映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

ミモザの島に消えた母(2015年)

2018-12-30 | 【み】



以下、公式サイトよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 西フランスの大西洋に浮かぶノワールムティエ島は、冬に咲くミモザの花から『ミモザの島』と呼ばれている。30年前、この島の海である若い女性が謎の死を遂げた。

 その女性の息子であるアントワンは、40歳になってもなお喪失感を抱き続けていた。母の死の真相を追い始めるが、父と祖母は口を閉ざしてしまう。家族が何か隠していると察したアントワンは、恋人のアンジェルや妹アガッタの協力を得て、ミモザの島に向かった。

 そこで彼は、母の別の顔や衝撃の事実を次々に知っていく……。
 
=====ここまで。
 
 あの『サラの鍵』の原作者タチアナ・ド・ロネのベストセラー小説を映画化。

 
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 公開当時、劇場に行きたかったのだけれど、なんやかやで先延ばしにしていたら終映してしまったのでした、、、。まぁ、劇場で見ても後悔しないけど、DVDでも良かったかな、という感じ。(上記のあらすじではアントワン、アガッタとなっているけど、字幕ではアントワーヌ、アガットだった気がするので、アントワーヌ、アガットで表記します。)


◆家族の秘密を暴いたら、、、

 アントワーヌは離婚したばかりで、娘2人を引き取った妻に未練があるみたいだけど、彼にはどこか翳がある。あんまり笑顔がないしね。まぁ、離婚したばっかだから仕方がないとはいえ、、、。仕事もクビになるし、何だか人生上手く行かない様子。そして、それがどうやら、30年前の母親の死に原因がありそうだ、、、。

 という出だしで始まり、母親の死の真相を明らかにしていく物語である。

 アントワーヌが真相を探ろうとして働き掛けても、アガットは乗ってこない。むしろ、鬱陶しそう。アガットは恐らく、母親は本当にただの事故で亡くなったんだと信じているから、アントワーヌがそこまで拘ることが理解できないみたいだった。

 母親が亡くなったとき、アントワーヌが10歳、妹のアガット5歳。この5歳差は大きいよなぁ。10歳と言えば、小学5年生くらい? 5年生ともなれば、イロイロ覚えているから、あんまり記憶のない5歳だった妹と、母親の死に対する受け止め方が違うのはムリもない。

 しかし、少しずつアントワーヌは核心に迫っていき、その展開はムダがなく、かといって真相究明だけの単調なものでもなく、人物描写も丁寧で、なかなか素晴らしい脚本だと思う。

 以下、ネタバレです。

 母親の事故は、もちろん、事故に違いなかったのだが、そこに至る過程に非常に哀しい事実があった。

 アントワーヌの父親の家は名家らしく、非常に裕福で、今も父親は裕福な老後を送っている。そんな父親が若い頃に選んだ妻は、その名家には歓迎されない嫁だった。父親の母、つまりアントワーヌの祖母は、その嫁に辛く当たり(というか、ほとんど嫁いびり)、父親は仕事で不在がち、、、とくれば、若い母親が陥るのは、不倫である。

 ここまではありがちだが、その母親の不倫相手が、芸術家の女性だったのだ。今でこそ同性愛は市民権を得つつあるけれども、30年前では世間の反応は推して知るべし。アントワーヌの祖母に知られることとなり、「家の恥!」と罵られ、不倫相手と子どもと共に駆け落ちしようとしていた母親は、姑に力尽くで駆け落ちを阻止されそうになる。けれども、母親は意を決し、姑の力尽くの阻止を払いのけようと行動に出た結果、事故に遭った、、、という次第。

 まぁ、さほど驚くような“真相”ではないけれども、ここで鍵になっていたのは、真相究明に興味がなかった妹アガットの記憶である。アガットは、それまで完全に忘れていたあるシーンを、ふとしたことから思い出すのである。これがアントワーヌが真相に近付いた直接のきっかけにはなっていないが、観客には、そのシーンが見せられる。

 アントワーヌが真相を知り、それを30年間ひた隠しにしてきた父親と祖母に突き付け、迫るシーンが、本作の最大の見どころでしょう。クリスマスで、親戚一同が集まり、皆が楽しそうにプレゼントを開けている、その真っ最中に、アントワーヌが爆弾を落とすのだから。その場は一気に凍り付き、荒れ、修羅場と化す。もともと心臓が弱いと言っている祖母は、ショックのあまりか倒れてしまうが、アントワーヌはそんな祖母に対しても「都合が悪くなったら発作か!!」と、容赦ない。彼の怒りは、それくらい凄まじく、その場にいる人々にはその怒りが理解できないが、観客たちには分かる。このシーンは、見ていて辛い。

 蓋を開けてみれば、祖母が原因であった、、、ということだが、終始、クールだったアガットが、祖母の葬儀で父親に見せる怒りが、また哀しい。父親も、自分を正当化するのに必死なのが醜さを超えて哀れでしかない。

 どんなに幸せな嘘よりも、どんなに悲惨な内容であっても真実のみが人を救うことになる、、、ということは、当然ある。嘘も方便は、やはり、軽い嘘だろう。真相が重大であればあるほど、隠す(あるいは嘘をつく)ことは、より重大な結果を招きかねない。本作は、そういう、「致命的な嘘」による悲劇を描いているのだ。


◆その他もろもろ

 実は、本作の原作がタチアナ・ド・ロネの小説だとは、知らずに見て、見終わってからネットで検索して初めて知った次第。でも、知ってみて納得だった。『サラの鍵』と、非常に話の雰囲気が似ている。

 どちらの作品も、家族の秘密がテーマであり、その秘密が暴かれていく。秘密の内容は、どちらも悲惨だが、真相を知った後の、真相を知った人々は決して不幸ではないし、むしろ、ようやく心置きなく現実に向き合うことが出来るという意味では、幸せになっている。

 『サラの鍵』も原作本を買ったまま、積ん読状態なので、早く読まねば、、、。

 アントワーヌを演じていたのは、 ローラン・ラフィットで、終始“どこかで見た顔だなぁ、、、”と思っていたんだけど、見終わってからふと気付いた! そうだ、あの『エル ELLE』で、イザベル・ユペールを襲う男を演じていたあの人だ! と。かなり雰囲気が違うので分からなかったけど、私は『エル ELLE』の方が、何となく好きかなぁ。

 アガットは、メラニー・ロラン。彼女はすっかりフランスを代表する女優さんになりましたねぇ。相変わらず美しいです。

 実はラスボスだった祖母は、終盤まで、割と存在感が薄い。ただ、要所要所で出てくるので、終盤、真相が明かされてみれば、“ああ、なるほど、、、”という感じではある。演じていたのは、ビュル・オジエという方で、あの『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』に出ていたとのこと。え、、、ゼンゼン分からない。そもそも、作品自体、記憶があやしいし、、、。いつか再見してみよう。

