映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

マイ・ビューティフル・ランドレット (1985年)

2019-09-28 | ダニエル・デイ=ルイス(D・D・L)

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv11118/

 

 パキスタン移民オマール(ゴードン・ウォーネック)は、アル中で元敏腕記者だった父とロンドンのボロアパートで貧しい暮らしをしていたが、父の弟である叔父ナセル(サイード・ジャフリー)は事業に成功し、街外れの薄汚いコイン・ランドリーの経営を任される。

 オマールは、偶然夜の街で出会った幼馴染みのパンク青年ジョニー(ダニエル・デイ=ルイス)を誘って、コイン・ランドリー経営に乗り出す。オマールとジョニーは共に過ごすうちに肉体関係を持つようになるが……。

 DDL28歳の時のTV映画。日本での公開は87年。このほど、デジタル・リマスターでリバイバル公開。

 

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 DDLの信者としては、この作品は、大事に大事に抱きしめたくなるような映画であります。公開当時、劇場で見ていない者としては、スクリーンで見る機会が来るとは思ってもいなかったので、リバイバル上映される機会は逃せない! ……というわけで、見に行って参りました。

 

◆30年後も同じ問題で苦しんでいる社会

 制作は85年で、今から30年以上前の映画だけれど、本作で描かれているのは、現在の社会情勢とまんま被るのがビックリであった。移民、貧困、同性愛。30年前からずっと抱えてきた問題だったのだ。ブレクジットで大騒ぎになっているからといって、最近降って湧いた社会問題ではないのだ。

 オマールの置かれた環境も複雑だ。父親は今でこそアル中オヤジだが、元新聞記者というだけあって、息子には教養を身に付けさせたいと願っている。しかし、先立つモノがないから、事業で成功している弟ナセルにオマールのアルバイトを頼んで、金銭面で世話にならざるを得ない。そのナセルは、移民でもその辺のイギリス人よりもよっぽど稼いでおり、愛人にはれっきとした白人イギリス女をゲットし、優越感に浸っている。そんな即物的な男には教養なんぞ眼中になく、甥のオマールに不採算なコイン・ランドリーを押し付けて、少しでも稼ごうとする。

 若いオマールが、そんな父と叔父の姿を見ていれば、必然的に現時点で羽振りの良い叔父の生き方に傾倒するのもムリはない。でも、いくら叔父が金持ちとはいえ、イギリスではマイノリティであることに違いはない。父親が教養を望むのも分かる。自分はこの先どうすれば良いのか、、、。

 おまけに、コイン・ランドリーには、オマールと相思相愛の、麗しきパンク青年ジョニーがいるんだもんね。そら悩むわね。

 ジョニーは、チンピラ仲間と一緒にいるところは描かれるが、彼の家族関係の描写はほぼないので分からない。が、彼の家はどうやら寂れたボロアパートのようで、経済的には厳しい状況にあるのは確かだ。また、以前には移民排斥のデモに参加したことがある、ということがセリフで語られる。オマールとは幼馴染みで親しかったのに、そんなデモには参加していたのだ。おまけに、彼の属するチンピラ仲間たちも白人至上主義者みたいな言動だ。

 オマールとジョニーは、一人の人間同士としては愛し合っていたけれど、彼らの属性が絡むと、純粋に愛情だけでは語れない何かを問題として引きずってくるのである。

 こういうことって、実際身近にもあるよなぁ、、、。個人的には何ら問題なく良い関係を築けていても、属性が絡むことで、急に面倒な問題が生じるってこと。人種、宗教、職業、出自、、、etc。人間は社会的動物だから、こういう属性から完全にフリーになるのは難しい。

 オマールは、父や叔父の意向で、従妹のタニアと結婚させられそうになる。といっても、父と叔父の思惑は異なるのだが、いずれにせよ、この結婚話は、タニアがきっぱり拒絶する。自立心の強いタニアは、愛人の存在に苦しみながらも夫に従わざるを得ない実母の姿を見ていて、そんな男尊女卑的社会のシステムに組み込まれることを嫌ったのだ。

 一方のジョニーは、移民でありながら自分よりも裕福な生活をしているオマールやナセルたちを見て、思うところはあるのだろうが、かと言って自分が今の状況から飛躍できるはずもなく、チンピラ仲間たちが、オマールの従兄をボコボコにリンチしているのを始めは傍観している。思い直して止めに入れば、今度は自分が、仲間たちにボコボコにされてしまう。……もうこんなのイヤだ!!! となるのも当然と言えば当然だ。

 結果的に、オマールは、コイン・ランドリーの経営を続けることになりそうなところで本作は終わる。ジョニーは、もうイヤだ!といってオマールの下を去ろうとするが、オマールにすがられ思いとどまる。ラストは、二人がじゃれ合う微笑ましいシーンで終わり、ちょっとホッとなるものの、彼らの今後を思うと複雑だ。

 

◆80年代イギリス

 本作は、サッチャー政権時代の話で、私の大好きな映画『リトル・ダンサー』と同じ。思えば、『リトル・ダンサー』も、格差と同性愛を描いていた。何となく、80年代の空気感は(当たり前だが)両作品共に似ている。音楽は、『リトル・ダンサー』では、実際の80年代のイギリス・ロックが使われていたが、本作の音楽はオリジナルなのか(?)コイン・ランドリーが舞台ということもあってか水をイメージするような音が使われていて、でも80年代ぽさが漂う面白い音楽だった。

 DDLは、本作で初めてパンク青年を演じたようだけど、パンクだろうがチンピラだろうが、DDLはやっぱりどこを切ってもDDLで、美しいし、やっぱり佇まいが違う。こういうのを、“育ち”っていうんでしょーなぁ、、、。今回のリバイバル上映に当たってのキャッチコピーも“美しきはぐれ者”だもんなぁ。やっぱり誰が見ても、“美しい”んだろうな。

 顔にペンキが付いていても、つなぎを着ていても、髪がモヒカンでも、ボコボコにされて血まみれでも、美しいDDL。あんなチンピラ、いたら友達になりたい。

 彼のちょっとした仕草、ふと延ばした指先とか、ふと振り返った眼差しとか、はにかむような笑顔とか、店の洗濯機をふわっと飛び越えるのとか、、、、そういう演技と言えないような演技が、とても繊細で素晴らしい。ああいうのって、もう天性のものなのかも知れぬ。

  『リトル・ダンサー』のビリーは、階級の壁をぶち破って、見事に白鳥へと羽ばたいたが、本作のジョニーは、到底階級の壁を壊せるようには思えない。恐らく、実際にはほとんどの青年がジョニーのように固定化された階級で生きるしかなかったのであり、ビリーはごく一握りの突破者だったのだろう。だからこそ、『リトル・ダンサー』は見終わった後に爽快感があったが、本作ではそれを感じることはできないってことなんだろうね。現実とはそういうものだ、と。

 

◆どーでもよい話(まったくの蛇足)

 本作は、95年にも一度リバイバル上映されているらしいけれど、ゼンゼン知らなかった。今回上映されたのは、恵比寿ガーデンシネマ。単館系にしてはスクリーンもでっかく、客席もゆったりしていて多めで、とっても好きな映画館の一つ。私が見に行ったのは公開翌週だったけど、公開初日プレゼントをまだ配っていて、しかも、私が見た回はガラガラで、200席近くあるのに多分20人も入っていなかったと思われる、、、。ちょっと哀しい。こんなステキな映画なのに。

 先日のゴーモン特集では満席続きだったのに、この差は何だろう、、、。この映画だって、十分レアだし、作品の完成度は高いし、注目度としては同じくらいのはずなのになぁ、、、。

 でもまぁ、信者にとって大切にしたい映画って、あんまりにもメジャーになって無数の人々の手垢にまみれて欲しくない、、、という勝手な思いもあったりして、そういう意味ではあんまり連日大入り満員でない方が良いのか……。

 

 

 

 

 

本作のDVDジャケットのDDLがちょこっとシュワに似ている気がするのは私だけ、、、?

