映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

ドヴラートフ レニングラードの作家たち(2018年)

2021-05-23 | 【と】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv70644/

 

以下、上記サイトよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1971年レニングラード。ソビエトで活動する作家セルゲイ・ドヴラートフ(ミラン・マリッチ)は、友人で詩人のヨシフ・ブロツキー(アルトゥール・ベスチャスヌイ)と共に、世間に発表する機会を得ようと模索していた。

 そんな闘いのなか、彼らは政府からの抑圧によって出版を封じられ、その存在を消されていく。

 すべてをかなぐり捨て、移民としてニューヨークへ亡命する決意を固めるドヴラートフ。それは、厳しい環境下で喘ぎつつも、精彩を放ち続けたドヴラートフの人生における郷愁と希望の狭間で格闘した究極の6日間であった……。

=====ここまで。


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 昨年夏に公開され、劇場に見に行ったのだけど、正直なところ??な部分もあり、上映後に、ドヴラートフの小説の翻訳を手がけた沼野充義氏と島田雅彦の対談があって、それを聞いたら、もう一度見直してみたくなったのでした。

 ……が、もう一度劇場まで行く気力もなく、とりあえずはドヴラートフの書いた小説を読んでみようと思い、劇場でも対談後に販売されていたんだが、人が滞留していてめんどくさかったので、ネットで買えばいいや、と思ったら、amazonでは法外な値段がついているではないの!! ガーン、、、と思ったら、版元の成文社さんに直接メールで注文できるみたい……ということで、メールしたら、即返信があり、おまけに送料サービスで直送、しかも注文した翌日届いた!! 感動

 注文したのは、「わが家の人びと」「かばん」の2冊。で、これが読んでみたら、めっちゃ面白いんですよ、マジで。書かれた順に「わが家の人びと」から読んだのですが、最初こそ、その簡潔過ぎて飄々とした文体に、むむ……?って感じだけど、すぐに慣れて、慣れたらもうハマってしまった。

 この2冊を読んだら、ますます本作をもう一度見たいと思いまして、2月にソフト化されたのでDVDを購入し、先日ようやく再見できました。


◆著作を読んでから見た方が、、、

 本作を見るまで、ドヴラートフという名も知らなかった。ロシアに行く前に、ロシアのことを泥縄で調べたけれど、そこでもこの名前には出くわさなかった。ネット通販でロシアの食材を購入したら、本作のチラシが入っていたので興味を持って劇場まで行った次第。

 序盤から終わりまで、基本的にはほとんど山ナシで展開していく。ドヴラートフが書く小説が、出版社に受け入れられない、小説家協会に入れない、、、悶々、、、である。協会に入れないと、どれだけ良いものを書いても掲載されない、本にもされないらしいのだ。

 ドヴラートフと同じ物書きたちが集っては、夜通し飲んだり、歌ったり、語ったりするシーンもあるが、トーンとしては全般に暗くて抑揚がほとんどない。

 けれども、なぜかあまり退屈しないのだよね。面白い、、、というのとも違うのだが、ドヴラートフがとにかく鬱憤を溜め込んでおり、自分のやり場のない思いに自分が振り回されている描写に、共感とは違うが、人生って嗚呼、、、と、スクリーンの中の彼と一緒に鬱々としてしまうというか。

 彼はある業界新聞みたいなところで記事を書いて糊口をしのいでいるのだが、思わず笑っちゃったのが、例えば「電気の詩を書け」って言われるんだよね。電気の詩??と思って見ていると、今度は「工場の詩を書け」と言われたり、地下鉄工事をに従事している詩人のクズネツォフに取材に行かされたりもする。その取材中に、幼児の人骨が何体も出てくる事態に出くわすというシーンもある(戦時中に防空壕だった所で、幼稚園児たちが避難していたらしい)。

 彼は、別に反共の物書きなどではなく、自分の書きたいものを書きたいだけ。体制に都合の良いことをちょっと書けば協会に入れるかもしれないけど、そういうことは出来ない。書くもので妥協はできない。まあ、それはそうでしょう。だから、見ていて胸が痛くなるというか、、、。

 ドヴラートフと親しく、後にノーベル文学賞を受賞した詩人ブロツキーも出てきて、自作の詩を朗読しているシーンが何度かあった。その姿を見ていると、吟遊詩人という言葉が浮かぶ。本作の中では描かれないが、ブロツキーは、ちゃんとした職に就かない「徒食の罪」で逮捕されているらしい。徒食の罪って、、、びっくり。私も当時のソ連にいたら監獄行きだったかも、、、、。ブロツキーも反体制の詩を書いていたわけではないのに、結局そういう人を市中に放置しておくと、都合の悪い思想が蔓延って、支配者たちが気づいたときには手遅れになるから……でしょうな。

 終盤は、ドヴラートフのやりきれなさが全開で、見ていてかなりツラいものがある。パンフの沼野氏の解説には、「主人公がどうしても妥協できない潔癖さによって自分を追い詰めていく姿を見て、涙が抑えられなくなった」とある。私は涙は出なかったけど、嗚呼、体制が違っていたらなぁ、、、と、自分の近しい人のことのようにじれったい気持ちになった。

 最初に劇場で見たときはよく分からない部分も結構あったが、ドヴラートフの著作を読んで、そこに書かれていた内容がいくつか本作でも描かれているので、これは本を読んでから見た方が良いと思った次第。……と言っても、ドヴラートフの著作を事前に読むなんて、ロシアやロシア文学によほど興味のある人ではないかと思うけど。


