映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

さらば、わが愛 覇王別姫(1993年)

2023-08-21 | 【さ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv81662/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 京劇の俳優養成所で兄弟のように互いを支え合い、厳しい稽古に耐えてきた2人の少年――成長した彼らは、程蝶衣(チョン・ティエイー)と段小樓(トァン・シャオロウ)として人気の演目「覇王別姫」を演じるスターに。

 女形の蝶衣は、覇王を演じる小樓に秘かに思いを寄せていたが、小樓は娼婦の菊仙(チューシェン)と結婚してしまう。

 やがて彼らは激動の時代にのまれ、苛酷な運命に翻弄されていく…。

=====ここまで。

 公開30周年、レスリー・チャン没後20年特別企画として、4Kリバイバル上映。

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 本作は、確か、昨年(かその前年)に「版権が切れるのでこれが国内最終上映!!」と銘打って、連日、渋谷のル・シネマが満員だった気がするんだけど、今回は4Kだから版権は別ってことですかね? 10年くらい前にも「これが国内最終上映!」って、やっぱり言っていた気がするんだけど、最終上映ってどういう意味?

 ……それはともかく。本作は、大分前にDVD(orVHSだったかも)で見たことはあるが、スクリーンでは見ていなかったので、クリアになった映像をスクリーンで見てみよう、、、と映画友と意見が一致、公開直後に見に行ってまいりました。

~~以下、本作やレスリー・チャンがお好きな方はお読みにならない方が良いです(悪意はありませんが悪口になっているかもです)。~~


◆うーん、、、ごめんなさい。

 実は、本作に対する印象はあんまし良くなくて、世間で絶賛されていることが不思議だった。でも、当時はまだ自身が若かったから理解できなかったんだろう、、、と思っていたので、今回はスクリーンで見て、自分の中で評価が変わることを期待して見に行った。

 ……が、結論から言うと、変わらなかったのだった、、、、ごーん。

 理由は大きく2つあって、1つは、正直言って、私にはレスリー・チャンがあんまし“美しい”とは思えなかったってこと。

 ネットで絶賛している方々の感想を読むと、京劇の虞姫を演じている彼が美し過ぎる!!と書いてあるのが目に付くのだが、あの独特のメイクをした様式美は、ある程度の顔立ちの役者さんなら相当綺麗になるのは当然じゃない? 歌舞伎だってそうでしょ? 元の顔立ちがよっぽど醜悪でもなければ、それなりになるようにできているのが“様式美”なわけで、、、。

 メイクなしのレスリーは、、、まあ、小柄なアジア系の男性、、、にしか見えない(すみません、飽くまでも私の目にはってことです)。つまり、カッコイイとはゼンゼン思えない、ということ。

 元々この役は、ジョン・ローンが演じる予定だったと聞いたことがあるのだが、きっとジョン・ローンだったら文句なしに“美しい”と私も思ったと思う。彼は素で美しいので。

 もう1つは、ストーリー的に終盤ずっこけた、、、ってこと。実は、これは以前見たときも感じたのだが、やはり今回も同じように引っ掛かった。

 それまでにも、やや展開に飛躍があるなぁ、とは感じていたものの、何とか無理矢理着いて行けていたのだが、文革の自己批判シーンで、あまりのえげつなさに脳内???が飛び交い、その後、ラストシーンまでもう復活できなかった。あの醜悪な罵り合いは、お互いがかばい合って、、、というにはグロすぎる。つまり、ゼンゼンかばい合っていたのではなく、積年の恨みつらみ交えての罵詈雑言の応酬だったということ。

 その11年後(?)に、何事もなかったかのように再会している2人。あれは妄想?と解釈する向きもあるらしいが、多分リアルでしょ。だとすれば、余計に分からんし、分かりたくもない。あんな罵り合った人と、恩讐を越えてまた昔のように、、、ってどんだけファンタジーなんだよ、、、としか思えない。

 ……というわけで、ウン十年前に見たときからまるで進歩がないのか、それとも単に本作が合わないだけなのか分からんが、映画友ともども世間の絶賛ムードに取り残されて、グッタリ。見終わってから2人で大いにグチを言い合って、モヤモヤを解消して帰路につきましたとさ。


◆魅力的な登場人物が、、、(泣)

 そもそも、小樓って男、そんなに魅力的か? 私はそこが理解できん。蝶衣があそこまで翻弄されるのがねぇ、、、。そら、恋は第三者には分からんものだとはいえ、これは映画である。見るものに、「あー、あんなエエ男ならしゃーないね」と思わせる小樓の魅力を描いてくれなくては。描いているシーン、ありましたっけ?? 幼年期の思い出を抱えているだけでは?

 項羽という役を演じている小樓に惚れてただけやないのか??と思っちゃうのよね。そういうのってあるじゃん。共演して恋仲になるけど、しばらくして別れちゃうとか。別れない人もいるけど。

 レスリー・チャンの魅力がイマイチ分からない私には、蝶衣に対してもあまり好感を持てなかったなぁ。まあ、割と普通の人だよね。京劇のスターという肩書を取った蝶衣という人自身の描写を反芻しても、あまり素敵だと思えるシーンが浮かんでこないのだ。これは、私の理解力の問題でもあるけれど。

 美しいと言うのなら、蝶衣の少年期を演じていたイン・ジー(尹治)の方がキレイだった。中性的で体温低そうな、あんな少年だったら、さぞや美しい女形になるだろうな、、、と思わせる。

 みんシネにも書いたけど、やっぱり私はチェン・カイコー監督作なら「北京ヴァイオリン」(2003)の方がゼンゼン好きかな。彼が演出した北京オリンピックの開会式は北朝鮮のマスゲームみたいでかなり興ざめだったなぁ、、、そう言えば。あれ以来、チェン・カイコーにもあんまし興味がなくなっていたけど、その後もコンスタントに映画撮ってるのね。知らんかった。また見てみようかな。

 ……というわけで、本作やレスリー・チャンのファンの皆様の神経を逆撫でするようなことばかり書いてしまいましたが、京劇のシーンは見応えありました(と、ムダなフォロー)。

 

 

 

 

 

 

 

 

コン・リーの「上海ルージュ」をまた見たくなったゾ。

 

 

 

 

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ザ・ホエール(2022年)

2023-06-05 | 【さ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv79969/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 恋人アランを亡くしたショックから、現実逃避するように過食を繰り返してきたチャーリー(ブレンダン・フレイザー)は、大学のオンライン講座で生計を立てている40代の教師。歩行器なしでは移動もままならないチャーリーは頑なに入院を拒み、アランの妹で唯一の親友でもある看護師リズ(ホン・チャウ)に頼っている。

 そんなある日、病状の悪化で自らの余命が幾ばくもないことを悟ったチャーリーは、離婚して以来長らく音信不通だった17歳の娘エリー(セイディー・シンク)との関係を修復しようと決意する。

 ところが家にやってきたエリーは、学校生活と家庭で多くのトラブルを抱え、心が荒みきっていた……。

=====ここまで。


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 実は、本作を見たのはGW中。公開前にチラシを見て興味があったので予備知識なく見に行ったのだけど、うぅむ、、、あんましピンと来なかった。

 見終わって、基は戯曲と聞いて納得(後述)。ほとんどの場面はチャーリーの部屋で完結しているし、登場人物も限られる。

 主人公のチャーリーは、体重が272キロにまで増えてしまって死を予感する毎日を送っているのだが、死ぬ前に生き別れている娘と和解したいと望んでいる、、、という設定で、娘エリーとの和解がなされるかが本作の主たるストーリーである。

 結果的に、和解を思わせるラストで終わり、チャーリーはまもなく死んでしまうのだろうが、一応はハッピーエンディングということなのだと思われる。

 映画として悪くないとは思うけど、好きか嫌いかと聞かれれば、正直なところ、好きじゃない。なぜかって、チャーリーのことが好きになれなかったからである。巨漢だからでも、家族を捨てたからでもない。

 終盤で、チャーリーは多額の金を蓄えていることを元妻に打ち明け、それを全てエリーに遺したいと言うのだが、これを聞いて、私の気持ちはズッコケた。ナニ、この自己満オヤジ、、、と。彼の娘に対する罪滅ぼしということだろうけど、だったら、エリーの養育費ちゃんと払って来ればよかったやん、と思う。大きくなってからだって現金もらえれば、そら有難いに違いないけど、別れた妻はエリーを一人で育てて来たのであり、元妻は苦しみからかアル中になっており、これまでの過程でお金があったらどれだけエリーを育てるのに役立ったかと思うわけで。お金ってのは要は使い方なんですよ。間の悪いときに大金ドカッと一度にもらってもね、、、。

 何でそんなお金をこっそり今まで蓄えていたのかという、チャーリーの真意を描いているシーンがないので、結局カネかい、、、としか思えない。金さえ遺しゃ多少の贖罪にもならぁ、、、っていう発想が卑しくないか?

 この展開によって、結局、チャーリーという人間は、どこまでも身勝手で自分のことしか考えていないヤツ認定してしまったのでした。いや、自己中大いに結構!なんだけど、こういう自己満なことをして、自己満のうちに死にたい、、、っていう根性が嫌いだ。とことんエゴイストとして生きればええやん、と思うのよ。そんな覚悟もなく、家族を捨ててまで恋人に走ったんかい、、、ってね。

 そもそも映像化した意味があんましないような。だって、見ていて、これ戯曲やない?と思ったわけだから、それはほとんど舞台を見ているのと変わらない印象だった、、、ってことよね。

 メルヴィルの『白鯨』が重要なファクターになっているのは分かるが、白鯨になぞらえられた巨漢のチャーリーについては、白鯨ほど微に入り細を穿った描写はないし、設定が設定だから、チャーリーの部屋に娘や友人や宣教師が入れ代わり立ち代わりやっては来るが、あまりドラマに深みはない。

 せっかくの特殊メイクで、巨漢過ぎて動けなくなったチャーリーの、白鯨さながらの達観した生き様を面白おかしく描いている映画かと勝手に想像していたら、思いっきり空振りしてしまったというわけでした。

 何となく手ぶらで帰るのも悔しいので、一応パンフを買って帰って来たのだが、春日武彦氏のコラムがあってちょっと報われた気分。やはり、こういう映画では、精神科医の見方を知るのは興味深い。

 

 

 

 

 

 


チャーリーの姿を初めて見た宅配ピザ屋の兄ちゃんの反応が酷過ぎる。

 

 

 

 

 

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The Son/息子(2022年)

2023-04-02 | 【さ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv80345/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。
 
 高名な政治家にも頼りにされる優秀な弁護士のピーター(ヒュー・ジャックマン)は、再婚した妻のベス(ヴァネッサ・カービー)と生まれたばかりの子供と充実した日々を生きていた。

 そんな時、前妻のケイト(ローラ・ダーン)と同居している17歳の息子ニコラス(ゼン・マクグラス)から、「父さんといたい」と懇願される。初めは戸惑っていたベスも同意し、ニコラスを加えた新生活が始まる。ところが、ニコラスが転校したはずの高校に登校していないことがわかり、父と息子は激しく言い争う。なぜ、人生に向き合わないのか? 父の問いに息子が出した答えとは──? 

