映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

母の身終い(2012年)

2014-12-31 | 【は】



 ヤクの輸送の片棒担がされて18か月の服役を終えて出所してきた50前のおっさんアラン。仕事もなく、母親の家に居候し、案の定、母親とは衝突ばかり、、、。

 が、その母親は治療が難しい脳腫瘍に侵され、いずれは自分を失うと医師に宣告される。そこで、母親は、決断する。自律できているうちに、自分の人生に自分の手でピリオドを打つことを。


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 すごくキッチリしたお母さんであるイヴェットです。そんな彼女の“身終い”は、なるほど彼女らしい。そう、つまり、彼女は“尊厳死”を選ぶのです。自分が自分でなくなる前に、キッチリ折り目正しく人生を終えたいという、、、。

 フランス国内ではそれを実行すると、自殺幇助の罪に問われるため、彼女はスイスのある協会の援助を受け、実行します。そして、この現場に立ち会うことになるのが、典型的ダメ息子である、アランです。一人息子なのね、きっと。

 正直、子の立場で言わせてもらえば、親が自殺する現場に立ち会わされるのは、理屈抜きで「嫌」です。親の意思は理解できるし、もちろん尊重もしたい。でも、自分の目の前で、たとえ“尊厳死”と言われても、実態は自殺であり、親が死ぬための薬を飲むのを眺めていなければならない、という場面は、子にとって酷(こく)過ぎます。

 私は、世界で30番目くらい(根拠はありません)に親不孝者だという自覚は十分持っていますが、その罪滅ぼしに、親の尊厳死に立ち会え、と親に言われたら・・・。まあ、たとえ世界一の親不孝者になっても、拒絶すると思います。そんな重荷を子の先行きに負わせるなんて、親として勝手すぎやしませんか、とかなんとか言って。

 ただ、このイヴェットの尊敬すべきところは、「子(アラン)に迷惑を掛けたくない」とか、一切そういうことを言わないところです。そういう思いもあったと思うけれども、彼女は彼女自身のために尊厳死を選んだ、という一貫した描写であり、そこがむしろ好感を持てました。ただでさえ、親の自殺に立ち会うという重荷を背負わされた上、さらに「あなたの将来のためよ」なんて言われた日にゃ、「どこまでオレに十字架背負わせんだよ!!」とキレたくなりますよ。

 私が親なら、まあ、子に立ち会わせることはしないだろうな、、、。というか、子に相談する時点で、子には精神的に負担を掛けることになるから、勝手は百も承知で、相談なく実行してしまう気がします。

 日頃は、死ぬまで生きるべし、と思っているけれども、確かにイヴェットのように、将来確実に自律を失うと宣告されたら、自律を失う=死、と解して、その手前で決するのはアリかも知れないと、本作を見て思いました。これは、非常に重い問いかけです。

 4人に1人は認知症になる、といわれる時代で、自分が認知症になったら、ということを考えておかなければならないと強く感じました。私の年齢からすれば、若年性にだってなり得るわけで、今から、どうすべきなのかを考えようと思います。自分が分からなくなる前でないと、自分の“終え方”は決められませんからね、、、。キビシイ現実です。

 それにしても、アランを演じるヴァンサン・ランドンが、私、生理的にダメでした、、、。何か、生理的にダメ、ってしょっちゅう色んな作品で書いているので、少々気が引けるのですが、でも、ダメです、どーしても。

 なので、彼がイヴェットに「死んじまえ!!!」などと、暴言を吐いているシーンは、正直、反吐が出そうでした。(何度も書くけど)私も世界中で30番目くらいに親不孝者ですが、さすがに、親に向かって「死んじまえ」と言ったことはありません(母親には何度も言われましたケド)。一方的に疎遠宣言をしたので、「死んじまえ」と言いながらも親のそばにいるアランの方が、親にしてみれば可愛くて孝行息子なのかも知れませんが、、、にしても、親に限らず、誰かに「死ね」というのは、ちょっと人格を疑います。

 そんなアランと行きずりの関係から恋仲になりかける女性が現れ、2度もラブシーンが描かれるのは、解せません。アランのコイバナなんて、必要ないじゃん? 強いて言えば、その女性に、一度は「言いたくない」と拒絶した今の自分の置かれた状況を正直に「18か月服役して無職の男だ」と話すことで、彼はようやく自分に向き合った、ということにはなるのでしょうか、、、。そんなことは、服役中にしておけ!! と言ってやりたいところですが。

 隣人のおじさんがイイ味出しています。彼の存在が、本作では一服の清涼剤となっています。


自分が自分でなくなる日が必ず来る、と言われたら、どうしますか?