◆沼野・島田対談
 
 冒頭書いたように、本作の上映後にあった沼野充義氏と島田雅彦の対談が割と面白かった。20分くらいだったけど、中身はまあまあ濃かった。

 本作の舞台となった70年代は「ブレジネフ時代」で、「雪解けの時代」の反動で締め付けが厳しくなっていたそうだが、沼野氏が言うには、本作はその当時の「色」がよく出ているとのこと。「発色が良くない、もやっている画面が、社会主義の色に乏しいところと通じていて、ドヴラートフの(自分の小説が出版されない)憂鬱との戯れの描かれ方が特徴的だ」と言っていた。

 また、沼野氏は、この「憂鬱との戯れ方」が上手いとも言っていた。嘆き方にウィットが効いていると。確かに、クスッと笑えるやりとりもあるのだが、あまりにもサラ~ッと描かれているので、それが面白いんだが気のせいなんだか、受け留めに戸惑うところも多々あったなぁ、、、と、この話を聞いて思った。

 意外だったのは、当時のレニングラードは、フィンランドとの物資のやりとりが盛んで、モスクワとはむしろ少なかったということ。理由も語っていたと思うが、メモをとるのが追い付かなかったのだけど、要は西側の通貨は貴重で、フィンランドからの方が豊富に物が入りやすかったということだろう。本作内でも描かれているが、ジーンズや腕時計が闇で高値で取引されていたとか。

 「わが家の人びと」にもパンスト(ストッキングね)の闇取引のエピソードが出てきて、それがかなり笑える。結局、それで大損するんだが、パンストの他にも、鏡付きのコンパクトや、リップなどはわいろとしても有効だったと沼野氏は言っていた。

 本作ではレニングラードの街並みも少し出てきて、凍ったネヴァ河も映っているシーンがある。11月が舞台なのに、もう凍っているのか、、、と、私が昨年2月に行ったときは記録的な暖冬でまったく凍っていなかったのが思い出される。凍った大河を見たかったので、ちょっと恨めしい。……それはともかく、その街並みの景色というか、雰囲気は、いかにも50年前という感じではなかったのだが、島田雅彦が言うには、この街はロシア革命時代から戦後、共産時代も含めて現在まで、ほとんど街並みは変わっていないらしい。

 沼野氏も島田雅彦も話が面白くて、もっと長い時間イロイロ聞きたかったわ。


◆ドブラートフの小説について。

 劇場で本作を見た後に、ドヴラートフの著作を読んだので、何となくギャップを感じた。著作は飄々としていて実に面白い。確かに、自分の書いたものが出版されないことへのモヤモヤもしょっちゅう書かれているんだが、本作での鬱々としたものは、著作からは感じられない。

 おおむね私小説といってよいと思われるが、読んでいるうちに、虚実が混沌として、これはもしや100%創作なのでは?とも思えてくる不思議な小説でもある。その文体は、悪く言えばぶっきらぼう、良く言えば簡潔。でも、実に生き生きとその光景が脳裏に浮かんでくるからますます不思議だ。こんな小説、いままでお目にかかったことがない。

 書籍のカバー見返しの部分にドヴラートフの写真が載っているんだけど、ロシア人というより、南米系の人に見える。沼野氏が言うには、すごい「大男」だったらしい。沼野氏は生前のドヴラートフに会っていて、話もしているという。彼の写真と、小説から受けるイメージは、本作のミラン・マリッチという俳優が演じるドヴラートフとはちょっと雰囲気が違う気がするが、沼野氏は見た目は良く似ていると言っていた。

 ドヴラートフの魅力が伝わる、ドヴラートフの言葉を、「かばん」の沼野氏の解説文から少しだけ引用して感想文おわりにします。小説、オススメです。

 「ぼくの文学的名声はこんなものだ。つまり、ぼくのことを知っている人がいると、ぼくは驚く。ぼくのことを人が知らなくても、ぼくはやはり驚く。そんなわけで、驚きがぼくの顔から消えることは決してない。」
 「何かをぼんやりと感じているときは、まだ書き始めるにはちょっと早いだろう。でも、すべてがはっきりしてしまったら、後は沈黙あるのみ。つまり文学にとって、ちょうどいい瞬間というものはない。文学はいつでも間の悪いものなのだ。」

 

 

 

 

 

 


ドヴラートフは79年にアメリカへ亡命、90年(48歳)NYで死去。

 

 

 


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ブータン 山の教室(2019年)

2021-05-15 | 【ふ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv71638/

 

以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 現代のブータン。教師のウゲン(シェラップ・ドルジ)は、歌手になりオーストラリアに行くことを密かに夢見ている。だがある日、上司から呼び出され、標高4,800メートルの地に位置するルナナの学校に赴任するよう告げられる。

 一週間以上かけ、険しい山道を登り村に到着したウゲンは、電気も通っていない村で、現代的な暮らしから完全に切り離されたことを痛感する。学校には、黒板もなければノートもない。

 そんな状況でも、村の人々は新しい先生となる彼を温かく迎えてくれた。ある子どもは、「先生は未来に触れることができるから、将来は先生になることが夢」と口にする。すぐにでもルナナを離れ、街の空気に触れたいと考えていたウゲンだったが、キラキラと輝く子どもたちの瞳、そして荘厳な自然とともにたくましく生きる姿を見て、少しずつ自分のなかの“変化”を感じるようになる。