=====ここまで。


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 フロリアン・ゼレール監督の『ファーザー』は、オスカーゲットで話題になっていたけれど、何しろアンソニー・ホプキンス苦手だし、認知症映画なんてあんまし見る気しないし、、、ってんで放置しておりました。が、本作は父子モノで、かなりシビアそうではあったけど、親子の確執モノに吸い寄せられる私は、劇場まで行って見に行ってまいりました。

~~以下、ネタバレしておりますので、よろしくお願いします。~~


◆誰もが逃れられない“生育環境”

 父子の確執映画かと思ったが、終わってみればそうではなかった。この父子に確執があるわけではない。もちろん、ピーターの離婚をニコラスが罵るシーンはあるものの、基本的に父子は互いに信頼し合い、尊重し合っている。葛藤はあっても、確執はない。

 確執があるのは、ピーターとその父親アンソニー(アンソニー・ホプキンス)だ。アンソニーは典型的な強権的な父親で、今は疎遠である。ピーターは父親を嫌悪していたはずなのに、不登校の息子に向けて、アンソニーにかつて言われたのと同じ言葉を吐いていることに気付いて愕然となる。で、ピーターは、ニコラスと向き合うためにも疎遠になっていた父親に、敢えて、仕事を口実に会いに行くのだが、結局そこでも確執は確執のまま提示され、ピーターはニコラスに対する身の処し方がますます分からなくなって行く、、、という展開。

 これは、かなりリアルな話だろう。嫌悪していたはずの親の価値観や物言いを、自分も共有していることに気づかされる瞬間がある、っての。私もあるもんね、、、。ホント、それはものすごい自己嫌悪に陥るわけだけど、だから、私は子を持たなくて正解だったとその度にホッとするのだが、ピーターがますます苦悩するのはよく分かる。そして、親が永遠に不変であることを突き付けられて絶望的な気分になるのも、分かり過ぎてツラい。

 結局、人間は育った環境がベースになるのだ。育てられたように育ててしまう、、、とまでは言わないが、身体にも心にも沁みついているものがあるのは間違いない。親を反面教師にしようと努力しても、ついつい同じような言動が顔を覗かせることは、絶対的にあるだろう。

 あるブロガーさん(男女不明)は、本作のことを「現実感の薄い観念的な映画」と批判していた。ピーターがほとんど交流のないアンソニーに会いに行くシーンもわざとらしく、結局、アンソニーの価値観がピーターに連鎖していると言いたいだけだ、と書いているが、それはまさにそのとおりであって、連鎖するのを回避したいからこそ、ピーターはアンソニーと交流を断っており、それを回避しきれないから苦悩しているのだ。そして、それに向き合う必要性をピーターは感じたから、わざわざ口実を作って会いに行ったのではないか。だから、この展開は観念的でも何でもなく、めちゃくちゃリアルなんである。


◆情か理性か、、、

 ニコラスは、急性うつ病と病院で診断されるが、まあ、どう見たって病んでいるのは間違いない。

 本作の最大のヤマ場は終盤。自殺未遂を犯したニコラスが入院していた病院で、退院するか、入院を継続するか、医師とニコラスと両親が話し合うシーン。このシーンは、見ているのが辛かった。

 いかに病院の環境が劣悪で医師が酷い人間かを涙ながらに訴えるニコラス。退院は危険すぎる、入院継続すれば我々プロは対処できる、と言う医師。間に挟まれる両親。

~~以下、結末に触れています。~~

 ピーターとケイトは、ニコラスに「ごめん、期待に応えられない」(セリフ正確じゃありません)と、一旦は入院継続を決める。けれど、病院を出るときにそれを翻し、ニコラスを退院させる書類にサインして、ピーターの家に連れ帰る。もう、この展開でラストは大体想像がついてしまうのだが、、、。

 見ていて不思議だったのは、医師に選択を迫られた時に、ピーターもケイトも「(夫婦)2人で話をさせてほしい」と言わないこと。医者も「2人で話し合ってみて」と、たとえ5分でも時間を与えないこと。やっぱり、あの場ですぐ結論を出せ、というのは酷ではないか。だから、あの夫婦は帰り際に決断を覆すことになったように思うのだが、、、。

 監督のインタビューが某紙に載っていたのだが、そこでゼレール監督は「罪悪感は正解を導かない、ということを伝えたかった」「罪悪感が目の前のものを見えなくしているんです」と言っている。さらに「私は、観客にもピーターと同じステップをたどってもらい、『さあ、あなたならどうしますか』と問いかけたかった」とも言っている。

 私が親ならどうするかな、、、心を鬼にして入院継続させられるだろうか。アメリカの精神医療の事情はよく知らないけど、少なくとも、日本のそれよりはかなりマシだと思われる。私がアメリカ人の親なら、やはり自殺未遂の前科があるので、怖ろしいから入院継続を選ぶかな、、、。本作内では、案の定、ニコラスは発作的に自殺を図ってしまう。 

 前述のブロガーさんは、ニコラスの人生に対する漠とした苦悩は、ピーターの父権主義的価値観と対照的に描かれており、そのピーターの価値観がニコラスを自殺に追い込んだと書いていた。また、本作は、“The Son” と言いながら、描いているのは “The Father”のエクスキューズだけだとも。……まあ、そういう見方もあるだろうが、私はゼンゼンそうは思わなかった。ニコラスの自死は、急性うつ病の症状であり、だからこそ、医者は入院継続を強く勧めたのである。発作的な希死念慮という症状に、素人は対処できないからだ。それに、息子に自殺された父親が、エクスキューズしたくなるのなんて、アタリマエではないか。後悔、後悔、後悔、、、の連続だろう。全否定されたような気分になる父親が、エクスキューズ一つしちゃいかんのか、、、と思う私は、甘いんですかね?


◆その他もろもろ

 ヒュー・ジャックマン、ローラ・ダーン、ゼン・マクグラス、みんな素晴らしい演技だったが、ゼン・マクグラスくんは、瑞々しさと、思春期特有の拗らせ感を併せ持つ複雑な人物を的確に演じていた。美形、、、て感じじゃないけど、演技派でこれからの注目株じゃないですかね。

 ……と、割と褒めて来た割にの数が少なめなのは、結末がね、、、。結局、ニコラスが自殺しちゃうという最悪な終わり方で、もう救いがなさ過ぎる。

 ラストシーンは、ピーターが、うつ病を乗り越えて作家デビューしたニコラスを家に迎える、という妄想から我に返って泣き崩れる、、、という、あまりにも辛過ぎる終わり方で、鑑賞後感はかなり悪い。しかも泣き崩れるピーターを、ベスが「それでも人生は続いていくのよ」と言って慰めるというか励ますのだが、ハッキリ言ってそれは励ましにならんだろう、、、と。

 前述のブロガーさんと、この点だけは意見が合うのだが、やはり終盤の展開は、ピーターとケイトが心を鬼にしてニコラスを継続入院させ、ウツから快方に向かう、、、という方が好かったのではないか、と思う。その方が救いがあるから、というだけでなく、ピーターが本作中でずーーーっと苦悩し続けた意味があるし、それでこそ、息子を見守る父親としてのピーター自身の成長の物語にもなると思うからだけど、、、。

 ま、これは賛否分かれるラストでしょうな。
 

◆以下、余談 

 本作を見て一番感じたことは、「子育てって難しい」である。親も、初めての子であれば、初めて親になるのであり、2人目だから親として熟達するかと言えば、子のキャラはまさにバラバラであり、上の子で上手く行った手法が下の子には全く通用しないなんてことはザラだろう。

 本作で言えば、ニコラスは感受性が強くて、適応力が低い上、読書好きで自分の世界があるので、まあ、親からすればちょっと扱いにくい(or分かりにくい)子ではあるだろう。でも、親との会話もあるし、そら親子の口論くらいはあるけど、思いやりもあるし、気遣いもできる、特に問題のない子だ。けれど、学校に行かない、、、ってのは、親からすると最大の問題児になるのである。

 私は母親とドロ沼確執を経て、今は断絶しているが、そんな母親にも感謝していることはたくさんある。そのうちの一つが、私が中学生の頃、学校に行きたくないときに「学校なんか行かんでええ」と言ってくれていたことだ。

 ちなみに、学校に行きたくない理由はこれと言って具体的にはなく、ただただ、めんどくせぇ、、、だりぃ、、、って感じだっただけである。特に、中学3年生の秋以降は、部活が夏休みで終わってしまって、急に学校に行く意味がないように思え、休みがちになったのだった。まあ、それが不登校になっていたら、また対応が変わっただろうが、週に1日とか2日とか行きたくない日があっても、ムリに学校に行けとは言わなかった。ものすごい教育ママゴンだった半面、学校教育には不信感を抱いていたらしく、成績が悪いと激怒されたが、学校行きたくないと言っても「ほな休んだら。学校電話したるわ」と率先して電話してくれる人だった。学校から早退したこともしょっちゅうあるが、早退すると学校から連絡が行くので車で迎えに来てくれ、私は親が学校に迎えに着く前にいつも学校を出てしまうので、トボトボ帰り道を歩いている途中で拾われて帰る、、、なんてこともよくあった。学校から家まで歩いて30分近くあったんだよね、、、。

 で、本作を見ながら、もしあのとき、母親が強引に私を学校に行かせようとしたら、どうなっていたかなぁ、、、ということが頭の中に浮かんでいた。多分、私は母親が怖かったので学校に行っただろうし、不登校にまではならなかっただろう。行きたくない理由が、ニコラスほど哲学的ではなかったし、学校という場所に居心地の悪さを感じていたわけでもなかったから。だけど、無理強いされれば、学校へ行くことに抵抗感が強くなったのは間違いなく、何らかの悪影響は出たかもしれない、とも思う。

 あと、私自身はニコラスと違ってもっと俗物の打算的な人間で、あんまし学校に行かないのが過ぎれば、先々(受験とか進学とか)不利になり、それがさらに先の自身の人生に良い影響をもたらさないと理解していたから、結局は自分のために、嫌でも学校に行ったと思う。

 ……というか、そんなことはニコラスだって分かっていたはずで、それでも学校に気持ちも足も向かなくなってしまっていた、ということだろう。でも、親は、そんな子供の事情を、頭では理解できても、気持ち的に受け入れにくいのだ。我が子がレールを外れてしまう!落伍者になってしまう!!ヤバい!!!って感じなのでは。でも、そんな親の焦る気持ちを、安易に責められないよなぁ。ピーターが何とかニコラスを学校に行かせよう、行かせたい!と思う気持ちは、親として当然だろう。

 だから、私は、あのとき「行かんでええ」と、迷いなく本心から言えた母親はスゴい、と今でも思っているのである。ピーターが同じように「学校なんか行かなくていい」とニコラスに言っていたら、、、。ニコラスはそれだけで気持ちが大分楽になったのではないか。追い詰められ感が緩和されたのではないか、、、。正解は分からないけど、そんな気もする。

 

 

 

 

 

 

 

ピーターの実家(アンソニーの家)のお屋敷がスゴい、、、。

 

 

 

 

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さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について(2021年)

2022-06-24 | 【さ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv77160/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 ひたひたとナチズムの足音が聞こえてくる1931年のベルリン。出口のない不況は人々の心に空虚な隙間を生み出していた。

 そんなある日、作家を志し、ベルリンへやってきたファビアン(トム・シリング)。だが彼はどこへ行くべきか惑い、立ち尽くす。女優を夢見るコルネリア(ザスキア・ローゼンダール)との恋。ただ一人の“親友”ラブーデの破滅。

 やがて、コルネリアは女優への階段を登るためファビアンから離れてゆくが……。

=====ここまで。

 エーリヒ・ケストナー長編小説「ファビアン あるモラリストの物語」の映画化。

 
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 ケストナーの長編小説(もちろん未読)が原作というのに興味をひかれ、チラシのデザインもなかなか良かったので、劇場まで行ってまいりました。『ある画家の数奇な運命』(2018)と同じトム・シリング主演。3時間という長尺にちょっと尻込みしかけたのだけど、『ある画家~』はまあまあ良かったので、勇気を出して(?)行った次第なんだが、、、。

 いやぁ~、、、長かった。

 3時間超えの映画でも、長さを感じないものもあるのだけど、本作は、エンドロールが出た瞬間、正直言ってホッとした。あー、やっと終わった~~~、と。中盤から長さを感じてしんどかったです、はい。

 長さを感じた最大の理由は、シナリオが散漫なことかな。終わってみればなくても良かったと分かるシーンも、進行中はあれこれ考えながら見ているわけで。もっと、ちゃんと整理すれば、2時間で十分収まる話じゃないかなぁ。

 同じ3時間でも『ある画家~』は長さもさほど感じなかったし、あの内容なら3時間も妥当かな、、、と思える作品だったのだけど。

 原作がどういう感じなのか分からないけど、ケストナーが冗長な話を書くとも思えないが、唯一の大人向け長編小説らしいので、もしかすると原作の雰囲気を映像化した結果、こうなった、、、ということなのかも知れない。 

 ファビアンはケストナー自身を投影したキャラらしい。原作のタイトルに“モラリスト”とあるように、ファビアンは“いい人”。……なんだけど、あまり魅力的には見えなかった。

 自身が仕事をクビになって予想より少ない失業手当しかもらえなかったのにその手当でコルネリアに誕生日プレゼントのドレスを買ったり、レストランで追い出されそうになっているホームレスらしき男性に声を掛けて自分たちのテーブルに招き話を聞いたり、お金に困っているのに自分の母親の鞄にこっそりお金を入れて置いたり……。いい人でしょ?

