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映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

心と体と(2017年)

2018-04-28 | 【こ】



以下、公式HPよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 ハンガリー、ブダペスト郊外の食肉処理場。代理職員として働くマーリアは、コミュニケーションが苦手で職場になじめない。片手が不自由な上司のエンドレは彼女を気に掛けるが、うまく噛み合わず…。

 そんなある日、牛用の交尾薬が盗まれる事件が発生する。犯人を割り出すため、全従業員が精神分析医のカウンセリングを受ける事態に。すると、マーリアとエンドレが同じ夢を共有していたことが明らかになる。二人は夢の中で“鹿”として出会い、交流していたのだ。

 奇妙な一致に驚くマーリアとエンドレは、夢の話をきっかけに急接近する。マーリアは戸惑いながらもエンドレに強く惹かれるが、彼からのアプローチにうまく応えられず二人はすれ違ってしまう。夢の中ではありのままでいられるのに、現実世界の恋は一筋縄には進まない。

 恋からはほど遠い孤独な男女の少し不思議で刺激的なラブストーリー。 

=====ここまで。

 “刺激的”かどうかは意見が分かれそうなところ、、、。何で牛用の交尾薬が盗まれて、従業員の精神分析になるのかがナゾだけど、まあ、そこを突っ込むのも野暮ってもんでしょう。
 
   
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 新聞の評を見て、ちょっと見てみたくなりました。ハンガリー映画といえば、衝撃の映画『だれのものでもないチェレ』なんだけど、フランスやドイツと合作というと色々あるけど、ハンガリー単独制作で、ハンガリー語の映画(で日本公開されたもの)って、割と少ないような。大悲惨な『~チェレ』とは大違いで、本作は鑑賞後感は良いです。


◆同床異夢、、、ならぬ、異床同夢

 私は、ごくたまに、ゼンゼン意識の外にあるはずの芸能人が夢に出て来て、その日を境に、急にその芸能人のことが気になってしまう、、、という経験がある。

 一番最近では、数年前に、何故か夢に要潤が出て来て、具体的に何をしたかはさっぱり覚えていないが、目覚めたときに“要潤と夢で会った”という認識だけは明確にあるわけよ。多分、そのちょっと前に彼をTVか何かで見掛けたからだとは思うんだが、要潤には申し訳ないけれど、正直“何で要潤??”と思いつつも、数日ほど気になっちゃったりして。せいぜい数日くらいしか持続しない、ってところがミソなんだけど。

 同じ夢を見ていたことが分かっただけで、それまで同じ職場の人でしかなかった男性が、急に気になる存在になる、ってのは、私の“夢で要潤”体験と似ているのかなぁ、、、と、スクリーンを見ながらボーッと考えてしまった次第。

 一緒に寝ている男女が、それぞれ別の相手とセックスする夢を見るハナシならごまんとあるけど、別々に寝ている男女が、それぞれその相手とセックスするという同じ夢を見る、、、ってのが、ちょっと面白い。しかも、人間としてじゃなく、鹿だからね、鹿。ハンガリーでは、鹿は“神の使い”と言われているそうな。

 でもって、そんな彼らの働く職場は、食肉加工場。牛がされ、解体され、精肉されていく過程が、結構生々しく描写される。鹿はとても神聖な描写の一方で、牛は極めて機械的に解体されていく、、、同じ動物なのに対照的な描写であることが印象的。

 自分たちは夢の中で神聖な鹿となってめくるめくセックスに興じ、現実では牛を解体する、、、。なかなかシュールです。


◆オッサンと若い娘ってのがなぁ、、、。

 マーリアは清楚で美しいのだけれど、融通が利かないタイプで、職場でも摩擦を起こして浮いている。パンフを読むと、本作の監督イルディコー・エニェディは、本作を撮るに当たり「マーリアのキャラクターを『違う視点で世界を認識していて、孤独に慣れている、自閉症スペクトラムの女性にしたかった』と語っている」とある。そのほかにも、マーリアは恐るべき記憶力の持ち主だったり、一つのことに集中してしまって回りが見えなくなったり、という性質が描写されていて、彼女の不器用さが強調される。

 一方のエンドレは、疲れた感じのオジサンで見た目もごくフツー。バツイチで、今は女っ気のない日々。ただただ真面目に仕事をして、、、何かもう余生を過ごしている感じ。

 マーリアはそんなキャラだからバージンで、エンドレをどんどん好きになっていくんだけど、どうしても一線を越えられない。夢ではセックスして、恐らく幸福感を得たのだろう。だから、エンドレと結ばれることを望むんだけど、どうしても身体が拒絶する。で、彼女は、ポルノ映画を見たり、マッシュポテトを手でグニュッと握ってみたり、ぬいぐるみを抱いてみたりしながら、イメージトレーニングに励む。この辺の描写がちょっと面白いというか、哀しいというか、、、。

 そして、ようやく、今度こそ! とエンドレに迫ると、逆にエンドレに「もう終わりにしよう」なんて言われちゃってガ~~ン!! ショック!! もう生きていてもしょうがないわ!! と極端な思考に走り、バスタブで手首を切ってしまうと言う、、、。なんとも不思議ちゃんなマーリア。このとき、手首から血が鼓動と共にドクッ、ドクッって噴き出すんだけど、これがちょっと見ていてキツかった。

 で、ここでエンドレから電話がかかってきて、、、ま、最終的に2人は無事に結ばれます。めでたしめでたし。

 でも、、、私はひねくれ者なので、スクリーンを見ながら、これが、オッサンと若い女性の話じゃなくて逆だったらどーなの?? と考えていた。つまり、オバハンと若い青年のお話だったら? オバハンは見た目もフツーで、青年は美しい、という組み合わせで、このようなファンタジーは成立するんでしょうか? 現実には難しいんじゃないかねぇ。だからこそ、映画ではそういうところに挑戦して欲しいなぁ、と思ったのも事実。

 これじゃぁ、勘違いオヤジたちに無駄な夢を与えるだけで、今話題のセクハラの領域に勇み足してしまう輩も出て来そう。罪な映画だ。


◆その他もろもろ

 マーリアを演じたアレクサンドラ・ボルベーイは、楚々とした美人で、はまり役だった。ほとんど笑顔がないんだけど、終盤、エンドレと結ばれた後に見せる笑顔が素敵だった。

 エンドレを演じた男性は俳優さんではなく、物書きの方らしい。その割にナチュラルな演技だったのがオドロキ。まあ、正直言って、あんましときめくタイプではないけれど、渋いオジサンと言えなくもないかな、、、。好みの問題です、ハイ。

 私が気に入ったのは、精神分析をする精神科医を演じたレーカ・テンキという女優さん。ちょっとセクシー系で、ホントにドクター?? って感じだけど、分析は実に的確で、頭も良い、という役をとても上手に演じていた。真っ赤なルージュが印象的。

 鹿の演技(?)もなかなか見物。夢のシーンはとても映像が美しい。静謐な画面に、官能的な鹿の姿が描かれていて、この夢のシーンを見ていると、マーリアとエンドレの恋が成就するラストが予感され、その通りのハッピーエンディング。

 本作は、昨年のベルリン映画祭で金熊賞を受賞してるんだとか。ハンガリーでも大ヒットだったらしいです。









夢から醒めても愛は冷めなかった。




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告白(2010年)

2017-12-05 | 【こ】



以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 とある中学校。終業式後のホームルームで、1年B組の担任・森口悠子(松たか子)は、37人の生徒を前に語り出す。

 私の娘が死にました。警察は事故死と判断しましたが、娘は事故で死んだのではありません。このクラスの生徒に殺されたのです……。

 一瞬、静寂に包まれる教室。事件に関わった関係者たちの告白によって真相が明らかになっていく中、森口は、罪を犯して反省しない犯人に対し想像を絶する方法で罰を与える……。

=====ここまで。

 世間での高評価がナゾの作品。

   
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 本題に入る前振りが少々長いです。あしからず。


◆原作について

 今や“イヤミスの女王”などと呼ばれている湊かなえ著の原作は、一昔前に大ベストセラーとなったのだけど、ブレイクする直前に、新聞広告で「告白」の存在を知り、そのときはスルーしていた。が、その後、本屋大賞を受賞し、著者プロフィールを見てビックリ。「第35回創作ラジオドラマ大賞を受賞」とあり、しかもお名前が「湊かなえ」。あ、、、もしかして、あのときの、金戸美苗さんでは?? と思い至った次第。

 実は、私も「第35回創作ラジオドラマ大賞」に応募しており(結果は敢えて書かないが)、受賞作は当時読んでいて、その時点で既に何年も経っていたが受賞作の内容を割と覚えていたからである。もちろん覚えていたのには理由がある。

 wikiにもあるが、彼女の受賞作「答えは、昼間の月」という、タイトルもなかなか印象的だったこともあるけれど、そのストーリーはもっと印象的だった。メインテーマは臓器移植。臓器移植に至るきっかけとなった事故は、あの、JR福知山線の脱線衝突事故だった。さすがに、現在は詳細を忘れたが、確か作品の冒頭で、列車事故が起き、そこで脳死状態となった人の臓器をある人に移植することになったのだが、臓器の提供者と被提供者には実は特別な関係があった、、、というものだったと思う。

 私は、自分が応募したコンクールの受賞作は、圧倒的な作品であって欲しいと思っている。だが、受賞作に圧倒されることは、あまりない。まあ、実際、コンクールで入選した人のほとんどはプロで生き残っていないわけだから、それも当然と言えば当然だ。ラジオ(オーディオ)ドラマのコンクールで、“これは異次元の作品だ”と圧倒されたのは、今ではオーディオドラマの脚本家第一人者であろう北阪昌人氏の受賞作だった。内容は覚えていないが、確か、水道局員が主人公で、激しい水漏れがストーリーを展開していたように記憶している。オーディオドラマならではの“水の音”を生かした脚本で、ドラマチックな展開ではないものの、大人の情感溢れる作品だったように思う。あの作品を読んだときこそ、圧倒された、というのが実感だった。

 で、「答えは、昼間の月」だが、確かに素晴らしい筆力だし、ストーリーの構成もよく出来ていると思った。けれども、正直な感想としては、“嫌いだな、こういうの”であった。だから、余計に覚えていたのである。

 何が嫌いかというと、素材の選び方だ。「臓器移植」と「福知山線事故」。これを組み合わせるんだ、、、。さらに、臓器の提供者と被提供者に関係を持たせる。

 何を素材にして、どう組み合わせるかは作者の自由である。だからこそ、そこには作者のセンスと制作姿勢が垣間見えると思う。あまりにもドラマチックなストーリーとともに、私はこういう素材選択と組み合わせをする作者の作家性に、何となく嫌悪感を抱いたわけだ。念のために書いておくが、これは飽くまで好みの問題で、善し悪しを言っているのではない。現に、「答えは、昼間の月」は大賞を受賞し、高く評価された。

 今にして思えば、この作品には、イヤミスの萌芽があったと思う。私は、イヤミスは決して嫌いではないが、嫌いなイヤミスは当然ある。そして、湊かなえ著「告白」は、嫌いなイヤミスだった。映画化もされて何年も経った頃、図書館で“本日返却されたもの”の棚にぽつんと置かれていた「告白」を見て、ふと読んでみる気になったのは、もちろん、湊かなえ氏が金戸美苗氏だと認識していたからだし、あの「答えは、昼間の月」を書いた人が、どんなベストセラー本を書いたのか、という好奇心からだった。

 まあ、原作本の感想を長々書いても仕方がないので端的に書くが、やはり、想定内のものだった。それはストーリーがではなく、素材がである。そして、さらに「告白」ではそれがパワーアップしており、作者の思い付くありとあらゆる素材を全て闇鍋のようにぶっこんだという印象だった。だから、当然、読み終わっての感慨もなかったし、むしろ、「答えは、昼間の月」の方が面白かったと思ったものだった。

