映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

暗殺のオペラ(1971年)

2018-08-30 | 【あ】



 以下、公式HPよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 北イタリアのとある小さな町に降りたつ男。彼の父はかつてこの町でレジスタンスの闘士として活躍しファシストの手によって殺されていた。父の愛人から犯人を突きとめて欲しいと頼まれた男は、父の死の真相を探る為にやってきたのだ。

 当時の関係者に話をききにいく彼。ヴェルディのオペラ“リゴレット”やシェイクスピアの“マクベス”からの引用を散りばめながら語られる父の姿。

 彼はやがて驚くべき事実に直面するが…。

=====ここまで。

 
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 ベルトリッチの若き日の作品。原作というか原案は、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの伝奇集「裏切り者と英雄のテーマ」という短編だとか。意外にも面白かった!!


◆ベルトリッチ、、、今なら立派なパワハラ&セクハラ。

 『ラストタンゴ・イン・パリ』も『ラストエンペラー』も???な作品で、『暗殺の森』は、ううむ、、、という感じの私にとって、ベルトリッチは別に好きでも嫌いでもない監督だったんだけど、数年前に、『ラストタンゴ・イン・パリ』にまつわる不快なエピソードを知って、もともとマーロン・ブランドが嫌いだったこともあって、かなり嫌悪感を催す監督になってしまった(不快なエピソードについては、こちら)。

 これについて、ベルトリッチはいろいろ弁解しているけど、やっぱりこれはアウトだろう。何しろ、マリア・シュナイダー自身が、「マーロンとベルトルッチの両方に少し強姦されたような気分だった」と語っているくらいなのだ。これは、控えめに言って、こういう発言になったのではないかと、私は想像している。こういうやり方を是とし、しかも、「罪の意識は感じるが、後悔はしていない」などと言ってしまう神経が、やっぱりちょっと信じられん。芸術のためなら、他人の尊厳を蹂躙しても良いという発想は、人間としてダメだろう。

 ……と言いつつ、本作をわざわざ台風が関東に迫っている日に見に行ったのは、ボルヘスが原作であること、アリダ・ヴァリが出演していることを知り、しかも予告編の動画にそそられたからである。とはいっても、日本ではあまり知られていない作品だし、大して期待もしていなかったのだが、これは見に行って正解だった。

 ベルトリッチ29歳の作品。TV用映画として作られたらしく、スタンダードサイズだが、緊張感が終始みなぎる映画に仕上がっていると思う。やはり、人間的にはダメでも、映画監督としての才能には恵まれた人だったことは間違いない。


◆これは幻想譚?

 本作の舞台となるのは、“タラ”という架空の町。オープニングのシーンから不穏さ全開で、見ている方も緊張する。アトスが一人歩く町並みは、夏の強い日差しで、白い壁や塀に眩しく照り返すが、人気がなく、地面に落ちる木々の陰は黒々と異様に濃く、暑さがこちらにも伝わってくるような、不気味で手に汗握る描写。時が止まったかのような町の風景は、まさしくキリコの絵そのもの。大昔に見たメキシコ映画『ザ・チャイルド』というホラー映画に出てくる風景にどことなく似ている気がした(本作の方が先に制作されているけど)。

 ところどころにいる人は老人ばかりで、アトスを見ると皆、口々に「お父さんにそっくりだ」と言うのである。父親の胸像まで建っている。それくらい、この町で父親は英雄視されているのである。

 が、真相を探っていくと、実は、父親を殺したのは、ファシストではなく、レジスタンスの仲間達であり、しかも、自分を殺すように父親自身が企んだものだったという事実に行き当たる。さらに、父親はファシストに情報を漏らした裏切り者でもあった。

 その真相に迫っていくまでの描写は、微に入り細を穿つように丹念で、それでいて、見ている者を惑わせる怪しさも十分。ストーリーはシンプルだが、カメラワーク、カット割り、画面の明暗、俳優の立ち位置や動きなどで、実に凝った演出がされていると感じた。

 印象的だったのは、中盤、アトスが昼寝をするシーン。中庭で眠るアトスの衣服をゆるめ、彼を起こさぬようにそっと椅子ごと家の中に引きずり込むのは、アリダ・ヴァリ演ずる父親の元愛人。蚊取り線香を点けてやり、アトスの眠る姿を見て微笑む。その一連の描写が何とも美しく、背景に流れる音楽がまた何とももの哀しい。後で調べたら、この音楽(カンツォーネ)のタイトルは、この後の作品『暗殺の森』の原題(Il Conformista)だという。今は亡き愛する人を偲ぶ歌らしい。

 英雄だと思っていた実の父親が、蓋を開けてみれば、裏切り者で、自らの死を利用する策士だった、、、という、アトスにしてみれば、自分のアイデンティティが根底から覆されるような現実を突き付けられる、何とも残酷なお話だ。

 けれども、ラストシーンは、ちょっと幻想的で、どこかこう、非現実的な描写なのである。冒頭、アトスがタラの町に来たときは普通の線路だったのに、ラストではその線路が草ぼうぼうであり、とても電車が走れる状態には見えない。駅のホームにしゃがみこむアトスもどこか虚ろで、もしかするとこの一連の話は、アトスの(もしくは元愛人の)妄想だったのではないか?? 幻想譚だったのか? と思わせる描写でもある。

 そういえば、前述の昼寝のシーンの前に、アトスは、元愛人の使用人に不思議な飲み物を飲まされていたのだった。もしや、これらの話は、このときの夢物語なのだろうか、、、。それにしては、ずいぶんリアリティがあるようだし、、、。

 こういう、足下を掬われるような、不安に駆られるような気持ちにさせてくれる映画は、嫌いじゃない。何とも言えないモヤモヤ感が残り、気持ち悪さもあるけれど、すっきりしないところが余韻でもあり、いつまでも尾を引く感じが良いのである。

 『暗殺の森』の有名なタンゴシーンがあるが、本作でも、やはりダンスのシーンがあり、前述のカンツォーネのタイトルといい、本作は、ベルトリッチにとって『暗殺の森』の根源的な作品になったのかも知れない、、、などとちょっと思った次第。









アリダ・ヴァリ、、、すごい威圧感。




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主婦マリーがしたこと(1989年)

2018-08-27 | 【し】



 以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 第二次世界大戦、ドイツ軍占領下の北フランス、ノルマンディ。この街にもナチの脅威は迫っていた。ユダヤ人狩りによる親友のラシェル(ミリアム・ダヴィッド)の連行を知り悲嘆にくれるマリー(イザベル・ユペール)は、ある日隣に住むジネット(マリー・ブネル)の堕胎を手伝い、お礼に彼女から蓄音機をもらう。

 数日後、夫のポール(フランンワ・クリュゼ)が、傷痍軍人として復員してきた。しかし既にマリーの夫への愛情は、すっかり冷えきったものになっていた。

 その頃からマリーは、ふとしたことで知りあった美しい娼婦のリュシー(マリー・トランティニャン)の商売用に自分の部屋を貸してやるようになり、この副収入のおかげで次第に暮し向きが良くなってゆく。

 しかし相変わらず彼女のポールに対する態度は冷淡で、やがてマリーは、リュシーの常連客で今はドイツ軍のスパイをしているヤクザ者のリュシアン(ニルス・タヴェルニエ)と深い関係になる。そして違法の堕胎で金を稼ぐマリーは、もはや有頂天だった。

 しかし、そんな日々もつかのまの幸せに終わる。ある日帰宅したポールが、ベットで眠りこけているマリーとリュシアンの姿を目撃し、ついに妻の不正を匿名の手紙で警察に知らせたからである。こうしてマリーは逮捕された。そして彼女は異例にも、国家裁判所の法廷で裁かれることになる。

 折り悪しくも、ドイツ軍に占領され道徳観にこだわりだした国によって、彼女はみせしめとして国家反逆罪による極刑を求刑される。'43年6月、マリーはフランス最後の、女性のギロチン受刑者として、その生涯を終えるのだった。

=====ここまで。

 
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 史実を基にしたイザベル・ユペールが36歳のときの作品。いろいろ考えさせられる映画でございました。


◆フランスは巨大な鶏小屋

 いつもシレッとしているユペール様が、本作でもシレッとマリーを演じている。そしてこのマリー自身、妊娠中絶という、当時の犯罪行為を、案外シレッとやってしまっている。

 きっかけは単純で、仲の良かった隣人女性の中絶を手伝ったら、思いがけず、レコードプレーヤーという高価な報酬を得たことだ。しかも、中絶方法は比較的簡単で、石けん水を作って、それを子宮に流し入れるというもの。正直なところ、これで中絶ができるのか、、、? と素朴な疑問が湧くが、どうやら出来るらしい。