 本作は、監督もトム・シリングも言っているとおり、ラブストーリーなんだが、その肝心のラブストーリーに見ていて乗れなかったのよ。ファビアンに魅力を感じなかったというのもあるし、コルネリアも、なんかイマイチよく分からない女性で、、、。女優になりたいという野心を優先してファビアンの下を去ったのに、ファビアンとよりを戻そうとする、、、のは別にいいんだけど、そういう彼女の描写に奥行きがない、表面的な感じを受けてしまった。

 というより、本作全体が、原作のストーリーをなぞることにいっぱいいっぱいになっちゃっている感じだったなぁ。だからこんな散漫でムダに長尺になったんではないか。やはり、映像化するに当たっては、省くところは思い切って省かないとこういう風になっちゃうという、良くない見本だと思う。

 一つ一つのシーンは印象的なものもあるのだけどね。コルネリアとファビアンが出会うシーンは、素敵なラブストーリーへの誘いになっている。……のに、続きがイマイチ、というのはいかにも残念。

 もう一人、重要な人物としては、ファビアンの親友、ラブーデ。彼は金持ちの坊ちゃんなんだが、両親からはネグレクト気味で、かなり病んでいる。途中で哀しい最期を迎えるが、この、ラブーデとファビアン、コルネリアの3人の人間模様があんまし面白くなかったのだよね。ラブーデの登場の仕方も唐突な感じだったし、死に方も、、、。

 せっかく良さそうなお話なのに、シナリオがもう少し練れていればなぁ、、、。

 終盤で、焚書のシーンがあるのだが、これは、先日見た『オフィサー・アンド・スパイ』でも描かれており、政治的にヤバくなると焚書ってあるんだな、、、と、時代は違えど同じ光景がスクリーンで映っているのは何とも嫌な気持ちになった。ちなみに、ケストナーは、自身の著書が燃やされるのを直接見ていたのだそうな。どんな気持ちだったのか、、、想像を絶する。

 ケストナーの原作を読んでみたくなったので、早速、図書館で予約しました。『終戦日記一九四五』も面白いらしいので、こちらは購入しようかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

トム・シリングはもはやドイツを代表する俳優の一人だね。

 

 

 

 

 

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search/サーチ(2018年)

2021-07-10 | 【さ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv65758/

 

以下、上記サイトよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 16歳の女子高生マーゴットが突然姿を消し、家出なのか誘拐なのかわからないまま37時間が経過する。娘の無事を信じる父デビッドは手がかりを見つけようと、娘のPCにログインし、SNSにアクセスしようとする。すると、そこにはいつも明るく活発だったはずの娘とはまるで別人の、自身の知らなかった姿が映し出されていく。

=====ここまで。


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 先月公開された『RUN/ラン』にちょっと興味があったんだけど、結局、劇場までは行かずじまいで、DVD化されたら見る予定。で、この『RUN/ラン』の監督さんの前作が本作なんだが、ネット上でなかなか面白いと評判が良さそうなので、見てみることに。ほぼ、事前情報はないまま見たけれど、なるほど、確かに面白かった。

 wikiにもあるとおり、本作は「ストーリーの全てがパソコンの画面上で展開されるという異色の作品」であり、序盤はちょっと違和感があったものの、慣れればどうということもなかった。

 ぶっちゃけて言うと、行方不明になった娘のマーゴットを、父親のデビッドがネットを駆使して探す、、、だけの話。なんだが、見せ方とか、展開とかが巧みで、時間も1時間40分くらいと短めで飽きさせない、なかなかの逸品だと思う。

 家族に事件が起きたことにより、家族の知られざる一面を他の家族が知って驚愕する、、、、っていう話自体は昔からあるわけで、普遍的な題材と言っても良いくらい。実は家族は案外、他の家族のことを知らないもの。子は親に言わないことはいっぱいあるし、親も子には言えないことの一つや二つあるだろう。家族だからこそ言えない、ということ。「家族でしょ」とか言って、ずかずかと他の家族員のテリトリーを侵食する輩は始末が悪い。

 親子間であれ、夫婦間であれ、思いもよらない別の側面を見せつけられたとき、やっぱりそれは動揺するよなぁ。本作でも、デビッドがマーゴットのFBやインスタを検索し、いろいろと知られざる事実を知ることになるんだが、その“知られざる事実”ってのがビミョーに怪しいものばかりで、この辺も巧いなー、と思う。

 それにしても、ネットで実名登録して、あんなにプライベートなことをいっぱい書き込んでるもんなのか、、、と、そっちの方が唖然となった。イマドキの若者たちはデジタルネイティブだから、そういうことへの抵抗感はかなり低いというのは分かるが、それにしても……である。

 まあ、そのおかげで、デビッドはマーゴットの行方を知る手掛かりをいろいろ得られるのだから、功罪あるってことなんだわね。

 展開も二転三転して、終わったかと思った後に、さらに一ひねりある。……けれども、これはちょっとオチが見えるパターンかな。だって、、、ねぇ。まあ、見ていただければ分かると思いますが。私はこの最後のオチは、正直言ってあんまし好きじゃない。意外性はあるけどね。面白かったと言う割にが6コしかないのは、このオチのせい。

 この監督さんは、本作が長編第一作目みたいなんだが完成度は高いと思う。インド系アメリカ人で27歳かぁ。『RUN/ラン』も期待出来そうかな。まあ、こういうスリラー系でいうと、シャマランとかアリ・アスターとか、評価と実態の乖離が大きい監督しか思い浮かばないんだが。このジャンルは、やっぱり量産には向いてないわね。ワンパターンにならないように、斬新さ・奇抜さを追求しすぎるとバカっぽくなるしね。ヒッチコック作品だって、結構駄作は多いわけで。

 本作の監督アニーシュ・チャンガイ氏はどうなることやら。まずは『RUN/ラン』を見てみようと思います。
 

 

 

 

 

 

 

恐るべし、ネット空間。

  

 

 

 


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再会の夏(2018年)

2020-01-11 | 【さ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv69114/


以下、公式サイトよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 とある戦争の英雄と、一匹の犬の真実の物語

 1919年、夏の盛り―――。終戦後の平和が訪れたばかりのフランスの片田舎。第一次世界大戦の英雄で武勲をあげたはずのジャック・モルラックがひとけのない留置所に収監され、頑なに黙秘を続けている。

 この男を軍法会議にかけるか否かを決めるため、パリからやって来た軍判事のランティエ少佐は、留置所の外で吠え続ける一匹の犬に関心を寄せる。そして、モルラックを調べるうちに、農婦にしてはあまりにも学識豊かな恋人ヴァランティーヌの存在が浮かびあがり…。

 名もない犬が留置所から決して離れようとしないのは、忠誠心からなのか? 判事の登場は真実を解き明かし、傷ついた人々の心を溶かすのか?

=====ここまで。

 監督は、あのジャック・ベッケルの息子ジャン・ベッケル。
 

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 シネスイッチ銀座は、消費税率アップに伴い、周辺のミニシアターが軒並みサービスデー料金を1,100円に値上げした中、金曜レディースデー料金950円で頑張ってくれています。ネットで事前予約もできるようになり、有り難い限り。

 新聞での評を読んで是非見たいと思っていたので、年始早々の金曜日、前回の記事『私のちいさなお葬式』と2連続で見に行って参りました。こっちが見たかったので、前回のロシア映画もせっかくだからと見たのでありました。


◆ジャックは英雄のはずなのに……。

 ジャックがなぜ留置所に入れられているのか、終盤までハッキリとは語られない。国家に対する侮辱、ということはセリフにあるのだけれど、具体的にジャックが何をしたのかは分からないまま、話は展開していく。

 冒頭から、黒くて凜々しい犬が、吠えている。ハッキリ言ってうるさい。……が、この犬こそが、本作のキーマン、ならぬキーワン(コ)なのである。何で君はそんなに吠え続けているの?? もちろん、理由がある。ご主人のジャックが留置されているから、、、というだけではない理由が。

 この犬は、元はといえば、ジャックの恋人ヴァランティーヌが飼っていた犬で、ジャックが戦争に駆り出されるときに戦場までジャックを追って着いてきたのだった。ちなみに、第一次世界大戦では、兵士の飼い犬がたくさん戦場に来ていたんだとか。軍用犬として訓練することもなく、どうやら戦場に着いて行っていたらしい。この犬も、戦場でジャックを守るかのように着いて歩いていた。

 戦場のシーンもかなり時間を割いて描かれる。第一次大戦といえばの塹壕戦。いろんな映画で塹壕戦を見てきたが、何度見てもあの塹壕の様子はおぞましい。そこにジャックと犬もいる。どの兵士たちも皆疲弊しきっており、戦況が複雑化する中で、兵士たちが闘う意味が分からなくなるのも道理だと思う。それで、敵対しているはずのロシアやブルガリア兵と、モルラックたちフランス兵は、休戦協定を結ぶことにする。戦争なんかお上が勝手にやってろよ……!てことだわね。

 お互いが「インターナショナル」を歌うのを合図に歩み寄り、和解するかに見えたその瞬間、モルラックの犬はモルラックを守るべく、ブルガリア兵に飛びかかってしまう。急転直下、泥沼の闘いが繰り広げられることになる。

 後で解説を読んだところによれば、犬は、正面からこちらに向かってくるのは“敵”だと教えられているから、本能的に飛びかかったということらしい。確かに、犬には、あれが和解のための歩み寄りだとは分からないだろう。

 その後の凄惨な闘いをどうにか生き延び、病院に収容されたモルラックは、敵に勇敢に立ち向かったとして、国からレジオンドヌール勲章を授けられる。まさしく“英雄”となったモルラック。その彼が、なぜ留置所に……??


◆シナリオが素晴らしい!!

 モルラックが何をしたのかは、ここでは敢えて書きません。知らずに見た方がゼッタイに良いと思うので。

 しかし、モルラックがとった行動は、確かに国を侮辱するものだが、彼が経験した悲惨極まる戦場での殺戮を思えば、共感してしまう。彼は、ランティエ少佐の事情聴取に対しても「途中からどこの国と闘っているか分からなかった」というようなことも言っている。それくらい、敵味方入り交じり、混乱の極みだったに違いない。

 この映画の魅力は、モルラックがどうして生きる望みを失っているのか、その原因を、悲惨な戦争体験に有り、などという安直な作りにしていないところ。彼が、国を侮辱するような行動に出たその理由の奥底に何があったのか、、、が、ランティエ少佐の取調べとともに見ている者たちにも少しずつ明かされていくのである。

 蓋を開けてみれば、非常に単純な、それでいて実に人間臭い事情があったからなのだが、それがまたグッとくる。あれだけの凄惨な戦争から生き延びて帰ってきたのに、死んでも良いとさえ思ってしまう理由がそれなのか、、、いや、だからこそ生きていたくないと思うよね、と凄く腑に落ちる。説得力がある。

 モルラックのしたことも戦争のなせるわざだよね、、、と一旦共感させられ、いや実は、、、と、ゼンゼン違う展開を見せられ、それが却ってさらに共感を呼ぶという、実に不思議かつ巧妙なシナリオに、脱帽。

 ある意味、もの凄く大人の映画だと思う。83分の短めの作品なのに、鑑賞後感は充足感で一杯。必見!と言いたいところだけれど、まあ、あんまし押しつけがましいのはポリシーに反するので、“見て損はないです”としておきます。


◆その他もろもろ

 キーワン(コ)を演じていたのは、ボースロンという犬種(ドーベルマンの原種らしい)の、イェーガー君という名のワンコ。ほぼ真っ黒な顔で、その中に、真っ黒な瞳が濡れて光っているのが、とっても魅力的。可愛い、、、というのとは違って、でも、やっぱり可愛い。犬は最強だね、やっぱし。

 基本、ほとんどのシーンはイェーガー君で撮影したらしい。戦場でのシーンは、イェーガー君の父犬カルマが演じているとのこと。2頭だけで撮ったってのも、かなり凄いのではないか。

 その犬を気に掛けるランティエ少佐を演じるフランソワ・クリュゼが素晴らしい。知的で品がある引退間際の老軍人を好演している。彼の犬への接し方を見ていると、彼もかなりの犬好きと見た。あの撫で方は、好きでしょ、絶対。確か、監督の父上ジャン・ベッケルともお仕事されているはず。

 モルラックを演じたニコラ・デュヴォシェルが、地味だけどなかなか凜々しくて素敵だった。ちょっと細身かな、、、。軍服が似合うんだよね、またこれが。カッコエエです。恋人ヴァランティーヌ役のソフィー・ヴェルベーク、美人。誰かに似ている気がするんだけど、思い出せない。ヴァランティーヌが、ジャックが出征するときに犬が着いていったことについて「嬉しかった。あの犬は私の分身だもの」と言っていて、何か良いなぁ、、、と思ってしまった。犬がいなくなって寂しいんじゃない? と思ったけど、そういう考え方もあるのね、と。

 ちなみに、原題は、「赤い首輪」だそうだけど、邦題も原題のままの方が良かったんじゃないのかねぇ。確かに、夏に再会するけどさ。ゼンゼン、ツボ外しちゃっている感じ。この邦題が、未見の人たちに凡庸感を与えているんじゃないのかね? せっかくの秀作が台無しだよ。

 

 

 

 

 

 

 


飼い主が恋人と抱き合っているのを横目で見て見ぬ振りをするワンコ、かわゆし。

 

 

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サウンド・オブ・ミュージック (1965年)

2019-12-10 | 【さ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv3582/

 

 ご存じ、ミュージカル映画の金字塔。

 修道女見習いのマリアが、妻に先立たれた7人の子持ちの貴族でイケメン大佐と相思相愛になり結婚、メデタシメデタシ……、とはならず、大佐がナチスに追われる身となり、一家は歌いながら(?)逃避行に、、、。果たして一家の命運は!?

 

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 午前十時の映画祭にて鑑賞。高校の英語の授業で見て以来だから、30ウン年ぶりだったのだけれど、、、、こんなに泣けるとは思っていなかった。この映画ってこんなだったっけ??と序盤に頭をかすめたものの、直後から、映画の世界にトリップしてしまいました。高校生の私は、何も分かっていなかったのね、、、。

 

◆薄っぺらい映画になりそうな要素てんこ盛りなのに、、、。

 いやぁ、、、こんなに涙が出るだなんて、不覚だった。

 ハッキリ言って、この映画は、道徳の教科書に出て来てもおかしくないような「健全かつ善意の塊」なお話で、本来の私の大好物である「不健全で悪意の塊」とは対極にある。おまけに、私の大の苦手分野、突然歌い出すミュージカル。しかも名曲ばかり。

 この、イヤミなまでに出来過ぎで“嘘臭さ”が放つものといえば、相場は決まっている。ドン引きなまでの偽善臭・欺瞞臭立ちこめる作品……のはずなのに、実際に本作を見てみると、、、あら不思議。何ということでしょう!!! 偽善も欺瞞もまったく感じない!!