 印象的だったのは、途中からアントワーヌと親密になる女性アンジェルを演じていたオドレイ・ダナ。何か強そうな女性という印象だけど、嫌みがなく美しい。アントワーヌの実の母親を演じていたアンヌ・スアレスも、出番がものすごく短いんだけど、なかなかインパクトがあってステキだったな。

 



 




タイトルが素敵だ、、、。




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普通の人々(1980年)

2018-12-27 | 【ふ】



 高校生のコンラッド(ティモシー・ハットン)は、精神的な不安定さから眠れず、夢にうなされることもある。そんな息子を心配する父親カルヴィン(ドナルド・サザーランド)は、知り合いから勧められた精神科医バーガー(ジャド・ハーシュ)に行くようコンラッドを促し、コンラッドもバーガーの下に通うようになる。

 彼が不安定なのは、その数か月前に兄バックが海で亡くなる事故があったことが原因らしい。バックと2人、ヨットで海に出たコンラッドだが、途中で嵐になり、コンラッドだけが助かったのだ。バックを溺愛していた母親ベス(メアリー・タイラー・ムーア)は、バックを失った哀しみから抜け出せず、一人生き残ったコンラッドに対し時折冷たく当たり、2人はギクシャクするようになっていたのだった。

 コンラッドはバーガーの診療室に通ううちに、次第に自分の心と正面から向き合えるようになっていく。そして、自分がどうしてこんな気持ちになっているのか、だんだん自覚するようになっていくのだが……。

 R・レッドフォード監督デビュー作にして、オスカー受賞作。

 
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 『へレディタリー/継承』を撮るに当たり、アリ・アスター監督が参考にしたという本作。レッドフォード監督作は『ミラグロ/奇跡の地』で玉砕した経験があるので、それ以来、食指が伸びなかったのだけど、『へレディタリー/継承』をまあまあ興味深く見たので、本作も少し見てみたくなった次第。考えてみれば『クイズ・ショウ』も彼の監督作だしね。

 で、見てみたのだけれども、これは、静かなる衝撃作でありました。これが監督デビュー作とは、恐れ入る、、、。


◆フレンチトーストが、、、

 正直言って、前半は割と退屈だった。……とはいっても、序盤で、母親ベスが、コンラッドが「食べたくない」と言った(ベスが作った)フレンチトーストを容赦なくシンクのディスポーザーに捨てたシーンはギョッとなって心臓を掴まれたような気分になったけれども。

 もう、あのワンシーンで、ベスがコンラッドにどう対峙しているのかが端的に分かるという、もの凄く雄弁な描写である。ホントに、あのシーンはビックリした。

 しかし、その後、中盤くらいまではかなり淡々と(というか、本作は終始淡々とした描写なのだが)話が進んでいく。再び私が心臓を掴まれたような気分になったのは、あの“写真を撮る”シーン。

 ベスの両親がコンラッドの家に遊びに来ていて、コンラッドとカルヴィン&ベスの3人の家族写真を撮るが、その後、事件が起きる。カルヴィンが、コンラッドとベスのツーショット写真を撮ろうとすると、ベスは「イヤだ」とは言わないが、「いいわよそんなの、男性3人の写真撮りましょうよ、私が撮るわ」と、隣にコンラッドがいるのに、カメラを構えている夫のカルヴィンに執拗に「カメラちょうだい」と手を出して言うのである。ベスの父親も「いいから2人で肩組んで!」などとベスとコンラッドに促すが、ベスは聞き入れない。すると、コンラッドがカルヴィンにキレるのだ。「いいから! カメラ渡せよ!!」と。当然、一同は凍りつく。

 ここでコンラッドがキレる相手が、母親のベスではなく、父親のカルヴィンであるところがミソだと思う。コンラッドは、母親が息子の自分をここまで嫌っていることに気付かない父親に苛立ったのだ。母親が自分を嫌っているのは、その理由が分かるから、もう仕方がないと諦めているのだろう。しかし、父親が、その空気をあまりに読めていないことで、自分がここまでいたたまれない気持ちにさせられていることが耐えられなかったに違いない。

 それ以降は、もう、見ていて辛くなるばかりで、終盤は涙が止まらなかった。

 もちろん、コンラッドの気持ちを想像すると胸が詰まるのだが、父親のカルヴィンの辛さも、そして、一般的には評判の悪い母親ベスの抱える思いも、全部が重く私の心にのしかかってくるような感じだった。


◆母親の限界

 私の心に突き刺さったのは、バーガー先生の言葉だ。コンラッドに「母親の限界を知れ」と言う。一瞬??となったが、すぐに意味が分かり、グサッと心臓を貫かれた感じだった。

 つまり、ベスはベスなりにコンラッドを愛してはいるのだろう。しかし、親の愛情は無限、などというのは単なる幻想で、ベスも一人の人間であり、母親と言えども息子に注ぐ愛情には限界があって、コンラッドが望む量の母親の愛はベスは持ち合わせていないのだということを、バーガー先生の言葉はズバリ指摘しているわけだ。

 そうか、、、親の限界を知れ、か。そう聞かされると、私自身、親の限界を知ろうとしなかったのだなぁ、、、と思い知らされた様で、目からうろこが100枚も200枚も落ちたような気分になったのである。私は、どこかで、親の愛情無限神話を信じていたのだ。言葉にして「親の限界を知れ」と言われると、これほど説得力のあるものはない。

 ネットの評では、おおむね、ベスが母親としてサイテー、という感じである。確かに、まぁ、好感は持てないよなぁ。だけど、サイテーとまでこき下ろす気にもなれない。

 一度だけ、ベスの方からコンラッドに歩み寄るシーンがある。寒い庭で、コンラッドが椅子に横たわっているのを見たベスは、何を思ったのか、自分も庭へ出てコンラッドに近づいて声を掛ける。「寒いから上着持ってこようか?」みたいなことを言うんだけど、コンラッドは違う話をして、結局2人の会話は噛み合わないまま終わる。ベスは家に入ってしまい、夕食の支度を始めるが、コンラッドは少しベスに悪いと思ったのだろう、自分も家に入るとベスに「手伝うよ」と申し出る。でも、ベスは「必要ない、そんな暇があるなら自分の部屋を片付けて」と言って、その後、彼女の友人と思しき人からかかってくる電話に出ると、やたら明るく笑い声を立てて楽しそうに話すのである。そのベスの背中を見ながら、部屋へと上がって行くコンラッド。

 結局、この母と息子は、一人の人間対人間として、決定的に合わないのだと思う。バックが生きていたときは、それが表面化することなく、何となく上手く行っていたのだ。

 ベスは、自分の“良し”とする範囲内のこと以外のありとあらゆるものに対して、全く柔軟性がないのである。自分の“良し”とする範囲ってのも、つまりは、世間一般が良しとしていることなわけ。自分に自信がない人の特徴として最たるものだと思うけれど、そういう人だから、想定外のことが起きたとき全く冷静に対処できない。そして、それを全部、自分以外のせいにして、非常に他罰的な思考回路。「私はこんなに世間の規範に沿ってちゃんとしてるのに、何なのよ!」という感じ。自分の融通のきかなさを顧みることは決してない。