 何の医学的知識もないマリーが、史実では、この手法で20人以上も堕胎しているというのだから、仰天である。

 それはともかく、思いのほか“イイ商売”になると味を占めたマリーは、最初こそ怖々、、、という感じだったが、アッと言う間に慣れた手つきで金儲けにいそしむようになる。それもこれも、とにかく彼女の家庭が貧しかったからである。幼い子どもを2人抱え、戦地から怪我で戻ってきた夫はろくに働くことも出来ず、かといって、マリーが稼げる手段を持ち合わせているはずもなく、マリーにしてみれば、生きるためにやり始めたこと。

 でも、捕まるまでのマリーは、実に楽しそう。中絶もお金のためと割り切ってサバサバとこなし、金を手に入れれば、それでちょっと贅沢なものを買い、子どもに与え、自分も身ぎれいにして街中を歩いて、、、と、本当にささやかな楽しみを味わう、憎めない女性でしかない。マリーが中絶に躊躇しなくなったのは、金が欲しかったことが一番だけれど、やはり、中絶を選ばざるを得ない女性の気持ちが分かったから、というのも当然あるだろう。

 ただ、途中からちょっと図に乗りすぎた、、、というところか。愛人まで作って、ヒモ同然の夫の目前でその愛人と堂々と痴態を演じるということまでやらかしてしまう。そら、いくらヒモでも、夫も男である以上、これは看過できないのもムリはない。

 しかし、、、この夫、言っちゃ悪いけど、サイテーである。気持ちは分かるが、何も、警察に密告書を送るなどという姑息なことをせんでも良いだろう、、、。まあ、こんな夫だから、マリーも愛想を尽かした、ということなんだろうけれども。史実ではどうなのか分からないし、この辺は恐らくシナリオ上の創作だと思うけど。まさか、死刑になるとは思っていなかったから密告したんだろうけれど、結果的に、妻を失い、子どもから母親を永久に奪ったことになる。

 マリーがどんどん身ぎれいになって美しくなっていくのが、なんだか(この先に待つ悲劇を知っていても)微笑ましく見えてしまった。堕胎の報酬で得たレコードプレーヤーから流れる音楽に乗って、愛人の前で、テーブルの上でノリノリで踊るマリーは、可愛くさえ思える。

 捕まってからラストまでは、もうマリーが可哀想で見ていられなかった。彼女が斬首刑になってしまったのは、ただただ運が悪かったということ。見せしめにされたのだから。ナチスに良いようにされるフランスの、いわゆる“黒歴史”だろう。マリーの弁護士の言う「フランスは巨大な鶏小屋だ」というセリフが印象的だ。


◆中絶は女性の権利、避妊は男女の責任。

 ナチスは、ユダヤ人を始め、障害者等を老若男女を問わず大量虐殺していたのだけど、その一方では、アーリア系(というのが正しいのか疑問だが)の純血主義を掲げて、それらの女性の妊娠中絶は、固く禁じていて、中絶したら「国家反逆罪」に問われたという。本作で、ユペールが演じるマリーが死刑になったのも、この国家反逆罪に問われてのことだった。

 フランスは、今では女性の権利として妊娠中絶は合法であるが、いまだに、中絶が犯罪とされている国は世界を見渡せば多いのが現状だ。この中絶がタブーだったり、違法だったりする背景にあるのは、大抵、宗教的な問題である。

 ナチスにしても、宗教にしても、女性の妊娠・出産に対する精神的・肉体的負担など、一顧だにしていない。本作でも、妊娠して困り果てているのは皆、女性たち。国には中絶するなと簡単に言われるけれど、実際問題、産む&育てる環境が整っていない状況で、どうやって出産して育てろというのか。国が責任持って育ててくれるわけじゃないくせに。

 同じ女性でも中絶をタブー視する人は当然いるが、男性は、それに輪を掛けて女性の妊娠にまつわる苦悩に無理解なのが世の常だ。男が無責任に射精しなければ、女は妊娠しない。勝手に欲望を放出しておいて、その代償に女性が苦しんでいても、反省するどころか、第三者と一緒になって中絶しようとする女性に罵声を浴びせる側になるのだから、本当に始末が悪い。

 本作で、そんな女性達の苦しみに寄り添っているのは、無知なマリーだけではないか。

 途中、既に6人の子どもがいる女性が、7人目を妊娠し、困り果て、苦しみ抜いて、マリーの所に中絶を依頼に来る。そのときの彼女は「いつも自分の乳に赤ん坊がぶら下がっており、まるで乳牛みたいな自分が情けなく哀しい」というような胸の内を涙ながらに独白する。マリーは、特別慰めることもないが、「分かった」と中絶を引き受けるのである。マリーを死刑にした国家と、中絶したマリーと、どちらがより人間らしいと言えるのか。

 自分が乳牛のようだと泣く女性は、しかし、マリーの施した処置が悪かったのか、亡くなってしまう。そして、無責任な種蒔き夫は、妻が死んだことに耐えられず、自殺してしまい、女性の姉という人がマリーの所にやってきて、マリーを責める。しかし、一番責められるべきは、夫だろう、この場合。ホントに、世の中、理不尽である。

 ある映画のレビューサイトで「避妊は女性の責任である」と書いている女性がいたが、現代にあっても、こういう女性は多い。同じ女性として、私はこういう女性の思考回路こそ問題だと思う。避妊は、女性だけの責任ではない。男性にも同等の責任があるのだ。男の子を持つ親御さんには、是非とも、我が子に思春期前から避妊教育をみっちりして欲しいものだと思っている。

 妊娠するのが、男女半々の確率だったら、世の中、もっと平和になると思うんだけど、、、どーでしょーか?








ユペール様、美しい、、、。




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追想(2017年)

2018-08-22 | 【つ】



 以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 英国発のポップカルチャー、スウィンギング・ロンドンが本格的に始まる前の1962年、夏。保守的な空気が社会を包む中、若きバイオリニストのフローレンス(シアーシャ・ローナン)は歴史学者を志す真面目なエドワード(ビリー・ハウル)と恋に落ちる。

 これからの人生を共に歩むことを決めた二人は、挙式後、美しい自然が広がるドーセット州のチェジル・ビーチに新婚旅行へ。しかしホテルに到着するや、初夜を迎える興奮と緊張から気まずい空気が流れだし、ついには口論に発展。フローレンスはホテルを飛び出してしまう。

 生い立ちもこれまでの家庭環境もまるで違っていても深く愛しあっているはずなのに、愛しているからこそボタンの掛け違いが生じ、今後の二人の人生を左右する分かれ道となってしまう。

=====ここまで。

 ううむ、、、。公式HPの「たった1日で終わった結婚」てコピー、、、これはもしかするともの凄いネタバレなんじゃないの? 本作をちゃんと見たら、このコピーはダメだと、普通は思うと思うんだけどなぁ。


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 それほどそそられる内容でもないし、シアーシャ・ローナン苦手だし、わざわざ見に行く要素がないんだけど、イアン・マキューアン原作かぁ、、、と、なんとなくフラッと見に行ってしまいまして、やっぱし、ちょっとなぁ、、、と思ってしまった次第です(原作未読)。


◆英国版“成田離婚”

 公式に激しいネタバレをしているので、私も遠慮なく書いちゃうけど、本作は、「新婚初夜に失敗して離婚にまで発展したお話」である。こんな風に書くと身も蓋もないんだが、でも実際そうなんだからしょーがない。

 こんなことは、誰にでもある話で、大体、若いカップルの初セックスが、めくるめく官能の極みであることなんて、まぁ、多分ほとんどゼロに近いんじゃないかねぇ。若くなくたって、初めてじゃなくたって、、、ねぇ。思い出したくもない! って人、世界中にごまんといると思うよ?