 それどころか、私のような邪悪で汚れきった心を見事に浄化してくれるではないか!! 私が本作を見ながら流した涙は、私の心の澱を洗い流してくれたのか。

 ……なーんてことはもちろんないが。、、、でも、心洗われる、とはまさにこの映画のことを言うのだと、止まらない涙を拭きもせず、ただただ圧倒されていた。

 予定調和、先の読める展開なのに、退屈しないのは、やはり何といってもその素晴らしい音楽の数々にある。名曲ばかりが、これでもか!と続くが、音楽の持つパワーを本作ほど感じさせられたことはない。私は、基本的にあまり歌付きの音楽は聴かない方だが、本作で登場人物たちがそれぞれに歌う“歌”は、私の好みなど超越したものだった。ミュージカルで、歌を興醒めすることなく聴いていられるというのが、この映画の持つ不思議なパワーである。

 泣けたシーンはどこかというより、ほぼ全編にわたって、あちこちで泣いていた。中でも一番泣けたのは、もちろん、大佐が舞台上で「エーデルワイス」をギターを奏でながら歌うシーンだ。実話モノの完全なるフィクションとは分かっていても、あのシーンは感動的。もともと良い音楽が、あのような重い意味を持つとなると、胸に響くものがゼンゼン違う。

 音楽に負うところ大であるのは間違いないが、それと同じくらい本作が人を魅了するのは、そこに通底している、信仰と良心、そして信念だろうと思う。

 信仰も良心も、そして信念も、どれも一つ間違えれば他者への“押し付け”になるものだけれど、本作の中ではそのどれもが強固でありながら押しつけになっていないという、稀なる描写がされている。

 修道女たちは皆、マリアにはマリアに適した生き方があるという。男爵夫人は、大佐の愛を得られないと分かって、自らの進むべき道を悟る。大佐自身は、自らの信念を貫き、命を懸けて愛する国を棄てる。

 ここには、信仰と信念こそあれ、悪意も強制もなく、登場人物たちの行動は、言ってみれば良心の現れ。私のような屈折しまくった心にも、その良心は控えめでありながら真っ直ぐに届いたのだから、スゴイとしか言い様がない。

 さらに言えば、他力本願でないところがなお良い。厚い信仰心を持つ修道女たちは、神に祈ってさえいれば良いなどとは当然言わず、マリアに「自らの意思で道を切り開け」と諭す。

 ……などと、野暮な読み解きをしてみたものの、これらはほとんど意味がない。なぜなら、本作はそんな小理屈など蹴散らし、見るものを圧倒するパワーがあるから。だから、まあ、見てみてくださいな、そこのミュージカル嫌いのお方。

 

◆トラップ大佐とか、ガヴァネスとか、、、。

 クリストファー・プラマー、めっちゃエエ男! ……というか、渋い!! あんな7人の子持ちいるかよ、、、と内心ツッコミまくりだったんだが。彼の出演作というと、数年前に劇場で見た『手紙は憶えている』は結構面白かった。オチがひどかったケド。あの作品での彼は、もう、認知症の爺さんという設定で、見た目もすっかりヨボヨボになっていたんだけど、時々見せるキリッとした挙動に、トラップ大佐を思い出させるものがあったような。ピアノを弾くシーンも、実に様になっていた。

 本作での彼は、ギターを弾きながら「エーデルワイス」を歌う。登場シーンの強面から、後半、ほぼ“急変&激変”するのもご愛敬。マリアに思いを打ち明けるトラップ大佐もステキ。マリアじゃなくても、そら恋に落ちるわね。

 ちょっと田宮二郎に所々似ているなー、と思いながら見ていたんだけど、、、。

 ジュリー・アンドリュースは、もう、健康優良児そのもので色気のイの字もないんだが、まあ、マリアにはああいう感じがちょうど良いと思う。歌が素晴らしいのは、今さら書くまでもない。

 マリアはトラップ家に“ガヴァネス”として派遣されていたと、今回初めて知った次第。そっかー、ガヴァネスだったのねぇ。本作では、期限付き“家庭教師”だったが、実際のマリアは、修道院を辞めてガヴァネスとしてトラップ家に行ったということだから、、、こんなことを書くと本作の夢を壊すかもだが、マリアとしてみれば、最初からトラップ家に入ることを狙っていた可能性が高いだろう。

 “ガヴァネス”については、『回転』『ハイジ アルプスの物語』でも書いたので、ここでは割愛するが、学だけあって行き場のない中年女性にとって、生きる道は、財力あるバツ有り男の後妻になることくらいしかなかったのだ。

 マリアは当時20代だったというが、修道院も出て来た以上は恐らく、先行きは暗かったに違いない。トラップ家の主は、そんな彼女にとって一筋の希望となったと言っても、あながち間違いでもないだろう。

 本作の冒頭でセリフに頻繁に出てくる“governess”の単語を聞いて、そんなことがつらつらと脳内をよぎったりもしたけれど、それ以外のほとんどの時間は、本作の世界にどっぷり浸っておりました。

 

 

 

 

 

サントラ欲しくなっちゃった。

 

 

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サスペリア(2018年)

2019-09-23 | 【さ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv66229/

 

 以下、公式HPよりあらすじのコピペです(青字は筆者による加筆)。

=====ここから。 

 1977年、ベルリンを拠点とする世界的に有名な舞踊団<マルコス・ダンス・カンパニー>に入団するため、スージー・バニヨン(ダコタ・ジョンソン)は夢と希望を胸にアメリカからやってきた。

 初のオーディションでカリスマ振付師マダム・ブラン(ティルダ・スウィントン)の目に留まり、すぐに大事な演目のセンターに抜擢される。そんな中、マダム・ブラン直々のレッスンを続ける彼女のまわりで不可解な出来事が頻発、ダンサーが次々と失踪を遂げる。

 一方、心理療法士クレンペラー博士は、患者であった若きダンサーの行方を捜すうち、舞踊団の闇に近づいていく。やがて、舞踊団に隠された恐ろしい秘密が明らかになり、スージーの身にも危険が及んでいた――。

=====ここまで。

 1977年のダリオ・アルジェント監督によるホラー映画『サスペリア』のリメイク版。……といってもゼンゼン別物。

 

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 元祖『サスペリア』が公開された当時、ガンガンTVでCMが流されており、それで有名なのがあのキャッチコピー「決して一人で見ないでください」だった。あの当時、あの宣伝はかなり刺激的で、強烈なインパクトがあったから、アラフィフ世代以上は覚えている人も多いはず。

 かくいう私もその一人。当時のインパクトが強すぎで、大人になってビデオ化されてもあんまり見る気になれず、見たのは本作が公開されると聞いてから。で、見てみたら、そこには当たり前だがアルジェントの世界が広がっていて、ストーリー自体は正直言ってゼンゼン面白くなかったが、画的には非常に惹き付けられた。なるほど、これなら当時であれば世間が騒ぐのも当然だろう、、、と思った。

 本作については、公開前から話題になっていたけど、前評判で「まるで別物」と聞いていたし、難解だとも言われていたこともあって、オリジナルのファンでもないし劇場まで見に行く気にはならなかった。最近、DVDになっていたので、借りてみた。

 で、、、。ん~~~、アルジェントが本作を見て怒った、というのもちょっと分かる気がする。

 

◆アート系ホラー、、、か?

 本作の解釈についてはあちこちで書かれているので、ここでは感じたことをつらつらと思い付くまま書きます。

  見終わって真っ先に思ったことは、「果たして本作をホラー映画にしたかったのだろうか、この監督は……??」ってこと。オリジナルは一応ホラーで、そのリメイクなので、ホラーだと思って見たんだけれども、そもそもホラーのお約束(分かりやすい、尺は短め)を守る気など更々なさげな作りといい、エンドクレジットの後の意味深な映像といい、これはアート系映画であって、ホラーじゃねーだろ、、、と思ってしまった。

 もちろん、グロい映像は一杯出てくるんだけど、まぁ一応気持ち悪いけど全く怖くはないし、驚くような演出もないし、ホラーを期待しているとことごとく裏切られる作りになっている、、、と思う。

 思わせぶりな時事ニュース映像を挟んだり、オリジナルにはなかったクレンペラー博士という精神科医が出て来たり、ナゾがあちこちにばらまかれているんだけど、それが観客にとってはあまり面白い伏線になっていない。私も一度見た後、もう一度、気になるシーンをあちこち何度か見て、私なりに“こういうことか、、、?”と解釈したけれども、それだって、本当にそうなのかは分からない。

 多分、おおむね伏線は回収されているのだと思う。クレンペラー博士があそこまであのダンスカンパニーに固執したのはなぜか、というのも、終盤に、彼と亡き妻とのエピソードが出て来て、なるほど、、、となるし、そもそもスージーが最初から物怖じせずにあのカンパニーであのように振る舞えたのは、彼女自身が、、、、だからね、とか。大まかなことは私でも分かる。

 アート系で、よく分からないけどホラー、、、というと、グリーナウェイが思い浮かぶのだが、本作を見ていて、『ベイビー・オブ・マコン』がちょっと通じるモノがあるような、、、と思っていた。記憶が定かじゃないのが情けないが、あれは魔女でないが、ある種の邪教が舞台装置になっていて、その教えに背いた者たちを徹底的に殺戮するという終盤のグロの極みみたいなシーンが、本作の終盤のシーンとダブってしまったのである。あの映画を見たときの訳の分からなさと不快さが、本作でデジャヴだったのだ。本作の方が、アレに比べればまだしも意味が分かる、、、、とはいえ、見た目的にグチョグチョ系で生理的嫌悪感は上回るかもだけど。

 ……というわけで、ホラーってのは、もう少し分かりやすい方が良いと思うけど、監督がホラーだと思って撮ってないなら、しょーがないわね。分かりにくいと、怖さを感じる余裕がなくなる、というか。実際、本作は怖くはないしねぇ。でも、あの『サスペリア』のリメイクって言われりゃ、ホラーのつもりで見るよね、普通は。

 

◆漂うミソジニー

 以下、ネタバレです。

 でもさぁ。スージー自身が、いわゆる“ラスボス”であるのなら、マダム・ブランだって、そこそこの格なわけだから、スージーに対して何らかビビビと感じるものなんじゃないのかね? マダム・ブランのほかにも雑魚キャラの魔女がいらっしゃったのに。最後の最後まで誰一人見抜けないなんて、魔女も大したことないのね、、、なーんて。

 スージーは最初から魔女だったのか、、、というのもネット上では話題になっていたみたいだが、私は最初からだったと考えた方が面白いような気がする。全てお見通しだった、と。……でもそうすると、ちょっと辻褄が合わないところもあるんだが。

 本作は、監督が言うには、女性のための映画であり、女性解放の映画、、、という意図があるらしい。監督がそう言うなら、まぁ、そーなんでしょう。

 しかし、女の私が見て感じたのは、監督自身が持つ強烈な“ミソジニー”であります。監督がゲイだから、、、という先入観がないとは言わないが、『君の名前で僕を呼んで』と比べると、明らかにそう感じる。まぁ、この映画と比べて良いのか、、、という疑問もあるけれども。

 『君の名前~』は、男性と少年の恋愛を、まぁ、これでもかっていうくらい美しく描いていたわけよ。主役2人の男優も美しい2人を配し、ラブシーンももちろん、2人のシーンはどれもこれも全部色彩も含めて美しく撮っていた。が、本作では、終盤に出てくる魔女たちは皆グロテスクで美しさの対極にあるような描き方、なおかつアルジェント版の特徴だった美しい色彩はまるでなく、暗~~い単色系の画面ばかりで、極めつけは、本作でのキーになるダンスだ。およそ美しさからはほど遠い。コンテンポラリーダンスの特徴と言えばそうなのかも知れないが、アルジェント版のバレエスクールを敢えて、ダンスカンパニーに置き換えた意図も勘ぐりたくなる。

 魔女映画だって、アート映画だって、別にもっと美しく撮ることはできるはず(現にアルジェントは撮っている)だが、こういう作品にしたことに、私は、この監督の女性に対するイメージが現れていると思えて仕方がない。

 まぁ、クリエイターでゲイの人たちには、男尊女卑思想が根底にあることが多いのはよく知られた話だが、この監督がどういう思想の持ち主かは分からないけど、作品を見る限り、彼もご多分に漏れず、、、という感じがするなぁ、正直言って。『君の名前~』に出てくる女性の描き方もかなり杜撰だったしね(脚本はアイヴォリー氏ですが)。

