映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

読まれなかった小説(2018年)

2020-01-07 | 【よ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv69534/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 作家志望のシナンは、大学卒業後トロイ遺跡近くの故郷へ戻り、処女小説出版を目指し奔走するが、相手にする人は誰もいなかった。

 引退間際の教師で競馬好きの父イドリスとシナンは相いれずにいる。父と同じ教師になりこの小さな町で平凡に生きることを受け入れられないシナンは、気が進まぬまま教員試験を受ける。

 交わらぬように見えた二人を結び付けたのは、誰にも読まれなかったシナンの小説だった。

=====ここまで。
 
 『雪の轍』(2015)のヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督による作品。


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 親子の相克モノは好きなので、終映間近ということもあり、元日早々見に行って参りました。ガラ空きかと思ったけど、意外に人が入っていました。


◆うだうだ映画

 『雪の轍』は未見で、その前の作品『スリー・モンキーズ』(2008)は見たことあるんだけれども、こう言っちゃナンだが、あんまし好きな作風ではなかった。だから、『雪の轍』も食指が動かなかったんだけど、本作は、あらすじを読んで、まぁ見てみよっかな、、、と。

 結論から言うと、やっぱし作風としては好きではないけれど、この映画自体はそれほど嫌いじゃないな~、という何とも中途半端な印象。

 多分、最終的に、父と息子がほんの少しだけ心が通い合ったからだと思う。ホント、終盤で一気に印象が好転した感じだった。それまでは、ひたすら、うだうだウダウダうだうだウダウダ、、、、メンドクサイ観念論の応酬で、正直なところ辟易しかけていたので。観念論をいろんな相手に仕掛けていたのは、主人公のシナンで、聞いていてだんだんムカついてくるというか、話の内容にというよりも、しつこすぎるシナンの性格がウザすぎて、、、。実際、シナンに絡まれた相手は軒並みキレてしまうんだが、あれじゃあ当たり前だわね、としか思えない。

 とはいえ、若い頃は頭でっかちで理屈が先に来てしまい、ああいう感じになってしまうのも、まあ、分からなくはないのよね。あそこまでしつこいのはどうかと思うが、若い人のああいう感じは、私は決して嫌いじゃないというか。自分にもそういう時期があったと思うし、多くの人が通る道なんじゃないかしらん、と思うわけ。

 それにしても、映画であんな禅問答みたいな会話を延々やられても、ハッキリ言ってげんなりしてくる。監督は、文学好きらしく文学映画みたいなのを目指している感じを受けるが、当たり前だが映画は文学じゃないから、もうちょっと違うアプローチをしてもいいんじゃないの?という気はする。まあ、これは好みの問題かも知れないけど。


◆運命を受け容れる、、、とは。

 原題は、シナンが書いた小説のタイトル「野生の梨の木」だそうだけど、邦題の『読まれなかった小説』ってのも結構良いなぁ、と思った。

 小説って、まあ、読まれてナンボというところがあるわけで。終盤、シナンがようやく書き上げて自費出版した小説も、母親は「本」になったことを喜んではしゃぐけれども、肝心の「読む」という行為には至らなかった。それどころか、シナンが兵役に行っている間に、あろうことか本の束を雨漏りかなんかで濡らしてしまってカビさせてしまう。これで、母親がどういう人かをよく表わしていて、この辺りから、私の気持ちもようやくポジティブになってきたんだけど……。

 それで、肝心の「読む」ということをしたのは、ただ1人、シナンが軽蔑していた父親イドリスだった、、、。つまり、タイトルは「読まれなかった」とあるけど、たった1人の人に「読まれて」いた。この逆説的なタイトルが、意外に効いている気がした。おそらく、シナン自身、一番小説を読んで欲しかったのは父親だったのだと、父親が読んでいたと知って初めて気付いたのではないかしらん。それまでは、小説が売れること=多くの人に読んでもらいたい、と思っていたのだろうが、一番読んで欲しい人のことは敢えて考えていなかったのだと思う。でも、父親は読んでくれていた! そうだ、自分はこの人に読んでもらいたかったんだ!! ……という感じだったのでは。

 このイドリスという父親が、なんとも不可解な人物なんだよねえ。小学校の先生で、バクチ好きで、山師で、、、というと、なんだかトンデモな感じがするんだが、パッと見は悪くなく、若い頃はイケメンだったと思わせる風貌で、別に暴力をふるうでもないし、のんだくれでもない。父親として、子どもたちのことをそれなりに愛しているし、飼い犬も可愛がるという、平凡な男だ。ただ、そのどうしようもなさが、ホントにどうしようもなくて、息子に軽蔑されるのも仕方がない。

 まあ、でも似たもの親子だなと。2人とも、永遠のモラトリアムというか。監督は、結局、息子は父親を継いで行く、という運命を描いたそうだが、まあ、そりゃこの父と子ならそうだろう、と。運命ってのはちょっと違うかな、という気がするけど。もっと、シナンが足掻きに足掻いて、何か不可抗力な出来事によって父親の下に戻らざるを得ない、、、とかなら運命かも知らんが、ただ悶々とモラトリアムして自分の理想どおりにならない、、、ってのは、運命なんて大層なものではなく、成り行きっていうんじゃないのかしらん?

