映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

愛する映画の舞台を巡る旅Ⅰ ~コペンハーゲン(デンマーク)~その①

2017-07-29 | 旅行記(海外)


**ハムレットの舞台クロンボー城の地下牢に幽閉されたカロリーネ・マチルデ** vol.1
 



 7月上旬、欧州弾丸旅を敢行しました。コペンハーゲン→ベルリン→ワルシャワと移動の多い旅。でも、どこも全て名画の舞台となった場所です。これから、ぼちぼち、旅の記録を書いていきたいと思います。気長にお付き合いいただければ幸いです。


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 コペンハーゲンといえば、世界三大ガッカリ「人魚の像」、可愛い街並みニュー・ハウン、、、くらいしか思い浮かばないけれども、せっかくだから、是非とも、あのクロンボー城へ行きたい!


  
 コペンハーゲンからは電車で一本、小一時間ということなので、こりゃ行くしかないでしょ、と。

 コペンハーゲンでは、コペンハーゲンカードという便利なカード(24時間、48時間、72時間の3種類)があり、これ1枚で電車乗り放題、主な観光名所もフリーパス。なので、コペンハーゲンに到着したその日に、中央駅のインフォメーションでゲット。

 信じられないんだけれど、使用開始日時を、何と、「自分で記入しろ」とカウンターのお姉さんが言うのです。思わず、3回も“by myself??”と聞き直す始末。お姉さん、何でそんなにしつこく聞くの? みたいなヘンな顔してましたが。……だって、日本じゃ考えられないシステムだもの。

 さて、翌日の日曜日、クロンボー開城が10:30~とのことなので、朝、9時過ぎの電車で行くことに。


コペンハーゲン中央駅のホーム


 日曜の朝だからか、人はあまりいない、、、。とはいえ、首都のセントラルステーションなのよ。日本なら東京駅だわね。日曜の朝でも、東京駅のホームはここまでガランとしていない様な。

 Helsingør(ヘルシンオアorヘルシンゲル)駅行に乗ります。「あとは乗ってりゃ着くだけ~♪」と、呑気に車窓からの景色を眺めておりました。

 駅と駅の間は、意外に短くて、割と細切れに停車する感じ。まあ、でもこういう、のんびり電車旅も良いわぁ、、、と思っていたところ、ある駅で停車したら、係の女性がやってきて、「降りろ」と言うではないの! なんと、ここから Helsingør まではバスで行けと言っている、、、!!

 実は、旅に出る前、自宅でデンマークの電車時間を何気なくこちらのサイトで調べていたら、“Replacement bus”という表示が出ていたのを思い出したのです。それを見たときは、「はぁ? 何で乗り換えるの? 一本で行けるんでしょ~?」と深く考えず、むしろ「当てにならんサイトだ」くらいにしか思っていなかったのですが、当てにならんどころか、まさにそのサイトの表示通り、強制的に乗り換えさせられたのでした。しかもバスに。

 これは、電車を下ろされてから知ったのですが、どうやら、下ろされた Rungsted Kyst 駅から Helsingør 駅までは、線路の工事をしているらしく、現在電車は不通なんだとか。それで、バスが代行運転しているのです。

 まぁ、でも、駅から少し歩いたところにバスのロータリーがあって、Helsingør 行のバスが待っていてくれたし、思いがけないバスの旅もできることになって、むしろラッキー! と思い直しました。こういうのも旅の醍醐味(というほどでもないけど)。

 高速を走って、20分くらいでしょうか、Helsingør 駅に到着。


Helsingør 駅の外観


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 駅から、海越しにクロンボーが見えています。カフカの『城』とは違って、歩くほどに近づいてくるクロンボー!! 


駅からの道より対岸のクロンボーを臨む


 わぁ~~、これがあのハムレットの舞台になったお城やね!! と、ワクワク。まあまあ良い天気だったのだけれど、風が強くて結構、寒かったです。

 城門(?)から入り口まで、結構ある、、、。


城門を入ったところから見上げるクロンボー


 ようやく入り口に辿り着き、いよいよ城へと入っていくと、、、。まさに中庭でハムレット上演中!!