 見る人によっては、監督が意図しないものを見出してしまうこともあるので、創造ってなかなか難しいもんですね。

 

◆その他もろもろ

 個人的に、私はティルダ・スウィントンという女優さんがあんまし好きじゃないので、それも本作をナナメに見てしまった遠因かも。でも、見終わってから、あのクレンペラー博士も彼女が演じていたのだと知って、さすがに驚いた。特殊メイクの技術ってスゴいのね、、、。

 そう言われてみれば、確かに博士の声は男性にしては高めだし、身体の線も細い。でも、言われなければ分からなかった、絶対に。

 あと、タイトルの『サスペリア』というのは、“Mother Suspiriorum”から来ているのだって。だから、“サスペリア”ではなく、“サスピリオルム”の“サスピリア”なのね、原題は。嘆きの母の名前だそう。この嘆きの母ってのが、最後の方で鍵になるのだが。

 前述で「驚くような演出もない」と書いたけど、1箇所だけ、ギョッとなるシーンがあった、そーいえば。突然なんでビックリするというか。……は?何で??って感じで、魔女たちの間の力関係に起因するものの様だけど、イマイチよく分からない。分からなくても、別に見ていて困らない。

 とにかく本作は、終盤に怒濤の謎解きとなるのだけれども、それでスッキリする、という訳でもありません。怖い映画を見たいのならば、本作を見てもあまり意味がないのでオススメしません。

 

 

 

 

 

 

当時のベルリンがあんなに血なまぐさかったとは知らなかった、、、。

 

 

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ザ・バニシング ― 消失 ―(1988年)

2019-05-20 | 【さ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv67230/

 

以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 7月、オランダからフランスへと車で小旅行に出掛けていたレックスとサスキア。立ち寄ったドライブインで、サスキアは忽然と姿を消してしまう。

 必死に彼女を捜すも手掛かりは得られず、3年の歳月が経過。

 依然として捜索を続けるレックスの元へ、犯人らしき人物からの手紙が何通も届き始め…。

=====ここまで。

 本邦劇場初公開。1993年に監督自身の手により、ハリウッドでジェフ・ブリッジズ、キーファー・サザーランド、サンドラ・ブロックの顔ぶれでリメイクされ、こちらは日本で公開された模様。

 

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 何かの映画の予告編で見て、そそられたので見に行って参りました。久しぶりに、ゾッとする映画を見た、、、という感じ。

 

◆おぞましい、、、

 いわゆる“失踪モノ”は結構好きで、まあ、大抵は何らかのオチが最後までに明かされる。自発的であったり、誘拐であったり、イロイロだが、導入の思わせぶりなのに比べてオチは尻すぼみ、、、ってのが多いのがこのジャンルの特徴でもある。

 けれども本作は、最後の最後に、ドッカーーンと打ちのめされる。……というか、正確に言うと、オチはある程度想像はつくのだが、その遙か斜め上を行く展開なのである。想像通りの結末なのに、打ちのめされる、、、、こんな映画、そうそうないんじゃないか??

 サスキアを連れ去った犯人の男レイモンが、その風貌といい、行動といい、おぞましいの一言。まさにエドワード・ゴーリーの絵本『おぞましい二人』から出て来たみたいなんである。ちょっと、ウィリアム・ワイラー『コレクター』をも彷彿とさせる。つまり、女性を拉致するために別荘を借り、車に乗せるために予行演習を何度も行い、自分の脈を測り、クロロホルムを自分で吸って気を失っている時間を測り、、、、という具合に、レイモンの異常ぶりがこれでもかと描写される。一方で、レイモンは妻と娘が2人いる家庭持ちであり、高校(or大学?)で化学の教師をしていて、リアルでは極々マトモで社会的信用のある人間でもあるのだ。この二重人格っぷりに、ゾッとなる。

 しかも、さらにゾッとなるのは、レイモン自身、自分が反社会的であることに自覚的であるところ。自身のことを「境界性人格障害」とハッキリ言っている。分かっていてやっているのだ。それも、反社会的でパーソナリティ障害である自分が“正しい人間”であることを証明するために、、、という気の狂った彼自身の論理に基づき、一連の行動を起こしている。

 こんな人間に目を付けられたら、もう、ただただ不運としか言い様がない。おぞましい。

 

◆好奇心に負けて、、、

 以下、ネタバレになります。

 本作のもう一つのキーワードは、好奇心。本当のことが知りたい、真実を見極めたい、という探究心。レイモンは、レックスのこの好奇心につけ込んでくるのである。

 「サスキアに何があったか、知りたければ私の言うとおりにしろ」とレイモンは言う。そして、「睡眠薬が入っているコーヒーだ」とハッキリ言ってレックスに飲ませる。レックスも最初は躊躇するが、結局、好奇心に負けてコーヒーを飲んでしまうのだ。

 私だったら、あそこでコーヒーは絶対飲まないと思う。ちょうど、レックスがコーヒーを飲むシーンは、雨が降っている外でのシーンだから、私だったら、どうせ頭から雨でずぶ濡れなんだし、コーヒーを飲んだように見せかけて口には入れずに胸にこぼし、眠った振りをして、真相に迫ろうとすると思うなぁ、、、などと考えながら見ていたんだけど、……まぁ、それじゃあこの映画の面白味も半減しちゃうよね。

 オカシイのは、レイモンがさんざん予行演習したやり方では、誰一人として女性を自分の車に誘い込むことが出来なかったこと。全て失敗だったのだ。ようやく上手く行きそうになったケースも、くしゃみが出そうになって、思わずクロロを染みこませたハンカチで自分の口元を押さえてしまったばかりに、、、という具合でマヌケそのもの。レイモン自身も、自分のマヌケぶりに呆れて諦めた直後に、サスキアとの会話の流れで、思いがけずチャンスが転がり込んできたのである。

 ……と言う具合に、異常な人間を描いていながら、やたらリアルなシーンが続き、いかにも有りそうな現実的な話に終始していて、それがまたゾッとさせられる要素でもある。

 現実世界でも、ある日、忽然と姿を消してしまう人はいる。それを思うと、こういうことがあっても不思議じゃないと思わせる強烈な説得力が、この映画にはあるように思う。

 ラスト、レックスも行方不明になったことを伝える新聞記事がスクリーン一杯に出るが、そこに載っている、サスキアとレックスの顔写真が丸くトリミングされている。この丸の形が、本作で度々サスキアの夢として語られる“卵”の形。序盤で、サスキアは、レックスと「金の卵に閉じ込められて永遠に彷徨う夢を見た」と話すのだけど、まさに暗示的な夢だったというわけだ。

 ストーリーもさることながら、演出や細かい伏線などもよく考えられており、地味ながら秀作だと思う。集中力が一瞬たりとも途切れず最後まで見てしまった。強いて難点を上げるとすれば、2度目以降の鑑賞は、ちょっと厳しいかな、というところか。

 まあ、でも良く出来た面白くて怖い映画です。

 

 

 

知らない方が良い真相もある、、、。

 

 

 

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ザ・スクエア 思いやりの聖域(2017年)

2018-05-06 | 【さ】



以下、公式HPよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 クリスティアンは現代美術館のキュレーター。洗練されたファッションに身を包み、バツイチだが2人の愛すべき娘を持ち、そのキャリアは順風満帆のように見えた。

 彼は次の展覧会で「ザ・スクエア」という地面に正方形を描いた作品を展示すると発表する。その中では「すべての人が平等の権利を持ち、公平に扱われる」という「思いやりの聖域」をテーマにした参加型アートで、現代社会に蔓延るエゴイズムや貧富の格差に一石を投じる狙いがあった。

 ある日、携帯と財布を盗まれてしまったクリスティアンは、GPS機能を使って犯人の住むマンションを突き止めると、全戸に脅迫めいたビラを配って犯人を炙り出そうとする。その甲斐あって、数日経つと無事に盗まれた物は手元に戻ってきた。彼は深く安堵する。

 一方、やり手のPR会社は、お披露目間近の「ザ・スクエア」について、画期的なプロモーションを持ちかける。それは、作品のコンセプトと真逆のメッセージを流し、わざと炎上させて、情報を拡散させるという手法だった。その目論見は見事に成功するが、世間の怒りはクリスティアンの予想をはるかに超え、皮肉な事に「ザ・スクエア」は彼の社会的地位を脅かす存在となっていく……。

=====ここまで。

 
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 あの『フレンチアルプスで起きたこと』の監督作だというんで、見てみました。昨年のカンヌ映画祭パルムドール受賞作だからか、新聞や雑誌でもあちこちで取り上げられているけど、論調は誉めているのか貶しているのかイマイチ不明な感じで、、、。実際に見て、なるほど、こりゃ評を書きにくいわなぁ、と納得。


◆誰だって自分が一番カワイイ。
 
 現代美術館が舞台だというので、もっと現代美術の話がメインストーリーになっているのかと思いきや、背景として実に巧みに使われているものの、現代美術の知識がなくても、一応見ることが出来て良かった、、、。見る前は、ちんぷんかんぷんだったらどーしよー、とちょっと心配していたので。

 ストーリーは上記の通り、あるにはあるのだが、割とぶつ切りであちこち飛んで展開が読めないところは『フレンチアルプス~』と似たような感じ。正直、序盤はちょっと退屈だったんだけど、掏られた財布とスマホが出て来た辺りから目が離せなくなり、、、。

 まあ、ものすごく大雑把に言えば、人間の“偽善”とか“ホンネとタテマエ”をこれでもかこれでもか、と描いているので、何とも居心地の悪さを禁じ得ない。

 本作では街の“物乞い”が頻繁に出てくるんだけれども、本作の舞台となったスウェーデンの人たち、基本、物乞いの前を素通りだった。あと、助けて! という叫び声が広場でしても、やはりここも基本、皆スルー。終盤のパーティでは、一人の女性が“猿男”に暴行されそうになっていても、相当の時間、誰も助けない(その後、一人の男性がやっとこさ駆け寄ってきたのを契機にわらわらと男たちが助けにやって来るが)。

 よく、ネットに出没する出羽守は、「日本人は冷たい、外国(特に欧米)では皆親切」みたいなことを書き散らしているけれど、スウェーデンも日本と大差ないじゃん、本作を見る限り。でもって、私が何度か欧米に行った経験だけで言えば、日本でも外国でも、親切な人はいるし、スルーする人もいるし、その割合が日本が極端に異なる、とは思えない。

 そもそも東京の街頭ではあのような物乞いの姿はほとんど見ない(ホームレスは場所によってはいるが)し、仮にたくさんいたとしても、見て見ぬふりはよろしくない、と言われたって、片っ端からお金をあげていたら、こっちの財布が空になっちゃうわけで。私は、基本的に街頭募金とかでは絶対にお金を入れない主義なんで、物乞いがいても、お金は入れないと思う。

 誰だって、みんな自分がカワイイのよ。自分にある程度の余裕があるからこそ、誰かを助ける気になるのであって、自分が助けを必要とするかしないかの境目にいる状況で、見て見ぬふりするなとか言われたって、知らんわ! という話。本作のサブタイトルにある“思いやり”だってそう。自分が追い詰められた状況にあってなお、誰かに思いやりを持つことは、よほどの人格者でなければムリでしょ。

 本作は、そんな人間の“アタリマエ”を敢えてほじくり返して描いているわけだ。なんとイジワルな映画でしょう、、、。


◆クリスティアン、、、嗚呼。

 しかし、この主人公のクリスティアンという男、、、本作のコンセプトを具現化するためのキャラとはいえ、あまりにもアホ過ぎて呆れる。

 財布とスマホを掏られた際も、GPSで場所がある程度分かっているんだから、警察に届けりゃイイじゃん、と思っちゃうんだけど。あんな脅迫チラシをばらまいたら、それこそ犯罪になりかねなくない? 

