映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

ドント・ウォーリー・ダーリン(2022年)

2022-12-29 | 【と】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv78500/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。
 
 完璧な生活が保証された街で、アリス(フローレンス・ピュー)は愛する夫ジャック(ハリー・スタイルズ)と平穏な日々を送っていた。

 そんなある日、隣人が赤い服の男達に連れ去られるのを目撃する。

 それ以降、彼女の周りで頻繁に不気味な出来事が起きるようになる。次第に精神が乱れ、周囲からもおかしくなったと心配されるアリスだったが、あることをきっかけにこの街に疑問を持ち始めるー。

=====ここまで。

 オリヴィア・ワイルドの長編監督作第2弾。

 
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 公開直後から見に行きたかったのだけど、なかなかタイミングが合わず、このまま終映か、、、と思っていたら、ぽっかり時間ができて、ようやく見に行くことができました~。

~~以下ネタバレしております。今後、鑑賞予定の方は、予備知識ナシにご覧になることをオススメします。~~


◆フェミVSマッチョの殺し合い。

 あらすじはチラッと読んでいたけど、予告動画も見なかったし、ほぼ予備知識ゼロで見たのは正解だった。これ、予告動画を見てしまったら、おおよそ内容が想像つくし、実際に見て、その想像を(多分)超えないだろう。これは、予告編としてはダメでしょう。