 それも大いにアリだと思うから、私は、ラストでポジティブな印象を抱いたんだけど、監督のインタビューを読むと、“運命を受け容れる”ことが決してポジティブには語られていないのよね。「この映画は、受け入れ難いことだが、「運命に逆らえない」ことを、「罪悪感」によって知る青年の物語を、彼の周りにいる様々な人々の人間模様と共に、伝えようとしています」なんて言っている。

 シナンは受け容れ難いと思っているのか。まあ、監督が言ってるんだから、そうなんだろうけど、私にはそう見えなかった、ということ。父親が自分の書いた小説を読んでくれたことで、自分が書くことに対して意義を感じられ、もしかすると、この先、あの田舎に留まっていても良い小説を書く人になるかも知れない。そんな希望もアリじゃない? と思うんだけどな~。あまりにも脳天気すぎますかね。
 

 

 

 

 

 

トルコの田舎の風景と、バッハの音楽が、実に合っていて美しい。

 

 

 

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よこがお(2018年)

2019-08-13 | 【よ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv67247/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 初めて訪れた美容院でリサ(筒井真理子)は、和道(池松壮亮)という美容師を指名する。数日後、和道の自宅付近で待ち伏せ、偶然会ったふりをして、近所だからと連絡先を交換するリサ。和道を見送った彼女が戻ったのは、窓から向かいの彼の部屋が見える安アパートの一室だった……。

 リサの本当の名前は市子。半年前までは、その献身的な仕事ぶりで周囲から厚く信頼されていた訪問看護師であった。訪問先の大石家の長女・基子(市川実日子)には、介護福祉士になるための勉強まで見てやっていた。だが、基子は市子に対して憧れ以上の感情を抱いていた……。

 そんなある日、基子の妹・サキ(小川未祐)が行方不明になる。まもなく無事保護されるが、逮捕された犯人は意外な人物だった。事件との関与を疑われた市子は、ねじ曲げられた真実と予期せぬ裏切りにより、築き上げた生活の全てを失ってしまう。

 自らの運命に復讐するように、市子は“リサ”へと姿を変え、和道に近づいたのだった。やがて、和道はリサの不思議な魅力に惹かれていくが……。

=====ここまで。

 注目の深田晃司監督作。

 

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  チラシを見たときから、見たいなぁ、、、と思っていた本作。なんと今月末で終映だとか。前評判高かった割に、短くない? あんまり興行的にはよろしくなかったのかしらん?

 面白かったんだけど、いろいろ思うところもあり、、、。(ネタバレバレしております)

 

◆序盤から不穏そのものなんだけど、、、

 中盤までは不気味さ全開で、スゴい引力。こりゃぁ面白い! と思っていたんだけど、市子がどんどん追い詰められて行くに従い、展開が凡庸に、、、がーん。想像どおりに展開していくストーリーはやっぱりちょっとつまんない。少しずつ裏切られたいのよね、見ている方としては。

 ……というか、前半も、例えば喫茶店で市子と基子、サキの3人がいるところへ市子の甥っ子・鈴木辰男がやって来たときに、“むむ、、、この甥っ子はもしやヤバいのでは??”と予感させるものはある。それくらい、辰男くんは、なんか雰囲気がおかしい。そして、案の定、リサを連れ去り換金、じゃなくて監禁していたという、、、。

 んで、甥っ子が犯した罪の累が市子に及ぶわけだが、その及び方が、どうにもこうにもイヤらしい。何か、逃れようのない蜘蛛の糸に絡め取られた蝶のよう。実際、最初は、職場の人たちも、婚約者の戸塚も、“それとこれとは別”という認識で、市子に接していた。しかし、基子が話を“盛って”メディアに話したことで、一気に市子は周囲からも見放されるという事態に。自分の管轄外で勝手に事態が悪化して自分の居場所を侵食してくるという、市子としてはもう手も足も出ない状態。あとは、蜘蛛の餌食になるのを待つしかない、、、。

 と、この辺までは良かったのに、市子が復讐に出てからは、非常にありがちな、2時間ドラマみたいな話になってしまって、うぅむ、、、という感じだった。

 キャッチコピーにも「ある女のささやかな復讐」とあったが、ささやかというよりは、みみっちぃという感じ。しかも、結果的に復讐にすらなっていなかったし。結果が不発だったとしても、毒のある復讐なら良いのだけど、基子の彼氏・和道を寝取るという、あまりにもありきたりでみみっちい内容が、ちょっと、、、。