=====ここまで。


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 予告編を見て、これこそスクリーンで見るべき映画だろう、、、と思って、久々の岩波ホールへ。緊急事態宣言下で、座席は1席開け。確か、つい最近改装工事をしたはずだが、受付の位置が変わったこと以外、パッと見ではどこが変わったのか分からなかったです。座席を総入れ替えしたとTwitterには出ていたような、、、。

 それはともかく、GW中だったせいか、思ったより人が入っていて驚き。そして、やっぱりスクリーンで見て正解の映画でした。


◆アクセス:徒歩6日

 ウゲンがルナナに辿りつくまでに、映画開始から多分、20分以上経っていたんじゃないかしらん。普通、こういう甘ったれ若者成長譚の場合、開始して間もなく目的地に主人公はいるはずなんだが、ルナナはそんな甘い場所ではなかった。

 電車で最寄りの駅まで行き、そこからバスで延々山道を行く。着いたのかと思うと、そこに村から迎えの男性が来ていて「ここから6日間かかります」とか言う。そして、実際、6日間、道なき道を徒歩でルナナまで行くのである。

 この道行が既にもう物語になっているのだよね~。ウゲンは、早々に弱音を吐き、道中はず~~~っとヘッドフォンを着け、地元で「ブラピもアメリカで履いている」という宣伝文句につられて買った完全防水のはずの高級ブーツがびしょ濡れになり、、、と、いくら渋々赴任するとはいえ、これから僻地で教師を務めようという人には到底見えず、ヤワな旅行者って感じ。最初は可笑しかったけど、ず~~~っとそんな調子だから、だんだん見ていてイラッとなった。

 村に着くちょっと手前で村長始め村人総出で新任の先生をお出迎え。ここで、少しはウゲン君も教師をやる気になるかな~、、、と思って見ていたら、村に着くなりウゲン君、村長さんに言った。「正直に言います。私にはムリです。帰りたいです」……ホント、正直ね。

 ウゲン君、そらねーだろ、、、と思ったら、村長さんはさすが村長だけのことはある。「……そうですか、では迎えの者たちとロバを休ませて、1週間後に町まで送らせます」と、少し残念そうだけど、非難がましいところは一切なく、穏やかに言うのだ。私が村長だったら「えーー、、、そんなこと言わないで頑張ってよ、せっかく歓迎したのに、、、、」と思いっ切りガッカリ感を出して言ってしまうわ。この辺が人間の器の差ですね。

 しかし、この「ロバたちを休ませる」時間というのがミソ。一晩寝た翌朝、戸を叩く音が。寝起き丸出しの体でウゲン君が戸を開けると、そこには、……何ということでしょう! 可愛い女の子が。「授業は8時半からです。今、9時半です。なので先生をお迎えに来ました」と礼儀正しくその女の子は言う。こんな状況になったら、教室に教師として行かざるを得ないわね。

 こうして、ウゲン君を送りに出る準備が整うまでの1週間で、ウゲン君の気持ちが変化するのでありました、、、。


◆子供はやっぱり最強。

 その女の子は、本名と同じペム・ザムという名で、学級委員だけあって賢そうでしっかりしている。が、彼女の両親は離婚しており、母親は遠方にいるらしく、父親はアル中という厳しい家庭環境だとか。お父さんが泥酔して道端で転がっているシーンもある。

 ルナナには電気もないので、テレビもなければネット環境もなく、まさに陸の孤島みたいな現代社会からは隔絶された場所である。ブータンは英語で授業をするのが普通だそうなので、子どもたちは英語を理解するが、carという単語は分からない。なぜなら、村には車がないから、、、。

 で、村長さんが「先生を送る準備が出来ました」と知らせに来るんだが、ウゲン君は冬が来るまで仕事をする気になったのだった。子供たちとも親しくなって、歌声のキレイな女性ともちょっとイイ雰囲気になって、ウゲン君は僻地での教育もまんざらではない様子。けれども、やはり本格的な冬になって山が雪で閉ざされる前に、ウゲン君は山を下りることに。

 子供たちには「また来てね」と言われ、歌う女性にも名残惜しがられるが、ウゲン君のオーストラリアへの夢は消えていなかったのだね。終盤は、ウゲン君が実際にオーストラリアに渡り、どこかのバーみたいなところでアルバイトでギター片手に歌っているシーンになる。けれど、ウゲン君、何を思ったのか、突然、ブータンで女性が歌っていた「ヤクに捧げる歌」を歌いだす、、、みたいな感じで終わる。

 まあ、割と終始想定内の展開で、ラストに至っても意外性はないものの、ルナナの素晴らしい景色を大スクリーンで見れば、心洗われ、東京の片隅でちまちましたことに右往左往している自分がアホらしく感じてくる。

 そして、可愛い子供たちの様子には思わず頬が緩む。ペム・ザムちゃんはウゲンに自己紹介するときに「大きくなったら歌手になりたい」と言う。ウゲンが「じゃあ、何か歌ってみて」と言って、ペム・ザムちゃんが歌った歌と彼女の可愛らしさのギャップが笑える。彼を見ると胸がざわざわ、わたしとつきあっちゃえば?!(正確じゃありません)みたいな恋の歌。

 教室には大きなヤクがいて、ヤクをバックに子供たちが暗唱している画は、とにもかくにも微笑ましい。ウゲン君が、ルナナへの道行きでの仏頂面がウソのような笑顔になっているのも面白い。