 それはともかく。

 見終わった直後は、そこそこ面白かったと思ったのだけど、時間が経つにつれて、イマイチ感が増幅してきてしまった。

~~~以下、結末に触れています。~~

 完璧な街ヴィクトリー(この名前からしてアレなんだが)は、仮想空間だったのだけど(それは良いのだが)、完璧な街とかバーチャルとかは割とよくある設定だし、男尊女卑を徹底的に批判するものとしてこの設定を使っているのは既視感も強く、あまり感心しなかった。

 いや、マッチョに鉄槌を下してやりたい気持ちは痛いほど分かるので、フランクみたいにミソジニー丸出しの男たちの妄想をヴィクトリーという街に見立てて、徹底的に虚仮にすること自体は理解できる。できるし、面白いは面白いんだけどねぇ、、、何かねぇ、、、という消化不良な感じ。

 世間じゃ、本作は“フェミ映画”なんて言われているらしいが、確かにフェミ映画だけど、私はこういう描き方はあまり好きじゃない。

 マチズモをこき下ろすのは、まあそれがフェミの常套だからね。そのこき下ろし方が、どうしようもなく暴力的なんだよね。シニカルな笑いに落とし込んでいるのならば良いのだけど、日頃マチズモの暴力性に異議を唱えておきながら、それはどうなんだろう、、、と。力には力で!というのでは、マッチョとやっていることは同じだろう。

 要は、フランクに逆らう女は殺すとか、アリスがバーチャルから抜け出すためにジャックを殺すとか、フェミVSマッチョの行き着く先は凄惨な殺し合い……という展開が、本作の最大の難点だと思い至った次第。


◆カオスは敵!!

 ヴィクトリーの首謀者フランクが「進歩の敵は何だね?」と問い掛けると、ヴィクトリーの住民は「混沌(カオス)」と答える。整然と統一されていることが良しとされるのだが、これはつまり、独裁のメタファーだということは容易に想像がつく。

 その象徴として、円形に同じ外見の住宅が整然と並ぶヴィクトリーの街を上空から捉える映像や、大勢のダンサーによる万華鏡のようなダンス映像が差し挟まれるのだが、これがちょっとやり過ぎというか、意図がミエミエで安易ささえ感じる。ただ、アリスたちのバレエは、整然と!と言われている割に、あまりそうでもなくバラバラな感じだったけど。

 とにかく、ヴィクトリーの女たちは、ミソジニーの男たちに徹底的に消費されているのであり、こういう世界をユートピアと感じる男性は、一定数いるんだろうなあ、とも思う。女でも、ミソジニーはいるからね。

 余談だけど、昨今の少子化解消策として「女が家事育児に専念すればよい」と唱えている人は男女問わずいて、彼らは、そういう性的役割分業制にした方が、社会が効率的に回って良い、と信じているのだよねぇ。

 フランクが言う「カオスは敵!」ってのは、やっぱり「性的役割分業制の方が効率的」という考えと地続きなんだよなぁ。独裁は、ある意味、単純で分かりやすいからねぇ。でも、独裁は停滞でしかなく、発展は望めない。分かりやすさを求める大衆、、、というけど、そういう大衆を育てたいのだよね、権力者は。その縮図がフランクであり、ヴィクトリーということだ。逆らうヤツは殺すと。

 日本よりいくらかマシなアメリカでもこんな映画が撮られるんだから、日本がジェンダーギャップを解消する日は遠いわね、、、ごーん。 


◆その他もろもろ

 アリス(って、鏡の国のアリスからだよね、多分)を演じたフローレンス・ピューは、『ミッドサマー』に続き、受難のヒロイン。『ミッドサマー』ではあまり感じなかったが、本作では、すごくカワイイなぁ、と思った。こういうカワイイ系の女性が、マッチョと闘う!ってのは、(ありがちだと貶しておいて矛盾するけど)この種の映画では新しいヒロイン像かもね。

 夫のジャックを演じたハリー・スタイルズは、窪田正孝に見えて仕方なかった。中盤で、ダンスシーンがあるのだが、どうにも不安定な感じのダンスで(そういう演出なんだろうが)、しかも結構長くて、見ていてイラっとなるシーンであった。私は、この人のことゼンゼン知らないのだが、どうやらミュージシャンらしいけど、演技はハッキリ言ってイマイチ、、、というか、面白くないんだよね。演じようによっては、かなり面白いキャラだと思うのだが。

 ヴィクトリーの街並は美しくて、アリスたちの家のインテリアが素敵だった。衣装もとっかえひっかえで目に楽しい。

 街の立ち入り禁止区域ってのがあって、そこに「本部」と呼ばれる無機質な建物があるんだけど、実際のその建物は、元原発施設だった、、、と聞いてちょっと納得してしまった。ラストシーンは、アリスがそこへ乗り込んで行って、、、で終わるのだが、当然ながら、スッキリ感はない。
 
 ここのところ、“フェミ映画”が多い気がするのだが、それは歓迎すべきことなんだが、どうも暴力性が気になるなぁ。フェミは、“マッチョは殺さないとなくならない!”と思っている証左かも知れない。気持ちは分かるが、でもそれは、やっぱり近視眼に過ぎるだろう。教育ですよ、教育。ま、今の日本じゃダメだけど。

 

 

 

 

 

 

