映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

イーダ(2013年)

2017-06-29 | 【い】




以下、Movie Walkerよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 1960年代初頭のポーランド。孤児として修道院で育てられた少女アンナ(アガタ・チュシェブホフスカ)は、ある日院長から叔母の存在を知らされる。興味を持ったアンナは、一度も面会に来たことのない叔母のヴァンダ(アガタ・クレシャ)を訪ねるが、そこで彼女の口から出た言葉に衝撃を受ける。

 「あなたの名前は、イーダ・レベンシュタイン。ユダヤ人よ」

 突然知らされた自身の過去。私は何故、両親に捨てられたのか?イーダは自らの出生の秘密を知るため、ヴァンダとともに旅に出る……。
 
=====ここまで。

 修道院の院長が、叔母に会いに行け、と言ったのは、アンナが修道誓願式を控えていたから。式を終えれば、もう引き返せない。だから、今のうちに、、、。

   
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 本作は、公開時に見に行きたかったのに、行きそびれてしまった作品。TSUTAYA DISCAS にはレンタルがないので、DVDを購入した次第。これは買って正解だったかも。

 イーダ=アンナ、なんだけれども、便宜上、ヴァンダに本当の名前を聞くまでをアンナ、その後をイーダとして書き分けます。


◆叔母ヴァンダ

 叔母のヴァンダは、どう見てもワケアリ。

 アンナが訪ねて行ったところの登場シーンが、はだけたガウン姿で、部屋の奥にはベッドに男が、、、。しかも、アンナに向かって「院長に何も聞いてないの? 私の仕事のこと」などと言うので、てっきり娼婦かと思ってしまった。

 が、実は、ヴァンダは判事。以前は検事でもあった。堅い職業の女性が、男をとっかえひっかえ自宅に引っ張り込んでいる……。まあ、判事だからって別に性生活がどうだろうが構わないという気もするが、若干の違和感は覚える。しかし、ヴァンダがこんな生活をしている理由はすぐに分かる。

 この時代のポーランドで、検事を務めていた、ということは、当然、共産主義に基づいて、罪なき人を罪人にした過去もあるはず。実際に、中盤、イーダに「前は検察官だった。大きな裁判で、死刑に導いたこともある。50年代初頭、赤いヴァンダよ」と言っている。また、判事に転向した現在の法廷でのヴァンダの姿を描くシーンもあるが、どこか虚ろな表情で、ぼんやりと検事の言葉を聞いている感じ。法廷の壁には(多分)レーニンの肖像画が掛かっている。自分のこれまでの仕事に虚しさを感じているのか。

 そして、次第に明かされるイーダの出生にまつわる事実とヴァンダの過去。

 アンナと顔を合わせた直後、ヴァンダは、アンナに「なぜ(私を)引き取らなかったの?」と聞かれ、こう答えている。「お互いにとって、幸せでないからよ」、、、そうして、アンナにその出生を伝えると、一旦は、イーダを追い返すのだけれども、駅の待合室にいるイーダを見つけて連れ戻す。この辺の描写も、ヴァンダの複雑な心情を表わしているかのよう。

 自宅に戻ると、実母の写真をイーダに見せ、そこには、幼いイーダと男の子が写っていたのか(映像には出ない)、イーダは「私には兄がいたの?」と聞くが、ヴァンダは「一人っ子よ」と言うのみで、その男の子については何も語らない。

 イーダが、両親の墓があるピャスキに墓参りをしたいと言うと、ヴァンダは「ユダヤ人の遺体はどれも行方知れず、森の中か湖の底かもね」と、にべもないのだが、イーダが現地で確かめたいとさらに粘ると、ヴァンダはこんなことを言う。

 「神など存在しないと知ることになっても?」

 一体、イーダの生まれ故郷に、何があるというのか、、、。敬虔なカトリックの修道女になろうともあろうイーダが、神を否定したくなる様な事実があるのか?? と、観客の興味を見事に引きつけ、ヴァンダの憂いの漂う佇まいがナビゲートしてくれる。


◆ポーランド人によるユダヤ人虐殺

 戦後の(戦中もだったらしいが)ポーランドでは、ポーランド人によるユダヤ人殺しも頻発していたらしい。最近、ポーランド関連の本を読んでいるのだけれども、ポーランドにはヨーロッパでもユダヤ人が特に多く住んでいたことから、ユダヤ人社会も発達していたが、同時に、ユダヤ人を嫌うポーランド人も多く、ユダヤ人差別はかなり強いものがあったらしい。

 そういう背景にあって、ユダヤ人であるイーダや母親たちは、とある寒村の農家に助けを求めて逃げ込んだようだ。農家の父子は、近くの森にユダヤ人家族を匿い、食料を運んだりして一時的には助けたらしいが、ユダヤ人を匿っていることが発覚するのを恐れたのか、最終的には殺してしまったのだった。