 それでも、そんなカップル達がみんな破局しているわけじゃないわけで、それは、お互いに“そういうもんなのかな?”とか“まぁ、しゃーない”とか、現実を、、、というか、互いの未熟さやカッコ悪さを受け容れる努力をするから、、、でしょうね、多分。セックスは、カップルにおいて非常に重要な要素でありながらも、それが全てではないわけで。つまり、このフローレンスとエドワードにとっては、セックスが全てになっちゃっていたんだよね、この時点では。セックスが上手くできること=良いパートナー、みたいになっちゃって、あと数時間、お互いに頭冷やせば、別に離婚なんてことにはならなかったのに、自分の至らなさ、恥ずかしさが、2人を暴走させちゃった、、、って感じかな。

 このフローレンスみたいな女子は、今でも結構いると思うぞ。私は、彼女ほど潔癖じゃなかったけど、彼女が尻込みする気持ちは何となく分かる。しかも、フローレンスは、ものすごくプライドが高く、今で言う“意識高い系”な女子。まぁ、頭でっかちなんだよね。若い頃って、みんな大なり小なりそういうとこあるわけで。

 セックスの壁、って、人生で結構大きいかも知れないなぁ、とも思う。というか、恋愛の壁、と言った方がいいのかな。ある段階で、この壁を越えるなり破るなりしておかないと、どんどん壁が高くなって、もうどうしようもなくなる、、、みたいなところはあるかも知れない。特に、こういう要素って、個人の価値観の違いがハッキリ出るからねぇ。同じ女子でも、ものすごく積極的な人もいるし、フローレンスみたいな子もいるし。男子でも、エドワードみたいにちゃんと我慢する子もいるけど、暴走する子も多いわけで。男子にこそ、ちゃんと避妊を教えろ!! と常々私が思う理由はここにあるんだけど。射精は責任持ってしろ。

 フローレンスのワンピースのファスナーを上手く下ろせないだけで、激しく自分に憤るエドワードとか、もうちょっと、ヤバいだろ、、、と思って見ていたけど、事態はどんどん悪い方へ行くばかり。

 エドワードは、我慢し過ぎたのが逆効果だったのか、ようやく、、、というときに、まさにアッと言う間に終わっちゃって、お気の毒としか言い様がない。これが、相手がベテランの女性だったら「あらあら、、、可愛いわねぇ、坊や」と頭ナデナデしてくれるんだろうけど、潔癖フローレンスちゃんは、なんと「気持ちワルイ!!」だもんね。もう、2人とも、可哀想、、、。

 ……とはいえ、フローレンスは、離婚後、別の男性とちゃんと家庭を築いて、孫まで出来たんだから、単にエドワードとは、ボタンの掛け違いを修復できなかっただけ、とも言える。

 恋愛とは、他人に寛大になることを学ぶ機会でもあるのだよね、、、(遠い目)。


◆フローレンスは苦手なタイプです。

 本作は、実際には結婚式を終えて、初夜で破局するまでの数時間を描いているだけなんだが、その間に、2人の馴れ初めが挿入され、結婚に至るまでの道のりが明らかになる、という構成。

 この脚本も、イアン・マキューアン自身が手掛けていて、ちょっと意外だった。大抵、小説家が脚本を書くと、イマイチなことが多いけど、本作は非常に時系列処理も上手く、しかも、現在の2人の物語は、ホテルの部屋だけで展開されるから、結構難しいと思うが、見ている者を飽きさせない展開は素晴らしいと思った。

 ……が、私が本作をイマイチだと感じてしまったのは、やっぱし、題材が題材だし、フローレンスのキャラがあまり好きじゃない、ってのも大きい。

 彼女は、前述の通り“意識高い系”で、室内楽のグループを編成していてそれでプロになることを目指していて、、、って何か、現実に自分の身近にいたら、絶対友人になりたくないタイプなんだよなぁ。もちろん、これは私の個人的な好みの問題だけど。エドワードとのデートも、もう、実に教科書的な、というか、、、。私が男だったら、息が詰まりそうになると思う。

 エドワードの風変わりな母親(脳に障害がある)へのフローレンスの対応が、素晴らしいものとして(多分)描かれているんだけど、この辺りも、私にはちょっとダメだった。もちろん、フローレンスの行動は誰にでもできるものではないし、客観的に見れば、いわゆる“神対応”なのだが、私の目には“神過ぎて”ダメだったのである。

 あと、2人が別れた後日談、ってのが終盤に展開するんだけど、これがね、、、ちょっと蛇足っぽいと思ってしまった。……いや、切なくて泣けるんだけど、映画の作品として全体を見たとき、特に、ホールでの演奏シーンがクサいなぁ、、、と感じてしまって。これには伏線として、若い頃の2人が、同じホールで、「ここで絶対成功して世に出る!」と決意を語るフローレンスに対し、エドワードが「じゃあ、ボクは前から3列目のこの席に座って盛大に拍手するよ!」等と夢を語り合うシーンがあるわけよ。で、後日談では、爺さんになったエドワードが、その前から3列目の席に座って、涙を流しながら拍手しているのに、舞台上の婆さんになったフローレンスが気付いて涙する、っていうね、、、。これ、どーなの? クサすぎない??

 フローレンスをシアーシャ・ローナンが演じていたからかなぁ、と自問自答してみたが、やっぱりそんな単純なことではないと思う。シアーシャ・ローナンは、確かに良い女優さんなんでしょう。私は彼女の雰囲気も演技もやっぱり好きになれないが、他の女優さんがフローレンスを演じていても、まあ、多分好きではないだろう、フローレンスのことは。

 エドワードを演じたビリー・ハウルは、結構頑張っていたと思う。見ている間中、誰かに似ているなぁ、、、と思って見ていたんだけど、後で分かりました! ジョン・ボン・ジョヴィです! 若い頃のジョンにそっくりやん?? と思ったのは私だけかな。

 フローレンスが夢見る舞台のウィグモアホールだけど、意外に小さいホールなのね。有名なホールなので、てっきりもっと大きい(カーネギーとか)かと思ってた。入り口も何だか地味だったし(本作で映っていたのは楽屋口?)。でも、ホール自体はとっても趣があってステキなホールだった。あんなホールで、素晴らしいリサイタルとか聴いてみたい、、、(嘆息)。


◆余談だけど、、、

 ネットでの感想をザッピングしていたら、フローレンスが、実父に性的虐待を受けたことを窺わせるシーンがあったらしいけど、、、、そんなのあったかしらん? 気がつかなかった。この実父も、相当の変わり者だとは思ったけど、そんな恥知らずな父親だったのかなぁ? 私が見落としただけかも。

 ただ、もし、そういうシーンがあったとしたら、そんな余計な要素入れる必要なかったとは思うけどね。

 セックスに積極的になれない理由に、そういった深刻な原因がありがち、と世間に誤解させるようなことをしないで欲しい。何となく男性が苦手、とか、セックスが怖い、という女子は普通にいるのだ。

 私は、若い頃、セックスが怖いわけじゃなく、見合いがイヤだっただけだが、「どうしてそんなに見合いがイヤなのか」と母親が聞くので、「(見合いなんて)こいつとセックスできるか、と聞かれているみたいで気持ちワルイ」「好きでもない男とセックスするような結婚なんかしたくない」(実際にはもう少しマイルドな表現だったが)と答えたら、母親が「アンタ、これまでにイタズラされたりとか特殊な経験でもしたん?」などと言い出し、そういうことを聞かれること自体が「特殊な経験だ!」と言いたくなったものだ。

 とにかく、そういう性的なことに対する感覚は人によって千差万別なんだから、“セックスを怖がる女=性的虐待歴がある女”みたいなのは、割と安っぽい小説や映画で出くわすが、本当に止めていただきたい。









DVDで十分だったかな、、、。




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プロヴァンス物語 マルセルの夏/プロヴァンス物語 マルセルのお城(1990年)

2018-08-20 | 【ふ】



 以下、公式HPよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 お針子と教師の間に生まれたマルセルは、幼いうちから読み書きに秀でた少年。やがて弟、そして妹も誕生したパニョル一家は、夏のヴァカンスを過ごすため、ローズ伯母とその夫ジュール伯父が借りている丘陵の緑とセミの声に包まれた別荘に向かう。狩猟の名人である伯父は初心者の父ジョゼフを狩猟に誘う。マルセルが初めて目にする頼りない万能の父…。(『プロヴァンス物語 マルセルの夏』)

 再び休暇が訪れ、友が待つ夢にまで見た丘陵に戻ったマルセルは、そこで初めての恋を体験する。やがてパニョル一家は、母の計らいで毎週末を別荘で過ごし始める。ただそこは、多くの荷物を抱えて歩いていくには駅からとてつもなく遠く、父の教え子の助けもあって、いくつかの大きな邸宅の庭先を抜けて近道をしていた。が、ある日、頑固で容赦ない邸宅の管理人に見つかり、母は卒倒してしまう…。 (『プロヴァンス物語 マルセルのお城』)

=====ここまで。

 マルセルの夏、マルセルのお城は、それぞれ独立した作品ですが、連作として制作されたものです。「夏」→「お城」の順に両方見るのが一応オススメ。


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 夏休みスペシャル企画、、、かどうかは分からないけど、同時期に開催中の「ベルイマン特集」はスルーして、現在、恵比寿ガーデンシネマで公開中の2作品を見て来ました。DVDにもなっているみたいだけど、こちらは4Kリマスター版。しかも、こういう自然を舞台にした作品は、スクリーンで見るに越したことはないし、他にも同じガーデンプレイスにある東京都写真美術館で公開していた、ベルドリッチの『暗殺のオペラ』も見たかったので、酷暑の中を行ってまいりました。『暗殺のオペラ』の感想はまたいずれ、、、。