 こういう映画は、これで良いのだ。ヘンに捻っていないところが却って良い。


◆あなたはヤクです。

 それは良いんだが、冬になったら先生は村から町へ降りてしまうので、当然学校も閉鎖となるんだろう。このルナナでの教育は、パンフによれば3学年までの“不完全な学校”しかないとのこと(ブータンは小学校は7年制)。ウゲン君の話としては成長物語だが、ルナナの子供たちの目線で見れば、教える内容もかなり初歩的なものばかりだし(子供たちは皆素直で賢そうだから、あんな授業内容で本当に満足しているのか?という疑問が湧いた)、やはり、あの教育環境はあまり良いとは言えないかも知れない。

 学を得て、山から下りてサバイバルすることだけが良い生き方ではないので、不完全な学校でも、そこで幸せに暮らせていればそれでいいじゃないか、という理屈もそのとおりだと思う一方で、やはり、教育は大事だろうとも思う。パンフを読むと、このような村の子供たちは、3学年まで学んだあとは、県庁所在地等にある学校に転入し、寮生活を送りながら勉強するんだとか。しかも、自動で進級できないので、落第も容赦ないらしい。なるほど、ある意味、日本の義務教育よりシビアだね。

 本作を見終わって思い出したのが、大昔に読んだ篠田節子氏の小説(別にこの小説が気に入った、というわけじゃないんですが)。タイトルが思い出せなかったので調べたんだけど、『長女たち』所収の「ミッション」。ある中年の女性医師が、辺境の地(インドのヒマラヤ地方らしい)に赴任して、様々な不可思議な出来事に遭遇するという話。本作とはゼンゼン内容もテーマも違うんだけど、その村は村で完結していたのに、先進国から西洋医学を持ち込もうとすることで生じる村人との微妙な軋轢を描いているオハナシだった。けど、たしかその小説の結末も、だから、辺境の地は自己完結させておけばよい、というのではなかった気がする。もう一度読んでみようかな。

 ルナナ=Lunanaとは、「闇の谷」「暗黒の谷」を意味するのだとか。現在も電気は通っておらず、本作の撮影で初めて「映画」というものを知った村の人々も多かったとか。

 ウゲンが山を下りる前に、村長がウゲンに言う。「ブータンは世界で一番幸せな国と言われているそうです。それなのに、先生のような国の未来を担う人たちは幸せを求めて外国へ行くのですね」……このシーン、泣いてしまった。いや、感動してではなくて、何かこう、、、胸が痛んだというかね。人として、根本的な問を突き付けられている感じがして。村長の抑えた話し方や振る舞いが、より一層、説得力を感じさせられた。

 そのときの会話で、ウゲンが村長に「私の前世はヤク飼いだったのかも知れません」と笑って言うと、村長は大真面目に「いいえ、先生はヤクでした」と答える。劇場でも笑いが起きたが、これはもちろん、村長のウゲンに対する最大の賛辞。ヤクはルナナの人にとって、命と同じくらい、神と崇めるほど大切な存在なのだ。ユーモアのあるシーンに見えるが、きっとブータンの人にとっては感動のシーンなのかも知れない。

 

 

 

 

 

 


ブータン、、、また行きたい国が増えました。

 

 

 

 


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秘密の花園(1993年)

2021-05-09 | 【ひ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv10254


 大勢の召使にかしずかれながらも、両親には愛されることなくインドのお屋敷に暮らしていた少女メアリー。ある日、インドを襲った大地震により、突然両親を失い、イギリスにいる伯父クレイヴン伯爵の下へ引き取られることに。

 海を渡り、汽車に乗り、馬車に揺られてようやくたどり着いたクレイヴン伯爵の屋敷は、荒れ野にたたずむ寂しい屋敷だった。高慢で誰にも心を許さないメアリーだったが、召使のマーサの大らかさに少しずつ心を開くようになる。

 屋敷には10年前に封印され、誰も入ってはならない花園があり、メアリーは花園の入り口と鍵を見つけてその花園へと足を踏み入れる。荒れ果てた花園をマーサの弟ディコンと共に再生させようとするメアリー。退屈に思えた屋敷での生活が楽しくなって来たある日、屋敷内のどこからか、子供の泣き声が聞こえてきて、気になったメアリーは泣き声の正体を探しに行くのだが、、、。


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 ご存じ、バーネット原作の映画化。アグニェシカ・ホランドがファンタジー??という意外な組合せに興味を引かれてレンタルしてみました。


◆「少年少女世界の名作文学」(小学館)

 メアリーが孤児になった原因が、インドを襲った大地震、、、となっていて、大地震??と疑問になり、本作を見終わった後、原作を読み直してみたら、やっぱり地震じゃなかった。コレラの大流行だった。

 原作と言っても、子ども時代に読んだ、小学館の「少年少女世界の名作文学」シリーズに収録されているもの。『モンテ・クリスト-巌窟王-』(2002)の感想文で、やはりこのシリーズのことを書いたんだけど、勘違いでゼンゼン別のリンクを貼っておりました、、、。

 それはともかく、このシリーズは全50巻で小学生時代にハマっていた。全巻読破してはいないけど、まあまあ読んだ記憶があり、愛着もあったのでいずれは親から譲ってもらおうと思っていた。が、大学進学で上京して何年かしたら、親から電話で「あの文学全集、場所とるで近所の小学校に寄付したわ。喜んでもらって良かったわ」という衝撃の事実を聞かされた。がーん、、、、「私、欲しかったのに……」とは言えなかった、、、。