 でも、そういうところも市子という女性の人間性を表わしているのだろうな、とも思った。彼女は、根っからの善人なんだよね。だから、復讐と言っても、彼氏を寝取ることくらいしか思い付かない。まぁ、そういう私も、自分が市子だったらどんな復讐を思い付くかと想像してみたんだけど、これが全く思い付かない、、、ハハハ。

 ちなみに、私が毒のある復讐を思い付かないのは、私が善人だからではなく、復讐すること自体に意味がないという思考回路だからです。強いて基子への復讐とするのなら、戸塚とは別れないで結婚して、目一杯、基子に幸せを見せつけてやることかなぁ。

 

◆市子の復讐は果たされていたのかも。

 しかし、見終わった直後はそのように考えていたのだけど、丸一日以上経って、考えがちょっと変わった。

 上記のあらすじにも「基子は市子に憧れ以上の感情を抱いていた」とあるが、あるシーンからは、それが恋愛感情だと臭わせるものがある。私自身その描写に、ちょっと「ん??」となったのだが、スルーしていた。でも、よくよく考えると、そうなのだ。基子は市子を恋愛対象として好きだったのだ。だから、彼女が戸塚と結婚すると聞いて、逆上したわけよね。

 とすると、市子は、基子の彼氏と寝たことで、やっぱり復讐は果たせているのでは。もちろん、市子の考えていた構図とはゼンゼン異なるけれども。彼氏が市子と浮気したことではなく、市子自身が基子の彼氏と寝ることが、基子へのダメージになるのだ。

 もちろん、その前に、基子は市子に謝罪をしようとして激しく拒絶されている。この時点で、基子はダメージを受けてはいるだろうが、ある意味、想定内の出来事だろう、これは。でも、市子が和道と寝ることは、基子にとってかなり想定外だと思う。基子は、相当衝撃を受けたとも考えられないですかねぇ?

 実際、基子はラスト近くで市子の目の前に現れたとき、あんまり幸せそうじゃない。市子と同じヘルパーの仕事に就いたようだけれど、その表情はどこか虚ろで、生気がない。憧れの職に就いたのなら、もっと生き生きしていても良いのでは?

 そして、このとき、市子は車に乗っていて運転席にいた。信号待ちをしている目の前で、基子が横断歩道上で拾いものをしていて、思わず市子はアクセルに脚を掛けるものの、思いとどまり、クラクションを激しく鳴らす。……で、この場面、私が監督だったら、市子に基子を撥ねさせるかなぁ、と考えた。そして、基子は市子の介助なしでは生きられない状態になる、、、とかね。でも、それだと映画のジャンルが違ってきちゃうかな。

 まあ、それはともかく。……とにかく、市子の復讐は、図らずも果たせていたのでは? という結論に至った次第。監督の意図は那辺にアリや。

 

◆人を不幸にする女

 あと、もう一つ思ったことは、これ、主人公を基子にした方が良かったんじゃないか? ということ。……まあ、そうすると、筒井真理子さんは主役ではなくなるけれども。

 だって、市子は、あまりにもフツーの女性で、それ故、中盤以降が尻すぼみになったと思うのよ。でも、基子ってのは、ある意味、本当に怖ろしい人間だから、こっちを主役にした方が、スリリングな展開にできたんじゃないかな~、と。シレッと人を不幸のどん底に陥れちゃう人。そして、その後もシャーシャーと生きている。あの『ダメージ』でビノシュが演じていた女みたいな。まあ、あれもジェレミー・アイアンズ演ずる被害者が主役だった。

 そうすると、市子の復讐は、やっぱり復讐にならない、、、って結果になるけど、それはそれで、基子の物語にしちゃえば面白いとも思う。

 

◆その他もろもろ

 筒井真理子さまは、『淵に立つ』と同様に、巻き込まれ女を実に巧みに演じておられました。本作を見る前に、一応予習として『淵に立つ』を見たのだけど、個人的には『淵に立つ』の方が好き。あの終始貫かれた不穏さは、何と言っても筒井さんに負うところ大だもの。話の展開も、本作より不気味で怖ろしかった。

 市川実日子は、相変わらず上手い役者さんだ。若い頃は、可愛くて謎めいた感じだったけど、今は、基子みたいに不健康そうなオタク女子が似合う。ちょっと病んでる感じを出すのが実にお上手。