 

 

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サスペリア(2018年)

2019-09-23 | 【さ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv66229/

 

 以下、公式HPよりあらすじのコピペです(青字は筆者による加筆)。

=====ここから。 

 1977年、ベルリンを拠点とする世界的に有名な舞踊団<マルコス・ダンス・カンパニー>に入団するため、スージー・バニヨン(ダコタ・ジョンソン)は夢と希望を胸にアメリカからやってきた。

 初のオーディションでカリスマ振付師マダム・ブラン(ティルダ・スウィントン)の目に留まり、すぐに大事な演目のセンターに抜擢される。そんな中、マダム・ブラン直々のレッスンを続ける彼女のまわりで不可解な出来事が頻発、ダンサーが次々と失踪を遂げる。

 一方、心理療法士クレンペラー博士は、患者であった若きダンサーの行方を捜すうち、舞踊団の闇に近づいていく。やがて、舞踊団に隠された恐ろしい秘密が明らかになり、スージーの身にも危険が及んでいた――。

=====ここまで。

 1977年のダリオ・アルジェント監督によるホラー映画『サスペリア』のリメイク版。……といってもゼンゼン別物。

 

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 元祖『サスペリア』が公開された当時、ガンガンTVでCMが流されており、それで有名なのがあのキャッチコピー「決して一人で見ないでください」だった。あの当時、あの宣伝はかなり刺激的で、強烈なインパクトがあったから、アラフィフ世代以上は覚えている人も多いはず。

 かくいう私もその一人。当時のインパクトが強すぎで、大人になってビデオ化されてもあんまり見る気になれず、見たのは本作が公開されると聞いてから。で、見てみたら、そこには当たり前だがアルジェントの世界が広がっていて、ストーリー自体は正直言ってゼンゼン面白くなかったが、画的には非常に惹き付けられた。なるほど、これなら当時であれば世間が騒ぐのも当然だろう、、、と思った。

 本作については、公開前から話題になっていたけど、前評判で「まるで別物」と聞いていたし、難解だとも言われていたこともあって、オリジナルのファンでもないし劇場まで見に行く気にはならなかった。最近、DVDになっていたので、借りてみた。

 で、、、。ん~~~、アルジェントが本作を見て怒った、というのもちょっと分かる気がする。

 

◆アート系ホラー、、、か?

 本作の解釈についてはあちこちで書かれているので、ここでは感じたことをつらつらと思い付くまま書きます。

  見終わって真っ先に思ったことは、「果たして本作をホラー映画にしたかったのだろうか、この監督は……??」ってこと。オリジナルは一応ホラーで、そのリメイクなので、ホラーだと思って見たんだけれども、そもそもホラーのお約束(分かりやすい、尺は短め)を守る気など更々なさげな作りといい、エンドクレジットの後の意味深な映像といい、これはアート系映画であって、ホラーじゃねーだろ、、、と思ってしまった。

 もちろん、グロい映像は一杯出てくるんだけど、まぁ一応気持ち悪いけど全く怖くはないし、驚くような演出もないし、ホラーを期待しているとことごとく裏切られる作りになっている、、、と思う。

 思わせぶりな時事ニュース映像を挟んだり、オリジナルにはなかったクレンペラー博士という精神科医が出て来たり、ナゾがあちこちにばらまかれているんだけど、それが観客にとってはあまり面白い伏線になっていない。私も一度見た後、もう一度、気になるシーンをあちこち何度か見て、私なりに“こういうことか、、、?”と解釈したけれども、それだって、本当にそうなのかは分からない。

 多分、おおむね伏線は回収されているのだと思う。クレンペラー博士があそこまであのダンスカンパニーに固執したのはなぜか、というのも、終盤に、彼と亡き妻とのエピソードが出て来て、なるほど、、、となるし、そもそもスージーが最初から物怖じせずにあのカンパニーであのように振る舞えたのは、彼女自身が、、、、だからね、とか。大まかなことは私でも分かる。

 アート系で、よく分からないけどホラー、、、というと、グリーナウェイが思い浮かぶのだが、本作を見ていて、『ベイビー・オブ・マコン』がちょっと通じるモノがあるような、、、と思っていた。記憶が定かじゃないのが情けないが、あれは魔女でないが、ある種の邪教が舞台装置になっていて、その教えに背いた者たちを徹底的に殺戮するという終盤のグロの極みみたいなシーンが、本作の終盤のシーンとダブってしまったのである。あの映画を見たときの訳の分からなさと不快さが、本作でデジャヴだったのだ。本作の方が、アレに比べればまだしも意味が分かる、、、、とはいえ、見た目的にグチョグチョ系で生理的嫌悪感は上回るかもだけど。

 ……というわけで、ホラーってのは、もう少し分かりやすい方が良いと思うけど、監督がホラーだと思って撮ってないなら、しょーがないわね。分かりにくいと、怖さを感じる余裕がなくなる、というか。実際、本作は怖くはないしねぇ。でも、あの『サスペリア』のリメイクって言われりゃ、ホラーのつもりで見るよね、普通は。

 

◆漂うミソジニー

 以下、ネタバレです。

 でもさぁ。スージー自身が、いわゆる“ラスボス”であるのなら、マダム・ブランだって、そこそこの格なわけだから、スージーに対して何らかビビビと感じるものなんじゃないのかね? マダム・ブランのほかにも雑魚キャラの魔女がいらっしゃったのに。最後の最後まで誰一人見抜けないなんて、魔女も大したことないのね、、、なーんて。

 スージーは最初から魔女だったのか、、、というのもネット上では話題になっていたみたいだが、私は最初からだったと考えた方が面白いような気がする。全てお見通しだった、と。……でもそうすると、ちょっと辻褄が合わないところもあるんだが。

 本作は、監督が言うには、女性のための映画であり、女性解放の映画、、、という意図があるらしい。監督がそう言うなら、まぁ、そーなんでしょう。

 しかし、女の私が見て感じたのは、監督自身が持つ強烈な“ミソジニー”であります。監督がゲイだから、、、という先入観がないとは言わないが、『君の名前で僕を呼んで』と比べると、明らかにそう感じる。まぁ、この映画と比べて良いのか、、、という疑問もあるけれども。

 『君の名前~』は、男性と少年の恋愛を、まぁ、これでもかっていうくらい美しく描いていたわけよ。主役2人の男優も美しい2人を配し、ラブシーンももちろん、2人のシーンはどれもこれも全部色彩も含めて美しく撮っていた。が、本作では、終盤に出てくる魔女たちは皆グロテスクで美しさの対極にあるような描き方、なおかつアルジェント版の特徴だった美しい色彩はまるでなく、暗~~い単色系の画面ばかりで、極めつけは、本作でのキーになるダンスだ。およそ美しさからはほど遠い。コンテンポラリーダンスの特徴と言えばそうなのかも知れないが、アルジェント版のバレエスクールを敢えて、ダンスカンパニーに置き換えた意図も勘ぐりたくなる。

