映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

レザボア・ドッグス(1991年)

2024-06-29 | 【れ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv10341/


以下、wikiからあらすじのコピペです。

=====ここから。

 ロサンゼルスを拠点とする裏社会の大物ジョーは宝石強盗を計画し、息子エディと共に6名の実行メンバーを集める。互いの素性を隠すためにコードネームで呼び合い、いよいよ強盗計画が実行される。

 現場から逃走したメンバーが集合場所の倉庫に集まり始めるが、計画通りに運ばなかった事態の中で、情報が警察側に漏れていた疑いが生じる。

 彼らは互いに不信の念を抱き、拳銃を突き付け合う

=====ここまで。

 デジタルリマスター版。


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 タランティーノ作品で見たことがあるのって、本作だけなんだが、本作は、その後のタランティーノ作品について私の見る気を失わせた記念すべき映画。何故か? 面白くなかったわけではなく(面白かったわけでもないが)、暴力描写が性に合わないな、、、、という直感的なもの。

 暴力描写って、もちろんどれもそんなに見ていてイイ気持ちはしないものだが、本作の場合、生理的にちょっとイヤだな、という感じかしらね、、、(後述)。

 なので、別に好きな映画というわけではないのだが、スクリーンで見たことなかったし、音楽はまあまあ好き(なぜかサントラを持っている)なのもあり、早稲田松竹に見に行った次第。

 本作は、みんシネでも平均点が7.49点(6月29日現在)という、なかなかの高得点だし、世間での評価も高いっぽい(知らんけど)。タランティーノのデビュー作で、早稲田松竹のHPでも「現代の映画は“ここ”から始まった。」とか「史上最高のインディペンデント映画」とか、とにかく大絶賛である。

 私がこの映画を初めて見たのは、多分、公開から10年以上経っていた2000年以降(DVDで)だったと思うが、正直、ピンと来なかった。話もアレだけど、全体に流れる雰囲気が、私には下品に感じた。……けれど、スタイリッシュだとか、オシャレだとか言われている節もあり、どうも自分の感性と世間の評価が大きくズレている。そんな映画は他にもいっぱいあるけど。

 それで、ウン十年ぶりに再見したわけだが、スクリーンで見ても、あんまし印象は変わらなかった。

 話題の、冒頭の会話シーンだが、、、。アレ、面白いの? 初見時にも感じたけど、オヤジ感丸出しの超絶お下劣会話で、オッサンたちには面白いのかも知らんが、女の私にとっては聞くに堪えない上に、中身も全く面白さが分からん。

 その直後のオープニングは、「Gメン'75」みたいに(ちょっと違うけど)登場人物が横に並んで一人一人ストップモーションになるってのなんだけど、これを、すげぇカッコイイとかみんシネでも書いている人が散見されたんだが、、、、私はテレビドラマみたいやなー、、、としか。音楽は良い。

 で、いきなり、オレンジが血塗れになっているシーンになるのだけど、私が本作のバイオレンス描写で一番イヤだったのが、このオレンジの血塗れが結局ラストまでず~~~~っと続くことなのよね。しかも、どんどん血糊の量が増えて、終盤なんか、まさに文字通り「血の海」。しかも、その状況で、オレンジは虫の息で生きているわけよ。やめてくれ、、、と言いたくなる。見ているだけで、何か精神的に削られる。見なきゃいいじゃん、、、といわれても、見ないと本作の半分くらいは見られないことになってしまう。

 ストーリーとしても、あまり意外性はなく(それは別に構わないが)、かと言って面白いわけでもなく、、、。いや、まあ面白くないとまでは言わないが、面白いとまではなぁ、、、。人に「面白かった?」と聞かれれば、「うぅ、、、まあ、面白くないってほどでもないかな」という答えになる。

 だって、本作のストーリーって、裏切り者は誰だ?の一言だし。こういう単純なストーリーの場合、いかに人物描写に奥行きを出すかが大事だと思うけど、タランティーノは、そういうことにはあんまし興味ない監督に感じた(本作に限って言えば、ってことです。他は見ていないので分かりません)。