 そのチラシが元で、男の子に謝れと執拗に迫られたときも、さっさと謝った方が身のためなのに謝らず、挙げ句、男の子を階段から突き落とすとか、、、。考えられん。

 もし、筋金入りの自己チューだったら、、、自分の身の安全を第一に考えたら、警察に届けて、男の子にはさっさと謝って、、、となると思うのだけど。だから、クリスティアンは、自己チューというよりは、アホというか、愚かしいというか。
 
 ただ、炎上したPR動画の件は、まあ、ありがちだなぁと思った。炎上を狙ったけど、狙った以上に炎上しちゃって逆効果、、、で、その対応を完全に誤っているパターン。しかし、組織のミスにおける初動を誤るケースは多い。つい最近の財務省セクハラ事案なんかもまさにそうで、火に油、、、ということはやってしまいがち。動画が炎上したから取り下げる、ましてやそれを美術館がやってしまったら、表現の自由についてメディアに突っ込まれるのは当然なわけで、、、。これは、身につまされるエピソードかも。


◆教科書よりもコメディの方が効き目がある。

 面白かったし、監督が描きたいことはヒシヒシと伝わってきたんだけれど、監督が観客に一番感じさせたかった“いたたまれなさ”を、全体を通して、私はあまり感じることはなかった。

 それは、別に自分がクリスティアンなんぞより上等な人間だと思っているからでは決してない。むしろ、クリスティアン的な要素はいっぱい持っているし、私もこすい一小市民に過ぎない自覚は十分ある。

 けれども、本作に関しては、あまりにも監督の意図が見えすぎて白けた、というのが大きい。ただ、そうはいっても、本作は大変な意欲作だと思うし、クリエイターとしての志は非常に素晴らしいと思う。それを踏まえた上で、敢えて言えば、多分、テーマありきでストーリーが作られたことによる現象ではないかと思う。

 『フレンチアルプス~』には、物語としての流れと必然性が感じられたし、そこからテーマが浮き彫りになって、見ている者としては唸らされたわけだが、本作は、テーマが最初からウンザリするほどに突き付けられているために、少々押しつけがましさを感じた、ということかなぁと。

 卵が先か、鶏が先か、という話だけど、どちらが先であっても、見ている者に、露骨に意図が分かってしまうのは、場合によっては逆効果になる典型例かも知れない。

 そして、何より本作では、正義とは何か、を織り込んでいるところが、私としては引いてしまった。今さら正義も何も、、、。正義の二文字がちらついた途端、このような偽善をシニカルに描いた芸術は一気に陳腐化すると思うのだがどうだろう、、、。敢えてそこに踏み込む必要があったのか。人間社会で生きていく、ということは、ことほどさように単純ではないし、そんなことは監督は百も承知なはずなわけで。

 そこが、やはり見ている私に、いたたまれなさ、恥ずかしさ、痛さを感じさせることがなかった所以だと思う。

 こういう作品は、笑いに徹したブラックコメディにした方が良かったのでは? 何か、高尚な、道徳の教科書みたいになってしまったのが、いささか残念。






PR動画がエグすぎて嫌悪感、、、。




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サーミの血(2016年)

2017-10-03 | 【さ】



 以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 北欧の少数民族サーミ人の少女が、差別や困難に立ち向かいながら生きる姿を描いたドラマ。

 1930年代、スウェーデン北部の山間部に居住する少数民族サーミ族は、支配勢力のスウェーデン人によって劣等民族として差別を受けていた。サーミ語を禁じられた寄宿学校に通うエレ・マリャは、成績も良く進学を望んだが、教師からは「あなたたちの脳は文明に適応できない」と告げられてしまう。

 ある時、スウェーデン人のふりをして忍び込んだ夏祭りで、エレは都会的な少年ニクラスと出会い恋に落ちる。スウェーデン人から奇異の目で見られ、トナカイを飼育しテントで暮らす生活から抜け出したいと思っていたエレは、ニクラスを頼って街に出る。
 
=====ここまで。

 果たして街に出たエレはどうなったのか、、、。

   
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 昔、NHKで「ニルスのふしぎな旅」のアニメを放映していたんだけれども(原作未読)、その中で、主人公の少年ニルスが、がちょうのモルテンと旅をして向かう先が“ラップランド”だった。当時の私には、ラップランドは北欧のどこか、くらいの認識しかなく、それがどの辺りなのかとか、引いてはラップランドという言葉自体に差別的な意味合いがあるんだとか、全くもって知らなかったし、実は、本作を見るまで恥ずかしながら“サーミ人”という存在さえ知らなかった。

 正直なところ、ラップランドという言葉にはもっとメルヘン的なものを感じていたくらいで、それというのも、もちろん「ニルスのふしぎな旅」が大好きで毎回欠かさずTVにかじり付いて見ていた影響も大きいし、何より、サンタクロースの住む地、という刷り込みがあったことも大きい。「ニルスのふしぎな旅」のオープニング曲は、今も諳んじて歌えるほど染みついているものの、ストーリーはかなり忘れている。ただ、あのアニメの中で、ラップランドに住むサーミ人は出てこなかったと思うし、そのような先住民族差別がはびこっていることは微塵も感じさせないものだった。

 今回、本作を見て、改めて先住民族に対する差別・偏見が世界的なものであることを認識し、本作の中では、サーミ人という呼称とともに、蔑称的に「ラップ人」という呼び方もされており、改めて、自分の無知ぶりを思い知った次第。


◆「あなたたちの脳は文明に適応できない」

 これ、面と向かってエレが教師に言われるセリフなんだけれども、正直、このシーン、卒倒しそうなくらい驚いたというか、頭がクラクラした。まぁ、その前にも、スウェーデン人の研究者を名乗る男性が、エレたちサーミ人の体格や骨格を測定し、統計を取るシーンがあって、その測定の方法が、今から見れば明らかな人権蹂躙なもんだから、そこでも少々クラッと来たんだけど、、、。

 それにしても、このセリフの破壊力は凄まじい。
 
 エレにこう言い放った教師のいる学校とは、「移牧学校」と呼ばれる、トナカイ遊牧の子どものための学校。パンフの解説によれば、これは、1913年に発布された学校法によって設立され、トナカイ飼育業の児童を公立の基礎学校から排除するためのものだったという。それ故、教育内容も公立の基礎学校に比べてはるかに質の低いもので、言葉はスウェーデン語を強要する一方で、あくまでサーミ社会に閉じ込めるためのものだった。

 他の北欧諸国同様、サーミに対する同化政策が行われたけれども、定住しないトナカイ遊牧サーミに対し、スウェーデンでは社会から排除する政策がとられた。1900年に入ると、人種生物学の影響を受けて、同化から分離へと転換していった(その一片が、あの屈辱的な身体測定のシーンにつながるのだと思われる)。この分離政策によって、サーミは、他の人種より劣った「特異な人種的特徴」を持って生まれてくるものとされた、っていうんだから、教師のあのセリフが飛び出すのも当然な環境だったというわけだ。

 まあ、どこにでも偏見・差別ははびこっているものだが、「文明に適応できない脳」という差別の言葉は、生まれて初めて聞いた。しつこいようだけれども、本当に凄まじい破壊力のある言葉だと思う。


◆「こんな見世物みたいな暮らしはイヤだ!」

 教師にそんな暴言を浴びせられても、エレは泣き喚いたりせずに、現状打破のためにとにかく行動に出るのだから、その胆力たるや、こちらも凄まじい。

 この2つの“凄まじい”がぶつかり合う本作は、正直言って、見ているのがツラい。もちろん、偏見・差別の不条理ゆえのツラさもあるけれども、エレの現状から脱出するための突破力が、あまりにも直線的に過ぎるのだ。それほど、エレの信念は何ものにも破壊などされることのない、強固なものなのだ。

 まず、サーミのシンボルでもある衣裳を脱ぎ捨て、列車内で盗んだ黒いワンピースに着替える。そして、お祭りでほんの少し踊っただけのスウェーデン人男性ニクラスを頼って、ニクラスの自宅を訪ねるのだ。生憎ニクラスは不在で、一旦、ニクラスの母親に門前払いを喰らうがエレは食い下がる。「ニクラスが訪ねて来いって言ってくれた。泊めてくれると言った」と言って、半ば強引に家の中に入り込み、泊まり込んでしまうのだ。

 夜中に帰宅したニクラスは、部屋で寝ているエレを見て、「え? 誰?」などとヒソヒソ声で母親に言っている。母親は「勝手に人を招待しないで!」と怒っている。エレはそれを寝たふりをして聞いている。

 しかも、その後、ニクラスの部屋に行って、セックスまでしてしまう。この一直線な行動が、もう恐ろしいほど。

 翌朝、ニクラスの両親は、「彼女はラップ人だ」と言って、家から追い出すようにニクラスに仕向けるが、このニクラスも、イイ奴なんだかイイ加減な奴なんだか、ここではエレを追い出しておいて、その後、パーティーで再会したときはエレに優しくするなど、イマイチ分からん奴だった。まあ、若い男の子だから、その辺、あんまり考えなしで行動していても不思議ではないが。

 エレは、その後も、ある学校に潜り込んで、そこの生徒になるんだけれど、その成り行きが今一つよく分からなかった。まさしく、“潜り込む”って感じだったんだけど、あんな風に学校って生徒を受入れるものなのか? 

 結局、学校から学費を請求されたエレは、ニクラスに借金を願い出るものの、さすがにここでニクラスは手を引いた。そこで、仕方なく、エレはトナカイ放牧をしている親元に戻って、学費を親に出してくれとお願いするが、当然、拒否される。ここでもエレはめげず、「こんな見世物みたいな暮らしはイヤだ!」と叫んで、自分のトナカイを売るために殺してしまう。それを見ていたエレの母親は、父親の銀のベルトを差し出して「出て行け」と言う、、、。

 トナカイは、遊牧民にとっては財産そのものだというから、エレの信念の強さを表わす象徴的なシーンということだろう。


◆その他もろもろ

 エレを演じたレーネ=セシリア・スパルロクは、彼女自身もサーミ人のトナカイ遊牧民だそう。彼女のインタビューを読むと、サーミ人であることに誇りを持っていることが窺える。

 インタビュアーに「何頭のトナカイを飼っているんですか?」と聞かれ、彼女は「その質問は、“あなたはいくら貯蓄を持っていますか?”と聞かれているのと同じなので、答えられません」と答えている。

 彼女は本作が初の演技ということだが、正直言って、日本のつまらないドラマに出ているタレントだかモデルだか分からない“自称俳優”より、何万倍も素晴らしい演技だったと思う。おまけに、彼女は謙虚だし。

 トナカイ遊牧の光景は、何とも言えない情緒があり美しい。ただ、エレの目を通して描かれた光景だけに、どうしても暗く、重苦しさがつきまとうけれど。

 エレには妹がいる設定で、この妹は、実際にレーネの実の妹とのこと。本作では、妹は生涯サーミ人の遊牧民として生きたことになっている。この妹が亡くなり、その葬式に、エレが息子につれられて参列するシーンに始まり、過去を回想し、エンディングで葬儀のシーンに戻るという構成。

 冒頭とラストで出てくる老いたエレは、正直、あまり幸せそうには見えない。けれども、息子たちにも恵まれ、彼女は彼女の信念を貫いた人生だったはず。何かを得るためには、何かを失うことは覚悟しなければならない、、、というと陳腐すぎるけれど、エレにとっては、それが陳腐などと言っていられない、切迫した人生の選択だったのだ。

 










サーミを捨てたエレの人生は、果たして幸せだったのか、、、。




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残像(2016年)

2017-06-21 | 【さ】




 1949年、ポーランドのウッチ造形大学の教授で前衛画家のヴワディスワフ・ストゥシェミンスキは、野外の授業で学生たちと談笑を交えながら、熱く自らの理論を説く。

「残像は、ものを見たときに目の中に残る色なのだ。人は認識したものしか見ていない」

 ある日、アパートで真っ白なキャンバスに向かって絵筆を走らせようとした瞬間、窓の外に真っ赤な垂れ幕が掛かったため、キャンバスは鈍い赤色に染まる。これでは絵を描けないと、ストゥシェミンスキは部屋の中から窓の外の垂れ幕を杖で切り裂く。それは、スターリンの肖像が描かれたプロパガンダの垂れ幕だった、、、。

 ここから、ストゥシェミンスキが死に至るまで、芸術弾圧との闘いの日々を描く。昨年急逝したワイダの遺作。

 、、、嗚呼、ポーランド。
 

   
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 また、ポーランド映画です。これは前から見たかったので、出不精の私が、わざわざ週末出かけて見に行きました。相変わらず、岩波ホールの観客は年齢層が高く、こういう映画は、若い人は興味ないのかな、、、と、ちょっと淋しくもあり。


◆ポーランド人のお名前が難しいの件。

 ストゥシェミンスキ、、、というお名前。何度聞いても、見ても、ゼンゼン覚えられない。ポーランド人の名前、ちょっと難しいです。

 “ヴワディスワフ”というファーストネームは、あの『戦場のピアニスト』の主役であるウワディスワフ・シュピルマンのそれと同じのようです(原語表記が同じ)。シュピルマンは、作中、親しい人たちに“ウワディク”と呼ばれていましたが、本作では、ストゥシェミンスキが教授=先生としての立場で描写されているシーンが多いので、親しく“ウワディク”と呼んでいる人はいなかったような気がします。見落としただけかも知れませんが。

 いずれにしても、ウワディスワフというファーストネームは、割とポピュラーなものなのだと思われます。

 シュピルマンは、すんなり頭に入ってくる響きだけれど、ストゥシェミンスキはどうも、、、。ようやく、今頃になって頭にも目にも馴染んできたかな、、、という感じです。


◆戦争が終わっても、ポーランドの苦悩は続く、、、。

 さて、『戦場のピアニスト』では、戦争が終わって地獄の様な日々にも終止符が打たれた、、、という余韻で終わったけれど、ストゥシェミンスキ氏が、ポーランド統一労働党(共産党)に目を付けられ、どんどん追い詰められていく様が淡々と描かれている本作を見ると、戦争が終わっても全然ポーランド国民は心安らぐ平穏な生活など、手に入れることが出来ていなかったのだと思い知らされました。