 この方はハムレット役の、恐らく Jacob C.Utzon-Krefeld さんと思われる。私たちが入って行ったときにちょうど、ガートルードが再婚するシーンを演じていて、その直後の独白場面です。

 後で買ったガイドブック(後述)によると、ここで、1937年にローレンス・オリビエ&ヴィヴィアン・リーが、その後、ジュード・ロウもハムレットを演じたと書かれています。


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 ……で、肝心のクロンボーですが。まあ、予想はしていたというか、“お城自体(内部)はあんまし見所ない”という事前情報を得ていたので、城の中は、期待値がそもそも高くなかったこともあり、へぇ~~、くらいな感じでサクッと見て回りました。

 その後、展望塔(大砲塔)に上がり、対岸のスウェーデンを臨み、中庭を見下ろし、、、、。この展望塔が、風が強かったんだけれども、とても気持ちよかったのでした。


中庭


 そして、クロンボーでの私のお目当ては、地下牢! この地下牢こそ、あのカロリーネ・マチルデが幽閉されていた場所なのです!!

その②につづく
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永い言い訳(2016年)

2017-07-26 | 【な】




以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 “津村啓”というペンネームでテレビのバラエティなどでも活躍する人気小説家の衣笠幸夫(本木雅弘)は、ある日、長年連れ添った妻・夏子(深津絵里)が旅先で突然のバス事故に遭い、親友とともに亡くなったと知らせを受ける。

 だが夏子とは既に冷え切った関係であった幸夫は、その時不倫相手と密会中。世間に対しても悲劇の主人公を装い、涙を流すことすらできなかった。

 そんなある日、夏子の親友で同じ事故で亡くなったゆき(堀内敬子)の遺族であるトラック運転手の大宮陽一(竹原ピストル)とその子供たちに出会った幸夫は、ふとした思いつきから幼い兄妹の世話を買って出る。

 保育園に通う灯(白鳥玉季)と、妹の世話のため中学受験を諦めようとしていた兄の真平(藤田健心)。子供を持たない幸夫は、誰かのために生きる幸せを初めて知り、虚しかった毎日が輝き出すのだが……。
 
=====ここまで。

 「鉄人衣笠」と同姓同名であることで生き辛さを感じているという津村、、、。そんなもんかねぇ、、、。山本浩二、と同姓同名でも、別に何とも感じない人の方が多くない? 実際、同姓同名の有名人、いらっしゃいますし。

   
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 楽しかった旅の帰りの飛行機で見た作品。眠くなるだろうと思って見始めたけど、ならなかった。

 西川美和監督・脚本作品を見るのは、これが『ゆれる』に続いて2作目。『ゆれる』は、面白かったし、インパクトもあったけど、あんまり好きじゃないなぁ、、、と思ってしまった。本作も、公開時に話題になっていたけれど、まあ、少なくとも劇場まで行って見たいとは思えなかったので、今回、機内で見られるってことで、見てみました。


◆似たもの夫婦

 ネットの感想等をザッと拾い読みしたところ、結構、モックン演ずる津村について、あんな深津絵里演ずる夏子みたいな素敵な奥さんがいるのに“クズ”だの“ゲス”だの、かなりヒドイ言われ様なのが目についたんだけど……。

 夏子の出番は冒頭だけだから、彼女がどういう人なのかは、その後、津村が少し語るエピソードくらいからしか分からない。分からないが、私は、津村がそこまでクズでもゲスでもないと思うのよねぇ。

 夫婦なんてのは、良くも悪くも相乗効果なわけで、津村があんななのは、夏子の影響も少なからずあるってこと。夏子の何がどう影響して、津村がああなったのか、詳細はもちろん分からない。でも、間違いなく、夏子の何かが影響し、津村の一部を形成しているわけで、夫婦のどちらかが上等でどちらかがゲスなんてことはあり得ない。

 実際、私は、冒頭の夏子が津村の髪を切るシーンを見て、夏子に対し好感を持てなかった。なんかイヤな女だなぁ、というのが第一印象だったもの。なんというか、夫に対する上から目線的なものを感じたのよね。