 魔女映画だって、アート映画だって、別にもっと美しく撮ることはできるはず(現にアルジェントは撮っている)だが、こういう作品にしたことに、私は、この監督の女性に対するイメージが現れていると思えて仕方がない。

 まぁ、クリエイターでゲイの人たちには、男尊女卑思想が根底にあることが多いのはよく知られた話だが、この監督がどういう思想の持ち主かは分からないけど、作品を見る限り、彼もご多分に漏れず、、、という感じがするなぁ、正直言って。『君の名前~』に出てくる女性の描き方もかなり杜撰だったしね(脚本はアイヴォリー氏ですが)。

 見る人によっては、監督が意図しないものを見出してしまうこともあるので、創造ってなかなか難しいもんですね。

 

◆その他もろもろ

 個人的に、私はティルダ・スウィントンという女優さんがあんまし好きじゃないので、それも本作をナナメに見てしまった遠因かも。でも、見終わってから、あのクレンペラー博士も彼女が演じていたのだと知って、さすがに驚いた。特殊メイクの技術ってスゴいのね、、、。

 そう言われてみれば、確かに博士の声は男性にしては高めだし、身体の線も細い。でも、言われなければ分からなかった、絶対に。

 あと、タイトルの『サスペリア』というのは、“Mother Suspiriorum”から来ているのだって。だから、“サスペリア”ではなく、“サスピリオルム”の“サスピリア”なのね、原題は。嘆きの母の名前だそう。この嘆きの母ってのが、最後の方で鍵になるのだが。

 前述で「驚くような演出もない」と書いたけど、1箇所だけ、ギョッとなるシーンがあった、そーいえば。突然なんでビックリするというか。……は?何で??って感じで、魔女たちの間の力関係に起因するものの様だけど、イマイチよく分からない。分からなくても、別に見ていて困らない。

 とにかく本作は、終盤に怒濤の謎解きとなるのだけれども、それでスッキリする、という訳でもありません。怖い映画を見たいのならば、本作を見てもあまり意味がないのでオススメしません。

 

 

 

 

 

 

当時のベルリンがあんなに血なまぐさかったとは知らなかった、、、。

 

 

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ハワーズ・エンド (1992年)

2019-09-19 | ヘレナ・ボナム=カーター(H・B・C)

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv16408/

 

 20世紀初頭のイギリス、ウィルコックス家の別荘ハワーズ・エンド邸に招かれたシュレーゲル家の二女ヘレン(ヘレナ・ボナム・カーター)は、ウィルコックス家の二男ポールと束の間の恋に落ち、ロンドンにいる姉マーガレット(エマ・トンプソン)に「婚約しました」と手紙を送ったことから、シュレーゲル家は大騒ぎに。姉妹の叔母が慌ててハワーズ・エンドに訪ねてきたときには、しかし、ヘレンの恋は終わっていたのだった。

 その後、ロンドンのシュレーゲル家の真向かいにウィルコックス家が引っ越して来たことで、マーガレットとウィルコックス夫人(ヴァネッサ・レッドグレイヴ)は親しくなり、亡くなる直前、「ハワーズ・エンドをマーガレットに」と遺書を残すが、当主ヘンリー(アンソニー・ホプキンズ)や長男チャールズ(ジェームズ・ウィルビー)らは同意しかねるとして、その遺書を破り捨て燃やしてしまう。

 ヘレンがレナード・バスト(サミュエル・ウェスト)の長傘を間違えて持ち帰ってきてしまったことが切っ掛けで、シュレーゲル姉妹はレナードのことがお気に入りに。ある日、ヘンリーが、レナードの勤務先である保険会社の経営状態が悪いと姉妹に話したことに端を発し、レナードは転職したが、結果的に転職先が経営悪化し、レナードは失業してしまう。

 一方、ウィルコックス家では、夫人亡き後、ヘンリーは密かにマーガレットに惹かれており、後にマーガレットに求婚、2人は婚約する。しかし、レナードの一件があったことで、責任を感じていたヘレンは、マーガレットがヘンリーと婚約することに反対だった。婚約式に、腹いせのつもりかレナード夫妻を連れて行くヘレン。しかしそこで、実はレナードの妻が若い頃ヘンリーの愛人だったことが図らずも明るみになってしまう。衝撃を受けるマーガレットだが、ヘンリーを許すことに。

 いたたまれなくなって婚約式を飛び出したヘレンとレナードは、思いがけず関係を持ってしまう。直後にヘレンはレナードに多額の小切手を残してドイツに旅立ってしまい、マーガレットには愛想のない葉書を時々送ってくるだけだった。マーガレットは数か月後、病を口実にヘレンを呼び戻すと、ヘレンは何と妊娠していたのだった――。

 

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 4Kデジタルリマスターでリバイバル上映です。公開時には劇場で見逃していた本作、美しい映像をスクリーンで見ることができる日が来ようとは……! 感謝・感激・雨あられ。

 

◆いろいろ疑問が、、、

 まぁ、オハナシ自体は他愛ないといえば他愛ないけど、よくよく考えると、え、、、?と思うとこともあるなぁ……、と今回再見して感じた次第。

 例えば、、、。

 ヘンリーがマーガレットに求婚するのは、妻が亡くなってまだ大して時間が経っていないと思われる頃。マーガレットもすんなり求婚を受け入れるし。しかも、ヘンリーは素敵な紳士、、、とは到底言えない(だって、アンソニー・ホプキンズ、、、)お爺さんだし、性格もイマイチだし。まあ、マーガレットもイイ歳で、結婚しないとモロモロ面倒くさいってのもあったんだろうけどね。お金のこともあるだろう。

 ヘレンがレナードと関係を持っちゃうところも、まぁ、ヘレンの性格なら有りだろうとは思うものの、しかしやっぱりちょっと飛躍が過ぎるような気もするというか。あのシチュエーションならキス止まりでもええんちゃう??などと下世話なことを考えてしまったりして、、、すんません。

 ウィルコックス夫人が、ハワーズ・エンド邸をマーガレットに遺そうとしたのも、イマイチよく分からない。いくら親しくなったからといっても、アカの他人。ヘンリーを見ていれば、愛のあった夫婦ではなかったんだろうと想像はつくけれども。おまけにあの長男、、、ジェームズ・ウィルビー演じるチャールズが、まぁ、ハッキリ言って最低だから、夫人としてみりゃアカの他人に譲りたくなる気持ちにもなるのかなぁ、、、とか。

 レナードも、シュレーゲル姉妹に言われたからって、あっさり転職するのもナゾだ。姉妹との信頼関係だって大して築けていないのに、なぜ?? 「一度失業したら、再び職を得るのはほぼ不可能」とセリフにあったが、そんな状況で、昨日今日知り合った世間知らず姉妹に言われたくらいで簡単に転職するかなぁ?? いや、そんな社会だからこそ、少しでもリスク回避しようとするのかも、、、と思ったり。

 ……てな具合に、内容については色々と???が浮かびながらも、美しい風景と衣裳と美術と音楽、そして何より美しく甦ったデジタル映像で、そんなチマチマしたことどーでもええわ!! と湧き上がる???を脳内で蹴散らしながらうっとり2時間半、スクリーンに吸い込まれておりました。

 