 十数年ぶりに、イーダと再会することとなった農家の父子だが、父は既に死の床にあり、息子は「これ以上関わらないでくれ、埋めた場所を教えるから」と言って、ヴァンダとイーダを森の中へと誘う。

 森の一角を掘り起こし出てくる人骨、、、。

 イーダは、「私はなぜ助かったの?」と聞く。息子が答えるには「幼かった。ユダヤ人と気付かれない。でも、少年の方は肌が褐色で、割礼していた、、、」

 ヴァンダはどうやら、自分の息子を、イーダの母親夫婦に預けて、“闘いに行っていた”らしい。ヴァンダ自身「何のために……、息子のこと何も知らない……」と悔恨の涙をイーダの胸で流している。ヴァンダは、恐らくパルチザンであったことが、ここからも知れる。


◆どうしてイーダは修道院に戻ったのか

 イーダの出生と、ヴァンダの息子の最期が明らかになり、果たして、イーダは「神など存在しない」と知ったのか。

 一旦、修道院にもどり、修道誓願式に臨もうとするイーダだが、思いとどまる。その直後に、ヴァンダは自室の窓から投身自殺。ただ一人の姪として呼ばれたのか、ヴァンダ亡き後のヴァンダの部屋にたたずむイーダは、修道服を脱ぎ、ヴァンダのドレスをまとい、髪も下ろす。

 その後、ヴァンダとの旅の道中でヒッチハイクした青年と再会して、イーダは修道女としての禁を軽々と犯すのだが、これらの一連のイーダの行動は、神に対するささやかな反逆なのかも知れないし、青年に対する純粋な愛情だったのかも知れない。

 ただ、これまでの展開を考えると、神の存在との関係を暗示していると見ても間違いじゃないと思う。

 私がイーダでも、同じことをするなぁ、、、と思ったし、その後、イーダは修道院に戻るが、私だったら「結婚しよう」と言ってくれている青年と駆け落ちするかも知れない。それくらい、今回の出来事は、自分の人生を根底から覆すものだったのではないか。

 イーダがどうしてラストシーンで修道院に戻ったのか、、、。まあ、いろいろ解釈はあるだろうが、私は、単純に、他に行き場所がないというところに考えが行き着いたからだと思う。いくら青年を好きでも、染みついた修道院での習慣や信仰心はそうそう簡単に拭い去れるものではないし、信仰を捨てる畏れもあったのか、と思う。

 でも、禁を犯した身体で、神を冒涜し続ける道を選んだ、という見方もできるかも。こっちの方が、私的には好みだが、、、。
 

◆その他もろもろ

 モノクロの本作は、全編にわたって、“静謐”という言葉が感じられる。途中、ジャズが流れるシーンや、一瞬の衝撃的なシーンもあるけれども、でもそれらも全て、静謐さの中にある感じだ。

 院長に言われるがまま、叔母に会いに行くアンナ。雪が降りしきる中、雪道を歩いて行くシーンは、それこそ、シ~ンという音が聞こえてきそうなくらいに静謐。アンナの心情を表わしているのか、一連の旅を終えて、ヴァンダに送られて戻ってきたときには、雪は降っておらず、地面の雪も溶けてなくなっていた。

 とにもかくにも、ヴァンダを演じたアガタ・クレシャが出色。彼女の方が、実質的な主役と言って良いかも。壮絶な過去を持って、それが故に、今を虚無の中に生きざるを得ず、そんな人生をどこか達観して眺めつつも、苦しみ悶えていた複雑な中年女性の役を見事に演じている。素晴らしい。

 アンナ=イーダを演じたアガタ・チュシェブホフスカも、楚々とした女性を好演。この後、女優を続けることはないと語っているらしい。もったいないような気もする。

 そして、音楽。モーツァルト、ジャズ、インターナショナル、バッハ、、、と、押しつけがましさのない選曲。ジャズには詳しくないけれど、コルトレーンの演奏シーンなど、見入って(聞き入って?)しまう。監督が、チャック・コリアやキース・ジャレットに影響を受け、一時期ジャズ・ピアニストとして活動していたというから、この選曲も納得。

 また、画面構成がものすごく特徴的。技術的なことはゼンゼン分からないが、スタンダードサイズの、下の方に人物を配置することが多い。しかも、割と顔だけを映しているシーンが多く、画面の上部4分の3は空だったり壁だったり、、、。この空間と人物の顔の配置のバランスが、絶妙な違和感と調和を成しており、不思議な感じを受ける。

 地味で寡黙な作品だが、一見の価値はあると思う。


 





チェンクイエ=ありがとう。ドヴィゼニア=さようなら。
この2語だけ聞き取れるようになったポーランド語。




 ★★ランキング参加中★★
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

残像(2016年)