ラップで頭をグルグル巻き、、、見ているだけで苦しかった。

 

 

 

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ミセス・ハリス、パリへ行く(2022年)

2022-12-24 | 【み】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv78089/


以下、Yahoo!映画よりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 1950年代のイギリス・ロンドン。戦争で夫を失い家政婦として働くミセス・ハリス(レスリー・マンヴィル)は、ある日勤め先でクリスチャン・ディオールのドレスに出会う。その美しさに心を奪われた彼女は、ディオールのドレスを買うことを決意する。

 必死にお金をためてフランス・パリへ向かい、ディオール本店を訪れるも支配人のマダム・コルベール(イザベル・ユペール)に冷たくあしらわれるハリスだったが、夢を諦めない彼女の姿は出会った人々の心を動かしていく。

=====ここまで。

 
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 コロナは第8波だそうで、、、。いつまで続くのか知りませんが、先月末に30人弱の職場で一気に9人も感染者が発生し、こりゃ自分も時間の問題だな、、、と思っていたら、案の定、12月6日に感染判明と相成りました。

 納得いかん、、、あれだけ気を付けていたのに。というか、もうほぼ100%職場でクラスターだったとしか思えないけど、まあ、感染するときはしちゃうんですね。でも、正直なところ、いまだに感染した実感はないんです、、、。

 というのも、最初から最後までほぼ無症状だったのです。症状といえば、感染判明前日から鼻タレだった(でも鼻炎持ちなので年中鼻タレ)くらい。ただ、職場がそんな状況だったのでちょっと心配になり、言われてみれば倦怠感があるような気がしたので、今まで2回しか行ったことのない近所の内科に電話して状況を話したら「ちょうど今部屋(レントゲン室をコロナ診察専用部屋にしてあった)が空いているから、来てください」と言われ、診察してもらったのだけど異常はなく「鼻炎だからね、あなた。でもせっかくだからPCR検査しておこう。抗原検査じゃ分からんから」と先生がおっしゃる。

 世間じゃ、熱が出てもPCR検査に辿り着けずに困っている人が多いというのに、熱もなければ咳もない(喉も痛くない)し頭痛もない状況で、いきなりのPCR検査。ハッキリ言って、検査を受ける時点で覚悟しました。先生も「その状況なら怪しい」と言うし。

 そんなわけで、1週間、外出禁止となったのだけど、体調はゼンゼン普通。検査受けていなければ、間違いなく普通に出勤していたことでしょう。で、知らずにウイルスを撒き散らしていたのでしょう。……怖ろしい。感染自体は、まあまあショックだったけど、知らずに出歩かなくて良かったとホッともしました。

 結局、処方してもらった薬もほとんど飲むことなく、でも医者に「安静にしていろ」と言われたのだからと、連日、平日の真昼間から何時間も罪悪感なく惰眠を貪りました。こんなに寝たのは、もしかすると20代の頃以来か、、、というくらいに、寝倒しました。睡眠貯金ができないのが惜しいくらい。いつ発熱するかと、朝昼晩と熱を測っていたけど、結局36度4分を上回ることなく外出禁止期間が終わりました、、、ごーん。

 まあ、知らずにウイルス媒介者にならずに済んで良かったと思いますが、ワクチン接種後の副反応の方がよっぽどしんどかったのは何だったんだ??と思ったり。後遺症も、今のところ、何もない、、、。ワクチンのおかげで何事もなかったのかも知れませんけど。でも、ワクチンの影響なんて、まだ誰も分からないしね、、、。しかも、再感染の可能性もあるらしいし、インフルも流行って来たそうだし、W杯後のカタールでは新しいMARSウイルスが蔓延し出したとかいう話も聞くし、、、もう何が何だか。

 外出禁止期間中に、舞台のチケットを取っていたので、行けなくなって哀しかったです。チケットは社長(私より若い女性)に譲りました(喜んでもらえたので良かったけど)。あー、でも見たかったのに、悔ぢぃ、、、。

 ……というわけで、前振りが長くなりすぎましたが、ようやく映画の感想です。


◆戦争の影が残る時代、、、

 時代設定から、まだ戦争の後遺症があちこちに見られるものの、こういう安心して見ていられる映画も良いものだな~、としみじみ思える逸品だった。

 ミセス・ハリスがディオールのドレスに一目で心奪われるシーンが、すごくチャーミングで。ドレスがまたすごく素敵。そりゃ、ハリスさんがああなるのも分かるわ~、、、と。