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ゴーン・ガール(2014年)

2014-12-27 | 【こ】



 5回目の結婚記念日の朝、美人で頭の良い妻が消えた、、、が、どうも何かがヘンである。恰好のワイドショーネタとなり、夫はメディアの餌食になるが、、、。

 《本作をまだ見ていない方で今後本作を見る予定のある方は、ネタバレを知らない方が絶対によろしいと思いますので、拙ブログに限らず、あらゆる本作品に関するネタバレ情報には接することなく劇場へ行かれることをお勧めします》

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 以下、ネタバレバレなので、悪しからず。

 結論から言いますと、本作は“ただ見るだけ”の映画です。いや、面白いですよ、見ている間はそれなりに。でも、見た後、何かが心に残る、そういう奥行きのある作品ではない、ということです。だからこそ、ネタバレ、ストーリーは知らずに見るべき作品なのです。キャッチーなコピーは、もうほとんど詐欺に近いです。

 妻であるエイミーの失踪ですが、冒頭からエイミーの意思によるものを匂わせる描写で、夫のニックにはエイミー殺人容疑がかかりますが、観客は全然そんなのに惑わされることはないのです。これは、監督が、そういう意図で作っているのか、あるいは、途中までは本当は観客を惑わせたかったのか、その辺が分かりません。もし、後者だとしたら、完全にその意図は外れてしまっていると思います。

 そして、案の定のエイミーの独白による失踪の真相。意外性は全くなく、ただただ、何でそんなメンドクサイことするの? という疑問に観客の興味は収斂されていきます。

 でもって、その答えが、「エイミーはサイコパス」。、、、え゛~~~っ!!! なにそれ。、、、ガックシ。

 サイコパスなら、何だってアリじゃん。・・・一応、彼女の母親による「完璧なエイミー」像を押し付けるという、いわゆる“母娘葛藤説”がエイミーの人格形成に影響を与えた、という描写がありますが、あんまし意味がないような。だって、サイコパスですよ? 「完璧なエイミー」を演じるために、ニックにあのような半ばギャグとしか思えない不条理を押し付けるなんて、ちょっと説明としてはムリがあり過ぎで、それこそ、サイコパスくらいのパンチがないとダメでしょう。

 本作を見ていて、私は2つの過去の出来事を思い出していました。1つは、「若人あきら失踪事件」。もう1つは、松田聖子と神田正輝の自宅前でのオメデタ会見。「若人あきら失踪事件」の真相など知りませんし興味もありませんが、あの時のメディアの馬鹿騒ぎっぷりが、本作のそれと見事にダブりました。そして、オメデタ会見では、神田正輝が聖子ちゃんの腰を後ろ手でさすりながら(冷え防止のため、だとか、、、)の会見が印象的で、その何とも言えない空気感が見ている者たちをいたたまれなくした感じが、本作の終盤の妊娠会見と、これまた見事にダブりました。どちらも古い話なんで、お若い方はご存じないと思いますが・・・。

 所詮、ワイドショーなんてそんなもん、と思って、どの視聴者も8割引きくらいで見てくれれば良いですけど、世の中の視聴者にはメディアの情報を鵜呑みにしてしまう全くの善人も大勢いらっしゃって、だからこそ、洋の東西を問わず、時代を問わず、似たようなことが起きている訳ですね。