2017-06-21 | 【さ】




 1949年、ポーランドのウッチ造形大学の教授で前衛画家のヴワディスワフ・ストゥシェミンスキは、野外の授業で学生たちと談笑を交えながら、熱く自らの理論を説く。

「残像は、ものを見たときに目の中に残る色なのだ。人は認識したものしか見ていない」

 ある日、アパートで真っ白なキャンバスに向かって絵筆を走らせようとした瞬間、窓の外に真っ赤な垂れ幕が掛かったため、キャンバスは鈍い赤色に染まる。これでは絵を描けないと、ストゥシェミンスキは部屋の中から窓の外の垂れ幕を杖で切り裂く。それは、スターリンの肖像が描かれたプロパガンダの垂れ幕だった、、、。

 ここから、ストゥシェミンスキが死に至るまで、芸術弾圧との闘いの日々を描く。昨年急逝したワイダの遺作。

 、、、嗚呼、ポーランド。
 

   
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 また、ポーランド映画です。これは前から見たかったので、出不精の私が、わざわざ週末出かけて見に行きました。相変わらず、岩波ホールの観客は年齢層が高く、こういう映画は、若い人は興味ないのかな、、、と、ちょっと淋しくもあり。


◆ポーランド人のお名前が難しいの件。

 ストゥシェミンスキ、、、というお名前。何度聞いても、見ても、ゼンゼン覚えられない。ポーランド人の名前、ちょっと難しいです。

 “ヴワディスワフ”というファーストネームは、あの『戦場のピアニスト』の主役であるウワディスワフ・シュピルマンのそれと同じのようです(原語表記が同じ)。シュピルマンは、作中、親しい人たちに“ウワディク”と呼ばれていましたが、本作では、ストゥシェミンスキが教授=先生としての立場で描写されているシーンが多いので、親しく“ウワディク”と呼んでいる人はいなかったような気がします。見落としただけかも知れませんが。

 いずれにしても、ウワディスワフというファーストネームは、割とポピュラーなものなのだと思われます。

 シュピルマンは、すんなり頭に入ってくる響きだけれど、ストゥシェミンスキはどうも、、、。ようやく、今頃になって頭にも目にも馴染んできたかな、、、という感じです。


◆戦争が終わっても、ポーランドの苦悩は続く、、、。

 さて、『戦場のピアニスト』では、戦争が終わって地獄の様な日々にも終止符が打たれた、、、という余韻で終わったけれど、ストゥシェミンスキ氏が、ポーランド統一労働党(共産党)に目を付けられ、どんどん追い詰められていく様が淡々と描かれている本作を見ると、戦争が終わっても全然ポーランド国民は心安らぐ平穏な生活など、手に入れることが出来ていなかったのだと思い知らされました。

 もちろん、シュピルマンも、戦後、共産党に目を付けられていたことは後になって調べて分かったのだけれども、『戦場のピアニスト』ではそこまでは描かれていなかった。ポーランド軍とソ連軍の力関係、両国の地勢関係や政治体制からくる事実上のソ連支配の下、ストゥシェミンスキやシュピルマンなどの芸術家たちは、程度の差はあれ、皆、不本意な思いを抱かされていたということ、、、。

 作中、こんなセリフがあります。「芸術家を殺すには、無視するか、徹底的に批判するかだ」(セリフ正確ではありません)。

 ただ、ここでいう「無視する」は、ストゥシェミンスキの受けた仕打ちから見て、文字通りの「無視」ではなく、一般市民たちから無視される様に仕向ける=一般市民たちの目に入らない様にする、ということであって、そのためには、共産党は凄まじい労力を厭わないのだから、怖ろしい。

 ストゥシェミンスキを、大学から追い出すのなんて当たり前。表だった仕事はとことんその門戸を閉ざされる。背に腹は代えられず、と悟ったのか、こっそりと始めた共産党のプロパガンダ看板に絵を描くという、一見主義に反する様な仕事をしてわずかな食い扶持を稼ぎ始めたのも束の間、どこからかバレてクビになる。食料配給券ももらえないので、食べ物にもありつけず、芸術家協会から追い出されて会員証も取り上げられたために画材も売ってもらえない。徹底的に監視して、生命維持が不可能なほどまでに追い詰める、、、。

 まぁ~、とにかく陰険極まりないです。美術館からはストゥシェミンスキの作品は乱暴に残らず撤去され、学生たちとの展覧会会場であるギャラリーには党員たちが乱入して作品をメチャメチャに叩き壊す。自尊心を徹底的に破壊する方法を取るわけね。それでもストゥシェミンスキはめげないんだけど、やっぱり兵糧攻めは、いかな信念の人でも、物理的にヤラレてしまう。食べなきゃ、衰えるか病気になるかしかないものね、人間なんて。