 後で知れば、新人賞を受賞したのは、最初の章の「聖職者」であり、その後の物語は、「告白」のために書き下ろされたものだとか。……納得。

 で、映画もそこそこ好評なのは知っていた。松たか子は正直言って苦手だが、中島哲也監督の『嫌われ松子の一生』はまあまあだったので、もしかしたら原作とは違った味わいで面白く仕上がっているのかも、という期待も手伝い、BSオンエアを録画した次第。

 ……ようやく、この後、映画の感想。


◆ううむ、……松たか子。

 最初に言ってしまうと、ゼンゼン楽しめなかった。

 申し訳ないが、松たか子の演技が酷すぎると思ってしまった。しかし、世間的には彼女の演技が素晴らしいことが本作の評価の高さであるらしいので、私の感性がねじれているのだと思われる。

 冒頭のHRでの松たか子の語りのシーン。延々続くが、この無表情演技が、ハッキリ言って私の目には、もの凄く工夫のない、大根に映ったのである。

 無表情演技は、無表情でセリフを言えば良いってもんじゃない。演技なのであるから、そこには役者の技量がどうしたって出るわけだ。で、私の中でその技量が素晴らしく高いと思う役者は、イザベル・ユペールなんだが、彼女の無表情演技を見て、工夫のない大根、と感じたことは当然一度もなく、それはもちろん、ユペールが凄いからであって、ユペールと比べること自体が松たか子にとっては酷だとは思うけれども、同じ“女優”を自称するならそういう試練は甘受していただかねば仕方がない。

 松たか子のあれは、無表情でセリフをしゃべっているのであって、無表情演技ではない、と思う。もっというと、演出も悪いと思う。淡々と生徒たちに語るシーンだからって、あんなロボットがしゃべっているみたいな演技をさせる必要はない。無表情=淡々、ではない。考え方が短絡的ではないか?

 冒頭10分以上のあのシーンで、正直なところ、最後まで見る気が失せたが、見始めた以上は見なければ、という、無意味な使命感で最後まで見た次第。

 
◆その他もろもろ

 そんな訳で、映画『告白』については感想らしい感想も持てなかったけれど、やはりあの原作だから、この映画はまあ、仕方がないのかなと思う。むしろ、映画は原作にかなり忠実な作りのように思うし。

 あまり、読者や視聴者の好奇心を誘導せんがために、刺激的(と作者が考える)素材ばかりを思い付く限り使いまくるのは、品がない。面白きゃええんじゃ! ということならばそれで良いが、本作は、ゼンゼン面白くもない。ただただ、人を嫌な気持ちにさせるだけである。そういう気分に浸りたい人のための映画だと、最初にちゃんと宣伝すべし。

 岡田将生は、トンチンカン教師を好演していたと思う。ああいう、バカ教師は確かにいる。バカな役をバカっぽく演じるのは難しいと思うので、岡田くんはなかなかの役者なのではないだろうか、、、。あんまし彼のことよく知らんが。

 橋本愛ちゃんは、確かに可愛いが、セリフ棒読みで、少々痛々しかった。犯人2人を演じた少年たちも頑張っていたけれども、まあ演出だと分かってはいるが、いささか芝居じみた演技に引いてしまった。木村佳乃は、相変わらずわめき散らすだけのヒステリック演技でワンパターン。演技に厳しい監督じゃなかったのか? ナゾ。

 ……と、頭から最後まで一貫してこき下ろしましたが、本作を好きな方の感性を否定するものでは決してありません。飽くまで、私は嫌い、というだけです。


 








湊作品にはもう近付かないことに決めました。




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婚約者の友人(2016年)

2017-11-23 | 【こ】



 以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 1919年、戦争の傷跡に苦しむドイツ。アンナ(パウラ・ベーア)は、婚約者のフランツをフランスとの戦いで亡くし、悲しみの日々を送っていた。

 そんなある日、アンナがフランツの墓参りに行くと、見知らぬ男が花を手向けて泣いている。アドリアン(ピエール・ニネ)と名乗るその男は、戦前にパリでフランツと知り合ったという。アンナとフランツの両親は、彼とフランツの友情に感動し、心を癒される。

 やがて、アンナはアドリアンに“婚約者の友人”以上の想いを抱き始めるが、そんな折、アドリアンが自らの正体を告白。だがそれは、次々と現れる謎の幕開けに過ぎなかった……。
 
=====ここまで。

 ううむ、、、ピエール・ニネを、初めて“イイ男”としみじみ感じた作品。
   
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 オゾン作品は、まあ一応見ておこうかな、と思うし、何より本作はポスターにそそられました。モノクロで、思わせぶり。ピエール・ニネの顔は独特すぎて、イマイチだったんだけど、本作での彼は素敵でござんした。以下、ネタバレバレなので、あしからず。


◆嘘、嘘、嘘、、、。

 ストーリーは、想像していたよりもはるかにシンプルで、主要な人物も、アンナとアドリアン、フランツの両親のほぼ4人に限定されており、人物描写が散漫にならず丁寧にされている。

 本作のテーマは、オゾンも言っているとおり“嘘”である。アンナもアドリアンも(そして今は亡きフランツも恐らく)、嘘をついている。そして、この嘘が本作のキモとなっている。

 アドリアンの嘘は、中盤でアンナに対し、アドリアン自身によって明かされる。アドリアンは、フランツの友人などではなく、戦場で互いに死を挟んで対面した敵味方同士であった。たまたま、フランツの持っている銃は弾切れで、アドリアンはそんなことを知らずに撃たれる前に撃っただけの話。だから、アドリアンは生還し、フランツは死んだ。フランツの所持品から、アドリアンは戦後になってフランツの実家を訪ねてきたという次第。

 戦場なのだから、殺るか殺られるかの世界。アドリアンは、生存本能から反射的に撃っただけの話だが、それによって目の前の敵兵が無残に倒れて死んでしまったことで、思いのほか大きな衝撃を受けてしまったらしい。自分の手で人を殺したことの重み、、、なのか。戦場であっても、それはやはり、それほどの重いものなのか。

 それを聞かされたアンナは、当然、衝撃を受ける。……が、アンナは、フランツの両親に、アドリアンの正体を明かさない。アドリアンの嘘を引き継ぐ。そして、アドリアンにも、フランツの両親には本当のことを明かしたと、嘘をつく。

 アンナが嘘をついたのは、フランツの両親を傷つけるのに忍びないという思いはもちろんあったと思うけれども、アドリアンの正体を明かせば、もう、アンナ自身が二度とアドリアンと会うことがかなわなくなるという思いがあったからだと思われる。つまり、もう、この時点でアンナはアドリアンのことを好きだったわけね。というか、ほとんど最初の時点から、アンナはアドリアンに惹かれていたとしか思えない。

 まあ、実際、婚約者は死んでしまってもういない状況でニネみたいな男性が目の前に現れたら、、、しかも、最初は婚約者の良き友人を名乗っていたのだから、惹かれても当然でしょ。

 しかも、アンナは、自分自身にも嘘をつくのである。彼女は、告解に行き、「フランツの両親に嘘をついていて苦しい」と打ち明ける。フランツの両親に本当のことを言わない理由は、自分のアドリアンへの思いからではない、と自分に言い聞かせる。飽くまでも、他者のために苦しい嘘をついているのだ、と。

 つまり、それほどまでに、もう、アンナはアドリアンのことを好きだったのだ。

 彼女が自分にも嘘をついた理由は、、、きっと、フランツへの負い目、婚約者を亡くしたばかりの身であることへの引け目、、、そんなところか。でも、そんなモラルなど、恋に落ちることの前では何の歯止めにもならんということの典型だわね。

 アンナは、自分にも皆にも嘘をついて、自分の恋を守ろうとした。恋が嘘をつかせたけれど、恋に嘘をつくことは出来なかった、、、んだね。恋とは、あらゆるモラルを薙ぎ倒す、もの凄いパワーなのである。


◆恋はタイミングが全て。

 さて、アンナに全てを打ち明けたアドリアンは、一旦、アンナの前から姿を消し、フランスに帰ってしまう。しかし、帰る前の約束通り、フランスからアンナに手紙をよこす。フランツの両親に読まれても良いようにフランス語でしたためた手紙を。アンナは思い悩んだ末にようやくアドリアンに返事を出したが、宛先不明で戻ってきてしまう。姿を消したアドリアンを探しに、フランツの両親に背中を押されて、フランスへ向かうアンナ。

 ……果たしてアドリアンの心はどうだったのか、、、。少なくとも、彼もアンナに惹かれていたと思う。フランツの婚約者、としてではなく、一人の女性として。

 そう感じた根拠は、アンナがフランスにアドリアンを訪ね、2人が再会したときの会話。アドリアンは「どうして手紙に返事をくれなかったの? ショックだったよ」と話している。もし、アドリアンが、本当に贖罪のためだけにアンナに手紙を出していたとしたら、返事が来ないことに「ショックだった」とは言わないと思う。というか、贖罪のための手紙なら、ドイツ語で、フランツの両親宛に手紙を出せば良いのである。

 また、その前に、アンナと再会した場面でのアドリアンの表情も見落とせない。思いがけず訪ねてきたアンナを見たアドリアンの表情は、驚きとともに嬉しさが隠せないものだったように見えた。少なくとも、アドリアンはアンナに対し好意を抱いていたことは間違いない。

 そんな2人の微妙な空気を瞬時に読んだのが、アドリアンの母親だ。やっぱし女のこういう勘は怖ろしい。アンナにホテルを紹介しようとすると、アドリアンが「ウチに泊まれば良い」と言う。そこで、母親は、アンナにある事実を突きつける。アドリアンの婚約者を自宅に招き、アンナに紹介したのだ。

 こうして、アンナの恋は無残に破れ、アドリアンの家から傷心で立ち去ることに。駅までアドリアンが送ってきて、2人は、駅でキスを交わす、、、。哀しい切ないキスシーン。やっぱり、アドリアンもアンナに、アンナほどではなかったかも知れないが、恋していたのだと思う。だからこそ、ああいう描写になったのではなかろうか、、、。

 この駅でのシーン、私は、心の中で“アドリアン、そのまま列車に乗っちゃえ!!”と叫んでいたんだけど、アドリアンはおとなしくアンナを見送っていた、、、。ちっ、つまんねぇ。

 もう少し、アンナが早く返事をアドリアンに出していたら。パリの家を引き払って、実家に移る前に出していたら、、、。もしかしたら、アンナとの恋は実ったかも知れないのに。アドリアンが実家に戻って、母親が彼と幼なじみの女性と婚約させたのだから。実家に戻る前に、アンナとの再会を果たしていれば、、、。と、妄想してしまう私。

 アドリアンも、結局は苦労知らずのええとこのお坊ちゃんってことかな。ハメ外してまで自分の気持ちに正直に行動する、っていう選択肢は彼にはなかったのだね。


◆鍵になる絵と音楽

 アドリアンがフランツの墓前にたたずむシーンから、アドリアンとフランツの関係を、恋愛関係だったのではないかと推察した人も多い様子。確かに、そう匂わせるシーンもあるしね。……まあ、でもそれだと、ちょっと出来すぎな話な気がしたので、私はあんまりそっち方面の展開は考えていなかった。

 フランツも嘘をついていた、と前述したけれど、フランツは戦前パリに留学していて、アンナがパリを訪ねたときに泊まったホテルが、フランツが定宿にしていたというホテルだったわけ。当然、普通の真っ当なホテルかとアンナも思っていたらしいけれど、行ってみたら、そこは連れ込み宿。あらら、、、ということで、フランツのパリ留学にも嘘が潜んでいたのだなぁ、と感じた次第。その嘘の理由はもちろん分からない。でもきっと、自分を良く見せたい、親に心配させたくない、、、単純に考えればそんなところか。もしかすると、、、、というのももちろんアリだが。