 もう手元には置けないと思うと、無性に欲しくなり、、、と思いながらウン十年。ネットオークションなどがない時代は、古本屋で見かけても、全巻揃って十万円以上の値がついていることもしばしばで、到底手が出なかった。ネットオークションがメジャーになってからは時折見かけていたものの、アナログ人間にとってはどうもイマイチ信用ならん、、、という精神的なハードルが災いして、なかなか入手に至らなかった。そもそも、全巻そろって出品されていることはあまりなかったしね。

 でも、昨年の巣篭りで時間もあったので、ヤフオクを漁っていたら、なんと全50巻を24巻にまとめたものがあるのを発見! しかも値段もかなりの格安。画像を見ると少し傷みもあるけれど、十分キレイ。何しろ、50年前の本ですからね、、、。意を決し、入札に参加し、無事落札 長年の願望、、、「棚に全巻並べたい」をようやく実現いたしました。

 全50巻でも1冊ずつはそれなりの厚みがあったのに、全24巻て、内容を端折っているのでは?と思ったけれど、どうやら全部網羅されている。装丁も記憶のまま。唯一違うのは、1冊ごとのカバーがないこと。でもまあ、それは仕方がない。内容も装丁も、おまけに状態もかなり良いものを入手でき、やっと手元に“取り戻せた”気分。“手元にあって、手に取りたいときに手に取れる”ことが大事なのよ、本は。

 ランダムに読み直しているけど、子供用にリライトされているとはいえ、大人が読んでも十分耐えられる内容で、やっぱり素晴らしい。「秘密の花園」が収録されている巻には、ほかに、バーネットの「小公子」「小公女」も収録されており、村岡花子が解説を書いている。
 
 40年ぶりくらいに読み直してみて、本作は割と原作に忠実に映像化されていると分かりました。


◆子供は最強。

 原作では、メアリーは「醜い子」とされているけれど、それは顔が不細工という意味ではなく、性格がねじくれていて、それが顔に出ているということなんだと思う。演ずるケイト・メイバリーは最初からすごく可愛い。インドからイギリスに来てマーサと仲良くなるまでは仏頂面だったけど、仏頂面も可愛かった。

 このマーサが実に良い子。大らかで優しく思いやりのある子で、こんな子と四六時中一緒にいれば、メアリーの性格もだんだん真っ直ぐになっていくというもの。徐々に、荒れ野での生活に馴染んで行くメアリーもまた可愛い。

 メアリーが花園を見つけるときに出会うのが、マーサの弟ディコンなんだが、このディコンも実に良い子なんだよねぇ。おまけに優しくて賢い。原作では、マーサとディコンの母親が非常に賢い人だと書いてあった。……納得。で、そのディコンとメアリーは仲良くなって、花園を再生させていくのだけれど、さすがイギリス、実に美しく変貌していくので、これだけでも目の保養になる。

 屋敷で聞こえる泣き声の主は、クレイヴン伯爵の長男コリン。病弱でベッドで寝たきり、部屋から一歩も外に出ない少年。メアリーと出会って、外の世界に興味を持ち、部屋から出て花園へ行き、歩けるようになる。ついでに、せなかにこぶのある(原作では“せむし”とされている)クレイヴン伯爵も、元気になる。めでたしめでたし、、、。

 というわけで、ストーリーとしてはたわいないお話でほとんどファンタジー。病弱で歩けない子が、外気を吸って元気になり歩けるようになるというのは、ハイジとも似ている。ハイジは1880年に発表されているようなので、本作の原作(1911年)より大分前になる。

 ただ、親の愛情を受けられない子供が、思いがけない環境の激変によって、人との交わりに歓びを感じ、人を愛することを知って行くというお話は、定番とは言え、いつの時代も人の心に響くものなのだと思う。


◆原作より良いラスト。

 で、原作を読んでみて、本作のラストは良い方に補正され、作品としてむしろ原作より完成度が高くなっているかも知れないと感じた。

 というのも、原作のラストはメアリーの存在がまったく無視されているのだ。コリンが歩けるようになり、長旅に出ていたクレイヴン伯爵が屋敷に戻って来てからは、ほとんどメアリーは話に出て来なくなってしまう。

 けれども本作は、ラストまできちんとメアリーの存在感をクレイヴン伯爵とのシーンで見せていて、今後のクレイヴン伯爵とコリン、メアリーの幸せな関係性を予感させるエンディングになっている。見ている者としては、このラストの方が遥かに救われるし幸福感を感じられると思う。

 原作より映画の方が優れているというケースは少ないと思うが、本作は、原作よりも鑑賞後感(読後感)は大分良い。リライトされていない原作を読んでみなくては。

 家政婦長とされているメドロックさんだが、彼女は多分ガバネスだったんではないかなぁ。そのまま屋敷に居ついて家政婦長になっているのではないか。あのクレイヴン伯爵への態度を見ていると、ガバネス独特のものを感じたのだけれども、、、。そのメドロックさんを演じていたのは、あのマギー・スミスさまでございます。彼女が出てくるだけで画面が引き締まる感じがしたわ。

 メアリーも可愛かったが、私が一番気に入ったのは、ディコン♪ ホントに可愛い。動物たちとも仲良しという設定で、小鹿やウサギ、小鳥などいっぱい出てきて、それも楽しい。あんなシークレットガーデン、あったら私も毎日入り浸りたい、、、。

 背中に瘤があり、めったに屋敷に帰って来ないクレイヴン伯爵だが、実際はフツーにジェントルマンである。原作でもほぼ同じような描写だった。コリンを産んですぐに愛する妻が亡くなったから、コリンと向き合うのが辛い、、、という理由で旅ばかりしているという設定なんだが、コリンが歩けるようになったら、父親の自覚が芽生える、、、って随分勝手なお父さんだなー、と思ってしまった。まあ、気持ちは分からんじゃないけど、放っておかれたコリンが気の毒過ぎる。

