映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

フォックスキャッチャー(2014年)

2015-03-30 | 【ふ】



 世界屈指の財閥デュポン家の御曹司(?)ジョン・デュポンから、唐突にサポートの申し出を受けたロス五輪金メダリストのレスリング選手マーク・シュルツ。イマイチ、その申し出の本意を量りかねるが願ってもいないお話に、マークは乗る。しかし、同じく五輪金メダリストである兄のデイヴは乗らない。デュポンの狙いはディヴだったのだが、、、。

 ジョン・デュポンは“フォックスキャッチャー”と名付けたドリームチームを結成し、専用の練習環境を用意しマークをサポートする。が、やはりデイヴを諦められないジョン。マークとの関係も程なく悪化する。

 ジョンの熱心な誘いに折れたデイヴは、フォックスキャッチャーに参加する。が、久しぶりにマークを一目見て、異常に気付く。明らかに、ジョンとの間に何かあったのだと。

 、、、あとは、ジョンの勝手な思い込みによる男の三角関係(?)が暴走し、悲劇的結末へ。

 マッチョ男の絡み合う、男だけの恋愛映画(と見た)。、、、ビジュアル的に、かなりキツイ。  
  

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜

 
 マークがジョン・デュポンと、夜中(だと思う)に延々と2人きりでスパーリングするシーンがあるんだけど、もう、これ、ハッキリ言って、セックスシーンじゃん! と、思わず途中で目を背けました。

 そーしたら、帰宅後パンフを読んでビックリ。町山智浩氏が、まさしく「ほとんどセックスだろ!」と書いていて、やっぱ、そーかぁ、アタシだけじゃないんだ、そう思ったの、、、とホッとしました。

 ・・・というくらい、この作品は、男の男への熱い思いに溢れており、いささか引いてしまいました。別にゲイを否定する気はないし、決して直截な描写じゃないけど、それだけにかなり露骨な婉曲表現で、胸が悪くなりました。

 我がパートナー氏であるMr.P改めマルコ(、、、Mr.Pって、ちょっとセンスなさ過ぎなのと、キーを打つのがメンドクサイのでこのブログ上での名前を「マルコ」と、勝手につけることにしました。由来は大したことなくて、私の三大好きな映画の1つである『アンダーグラウンド』のイカレた主役の名前、というだけです。外見からイメージする感じは全然マルコじゃないけど、マルちゃんとか、呼びやすそうでいいかなと。本人はそんな風に書かれているとはもちろん知りません。当ブログの存在さえ知りません)は、子どもの頃から、空手をやっていたんだけれども、その前に、ちょっとだけ親に柔道教室に通わされたんだとか。

 で、柔道教室で初めて寝技を掛けられたマルコは、相手の股間が顔にギューギュー押し付けられて(もちろん相手は真剣勝負しているんですが)、かといって、手で押しのける訳にもいかず、もう気持ち悪くてどーしよーもなくて、早々にタップしたんだとか。小学3年生か4年生だったらしいけど、これがトラウマになって、格闘技は打撃系しか受け付けなくなり、空手を始めたらしい。

 だから、彼にとっては、レスリングなんてもってのほかなわけで、五輪中継とかで、柔道はまだ見られるけど、レスリングは気持ち悪いとかって見たがらないのよね。まぁ、確かに、私もレスリングはあんまりビジュアル的に好きになれない種目です(レスリング愛好者の方、すみません)。

 本作中でも、ジョンのお母さんが、レスリングを「下品なスポーツ」と決め付け、ジョンもろとも激しく拒絶するのだが、まあ、そこまでじゃないにしても、お母さんがレスリングを受け入れられなかったのも、ちょっとだけ分かってしまう、私には。

 格闘技と言う意味では、レスリングはもしかしたら最強かも知れない。少なくとも(今の五輪競技としての)柔道なんかより、ゼンゼン強いだろうと思う。しかし、そのプレイスタイルは、、、、。

 ここで、私はふと思ったのです。そもそも、ジョンはどうしてレスリングが好きになったのだろう、と。そういう描写は全くなかったので分からないし、想像もつかない・・・。どこに魅力を感じたのかしらん。彼のゲイという性癖がなにか関係しているのかも、というのは邪推かしら。

 とまあ、レスリング談義はともかく、本作についての本題です。

 本作は、冒頭では男だけの恋愛映画、なんて書いたけれども、実際は、ジョンのマザコン映画、と言った方が正確かも知れません。ジョンは、物質的には何不自由ない身分だけれども、それが余計に、精神的な孤立感を際立たせ、彼が孤独を痛いほど感じてしまう環境だったのです。何より、一番、無条件に愛してくれるはずの母親に、拒絶されるのですからね。これは、彼の人格形成に、とんでもない影を落として当然です。