 アドリアンが、フランツとルーブルで見たマネの絵……男が仰向けになっている絵、、、。アンナは、実際にアドリアンを探す過程で、ルーブルでこの絵を見るわけだが、その絵のタイトルは「自殺」。アドリアンの消息を辿るアンナにとっては不吉以外の何ものでもない絵だったが、アドリアンとの恋に破れた後、ラストシーンでアンナは再びこの絵の前に立つ。そして言うのである。「この絵を見ていると、むしろ、生きる希望が湧く」と。

 このセリフの意味についても、ネットではいろいろ考察されているみたいだけれども、私は、そのままストレートに受け止めた。自殺している男を見て、生きる希望が湧くなんてのは一見矛盾しているが、人間は誰もが例外なく死ぬのであり、自ら命を絶った人の姿を見て、自分は死ぬまで生きなければと思うのは、むしろ自然な感情のようにも思われる。私の場合、絵ではなく、現実に知り合いが2人もここ数年の間に相次いで自死したのに接しているので、アンナの言葉には逆に説得力を感じたほどだ。死ぬまで生ききらなければならない、強くそう感じたからである。

 また、本作では、音楽も鍵になっている。アドリアンが、フランツの両親の前でバイオリンを弾いたときの曲は、ショパンの夜想曲20番。そして、アドリアンのフランスの実家で、アドリアンと婚約者、そしてアンナの3人が演奏するのがシューベルトの「星の夜」。その歌詞には「私は過ぎ去りし愛を思う、、、」 ……この曲の途中で、アンナは「もうやってられない!」と演奏を放棄してしまうのだけれど、アドリアンはこれをフランツへの思いと勘違いしているところが皮肉である。……いや、本当は、自分への思いと分かっていて、飽くまでも気付かないふりをしていたのかも知れない、、、。多分そうだろう。

 絵にしても、音楽にしても、実に映画としての本作に奥行きを与える素晴らしいツールとなっている。

 フランス人のアドリアンはドイツ語が話せて、ドイツ人のアンナはフランス語が話せる、ということになっている。ドイツに来たアドリアンは、ドイツ人たちに白眼視される。しかし、アドリアンを探しにフランスに行ったアンナもまた、フランス人たちに同じような視線を浴びせられる。こういう描写だけで、当時の、ドイツとフランスの関係性が分かるし、互いの複雑な国民感情も、アドリアンとアンナに少なからぬ影響を与えていることが分かる。

 一見シンプルな作品でありながら、何とも深みのある映画に仕立て上げているオゾンの手腕、おそるべし。


◆その他もろもろ

 本作は、ルビッチの『私の殺した男』の基となった戯曲をオゾンが見つけて映画化しようとし、ルビッチが映画化していることで、一旦は映画化を諦めかけたらしい。パンフによれば、オゾンはルビッチ版を見て、まったく違った作品になると確信したから撮ったと話している。ルビッチはフランス人青年の視点から描いているが、オゾンは女性側から描きたかったのだとか。

 ルビッチ作品というと、『生きるべきか死ぬべきか』なんだけど、私はあの映画の良さがまるで分からないクチなんで、『私の殺した男』もあんまり見る気がしないけど、、、。

 オゾンの撮った本作では、アンナがフランスへ行くエピソードは完全にオゾンのオリジナルとのこと。確かに、このエピソードがあるからこそ、嘘が生きてくるわけで、、、。アンナの恋……もっと言えば、エゴが剥き出しになる展開は、なかなか見応えがある。

 アドリアンを演じたピエール・ニネは、謎めいた男をセクシーに演じていて魅力的だった。ドイツ語もかなり練習したのだろうなぁ、、、。アンナを演じたパウラ・ベーアは、撮影時20歳だというけど、もっと落ち着いているように見えた。まだキャリアは浅いみたいだけど、なんかもう、手練れの感じさえあったなぁ。フランス語もキレイに話しているように聞こえたし。

 113分の作品だけれど、ギュッと濃縮された味わい深い逸品であることは間違いなし。見て損はないですよ。









アンナはこの後どうなるのだろうか、、、。




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恋に落ちる確率(2003年)

2017-05-18 | 【こ】



 カメラマンのアレックス(ニコライ・リー・カース)は、自分の父親と、恋人シモーネ(マリア・ボネヴィー)の3人で食事を共にした。しかし、店を出る際に、父親が苦手なアレックスは用があるから先に帰ったことにしてくれと言って、シモーネとは駅で会う約束をし、父親が店から出てくる前に立ち去った。

 駅でシモーネに会う前に、アレックスは美しい女性に一目惚れする。その女性は、小説家の夫アウグスト(クリスター・ヘンリクソン)とコペンハーゲンに来たアイメ(マリア・ボネヴィー、2役)だった。シモーネと落ち合ったアレックスは、アイメも乗る電車に乗るのだが、アイメが下車した駅で、シモーネを置き去りにして自分も降りてしまう。そして、アイメと一夜を共にする。

 そこから、アレックスの回りの世界が変わり始める。借りているアパートの部屋はなぜかなくなっているし、アパートの大家、友人ばかりか、自分の父親、シモーネまでもがアレックスのことを「会ったことがない、知らない人」と言うのである。しかし、アイメとの時間は確かなものであり、2人は逢瀬を重ね、遂にはローマへ逃避行しようということになるのだが、、、。

   
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 ややマイナーなデンマーク映画。7月にコペンハーゲンに行く予定をしており、それまでに、ちょっと関連映画でも見るか、ってな感じで見てみたところ、これが案外良かったのでした。


◆これは映画、ただの作り話。それでも心は痛む。

 見出しは、冒頭、マジシャンの映像に流れるナレーション。そして、このナレーションの主は、アイメの夫アウグスト。なので、この映画は、つまりアウグストが書く小説なのかな、、、と思う。ちなみに、このナレーションは、ラストシーンでも流れる。だから、やっぱりアウグストの小説、もしくは妄想、そんなところか。

 ……とか頭を巡るけれども、見終わって思うに、そういう解析はあまり意味がないかな。

 アレックスは、アイメに出会ってから、自分の世界が根底から覆されてしまうのですが、これって、恋に落ちればフツーにあることです。まあ、もちろん、親しい人に「アンタなんか知らない」と言われたり、住んでいた部屋がなくなったり、というのは現実的にはあり得ないことですが、それくらい、いろんなことがひっくり返っちゃうような出会い、ということであれば、不思議でも何でもない。

 アイメとの時間だけは、終盤までしっかりとアレックスにとって現実として描かれており、つまり、アレックスにとってアイメが彼の人生における地軸になっちまった、ってことなのかもね。アレックスはきっと、何かこう、、、生まれて初めて経験する感覚だったんじゃないかしらん、アイメとの時間が。アイメの存在そのものが。きっと彼は、「今、生きてるぞ、オレ!!」という、生の実感を全身に受けたんじゃないかなぁ、と、見ていて思いました。

 そういうときって、家族とか、仕事とか、友人とか、それまでの人間関係とか、一瞬吹っ飛んでしまうではないですか。なんかもう、とにかく、自分と相手の1対1だけの世界にいる感覚。

 そして、そういう感覚は、本当に一瞬であって、持続しないものなのです。さらに、決まって破綻する。

 でも、これは映画だから、90分間は持続した、、、。でも、映画だけどやっぱり破綻した。映画といえども、世界がひっくり返った感覚のまま、人生を続けさせるほど、世間は甘くないのだね。

 そう、アイメとのローマへの逃避行は、実現しないんです。それも、アレックス自身のミステイクによって。そして、アイメもまた、アレックスのことを知らない人のように振る舞うのです。


◆考えない。“感じる”映画。

 ただ、本作中では、アレックスとアイメの出会いのような(?)シーンが、繰り返されます。それが初めて出会ったシーンなのか、何度目かなのか、その辺りがよくは分からない。

 作り話、と最初に宣言されているわけで、アレックスの運命の恋は、作者によって何度も書き直されているかのよう。そうしてみると、本作の原題“Reconstruction”は、なるほど、という気もする。直訳すると、復興、再建、、、。再構築としているレビューもいくつか拝読したけれど、まあ、そういうニュアンスでしょう。

 しかも、シモーネとアイメが非常によく似ている女性で、これは1人二役か? と途中で疑ったけれど、やっぱり同一人物か否か、ハッキリしない。途中、シモーネとアイメが夜の街角のショーウィンドウ前で向き合っているシーンがあって、2人が交互に「わからない?」「愛してたのに」「ずっと」等と言い合う。この幻想的なシーンで、恐らくシモーネとアイメは同一人物だろうとほぼ確信したけれど、、、、。メイクが全然違うだけで同じ人かどうかの区別もつかなくなるという、、、この辺りの曖昧さ、境界の微妙さ、みたいなものも本作の味わいの一つです。

 明らかに惑わされているのにもかかわらず、なにかこう、、、アレックスやアイメにリアルな感情移入をしてしまう。この不思議な感覚、不思議なシナリオ。

 あんまり、ロジカルに理解しようとか、無理矢理ストーリーのつじつま合わせをしようとか思わない方が良い映画です。考えるのではなく、“感じる”映画、とでもいいましょうか。


◆その他モロモロ

 シモーネとアイメを演じたマリア・ボネヴィーが良いです。シモーネも、アイメも、あまり好きじゃないけど、かと言って不快でもない。アイメを演じているときの唇の色が印象的。濃くて深いブラウン系のワインカラー。一歩間違えると、もの凄く不健康な顔になると思うんだけど、アイメの美しさを象徴するメイクになっているのが素敵。

 一方の、アレックスを演じたニコライ・リー・カースは、、、ちょっと猿系と申しますか、、、うーん、個人的にあまり好きなお顔じゃなくて、、、ごめんなさい。ものすごく良い雰囲気の作品だったけど、肝心のアレックス君がアップになるたびに違和感ありまくりでした。というか、斜め横からの顔は良いんですけど、どうも正面からのアングルがイマイチで。……ただの好みなのでお許しください。この方、あの『しあわせな孤独』に出ていたのですね。

 あと印象的だったのは、コペンハーゲンの地下鉄。駅がもの凄くシンプルかつモダンなデザインで、なんかSF映画見ているみたいでした。この駅のホームを、終盤、アレックスが歩き、その後をアイメが歩き、、、、ふと、アレックスが振り返るとアイメはいない、というシーンがあります。なんか、あのギリシャ神話のオルフェウスの話を思い出してしまいました。振り返ったばかりにアイメを失った、、、というのは、まあ考えすぎですかね。





コペンハーゲンの地下鉄に乗りたい。




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午後8時の訪問者(2016年)

2017-04-25 | 【こ】



 若い女性医師ジェニー(アデル・エネル)は、町の診療所で研修医のジュリアン(オリヴィエ・ボノー)を指導しながら、老医者の代わりに診療所を切り盛りしていた。診療所の責任ある医師として、また研修医を指導する先輩として、いささか気負っていたジェニー。

 ある晩、診療時間が終了する午後8時を過ぎてしばらくしたところへ、入り口のインターホンが鳴った。ジュリアンは急いで出ようとしたが、ジェニーは「もう診療時間は終わっているんだから出なくて良い。患者に振り回されてはダメ」と制止する。その後も、ジュリアンに厳しく当たったことから、ジュリアンは突然仕事を切り上げ帰ってしまう。

 翌日、警察が、診療所の近所で殺人事件があったので診療所の防犯カメラ映像を提供してほしいと訪ねてきたため、ジェニーは快く提供する。すると、そこには、殺人事件の被害者となった若い黒人女性が診療所のドアを叩く映像が……。その女性こそ、あの、午後8時過ぎに訪ねてきた女性だったのだ。ジェニーがドアを開けることを制止したことで、彼女は殺人事件の被害者になったのではないか?