◆南仏プロヴァンスの日々、、、。

 子どものころの、本当に幸せな時間を切り取って生き生きと描いた2作品。見る者も束の間幸せな時間を共有できる。

 19世紀末フランス、、、ということで、中産階級にとっては良い時期だった様子。もう少し時間が経つと第一次大戦の時代に突入していくのだからね。

 マルセルの父・ジョゼフは教師で厳しくも優しい人。母親のオーギュスティーヌも美しく、夫を支える良妻賢母。このお母さんは、自分が町に買い物に行くときは、幼いマルセルをジョゼフの教室の後ろに置いて行くので、マルセルは読み書きの授業を子守り代わりに聞くうちに、きちんと教えられもしないうちに、読み書きができてしまうようになる。ジョゼフは驚くが、オーギュスティーヌは、マルセルの「脳味噌が爆発してしまう」と本気で心配し、マルセルに読書を禁じてしまう。

 ……という、何とものどかな描写が続く。そうして、マルセルに弟が生まれ、オーギュスティーヌの姉・ローズもマルセルを連れて公園を散歩していて出会ったジュールと結婚し、皆で夏の間を別荘で過ごす。この「夏」は、特に何が起きるわけでもなく、ほのぼのとした夏休みではあるが、マルセルにとって忘れがたい子ども時代の1ページとなっていく様子がキラキラした映像で描かれる。

 「お城」の方は、さらにその後のクリスマス休暇や、日常の休暇ごとに別荘に通うことになったマルセルたちの様子を描写したもので、こちらは小さい出来事がちょこっと起きるものの、やはり概ね平和でほのぼのである。出来事と行っても、別荘までの遠い道のりが、思わぬショートカットによって、一家にとっては大変な冒険になる、というものだが、子どものマルセルにとっては、これは大事件だったに違いない。

 ただ、「お城」の終盤で、一気にこの2作品は切なさを帯びる。美しく優しい母・オーギュスティーヌはこの5年後に病気で亡くなり、弟も30歳で夭折する。「夏」で、山で出会い無二の親友となった少年リリは、その後第一次世界大戦で銃弾を受けて亡くなる。こんな哀しい未来が、この2作品に描かれているマルセルたちに待っているなど、登場人物の誰も想像だにしていない。そして、マルセルのナレーションはこう語る。

「それが人の世だ。喜びはたちまち悲しみに変わる。幼き者が知る必要はない……」

 そう、そのとおり。この先に何が待っているのかなど、幸せな時間を過ごす子どもが知ることも考えることも、必要のないこと。でも、後から振り返って見ると、その幸せな時間が、どれほど輝いた大切な時間だったか、、、大人になって初めて知るのである。

 だから「夏」→「お城」の順に見た方が良いと思うんだけど、「お城」を先に見れば、「夏」のキラキラが、ますます眩しく切なく胸に響くのかも知れない。それもいいかも、、、。


◆父・ジョゼフ

 ジョゼフが、なかなか面白い人である。

 教師だから、それなりに厳しい一面もあるのだが、幼いマルセルにとって、父はとにかく偉大な人なのだ。何でも知っていて、頼りがいがあって、とにかく“おっきな人”なんである、マルセルにとっては。

 でも、実際はジョゼフも人の子。平凡な一オジサンだ。

 ある日、ジョゼフの友人が、大物を釣り上げて、得意のあまりにその大きな魚と一緒に記念写真を撮った。その写真をジョゼフに自慢げに見せると、ジョゼフは「わざわざ写真撮ったのか? 魚とポーズとったのか? 大物を釣って喜ぶのは良いが、写真まで撮るなんて誇りがないんだ。悪徳の中では、最も虚栄心が愚かしい」などとマルセルに言うのだ。

 しかし、後日、別荘で過ごしているある日、大物のウズラを仕留めたジョゼフは、そのウズラを腰にこれ見よがしに下げて、マルセルと並んで、神父に写真を撮ってもらうのである。

 そんな父の姿を見て、しかし、マルセルは、父を軽蔑するではなく、むしろ意気に感じてますます好きになるのである。

 また、マルセルは、「夏」の終盤で、別荘から自宅に帰りたくなくなって、親友リリとともに山で暮らす決心をし、自分のベッドの枕に両親に宛てた置手紙をして別荘から“家出”をする。しかし、そこは子どものすること、すぐに怖気づいて、慌てて別荘に戻ってくるマルセル。枕にそのままになっている置手紙を見てホッとするマルセルは、その置手紙を処分する。

 ……しかし、実はどうやらその手紙は両親には読まれていたらしいことが、その後の描写で暗示される。でも、ジョゼフはそれを露骨にマルセルに言ったりはしない。

 父も息子も、互いに互いを思いやり、愛情を抱いていることがよく分かる。

 「お城」では、別荘までのショートカットをするのに、他人の敷地を無断で通ることに家族でただ一人抵抗するのもジョゼフ。それは、不法侵入だから、というのもあるけど、それがバレたら教師をクビになってしまうから、という、極めて俗な理由が第一。でも、失業したら家族を養うことも出来なくなるし、現実的な理由で、こういうところでヘンにカッコつけて建前論を言わないところも好感の持てるお人。

 結果的に、意地の悪い管理人に見つかるけれど、かつての教え子に助けられる。ショートカットを教えてくれたのもこの元教え子。ジョゼフは良い先生だったからこそ、元教え子に何かと助けられるのよね。

 こんな父親を、マルセルが大好きなのは、当たり前だろう。


◆山の友・リリ

 このリリ君が、可愛かった! マルセルを演じたジュリアン・シアマーカもキリッとしたなかなかの美少年だが、リリを演じたジュリ・モリナスは、なんともはや可愛らしい。ちょっと特徴のある顔立ちだけど、リリのキャラとぴったりで、気に入ってしまった! 「お城」では出番が少なかったのがちょっと残念だけど。

 「夏」で、マルセルが山道で迷子になりかけた際に助けてくれたのがリリ。もう、山のことなら目をつぶっていても歩けるくらいに、何でも知っている少年だ。何というか、こういう子のことを“純粋”というのだろうなぁ、、、と、スクリーンを見ながら思っていた。

 嵐になりそうになって、岩場にマルセルと一緒に隠れると、後ろから視線を感じるリリ。マルセルも気付いて、リリはマルセルに「そっと振り向いて……」と言うと、マルセルは怖々「吸血鬼?」と聞く。「違う、“大公”だよ。大ミミズクだ」とリリが答えて、映ったのは、ホントに大きいミミズク。怖くなった2人は「濡れた方がマシ」と、雷雨の中を、マルセルの別荘に一目散に駆けて行く。

 そうして、連れ立って帰ってきた2人は、もうすっかり仲良しになっていて、びしょ濡れになった2人は素っ裸でマルセルの部屋に駆け込み、リリはマルセルの服に着替える。その服が、セーラー服で、リリが着るとまた実に似合っていて可愛らしい。リリはすごく嬉しそうで「これもらって良いですか?」、、、もちろん、マルセルはリリにあげる。

 「夏」のラストシーン、マルセルとリリの別れのシーン、リリが見送りに来るんだけど、そのときリリが着ているのがこのセーラー服。これを着て、寂しそうにマルセル達を見送るリリが、なんとも切ないのよね、、、。

 でも、「お城」の序盤で、久しぶりにマルセルと再会したリリがまた可愛い。本当はマルセル達が来るのを待っていたのに、「他の人のことを待っていたんだけどいなかった」と嘘を言う。もちろん、マルセルにはそれが嘘だと分かっているんだけど。何か、いいなぁ、、、こういうの、、、と見ながらしみじみしてしまったよ。

 そんなリリも、「お城」の終盤で、その後の哀しい最期が明かされる。あんなにキラキラしていた時代があったのが嘘のような、、、。


◆その他もろもろ

 お母さんのオーギュスティーヌを演じたナタリー・ルーセルが美しかった。彼女、あの『コックと泥棒、~』のプロデューサーの娘さんだとか、、、、。へぇー。

 あと、音楽が印象的だなぁ、と思って聞いていたのだけど、音楽を担当したのはあの『ディーバ』のウラジーミル・コスマだった! 『ディーバ』、、、あんまし好きじゃないんだけどね。

 とにかく、自然や景色が本当に美しく、これはスクリーンで見る価値があるというもの。4K画像だから、すごくクリアでキレイだった。

 “ここでは幸せが泉のようにあふれていた”
 “人生で最も美しい夏の日々”


 ……もうこの予告編のナレーションに全てが凝縮されていると言っても良いかも。良い映画を見ることができて、幸せでした、私も。









こんな子ども時代の思い出がある人は幸せだ。





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ブリキの太鼓(1979年)

2018-08-17 | 【ふ】



 以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 1899年のダンツィヒ。その郊外のカシュバイの荒野で4枚のスカートをはいて芋を焼いていたアンナ(ティーナ・エンゲル)は、その場に逃げてきた放火魔コリャイチェク(ローラント・トイプナー)をそのスカートの中にかくまった。それが因でアンナは女の子を生んだ。

 第一次大戦が終り、成長したその娘アグネス(アンゲラ・ヴィンクラー)はドイツ人のアルフレート・マツェラート(マリオ・アドルフ)と結婚するが、従兄のポーランド人ヤン(ダニエル・オルブリフスキ)と愛し合いオスカルを生む。