 でも、ハリスさんが普段着ている仕事服もなかなか可愛いのですよ。多分、リバティだと思うけど、可愛い花柄のワンピに、また別の花柄のエプロン(?)が実にマッチしていて、ハリスさん、センスええやん!!と思いました。あのエプロンみたいの、欲しいわ~。あと、髪をまとめていたターバンみたいのもすごく似合っていて、可愛らしかった。

 ドレスに一目ぼれ → ディオールのメゾンへ乗り込み! っていう思考回路はメチャクチャ飛躍があるけど、そのバイタリティが見ていて微笑ましい。

 本作は、終わってみれば可愛いおば様の夢がかなうおとぎ話だけれど、シナリオ的にはちゃんと山あり谷ありが織り込まれて作られており、一直線に夢がかなうわけじゃないところも好印象。

 悪い人は出て来ない、、、けど、それはまあ、ハリスさんがああいう人だから、そういう人たちを呼び込まないというのもあるのだろうな、、、という気がする。

 ランベール・ウィルソン演ずるシャサーニュ侯爵も、根っからのお育ちの良い紳士で、ミセス・ハリスに「あなたが誰かに似ていると思っていたけど、分かりました。私が子どもの頃通っていたイギリスの学校の寮でお掃除していたモップおばさんです」(セリフ正確じゃありません)とか無邪気に言っちゃうところか、あちゃ~~~、、って感じだった。悪い人じゃないけど、育ちの良い苦労知らずも、あそこまで行くとちょっとね、、、。

 メゾンの人たちがどうしてあそこまでハリスさんに協力的なのか、、、と??となるけど、彼女が現金払いだからという理由も一応用意されていた。

 高級メゾンと言えども、そこで働くお針子さんたちは、ハリスさんと同じ「労働者」なのだよね。だから、ハリスさんに共感した、、、というのも、話として上手いな~と。

 原作はポール・ギャリコの小説だとか。Amazonで見たら、ハリスおばさんシリーズがあるみたい、、、。読んでみようかな。


◆ユペールさま~!

 ミセス・ハリスを演じたレスリー・マンヴィルも可愛らしくて素敵だったのだけど、私が一番ツボったのは、何といっても、一人だけイケずだったマダム・コルベールを演じたイザベル・ユペール。

 もう、登場したシーンから吹き出しそうになってしまった。ホントに、彼女は上手いなぁ、、と感動。シレっと、淡々とした役もハマるけど、こういう、ちょっと意地悪だけど、話の分かる面白い人も実にハマる。というか、上手い。

 イギリスとフランスの大女優が共演という、実に贅沢なキャスティングですね、、、。おまけに、ランベール・ウィルソン。やはり彼はカッコイイ。確かに年取ったけど、年取ってあのカッコ良さは、、、少なくとも日本の俳優じゃ思い浮かばない。

 メゾンの会計アンドレを演じていたリュカ・ブラボーくんは、ちょっと、ヒュー・グラントに似ているなぁと思いながら見ていました。フランス人ぽくないというか。アンドレと恋仲になるメゾンのモデル・ナターシャを演じたアルバ・バチスタが可愛かった。

 あとは、何といってもディオールが全面協力したという、衣装の数々の素敵なこと、、、。あのドレスの数々を見るだけでも楽しい。パンフを買ったら、そのドレスの一つ一つが解説されていて、見入ってしまった。ミセス・ハリスが気に入った、2つのドレスは、本作のために特別に作られたものだとか。

 でも、やはりハリスさんにパリ行きを決断させたあの美しいドレスが、私は一番素敵だと思ったなぁ。ディオールのビンテージドレスだそう。実物を見てみたいなぁ。……と思っていたら、何と! 「クリスチャン・ディオール、夢のクチュリエ」展が東京都美術館で開催されるとのこと!! これは行かねば!!!

 

 

 

 

 

 

 


ミセス・ハリスの半地下の自宅もステキだった、、、。

 

 

 

 

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わたしのお母さん(2022年)

2022-12-09 | 【わ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv77947/


以下、公式HPページよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。
 
 三人姉弟の長女で、今は夫と暮らす夕子(井上真央)は、急な事情で母の寛子(石田えり)と一時的に同居することになる。

 明るくて社交的な寛子だったが、夕子はそんな母のことがずっと苦手だった。不安を抱えたまま同居生活がスタートするが、昔と変わらない母の言動に、もやもやした気持ちを抑えきれない夕子。

 そんなある日、ふたりの関係を揺るがす出来事が――。

=====ここまで。

 
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 Twitterで大分前からときどき情報が流れて来ていて、家族の確執モノはつい見てしまうタチでもあり、ソフト化されるか微妙な感じもしたので、一応劇場まで行ってまいりました。

~~以下ネタバレしています~~


◆シナリオが、、、