 夫婦の在り方に限らず、一個人、家族、会社、果ては国家であれ、虚像と実像は外からは見分けがつかない、っていう警鐘だと思わなければ、このギャグみたいな不条理なオチは、救いがなさ過ぎます。イメージってのは非常に厄介です。

 というわけで、ネタバレしちゃったら、ほとんどどーでも良い映画であります。こういう作品は、映画としては決して質が良いとは言えません。消費されるだけの作品です。、、、残念。

 さらに残念なのは、妻役のロザムンド・パイクですが熱演で頑張っており、また確かに紛れもない美女なのですが、脱いだ後姿(というか、上半身ですな)が写るシーンがあって、その体がちょっと寸胴といいますかガッチリした感じで、かなり興醒めでした。やはりああいうシーンでの裸身は、細くくびれていてほしい。美女ならばなおのこと。

 余談ですが、ベン・アフレックのあのムキムキのゴツ過ぎる体に、少々、生理的嫌悪感を抱いてしまいました。まあ、凡庸以下の男っていう設定で、そういう意味ではマッチョは合っていたとは思いますが・・・。おお、、、これも、イメージのなせる業だ!!

 いや、それにしてもあの、肩から胸板に掛けて、マッチョ過ぎ、、、。これは、ジェニファー・ガーナーがマイケル・ヴァルタンから鞍替えしたのもムリはない。そりゃ、ベン・アフレックの方が比べ物にならないくらいお似合いです、ゴツ過ぎカップルってことで。



ネタバレ知ってしまえば価値半減の作品。




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戦場のピアニスト(2002年)

2014-12-23 | 【せ】



 第二次大戦下のポーランド、ユダヤ人迫害を必死で逃れ生き延びた、あるピアニストのお話。

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 これは、もう、ポランスキーの執念の大作でしょう。素直に、私は、感動いたしました。ポーランド人が英語しゃべってるとか、演奏の音は吹替えだとか、そんなことはものすごくどーでもよいと思える、圧倒される作品です。

 正直なところ、ホロコーストものは苦手で、というかあまりにも玉石混淆で、いささか食傷気味なため、本作も、ポランスキー作品でありながら、今日に至るまで食指が伸びませんでした。それでも、少し前にBS放映分を録画したのは、何か虫の知らせだったのかも知れません。

 本作の圧倒的なところは、その、淡々とした過不足のない描写でしょう、多分。虐殺シーンが執拗過ぎるというネット上の一部の感想も拝読しましたが、私は全然そうは思いませんでした。むしろ、シュピルマン一家が収容所移送までに追い込まれていく過程が、なんというか、じわじわとさりげなく、それでいて確実に環境が悪化していく様が描かれており、戦慄を覚えます。

 そして、貨物列車への移送に当たり、脇でユダヤ人たちを統制し指図しているのは同じく右腕に腕章をしたユダヤ人です。ユダヤ人の間でも同胞の迫害に加担した者がいたのは誰もが知るところですが、映像で見せられると、衝撃が思のほか強く、正直ショックでした。

 ユダヤ人の有史以来の辿ってきた道を考えれば、彼らが加害の立場にあった時期もあるのに、こと、第二次大戦下における迫害をフォーカスし被害者面ばかりして、、、というネット上でのある書き込みを見たことがありますが、そういう視点でモノを見るのは危険だと恐ろしくなります。誰もが迫害する・される、どちらの側にも、いつでもなり得るのだということを忘れてはならないのではないでしょうか。

 シュピルマンがひたすら逃げるだけの男であることにも、批判がありますが、私は、だからこそ感動しました。想像を絶する極限状態で、彼はとにかく生きたのです。あのワルシャワ蜂起でも彼は傍観者を貫きます。ピアノのある部屋に潜んでも、音を立てるなと言われたら、どんなにピアノを弾きたくても弾く真似をするだけで弾きません。人道上とか、芸術家魂とか、そんなことよりも生存本能が勝った。このことが、何よりも胸に迫るのです。見ていて苦しくなります。そして、ワルシャワ蜂起で亡くなった同胞にさえ、彼は無駄死にという言葉を吐くのです。義を通したところで死んでどうなる!!という強い思いではないでしょうか。それのどこが批判されなければならないのか、理解に苦しみます。