 メディアの描き方とかは、ちょっと類型的かな、、、とも感じたが、実際はもっとエゲツナイだろうし、監督の言いたいことは何となく分かる。

 基子の彼氏、和道を演じた池松壮亮は、ホントに声がイイ。声がイイ男は、イイ男の大事な要素。この和道、リサと名乗った市子と寝た後、市子に「これは全部復習のためのウソ」と打ち明けられた後で、リサのことを「市子さん」と呼んでいた。……え? となったんだが、それって彼は最初からリサと市子が同一人物と認識していたということだろうか? この辺りも、もう一度見るときによく見てみたい。

 吹越満は、めずらしくマッドじゃない人間味あるドクター役ってのは、なんか違和感あった。今、NHKでオンエアしているドラマ「これは経費で落ちません」でもコミカルな演技を見せていて、やっぱり彼も上手な役者さんなんだと改めて認識いたしました。

 

 

 

 

『淵に立つ』同様、本作でも入水シーンがあります。

 

 

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夜明けの祈り(2016年)

2017-09-11 | 【よ】




以下、公式サイトよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 1945年12月のポーランド。

 赤十字の施設で医療活動に従事するフランス人医師マチルドが、見知らぬシスターに請われ、遠く離れた修道院を訪ねる。そこでマチルドが目の当たりにしたのは、戦争末期のソ連兵の蛮行によって身ごもった7人の修道女が、あまりにも残酷な現実と神への信仰の狭間で極限の苦しみにあえぐ姿だった。

 かけがえのない命を救う使命感に駆られたマチルドは、幾多の困難に直面しながらも激務の合間を縫って修道院に通い、この世界で孤立した彼女たちの唯一の希望となっていく……。
 
=====ここまで。

    
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 ポーランドかぶれの現在、“ポ”と聞くだけで脳みそが反応してしまうのであります。ですから、当然、ポーランドが舞台の映画であれば、問答無用で見に行くわけです。このかぶれ状態、もうしばらく続きそう、、、。


◆カトリックの歪さを改めて見せつけられる。

 もうね、第二次大戦後のポーランドの悲惨さをちょっとずつだけれども知るにつれ、本当に、暗澹たる気持ちになるんだけど、、、、本作は、そういう戦争は終わって憎きナチは出て行ったけど、代わりにソ連が入ってきたという、厄介な状況に追い込まれているポーランドでの実際に起きた出来事をモチーフにしている。

 ある修道女が修道院を抜け出し、雪の積もる森を速歩で抜けて、とある医療施設にたどりつく。「助けて」と若い女性医師・マチルドにすがるけれども、何を助けて欲しいのか言おうとしないし、そもそもそこはフランスの赤十字施設で、ポーランド人は治療できないと断られる。しかし、マチルドが処置を終えて休憩していると、窓から先ほどの修道女が、雪の上にひざまずいて祈っているのが見える。そこで、マチルドは立ち上がる、、、。

 一筋縄ではいかない修道女たちは、妊婦が複数いることを最初はひた隠す。そらまぁ、そーでしょう。あってはならないことなんだから、修道女が“身ごもる”なんて。しかも1人じゃなく、何人も、、、。信仰の核の部分に関わるし、修道院の存続にも関わる、それはそれは恐ろしいことなわけで。ネットのレビューで、ちらほら“修道女たちが外部に助けを絶対的に求めようとしないことが理解できない”といった感想を見掛けたが、理解できないことが理解できない、、、のだよねぇ、私は。

 本作でのカトリックも、やっぱり、信仰する者を苦しめ追い詰めることになっている。何でそこまで、カトリックってのは禁欲を説くのかねぇ。

 ソ連兵の戦争犯罪については直接的な描写はなく、本作のテーマは、あくまでも修道女たちの苦しみと、そこに介入したフランス人女性医師の目を通した現実への向き合い方を描くことにあったのだろうと思われる。

 本作は、修道院のみならず、ポーランドという国自体が、この出来事が表沙汰になった場合に修道院を守らないであろうことにも言及しており、ここまで描かれていても先に挙げた様なネットの感想が出てくることに、ある意味驚きを覚える。


◆出産後の修道女たちの描写はあれで良いのか、、、?

 身ごもった修道女たちの多くは、程度の差はあれ、最終的には現実を受け容れ、我が子を愛しい存在と思うようになると、本作では描かれている。レイプで授かった子など愛せないと、何の躊躇もなく捨てる母親は皆無だった。

 まあ、私は、レイプされたことも、妊娠したこともないので、この辺りの感覚は想像するしかなく、想像を超えているものがある。だけれども、この、いかにも“母性至上主義”的な描写は、若干違和感を覚えたのも事実。実際の修道女たちがどうだったのかは分からないが、もっと激しく葛藤し、現実を突きつけられても受け容れきれなかった者がいても不思議ではない。