 ジェニーは罪の意識に苛まれ、名前も身元も分からないという被害女性について調べ始める。果たして、事件の真相は、、、。


 
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 アデル・エネルが扉の隙間からこちらを見ているチラシの画像がとても魅力的な上、予告編を見て興味をそそられたので、劇場まで見に行って参りました。


◆久々のダルデンヌ兄弟監督作鑑賞

 ダルデンヌ兄弟監督作でこれまで観たのは『息子のまなざし』だけ。これが、良くも悪くも、私にとっては衝撃作で、正直なところ、その後、この監督作品はちょっと見る気になれませんでした。どう衝撃だったかは、いずれ機会があれば書きますが、みんシネにレビューを書けなかったくらい衝撃を受けたのでした、、、。

 でも本作は、なんとなくとっつきやすそうな感じがして。そして、その直感は当たっていた、、、というか、ちゃんと観ることが出来た、かな。

 ジェニーは、あの晩の出来事で、2つの罪悪感を抱いてしまったのよね。殺人事件の被害女性に対する罪悪感と、研修医ジュリアンに対する罪悪感。ジュリアンはその後「もう医者は諦める」と言って、田舎に帰ってしまうし、、、。

 あの晩は、もう一つ彼女にとって大きな転機になるはずの出来事があった。大きな病院で彼女のポストが用意されたことを祝うパーティに彼女は出席し、診療所の代理医師を切り上げてそちらへ移ることがお披露目されたのだった。

 でも、たった一晩で、彼女の人生は違う方向へ大きく動く。ジェニーは、名前も分からない被害女性のことを調べ始め、ジュリアンには翻意するよう話し合いに行き、診療所の老医師に「私がこの診療所を継ぐ」と宣言する。彼女は、あの晩の出来事を受けて、好条件の仕事を蹴ったのだ。

 ジェニーにとっては、生涯忘れられない、ある日の夜、になったのだ。


◆あの時、私がドアを開けていれば……。

 「彼女は償いをしたかったのです」と、リュック・ダルデンヌは言っている。確かにそれはそのとおりだけれど、ジェニーを見ていると、そんな単純な感情じゃないように思えたのよね。

 自分はどうしてあの時ドアを開けることを制止したのか、ジュリアンはどうして医師を諦めると言うのか、大きな病院に移ってどんな医師になりたいのか、、、そういう、医師としてのアイデンティティを問われることが、一時にドッと彼女を襲ったのだと思う。しかも、ゆっくり逡巡している時間はない。早く結論を出さなければいけない。

 ジェニーは、実に淡々と診察をする。無駄に笑顔を患者に見せないし、多くを語らない。一見、冷たくさえ見えるけれども、患者からすれば決してそんなことはないはずだ。それが証拠に、ジェニーの治療が終わる少年は、これからも往診に来てほしいと彼女に頼んでいる。

 そんな患者とのやりとりに、あの晩の後の数日で、彼女は何か手応えの様なものを感じたのではなかろうか。そして、その感覚が、一度に押し寄せてきた自らへの問いかけに対する、最大の答えだったのだ。

 だから、彼女は、診療所を継ぐと決心し、ジュリアンに医者への道へ戻ってほしいとはるばる田舎まで訪ねていって自分の思いを打ち明けるのだ。彼女の淡々とした仕事ぶりとは裏腹に、彼女には確固たる決意が芽生えたのだと思う。

 裏返せば、それくらい、彼女にとっては殺人事件は衝撃的な出来事だったということだ。それは、医師としての矜持を問われた事件だった、ということよりも、もっと根源的な「自分は何者なのか」という部分まで掘り下げるざるを得ない様なことだったのではないか。たとえ、警察官に、「あなたがドアを開けなかったことは正当です」と言われても、ドアを開ける開けないのレベルではなく、なぜあの時自分はドアを開けなかったのか、を考えるとき、自らと正面から向き合うことを余儀なくされたのだと思う。

 自らを許せるか、自らのプライドが許容できるか、、、。結局、人生とは自己満足の集大成だけれども、自己満足とは言え、そこには、自分に恥じない生き方であること、という最大の難関が立ちはだかる。傍からどう見えようが、一つ一つの言動が、自らに恥ずべきものではないか、、、。この問いかけは非常に辛く厳しいものだ。

 恐らくジェニーは、これまで分かったつもりになっていたこの辛く厳しいものから逃げてはいけないことを、実感を伴って体得したのである。

 人生には、誰しも、こういう出来事が若い時期のいずれかに訪れるものだと思う。そして、自分の甘さや醜さに直面し衝撃を受けるのである。でも、この経験を生かすも殺すも自分次第なのだ。

 少なくとも、ジェニーは、この先、生かすことが出来るだろうと思わせてくれる展開だった。


◆アデル・エネル

 本作については、昨今のフランス事情(移民問題や格差、分断等)が描かれている、というような論評も目にしたけれど、確かにそういう側面もあるだろうけど、前述の様に、人はどう生きるか、という人間としての根源的な問いを描いている様に感じた次第。

 なので、本作のサスペンス的な部分については、興味としては二の次だった。被害女性は誰だったのか、どうして殺されたのか、一つ一つ明らかになっていくけれど、謎解き的な描写ではないし、そこに比重が置かれているとも感じなかった。

 サスペンスとして見ると、もしかすると拍子抜けするかも。途中、ジェニーがヤバい人に追い掛けられたり、往診に行っていた家庭から「もう来るな」と言われたりするけれど、あくまでそれは従である(と思う)。

 ジェニー自身のバックグラウンドについても、ほとんど描かれていないので、彼女が何を志して医師になったのかも全く分からない。けれども、結局彼女の出した答えが全てなのだ、と思えば、そういう余計な描写は必要なかった、ということだとも言える。

 あるレビューで、「ジェニーが無表情で冷酷でムカつく、ラストの被害女性の姉とのハグも形式的で見ていて何の感動もない」というようなことが書かれていたけれど、そういう見方をする人もいるんだなぁ、と驚いた。どう見ようが正解はないけれど、あのアデル・エネルの演技からそんな風に感じるなんて、ちょっと信じがたい。

 それくらい、アデル・エネルの演技は素晴らしく、顔の表情が少ないのに、彼女の全身から彼女の感情が表れていることに感嘆した次第。この辺りは、パンフを読むと、ダルデンヌ監督は相当リハーサルを重ねたと言っているので、演出の素晴らしさでもあると思う。

 アデル・エネル、あの『黒いスーツを着た男』に出ていたのね、、、。あの映画はちょっと、、、、という感じだったけど。何の役だったんだろう? と思って公式HPを見たけど、主要キャストに名前なし、、、。で、wikiを見たら、なんと、主人公のアラン(ラファエル・ペルソナ)の婚約者の役だったのね~。えー、「アルの婚約者もイマイチ魅力に欠ける」と、私はみんシネに書いている……! そうか、、、そうだったのか。

 でも、本作での彼女は、本当に魅力的です。今や、フランスきっての人気女優だそうですが。彼女も最近、女性映画監督をパートナーにしているとカミングアウトしたとか。フランスには魅力的な女優さんがいっぱいいて羨ましいわ。



 



アデル・エネルに尽きる。




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この世界の片隅に(2016年)

2016-11-26 | 【こ】



 太平洋戦時下の広島県・呉市に住む北條周作の下へ嫁いできた18歳のすず。少しずつ日常に戦争が侵食してくる日々を、しなやかに生きる、すずと彼女の回りの人々の様子を描いた作品。

 口コミで評判が広がり、大ヒットの様子。テアトル株もストップ高になったとか、、、。


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 時々、精神科医の斎藤環氏のツイッターを覗きに行くのですが(私はツイッターはやっていませんけど)、そこで、ちょっと前から大盛り上がりしているのがこの作品の話題。あまり映画の感想をダラダラ書かない斎藤氏なのに、本作への入れ込みようが尋常じゃない、、、。ネットでの盛り上がりも凄いし、そんなに絶賛される映画とはどんな? と思い、あの『もののけ姫』以来、ウン十年ぶりに劇場へアニメを見に行きました。
 
 いつものようにネタバレバレですので、あしからず。


◆何度も見たいかどうか。

 結論から言うと、私は、そこまでハマれませんでした。すみません。

 もちろん、良い映画だと思うし、多くの人が賞賛するのも分かる気がします。2時間以上あるのに、一瞬も退屈しなかったし、悲惨な状況でも笑いがあり、人間ドラマとしても秀逸。絵も、リアルさを過剰に追求していなくて、でも背景は細密、全体に繊細で美しい。ひねくれ者の私でも、ケチをつける気にはなりません。

 私にとっての良い映画としての勝手な条件は、①もう一度見たいと強く思う、②分かりやすい、③2時間未満、なのですけれど、本作は、強いて言えば②だけ該当でしょうかねぇ、、、。

 とはいえ、私の大好きな映画は、結構、この条件に当てはまらない、ってのもありまして……。『アンダーグラウンド』とか、『きっと、うまくいく』とか、『戦場のピアニスト』とか、どれも3時間近くありますし、ハネケとか、シュヴァンクマイエルとか、アルトマンとかの作品なんかは、分かりやすくないのも結構あります。

 ただ、絶対外せないのは、やっぱり①なのですよねぇ。好きな映画ってのは、終わってエンドロールが流れているときに「もっかいアタマから見たい!!」と思って、禁断症状に襲われるのです。もう飽きるまで何百回でも見たい、と思ってしまう。前述の作品たちなどはどれももう、何度も何度も見ているわけです。もう、見ないと死ぬ!! くらいな感じなのです。、、、ちょっと大げさですが。

 で、本作は、見終わってすぐに「もっかい見たい!」と思ったかというと、、、それはNoでした。なので、良い映画だとは思うけど、好きとは言えないってことですかね。 

 ただ、ネットの感想等を見ていると、やはり、何度も劇場に足を運んだと書いている方が結構いるので、きっと、私にとっての好きな映画と同じ感覚なんだと思います。


◆奥ゆかしい映画

 分かりやすい、と書いたけれど、実は分かりにくいというか、どう理解すればよいのかしらん? と問い掛けられているようなところもあったように思います。

 本作は、何事もあまり直截な描き方をしていないのですよね。ある意味、奥ゆかしい。

 例えば、すずが遊郭に迷い込んだシーンでも、遊郭のゆの字も発せられないし、原爆のシーンも極めて間接的な描写です(ラストで一瞬直截描写がありますが)。

 ここから先、ネタバレです。

 何より、すずが右手を失う時限爆弾が破裂するシーンの描き方は、、、あれはどーなんでしょうか? 私は、結構グッときました。真っ黒な背景にピカピカと線描写のイラスト、それだけで何が起きたか想像させられるし、正直、恐ろしいとも感じました。

 あれほど、絵を描くことが好きで、すずにとっては大事な自己表現だった描くことができなくなる、、、という展開に胸が苦しくなりました。なぜ、右手、、、。

 本作は、そこから先がまた結構長い。ムリに左手で絵を描こうとかしない。といって、失くなった右手のことを殊更嘆くこともしない。

 作者はどうしてこういう展開にしたのかな、、、と、ちょっと考えて、私なりに考えたこともあるのですが、それをここに書き散らすのは、もの凄く野暮な気がしますし、それこそ、見る人の想像に任せて幾通りもの解釈がなされれば良いことだと思います。

 あと、引っ掛かったのは、哲くんですかねぇ。すずは、哲くんのことも確かに好きだったはずだと思います。もちろん、周作が最愛の人に違いないのですが。初恋とかそんなんじゃなくて、幼心に知らないうちに刻み込まれた存在。そういう人、1人くらいは誰にでもいるんじゃないのかなぁ。周作が、すずを哲くんと2人きりにしたのが、イマイチ意味が分かりませんでしたけど。


◆私は径子さんイチオシ!

