映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

趣味の問題(2000年)

2014-06-30 | 【し】

★★★★★★★☆☆☆

 本作は、公開時に劇場で見ている、、、けれども、ラストシーン以外はすっぽり記憶がなくなっており、それなりに面白かったと思って劇場を出た記憶はあったし、何より、その後にVHSビデオで見た同監督の『私家版』が良かったので、もう一度見たいなー、と思いつつ何年も経ってしまって、ようやく最近再見を果たした次第。

 うーむ、こ、これは、何なんだ・・・。つーか、ニコラを演じるジャン・ピエール・ロリ、かなりのイイ男でないの。なんでこの人を忘れるかなぁ、アタシは。不覚だ、、、。そうそう、「味見役」だった。少し思い出したけれど、やはり9割がた忘れていたので、ほとんど初見と変わらない。

 こういう、頭では「ヤバイなぁ」「マズイなぁ」と分かっていながら、心と行動が暴走してしまう、という経験はないけれど、すごく分かる気がするんだよね。良くない臭いがぷんぷんするものにどんどん絡め捕られていく感じ。引き返せないことが恐ろしいのに、進んで行くことにも快感を覚える、みたいな・・・? ニコラはフレデリックに人生そのものを絡め取られていく感じが肌で分かっていながら、引き返せないのだよねぇ。分かるわ~。こんな怪しい人がそばにいたら、誰だって怖いもの見たさで深みにはまるでしょーよ。たまたまアタシの周りに、こういうブラックホールみたいな人がいないだけの話。

 だいたい、本作自体がまさにソレでしょう。冒頭シーンから、なにやら不穏な感じがぷんぷん。いきなり「味見役」だよ? おかしいでしょ、これ。でも、画面から目が離せない。もう吸い付いちゃう。ニコラがイイ男だから、ってだけじゃない、もちろん。フレデリックの変態ぶりも、まぁ、目が離せない一因だけど、もうそういう「何か」っていう次元じゃなく、本作の醸す異常さ、そのものでしょ、これは。

 つくづく、何で記憶に残らなかったのか、不思議でしょうがない。たまにあるのだよね、こういう、再見するとキョーレツなのに初見時の記憶がほとんどない、という作品。なんなんだろうか・・・。

 まあ、ラストは、ああなるしかないでしょう、そりゃ。そこはだから、意外性は全くないのだけれども、それでもこれは好きだわぁ。もしかすると、フレデリックは、こうなることを予見していたのかも。いえいえ、もっと言っちゃえば、殺して欲しかったのかも、ニコラに。自分の分身に。もう一人の自分に。

 本作には、同性愛的な臭いが一切ない。ジャケやパンフの表紙だけ見ると、一瞬、ゲイモノかと思わせるが、全然ナイナイ、ゲイの要素。これは他者愛ではなく、究極の自己愛。フレデリックは自分しか愛せない男であり、究極のナルシストであり、だからこそ、自分を客観的に第三者として外から見たかったのだと思う。自分の姿は一生、自分じゃ絶対に見られないからね。ニコラなら、自分の分身として申し分なかったのだよね。見た目も中身も。

 しかし、この監督は、なかなか素敵な作品を撮る人だなぁ。テレビ界上がりの人の様だけれど、このセンス、素晴らしいです。もう亡くなってしまったなんて、、、。もっと作品を見たかった!
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ヘルタースケルター(2012年)

2014-06-28 | 【へ】

★★★☆☆☆☆☆☆☆

 制作に携わった多くの方々、特に、主役を演じた沢尻さんには申し訳ないけれども、本作こそ、THE「どーでもよい映画」と言ってしまいたくなる、恐ろしいほどくだらない作品でした。

 原作は未読ですが、これはやり方次第でいくらでも面白く作れた作品だと思うのです。テーマは普遍的なものだし、沢尻さんは押しも押されもせぬ美女で華もある、脇を固める俳優陣も超豪華、ってことで、こんだけ恵まれた素材を手にしながら、このつまんなさは、これいかに。

 もしかして、本作はブラックコメディーのつもりで撮られたんですかねぇ? シーンにそぐわぬクラシックBGMとか、ヒジョーにシュール感があって、もしやこれはコメディーのつもりか、と思わざるを得ませんでしたが、それにしちゃぁ、全体のグロテスク感は中途半端、大森南朋の役に至っては存在意味すら不明、ということで、見ている方は完全に置いてけぼり状態な訳ですが、、、、はて。

 まぁ、物語からイメージする写真集を作るのとは違うのですから、画にこだわるのはもちろん結構ですが、肝心要の「映画作品」にすることにもう少しこだわっていただきたかったですねぇ。いっそ、ヘンにセリフとかストーリーとか考えないで、あくまでイメージ映像だけでつないでアート系を狙うという手もあったと思うのに(まあ、もっとハードルは上がりますが)、それにしては、想像&創造力がいかんせん足りなかったのでしょうか。折角の沢尻さんの体当たり演技も、ただの宣伝シーンに成り下がってしまい、同情さえしてしまいました。

 しかし、、、本作を見て一番思ったのは別のことでした。本作に限らず、「こんな映画が世に出ることができるのに、これよりはもう少し良いと思われるシナリオコンクールの作品が世に出られないなんて、あんまりじゃないか!!」ということは、常々他の作品を見ても思うことがあったのですが、今、公開されている『超高速!参勤交代』のように、城戸賞くらいじゃないですかね、コンクールからきちんと能あるライターを掘り起こしているのは。

 そう、どうせお金を掛けて映画を作るのならば、せめてまともなシナリオの作品を撮っていただきたいのです。本作の脚本を書かれた方も、フジTVのヤングシナリオ大賞出身の方ですが、どーしてこんなお粗末なシナリオを書かれたのでしょうか。プロになるとこうならざるを得ない、というのなら、今の邦画界では脚本家を育てる土壌がないということも考えられます。良いシナリオが良い映画になる保証はどこにもありませんが、少なくとも良い映画には良いシナリオがなければなりません。それでいて、脚本家・シナリオライターの地位は依然として低いままです。監督と同じくらい、脚本家の存在はもっと尊重され、尊敬されてしかるべきなのです。

 邦画制作関係者の皆さんには、もっと、脚本家を大事に、ポスターや広告、パンフ等には監督名と同じ大きさで脚本執筆者名を載せていただきたいですね。まずはそこからでしょう。そうでないと、邦画界のお先真っ暗だと思います。漫画やゲーム原作の作品ばっかりでいいんですか?

 ま、才能ある脚本家が監督やっちゃうようになって、つまんない作品量産していらっしゃる方もいますので、一概には言えませんけどね。
 
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闇のあとの光(2012年)

2014-06-18 | 【や】

★★★★★★☆☆☆☆

 『ヴィオレッタ』を見に行った際に赤い光を放つ「それ」が出てくる予告編を見て、興味をそそられ見に行った次第。、、、で、 結論から言うと、あんまし好きじゃないですね、この映画。

(本作がお好きな方は、以下、不快になるかもしれませんので悪しからず)

 本作は、見た直後はちょっと狐につままれたみたいな感じがするのだけれど、1日、2日と時間が経つと、嘘みたいに単純明快に見えてきます。

 一見、脈絡なくシーンがつなぎ合わされているようだけれども、ストーリー的には単純です。見た目よりははるかに分かりやすい。屋外でのシーンにフレームにぼかしが入っているのですが、まあ、何となく意図することは分かるというか。多面性とか、あるいはボーダーレスってことなのかな、と。

 何が好きじゃないって、性と暴力の描き方ですね。すごい捻くれていると思います、この監督。乱交パーティーのシーンがあって、その後のシーンでは、夫婦の間のセックスレスが会話に織り込まれています。また、犬に過剰な暴力をふるうシーンや、親友だと思っていた男に泥棒に入られ挙句撃たれるというシーン、そしてラスト近くの首を落とすシーン、と、決して長くはないけれども強力な暴力シーンが折々に挟まれています。