 一方では、テキトーに共産党にすり寄りながら、生き延びる芸術家たちも当然いるわけで、そういう人たちの中には、ストゥシェミンスキみたいに、信念を貫く生き方をしている人を羨ましく思う人もいる。いるけど、じゃあ、自分もそうできるか、というと、できないし、そんなことしてまでポリシーを貫く意味を感じられない、ってことなのかも知れない。生きてなんぼ、と思うのもまた、決して間違いではないし、安全な場所にいる我々が責められる立場にないことも確か。

 私なら、もちろん、体制にテキトーに迎合していると見せつつ、腹の中では、早くこんな世の中終わっちまえ! と、どこかの前事務次官じゃないけど「面従腹背」を地で行くと思うなぁ。人間、死んだら終わり、というのは真理だと思うので。

 ただ、芸術家というのは、それが非常に難しい。フジタも戦時下で従軍画家だったことを、戦後かなり批判されたけれど、結局、そういう“変節”が許されない人たちだから、、、。生きる術であっても、変節と受け止められてしまう。虐げられても信念を曲げることが許されない、それこそ、白か黒かを強いられる。人間なんて、そもそもいい加減で、いくらでも都合良く変節する生き物だと思うんだけど、、、。


◆だめんずストゥシェミンスキ。

 思想面では信念を貫くストゥシェミンスキも、私生活の方はだめんずっぽい。

 ポーランドの著名な彫刻家だったカタジナ・コブロとは離婚。元妻コブロが非業の死を遂げても、葬式にも参列できない。一人娘のニカだけは参列するが、赤いコートしか持っておらず、他の参列者に「葬式に赤いコートなんて」と陰口を叩かれる。しかし、ニカは黙っていない。「これしかないの!!」と怒り、コートを脱ぐと裏返して、黒っぽい裏地の方を表にして着直す、、、。

 元妻の死で、ニカと2人暮らしを始めるが、学生の一人ハンナが足繁くストゥシェミンスキの家に通ってくるため、ニカは居場所がないと感じ、「学校の寮に入る!」と言ってストゥシェミンスキの家を飛び出す。なのに、ストゥシェミンスキは止めもしない。荷物を持って、寒空の下、泣きながら歩くニカが可哀想すぎる。

 芸術家と、良き家庭人、ってのはイメージ的にあまり結びつかない気はするけど、ストゥシェミンスキはまさにそう。こういう人は、結婚なんぞしない方がいいんじゃないですかねぇ。結婚生活なんて、赤の他人同士が細々としたことに妥協し合いながら一緒にどうにか暮らしていくことなんだから、自己主張が強くないとやっていけいない芸術家は、なかなかハードルが高いんじゃないかしらん。

 一応ストゥシェミンスキの弁護をすると、ストゥシェミンスキは、ハンナのことを憎からず思っていたではあろうけど、恋愛感情はほとんど抱いてなかったと思うなぁ。そういう描写だったと思う。でも、ニカは(当然のことながら)ストゥシェミンスキに反抗的になり、メーデーのパレードに参加する。ニカが赤い旗をふりかざして行進する姿を窓から見て、ストゥシェミンスキがそっと窓を閉めるシーンは、胸が痛む。

 ……でも、彼にとって大事なのは、彼の信じる前衛美術であって、その他のことは二の次三の次。娘のことを気にはかけても、家族のポジションは彼にとってあまり高くなかったってことです。

 芸術家としても、夫としても、父親としても、高潔な人間、、、なんてつまらないので、だめんずなストゥシェミンスキを美化せず描いているところは好感が持てる。ちなみに、ストゥシェミンスキが亡くなった後、ニカが父親が亡くなったときに横たわっていた空っぽのベッドをじっと見つめているシーンがあります。このとき、ニカの心を去来したものは何だったのか、、、。表情からは、読み取れません。哀しそうでもあり、厳しい視線でもあり、、、。


◆ワルシャワ行きまで1か月もない、、、。

 私は、ワイダのファンでも信奉者でもないので、遺作となった本作にもそれほどの感慨は持たなかった。本作は、鑑賞したというより、勉強になった、という感じ。他の映画を見る感覚とは微妙に違う。

 でも、本作を見て、未見の作品をもっと積極的に見ていきたいなぁ、とは思いました。
 
 それは、ワイダの作品に興味があると言うよりは、ポーランドという国に興味があるから。いまだに無知に等しいけれども、映画を見たり本を読んだりしながら、少しずつその歴史に触れると、やはり、もっと詳しく知りたいと思うことばかり。見れば見るほど、分からないことが増えるわけで、、、。

 ワルシャワ行きまでには、知識を身につけるのは到底間に合わないけど。残り時間、1本でも多くポーランド映画を見るぞ~!