 見る前から、さんざん、のんさんのアフレコがスゴイ、と言われていたのでどんなんだろう、、、と思っていたのですが、確かに、良かったです。正直、あまちゃんのイメージが強くて、彼女の声の演技ってのがイマイチ想像できなかったのですが、実に表情豊かですねぇ。ビックリしました。すずさんのキャラによく合っていました。

 まあでも、正直言うと、もうちょっと違う感じの声でも良かったような気もしました。特にどんな、というイメージがあるわけではないですが、ボーッとしたすずさんというイメージがのんさんの声だと前面に出ているけれど、すずさんて、強くてしたたかな女性だと感じましたので、そんな感じの声でもよかったんじゃないのかな、と。ボーっとしているようで打たれ強い、柳みたいな人。それが私が受けたすずさんの印象なので。

 原作のすずさんは、どんな感じなんでしょうか。

 あと、気になったのは義理のお姉さん、黒村径子さんかな。ああいう人は、すずさんと反対で、強そうでポッキリ行っちゃう脆い人なんだよね。私は径子さんの方が人としては好き。友達になるなら、断然径子さんだな。径子さんは、自由人で一見勝手気ままだけど、本当はすごく優しい人なんだよね。ああいう人、好きだわ~。

 義父の円太郎さんもイイ味出してたし。というか、北條家の人たち、みんなイイ人ばっかよね。あんなこと、ちょっとあり得ないような気もしますけどね。……と、ケチをつけたところで、感想文は終わりです。








すずが哲くんに描いた絵、欲しい……。




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高校生心中 純愛(1971年)

2016-11-05 | 【こ】



 高校生で同じクラスの丘谷由夫(篠田三郎)と宇野洋子(関根恵子)は、下校時に一緒にカレーを食べに行ったり、映画を見に行く約束をしたりするプラトニックな仲。

 由夫は優秀で、父親は警察官の公務員家庭だが、兄が左翼運動に傾倒し大学を中退したことで、家の中は荒れているらしい。洋子は宇野建設の“社長令嬢”(死語?)で、父親(加藤武)はいかにも成り上がり者、母親は「ざあます」おばさま、兄に至っては何者か分からないけど鼻持ちならない嫌味男と、典型的成金家庭。

 ある日、由夫の兄が父親と揉めて、はずみで父親を刺し殺してしまう。そのショックで母親も数日後に病死する。これで由夫の運命は一変、高校を辞めて、兄の裁判費用を稼ぐために父親の地元で(?)働くことに。が、由夫と離れたくない洋子が着いてきてしまう。帰るように諭す由夫だが、洋子は聞かない。

 ここから2人の“清い”共同生活が始まるが、、、。
 

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 ……篠田三郎の若い頃の作品が見たかっただけです、ハイ。


◆タロウ=篠田三郎

 今年は、ウルトラマンシリーズ放映開始50周年だそうで。7月ごろに、NHKのBSで3時間の特番やってまして、そこで、「あなたが選んだウルトラマン・シリーズ」という、ファンが選んだベスト10作品を毎週1本ずつ放映するということが発表されました。

 そのうちの1本が、タロウの第34話「ウルトラ6兄弟最後の日!」だったんですが、私、タロウをリアルタイムでか再放送でか覚えていませんがよく見ていて、それは、なんつっても篠田三郎が好きだったからであります。今回の企画は、懐かしかったんで10本全部録画しましたが、タロウ版だけ何度も見てしまいました(残りの9本は録画したけどまだ見ていない)。

 ううむ、やっぱし、篠田三郎、カッコイイ。というより、好青年ですね。73年放映だそうなので、当時25歳くらいですが、だいぶ若く見えます。屈託のない、笑顔のさわやかなお兄さん! という感じ。ま、幼かった私はそこにイカレてたわけですが。

 タロウの設定では、篠田三郎演じる東光太郎はどこか知り合いの家に下宿していることになっていて、普通の家の部屋で下宿先の家族とワイワイやっているシーンとかも結構あったんですよ。そういうシーンを見ては「いいなぁ、、、あんなカッコエエお兄さんが家にもいてくれたらなぁ、、、」とマジメに思っていたのが懐かしい、、、。

 今見たら、光太郎は24時間、赤と青の隊服を着ているわけですが、あんなの着ている男が家の中をうろついてたらウザすぎ、、、と思っちゃいました。ああ、そんな自分が哀しい。

 で、そんな爽やか三郎を見ていたら、若かりし日の映画が見たくなり、『高校生ブルース』と本作とどっちか迷ったんですが、とりあえず本作から見てみました。


◆死ぬ必要ないでしょ! と言いたい。 

 オハナシとしては、ちょっと??な部分も多くて、イマイチですが、まあ、当時左前だった大映ではありますが、いかにも大映な作品という感じですかねぇ。結構堪能できます。

 頭は良くて優等生だが家に問題がある青年と、成金のお嬢という、問題の多いカップル。あれがあり、これがありしながら、2人は気持ちを通わせていくけれど、回りの大人たちは、み~んな敵。ああ、もう私たち、世界に2人きり! 離れない!

 とまあ、ここまでの展開は、まだ分かる。分からないのは、直前まで洋子に「一緒に生きよう」と熱く語っていた由夫が、数分後に、いきなり「一緒に死のう」と言っていること。、、、え゛、何で? 死ぬ必要ある? と、かなりムリな展開に。

 洋子を演じる関根恵子の拙いオーバーアクションが、まあ、可愛くもあるけど、途中からはウンザリしてきて見ていられない、、、。そこへ行くと、篠田三郎は、なかなかの達者ぶりです。

 ついに結ばれるシーンは、まあまあキレイだし、真面目に撮っていると思います。

 見どころとしては、関根恵子の弾ける若さと、若い2人の短絡的な恋路の行方、、、ですかね。タイトルからしてネタバレなんで、2人の先行きが分かっちゃうってのがちょっとね。実際、心中しちゃうシーンは描かれていませんけれど。

 死に向かう2人の「あそこのカレー、ホント辛かったわ!」「ホント、辛かったなぁ!」とか、由夫が雪を掬って洋子に食べさせるシーンとか、すごく明るいのですね。そこはちょっと切なさを覚えます。そのまま、心中なんかやめて、どこかで一緒にお暮しよ、と言いたいなぁ、オバサンとしては。


◆今はなき“尊属殺”

 由夫の兄が実父を殺してしまったことで、尊属殺人となり、兄は死刑を宣告されます。尊属殺が廃止されたのは、この後なんですねぇ。

 親殺しは、普通の殺人より罪が重いなんて、、、。昨今の世の中を見ていると、尊属殺が憲法違反ってのは、誰もが納得するところかも知れません。

 まあ、本作での由夫の父は、殺されても仕方ないという親ではありませんし、明らかに兄に非があります。そもそも、殺されても仕方がない親、という定義もいかがなものかと思いますし、殺されても仕方がない人、なんて、軽々に判断できるものじゃ当然ありません。

 でも、尊属殺が違憲と最高裁で判断されることになった殺人事件の経緯を知ると、その事件の被害者である父親は、まさに“殺されても仕方がない親”と認定されるのも無理からぬ所業で、どんなホラー小説や映画より、よほどおぞましい事件です。こんな犠牲を払う人が出なければ、理不尽な罪が見直されることがなかったというのもまた、恐ろしいことです。

 本作とは直接関係ないけど、ちょっと思い出してしまったので。





ウルトラシリーズのOP曲で一番好きなのもタロウ




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後宮の秘密(2012年)

2016-07-04 | 【こ】



 以下、TSUTAYAの作品紹介からのコピペです。=====

 王の異母弟ソンウォン大君は狩りの途中で出会った美しい娘ファヨンを気に入り足繁く通うようになるが、それをよく思わない大妃の計略によりファヨンはソンウォン大君の兄である王の側室にさせられてしまう。

 だが5年後に王が崩御しソンウォン大君が王位を継承し状況は一変。大妃の命により先王の勢力の粛正が進められ、その矛先はファヨンの命にまで及ぼうとしていた。

 =====コピペ終わり。

 さすが韓国時代劇、、、。愛欲まみれでゲップが出そうになりました。日本の大奥モノなんてカワイイもんだわ。
 
 

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜



  TVドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」(古っ!)に始まり、その後、「イ・サン」「トンイ」と、NHKでオンエアされた韓国時代劇ドラマは結構ハマったので、韓国映画の時代物もちょっと見てみようかと思い、何となく目に留まった本作から。

 上記の、TSUTAYAの紹介文しか予備知識としてはない状態で見たのですが、飽きずに最後まで見ることが出来ました。まあ、本作は、「イ・サン」「トンイ」とは違って、完全なフィクションの様ですね、、、。


◆親の前でセックスをさせられる王様

 TVドラマを見ていても思ったんですけど、もう、マジで韓国時代劇における欲望の渦の巻き方の凄まじさといったらありません。、、、いや、恐らくは、日本の平安朝も同じくらい欲望の渦は激しく巻いていたと思うのですが、日本の平安時代の映像作品であそこまで描いちゃっているものってあるのでしょうか? 数年前の大河ドラマ「平清盛」(途中で挫折しちゃいましたけど)の舞台は平安末期で、大河ドラマとしては異色の、なかなか愛憎入り乱れた作りになっていたように思いますが、それでもやっぱり、韓国モノに比べると、まだまだ、、、大人と子どもの差がある気がします。ドラマの質がというんじゃなくて、陰謀の凄まじさという意味でね。

 本作は、映画ですから、さらに描写がエグいです。

 セックスシーンは、どれもこれも、ゼンゼン官能的ではありません。序盤の、ファヨン(チョ・ヨジョン)とクォニュ(キム・ミンジュン)のあばら家でのシーンは、まあ軽めだし、それなりの雰囲気でしたが、あとはもう、衆目の中で強制的にさせられたり、自分の欲望(性欲じゃなくて権力欲や独占欲)を相手に暴力的にぶつけたり、という、いわば苦痛を伴うセックスです。

 マリー・アントワネットは、宮廷の大勢の関係者たちの前で出産したらしいですが、それも仰天ですけど、、、。やんごとなき方々にとってセックスや出産はお世継ぎを残す重要な行為であり、だから皆の前でお仕事としてやらねばならなかった、、、ということなんですかね。恐らく、洋の東西を問わず、こういうことは支配階級の人たちの間ではあったのでしょう。

 本作でも、ソンウォン(キム・ドンウク)が王になり、母親の大妃(パク・チヨン)の命に従って結婚した王妃と初夜を迎えるに当たり、やはり王宮殿で大妃や家来たちの見守る中でさせられます。家臣に隣で、「お妃様、玉茎を受け入れなさってください」(だったかな?)なんて指図されちゃ、たまんないよなぁ。実の母親もいるんです、、、トホホ(……王様ともなると、その名も「玉茎」なわけですね、、、、)。でもって、王様、ゼンゼン気持ちよさそうじゃなかったですね。もう種馬みたいで、見てられませんでした。

 終盤の、ソンウォンとファヨンのシーンは、長年の想いがようやく遂げられて嬉しいはずのソンウォンですが、なんというか、ゼンゼンそんな感じじゃない。、、、ま、これには伏線がありまして、ファヨンがソンウォンに「本当の王になってから私を求めてください」みたいなことを言ったので、それまで大妃の言いなりだったソンウォンが大妃を放逐し、やっと真の王になった暁のシーンなわけで、、、。だから、ようやくファヨンを抱ける悦びよりも、大妃の支配を自力で振り払って真の権力者の座についたことを顕示したい、力を見せつけたい、そういうセックスなのですよね。

 一方のファヨンも、ゼンゼン悦んでいる感じじゃない。ソンウォンの乱暴な行為に驚きおののいているのかと、最初は思って見ているのですが、次第に、、、ん? これはもしや、、、? と思っていたら、案の定、、、ぎゃーーーっ!!な展開に。そうか、そういう思惑があってのセックスだったのか、、、とね。想像はついたけれども、そのシーンは、痛い上に、血がドバドバ、、、。