 1924年のことだ。3歳になったオスカル(ダーフィト・ベネント)は、その誕生日の日、母からブリキの太鼓をプレゼントされる。この日、彼が見た大人たちの狂態を耐えられないものと感じたオスカルは、その日から1cmとも大きくなるのを拒むため自ら階段から落ち成長を止めた。周囲は事故のせいだと信じた。が、この時同時にオスカルには一種の超能力が備わり、彼が太鼓を叩きながら叫び声を上げるとガラスがこなごなになって割れた。

 毎週木曜日になると、アグネスはオスカルをつれて、ユダヤ人のおもちゃ屋マルクス(シャルル・アズナヴール)の店に行く。彼女はマルクスにオスカルをあずけて、近くの安宿でポーランド郵便局に勤めるヤンと逢いびきを重ねていたのだ。それをそっと遠くから目撃するオスカル。彼が市立劇場の大窓のガラスを割った日、第三帝国を成立させ、ダンツィヒを狙うヒットラーの声が町中のラジオに響いた。

 両親といっしょにサーカス見物に出かけたオスカルは、そこで10歳で成長を止めたという団長のベブラ(フリッツ・ハックル)に会い、彼から小さい人間の生き方を聞いた。

 ヤンも含めた四人で海岸に遠出した時、引きあげられた馬の首からウナギがはい出るのを見て嘔吐するアグネス。彼女は妊娠していたのだ。ヤンが父親らしい。それ以来、口を聞かなくなり、魚のみをむさぼる彼女は遂に自殺してしまう。

 やがて、ナチ勢力が強くなり、1939年9月l日、ポーランド郵便局襲撃事件が起こる。銃殺されるヤン。

 やがてマツェラート家に、オスカルの母親がわりとして16歳の少女マリア(カタリーナ・タールバッハ)が来る。オスカルとベッドを共にする彼女は、やがてマツェラートの妻になり、息子クルトを生む。クルトを我が子と信じて疑わないオスカルは、3歳になったら太鼓を贈ると約束し、再会したベブラ団長と共に慰問の旅に出た。慰問団のヒロイン、ロスヴィーダ(マリエラ・オリヴェリ)との幸福な恋の日々。

 しかし、連合軍の襲撃の日、彼女は爆撃をうけ死んでいった。オスカルが故郷に帰った日は、ちょうどクルトの3歳の誕生日でドイツ敗戦の前夜だった。ソ連兵に射殺されるマツェラート。彼の葬儀の日、オスカルはブリキの太鼓を棺の中に投げ、彼は成長することを決意する。その時、彼はクルトが投げた石で気絶する。祖母アンナ(ベルタ・ドレーフス)は彼を介抱しながらカシュバイ人の生き方を語る。そして成長をはじめたオスカルは、アンナに見送られ、汽事に乗ってカシュバイの野から西ヘと向かってゆくのだった。

=====ここまで。

 途中、「やがて」連発のあらすじ、、、、。ま、いいか。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 今回見たのは多分3回目くらいだと思うが、別に好きな映画というわけでもないのに何故レンタルリストに入れたのかは相変わらず記憶になく、、、。まあ、きっと、もう1度見てみようかな、くらいの軽い気持ちだったに違いない。何回見ても、訳分からなさとぶっ飛びっぷりに、頭の中がウニ状になるのだけれど、正直、嫌いとも言い難い。こうして、またいつか、4回目を見てしまうんだろうな、と思う。


◆なぜ“オスカル”なのか???

 何度見ても可愛いと思えないオスカル。オスカルは、自分の意思で、自身の身体の成長を止めたり、奇声を発して物を壊したりする、「エスパー少年」である。成長を止めた理由が“大人の世界は醜い、汚いから”というもので、まあ、ピーター・パンとかと同じで、大人になりたくない症候群を体現しているキャラである。

 しかし、このオスカルが成長を止めた後にやっていることは、ほとんど“大人と同じ”なんである。気に入らないことがあるとエスパーで八つ当たりしたり、セックスしたり、家出したり、生きていくために慰問団で働いたり、、、。

 これって、どーゆーこと? まあ、彼が止めたのは身体の成長だけで、精神的な成長は止めてないみたいだから、中身は大人になっていくんだよ、ってことか。それじゃぁ、身体の成長を止める意味ないじゃん、と思うんだが。それとも、大人も子どもも、基本、同じくらいにバカバカしいってことなのか。

 原作(未読)は、ギュンター・グラスで、彼の出生地が本作の舞台だ。原作の記述は分からないが、本作を見る限り、オスカルの言動を通して、ナチスを非難しているんだろうな、との察しはつくが、そこでこのオスカルのようなキャラを生み出すグラスの想像力は、やはりタダモンじゃない、と感じる。なぜ、オスカルだったんだろう、、、?

 ナチスの集会に、オスカルたちが乱入(?)し、みんなが踊り出すシーンは、ちょっと不気味である。総統とナチスという組織に盲目的に従属している人々が、オスカルの叩く太鼓の音に易々とコントロールされてしまう、という皮肉な場面。コントロールされやすい人は、支配者が誰であれ、コントロールされてしまうものだ、とでも言いたいのかね。支配されることって、ある種の快感だ、、、と、今日の某全国紙の記事にも出ていたしなぁ、、、。

 この“オスカル”の不可解さが、決して好きとは言えない作品であるにもかかわらず、複数回見てみようと思わせる要因なのだ、、、、多分。

 しかし、今回見て、少しだけ自分なりに腑に落ちる部分もあった気がする。というのも、前回見たのは、グラスのあの“告白”以前だったからだ。2006年に、グラスが、過去にナチスの親衛隊に属していたことを公表し、私は、グラスに当時も今も何の思い入れも抱いていないけれども、それでもかなり驚いたし衝撃を受けた記憶がある。反ナチ文学でノーベル賞を取った、くらいの認識をしていた私のような者にとっては、かなり驚愕の告白であった。

 その告白を私は読んでいないし、実際にどのような経緯で彼が親衛隊に属したのか、詳細を知らないのでそのことに対しては何も書くことは出来ないが、今回、あの“オスカルの異常さ”を改めて見て、これは、グラスの良心あるいは罪悪感の裏返しなのかも知れないなぁ、という気がしたのだ。

 かつて自身が信じたもの、共感したものが、とんでもない化け物だった。そんな化け物に感化された自分もまた、化け物なのではないか、という自問自答の末に生まれたのが、あのオスカルのキャラだったのかも、、、と。

 きっと、グラスの研究者によって、この辺はきちんと解明されていることなのだろう。私がこう感じたのは、飽くまで今回本作を見て、あのオスカルの狂態を見て、ぼんやりとそんなことが頭に浮かんだ、という程度のものだ。でも、私にとって、長年謎のキャラだったオスカルが、少し、意味が分かったように感じられたのは、今回見ての収穫だといえる。研究者の論文に解説されることも悪くないが、自分で自分なりに納得することは一種の快感だ。

 まあ、原作を読めば、もっとよく分かることなのかも知れない。いずれ原作も読んでみようと思ってはいるけど、いつになることやら、、、。


◆子役について思うこと、、、

 このオスカルを演じたダーフィト・ベネント君であるが、どうも、その後の役者人生は鳴かず飛ばずといったところの様だ。彼にしても、『エクソシスト』のリンダ・ブレアにしても、あまりに強烈な役を演じた子役は、その後が難しいんだろうね、、、。

 本作は、児童ポルノ問題にも発展したが、子どものダーフィト君が大人と性行為に及ぶシーンがあり、まあ、それでなくても本作のオスカルの役どころは、かなり異常なキャラの演技を求められるわけで、正直なところ、これを演じることを許したダーフィト君の親御さんもスゴいと思うが、いくら芸術の創造だからといって、子どもにここまでのことをさせるというのは、児童福祉の側面からいっていかがなものなのか、、、という若干の嫌悪感に似たものは、見る度に抱く。でも、そう言いながら複数回見ているわけだから、私も本作を制作した大人達と同じ穴の狢である。

 おまけに、本作は、映画史上に残る名作とさえ言われている。ということは、これまでも、そしてこれからも、多くの人が本作を見ることになるのだろう。本作は、悪質な児童ポルノではないと思うが、オスカルがマリアの手にソーダの粉末を乗せ、その上に自身の唾液を垂らすというシーン(しかも複数回ある)は、性行為のシーンよりも気持ち悪く、吐き気を催すことだけは確かだ。

 これは、私の感性の問題だが、ハッキリ言って露骨なセックスシーンよりも、よほど不快な描写であり、ああいうことを子どもにさせる意味が、私には理解できない。多分、演じたダーフィト君は、大した意味もなく演じているのだろうし、子どもが無邪気に唾液を物に垂らすことは珍しいことではないだろう。大人だからこそ、そこに性的な意味を見出し、勝手にポルノ的なイメージを抱くのだ。私が嫌悪感を抱くのは、ポルノ的だからというより、単に不潔な感じがするからという方が大きいが、何はともあれ、やはり、この“垂涎シーン”は、私には生理的にどうしても受け容れられない。


◆その他もろもろ

 本作には色々キョーレツな描写があるが、まあ、何と言っても一番キョーレツなのは、やっぱし、馬の頭で鰻を捕獲する描写かなぁ、、、。あれは確かに気持ちワルイ。馬の目とかから、鰻がニュル~ッと出てくるのは、グロテスクそのもの。ああいう鰻の漁の仕方が実際にあったんだろうか……?