 母親は、どうしてジョンを愛せ(さ?)なかったのでしょうか。これも、本作での描写はありません。ジョンが幼いころ両親が離婚しているようですが、、、。私の勝手な想像だけれど、どうも、ジョンという子は、大人に愛されにくい子だったんじゃないか、という気がするんです。本作でのジョンはものすごく無表情で能面みたいな顔をしているんだけど、それは母親に愛されなかったから結果としてそうなったのかも知れないけれど、幼いころから、こういうツルッとした血の通っていない感じの、なんというか、可愛げを感じられない子だったのではないだろうか、と。それでも、大抵の母親は、我が子を可愛いと思うのだろうけど、そうじゃない母親がいても不思議じゃない。

 これは、最近、篠田節子の小説「青らむ空のうつろのかなたに」を読んだから、余計にそう思うのかも。ここに出てくる少年は、もう、理屈ではなく母親に愛されない子、なのです。こういう子、確かにいるんだろうな、と思ってしまう。ジョンもそうだったんじゃないか、と。

 でも、子どもに罪はないのです。そういう子に生まれてしまったのであって、自分の意思でそういう子として生まれてきた訳じゃない。なのに、親に理屈抜きで拒絶される。こんな悲しいことってあるでしょうか。生まれてきたことで疎まれるだなんて。

 ジョンは、結局、誰からも愛されず、誰からも必要とされず、孤独の淵を彷徨い続け、絶望を受け入れることができずに罪を犯してしまったわけだけど、彼がフォックスキャッチャーを興したのだって、詰まる所は、自分が必要とされていることを実感したかったのであって、生涯、愛情を渇望し続けた人生だったんだろうと容易に想像がつきます。渇望が激しいからこそ、絶望の底も深い。嗚呼、、、

 デイヴが、本当にイイお兄さんなんです。人間的にも非常にノーマル。片や、マークは脳みそも筋肉系、寡黙。マークとジョンが険悪になった直接の理由は、映画ではマークがジョンに練習方針等で逆らったから、みたいに描かれていたけれど、実際はマークがジョンに迫られ、それをマークが拒絶したからだ、ということらしい。なるほど、すごい納得。

 本作は、映画としては、とても素晴らしいです。セリフでいちいち説明しない。回想シーンで説明しない。全て、時系列で話は進み、きちんと余白を残した演出と構成がされていて、見る者を想像の世界へと誘ってくれます。とても重いテーマですが、キッチリ最後まで観客の心を掴んでくれています。鑑賞後感は、、、まあ、悪いですが。

 ジョンはどうしてああいう行動に出てしまったんだろう、としばらく考えましたが、答えは出ませんでしたが、ぼんやりと、絶望を絶望と認めたくなかったんだろうな、そしてターゲットがデイヴになった理由は、デイヴが自分が人生を通して渇望してきたもの全てを手にしている男だったからかな、と。だからマークじゃなかったんだろうな、と。

 あと、1つだけ疑問だったのが、マークがジョンにそそのかされてコカインをやってしまっていたんだけど、ああいうのって、ドーピングで引っ掛からないんですかね? 常習でなければ大丈夫なのでしょーか? 謎です。
  





いろんな意味で、もう一度見たいとは思えない佳作。




  ★★ランキング参加中★★
クリックしていただけると嬉しいです♪
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸川乱歩の陰獣(1977年)

2015-03-23 | 【え】



 博物館で見かけた美女・小山田静子と、偶然、街中で再会した探偵小説家・寒川は、静子から深刻な相談を受けることに。それは、寒川が軽蔑している同業の探偵小説家・大江春泥なる男に静子が脅迫されている、というものだった。

 静子にイカレてしまった寒川は、一件を解決すると請け合うが、、、、。

 江戸川乱歩の「陰獣」原作の映画化。ま、雰囲気は良いんじゃないかしらん。
  

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜

 
 原作は何度か読んでいるけれども、最後に読んだのは一体いつか思い出せないほど遠い昔で、当然、話の内容も漠然としか記憶にない・・・。そこで、数年前(いや10年以上前か)光文社が凄い頑張って出した「江戸川乱歩全集」の第3巻「陰獣」(この巻の初版は2005年でした)を引っ張り出してきて読んでみようと思ったんだけれど、そう、この全集には、著者による自作解説ってのが、しかもあちこちに掲載されたものをできるだけかき集めて載せてくれていて、そっちを読んでみました。

 乱歩自身は、大江春泥が自分、寒川は、甲賀三郎をモデルにしたらしい。そこで乱歩が面白いのは、自分が女だったらどうなんだ? という発想でもってこの話を展開させたところですね。静子と寒川の濃厚絡みシーンもある本作、乱歩自身、自作解説で別に甲賀三郎に同性愛など感じたことはない、と、くどくど書いております。まあ、乱歩にゲイの気はないと、私は思っているけれど、こればっかりはねぇ、分かりません。どっちでも良いし。