 津村は、自分が二浪して入った大学に夏子は現役で入ったというエピソードに始まり、結婚に至るまでのいきさつを語るシーンがあるんだけど、そこで、夏子が亡くなった今に及んで夏子に対してすごく劣等感を抱いていることが分かる。ホントに良い夫婦関係が築けていたら、そんな分かりやすい部分の劣等感なんか克服できるはずで、つまり、夏子は津村と一緒にいることで彼の劣等感を肥大させる妻だったのよね。そして、それはあの上から目線に表れていたと思う。

 そして、夫が嫌がること(自分の出演しているTV番組を大音量で見たり、本名で呼んだり、、、)を敢えてしているところも、イヤだなぁ、と。「それはイヤだからやめてくれ」と言っていることを敢えてする配偶者、、、。ムカツクわぁ~~、私なら。張り倒したくなるかも。

 ……だから、こういう女が妻だと、夫がああなるのも分かる気がする、というかね。

 でも、ネット上の感想だと、夏子は良き妻、というのが多数派な感じなのよねぇ。……どこが?? と思ってしまう私は、やっぱし男に甘いのか?

 別に、夫が不倫に走るのは、妻に非があるから、ということを言いたいのではありません、念のため。

 津村って男は、自信がないくせにプライドばっかし高くて、自己愛が過剰な男で、まあ、ハッキリ言って魅力的とは言いがたい。でも、物書き(特に小説家)なんかになる男は、例外なく“自意識過剰のナル男”だと思うので、そういうところがカワイイと思う女も、まあいるだろう。そしてそういう女もまた、自尊心をくすぐられるんだろうと思う、そういう男が自分の伴侶であることに。だから、似たもの夫婦だと思うわけ。


◆もう愛してない、ひとかけらも。

 津村は、亡き妻のスマホに、未送信の自分宛のメールを見つけるんだけど、その文面が「もう愛してない、ひとかけらも」。、、、なんだかイヤな感じ。

 これを見て、津村はカッとなってスマホを壊しちゃうんだけれども、、、。このメッセージについて、どう解釈するかというのが、ネットのレビューでも色々書かれていました。

 私は、割とそのまんまじゃないかなぁ、と思ったクチです。あんな上から目線の妻に、夫への愛情があるようには思えなかったから。そして、そういうメールを書く一方で、ホントは「オレにはまだ愛は残っている」と夫に言って欲しがっているんだと思う。そういう女な気がする。

 自分が愛してないのはアリでも、相手が自分を愛していないのはナシ、ってやつ。

 そして、これは夏子だけじゃなくて津村も同じなわけでしょ。やっぱり、夫婦は合わせ鏡とはよく言ったモノです。

 こんな夫婦、イヤだねぇ。何で一緒にいるのよ、と思う。私が夏子なら、さっさと離婚するわ。離婚しないってことは、まだ未練があるから、、、という解釈もアリだろうけど、離婚するのもメンドクサイってやつだったんじゃないのかな、という気がする、この夫婦については。


◆また、子どもの有る無しか、、、。

 津村は、子どもを欲しくなかった。自分の遺伝子を受け継ぐ存在を世に送り出すなんてイヤだ、という感覚、私にはよく分かる。私もそうだから。子どもを欲しくない、という人間は、まあほとんどの場合、自己チューだろうね。子どもを欲しがる人が自己チューじゃないとも思わないけど。

 酔っ払って、それを、よりにもよって灯の誕生会の席でぶちまける津村。まあ、サイテーなんだけど、もっとサイテーなのがその後の展開。

 竹原ピストル演ずる陽一が、あの調子で言うわけ。「なっちゃんはさ、子ども、欲しかったんじゃねーの? 欲しかったと思うよ!!」って。

 このシーンで、私はげんなりしました。夫婦の問題に、どうして子どもが絡まなきゃいけないのかね。大体、そんなデリケートな問題に、第三者が意見すること自体、おこがましいだろ、って思う。つまり、陽一に、夏子が子どもについてどう思っていたのかなんてコメントする資格はないのよ。それは津村と夏子の夫婦にしか分からないんだから。こういうことにズカズカ踏み込む辺りは、陽一らしいけれども。

 シナリオ的に、そこに触れずにいられなかったのかなぁ? そんなことないと思うんだよなぁ。ギクシャクしている夫婦で、子がいないという設定。そして、ギクシャクの遠因の一つが、子がいないこと。まあ、分かりやすいけど、分かりやすすぎでつまんないよなぁ。そういう次元じゃない部分でギクシャクさせたら?