 ラストの3人が銃を向け合って、、、ってのはなかなかユニークではある。結局、ブシェミのピンクは飄々と生き残り、それがまた良かったのだけど。

 とはいえ、タランティーノ作品のみんシネでの評価は結構高得点のものが多く、監督として映画ファンを楽しませる良作をコンスタントに、しかも長期にわたって発表し続けているってのは、純粋にスゴいことだと思う。そのスゴいことをしている監督のデビュー作ということで、ちょっと世間では過大評価されている気もしないではないが、コアなファンがいるのも分かる気がする。

 スクリーンで見て印象がガラリと変わる映画も多いけど、本作は、ゼンゼン変わりませんでした、、、ごーん。

 

 

 

 

 


他のタランティーノ作品も見てみようかな、、、。

 

 

 

 

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インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア(1994年)

2024-06-16 | 【い】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv10599/


以下、amazonの商品紹介よりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 現代のサンフランシスコ。街を見下ろすビルの一室で、インタビュアー(クリスチャン・スレイター)を前に美しい青年ルイ(ブラッド・ピット)が自らの半生を語り始めた。

 18世紀末、最愛の妻を亡くし、絶望の淵に沈む彼の前に現れた悪魔的美貌の吸血鬼レスタト(トム・クルーズ)。彼によって永遠の命を与えらたルイは、レスタトと共に世紀末の夜をさまよう。人間の命を奪うことをなんとも思わないレスタトに対し、人間の心を捨てきれずに苦悩するルイ。

 だがある夜、母の亡骸にすがりつく少女クローディア(キルスティン・ダンスト)と出会ったルイは、衝動的にその命を奪ってしまう。彼女をヴァンパイアの一族に招き入れるべく新しい命を吹き込むレスタト。しかし、それは思わぬ悲劇の始まりだった!

=====ここまで。


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 BSでオンエアしていたので、録画しました。公開当時、かなり話題になっていたけど、イマイチ興味が湧かずにそのままスルーしてしまい、その後、地上波でも何度かオンエアしていた気がするし、BSでもVHS時代に録画しましたけど、結局見ないまま上書きしたみたいで、とにかく縁のない映画でした。

 その後も、DVDを借りることもなく、気が付けば公開から30年(!)も経っていたのでした、、、ごーん。30年かかって、ようやく全部ちゃんと見ることが出来ました~。

 ちなみに、今さら名画シリーズにしようかとも思いましたが、見てみて名画とも思えず、世間の評判的にも名画として定着しているとも言い難い気がするので、やめました。


◆ゴシックが似合わないトムクル

 トムクル、、、どっから見てもアメリカンな男。役者として云々という以前に、彼が吸血鬼(ヴァンパイア)ってのは、ドラキュラ=中世~近世ヨーロッパ、っていう先入観がある者の目には、どうにも雰囲気的にミスマッチ感が拭えなかった。……といっても、原作者がアメリカ人だから仕方がないのだが。

 もちろんトムクルは頑張っているのだが、頑張っているのが画面からビンビン伝わってくるのがまあまあイタい。ブラピは、何だかやる気なさそうに見える。そういう役なんだよ、、、ってのは分かるが、終始“アナタ、嫌々やってるでしょ”、、、って感じだった。

 トムクルは原作者に痛烈ダメ出しされていたらしいし、ブラピはあんましこの役は乗り気じゃなかった(?)みたいだし。2人のそういう背景が映像からビンビン伝わって来ちゃうってのが、ある意味面白くはあるのだが。ブラピがあんましカッコよく見えなかったなぁ、、、全編通して。髪型とかメイクとかが合っていなかったのか、、、。トムクルはキレイだったが。

 ブラピが乗り気じゃなかったっての……、んまぁ、分かるよ、分かる。いくら原作小説がベストセラーでも、所詮吸血鬼モノだもんね。小説だから読めても、映像化した途端にバカっぽくなるもんね。


◆本作も例外ではなかった

 このブログでも吸血鬼映画を何本か取り上げているけど、「ダリオ・アルジェントのドラキュラ」(2012)にも書いたとおり、私には“ヴァンパイア映画≒バカっぽい”という思い込みがある。

 なので吸血鬼モノについては、感想も悪口が多くなってしまっている(唯一の例外は「ぼくのエリ 200歳の少女」(2008)だった)。本作は、文芸作品ぽい“本格派”を狙っているように見受けられるのだが、やはり“バカっぽい”路線に見えてしまった 