 コリンも可愛かった。……けど、やっぱり私がメアリーだったら、ディコンのこと好きになっちゃうなー、多分。……てか、この3人の少年少女は、成長したらかなりマズい三角関係に発展しそうな気がするゾ。『執事の人生』みたい!(時代背景がゼンゼン違うけど) それはそれでロマチック映画になりそうだ。二次創作とかしたら面白いかも、……しないけど。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

原作の世界観を美しく再現した逸品。

 

 


 

 


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パブリック 図書館の奇跡(2018年)

2021-05-05 | 【は】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv71288/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 米オハイオ州シンシナティ。公共図書館の実直な図書館員スチュアート(エミリオ・エステヴェス)は、常連の利用者であるホームレスから「今夜は帰らない。ここを占拠する」と告げられる。大寒波の影響により路上で凍死者が続出しているのに、市の緊急シェルターがいっぱいで行き場がないというのだ。

 スチュアートは約70人のホームレスの苦境を察して、3階に立てこもった彼らと行動を共にし、出入り口を封鎖する。

 その行動は“代わりの避難場所”を求める平和的なデモだったが、政治的なイメージアップを目論む検察官の偏った主張や、メディアのセンセーショナルな報道によって、スチュアートは心に問題を抱えた“アブない容疑者”に仕立てられる。

 やがて警察の機動隊が出動し、追い詰められたスチュアートとホームレスたちは驚愕の行動に出る……。

=====ここまで。


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 5連休もあっという間。スーパー変異株が猛威を振るっているらしいインドからの人の流入は制限付きながら続いている様で、しかも連休中のこの人出。来週以降、日本もカオスになるんじゃないですかね。もう、医療現場でコロナ対応されている方々が気の毒で仕方がないです。政府からは丸腰のタダ働きを強いられ、おまけに差別までされる。どーなってんですか、我が国は。……と、コロナの愚痴は書きだすとキリがないのでこのくらいにしておきます。

 本作は、昨年、劇場公開されていたんだけど、コロナもあって劇場までは行く気になれませんでした。平時なら多分見に行っていたと思いますが、、、。図書館が舞台というだけで、何だかそそられるんですよね~。で、このほどDVDでようやく見てみた次第です。


◆ちょっと余談。

 本作は、ホームレスの人々がメインで活躍するオハナシなんだが、ちょうど先日NHKで女性ホームレスが殴られて殺害された事件について取り上げていたのを見た。亡くなった女性の半生を辿る内容だったが、生活保護を申請すると、遠方に暮らす身内に迷惑がかかると思って申請しなかったんだろうと思われる。折角のセーフティネットが「扶養照会」があるばかりに機能しないという、、、。

 生活保護もだけど、眞子さんの結婚話のゴタゴタでも感じるが、日本人って(というか、外国の例は知らんが)、すぐに「税金!」「税金!」って言うんだね、、、。原資は税金なんだから、お前ごときが勝手に使うな!という趣旨で。なのに、選挙の投票率は異様に低い。国政選挙でも50%切ったりするし、地方選挙なんか30%切ったりとか、、、。それ、選挙として有効なんですかレベルなのも結構ある。一方では有権者としての権利を(というか、義務に近いと思うが)放棄しておいて、税金税金ってさあ、、、。税金をどう使うかを決めているのは、選挙で我々が選ぶ人たちなんですけど? 使い方が気に入らないのなら、きちんと投票して意思表示すべきやないの?? 

 税金税金大合唱している人たちには、三木義一著『日本の納税者』(岩波新書)をお読みになることをお勧めするわ。一納税者として、目から鱗が100枚くらい落ちるかも。生活保護やら眞子さんの持参金(1億4千万円らしい)なんて目くじらを立てる話じゃないと思い知ることになるのでは。

 それはともかく、、、。生活保護にシビアな目線を向ける人って、何なんでしょう? 不正受給に腹を立てているのか? でも不正受給率って1%にも満たない。あるいは、自分だけはお世話にならんと思ってるのかな。予測不能な事態が起きて困窮してしまうことが、自分の身の上に起きない保証などどこにもないのにね。あんな悲惨な震災やコロナを経験してもなお、そう思えるって凄いよなぁ。「自己責任論」ってやつですかね。

 その自己責任論が、アメリカでは日本よりも支配的だと聞くけれども、実態はどうなんでしょう? コロナ禍では、日本より遥かにマシな補償がされているようだけど。……まぁ、よく知らないが、本作を見ると、なかなか厳しい状況には違いないらしい。


◆ユーモアに満ちた“コメディ”

 ホームレス用のシェルターはあるけれど、寒い日はやっぱり一杯になってしまうらしい。あぶれた人たちが図書館に暖をとりに来るわけだ。でも、図書館は、毎日閉館時に全員を退館させる。ホームレスの宿泊はさせない。

 本作で、ホームレスの集団が大挙して図書館に宿泊を求めたのは、図書館の役割を踏まえてのこと。日本の図書館よりも公共性が高く認識されており、大寒波で凍死のリスクがある屋外からの避難所として機能してくれてもいいんじゃないの? ということだろう。だから、タイトルに「パブリック」と入っているんだろう。原題はまんま“The Public”である。

 エミリオ・エステヴェス演ずるスチュアート自身も、過去にホームレスの経験があり(アル中だったらしい)、ホームレスの要求も理解できる立場。穏当なデモだったのに、なぜか「立てこもり事件」にされてしまい、スチュアートが首謀者扱いになる。この辺、メディアの横暴ぶりが描かれる。