 


ストゥシェミンスキが片手・片脚を失ったのは、第一次大戦出征のため。




 ★★ランキング参加中★★
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

罪物語(1976年)

2017-06-12 | 【つ】




 19世紀末のポーランド・ワルシャワ。おぼこ娘エヴァが、テキトー男ウカシュに惚れたことに始まる転落の人生の顛末を描く。

 監督のヴァレリアン・ボロフチックは、アニメや短編映画で腕を磨いてポルノなんかも結構撮っていた方らしい。本作はカンヌにも出品されたとか。へぇー。
 

   
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 ポーランド映画に特化して見ようとしなければ、見ることもなかったであろう本作ですが、、、。まあ、映画としてはナニですが、そこそこ楽しめました。


◆濡れ場がかなり“イヤらしい”。

 エヴァさんの転落ぶりが、なんというか、あまりにも絵に描いた様なソレなもので、何だかなぁ、、、という感じなんですが、やっぱしこういうハナシって、世界中どこにでもあるんだな~、と改めて思いました。

 ただ、本作でのエヴァさんは、結構モテるんですよ。エヴァさんに真剣に好意を寄せる金持ちのシュチェルビツ伯爵だって、ウカシュに負けず劣らずイケメン。私がエヴァさんだったら、さっさとウカシュから乗り換えるんだけどなぁ、、、なーんて思いながら見ておりました。

 ……まあ、でもそこは第三者には分からない、エヴァさんのウカシュへの熱情です。ウカシュの何がそんなに良かったのか、、、。初めての男だったからでしょうか?? 少なくとも、本作を見ていて納得できるウカシュの良さ、ってのはなかったような。

 詰まるところ、エヴァさんは、だめんず専の女、ってことですな、残念ながら。

 ウカシュと結ばれるシーンが、なかなかイヤらしいです。この辺が、監督さんがポルノも撮っていたと聞いて、妙に納得しました。どうイヤらしいかは見ていただくのが一番良いのだけど、こんなマイナー映画、敢えて見たい方も少ないでしょうから、一応、書いておきますと、、、。

 ウカシュは、決闘が原因の怪我で、ベッドで寝ております。看病してくれるエヴァが部屋から出た隙に、エロ本の1ページに何かを挟んでおきます。で、ようやくエヴァとセックスするに至ると、手探りでサイドテーブル上の例のエロ本を手に取り、物を挟んでおいたページを開きエヴァに見せる。そこには、全裸の女性がある体位をとっている写真が、、、。エヴァさんにも同じ体位をとらせると、背後からねっとりと襲いかかるウカシュ、、、。

 ……うぅむ、イヤらしさ、少しは伝わったでしょうか。官能的、というより、イヤらしい、というのが正確ですね。まあまあキレイに撮っていますけど、セックスをロマンチックに描かない、飽くまで、性欲として描く、という感じのシーンです。

 こういう濡れ場の描き方、キライじゃないです、私。現実では、コトの最中にエロ本見せてくる男なんて想像したら、サイテーだけどね。


◆淫乱女の悲惨な人生、、、??

 濡れ場は後半にも長いのがもう1シーンあります。これも、まあイヤらしい感じですが、こっちは、エヴァさんは、ヤクザの夫に脅されてシュチェルビツ伯爵を嵌めるために伯爵とセックスしているので、あんまりエヴァさん自身は悦んでないのですね。伯爵はもう、ようやくエヴァさんを手中に出来てサイコーなんですけど、、、。

 そして、哀れな伯爵は、見事に嵌められて全財産をぼったくられた上に、全裸のまま殺されちゃう、、、。何という悲惨な最期、、、。

 まんまと伯爵を嵌めた後、いきなり次のシーンでエヴァさんは娼婦になっています。あまりの飛躍に、見ている方は???となるのですが、後で調べたところ、実はこの前に大事なシーンがあったのがまるごとカットされていたのだとか。その大事なシーンで、彼女が娼婦になった理由が分かる様ですが、、、。

 まあ、それは本作を見ても分からないので、とりあえずここではおくとして。

 でもって、エヴァさんは、最後の最後まで、ウカシュが忘れられず、ウカシュのために命を落として死んでしまうんですよねぇ。、、、ごーん。

 本作の紹介を読むと、エヴァさんが淫乱だったからこうなった、っていうことらしいんですけど、本作で描かれているエヴァさんは、そんなに淫乱だとは思わなかった。淫乱=男で身を持ち崩す、はちょっと違うと思うし。そもそも淫乱って何さ。過剰な性欲を押さえられない性質、ってこと?

