然見つけ、そこから、オドレイと母親、祖母の3代にわたる女たちの物語が動き出す。

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 オドレイは、アラフォーでしょうね。ちょっと疲れた感じで、どう見ても「訳アリ」。カトリーヌ・ドヌーブ演じる母親マルティーヌがあっさり妊娠を見抜いていたのも当然と言えば当然です。何しろ、マルティーヌは医者ですからね。

 しかし、いつの世も、女は生き方に悩む生き物なのですなぁ・・・。オドレイの祖母ルイーズは、ひたすら外の世界に「生き甲斐」を求めた女性でした。でも端から夫にその芽を摘まれる。幸せを感じられない日々・・・。

 現代でも家庭の主婦で十分生き甲斐を見出している人もいらっしゃる訳ですが、一方では社会での活躍を望む女性も当然いるわけで、ルイーズ世代の女性でも、家庭の中では居場所を作れなかった人も大勢いたのでしょう。

 かと言って、医師としてしっかり自立してきたマルティーヌも、決して人生を謳歌している風にはゼンゼン見えません。ドヌーブは相変わらずの美貌ですが、すごく不満げな顔をしています。娘が持ってきた土産にもケチこそつけないけれど喜ばない。娘が手料理でパーティーを開いてもへそを曲げて途中で帰る。ヒジョーに感じの悪い女性です。

 あれほどルイーズが憧れた、外の世界を持っているマルティーヌもまた、お世辞にも幸せとは言えない様子です。

 オドレイが見つけた祖母ルイーズの日記には、祖母が失踪に至った理由が書かれています。でも、どこか不自然、、、。なぜなら、祖母が失踪した真相は・・・。

 これを書いちゃうと、ネタバレの域を超えてしまうのでやめておきます。ただ、この真相について賛否あるようですが、私は、これは本作にとって欠かせない要素だと思います。

 なぜなら、マルティーヌは母親を誤解したまま生きてきて、だからこそ、表情に刻み込まれるほど不満を抱え込んだ人生を送っている訳です。でも、母親は、自分を「棄てた」のではなかった、という事実を、オドレイが見つけた日記を通してハッキリと知ることによって、ようやく彼女は解放されたのです。この要素がなければ、マルティーヌは救われぬまま、もちろん、オドレイの先行きも暗い・・・。

 ルイーズの哀しみを、マルティーヌとオドレイの2代に渡って少しずつ浄化した物語、と思えば救いがあります。

 ただ、解せない点も。マルティーヌとオドレイが決して仲の良い母娘でない、その理由です。マルティーヌと夫の仲、つまりオドレイの両親の夫婦仲が悪いわけではなさそうです。強いて言えば、オドレイが両親から離れてカナダへ渡ってしまったことがその理由なのかな、と。でもそれにしては根が深そうなのですよね。あるいは、血のつながった親子とは言え、相性が絶望的に悪いとか・・・。母娘の相性が悪いといえば、マルティーヌ自身、母であるルイーズの日記に「あの娘は嫌いだ」とハッキリ書かれていますが。、、、いずれにしても、そこがちょっと解せません。

 途中、マルティーヌとオドレイが車に乗っているシーンで、シャンソン「ブン」がBGMに流れます。助手席のオドレイは、在りし日の祖母ルイーズがカメラに生き甲斐を求めて、生き生きとカメラマンの男性と風景の写真を撮ったり、ポーズを決めて写真を撮られたりしている姿を、ぼんやりと眺めます(オドレイが祖母ルイーズの世界へ入り込むというシーンがいくつかあるのです。オドレイとルイーズが会話するシーンもあります)。「ブン」は爆発しそうな愛の唄ですから、ルイーズの「生きることへのエネルギー」を持て余す様を表しているのではないかと思いました。そう、ルイーズは、必死に生きようとしていたのですね、ただただ。

 本作に出てくる男たちはルイーズの夫を除いて皆、優しいというか、一見良い人です。でも影は薄いし、マルティーヌにもオドレイにも救いになっていないところがキモです。二人とも、自分の母親の姿を見てきた結果、男性にあまり期待できない性分になってしまったのでは。、、、そう、白馬に乗った王子様は女子の生きる道においては何の解決策にもならん、ということを象徴しているようです。

 まあ、全体にあまりグッとくる作品ではないですが、地味ながらも味わいのある作品ではあると思います。


自分を救えるのは自分だけ、って言われているみたいな気になる映画




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トリュフォーの思春期(1976年)

2014-10-27 | 【と】



 フランスのとある町。子どもたちの日常の一コマ一コマを、愛情深いトリュフォーの目線で追った秀作。

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 角川シネマ有楽町で開催中の「没後30年フランソワ・トリュフォー映画祭」にて鑑賞。平日も行けたらもっと色々見たいのだけれども、なかなかそういう訳にもいかず・・・。