 でもって、本作ですが、原作のどことなく妖しい感じというのは、まあまあ出ているのではないでしょうか。雰囲気はなかなかです。静子を演じる香山美子は、当然ながら素晴らしい美女な上、匂い立つような色気。ありゃ、寒川じゃなくても男ならちょっとクラッと来るでしょう。

 割と、原作に忠実に作られているっぽいですが、後半は倒錯世界が全開です。前半、かろうじて保っていた品性のバランスが、雨の降る中、寒川が大江春泥の正体を推理し静子に聴かせるシーン以降、一気に雰囲気が変わり、倒錯というか、はじけちゃった感じですね。ま、私はこういうの大好物なんで、十分楽しみましたけれど。

 香山さん演じる静子も、最初は遠慮がちに寒川と絡んでいるのですが、後半はもう、まさしくSMショーで。官能的なんかでは全くなく、香山さんの色気も吹っ飛び、もうただ苦笑するしかないというか、、、。ま、原作の静子がそういうキャラなんですが。ある意味、香山さんだから見れる作品に仕上がったのだとも感じます。色気はあるけれど、あんまし生々しくない、というかね。裸体も凄くキレイではあるけれど、そんなにグラマーでもないし。

 あおい輝彦がね、ちょっと香山さんに対しては力量不足ですね。完全に負けています。若いのでそれなりにカッコイイですが、、、。どうも知性と色気が足りん。

 ま、乱歩好きとしては、映像化された乱歩作品ってのは、正直、見るのが勇気いるんですよね。昔、土曜ワイド劇場でやっていた「美女シリーズ」くらいぶっ飛んでくれていれば、見ている方も割り切れるので、それはそれで面白いんですが、ヘンに狙った映画とか、もういたたまれなくて見てらんない、って作品、ありますもんね。あとは、ただただ下劣なグロとかね。どれとは書きませんが。

 乱歩の作品は、探偵小説(推理小説)なのに結構、穴が多くて、読み終わって釈然としないものは少なくないし、「陰獣」も原作は確かそうだったと思うけれども、本作でももちろん、野際陽子は何だったんだよ、とか、小山田六郎の死体をどうやって運んだんだよ、とか、粗がありまくりですけれども、まあ、そんなことどーでもいいよね、この作品はさ! と思えるのが、乱歩モノの特徴もあります。

 とかグダグダ書いていたら「美女シリーズ」を見たくなってきてしまった。「氷柱の美女」だけは、数年前に再見したんだけれども、子どもの頃テレビで見た時は結構怖かったのに、大人になってみると、いや~、さすが土ワイです。よくぞやってくれました、と拍手を送りたい気持ちになりました。他の作品も、親には見るなと言われながらも盗み見していたので結構記憶にありまして、是非、再見してみたいものです。ツタヤで借りられるみたいだから、見てみよう!




倒錯世界の描写は、50点くらいかなぁ。
でも、美しい香山さんは一見の価値あり。




  ★★ランキング参加中★★
クリックしていただけると嬉しいです♪
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラ・ピラート(1984年)

2015-03-17 | 【ら】



 人妻アルマは、夫との関係は事実上破たんしており、以前から関係のあった女性キャロルとの三角関係に陥っている。そこへ、夫にアルマを連れ戻すよう依頼を受けた男“ナンバー5”が加わり、さらに、謎の少女も加わり、あり得ない五角関係(?)に、、、。

 ジェーン・バーキンの痩身ヌードがイタい、、、。
  

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜

 
 ドワイヨンって名前は聞いたことあったけれど、ほとんど何も知りませんでした。ただ、十何年ぶりだか何十年ぶりだかの日本で新作『ラブバトル』が公開されるというのがちょっとしたニュースになっているようで、それほど見てみたい~! とそそられる感じでもないんだけれども、公開期間が短いみたいで、そうすると、何だか見ておかないともったいないような気持ちにさせられて、今、見に行こうかどうしようか、迷っているところであります。

 まあ、とりあえず、そのドワイヨンたらの作品を1つでも見てみようじゃないの、と思ったけれども、私はあんまりおフランスものが得意じゃないので、これまた躊躇したんだけれども、時間が90分に満たない短さなんで、意を決して(ってほどのことか、と自分でも思うが)見てみた次第です。

 、、、まあ、なんというか、これは、私の理解を超えたところにある世界のオハナシという感じもしますが、よくよく考えると、単なる三角関係の泥沼ラブストーリーと言っちゃっても良いのかも。・・・え? 読みが浅い? はい、そーでしょうとも、浅くて結構。

 だってねぇ、私は、アルマみたいな人間が、正直キライなんですよ。本作の解説を見ると、アルマは誰からも愛されてしまう女性で、それゆえ、アルマ自身は誰も愛せない女性なのである、だそーな。こういう人って、現実にいるんですかねえ。、、、ま、いるんでしょうねぇ、私の周囲にいないだけで。いるかも知れないけど、私が気付いていないだけかも知れませんが。