 もちろん、シュピルマンも、戦後、共産党に目を付けられていたことは後になって調べて分かったのだけれども、『戦場のピアニスト』ではそこまでは描かれていなかった。ポーランド軍とソ連軍の力関係、両国の地勢関係や政治体制からくる事実上のソ連支配の下、ストゥシェミンスキやシュピルマンなどの芸術家たちは、程度の差はあれ、皆、不本意な思いを抱かされていたということ、、、。

 作中、こんなセリフがあります。「芸術家を殺すには、無視するか、徹底的に批判するかだ」(セリフ正確ではありません)。

 ただ、ここでいう「無視する」は、ストゥシェミンスキの受けた仕打ちから見て、文字通りの「無視」ではなく、一般市民たちから無視される様に仕向ける=一般市民たちの目に入らない様にする、ということであって、そのためには、共産党は凄まじい労力を厭わないのだから、怖ろしい。

 ストゥシェミンスキを、大学から追い出すのなんて当たり前。表だった仕事はとことんその門戸を閉ざされる。背に腹は代えられず、と悟ったのか、こっそりと始めた共産党のプロパガンダ看板に絵を描くという、一見主義に反する様な仕事をしてわずかな食い扶持を稼ぎ始めたのも束の間、どこからかバレてクビになる。食料配給券ももらえないので、食べ物にもありつけず、芸術家協会から追い出されて会員証も取り上げられたために画材も売ってもらえない。徹底的に監視して、生命維持が不可能なほどまでに追い詰める、、、。

 まぁ~、とにかく陰険極まりないです。美術館からはストゥシェミンスキの作品は乱暴に残らず撤去され、学生たちとの展覧会会場であるギャラリーには党員たちが乱入して作品をメチャメチャに叩き壊す。自尊心を徹底的に破壊する方法を取るわけね。それでもストゥシェミンスキはめげないんだけど、やっぱり兵糧攻めは、いかな信念の人でも、物理的にヤラレてしまう。食べなきゃ、衰えるか病気になるかしかないものね、人間なんて。

 一方では、テキトーに共産党にすり寄りながら、生き延びる芸術家たちも当然いるわけで、そういう人たちの中には、ストゥシェミンスキみたいに、信念を貫く生き方をしている人を羨ましく思う人もいる。いるけど、じゃあ、自分もそうできるか、というと、できないし、そんなことしてまでポリシーを貫く意味を感じられない、ってことなのかも知れない。生きてなんぼ、と思うのもまた、決して間違いではないし、安全な場所にいる我々が責められる立場にないことも確か。

 私なら、もちろん、体制にテキトーに迎合していると見せつつ、腹の中では、早くこんな世の中終わっちまえ! と、どこかの前事務次官じゃないけど「面従腹背」を地で行くと思うなぁ。人間、死んだら終わり、というのは真理だと思うので。

 ただ、芸術家というのは、それが非常に難しい。フジタも戦時下で従軍画家だったことを、戦後かなり批判されたけれど、結局、そういう“変節”が許されない人たちだから、、、。生きる術であっても、変節と受け止められてしまう。虐げられても信念を曲げることが許されない、それこそ、白か黒かを強いられる。人間なんて、そもそもいい加減で、いくらでも都合良く変節する生き物だと思うんだけど、、、。


◆だめんずストゥシェミンスキ。

 思想面では信念を貫くストゥシェミンスキも、私生活の方はだめんずっぽい。

 ポーランドの著名な彫刻家だったカタジナ・コブロとは離婚。元妻コブロが非業の死を遂げても、葬式にも参列できない。一人娘のニカだけは参列するが、赤いコートしか持っておらず、他の参列者に「葬式に赤いコートなんて」と陰口を叩かれる。しかし、ニカは黙っていない。「これしかないの!!」と怒り、コートを脱ぐと裏返して、黒っぽい裏地の方を表にして着直す、、、。

 元妻の死で、ニカと2人暮らしを始めるが、学生の一人ハンナが足繁くストゥシェミンスキの家に通ってくるため、ニカは居場所がないと感じ、「学校の寮に入る!」と言ってストゥシェミンスキの家を飛び出す。なのに、ストゥシェミンスキは止めもしない。荷物を持って、寒空の下、泣きながら歩くニカが可哀想すぎる。

 芸術家と、良き家庭人、ってのはイメージ的にあまり結びつかない気はするけど、ストゥシェミンスキはまさにそう。こういう人は、結婚なんぞしない方がいいんじゃないですかねぇ。結婚生活なんて、赤の他人同士が細々としたことに妥協し合いながら一緒にどうにか暮らしていくことなんだから、自己主張が強くないとやっていけいない芸術家は、なかなかハードルが高いんじゃないかしらん。

 一応ストゥシェミンスキの弁護をすると、ストゥシェミンスキは、ハンナのことを憎からず思っていたではあろうけど、恋愛感情はほとんど抱いてなかったと思うなぁ。そういう描写だったと思う。でも、ニカは(当然のことながら)ストゥシェミンスキに反抗的になり、メーデーのパレードに参加する。ニカが赤い旗をふりかざして行進する姿を窓から見て、ストゥシェミンスキがそっと窓を閉めるシーンは、胸が痛む。

 ……でも、彼にとって大事なのは、彼の信じる前衛美術であって、その他のことは二の次三の次。娘のことを気にはかけても、家族のポジションは彼にとってあまり高くなかったってことです。

 芸術家としても、夫としても、父親としても、高潔な人間、、、なんてつまらないので、だめんずなストゥシェミンスキを美化せず描いているところは好感が持てる。ちなみに、ストゥシェミンスキが亡くなった後、ニカが父親が亡くなったときに横たわっていた空っぽのベッドをじっと見つめているシーンがあります。このとき、ニカの心を去来したものは何だったのか、、、。表情からは、読み取れません。哀しそうでもあり、厳しい視線でもあり、、、。


◆ワルシャワ行きまで1か月もない、、、。

 私は、ワイダのファンでも信奉者でもないので、遺作となった本作にもそれほどの感慨は持たなかった。本作は、鑑賞したというより、勉強になった、という感じ。他の映画を見る感覚とは微妙に違う。

 でも、本作を見て、未見の作品をもっと積極的に見ていきたいなぁ、とは思いました。
 
 それは、ワイダの作品に興味があると言うよりは、ポーランドという国に興味があるから。いまだに無知に等しいけれども、映画を見たり本を読んだりしながら、少しずつその歴史に触れると、やはり、もっと詳しく知りたいと思うことばかり。見れば見るほど、分からないことが増えるわけで、、、。

 ワルシャワ行きまでには、知識を身につけるのは到底間に合わないけど。残り時間、1本でも多くポーランド映画を見るぞ~!





 


ストゥシェミンスキが片手・片脚を失ったのは、第一次大戦出征のため。




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霜花店-運命、その愛(2008年)

2017-05-03 | 【さ】



 高麗王朝末期。男しか愛せない王様の超身勝手な振る舞いに、宮廷が大悲惨に見舞われる、エログロ歴史絵巻。

 当の韓国では、18禁ながら400万人を動員し、大ヒットしたんだとか。

  
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 今、「本当は怖ろしい韓国の歴史」(豊田隆雄著、彩図社)という本を読んでいるのだけど、これが結構分かりやすい。大まかなところは押さえられているので、これだけでも、だいぶ韓国の時代劇を見るには役に立つと思います。というか、これを読んでいたので、また韓国時代劇を見てみる気になったんですが、、、。やはり、どうせなら話題作を見てみようと、本作をレンタルしました。


◆自己チュー過ぎる王様

 相変わらずのエログロワールドでしたけれど、ネットで評判をチラ見していたので、それほど驚きはありませんでした。序盤の、恭愍王(チュ・ジンモ)と、近衛隊である乾龍衛の隊長ホンニム(チョ・インソン)のベッドシーンは、気合い入りまくりで固まってしまいました。ううむ、、、やはり、同性愛の描写は苦手だわ。

 かといって、ホンニムと王妃(ソン・ジヒョ)の濡れ場も、頑張ってるなーー、とは思うものの、別にゾワゾワするような官能は感じない。ちょっとスポーツに近い感じ。もう少し色っぽい絡みに出来なかったのかしらん。

 本作は、そのエロ・シーンで話題先行気味の様ですが、確かに、シーンの時間は長いけど、それほど大騒ぎする様なもんじゃないのでは。

 それよりも、私は、見ていて王様があまりにも勝手過ぎで、ムカつきました。そもそも、自分が女とセックスできないから、世継ぎをもうけるためというタテマエ上、愛人のホンニムを王妃と交わらせた訳で、三角関係の原因を作ったのはご自分でしょ? 子種を撒けないからって、トラブルの種を撒いちゃったわけで。

 それなのに、ホンニムと王妃が愛し合ったら激怒して、ホンニムを去勢しちゃうなんて、どこまで王様ってのは自己チューなんでしょう。

 しかも、王妃が妊娠していると分かったら、ホンニムと王妃の関係を知っている宮中の者たちを皆殺しにするんだからね。知りたくないのに知ってしまった家臣とかも、問答無用で斬殺。ひぇ~~~。もはや、自己チューどころの話じゃありません。気が狂っています。

 まあ、、、でも、歴史上、こういった、理不尽な血みどろってのは枚挙に遑がなかったわけで、本作での話も、そのワンオブゼムに過ぎないのですよねぇ。ったく、こんな時代に生まれていなくて良かった、、、。


◆歴史と国民性

 で、本作では、グロシーンも結構あったんですが、中でもインパクトが大きかったのは、王様が、乾龍衛を使って、家臣たちを皆殺しにするシーンです。

 ちょっと調べたら、経緯は微妙に違いますが、実際に恭愍王は、反対派を粛清した史実があるようで、これがモデルになっているのかも、と思いました。何しろ、韓国史などゼンゼン知らないに近いので、付け焼き刃情報ですが、本作のシーンほど凄惨を極めたのかどうかは分からないけれども、かなりグロテスクな史実はあったようです。

 本作でも描かれていましたが、親元派の奇轍(キ・チョル)は相当のクセモノだったらしく、また、恭愍王は、宗主国である元に対してはアンチの立場で、キ・チョルらの横暴ぶりが許せなかったんでしょうねぇ。映画では、でっかいモーニングスターみたいな武器で、容赦なく反王派の家臣たちを殴り殺していまして、そらもう、、、恐ろしいのなんの。みんな一撃で死んでいました。

 恭愍王が実際、同性愛者だったのかどうかは分からないけど、乾龍衛のモデルはあったとか。そして、その美少年たちが王様の夜伽をすることもあったと聞けば、なるほど、そういうネタがあったからこそ、この話になったのねぇ~、と納得です。

 いずれにせよ、小国の身で、地続きで強大な国が隣にあるというのは、本当にそれだけで苦難を強いられるのですね。前述の「本当は怖ろしい韓国の歴史」を読んでいると、属国としての存在を強いられてきたがゆえの、朝鮮の国民性というのは、なんとなく納得するものがあります。あそこまで虐げられ、屈辱的な歴史があると、直視したくなくなるのも分かる気がするし。だからこそ、日本に「歴史を直視せよ」なんて言うのでしょうね(そう言っているのは中国もだけど)。本当に自身が直視したら、そんなことは軽々しく言えないと分かるのだから、、、。

 “恨”の民族と言われるのも、これだけの歴史的背景があれば、むべなるかな、という感じです。

 日本は、何だかんだ言っても、回りを海に囲まれていたことが、中国やロシアの侵略を許さなかった最大の要因だと思いますね。そういう意味では、ただただラッキーでした。地勢は、本当に大事です。


◆その他モロモロ

 見ている間中、チュ・ジンモがキムタクに見えて仕方なかったんですけど、この2人、似ているって言われているのでしょうか? 激似じゃありません? この2人を使って、日本と韓国で生き別れた双子のハナシ、とか出来そう(ゼンゼン面白くなさそうだけど)。

 ホンニムを演じたチョ・インソン、体当たり演技で凄かったです。顔もなかなか涼やかなイケメンでgoo。アングルによっては醜男にも見えるという、不思議な役者さんです。立ち回りもシャープでカッコ良く、王様に目をつけられるのも納得。

 王妃は、初めてホンニムと同衾するシーンで見せる涙が印象的。一度、女性としての悦びを知ってからの変貌ぶりも微妙ながらしっかり伝わり、素晴らしい。

 いずれにしても、主要3役を演じた俳優さんに匹敵する、日本の俳優はなかなか見当たらない。少なくとも、ストーリー上必然性のある濡れ場を、ここまで大胆かつきちんと演じる俳優はいないでしょう。俳優は、脱ぐのも仕事なのです。それが嫌なら、せめて濡れ場のある作品に出るなと言いたい。もっと言っちゃうと、清純派とか言われて喜んでいる、あるいは、それを売りにしている女優なんか、やめちまえ、と思いますけどね。







退屈しません。




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サラエヴォの銃声(2016年)

2017-04-17 | 【さ】



 オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナンド大公と妻のゾフィーが、セルビア人青年プリンツィプによって暗殺された“サラエボ事件”から、ちょうど100年の、2014年6月28日の、サラエヴォにあるホテルヨーロッパ。サラエボ事件100周年の記念式典が、このホテルヨーロッパで開かれようとしていた。

 ホテルの従業員たちは式典準備に大忙しだが、もう2か月も給料不払いが続いている。ホテル支配人は、フランス人VIPをスイートルームにホテルの自慢話を垂れ流しながら案内するが、光熱費や水道代も滞納し、従業員たちからはストライキを起こされそうになっており、なんとかして、式典当日の今日を乗り切りたいと思っていた。

 ホテルの屋上では、サラエボ事件について、テレビ局の企画番組が撮影されていた。女性インタビュアーがインタビューする相手は、あの暗殺犯、プリンツィプの子孫に当たる男性だった。

 果たして、今日、6月28日は無事に過ぎるのか、、、。


 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 『汚れたミルク/あるセールスマンの告発』を見た後、どうしようかなぁ、、、と思っていたんだけど、新聞の評に、『汚れたミルク~』より面白い、というようなことが書かれていたので、パンフも2作で1部に編集されていることだし、まあ、見に行ってみるか、、、と思って、見た次第。


◆サラエボ事件100周年。……だから何?
 