 ちなみに、本作との類似性(というか似過ぎやろ、、、としか)が言われているマンガ、萩尾望都の『ポーの一族』も、マンガとして読んでいて別にバカっぽいとは思わなかった。

 で、何で映像化するとバカっぽく見えるのかを真面目に考えた。

 まずは、おさらい。吸血鬼モノの主なお約束4か条。①人間の生き血を吸わないと生きていけない、②歳をとらない、③日光を浴びると死ぬ、④血を吸われた人間は感染して吸血鬼になる

 ついでに言うと、この4か条とお約束が似ているのが“ゾンビ”なんだが、ゾンビ映画を見ていてあんまし“バカっぽい”と感じたことはないのだよな、、、。もちろん、そんなにたくさんゾンビ映画見ていないので、ゾンビ映画を語れないのだけど。

 本作もこの4か条は全部守られている。もちろん「ぼくのエリ~」もそうだった。だから、バカっぽく見えてしまうのがこの4か条にあるのではないのだと思われる。

 ん~、色々考えても、これだ!という原因は思い当たらないのだが、強いて言えば、吸血鬼モノでは、吸血鬼が“葛藤”するんだよね。ゾンビと同じく、夜行性で人間の血(ゾンビは肉?)を吸わないと生きていけない“バケモノ”のくせに、自分が生きるために人を襲うことに罪悪感を抱いて“葛藤”している。ゾンビは葛藤なんかしないもんなぁ。

 ゾンビに限らず、バケモノ系映画でのバケモノって、自分がバケモノとして生きていることに葛藤なんかしていないんじゃないか? 人間が人間でいることに葛藤していない(まあ、中にはしている人もいるかも知らんが、一般論として)のと同じで。引き換え、知性や理性があることになっているのだ、吸血鬼は。

 本作でも、ブラピ演じるルイは、自身が生きるために生き血を吸うことに激しく葛藤している。一方の、トムクル演ずるレスタトは、人の生き血を吸うことに葛藤していない。それは、彼とルイの吸血鬼キャリアの長さが違うから、、、ってことかしら。レスタトも吸血鬼になったばっかの頃は葛藤していたのか?

 それを考えるのに役に立つのが、キルスティン・ダンスト演ずるクローディア。彼女はルイによって吸血鬼にさせられたのだが、吸血鬼になった直後から、あまり葛藤はなさそうであった。それは彼女が子どもだったからってこと? ん~、イマイチすっきりしませんな。

 いずれにしても、バケモノのくせに、ヘンに人間みたいな思考回路でウジウジ葛藤して、でも結局、人の首に吸い付いて「嗚呼、、、殺してしまった、、、ぅぐぐ、、、、」とかやってるのが、客観的に見て滑稽でしかない、ってことなのかも。

 とはいえ、あのフランケンシュタインに描かれる化け物も、最初はただのバケモノだったのが、だんだん知性が付いてくるとやはり“葛藤”し始めるんだよね。でも、フランケンシュタインの化け物を映画で見ても、別にバカっぽいとは感じなかったわけだから、この“葛藤”というキーワードが答えでもなさそうである。

 そもそも、吸血鬼モノがバカっぽく見えているのって、私だけなのかも。ネットでいろんな吸血鬼モノ映画の感想を拾い読みしても“バカっぽい”(orそれに似た形容)と書いているものは見かけないもんな、、、。

 吸血鬼モノに見られる“葛藤”には、バケモノより人間の方が上等だという感じがうっすらあるような気もするが、それは、私の潜在的な差別意識が投影されているだけかも知れず、何とも言えない。


◆その他もろもろ

 一番印象に残ったのは、首をザックリ斬られたレスタトがワニ池に投げ込まれるシーン。何でそんな中途半端な処理をするのか?ってね。私がルイなら、完全に首を切り落として、心臓に杭を打って、、、と、完全処理をするけどなー、、、って。

 トムクルはかなりダイエットしたというだけあって、顔も、顎が尖ったシャープな感じであった。原作者は、レスタトにジュリアン・サンズを想定していたというのだが、是非、ジュリアン・サンズで撮って欲しかったものだ。全然作品の雰囲気は変わっていただろう。ちなみに、レスタトには、DDLも候補に挙がっていたらしい。