 バーガー先生に、誰よりも診てもらわなければならなかったのは、コンラッドでもカルヴィンでもない、ベスだったということ。

 でも、こういう人は、自分に自信はないけどプライドは人一倍高いから、自分のオカシさを自覚することはそもそも出来ない。だから、夫のカルヴィンに「一緒にバーガー先生の所に行こう」と言われても、ヒステリックに拒絶してしまう。

 このシーンは、私が摂食障害になって精神科に通っていたとき、医師に「お母さんも一緒に来てもらった方がいいんだけどねぇ……」と言われ、それを母親に伝えた時の反応の再現フィルムを見ているようだったので、正直、一瞬凍りついた。まあ、母親はメアリー・タイラー・ムーアのように美しくはないですが。ホント、これ以上ないっていうくらいの拒絶っぷりに、絶望的な気持ちにさせられたんだけど、本作のカルヴィンも固まっていた。

 でも、それもこれも、「母親の限界」と思えば、もしかしたらそれほどのことではないのかも知れない。偏差値30くらいの人に、偏差値70の学校に受かれ、と言ったって、そもそもムリなわけで。それと同じなんだと思うと、私も、母親に対して可哀想という感情が湧いてきたのも事実。


◆家族崩壊……か?

 ラストは、ベスが一人、家を出て行き、カルヴィンとコンラッドが抱き合うシーンだった。家族の崩壊、、、ということなのか。

 ベスが家を出たのは、カルヴィンに愛想を尽かされたからだが、カルヴィンがそうなった直截的な原因は、その前のシーンにある。コンラッドが、旅行から帰って来た両親に「お帰り」と明るく言い、ベスにそっと近づいてハグをする。しかし、ベスは戸惑ったような、むしろ嫌悪の表情を浮かべて、ハグを返すことなく硬直していただけなのだ。それを見たカルヴィンは、ようやくベスの抱えるオカシさをハッキリと認識したのだ。

 けれども、21年も連れ添ってきた夫婦であり、妻がオカシいと知って、それだけで夫婦が破綻するというのも、何か違う気がする。カルヴィンは、鈍感だが、愛情深い人間であることは確かなようだから、自分が家族の接点となって、再びコンラッドとベスの歪ながらも三角形を築いて行く、と願いたい。

 故淀川長治氏の本作の評をYouTubeで見たけれど、淀川さんは「息子がもっと母親を理解し歩み寄るべき」と言っていた。……そうかなぁ。コンラッドは歩み寄ったぞ? だからこその、あの優しいハグだったのではないか。そして、だからこそ、カルヴィンがベスに愛想を尽かしたのではないか? あれ以上、それでも息子は母親を優しく包み込まなければならないのか? それはちょっと酷というものだろうと、私は思うのだけれど、、、。
 
 それにしても、家族って、、、何なんですかね。私にとっては、あらゆる悩みの根源でしかなかったけれど。「家族っていいなぁ、、、」と無邪気に言える人は、ホントにラッキーな人なのかも知れない。家族は選べないもんね。

 終盤、コンラッドが仲良くなる女の子ジェニンを演じていたのは、エリザベス・マクガヴァン。「ダウントン・アビー」のコーラ役がステキだけど、『窓・ベッドルームの女』でも好印象だった。すんごい足が長くてビックリ。目が綺麗で、ホントに可愛い。

 コンラッドを演じたティモシー・ハットンは、本作でオスカーを受賞している。……けれど、その後はあんましパッとしない様子。出演作を見たら、『ゲティ家の身代金』に出ていたらしい! えー、ゼンゼン気付かなかった、何の役だったの?? といって、再見する気にもならないし、、、。ま、いっか。








バーガー先生、たばこ吸い過ぎです。




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何がジェーンに起ったか?(1962年)

2018-12-21 | 【な】



 子役ベイビー・ジェーン・ハドソンは大の人気者。彼女の等身大の人形が飛ぶように売れるほど。ステージパパはジェーンの機嫌を取る始末で、その反動か、ジェーンの姉・ブランチにはやけに辛く当たる。ブランチは屈辱的な扱いに理不尽な思いを募らせ「一生忘れない!!」と心に誓う。

 大人になった2人は女優になり、方やジェーンは大根役者、ブランチは銀幕のスター。2人の立場は幼い頃と完全に逆転していた。

 それからウン十年。老いてアル中のジェーン(ベティ・デイヴィス)は、脚が不自由になって車椅子生活を送るブランチ(ジョーン・クローフォード)の世話をしている。大きな屋敷に姉妹2人暮らし。その大きな屋敷は、かつて大スター時代にブランチが購入したもので、姉妹はブランチの過去の稼ぎで食いつないでいたのだ。

 ブランチが車椅子生活になったのは、スターとして絶頂だったある日、車の事故で脊椎を損傷したから。以来、2人の姉妹は世間から忘れ去られ、互いに忌み嫌い合いながら共に暮らしていたのだ。

 しかし、そんな負の感情に支配された閉ざされた共同生活に、遂に限界が訪れる。ジェーンは遙か昔の子役時代の栄光が忘れられず、舞台復帰を目指すのだが……。

 
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 少し前にBSでオンエアしたのを録画してあったので、久しぶりの鑑賞。何度見ても怖ろしい映画だ……。 


◆姉と妹。

 あまりにも有名な本作。内容の説明はするまでもないので、感じたことをつらつらと。

 初めて本作を見たとき、ジェーンは、あの歳までブツブツ言いながらも、よくぞ介護生活を何十年も続けてきたものだと、かなり違和感を覚えた。だって、あんなに忌み嫌っている姉をだよ? いくらブランチの身体を不自由にした負い目があるからと言って、私だったら1年、いえ数か月でもムリ。ましてや、彼女は、今一度スポットライトを!! と妄想しているわけで、老婆になって、実際にピアノ伴奏者を雇って復帰準備を始めたりなんかして、、、。そこまでのバイタリティがあるのなら、もっと昔に、ブランチには世話する人を付けて、自分は仕事に復帰するべく動きそうなものじゃない? と思ったわけ。

 で、今回、改めて本作を見て、ちょっと見方が変わった。彼女は、ラストの浜辺のシーンで、ブランチに真相を聞かされた直後、こう言っている。

 「だったら私たち、本当は仲良くなれたのね」

 これを聞いて、私は、実はジェーンはブランチのことが好きだったのかな、と感じたのであります。子役時代は見下していたし、女優になってからは嫉妬や恨み辛み、醜い感情も渦巻いたに違いない。それでも、ブランチは女優としては明らかに自分より才能があったし売れていた、憧れもあったのではないか。スターが実の姉であることは、重荷でもあり誇りでもあったのかな、と。