 女官がその寝所を見た時の、ファヨンとソンウォンの姿は、まるでミケランジェロのピエタのよう、、、。

 
◆本筋は、息子と母親の壮絶な確執物語。

 まあ、本作は、エロもグロもそこそこありますが、見どころはそこではないような。

 これは、母と子の確執物語。古今東西、普遍的なテーマです。つまり、ソンゥオンが大妃の支配から、自らの意思と力で脱する、息子の自立物語です。

 この大妃がねぇ、、、凄いんですよ。大妃ってのは、「イ・サン」でも極悪人に描かれていましたけれども、日本的に言えば、皇太后に当たる人で、王の母親なわけですね。亡き先王の妃ですから、基本的に王は大妃に頭が上がらない。大妃の院政が敷かれて、王はまさに名ばかり。

 ソンウォンの苦悩が、結構丁寧に描かれています。ソンウォン自身、決して無能な王ではなく、大妃の腹の内などとっくにお見通しだけれども、そこはそれ、儒教の下で、親に逆らえない。ソンウォンが結局、大妃を放逐できたのは、ファヨンへの想いがあったからでしょう。自らの権力欲との相互作用で、大妃に逆らうパワーを持つことが出来たのだと思います。もし、どちらが欠けても、大妃を追いやることなどできなかったでしょう。

 親を精神的に葬る時というのは、それはそれは、もの凄いエネルギーを要します。これって、いつの時代でも同じなんじゃないですかね。王と一般庶民じゃコトの重みが違うかも知れないけれども、そのエネルギー量は同じだと思います。それくらい、親というのは有形無形に子に凄まじい影響力を及ぼす者なのです。

 本作での大妃は、それを知っていて、自覚的に振る舞って息子である王を追い詰める、、、今時の流行りで言うと完璧な「毒親」です。実際、息子に毒を盛ろうとしますしね。

 ソンウォンも、折角、大妃の毒牙から逃れたと思ったのに、もっと恐ろしい毒牙がその先に待ち構えているとは、想像だにしていなかったでしょう。、、、残念でした。

 でも、ファヨンとその子(おそらく次に王になる)もまた、、、と思わせる終盤でしたね。

 
◆韓国人の名前が覚えられない、、、
 
 チョ・ヨジョンさん、確かにキレイだけど、なんかところどころ、顔が松嶋菜々子に見えるシーンがありました。キム・ミンジュンはちょっとワイルド系で隆大介(なんか問題起こしてましたよね?)っぽかったかな。ちょっと苦手な系統です、、、。キム・ドンウクは、あまりインパクトがない顔というか、、、。

 つーか、そもそも韓国人の俳優さんの名前、ゼンゼン覚えられないんです、私。あー、どうしてこう分からないんだろうか。名前から、男か女かも分からない、、、。

 一番インパクトがあったのは、やはりパク・チヨンさんでしょうか。悪女っぷりが素晴らしかった。同じ悪女でも、チョ・ヨジョンさんよりはよほど雰囲気があって素晴らしいと思いました。

 これからも、時々、韓国の時代劇、見て行きたいと思います~






砒素って、やはりポピュラーな毒なのですね。




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絞殺(1979年)

2016-02-01 | 【こ】



 超有名進学校に通う秀才の息子・勉。大人しかった勉が、ある日を境に突然、親に反旗を翻し牙を剥く。驚いてなす術ナシの両親。挙句の果てには母親を犯そうとまでするわ、家中メチャメチャに壊しまくるわで、ただただ両親は怯えるばかり。

 酒を浴びるように飲んで寝てしまった勉を、父親は「やっちまおう」と妻に向かって言うと、勉の部屋へ上がって行く。自分の浴衣の紐を解くと、片方の端を手首に縛ってしっかり固定し、余った長い部分を勉の首の回りに二重に巻きつける。そして、、、、。

 1977年、東京北区で起きた“開成高校生絞殺事件”を下敷きに、新藤兼人がオリジナル脚本を書き監督した作品。後味は悪い、、、というか消化不良。
  

  
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 ちょっと前に『観ずに死ねるか!傑作絶望シネマ88~総勢70人が語る極私的トラウマ映画論~』(鉄人社刊)という本を読みました。表紙があの『炎628』のフリョーラのドアップだったのもあって、興味を持ちまして、、、飛ばし読みでしたけど。おまけに図書館で借りたんですけど、、、。

 その中で紹介されていたウチの1本が本作でした。で、見てみようかと思いまして。

 正直言いますと、ヒジョーにつまんなかったです。ショッキングな実話をベースにした衝撃的な内容ですから、退屈することなく最後まで見られますけれども、これはダメでしょう。ものすご~く既視感のある、類型的なオハナシです。音羽さんのヌードや、近親相姦、義父殺し、童貞喪失等という、言葉にするとそれなりに好奇心を掴むものがちりばめられているけれど、話題性先行で中身が伴っていない、ってヤツです。

 つまり、新藤さんの筋立てはこうです。権威を振りかざす中身の伴わない父親と、その父親の言いなりになっている優しい母親の下で、秀才の息子は、父親の言動に矛盾を感じてそれが許せない思いを募らせていたのが、ある日突然決壊、暴発した挙句、父親が思い余って息子に手を下してしまった、、、。でもって、新藤さんの脚本は、勉が突然暴れ出した理由を、この時期の青年にありがちいな“性の問題”を引き金として描いているのです。

 何が不満って、勉がどういう青年なのかが全然描かれていないこと。最後まで分からずじまい。優秀だ優秀だ、って親のセリフと、進学校に合格&通学しているシーンくらいでしか描いていないので、どんくらい優秀なのか不明だし、どういうことに興味があってどういう性格でどういう毎日を過ごしているのか、という大切な描写は一切ありません。

 それに本作では、勉が大暴れしたのはたったの2回です。2回目の後、父親は「やっちまおう」と。そんな簡単に我が子を殺す決断、そうそうできませんよ。ま、この親父さん、情状酌量で釈放された後、罪悪感にかられて苦悩の様子も見せず、実にサバサバしてたので、そういう人なのかも知れませんけど。

 勉の父親は、学歴は不明ながら(一応セリフで「大学の門をくぐった」とあるので大卒かと思われるが、仕事はスナック経営)、絵に描いたような昭和な父親像を地で行く“えばりんぼ親父”です。食事しながら勉に、やれ「東大行け」だの「エリートコースから外れるな」だの「お前の爺さんは立派な人だった、一流ではないが二流の上といったところだな」だの、もうメシがまずくなるような話を延々。そのシーンを、勉の背後から映しているんだけど、勉がみじろぎもしないの、ご飯食べてるはずなのに。丸いちゃぶ台を両親と勉が囲んでいるんだけど、喋っているのはほぼ親父、時々合いの手を入れるのが母親。勉は一言も発さない。すんごい不自然。
 
 勉は母親とは比較的良好な関係の様なんだけど、ある晩、母親が父親とセックスしているときの声を襖越しに聞いてしまうんですよね。まあよくあることですが。で、さらに、勉には同じクラスに好きな女子生徒がいるんだけれど、この女子生徒が、実は義父(実母の再婚相手。実母は病死していない)に性的暴行を受けていることを現場を目撃しちゃって知るわけです。で、このとんでもない女子生徒の義父と、自分の親父を同類項と見なし、「お前ら下等だ」となるわけです。

 、、、ちょっとそれって飛躍が大きすぎやしませんか、新藤さん。いくら多感な高校生とはいえ、夫婦の営みと、義理の父娘の相姦じゃ、訳が違うことくらい分かるでしょ。いくら親父が中身のないえばりんぼ親父だとしても、何か、18歳くらいの少年の葛藤としては、あまりに浅い描き方だと思います。

 勉を演じているのは新人の俳優さんらしいですが、セリフがあんまりないし、彼の演技(といっていいのか、、、)の拙さも大いに影響していますが。すごい濃い顔というか、妻夫木くんをさらに濃くした感じですかねぇ。喋り方もぎこちなく、どうして彼を起用したのだろうか、と疑問。

 先日、「「子供を殺してください」という親たち」(押川剛著/新潮文庫)という本を読んだんですが、それはもう、壮絶というか、想像を絶する世界がそこにはありました。だから、本作で描かれているのは、ホントに薄っぺらくしか思えません。実際にあった開成高校生絞殺事件も、こんなもんじゃないでしょう。

 本作では勉が「七つの大罪」と題した散文で父親を罵って(罰して)いるんですけど、そんなふうに、胸の内を言葉にできている段階では、正直こんな事件にはならないんじゃないかという気がします。その時点で子どもは子どもなりのSOSを親に出しているはず。でも親は見過ごしてしまう。本作ではそういう親の“見過ごし”によって、子が何度も味わわされる絶望が完全に欠落している。

 さらにいうと、子が暴れたり引きこもったりという“身体を張った”段階ではもう、言葉で悶々とする段階はとっくに超えてしまっているんです。だから、体当たりになるんです。なのに、あくまでも新藤さんの脚本では、理屈で話が進んじゃっている。そこがもの凄く物足りなさを感じるんだと思います。
 
 本作の見どころは、唯一、音羽信子さんの熱演です。勉が死んだ後、音羽さんが演じる母親・良子は、外出する際に必ず大きな黒いサングラスをかけるようになります。なぜかというと、人に顔を見られたくないから。夫の「サングラスをかけたくらいじゃ顔は隠れまい?」との問いに「隠した気持ちになれば良いんです」と言う良子。

 昭和な親父を演じたのは西村晃さん。頭の悪い、イヤな親父を、実に巧く演じておいでです。さすがです。

 というわけで、絶望と言えば確かに絶望シネマだけど、トラウマにはならないかな。私にとっては、歯応えのない、消化不良映画でした。





雪の林の中でのセックスが寒そう




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この庭に死す(1956年)

2015-06-06 | 【こ】



 以下、昨年開催されていた「三大映画祭週間2014」オフィシャルサイト(上記リンク。そのうちリンク切れしそうですが)より===

 山師のクラークは金の採鉱者たちが集まるキャンプ近くの村にやってくるが、地元の警察に拘束されてしまう。彼が近隣で起きた銀行強盗に絡んでいるというのだ。

 しかも、今度は警察が金鉱を州のために没収してしまったので、採鉱者たちが暴動を起こすが、それも平定されてしまう。

 クラーク、リザルディ神父、キャスティンとその娘、そしてキャスティンの情婦であるジンの5人はこの機に乗じてジャングルに逃げ込むが、それは彼らの命がけのサバイバルの始まりだった。

 ===引用終わり。以下補足。

 舞台は南米と思しき所。「金」の採鉱者ではなく、ダイヤモンドです。

 クラークは、シャークとあだ名され、相当ヤバそうな男(でも一応イケメン)。キャスティン(字幕ではカスタンになっていたと思うので、以下カスタン)はフランスに帰国し料理人として店を持ちたいと夢見ている人畜無害な爺さん。その娘マリアは、聾唖者。

 そして、シモーヌ・シニョレ演じるジンは娼婦で、カスタンの「情婦」ではない。カスタンが勝手に思いを寄せており、気持ちを伝えてはいたが相手にされていない状態。だが、カスタンがひと財産貯めこんでいるようだと知り、カスタンの申し出に乗ってフランスに行く気になっていたわけ。

 リザルディ神父(ミシェル・ピコリ)は、どこまでも布教に熱心な神の使者。

 ・・・この5人のキャラが、ジャングルでのサバイバルで激変し、物語はバッサリと幕切れへ。ブニュエルらしいというか、、、らしくないというか。エンタメ度高し。

 
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 ブニュエル作品+シモーヌ・シニョレ出演、ってことで見てみました。ブニュエルのメキシコ時代の作品だそうですが、その時代の作品というと、『忘れられた人々』の印象がキョーレツ過ぎて、本作もそんな感じのものかと思っていたら、これが全然違いました。

 本作は、前半と後半でガラッと話が変わります。前半は、ダイヤの鉱山が舞台で、一攫千金を夢見る採鉱男たちと、鉱山を管轄する支配者の横暴ぶりが描かれます。後半は、ジャングルが舞台で絶望的なサバイバルが延々描かれます。どっちも人間の欲望と欲望がぶつかり合うという点では通じています。