 極端にセリフが少なく、長回しが多い作品で、映像で物語を描こうとしているのが伝わってくる。思いがすれ違う母と娘の抒情的な映画を撮りたかったのは分かるが、母親とのドロ沼確執経験者としては、どうもモヤモヤ感が残る作品だった。

 よく描けていると感じたシーンもある。例えば、夕子の夫が、母親と合わない夕子に対して「大切にしないとさ、親なんだから」とサラッと言ってしまうのとか。夕子が畳んだ洗濯物を、寛子が何気なく畳み直すのとか。

 あと、夕子が寛子にあれこれ言われてもろくに言い返せ(さ)ないシーンが多いのだけど、正直、見ていてイライラするのだが、一方で言い返せない(あるいは言い返したくない)気持ちも、もの凄く分かる。娘の心情としては、よく描けていると感じた次第。

 けれど、全般に言って、本作はかなり“観念的”なオハナシになっちゃっている。監督の想像の域を超えていない。

 何よりガッカリしたのは、寛子をストーリー上で後半に簡単に殺しちゃったこと。話の“転”とか“結”で主要人物を殺すのは、シナリオとしては非常にお粗末と感じる。もちろん、必然性が感じられれば良いのだけれど。本作の場合、どうしてもご都合主義っぽく見えてしまって、脱力してしまった。何じゃそら、、、と。

 そして、さらに違和感を覚えたのは、終盤のシーン。亡くなった寛子の真っ赤な口紅を、夕子は自分の口に塗って、その後「アタシ、お母さん嫌いだったんだ」と嗚咽する、、、というシーンなんだが。パンフに掲載されているシナリオを見ると、このセリフは「…………お母さん」としかないので、後から「嫌いだった」とセリフが加えられたのだろう。それはともかく、嫌いな人の口紅を、自分の口に直塗りするか、、、ってこと。しかも、新品でなく、使いかけのである。いくら親子でも、、、ナイわ~~、と思っちゃいました。

 本作の脚本は監督と松井香奈という女性が書いているが、あんまし男だ女だというのは好きじゃないんだけど、このシーンは、男である監督が書いたんじゃないかなーと勝手に想像してしまう。こういう、身体的な感覚って、なかなか異性には分かりにくいと思うから。ま、違うかもしれないけど。

 私なら、口紅を自分の口に塗るんじゃなくて、自分の顔が映る鏡に、自分の顔を消すように塗る、、、とかにするかな。「嫌いだった」って言葉で言わせなくてもそれで十分伝わるもんね。

 そう「嫌いだった」って言っちゃうところがね、、、。そんなん、今までの展開で見ている者は分かってるんだから、わざわざ言葉にすると、却って鼻白むというか。好意的に解釈すれば、ようやく口に出して言えたんだね、、、とも受け取れるけど。でも、私でも、母親のことを「嫌い」と口にするのは、結構心理的にハードルが高かったので、これはなかなか難しいシーンだと思うなぁ。


◆「母と娘」を描きたかったんじゃないの?

 上記のあらすじにはないが、母親の寛子さんは、若くして夫を病気で亡くしており、シングルマザーで3人の子を育てて来た人である。夕子とやむを得ず同居することになったものの、ごく短期間でその生活は破綻し、そのまま、その日のうちに突然死してしまう、、、というオチである。

 こう言っちゃ身も蓋もないけど、嫌いな母親が、あの歳で(アラ還でしょ)元気なうちに、介護の必要もなく、実に呆気なくキレイに旅立ってくれたら、娘としてはそれまでの母親のアレコレを全て水に流せちゃう気になると思うなぁ。現実には大抵の場合、ナントカは世に憚るってパターンなわけだから。

 多少口うるさいかも知らんが、あの程度の干渉は、私からすれば“ちょっと面倒臭い母親”レベルであり、娘の人生を破壊しに来るようなモンスターマザーとは言い難い。

 パンフを読んだら、杉田真一監督は、本作の話をどう作ったのかという問いに対して「次回作の企画を考えていた頃に「毒親」という言葉をよく目にすることがあって、あまりに強い言葉だったので、強烈に印象に残りました」と言っている。その後いろいろ調べて、「一括りには語れない、ひとりひとりの物語があるのだと知りました」とある。ひとりひとりに物語があるのは、アタリマエなんだが。

 共同脚本で、監督が書いたものに松井さんという女性が大きく手を加えたようだが、松井さんの書いたものは「明確に女性同士の対立の話のようになっていて、……(中略)……対立の物語を描きたい訳ではありませんでした。もう少し性別や年齢を取り払った話にしたいという原点に立ち返り、僕が引き取ってさらに書き換えていきました」と言っている。……まあ、だから観念映画だという印象を受けたのも、あながちハズレではなかったのだなと感じた次第。

 監督の言いたいことは分かるけど、「母と娘」を描きたいのなら、やはり、一度は、きちんと母と娘を正面から向き合わせるシーンが必要だったと思う。別に対立させなくても、母と娘を向き合わせることはいくらでもできるわけで。「性別や年齢を取り払った話」というけど、同じ親子を描くのでも、「母と娘」は、「母と息子」「父と息子」「父と娘」とはそれぞれ全く異なる関係性であることは、やはり性別に大いに関係性があるのだよ。その点について、このテーマを取り上げるのなら、もう少し監督は勉強すべきだと思う。