 テーマはシリアスなんだけれど、本作の持つ雰囲気は概ねコメディと言っても良いくらいユーモアもある。ホームレスの一人ビッグ・ジョージ(チェ・“ライムフェスト”・スミス。この方、有名なラッパーだそうな)が、話をするときに相手の目を見ようとしないのが不審で、スチュアートが「何で下ばっかり見てるんだ?」と聞くと、「オレが見るとビームで相手を殺してしまう」とジョージは大真面目に言うシーンなど、思わず噴き出した。ホームレスたちの中には、精神疾患を持っていると思しき人も結構いるのだ。

 あと、スチュアートとホームレスたちが籠城している部屋にピザ屋がピザを届けに来るシーンでは、警察が来たんじゃないかとホームレスたちが身構えるんだけど、ここでスチュアートはピザ屋にピザの値段を質問することで、警察官ではないと確かめる。これに繋がる伏線は、序盤でちゃんと張られている。伏線と言えば、冒頭で巨大なシロクマの剥製が出てくるんだけど、それが「行き場のないシロクマを預る」という理由からで、まさに行き場のないホームレスを預るという本作のテーマの伏線になっているとも言える。

 ……という具合に、結構細部まで気配りのされた、なかなか気の利いたシナリオだと思う。


◆女性問題とかもろもろ、、、

 ネット上では、女性の扱いがマズい、、、という論評も散見され、確かにそれは一理あるなぁと思う。籠城するホームレスの中に女性が一人もいないし、出てくる女性たちも完全に脇だからね。ただ、ラストのオチから言って、女性のホームレスを入れられなかったんだよね、多分。そもそも、男しか頭にないからああいうオチになった、、、という意地悪な見方もできるが。

 とはいえ、スチュアートと交渉する警察官や検察官を女性にすると、それはそれでまた叩かれる要因になりそうではあるし、ここは難しいところだろう。エミリオ・エステヴェスがそこに無頓着だったとは思えないので、分かった上で敢えてこのシナリオになったんだと思われる。スチュアートと序盤で寝る女性や、図書館職員の同僚女性などをもっと上手く使えなかったのか、という指摘もあったが、まあ、一応彼女たちをシナリオ上ではちゃんと使ってはいるんだよね。解決の直截的な糸口にはなっていないだけで。

 前述したとおり、東京では女性のホームレスが殺害されるという事件も実際起きているわけで、女性のホームレスの存在が無視されていいはずはない。そういう意味では、女性キャラたちがメインに絡んでこないことより、女性ホームレスが一人もいなかったことの方がマズいだろう。必然的にあのオチもやや難ありということになる。

 それを踏まえても、私はエステヴェスが描きたかったことを考えると、あれはあれで良いのではないかと思う。深刻さを笑いに包んで表現するには、格好のオチではあるからね。女性のホームレスだけ例外、、、ってことにすると、それはそれでまた火種になるだろう。

 今回、エステヴェス監督作を多分初めて見たんだけど、彼は才能もあり、とても頭の良い人だと感じた。描き方を間違えるとマズいテーマを、ユーモアを忘れず、しかし、ツボはきちんと押さえたシナリオを書き、かつ監督してエンタメ映画に仕上げている。どうも弟の問題児イメージが強いので、その兄も、、、というイメージを勝手に持っていたが、もの凄い偏見だった。反省、、、。彼の監督作、他にも見てみたい。

 

 

 

 

 

 

 

スチュアートの部屋(ラフカディオ・ハーンの全身写真が飾ってある)がイイ!!

 

 


 

 


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星の子(2020年)

2021-05-03 | 【ほ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv70187/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 ちひろ(芦田愛菜)の父(永瀬正敏)と母(原田知世)は娘にたくさんの愛情を注いで育てていたが、病弱だった幼少期のちひろを治した怪しい宗教を深く信仰していた。

 中学三年生になったちひろは、新任のイケメン先生に一目惚れする。しかし、夜の公園で奇妙な儀式をする両親の姿を先生に見られてしまう。そして、彼女の心を大きく揺さぶる事件が起こり……。

=====ここまで。

 今村夏子の同名小説が原作。

 

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 今村夏子の小説は、何と言っても『こちらあみ子』が衝撃的でした。芥川賞を獲った『むらさきのスカートの女』より、あみ子の方が断然好きだけど、むらさき~も、まあ今村カラーがかなり出ていましたね。

 余談だけど、あみ子って、以前NHKでドラマ化していませんでしたかね? なんか、少女が玄関先で土を盛ってお墓を作るシーンをビジュアルで見たような記憶がぼんやりあるんだけど、、、検索してもそれらしいものはヒットせず、、、。夢かな。というか、あみ子を読んだときに、映像で見た記憶があった、、、と言った方が正確なのかな。どちらが先か、もはや自分でも分からない、、、。

 それはともかく。本作の原作は未読で、映画になったことも知ってはいたけど、コロナ禍で劇場へ足を向けるまでの引力はなく、、、。最近DVD化されたのでこのほどレンタルして見てみました。見た後、これは原作を読んでからでないと感想が書きにくいかなぁ、、、と思い(理由は後述)、図書館で予約したらすぐに借りられて、昨日読了しました。……ので、原作の描写を考えつつ、映画の感想を書きます。