 私にも、私より遙かに優秀な(とにかくお勉強がメチャクチャ出来た)姉がいて、私の場合、ジェーンのように姉を見下すほどの“過去の実績”は何一つなかったけれども、とかく周囲に姉と比べられるのは鬱陶しいことこの上なく、姉のこと自体は嫌いではなかったものの、そういう状況を疎ましく感じたことはしばしばあった。大人になり、お勉強云々を言われなくなってからは、性格や嗜好があまり合わないこともあり、仲が良くも悪くもないフツーの姉妹だった。けれども、その後の母親のいらぬ介入により、私と姉との間には決定的な溝が出来てしまい、以来、姉のことは正直言って好きではない(例えて言えば、同じクラスにいてもイヤじゃないけど仲良くなりたい人でもない)ので疎遠になっていた。かといって、嫌いとも言い切れず、少し前に、子育てで何年間も現場を離れていたハンディを克服し、一念発起して開業したという知らせを聞いたときは心底嬉しかったし、確かに誇らしいと感じた。開業祝いも送っちゃったもんね。

 ジェーンのブランチに対する感情も、だから、少し分かる様な気がしたのだ。ちょっと誇らしい気持ちがね、、、。ジェーンは私の感情よりもっと激しいものをブランチに抱いていたわけだけど、だからこそ、奥底にあったブランチに対する思いも、かなりのものだったのかも知れない、、、と。愛憎は表裏一体ですからね。

 そんなふうに見てみると、あの歳まで、悪態つきながら姉の世話をしていたのも、何となくアリなのかなぁ、、、と思えてきて。いや……、実際は、虐げられているように見えたブランチ自身が、ジェーンを縛り付けていたんじゃないか、、、と思えてきたのよね。

 自分はこんな身体になって、もう、女優として復帰する可能性はゼロ。引き換え、ジェーンはいくら大根とはいえ、私の妹として、例え売れなくても仕事はいくらかはあるだろう。そうすれば、例えわずかであっても誰かの注目を浴びることになる。そんなこと、絶対に許せない!! この私を差し置いて!!! ……とでも思ったんじゃないかしらん、と。

 そうでなきゃ、自分を嫌っている妹に世話される生活を敢えて続けるかね? 自分の過去の稼ぎで“食わせてやっている”と恩に着せることで、辛うじて精神的な優位性を保つことも出来るし。

 実際、あの浜辺のシーンで、ブランチは死にそうになりながら「私が死んだら独りぼっちになるわよ」などとジェーンに脅迫めいたことを言っている。これが彼女のホンネじゃないか?

 ……ということに、ようやく気付いたのでありました。だからブランチは、事故をジェーンのせいにしたのであり、それをエサに、彼女に世話をさせ、彼女の人生を奪ったのだ。自分の女優人生だけが終わりになるのはイヤだったから。彼女を道連れにしたのだわね。そんなこと、この映画をきちんと見ていれば、最初から分かりそうなもんだけど。

 というわけで、本作では、ベティ・デイビスの怪演もあって、ジェーンが怖い怖いと言われるけれど、本当に怖いのは、圧倒的にブランチだった、、、、ということでした。ごーん……。


◆ベティ・デイビス VS ジョーン・クロフォード
 
 ベティ・デイビスとジョーン・クロフォードの、実際の仲の悪さはエピソードとして聞いてはいるけど、まぁ、そんな2人を起用した監督のロバート・アルドリッチは、勇気あるよなぁ、と感心する。

 ベティ・デイビスは、本作撮影時54歳くらいのはずだけど、なんかもう、70過ぎの老婆に見える。そういうメイクをしているからなんだけど、、、。とにかく、顔が真っ白で、口紅は真っ赤(……ってモノクロだから赤くはないけど、赤く見えるほど)で、縦ロールの髪で、不気味そのもの。

 ジョーン・クロフォード演じるブランチも、本来なら同情される立場なんだけど、どうもこう、いけ好かない感じを醸し出している。どこか偽善的な雰囲気。これが、演出なのか、彼女自身の持つ雰囲気なのか、その辺が分からないところもちょっと怖ろしい。

 ジョーン・クロフォードについては、実生活でものすごい毒親だったことの方が、私にとってはイメージが強い。彼女の若かりしスター時代を知らないし、その頃の映画も見ていないので、どうしても彼女の女優としての華やかなイメージが湧かない。けれども、本作のブランチを見て、実生活における毒親ぶりが容易に想像できてしまうのだ。ああ、彼女ならアリだな、と。しかも、最初に本作を見た印象でそう感じたということは、実は、私は最初からブランチの怖ろしさを、何となく肌で感じていたのかも知れない……。

 今回再見し、あのピアノ伴奏者に関するエピソードとか、すっかり記憶から抜け落ちていて、自分でもビックリした。しかも、その母親もなかなかのクセモノだったし。

 あの後、ジェーンはどうなるのか。病院に送られるのか? まあ、司法の裁きを受けたところで、もう、彼女の心が真っ当になることはないだろうからな……。そしてブランチは? 病院で手当てされて回復して、退院後は思惑どおりにあの家を売って、そこそこの暮らしをしてくのだろうか? うぅむ、やはり、この姉妹、最初からブランチに軍配が上がっていた、ってことなのかも。

 
 








怖い女、その名はブランチ。




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マチルダ 禁断の恋(2017年)

2018-12-15 | 【ま】



 以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 1800年代末のロシア・サンクトペテルブルク。皇位継承者であるニコライ2世(ラース・アイディンガー)は、世界的に有名なバレリーナのマチルダ(ハリナ・オルシャンスカ)をひと目見た瞬間に恋に落ちる。燃え上がる二人の恋は、ロシア国内で賛否両論を巻きおこし、国を揺るがすほどの一大ロマンスとなる。

 父の死、王位継承、政略結婚、外国勢力の隆盛……。やがて、滅びゆくロシア帝国と共に、二人の情熱的な恋は引き裂かれようとしていた。

=====ここまで。

 
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 主演があの『ゆれる人魚』で個性的な妹人魚を演じてたミハリーナ・オルシャンスカということで、公開前から見に行こうと思っていたところ、某全国紙の夕刊で「ニコライ二世をたどって」等というタイトルの連載が始まり、何気なく読んだら、あまりにもタイムリーで本作も興味津々で見に行きました。

 ……というわけで、以下感想です。


◆ニコライ二世は聖人

 しかし、王室やら皇室やらのスキャンダルって映画ネタにはもってこいだと思うのだけど(だから外国映画ではいっぱいあるんだろうけど)、日本の皇室スキャンダル映画って、ありますかね?? やはり菊タブーとかで皆無なんでせうか? まぁ、別に見たいわけじゃないけど、ここまでタブーになっている日本の皇室ってのも、、、どうなんでしょうか。

 さて、前述した某全国紙の夕刊連載で、本作に対しモーレツに異議を唱えている女性が載っておりまして、それがあの“美人過ぎる検事”でロシアのクリミア併合の際に話題になったポクロンスカヤ氏でした。