 出産したシスターたちが、我が子と離れなくても済む様に、マチルドは、修道院に対し、孤児院を兼ねることを提案する。これにより、修道院の面目は保たれつつ、修道女たちは母親として我が子の成長を見守ることも可能になった、、、というわけだ。

 本作はこれで、ほとんどハッピーエンディングに近い終わり方なのだが、私としてはむしろ、これからの方が、修道女たちにとっては試練なのではないかと思い、あまりハッピーエンディングの雰囲気には浸れなかった。子は成長するにつれて、自分の置かれている環境を認識していくし、自分の出自を必ず知りたがるようになる。そうなった場合、修道女たちは、また信仰との狭間で苦しめられることになるのは火を見るより明らかだ。

 また、マチルドのモデルになったマドレーヌ・ポーリアックは、本作のエンディングの直後となる1946年2月に、実際には事故死している。劇場を出てからこの事実を知って、さらに、何とも言えない気分になった。


◆素晴らしい俳優陣

 本作は全体に、非常に淡々とした描写で、そういう意味では奥行きのある映画とは言いがたい。“こういうことがありました~”で終わっちゃっている感じ。

 ただ、私はそれでも、この作品が映画としてそれなりに見られるものになっているのは、何よりマチルドを演じたルー・ドゥ・ラージュを始め、俳優たちの素晴らしい演技に拠るところが大きいと思う。

 マチルドの描き方も、序盤は実に淡々としており、飽くまで医師としての使命を果たすべく、感情を顔に出さない。『午後8時の訪問者』でアデル・エネルが演じた女性医師・ジェニーと重なった。感情を抑えて強靱な精神力で医師の使命を果たす点は共通している。2人とも、とても好感を持てる女性医師だ。

 そんなマチルドだが、プライベートでは上司の外科医・サミュエルと(一応?)つきあっているらしい。で、このサミュエルを演じていたのが、『やさしい人』でキモワル男にしか見えなかったヴァンサン・マケーニュ。『やさしい人』ではカッパみたいとかってこき下ろしちゃったけど、本作でのサミュエルは愛嬌のあるオッサンで、ゼンゼン別人みたいだった。まあ、どちらも、お世辞にもイイ男系でないことは確かだけど、サミュエルは自身もユダヤ系で迫害の恐怖を味わっていることから、終盤、マチルドが修道女たちを助けることに理解を示し、自らも助けるという、なかなか見所のある男だった。これだけ、役で違いを見せられるということは、彼は良い俳優なのだと思う。

 マチルドに早くから信頼を寄せるシスター・マリアを演じたアガタ・ブゼクが素敵。凛とした美しさと冷たさ、でも、実はとても優しい人。ずーっと見ながら、どこかで見た顔だと思っていたけど、『イレブン・ミニッツ』に出ていたらしい。ポーランド人で、首相を務めたイエジー・ブゼクの娘さんとのこと。ネットで検索したら、よく似ている父と娘だと思った。昨今のポーランドの右傾化にアガタ自身が不安を覚えているとのこと。

 もう一人、特筆すべきが、修道院長マザー・オレスカを演じたアガタ・クレシャ。こちらは、『イーダ』で“赤いヴァンダ”と呼ばれた過去を持つ検事ヴァンダを素晴らしく演じていた彼女は、本作でも存在感を発揮していた。こういう、屈折した心理を抱えた人間を、実に上手く体現していて感動モノ。この、マザー・オレスカは、実は大変な犯罪をしてしまっているんだけど(内容は敢えて書きません)、その心理がまた、信仰を持たない者には飛躍が大きすぎるようにも思えてしまうんだけど、この辺が、カトリックの不可解さを物語っていると思う。







ルー・ドゥ・ラージュと高畑充希は似ている?




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汚れたミルク/あるセールスマンの告発(2014年)

2017-03-10 | 【よ】



 1994年のパキスタン。ある多国籍企業ラスタ社(仮名)に、大卒資格がないにもかかわらずセールスマンとして採用されたアヤンは、前職での医師たちのツテと人好きのするキャラが奏功し、粉ミルクの営業で好成績をあげ、新妻ザイナブとの間に子も生まれ、幸せに暮らしていた。

 が、旧知の医師から、粉ミルクについての恐ろしい真実を知らされたアヤンは、ラスタ社を辞めてしまう。そして、粉ミルクの実態について告発しようとするのだが、、、。

 2014年制作なのに、やっと日本で今、世界初の公開に踏み切れたという問題作、、、らしい。
 
 
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 日本が世界に先駆けて公開に踏み切った、なんてこともあるのねぇ~、と意外な思いがしたので、とりあえず劇場で見てみようかと行って参りました。監督のダニス・タノヴィッチの映画『ノー・マンズ・ランド』も『鉄くず拾いの物語』も見ていないし、予備知識も新聞の評を読んだだけでほとんどナシでございました。