 キリスト的には、淫乱は大罪なわけだから、こういう悲惨な人生が待っています、ってことかしらん。だから何だ? という感じですけど、、、。


◆ポーランド映画、雑感。

 しかし、ポーランド映画を立て続けに見てきたわけだけど、全体に暗いなぁ。雰囲気もストーリーも、、、。どこかこう、突き抜けた感じがないのですよね。

 それはやはり、長い間、抑圧の歴史のある国だからなのでしょうか。

 インドも、長く英国の植民地で、侵略された歴史を持つ国だけれど、インド映画は明るいのが多いですよね。やはり、気候による部分もあるのかしらん。南国の方が、気質も明るいというし、、、。ポーランドは、(あくまでイメージだけど)やはりどちらかというと、曇った空に冷たい空気、という感じだもんなぁ。そういうお国柄で、突き抜けた明るさのある映画、ってやっぱり作られにくいのかも。

 この後も、ポーランド映画、まだまだ続きます。



 


罪物語の“罪”=淫乱の罪、のようです。




 ★★ランキング参加中★★
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イレブン・ミニッツ(2015年)

2017-06-10 | 【い】




 ポーランド・ワルシャワでの、ある日の午後5時からの11分間に起きた出来事を、時系列で多焦点から描き、最後の最後でそれらが1つの焦点で結ばれる。

 多焦点の主たちは……映画監督、女優、女優の夫、屋台のホットドッグ屋、その息子でバイクの宅配人、救急士、医師、、、他にもいたかも。ラストでパズルが完成します。
 

   
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 公開時、気にはなっていたものの、結局、見に行かずに終映。……まあ、見に行かなくて正解だった。


◆そんなこと今さら映画で見せてもらわなくても、、、。

 これは、私の嫌いな、観客を欺くことに血道を上げたセコい作品ではないけれど、こういうのも、あんまし得意じゃない……。ぶっちゃけ、「……だから何なのさ」と言いたくなるというか。

 『バンテージ・ポイント』は似て非なるものだけど、ラストの展開へ向けて、多方面からアプローチするという点では同じ。『バンテージ・ポイント』は、暗殺事件の裏側を“関係者”に的を絞って多角的にあぶり出そうとした作品で、記事にも書いたけれど、「三角だと思っていたものが、別の角度から見たら丸かった・・・」という狙いで描かれた映画だった。一方、本作は、まるで関係のない登場人物たちが、最後に“たまたま”ある同じ事件に遭遇することになった、というわけなので、別に、物事の多面性を描きたくてこういうシナリオを書いたのではないと思われる。

 恐らく、単純に言ってしまえば、「人間万事 塞翁が馬」とか「一寸先は闇」とか、そんなことを描きたかったんじゃないか。

 だから、正直なところ、“今さら感”が激しく、そんなことこんな手の込んだ作りにして見せてくれなくたって、骨身に沁みてますよ、と白けちゃう。311を経験した日本人は、みんなそうじゃないですかね。311に限らず、世界中どこでも、理不尽なテロや、事故、事件、、、あまたある不可抗力とか不条理によって、人生が激変した経験を持つ人たちにとって、こんな映画は、むしろ安っぽくしか見えないのではないかと思う。

 人生は一瞬で激変するその儚さ、、、なんて、言われんでも分かっとるわ!! ってこと。

 ホントに、スコリモフスキはそんなアタリマエ過ぎることを描きたかったんだろうか、と見終わってから2週間ほど悩んだけれど、まあ、やっぱりそうとしか思えない。

 そして、作品の公式HPにトドメを刺されちゃったよ。

人々のありふれた日常が11分後に突如変貌してしまうという奇妙な物語を、テロや天災に見舞われる不条理な現代社会の比喩として描いたこの映画は、個人の生や死がサイバー・スペースやクラウドといった環境に取り込まれていく未来を予見していると言えるでしょう

だって。ホントにそうだったんだ、、、。

 ……ガックシ。


◆パズルが出来上がってもカタルシスなし。

 本作を見終わってしばらくイロイロ考えているうちに、大昔に読んだ、村上龍の「五分後の世界」を思い出した。コンセプトも、内容も、まるで違うけれども、思い出してしまった。

 別に、本作の様に、5分後にどうなるか、が書かれている小説ではないのだけれども、スリリングな恐怖と、不完全で混沌としながらも不思議な幸福感が同居している、妙な小説でした。それはもちろん、作者の狙いどおり、時空間の歪みに見事に連れ込まれた証拠なわけですが、著者が「五分後の世界」とタイトルをつけた理由が分かる気がしたのです。

 それは、きっと本作と根底は同じ、「一寸先は闇」で、歴史はちょっとしたことで激変する、というものだと思う。その不条理感や儚さってのは、やはり、それでも著者が“こういうところへゴールを持って行きたい”という意図があって、読者には分からない様な計算された人物の配置と描写があって初めて、切実感を持って読者に伝わってくるものだと思うわけ。

 しかし、本作の場合、スコリモフスキが設定したゴールは、ただの事故であり、それこそが現実そのものだとは言え、あまりにも映画としては淡泊過ぎる。「サイバー・スペースやクラウドといった環境に取り込まれていく未来を予見している」なんてのは、日本の配給会社の余計なお節介であって、映画だけを見れば、そんなことはまったく触れられても匂わされてもいないわけです。触れずとも、匂わせずとも、それを指し示していることは、秀逸な作品にはあるけれども、本作からは感じられなかった。少なくとも、そんな意図が監督にあったのだとしたら、本作は失敗と言ってよいと思う。

 ただパズルが出来上がる過程だけを見せられて、観客が心動かされるだろうか? パズルのピース一つ一つの持つ意味が、最後に全て明らかになるのでなければ、パズルを作る過程を延々見せる意味がないと思うのだけど、どうでしょう??