◆どーでもよい話とか……

 それにしても。我が愛するヘレナの、何と可愛らしいことよ。もう、可愛すぎて、ヘレナが出てくるだけで、デレ~~ッとなってしまう。何であんなに可愛くて、アバンギャルドで、賢い女性が、あんなバートンなんかと、、、と(私はバートンがあんまし好きじゃないから)思ってしまうけど、お門違いだわね。

 ヘレンという女性のキャラと、ヘレナの持つ魅力が共鳴し合い、適役だったと思う。後半、あんまし出て来なくなるのが残念だけど。

 あと、エマ・トンプソンと姉妹、ってのはちょっとムリがあるかなぁ。2人とも素敵な女性だけれども、雰囲気がゼンゼン違うもんね。こんな2人の心を奪った(?)ケネス・ブラナーって、ホントにそんなにイイ男なのかねぇ?? そうは見えないところが辛いとこ。ま、どっちも破局しているけれど。ヘレナが破局した遠因が、エマだとも聞いたことがあるのだが、、、。

 レナードを演じたサミュエル・ウェスト、なかなかキレイでした。今まで、何度も見たのにほとんど眼中に入ってこなかったんだけど、今回、結構キレイなお兄ちゃんではないか、と思った。彼に、あの妻はないだろう、、、とは前から思ってはいたが。レナードはお金はなくても知性はある人に見えるが、あの妻は、お世辞にも知的には見えないもんなぁ。レナード自身、彼女をあんまり愛しているようにも見えず、何で親の反対を押し切ってまで彼女を結婚したのかも、イマイチ分からない。

 今回、ある意味、一番印象に残ったのは、ジェームズ・ウィルビーだったかも。いつも、ヘレナばっかし見ていて、他の部分はちゃんと頭働かせて見ていなかったんだと思うけど、ジェームズ・ウィルビーの演じたチャールズって、ホントにどーしようもないんだわよ、ホントに。お金持ちだけどバカで強欲で軽率、、、っていう、良いとこなしなんだもん。チャールズの妻も、いかにも、、、で、夫婦揃って感じ悪い。ウィルコックス家が、そもそも知的階級でいうとそんなに高くなさそうだもんね。だからこそ、夫人は夫や息子よりも、マーガレットに救いを見出したってことだろうけど。

 それにしても、『モーリス』では可愛かったジェームズ・ウィルビーが、なんだか頭の悪そうなオッサンに見えたのがちょっと哀しかったかも。終盤、刑務所送りになっても、ゼンゼン可哀想とも思えなかった。

 マーガレットは結局、財産狙いだったのかなぁ、、、などと、ラストを見ると思わざるを得ず。何だかんだと、結局、ハワーズ・エンド邸をしっかり手にして、自分はもちろん、妹とその息子の居場所を確保しているところを見ると、一番賢いのは、やはりマーガレットだった、ということだろう。

 やっぱり、世の中、“お金”なんである。それを露骨に見せずに、しっかり手中にするのが賢い人間だ、ってことかな。これって、何も20世紀初頭のイギリスだけの話じゃなくて、現代でも言えることだわね。

 お金は大事。でも、金カネ金カネ、、、っていう人は、やっぱりいつの世でも下品。何事もほどほどって難しいわね。

 

 

 

 

 

『眺めのいい部屋』のデジタル・リバイバル上映もよろしくお願いします!

 

 

 

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パッドマン 5億人の女性を救った男 (2018年)

2019-09-15 | 【は】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv66126/

 

 以下、公式HPよりあらすじのコピペです(青字は筆者による加筆)。

=====ここから。 

 インドの小さな村で新婚生活を送る主人公の男ラクシュミ(アクシャイ・クマール)は、貧しくて生理用ナプキンが買えずに不衛生な布で処置をしている最愛の妻ガヤトリを救うため、清潔で安価なナプキンを手作りすることを思いつく。

 研究とリサーチに日々明け暮れるラクシュミの行動は、村の人々から奇異な目で見られ、数々の誤解や困難に直面し、ついには村を離れるまでの事態に…。

 それでも諦めることのなかったラクシュミは、彼の熱意に賛同した女性パリー(ソーナム・カプール)との出会いと協力もあり、ついに低コストでナプキンを大量生産できる機械を発明する。農村の女性たちにナプキンだけでなく、製造機を使ってナプキンを作る仕事の機会をも与えようと奮闘する最中、彼の運命を大きく変える出来事が訪れる――。

=====ここまで。

 

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 こちらも、公開中に劇場に行きたかったのだけれども、行けずじまいになってしまった。やっとDVDで見ました。

 

◆生理、、、この不快なるモノ。

 まあ、想像はしていたけれども、それ以上にインドにおける女性の生理の扱いが非科学的すぎて、見ていてどよよ~んとなってしまった。映画だからデフォルメされているかも、とも思うが、案外あれが実態に近い描写なんじゃ、と思ったり。……確かに、日本でも女性は生理があるから“不浄”だなどと言われる風習があるけどねぇ。

 しかし、やっぱり、この話は“男性が”生理用ナプキンの製造に執念を燃やしたことが最大の問題なんだろう。もし、ラクシュミが女性だったら、ここまで変人扱いされることもなかったかと。タブーに触れることで白眼視されることは同じだとしても、“ヘンタイ”呼ばわりされることはなかったと思われる。しかし、だからこそ、男性がそこまで女性の厄介な“生理問題”に真剣に向き合ってくれたことに、頭が下がる思いだ。

 生理――。このウザさは、男には分かるまい。旅行に行くにも、着る服を選ぶにも、、、、まぁとにかく付いて回るのだ、女には、この生理ってモンが。おまけに、生理前後には体調に変化が起きて、これは個人差が激しいが、私の場合は、生理前になると激しい睡魔に襲われて困ったことが多々あった。生理痛もヒドいときは結構ヒドくて、私の場合は特に腰痛。こんなモンが毎月来るのだゾ、女には。生理が重い人は、寝込むケースもあるというし、本当に、本当に厄介なんである。

 そして、本作のテーマでもあるナプキン。今の日本ではそこそこお安く手に入るが、それでも、大体1か月で300円~500円くらいは絶対的にかかる。1年で3,600円、生理がある期間が長くて40年として、生涯ナプキン費用14万4,000円ナリ。昔は、もう少し高かったと思うし、人によってはもっとかかっているかも知れないし、いずれにしても、女であるがために問答無用で必要となる費用である。最近は、布ナプキンなるものが普及し、私は使ったことがないけれども、使ってみて「良い」と言う人も結構いるようだ。布ナプキンならエコだし、費用も紙より抑えられるのかも知れないが、私はどうも布ナプキンは試してみる気になれなかったなぁ。

 それに、本作でもちょこっと描かれていたが、経血トラブルが一番の悩みだ。気を付けていても、服を汚してしまうことはあり得る。だから、生理中は着る服にも気を遣わざるを得ない。白いスカートやパンツなど論外。

 ……こんなメンドクサイ問題を女たちが抱えていることなど、男は知らんだろう。興味本位で生理を知りたがっても、真剣に真面目に、女の生理の悩みを知ろうとする人が、一体何パーセントいるのやら。

 大体これは、女性が出産するための必要不可欠な身体の機能なのだ。子を産めと言うくせに、生理は“不浄”だなんて、よく言ったもんだと憤りを覚える。しかも、そういうことを言うのは男だけじゃないのよね。女自身が言うことも少なくないのよ。本作でも、ラクシュミの母親は何の疑問もなく、生理中の嫁を家から出している。自分もそうされてきたしね。