 これは、私の勝手な持論ですが、愛される人間は、愛することのできる人間だと思うわけ。なので、人を愛せない人間が、人から愛されて仕方がない、ということって、あり得ないと思うんですよ。

 事実、アルマの夫も、“ナンバー5”も、アルマを愛しているとは思えないよね。特に夫は、ただ彼女に執着しているだけ。それを愛という人もいるだろうけど、私はそうは思わないのだ。

 そもそも、愛する、ってどういうことなんでしょーか。ま、ここでいう愛は、恋愛、つまりエロスを伴うものです。

 好きだとか、寝たいだとか、そういうのは愛じゃないでしょう。それは、ただの恋心、性欲、ですね。愛ってのは、結局、そういう恋心とか性欲とかをさんざん消費した後に、ようやく見えてくる、到達できそうな心境のような気がするのです。つまり、動物だった2人が、人間同士になってふと気づく気持ち、とでも言いましょうか。

 割とぼんやりしたもので、感触はないんだけれども、肌で感じている温かみ、みたいな、、、。いや、物理的に常にくっついているという意味ではもちろんなく、その人がこの世にいると分かっているから、自分がここに存在していられる、みたいな感覚ですかねぇ、、、。何のことやら分かりませんか? すみません。

 少なくとも、相手を独占しようとすることが愛ではない、ということだけは力説しておきたいかな。手放す愛も、近づかない愛もあるってこと。そういう意味では、キャロルは、強いて言えば、まだしもアルマを愛していたと言えるかもですね。

 でもまあ、アルマとキャロルも、まだまだ動物レベルですから、この2人は愛し合っているのとは違うよね。求め合っているだけ、欲の赴くままに。特に、アルマなんか、肉欲なのか、孤独を埋め合わせたいだけなのか、どっちもなのか、もはや、相手がキャロルである必要性すら疑問。キレイな男でも良かったんじゃない?

 ちなみに、2人のラブシーンは、ゼンゼン美しくありません。キャロルを演じるマルーシュカ・デートメルスは素敵ですよ、美しいですしセクシーです。問題は、ジェーン・バーキンです。首から下だけ見ていると、張りと艶のなくなった少年のような体で、視覚的にイヤです。かと言って、男性の体とはやはり明らかに違う。なんというか、ちょっと病的な感じのする裸身に、思わず眉間に皺が寄りました。

 あっちでもこっちでも愛されちゃって、アタシ、どーすればよいのよぉぉぉっ!!って感じでしょうかね、ジェーン・バーキン演じるアルマは。とにかく、本作の登場人物は、誰も、誰をも愛していないと言えましょう。自己愛の強い輩が、勝手にくんずほずれつしているだけのようにしか、私には見えませんでした。

 カンヌじゃ大不評だったようですが。おフランスでは大好評だったとか。フランス人ってこういう作品の、どこに共感しているんですかね。正直、是非、聞いてみたいです。愛=性欲、ってのは、陳腐すぎやしませんかね。それとも、私の見方が単純化しすぎなんですかね。まあ、それでも良いですが。この作品の深みとか教えてもらっても、納得できる自信もないし。

 『ラブバトル』、どーすっかなぁ。また、愛=性欲、だったら、腹立つなぁ。でも、見てみないと分かんないもんなぁ。うーん、、、。

  



ドワイヨンでドヨ~~ン




  ★★ランキング参加中★★
クリックしていただけると嬉しいです♪
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ツレがうつになりまして。(2011年)

2015-03-12 | 【つ】



 真面目な夫ミキオは、その真面目さゆえ、サポートセンター勤めという仕事も祟ってうつ病に。夫をツレと呼ぶハルコは、ツレがそんな病気になっていたとは知らず、妻として気付けなかったことをツレに謝り、仕事を辞めるようツレを諭す。

 伴侶のうつ病に向き合って支え合う、夫婦の成長物語。
  

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜

 
 原作未読。NHKのドラマは初回だけ見て挫折(どうも、私は藤原紀香の演技がダメらしい、、、)。で、映画版は、BSで正月明けにオンエアしていたのを録画してあったので、見てみました。

 、、、ま、うつ病の修羅場はこんなもんじゃないだろう、ということは、うつ病患者を身近に知らない私でも容易に想像がつくので、そういう意味では、若干「キレイごとに過ぎる」気はします。が、これはこれで良いと思いました。そもそも、本作の趣旨は「うつ病の実態を描く」とは違い、うつ病を通して「夫婦を描く」なんでしょう。だから、うつ病に関する描写はこれで十分な気がします。