 まあ、日本人から見ると、どうしたって『ポーの一族』と似ている、、、と思っちゃう。人物配置もほとんど同じだしね。でも、原作もマンガも、ほぼ同時代に、全く別の場所で生まれているってスゴい偶然もあるものだ。

 クローディアを演じていたキルスティン・ダンストは、当時12歳?くらいだったのだけど、すごい女優。12歳でこれって、ジョディ・フォスターも真っ青だね。子どもの頃の方が可愛い。

 ラストにリヴァー・フェニックスへの献辞が出て?となったのだけど、インタビュアー役を演じる予定だったのね。知らんかった。

 

 

 

 

 

 

この映画が話題になったのは主演がトムクル&ブラピだから?

 

 

 

 

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関心領域(2023年)

2024-06-02 | 【か】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv85290/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 青い空の下、皆が笑顔を浮かべ、子どもたちは楽しそうな声を上げるなど、アウシュビッツ強制収容所の所長を務めるルドルフ・ヘスとその妻、ヘドウィグら家族は穏やかな日々を送っている。そして、窓から見える壁の向こうでは、大きな建物が黒い煙を上げている。

 1945年、一家が幸せに暮らしていたのは、強制収容所とは壁一枚で隔たれた屋敷だった。

=====ここまで。


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 公開前から話題沸騰(言い過ぎ?)な本作。公開してまだ10日なのに、既にネットには専門家から一般ピープルに至るまで、考察やらレビューやらが氾濫しており、内容については今さらなので、思ったことをつらつらと備忘録的に書き留めておきます。

 あんまし本作のストレートな感想文になっていないので、悪しからず。


◆描かないことで描く

 タイトルでもある「関心領域」は、アウシュビッツ収容所そのものを指すナチの隠語だったとか。そこで何が行われていたかを知ると、「関心領域」ってスゴい言葉だよなぁ。

 しかし、ヘスの妻ヘートヴィヒ(上記あらすじとは表記が違うけど、字幕では「ヘートヴィヒ」だったので、こちらを使用)にとって、夫の仕事場であり、夫の属する組織にとっての関心領域は、「無関心領域」だった。……まあ、敢えて無関心を決め込んだ、と言った方が正確か。

 序盤で、ヘートヴィヒが鏡に向かって口紅を試すように塗るシーンがあって、最初、ん??となったが、その口紅は収容所から“カナダ”に収められた収奪品であったと分かって、吐き気がしそうになった。本作とは全然関係ない映画だが、かつて「わたしのお母さん」(2022)という邦画の感想文の中で、私は「嫌いな人の口紅を、自分の口に直塗りするか、、、ってこと。しかも、新品でなく、使いかけのである。いくら親子でも、、、ナイわ~~、と思っちゃいました。」と書いたが、このヘートヴィヒの行動は、もう私の想像の範疇をはるかに超えており、本作のっけからKOされた気分だった。

 でもまぁ、本作の鍵となる“音”もそうだが、どんな非人間的な事象も、それが“日常”となると、人間、案外簡単に慣れるものなのかもしれない。私は本作を見ながら、あの環境で“臭い”はどうだったのだろうか?というのがずっと気になっていた。あれだけ、煙突から黒煙が上がり、川にも人骨灰が流れてきている環境で、全く臭いがしなかったとは考えにくい。

 けれど、臭いって一番慣れやすいのかも知れないと思い当たった。中学生の時にアメリカにホームスティしたのだが、ホストファミリーが農家で、飼っている牛を州の大きな品評会に出すとかで、その会場横に設営されていためちゃくちゃ大きな厩舎に牛と寝泊まりしたことがある。で、その厩舎に入った瞬間は、鼻がもげそうなくらい臭いが酷いと感じるのだが、30分もすると気にならなくなり、何かの用事で厩舎を出て戻ってくると、再度、臭いの酷さを実感したのだった。その時に、臭いってすぐに慣れてしまうのだな、、、何となく怖いな、、、とぼんやり思った。それを思い出して、ヘス一家も、臭いに慣れているのかも知れない、、、、私が子供心に「怖い」と感じたのは、こういうことだったのではないか、、、と思い当たり、ゾッとなった。

 とにかく、ヘートヴィヒにとっての無関心領域である「関心領域」を直截的に描かないことで、その存在感を圧倒的に描写するという、これまでにないホロコースト映画である。


◆“関心領域”で満たされていることに感謝しろ!