 だから、むしろ、そんな環境にあって、ラクシュミという若い男性が「妻のために清潔なナプキンを!!」などという発想を持つこと自体が、不思議でさえある。多くの人たちは、何の疑問も抱いていないのに。彼の育った家庭環境が特別リベラルとか先進的とかいうことは全くないし、一体、彼にどのようにしてそんな素地が備わったのか、、、それがとても興味深い。

 

◆女性の自立のために、、、。

 ラクシュミのモデルとなったムルガナンダム氏、公式HPに写真が載っているけど、なかなかの強面でナプキンづくりに奔走した人にあんまし見えない。その画像にはナプキン製造の作業場が映っているのだが、彼以外にも男性が働いている。あれほどタブーだった生理にまつわる仕事に、男性も参加できるようになったのだろうか。

 このムルガナンダム氏をモデルにしたラクシュミは、手先が器用だし、何でも“自分でやって(作って)みよう!”という思想の人なんだよね。学校には行っていなくても、きっと頭の良い、思考の柔軟な人なんだと思われる。こういうのって、やっぱし生まれつきなのかなぁ。

 本作は、男が生理ナプキンを必死に作ったオハナシ、、、という触れ込みなんだけど、私が感動したのは、彼がこのように簡便に安価なナプキンが作れるシステムを考案したことで、インドの多くの女性の自立を促すことにつながった、という事実。

 彼はこの一連の機械について、特許を取ろうとはせず、敢えて全て公開し、だれでもこのシステムを利用することが出来るようにした。インドで女性が自立することがいかに難しいかは、インド映画にもよく描かれているが、このシステムのおかげで、女性たちが、それも田舎の貧しい家庭の主婦たちが自分で稼げることを覚えた、というのは非常に大きな変革だろう。

 ムルガナンダム氏があの「TED」でプレゼンしている実際の動画をYouTubeで見たんだけれど、本作でのラクシュミが言っていたこととほぼ同じことをやはり言っていた。つまり、「自分だけが儲けたって意味がない。みんなに還元したい」ということ。実際は、もっとユーモアたっぷりに面白く話していたけれど。世の中、金・カネ・金!!って感じだけど、こういう人って本当にいるんだなぁ。

 ムルガナンダム氏、「女の人を追っ掛けたって逃げられるだけ。女性のために良いことをしていたら向こうから追い掛けてきた」みたいなことも言っていて会場の爆笑を誘っていた。本作内で、ラクシュミが実際にナプキンを身に着けた実験をしていたが、ムルガナンダム氏は5日間実験を続けてみたんだそうな。「あの不快さは忘れられない。全ての女性に頭が下がる」と言っていたけれど、本当に、男性がそんな風に女性の生理に向き合ってくれるなんて、嬉しいことだ。

 本作の白眉は、やはり、ラクシュミが国連でスピーチをするシーンだろう。あのシーンは、ワンテイクで撮ったということだが、演じたアクシャイ・クマールがとにかく圧巻だった。 「TED」でムルガナンダム氏が話していたことと被る部分も多いが、さすがは俳優アクシャイ・クマール。ちょっと、伊吹吾郎を細く若くした感じ?? 笑顔や話し方、間の取り方、身振り手振りは、魅力的な人物像を浮き彫りにする素晴らしさ。実際のムルガナンダム氏の朴訥とした感じも好感度高いが、俳優の優れた演技はやっぱりただもんじゃないと改めて思う次第。

 パリーの存在が実在するのかどうかは分からないが、微妙な恋愛感情に至る辺りは脚色だろう。演じたソーナム・カプールは美女で、都会の学のある自立した女性というイメージにピッタリだった。ラクシュミの妻ガヤトリのキャラと対照的に描いている。まあ、パリーとラクシュミの成り行きも、予想どおりの結果となる。

 

◆日本はインドを笑えない。

 生理に対する人々のリアクションについて、インドは確かにタブー感が過剰だと思うが、前述した生理の不快さ、辛さについて、男性がきちんと理解していないのは、インドと日本は大して違わない。

 今の教育現場を知らないけれど、私が小学生の頃は、4年生になると、「女子だけ授業」ってのが放課後にあって、生理について通り一遍のレクチャーをされた。男子は興味津々で、それこそコソコソとイケナイ話をしている感が漂う、私は女子として何とも言えない嫌な気持ちになったものだった。

 ああいう話こそ、ちゃんと男子にも聞かせて、興味本位ではない、科学としての性教育をきちんとするべきだと思う。大人が恥ずかしそうにしたり、タブー感を出したりするから子供は敏感に反応するのであって、動物の身体の仕組みを説明するように、人間の身体の仕組みを教えれば良いのだ。

 今どき、4年生では遅いくらいかも知れないが、とにかく、性教育を子供たちに正しくしてほしい。それが子供たちの身を守ることにもなるのだからね。

 

 

 

 

 

インドのヒーロー、パッドマン!!

 

 

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悲しみに、こんにちは (2017年)

2019-09-11 | 【か】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv65410/

 

 以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。 

 フリダは部屋の片隅で、荷物がダンボールに詰められるのを静かに見つめていた。その姿は、まるで母親(ネウス)が最後に残していった置物のようだ。両親を“ある病気”で亡くし一人になった彼女は、バルセロナの祖父母の元を離れ、カタルーニャの田舎に住む若い叔父家族と一緒に暮らすことになる。

 母親の入院中、祖母たちに甘やかされて育てられていた都会っ子のフリダ。一方、田舎で自給自足の生活を送っている叔父と叔母、そして幼いいとこのアナ。彼らは、家族の一員としてフリダを温かく迎え入れるが、本当の家族のように馴染むのには互いに時間がかかり・・・。

=====ここまで。

 

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 昨夏、公開中に見に行きたかったのだけれども、なかなかタイミングが合わず行けずじまいに。ようやくDVDで見ることが出来ました。いや~、やっぱしスクリーンで見たかった!

 

◆涙一つ見せない美少女フリダ

 原題は、『ESTIU 1993』で、“1993年の夏”というカタラン語(カタルーニャ語)。何で、『悲しみに、こんにちは』なのか分からないけど、、、まぁ、そこまでヒドい邦題でもない気もするが、ちょっと違う感じもするかなぁ、、、。タイトルって難しい。

 ストーリーは特になく、フリダが両親亡き後、叔父・エステバと叔母・マルガの家でどうやって生きていくことになるのか、、、を詩的に描いている。なので、セリフはあまり多くなく、大人たちのセリフで何となくネウスの亡くなったいきさつやフリダの置かれた状況が察せられる。

 フリダは、可愛らしいのだけれど寂しそうな目をしていて、ちょっと大人にとっては扱いが難しそうな雰囲気の少女、、、という雰囲気を、もうオープニングのシーンから醸し出している。

 寂しそうな目、というか、周りの空気を無意識に窺う目、と言った方が分かりやすいかも。かといって、物怖じする感じではなく、マイペースに見える。なかなかシビアな状況にありながら、フリダは涙一つ流さない。意志の強そうな口元が印象的だ。

 この涙一つ流さない、というのが、ラストシーンで効いてくる。

 