 『悪童日記』を見たのと同じ日に見たのだけれども、意外にもこちらの方が、若い人が多かったです。悪童は年齢層かなりお高めで、逆にオドロキ。

 さてさて、私、この作品に惚れました。もう、大好き、って感じです。、、、いえ、ストーリーはほとんどないですし、特に劇的な何かが起きる訳でもありません。まぁ、強いて言えば、終盤、幼児虐待の話が出てくるくらいでしょうか。

 本作に出てくる子どもたちは、2歳のグレゴリー坊やから、中学生くらいまで。子どもたちの屈託のなさと、それが故に大人の滑稽さが対照的で、非常に面白いです。

 インパクトのあるシーンはたくさんありますが、やはり、グレゴリー坊やと、警察署長の娘リシャールのシーンですかね。

 グレゴリー坊やの赤いつなぎルックがめちゃめちゃ可愛い ちょっとおしゃべりなお母さんが買い物帰りに、ご近所の奥さんとコーヒー飲んでいる横で、グレゴリー坊やは楽しそうに買い物袋からパスタやらをバラバラと出して床に開けちゃう。あんな自然な表情、どうやって撮影したんだろう? ネコちゃんを追いかけて10階の窓からから落っこちるところでは、もう手に汗握りますが、グレゴリー坊やの落下シーンはバッチリお人形。植え込みに落ちたグレゴリー坊やは、ニコニコしながら立ち上がると「グレゴリーどしんしちゃった」「グレゴリーどしん、どしん」なんつって呑気に笑って歩いています。ああ、、、

 リシャールは、レストランに両親と外食に行くのに、自分のお気に入りのぬいぐるみバッグを持って行ってはダメと言われます。なぜなら、そのバッグは薄汚れているから。「連れて行かないよ」と親に言われて「いいもん」と言い返す頑固さんな彼女。両親が外からカギを掛けて出掛けた後、警察署長のお父さんが仕事で使うスピーカーでアパート中に聞こえるように「お腹空いた!」と連呼。親に置き去りにされた可哀想な子と思ったアパートの人たちは彼女に窓から食料を差し入れてあげるのです! いや~、こんなことされたら、親はたまりませんね、、、。でも可愛い

 主題歌はシャルル・トレネの「日曜日は退屈」で、実に雰囲気に合っています。

 ただ、子ども天国を描いている訳でもありません。転校生ジュリアンの悲しい実生活。彼は救い出されますが、その後の彼の人生が必ずしもバラ色ではないであろうことが容易に想像され、これは非常に切ないです。家庭が病んでいると子どもは早く大人にならざるを得ません。実際、ジュリアンは頭が良く、知恵も働きます。もう憎らしいほど。この辺りは、トリュフォー自身の投影なのかな、ともちょっと思ったり。彼の生い立ち、知りませんが、、、。

 この後、ジュリアンの担任の先生がクラスメイトに話をするのですが、その内容は、「子どもは自分の置かれた状況を(良くても悪くても)大人のせいにはできない。誰にも文句を言えない。大人は自分で自分の生活を選べるのに」(正確ではありません)というもので、本当に、胸が痛かった・・・。

 そう、子どもは親を選べないんですよ。よく、親たちが勝手に「私たちを選んで生まれてきてくれた」なんて言っているのを見聞きしますが、冗談じゃない、と思います。選べるものなら選んでますって、もっと違う環境を。私の親はかつて「親だって子どもを選べない」と言っておりましたが、どんな子が出現するかも分からない、そんな覚悟もできていないのなら最初から子どもなんか作るな、産むな、と言いたくなりますね、正直なところ。子どもは頼んでおりませんので、産んでくれなんて。

 ま、私の母親は「子どもなんて快楽の産物だ」と娘に面と向かって言い放った人なので、何をかいわんやですが・・・。

 何はともあれ、本作は非常に素晴らしいです。トリュフォーは子どもが好きなのだということが、映像からビンビンと伝わってきて、幸せな気持ちに浸れます。悲しく切ないシーンがあっても、それも含めて、愛しい、抱きしめたくなる作品だと思います。



これぞまさに“愛すべき子供たち”




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悪童日記(2013年)

2014-10-21 | 【あ】



 美少年の双子。戦時、父親は戦地へと趣き、愛する母親に連れられ、町中から田舎暮らしの母親の実家・祖母宅へ疎開してきた。美しい母親の実母とは思えぬ容貌の祖母、おっかないのはその容貌だけじゃなかった・・・。
 