 余談ながら……、“美人過ぎる○○”ってのはよくネットとか週刊誌とかワイドショーとかが使うんだけど、あんまし感心しない表現だよねぇ。○○に入る言葉が何であれ、ヒジョーにその○○に対して侮蔑的な言い方だと思う。昔、ナンシー関がエッセーで、某東大卒タレント女子のことを「東大卒の割に美人(or可愛い)ってだけ」というようなことを書いていて、いかがなものかと感じた記憶があるが、それと同じような印象を受けるのよ、この“美人過ぎる○○”というフレーズ。大体、美人過ぎるとか何とか、失礼だっての。

 それはともかく、このポクロンスカヤ氏はニコライ二世一家を崇拝していて、本作が、ニコライ二世を貶めていると言って憤慨しているわけ。なぜそこまで?? と思って記事を読んだら、恥ずかしながら世界史が苦手だった私は記事を読んで初めて知ったのだけど、ニコライ二世一家はロシア正教の聖人にされているんだそうで。ソ連時代は憎悪の対象だったのに、ロシアになってから急に評価が変わったんだとか。まあ、ソ連時代は共産党が押さえ込んでいたんでしょうが。

 そんなわけで、熱心なニコライ二世信者にとって、この映画は許されないものらしい。プーチンさんは「人はそれぞれ自分の意見を持つ権利を持っているから我々は禁止することはできない」という、らしからぬ(失礼!)発言をしていて、上映禁止にはならなかったけど、まあ、スタジオが放火されたり、監督が脅迫されたり、、、、ってのはあったとか。

 ……そんなに許せない描写があるのかね? と興味津々で見に行ったけど、、、、率直なところ、……どこが??である。ポクロンスカヤ氏はそもそも本作を“見ていない”んだとか。見もしないで批判するってのは、、、まあ、あんましお利口とは言えない行動ですな。こういう脊髄反射は、その信条が何であれいただけない。……その後、見たんですかね、彼女は。


◆お金かかっています。

 とにかく、本作は、絢爛豪華で、それだけでもスクリーンで見る価値が十分にあると思う。私が時代劇のコスプレものが好きってのもあるけど、これだけ美術も衣裳もこだわって作られている(しかもロシア制作でロシア政府もかなり出資しているとか)のだから、よその国の作ったインチキ時代劇とは訳が違うのでは。

 ロケにはエカテリーナ宮殿を使用しているほか、もの凄いお金が掛かっていることが一目で分かる壮大なセットで、とにもかくにも、圧倒される。もちろん、バレエはマリインスキー、音楽はゲルギエフと一流を揃え、もうね、、、贅沢そのものです。これ、スクリーンで見ないと損かも。

 で、肝心の物語だけれども、悪くはないけど、それほど感動するシーンもなく、、、というわけで、まあ、悪く言えば見かけ倒しな感じも否めない。

 最大の難点は、ニコライ二世(ニキ)の葛藤がイマイチちゃんと描けていないところのように感じた。というか、一生懸命描いているんだけど、なにかこう、、、伝わってこないというか。

 私が一番“え゛~~~”と思ったのは、マチルダが事故で死んでしまったと思い込んだニキが、その後間もなくあっさり元々の婚約者アリックスと結婚し、まあそれは既定路線だからいいとして、アリックスとの初夜がとてもとても幸せそうなエモーショナルな描かれ方だったのよ。大して時間も経っていないのに、その変わり身の早さは何じゃらほい……、という感じで。

 このシーンの後に、戴冠式があり、そこに死んだと思っていたマチルダが現れ、ニキ失神!!なんだけど、どうもチグハグな感じが否めなくて、見ている方としてはちょっと白けちゃうのよね。大体、あんな大事な場面で、皇帝になろうともいう男が衆目の前で失神なんて大失態を晒して(しかも王冠が床に落ちる!)、それだけで後継者失格じゃない?

 ほかにも、マチルダにストーカーするヴォロンツォフ大尉の人体実験のようなシーンとか、ニキの婚約者アリックスとニキの母親である皇后との確執だとか、マチルダのバレエ団内での人間関係のいざこざとか、、、ちょっとニキとマチルダの禁断の恋から焦点がぼけた散漫なシーンが多すぎる気がする。もっと、2人の禁断の恋に描写を集中させた方が良かったのでは?


◆ミハリーナ・オルシャンスカ、人魚からバレリーナへ

 さて、私のお目当てだったミハリーナ・オルシャンスカは、(前述の不満はあるものの)すごい頑張っていて素晴らしかった。彼女はポーランド人なんだけど、ロシア語のセリフも(ロシア語を知らないので上手いか下手かは分からないけど)こなし、バレエも相当特訓したのが分かる動きだった。肝になる“32回のフェッテ”は吹き替えだそうだが、少なくとも、フェッテはかなり訓練しないと1回だって出来ないはずなので、彼女の努力が想像できる。

 もの凄い美人という設定で、確かに彼女は素晴らしく美しいが、単純な凄い美人というより、魅力的で妖しい美人という感じ。そして、このストーリーにおけるマチルダなら、絶対的に後者の美人の方がふさわしい。そういう複雑な美しい女性をミハリーナ・オルシャンスカは体現できていたと思う。人魚は気の強そうな怖い美人だったけど、同じ美人でも妖艶さを身に纏うのはなかなか難しいだろうね。

 ニコライ二世を演じたラース・アイディンガーはドイツ人、ヴォロンツォフ大尉を演じたのはロシア人のタニーラ・ゴズロフスキー、アリックスはドイツ人のルイーゼ・ヴォルフラムと、国際色豊かな俳優陣。ドイツ人のお2人はロシア語特訓したんだろうね。

 ところで、実際のマチルダさんの画像をネットで見たのだけど、、、。ううむ、まあ、美しいけど……、なんともコメントに困ってしまう。彼女は、ニキのいとこと結婚してフランスで暮らし、ロシア革命で死んでしまったニキとは対照的に、100歳近くまで生きたそうな。めちゃめちゃ強かに生き抜いたのね。




  




禁断の恋をニキが貫いていたら、歴史はどうなっていたでしょうか?




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白夜(1971年)

2018-12-09 | 【ひ】



 以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 第1夜。ある初秋の日曜の夜、ジャック(G・D・フォレ)は、ポン・ヌフの橋からセーヌ河に身投げしようとしている少女マルト(I・ヴェンガルテン)を救った。

 第2夜。同所で再会した2人は、互いの身の上を語り合う。ジャックは、元美術学校の学生で今は自宅にこもって画を描いており、マルトは母と2人暮しで隣室を学生に間借りさせている。1年前マルトは、その部屋を借りている青年(J・M・モノワイエ)に恋する。が、青年はアメリカへ留学に行き、1年後にポン・ヌフの橋の上でマルトとの再会を約束した。そして彼女は今日で3日目、青年が3日前にパリに帰ってきているのを知りつつ、待っている。

 第3夜。青年の影にさえぎられながら、ジャックとマルトの不安な心のうずく夜がすぎていく。

 第4夜。約束の時が来ても、ついに青年は現われなかった。苦しむマルト。そして愛を告白するジャック。2人はパリの夜を、美しい月夜の下を幸福にさすらう。だが、突然、マルトの目が一点にとまった。そう、それは、彼女がさがし求めていたあの青年の姿だったのだ--。

=====ここまで。

 “35mmフィルムでの最終上映”と言われると、見ておかないといけないような気持ちになるじゃん。

 
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 というわけで、ブレッソンです。スクリーンで見られる数少ない機会なので、行ってまいりました。


◆おフランス版オタク男子のラブコメ

 原作はドストエフスキー(もちろん未読)だそうで、その原作のテイストは分からないのだけれども、同じ原作をヴィスコンティもやはり映画化している。ヴィスコンティ版は見ていないけど、多分、ゼンゼン違う雰囲気の作品になっているに違いない。

 Blu-rayも出ているらしいけれど、それまでは“ブレッソンの幻の映画”などと言われていた本作。同じくドストエフスキー原作の『やさしい女』の印象が強いので、本作もそれと同じような感じなのかと構えて見に行ったのだけれど、、、ゼ~ンゼン違っていて驚いた! これは、もしやブレッソン流ラブコメか??