◆“ちひろ”という少女

 見終わった直後の感想は、うぅむ、、、という感じだった。というのも、親がヘンな宗教にハマって、子がマトモが故に葛藤する、、、って、題材としては珍しくない。宗教を、アル中とか家庭内暴力とかいろんなモノに置き換えれば、家族の葛藤話に集約されるわけで、、、。

 でも、終盤から何やら不穏さが漂い始め、ラストは不穏なまま終わったのだ。……と私は受け止めたのだが、ネットの感想を拾い読みすると、どうもほのぼの系の良いお話として終わったと見ている人が割と多くて驚いた。

 また、登場人物のキャラとか、俳優たちの演技とか、ところどころのセリフとかは良かったから、原作を読んでちょっといろいろ確認したい、と思った次第。

 で、本作はかなり原作どおりに作られていると分かった。特に大きな設定の変更もないし、ストーリーもほぼママ。ちなみに、原作は、あみ子やむらさきの~ほどあからさまではないが、やっぱりちょっとズレている人を独特のタッチで描いている小説だった。でもまあ正直なところ、面白さでは、あみ子に軍配かな、私的には。

 原作を読んでいて困ったのは、どうしても、作中のちひろが芦田愛菜ちゃんになってしまい、それを払拭するのに時間がかかった。後半でようやく小説の中だけのちひろになってくれたけれど、、、。

 これ書いちゃうと、身も蓋もないんだが、私が監督だったら、ちひろに芦田愛菜ちゃんをキャスティングしなかっただろうと思う。

 この話は“ちひろのキャラ”が全てと言ってもよいくらい重要な訳で、愛菜ちゃんが役者として良くないという意味では全くなく、原作のちひろとはかなりキャラに乖離があると感じた。本作のちひろは、マイペースながら分別のある少女になっているが、原作から受けるちひろの印象はちょっと違う。あみ子同様、あみ子ほどじゃないが、やはりズレているのだ、原作のちひろは。しかし、愛菜ちゃん自身の持つ雰囲気が、そもそもズレていないし、ズレを演じてもいない。

 原作に出てくるセリフを映画でもちひろは言っているし、ほぼ原作どおりのシーンがほとんどだが、やはり原作から受ける印象と、映画のそれはかなり違う。

 この話は、基本“ヤバい”話なんである。で、主人公のちひろは、あえてそのヤバい環境に自発的に身を置いているのだが、ちひろがどれくらいヤバさを理解しているかが明確でないところがキモなんじゃないか。映画では、そのちひろの心情が、家族を思う“純粋さ・無邪気さ”に回収されてしまっていて、“けなげ”な少女の物語になっている。

 つまり、監督は、ちひろがズレている子だとは感じなかったんだろうな、原作を読んで。それならば、マトモなちひろを愛菜ちゃんが演じることになるのも道理というもの。

 原作と映画は別物だから、原作に忠実である必要はないけれど、まあだから、冒頭書いたように、割とよくあるテーマの映画だな、、、と感じたのであった。


◆ラストシーンとか、岡田将生とか、、、。

 ただ、映画の終盤に不穏さを感じて、原作が今村夏子の小説だった!と改めて思い出したのよね。ストレートな家族の葛藤話を今村さんが書くかな、、、?という気がして。そこを、原作を読んで確認したくなった。

 終盤からラストのシーンはほとんど原作と同じだったけれど、原作の方がもっと不穏だった。私は、映画の終盤からも、この親子の関係性が崩れる予感を見て取ったのだが、原作の方はもっとそれを感じさせる。だから、原作を読み終えた直後は、映画の終盤から受けた印象は間違っていなかったんだ、と思って本を閉じた。

 けれども、やはり、原作の方も映画と同じで、この不穏そのものにしか思えないラストを「救いのある終わり方で良かった」と感想を書いている人が少なからずいるのだ。

 文庫本の巻末には、著者と小川洋子氏の対談が載っていたので興味深く読んだが、今村さんが最初に書いたラストは「あまりにも悪意が見えすぎている」と編集者に言われたのだとか。どんなラストかも書かれていたが、ここにはもちろん書きません。が、私は、最初のラストの方が好きかも。確かに、悪意があるし、解釈の幅が狭くなるかもしれないけれど。

 でも、「この小説では「この家族は壊れてなんかいないんだ」ということを書きたかったので……(以下略)」とも語っていて、これはちょっと意外だった。対談相手の小川さんもそれに対して「この両親には、娘に対して何ら悪意はない……(中略)でも、悪意のない家族だとしても、平和ではないということが残酷です」と言っており、まさにその通りだと感じた。小川さんも、不穏さを感じたと言っており、やはり解釈が分かれる原作なのだなぁ。

 本作のラストシーンも、色々と解釈ができる余韻があり、私はもともと不穏なのが好きなんで、不穏さを読み取ったクチだが、この終盤からラストがあったおかげで印象的な作品になったと思う。

 あと、忘れてならないのが、南先生を演じていた岡田将生ね。彼は、性格の悪い役を演じるのが実に巧い。あんなキレイな顔してイヤらしいってのがイイ。自分が不審者呼ばわりした男女がちひろの両親だったことが分かった時や、ちひろの描いている似顔絵が自分のではなくエドワード・ファーロングのだと指摘された時の一瞬の「マズい……」という表情が絶妙。どうでもいいけど、エドワード・ファーロングの現在と岡田将生じゃ、似ても似つかない、、、(唖然)。
 
 ラストの展開と、岡田将生の演技に1個献上いたします。

 

 

 

 

 

 

 


ちひろの親友“なべちゃん”がステキだ、、、。


 

 


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