 並はずれた知力と生命力で過酷な疎開生活を生き抜く双子。引き離されるのが死ぬほど辛い二人は、しかし、ある選択をする。突然の幕切れ。

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 原作が好きだという映画友のお誘いで、快晴のお散歩日和の休日に映画館へ・・・。

 何より、主人公の双子くんが、私が原作を読んで抱いていたイメージよりちょっと大きかった。あれは日本で言えば中学1年生くらいじゃないかな。原作では、もう少し下の、小学4~5年生くらいの感じを受けていたのだけれど。

 しかし、中身に関しては、かなり原作に忠実です。よく映像化できたなぁと感心します。一つ原作と大きく異なるのは、おばあちゃんの見た目ですね。原作はやせ細っているのですが、本作ではかなり恰幅の良いおばあちゃんです。でも、まあ、魔女って言われていてもおかしくないルックスです。

 キョーレツなのがこのおばあちゃんなんですが、まぁ、それは原作どおり。双子が絶食している最中に、贅沢にも鶏の丸焼きを作って一人でムシャムシャかぶりつく。その食べ様と言ったらありません。ホント、魔女っぽい。『エレンディラ』で毒入りケーキをムシャムシャ食べる祖母を思い出しました。

 原作の、日記調を上手く生かしながら、映画ならではの「映像で見せるお話」も展開されており、原作ファンを裏切らない出来になっていたのではないでしょうか。

 私自身はそれほど原作ファンではないけれど、映画としては結構イイなぁ、と思いました。戦時下の暗い空気がどんより垂れ込めた薄ら寒い光景が、気持ちをどよ~んとさせる一方で、憎らしいまでに賢い双子の生き様にどこかスッとするのです。

 双子たちのやっていることは、もちろん、えげつないこともあります。一方で、優しさを見せもします。果たして、それが本当に彼らの優しさなのか、それさえも分かりませんが。とにかく、その辺の大人より遥かに頭が良いのです。

 戦争の悲惨さは容赦なく日常に溢れかえる、けれども、決して悲惨さ一色ではありません。

 非常時でも、当たり前だけれど、人間はそれぞれに生きているのです。双子たちはもちろん、おばあちゃんも吝嗇に徹しつつ隠した宝物を眺めてはほくそ笑んだり、我が子を疎開させた美しい母親は父親と双子のいない間に赤ちゃんを産んでいたり、おばあちゃん宅に間借りしているゲイの将校は部下とお楽しみに励んだり、、、みんな「生活」しているのです、戦火の下で。どこか緊張感はあるけれど、別に皆、絶望している訳じゃない。楽しみも悲しみもフツーにある生活をしているのです。

 その昔、もの凄く悲しくて、もう動く気力もないほど絶望していたのに、時間がたったら「腹が減っている自分」に、もの凄くショックを受けたことを思い出しました。そう、人間てそういう生き物なのです。

 双子たちも置かれた環境で、もの凄く逞しく生きています。そして、彼らは彼らにしか分からないある選択をするわけですが、ここでラストシーンなので、見ている方は「え゛ーーー」なのよね。まあ、これも原作どおりといえばそれまでですが・・・。

 この続編といわれる「ふたりの証拠」「第三の嘘」については、私は読んでいないので、双子の先行きは分からないけれど、本作を見たらちょっと読みたくなってしまった、、、。

 双子を演じた本物の双子くんは、本当に美少年の双子で、それがよけいに本作全体に厳しさを際立たせている感じです。



これぞまさに“恐るべき子供たち”




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はじまりは5つ星ホテルから(2013年)

2014-10-20 | 【は】



 40歳独身女のアタシ。仕事アリ、友達以上恋人未満の男アリ、だけど、夫ナシ、子ナシ。私の人生、これで良いのかしら。ホントに良いのかな・・・。いいとも!! 、、、あ゛ー

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 40歳のおばさん、イレーネの自分探し物語。これ、劇場に見に行こうかと思っていたのだけど、行かなくて正解でありました。まあ、自分探しネタだとは知っていたけれども、「5つ星ホテルの覆面調査員」の仕事ぶりがどんなか見てみたかったのです。もうちょっとカッコイイおばさまのお話かと思っていたのに。、、、正直、ガックシです。

 確かに、実際の5つ星ホテルの内部が惜しげもなく映されていますので、それは目の保養になります。でもまあ、本作の見どころは、ほとんどそれだけ、と言っても過言ではないでしょう。その割には、それほど豪華内装などの映像がふんだん、というわけでもなく中途半端です。

 こういう、手垢のつきまくったネタに敢えて手を出すからには、夫だとか子どもだとか恋人だとか家族だとか、そういうのと天秤に掛けるのはナシでしょう。いや、それやってもいいですけれども、出し方があんまりです。チープすぎます。「専業主婦で2人の子育てに追われる生活に疲れた妹」と「過去に付き合っていた男」ですよ?? もう、石投げりゃ当たりそうなネタでしょう。

 そして、その過去の男に思いがけず子が出来て「昔、オレの子を妊娠していたら産んだか?」なんてその男に聞かせるんです。、、、もう吐きそう。オエッ。・・・まあ、40歳という年齢は、ギリギリ出産可能年齢ですから、そういうのを入れたんですかねぇ?