 ……そんなわけで、スコリモフスキといえども、イマイチでした。




 


あの映画監督、サイテー。




 ★★ランキング参加中★★
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛に関する短いフィルム(1988年)

2017-06-06 | 【あ】




以下、Movie Walkerよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 19歳の郵便局員トメク(オラフ・ルバシェンク)は、毎晩8時半に、盗品の望遠鏡で向いのアパートに住む女流画家マグダ(グラジーナ・ジャポロフスカ)の部屋を覗き見ていた。次々と違う男を部屋に連れこむマグダに、トメクは執拗に無言電話をかけ続ける。それは、出征中の友人の母親(ステファニア・イヴァンスカ)のアパートに間借りする孤独な少年の、屈折した愛情表現だった。

 彼女に逢うために、トメクは、牛乳配達のバイトを始める。そしてある晩、恋人と別れて一人で泣くマグダを見たトメクは、翌朝、偽の為替通知を彼女のポストに届けた。郵便局に為替を受け取りに来て責任者に罵られた彼女に、トメクは駆け寄って初めて声をかけた。

 「昨日君は泣いていた」。

 彼のしたことを告白されて、マグダは「人でなし!」と叫んだ。その夜彼女は少年を挑発するように男を連れ込んだ。覗き見されていることを彼女に知らされ、男はトメクを呼び出して殴り倒した。翌朝、牛乳を届けに来たトメクに、マグダは「どうしてつけまわすの?」と聞いた。トメクは「愛しているから」と答えた。

 そして、初めてのデート。しかし、マグダの部屋で、トメクはマグダの言う〈世間でいう愛の正体〉を見せつけられ、絶望して部屋を飛び出していった。後悔したマグダは彼に詫びようとするが、少年は手首を切って病院にかつぎこまれていた。彼を住まわせていた老婦人は、「あなたは笑うでしょうが、恋の病です」と言ったきり彼の行方を教えようとはしない。

 その日から、今度は彼女がオペラグラスで向いのトメクの部屋を見つめ、彼からの電話を待つ夜が続いた。そしてある晩、とうとうトメクが退院したことを知ったマグダは、トメクの部屋を訪れた。眠っているトメクと老婦人の傍らから望遠鏡で自分の部屋を覗いたマグダは、泣いている自分と、その肩に少年の手がそっと置かれるのを見た。

====コピペ終わり。

 愛って、、、何なのだろうか???

   
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 しばらくポーランド映画が続きます。

 本作は、「十戒」をモチーフとした、クシシュトフ・キェシロフスキ監督のTVシリーズ『デカローグ』(全10作)のうちの、第6作。ドラマ版は1時間ものだったようだけど、本作は、87分。ドラマ版は未見。噂(?)によると、ラストがドラマ版と本作ではゼンゼン違うとのこと。


◆愛についての短くない観念話。

 上記、あらすじを読んでいただければ分かる様に、本作のメインストーリーは、“覗き”&“ストーカー”。

 で、本作を見て、同じポーランド映画ということで、イヤでも頭に浮かんでしまうのが、2008年公開のイエジー・スコリモフスキ監督『アンナと過ごした4日間』。みんシネではあんまし評判良くなかったけれど、私は結構気に入ってしまった。主人公の男が、ある女性にストーカーするオハナシなんだけれども、これが痛いながらも愛すべき作品になっていて(詳細は忘れている部分も多いが)、あれもまさしく“愛”を描いていたのだと思う。おそらく、スコリモフスキは、本作にインスパイアされている部分が多いのだろうと思われる。

 で、本作で描かれている“愛”なのだが、、、。覗きから始まる愛、ストーカーから始まる愛、、、。

 愛に正しい定義などはないので、別にこれが愛だと言われれば否定する気はさらさらありません。しかし、もし私がマグダだったら、覗いていた若い男を愛しいと思えるか、と想像すると、答えはどうしたって“NO”なんだよねぇ。

 とはいえ、一方で覗きたくなる気持ちも分かる。好きな人の知られざる一面を見たい、と思うのは、人として自然な感情でもあると思う。

 でも、好きだからこそ見たくない、ってのもあるわよね。私は、まあ、こっちだけれど。好きな人の日記が、見てくれと言わんばかりに机上に置かれていたとしても、私は、怖ろしくて見られない。だから、配偶者や恋人のケータイを見てしまう人の心理が分からない。何でそんな怖ろしいことができるのか、、、。そこに、何が書いてあっても受け入れられる自信、、、、私にはナイ。見たくないわけじゃないのだろうけど、それ以上に怖ろしい。