 前半もまあ、面白いんですが、圧倒的に後半の方が面白かったです、私は。

 シャークがものすごく生きることに貪欲な男です。前半はかなりの極悪人的な描かれ方だったのに、サバイバルの後半になったら、仲間と共に生きることに貪欲な「頼もしい男」になっているんです。でもって、ジンとラブラブになったりして、あの前半のヤバさはどこへやら・・・。同じ人間なのに、こうも置かれた状況で違うように見えるとはねぇ。

 そのジンも、計算高い娼婦で、常に自分の利になるようにしか動かない。だから、ジャングルでシャークに「初めて見た時から好きだった」なんて言ってたのも、どこまで本当なのか、怪しいもんです。ジャングルではこいつに着いて行った方が良さそう、という鼻を利かせた言動だったと思えなくもないです。

 以下、ネタバレバレですので、本作を見る予定のある方はそのおつもりでお願いします。

 問題は、善人そのものだったカスタンの変貌ぶりです。彼が、いわば、一番、想定外の変わり方をしてしまったがために、思わぬ顛末に至ったのですが、、、。私には、カスタンが変わった理由が、イマイチ分かりません。

 彼がその変貌ぶりを発揮する前に、一行は、絶望的な状況から少し救いのある状況へと移っていたのです。ジャングルに小型旅客機が墜落していて、食料や衣類、宝石類等が手に入ったからです。ジンは高価なドレスに着替え、カスタンの娘マリアも、それまでは素朴そのものだった娘なのに、急に宝石類に執着するようになります。皆、生きる力が戻るわけ。でも、カスタンは、、、これがあまりよく分からない。描写がほとんどないからです。

 そして、突然、高価なドレスを身にまとったジンを猟銃で殺害するという、、、。

 私なりの解釈では、高価なドレスに着替えたジンが、シャークと親しげに会話しているのを見て(恐らく、その前にもシャークとイイ感じだった現場を目撃していたのだろうと思われる)、カスタンは、そっちの方が生きる力を奪われたのかも知れないな、と。ジンがほかの男のものになってしまうことに耐えられない、、、のではないか。また、不釣り合いな高価なドレスを纏っているジンの姿がイヤだったのかも知れない。

 でも、カスタンは、その後、神父も射殺しちゃうし、自分の娘マリアを助けようとしているシャークにも銃をぶっ放します。これがよく分からない。もう、皆殺しで自分も死んでやる! って感じだったんですかねぇ、、、。ヤケッパチっていうやつですか。頭のネジが外れちゃった感じです。

 あんな鉱山での暴動さえなければ、カスタンはフランスに帰って(ジンにはあっさり振られていただろうけど)、穏やかな料理人としての人生を送れていたかも知れないのに。、、、いや、ジンを妻に、などと考えてしまう思考回路では、結局、破滅が待っていたかも。

 サバイバルものは、どっちかっていうと、苦手な方なんだけれど、本作は、そこまで徹底的に登場人物を追い詰め過ぎず(って、十分過酷な状況ではありますが)、カニバリなどの極限状態にまでは至らないので、むしろ、見入ってしまいました。

 『忘れられた人々』の方が、本作より、百倍キツいです。本作は十分楽しめる映画でした。




シモーヌ・シニョレの悪女ぶりはいつ見ても嘆息モノ。




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ゴーストライター(2010年)

2015-05-22 | 【こ】



 イギリスの前首相アダム・ラング(ピアース・ブロスナン)が自叙伝を出すに当たり、そのゴーストライターを依頼された“ゴースト”(ユアン・マクレガー)は、気乗りしなかったが成り行きで引き受けることに。気乗りしなかった理由の一つは、前任のゴーストライターであったマカラが水死体となって海岸に打ち上げられていたからだ。

 アメリカ東海岸の孤島にあるラングの別荘へ到着するやいなや、不穏な空気がゴーストにまとわりつき、彼は気がつけば巨大組織に危険視される存在となってしまっていた、、、。

 ユアンの役名はなく、ただの“ゴースト”。ラストシーンの画が印象的な、なんちゃってサスペンス映画。

 
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 途中??な箇所はあるものの、見ている者を130分飽きさせない引力があり、ポランスキーの演出の妙は相変わらず冴え渡る。しかし、見終わった後にサスペンスにはあってほしいカタルシスはなく、鑑賞後感もかなり悪いです。

 何より不満なのは、タイトルが『ゴーストライター』であるのに、主人公ゴーストはプロのゴーストライターとしての仕事をほとんどしていないってこと。これなら、別に主人公の職業は、秘書でも執事でも良かったんじゃないのかしらん。ゴーストライターとして元首相の半生をいかに書き綴るかをもっと前面に押し出したストーリーにして、なおかつサスペンスに仕立てて欲しかったなぁ。これじゃある種、パッケージと中身がゼンゼン違う偽装表示みたいなもの。

 、、、なんていきなり文句を書いてしまったけど、面白いことは間違いない。出てくる人がみんなクセ者ばかりだし、どうしてゴーストの前任者が水死体になってしまったのか、という鍵になる謎は最後まで引っ張ってくれるし、小道具の出し方も観客の興味を引っ張るのに成功していると思う。やはりポランスキーは観客の心を掴むツボを心得た人です。

 全体にグレー基調の映像で構成され、何かとんでもないことが背景にあると感じさせられる。小出しにされるネタといい、ラスト近くに一気に謎が解明される緊迫感といい、サスペンスの定石は踏まえられているんですよね、、、いるんだけどね、、、。

 見ていて、一番ガクッとなったのは、やはり、政府の要人ともあろう人がゴーストがネット検索ごときでたやすく得た情報を知らなかったことですね。ネットで調べて分かることが重大な秘密にはなり得ないでしょう、、、? ほかにも、前任者が隠した資料を陰謀の首謀者である“あの組織”が見つけることなく放置したままだったり、そもそも前任者の死が殺人だと簡単に見破られる杜撰さだったり、と、国家レベルの陰謀の糸を引く“あの組織”がそんなトンマなことでいいのかよ、と、見ていてドン引きです。謎解きの過程が個人の犯罪レベル並みに非常に軽いのがいただけない。

 とはいえ、“あの組織”も実はそんなに精鋭部隊じゃなくて、リアルにかなりトンマだという話も見聞きしますから、もしかしたら、こういうレベルのミステイクはざらにあるのかもしれませんが、、、。意味深に書いたけど、“あの組織”ってのは、作品によって巨悪にも善にも書かれるCIA。ちょっと、ドラマや映画でCIAに対し、過剰なイメージを持ってしまっているのかもしれません。

 CIA・・・つまりアメリカに操られる首相、というのが、本作の最大の機密事項なわけですが、それってそんなにものすごい爆弾なんですかねぇ。そんなこと、一般人でも想像していそうなことです。「ありそうだ」と「実際にあった」じゃ、天と地ほど違うとは思いますけれども、、、。

 先日もある国のトップが両院議会で歴史的な演説をしたと、ご本人たちは自慢げですが、あれなんかまさしく、、、と思ったのは私だけではないはず。操っているのがCIAかどうか知りませんけど、もっと露骨に操られているのが見え見えです。前から馬鹿だ馬鹿だと思っていましたけど、操る側からすれば馬鹿であればあるほど都合が良いですもんね。

 、、、ま、それはともかく、人殺してまで隠蔽しなければならないことには思えません。

 それに、そんなに隠蔽したいのなら、自叙伝など出さなければ良いわけで。やっぱり「自叙伝+ゴーストライター」という設定が、間違いじゃないでしょーか。

 一説には、ゴーストライターとはユアン・マクレガー演じるゴーストを指すのではない、原作のThe Ghostには違う意味が込められている、というのもあるそうですが、そんな深読みさえ、本作にはあまり意味がない気がします。

 本作は、ポランスキーの屈折したアメリカ観があるのかも知れません。ボンドに首相を演じさせているあたり、なんかそういう気配を感じないではない。なによりピアース・ブロスナンは、どうしても首相に見えない、、、。ボンドがチラついたのではなく、なんつーか、軽いというか、知性が感じられないというか、、、。そう、知性のある首相ではダメだったんです、CIAにとっては。だから、この配役なんだよな、きっと。

 ラスト、原稿が舞い散る画が素晴らしかった。これぞ映画! っていう映像。なんか、雰囲気だけで味はイマイチなコース料理を食べた後に、見た目も美しいデザート皿が出てきて一瞬でコース料理の印象が吹っ飛んだ、みたいな感じでした。、、、ま、エンドロールでまた、料理の中身を思い出すわけですが。

 ラング夫人のルースを演じたオリヴィア・ウィリアムズが素敵でした。カッコイイです、とても。ユアン・マクレガーは、お約束のように全裸になっておられました。また尻かよ、って感じでしたね、残念ながら。





うーん、ポランスキーの監督技にねじ伏せられた感じ。




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ゴーン・ガール(2014年)

2014-12-27 | 【こ】



 5回目の結婚記念日の朝、美人で頭の良い妻が消えた、、、が、どうも何かがヘンである。恰好のワイドショーネタとなり、夫はメディアの餌食になるが、、、。

 《本作をまだ見ていない方で今後本作を見る予定のある方は、ネタバレを知らない方が絶対によろしいと思いますので、拙ブログに限らず、あらゆる本作品に関するネタバレ情報には接することなく劇場へ行かれることをお勧めします》

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 以下、ネタバレバレなので、悪しからず。

 結論から言いますと、本作は“ただ見るだけ”の映画です。いや、面白いですよ、見ている間はそれなりに。でも、見た後、何かが心に残る、そういう奥行きのある作品ではない、ということです。だからこそ、ネタバレ、ストーリーは知らずに見るべき作品なのです。キャッチーなコピーは、もうほとんど詐欺に近いです。

 妻であるエイミーの失踪ですが、冒頭からエイミーの意思によるものを匂わせる描写で、夫のニックにはエイミー殺人容疑がかかりますが、観客は全然そんなのに惑わされることはないのです。これは、監督が、そういう意図で作っているのか、あるいは、途中までは本当は観客を惑わせたかったのか、その辺が分かりません。もし、後者だとしたら、完全にその意図は外れてしまっていると思います。

 そして、案の定のエイミーの独白による失踪の真相。意外性は全くなく、ただただ、何でそんなメンドクサイことするの? という疑問に観客の興味は収斂されていきます。

 でもって、その答えが、「エイミーはサイコパス」。、、、え゛~~~っ!!! なにそれ。、、、ガックシ。

 サイコパスなら、何だってアリじゃん。・・・一応、彼女の母親による「完璧なエイミー」像を押し付けるという、いわゆる“母娘葛藤説”がエイミーの人格形成に影響を与えた、という描写がありますが、あんまし意味がないような。だって、サイコパスですよ? 「完璧なエイミー」を演じるために、ニックにあのような半ばギャグとしか思えない不条理を押し付けるなんて、ちょっと説明としてはムリがあり過ぎで、それこそ、サイコパスくらいのパンチがないとダメでしょう。

 本作を見ていて、私は2つの過去の出来事を思い出していました。1つは、「若人あきら失踪事件」。もう1つは、松田聖子と神田正輝の自宅前でのオメデタ会見。「若人あきら失踪事件」の真相など知りませんし興味もありませんが、あの時のメディアの馬鹿騒ぎっぷりが、本作のそれと見事にダブりました。そして、オメデタ会見では、神田正輝が聖子ちゃんの腰を後ろ手でさすりながら(冷え防止のため、だとか、、、)の会見が印象的で、その何とも言えない空気感が見ている者たちをいたたまれなくした感じが、本作の終盤の妊娠会見と、これまた見事にダブりました。どちらも古い話なんで、お若い方はご存じないと思いますが・・・。

 所詮、ワイドショーなんてそんなもん、と思って、どの視聴者も8割引きくらいで見てくれれば良いですけど、世の中の視聴者にはメディアの情報を鵜呑みにしてしまう全くの善人も大勢いらっしゃって、だからこそ、洋の東西を問わず、時代を問わず、似たようなことが起きている訳ですね。

 夫婦の在り方に限らず、一個人、家族、会社、果ては国家であれ、虚像と実像は外からは見分けがつかない、っていう警鐘だと思わなければ、このギャグみたいな不条理なオチは、救いがなさ過ぎます。イメージってのは非常に厄介です。

 というわけで、ネタバレしちゃったら、ほとんどどーでも良い映画であります。こういう作品は、映画としては決して質が良いとは言えません。消費されるだけの作品です。、、、残念。

 さらに残念なのは、妻役のロザムンド・パイクですが熱演で頑張っており、また確かに紛れもない美女なのですが、脱いだ後姿(というか、上半身ですな)が写るシーンがあって、その体がちょっと寸胴といいますかガッチリした感じで、かなり興醒めでした。やはりああいうシーンでの裸身は、細くくびれていてほしい。美女ならばなおのこと。

 余談ですが、ベン・アフレックのあのムキムキのゴツ過ぎる体に、少々、生理的嫌悪感を抱いてしまいました。まあ、凡庸以下の男っていう設定で、そういう意味ではマッチョは合っていたとは思いますが・・・。おお、、、これも、イメージのなせる業だ!!