 あとは、慰問団の小人たちが無残に殺されていくシーンとか。マリアと父親のセックスしているシーンとか。冒頭、オスカルのお祖母ちゃんがスカートの中に男を入れてアグネスを妊娠しちゃうシーンとか。もちろん、オスカルが奇声を発して診察室のホルマリン漬け標本瓶を全部破壊するシーンも、かなりキョーレツ。

 何というか、本作は全般に、“不潔”なんである。スクリーン(というか画面)全体を覆う雰囲気そのものが“不潔”な感じなのである。汚い、とはちょっと違う。不潔な感じ。決して目を背けたくなるような汚いものではないのだが、見ていると眉間に皺が寄ってくる何とも言えない不快感を覚える不潔さ。それが、本作を支配している気がする。

 もちろん、そんな風に感じるのは私だけだと思うし、本作がだから不潔な映画だと言っているのではない。児童ポルノまがいだから不潔だ、というのでも、もちろんない。前述した垂涎シーンは多少影響してはいるだろうが、それだけではない。

 猥雑さが醸し出す不潔な感じ、、、とでもいうのが一番近いかな。あんまり、実際には近寄りたくない世界だが、でも覗いてみたくなる世界、そんな感じだ。








日本で一番有名な"オスカル"とはあまりにも違いすぎる、、、。




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ゲッベルスと私(2016年)

2018-08-09 | 【け】



 以下、上記リンクよりストーリー(?)のコピペです。

=====ここから。

 1911年、ベルリンに生まれたブルンヒルデ・ポムゼルは、第二次世界大戦中、1942年から終戦までの3年間、ナチスの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスの秘書として働き、近代史において最も冷酷な戦争犯罪者のそばにいた人物である。

 いくつもの高精度カメラは、ポムゼルの深く刻まれた顔の皺や表情だけでなく、瞳の奥に宿す記憶をも鮮明に捉える。

 幼少の頃の父親の思い出、初めて出来た恋人の話、ユダヤ人の友人の面影、そして“紳士”ゲッベルスについて……。103歳とは思えぬ記憶力で、ポムゼルはカメラに語りかける。

 また、ナチスを滑稽に描くアメリカ軍製作のプロパガンダ映画や、ヒトラーを揶揄する人々を捉えたポーランドの映像、ゲッベルスがムッソリーニとヴァカンスを楽しむプライベート映像、そして戦後、ナチスのモニュメントを破壊する人々やホロコーストの実態を記録した映像等、世界各国で製作された様々なアーカイヴ映像が挿入される。

 「いわれたことをタイプしていただけ」と語りながらも、ポムゼルは時折、表情を強張らせて慎重に言葉を選んでいく。それは、ハンナ・アーレントにおける“悪の凡庸さ”をふたたび想起させるのだった。

=====ここまで。

 ドキュメンタリーなので、ストーリーというよりは内容紹介ですね。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 『マルクス・エンゲルス』を見に行ったときに予告編で見て、何となく見てみようかな、と思った作品。103歳の元ナチ党員が、一体何を語るのかしらん、、、という単なる好奇心。……見終わって、正直なところ、心重くなって劇場を後にしました、、、。


◆まさに『白いリボン』の世界、、、。

 ポムゼルさんの語る幼少時の話を聞いていると、もうまさに、ハネケの『白いリボン』のまんまで驚いた。以下、ちょっと抜粋。

 “第一次世界大戦が終わり父が自宅に帰ってきたわ。お行儀が悪いとすぐに殴られたのよ”
 “じゅうたん叩きでお尻を叩かれたことや、夜お化けが出そうな廊下を歩いてトイレに行かないといけなかった”
 “ドイツの当時の子どものしつけ方はとても厳しく、少しでもごまかしたり、嘘をついたり、罪を他人になすりつけることを、子どものうちから覚えてしまう”


 ……ハネケは、こういうことを描いていたんだね、やっぱり。喋るポムゼルさんのシワシワの顔を見ながら、あの映画のシーンが頭に浮かんだよ、、、。やはり怖い映画だったんだ、アレは。

 こういう育てられ方をするとああなる、、、とハネケが言いたかったのかどうかは微妙なんだが、やはり、学校に限らず、あらゆる場面における「教育」って、ものすごく、個人の人格形成だけじゃなく、社会の骨格形成にも影響を及ぼすということは、間違いない。だから、アベベも教育にやたらと介入したがり、実際に介入してくるわけだ。

 そして、そんなことは、ドイツだけじゃなく、日本だけじゃなく、全世界の国々共通に言えることである。どんな教育を子ども達に施すか、これはその国の命運を左右することなのだ。

 ……だから、もう本作の序盤で、私は暗澹たる気持ちになって、どよよ~んとなってしまった。

 『白いリボン』再見する勇気がなかったんだけど、本作を見て、ますます再見する気がなくなった、、、なんてことはなく、実は、もう一度ちゃんと見てみたいと逆に思った次第。あの作品は、やはり、大人がちゃんと見て咀嚼しないといけない映画なんだ、と改めて感じたのよね、、、。見るのが怖い、ってのはあるけれど、近々、再見しようと思う。


◆死期を悟る年齢になっても、、、。

 しかし、このポムゼルさん、約70年も前のことを実によく語るんだな。103歳で、死を間近に感じている身で嘘はつかんだろう、、、と、普通の人情ならば思うが、どうだろうか。

 私は、ポムゼルさん、この期に及んでなお、真実から目を逸らし、言い逃れをしているように感じた節が多々あり、少々うんざりした。人間の性(さが)って、これほどまでなんだろうか。死に際に、洗いざらい吐き出すわ、、、という風にはならないものなんだろうか。

 うんざりした部分を以下に抜粋してみる。

 “当時は、私たち自身が巨大な強制収容所にいたのよ”
 “あんな激動の時代に運命を操作できる人はいない。私たちは渦中にいたのよ”
 “私たちは何も知らなかった。とうとう最後まで”
 “たった一人の人間に魔術をかけられてしまったの”


 他にもいっぱいあるけど、まあ、この辺が象徴的かな、、、。たった一人の人間、ってのは、もちろんヒトラーであり、ゲッベルスではない。ちなみに、ラストではこう語る。

 “私に罪があったとは思わない。ただし、ドイツ国民全員に罪があるとするなら話は別よ。結果的にドイツ国民はあの政府が権力を握ることに加担してしまった。そうしたのは国民全員よ。もちろん私もその一人だわ”

 このラストの言葉は、私は、まあそうだな、と思った。私に罪はない、と言い切っちゃっているけど、後半では自分にも罪があると間接的には言っている。これくらいが、このポムゼルさんの精一杯の言葉だったのだろう、と思う。多分、自分に非があると言ってしまえば、自分の過去を否定することになるような気がするんだろうな、と。

 そういう思考回路の人はいる。過去の自分の言動を否定すること=自分を全否定すること、という方程式を頑なに持っている人。もの凄く不思議な方程式だけれど、これ、私の母親がまさにそうだから、こういう考え方の人がいることは、実によく分かる。

 自分が間違っていたと思えば、過去の自分の言動を否定し、改め、今後の人生に活かせば良いではないか。……というのは、口で言うほど簡単じゃない。私だって、人に指摘されれば、その場ですぐに率直に受け容れられるか怪しいもんだ。しかし、間違いを犯さない人間はいない。間違いを間違いと認めることの方が勇気がいるし、厳しいことなのだ。

 今の時代に生きている、ということは、未来に対して責任を負っている、ということ、、、、などと書くと壮大な感じがするが、まあ、そういうことだと思う。昨今の日本は、色んな側面から見て決して良い状態にあるとは思えないが、そういう状態にしている責任の一端は、一人一人にあるということだ。政治が悪いだの、政治家がアホだの言うのは簡単だが、その国の政治や政治家は、国民の実態を映す鏡でもある。

 死に際に、あの時は、みんなああするしかなかったのよ、、、等と言って、未来の若者達を呆れさせる老婆にならぬよう、、、、と思う半面、自分の無力さにゲンナリもさせられた作品だった。







ポムゼルさんは2017年に106歳で亡くなっている。




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愛する映画の舞台を巡る旅Ⅱ ~ハノイ(ベトナム)~その②

2018-08-06 | 旅行記(海外)
**美しいエリアーヌの愛した仏領インドシナ** vol.2
 




その①につづき

 さて、水上人形劇の開始は、6:30pmということで、ホテルのロビーに5:40pm集合し、バスで会場へ。

 この時間、ハノイ市内は帰宅ラッシュで、大渋滞。



無法地帯の道路、、、


 この写真じゃイマイチ分かりにくいけど、とにかく、バイクの量がスゴい! しかも、2人乗りは当たり前、3人乗り、4人乗りもかなりいる。タカさんによれば、2人乗りまでは合法、3人乗り以上は違法だけど、「みんなそんなこと気にしてません」と。強烈だったのは、親子3人乗りしていたんだけど、運転は父親、後部座席に母親、間に赤ちゃん、、、それもまだ生まれて多分数ヶ月のホヤホヤの。怖すぎ!!