 それに、いたって現実的な感想になってしまって恐縮だけど、やはり、現実にストーカー被害に遭って殺されている人がいることを思うと、トメクの行動を“愛だわ~”と肯定する気にもなれないし、終盤、マグダとトメクの立場が逆転するのも、あれが“愛”だとか言われても、あまりにファンタジーな感じがして、正直なところ、これはいささか脳内で考えただけの観念的に過ぎるオハナシじゃない? と白けてしまう。


◆見返りを求めてはいけません。

 覗きにしても、ストーカーにしても、まあ、感情の一方通行ってやつで、相手の気持ちは度外視している行為だよね。

 この、相手の気持ちを度外視した独り善がりが、相手の気持ちを動かすことになる、という誤ったメッセージを本作から読み取る人もいるんじゃないかしらん。私は、ストーカーではないものの一方的に感情を押し付けられた経験があるので、こういうのを愛だとか描かれるのは、ちょっと受け容れ難いものがある。

 本作で、トメクが覗きからストーカーに転じたきっかけは、マグダがある晩、哀しみに暮れてミルクを瓶からこぼして(覆水盆に返らず)、そのミルクを拭きもせずに指で撫でながら泣いている姿を覗き見したことだ。それから、直接的にマグダに働き掛ける。そこから、話は一気に展開し、マグダがトメクを自室に招き入れ、「愛とはこういうものよ」と言って、トメクに自分の身体に触れさせるだけでセックスもしないまま射精させる。これに傷つくトメクは、自宅に逃げ帰り、手首を切って自殺を図る、、、。

 覗き、ストーカー、セックス、、、。キェシロフスキは、こういった敢えてインモラルなことで、愛を描こうとしたのは分かるけれど、、、うぅむ、という感じ。確かに、愛なんて独善的なものだし、美しいものでも崇高なものでもない。だから、インモラルは良いのだけど、やっぱり、愛ってのは対象があって、双方向性も、ある程度は大事なんじゃないかと。独善的だから一方通行で良い、ってのは、、、なんだかなぁ、と。

 でもって、一方通行が、逆方向に向いてまた一方通行で、交わらないんだよね、本作では。それが愛なんだ、と言われりゃ、まあ確かにそうかも知れない、と言う気もするが、、、。

 ただ、昔、瀬戸内寂聴氏(個人的にはあんまし好きじゃないが)が言っていたけど、愛ってのは、“渇愛”(見返りを求める愛のこと)ではダメである、とか。双方向性は、愛には求めてはいけない、つまり、ひたすら与えるのが愛だ、ということ。

 その説から言えば、ひたすら一方通行な覗きは、まさに、“真の愛”ともいえるかも、、、(!!!)。ストーカーは見返りを求めているからダメだけど。


◆求めよ、されど与えられぬ……それが愛!?

 ……と、下世話なことばかり書いてしまったけれど、本作では、最初は、一方的なトメクの覗きの“愛”に始まって、“愛=セックス”だと思い込んでいたマグダが、トメクの思いに触れて“本当に自分が求めていた愛”を見出す、という、マグダから見た“愛”で終わっている。

 トメクもマグダも、非常に孤独な者同士、傷をなめ合っている感がないでもない。そういうところも、ちょっとイヤかも。それに、マグダの求めていた愛ってのは、詰まるところ、癒やしじゃないか。インモラル全開で来たのに、ラストはあまりにも凡庸じゃない? それも不満かな。

 愛って、何だろう?? そもそも、愛って本当にあるものなのか。見えないけれどあるんだよ、って、金子みすずみたいだ。そういうもの?

 もしかしたら、愛なんて、所詮は全て“自己愛”に帰結するんじゃないか、という気も正直してしまう。

 そういう意味では、私自身、愛など語る資格はそもそもないわけで。

 ただ、ストーカーでもずっとやってりゃ、いつかは相手に思いが通じる、とか勘違いしている人がいたら、それは大間違いだよと言っておきたい。覗きも然り。

 この後、トメクとマグダはどうなるのか。彼らが愛し合う、ということにはならないだろうと思う。トメクもマグダも、それまでとは愛に対する向き合い方は変わるんだろうか。トメクは変わるかな。ドラマ版では、郵便局で働くトメクをマグダが訪ねたところ、トメクが冷たく突き放すというオチだそうだが、まあ、その方が、私的には腑に落ちる展開の様に思う。

 でも、マグダは、、、。余計に辛いその後が待っているようにも思う。セックスにも愛を感じられず、ますます愛に懐疑的になるだけ、、、とか。

 “求めよ、さらば与えられん”とは言うけれど、愛に限っては、あまり当てはまらないような。






覗きは犯罪です。




 ★★ランキング参加中★★
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする