映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

秘密の花園(1993年)

2021-05-09 | 【ひ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv10254


 大勢の召使にかしずかれながらも、両親には愛されることなくインドのお屋敷に暮らしていた少女メアリー。ある日、インドを襲った大地震により、突然両親を失い、イギリスにいる伯父クレイヴン伯爵の下へ引き取られることに。

 海を渡り、汽車に乗り、馬車に揺られてようやくたどり着いたクレイヴン伯爵の屋敷は、荒れ野にたたずむ寂しい屋敷だった。高慢で誰にも心を許さないメアリーだったが、召使のマーサの大らかさに少しずつ心を開くようになる。

 屋敷には10年前に封印され、誰も入ってはならない花園があり、メアリーは花園の入り口と鍵を見つけてその花園へと足を踏み入れる。荒れ果てた花園をマーサの弟ディコンと共に再生させようとするメアリー。退屈に思えた屋敷での生活が楽しくなって来たある日、屋敷内のどこからか、子供の泣き声が聞こえてきて、気になったメアリーは泣き声の正体を探しに行くのだが、、、。


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 ご存じ、バーネット原作の映画化。アグニェシカ・ホランドがファンタジー??という意外な組合せに興味を引かれてレンタルしてみました。


◆「少年少女世界の名作文学」(小学館)

 メアリーが孤児になった原因が、インドを襲った大地震、、、となっていて、大地震??と疑問になり、本作を見終わった後、原作を読み直してみたら、やっぱり地震じゃなかった。コレラの大流行だった。

 原作と言っても、子ども時代に読んだ、小学館の「少年少女世界の名作文学」シリーズに収録されているもの。『モンテ・クリスト-巌窟王-』(2002)の感想文で、やはりこのシリーズのことを書いたんだけど、勘違いでゼンゼン別のリンクを貼っておりました、、、。

 それはともかく、このシリーズは全50巻で小学生時代にハマっていた。全巻読破してはいないけど、まあまあ読んだ記憶があり、愛着もあったのでいずれは親から譲ってもらおうと思っていた。が、大学進学で上京して何年かしたら、親から電話で「あの文学全集、場所とるで近所の小学校に寄付したわ。喜んでもらって良かったわ」という衝撃の事実を聞かされた。がーん、、、、「私、欲しかったのに……」とは言えなかった、、、。

 もう手元には置けないと思うと、無性に欲しくなり、、、と思いながらウン十年。ネットオークションなどがない時代は、古本屋で見かけても、全巻揃って十万円以上の値がついていることもしばしばで、到底手が出なかった。ネットオークションがメジャーになってからは時折見かけていたものの、アナログ人間にとってはどうもイマイチ信用ならん、、、という精神的なハードルが災いして、なかなか入手に至らなかった。そもそも、全巻そろって出品されていることはあまりなかったしね。

 でも、昨年の巣篭りで時間もあったので、ヤフオクを漁っていたら、なんと全50巻を24巻にまとめたものがあるのを発見! しかも値段もかなりの格安。画像を見ると少し傷みもあるけれど、十分キレイ。何しろ、50年前の本ですからね、、、。意を決し、入札に参加し、無事落札 長年の願望、、、「棚に全巻並べたい」をようやく実現いたしました。

 全50巻でも1冊ずつはそれなりの厚みがあったのに、全24巻て、内容を端折っているのでは?と思ったけれど、どうやら全部網羅されている。装丁も記憶のまま。唯一違うのは、1冊ごとのカバーがないこと。でもまあ、それは仕方がない。内容も装丁も、おまけに状態もかなり良いものを入手でき、やっと手元に“取り戻せた”気分。“手元にあって、手に取りたいときに手に取れる”ことが大事なのよ、本は。

 ランダムに読み直しているけど、子供用にリライトされているとはいえ、大人が読んでも十分耐えられる内容で、やっぱり素晴らしい。「秘密の花園」が収録されている巻には、ほかに、バーネットの「小公子」「小公女」も収録されており、村岡花子が解説を書いている。
 
 40年ぶりくらいに読み直してみて、本作は割と原作に忠実に映像化されていると分かりました。


◆子供は最強。

 原作では、メアリーは「醜い子」とされているけれど、それは顔が不細工という意味ではなく、性格がねじくれていて、それが顔に出ているということなんだと思う。演ずるケイト・メイバリーは最初からすごく可愛い。インドからイギリスに来てマーサと仲良くなるまでは仏頂面だったけど、仏頂面も可愛かった。

 このマーサが実に良い子。大らかで優しく思いやりのある子で、こんな子と四六時中一緒にいれば、メアリーの性格もだんだん真っ直ぐになっていくというもの。徐々に、荒れ野での生活に馴染んで行くメアリーもまた可愛い。

 メアリーが花園を見つけるときに出会うのが、マーサの弟ディコンなんだが、このディコンも実に良い子なんだよねぇ。おまけに優しくて賢い。原作では、マーサとディコンの母親が非常に賢い人だと書いてあった。……納得。で、そのディコンとメアリーは仲良くなって、花園を再生させていくのだけれど、さすがイギリス、実に美しく変貌していくので、これだけでも目の保養になる。

 屋敷で聞こえる泣き声の主は、クレイヴン伯爵の長男コリン。病弱でベッドで寝たきり、部屋から一歩も外に出ない少年。メアリーと出会って、外の世界に興味を持ち、部屋から出て花園へ行き、歩けるようになる。ついでに、せなかにこぶのある(原作では“せむし”とされている)クレイヴン伯爵も、元気になる。めでたしめでたし、、、。

 というわけで、ストーリーとしてはたわいないお話でほとんどファンタジー。病弱で歩けない子が、外気を吸って元気になり歩けるようになるというのは、ハイジとも似ている。ハイジは1880年に発表されているようなので、本作の原作(1911年)より大分前になる。

 ただ、親の愛情を受けられない子供が、思いがけない環境の激変によって、人との交わりに歓びを感じ、人を愛することを知って行くというお話は、定番とは言え、いつの時代も人の心に響くものなのだと思う。


◆原作より良いラスト。

 で、原作を読んでみて、本作のラストは良い方に補正され、作品としてむしろ原作より完成度が高くなっているかも知れないと感じた。

 というのも、原作のラストはメアリーの存在がまったく無視されているのだ。コリンが歩けるようになり、長旅に出ていたクレイヴン伯爵が屋敷に戻って来てからは、ほとんどメアリーは話に出て来なくなってしまう。

 けれども本作は、ラストまできちんとメアリーの存在感をクレイヴン伯爵とのシーンで見せていて、今後のクレイヴン伯爵とコリン、メアリーの幸せな関係性を予感させるエンディングになっている。見ている者としては、このラストの方が遥かに救われるし幸福感を感じられると思う。

 原作より映画の方が優れているというケースは少ないと思うが、本作は、原作よりも鑑賞後感(読後感)は大分良い。リライトされていない原作を読んでみなくては。

 家政婦長とされているメドロックさんだが、彼女は多分ガバネスだったんではないかなぁ。そのまま屋敷に居ついて家政婦長になっているのではないか。あのクレイヴン伯爵への態度を見ていると、ガバネス独特のものを感じたのだけれども、、、。そのメドロックさんを演じていたのは、あのマギー・スミスさまでございます。彼女が出てくるだけで画面が引き締まる感じがしたわ。

 メアリーも可愛かったが、私が一番気に入ったのは、ディコン♪ ホントに可愛い。動物たちとも仲良しという設定で、小鹿やウサギ、小鳥などいっぱい出てきて、それも楽しい。あんなシークレットガーデン、あったら私も毎日入り浸りたい、、、。

 背中に瘤があり、めったに屋敷に帰って来ないクレイヴン伯爵だが、実際はフツーにジェントルマンである。原作でもほぼ同じような描写だった。コリンを産んですぐに愛する妻が亡くなったから、コリンと向き合うのが辛い、、、という理由で旅ばかりしているという設定なんだが、コリンが歩けるようになったら、父親の自覚が芽生える、、、って随分勝手なお父さんだなー、と思ってしまった。まあ、気持ちは分からんじゃないけど、放っておかれたコリンが気の毒過ぎる。

 コリンも可愛かった。……けど、やっぱり私がメアリーだったら、ディコンのこと好きになっちゃうなー、多分。……てか、この3人の少年少女は、成長したらかなりマズい三角関係に発展しそうな気がするゾ。『執事の人生』みたい!(時代背景がゼンゼン違うけど) それはそれでロマチック映画になりそうだ。二次創作とかしたら面白いかも、……しないけど。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

原作の世界観を美しく再現した逸品。

 

 


 

 


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羊飼いと風船(2019年)

2021-02-21 | 【ひ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv72151/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 チベットの草原地帯。タルギェ(ジンバ)とドルカル(ソナム・ワンモ)の若夫婦は、祖父とジャムヤン以下3人の息子を抱える三世代の家族として、牧畜で生計を立てながら暮らしていた。昔から続く、慎ましくも穏やかな日々。しかし、受け継がれてきた伝統や価値観は近代化によって、少しずつ変わり始めていた。

 そんなある日、風船にまつわる子どもたちの些細ないたずらが、家族の間にさざ波を巻き起こし始める。

 変わりゆく時代の中、ただ願うのは家族の幸せ。

 羊を売ってジャムヤンの進学費用に充てようとするタルギェ。ドルカルの妹・シャンチュ(ヤンシクツォ)と元恋人タクブンジャの再会。やがて訪れる祖父の死と新たな生命の誕生。

 それぞれの想いは交差し、チベットの風に吹かれ浮遊していく。

=====ここまで。

 チベットにもフェミニズムの風が吹く、、、。


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 予告編を見て、見たいと思いながらも緊急事態宣言中だし、、、とか何とか、ウダウダしていたんだけれど、先日ようやく平日の昼間に見に行くことが出来ました。相変わらずのガラガラの劇場、、、。経営は大丈夫なんだろうか。


◆困っているのは、ここでもなぜか女性だけ。

 本作のポスターになっている、少年たちが膨らませた風船を持って走る図の“風船”は、大人が見ればそれは大体アレだろう、と察しがつくわけだが、見れば実際そのとおりで、親の寝床から見付けてきた子どもたちがそれを膨らませて遊んでいるという光景から、本作は始まる。風船=コンドームは、親たちにとっては必需品だった。

 避妊にまつわる男女の認識の違いはいずこも同じで、チベットでも、この夫・タルギェは「避妊<性欲」で、そのツケは漏れなく女が払わされる。避妊を嫌う男は多いらしいが、本作でも、妻・ドルカルは、タルギェの強引さに屈してしまい、案の定妊娠する。

 これ以上は産めば罰金が課せられるし、何より、牧羊での生活は楽でなく、子が増えればさらに余裕がなくなるのは火を見るより明らかで、ドルカルは産むことを躊躇する。すると、夫はそんなドルカルを詰り、挙げ句横面を張るという暴力に及ぶ。その後、タルギェはドルカルに謝るものの、「産め」は変わらない。

 しかも、厄介なのは、この地域では「転生」が信じられており、ドルカルが妊娠するのと前後して、タルギェの父親が亡くなっていることから、妊娠した子はその父親の生まれ変わりだとか言われて、さらにドルカルは追い詰められる。堕胎手術をしようとしているところへ、タルギェと長男が「じいちゃんの生まれ変わり」を切り札に止めにやって来るんだから、見ていてやり切れない思いになる。

 『主婦マリーがしたこと』(1989年)では、イザベル・ユペール演ずる主婦・マリーが、妊娠して困っている女性のために堕胎の手伝いをするのだが、この映画でも、やっぱり妊娠して困っているのは女性だけ。妊娠させた夫たちは脳天気もいいとこ。何なのかねぇ、、、こういう構図。

 もう20年近く前の話だが、友人が2人目を妊娠し、どうやら胎児に問題があるらしいと割と早い時期に分かって、友人は夫が基本的に家事・育児に非協力的なことや、漠然とした不安もあって、産むかどうかを躊躇したんだけれども、そのときにその夫はかなり軽い感じで「産めば? 何とかなるんじゃない?」と言ったそうだ。友人は専業主婦だから、夫が家事・育児に非協力的なのはある程度我慢していたが、この言葉は非常に哀しかったと言っていた。結局、その後、友人は流産してしまったのだが、本作を見ながら、私はこの友人のエピソードが頭をよぎっていた。

 産んだ後のことを具体的かつ現実的に考えることが、男には出来ないのか?? そんなはずはないだろう、、、と思うのだが。男は“産まない”から分からない、とかTVで言っている人も見たことがあるが、現在自分たちが置かれている状況、経済力、等々を俯瞰して、子が増えるとどうなるか、、、ってのが、何故シミュレーションできないのだ? 謎すぎる。

 本作では、最終的に妻がどういう選択をしたのか(堕胎したのか否か)は明示されない。ラストシーンの描写から、恐らく、妻はあの後、やはり堕胎するんだろうと、私は解釈した。

 産むか産まないかの決定権は、女性のみにある。残念ながら、男にはその決定に注文をつける権利はないのだ。


◆検閲、赤い風船、羊、、、。

 本作は、ペマ・ツェテン監督の手による脚本で、原作小説も、監督自身が書いている。パンフのインタビューによれば、ラストシーンとなった“空に浮かぶ風船”をたまたま目にして、それがインスピレーションとなり脚本を書いたが、内容が本作より直截的だったのか、検閲でボツとなったらしい。で、小説として発表したところ、しばらくして映画化の話が持ち上がり、改めて脚本を書き直して、検閲をパスしたのだそうだ。

 検閲、、、ってやっぱり現実にあるのね。本作の内容でも、まあ、これで検閲よく通ったな、、、と思う部分もなくはないが、体制批判には直結していなければ良いのかな。

 そして確かに、ラストシーンは印象的だった。コンドームではない本物の風船を欲しがっていた兄弟に、父親が赤い本物の風船を2つ、街で買ってきてプレゼントするが、1つはすぐに割れてしまい、もう1つはその直後に子の手から離れて空に上って行く。青空を上って行く赤い風船を、夫、子どもたち、妻とその妹が、それぞれ別の場所から見上げる、、、というシーンで終わる。2つの本物の赤い風船が、どちらも、すぐに壊れたり飛んでいったりするところが、暗示的。

 あと、羊がたくさん出て来て、牧羊のリアルな様子が伝わってきたのも良かった。精力旺盛な雄羊、2年子羊を産まない雌羊がメタファーとして描かれ、羊の消毒作業や、当然解体の描写もある。

 パンフには、舞台となったアムド(東北チベット)の民族衣装や住まい、食事などの暮らしの様子が分かりやすく絵解きされていて、こういうパンフは素晴らしい。驚いたのは、灯明が自家製のバターを使った“バターランプ”というもの。バターが燃料になるのか、、、。

 この家族のこの後のことを想像すると、しかし、あんまり楽観的な気分にはなれないなぁ。堕胎によって、夫婦には溝が出来るだろうし、そもそも牧羊の生活は厳しそうだし、、、。仲間と助け合って生きていくとはいえ、時代の波には抗えなさそうな気がする。それが、そのまま家族の崩壊にはならないだろうけど、荒波をどう乗り越えるのか、、、想像しにくい。やはり、子どもたちには教育をつけて都会へ、、、というパターンなんだろうか。

 

 

 

 

 


チベット、一度は行ってみたい。

 

 

 


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曳き船(1941年)

2021-01-19 | 【ひ】

作品情報⇒https://www.allcinema.net/cinema/319145

 

以下、アンスティチュ・フランセ東京HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 港町ブレスト。曳き船サイクロン号の船長アンドレは、難破した船を救助した際に知り合った謎めいた美女カトリーヌと恋に落ちる。二人は海辺の家で密会するようになるが、長年連れ添った妻イヴァンヌは心臓の持病を抱えていた…。

=====ここまで。

 アンスティチュ・フランセ東京なんて大分前に一度行ったきり、、、。ちなみに、今回鑑賞したのは自宅でDVDで、です。


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 またまた、どうしてリストに入れたか記憶にない作品が送られてきました。大分前に入れておいたものだと思われますが、、、。古いフランス映画はちょっと苦手というか、私の鑑賞力が低いので、良さがイマイチ分からないのです。でもまあ、本作は名画と言われているのが、ちょっと分かる気がしました。内容的にはいまいちピンと来ないですが。


◆2人のジャンによる名画(だそうです)

 主演は名優ジャン・ギャバン、監督は知る人ぞ知る人らしいジャン・グレミヨン。ジャン・グレミヨンという名は、私は本作で初めて知りましたが。

 ストーリーについてはとりあえずおいといて、、、。名画と言われているのが分かった気がすると書いたけど、それは、途中で船が嵐に遭遇するシーンがあるのだけど、それが明らかにミニチュアであるのに、実に迫力があって、見応えがあったからです。……なんてことを書くとヒンシュクを買いそうだけど。

 モノクロのあんまりキレイじゃない画質だったんだけど、それでも、とても映像が美しい。ジャン・ギャバン演ずるアンドレと、ミシェル・モルガン演ずるカトリーヌが砂浜を歩くシーンや、その後、小屋で密会するシーンなど、技術的なことは分からないけど、2人が恋仲になっていく心の高揚感が画面の明るさと風景や部屋の中からの海の情景に表れていて、メロドラマとしては見せてくれる。

 オープニングのパーティシーンでは、ワンショットではなかったかもだけど、今で言うならドローンで撮影したんじゃないかという俯瞰映像なんかも出て来て、あら~スゴい、と思った。

 あと、ジャン・ギャバンはやっぱり存在感ありますな。決してイケメンではないけど、イイ男。本作撮影時は36歳くらいだと思われるけど、イマドキの36歳とはエラい違い。40歳過ぎているのかと思ったわ。……やはり、人の顔って、時代とともにだんだん幼くなっている気がする。これは、日本の俳優陣もそうだけど、外国の俳優陣見ても感じる。 

 ミシェル・モルガンはクセのある美人。この頃、21歳くらい。ジェラール・フィリップとも『夜の騎士道』で共演している。wikiによれば2016年に亡くなっているみたいだが、ご長寿だったのね。

 ……とまぁ、見どころはこんなところか。


◆以下どーでもよい話。

 名画なんだろうけど、内容的にはちょっとね、、、。不倫モノでもメロドラマでも、良い映画は良いと思うけど、本作は、どうもなぁ、、、。

 アンドレは、カトリーヌと不倫の恋に落ちる前から、妻に、不在がちな仕事を辞めて、もう少し一緒に居る時間を作って欲しいと再三言われていたんだが、取り合わなかった。妻は、自分が心臓が弱いことをアンドレに隠して、「一緒に居たい」を連発していたわけ。

 この妻の、自分の病のことを言わない、、、っていうの、何かイヤだなーー、と。言わなきゃ分かんねーよ、と思うのよ。で、妻は夫が仕事を変わってくれないからと勝手に悲しむんだけど、そらそーだろ、と。事情を知らない夫にしてみりゃ、一生懸命この仕事をしているのに、それで妻を養っているのに、何でそんなにしょっちゅう文句言われなきゃいけないんだよ? と、普通の人間なら思うだろう。

 妻が、病のことを敢えて夫に言わない理由って何だろう? と考えると、それは恐らく、言えば夫を心配させるから、、、だと思われる。病が命に関わるものだとまでは思っていなかった、、、てのもあるかも知れない。医者に診せるシーンがあって、医者も妻には「大丈夫、、、」と言いながら、友人には「危ない」みたいなことを言っていた。

 で、アンドレがカトリーヌとこそこそ逢っているときに、妻の体調が急変し危篤状態になって、アンドレの部下が2人の密会場所にアンドレを呼びに来る。すると、まあ当然かも知れないけど、カトリーヌは急に「奥さんのところに早く行ってあげて」みたいな感じになり、アンドレも驚き打ちひしがれたようになって妻の下へと向かう。そして、死の床にある妻に縋って、後悔の念に苛まれる、、、。

 妻が死にそうになって初めて、夫は自分の身勝手さに気付き妻に詫びるってさぁ、、、こういう展開、あんまし好きじゃないです。そう、人の死を話の「転」にしている典型的なストーリー。『Red』の感想文にも書いたが、どうもね、、、。

 ずっと前に、TVで江口ともみさんが、夫(つまみ枝豆氏)と、どんなにケンカして罵り合っても、出掛けるときは必ず笑顔で「行ってきます」「行ってらっしゃい」の挨拶を交わすようにしている、と言っていた。なぜなら、それが今生の別れになる可能性がいつでもあるからだと。どちらかが事故に遭うかも知れない、とか。ご自分が事故に遭ったから、と言っていた気がする。

 私も、若い頃、大事な人が突然病に倒れて、その後コミュニケーションが全くとれなくなってしまったことがあり、こういうことって、本当に突然起きるものなのだ、、、と愕然となり、もう何十年も経った今でもほとんどトラウマになっている。だから、私もウチの人とケンカ(というか、私が一方的に文句を言うパターンがほとんどだけど)した後は「行ってきます」「行ってらっしゃい」を、笑顔でというわけにもいかないけど、仏頂面でも引きつった笑顔でも、とりあえず必ず言うように気を付けている。ウチの人は基本アバウトなので、リセットも早くて挨拶もちゃんとする人なんだが、そのアバウトさ、リセットの早さが、またムカツクこともあり、、、。

 ……いや、何の話だ。だから、つまり、このアンドレも妻も、どちらも身勝手な夫婦だな、と感じちゃったのね。若いうちはそんなもんだけど、妻が死にそうになって豹変する夫も身勝手だし、自分の病気のことをきちんと話さない妻も身勝手。しかもアンドレは、愛人ともあっさり別れる。何ソレ? そういうのを自己憐憫というのです。身勝手を貫けばイイじゃん。

 妻がそんなことになったんだから、そりゃそーでしょ、と言われるかもだが、カトリーヌに「愛してる」だの「離れたくない」だのと言っていたアレは何だったのサ。

 まぁ、心臓の悪い妻が死んで、喜んで愛人と一緒になる、、、というと『悪魔のような女』になっちゃうけど、私は、そっちの方が好きだわ。人を好きになるって、そういうことだと思うんだよね。

 だから、アンドレが、妻が死んでも、自分のこれまでの生き方を安易に後悔などせずに(とはいえ妻の葬式はきちんと出すにしても)、最終的にはカトリーヌの下へ行く、、、というラストだったら、私はもっとをたくさん付けたと思う。

 
 

 


 

 

 

 

 

名画を見る目がなくてすみません。
 

 

 

 


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評決(1982年)

2021-01-11 | 【ひ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv7453/

 

 フランク・ギャルビン(ポール・ニューマン)は、かつてはやり手の弁護士だったが、ある事件に巻き込まれて転落、、、今や飲んだくれアル中で、新聞の死亡欄を漁って仕事を探す日々。

 ある日、医療過誤事件の弁護を依頼される。依頼者は示談金をもらえれば良いと、楽勝のはずだったが、事件を調べるうちに、フランクの中で正義感が頭をもたげ、病院側からの示談を蹴って、裁判へと持ち込む。

 しかし病院側の弁護士は、勝つためなら手段を選ばないと悪名高いコンキャノン(ジェームズ・メイソン)で、フランクは、当初有力な証人として証言を依頼していた医師がなぜか長期不在になるなどして戦略が狂い、追い詰められていく。

 万策尽きたかと肩を落とすフランクだが、ある書類の記述に目が留まり、当時、病院の受付係をしていた女性が何かを知っているのではないかと察して、彼女の連絡先を入手しようとするが、、、。


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 年明け最初に見た映画。今年は、また劇場に行く機会が減りそうな予感。スガは一ヶ月で絶対押さえ込むとか寝言をほざいているけれど、今の状況を見て一ヶ月で収まるわけねーだろって、素人でも分かるわけで。パワハラで成り上がっただけの、知性も適性もない名ばかりソーリはさっさと引退してくれ。

 それにしても、見たい映画は数あれど、どうしたもんだか、、、。今の医療体制を思えば出歩く気にはならないが、見たい映画は、やっぱり見たい。まあ、とりあえず、引きこもりの間はDVDでも見るしかないですね。


◆ダメダメ弁護士

 あらすじには書かなかったけれど、フランクの戦略が狂うのは、シャーロット・ランプリング演ずる謎の美女・ローラがスパイだったからです。彼女はホントに品があって美しい、、、。もう、惚れ惚れしてしまう。

 居酒屋で出会ったローラとフランクがあまりにもあっけなく男女の関係になるもんだから、ハレ??となったが、案の定ウラがあったということだ。フランクが無防備すぎるとも言えるが、あの出会い方だったら疑いを持たないのもムリないかもなぁ、、、とも思う。

 しかし、ローラは次第にフランクに本気になってしまい、自分がスパイでいることが苦しくなってくる。コンキャノンから小切手を渡されたときに涙を浮かべていたシャーロット・ランプリングの美しさよ、、、。こっちまで切なくなってくる。

 思い悩んだローラが真実をフランクに打ち明ける前に、フランクの友人がローラの正体を見破り、フランクに教えてしまう。その後、ローラと直接会ったフランクが、ローラをいきなり顔面パンチするのは、気持ちは分かるが、いただけない。まぁ、どっちが酷いことしているかといえば、どっちもどっちなんだが、、、。

~~以下、ネタバレしています。~~

 結局、フランクは自力で病院の受付係をしていた女性を探し出し、重大な証言を得て、法廷で彼女に証言させたことで勝利を得る。ヨレヨレ弁護士だったフランクが、久しぶりにバリバリ弁護士になった瞬間だろう。

 映画としては、良かったね、、、だけれど、見ていてかなりツッコミ所が満載で、フランクが勝ってもカタルシスはあまり感じられなかった。

 そもそも、彼は相手の示談話を、依頼人の意向を確かめもせずに蹴って、勝手に裁判に持ち込んでいる。これは、かなりダメなんじゃないの? 案の定、依頼人の怒りを買って殴られそうにさえなる。見ていて全然フランクに肩入れする気になれない。そらそーだろ、としか思えない。

 さらに、当時の受付係の女性の証言だが、それを裏付ける証拠が、書類の原本ではなくコピーだったため、相手のコンキャノン弁護士のゴリ押し異議申立てが認められて証拠採用しないと裁判長が判断している。しかし、あまりにもあからさまな病院側の過失を証明する彼女の証言内容だったため、結果的に、陪審員が裁判長の判断を無視した形で、病院の過失を認める結論を下したことになる。これも、法的にどーなの??って話。……まあ、この裁判長も、あり得ないくらいヘンなんだが。

 フィクションだからそんなことどーでも良いって話じゃないでしょ、ここは。陪審員制度の問題点なんだろうけど、あの裁判長といい、フランク自身の仕事ぶりといい、ちょっとなぁ、、、という感じ。

 もっと言うと、美しいシャーロット・ランプリング演ずるローラの存在意義が非常に薄いことも難点。ほとんどいなくても成立する話。フランクの動きなど、コンキャノンの事務所くらいのレベルなら、あんな安っぽいスパイを送り込まなくても十分探りを入れられるだろう。フランクは脇が甘いし。ローラとのエピソードは、何のためにこの話に盛り込んだのか、不思議なくらい本筋に絡んでいないどーでもよい話になっている。むしろ、あんな色恋要素を入れない方が、もっとピリッとした話になったんじゃないのか。


◆ポール・ニューマンとか、その他もろもろ。

 ポール・ニューマンって、私にとって今までかなり存在感の希薄な俳優だったんだけど、本作を見て見方がガラリと変わったわ~。

 何しろカッコイイ。いや、今までもカッコイイとは認識していたが、そんなに“ステキ~!”って感じではなかった。彼が『ダーティ・ハリー』の主役のオファーを蹴って、イーストウッドにお鉢が回ってきたというエピソードは有名だが、あのハリー・キャラハンとポール・ニューマンってゼンゼン合わないやん!とずーーっと思ってきたけれど、今回のフランクを演ずる彼を見て、ポール・ニューマンのハリー・キャラハンも見たかった、と思ってしまったほど。

 終盤、裁判で勝って注目を浴びている彼よりも、アル中でどうしようもないフランクの方がステキだな~と思ってしまった。何か、人生に敗れてトボトボと歩いている背中とか、哀愁漂っていてセクシーだった。若い頃のポール・ニューマンより、この頃の方が渋くて魅力があるわ~。

 また、敵であるコンキャノンを演ずるジェームズ・メイソンのふてぶてしさが素晴らしい。悪役を魅力的に演じられる役者って、やっぱり素晴らしいと思うわ。ちょっと形勢不利になると、微妙に焦りを見せるけれど、なんとか自分に有利な方向に持っていく強引さとか、実に巧いなぁ、と。

 しかし、それを上回る憎々しさを見せていたのが裁判長を演じたミロ・オーシャ。もう、あまりにも偏向判事で、あり得んだろ!!って感じだった。あんな裁判長、アメリカには居るのかね? ……というか、日本でも居るのかしらん? あんな裁判長に裁かれるの、イヤなんですけど、、、。というか、ミロ・オーシャが演じていたから、余計にあり得なさが強調されていたような。ミロ・オーシャといえば、ゼッフィレッリの『ロミオとジュリエット』の神父役が印象的だが、本作でも存在感抜群であった。

 あと、ラストシーンが意味不明、という感想をネットでも見たが、あれは大人の恋愛話の終わり方としては余韻があって良かったと思う。ローラの存在意義が薄いと書いたけれど、ローラの存在があったからこそ、あのラストシーンが成立するわけで。だからこそ、というか、あのラストシーンを活かすためにも、ローラがスパイであることを、ローラ自身の口からフランクに告げさせるべきだったと思うのよね。んで、終盤、ローラに重要な役割を担わせる展開にした方がロマンスと並立させることが出来て良かったんじゃないかなぁ。あまりにもシャーロット・ランプリングの使い方がもったいなさ過ぎる。

 監督は、シドニー・ルメット。本作では、陪審員たちがなぜ裁判長の指示を無視した結論を出したのかが謎なんだけど、デビュー作『十二人の怒れる男』のように、陪審の評議もちょっと見たかったかも、、、。

 ネットを見ていたら、ポール・ニューマンとイーストウッドのツーショット画像を発見したので、貼っておきます(画像はお借りしました)。

 

 

 

 

 

 

あの後、フランクとローラは、、、
 

 


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ひとよ(2019年)

2021-01-06 | 【ひ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv67696/

 

以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 どしゃぶりの雨降る夜に、タクシー会社を営む稲村家の母・こはる(田中裕子)は、愛した夫を殺めた。それが、最愛の子どもたち三兄妹の幸せと信じて。そして、こはるは、15年後の再会を子どもたちに誓い、家を去った—

 時は流れ、現在。次男・雄二(佐藤健)、長男・大樹(鈴木亮平)、長女・園子(松岡茉優)の三兄妹は、事件の日から抱えたこころの傷を隠したまま、大人になった。

 抗うことのできなかった別れ道から、時間が止まってしまった家族。そんな一家に、母・こはるは帰ってくる。

 「これは母さんが、親父を殺してまでつくってくれた自由なんだよ。」

 15年前、母の切なる決断とのこされた子どもたち。皆が願った将来とはちがってしまった今、再会を果たした彼らがたどりつく先は—

=====ここまで。


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 邦画が続いております。たまたまです。

 本作も、公開時にちょっと話題になっておりましたが、これまた、劇場まで行く気にもならず、、、。そして、これまたDVDで十分でございました。 


◆また小説家を目指す人、、、

 田中裕子演ずるこはるが夫を殺した理由は、この夫がどうしようもないDV男だったから。

 DVは、私自身も身近にも体験者がいないので、実感としては分からないのだが、こういう“自分より非力な者に暴力を振るう人間”というのは、ある日突然そうなるものとは思えず、ずっと以前からそうだったんじゃないのかなぁ、、、と思うのだが、どうなんだろう。

 何が言いたいかというと、こはるは、恐らく、結婚した後、割と早い時期から夫に暴力を振るわれていたのではないか、ということ。で、そんな夫との間に、3人も子がいるのはなぜ?? と思ったのだった。……が、これは自分でも愚問と思ったというか、逃げられなかったんだろうな、とすぐに察しがつくよね。だからこそ、殺すしかない、、、というところまで追い詰められていたんだろう。こはるの場合、計画性はまるでなく、発作的にやってしまった、、、という感じだった。

 実際、DV夫と“きちんと別れる”ことは非常に難しいのだろう。配偶者暴力防止法なんてものがあるわけだし、DVをテーマにした映画は洋の東西を問わずに作られている。ネットの本作の感想で、「どんな理由があったにせよ、殺人は許されないから、そこはマイナス」みたいなことを書いている人がいたが、こういう感想を書く人って映画に何を求めて見ているのかね? まさに、そういう発想がネットやメディアリンチを産んでいるわけだが、自覚あるのかな?

 本作内でも、お約束のようにメディアリンチが描かれている。そして、3兄妹はこういうのに苦しめられたがゆえに、こはるに対する感情も三者三様になった。まあ、どの子の感情もちょっとずつ分かる気がする。私だったら、長男くんと同じ態度に出る気がするなぁ。

 ちょっとずつ分かるとは書いたが、佐藤健演ずる雄二の「アンタがあんなことしなきゃ、オレらは暴力に耐えてれば良かった、(殺人者の子として)苦しまずに済んだ」というこはるへの言葉は、ちょっといただけない。それは、君があの時点から暴力を受けずに済んだから言えることじゃないのかね? 別にだから、こはるに感謝しなさい、と言いたいのではない。下手したら、君はあの暴力父に殺されていたかもよ? いや、お母さんが殺されていて、どっちにしても殺人者の子になってたかもね、、、。もっと言っちゃえば、君のような性格だったら、君自身が父親を殺していたかもよ? ということ。つまり、コトはそう単純じゃないでしょ、って話。小説家を目指している人の割に、あまりに思考が浅くて軽薄、と感じた。

 『ミセス・ノイズィ』の真紀といい、雄二といい、小説家を目指す人、ダメじゃん。


◆終盤で置いてけぼり、、、。

 本作は、大変なことがあって崩壊しそうになった家族が、どうにか修復する、、、というお話。一番、その修復でネックになっているのが、雄二の心なんだが、最終的には氷解して、一応、ハッピーエンディングである。

 その、雄二の心が氷解することになった出来事が、佐々木蔵之介演ずるタクシー運転手・堂下とのカーチェイスなんだが、私は、あの終盤のシーンがイマイチよく分からなかった。今は真っ当に生きている元ヤクザの堂下が、息子との揉め事でヤケッパチになり、酒を飲みながらタクシーを暴走させるんだが、そのタクシーにこはるを乗せている。この、こはるを乗せることになったいきさつが、私にはよく分からなかったので、その後、3兄妹の乗った車と、堂下のタクシーのカーチェイスは、まったくもって???だった。

 おまけに、その後、こはるをタクシーから救出するんだが、雄二と堂下が取っ組み合いのケンカをして、そんでもって、雄二は母のこはるを許すことになる、、、という展開が、さらに???で、着いていけなくなった。

 何か非常に強引な展開で、強引でも納得させられるんなら良いんだが、、、。本当は雄二はこはるのことを最初から許したかったんだ、、、みたいな描写だったような気がするが、うぅむ、、、分からん。

 ……というわけで、一番大事な終盤の展開で着いていけなくなったので、の数が少ないのだけど、真面目に作られた映画だとは思う。役者さんたちは皆良い演技だったと思うし。

 ネットの評判を見ると、本作は、コメディと受け止めている人もいれば、重たい家族の話と受け止めている人もいるようだが、私にとっては、見終わって、ふーん、、、、で終わってしまった映画だった。

 

 

 

 

 

 

感動する邦画に出会いたいなぁ。
 

 

 

 


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ビリーブ 未来への大逆転(2018年)

2019-04-03 | 【ひ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv66856/

 

 

以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 アメリカの貧しいユダヤ人家庭に生まれたルース・ギンズバーグ(フェリシティ・ジョーンズ)は、すべてに疑問を持てという亡き母の言葉を胸に努力を重ね、名門ハーバード法科大学院に入学。だが1956年当時、500人の学生のうち女性は9人、女子トイレすらそこにはなかった。

 家事も育児も分担する夫マーティ(アーミー・ハマー)の協力のもと、大学を首席で卒業したルースだったが、法律事務所で働くことは叶わなかった。当時は女性が職に就くのが難しく、自分の名前でクレジットカードさえ作れなかった時代。やむなく大学教授になったルースは、70年代になってさらに男女平等の講義に力を入れ始めるのだった。

 そんなある日、弁護士の夢を捨てきれないルースに、マーティがある訴訟の記録を見せる。ルースはその訴訟が、歴史を変える裁判になることを信じ、自ら弁護を買って出るのだが……。

=====ここまで。

 この頭の悪そうな邦題は、どうにかならんのか???

 

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 現役、連邦最高裁判所判事のルース・ベイダー・ギンズバーグの実話と聞けば、そりゃ一応見ておこうって思うわね。なので、サービスデーに見に行って参りました。

 

◆不条理炸裂

 見ている間中、モーレツに腹の立つ映画だった。特に後半、ルースが法廷に立つ決意をしてから。

 70年代といえば、歴史の流れで言えば、まだついこないだと言っても良いくらい(少なくとも私は生まれていた)。日本で、男女雇用機会均等法が施行されたのが1986年だから、10年ちょっと前の話。それでこれかい、、、と思うほどに、そこに描かれている状況は、最低最悪だった。

 どう最低最悪だったかは、ここでグダグダ書き連ねるよりも、本作を見た方がゼッタイ良いので割愛するが、まぁ、とにかく、男ってだけで、あるいは、女ってだけで半ば生き方を社会に決めつけられるという点が最悪を通り越して、地獄。本作は、性差別により被る損害について、女性に焦点を当てているかに見えるが、実は、性差別により被害を受けるのは女だけじゃない、ってことを描いている点が、なかなか好感を持てる。

 つまり、男だから〇〇、女だから〇〇、と勝手に決められ、それに従って法律が作られ制度化されることの不合理さは、何も女だけが感じるものじゃない。ただ、まあ女の方がより不合理さを感じることが多いのは確かだろうけれど。

 ルースは、人生を懸けて挑んだ訴訟の法廷で、いきなりピンチに追い込まれる。しかし、相手(被告)の弁護士の言い草を聞いて、冷静に怒りの反撃に出たのだけど、このルースの反論は実際の法廷で行われたものと、多分、そんなに違わないだろう。そう思うと、大変感動的だった。彼女は、女は不利だということを訴えるのではなく、性別役割分業制の不合理さを判事に向かって説いたのだ。こんな弁論ができる彼女は、やはり素晴らしく頭の良い人なんだと圧倒される思いで見ていた。

 そして、ルースがここまで仕事ができたのは、ひとえに理解のある夫・マーティの存在のおかげ。こんな状況の世の中で、マーティはルースが仕事をすることに非常に協力的で、家事も育児も“手伝う”んではなくて、自らが積極的に担うという、、、あの時代にどうしたらそういう男性が出来上がったのか、その生育環境に非常に興味を抱いてしまった。残念ながら本作ではそういった側面にはノータッチで分からないけれど、これはおいおい調べてみようかと思う。

 最後の法廷シーンで一応、観客の溜飲を下げてくれるが、それまでがかなりストレスフルな映画だった。

 

◆育休明けの妻に取り残される夫。

 性別役割分業を制度化されることで、女の方がより不合理さを感じることが多いと書いたけれども、実は、本当の意味では男も相当、社会に搾取されているのだ。本作はそこに切り込んでいるから面白い。

 昨今の働き方改革の動きなどを通しても言われているように、結局、一見男にとってのみ都合の良い男社会は、実は、男をとことん酷使することで成り立っており、つまりは、男社会とは名ばかりで、男も“人間扱い”されていなかった、という悲惨な事実が露呈しているのである。男を優遇しているようで、実は男たちは社会の駒として動かしやすいように制度設計に組み込まれていただけってことに、いい加減、男たちも気付いた方が良い。

 たまたま、今日、あるネット掲示板である男性のグチを読んだんだけど、「妻(能力のある女性らしい)が育休を終えて社会復帰した途端、家事がおろそかになっただけでなく、夜遅く自分が帰宅したときには既に妻は寝ており(夕食は準備しておいてくれるらしい)、時には夫婦生活も拒まれることが発生している。働き出してから急に妻はキレイになって生き生きしているが、自分は孤独感に襲われとても寂しい。妻に専業主婦に戻ってもらいたい」みたいな内容で、弁当を食べながら読んだ私は、噴き出しそうになって、まさに“噴飯モノ”。

 でも、こういう男はいまだに多いだろうと思われる。しかしよく考えてみれば、妻が起きていられないような時間にしか帰れないという現実、妻に身の回りの世話をしてもらわないと孤独を感じてしまう精神の貧しさ、それらは、性別役割分業のもたらしたものでは? 男だからって、仕事に人生奪われて良いのか? 充実した人生ってそういうこと?

 性差別は、男と女のどちらかの問題ではない。これに気付いていない男も女も結構多い気がする。マチズモ思想の男は論外だが、ミソジニーは男に限ったことではない。女が女の脚を引っ張っているケースはたくさんある。

 私は、第一号ではないが均等法世代でバブル末期に社会に出たけど、当時も、十分男社会だった。悔しくてこっそり涙を流したことは一度や二度ではない。その頃を思えば、大分世の中の意識は変わって来ていると思うし、まだまだな部分が多いとは言え、私はそれほど悲観もしていない。何より、私が見た回が満席だったということが、世の中捨てたモンじゃないということの証だと思う。

 

◆その他もろもろ

 フェリシティ・ジョーンズは、可愛らしい感じで、ルースのイメージとはちょっと違うかな。実際のルースの若い頃の写真を見ると、もの凄い美人で、キリッとした感じ。今のルースもキリッとして美しいが。でも、信念を持って闘う女を好演していた。

 理解ある夫・マーティを演じていたのは、アーミー・ハマー。キレる弁護士というよりは、『君の名前で~』のオリバーのイメージの方がやっぱり彼には合っている気がする。まあ、でも楽しそうに料理している彼は非常に素敵な夫だった。

 結婚して間もない頃に、マーティが生存率5%の精巣癌に罹るというエピソードも出て来て、何とも言えない気持ちになったが、その5%になったのだから、ある意味スゴイ。そしてまた、彼の療養中のルースの八面六臂ぶりが凄まじい。

 前述の同じ掲示板で、多分私と同年代の女性と思われる人のこんなグチもあった。「私の若い頃には育休なんかなかった。私も育休があったら利用して子どもを持ちたかった。今、後輩が当たり前のように育休を使っているのが恨めしく、嫉妬してしまう」……それに対する書き込みは「そんなあなたたちのおかげで、今の制度ができたのです。ありがとうございます」という内容のものが多かった。本作でも、ルースが闘うことに踏み切れたのは、娘の「私の未来のために闘って」という言葉に背中を押されたからだ(という描写だった)。

 先輩たちや我々世代の犠牲の上に現在がある、などと全く思っていないが、次の世代が少しでも良い環境で生きられるようにするのは、今を生きる人たちの役目ではなかろうか。本作を見て一番感じたのは、そこのように思う。

 

 

 

ちょこっとだけ出ているキャシー・ベイツの存在感がスゴイ

 

 

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白夜(1971年)

2018-12-09 | 【ひ】



 以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 第1夜。ある初秋の日曜の夜、ジャック(G・D・フォレ)は、ポン・ヌフの橋からセーヌ河に身投げしようとしている少女マルト(I・ヴェンガルテン)を救った。

 第2夜。同所で再会した2人は、互いの身の上を語り合う。ジャックは、元美術学校の学生で今は自宅にこもって画を描いており、マルトは母と2人暮しで隣室を学生に間借りさせている。1年前マルトは、その部屋を借りている青年(J・M・モノワイエ)に恋する。が、青年はアメリカへ留学に行き、1年後にポン・ヌフの橋の上でマルトとの再会を約束した。そして彼女は今日で3日目、青年が3日前にパリに帰ってきているのを知りつつ、待っている。

 第3夜。青年の影にさえぎられながら、ジャックとマルトの不安な心のうずく夜がすぎていく。

 第4夜。約束の時が来ても、ついに青年は現われなかった。苦しむマルト。そして愛を告白するジャック。2人はパリの夜を、美しい月夜の下を幸福にさすらう。だが、突然、マルトの目が一点にとまった。そう、それは、彼女がさがし求めていたあの青年の姿だったのだ--。

=====ここまで。

 “35mmフィルムでの最終上映”と言われると、見ておかないといけないような気持ちになるじゃん。

 
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 というわけで、ブレッソンです。スクリーンで見られる数少ない機会なので、行ってまいりました。


◆おフランス版オタク男子のラブコメ

 原作はドストエフスキー(もちろん未読)だそうで、その原作のテイストは分からないのだけれども、同じ原作をヴィスコンティもやはり映画化している。ヴィスコンティ版は見ていないけど、多分、ゼンゼン違う雰囲気の作品になっているに違いない。

 Blu-rayも出ているらしいけれど、それまでは“ブレッソンの幻の映画”などと言われていた本作。同じくドストエフスキー原作の『やさしい女』の印象が強いので、本作もそれと同じような感じなのかと構えて見に行ったのだけれど、、、ゼ~ンゼン違っていて驚いた! これは、もしやブレッソン流ラブコメか??

 とにかく、主人公の青年ジャックがヤバい。開始早々、ヒッチハイクして郊外の自然豊かな所へやってくると、なぜか“でんぐり返り”を2回、そして鼻歌交じりでお散歩。本人はいたってご機嫌な様子なれど、通りすがりの家族連れには明らかにキモワルがられている。この郊外へはでんぐり返り以外に何をしに行ったのかが全くのナゾのまま、夜になって、ジャックはパリの街中を歩いている。……ううむ、いきなりのブレッソン節全開の幕開けに唖然。

 でもよく見ると、このジャック、眉毛が異様に濃いけど端整な顔立ちで、まあ美青年と言えるでしょう。また、あらすじにある「第一夜」「第二夜」……というのは、そういう字幕が出るのです。ジャックが経験する4日間の恋(?)物語。

 冒頭のでんぐり返りから、期待を裏切らないジャックの言動が続きます。

 彼は、通りすがりのキレイな女性にすぐに恋してしまう性癖があり、しかもその女性の後を付ける、つまりストーカーみたいなことを日常的にしている。まあ、しばらく後を付けるだけで、実害は与えていないけど、、、。そして、家に帰ってくると、日記代わりにレコーダーに思ったことを喋って録音している。さらに、彼は売れない絵描き(美術家?)で、今で言う“ニート”みたいな感じなんだけど、そのことにコンプレックスがあるのか「こんなオレが生きていていいのか」みたいなことも言っている。

 ……もうここまでで、ジャック君をオタク認定しても怒られないと思うわ。

 実際、学生時代の友人が訪ねて来ても、そこで美術の議論が盛り上がるわけではなく、友人が一方的に持論をまくし立て、ジャックは黙って聞いているだけ、、、。友人は喋るだけ喋ったらさっさと帰ってしまうという、妙なシーンもある。恐らく友人もほとんどいないのよね、彼。

 そんなジャックが可愛い女性マルトに出会い、惚れっぽいから案の定マルトを好きになってしまう。で、マルトは、アメリカから帰って来ているはずなのに姿を現さない恋人とジャックの間で揺れる素振りを見せたりするんだけど、結局、4日目の夜にはマルトは姿を現した恋人の下に行っちゃった! っていう極めてシンプルなオハナシ。

 そのラスト、恋人が現れてからエンドマークまでの数分が、もう、私にとっては笑えてしまって、、、。でも、回りの皆さんは笑っていないから、思わずこらえましたケド。

 だって、マルトは、恋人の姿を認めた途端、ジャックの腕からするりと抜けて恋人のもとへ走り寄り、ジャックが見ているというのにお構いなしに抱擁&キス&キス、、、と思ったら、またジャックのもとに戻ってきて、また恋人が見ている前で抱擁&キス、、、と思ったら、またまた恋人のもとへ行って、今度は恋人がマルトの肩を抱いて歩いて去って行く、、、という、そらねーだろ、的な演出なんだもん。放置されたジャックの顔は、しかし、あまり表情がないというか、放心状態とも違うような。おまけに、振られた翌日、ジャックはその心境をまたレコーダーに録音している。

 そう、だから、私は、これはブレッソン流のラブコメじゃないかと思ったのです。だって、ものすごく滑稽でしょ? 恋愛なんてそもそも傍から見れば滑稽そのものとも言えるわけで、それを、笑いを前面に出さないまま描くと、こういう映画になるんじゃないのかね、と。


◆恋するジャックの奇行

 ジャックが録音する内容は、詩的な散文調で、でも決して心に残る文言ではない(実際、見終わってから覚えているフレーズがない)んだけど、唯一ギョッとなったものがある。

 途中、マルトに頼まれて手紙をある人に渡しに行く場面があるんだけど、バスに乗ったジャック君、周囲に乗客がいるのに持っているレコーダーを再生させる。レコーダーから出てくるのは、「マルト、マルト、マルト……」と、マルトの名前をひたすら呼ぶジャック君の声。前に座るおばさん2人が訝しげに顔を見合わせるんだけど、私も一瞬、この描写を理解できなかった。は? 何してんの、ジャック君?? みたいな。どうしてバスの中でその録音を流す必要が??? 

 すっかりマルトを好きになっちゃったものだから、こんな行動に出た、、、、ということだろうけど、ちょっとね……。

 そうなっちゃうと、もう、街中で“マルト”の文字ばかりが目に入っちゃうジャック君。店の名前も、セーヌ川を行く船名も、“マルトじゃないか!”てな具合。恋に恋する中学生なら分かるが、ちょっとね……。

 まあでも、ジャック君は、きっと、マルトに去られた後もまた、それまでと同じ暮らし・生き方を続けるのだろうな、、、と思う。そういう余韻を残したエンディングだったように思う。


◆コツコツ、、、

 印象的だったのは、音。靴の音とか、鳥の声とか。もちろん、ジャックの録音した声も。

 あと、音楽が結構長い時間流れるのも、ブレッソン作品としては珍しいのでは? と感じた。フォークっぽいのやボサノバ風の、ジャックとマルトが一緒にいるときに、彼らの側で演奏される音楽で、BGM的に流れるわけではない。

 マルトが、アメリカに発つ前日の恋人と裸で抱き合うシーンはなかなかステキだった。母親と緊張関係にあるマルトが、母親がいるのに、恋人の部屋で(部屋の外では母親がマルトを探している)ただただ裸で抱き合う、、、。これは、見ていてドキドキするシーンだった。マルトと母親の関係を象徴する張り詰めたシーンだったように思う。

 でも、『スリ』とか『ラルジャン』みたいに、一見無機質でありながら、見ていてヒリヒリするような感じは、この作品にはない。『やさしい女』で感じた冷酷さもない。ただただ、若い男女の心模様を、いつもどおりの極端にそぎ落とした演出で撮った作品のように思う。








ヴィスコンティ版も見てみたくなりました。




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ビリディアナ(1961年)

2018-01-11 | 【ひ】



 修道女のビリディアナ(シルヴィア・ピナル)は、宣誓式を目前にしたある日、学費を出してくれた伯父ハイメ(フェルナンド・レイ)が宣誓式には出られないが、その前に会いたがっているとシスターに聞かされ、気乗りしないまま、シスターに強く促されて修道院を後にする。

 ハイメは、亡き妻そっくりに成長したビリディアナに劣情を催し、修道院に帰らないでくれと頼むが、ビリディアナは聞き入れない。そこで、ハイメはビリディアナをクスリで眠らせ、犯そうとするものの、何とか思いとどまる。しかし、ビリディアナ本人には「犯してしまった」と嘘を言って悪あがきするものの、ビリディアナはショックを受けて修道院へ帰ってしまう。

 しかし、ビリディアナはその帰途で、ハイメが自死したことを知らされる。自責の念に駆られたビリディアナは、償いのつもりか、修道院へは戻らず、ハイメの敷地に恵まれない者たちを集めて施しをし始めるのであった。

 そんな生活をしているある日、ビリディアナの暮らす屋敷に、ハイメの息子ホルヘ(フランシスコ・ラバル)が恋人を連れてやって来る。ホルヘはビリディアナに興味を持ち、彼女を何とか振り向かせようとするのだが、、、。

 ……メキシコ時代のブニュエルがスペインにこっそり帰って撮ったという本作。スペインでは上映禁止になるが、カンヌでパルムドールを受賞し、メキシコ映画として各地で上映されることになったものの、ヴァチカンの怒りを買うなど、相変わらずの問題児ぶりを発揮した作品。
   
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 昨年末からイメージフォーラムで開催されているブニュエル特集。こんなの、そうそう滅多にやらないだろうから頑張って見に行きました。


◆カトリックへの挑戦?

 allcinemaでのあらすじには、「女性の抑圧された性をテーマにした心理ドラマ」なんて書かれているけど、どーなんですかねぇ、これ。私は、どっちかというと、カトリックへの挑戦というイメージを受けたんだけれども、、、。

 もうね、ビリディアナが修道女にあるまじき“肉感的女性”なわけですよ。これは、ハイメおじさんが、アッと言う間に陥落するのも仕方がないよなぁ、、、とかなり同情してしまう。女の私が見ても、「これは、、、」と思うのだから、男性が見ればそりゃそーでしょ、と。

 さすがブニュエル、敢えてこういう女優を探してきたんだろう、と思いきや、「(恋人の)シルヴィア・ピナルを主役に使うなら金出すよ」と本作の製作者に言われてのことだったらしい。もの凄い美人、というわけじゃなく、ほどほどの美人だけど、そこがまたミソだろうなぁ、きっと。

 ……と、下品なことばかり書いてすみません。でも、本作において、ここは非常に重要だと思われるので。

 でも、このハイメおじさん、ちょっとやり過ぎる。ビリディアナが明日修道院へ帰る、という日に、「私と結婚してくれ」と迫るのだが、当然断られる。そうすると「じゃあ、せめて願いを聞いてくれ」と言って、何をお願いしたかと思えば、なんと、ビリディアナに亡き妻がその昔に着るはずだったウエディングドレスを着せるという、、、。

 そして、クスリを入れたお茶を飲ませて彼女を眠らせると、ベッドに運んで横たえ、花嫁姿で眠るビリディアナを撫で回し(キモい、、、)、遂に我慢できなくなって彼女のドレスの襟元を開け、ブチュ~っとキス(ウゲゲ、、、)をしたかと思うと、ハッと我に返って、襟元を元に戻し、慌てて部屋から出て行くのでありました、、、。

 気持ちは分かるが、これはキモい。パンフの解説にも、“屍姦”とあるが、まさにそれを想像させるシーンで、序盤からこれじゃぁ、一体この先どーなるのさ、、、、と思って見ていたら、期待に違わぬ展開に……。

 ハイメおじさんは、ビリディアナに“あんなこと”をしてしまったことを悔いてか、はたまた、“そんなこと”までして引き留めたビリディアナが振り切って出て行ってしまったからか、はたまた、“あんなこと”や“そんなこと”をした自分を嫌悪したからなのか、首を吊ってしまう、、、。なんという極端なおじさんだ。


◆極端から極端へ動く登場人物たち。

 でも、その後のビリディアナも、負けず劣らず極端な行動に出る。自責の念にかられたせいか、修道院には戻らず、ハイメおじさんの敷地に、近所の“乞食”たちを集めて施しをするという、、、。罪滅ぼしなら、神の僕となって「罪深い私をお許しください」とか何とか、ひたすら祈り三昧の人生の方が合っている気がするんだけど、それって信仰心のない人間だからそう思っちゃうのかしらん。

 この乞食たちは、最初こそ、おずおずとしていたけれども、アッと言う間に図々しい人々に変貌。これこそ、コツジキ、という感じ。この乞食のキャスティングに、ブニュエルはかなり腐心したとのこと。その甲斐あってか、見ていて反吐が出そうなシーンも多い。長年ハイメおじさんに仕えた使用人たちも辞めていくが、当然だろう。

 こうして、ビリディアナのやることは、どうも裏目裏目に出る感じの描写が続く。

 また、途中から現れるハイメおじさんの息子ホルヘも、ビリディアナに色目を使って、ビリディアナも一見、修道女の延長みたいな感じで振る舞っているけど、まんざらでもない感じに見える。ビリディアナという人間の芯の部分が外部的要因からも、彼女自身の内面からも、大きく揺らいでいる、、、ってこと?

 さらに、乞食たちの図々しさは度を極め、ビリディアナたちが不在の間に屋敷に入り込み飲めや歌えの乱痴気騒ぎ、部屋も荒らしまくり。記念写真を撮ろう!とかって、乞食たちのとったポーズは、あのダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を思い起こさせるという、、、。
 
 そんなとんでもない状況になっているところへ、ビリディアナやホルヘたちが戻ってくる。乞食の一人がビリディアナに襲い掛かってレイプしようとすると、ビリディアナは失神(?)し、ホルヘが別の乞食を使って、ビリディアナを襲っている乞食を殺させる、、、、とか、もう滅茶苦茶。

 ビリディアナは2度も犯されそうになり、未遂に終わる。

 そんなことがあって、結局ビリディアナは、自ら禁を犯す覚悟をしたのか(つーか、間違いなくそうだろう)、ある夜、思い詰めた表情でホルヘの部屋を訪ねる。が、しかし、そこには家政婦ラモナがいた! そう、ホルヘは、ビリディアナに色目を使いながら、ラモナともとっくに関係を持っていたわけ。で、ホルヘ、ビリディアナを自室に招き入れ、ラモナにも「君はそこに居てくれて良い」なんつって余裕をかまし、3人でテーブルを囲んでカードゲームをし始める、、、。で、エンドマーク。

 へ? ……これってつまり、、、3Pの暗示、、、ってこと? いや、まさかそんな、、、と、とりあえず頭の中で打ち消して劇場を後にしたけど、帰宅後パンフを読んだら、「三角関係あるいは三人婚を暗示」と書いてあるではないか!! え゛~~っ! まあ、でも、そうかもね。

 修道女の宣誓式に始まり、3Pで終わる。すげーハナシだ。そら、上映禁止にもなるわさ。


◆ルイス・ブニュエル

 ハイメおじさんが、ビリディアナにドレスを着せる前、なんと! おじさん自らが、ハイヒールを履き、ドレスのコルセットを身に着ける、というシーンがありまして、これにはのけぞりました。

 しかも、ハイヒールを履く脚をアップで撮っている。ブニュエルって、脚フェチだよね、多分。確か、『小間使の日記』でも、ジャンヌ・モローが網タイツの脚にハイヒールを履くシーンがあって、アップだった気がする、脚。何というか、撮り方が一緒なのよ。

 あと、終盤、ビリディアナが乞食に犯されそうになったとき、ホルヘに使われた乞食は、ホルヘに「お前を金持ちにしてやる」と言われて金を握らされるんだけど、(こう言ってはナンだが)あのような乞食になっても、まだ金持ちになりたいとかいう気持ちがあるものなんだろうか、、、? とちょっとばかり意外な感じがした。乞食は3日やったらやめられない、っていうの、割と説得力ある気がしていたのよね。

 乞食たちの大饗宴のシーンも、もう、これでもかっていうくらいに嫌悪感を煽る描写が続くんだけど、これは、ビリディアナの罪滅ぼしの好意をとことん貶めるっていうことなのかしらん。どうしてここまで悪意さえ感じる描写にしたのか、と考えると、やっぱし、カトリックへの挑戦ではないかと感じてしまうんだよなぁ。

 パンフによると、ブニュエル自身は「本作が不敬な描写に満ちてしまった点は、意図せざることであった」と述べたそうな。以下、ブニュエルの言。

 「『ビリディアナ』は間違いなく辛辣なブラックユーモア映画ですが、実を言うと計画性もなく自然にできあがってしまったのです。この映画のなかでは、子どもの頃にとらわれていた性的・宗教的な強迫観念を表現しています。わたしは非常に信心深いカトリックの一家の出で、8歳から15歳までイエズス会の学校に通っていました。宗教教育とシュルレアリスムは、わが人生に影響を残しています」

 一方で、本作の創作上の意図を、次のようにも語っている。

 「われわれは考えうる最良の世界のなかを生きているわけではありません。私は映画を作り続けたいと願っておりますが、それは観客を楽しませるのとは別に、いま述べた考えが絶対的に正当であるとの事実を、彼らに伝えるためなのです」

 まあ、ブニュエル作品はどれも一筋縄ではいかないので、1回見ただけでは分からないことだらけなのも仕方がないでしょう。また見る機会があれば見てみたい。きっと別の発見があるだろうし。こういう、何度でも見てみたいと思わせてくれるのが、映画の醍醐味だと思うわ。 

 





ヴァチカンが怒るのも仕方がない。




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光(大森立嗣監督・2017年)

2018-01-08 | 【ひ】



以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 東京の離島、美浜島。記録的な暑さが続くなか、中学生の信之は閉塞感を抱きながら日々を過ごしている。だが、同級生の恋人・美花がいることで、毎日は彼女を中心に回っていた。一方、信之を慕う年下の輔は、父親から激しい虐待を受けているが、誰もが見て見ぬふりをしていた。

 そんなある夜、美花と待ち合わせをした場所で、信之は美花が男に犯されている姿を目撃。美花を救うため、信之は男を殺してしまう。

 次の日、理不尽で容赦ない自然の圧倒的な力、津波が島に襲いかかり、全てが消滅。生き残ったのは、信之のほかには美花と輔とろくでもない大人たちだけだった……。

 それから25年。島を出てバラバラになった彼らのもとに過去の罪が迫ってくる。妻(橋本マナミ)と一人娘とともに暮らしている信之(井浦新)の前に輔(瑛太)が現れ、過去の事件の真相を仄めかす。封じ込めていた過去の真相が明らかになっていくなか、信之は、一切の過去を捨ててきらびやかな芸能界で貪欲に生き続ける美花(長谷川京子)を守ろうとするのだが……。

=====ここまで。

 原作(三浦しをん作)は、震災後に書かれたものかと思いきや、2008年発表の小説。
 
   
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


◆キャッチコピーの割にセコい話。

 前記事の『猫が教えてくれたこと』に続いて見たのだけれど、“正月早々、どよよ~んな映画を見てしまったなぁ”というのが、見終わった直後の正直な感想。

 とにかく、ず~っと重苦しいシーンの連続。頭からタイトルが出てくるまでも異様に長いし、そのタイトルの映像も、ちょっと個人的には好きじゃない(かなり気味が悪い。それが狙いなんだろうけど)。

 出てくるネタが、強姦、殺人、DV、不倫、幼女への性的いたずら事件、ゆすり、、、とまあ、鬱になりそうなものばかりでお腹一杯。……かといって、いわゆるイヤミスの匂いはなく、ただただ、社会の底辺に生きる人間のどうしようもなさと、それに引きずられる卑小な人間たちという人間ドラマであって、まあ、どうしたって“光”を感じる要素のない内容なのよねぇ。

 事前情報で、“もの凄い映画”とか“狂気”とか、、、っていうフレーズが並んでいたので、勝手にハードルを上げてしまっていたのかも知れないけど、かなり前評判倒れと感じてしまった。井浦新なんて、自分で“べらぼうな映画”とか言っていたしね。あんましこういうキャッチーな言葉を使いすぎるのも良し悪しだわね。

 原作がどんななのか分からないけど、この映画を見る限り、キャッチコピーにある「僕たちは 人間のふりをして 生きている」というのは、意味不明な気がする。というか、もっとセコい話だよなぁ、これ、、、という感じ。


◆脚本が、、、

 25年前の事件が因果応報で惨事を招いた、、、ってことなんだけれども、信之と美花は中学生だから、その25年後となると、もうアラフォーのオッサン・オバハンたちのお話ってことよねぇ。それはいいんだけど、津波で島の人間の大半が亡くなって、数少ない生き残りだった彼らが、25年間も互いに消息知れずで関係が断たれていたってのも、ちょっと、設定としては違和感があるよなぁ。ちりぢりバラバラになったその背景が、多少なりとも説明がないと、なんとなく唐突感が拭えず、物語に入っていくのが難しい。

 いろんなエピソードてんこ盛りな割に、結局は、“輔→信之→美花”という各々の一方通行な感情を描いているのよね。輔は信之を兄みたいに慕っていて、信之は美花のことをずっと思い続けていて、美花は自分のことにしか興味がない、、、、それが故に招いた悲劇。というか、だからこそ、25年間の空白ってのは、どうもピンとこないのよね。説明がまったくないと。そこまで思う人と、どういういきさつがあって離ればなれになってしまったのか、、、。

 それでも、輔が信之に殺されるシーンは印象的。首を絞められて、輔は笑うのね。そして、いざ、殺されそうになったところで確か「こうなると思ってた」みたいなことを言うんだけど、そのときも薄笑いを浮かべている。なんか、それが輔の本望であるかのような描写。

 ……で、その大分前のシーンで、信之の妻・南海子と輔が不倫している場面で、輔が「アンタのダンナは、どんな風にアンタを抱くのかなぁって」と南海子に言うのを思い出し、なるほど、これは輔の信之への片思いってことか、、、と合点がいったんだけれど、それにしてもこんな最期はあんまりじゃないかしらん。

 ちょっと、ストーリーがごちゃごちゃし過ぎなんだよなぁ。複雑とは違って、ごちゃついている感じ。原作がどうかは知らないけど、これ、多分、脚本が悪いんだと思う。南海子のエピソードはもっと大胆にカットして良かったんじゃないかね。実際、描写に割いた時間に比してゼンゼン彼女の存在が生きていないのね、映画では。せっかく、橋本マナミさんがベッドシーンで熱演していたけど、それだけしか印象に残っていないってのは、やっぱり脚本が悪いと思う。

 あと、美花の描写もね、、、。美花は25年後、“篠浦未喜”という芸名で売れっ子になっているんだけど、その経歴を一切明かさずミステリアス女優なんて言われていて、、、っていう設定なんだけど、イマイチこの女性の魅力が分からない。ただのヤリマン、自己チュー女、でしかないわけ、この映画では。そんな女に人生の大半をとらわれている信之ってバカなの? とか思っちゃうわけよ。人を好きになるのは理屈じゃないから、ヤリマン・自己チュー女でもゼンゼン構わないけど、これは美花を演じる長谷川京子という女優の力のなさもあるかも知れないけれども、とにかく、こんな女性なら翻弄されるのもムリないよなぁ、と見ているものを圧倒する説得力がゼロってのも、いかがなものか。原作でもそーなの?

 こうも女性の描写が雑だということは、そもそも、脚本・監督の大森立嗣氏は、信之と輔のホモセクシャルな関係を描きたかったわけ? とか思うんだけど、それにしてもヒド過ぎる。


◆その他もろもろ

 離島での描写は子役(?)が演じているのだけど、美花を演じていた少女が、美少女ではないけど独特な雰囲気を持った“少年を惑わす”のも納得の感じだったんだけど、25年飛んでパッとスクリーンに現れたのが、橋本マナミで、私はてっきり彼女が成長した美花かと思ってしまった。見ているうちに、違うと分かったけれども、それくらい、少女時代の美花と橋本マナミが雰囲気が似ていたのよね。むしろ、長谷川京子はゼンゼン顔立ちも雰囲気も違いすぎて、キャスティング逆の方が良かったんじゃないかというのが率直な印象。

 橋本マナミは、演技はイマイチだったけど、翳のある雰囲気美人で、むしろ、美花の方が合っているような。シレッと男の人生を狂わせる女に、長谷川京子よりはよほど似合っている気がする。

 長谷川京子は、演技も雰囲気もかなりイケてない。ベッドシーンも、目を覆うばかりの大根ぶり、、、。アップが多かったからか、彼女の唇にやたら目が行ってしまったんだけれど、あんなに彼女は口元が良くない女優だったっけ? あれがセクシーと思う方もいるだろうけど、私的にはダメだった、、、。やっぱり、口元に品性は表れる気がするんだよねぇ。色気もないしねぇ。彼女が女優としてそこそこ活躍していることが謎だよなぁ。まあ、日本の女優さんでそういう方は多いですが。

 井浦新は頑張っているけど、終始、表情が同じで見ていてつまんない。そういう役だって言われりゃそうなのかも知れないけど、私は、彼も俳優としての実力は少々疑問視しているので、、、すんません。何の役をやっても、彼は同じに見えるので。

 そういう意味では、瑛太氏は、イイ俳優だと思う。役によってゼンゼン表情が変わるし、表現力もとても豊かだと思う。本作でも、育ちの悪い下品で図々しい、でも、どこか憎めない男を好演していました。

 でも、本作で一番スゴイと思ったのは、輔の父親を演じた平田満氏ですね。ホント、もの凄いサイテーな父親役を見事に演じておられました。死ぬシーンで、お尻を見せるんだけど、そのお尻がとてもキレイでした。それも印象的。彼みたいな俳優を、“俳優”というのだと思うわ。







何だか感想が書きにくい映画です。




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否定と肯定(2016年)

2017-12-16 | 【ひ】



以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 1994年、アメリカのジョージア州アトランタにあるエモリー大学で、ユダヤ人女性の歴史学者デボラ・E・リップシュタット(レイチェル・ワイズ)が講演を行っていた。彼女はイギリスの歴史家デイヴィッド・アーヴィング(ティモシー・スポール)が訴える大量虐殺はなかったとする“ホロコースト否定論”の主張を看過できず、自著『ホロコーストの真実』で真っ向から否定していた。ある日、アーヴィングはリップシュタットの講演に突如乗り込み、名誉毀損で提訴する。

 訴えられた側に立証責任がある英国の司法制度で戦うことになったリップシュタットは、“ホロコースト否定論”を崩さなければならない。彼女のために英国人による大弁護団が組織され、アウシュビッツの現地調査など、歴史の真実の追求が始まる。

 2000年1月、多くのマスコミが注目するなか、王立裁判所で始まった歴史的裁判の行方は……。

=====ここまで。

 原題は“DENIAL”=拒否・否認・否定。邦題は「否認」とか「否定」だけの方がよかったんじゃないのかねぇ? 肯定の要素はないもんね。

   
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 法廷モノは結構好きなので、ホロコーストが題材ってのがナンだけど、見に行ってまいりました。


◆リップシュタット女史が、、、

 映画にしろ小説にしろ、作品に感銘を受けるとか感動するとかの場合、主人公の言動を受け容れられるか否か、ってのが非常に大きいわけで、ここで受け容れられないと、作品に対しての感想も良くないものになりがちなわけだが、本作の場合、その定石が私には当てはまらない希有な作品となった。

 つまり、レイチェル・ワイズ演ずるリップシュタットには嫌悪感を抱いたけれど、この作品自体は良くできた映画だな、と思ったということ。

 リップシュタット自身がユダヤ人だから、ということは脇へ置くとして、彼女は、研究者でありながら非常に感情に流されやすく短絡的で攻撃的、しかも、協調性に欠けるという、正直言って度しがたい難物だと感じた。映画では、レイチェル・ワイズという美女が演じていたから幾分かはそのイメージも和らいでいるかも知れないが(逆により誇張されているかも知れないが)、実際のリップシュタット女史は、眉間に皺が寄って口角の下がった、それこそ、相手を拒絶するかのような強面で、外見をとやかく言うのはフェアじゃないという建前論がまさしくタテマエでしかないであろう、彼女がアーヴィングや弁護士たちに攻撃的な言動をしている姿を想像すると、ますます嫌悪感が増すのである。

 彼女は当事者であるから、冷静でいることが難しいのは分かる。しかし、それを差し引いても、弁護団の戦略の意図を理解しようともせずに罵っている姿は、私が弁護団の1人ならば弁護を放棄したくなるような酷さである。

 その弁護団は極めて冷静かつ有能で、リップシュタットをアーヴィングと同じ土俵に立たせないという、実に理性的な選択をするわけだ。

 イギリスの司法では、名誉毀損で訴えられた側に立証責任がある、というわけで、弁護団は、ホロコーストが実際にあったことと、アーヴィングが差別主義者であることを確実な証拠を基に地道に立証していく戦略をとった。決して頭が悪いはずではないリップシュタット女史ならば頭を冷やせば理解できそうなことである。それなのに、彼女は、弁護団に執拗に弁護方針について変更を迫る。

 冒頭で、リップシュタットが講義しているシーンがあり、そこで彼女は、「私はどんな議論も受けて立つが、ホロコースト否定論者と話す気はない」というようなことを言っている。アーヴィングに講義に乱入されたときも「あなたと話す気はない」と言っている。しかし、法廷に持ち込まれた途端、自分が証言台に立ってアーヴィングとやりあう、と言い出すわけだ。彼女自身、自分のポリシーに矛盾していることに気付いていないのだとしか思えない。

 どんなにリップシュタットが喚こうが、アタリマエだが弁護団は冷静だ。アーヴィングは、敢えて感情論に持ち込もうとしているわけだから、その手に乗ったら、それこそ、ホロコースト否定論に、論拠を与える判決を導きかねない、果ては歴史を書き換える事態になりかねない、そのことに、弁護団は気付いているからだ。

 大弁護団という多勢に無勢で、リップシュタットの思いは押さえ込まれるわけだけど、ゼンゼン彼女を可哀想だとか思わなかった。むしろ、「ちょっとアンタ黙ってろ!」と思ってしまった。


◆習ってきた歴史、ホントに本当なのか?

 結果的に、この裁判はリップシュタット側が勝つし、ホロコーストもあったことになった。

 しかし、本作を見て考えさせられたのよねぇ。歴史って、何なのか、、、ということを。私たちが学んできた歴史は、それがかなりの確度で真実だという前提であったわけだけど、それが真実であると、なぜ言えるのか。史料があるからとか、まあ、そんなことだよね、真実の根拠は。

 映像が残る時代なら、ますますその確度も上がる、、、と我々は勝手に思い込むけれども、本当にそうなのか? 時々、歴史的史料が見つかった、とかで歴史が書き換えられることもあるけれども、どうしてその史料が本物で、真実が書かれていると分かるのか。現代人の“専門家”らが判断するわけでしょ? いくら専門家でも、現代に生きる人間が、歴史のその時点を直接見て確かめることなどできないわけで、それを“史実”としてしまって良いのか?

 史実ってのは、現代人には分かりようがないから、扱いが難しいのだと思う。現に、これまでの定説が、後世の作り話だった可能性が高い、なんていう話はゴマンとあるわけで。だからこそ、本作のような、○○否定主義者、ってのが現れ、しかもそれが容易に社会に受け容れられてしまうわけだ。私が史実だとして学んできたことが、「大間違いでした!」なーんてこともあり得るわけで。一体、歴史上の真実って何なのさ、、、、ということを、本作を見ながら頭を駆け巡っていた次第。

 だから、アーヴィングが法廷で、荒唐無稽に思える持論を展開していても、何だか、ただ「頭のおかしい爺さん」と切って捨てる気にもなれなかったんだよね。もちろん、アーヴィングにも嫌悪感を催すけれども、真実に相対しようとするとき、荒唐無稽と思われることにも、一分の理があるのかも、、、と思わなければいけないんじゃないか、とかね。何をもって、「アンタの言っていることは、ただの与太話だ!」と言えるのか。自然科学の分野ならそれはアリだけど、こと、歴史においてはどーなのか、、、、とね。

 自分の信じているモノが揺らぎそうな不安な気持ちにさせられる。 


◆(本題とはズレるけど)イスラエルはどーなの?

 リップシュタット女史は、今の中東情勢をどう見ているのかしらね。イスラエルのやっていることは、彼女の目にはどう映っているのか。

 私は、反ユダヤ主義でもないし(というか、そもそもそういう視点でのポリシーを持っていない)、親イスラムでもないけれども、今のイスラエルはやっぱりいかがなものかと思っている。

 リップシュタット女史を始め、ユダヤ人の歴史研究家たちには、現代のイスラエルについてきちんと見解を述べる義務はあるんじゃないかねぇ。虐げられてきた長い歴史は分かるけれど、だからといって、今イスラエルがパレスチナにしていることを正当化できるのか。双方に言い分があるのであって、そういう意味では、リップシュタット女史が現代のイスラエルについて、何か見解を述べているのだとしたら、是非拝聴(拝読)してみたいものである。少なくとも、本作のパンフレットを見る限り、そういう部分への言及は皆無である。そもそも、彼女がホロコースト研究者になったきっかけも、ホロコースト生存者の体験談を様々聞いたことから発した“怒り”なのだそうだ。かなり、エモーショナルな動機ではないか。

 彼女自身がユダヤ人とはいえ、歴史研究家である以上、先の大戦のホロコースト研究者の立場にありながら被害者目線で歴史を語るのは、ミスリードを産みかねないという自覚は持っていただきたいものである。人間である以上、誰しもモノの見方にはバイアスが掛かっているものだが、その自覚の有無は重大である。

 
◆その他もろもろ

 レイチェル・ワイズの出演作はゼンゼン見たことがないので、彼女をまともに見るのは本作が初めて。なかなか頑張っていたけれど、あんましインパクトはなかったなぁ、正直言って。

 弁護方針を決める事務弁護士・アンソニー役のアンドリュー・スコットが良かった。冷静なキレ者って感じが良く出ていて、ユーモアもあり、キャラとしてもgoo。なんか、時々、若い頃の国広富之に見えたんだけど、、、。似てないか。法廷弁護士で、アーヴィングを黙らせたランプトンを演じたトム・ウィルキンソンもイイ味出していた。

 しかし、何より良かったのは、憎ったらしいアーヴィングを飄々と演じたティモシー・スポール。一見、紳士風だけど、取材している女性記者に平気でセクハラ発言をしたり、どう聞いてもおバカにしか聞こえない持論を自信たっぷりに演説したりしている演技は見物。『英国王のスピーチ』にも出ていたとは。知らんかった! 悪役も善人役も上手くこなせそうなお方だ。
 








アンドリュー・スコット、いいなぁ。




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ピュア 純潔(2009年)

2017-08-19 | 【ひ】




以下、WOWOWのサイトよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 スウェーデンのヨーテボリ。20歳のカタリナは母親ブリジッタが飲んだくれであるなど家庭環境に問題が多く、けんかっ早かったり売春をしたりと、恵まれない少女時代を過ごした。

 現在はマチアスという恋人がいてやや落ち着いたが、モーツァルトの音楽を好きになったカタリナはコンサートホールで受付係として働きだし、人生を再出発させようと目指す。そこで出会った知的な指揮者アダムに魅了されたカタリナは、彼と肉体関係を結ぶ。
 
=====ここまで。

 アリシア・ビキャンデルの長編デビュー作とのこと。根性あるわ~、アリシア。

   
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 『ロイヤル・アフェア 愛と欲望の王宮』で、カロリーヌ・マチルデを演じていたアリシア・ビキャンデルの作品を見てみたくなり、日本では劇場公開されなかった本作を見てみました。
 

◆ヤサグレのカタリナ・キラキラのカタリナ

 カタリナは作中20歳ということなんだけど、20歳にして、“ヨーテボリの半数の男と寝た”とかいう設定の少女です。その理由は、機能不全家族により、経済的な事情から売春に手を染めた、ってことになっています。

 オープニング、カタリナを演じるアリシアのアップに、カタリナのモノローグ。正確にはモノローグを再現できないけど、要は、「モーツァルトに出会って私は変わった。もうこんな生き方やめてやる!」みたいな感じ。その時のカタリナの顔は暗いけれど、どこかこう、、、モノローグの内容通り、決然とした感じを受けます。

 ……とはいえ、決意したからって現実はそんなに簡単に変わらない。周囲を見回しても、360度、うんざりするような現実に覆い尽くされており、カタリナはイライラしてヤサグレている。まあ、とにかくこのカタリナちゃん、もの凄い喧嘩っ早い。すぐ手じゃなくて、足が出る。蹴り入れちゃうのね。……気持ちは分かる。私も、1日1度は心の中で誰かに蹴りを入れている。しかし、現実には、生まれてこの方ウン十年、誰かに蹴りを入れたことは、当然ナイ。カタリナちゃん、この辺りの精神的訓練は大変そうだ、、、。

 と思って見ていたら、案外そうでもなかった。指揮者のアダムと恋に落ちたら、あっさり喧嘩っ早い性分は鳴りを潜めてしまった。

 なんでそんな彼女が、ハイソなアダムと恋仲になったのか。

 彼女は、たまたま戸口が開いていたコンサートホールに入り込み、リハーサル中のオケと指揮者のアダムを客席から覗いてしまう。そんなカタリナを、ホールの職員の女性は、面接に来た少女だと思い込み、カタリナは面接を受けることに。ここで彼女は、瞬時に決断するのだ。

 「母親はピアニストでした。でも、若い頃に病気で亡くなったんです」

 この真っ赤な嘘が職員女性の目には真実に写ったのか、カタリナは仮採用される。ここから、カタリナは、ヤサグレから一変、キラキラし始める。この変わり様、、、。希望って、人をこんなにも変えるものなのか、、、と、見ている者は驚かされる。

 キラキラな若い女性が受付に座っていたら、目に留める男がいないわけがない。……というわけで、目に留めたのは指揮者のアダムだった、、、。

 が、このアダム、私の大嫌いな、頭の良いコズルイ男だったのだ。まあ、簡単に若い娘に手を出す様な男にロクなのはいないのはお約束ですが、、、。それにしても、って感じな典型的、今で言うところの“ゲス”野郎だったのよ。


◆ヤな男、、、その名はアダム

 頭の良いコズルイ男、ってのは、自分が意のままに組み伏せそうなオンナを一瞬で見抜くのよね。アダムの様に、不倫したいだけの男の場合、不倫だけできるオンナを。お飾りなオンナを妻にしたいだけの男の場合、お飾りにされることをトロフィーワイフとかって喜べるオンナを。、、、という具合に、目的別にきちんと見分ける。

 で、アダムはカタリナを誘惑し、あっという間に男女の関係になるんだけど、最初に結ばれるときのカタリナちゃん、まさしく獰猛な肉食獣、って感じで圧倒される。すげぇ、、、。

 まあ、カタリナにとってみれば、アダムは、何というか、自分の世界を激変させてくれる人であり、自分の知らないことを何でも知っている師であり、オーケストラを華麗に統率する神なわけよ。こういうところが、やっぱし20歳の小娘だよなぁ、、、。

 アダムのやり口が極めてイヤらしい。アダムは、カタリナの身の上話をウソと見抜いているのよ、最初から。その上で、カタリナが絶対に読んだことのないはずのキルケゴールの詩集をこれ見よがしに貸したり、カラヤンの音楽を彼女の感性を試す様に聴かせたり。いちいち感動するカタリナに、「だろ? いいだろ? 知らなかっただろ? こういうのくらいちゃんと身につけろや」なアダムの調教師的な眼差しと態度が、まぁ、オバハンの私から見ると、ムカツクことこの上ない。張り倒してやりたくなるわぁ。20歳の小娘に何をぶってるんだよ、オッサン。

 だいたい、カラヤン崇拝しているなんてアタリマエすぎるし、そんなの聴かせるなんてセンス悪すぎ。……ま、これは私の好みの問題なんだけど。

 妻が長期留守中に、カタリナを自宅に引っ張り込んで、やりたい放題のアダム。若いカタリナが本気になるのもムリはない。でも、頭の良いコズルイ男は、当初の目的通り、きっちりカタリナをぶった切る。あらゆる手を尽くして、自分に火の粉が掛からない様にする。

 結果、カタリナは、本採用される予定だった仕事を失う。同棲中のマティアスにも家から追い出され、彼女はホームレスに、、、。嗚呼、カタリナ!!

 ……と思って心配していたら、カタリナ、タダ者じゃなかった!!


◆泣き寝入りなんかしてられっか!!

 カタリナは、もう一度、面接してくれた女性職員に会いに行き「もう一度雇ってください」と懇願するんだけど、女性は「私は戻ってきてもらいたいのよ。でもアダムがダメって言うから、それには逆らえない」と答える。

 で、カタリナは、意を決して、アダムに直談判に。コンサート本番中に、アダムの控え室に入り込み、アダムが戻ってくるのを待っている。果たして、満足のいく演奏を終えたアダムは戻ってくる。カタリナを見るなり不快感全開にするが、カタリナに「私をもう一度雇う様に言って」と懇願され、意地悪な笑みを浮かべる。「踊ったら、下品な踊りを踊ったら雇ってやる」と言って。

 カタリナは、踊るんだな、これが。哀しそうに。私は、彼女の喧嘩っ早さが再び出現して、アダムを蹴り倒すんじゃないかと思って見ていたんだけど、素直に踊るのよね、、、。もう、見てられない、痛々しいシーン。

 もちろん、踊り終えたカタリナにアダムは「雇うわけねーだろ」と罵声を浴びせ、窓枠に腰掛けてたばこを吸い始める。ここで、もしや、、、と思ったら、案の定。

 カタリナは、窓からアダムを突き落とす、、、。アダムくん、読み間違ったね、最後の最後で。残念。さようなら~~。

 そしてラストシーンでは、彼女は、コンサートホールでマネージャーの様な仕事をしている。キラキラのカタリナに戻って、その美しい顔がアップになってジ・エンド。

 というわけで、この展開で、私は本作にをプラス2つ献上することとしました。アダムは恐らく死んだのでしょう。はっきりした描写はないので分からないけど。殺しを賞賛するわけじゃないけれど、大体、こういう、若い娘が身勝手な男の性欲の捌け口にされてゴミの様に捨てられる、って話では、韓国映画の『愛のタリオ』や『ハウスメイド』なんかが典型的だけど、女性が泣き寝入りでさらに不幸になるという展開が多い中で、ここまで鮮やかに身勝手男に鉄槌を下すラストは、死んだアダムには悪いけど、ハッキリ言って快哉を叫びたい気分。

 そう、やられたらやり返す、これくらいの意気がなくてどーするよ、お嬢さんたち。泣いてる場合じゃないんだよ。自分の人生は、自分で取り返さなければ! 身勝手な男ばかりが思い通りに生きて良いわけがない。ちゃんと落とし前付けさせるのよ!

 ……というわけで、私はカタリナちゃんのしでかしたことを全面的に支持します。不道徳だろうが犯罪だろうが、ヨヨと泣いたり自殺しちゃったりする女に同情しているだけの観衆の横面を張るような本作は、十分存在意義があると思いますね。

 テーマは古典的だけれども、なかなか思い切りの良い、面白い映画じゃないでしょーか。


◆音楽について

 モーツァルトに目覚める、、、。なかなか若い娘にしては渋い設定だなぁ、と思う。クラシック音楽に最初に触れて目覚める音楽としては、むしろロマン派じゃないか、という気がするけれど、カタリナは古典派に感性を強烈に刺激されたのね。うーむ、渋い。

 私が最初に刺激されたのはブラームスとかドビュッシーで、モーツァルトもそうだけど、ベートーベンも、その良さに気付いたのは30歳過ぎてからだった。モーツァルトもベートーベンも、スコアの面からは想像もつかない演奏の難しさ。ただ演奏しただけでは曲にならない御しがたさ。まあ、ブラームスもその音楽は渋いと言われるけど、モーツァルトに痺れちゃうカタリナの感性はやっぱり渋い。

 で、本作中、アダムがオケを指揮している音楽は、それこそベートーベンなのね。交響曲第7番が使われているけど、これがかなり下手クソでビックリ。あれはプロのオケ? まあ、シーンを追うごとに若干上達している感はあったけれど、、、。

 おまけに、アダムの指揮っぷりも、あんまし洗練されていない。指揮の姿って、ホントに、指揮者の感性そのものだから、あんなスタイルの指揮では彼の才能の程度も知れるという気がするのだけれども、、、。アダムがどんくらいの指揮者なのか、イマイチ作中で描写がないので分からないけど、まぁ、三流オケ専門指揮者ってところじゃないですかねぇ、、、。もう少し、カッコ良い指揮になる様に指導してあげて欲しかったなぁ。物語に説得力が出ないじゃんか。


◆その他もろもろ

 それにしても、アリシア、今やオスカー女優になっちゃいましたけれども、この頃から凄まじい根性の女優だったのがよく分かりました。

 別に、気合い入りまくってるとか、必死すぎるとか、そんな演技ではもちろんありませんよ。『湯を沸かすほどの熱い愛』のりえさんみたいな痛々しさはないにもかかわらず、とっても芯のある女優であることが画面を通して伝わってくる。これはタダ者じゃないわぁ、、、と思いました。

 アダムに捨てられそうになって、カタリナは必死にすがりつき、コンサートホールのロビーで、何と口淫に及びます。誰か来ちゃうんじゃないかと、見ている方がヒヤヒヤする。そういうシーンを、実に上手く演じている。本作を撮影したとき、21歳か22歳で、カタリナとほぼ同年齢。肝の据わった、しかも、非常に演技も確かな俳優です。

 アダム役のサミュエル・フレイレルがスキンヘッドだったもので、どうも、パーヴォ・ヤルヴィとダブってしまい、困った、、、。パーヴォ・ヤルヴィは、別に好きでも嫌いでもありませんが、、、。

 かつて私が所属していたアマオケを振ってくれていた指揮者(一応プロ)のオッサンは、飲み会の席でこう言っていた。「色恋は芸の肥やしだから。妻もその辺は分かってるはずだし、私も既婚者だからってセーブしない」、、、、はぁ、そーですか。でも、芸の肥やしにされた女性たちは堪ったモンじゃありませんね、自分を肥やしにしたアンタがアマオケしか振れない四流以下の指揮者にしかなれていないんだから、、、と、喉まで出かかったけどグッと押さえましたよ、そりゃもちろん。

 話が逸れたけど、、、。アリシアは、きっとこれからますます飛躍するだろうと確信する映画でした。







カタリナ、天晴れなり。




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PK(2014年)

2017-04-26 | 【ひ】



 ある日、宇宙から地球に送り込まれた宇宙人。人呼んでPK(アーミル・カーン)は、地球に降り立った矢先に、宇宙船を呼び出すリモコンを人間に奪い取られてしまったので、リモコンを返してほしいと神頼みをするのだが、、、。

 方や、留学先のベルギーでパキスタン人青年に大失恋をして帰国し、TV局でニュース番組制作をしているジャグー(アヌシュカ・シャルマ)は、電車に乗っていて、駅で異様な風体をしてビラ配りをしている男(PK)を見掛け、番組のネタにと取材を試みる。が、その男は、自分を宇宙から来た生き物だ、と言う。しかも、何やら神様に殊に執着を見せている、、、。これは一体どういうこと……?

 アーミル・カーン&ラージクマール・ヒラニ監督の『きっと、うまくいく』コンビによる、大人のコメディ映画。


 
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 昨年の公開時に行きたかったけれど行きそびれ、、、。先週、早稲田松竹で、『きっと、うまくいく』と2本立てでリバイバル上映されていたので、見に行ってきました。


◆イノセントなるもの=宇宙人

 アーミル・カーンが、開始早々、全裸で登場。しかも、すごい鍛えたお体。『きっと、うまくいく』でも、20代の若者・ランチョーを演じて、ランチョーはここまでマッチョじゃなく、若々しい体つきだったけれども、本作は、まさにマッチョ。でも、彼はもともと小柄なので、マッチョでもそれほど威圧感はなく、アスリートっぽい感じで、マッチョアレルギーの私でも、それほど嫌悪感を抱かずにすみました。

 インドの様な他宗教国家で、宗教をテーマにした映画を作るなんて、かなりの覚悟を要したのではないだろうか、、、。宗教のいかがわしさ(と言ってよいのか)を白日の下にさらすには、“宇宙人”が主人公である、という設定は非常に上手いなぁ、と思う次第。やはり、人間であれば、宗教に対してイノセントな存在は難しい。宇宙人でなければダメだった、とも言えるかも。

 
◆信者でさえもいかがわしさを感じている。

 本作のキモは、ズバリ、“THE 宗教”なんだけど、そのアプローチが面白い。イノセントなPKが、我々地球人が日頃感じている“何かヘンだぞ、宗教!!”というところを、ズバズバと核心を突いて言語化して行ってしまう。傍で見ている地球人はヒヤヒヤもの。

 身なりで、その人の信仰を判別するシーンなどは、まあ、無宗教な私にしてみれば、「そうなんだよなぁ、、、何でそんなに格好に厳しい取り決めがあるの?」という疑問を見事にビジュアル化してくれているわけ。

 どうして神様がたくさんいるのか、というPKの素朴な疑問は、もう、まさしくこの問題の本質を突くもので、結局は人間がご都合的に作ったものだ、ってことにどうしたって行き着いてしまう。

 だからこそ、逆に、よくぞ、こんな直球描写の映画作れたなぁと思うし、作っただけでなく、インドでもヒットしたというのだから、彼の国にも、無宗教で宗教に懐疑的な私が抱く感覚に近い感覚を抱いているムスリムやヒンドゥー教徒や仏教徒が大勢いた、ってことだわね。それがまた、驚きである半面、いわばある種の健全性が示されたとも捉えることができ、ホッとする部分でもある。

 みんな、あやしげだとか、いかがわしいとか、思いながらも手を合わせたり祈ったりしているってことね。

 大分前に、新聞のインタビューで、塩野七生氏が「世界の大半は一神教の信者であり、国家であり、一神教は言葉は悪いが偏狭で寛容さがない(信仰を持たないことに対する偏見も含め)。そういう意味では、日本のような多神教国家は、多様性に根差す寛容さこそがその長所なのだ」みたいなことを言っていて、へぇー、と妙に納得した思いが半分、そういうものなのか?と懐疑的な思いが半分、という感じだった。

 が、世界情勢を見ていると、人間の社会活動と宗教は切っても切り離せない存在であり、それが、無宗教の私から見ればいささか滑稽にさえ思えるのだけれど、あちらから見れば、私なんぞは信仰を持たない不信心者で人間としてサイテーな存在である、と知って、グローバル社会とか、世界平和とか、まさしく理想論なのだなぁ、としみじみ思うのであります。ここまで、両極端な人間同士、しかも、信仰という、ある種の聖域において対極にある者同士、真に分かり合う機会さえなく、宗教について学んだところでそれは他宗教について理解したとは言いがたいわけで、、、。

 そもそも、不可侵な分野であまりにも乖離した場所にいる者同士、どうやって融和しろっていうのか。

 考えれば考えるほど、あり得ない、という結論に行き着いてしまう。そして、本作は、それを奇しくもコメディにして描いてしまっているのだから、恐ろしい。


◆結婚は人前でして良くて、セックスはダメ。

 (セックスパートナーを得ることが結婚で)結婚は皆の前で派手にお披露目してするのに、セックスは皆の前でしちゃいけないの?

 という、PKのセリフ(上記正確ではないです)がウケました。これも、私が若い頃から思っていたことズバリだったもので。結婚式で、金屏風の前に立つ新郎新婦を見て、どうして皆、「おめでと~~」なんて屈託なく言えるのか?? こんな破廉恥な催し物を、どうして誰も「ヘンだ」と思わないのか、ずっと疑問だったのです。

 新興宗教の“導師様”が言うお告げを、信者たちは金科玉条のごとく有り難がっているけれど、「妻が病気で困っている」と言っている信者に「2千キロ離れたヒマラヤへ拝みに行け」というのは非常識では? と言うPK。「本当の神様なら、妻の看病をしっかりしなさい」と言うはずだ、というPKの言い分は、イノセントすぎて笑えません。

 結婚式にしろ、怪しげな導師様の言いなりになることにしろ、まあ、これら全て、「そういうもんだから」という、思い込み、あるいは妄信、のなせる業ではないでしょーか。結婚の何がめでたいのか? 真面目に考えたら結構難しいと思うのですよ、答えるの。こういう、考えることを排除した言動ってのは、やっぱり何かこう、滑稽さを伴うのではないでしょーか。そこを一つずつ拾い上げていったのが、本作です。

 見る人の心に刺さるPKの素朴な疑問、必ず一つや二つはあるはず。


◆その他もろもろ

 そんなPKもジャグーに恋をするんだけど、これはかなわないまま終わります。でも、ジャグーのベルギーでの失恋は、単なる行き違い(この行き違いにも導師様の予言がジャグーに暗示を掛けたということで、序盤のシーンが伏線になっている)によるもので、パキスタン人青年・サルファラーズとの恋が実ります。PKの片思いは切ないけれど、ジャグーとサルファラーズの恋が復活するいきさつについては、まあ、ちょっとご都合主義っぽい感じはしますね。

 でも、ジャグーを演じたアヌシュカ・シャルマが、とっても可愛くてグラマーで魅力的だったので、ご都合主義でも何でも、サルファラーズとハッピーエンディングに落ち着いて、見ている方としてはホッとしました。いやホント、アヌシュカ・シャルマ、とってもステキでした。

 そのほか、『きっと、うまくいく』のキャストと結構被っていたので、そういうのを見つけるのも楽しかった。ジャグーのTV局での上司は、ICE工科大のヴィルス学長だし、ジャグーの父親役はファルハーンのお父さん、母親役はラージューのお母さんでした。新興宗教の導師様の手先みたいな男は本物のランチョーですね(ちょっと太ってた)。

 インド映画は、ものすごくこだわる部分は徹底的に時間を掛けて描くし、また、伏線がきちんと回収されるところも見事です。“あのシーン、結局何だったのさ”ってのが全くない、ってのがスゴイ。だから、長くてもゼンゼン長さを感じないし飽きないのです。

 もう一度、DVDできちんと見た方がよさそうです。





 
 



楽しい歌&踊りもちゃんとあります。




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人質(1999年)

2017-02-13 | 【ひ】



 以下、allcinemaよりあらすじのコピペです

=====ここから。

 異常犯罪者が地中に埋めた人質を解放するため、女性警官が必死の説得交渉を行うサスペンス・スリラー。

 突如ニューヨークで誘拐事件が発生。しかも、通常の誘拐とは異なり、人質は犯人だけが知っている場所で生き埋めにされていることが判明する。酸素は24時間しかもたない。警察の捜査をあざけるように、犯人は一人の女性警官を指名する。彼女は人質を救うべく捜索を開始するが、冷酷な犯人に翻弄される。

====コピペ終わり。

 原題は、“OXYGEN”=酸素。ん~~、原題もイマイチかなぁ。主役は、人質の女性ではありません、念のため。
 
 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 ブロディ出演作をぼちぼち見て行こうと思って、過日『ミッドナイト・イン・パリ』を見たんだけれど、ブロディの出番はほんの3分くらい(マジでダリそっくり!!)で、しかも映画自体も、なんだかなぁ、、、な内容で、感想を書く気にならないといいますか、、、。ウディ・アレン監督作で、面白くなくはなかったんですが、正直なところ「だから何だ?」的な感じでして。……まあ、また書く気になったら書くことにします。

 というわけで、ブロディ20代の頃の本作を見ました。巷じゃ(というより、本作を見た数少ない方々の間では)『羊たちの沈黙』のパクリと言われているようですが、そ~かなぁ、、、。まあ、「サイコパスVS女刑事」という図式は同じですが、テイストはゼンゼン別物だと思いました、私は。


◆犬を連れていると心に隙が生じる。

 ブロディは、前述のあらすじでいうところの“異常犯罪者”を演じております。一応、役名は、ハリーと付けられていますけれども、これが彼の本当の名前かどうかは不明。

 ある金持ち(著名な古美術品収集家クラーク)の奥さんフランシスを誘拐し、下着姿にして棺桶みたいな箱に入れて、どこかの森の地中に埋める、という荒っぽい手法。身代金をのこのこ受け取りに来るわ、あっさり捕まるわ、、、で、この犯人は一体何がしたいわけ? と、見ている者は皆思う。

 彼は、自分でも「人が恐怖に怯えているところを見るのが好き」と言っていて、この犯罪もその一環なんでしょうなぁ。人を傷付けるのが趣味なんです。でもって、警察が自分に翻弄されている姿を見るのも好きなんですね。自分の万能感を味わいたいんですかね。

 この、訳の分からない役を、ブロディは、非常にナチュラルに演じていて、この人マジでヤバくないか? と思わせる。一見、普通の兄ちゃんなのに、、、ってところがコワい。

 生き埋めにされた女性も、最初は、ブロディ演ずるハリーの笑顔にすっかり騙されちゃう。私も騙されるなぁ、あんな笑顔で犬の散歩中に話し掛けられたら。犬といると、何か安心感があるのですよね。チワワみたいなちっちゃい犬じゃ感じられないかも知れませんが、柴犬くらいでも結構、頼りになる気がしてしまう。そういう、心に隙があるところに、あの一見爽やかな笑顔。ううむ、この状況なら、簡単に拉致されても仕方ないかも。

 まあ、でも、警察にあっさり捕まるところまで、ハリーは計算していたのです。あとは、警察との心理戦、、、。この後どーなるの? という好奇心だけは途切れさせることなく展開してくれます。


◆マヌケ過ぎる警察、、、唖然。

 ハリーの相手をすることになる女性警察官マデリン(モーラ・ティアニー)は、かなり頑張っています。上司で足が不自由な(?)夫がいながら、SMプレイ(つーか不倫?)相手もいるマデリン。さすが警察官、ゴツいです。ハリーに「あんた、警察官の割に、美人だな」とか言われていますが、確かに、キレイと言えばキレイですが、ゴツいんです。

 取り調べ中、ハリーは、マデリンの目の前で、ルパン3世もビックリな手錠抜けをやります。机の下に両手を下ろしているほんの数分の間に、歯の矯正ブラケットの針金をこっそり外すと、その針金を使って、開錠してしまうのです。その瞬間、マデリンが拳銃を向け、隣室で監視していた警察官たちがなだれ込んできて事なきを得ますが、ハリーの異常さがどんどん剥き出しになってきます。……で、このシーンは重要な伏線になります。

 ハリーは、人質をどこに埋めたか、なかなか口を割らないんだけど、監視を完全に排除してマデリンと2人きりになれたら全部話す、と警察を揺さぶる。マデリンは重装備し、ハリーは手錠だけでなく、足に鎖を掛けられ床に固定された状態になって、監視を排除し、机を挟んでマデリンと2人きりになって向き合う、、、。

 ……で、もうお分かりですね。そーです、ハリーは、見事手錠抜けしてマデリンを組み伏せ、取調室の換気口からマデリンを連れて脱出する、というわけ。

 でもさあ、ここまでの描写が、さすがに「そらねぇだろう、、、」的なツッコミどころが多過ぎで、ちょっと白けちゃいました、私。

 大体、2人きりになった直後から、ハリーは机の下に両手を下ろした格好になるんだけど、普通だったら、その前のこと(前述の伏線と書いたシーン)があるんだから、マデリンがいくらアホでも気付くでしょうって。

 それに、手錠抜けはできたとしても、足の鎖はどーやって抜けたのでしょう? 意味深に背後にペンキが置かれていて、ハリーの靴にペンキの飛沫が掛かっている描写がありましたが、だから何?? それと、足の鎖抜けはどーゆー関係が?? 靴を脱いだとでも言いたいのでしょーか?

 おまけに、マデリンみたいなゴツい体の女を抱えて、細身のハリーが天井の換気口を抜ける、、、そら不可能でしょう、って。マデリンを縛って、上から引き上げる、という方法も考えられなくはないけど、あれは重いぞ、、、。引き上げるのは並大抵ではない。

 ……とか、マジメに考えるのもアホらしいのですが、まあ、とにかく、ちょっとばかし大味すぎる展開に唖然となります、、、ごーん、、、。

 最終的にハリーは自滅するんですけど、肝心の人質の女性はどーなったか? 生きていたのですよ、これが。掘り起こしたときには死んだようになっていたのですが、ハリーがちょっと隙を見せた途端に、ゾンビよろしく猛然とハリーの背後から襲い掛かり、あっという間に形勢逆転、最後はマデリンに撃たれるわけ。

 とりあえずは、正義が勝って、めでたしめでたし、、、というラスト。


◆こじんまりと異常さを描く。

 ストーリーをこき下ろしてきましたが、でも、本作は結構面白いです。なぜなら、ハリーがめちゃくちゃ憎ったらしくて、しかもキモいのです。キモいってのは、異常犯罪者の“怖キモ”ではなく、“優キモ”です。優男の優。一見、良さそうな人だけど、ちょっとキモい。ブロディは、一応ハンサム(と最近の私の目には見える)ですが、 ああいう顔でも、キモ男に見事になりきることができるのか、、、と感動してしまいました。

 マデリンを挑発するときに見せる、両手を口に当てて「やだぁ」みたいなポーズを取るわざとらしいバカっぽさ。その中に、一瞬垣間見せる異常な怖さ。

 『羊たちの沈黙』のハンニバルとは、そもそもスケールが違います。あそこまでのキャラを、ハリーはそもそも狙っていないのでは? ハンニバルは、万能感を見せつけたいというキャラじゃなくて、もともと超凶暴で、ある意味、無敵。既にラスボス。別に、小細工を弄して万能感を他者に見せつける必要なんかないんです。でもハリーは、存在が小物。異常犯罪者という共通項はあっても、異常度が違い過ぎ。多分、本作の制作陣も、『羊たちの沈黙』の構図は借りたけれども、スケールではもっとチマチマした半径数メートルの世界を描きたかったんじゃないのかな。

 裏を返せば、ハンニバルなんていうモンスターキャラを登場させなくても、こういう小さな世界でも、十分にゾッとする異常さを描ける、ということです。

 ブロディは、この役、楽しかったんじゃないですかねぇ。存分に楽しんでいるように見えました。まあ、確かに、こんなキャラ、現実ではなりたくてもなかなかなれませんからねぇ。フィクションの世界であるからこそ、別人格になりきることが出来る、というのは、ちょっとだけ分かる気がします。『ミッドナイト・イン・パリ』のダリも、ブロディは楽しそうに演じていました。彼は、天性の俳優なのだなぁ、、、と本作を見て強く感じました。

 彼は、オスカー受賞後も地味な作品にたくさん出ていますけれど、きっと、こういうインディーズ系の作品が、彼の俳優としての根っこなんでしょう。まあ、作品に恵まれない、という部分もあるかも知れませんが、彼自身が地味な作品も好んで選んでいる側面もかなり大きいと思われます。ある意味、どんな役でも見事に演じ切ってしまうからこそ、メジャー俳優だけじゃ物足りなさを感じるのかも知れません。

 ……とはいえ、ブロディ自身ももっとメジャーな作品での露出は望んでいるでしょうから、そちらの方でも作品・機会に恵まれるといいなぁと思います。起用する側から見れば、あのルックスとあの個性ですから、逆に難しいという気はしますけど。

 まあ、とにかく、本作は、ブロディを鑑賞するための映画と言っても良いでしょう。あとの人たちは、人質役のライラ・ロビンズ以外、失礼ながら、ほとんど印象に残りません。






オネエっぽいブロディも見られます。




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光の旅人 K-PAX(2001年)

2016-12-21 | 【ひ】



 ある日、とある駅でひったくりの犯人と間違われた男(ケビン・スペイシー)が、精神病院に運ばれてきた。男はプロートと名乗り、K-PAXという星から来た、と警察官に話したことから病院送りとなった次第。

 プロートを診断することになった医師マーク・パウエル(ジェフ・ブリッジス)は、プロートが宇宙人などとはもちろん信じておらず、カウンセリングを続けるうちに、彼には大きな心的外傷があるに違いないと確信するようになる。パウエルが核心に迫りつつあることが影響してか、プロートは7月27日にK-PAXに帰ると言い出す。時間がないパウエルはプロートの過去を調べ、遂に真相に辿りつくが、、、。

 
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 イアン・ソフトリー監督というと、私にとってはHBC主演の『鳩の翼』が代表作なんだけど、本作の方が有名みたいですね。それはやっぱり、ケビン・スペイシー&ジェフ・ブリッジスというキャストのせいでしょうか。HBCだって、彼らに勝るとも劣らぬ名優なんですけれど、、、。


◆希望が見えない話

 ん~~、正直なところ、あんまし好きじゃないかも、これは。なんでかなぁ、、、と、見終わって数日考えているのですが、まだ分からない。

 見ていて退屈だったんですよねぇ。見ていて訳分からん、って感じではないけど、途中で睡魔に襲われ、、、ううむ、って感じです。

 なんか、最近、こういうの続くなぁ、、、。見終わっても、書きたい感想がまるで浮かんでこない映画。な~んとなく通り過ぎて行ってしまう作品。決してヒドイ作品でもないのに、何にも心に残らない。これって、ホントに虚しい。

 賞賛でも文句でも、書きたいことがワ~~ッて溢れてくると、やっぱり見た甲斐があったなぁ、と思えるんですけれど。

 過去のトラウマから自分を守るために、自らを妄想の世界に閉じ込め、その世界を無理矢理こじ開けられそうになったら、今度は、廃人同然になってリアルに外界を遮断する、、、。こう書くと、希望も未来もないオハナシですよねぇ。でも、脚本次第で、もう少し何とかなったんじゃないのかなぁ、と思ったり。つまり、もう少し、希望を持てる話に出来たのではないか、、、。

 プロートがトラウマから解放されること=希望、なのかと聞かれれば、そう単純なものではないかも知れないけれど、過去の悲惨な体験にその後の人生を過剰に支配されてしまう話は、やはり見ていて気持ちの良いものではありません。


◆どよよ~~ん

 精神病院が舞台になる映画で好きなのは、『まぼろしの市街戦』ですかねぇ。しかも、戦争が背景にあって、本作よりはかなり悲惨な状況なのですが、ある種のおとぎ話に昇華させていて、あれはあれで、見ていてすごく主人公に共感できちゃう映画なんですよね。もちろん、演出も素晴らしいですし。

 本作は、同じ精神病院が舞台でも、どちらかというと、私の苦手な『カッコーの巣の上で』が、通じるものがあるような。記憶のかなたでうろ覚えですが、、、。『カッコー~』は、見ていて辛いし、ジャック・ニコルソンが演じているように見えなくてコワいしで、本作よりもかなりシュール度が高いけれど、主人公の自己防衛本能が強い、という意味では、似ているかも。

 いずれにせよ、ちょっとこういうの(感想が書けない)が続いていて、気持ち的にどよよ~~ん、という感じです。
 






バナナを皮ごと食べるケビン・スペイシー。




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ヒトラー暗殺、13分の誤算(2015年)

2015-11-09 | 【ひ】



 大戦前夜の1939年11月のある晩、ヒットラーはミュンヘンのとあるビアホールで演説していた。その頃、ドイツとスイスの国境であるドイツ人男性がドイツ兵に見つかる。男性はゲオルク・エルザー。地図や何かの設計図を持っており明らかに不審者であることから捕えられ、尋問を受けることに。

 尋問を受けるエルザーはしきりに時計を気にする。そして、9時20分。エルザーは一瞬の恍惚にも似た表情を浮かべ、ミュンヘンのビアホールでは大爆発が起きる。しかし、その13分前に、ヒットラーはビアホールを去っていた。この爆発を仕掛けたのは、エルザーで、ヒットラーが13分早く立ち去ったのは、悪天候による予定変更のためだったが、こうしてエルザーの完璧に計算されたはずのヒットラー暗殺計画は、あっけなく失敗に終わる。

 エルザーは一介の時計職人。共産党員でもないノンポリ音楽愛好家のプレイボーイ。彼がなぜ、、、?

 邦題のセンスが悪過ぎる。作品の趣旨がゼンゼン違う。原題の『Elser』が作品を素直に語っていると思います。
 
 
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 多分、この邦題のせいで、もっと違う内容を期待して見に来た人も多いと思いますね。私も新聞で紹介記事を読んでいたけれど、もう少し、暗殺計画にもフォーカスした話かと思っていました。

 だからといって、それで作品にガッカリしたということは全然ありません。むしろ、こういう作品は好き。本作は、この暗殺計画をたった一人で計画実行したゲオルク・エルザーという男性にフォーカスし、彼がどういう経緯でそこに行きついたのかを辿る、かなり地味な作品です。

 なので、『ワルキューレ』みたいのを期待して見に行くと、かなりハズレ感を受けるかも知れません。

 本作自体はそんなことはないのだけど、エルザーをドイツでは英雄扱いする向きもあるそうです。しかも、ドイツの戦況が悪化する以前の戦前~開戦直後に起きた暗殺未遂事件、ということで、エルザーにはヒットラーやナチスの本質を見抜く鋭い眼力があった、という評価だそうです。

 まあ、それは一面的には理解できなくもないけど、所詮は暗殺計画であり、私としては、正直、エルザーの行動を賞賛する気にはゼンゼンなれません。確かに、この暗殺計画が成功して、ヒットラーが1939年に死亡していたら、歴史は大きく変わっていたでしょう。もしかすると、ホロコーストの拡大も防げたかも知れない、とか。、、、でも、それは飽くまで仮定の話でしかなく、結果が吉と出たか凶と出たか、誰にも分からないことです。

 なので、本作は、事実を淡々と、エルザーの目線で、、、というより、私的にはエルザーを尋問した刑事警察局長のネーベの目線もかなり入っていたように感じましたが、、、、とにかく、かなり抑制的な描写がされていて、真摯に作られた作品だと思います。

 その割にの数が少ないのは、映画の作品として言えば、まず、エルザーを演じたクリスティアン・フリーデルという俳優さんがちょっと苦手なタイプだった、ってことと、彼の元婚約者エルザが同じ女として大嫌いなタイプだった、ということが非常に大きいです。

 実際のエルザー氏は、スッキリ、シャープな感じのするかなりの美男子です。これで、職人、ノンポリ、音楽に長けていたとなれば、女性にモテモテだったのもすごくよく分かる。が、演じたフリーデルさんはちょっと、、、こう言っては失礼だけどシャープさに欠けるし、スマートさがまるでない。決して頭が悪そうには見えないけど、、、なんかね。こんな大それたこと一匹狼でやり遂げちゃうようなトンデモなさを持つ神秘性は感じられません。これが私にとってはかなり致命的でした。アコーディオンの演奏シーンといい、ダンスのシーンといい、キマってない、イケてない、、、、って彼のファンの方々、いらっしゃったらすみません。

 実際よりイケメン過ぎるってことは実話モノにはよくあるけど、実際よりイマイチってのは、、、ちょっとねぇ。少なくとも不特定多数の人々が鑑賞するものなんだから、やっぱりドラマ性を盛り上げる意味でも、ビジュアルにはもう少し拘ってほしいよなぁ、と思っちゃう。

 そして、エルザですが、、、。エルザーの元婚約者のエルザ。なんかややこしい。この人、エルザーと出会ったとき、子持ちの人妻なんですね。まあ、それは別にイイんですけど、そのダンナってのが、まぁ、もうホントにサイアクな男で、、、吐き気がするほど。この辺の設定は脚色されているかもなので、実際のエルザがどんな女性だったか知りませんが、飽くまでも本作でのエルザは、言ってみれば、ダメンズ&下半身が緩い&男に(精神的に)どっぷり依存&自己中、とまるで魅力の理解できない女性像なんです。男性から見たら魅力的なんですかねぇ、こういう人。演じていたのはカタリーナ・シュットラーという女優さんで、まあ、美人ではあるけど、私はあんまし好きな顔ではありません。ちょっとキツ過ぎな感じ。

 というわけで、本質とは別の所で思いっ切り好みでなくなっちゃったのですが、作品の中身について言えば、エルザーがどうしてあんな大それたことをしでかしたのか、という明確なものは、当然と言えば当然だけど、描かれてはいません。でも、私は、だからむしろリアリティを感じたというか、、、。彼は、ノンポリだったからこそ、シニカルで、ヒットラーやナチスの胡散臭さ、危うさを感じたんだと思う。映画小屋で人々がナチスのプロパガンダ映画を見て熱狂している姿に、、、理屈じゃない何か、を肌で感じたのでしょう。理屈的にも十分危ないですけれども、もう、生理的に許せないものがあったのではないか、と私には感じられました。こんだけ、身近な人々を不幸にしていく社会っておかしい、という単純な思いも当然あったでしょうし。

 そして、彼は、ノンポリだからこそ、○○主義を掲げた可動性の悪さもよく分かっていたんでしょう。集団ほど厄介なものはない、と。個の力など知れているけれど、可動性は高い。自分さえ決断すればよいのですから。そして、彼には、ヒットラー暗殺しか方法が思い浮かばなかったんでしょう。冒頭、賞賛できないとは書きましたが、私が彼でも、やはり結論はそこに行きつくような気がします。

 でもまあ、信念を持っての行動、というのなら、イスラム過激派の自爆テロだって、別の側面から見れば同じことです。そう、彼のやったことはテロです。だから、やっぱり賞賛する気にはなれないし、私だったら、彼のように実行する行動力もなかったでしょう。

 恐らく、ヒットラーやナチスに対してエルザーと同じ見方をしていたドイツ人は他にもたくさんいたはずです。しかし、多勢に無勢、なす術ナシだったのでしょうか。歴史を知る現代人はこれらのことから学ばないといけませんよね、、、。

 ナチス及びヒットラーにしてみれば、こんな大爆発を、一市民がたった一人で実行できるはずはないと思い込み(ある意味、当然だと思う)、徹底的にエルザーを拷問にかけ自白させようとするわけですが、この拷問シーンが短いんですけど、私はほとんど正視できませんでした。これは、恐らく実際の拷問に比べればほんの序の口だと思いますが、それでも凄惨極まりないです。グロいのが苦手な方、ご用心。






エルザーをトーマス・クレッチマンが演じたら良かったのになぁ
(ちょっと年齢が上過ぎるか)




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