 このサラエボ事件について、初めて知ったのは、私の場合、今や絶版となった幻の少女漫画「キャンディ♥キャンディ」でなのです。この事件の号外が街角で売られ、それを見たキャンディが青くなる、、、というシーンがあります。小学3年生くらいだった私には、イマイチよく分かりませんでしたが、何やら大変な出来事で、しかもこれは史実らしい、ということくらいは分かりました。作中で、実際、その後第一次世界大戦が描かれていくからです。

 本作では、そのサラエボ事件を起点に、100年後の記念日に、ホテルヨーロッパの中で起きているイロイロな出来事を並行して描いているわけですが、、、。

 試みは分かるし、描きたいことも分かる気がする。、、、けれども、イマイチ、パワー不足感が否めず、正直なところ、あんまし面白いと思えなかったです。

 ホテルヨーロッパが、サラエヴォでも随一の高級ホテルという設定だとは思うんだけど、何しろ、全景の俯瞰映像が一度も出てこない(と思う)ので、どんくらいゴージャスなのか、どんくらい高級なのか、どんくらい品があるのか、分からない。やはり、ここは観客を威圧する様な全景の俯瞰映像を、バーンと出してほしかった。いくら、内部が高級ホテルっぽくても、説得力がゼンゼン違う。

 それでいて、実は、従業員たちはストライキを計画していて、経営も火の車、というそのギャップ。そこで生まれる人間ドラマが、歴史の一大事件なんかをよそに繰り広げられていく、、、という意図は分かるんですけどね、、、。

 従業員同士の間でもドラマがあって、親子や男女の問題が描かれています。サラエボ事件どころじゃねーんだよ、こちとら! ってなところでしょうか。

 テレビ隊の方でも、インタビュアーの女性と、プリンツィプの子孫の男性との間には、ロマンスらしきモノが芽生えている様子。インタビューでは、プリンツィプがテロリストが英雄かで、激しく対立していた男女なのに、、、。こちらも、サラエボ事件が何だってんだよ、て感じかしらん。

 どの小さなドラマも、あまり幸せな結末は待っておりません。非常にやるせないドラマが描かれています。


◆果たして本作は寓話か?

 『汚れたミルク~』は直球勝負でしたけど、本作は、かなり変化球というか、制作者の視点は非常に俯瞰的です。小さなドラマが並行して描かれてはいるけれど、ストーリーは特にないし。

 藤原帰一氏は、本作を“グランド・ホテル形式”の映画であるとして、こう書いています。

「この映画の場合、ホテルに集まるお金持ちばかりでなくホテルで働く人々の姿も捉えており、お客さまに向けられる外向けの顔と、なかで働く人にしか見えない内部の姿との間に開いた極端な落差も主題の一つになっています。その点に注目すると、外向けの顔しか出てこない「グランド・ホテル」よりも、ロバート・アルトマンが監督した群衆劇、特に「ナッシュビル」や「ゴスフォード・パーク」に似ているといっていいでしょう」

 ううむ。藤原氏はルックスもキレイなおじさんだし、新聞のコラムも面白いので、嫌いじゃないけれど、これはちょっと、、、。『ゴスフォード・パーク』を引き合いに出すのは、違うんじゃないか?

 『ゴスフォード・パーク』は、一見複雑な群像劇でありながら、実は、ああ見えて、きちんと骨格となるサスペンスのメインストーリーがあるわけで。しかも、作品として、本作とは比べようもないくらい毒性が強い。一度見ると中毒症状になるほど濃密な毒が仕込まれている秀作です。

 本作が、『ゴスフォード・パーク』的なものを目指して撮られたとは、ちょっと思えないのですよね。もっと、達観したというか、引いて見ている感じがします。

 歴史上の大事件を背景に、市井の人々の営みを淡々と描くことで、歴史とは、人々の営みの積み重ねによるものだということを描きたかったんじゃないのかな、と。その人にとっては、歴史の大事件よりも遙かに大事件な出来事。でも、歴史から見れば取るに足りない出来事。でもでも、それらの取るに足りない出来事が星の数ほど集まって堆積していくと、揺るぎない歴史になっていく、、、みたいな、大河的思想が根底にあるんじゃないか、と感じます。

 なので、アルトマンと、本作の監督ダニス・タノヴィッチがフォーカスしたかったものはゼンゼン違うと思うのよ。

 藤原氏の前掲の文章には、以下の文章が続きます。

「(中略)「ゴスフォード・パーク」はイギリスの貴族社会を裏から捉える試みでした。それで言えば、この「サラエヴォの銃声」はホテル・ヨーロッパのなかにサラエボ、ボスニア、さらにヨーロッパ全体という三つの空間を押し込めた寓話として見ることができると思います」

 ……なるほどね、そういう見方もあるのね。でも、私は同意できないな。ま、藤原氏の見方が正しいのかも知れないけど。これ、寓話、、、か???

 しかし、暗殺犯が、テロリストか英雄か、って、、、。どこでもやっているのね、何十年経っても。

 

 





隣席の女性は、最初から最後まで爆睡されていました。




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サード・パーソン(2013年)

2017-03-01 | 【さ】



 デビュー作こそピューリッツァー賞なぞ獲って話題になったが、その後停滞しているらしい小説家のマイケル(リーアム・ニーソン)は、パリのオサレなホテルで次作を執筆中の様子。

 そこへ、愛人と思しき美しく若い女性アンナ(オリヴィア・ワイルド)が訪ねて来るのだが、、、。

 錯綜するお話が、実は…………だった、、、と見る者たちの脳を刺激する、オスカー脚本家ポール・ハギスによる脚本&監督作品。

 
 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 ブロディの出演作をちまちま見ているので、今回はこの作品。手当たり次第にテキトーに選んで見ているので、今回、本作を見た理由は特にありません。なので、ポール・ハギス脚本と知りませんでした。知っていたら見なかったかも、、、。

 ハギスさんのファンの方は、以下の駄文はお読みいただかない方が良いです。きっと、腹が立つだけですので。


◆「ストーリーの構成はお手のもの」なんだって。

 本作の解釈については、もう、あちこちでイロイロと書かれているので、大方はそちらにお任せして、率直な感想を。

 本作をお好きな方には申し訳ないのですが、私は、こういう脚本の映画は、嫌いです。それも、ただの嫌いじゃなくて、大っ嫌いです。

 引き合いに出すとハギスさんに怒られるかもですが、邦画でいうと、『アフタースクール』とか『キサラギ』とかと同系列だと思うんですよねぇ。とにかくトリッキーさにこだわる。イロイロ伏線張ったり、謎を仕込んだりして、見ている者の興味を引きつける。でも、中身はスカスカ、、、みたいな。「よく出来たお話ですね。……で?」という言葉が脳裏に浮かぶ。

 本作も、まあ、それと同じな訳です、私にとって。しかも、本作のタチの悪いのは、ローマとNYの物語については、マイケルの小説のオハナシであろうと思われるオチだってこと。まあ、その2つの物語が、マイケルの過去の投影だ、、、と言われれば、夢オチと一緒にするのは乱暴かも知れませんけど、でもまあ、大差ないかなと思っちゃいますね、私は。

 私が、ローマとNYの物語がマイケルの小説内物語であると気付いたのは、ホントに終盤。ブロディ演じるスコットとモニカ(モラン・アティアス)の乗った車がサーッと消えた辺りで、「は、、、? それはもしかして、、、あれですか??」みたいな感じで、もともと苦手なハギス作品かぁ、、、と思って見ていたところにトドメを刺されました。そして、ラストシーンで、やっぱりそうらしいと確信し、げぇ~~~っ、ひど過ぎ!! と思ったワケです。

 こういう、話の構成に異様に凝った作品は、私は“本末転倒映画”と勝手に呼んでいます。映画は究極的には娯楽だと思うので、何であれ楽しめれば良い、というのもアリだとは思います。が、私が映画に求めるものは、やっぱり、見た後にその作品の“人物の物語”に心揺さぶられることなんですよ。なので、本作のようにトリッキーなのは邪道にしか思えないのよねぇ。

 映画にしろ、小説にしろ、人物描写ありきであって、ストーリーは従だと思うわけ。でも、ストーリーありきで、人物描写が従になると、なんかこう、、、もの凄く虚しい気持ちになるのです。

 もっと言っちゃうと、見る者に、トリッキーさを感じさせる時点で、脚本としてはダメだと思うんです。見終わってから、ああ、アレとかアレとかアレは、コレの伏線だったんだ~~、と感服させられたいのです。でも、本作みたいな映画は、ハナから見ている者を惑わせようとする下心が見え見えで浅ましくさえ思えてしまう。同じストーリーでも、もっと正攻法で描いたって感動作にすることはできるはず、本当に優れた脚本家であれば。こういう小手先で見る者をたぶらかす人ってのは、正直言って、似非だと思いますね。

 だから、本作だって、ローマとNYの物語は、マイケルの小説の話だと最初から見ている者に明かせばよいのです。きちんと見ている者に分からせたうえで、ストーリーを展開させる、それが見る人本位の創作じゃないでしょうか。

 イヤなら見るな。はい、そうですね、見ませんよ、原則的には。でも、私みたいに、出演者が見たくて、内容もよく知らずに見ちゃう人だってたくさんいるわけ。そして、見る人がみんな、脳をフル回転させて見たいわけじゃないのね。

 制作者ってのは、独り善がりになったらダメでしょ。ハギスさんが独り善がりだとは、まあ、今んとこは思いません。でもね。DVDの特典映像見たら、彼はこう言っていました。「(私は)ストーリーの構成はお手のモノだから」……さようですか。そりゃよござんしたねぇ。でも、それって、あなた、策士策に溺れていらっしゃるんじゃありませんか? そのままだと、まさしく“独り善がり”なオナニー映画作ることになっちゃうよ。

 彼は「理解不能な作品が好きだ」そうです。特典映像でおっしゃっています。まあ、大体、クリエイターが自作について饒舌すぎるのは私は好きじゃないので、この特典映像も、本作のイメージダウンにかなりつながっているかもですが。作品“だけ”で勝負しろよ、と言いたい。あんまりベラベラ喋るのは、言い訳にしか聞こえません。

 ……というわけで、世間では、本作についての感想の多くはその解釈についての見解が述べられているんだけれど、文句ばっかしになってしまい相すみません。

 文句ついでに、もう一つ言うと、アンナと父親の近親相姦のエピソード、もの凄く嫌悪感を抱きました。いらんでしょ、このハナシ。全く必然性のない設定、見ている者に「えぇ~~っ!」て言わせたいがためだけのハナシ。こういうエピを、ウケ狙いで「構成はお手のもの」とか言いながら入れちゃうところに、ものすごくクリエイターとしての志の低さを感じるのよ。すんません、偉そうなことばかり書いて。

 
◆その他もろもろ

 ブロディは、なんか日焼けした顔になっていて、彼、茶色い顔はイマイチですね。なんか、似合わないです、日焼けした顔。

 まあでも、彼が画面に現れると、やっぱり画がしまるというか、映画らしくなる(気がする)よなぁ、、、。映画俳優って、こういう人のことを言うんじゃないかしらん。

 そういう意味では、リーアム・ニーソンって、私にはあまりピンと来ません。彼の役者としての魅力も、そもそも演技が良いのか良くないのかも、イマイチ分からないです、、、。出演作はそんなにたくさん見ていないけど、彼も割と、何を演じてもリーアム・ニーソン、な役者な気がする。もっといろいろ作品を見れば、また見方が変わるのでしょうか。

 キム・ベイシンガー、すごい久しぶりに見ました。ステキに歳とってますよね。

 オリヴィア・ワイルド、キレイだけど、ううむ、キーラ・ナイトレイとちょっと被る気がしたんですけど、そんなの私だけですかね、やっぱし。彼女の出演作は、多分、これが初めてだと思うのですが、他でどんな役をどんな風に演じているのか、ちょっと興味がわきました。
 








“watch me!!”がウザい。




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