 おまけに、皆さん、信号無視はするわ、ウィンカー出さずに車線変更するわ、勝手に方向転換するわ、クラクション鳴らしまくるわ、、、、。まぁ、これは、25年前に中国(北京)に行ったときも似たような光景に遭遇し、唖然としたんだけれども、、、。これでよく事故が起きないものだと、逆に感心するほど。タカさんも「交通事故はほとんどありません。ベトナムの人、運転上手です!」と言っていた。

 帰ってきてからネットで調べたら、しかし、やっぱりベトナムの交通事故はそれなりに多いらしい。そらそーだよなぁ。とにかく、日本だったら、即取り締まられるような車やバイクばっかしだったし、逆にすぐに事故ってるだろうな、あんな運転じゃ。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 ……というわけで、20分ほどして、人形劇の会場へ到着。


タンロン水上人形劇場。塔のような建物に人形が飾られている、、、



劇場の前にはホアンキエム湖


 1階は、ちょっと高級そうなレストランで、そこを通り抜けて、入り口のホールのような所で待つ間に、カメラで人形劇を撮影したければ、20,000ドン払え!ってことだったので、20,000ドン払って撮影許可チケットを買う。20,000ドン?? 高くない? と思うでしょ? 10,000ドン≒50円なので、100円です。撮影に100円、高いと思うか安いと思うかは、人による。私は、安いとも思わなかったけど、折角だから100円くらいと思って、チケットをゲット。

 すると前の回の劇が終わったのか、お客さん達が続々降りてくる。で、ふと、階段を見上げると、……え゛、、、!!


巨大人形のお出迎え


 何というか、、、、怖いというのか、面白いというのか、グロいというのか、見ようによっちゃカワイイとも言えるのか?、、まあ、キモカワなオジサン(?)みたいな人形がデーンと階段の踊り場に立っている。これにはたまげた、というか、笑ってしまった。紳士淑女ばかりのツアーの皆さんは、これを見ても無反応、、、。え、ここ笑うとこじゃないの?? と、何故かバツの悪い私。写真撮っているのも私だけ。……うーむ、これ、無反応でいられるのかぁ、、、すごいなぁ。

 などと思いながら、指定された座席に座る。前から3列目くらいの真ん中で、なかなか良い席を取っておいてくださったようだ。ちなみにこのオプショナルに参加していたのは、13名。ほとんどの方が来ていたことになる。


これが水上人形劇のステージ


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 時間になると、 ステージの両脇に、歌手と演奏者が入ってくる。




 で、いよいよ人形劇が始まり、いきなり出て来たのが、これ。きゃは! あの階段の所にいたキモカワなオジサンをちっちゃくした人形がいきなり登場!



 もう、ここで私、笑ってしまった。結構、人形の動きは機敏で速く、頑張って写真も一杯撮ったんだけど、どれもイマイチなのばかり。ご興味おありの方は、ネットで検索してみてください。たくさん画像出て来ます。

 水上人形劇とはどんなんか、ということを一応説明しておくと、この人形の背後にある茶色の簾のようなものの奥に、人形を操る人が入っていて、長~~~い棒の先についている人形を、この簾の後ろから棒を操って動かしているのだとか。この棒は、水の中に隠れているので、客席からは見えないけれど、これ、相当な腕力が必要ではないかと感じた。

 全部で17幕もあり、ベトナムの農民たちの生活を活写したもので、豊作を祈り、収穫を祝い、結婚を祝い、子どもの成長を喜び、自然や神を崇拝し、というような内容を1幕3~5分くらいの構成で描いている。面白かったのは、動物や魚や龍の人形の動き。人間の人形の動きはあまりバリエーションがないんだけれど、動物や魚は、実に素早くあちこち動き回り、生き生きとしていて、あれはかなりの技術が必要なんだろうなぁ、と思った。

 最初のうちは面白かった人形の造形や動きも、見慣れてくると、正直なところちょっと退屈気味に。全編で大体1時間くらいなんだが、ず~~っとほぼ同じテンションとノリで突っ走るので、少々長さを感じた。

 北部ベトナムは中国に近いから、やっぱり中国の影響を受けたのか、歌も楽器の音色も、また、人形達の衣裳も京劇のそれらによく似ているように感じた。京劇をライブで見たことがないので何とも言えないが、映画で見た京劇のイメージにはかなり被るものがあったような気がする。


最後に舞台裏の人々も全員勢揃い


 1日に5公演くらいこなすらしいから、これはかなりの重労働と見た。皆さん、おつかれさまです。退屈なんて思っちゃってすみません。

 あの、キモカワおじさんに見送られて、人形劇の会場を後にしましたとさ、、、。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 この後、一行はベトナム料理のレストランへ。昼間に機内で食事をしてから、ほぼ12時間食べていないので、みんな口々に「お腹空いた~~」と言いながらお店へ。いや、ホント、もう腹ぺこもいいとこだったわ、、、。

 バスで数分移動し、“la lua Wild Rice”とある看板のお店へ。どうやら、外国人観光客向けのお店のようだった。



 最初に飲み物を、ということで、ハノイビールを注文されている人が多かったかなぁ。私は、スイカジュースを。


スイカジュース。向こうに見えているジョッキはハノイビール。


 このスイカジュース、注文を受けてから絞ってくれたみたいなんだけれども、味はちょっと薄めで、ん? という感じだったんだけど、一緒についていたスイカを食べて(翌朝ホテルの朝食でも食べたけど)納得というか、、、。ベトナムのスイカは、日本のスイカに比べると、味が淡泊で水っぽいような。それでジュースにしても薄く感じたんだろうなぁ。でも決して美味しくないわけじゃなく、甘さも控えめなので、食事にも合わないことはない。

 一応、コースということだったけど、料理が次々に出て来て、写真を撮る暇もない!! 辛うじて撮った1枚がこれ! 


あの有名な“ブンチャー”(?)だと思う


 これは、ベトナムのブンという米麺(素麺とビーフンの合いの子みたいな感じ)と、つくねのような肉と、パパイヤ等の香草をつけだれと一緒に食すもので、つけだれが、いわゆる甘辛の、ちょっとニョクマムが効いたような味の、なかなか美味しいもの。このつくねのような肉と、パパイヤが合うんだよね。つけだれもgooだった。麺はやはり米麺だけあって、細いけれどモチモチでくっついている、、、。

 あとは、スープ、生春巻き、揚げ春巻き、魚も出て来たような気がするが、お腹が空いているところへ、一度にドーンと出されてイマイチ味わうゆとりもなく、皆さんで皿を囲んでいるので、私が撮影するために手を止めさせるのも気が引け、、、というわけで、あまり美味しい画像はゲットできず。

 デザートが結構印象的で、小豆粥、と言っていたけど、甘~いお粥。ほんの少しいただくのならいいけど、甘すぎて全部は食べきれず、、、。お向かいの男性陣達は、一口食べてギブアップの様子だった。

 まあでも、全体的には美味しくいただき、12時間ぶりの食事にありつけた満足感も手伝って、十分幸せな気持ちになって店を出て、そのまま宿へと帰ったのでありました。


帰りに踏切を電車が通過するのに遭遇

 
 ベトナムは、鉄道があまり発達しておらず、電車もあまり走らないんだとか。1日に数本、、、レベルらしい。そんな少ない電車、踏切を渡るというので、バスが数分停車。踏切係と思しき人が遮断機のようなものを手動で移動させたりして、何とものんびりとした光景だった。

 明日は、このツアーのメインイベント、ハノイ湾クルーズだ~~!