 フレームのぼかしといい、性と暴力の描き方といい、終わってみれば、ああ、そーゆーことね、と腑に落ちる単純なことを、わざと後回しにするわけですね。つまり、最初に意味深ななぞかけをしておいて、終わってみれば、な~んだ、という感じ。見ている方としては、そーだったのか! と膝を打ちたいわけですよ。でも、そうじゃない。特に暴力シーンについては因果応報なだけなんだけど、いきなり提示してくるから一瞬訳わかんなくなるのです。それが狙いの一つだと思うけど、ちょっと、モノづくりのスピリットとしては浅ましいという気がする。志が低いというか。

 これをうまくさばくのが「伏線を張って回収する」ということなんです。が、この監督は、そういう単純な見せ方をするのがお嫌いなようで。そこがイヤらしいというか、小細工に見えてしまうのです、私には。別に、創造の手法にセオリーはないから、独自のやり方を追求するのは素晴らしいと思うけれど。ただ、パンフを見ると監督は「観客をリスペクトしている」と言っているけれども、そんなことは当たり前といえば当たり前で、あまりにも独り善がり的な作品が氾濫しているからそれがあたかも有り難いことかのように思われるのだとしたら、そら違うだろう、とは言っておきたいかな。

 まあ、唯一、よく分からないのが、ラストのラグビーのシーンですが。「死と生」、、、つまり「闇のあとの光」ってか? だとしたら、ますます種明かしがストレートすぎてあざとくないですかねぇ。嫌らしいでしょ、ちょっと。観客をリスペクトどころか、むしろバカにしてんの? ってなもんです。

 いえ、、、本当はもっと何か別の・・・。私の理解不足であってほしいです、マジで。
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カミーユ・クローデル(1988年)

2014-06-16 | 【か】

★★★★★★☆☆☆☆

 『アデルの恋の物語』に続いて、精神を病む実在の女性を演じたイザベル・アジャーニ。やっぱり、美しい。ロダンと破局した後、まあ、だんだんおかしくなっていくのだけれども、その壊れていく過程が演技とは思えないところが、彼女の真骨頂ですかね。

 だいぶ前に、テレ東の「美の巨人たち」で、カミーユ・クローデルの「ワルツ」を取り上げていたけれども、番組ではあれが、ロダンとの決別の意思の表れだという話になっていたように記憶している。本作では「ワルツ」はほとんど出てこないが、彼女は決別を自ら「決意」できたのかねぇ。私は、ロダンが恐れをなして逃げたとしか思えないんだよねぇ。

 ロダンについては論外なので、ここでは記述する気にもならんけれども、二者択一を男に迫る女、ってのは、やっぱり破滅を自ら選択していることになるんだよね。「奥さんか私か、どっちか選んで!」「アタシと仕事と、どっちが大事なのよ!」「何で自分の母親の味方ばっかりすんのよ!」、、、くらいが今、パッと思いつく女の男に迫る二者択一の例だけれど・・・。これ、言われても困るもんね。言いたくなる気持ちもよく分かるが言って答えが出たとしても、自分の望む答えが出る確率は、良くて五分五分、悪きゃもっと悪いってことで。

 カミーユは直情型なんだろうなぁ。まあ、だからこそ、ああいう後世に残る芸術作品を残したのでもあるだろうし。愛しているなら私を選べ、って、ロダンタイプの男に、一番言っちゃいけないセリフを言っちまったら、そら、男は逃げるでしょ。火を見るよりも明らかなのにねぇ。折角の才能を、自ら潰してしまった挙句、死ぬまで精神病院に監禁生活。

 ロダンも、才能を除けば、ただのスケベ親父な訳で、カミーユも、そこに気付いてほしかったなぁ。私はあの人に惚れたのではなく、あの人の才能に惚れてしまっただけなのだ、と。でも彼以上の才能の男が、彼女に身近にいなかったってことだわね、多分。ドビュッシーも天才だけれども、カミーユが、ドビュッシーの才能がロダンのそれを凌駕していると肌で感じるのは難しかったのかも。音楽って、目で見えるものじゃないからね。聴く人の感性が大いに問われるわけで。やはり、彫刻家ってのは「触感」という具象そのものの世界に生きる人なので、観念が入る余地ないでしょ。 

 しかし、ロダンをジェラール・ドパルデューが演じていたのが不快だ。ジェラール・ドパルデューという俳優さん、好きじゃないのだ。俳優としての能力云々の前に、顔が嫌いなのである。あの太い鼻、足の短い体躯、、、ルックス的に、どうしてもNGである(本作では髭面だったのでまだどうにか耐えられたが)。あれでいて、結構女を破滅させる役を演じているんだから、おフランスでの良い男ってのは外見の優先度、低いのね、きっと。しかし、映画という一種エンタメの世界では、せめて、もう少し夢を見られる見目麗しい男性にロダンを演じてほしかったね。なにしろ、イザベル・アジャーニなんだから、カミーユが。
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ショパン・コンクール・ライヴ 2005/ラファウ・ブレハッチII(2006年)

2014-06-09 | 番外編

★★★★★★★★★★

 これは、映画ではないのですが、あまりに素晴らしいソフトなので是非、感想文を残しておきたいと思い、番外編として記します。

 昨年、中古で購入したドイツグラモフォンの『111: The Collector's Edition 2』の7枚目のCDとして入っていたのが、ショパンのピアノ協奏曲1番と2番で、ジャケの写真には少年のような青年のような大人の男のような年齢不詳の、しかしなかなか見目の良い男性が微笑を湛えており、名前はRafal Blechaczと。何て読むの? と、まあ、私は彼のことをとにかくなーんにも知らずに聴いてみたわけです。

 冒頭の長々しいオケに続いてピアノが入り、ほんの数十秒で、私は、まさしく「なに、これ・・・!?」状態。もちろん良い意味で。思わず手を止め、スピーカーに正対し、聞き入ってしまいました。CDの演奏でこんなふうに魅入られることは、本当に、100回に1回あるかないかなわけでして、ライブで聴いたって滅多にない現象なのであります。それが、起きました、つい先日、自分の部屋で。

 なるほど、彼は2005年のショパンコンクールの覇者であり、副賞も総なめの、まさしく完全勝利を収めた若き天才であると知りました。私は、正直、あまりショパンコンクールの優勝者に好きなピアニストがおりませんで(ポリーニだけ、と言っても良いです)、ショパンコンクールのニュースを見ても右から左だったものですから、こんな素晴らしい宝を見逃していたのでありました。

 なんだかんだ言っても、その前の2000年の覇者ユンディ・リ、2010年の覇者ユリアンナ・アヴデーエワはチェックしていたのに、どーして2005年だけスルーしたのでしょうか、私!!

 で、慌てて、彼のCDを漁りまして、ついでにショパンコンクールの映像も見てみたいと思い、この作品を購入したわけです。

 うぅ、なんという端正な、それでいて情緒豊かな、それでいて品のある演奏、かつ弾きっぷりなのでしょうか。これ、彼は当時、二十歳ですよ? 信じられません。何をどのように学び、いえ、どのように生きてくると、このようなピアニストになるのでしょうか。

 中庸だという評価がちらほらありますが、どーしてそう聞こえるのか、不思議です。演奏がノーマルだということなんですかねぇ。もう、最初の1音目からして、抜群にしか聞こえませんが。演奏スタイルも、オーバーアクションがまるでなく、その大きな手は、鍵盤を這うように、それでいてヌルい撫でるような動きではなく、実にしなやかです。ポリーニのように上から叩くスタイルとは対照的で、音質は同じように硬質ですが、全く表情は異なります。ああ、なんて美しいのでしょうか。端正さでは類を見ないルプーにも勝る、ポリーニの全盛期でさえ霞んでしまいそうです。