 女ってのは、一体、どういう人生なら「納得だわ」と思うんでしょうか。小説とか映画とかドラマとかに描かれる女たちのモラトリアムって、大抵、仕事も子どもも家族も趣味も恋もあれもこれも・・・、ってやつでしょう。そんなのスーパーマンじゃあるまいし、ムリに決まってんだろ! と思うわけです。

 現実の女たちも、まあ欲張りですよねぇ。子どもも欲しい、仕事もしたい、夫にも愛されていたい、、、はいはい、頑張って、って感じですが。

 そういう私も女でイレーネよりもおばさんですが、40歳の頃って言えば、もういい加減、自分の人生に欠けているモノは何かなんて認識し、ほぼ完全に受け入れていましたねぇ。逆に、今あるものをいかに活かして生きていくか、これに尽きると悟った頃ですが。そして、これから確実に失うものも見えてくる頃です。それも、まあ、あんまり楽しいことじゃないけれども受け入れるしかないわけです。

 、、、ていうか、40歳って、そういう年齢じゃないのかね。

 本作でも、最後の方でとってつけたように、いわゆる「足るを知る」的な描写があり、とりあえずハッピーエンドですが、これがまたメチャクチャ陳腐で、ゲンナリします。

 人間には2種類しかいないと常々思います。「必ず後悔する人」と「絶対後悔しない人」ね。どっちが良いとか悪いとかじゃないのです。こういうハナシの主人公に後者はなり得ない、ってことは確かですが。そして、私自身も後者ですが、、、。だから共感しにくいのかも。

 ま、こういうのを見て共感し、元気になれる人がいるのなら、それはそれで素晴らしいことだと思います。 

 でも、敢えてイレーネに言ってやりたい。孔子じゃないけど、「四十にして惑わず」なんだよ、と。いつまでやってるつもり?

 イレーネが40歳未満なら、まあ赦せたのかも知れませんが・・・。40歳にしてはえらく老けている気がするしなぁ。ちょっとカトリーヌ・ドヌーブに似ている感じもアリで美しい女優さんなんですけれども。


オバサンの自分探しに付き合ってなんかいられねぇんだよ、っての。




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三人の女(1973年)

2014-10-17 | 【さ】



 ピンキーにとってミリーは完璧な女性。、、、が、そんなミリーの意外な一面を知り、衝撃を受けたピンキーは自殺未遂を起こし、それを機に人格が180度変わってしまう。まるで、ピンキーとミリーが入れ替わってしまったみたいな関係に。そしてもう一人、喋らない女ウィリー。彼女が産気づき、再びピンキーの人格は元に戻り、、、。

 イタい勘違い女ミリーをシェリー・デュヴァル、テキサスから出てきたばかりの田舎娘ピンキーをシシー・スペイセク、というキョーレツ共演で、アルトマンによるホラー映画が見事成立、、、。ひょえ~~

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 予備知識なく見たのが良かったのか悪かったのか。もの凄い衝撃を受けてしまいました・・・。

 とにかく、謎だらけです。分からないことだらけだけれども、イヤ~な緊張感が全編を通じて支配しており目が離せません。これには、ジェラルド・バスビーの音楽もかなり影響していると思いますが・・・。

 もう、オープニングから不穏さ全開。で、スペイセクの能面みたいな顔での出現です。これは、予備知識なくてもホラーだと分かります。次いで出てくるのがデュバルです。もう、背筋に寒いものが走りました。これから何が起きてしまうのか・・・!!