その③につづく
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哭声/コクソン(2016年)

2018-08-04 | 【こ】



 以下、wikiよりストーリーのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 何の変哲もない田舎の村、谷城(コクソン)。その村の中で、村人が家族を惨殺する事件が立て続けて発生する。容疑者にいずれも動機はなく、幻覚性の植物を摂取して錯乱したための犯行と発表されたが、謎の発疹を発症するなど説明しきれない不可解な点が多く残っていたことから、いつしか、村人たちの中では山中で暮らす謎の日本人(國村隼)が関わっているのではないかとささやかれはじめる。

 捜査にあたる警察官のジョング(クァク・ドウォン)は、オカルトじみたその意見を当初まともに取り合わなかったが、実際にその目で数々の異常事態を目撃したことにより、徐々に疑念を抱き、一度は断念した男の家への訪問を決める。そして通訳らとともに男の家を訪れたジョングは、得体の知れない祭壇や事件の現場を写した写真などとともに、娘ヒョジンの靴を見つけ、疑いを決定的にする。

 ジョングが男と関わってから高熱を発していたヒョジンはすぐに回復したものの、苦手な食べ物を食らい、ジョングに対しても普段は親思いの彼女からは想像できない罵詈雑言を吐くなど奇行を繰り返し、その体には一連の容疑者と同じ発疹が現れていた。そして、家族が目を離した隙に、怖れていた事件を起こしてしまう。

 事態を収拾するため家族が呼んだ祈祷師のイルグァン(ファン・ジョンミン)は、男をこの世のものではない悪霊だと断じ、抹殺のための儀式を行う。しかし、その最中に儀式の中止を訴え、苦しむヒョジンを見かねたジョングはイルグァンを追い出してしまう。一方、同じ時間に男も山中で儀式を行っていた。

 その後ヒョジンの容態はさらに悪化し、発疹も全身に広がっていく。娘を案じる一心で仲間とともに山中の家に押しかけたジョングは、ついに男を追い詰めるが…

=====ここまで。

 う~~む、この訳分からん感じのあらすじのとおり、作品も訳分からん度が高いオカルト・ホラー・コメディ(そんなジャンルあるのか?)でござんした。


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 面白い、スゴい、、、という噂の本作なので、韓国映画はあんまし見ない方だけど見てみることに。……いやはや、聞きしに勝るぶっ飛び映画で、度肝を抜かれるとはまさにこのこと。韓国、すごいわ、、、。こんな映画、日本じゃ絶対出てこないね、間違いなく。
 

◆グロいしエグいけど、面白い!

 序盤の展開から言って、ミステリーかと思って見ていたら、あらあら、ららら、、、へ??何コレ、ホラー?? いや、オカルト??となり、途中、ホラー調なのにメチャメチャ笑えるシーンも多々あり、もう、ぐぢゃぐぢゃ、、、グロもゲロも何でもアリ!!!みたいな展開に唖然となり、アッと言う間の2時間半が過ぎ去っていった、、、ひょ~~~。

 ……と、まるで説明になっていないけれども、まあ、でも仕方がない。そういう映画なんだから。

 一応、真面目なことを少しだけ書いておくと、本作は、きちんと謎解きがされないまま終わる。見た者は、「え、、あれ何だったん?」「何それ、どーゆーこと??」となる。でも、別に謎を解く必要はないし、そこに思考エネルギーを使ってももちろん構わないけど、本作は、この訳分からなさを堪能する映画だと、私は思った。

 つまり、制作側が、敢えて見る者を惑わせるように作っているのだから、それに乗っかれば良い、と思った次第。

 こういう“惑わせる”映画ってのは、やり過ぎるというか、やり方を間違えると、ヒジョーにムカつく映画に成り下がる(『ヴィレッジ』とか『サード・パーソン』とかね)んだけれども、本作は、そんな下手を打つことなく、実に巧妙に観客を誘導し、裏切り、煙に巻いており、その手管にまんまとハマるのが、むしろ心地良い。とにかく先が読めないし、何より(コレが一番大事だが)面白いのである、文句なしに。だから、ムカつかない。見ていて楽しいのだ(グロいけど)。

 本作の面白さは、やはり、韓国の因習に根差したおどろおどろしい呪いとか罰当たりとか狂気とか、そういうものが渾然一体となって、現代の文明社会に取り残されたようなド田舎の庶民の暮らしが根本から脅かされるという、その、リアリティがあるようなないような、、、“虚実皮膜”でありながら、結果的にはまるでリアリティのないトンデモ映画になっちゃっているところにある。身近に感じつつ(だから怖い)も、あまりのぶっ飛びぶり(だから笑える)に、何とも言えない違和感を覚えるのだ。そして、そこが本作の魅力であり、2時間半という長尺にもかかわらず、最初から最後まで一瞬たりとも観客を飽きさせることなく引きつける力を持っている所以だ、、、と感じた。

 ???な部分は多いけれど、決してグダグダの脚本ではなく、実によく計算された構成だとも感じた。中でも、國村隼の使い方が絶妙で、彼が一体何者なのか、というのが本作の一貫した謎の一つである。そして、その答えは明解ではない(見る者によって変わってくるだろう)。本作の、真の主役は國村隼だといっても過言じゃないのでは?

 上手に観客をミスリードしながら、怖がらせ、かつ面白がらせる。これは、相当の手練れによる脚本だ。素晴らしい。

  
◆笑っちゃったシーン

 と、ここからはネタバレです。

 私が笑いが止まらなかったシーンは2つ。最初は、ファン・ジョンミン演じる祈祷師の祈祷シーン。これ、もちろんファン・ジョンミンご本人はもの凄い真剣にやっているんだけど、面白すぎなんだよねぇ。いわゆる“トランス状態”ってやつだと思うけど、その雄叫びとか、踊りとか、もう圧倒されるくらいに凄い。でも、だからこそ、可笑しい。人間、大真面目に何かをやると、却って見いてる者には可笑しく見える、ってことがよくあるけれど、これもそんな感じ。

 祈祷シーンは2度あるけど、2度目のは最初のに比べると、さらにイッちゃってるので、もうヤバいなんてもんじゃない。笑うしかないでしょ、あそこは。時折、娘ヒョジンの苦しみのたうつ姿がフラッシュで挟まれるのがキツいけれども、ジョングを演じるクァク・ドウォンのただでさえコミカルなルックスが、恐れおののいて喚き散らすところに至っては、もう、ほとんどコントかよ、というくらいに振り切れてしまっている感じ。しかも2度目の祈祷シーンは、カットバックで國村隼がやはり祈祷するシーンが挟まるので、見ている方は混乱するのである。しかも、國村隼の演技もまた振り切れているので、唖然呆然、、、。

 あんな狂った状態を、あんな風に演じられたら、スクリーンに映るのは、ある意味究極のシーンになるわけで、見ている者の理性を破壊する。だから、笑っちゃうのである。

 もう1つは、ジョングが村の仲間達を引き連れて、國村隼演ずる日本人をやっつけに行ったら、謎のゾンビ男に遭遇した、、、というシーン。ジョングたち(5名くらいだったかな)と、ゾンビ男1人のグダグダな格闘シーンがあるんだけれど、もうこれがね、、、笑えるんですよ、マジで。このゾンビ、脳天に鍬をぶち込まれても死なない! ジョングの仲間の顔に食らいついて、その人の顔の皮がビヨ~ンて伸びたり、皆でゾンビ男と取っ組み合いになったり、もう、ほとんど意味不明なシーンなんだけど、あまりのグダグダぶりに笑っちゃう、、、んだよね。しかも、このゾンビ男の存在が、本作ではほとんどストーリーに何の意味も持っていないところがまたミソ。でも、このゾンビ男との格闘シーン、結構長かったゾ。まあ、このゾンビ男を、國村隼が祈祷によって世に産み出した、ということの様で、これがラストの國村隼のデビル化するシーンの伏線なのかも、、、だけれど。

 特筆事項は、狂ってしまった娘ヒョジンを演じた女の子。もう、あの『エクソシスト』リンダ・ブレアも真っ青な、すごい迫力! こんな演技、よく出来るなぁ、、、と感心してしまったよ、オバサンは。

 あと、どーでもよいけど、祈祷師を演じたファン・ジョンミンが、すごいセクシーだった! 私、韓国人の俳優さんの名前、ゼンッゼン覚えられない人なんだけど、ファン・ジョンミンの名前は一発で頭に入ったわ。それくらい、すごく渋くて素敵だった。カッコ良いと言えばカッコ良いけど、なんかこう、、、もっと内面的な魅力だよなぁ。本作を見て初めて知った俳優さんだけど、ファンになってしまったわ! 調べてみれば、私、同年代だし。あんな素敵な同年代の男性が身近にいたら、毎日楽しいだろうなぁ、、、と妄想。

 ちなみに、鑑賞後に町山氏のムダ話を聞いたところによると、あの謎の白装束の女性が、GODだそーです(と、監督自身が語っているらしい)。そして、冒頭の字幕にあるように、本作はキリスト教を背景にしており、國村隼はキリストでありデビルである、、、ということらしい。まあ、でも、私にはそんなことは、あまり大したことではないけどネ。








ファン・ジョンミンに祈祷されたい!!




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コメント (2)
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