 いや、それにしてもあの、肩から胸板に掛けて、マッチョ過ぎ、、、。これは、ジェニファー・ガーナーがマイケル・ヴァルタンから鞍替えしたのもムリはない。そりゃ、ベン・アフレックの方が比べ物にならないくらいお似合いです、ゴツ過ぎカップルってことで。



ネタバレ知ってしまえば価値半減の作品。




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ゴッホ(1990年)

2014-09-24 | 【こ】



 自分が死んで約100年の後、自分の描いた絵が58億円もの価格で売れたことを、あの世で彼はどう思っているのだろうか・・・。
 
 信仰にも、絵にも、友情にも、恋愛にも報われなかった彼の人生。彼の、文字通り生命線だった弟も、報われない。ないない尽くしの彼の人生を、常に「貧乏」というBGMで描く、アルトマンにしては珍しい伝記映画であります。

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 とにかく、ティム・ロスが、数あるゴッホの自画像からそのまま抜け出てきたみたいで、なんだか本当にゴッホってこんなだったんだろうな、と思わせる凄みがあります。

 ・・・が、私、アルトマン作品を見てくる中で、初めて睡魔に襲われました、これ。しかも、ほんのちょっととかではありません。何度も、何度も。なので、何度も何度も見るハメになりました。後半、耳切り事件以降は覚醒しましたが。眠くなったのはちょっとショックだったけど、でも、これは仕方ないなー、と。

 俳優さんたちは、皆、熱演なのですが、なんつーか、こう、アルトマンっぽさはもちろんあるんだけれども(冒頭のオークションシーンからのオーバーラップとか)、アルトマンにしては、ものすごくベターッとした感じで、ずーっと同じトーンで展開するので、これが私にはキツかった気がします。

 もしかして、登場人物が、ほとんど、ヴィンセントとテオとその妻が中心で、彼お得意の群像劇でないから、人物描写が単調になった、ってことでしょうか。まあ、いずれにしても、話自体も非常に暗く救いのないもので、気分的に滅入るだけでなく、怒りさえわいてくるというか(だったら眠くならんだろう、という気もするが)・・・。

 もちろん、怒りの対象はヴィンセントですが。とにかく、彼は、「お金」はどこからかもらってくるものであり、稼ぐという概念が1ミリもないわけです。自分の絵が売れないことに彼は怒るけれども、じゃあ、売れる絵を描こう、ということも絶対しない。そうすることは、絵描きの矜持を捨てることにもなりかねないからできっこない、ってところなんでしょうなぁ。まあ、大なり小なり、芸術家ってのはパトロンの世話になっているもので、彼にはそのよき理解者が現れなかった、ってことだわね。それくらい、彼の絵はアクが強すぎた、ってことなんですかね。

 私は、絵を見るのは好きな方ですが、美術に関する一般常識はあんまし持ち合わせていないので、ゴッホについても、通り一遍のエピソードくらいしか知りませんが、本作は、その通り一遍のエピソードを超える話がほとんど出てこなかったのも、睡魔に付け入る隙を与えた一因かもしれませぬ。終盤の、麦畑で自身を撃つシーンはなかなか良いと思いますけれど。

 ・・・例の「ひまわり」は、学生時代、購入した会社の美術館でバイトをしていたので、実物を飽きるほど見ましたけれども、こんなものになんで58億円も出すんだろう、と思ったのが正直なところです。というか、58億円って何なの? どれくらいのお金なの? 絵一枚に掛けるお金として、それってアリなの? もっと生きたお金の使い方ってあるんじゃないの? ということが頭の中でグルグルしておりました。ゴッホだって、いまさらそんな天文学的な値段つけられたって、「なんのこっちゃ」だと思うんですけれど。本作のティムゴッホを見て、ますますそう思いましたね。あ、これってアルトマンの術中にハマったってことでしょうか。


お金は稼ぐもんじゃなくてもらうもの byゴッホ



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ゴジラ(1954年)

2014-07-23 | 【こ】

★★★★★★★★☆☆

 怪獣モノは基本的に大好物なんだけれども、ゴジラシリーズに関しては、あのエメリッヒ監督の『GODZILLA』(1998年)を何を思ったか劇場まで見に行ったほかは、ほとんどまともに見たことがなく、当然、第一作の本作も今回が初めて見るという次第。BSにてオンエアのデジタルリマスターで、画面は大変きれいです。

 もちろん、60年前の作品ですから、特撮技術は言うに及ばず、独特のセリフ回しや演出など、古さは嫌でも感じますが、でもそんなこんなを超越する圧倒的なパワーがあります、本作には。

 戦争が終わって、10年足らずという時代背景が如実に表れていることに、何というか、胸が締め付けられる思いがしました。全編にわたり、いたるところで先の戦争に関するセリフが出てきます。学者や政治家のセリフはともかく、市井の人々のセリフ、例えば、ゴジラについて電車内で語り合う若い女性の「せっかくナガサキから生き延びた身なのに」、街を破壊しまくるゴジラを前に幼子を両脇に抱えた母親の「もうすぐお父さんに会えるわよ」等々、、、。本作を制作した人々のほとばしる思いというか、書かずにおれない、言わずにおれない、そんな気持ちが伝わってくる気がしたのです。

 なにより、本作のゴジラは怖い。恐ろしい。正直、画面を正視できないところもあったほど。私の中で、ゴジラのイメージは怪獣だったわけで、怪獣は私にとっては怖くないのです。怪獣ってのは、そもそも、人間を標的にするっていうよりは、地球を、そして、それを退治するスーパーヒーローを標的にして現れるものだから、ダイレクトな怖さを感じないのね。しかし、このゴジラはその辺のフツーの人間を狙うんですよ。踏み潰す、焼き殺す、何のためらいもなく。まあ、怒っているのだから当たり前なんだけれども・・・。だから、オソロシイのです。

 ある新聞Aが、ゴジラ第一作について反戦メッセージを込めたものだという60周年特集記事を掲載していたんだけれども、集団的自衛権云々の折も折、その特集に対し別の新聞(と呼ぶのも抵抗があるが)Bが「何でもかんでも反戦・反核に結び付けるな」というコラムを載っけていました。本多監督自身も、反戦メッセージなど本作にはなく「戦後の暗い気分をアナーキーに壊しまくってくれる和製『キングコング』のような大怪獣映画」を目指していたんだとか・・・。まあ、真相は知りませんけれども、本作を見て「反戦・反核」を読み取って、文句言われる筋合い、あるんでしょうか。読み取らなくてももちろん結構ですが、読み取ったってヘンじゃないでしょう。監督がどういうつもりで撮ったか知りませんが、少なくとも、私は、この脚本を書いた人にそういう思いがなかったとは思えません。新聞Aが書くと、無駄に政治色を帯び、それに政府広報紙・・・じゃなかった新聞Bがお約束のように批判文を載せるという、、、あー、バカ丸出し。伊福部さんは、反核メッセージを読み取ってあの音楽を作った、という話は有名でしょ。

 まあ、強いて言えば、芹沢博士が山根博士の娘の元婚約者である必要性が感じられない、とか、山根博士は結局ゴジラ対策をなーんにも出来なかった、とか、尾形は本作で一体何したんだよ、とか、突っ込む箇所もあるにはあるけれど、そんなのは些末なことだと思えるくらい、本作は作る人々のパワーのこもった作品でした。伊福部音楽も、もちろんサイコー♪ この音楽でなければ、その後のシリーズ化もあったかどうか・・・。

 本作の制作に携わった全ての人々に敬意をこめて、★2つプラス。

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恋人までの距離(ディスタンス)(1995年)

2014-04-26 | 【こ】

★★★★★★☆☆☆☆

 先日、会社の同僚(といっても私より15歳も若いアラサー女性)が、ふとした出会いが縁で結婚したという、彼女の知り合いの話を教えてくれた。客とディーラーの関係だったとか。私の知り合いにも、カラオケボックスの隣の部屋(何でも部屋の壁がガラス張りだったとか・・・?)で歌っていた男性と目が合い、歌い終わって隣室の人々と一緒に店を出たところで「アタシ、あなたと結婚すると思う」とその男性に言って、ホントに結婚した、って人がいるんだよ、なんて話をしたのであった。でもって、「私の人生にはそーゆー劇的な出会いってなかったなー」と言ったら、同僚が「これからあるかもですよ!」などとヌかすので、思わず「はぁ?もういいよ、メンドクサイ」と思わず返事してしまったら、同僚は苦笑していた。色恋ごとを「メンドクサイ」なんて言うようになったら終わりだ、と、私もかつて若かりし頃は思っていたなぁ、そーいえば。

 長い前置きはさておき、本作は、外国での旅の途中でたまたま知り合ったイケメンとカワイ子ちゃん(死語?)の時限恋愛話です。一つ一つの会話や仕草、目線の合わせ方など、丁寧な作りです。まあ、一種のファンタジーですが、違和感なく物語は進みます。ウィーンの古い街並みがロマンチック度アップ。

 二人の演技とも思えぬ演技がいいですね。何となく惹かれあう感じがよく出ています。電話のシーンなんかは、ラブストーリーとしてはかなり定番な感じもありますが・・・。

 さて、しかし、私は本作を今回初めて見たわけでして、今の私には、本作に「続編」が、しかも2つもあることを知ってしまっているわけです。つまり、このお話は「行きずりの時限恋愛」で終わらなかったことを知ってしまっている。だから、本作もどうしてもそういう前提で見てしまい、かなり興ざめです。もちろん、本作のせいではありません。制作から20年も経って見るからこういう事態が起きたわけでして・・・。

 で、私としては、この二人はこの後、二度と会わない方が、お話としては好きかな。と。続編はまだ見ていないのでどういう展開か知りませんが、どういう展開であれ、これは非日常における夢物語で、素敵な思い出、とかで良かったんじゃないのかしら、という気がします。なぜなら・・・。

 恋愛とは、キレイごとではないからです。人を愛するというのは、過酷です。与えるだけの愛で満足できる、そんな神様みたいな人、いません。与えたら与えた分以上に与えてほしい、と思うのが人というもの。おまけに、恋愛には「肉欲」が着いて回ります。これのない恋愛は、私的には「ただの恋」でしかありません。でもって、セックスが絡むと、話はさらに厄介になるのです。好きだからセックスなのか、とか、セックスしたいだけなのか、とか、そういうことではなく、生理現象、つまり本能と、精神的なものの並行する物事ですから、厄介なんです。恋愛以外に本能と精神性が並行するものって、ありますかね?

 と、ぐだぐだこれ以上書いても仕方ないので、とりあえず、続編を近々鑑賞してみます。
 
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