 とにかく、主人公の青年ジャックがヤバい。開始早々、ヒッチハイクして郊外の自然豊かな所へやってくると、なぜか“でんぐり返り”を2回、そして鼻歌交じりでお散歩。本人はいたってご機嫌な様子なれど、通りすがりの家族連れには明らかにキモワルがられている。この郊外へはでんぐり返り以外に何をしに行ったのかが全くのナゾのまま、夜になって、ジャックはパリの街中を歩いている。……ううむ、いきなりのブレッソン節全開の幕開けに唖然。

 でもよく見ると、このジャック、眉毛が異様に濃いけど端整な顔立ちで、まあ美青年と言えるでしょう。また、あらすじにある「第一夜」「第二夜」……というのは、そういう字幕が出るのです。ジャックが経験する4日間の恋(?)物語。

 冒頭のでんぐり返りから、期待を裏切らないジャックの言動が続きます。

 彼は、通りすがりのキレイな女性にすぐに恋してしまう性癖があり、しかもその女性の後を付ける、つまりストーカーみたいなことを日常的にしている。まあ、しばらく後を付けるだけで、実害は与えていないけど、、、。そして、家に帰ってくると、日記代わりにレコーダーに思ったことを喋って録音している。さらに、彼は売れない絵描き(美術家?)で、今で言う“ニート”みたいな感じなんだけど、そのことにコンプレックスがあるのか「こんなオレが生きていていいのか」みたいなことも言っている。

 ……もうここまでで、ジャック君をオタク認定しても怒られないと思うわ。

 実際、学生時代の友人が訪ねて来ても、そこで美術の議論が盛り上がるわけではなく、友人が一方的に持論をまくし立て、ジャックは黙って聞いているだけ、、、。友人は喋るだけ喋ったらさっさと帰ってしまうという、妙なシーンもある。恐らく友人もほとんどいないのよね、彼。

 そんなジャックが可愛い女性マルトに出会い、惚れっぽいから案の定マルトを好きになってしまう。で、マルトは、アメリカから帰って来ているはずなのに姿を現さない恋人とジャックの間で揺れる素振りを見せたりするんだけど、結局、4日目の夜にはマルトは姿を現した恋人の下に行っちゃった! っていう極めてシンプルなオハナシ。

 そのラスト、恋人が現れてからエンドマークまでの数分が、もう、私にとっては笑えてしまって、、、。でも、回りの皆さんは笑っていないから、思わずこらえましたケド。

 だって、マルトは、恋人の姿を認めた途端、ジャックの腕からするりと抜けて恋人のもとへ走り寄り、ジャックが見ているというのにお構いなしに抱擁&キス&キス、、、と思ったら、またジャックのもとに戻ってきて、また恋人が見ている前で抱擁&キス、、、と思ったら、またまた恋人のもとへ行って、今度は恋人がマルトの肩を抱いて歩いて去って行く、、、という、そらねーだろ、的な演出なんだもん。放置されたジャックの顔は、しかし、あまり表情がないというか、放心状態とも違うような。おまけに、振られた翌日、ジャックはその心境をまたレコーダーに録音している。

 そう、だから、私は、これはブレッソン流のラブコメじゃないかと思ったのです。だって、ものすごく滑稽でしょ? 恋愛なんてそもそも傍から見れば滑稽そのものとも言えるわけで、それを、笑いを前面に出さないまま描くと、こういう映画になるんじゃないのかね、と。


◆恋するジャックの奇行

 ジャックが録音する内容は、詩的な散文調で、でも決して心に残る文言ではない(実際、見終わってから覚えているフレーズがない)んだけど、唯一ギョッとなったものがある。

 途中、マルトに頼まれて手紙をある人に渡しに行く場面があるんだけど、バスに乗ったジャック君、周囲に乗客がいるのに持っているレコーダーを再生させる。レコーダーから出てくるのは、「マルト、マルト、マルト……」と、マルトの名前をひたすら呼ぶジャック君の声。前に座るおばさん2人が訝しげに顔を見合わせるんだけど、私も一瞬、この描写を理解できなかった。は? 何してんの、ジャック君?? みたいな。どうしてバスの中でその録音を流す必要が??? 

 すっかりマルトを好きになっちゃったものだから、こんな行動に出た、、、、ということだろうけど、ちょっとね……。

 そうなっちゃうと、もう、街中で“マルト”の文字ばかりが目に入っちゃうジャック君。店の名前も、セーヌ川を行く船名も、“マルトじゃないか!”てな具合。恋に恋する中学生なら分かるが、ちょっとね……。

 まあでも、ジャック君は、きっと、マルトに去られた後もまた、それまでと同じ暮らし・生き方を続けるのだろうな、、、と思う。そういう余韻を残したエンディングだったように思う。


◆コツコツ、、、

 印象的だったのは、音。靴の音とか、鳥の声とか。もちろん、ジャックの録音した声も。

 あと、音楽が結構長い時間流れるのも、ブレッソン作品としては珍しいのでは? と感じた。フォークっぽいのやボサノバ風の、ジャックとマルトが一緒にいるときに、彼らの側で演奏される音楽で、BGM的に流れるわけではない。

 マルトが、アメリカに発つ前日の恋人と裸で抱き合うシーンはなかなかステキだった。母親と緊張関係にあるマルトが、母親がいるのに、恋人の部屋で(部屋の外では母親がマルトを探している)ただただ裸で抱き合う、、、。これは、見ていてドキドキするシーンだった。マルトと母親の関係を象徴する張り詰めたシーンだったように思う。

 でも、『スリ』とか『ラルジャン』みたいに、一見無機質でありながら、見ていてヒリヒリするような感じは、この作品にはない。『やさしい女』で感じた冷酷さもない。ただただ、若い男女の心模様を、いつもどおりの極端にそぎ落とした演出で撮った作品のように思う。








ヴィスコンティ版も見てみたくなりました。




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へレディタリー/継承(2018年)