◆フリダが、、、

 以下、ネタバレです。

 あれがあり、これがありしながらも、最終的にはどうにかフリダはエステバとマルガ、アナと馴染んで、幸せそうなシーンが描かれる。色違いでアナとお揃いのパジャマを着てキャッキャ言いながら、エステバが「やめてくれ」と優しくたしなめるのを尻目に、ベッドの上でぴょんぴょんアナと一緒に跳ねている。幼い子供のいる家庭によくありそうな光景だ。アナも無邪気に笑っていて、エステバも何だかんだ言いながら楽しそうだ。

 が、その直後、フリダが火がついたように泣き出すのである。それまで、一度も涙を見せなかったフリダが。

 驚いた叔父と叔母がフリダを抱きしめなだめる。アナも心配そうにフリダを見つめる。……で、ネウスへの献辞が出てエンディングである。

 この幕切れが実に良い。ヘンに感動モノに仕立てることもなく、フリダが突然泣き出したその理由が、見ている者の心に直截的に迫ってくる。なだめている叔父と叔母も、どこかホッとしたような表情を見せているのも良い。一つ、自分たちとフリダの間にあったハードルを越えられたことを実感したに違いない。

 もちろん、これで今後全てが上手く行くとは思えないが、希望の持てるラストシーンで、見て良かったと思える映画になっている。

 実は、このときフリダとアナが着ているパジャマには伏線がある。このパジャマは、彼女たちの祖母がプレゼントしてくれたもの。しかし、フリダのはブルー、アナのはピンクだった。すると、フリダは、「私もピンクが良かった」と言って、ブルーのパジャマを投げ出すのである。それを拾った祖母が「じゃあ、変えてもらってくるよ」と言ってフリダの前に置くのだが、フリダは何とその脇にあったミルク入りのコップを倒して、ブルーのパジャマをミルクまみれにするのである。

 そんな“ワケあり”のパジャマを、ラストシーンでは屈託なく身に着けているフリダを見れば、フリダのわだかまりが一つ消えたことが分かる。

 

◆フリダがアナにする“いけず”なあれこれ

 フリダは、ミルクまみれにしたブルーのパジャマを自分で洗わされるのだが、そのとき、別の叔母・ロラに「私をメイドみたいにこき使うの」などと、マルガのことを言っている。マルガは別にこき使っているわけではもちろんないが、ある出来事からフリダと険悪な雰囲気になったことがあったのだ。

 ある出来事とは、自分に懐いてついて回るアナが何となくウザく感じたフリダは、家の近くの茂みにアナを連れて行って、「ここで私が戻ってくるまで待ってて」とか言って置き去りにするのである。しばらくしてマルガがアナを探し回り、結果、アナは手を骨折していたのだった。

 まぁ、フリダに悪気はなかったのだが、マルガにしてみれば怒り心頭もムリはない。

 その他にも、自分が持ってきたたくさんの人形を一つ一つ鞄から出して、アナに見せびらかし「絶対触らないでね!」と言ったりもする。

 フリダは、天使でもなく、邪悪でもない、どこにでもいる6歳の女の子。こういう多面体な描き方が、本作を“可哀想なフリダの映画”にしていない所以だと思う。下手すると、安っぽいお涙ちょうだいになりかねないが、一切、そういうセンチメンタルな描写はなく、あくまでもフリダの視点から描かれているところが素晴らしい。

 

◆フリダを取り巻く大人たち...etc

 フリダの母が何で亡くなったのか、直截的には描かれていないが、それを暗示するシーンはある。スペインでは1993年、「エイズ禍で騒然となった」とあるサイトにはあった。エイズは今でこそ制御できる病として認知されているが、1993年当時なら、まだ偏見にまみれていた頃だろう。

 本作のラストの献辞からも分かる様に、フリダは監督自身の幼少期がモデルになっている。監督のインタビューも読んだが、監督自身も周囲の好奇の目に晒されたことがあったらしい。

 そんな状況にあって、叔父と叔母は、フリダを引き取り、いろいろあっても愛情を注いで面倒を見ているというのは、私は尊敬してしまう。なかなか出来ることではないのではないか。祖父母や親戚たちも一様に優しくフリダに接するが、引き取った叔父と叔母にしてみれば、フリダとの生活が日常になるわけだから表面的な優しさだけでは成り立たない。フリダにとってもストレスフルな日々だったろうが、叔父と叔母にとってもかなり大変だったはずだ。

 その叔母・マルガを演じたブルーナ・クッシという女優さんが素敵だった。スゴい美人という感じじゃないけど、何かイイ。素敵な女性。

 アナを演じた女の子がまた、実に素晴らしい演技(?)をしていてビックリ。顔も可愛いんだけど、表情がとても良い。目がくりくりしていて、無邪気にフリダに懐いている姿は、見ているだけで頬が緩んでしまう。

 フリダを演じたのはライア・アルティガスちゃんという少女だが、笑顔が何とも言えず可愛らしい。ちょっとすきっ歯ぽいんだけど、それもまたご愛敬。口を真一文字にしている顔もいじらしい。ぽっこりお腹も少女らしい体型で可愛い。作中の登場人物とはいえ、彼女の今後の幸せを願うばかりだ。

 

 

 

 

夜中に家出を試みたフリダが「暗いから明日にする」と言って帰ってくるところが可愛すぎる。

 

 

 

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ドッグマン (2018年)

2019-09-03 | 【と】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv67573/

 

 以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。 

 イタリアのさびれた海辺の町で、〈ドッグマン〉という犬のトリミングサロンを営むマルチェロ(マルチェロ・フォンテ)。店は質素だが、犬をこよなく愛す彼には楽園だ。妻とは別れて独り身だが、彼女との関係は良好で、最愛の娘ともいつでも会える。地元の仲間たちと共に食事やサッカーを楽しむ温厚なマルチェロは、ささやかだが幸せな日々を送っていた。

 だが、一つだけ気掛かりがあった。シモーネ(エドアルド・ペッシェ)という暴力的な友人の存在だ。シモーネが空き巣に入る時に無理やり車の運転手をさせられ、わずかな報酬しかもらえなかったり、コカインを買わされ金を払ってくれなかったりと、小心者のマルチェロは彼から利用され支配される関係から抜け出せずにいた。自分の思い通りにいかないとすぐに暴れるシモーネの行動は、仲間内でも問題になり、金を払ってよその人間に殺してもらおうという話さえ出ていた。

 ある日、シモーネから持ちかけられた儲け話を断りきれず片棒をかついでしまったマルチェロは、その代償として仲間たちの信用とサロンの顧客を失い、娘とも会えなくなってしまう。満ち足りた暮らしを失ったマルチェロは考えた末に、ある驚くべき計画を立てる――

=====ここまで。

 『ゴモラ』(2008)、『五日物語 -3つの王国と3人の女-』(2015)のマッテオ・ガローネ監督作品。

 

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 チラシを見たときから、見たいと思っていた本作。先日1日の映画の日にようやっと見に行って参りました。映画の日なのに、9月1日から値上げでなんと1,200円!!! サービスデーで1,200円って、、、。まあ、仕方がないのか、世の流れとしては。

 

◆嗚呼、マルチェロ、、、。

 マッテオ・ガローネの監督作は、『五日物語 -3つの王国と3人の女-』しか見たことがなく、代表作の『ゴモラ』も未見。『五日物語~』を見た限りでは、“鬼才”と呼ばれていることが今一つピンとこなかったけれども、今回、本作を見て納得した気がする。