 この2人の演技が、まあ、なんというか、マジで怖い。というか、気味が悪い。おかしいのです、2人とも。

 ミリーを「完璧な女性」と敬うピンキーもおかしいし、ピンキーが自分のルームメイトとして名乗り出てきたのをすんなり受け入れるミリーもおかしい。当人たちだけはゼンゼンおかしいなんて思っておらず、余計に見ている者はもの凄く不安にさせられるのです。それがずーっと続きます。

 タイトルからいって、もう一人の女性がもちろん出てくるのですが、このウィリーはほとんどセリフがありません。オープニングから何度も出てくる壁画を描いている女性です。この夫が、ミリーやピンキーと関係しているのですが。

 おかしな出来事があれやこれや続いた後、数年後として、ラスト、この3人の女性はウィリーの夫が経営していた店で同居しています。ミリーがピンキーの母親の様で(実際、ミリーはピンキーを「ミリー」と呼んでおり、ピンキーはミリーを「ママ」と呼んでいるのです)、ウィリーは、、、なんというか、祖母の様なのです、ピンキーの。これがまたよく分からない。

 ミリーとピンキーの関係性で言えば、人格の入れ替わり的な話、とも言えます。例えば、ミリーの日記を盗み見ていたピンキーが、自殺未遂後、性格が豹変し、まるでミリーの日記帳を自分の日記帳のごとく、自分の心情を綴るのです。自分の日記を見られたと思ったミリーがピンキーの書き込みに読み入っているのを見たピンキーは、烈火のごとく怒って、ミリーの手から日記帳を奪い怒鳴ります。「勝手に見るな!」と。

 しかし、こんな入れ替わりも、すぐに収まります。不思議な夢のシーン(ピンキーが見ているのか、ミリーが見ているのかは分からない)の後に、ピンキーは元のキャラに戻っています。、、、ううむ、分からん。

 アルトマン自身が、本作の解釈は鑑賞者に任せる、と言っているそうですので、まあ、私なりに考えてみました。

 これは、女たちを戯画化した、アルトマンの痛烈な揶揄作品かなと。自分を客観視できない女(ミリー)と、自分がない女(ピンキー)、自分だけが全ての女(ウィリー)、これらが、アルトマン式「女の類型」。どんな女も大別すればこいつらのどれかに当てはまる。みんな大なり小なり「おかしい」。

 ミリーの黄色に溢れた部屋が薄気味が悪い。ガストン・ルルーの「黄色い部屋の秘密」が一瞬頭をよぎる、、、。あれもかなりヘンな話だった・・・。そもそも黄色って欧米ではあまり良い意味の色ではないでしょ。それがミリーのイメージカラーってだけで、十分、アルトマンの悪意が感じられる気がするんですけど・・・。ピンキーのイメージカラーは文字通り、ピンクだし。ピンクって一つ間違うと、すごいダサくなる色で、田舎娘の象徴としてアルトマンが使ったと考えるのもアリかも。

 でも、アルトマンは、男の中では唯一意味ある存在のウィリーの夫エドガーも戯画化。それが証拠に、ラストシーンで女3人の同居場所に彼はおらず、その理由が「銃の暴発事故」としているのだけれど、これがどうも怪しい。3人の女のうち誰か(私はピンキーじゃないかと思うけど)に殺されたに違いない、という空気が画面からプンプン漂ってくるのです。そう、男は最終的に抹殺される存在だっていう、、、。ぎゃー。

 つまるところ、女も男も関係なく、人間の「みっともなさ」をこれでもかってくらいに突き放して描いているのではないか、と。「あいつバカだなぁ、と言っているお前がバカなんだよ、そういう自分も十分バカ・・・」と言われているような、、、シンプルに。メタファーとかそういうのじゃない気がするのです。

 まあ、でも、そんな解釈、どーでもいいと思うくらい、本作は面白いし、オカシイです。笑えないオカシさ、ゾッとするオカシさ。異次元世界に連れていかれたような気分になります。

 ちなみに本作は、アルトマンがベルイマンの『ペルソナ』にインスパイアされて作ったということなので、そっちも見てみようかな。



アルトマン的ホラー。傑作。




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ウエディング宣言(2005年)

2014-10-13 | マイケル・ヴァルタン



 イケメン外科医の息子を、どこの馬の骨とも知れない派遣社員女に奪われるのを阻止しようとする、かつての花形テレビ司会者のオバサン。原題“Monster-in-law”の通り、モンスターなMother in lawが大暴れするドタバタラブコメ。、、、ごーん。

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 本作を見る前、ジェニファー・ロペスに対して、全くと言っていいほど先入観はありませんでした。彼女の出演作も、多分『アナコンダ』くらいしか見たことない(つーか、アナコンダでの彼女の印象はほぼゼロ)ですし。

 でも、彼女のルックスは、チャーリーのキャラに正直合っていない感じがしましたねぇ、、、。いや、後半、ジェーン・フォンダ演じるところのモンスター姑ヴァイオラに逆襲するところからは合っているのですが、だからダメだなと。

 前半、マイケル・ヴァルタン演じるケヴィンに見初められ、かなり強引に口説かれるのですが、その時のチャーリーは非常に可愛らしいわけです。可愛らしい女性が、モンスター姑に強く立ち向かうからこそ、ドラマになる訳で、ジェニファー・ロペスが立ち向かっても「やっぱりコイツやったね」としか思わないでしょ。いかにも逆襲しそうにない可愛らしいルックスの女性がやるからこそ面白くなると思うんですけれど・・・。