2018-12-07 | 【へ】



 以下、公式HPよりストーリーのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 グラハム家の祖母・エレンが亡くなった。娘のアニー(トニ・コレット)は夫・スティーブン(ガブリエル・バーン)、高校生の息子・ピーター(アレックス・ウォルフ)、そして人付き合いが苦手な娘・チャーリー(ミリー・シャピロ)と共に家族を亡くした哀しみを乗り越えようとする。自分たちがエレンから忌まわしい“何か”を受け継いでいたことに気づかぬまま・・・。

 やがて奇妙な出来事がグラハム家に頻発。不思議な光が部屋を走る、誰かの話し声がする、暗闇に誰かの気配がする・・・。祖母に溺愛されていたチャーリーは、彼女が遺した“何か”を感じているのか、不気味な表情で虚空を見つめ、次第に異常な行動を取り始める。まるで狂ったかのように・・・。

 そして最悪な出来事が起こり、一家は修復不能なまでに崩壊。そして想像を絶する恐怖が一家を襲う。

 “受け継いだら死ぬ” 祖母が家族に遺したものは一体何なのか?

=====ここまで。

 キャッチコピーが凄い。「現代ホラーの頂点」「新世代のエクソシスト」「ホラーの常識を覆した最高傑作」「トラウマ級の怖さ」……ちょっと煽りすぎでしょ。

 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 某全国紙の映画評で、映画評論家の稲垣都々世氏に、こんな風に紹介されていました。「ホラーにはめっぽう強いが、この映画には震えあがった。「現代ホラーの頂点」との海外評も頷ける」と。、、、そんなこと言われたら、見るしかないじゃないのさ。

 ……というわけで、行ってまいりました。

 ちなみに、これからご覧になる予定の方は、モロモロの予備知識なく見た方が楽しめますので、ここから先はお読みにならない方が良いかと思います。あまりネタバレはしないつもりだけど、自己責任でお願いします。


◆確かに、面白い。

 本作の読み解きは、多くのサイトでされているのでそちらにお任せするとして、、、。

 なるほど、煽りまくるキャッチコピーだけあって、決してガッカリするような映画でないことだけは間違いない。文句なく面白い。ホラー映画にありがちな先が読める展開ではない。どっちに転ぶか分からない、非常にイヤ~~~~~な感じが終始作品を支配する。

 そのイヤな感じの最たるものが、“音”。これが本作の最大の特徴ではないかと。見ている者に一息つかせる隙がまるでないんだけど、それは終始、イヤ~な音が手を替え品を替え、鳴り続けているからではないかしらん。だから、この映画は絶対劇場で見た方が楽しめる。DVDだと、この不快感は多分半減してしまうね。

 鍵になる“音”もある。それが、非常に効果的に使われているので、ギョッとなる。こういうところの造りは非常に上手いとしか言いようがない。

 系統としては、ポランスキーの『ローズマリーの赤ちゃん』とかキューブリックの『シャイニング』とかかなぁ。ハネケの『白いリボン』のオマージュと思われるシーンもある。私はどれも大好物なので、本作も、雰囲気はなかなかgooでありました。ショッキングな映像は終盤まではほとんどない(序盤に1か所あるけどモロに映っているわけじゃないです)けど、だんだんこの『継承』というサブタイトルの意味が分かってくるのが気味が悪い。


◆家族ってホラー。

 テーマが“家族”ってのが良い。そう、家族って因果な関係だけに、拗れると恐ろしいのだ。これは、監督であるアリ・アスター自身も家族に係る問題で苦労した経験があるとのことで、そうだろうなぁ、と本作を見て納得。家族モノは、非常にホラーに向いているものね。絆だ何だと世間じゃ言っているけど、そんなキレイ事じゃ済まされない家族も世の中にはゴマンとあるのよ。

 そう、この『継承』というサブタイトルは、家族ゆえの、、、なのであります。つまり、もう生まれ落ちたときから逃れられないってヤツ。

 現実世界では、本作のようなモノを継承することは(多分)ないけれども、別のモノはイヤでも継承するわけで、それが、容貌であったり、体質であったり、癖であったり、環境であったり……。良きにつけ悪しきにつけ、いずれも自分の意思では選べないモノを人間は親から授けられて生まれてくるのだから。本作は、そういう抗えない遺伝的な“悪しき”ものに翻弄される人間を描いているとも言えるのでは。

 こんな顔に産んでくれたばっかりに、、、こんなアレルギー体質に産んでくれたばっかりに、、、な~んてことは、誰にでも一つや二つあるでしょう。それを、ホラーに仕立て上げたら、こういう作品が出来ました、、、みたいな。

 家族がテーマだから、当然、主たる舞台は彼らの住む“家”である。家、、、これもホラーの定番。本作の家も、なかなかのモンです。すごく広くて素敵な家なんだけど、何だか住みたくない感じのする家。そして、案の定、曰く付きの家。

 あと、アニーが作っているドールハウスというか、ミニチュアが、ある種のメタファーになっている。アニーも結局、運命づけられている人間なわけだから、彼女が作る、彼女の家のミニチュアは、彼女によって支配されている“家族”であり“家”であることを象徴している、のでしょう。

 そういった、小道具というか、いちいち細かい設定まで、非常によく考えられていて、映画作りの志の高さを感じられるのは嬉しい限り。


◆ラスト15分が、、、

 じゃあ、なんで6つしか付けてないのさ……、ってことなんだけど。

 終盤まで良い感じだったのが、ラスト15分が、私にとっては「ドッチラケ」だったのであります。え゛~~~、みたいな。『ローズマリーの赤ちゃん』みたいに、ニュアンスを感じさせる描写で終わらせてくれれば良かったのに。ちょっとハッキリ描きすぎなのがね、、、何かね、、、。

 なので、一気に怖さも不気味さも吹っ飛んでしまい、ちょっとグロ映像があるので一瞬ウゲゲとなるものの、あそこまでやっちゃうと、何か笑っちゃいそうになり、でも何となく笑っちゃうのは不謹慎な気がして笑うこともできず、何ともいたたまれない気持ちになってしまったのよ。

 ホント、そこまでがなかなか良い味わいだったので、ちょっと残念でした。

 でも、本作で一番怖いのは、アニーを演じるトニ・コレットの絶叫顔かも。ちょうど先週、ムンク展に行って、例の「叫び」を見たんだけど、ムンクもビックリな叫び顔のトニ・コレット様でした。彼女の演技が本作を支えていることは間違いないです。

 あと、懐かしのガブリエル・バーンも久々にスクリーンでお目に掛かり、ちょっと感激。『ゴシック』とか、また見たいわ~。

 序盤で死んでしまうチャーリーを演じたミリー・シャピロちゃん、素の画像を見ると、普通の可愛らしい女の子なんだけど、本作ではメイクのせいもあってか、かなりヤバい子供になっていました。ホラー映画の子供ってのは、怖さを増す存在として最強かもね。