 いい加減、女は子作りマシーンっていう固定観念から脱却したシナリオがあってもいいんじゃないの?? 子どもの有る無しを超越した夫婦=一組の男女の物語じゃダメなのか??


◆「転」「結」が、、、残念。

 灯の誕生パーティの一件後、陽一親子との関わりが断たれて、津村は、また孤独で自堕落になるんだけど、そんなこじれた人間関係を一気にラストへ向けて解決するために起きたことは、、、。

 陽一の睡眠不足から来た自損事故。

 なんだかなぁ、、、。事故で全部一発解決させちゃうなんて。ある意味、禁じ手だよね。しかも、陽一の怪我は大したことない、みんながちょっとずつ反省するには、ちょうどいい加減の事故。

 そうなる予感はあったけど、その通りに展開させるなんて、シナリオとしてはかなり残念。やっぱり観客を裏切る展開にしてくれなくちゃ。これで本作は一気に凡庸になったと思います。

 事故後、陽一親子の関係も修復、陽一と津村の関係も修復、津村は書けなかった小説が書ける様になる、、、。あー、はいはい、よござんしたね。


◆印象に残るセリフ

 タイトルの『永い言い訳』というのは、なかなか良いなぁと思います。余所の家庭の子守をして、罪滅ぼししている様に見える津村が切ない。自分のマネージャーにも言われちゃうしね。「子育ては男の免罪符」なんて。上手いセリフ。

 津村が行き着いた「人生は他者である」だけれど、、、。なるほどな、が半分、どういう意味? が半分、、、という感じ。

 確かに、他者との関わりがあって初めて、人生と言える自分の物語は形成されると言えるだろう。けれども、自分の存在は、他者とは関係なく既に絶対的なモノであることも真理なわけで。人は一人では生きていけない、ってことを哲学的フレーズにするとこうなるのかしらん。

 でも、本当に人は、、、一人では生きていけない、、、んでしょうか?? 津村が夏子とあのまま夫婦を継続していて、互いに心は全く通わなくて、一緒にいても孤独で、それは、一人で生きていることにはならない、、、んでしょうね。夏子とは関わらなくても、愛人やら、編集者やら、マネージャーやらとは関わって生活するんだもんね。

 ま、とにかく、陽一が事故るまでは、結構イイな、と思って見ていたので、終盤は尻すぼみでガッカリでした。

 
 






灯を演じた白鳥玉季ちゃんに助演女優賞!!




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湯を沸かすほどの熱い愛(2016年)

2017-07-22 | 【ゆ】




以下、公式サイトよりストーリーのコピペです(青字は筆者が加筆)。

=====ここから。

 銭湯「幸の湯」を営む幸野家。しかし、父・一浩(オダギリジョー)が1年前にふらっと 出奔し銭湯は休業状態。母・双葉(宮沢りえ)は、持ち前の明るさと強さで、パートをしながら、娘・安澄(杉咲花)を育てていた。

 そんなある日、突然、「余命わずか」という宣告を受ける。その日から彼女は、「絶対にやっておくべきこと」を決め、実行していく。

 ○家出した夫を連れ帰り家業の銭湯を再開させる ○気が優しすぎる娘を独り立ちさせる ○娘をある人に会わせる

 その母の行動は、家族からすべての秘密を取り払うことになり、彼らはぶつかり合いながらもより強い絆で結びついていく。そして家族は、究極の愛を込めて母を葬ることを決意する。
 
=====ここまで。

 ラスト、ホントに湯を沸かしちゃうんだから、これはホラーだ、、、と思った。

   
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 久々に乗った飛行機での鑑賞。ずいぶん話題になっていたけれど、どうもお金を出してまで見る気になれなかったので、良い機会だと思って見てみることに、、、。