◆多国籍企業ラスタ社(仮名)はまるでヤクザ。

 多国籍企業の実名は、本作内で1度だけ出て来ます。1度でも出すんだったら、仮名にする必要あんの? と不可解だけれど、まあ、あんまし社名を連呼するのも憚られたってことでしょうかね。

 正直、その社名を聞いて、さもありなんと思いましたね。世界的に評判が悪いからではありません。大昔、個人的に、この企業にはとてもイヤな思いをさせられたからです。詳細は書けませんけど、日本法人の広報の担当者(もちろん日本人)は、恫喝まがいのことを平気で言ったり、こちらがそれに対して文書でロジカルに説明をした途端ダンマリを決め込んだりと、広報のイロハをも弁えぬサイテーな対応をしてくれました。

 それを機に、私は、その企業の製品は一切購入していません。どんな人間であれ、彼らにとっては客の一人であることを考えない浅はかな企業だなぁ、と、言っちゃ悪いけど心底軽蔑しました。企業の顔と言っても良い広報がそんな体たらくなんて、どんなにTVCMでイメージ戦略を打っても、自らそれを台無しにしているようなモンでしょ。図体がデカイからと言って、末端の客一人の切り捨てに頓着しない企業なんて、所詮底が知れていると思いました。

 ただねぇ、、、困ったことに、職場でこの企業のお菓子をくれる上司やら同僚やらがいるわけですよ。当然、彼らは何も知らないし、何よりメジャーな菓子なんで。そうすると、「私、そこの菓子は食べないから!」とは言えないわけです。でも、やはり口にする気にはなれないので引き出しの肥やしに、、、。こっそり捨てるときの罪悪感。たとえクソ会社の商品でも、食べ物は食べ物。食べ物を捨てることには、やっぱりものすごい後ろめたさを感じます。なんであの会社に、こんな後ろめたさまで感じさせられなきゃいかんのか! と憤りも感じますけど、それは筋違いな憤りでもあり、悩ましいものです。

 とはいえ、粉ミルクを、パキスタンの下水施設の整備されていない貧困地域で売りさばいたのは、なにもその企業だけじゃないんですよ。他の企業の実名は出て来ませんでしたけど、そういう意味では、1社だけ実名を出すってのはいかがなものかという気もします。まあ、だからといって実名を全く出さないってのも、それはそれで事実を隠蔽しているみたいで、制作側としてみれば出したいのも分かります。だから、1度だけのチョイ出し、ってことにしたんでしょうね。

 あとは、その企業が、アヤンのモデルとなったサイヤド・ラーミル・ラザ・フセイン氏に実際に行った犯罪まがいのことの数々から検討し、企業名を作中で連呼することにより、ますます作品の公開が非現実的になることを恐れた、というのもあるでしょう。というか、こっちがメインの理由でしょうね。まあ、あの企業なら、それくらいやりかねないかもな、と思う半面、そこまでやるのか、まるでヤクザ、、、と呆れもします。


◆「汚れたミルク」の意味と違和感。

 前置きが長くなりましたけれど、本作の構成は、なかなかユニークです。アヤンの経験したことを映画化するプロジェクトが、実際に映画を撮るに至るまでを描く、という設定で一連の問題が描かれていきます。現在はカナダに住むアヤンと、ロンドンのスタッフが、スカイプによる議論を始めるところから、本作は始まります。

 ただ、私が本作を見ている間、ずーっと疑問だったのは、粉ミルクを売れば、汚い水で溶かれたミルクを乳児が飲むことを、アヤン自身が想像し得なかったのか、、、ということです。考えればすぐに分かりそうなことじゃないのか……?

 それをさも、その企業に騙されたかのごとく怒りを向けるのは、何かこう、、、違和感を抱いちゃったんですよねぇ。

 粉ミルクを、金欲しさにひたすら売り歩くセールスマンがいることも、そんなセールスマンに賄賂で丸め込まれて粉ミルクを貧困層の母親たちに薦めた医者が大勢いることも、何も知らずに言われるがまま乳児たちに飲ませてしまった母親たちがいることも、それは理解できるんですけどね。特に、母親たちは、「粉ミルクを飲むと頭の良い子になる」等というデマを吹き込まれた様ですし。

 アヤンも、知っていながら金欲しさに売り歩いていたけれど、途中で考えを変えて、その企業を告発するために動く決心をした、、、というストーリーなら分かりますけど、医者に指摘されるまで全く気付かなかったなんて、んん~~、なんだかなぁ、、、という感じ。

 でも、アヤンは、事実を知ってからの行動は至って速い。すぐに仕事は辞めるわ、WHOに告発するわ、ドキュメンタリー番組の制作に協力するわ、、、。その行動力には恐れ入る。