 そして、ドイツ人将校に見つかるシーン。その描写がまた素晴らしい。シュピルマンがやっと見つけた食料の入った缶詰を開け損ねて落とし、転がる缶詰から汁がこぼれ出る。その脇には男の靴をはいた足が。カメラが足元から上がっていくと、そこには将校が立っている。ポランスキー、さすがです。

 再び胸に迫るのは、彼の前でピアノを弾くシーン。ここへきて、前半の描写が、なるほど全てはこのシーンのためであると、納得させられるのです。

 ただ、このときにシュピルマンが弾くのはショパンのバラード1番。史実では夜想曲20番だったのを敢えてバラード1番にしたからには、バラード1番の最高の聴かせどころを演出にするのだろうと思いきや、そこはなんとカット、、、。だったら、夜想曲20番にした方が良かったのでは。ポランスキーの意図やいかに。

 ピアノ曲については、シュピルマンが潜伏しているときに、どこからか漏れ聞こえてくるのはドイツの誇るベートーベンです。この辺も演出としてニクいというか、なるほどというか。

 数々の周囲の犠牲の上に、シュピルマンの生還はあります。その犠牲へのシュピルマンの思いが感じられない、という批判も目にしましたが、私はそれは違うと思います。彼が犠牲になった家族や友人知人、果ては自分を援助してくれたドイツ人将校のことを思わないはずはありません。それを画にしてしまえば、映画としては非常に陳腐になり下がります。まさしく、ハリウッド的なオチの付け方で。

 だから、「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」を演奏会で華やかに弾ききる、あのラストシーンで正解だと思うのです。ポーランドを舞台にしたピアニストの映画で、ショパンがラストシーンでなくてどーする!

 余談ですが、「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」のオケ協奏版は、レコーディングも多くないのですが、仲道郁代さん&ワルシャワフィルの演奏CDはなかなか素晴らしいです。それまでピアノ版しか聴いたことがなかったのですが、曲のイメージがガラリと変わりました。本作のラストに選んだポランスキーのセンスに拍手です。



こんなに胸を打たれた作品は久しぶり。




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25年目のキス(1999年)

2014-12-21 | マイケル・ヴァルタン



 25歳でキス未経験のダサい女性記者が、ハイスクールに潜入取材することに。自らの苦く暗いハイスクール時代の記憶を上書きすべく、“女子高生”として脱皮していく彼女は、心からキスしたいと思う教師と出会い、、、

 ま、するんですよ、キスを。

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 またまた、ヴァルタン目当てで見たわけですが、これ、アメリカでも結構ヒットした作品らしいですねぇ。、、、これが? って感じもしますが、まあ、軽く楽しめる作品であることに違いはないです。

 しかし、25歳までキスしたことがないって、そんなに特別なことですかね。というか、アメリカみたいな“キス文化”の中では、まあ、確かに貴重な存在なのか。だからこそ、心からのキスが大事な訳だよね、きっと。日本じゃ挨拶代りのキス、なんて、即セクハラだもんね。つくづくアメリカ人じゃなくてよかったと思いますねぇ、こういうキス文化を目の当たりにすると。

 それはさておき・・・。

 高校時代なんて、もう30年前の話なんで記憶も薄れていますが、私のいた高校では、あまり派手グループとか地味グループとかなかった気がします。田舎の公立の進学校で、みんな、基本的にダサダサだったし、まぁ、ちょっとカワイイ女のコに男子が、逆にちょっとカッコイイ男子に女子がそれぞれ、わーわー騒いではいましたが・・・。私自身が(一応仲の良い友人は数人いたけど)マイペース過ぎで、そういうことに気が付いていなかっただけなのかしらん。

 もし、自分が25歳くらいの時に、もう一度高校生をやることになったら・・・。私なら何をしたいかなぁ、と考えてみたんだけれど、思い浮かばない、、、。多分、私がジョジーなら、本来の任務に専念しますね。ジョジーの様に、上書きしたいほど苦い記憶もないし、そもそも、あんまし思い入れがない気がします、高校時代の自分に。