 とにかく、その世界観に引き込まれる。マカロニ・ウエスタンを思わせる荒廃した街並みで、全体に暗いんだけれども、そこで描かれる人間関係は決して暗いわけではなく、人情味のある貧しい田舎町、といったところか。街の人たちは皆仲が良く、食事をレストランで一緒にとったり、サッカーを楽しんだり、決してどんよりした風景ではない。

 だけれども、その平和そうな街は、たった一人の荒くれ者・シモーネの存在によって常に恐怖と隣り合わせにある、というところがミソだ。

 このシモーネ、トンデモ野郎で手がつけられない。もう見るからにおっかない。デカい!! 全盛期のヒョードルを二回りくらい大きくした感じ。こんな奴が近寄ってきたら、大の男でも足がすくむのはムリもない。シモーネは、コトが自分の思い通りにならないと、すぐ暴力に出る。暴力で相手をねじ伏せ、自分の意のままに周囲を動かす。しかも、圧倒的な暴力なのだ。一発で相手をぶちのめす。それもいきなり。身構える余裕さえ与えない。こうやって、彼は問答無用で街を老若男女を支配してきたのだ。

 とはいえ、当然、街の人間たちだって、好きでこんなならず者にいいようにされているわけじゃない。何とかしたい、とは思っているが、手も足も出ないのが実情なのだ。挙げ句の果てに、誰かを雇ってシモーネを殺させよう、、、なんて話し合いまでしてしまう。まぁ、そんな風に考えてしまうのも、あれじゃぁ責められない。

 マルチェロだってそうだ。彼は、シモーネ殺害談義では傍観者だが、本当はシモーネと関わり合いたくないと思っている。でも、圧倒的なパワーの差で、とことん拒絶することは不可能なのだ。シモーネに一発食らったら、下手すればマルチェロなんぞ即死なんだから。誰だって死にたくはない、こんなクズに殴られて。

 その、マルチェロの抱えるどうしようもなさ、情けなさ、弱さ、、、あらゆるネガティブな要素が実に巧みに描かれる。見ている者は、マルチェロにふがいなさを感じつつも、我が身に置き換えれば致し方なし、、、と、マルチェロに同情的にもなる。その辺の描写が実に上手い。

 映画監督の行定勲氏が、本作の評でこんなことを書いている。

「とにかくマルチェロが愚かでイライラさせられる。なぜ、自分の生活を害する者とわかっていても、それを排除できないのか理解できない。主人公がしがみついて生きる町の存在が不気味で、その集落に生きるしかない男のあわれが描かれる」

 この人、ホントに映画監督なの? 彼の監督作品、調べたら一杯あるけど、んで私は1本も見たことないんだけど、“それを排除できないのか理解できない”って、信じられない感性の鈍さに仰天する。この方の画像も見たけど、言っちゃ悪いが、この人シモーネに軽く叩かれただけで失神しそうなんだけど。

 さらに“その集落に生きるしかない男のあわれが描かれる”ってさぁ、、、アンタ何見てたのよ、この映画の、、、と言いたい。マルチェロがこの街を離れられない理由なんて何度も何度も描かれていたじゃんよ。“主人公がしがみついて生きる町の存在が不気味”とか、いちいち映画人とは思えぬアサッテな物言いに、邦画界に絶望しそうになるわ。

 上記の文の後には「人間は割り切れるものではないという、その曖昧な感情と人間の愚かさを表現しているところにこの映画の匂いがある」なんて、とってつけたようなフォローが続くが、チョー鼻白む。

 でも、ネットの感想には、行定氏みたいに、マルチェロにイラついて蔑む人が少なからずいるらしく、ちょっとなぁ、、、と感じる。

 確かに、映画をどう見てどう感じるかは、その人次第で自由だ。けれども、ここだけは押さえておきたいツボ、みたいなものってあると思うのよね。これはとあるブロガーの方が書いていたけど、“映画鑑賞偏差値”なるものがあると。

 本作で言うならば、マルチェロがシモーネの支配に甘んじていることに対し、理解出来るか出来ないかが、偏差値50ラインではないかと思うのだよ、私は。実際、本作は、そこのところをきちんと、しかもしつこく描いていたと思うし。

 監督自身、インタビューで言っている「本作で描きたかったのは、間違いも犯すけれども、人に好かれたい、皆とうまくやっていきたいという気持ちもある、私たちの多くに似ているような、ある種平凡な男が、望んでもいないのに、じわじわと暴力のメカニズムに巻き込まれていく姿です」と。そして、監督のこの言葉は、確かに本作に見出すことが出来るのだけど……。

 

◆シモーネ VS マルチェロ

 冒頭のシーンで、見るからに恐ろしげな顔をした犬(調べたところ、恐らくドゴ・アルヘンティーノという犬種)が出て来て、歯を剥き出しにして唸っている。次第にマルチェロが手懐けていくのだが、この冒頭の犬が、もしかしてラストでシモーネを襲うようにマルチェロが仕向けるのか?? などと安っぽい予想をしてしまったが、案の定、大ハズレ。

 もっと、想像の斜め上を行く展開に、唖然としてしまった。

 以下ネタバレです(結末に触れています)。

 マルチェロは、愛すべき街の人たち皆から嫌われそっぽを向かれ、捨て鉢になって、自らの手でシモーネに制裁を下すのだ。その方法が、さすがドッグマンだね、というもの。詳細は敢えて書かないけど、もちろん一つ間違えばマルチェロの方がやられていたかも知れない。それくらい、ギリギリのものだった。でもその攻防も、どこか可笑しさが混ぜ込まれており、なかなか残酷な描写なのにグフフ、、、と笑えてしまうのだ。実際、劇場でも笑いが小さく起きていた。

 しかし、問題は、その後。死体となったシモーネを、マルチェロは、一旦は処分しようと商売用の車に載せる。このとき、あまりにもシモーネがデカくて重いので、軽くてみみっちいマルチェロの車が動いてしまうのが、またまた笑ってしまった。

 そうして、街の広場からほんのちょっとだけ離れた草むらでシモーネの屍を燃やし始めるマルチェロ。サッカーをしているかつての仲間たちに「おーい!! オレはやったぞ!」などと声を張り上げて叫ぶが、誰の耳にも届かない。すると、マルチェロはシモーネの屍を燃やしている草むらに戻って、火を消して、今度はシモーネの屍を背負って、再びサッカーグラウンドにやって来る。……が、もうそこには誰もいない。そして、マルチェロは屍を背負ってふらふらと当てもなく彷徨うのである。

 このラストシーンをどう見れば良いのか。一緒に行った映画友は「もうあの時点ではイッちゃってたのかね?」と言っていたが、どうだろうか。少なくとも、“オレはシモーネを仕留めたぜ! 克服したんだ!” という思いがあったのだろうが、彷徨う姿はいかにも哀れである。彼がこの後どうなるかは想像に難くないのだが。

 最後は屍となったシモーネだが、こんなならず者が一人いるだけで、小さな街は平和でなくなるという不条理。このシモーネ、しかし、母親には弱い。母親にコカインが見つかったときのシーンなどは笑える。そして、案の定というか、オツムも弱い。街の人たちから巻き上げた金で高級バイクを買って、それを爆音を轟かせながら乗り回すという描写もある。しかも、同じ道を行ったり来たり繰り返しているという、、、。こんなヤツ死んでくれたら、と思うのは、むしろ自然だろう。

 ちなみに、本作は、実際にイタリアで起きた猟奇殺人に監督がインスパイアされてオリジナル脚本を書き上げたんだそうだ。詳しくは、公式HPをどうぞ。

 マルチェロを演じたマルチェロ・フォンテが素晴らしい。カンヌで主演男優賞を受賞したのも納得。無名の役者だったようだけれど、実に表情豊かで、多面体なマルチェロを見事に演じている。彼を見出した監督はさすがの審美眼だ。

 まあ、万人にオススメの映画ではないかもだけれど、ブラックな笑いと不条理さを好む方は、見て損はないと思います。

 

 

 

 

 

マルチェロに冷凍庫から救い出されたワンコを演じたチワワにパルム・ドッグ賞!