 本作が公開される2週間前の、某全国紙に、「世界の理不尽に我慢できない」というタイトルで50代男性の人生相談が載っていた。今、世界で起きているあれこれについて縷々述べた後「こうした報道に接するたび、激しい憎悪を覚えるとともに、その後にもたらされる世界の大混乱を思うと、絶望的な気分になり、夜も眠れません」と書いてあって、「今後、ますますひどい状況になることが想定される中、どのように気持ちを保っていけばよいか、アドバイスいただ」きたいという〆であった。

 この回答者が野沢直子(敬称略)で、これはその後プチ炎上したのでご存じの方も多いだろうが、正直言って、私は野沢の回答を読んで不快感を覚えた。まあ、相談者の文面もちょっと仰々しい感はあるものの、現状に憂えている人間は少なくないはずだ。

 で、野沢の回答である。回答のタイトルは「自分の目で確かめたらどうでしょう」で、出だしから「このお悩みを読んで、まず最初に思ったことは、そんなに心配なさっているのなら実際に戦場に出向いて最前線で戦ってくればいいのにな、ということです。」といきなりのカウンター。トランプ前大統領はそんなに酷い大統領じゃなかった云々が述べられた後「あなたがそこまで心配しているなら、その地に行って自分の目で確かめてくるべきだと思います。/おそらく、あなたは今、とても幸せなのだと思います。/人間とはないものねだりな生き物で、あまり幸せだと『心配の種』が欲しくなってくるのだと思います。失礼ですが、それなのではないでしょうか?」と、ホントに失礼なことを書き連ね、トドメは「世の中が酷くなるかどうかは誰にもわかりません。そんなことを嘆く前に、今自分が幸せなことに感謝して自分の周りにいる人たちを大切にしましょう。/いつも寄るコンビニの店員さんに声をかける、近所の人に挨拶をする。そんな小さなことから連鎖して、世の中は明るくなっていくと思うし、そんなに捨てたもんでもないんじゃないでしょうか。」である。

 これ、まさに「関心領域」そのものなんである。もう、まんま過ぎて呆れるくらいに「関心領域」だけで生きてろ!と。

 そら、世界中のあらゆる悲劇全てには誰もコミット出来ませんよ。アタリマエだ。でも、見聞きすれば、不安になったり、哀しんだり、嘆いたりはする。その度合いは人によるだろうが、この相談者のように「夜も眠れ」ないほどに考える人もいるわけだ。それを「てめぇの生存圏だけ見て生きてろ!」ってのは、そもそも回答になっていない。

 私が不快になったのは、野沢の回答だけではない。これを載せた編集者の感度の鈍さに対して、不快というよりは、嫌悪感を覚えた。半径数十メートルのことだけに満足して感謝していれば良いって、それがどういう結果を招いたか、少なくとも歴史を学んだものなら知っているはずである。ましてや、新聞社の編集者なら、自身の役割に自覚的であって然るべきなのに、まさしく「関心領域」を地で行く紙面に唖然とさせられた。

 野沢はこうも書いている。「報道されていることと反対側の考えにある人たちがいることを、いちいち想像していただきたいと思います。/ニュースというのは起きている事柄の紹介だけで、その裏にある人々の声や本当の感情というものを100%伝えきれているとは思えません。」そして、「あなたがそこまで心配しているなら~」につながっている。

 野沢には、だったら、関心領域が広い人がいて、そういう人のことも「いちいち想像していただきたい」と言いたい。少なくともあなたの回答は、相談者の感情を「想像していない」としか思えない。

 そして、新聞社には「ニュースというのは起きている事柄の紹介だけで、その裏にある人々の声や本当の感情というものを100%伝えきれているとは思えません」などと書かれていることを少しは恥ずかしいと思え!と言いたい。喜んで載せている場合か。

 本作が公開される折も折、こんな迷回答が全国紙に堂々と掲載され、無関心領域を広げることに一役買っているのが皮肉である。

 

 

 

 

 

タイトルに「ナチス」とか付いていないのが良い。

 

 

 

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