 そういう意味では、彼女は、ハイスクール時代の自分に対し“アタシはこんなもんじゃない!!!”っていう、もの凄い高い自己評価をしているのではないかな、と最初は思いましたが、あんな惨めな思いをさせられたら、やっぱりその記憶を払しょくしたくなるのもムリないことで、私は平和な高校時代を過ごせていたのだと思い直しました。

 私がジョジーなら、本来の任務に専念すると書いたけれど、いやいや、教師の中にヴァルタンがいたら、到底専念なんかできませんね。任務どころじゃありません、、、。

 本当に、ヴァルタンは美しい。本作とは関係ないけど、何でこんなに美しい男性が、ジェニファー・ガーナーと・・・? ってまあ、彼女も不細工とはいいませんが、すごいゴツいし、お世辞にも“美人”の範疇に入る女優さんではないと思うのですが。別に、美男が美女を選ばなければならないというルールはないので、彼が彼女を好きになったのは構わないけど、どうも雰囲気が違い過ぎるというか、、、。破局したのも当然の成り行き、という気がします。

 やっぱり、ステキなというか、仲の良いというか、そういうカップルは、雰囲気が似ていると思うのですね。夫婦でもそうでしょう。ヴァルタンとジェニファー、どう見ても、雰囲気が異次元の二人です。

 そういう意味では、本作でのサムを演じるヴァルタンと、ジョジーのドリュー・バリモアの方が、まだ似合いの二人です。ドリュー・バリモアは『エバー・アフター』でも感じたけれど、すごい美人でもスタイル抜群でもないけれど、とてもチャーミングで可愛いです。ヴァルタンには、こういう可愛らしい女性の方が合うような気がするのよね~。

 2人が観覧車に乗るシーンがイイです。サムが言います「男がいつか大人になるなんてウソだ。永久にガキのままの奴もいる」と。そして、ジョジーに「君が大人になったら、男が鈴なりになって申し込んでくるよ」とも。ジョジーが「先生だからそんなこと言ったのでしょう」というと、サムはこう返します「先生だからこそ言ってはいけなかった」・・・もうこれで2人はキマりです。会話だけだけれども、サイコーのラブシーンではないでしょうか。ラストシーンなどおまけみたいなもんです。

 ま、ヴァルタンの出演作の中で、彼を堪能するにはなかなか良い作品でした。



心から愛する人と心からのキス、したことありますか?




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ビッグ・アメリカン(1976年)

2014-12-18 | 【ひ】



 西部開拓時代の終わった19世紀末、アメリカに実在したバッファロー・ビルのお話。アルトマン独特の皮肉に満ち満ちた作品だけど、大コケしたのも納得の珍品。


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 本作を、地上波各局が衆院選の選挙速報に占拠されているのを尻目に見ました。、、、そのタイミングで本作を見たのは、最早、因縁としか思えませぬ。

 何しろ、オープニングから「アルトマンが送る超大作!」なんて出てくるんだからね、こっちもそのつもりにはならないけど、何が出てくるのか、と思っちゃう。で、蓋を開けてみたら、アルトマン節炸裂で、バッファロー・ビルをこれでもか、と貶める。

 おまけに、描写がいつもに輪を掛けてグダグダなので、かなり退屈。まあでも、それは、ポール・ニューマンの男っぷりで凌げるけれど。

 ちなみに、バッファロー・ビルは、開拓時代の終わった中で、まさに白人にとっては“古き良き時代”を懐古するべく西部劇ショーの劇団を立ち上げ各地を巡業しているお方。当然、彼はショーでも美味しいとこどりの役回りばかりなわけ。そのシナリオを書いたのが作家のネッド(バート・ランカスター)で、バッファロー・ビルは、ネッドに仕立て上げられたショーの中での英雄という次第。