 しかも、若い妻も、アヤンの実父母も、アヤンを全面的にバックアップするんです。アヤンが、告発行動を辞めようかと悩む場面でも、妻は「信念に背く夫を尊敬できない」等と言って、背中を押すんですからね、、、。家族にまで危険が及びかけているというのに。すごい女性です。私が妻なら「もうやめてくれ! 平穏な生活がしたい!!」って言っちゃうね、間違いなく。理想は、アヤンの妻のように振る舞えることでしょうけれど。


◆実話モノはねぇ……。

 そんなわけで、展開の速い本作ですが、終盤、一波乱あります。アヤンが、企業の脅しに屈しかけた事実が、ドキュメンタリーの制作スタッフらに暴露され、放映予定だったドイツのTV会社が手を引いた、、、というわけです。

 そしてアヤンが絶望してとぼとぼ歩くシーンでジ・エンド。字幕で、その後……、ってのが説明される。

 なので、本作をドキュメンタリーと受け止めてしまう観客が、少なからずいるんじゃないか、と危惧しますねぇ。監督のインタビュー等を読むと、制作過程はまた別物だったことが分かるので、きちんとそういうバックグラウンドも観客としては知る必要はあるかと感じます。あくまで本作は、実話ベースにしたノンフィクションだ、ということをきちんと見る者に伝えるべきでは?

 実話モノのイヤなところってのはこういうところで、何だか、映画で描かれていることが、さも実際にあったかみたいに見る者に錯覚させる。受け手のモラルと感性が非常に試されるジャンルの映画だと思います。

 まあ、そうはいっても、ある意味、告発映画としての役割は果たしているわけだし、粉ミルクの犠牲になってたくさんの乳児が亡くなっているという事実はあるわけだから、人殺しもしかねない企業を相手に、よく腹を括って制作したな、とは思います。そういう意味で、プラス2つしました。








若妻・ザイナブが美しくてカッコイイ!




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妖精たちの森(1971年)

2017-02-06 | 【よ】



 とある田舎の屋敷ブライ邸に暮らすフローラとマイルズの幼い姉弟は、両親がおらず、家庭教師のジェスル先生が母親代わりに彼らの面倒を見ていた。

 姉弟はジェスル先生に懐いていたが、姉弟がもっと慕っていたのが馬番(庭師?)のクイント(マーロン・ブランド)という中年の男だった。粗野で下品だが、ユーモアがあり遊び相手になってくれるクイントは、姉弟にとっては面白い存在だったのだ。

 姉弟は、クイントとジェスル先生が特別な関係にあり、愛し合っていることを知っていた。そして、クイントが発したある言葉に触発された姉弟は、クイントとジェスル先生の思いを遂げさせてあげようと、ある行動に出るのだが、、、、。

 あのヘンリー・ジェイムズの名作「ねじの回転」の前日譚を映像化した作品。

 
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 前回の記事『回転』の前日譚。といっても、フローラとマイルズは、『回転』では兄妹だったのが、本作では姉弟になっています。しかも、『回転』よりはちょっと年上な感じです。B級っぽいけど、まあまあ楽しめる作品でした。


◆これなら化けて出たくもなる、ってもんでしょ。

 正直、「ねじの回転」を読んだとき、“なんで、クイントとジェスル先生が幽霊になって屋敷を彷徨っているのか?”というのが最大の疑問でした。古いお屋敷のこと、先祖の霊が彷徨っているというのならまだしも、ついこないだ死んだ使用人たちの霊が彷徨っている、、、。なんかヘンじゃない? と感じたのです。

 だからこそ、あれは幽霊ではなく、ギテンスの妄想だという説が有力になるわけですが、本作のようなエピソードがあれば、彼らが本物の幽霊だったというのも十分アリだと思うわけで、私としては、前回の記事に書いたとおり、“本物の幽霊説”を望んでいるので、ちょっと嬉しくなってしまった!

 フローラとマイルズの姉弟が、クイントとジェスル先生に何をしたか? そう、子どもたちは、大人の男女を結ばせるためにあの世に送ってあげたのです。

 、、、つまり、子どもたち2人が大人2人を殺しちゃった、ってことです。何でそんなことをしたかというと、姉弟が「好きな人同士は、どうやったら会えるの?」とクイントに聞いたとき、クイントが「死んだら会えるさ」と答えたからです。

 姉弟は、クイントとジェスル先生が相思相愛にもかかわらず、ジェスル先生が屋敷を追われることになって、何かこう、上手く行かない状況にあることを察するのですね。それで、クイントにそんな質問をしたわけです。

 クイントの答えを聞いた姉弟は、それなら、あの世で好きなだけ2人を逢わせてあげよう、と純粋に(?)考えた。そして、、、。

 でもまあ、殺された方にしてみりゃ、なんのこっちゃ??なわけで、クイントだってまさかこんな展開になるとは想像だにしていなかったでしょう。だから、死後、化けて出てきた、、、。理にかなった展開ではないですか。

 やっぱり、あの「ねじの回転」での幽霊は、ガヴァネスの妄想などではなく、本当の幽霊だったのです!!
 