 一応、夕子が幼い頃からの、寛子との感情のすれ違いを回想シーンで描いているが、割と類型的だし、監督の狙いとは逆に極めて説明的になっている。説明的なカット割りが多いのも気になった。

 夕子と寛子の関係性を逐一描く必要はもちろんないのだけど、見ている者に、彼女たちがこういう関係性になるまでの背景を感じさせる演出が欲しいよね。シナリオ段階で、夕子と寛子の綿密な履歴を作っていないのではないか。だから、井上真央さん演ずる夕子の長回しを見ていても、そこから夕子の内面に入って行けない。ただ、スクリーンに映る井上真央さんの横顔を延々眺めているだけ。これは、俳優の演技に問題があるのではなく、シナリオと演出に難アリでしょう。……そう感じさせられる映画だった。

 本作を見終わったら、杉田監督自身が劇場に入って来て、挨拶されたのでビックリ。舞台挨拶の予告はなかったし。この日は劇場に詰めていたんですかね。お疲れ様です。

 

 

 

 

 

 

エンドロールに刈谷とか知立とか懐かしい地名が、、、

 

 

 

 

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冬の旅(1985年)

2022-12-04 | 【ふ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv15851/


以下、公式HPページよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 冬の寒い日、フランス片田舎の畑の側溝で、凍死体が発見される。遺体は、モナ(サンドリーヌ・ボネール)という18歳の若い女だった。

 モナは、寝袋とリュックだけを背負いヒッチハイクで流浪する日々を送っていて、道中では、同じく放浪中の青年やお屋敷の女中、牧場を営む元学生運動のリーダー、そしてプラタナスの樹を研究する教授などに出会っていた。

 警察は、モナのことを誤って転落した自然死として身元不明のまま葬ってしまうが、カメラは、モナが死に至るまでの数週間の足取りを、この彼女が路上で出会った人々の語りから辿っていく。

 人々はモナの死を知らぬまま、思い思いに彼女について語りだす。

=====ここまで。

 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 ジャック・ドゥミの監督作品は、ロシュフォールとかシェルブールとかベルサイユとかロバとか見ているのだけれど、アニエス・ヴァルダ監督の作品は、実は1本も見たことがないのです。ただ、本作のことは前からちらほらと情報を目にしており、見たいなぁ、、、と思っていたのでした。サンドリーヌ・ボネール、結構好きだし。

 で、この度、デジタル修復版が劇場公開されたので、見に行ってまいりました。……見てよかったです。


◆楽して生きたい!

 放浪のモナが時々口にするのが「楽して生きたい」なんだが、どう見ても、「楽じゃないでしょ、その生活」、、、というのが私の目に映る彼女。だって、食べ物にもありつけない、寒くて眠れない、ヘンな男に絡まれる、、、そんなことの連続だもんね。

 気が向いたら、時々、軽めの肉体労働をして小銭を稼ぎつつ、基本は放浪生活である。これ、あの『ノマドランド』と同じだなぁ、、、と思って見ていた。あの主人公は、キャンピングカーで生活しているから、モナよりはまだ雨風を凌げる生活かも知れないが、、、。

 とにかく、モナがどうしてああいう生き方を選んでいるのかは、結局、最後まで分からない。「何で?」を解決しようとして本作を見ても、本作は何もその答えになりそうなものは見せてくれない。だから、「何で?」をモナの生き様に問うのは、恐らくあまり意味がない。

 詰まるところ、何をもって“楽”と感じるかは、その人にしか分からない、ってこと。

 このブログでも以前書いたが、私は自分の気持ちを抑えてまで親の言うことを聞いて生きるのは苦痛でしかないが、私の姉は、自分の気持ちを押し通すよりも親の言うことを聞いて生きる方が“楽”だと言っていた。だから、姉から見ると、私の生き様は、自ら苦しみを選択している、、、と見えるらしい。「親の言うこと聞いときゃいいじゃん」「親と対立したって消耗するだけじゃん」「親の言うとおりにしておけば何か困ったことがあっても助けてくれるじゃん」、、、とこともなげによく言っていた。

 私の目には、モナの生き様が「狭くても屋根と壁のある部屋の方が雨風凌げるし寒くないじゃん」「みみっちくてもある程度安定した生活の方が安心じゃん」、、、という理屈で、自ら苦しみを選択しているように見えてしまうけれど、彼女にしてみれば、私みたいに社会の歯車にちんまり組み込まれて生きている人間の方が、よっぽど自ら苦しみを選択しているように見えるに違いない。