 でっかいバッファロー・ビルの肖像画が掛かっているのね、彼の部屋に。馬に乗っていて、カッコイイの。でも彼はラスト近くで自分で言うんです。「馬に乗ってなきゃ、ちっちぇえ男だ」って。もうこれが本作の全てでしょう。アルトマンが言いたかったのはこれです。

 西部劇ショーでは、バッファロー・ビルはもちろん英雄を“演じて”いるのですね。というか、演じさせられているんだよね、途中からは。つまり、そういう役を演じてビッグに見えれば、観客から盛大な拍手をもらえるわけです。バッファロー・ビルが誰だとか、彼がどんな奴だとか、関係ねーの。

 で、本作を見終わって選挙速報に戻ると、まさに、現在の日本のバッファロー・ビルのインタビュー真っ最中。げげっ。

 彼は、演じている、演じざるを得ないのだよなぁ、彼を。その昔、ある人が言ってましたものね。「神輿は軽い方が良い」って。担がれるボスはおつむ空っぽの方が、担いでる側はやりたいほーだいで楽だって、そりゃそーだろうけど、あんまりにも直截的な表現過ぎでエゲツナイことこの上ない、、、。

 そう思って見ると、なんかちょっと痛々しいよね。本作のバッファロー・ビルも自分の言いなりにならない、思い通りに動かないシッティング・ブルにキレてたんだけど、こっちの彼もキレてました、自分を批判する人たちに。彼も、本作を見た方が良いんじゃないかなぁ。・・・ま、見ても意図が分かんないだろうけど。

 少なくとも、バッファロー・ビルはポール・ニューマンでめちゃめちゃ男前だしカッコイイし、なにより彼は自分の空っぽさを分かっていただけ、悲哀もあるけど救いもあるわけで。こっちの彼は、救いなさそうだもんね。

 ま、国民の質に比例した政治家しか出てこない、とはよく言われるし真理だと思うので、まさしく、あれらの醜態が今の日本の民度を象徴するものだったのでしょう。、、、ごーん。



ハリボテの英雄のお話。哀しくもあり、滑稽でもあり。




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フォー・ウェディング(1994年)

2014-12-10 | 【ふ】



 結婚したいわけじゃないが、ずっと独身ってのもなぁ、、、というありがちな思いを抱いていた男チャールズが結婚に踏み切り、そして、自分の結婚式で自分の結婚をぶち壊すまでの顛末。

 ・・・まぁ、ちょっと違うけど、『ブリジット・ジョーンズの日記』の男性版ってとこでしょーか。「結婚」がメインディッシュってのが。

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 主人公が女性で結婚に悩む話は星の数ほどありますが、これはその男性バージョン。正直、あんまし面白くなかったです。

 大体、男性がずっと独身でいると、どーして「ゲイ」が必ずキーワードに出てくるんでしょうか? これ、お約束ですけど、いい加減ウンザリします。

 ・・・と思って見ていたら、なんと、ずっと独身の女性フィオナ(クリスティン・スコット・トーマス)に対して、あるお婆さんが言うのです、「あなた、レズビアン?」 って、、、。フィオナは唖然としておりました。あんましこういう展開って現実でもありませんものね。男は結婚しないとゲイとほぼ100%言われますが、女性の場合は、むしろ珍しいのでは、そんなこと言われるなんて。

 と書いていて思い出したのですが、若い頃、見合い話を頑なに断る私に向かって、母親が言ったんでした。「あんた、もしかしてレズビアンなん?」 ・・・そうでした、私自身が、しかも母親に言われていたのだった!!! ごーん、、、

 ま、そんなことはどーでも良いのですが。

 本作のつまらなさの要因の一つは、恐らく、アンディ・マクドウェル演じるアメリカ女性キャリーの魅力が薄いからでしょう。悪女の設定だけど、佇まいは、なんというか、割とフツーな感じで。見た目もまあキレイではありますが、目を見張るほど、チャールズが一目で心奪われるほどのオーラを放ってはいないのですね。なので、ただの「イヤな女」になっちゃっているのです。これはダメでしょう。

