以下、公式HPよりストーリーのコピペです。
=====ここから。
北イタリアのとある小さな町に降りたつ男。彼の父はかつてこの町でレジスタンスの闘士として活躍しファシストの手によって殺されていた。父の愛人から犯人を突きとめて欲しいと頼まれた男は、父の死の真相を探る為にやってきたのだ。
当時の関係者に話をききにいく彼。ヴェルディのオペラ“リゴレット”やシェイクスピアの“マクベス”からの引用を散りばめながら語られる父の姿。
彼はやがて驚くべき事実に直面するが…。
=====ここまで。
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ベルトリッチの若き日の作品。原作というか原案は、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの伝奇集「裏切り者と英雄のテーマ」という短編だとか。意外にも面白かった!!
◆ベルトリッチ、、、今なら立派なパワハラ&セクハラ。
『ラストタンゴ・イン・パリ』も『ラストエンペラー』も???な作品で、『暗殺の森』は、ううむ、、、という感じの私にとって、ベルトリッチは別に好きでも嫌いでもない監督だったんだけど、数年前に、『ラストタンゴ・イン・パリ』にまつわる不快なエピソードを知って、もともとマーロン・ブランドが嫌いだったこともあって、かなり嫌悪感を催す監督になってしまった(不快なエピソードについては、こちら)。
これについて、ベルトリッチはいろいろ弁解しているけど、やっぱりこれはアウトだろう。何しろ、マリア・シュナイダー自身が、「マーロンとベルトルッチの両方に少し強姦されたような気分だった」と語っているくらいなのだ。これは、控えめに言って、こういう発言になったのではないかと、私は想像している。こういうやり方を是とし、しかも、「罪の意識は感じるが、後悔はしていない」などと言ってしまう神経が、やっぱりちょっと信じられん。芸術のためなら、他人の尊厳を蹂躙しても良いという発想は、人間としてダメだろう。
……と言いつつ、本作をわざわざ台風が関東に迫っている日に見に行ったのは、ボルヘスが原作であること、アリダ・ヴァリが出演していることを知り、しかも予告編の動画にそそられたからである。とはいっても、日本ではあまり知られていない作品だし、大して期待もしていなかったのだが、これは見に行って正解だった。
ベルトリッチ29歳の作品。TV用映画として作られたらしく、スタンダードサイズだが、緊張感が終始みなぎる映画に仕上がっていると思う。やはり、人間的にはダメでも、映画監督としての才能には恵まれた人だったことは間違いない。
◆これは幻想譚?
本作の舞台となるのは、“タラ”という架空の町。オープニングのシーンから不穏さ全開で、見ている方も緊張する。アトスが一人歩く町並みは、夏の強い日差しで、白い壁や塀に眩しく照り返すが、人気がなく、地面に落ちる木々の陰は黒々と異様に濃く、暑さがこちらにも伝わってくるような、不気味で手に汗握る描写。時が止まったかのような町の風景は、まさしくキリコの絵そのもの。大昔に見たメキシコ映画『ザ・チャイルド』というホラー映画に出てくる風景にどことなく似ている気がした(本作の方が先に制作されているけど)。
ところどころにいる人は老人ばかりで、アトスを見ると皆、口々に「お父さんにそっくりだ」と言うのである。父親の胸像まで建っている。それくらい、この町で父親は英雄視されているのである。
が、真相を探っていくと、実は、父親を殺したのは、ファシストではなく、レジスタンスの仲間達であり、しかも、自分を殺すように父親自身が企んだものだったという事実に行き当たる。さらに、父親はファシストに情報を漏らした裏切り者でもあった。
その真相に迫っていくまでの描写は、微に入り細を穿つように丹念で、それでいて、見ている者を惑わせる怪しさも十分。ストーリーはシンプルだが、カメラワーク、カット割り、画面の明暗、俳優の立ち位置や動きなどで、実に凝った演出がされていると感じた。
印象的だったのは、中盤、アトスが昼寝をするシーン。中庭で眠るアトスの衣服をゆるめ、彼を起こさぬようにそっと椅子ごと家の中に引きずり込むのは、アリダ・ヴァリ演ずる父親の元愛人。蚊取り線香を点けてやり、アトスの眠る姿を見て微笑む。その一連の描写が何とも美しく、背景に流れる音楽がまた何とももの哀しい。後で調べたら、この音楽(カンツォーネ)のタイトルは、この後の作品『暗殺の森』の原題(Il Conformista)だという。今は亡き愛する人を偲ぶ歌らしい。
英雄だと思っていた実の父親が、蓋を開けてみれば、裏切り者で、自らの死を利用する策士だった、、、という、アトスにしてみれば、自分のアイデンティティが根底から覆されるような現実を突き付けられる、何とも残酷なお話だ。
けれども、ラストシーンは、ちょっと幻想的で、どこかこう、非現実的な描写なのである。冒頭、アトスがタラの町に来たときは普通の線路だったのに、ラストではその線路が草ぼうぼうであり、とても電車が走れる状態には見えない。駅のホームにしゃがみこむアトスもどこか虚ろで、もしかするとこの一連の話は、アトスの(もしくは元愛人の)妄想だったのではないか?? 幻想譚だったのか? と思わせる描写でもある。
そういえば、前述の昼寝のシーンの前に、アトスは、元愛人の使用人に不思議な飲み物を飲まされていたのだった。もしや、これらの話は、このときの夢物語なのだろうか、、、。それにしては、ずいぶんリアリティがあるようだし、、、。
こういう、足下を掬われるような、不安に駆られるような気持ちにさせてくれる映画は、嫌いじゃない。何とも言えないモヤモヤ感が残り、気持ち悪さもあるけれど、すっきりしないところが余韻でもあり、いつまでも尾を引く感じが良いのである。
『暗殺の森』の有名なタンゴシーンがあるが、本作でも、やはりダンスのシーンがあり、前述のカンツォーネのタイトルといい、本作は、ベルトリッチにとって『暗殺の森』の根源的な作品になったのかも知れない、、、などとちょっと思った次第。
アリダ・ヴァリ、、、すごい威圧感。
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