 モナが途中で出会う人たちの中には、彼女と良い関係が成立しそうな人もいるのだが、結局、モナはその関係から去って行く。一方で、彼女の生き方を非難して「真っ当に生きろ」みたいな説教する人もいて、まあ、やっぱりああいう人はどこにでもいるよなぁ、、、と妙なリアリティを感じて苦笑してしまった。

 またしても姉の話で恐縮だが、私が、母親が勧める見合いを拒絶していた頃、既に2人の子持ちになっていた姉に「人は、ある程度の年齢になったら、きちんと社会的な役割を担って生きるべきだ」と説教されたことがある。つまり、親の勧める相手と文句言わずに結婚して子を産んで家族を作って真面目に働いて社会に貢献しろと。姉から見ると、私はいい歳して身勝手なことばかり言って幼稚でわがままで許しがたいということの様だった。

 本作でモナに説教していた男や、私の姉みたいに“真っ当”に生きていると自負している人にとって、モナや私のように“自己中”に見える生き方をしている人は我慢ならん存在なんだろうなぁ、、、と思う。

 けれど、説教したくなるほどその人のことを我慢ならんと感じるってことは、裏を返せば、それだけ自分が抑圧されていることの証なのでは?という意地悪な見方もできちゃうのだよね。

 モナを理解しようとする必要はなく、理解できないけど、まあ、彼女にとってはそれが生き易い生き方なんだろうね、、、と思えばよいのである。


◆放浪と野垂れ死に

 とはいえ、やっぱりモナのような生活は、私にはどう頑張ったってムリだし、そういう生活をしてみようとか、もちろん考えられない。

 最近“FIRE”ってのが、特に若い人の間で流行っているらしい。“Financial Independence, Retire Early”の頭文字をとって、ファイアー(早期経済的自立)と言うらしい。で、30代とかで、勤め仕事なんかさっさと辞めて、自分のペースで、仕事をしたいときにほどほどにしつつ、自由時間を満喫して生きることを選択している人が結構いるらしい。

 私も、YouTubeでFIREした若い女性の動画を見たことがあるが、その方は、30代でウン千万(億に近い)貯めて、人生充実!!って感じの生活ぶりでした。お金をいかにして賢く貯めて、上手に使うか、、、ということを語っていて、決して、怠惰に生きているとか、金亡者の如く吝嗇に励んでいるとかでは、全くない。自分の30代と比べて、あまりの違いに唖然となり、今の若い人はしっかりしてるなぁ、、、などと思ったが、恐らく、私と同世代でもしっかりしている人はしっかりしていたはずであり、私がムダに時間を過ごしていただけなんだろう、、、多分。

 で、最近見たネット記事に、FIREしたけれど、また就職して勤め仕事に戻って行く人が増えている、、、というのがあって、どうやら、あまりにも自由な時間があり過ぎて、逆に将来不安を感じたり、自身の生き方に対する疑問が湧いたりしてしまうらしい。こんなんでいいのか、、、ということのようだ。

 ただ、モナの場合は、あそこで野垂れ死にしてしまわずに生き続けたとしても、FIREを止める人たちとは違って、放浪生活を止めずに死ぬまで続けたんじゃないか、という気がする。

 モナは、凍死する直前に訪れた村で行われていた「ワインの収穫祭で……ワインの澱を投げ合う」(byパンフ)という行事に巻き込まれ、逃げ惑う中で茶色いドロドロしたものを身体中に塗りたくられる。その村に訪れる前は、寝起きしていた空き家が火事になって、恐怖の中を辛うじて脱出している。

 ……こんだけ、怖ろしい思いを何度もしたら、もう放浪生活は止めよう、、、には、しかし、モナの場合はならないような気がする。凍死する直前、溝に落ちたモナは泣いていたのだが、、、あの涙は、どういう涙だったのか。単に身体的な苦痛に対する涙なのか、それとも、精神的な苦痛を感じての涙なのか、、、。そこが見ていて分からなかった。まあ、分かる必要はないのだけど、泣きながら、そのまま還らぬ人になってしまったのが気になった。

 そして、それは一般的には憐れな最期になるのだろうが、私の目には、あのようにどこかで野垂れ死ぬというのは理想的な死に方に見えてしまった。私自身は、野垂れ死に上等!なのだけど、まあ、現代日本では難しいよね、、、。樹海にでも行けばいいのかもだけど、別に積極的に死にたいわけじゃないし。実際野垂れ死にしたら、やはりイロイロ迷惑が掛かるわけで、、、。でも、野垂れ死にって理想的な人生の幕の降ろし方だと思えてしまうなぁ。

 モナを演じたサンドリーヌ・ボネールは、当時18歳くらい。いやぁ、、、こんな難しい役、18歳でよく演じきったものだと圧倒される。ヴァルダとは結構、心理戦だったらしいけれど、、、。その後の彼女の活躍を考えると、まあ、本作の演技もさほど驚くことでもないか。これまた、自分の18歳の頃を考えると、、、(以下略)。

 

 

 

 

 

 

 

何日も風呂に入れないのは辛過ぎる。

 

 

 

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