 とはいえ、、、いや、だから、かも知れないけれど、映画としての深みはあんましないですね。泣けるところもあるし、役者さんたちは皆良いし、美術や小道具もなかなか、なんだけれども、なんかこう、、、グッと来ないというか。

 まあ、それはやっぱり、あまりにもハルコさんが素晴らしい妻だからなんだよねぇ、多分。一度だけ、ハルコさんがブチ切れるシーンがあるけれど、、、。かと言って、修羅場ばっかり見せられてもツラいしなぁ。難しいところよね、この辺は。

 実は、私のパートナー(以下、Mr.P)は、職場で「新型うつ」の後輩に悩まされており、それを間近で見ているので、本作のミキオさんのような人がうつ病になってしまうのは、実に説得力がありました。その後輩の場合「新型うつ」というのは飽くまで自称であり、診断書には単なる「うつ病の疑いあり」としか書かれておらず(そんな診断書あるのか!?)、こういうケースは、Mr.Pを始め周囲はもの凄く困るのですね。後輩君がミキオさんみたいな人なら、まだしも同情的になれるのですが、むしろ正反対な人で、一番自分の面倒を見てきてくれたMr.Pや他数名に向かって暴言を吐き、「お前らのせいで病気になった! でも会社には言うな!」とのたまったのだとか。そのくせ、「新型うつ」なんで、仕事以外の場面では問題は表出せず、仕事でも表出させないためには仕事を休むしかないという論理で、結局、会社に自己申告して半年間の休職の権利を得、その期間はさらに半年延長され、いよいよ職場復帰の時期が近いんだそーな。皆、もうウンザリしているらしいのですが、会社としては、まあ、そうやって対応していくしかないわけですね、、、。ごーん、、、。

 私自身、若い頃、摂食障害から、恐らくうつ病になり掛けていたんだと思いますが、もの凄い無気力、虚脱感、絶望感、自己嫌悪感、自殺願望と立て続けに襲われ、仕事を辞めた経験があります。まあ、仕事を辞めたのは、それだけが原因じゃなくて、そもそも仕事が合わなかったし、その頃から、母親との確執が表面化した、というのが摂食障害の一番の理由なんですが。当時は、今ほどうつ病なんてポピュラーじゃなかったし、私も心療内科にかかりましたけれど、診断名は「自律神経失調症」でしたもんね。心の病は、本当に厄介です。正直、最後は自分で「治ろう」と思わない限り、治らない、ということを学んだのですが。

 ・・・と、何だか、ちょっと真面目モードになりかけてしまいましたが、まぁ、本作は、うつ病よりも、夫婦の在り方を考えさせられる作品でございました。

 健やかなるときも、病めるときも、、、が理想だけれど、実際はね・・・、なかなかね。
 


健全なる精神は健全なる身体に宿る! 何はなくとも健康第一!!




  ★★ランキング参加中★★
クリックしていただけると嬉しいです♪
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ローズマリーの赤ちゃん(1968年)

2015-03-09 | 【ろ】



 NYのとあるアパートに引っ越してきた新婚夫婦、ローズマリーとガイ。やがて、ローズマリーは待望の妊娠を果たすが、ただごとではない腹痛に数か月にわたって苦しめられる。

 だんだん、周囲の者たちが信じられなくなっていくローズマリー。しかも、長年信頼してきた親代わりのハッチが不審死し、遺品として彼女に渡された本には驚愕の事実が・・・!

 果たして、ローズマリーの周囲の者たちは何者なのだ!!!
  

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜

 
 もう一体、何回見たことやら、、、。最初に見た時の衝撃は今も忘れられません。そう、あれは、私が小学生の頃。たまたま家で一人で留守番をしていて偶然見てしまったこの作品。ローズマリーがアナグラムで謎解きに至る辺りから見始めたように記憶しています。当時の私にどれほど理解できたか疑問ですが、見終わった後、恐ろしくて家に一人でいられなくなって、外に遊びに行ったのでした。40年くらい前のことですわ。

 その後も、何度も見ていますが、見るたびにゾワ~ッとしますねぇ。怖いというより、不気味度満点。途中、ローズマリーを演じるミア・ファローのメイク(目の下が真っ黒なクマ)が、凄いです。

 今回、久しぶりに見て、本作はやっぱり名作だと改めて思いましたね。これ、下手すると、トンデモナイB級、、、いや、C級キワモノ映画に成り下がっていたと思うのです。だって、悪魔崇拝ですよ!? ポランスキーもよく手を出す気になったなあ、と。

 とにかく、この悪魔崇拝というものが本当にありそうと思わせる、じわじわとその謎が明かされていく過程が、実に巧みなのです。隣人のカスタベット夫妻は、最初はフツーっぽく、でも??と思わせる描写。なにしろ、その風貌――夫婦そろってピンクのファッション!!おまけにルース・ゴードン演じる妻ミニーはもの凄い毒々しい化粧――からして、異様です。でも、言動はマトモだったりと、違和感を上手く醸し出しています。