 本作を好きな方は、ここから先はお読みにならない方が良いと思われますので、あしからず。

 本作は感動する映画だそうですが、私は、残念ながら1ミリも感動できませんでした。なぜ感動できなかったか、見ていて自分でも冷静に分かりましたので、それをこれから書きます。


◆理由その①:主人公の双葉、キライだわぁ、、、

 まぁ、これが最大の理由ですね。何でキライか? はい、答えは簡単です。

 “自分が絶対正しい人”だからです。

 ありがちに、中学生の娘・安澄は学校でイジメに遭っている。絵の具を頭から全身にかけられたり、制服を隠されたり、、、。これに対する双葉の言動が、ちょっと信じられん。

 安澄が制服を隠されて、遂には「学校に行きたくない!!」と布団に潜り込んで出てこない。ま、当然の反応でしょう。しかし、ここで双葉ママはやっちまいます。布団を強引に引っぺがし、「ここで行かなかったら、ダメになる!」(セリフ正確じゃありません)みたいなことを言って、安澄を強引に学校に行かせるのね。これ、いじめの被害者に対する、保護者としてサイアクの対処法なんですけど、、、?

 他にも、出奔して若い女と同棲している夫を迎えに行った双葉は、玄関先に出て来た夫を、お玉で殴り付け出血を伴う怪我をさせる。安澄の実の母親(双葉は育ての母親と後に明かされる。夫と最初の妻の娘が安澄)に会いに行って、いきなり平手打ちを喰らわせる。……などと、いくら余命2か月だからって、あなた、やって良いことと悪いことあんでしょーよ、と思っちゃう私は、平々凡々な常識人なのよね。

 まあ、難病モノにありがちな陳腐さにハマらない様に工夫したんでしょうけど、結果的に、難病モノの罠に、本作のシナリオもハマってるとしか思えない。

 つまり、それまでは現実に黙って耐える(というより、現実に流される)母親だったのが、余命わずか“だから”、このような自分の思うところの“正しさ”を振りかざして暴走する母親になりました、ってことでしょ? 迫り来る死を理由に主人公を自己中キャラに変化させちゃうってのは、結局のところ、陳腐な難病モノと同じ穴の狢だと思うんですけどねぇ、、、。

 黒澤明の『生きる』も、私は嫌いだけど、あれと同じよね。あの主人公は、それまでの自分のなァなァな生き方を悔いて、突然、前向きで積極的な人間になるんだけど、本作も構造は一緒。

 死を目前にして、自ら悔いのない様に、、、というのは結構ですが、それは、飽くまで自分のことだけにしてほしい。せいぜい巻き込んでも許されるのは、夫だけじゃないかなぁ。娘や、夫の元妻まで巻き込むのは違う気がする。それでなくても、入院後は家族は否応なく巻き込まれるのだから。

 私、もうすぐ死ぬんだから!! ってのを免罪符に自分の信じる道を猪突猛進するのは、ただのエゴです。余命2か月の人のエゴくらい、寛大になってあげなさいよ、と言われるかも知れないけど、現実ではそうだとしても、映画だからこそ、そんなありきたりな理屈に陥らないでほしいです。
 

◆理由その②:シナリオがスカしてる、、、
 
 監督がシナリオも手掛けている本作ですが、、、。どうもこのシナリオが私は好きになれない。

 例えば、、、。

 保健室で髪の毛から制服まで絵の具まみれになって座っている安澄に、なんと双葉は「何色が好き?」と笑顔で言います。……はい、これは映画ですから、捻っているのは分かります。ここで「どーしたの、安澄!!」なんていうリアクションをする母親はフツーすぎてお話にならないのは、よっっっく分かります。でもですね、イジメと打ち明けられずに打ちひしがれている娘にニッコリ笑顔で「何色が好き?」って、、、。う~~ん、、、。

 制服を隠された安澄は、母親に言われて体操着を着て学校に行くんだけど、何と、クラスメイト衆目の中、彼女は突然、体操着を脱ぎだし、ブラとパンツだけになるのです。そして「私の制服返してください……」と言った後に、家を出るとき母親に飲まされた牛乳をゲボッと吐く、、、。……は?? あの年頃の女の子が、男子もいる前で服脱ぐと思います?? いくらフィクションだからって、ちょっとやり過ぎ。現実なら、あれはイジメを助長することはあっても、沈静化することにはつながらない。でも本作では、それを機に、制服が返されるという、極めて甘い展開。白けます。