 ジェニファー・ロペスは、チャーリーを演じるにはゴツ過ぎます。可愛くないわけじゃないけれど、ゴツいのですよね。体形も醸し出す空気も。すごい逞しそうだもの、一見して。

 本作は、引退宣言していたジェーン・フォンダの復帰作だったとか。彼女の出演作もあまり見ていないので、彼女への思い入れもゼンゼンないけれど、憎ったらしいモンスターおばさんを体当たりで演じておられました。彼女ほどのキャリアの女性が、なぜ本作を復帰作に・・・? と疑問に思ったけれど、インタビューで「復帰作にシリアス系は避けたかった」みたいなことを言っていて、まあ、そういうものなのかなぁと。リハビリってやつですかね。

 内容では語ることもほとんどない底の浅い話ですけれど、どうも、ラストのハッピーエンドへの持って行き方がつまんないですね。ヴァイオラの姑(最初の夫=ケヴィンの実父のお母さん)が突如現れ、過去のヴァイオラ自身の嫁としてのダメっぷりを思い出させ、それを機にヴァイオラが目を覚ます・・・、みたいな、ものすごく陳腐な展開。あんな壊れたオバサンがそれくらいのことで「気付き」を得る訳ないでしょーが、と突っ込みたくなります。

 ここは、当然、イイ子ちゃんの息子とモンスターとの直接対決をさせるべきでしょう。イイ子ちゃんでしかなかった息子にキョーレツな一撃を喰らわされるくらい(多分、現実ならそれでも全然ダメだと思うけど)のことがないと、あんな暴走オバサン、変わりっこありませんて。

 でも、本作でのケヴィンは、本当にただただイイ子ちゃんで。いくら、ジェーン・フォンダとジェニファー・ロペスを見せるための映画だからって、安易過ぎでしょ、シナリオが。

 ま、私が本作を見た目的は、両主演女優などでは全くなくて、ただただマイケル・ヴァルタンを拝みたかったからなのでした。最近、「アリー・myラブ」を久しぶりに見ていて、もともと、チョイ役のジョナサンを演じていた彼が素敵だなーと思っていたのだが、あのドラマもオンエアされて既に10年以上、、、ジョナサンも素敵というより、可愛いなー、とオバサンになった私の目には映ってしまった、、、トホホ。

 でも、本作での彼は、37歳ですかね。相変わらずおキレイでした。あまりにもキョーレツな女性2人に挟まれ影薄かったですけどね。彼が、ジェーン・フォンダを(もちろんセリフでですけど)ぶちのめす意外性溢れるシーンが見たかったよ。


J.Loがゴツ過ぎて意外性まったくナシ




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ジャージー・ボーイズ(2014年)

2014-10-08 | 【し】



 学はないけど声と歌唱力は素晴らしいフランキー、ムショとシャバを往復しているトミーとニック、曲を作る才能に恵まれたボブ、、、彼らがかもし出した音楽は、やがて世界中をとりこにしていくのだが、峰高ければ谷深し、彼らに苦難が次々降りかかる。

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 ミュージカルがそもそも好きじゃない上、俳優イーストウッドは愛しているけれど、正直、監督イーストウッドはちょっと苦手でして、本作も、どーすっかなぁ・・・、と迷っていたところへ、映画友からお誘い。乗るしかないでしょ、これは。

 しかし、丸の内ピカデリーは、『NINE』以来だけど、またしてもガラ空き。900席近くあるから当たり前かもだけど。でもって、来ている人々の年齢層、高っ! アタシ達なんか若者だったよ、マジで。懐メロなんでしょうか、やはり。

 さて、最初に断わっておくと、私、ザ・フォー・シーズンズなるものを本作に接するまで知りませんでした。彼らは、「ロックの殿堂」入りしているらしいのですが、果たして、彼らの音楽をロックと言えるのか・・・? 