 

 

 

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やがて来たる者へ (2009年)

2019-09-01 | 【や】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv48241/

 

 

 以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1943年12月。イタリア北部の都市ボローニャに程近い小さな山村。ドイツ軍とパルチザンの攻防が激化するなか、この村にも戦争の影が徐々に迫ってきていた。

 両親や親戚と暮らす8歳のマルティーナは、大所帯の農家の一人娘。生まれたばかりの弟を自分の腕のなかで亡くして以来、口をきかなくなっていた。ある日、母のレナ(マヤ・サンサ)がふたたび妊娠し、マルティーナと家族は新しい子の誕生を待ち望むようになった。

 だが戦況は悪化、ドイツ軍が出入りし始め、地元の若者たちは密かにパルチザンとして抵抗を続ける。幼いマルティーナにはどちらが敵で、どちらが味方かよくわからない。

 そして両者の緊張の高まるなか、1944年9月29日、ドイツ軍がパルチザンを掃討する作戦を開始する……。

=====ここまで。

 

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 第二次大戦下では、イタリアはドイツと同盟関係にあったのでは? と思ったが、そーいえば、確かゼッフィレッリの自伝に、彼がパルチザンとして闘っていたことが書かれており、そのときに、ムッソリーニが囚われた後に、北部イタリアをナチスドイツが、南部を連合国が占領し、大戦末期はかなり悲惨な状況だったということをちょこっとだけ調べたな、、、と思い出したのでありました。詳しくはもちろん知らないのだけど、それにしたって……本作を見るまですっかり記憶が抜け落ちていたというのがオソロシイ。

 

◆声を出さない美少女マルティーナ

 冒頭、さっきまで人がいたんじゃないか、と思われるような状態の“もぬけの空”になった家の中をゆっくりとカメラが舐めるように映していき、それが髪の短い少年(?)の視線だと分かる。尋常じゃないことが起きた直後と分かる。

 が、一転して、ベッドにもぐっている少女マルティーナと、その隣のベッドに眠る両親が映り、……ハレ??今の冒頭のシーンは何? となるが、この冒頭シーンはいわずもがな、一家全員虐殺された後に、髪を短く切ったマルティーナが家に戻って来て見た光景ということになる。

 かように、本作は説明的なセリフもシーンも一切ないので、少々??となる箇所があるのだけれども、中盤以降に全部それが見ている者の腑に落ちるように作られており、そのシナリオの構成は素晴らしい。

 何より、主人公のマルティーナを演じたグレタ・ズッケーリ・モンタナーリちゃん(覚えられない)の美少女ぶりが嘆息モノである。8歳とは思えぬ大人びた視線。口が利けないという設定なので、彼女の表情の演技は、その“目”が主なのである。あまり、というかほとんど笑わなかったと思う。

 彼女の目には、近所のおじさんたちのパルチザンも、ドイツ兵も、どっちも良くてどっちも悪く見える。ドイツ兵はいわずもがなだが、パルチザンの男たちも、ドイツ兵に穴を掘らせたかと思うと、背後から銃でドイツ兵の頭を撃って、その穴に落とすということをやらかしていて、マルティーナは偶然その場面を見てしまうのだ。しかも、その殺されたドイツ兵は、マルティーナたちに優しくしてくれた兵士だった。彼女にしてみれば、なぜ殺す必要があるのか分からない。

 ……というか、見ている私も分からなくなってくる。立場を替えれば、正しいことも変わるのだ。

 どんどん環境は悪くなって行き、遂に、ドイツ軍がパルチザン狩りにやって来る。ドイツ軍はパルチザンを捕虜になどせず、問答無用で殺す。殲滅しに来たということだ。

 ちょうどその時、マルティーナの母親は出産間際で、母親と、母親の出産を手伝うためにマルティーナの祖母は家に残る。祖母は言う。「女子どもに手出しはしないだろう」

 しかし、ドイツ兵は、女子どもも容赦なく殲滅しにかかって来たのだ。

 家から教会へと逃げたマルティーナや村の女子どもたちだが、教会から排除されて1か所に集められ、機関銃で惨殺される。マルティーナはすんでのところで逃げ出し、家へと走り戻る。産み落とされたばかりで運よく殺されなかった弟を抱きかかえ、逃げて彷徨うマルティーナ。

 ラストは、赤ん坊の弟を抱きかかえたまま、それまで口が利けなかったマルティーナが、母親が歌ってくれた歌を口ずさむというシーンで終わる。

 

◆消す命、助ける命

 気が付いたら、眉間に思いっ切り皺を寄せて見ていた。何か、息をするのも忘れていたみたいな気がする。それくらい、終盤の展開は阿鼻叫喚で悲惨そのもの。グロいシーンはほとんどないのに、実に凄惨なのである。あまりに凄惨で、涙も出てこない。

 中盤までの描写は、この凄惨なシーンのためには必要なものだったのだ。つまり、貧しいながらもつつましく仲良く暮らしていたマルティーナ一家の日常を丹念に描いていたのだ。ただ、大所帯である上に、村の人々とのつながりも強いため、登場人物が多いのにもかかわらず、人物相関図が脳内で全く描けないので、ちょっと混乱してしまうのだが。

 マルティーナと一緒に暮らしている従姉のお姉さんベニャミーナが魅力的。見覚えのある顔だと思っていたら、 『マイ・ブラザー』『眠れる美女』にも出ていたアルバ・ロルヴァケルだった。彼女は、伝統と信仰に縛られた古臭い村の慣習を嫌って自立しようとする女性として描かれている。結果的に、自立は叶わずに虐殺の被害者となるのだが、その最期にドラマがある。

 ベニャミーナは機関銃の一斉掃射で、たまたま大腿部を負傷しただけで命までは落とさなかった。まだ息のあるベニャミーナを見つけたドイツ兵の将校(?)は、「自分の妻に似ている」という理由で彼女だけを助けて、兵舎へ連れて行くと手厚く介抱する。しかし、その将校の身勝手な理屈で永らえることを良しとしない彼女は、ささやかながらも一矢報いるのだった。最期まで闘う女性として描かれている。

 本作は、マルザボットの虐殺という史実を基に作られたフィクションだが、第二次大戦に限らず、戦地では似たようなことが現在に至るまで延々繰り返されているに違いない。

 ちなみに、マルサボットの虐殺を実行した元ナチス親衛隊(SS)の将校たちは、2007年に終身刑を下されている。……というか、一旦、1951年に終身刑が言い渡されたが、1985年に恩赦を受けたらしい。2007年に終身刑を受けても実効力はなさそうだ。彼らのほとんどは法廷にも現れず、祖国で年金生活を送っているのだから。ただ、21世紀になってもまだ裁かれていることには驚いたけれど。

 

 

 

 

マルティーナと弟は無事に生き延びたのだろうか、、、。

 

 

 

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