 鮎子という、安澄とは母親違いの妹がいて(ったく、オダジョー演じる夫は生活力ゼロの種蒔き男)、この鮎子の母親が失踪し、幸野家で引き取ることになるんだけど、そのときの鮎子のセリフが、極めて大人びた長ゼリフで、ドン引きです。あんなこと、小学生が言うわけないだろう。詳細なセリフは忘れたけど「ここで暮らさせてください、、、、云々」と、敬語を正しく交ぜた、それこそお涙ちょうだいな演説です。これもまた、白けます。

 双葉と、安澄と鮎子の3人で箱根に車で旅行するんだけど、途中で、バッグパッカーの若者・拓海(松坂桃李)と出会って、双葉が、アマチャン拓海の根性を叩き直すという展開になる。まあ、それはイイとして、双葉と拓海の別れ際、駐車場で双葉は拓海を思いっきりハグするのね。、、、あのねぇ、知り合って間もない男をいきなりハグするオバハン、おかしくないか? ここは日本だぞ。

 ……と他にも書いたらイロイロあるんだけど、長くなるので割愛。

 構成的にも、なんとなくあざとさを感じる。例えば、安澄が制服を隠される場合。唐突に、オダジョー演ずる夫が、双葉に「なあ、新しい制服買ってやる?」というシーンが挟まれる。見ている方は「は?何のこと?」となる。それが、実は、制服が隠されたことによるセリフと分かるのは、結構後になってから。こういう、見る者を置いてけぼりにする構成が何か所かあった。これも、ひねりを効かせたつもりなんだろうけど、いささか独り善がりなシナリオという感じを受ける。

 何より、サイアクだなぁ、と思ったのは、安澄と鮎子に向かって、拓海に「君たちのお母さん、スゴイ人だ」「あんなスゴイ人から生まれたなんて、君たち幸せだね」(セリフ正確じゃないです)と、セリフで言わせちゃっているところ。このセリフこそ、監督が一番描きたかった本作のキモであり、その肝心なことをセリフで言わせてどーするよ。それこそ、見終わった観客に余韻として感じさせなくてはならない重要なテーマでしょ。

 そんなこんなで、このシナリオはスカしている。一見、良さそうに見せているけど、クリエイターとしては実に志が低いと思ってしまった。


◆理由その③:ラストがグロすぎる、、、

 ハッキリ描かれているわけじゃないけど、どうやら、双葉の亡骸を、「幸の湯」の釜でもって焼いた様なのです。そして、それで湧かした湯に、一同が揃いも揃って穏やかな表情で入っているシーンで終わるわけ。

 これ、どーなのよ。感動するシーン?? まさか。

 そんなところで、大切な人の亡骸を燃やすか? 大体、匂いがヒドイでしょうよ。映画だからって、リアリティをここまで踏みにじって良いとは思えないし、何より、私だったら、そんな湯に浸かって大切な故人の思い出に浸ることなど、到底出来ないわ。

 こういう発想が、ちょっとイヤだ。何というか、面白い映画を描きたい、という思いだけで、人間の尊厳を冒涜する描写を平気でやっちゃってる感じ。だから、やっぱり、志が低いと感じてしまう。


◆その他もろもろ

 ……以上、こき下ろしてきましたが、こき下ろしついでに、もうちょっと。

 宮沢りえさんは、私はあまり上手いと思えなかった。『紙の月』の方がまだ良かった。彼女の演技は、どうもこう、、、痛々しい。頑張っているのがこちらに伝わってきてしまう。だから、見ていて辛くなってくる。

 あと、1年も休業していた銭湯が、再開した途端、お客さんが一杯来るってのも、ちょっとなぁ、、、。そんなに世の中甘くないと思うゾ。

 まあ、つまるところ、この中野量太氏という方の感性は、私には到底受け容れ難い、合わないものなんだ、ということでしょう。合わない映画って、やっぱりあるのです。残念。


 






花に埋もれて銭湯の床に眠るりえさんは美しかった。




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