 とまぁ、そんなことすらよく分からない、ロックの知識ほぼゼロの私が見ても、楽しめる作品です。

 4人の成功と苦難の物語ですが、イースドウッド調はあまりなく、悲劇もかなり淡々とした描写。というか、ものすごく王道です、物語として。苦労して成功したが、成功した者にしか分からない苦悩と苦難が次々押し寄せる・・・、そして、彼らはもがきながら人生を歩んでいるんだ! という感じで、、、。正直、84歳が撮った映画とは思えないくらい、「青い」です。

 また、ミュージカルが基ということもあってか、彼らが時々カメラ目線で語りかけてくるけれど、違和感はほどんどなし。終盤に、この演出の妙が冴えます。なので、非常に意義深いとさえ言えます。

 今回、イーストウッドは、恐らく、あくまで彼らの「音楽」にスポットライトを当てたかったのではないかと感じました。彼らの人生は、音楽を通して見える程度で良い、と。それで十分と考えたのでしょう。音楽はそれほどまでに、イーストウッドにとっては雄弁だったに違いありません。

 なので、見終わった後も、音楽の印象が非常に強く残り、物語としての印象は薄めでシーンとしても脳裏に残るものはあんまし、、、。唯一、ラストの、ザ・ミュージカル的な一幕くらいでしょうか。あれは賛否あると思いますが、私は好きかも。よぼよぼになったC・ウォーケンもおぼつかない様子で拍子取っててイイ感じじゃないですか。みんな楽しそう。

 イーストウッドがミュージカル? と一部では言われていたけど、私はあまり意外じゃなかったです。彼が、音楽好きなのは有名ですし、音楽をネタにした作品も撮っていますので・・・。どんなふうにさばくのかと思っていましたが、さすが、見せる作品です。2時間超の長さを全く感じさせません。素晴らしい。

 まあ、深みはあんましないけれども、音楽が好きな人には、・・・いえ、大して好きでない人でも、見て損はありません。多分、劇場で見た方が良いでしょう、これは。

 ところで、本作を見て、“Can't take my eyes off you”がフランキーのオリジナル曲だったなんて初めて知りました。あと、“Short Shorts ”がボブの作品だったことも。サントラ、買っちゃおうかしら。


君の瞳に恋してる!!




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リスボンに誘われて(2012年)

2014-10-06 | 【り】



 偶然にある本を手にして読んだことから、その本の著者に惹きつけられた高校教師のライムントは、走り出した電車に飛び乗り、著者に迫る旅に出る。今は亡き著者の壮絶な過去に触れ、心揺さぶられたライムントは、自らの人生を振り返る、、、。

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 ジェレミー・アイアンズ主演で、シャーロット・ランプリングもご出演、とあれば、まあ、見ないわけにはいかないよな、ということで、劇場まで行ってまいりました。サービスデーだったにしては、割と空いていましたねぇ。大ヒット!満席続出!と広告に出ていた割に、普通の入りでした。

 なんつっても、かなりの豪華キャストです。ヨーロッパの実力派を揃えたり、って感じです。ですが、、、ジェレミー・アイアンズ、すごい老け様です。まだ70歳になっていないのに、すごい爺さんになってしまっていて、かなりの衝撃・・・。

 美しいリスボンの街並みを惜しげもなくバックに、ライムントが偶然手にした本「言葉の金細工師」の著者の過去に迫ります。この著者アマデウの過去が明かされていく過程の描き方が、回想シーンを多用している割にはすっきりと簡潔にされており、また、アマデウと彼を取り巻く人物たちの描写も過不足なく、非常に秀逸だと思います。

 アマデウは、将来を約束された裕福な医者であったのに、レジスタンスに身を投じ、激しい恋にも落ち、友情も壊れ・・・という青春絵巻が展開され、それを、40年経った現在から振り返るのですが、アマデウの周囲の人間たちの現在を演じている役者さんと、若い頃を演じる役者さんが、皆さん、雰囲気がかなり似ていて上手いキャスティングだなあと、そういう点でも感心します。邦画だとゼンゼン似ても似つかぬ役者が演じていることも少なくない中、こういう所も素晴らしいと思いましたね。

 ただ、ちょっとだけ難を言えば、良い映画だったなぁ~、で終わっちゃうところですね。それだけでも十分ではありますが、すごくもったいないような気もします。どうしてそう感じるのか・・・。考えてみましたが、良くも悪くも「お上品」なのかな、と。セリフで説明されるところも多いし、登場人物がみんな割と「常識的」な行動をしているのです。冒頭、電車に飛び乗ってしまうライムントを除いては・・・。良い意味での裏切りがないのですね。先が読める、というのとはちょっと違って、想定内で話が進んで行くのです。

 本作の監督、よく見たら、リーアム・ニーソン主演の『レ・ミゼラブル』の監督さんと知って、ちょっと納得しました。あの『レ・ミゼラブル』もなかなか良い作品だけど、ちょっと食い足りないというか、グッと来なかったのですね。本作と鑑賞後感が驚くほど似ています。