 最終的に、真の主役であった長男のピーターを演じたアレックス・ウォルフ君は、もしかしてインド系かな? トニ・コレットとガブリエル・バーンの両親からああいう容姿の子が生まれるものなのかなぁ、、、などと見ながらぼんやり疑問に思ってしまった。けれども、ラストのオチで、そういう問題じゃないんだ、と納得。

 いろいろ確認したいシーンもあるので、もう1回は見るかな。劇場には行かないと思うけど。









こんなもの家族に継承させたおばあちゃん、酷すぎ。




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薔薇の名前(1986年)

2018-12-02 | 【は】



 以下、amazonよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 宗教裁判が激化している中世のヨーロッパで、イタリアの修道院での会議にイギリスの修道士ウィリアム(ショーン・コネリー)と、見習いのアドソ(クリスチャン・スレーター)が参加していた。そこで不審な死を遂げた若い修道士の死の真相解明を任された二人が謎を探るうちに、再び殺人事件が発生する……。

=====ここまで。

 ちゃんとあらすじを書くと長くなるので、amazonさんのをお借りしました。

 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 Eテレの「100分de名著」で9月に取り上げた名著がウンベルト・エーコの『薔薇の名前』でした。この中で時折引用されていたのが本作の映像。原作は難しいと聞いていたので手に取ることさえなかったけれど、番組内で使われていた映像を見て、映画はなかなか雰囲気とか面白そうだと思ったので見てみることにしました。


◆笑っちゃダメなのよ。

 サスペンスとして見ても十分面白いと思うけれども、キリスト教の歴史を知らないと、多分面白さ半減なんだろうな、と感じた。

 本作でも終盤の見所は“異端審問”なんだけれども、異端審問というと、やはり私はDDL主演の『クルーシブル』を思い出す。こちらは、魔女裁判だったけど、中身は似たようなもんで、神の教えに逆らったか否かを審判される。信仰を持たない人間から見れば狂気の沙汰なんだけど、神を信じる者の前では、「不合理」なんて言葉は何の意味もないのが、見ていて虚無感を覚える。

 本作における連続殺人の鍵は、この修道院の属するベネディクト会の厳しい戒律「いかがわしい話、ばかばかしいおしゃべりはいけない。むやみに笑ってはいけない」という、“笑いの禁止”である。なぜ?? と思うけれども、笑いが堕落を招くという、ものすごくおかしな思考回路の下にできた戒律らしい。しかし、アリストテレスの著書「詩学」には、笑いの重要性が説かれており(つまり、笑いとは“知”への探求、考えることなくして笑いは起き得ないということ)、この「詩学」が修道院の宝である図書館に納められていることから、この本を読んだ者が次々に死んでいった、ということなわけ。

 何で本を読んだだけで死ぬのか、というと、その本には図書館長のホルヘが毒(ヒ素)を塗り込めていたから。指を舐めてページをめくる度に、ヒ素を舐めることで、その本を読んだ者は死へと至るという次第。ホルヘは、戒律に忠実だったのだ。

 でも、異端審問と連続殺人事件は、実は直截的にはほとんど絡み合っていない、ってのもまたミソである。連続殺人事件を縦糸に、宗教のいかがわしさをヨコ糸にした、なかなか入り組んだ構造。ただ、異端審問も連続殺人も、神への冒涜が断罪されるという意味では通底している。

 『クルーシブル』の裁判官もそうだったが、本作の異端審問官も、見ていて吐き気を催すほどの邪悪さで、どうしてこの人たちが異端を裁けるのか、この自己矛盾を、なぜ皆黙って見過ごしているのだろうと、見ていてイライラしてくる。こんな人たちが権力の座にあること自体が、おぞましい。まあでも、本作ではこの異端審問官は最期に悲惨な末路を辿るので、多少溜飲が下がるというもの。

 詰まるところ、当時の(今もか?)キリスト教とは、信者に思考を禁じているのである。笑いの禁止なんて、その最たるものだと思うが、宗教の怖ろしさはココにある。考えることを許さないのだ。神の教えが第一、それさえ守っていれば良いと。なぜそのような教えを説くのかと考えてはいけないわけ。考えたら疑問が湧き、神の存在が脅かされるからだろうけど、まあ、今の世の中でも、宗教界以外でも、考える人間が厄介者扱いされるという現実は、本作の舞台である中世とあまり変わっていないのでは?

 ちなみに、「100分de名著」で原作の解説をしていた和田忠彦氏は、原作は、「人間の知への驕りへの警告や、言語に翻弄され続ける人間の宿命」が隠れたテーマだと言っていた。最終回には、中沢新一がゲスト出演してイロイロ喋っていたが(「反知性主義」とか話していたように記憶しているが)、正直なところ、中沢新一の話なんかよりも、和田氏の解説をもっと聞きたかったわ。

 思えば、権力者が最も恐れるものが、笑いかもね。風刺画とか、権力を笑うものだし。笑いの的にされたんじゃ、権威もへったくれもあったもんじゃない。

 ただ、この映画を見る限りは、そこまで読み取るのは少々難しいと感じる。宗教の持ついかがわしさは十分伝わるけれども、原作を読んだ上で見れば、また違う印象を持つのかも知れない。


◆その他もろもろ

 とにかく、本作の見所は、その世界観でしょう。ロケはドイツだったらしいけど、修道院の建物といい、図書館の構造といい、衣裳といい、ちょっと小汚い雰囲気とか中世の感じ(って、中世の修道院なんて見たことないんだが)が出ていて、さぞや美術担当の方々は大変だっただろうなぁ、と感心。

 “笑い”が厳禁だから、登場人物たちの笑顔がほとんどないのも、また印象的。でも、その剃髪した頭部は、いけないとは分かっていても笑えてしまう、、、。まあ、日本の時代劇に出てくる武士の頭部も、外国の人から見れば十分笑えると思うけど。

 ショーン・コネリーは、なかなか渋くてgoo。邪悪の化身みたいな異端審問官を演じていたのは、『アマデウス』でサリエリを演じていたフランク・マーレイ・エイブラハム。こういう屈折した悪役がハマる貴重な俳優さんだわ。

 クリスチャン・スレーターが、可愛くてビックリ。私の中では、『告発』のイメージが強いけれど、ゼンゼン違う雰囲気でありました。途中、村の娘とのセックスシーンは、かなり激しい描写で時間も長く、あれは撮影が大変だっただろうなぁ、、、などと見ながら思ってしまった。

 あと、連続殺人の死体が、これまた印象的。樽の中に逆さに入れられて『犬神家の一族』みたいに脚がニョキッと天に向かって出ていたり、浴槽の中に目を見開いたまま沈んでいたり、画的にも面白かった。もしかして、マジで『犬神家~』からインスパイアされたんじゃない? って思うほどそっくりだったんだけど、原作でもああいう殺され方していたのかしらん??

 何となく敷居の高いイメージのあった本作&原作だけど、映画は、見てみたら意外にそうでもなかったので、原作にも挑戦してみようかな、と思った次第。

 

  

 




ヒ素は古くからの毒なのね、やっぱり。




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