◆クイントとジェスル先生は、、、

 とまあ、幽霊がどーのこーの、というのは、本作では何も関係ありませんので、本作についての感想を書かなくては。

 「ねじの回転」にあった通り、クイントとジェスル先生はアブノーマルなセックスを楽しむ関係だったんですが、それを、しっかり映像化しています。下品で粗野なクイントを、中年太りしかかっているマーロン・ブランドが好演、、、というか何というか、、、。ジェスル先生役のステファニー・ビーチャムを緊縛し、ヤリたい邦題のクイント。中途半端なポルノですな、こりゃ。でも、ゼンゼン官能的ではない。むしろ、可笑しい。

 で、この様子を、外から窓越しに覗いているのが幼いマイルズ。しかも、マイルズ君、お姉さんのフローラに、ジェスル先生がされていたのと同じように緊縛を仕掛け、いたぶったりなんかして遊んでいる。メイドのグロースさんに「何やってるんですか!!」と聞かれて「セックスだよ!」なーんて答えちゃうこの姉弟、、、大丈夫か? いや、大丈夫じゃないんだけれど、、、。

 ジェスル先生も、初めは、イヤイヤという感じだったんですが、夜這いをかけつづけられ、遂にはクイントが忍んで来るのを全裸になって待つようにまでなってしまう! うーーん、これは、どーなんでしょうか。、、、まあ、原作のクイントは「従者」ですから、本作のクイントよりはもう少し学も品もあったはずで、それならば、ガヴァネスのジェスル先生と間違いが起きるのはあり得る話だと思われますが、ガチガチの階級社会だった当時、いくらジェスル先生が好きモノの女だったとしても、馬番とは“ナシ”だと思うんだよねぇ、私は。

 ましてや、本作のクイント=マーロン・ブランドは、あんまりにもヒドい。汚らしいというか、間違ってもコイツにだけは触れられたくない、的なデブったオッサンですよ? ただただ、キモい。

 これは、もう少し、クイントの描き方を考えるべきだったのでは? せめて、馬番か庭師かではなく、原作どおり「従者」にして、きちんとタキシード着ているシュッとした美青年にした方が良かったんじゃないかなぁ。美青年だけど、品がない顔、ってあるでしょう? そういう役者さんにした方が、本作は説得力も出ただろうし、もっと面白くなった気がするんですけれど、、、。

 まあ、、、でも、本作の見どころは、ほとんど、マーロン・ブランドとステファニー・ビーチャムのSMシーンと、姉弟が2人を殺しちゃう、ってところに尽きると言っても過言ではないでしょう。面白いけれど、正直、そんなに味わいがある作品とは言えないし、「ねじの回転」という前提があるからこそ楽しめる作品だと思います。本作を単体で見たら、ただのB級映画にしか見えなかったような気がします。


◆その他もろもろ

 マーロン・ブランドって、あんまし好きな俳優じゃないのですが、本作を見ても、やっぱりそれは変わりませんでした。オッサンになったからとか、中年太りしてるからとかではなく、若い頃の彼も苦手。イイ顔だとは思いますが、、、うーーーん、どうもこう、脳味噌も筋肉系みたいな印象で、、、。ただのイメージですよ、もちろん。そのイメージがどうしても苦手、ということです。

 多分、そんなイメージを強烈に抱いてしまったのは、『欲望という名の電車』のせいです。ヴィヴィアン・リー演じるブランチを徹底的に追い詰めるスタンレーが憎らしくて恐ろしかった。ブランチもイヤだな、と思わせる女だけど、スタンレーはそれ以上に嫌悪感を抱く男。

 本作でのクイントも、ちょっとスタンレーに通じるところがあるような。だから、余計にキモいと思ってしまったのかも。

 ステファニー・ビーチャムさんは、美しいし、身体もとってもキレイですが、顔がどこか小雪さんに似ていて、だんだん小雪にしか見えなくなってきて困りました。

 姉弟を演じたヴェルナ・ハーヴェイとクリストファー・エリスは、正直、あんまし可愛いと思えなかった。特に、フローラを演じたヴェルナちゃんの方。なんか不気味さを纏っており、本作でのフローラ役には合っていたのかも知れませんが、、、。

 まあ、美術や衣装も、どう見てもちょっとB級感が溢れていますけれども、「ねじの回転」を前提に見るのであれば、十分楽しめる一品です。


 




クイントの殺され方が結構エグいです。




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