 演奏も、テンポはかなり揺れていると思いますが、それが全く嫌らしくないというのは、小手先の聴かせに走った、つまり聴衆に媚びた表面的な演奏ではないからではないでしょうか。もちろん、伴奏のオケも素晴らしいのは言うまでもありませんが。もう、一音一音が見事に粒立ち、まるで目に見えるようです。それでいて、流麗なところは流麗に、鋭角なところは鋭角に、解釈が深く、老成された感さえ窺えます。なんなんでしょう、この人は。

 同じポーランド出身のツィマーマンなど、この人の前では正直お話になりません(あくまで私にとってですが)。こういう内省的なアーティストは好きですね。自分と向き合い、ひたすら音楽と作曲者と向き合うことの厳しさは、想像に難くありません。それを、この若きピアニストは既に成し得ているのです。誰に教わったのでもなく、自らが探求したというのですから、もうひれ伏すしかありません。10年近く、このようなアーティストを知らずにいた自分がまったくもって情けない限りです。

 既に、古典派、ドビュッシー、リストなどをリリースしていますが、彼には是非、ショパン弾きなどという有り難くないネーミングを自ら脱ぎ去り、さらにドビュッシー、ベートーベンから、是非とも、ブラームスのコンチェルトに手を出していただきたいですね。彼の弾くブラームス、どんななんでしょう。想像もつきません。今からその日が来るのが楽しみです。

 この出会いに感謝!
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さよなら、クロ(2003年)

2014-06-04 | 【さ】

★★★★★★★☆☆☆

 本作は、公開当時、劇場で見ている。確か、今はなき、有楽町のシネ・ラ・セットで。BSをつけたらたまたまオンエアしていたので、再見してしまった。

 最初に見た時も思ったけれど、本当に、犬のクロが可愛いのである。全身真っ黒で、どこが目で鼻だか、遠くからだと分からない。でも、少し寄ると、つぶらな瞳が光っているんだよね、湿った鼻も。そして、この犬の歩き方に独特のクセがあるので、多頭犬を使い分けているのでないこともよく分かる。

 展開的には、全く記憶になかったところも多々あり、こんな話だったっけ・・・? という感じであった。が、よく考えれば、それもそのはず。本作は、犬好きにとっては、おそらく、犬とその周辺のストーリーしか興味が持てないのではなかろうか。それくらい、サイドストーリーが平板なのである。もっと、犬とそれにまつわる人との関わりに主眼を置いた内容にしても良かったような。学園祭で、西郷さんの犬になっている話とか、とても良いと思うんだけど、そういうエピソードの数々をもう少しうまく紡いでほしかったかな。

 とはいえ、犬好きには結構満足できる作品でもあると思う。繰り返しになるけれど、何しろ、クロを演じたクロ(本当の名前も「山本クロ」というのだって)が、実に実に賢そう、いえ、賢く、愛嬌がある。もちろん、クロ自身、別に人に媚を売っているわけでは全くなく。だからこそ、余計にクロの魅力が見ている者に伝わってくるのではないかしらん。

 草間先生とクロの廊下でのシーンが良い。最初は吠えられる。2度目は寄り添われる。3度目は、、、。

 久しぶりに、本作のパンフを開いてみた。実は、このパンフの表紙の写真(ポスターにもなっていた)が素敵で、デスクの棚に飾ってあるのだが、中身をじっくり見るのは、もしかすると公開時以来かも・・・。おぉ、岩合さんが寄稿している! 最近、彼の「世界ネコ歩き」をよく見ていて、ネコファンになりかけていたところだったけど、やはり岩合さんも、犬も愛しておられるのがよく分かる文章だ。そして、岩合さんがかつて飼っていた犬もクロという名前だったのね。