 そして、カサヴェテス演じる夫が、徐々に怪しくなっていく様も、実に微妙に、観客に「あれ?・・・あれ?」と思わせながら、じわじわと描写していくのです。

 だから、観客としては、どこで心理的に一線を引けば良いのか全く分からなくなってしまう。これってただのオカルトじゃん、と思えない不気味さに、知らず知らず呑み込まれていくわけです。

 上手いなぁ~、ポランスキー。弱冠35歳の仕事ですよ? 信じられません。

 もちろん、監督だけの手腕ではありません。ミア・ファローは、怯え、一人立ち向かう強さを、実に巧みに演じています。彼女のひときわ大きな瞳は、恐怖を演出するのに最適です。ファッションもすごく素敵です。若い妻ってことで、ミニが多いんですが、とてもよく似合っています。

 また、ルース・ゴードンは相変わらずの貫録振りで、シャーシャーと頭のおかしいカルト婆を演じておられます。すげぇ、、、。終盤、ローズマリーが肉切り包丁をショックのあまり取り落とし、床に刃が突き刺さるシーンがあるんですけれど、ここで、ルース・ゴードン演じるミニーは、淡々とその肉切り包丁を床から抜き取って、その後、床の傷をちゃちゃっと指で撫で隠すんですね。この狂った場面で見せるマトモな極々フツーの動作が、場面の狂いっぷりを強調していてイイです。

 男優陣も引けは取りませんよ。カサヴェテスはさすがの一言。ミア・ファローと並んで歩くと、頭のでかさが目立つけれども、まあ、それもご愛嬌。後半、悪魔に魂を売り渡すに相応しい雰囲気を見事に纏っていきます。で、一番、悪魔崇拝の信者としてハマっていたのが、カスタベット氏を演じたシドニー・ブラックマーですね。彼が終盤見せる“イッちゃってる”顔は、忘れられません。おぉ、気味悪っ!!

 正直、こんなに品のあるオカルト映画って、そうそうないと思うのですよ。特に、本作の場合、ホラー要素はほとんどありませんからね。オカルトだけで勝負しているのは、ある意味凄いと思うわけです(本作がホラーだと思う方を否定する意図はありません。飽くまで私的には、本作は、オカルトであってホラーでない、というだけ)。

 ま、ホラー要素抜きのオカルトで品性が感じられてなおかつ怖い映画って言うと、本作と、あとは『チェンジリング』(1980年)くらいしか思い浮かばないわ。オカルト映画の代表作みたいに言われる『シックス・センス』なんてホラー要素バリバリな上に、夢オチに等しいサイテーなラストで、私的には全く好みでないのよね。『シャイニング』は、どっちかってゆーとホラーだと思うし。

 ・・・というわけで、最後はオカルト論議になってしまいましたが、そんなこととはカンケーなく、本作は、純粋に面白い、良い作品だと思います。オープニングの哀愁漂うテーマ曲をバックに空撮で映し出されるダコタ・ハウスが雰囲気をよく醸し出していて、もうここで鷲掴みにされてしまいます。

 そう、何が恐ろしいかって、悪魔とかお化けとかじゃなく、人間なのです。自らの出世のためには、愛すべき我が子でさえ悪魔に売ってしまう、その心。これが本作のキモでしょう。、、、自分にはあり得ないと思いますか? いえ、人間は弱くて愚かなのです、本質的に。自分を過信してはいけません。


 


ローズマリーの産んだ赤ちゃんは、、、!?




  ★★ランキング参加中★★
クリックしていただけると嬉しいです♪
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルージャスミン(2013年)

2015-03-07 | 【ふ】



 富豪の夫との関係が破綻して没落セレブとなったジャスミン(ケイト・ブランシェット)は、たった一人の妹を頼ってニューヨークから、はるばる西海岸のサンフランシスコまでやってくる。ヴィトンのでっかいスーツケースをいくつも引っさげて・・・。

 なーんだ、、、これは、現代版『欲望という名の電車』じゃんね。
  

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜

 
 ガンガン宣伝していたのは見ていたけど、あんましそそられなかったので劇場へは行かず・・・。そうしたら、友人が見に行っていて「良かったよ~」と言っていたので、じゃあDVD鑑賞でもするか、と思って見てみた次第。あんだけ予告を見ていたのに、予備知識ほぼゼロで見たんですけれども、これ、ウディ・アレンが監督してたんですねー。

 まあ、のっけからケイト・ブランシェット演ずるジャスミンがイッちゃってるのは分かるので、これはツラい。

 大学中退して、一度も働いたことなく、贅沢三昧の生活をしていた女。これほど、世間で使い物にならない存在ってあるでしょーか。大学は卒業していなくても行ったことがあるから「高卒」ではないというプライド、働いたことがないというMax世間知らず、贅沢三昧を「人の金」=「夫の稼いだ金」によってしてしまったために金とはどこかから自然に降ってくるものだと勘違いしているオメデタぶり、こんな三拍子そろった人間、どーすりゃいいのさ。