 あとはまあ、ラストシーンですかねぇ、ちょっと気に入らない。著者の実像に迫る旅を終え、ライムントは、アマデウの人生と自分の来し方を比べる訳です。「オレの人生、取るに足りないんじゃないか・・・」ってやつです。思わせぶりに本作はエンドマークとなりますが、こういう、ある人の劇的な人生の一幕と、自分の平凡な人生を比べて、自分の人生に価値を見出せなくなるって、あまりに陳腐なんじゃないでしょうか。

 ライムントが30代くらいの若者なら、まあ、百歩譲ってまだ許せます。がしかし、人生の夕暮れ時を迎えている爺さんです、彼。人生とは何か、生きるとはどういうことか、、、そんなこと、嫌っていうほど考えてきたはずです。

 そもそも、ライムントのそれまでの人物像と矛盾すると思うのです。確かに今の彼は、妻に逃げられ、ちょっと世捨て人っぽい。しかし、これまで教育者として生きてきて、おまけに「言葉の金細工師」という本には、今まで自分が考えてきたこと全部が書かれている、ということで旅への衝動に繋がっているはず。つまり、彼は、自分とこれまできちんと向き合ってきた人間なのです。自問自答しながら、きちんと生きてきた人、、、じゃなかったの?

 それが、ここへきて、アマデウの人生を通して自分の人生を見つめるとは、どうにも解せない展開です。そんな薄っぺらな爺さんだったのかよ、って。まあ、そんなことは百も承知な彼だけれど、ちょっとだけ感傷的になっちまった、ってことにしておきますか。

 、、、と、ケチをつけたけれど、見て損はないと思います、もちろん。

 ・・・それにしても、ポルトガルの歴史なんて全然知らないので、独裁政治がつい最近まであったこと、今も決して豊かといえない現実があることなど、初めて知ったことも多々・・・。パンフを読んで、へぇー、と思うこともたくさんありまして、これは是非とも原作も読んでみなくては、と早速、図書館で予約いたしました。


すべて人生に軽重なし




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ロープ(1948年)

2014-10-04 | 【ろ】



 なかなか見た目の良い男が2人、1人の男の首を締め上げております。ついにその男は絶命。しかし、何かヘン。この殺人に大した動機がないらしい・・・。おまけに2人のうち1人はすんげぇイヤなヤツ。

 実際にあった「レオポルド&ローブ事件」をベースにした戯曲の映画化だそうで、、、。

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜

 冒頭に書いた、イヤなヤツってのはブランドンですが、もう1人のフィリップってのが、そもそも何でこんな計画に乗るのか? と素朴な疑問がわくほどの腰抜けなんですね。まあ、複数犯の典型的な組み合わせです。なので、のっけから若干シラケます。

 でまあ、途中、おせっかいなというか、KYなオバサンが出てきたり、フィリップが挙動不審になったりと、お約束な展開が続きますが、ここで、ジェームズ・スチュアートが登場します。で、彼が鋭い観察眼で(?)2人の犯行を見抜いて暴く、という訳です。

 ミステリーとしては、ハッキリいって、三流以下。倒叙ですが、その醍醐味は全くありません。なぜなら、ジェームズ・スチュアート演じる教授だか何だかが真相を暴くその過程が、いわゆる「ただの勘」ってやつだからです。いくら被害者の帽子を発見したからと言って、フィリップの挙動不審と、家政婦のオバサンの言動だけから、真相が分かるなんて、ほとんどエスパーです、現実なら。

 ただ、本作の見どころは、そこじゃないのかも、という気もします。戯曲が基ですから、場面は2人の部屋だけです。つまり映像的に変化に乏しい。そこで、ヒッチコックが工夫した長回しと画面転換に特徴を持たせ、それを本作の見どころの一つとしたのでしょうね。

 見どころのもう一つは、殺人を犯すに至った、ブランドンの精神構造について語られるところでしょうか。選民思想といいましょうか、自分は人を殺しても赦される種類の人間で、殺されるのは劣る輩だという、、、。まぁ、こういう手に負えないヤツらってのは確かにいます。殺しはしないけど、自分を相対評価しないと生きていけない人々には、往々にしてこういう思想が程度の差はあれ根底に流れている気がしますね。私の身の回りにもいますから。

 そういう輩へのヒッチコックの皮肉? いやぁ、それは違うでしょう。ヒッチコック自身、選民思想に侵されている気がします。選民思想ってのは、ある意味、劣等感に通じるものです。アイツより上、アイツより下、そういう思想です。でも、彼は無自覚でしょうね。もし自覚があったら、もっとパンチが効いた作品になったと思うので、彼の才能ならば。

 ブランドンとフィリップは、ゲイカップルということだそうです。まあ、見ている間も、そうかなぁという気はしていましたが。もういいよ、ゲイは。最近続いたもので、いささかウンザリです、、。


完全犯罪ゲームの結末は・・・




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