 これは、みんシネのレビューにも書いたが、実は、私の飼っていた柴犬もクロという名前だった。その後、09年の暮れに15歳で永遠の眠りについた。彼の後半生は、私は離れて暮らしていたので関わりがほぼなくなってしまったけれども、クロの最期を聞いた時はやはり悲しく、半日泣いた。そして、あとの半日は、クロの写真を見ながら楽しかったことを思い出していた。今も、目の前にはクロの写真が3枚。だから、これもみんシネに書いたことだけれど、やはり、今回本作を見た後の私の心の第一声は「ありがと、クロ」なのだ、、、。
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ロング・グッドバイ(1973年)

2014-06-02 | 【ろ】

★★★★★★★★☆☆

 原作未読。先日、NHKでドラマ化されていたのを見たので、アルトマン版を見てみようと思いました。

 もう、冒頭の5分でシビレました。なんなんでしょう、あのオープニングの素晴らしさは! ネコとマーロウ。このシーンだけで、本作は一見の価値ありと思いました。いやもう、マジで、惚れてしまいました。

 でもって、あの、マーロウの住む不思議な建物。お向かいに住む、これまたおかしな女たち。どうしてこんなシチュエーション、描けるんでしょうか。もう、やっぱりアルトマンは天才だとしか思えませぬ。

 そして、アルトマンお得意のダラダラ展開。この一見、ムダと思える描写の数々がどれ一つとしてムダでないことが最後に分かるという、、、。うー、アルトマン好きだったけど、本作でダメを押された気がします。愛してしまったかも、アルトマン!!

 なんといっても、マーロウ演じるエリオット・グールドが素晴らしいです。どうしてああいう、一見ダメっぽいヤサグレた雰囲気を醸し出せるんでしょうか。頻繁に擦るマッチと吹かす煙草の煙、だけじゃないでしょう、それは。もの凄いピンチな場面でもヘラヘラ笑っているマーロウ。女にもヘラヘラしているけど、女たらしって感じもない。とにかく、マーロウというキャラに全然気取った嫌味がない。これが素晴らしい。そんな彼が明らかに心惹かれていると分かるのがアイリーンですが、だからこそ、ラストはあのような展開にならざるを得なかった、ってことでしょーか。

 でも、私は、マーロウの人間性から言って、あのラストは、やはり違うと言いたいのです。エリオット・グールド演じるマーロウならば、テリーに冷笑を送って踵を返し、そして、本作のシーン通り、あの一本道で最後にアイリーンとすれ違ってもおもちゃのハモニカを吹かして去っていく、ではないでしょーか? それが、マーロウの美学ではないでしょうか?

(ちなみにリンク先のあらすじには、ハリーとありますが、作中では確かにテリーと言っております。単なる間違いと思われます)

 と、思ったけれども、いや、やはり本作通りの展開が一番しっくりくるのかも、という気もしてきました。一見ヘラヘラでも頭の良い男気ある彼だからこそ、きっちりケリを付けずにいられなかった・・・。うーん、アルトマンはこっちを選んだんだよなぁ。

 どうやら、NHKのドラマの方がかなり原作に近いようです。私は、浅野忠信の演技はなかなかだったと思うけれども、ちょっと頑張っちゃってる感が見ている方に伝わってきてしまった気がするし、小雪はどうも役に合っていない気がして、ものすごくNHKが気合い入れているのが分かっただけに、残念だなー、と思ったのですが。こんなもの凄い映画が既に世に出ていたのに、NHKもドラマ化に手を出すなんて勇気ありますね。出来はともあれ、その意気込みは素晴らしいと思います。

 ところで、冒頭シーンのネコはあの後ずっと出てきません。本当にいなくなっちゃった、ってことなんでしょーか。マーロウの下へ帰ってあげてよ、ネコちゃん。原作にも出てきたんですかね、ネコ。読んでみましょうかね、春樹訳じゃないのを。
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