 そんな、どーしようもないジャスミンが自立の手段に選んだ資格が、これまた、ものすごく「らしい」選択で、笑えるどころかドン引きしました。はい、その資格とは、い・ん・て・り・あ・こーぢねーたー、でございます。うー、これほど、彼女のプライドを傷付けず、「それっぽい」オシゴトってあるでしょーか、、、いや、ない。ウディ・アレン、さすが、、、。

 もちろん、上手くいくはずありません。なにせ、パソコンもろくに使えないのですからね、イマドキ。

 (余談ですが、セレブじゃないけど幸せ一杯の生活から夫婦関係が破綻して、一気にどん底に突き落とされる、という話としては『微笑みをもう一度』という駄作映画と共通していますが、あっちは、もう、ホントにあまりに頭の悪い映画でイヤになりましたが、そういう意味では、本作の方が百倍リアリティがあると思いますね。ま、ホントに余談なんですが・・・)

 で、ジャスミンに執拗に辛く当たるのが、妹の恋人チリですが、コイツがまたウザイというか、嫌らしい。確かに、ジャスミンを見てりゃイラつくのは分かりますが、お前がそこまで彼女を罵る権利はねぇだろ、と言いたくなるのよ。しかも、顔が濃くて暑苦しい、、、。うー、ウザっ。

 そう、この構図は、あの『欲望という名の電車』のまんまでござんした。もっとも、『欲望~』の方がジメッと暗くて陰湿ですけどね。マーロン・ブランドが演じたスタンリーに比べりゃ、チリなんて、まだまだ甘い。でもって、ジャスミンも、ブランチに比べればまだまだマトモ。

 まあ、途中、ヒロインが別の男との結婚に活路を見出そうとするところとか、ラストに救いがないところも、まんま同じです。

 『欲望という名の電車』は、私は、正直言って嫌いな映画でして、それは、登場人物誰にも共感できなかったからなんだけれど、今回、この『ブルージャスミン』は、それほど嫌悪感は抱きませんでした。、、、はて、何でだろう。と、自分なりに考えてみました。

 まず、ヒロインのジャスミンが、ブランチよりも、まだ可愛げがあるような気がします。ブランチは、もっともっとエキセントリックで、なおかつ妹への気遣いなどまるでなかったですもんね。それに比べれば、ジャスミンはまだ、居候には違いないけれど一応バイトにも行くし、社交の場に自ら出ようと、能動的な部分を垣間見せます。

 あと、ヒロインの妹の描き方です。ジャスミンの妹ジンジャー(サリー・ホーキンス)は、ブランチの妹ステラより、よっぽどだらしないし、スキだらけの、まあ蓮っ葉おばさんです。ステラみたいに、ちょっと大人しそうな控えめっぽい感じではゼンゼンありません。だから、ジャスミンのイカレっぷりが緩和されているのだと思います。

 あと、出てくる男がどいつもこいつも、まるで魅力がないヤツばかりで、正直、反吐が出そうでした。ジャスミンの元夫も拝金イカサマ野郎だし、新たに出会った政治家の卵は妻をパートナーではなく自分のお飾りとしか見ていない男尊女卑野郎だし、義理の息子もエキセントリックな自己陶酔野郎で、一体どーなってんのさ、と思っちゃう。こんな奴ら、纏めて捨ててやりゃぁいいんだよ、ジャスミン!!

 ・・・とエールを送りたいけれども、肝心のジャスミンは自立を知らないだけでなく、男を見る目がまるでないおバカ女なので、もう、お手上げです、ハイ。

 そりゃ、『欲望~』の時代なら、女性が自立するのは今よりかなりキビシイだろうから、ブランチみたいな女性は、ある意味、時代の徒花として、まだしもその存在が認められていたでしょうが、現代においてそりゃアカンでしょ。

 オメデタイ思考回路とはいえ、とりあえずインテリア・コーディネーターとして自立しようと一念発起したのに、ちょっと条件の良い男が現れると、途端にそいつにすがりつこうとするジャスミンお姉さま。こういう人って、学習能力がないんだろうね、多分。自分の力で何かをする目先の大変さより、カネがどこからか降ってくるであろう何の保証もない未来が、彼女には明るく見える訳だ。だからこそ、ああいうラストになる訳だ。そう、ウディ・アレンの選択は、正しい。

 でも、私は、やはりジャスミンが気の毒でならない・・・。彼女の今後を思うと、胸が痛い。何とか、彼女を救う道はないのだろうか・・・。やっぱり、金満男しか、彼女がすがるものはないのだろうか。彼女が自分の足で立つ日は、永遠に来ないのだろうか・・・。

 神様、どうか、彼女に自立の機会をお与えください。・・・ま、その前に彼女の精神状態を治すのが先ですが。



稼ぎが良いからって、そんなヤツに自分の全人生預けちゃって大丈夫?