 個人的に、チャールズには最後フィオナを選んでほしかったなぁ。男ってどーして本物の「イイ女」が分からないんですかね。

 キャリーが悪女、ってことだけど、それは恐らく、彼女がチャールズと出会ったその日に寝ちゃったり、かなりの年上男性と婚約した後もチャールズと寝ちゃったり、結婚式にチャールズを呼んで当てつけたり、チャールズの結婚式の直前に離婚したことを打ち明けたり、、、しているからでしょうねぇ。

 でも、これくらい、悪女でなくてもある話じゃないでしょーか? キャリーがおじさまと婚約したその心理が分からないけれど、「愛している」と彼女は言っていたが、本当はそうじゃなかったんでしょう、恐らく。何か、結婚に踏み切らざるを得ない彼女なりの事情があったのだと思います。だから、チャールズと寝た。だから、結局離婚した。、、、悪女じゃないよ、別に。

 その辺をもう少し丁寧に描いていれば、もうちょっと見所があったかも。でもこれは、男が結婚に悩む、というところをフォーカスする映画だから省略されちゃったんでしょうね。

 でもって、それがつまらないもう一つの要因で、本作は、とにかく人物の背景がゼンゼン描かれていないので、いろんな事情が全く分からないのですね。それでも、何とかストーリーにはなっているところが逆にスゴイけれども、凄く薄っぺらいです。チャールズが何でそこまで結婚に後ろ向きなのか、という一番のキモが抜けているんです。

 そこは、ヒュー・グラントのあのルックス&キャラで説明させちゃってる、ってことなんでしょうかね。ヤサ男のおこちゃま、ってことで。

 本作は、大昔に見ているはずなんだけど、まったく記憶になくて、大分前にBSで録画したのをようやっと見た次第。終盤、キャリーがずぶ濡れでチャールズを訪ねてきたシーンだけは覚えていたので、やはり見ていたのでしょう、前に。

 エンドロールで、フィオナとチャールズ皇太子が結婚した(もちろん合成)写真が出てきて噴き出しました。こういうのって、イギリス人は笑えるんでしょうか。本作のチャールズと、皇太子のやっていることがほとんど同じ、ってのも、皮肉もいいとこ。日本でやったら、宮内庁に待ったかけられるだろうなぁ、多分。




結婚に悩む人のお話、、、の男性版。




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2番目に幸せなこと(2000年)

2014-12-08 | マイケル・ヴァルタン



 失恋したアラフォー女とゲイの男の間にハプニングで子どもが出来てしまい・・・。ラジー賞候補にもなったみたいだけど、そんなに悪くないでしょ、これ。前半と後半で雰囲気がガラリと変わる、一粒で2つの味わいのある作品。

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 またヴァルタン目当てで見ました。中身についての予備知識は全くナシでして、、、。

 それが良かったのか、まぁ面白かったと思います。ヴァルタンの演じるケヴィンはなんだかなぁ、って感じでしたけれど。それは別に良いのです。あの美顔を拝みたいだけなんで。

 さて、素朴な疑問として、いくら酔っぱらっていたからと言って、ゲイの男性は女性とセックスできちゃうものなんですかね? バイセクシャルじゃなくて、ゲイですよ? 私(女)はお酒あんまし飲めませんけど、仮に酔っぱらっても、女性とセックスの真似事は絶対にできません。相手の女性がレズビアンでしつこく迫られたら、、、100%自信ありますね、拒絶する。

 でもまあ、これは映画だし、そういうこともあるのか!? くらいで、とりあえずスルーしました。

 本作の見どころは、やっぱり後半でしょう。マドンナ演ずるところのアビーにベンという恋人ができ、その人と結婚する、という話になってから、アビーとゲイのロバート、2人の息子のサムという3人の関係が変わってしまう。おまけに、我が子だと信じていたサムが、アビーの元彼(ケヴィンね)の子だと判明したり、それでもサムを手放せないロバートが親権を求めて裁判起こしたりと、一気にシリアスモードになるのです。

 正直、結構泣けました。サムの気持ちを考えるとね、たまりませんよ、これは。6歳になるまでパパと信じていた人が実は本当のパパじゃないなんて言われてもね・・・。

 結局、本作は、大人のエゴを描いているのです。アビーは恋人ベンが現れるまでは確かに良い母親だったし、ベンと婚約した後も良い母親だったのだけれど、自分の幸せも手に入れたいと欲した以上、振り回されるのはどうしたって親しか頼る存在がない幼い息子です。

 アビーを自己チュー女と責める人もいるだろうけど、それは違うと思う。シングルマザーだって幸せを求めて良いに決まってる。

 でも、アビーは大きな間違いを犯したと思います。それは、サムを連れてロバートがいない間に家を出てしまったこと。こんなことされたら、誰だって感情的になりますよ。

 アビーは焦っていたのでしょうねぇ。ベンが一人でNYに帰っちゃって結婚がご破算になるのが怖かったんだと思います。その気持ちも分かるけれど、やはりロバートの気持ちも大切にするべきでした。そうすれば、裁判という最悪の泥仕合を防げたかも知れないのですからね。

 両親が裁判で争っているなんて、息子にしてみたら胸が張り裂けそうでしょ、きっと。挙句、あったこともない実父が親権を主張し出したりして・・・。ケヴィンが法廷に入ってきたシーンは、正直引きました。いや、ヴァルタンの顔は食い入るように見ていたんだけど、、、。

 私には子どもはいませんが、選択的に子どもを持ちませんでした。まあ、実の両親にそのことを聞くに堪えない下品な言葉で罵られたことはあるものの、世間の風当たりは間接的にはそれなりにあるという程度で済んでいます。確かに、子どもを持たない、次世代を残さない、そのための努力をしない、エネルギーもお金も費やさない、非生産的という指摘はその通りだし、犠牲的精神の欠けたエゴ丸出し人間、と言われてもその通りですとしか言いようがないですし。

 しかし、子どもを持つことがエゴじゃないと、どーして言えるのか、これが不思議です。親たちは、子どもに頼まれたわけでもなく、自分たちが欲して(とは限らないかもだけど)「勝手に」産んでいるのであって、その行為のどこがエゴじゃないのでしょうか。世のため国のために産みました、なんて人が一体いかほどいらっしゃるのか。仮に世のため国のためであっても、産み落とされた子にとっては与り知らぬ話でして。

 本作でも、アビーとロバートは互いの傷を癒すかのように酔った勢いで欲望のままに行動し、サムはその結果ではないけれども、アビーとケヴィンという冷え切った関係のセックスで出来た子どもで、2人の間に子づくりの合意さえなかったという、、、まさにエゴの結果。

 が、産んだ以上、子どもが最優先にならざるを得ないわけで、だからこそ、親が自分自身のために人生を歩もうとすると、子にしわ寄せが行くわけで、でもそれは決して全部が悪いことではなく、母親なんだから子のためにひたすら我慢して犠牲的に生きる必要なんてないわけで。

 子は、しわ寄せを喰らっても、親の真摯な生き様と愛情を感じられれば、乗り越えていけますよ。他力本願な生き方をしている親に、「あなたのために何もかも私は我慢してきたのよ」などと言われ続ける方が、比べ物にならないくらいキツイし腹立たしいですね。

 結局、人が一人生きていくってことは、いろいろ周囲との軋轢を生み、それをいろんなやり方で解消し、、、ってことを繰り返していくようなものなのではないかしらん。誰も傷付けず生きていくことなんて出来ませんからね、絶対に。

 本作の監督さんは、あの『日曜日は別れの時』の方なのですねぇ。あれもゲイ映画。もしやこの監督さんも・・・? と思ったら、その通りのようですね。やはり、セクシャルマイノリティの人にとっては、生きにくい世の中なのでしょうね・・・。想像しかできませんが。

 マドンナの演技はそれほどヒドいとは思いませんでしたが。作品も。なぜにラジー賞候補? 確かに、素晴らしい作品とまでは言わないけど、悪くないと思いますよ。単にマドンナが嫌いなだけじゃないの?


前半はコミカル、後半はシリアス、な作品。




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