  ★★ランキング参加中★★
クリックしていただけると嬉しいです♪
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リアリティのダンス(2013年)

2015-03-03 | 【り】



 ホドロフスキーの自伝的映画。幼いアレハンドロ・ホドロフスキーの身の回りに巻き起こる様々な出来事を父親ハイメの人間的成長を軸に描かれるが、、、。

 やっぱし、この人はトンデモ爺さんだ。
  

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜

 
 「リアリティ」の「ダンス」って、ヘンなタイトルだなぁ、と思ってはいたけれども、見終わって、なんとなく腑に落ちるタイトルでございました。

 見たいと思いつつ、数々の劇場鑑賞機会を逃してきた本作ですが、どうにか、今回、短い上映期間中に足を運ぶことが出来ました。・・・いやぁ、見て良かったです。ますます好きになったかも、ホドロフスキー爺さん。

 『エル・トポ』からも容易に察しがつくように、彼の父親は相当強権的・抑圧的な父親だったらしく、本作でも、少年アレハンドロに対し、父親ハイメは、とんでもない親父ぶりを発揮しています。とにかく、このハイメは、一言で言えばマッチョな馬鹿男なわけです。しかし、まあ、一応、家族愛もある。

 この親父、ある日、旅に出ます。体制転覆を狙って、指導者暗殺の旅に。これがねぇ、凄いんですよ。もう、『エル・トポ』のまんまなんだけど、決定的に違うのは親父のマッチョぶりがどんどん削がれていく様が、これでもかとしつこく描かれるとこ。救いようのない馬鹿男が、多少なりともマシになるんですな、これが。

 パンフのホドロフスキーのインタビューを読んで、納得しました。彼はこう言っています。「私にとって過去は変えられると思っています。過去というのは主観的な見方だからです。この映画では主観的過去がどういうものか掘り出して、それを変えようと思ったのです」と。

 恐らく、本当の彼の父親は、死ぬまでマッチョな馬鹿男だったのだろうけれど、彼は本作を撮ることで、自分の理想の父親がいたのだ、と、自らの記憶を上書きしたのだと思います。

 これは、母親サラの描写にも表れていて、例えば、彼女のセリフは全部オペラ調なのですが、実際の母上がオペラ歌手になりたかったがなれなかったということを踏まえて、本作の中では彼の母親はオペラ歌手になっているのです。過去を変えたのですね。

 ホドロフスキーにとっての「リアリティ」って、そういうことなのですね。自分の理想という脳内変換機を通して、実際に起きたことを「リアリティ」にする。

 でもこれって、人間誰でも、大なり小なりあることですよね。記憶の曖昧さなんて、今さらわざわざ書くまでもないけれども、自分の都合の良いように(あるいは悪いように)書き換えられていることなんてフツーにあります。特に、幼少時の記憶なんて、ホントに驚くほど現実とかけ離れていたりして、唖然とした経験は誰にでもあるはずです。

 これを、ホドロフスキーは、今回、映画にした訳です。自分の息子3人を出演させ、極めて私的な自伝映画。彼自身言っています。「これは、心の治療のようなものなのです」、、、う~、分かるなぁ。

 昨年、『ヴィオレッタ』を見た際にも書いたけれど、やはり、自分の過去(恐らくは抑圧された経験のもの)を乗り越えるには、それを、全部吐き出す=解毒する、という作業をしないとダメなのでしょう。ホドロフスキーほどの偉才に恵まれた人でもそうなのか、と思い知らされた気分です。親との軋轢って、こんなにも人生に影を落とすものなんだ、、、がーん。

 彼らの住むチリのトコビージャという町。・・・まあ、これは、見ていただくしかありませんが、こんな町で育てば、そら尖った個性が育つのも分かります。序盤の岸に打ち上げられる大量のアジのシーンは、、、正直、ドキッとさせられました。あれが、アレハンドロの記憶にあるリアルなトコビージャの象徴的な風景なんだろうな。

 手足を失った者たち、行者、アナーキスト、神父、、、と実に様々な人々が出てきますが、本当に、少年アレハンドロにとって、リアルに関わって記憶に留められているのは、父親と母親なのだということが、ラストシーンで描かれていたのだ、と思いました。ただし、ちゃんと、リアリティがダンスしている父親と母親ね。

 うーん、ホドロフスキー、いいなぁ。ホレてしまったよ。


 


ホドロフスキーが、自身を治療するために作った映画。
見た者は治療どころか知恵熱出そう、、、




  ★★ランキング参加中★★
クリックしていただけると嬉しいです♪
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする