映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

ドライブ・マイ・カー(2021年)

2022-01-28 | 【と】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv72095/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 舞台俳優であり演出家の家福(西島秀俊)は、愛する妻の音(霧島れいか)と満ち足りた日々を送っていた。しかし、音は秘密を残して突然この世からいなくなってしまう――。

 2年後、広島での演劇祭に愛車で向かった家福は、ある過去をもつ寡黙な専属ドライバーのみさき(三浦透子)と出会う。さらに、かつて音から紹介された俳優・高槻(岡田将生)の姿をオーディションで見つけるが…。

 喪失感と“打ち明けられることのなかった秘密”に苛まれてきた家福。みさきと過ごし、お互いの過去を明かすなかで、家福はそれまで目を背けてきたあることに気づかされていく。

=====ここまで。


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 いろんな賞をもらっているらしい本作。昨年公開されたときは、“だってハルキー原作でしょ?”という理由で敬遠していたのだけれど、世間の評判も上々で、劇場公開もロングランしているし、、、ってことで、ミーハー全開で劇場まで見に行ってまいりました。

 オミクロン感染爆発状態なのに、劇場はなかなかの混み具合。実は本作を見た日は、『ハウス・オブ・グッチ』も見ていて、グッチを朝イチで新宿ピカデリーで見て、11:05にエンドマークが出た瞬間にエンドロールも見ずにダッシュで劇場を出、日比谷シャンテで11:45から上映の本作に間に合うよう急いで移動! というギリギリな状態で見たんです。だって、2作とも長いんだもん(グッチも2時間半以上あるし、本作も、、、、)。余裕持って見ようとしたら、帰りが遅くなってしまう。

 ……というわけで、以下、感想です。

~~以下、本作をお好きな方、村上春樹をお好きな方は、お読みにならない方が良いです。悪意はないですが、お好きな方から見れば悪口になっちゃっていますので。~~


◆途中から地味なロードムービーに

 村上春樹原作、、、というので、ちょっと……いや、ものすごく先入観ありまくりで見に行ったわけだけど、意外にも中盤過ぎまでは、面白いと思って見ていた。

 でも、オーディションシーンあたりから、だんだん、じわじわと、、、うっ、、、ダメかも、、、と思い始め、、、、台本棒読み稽古シーンでかなりヤバい状況(気持ちが)になり、一番カギになるシーンであろう、家福と高槻が車の中で語り合うシーンで、ドロップアウト(気持ちが)してしまった。

 これは、ハルキー原作だからとかじゃなく、単純に、登場人物たちがみんなセリフでしゃべり過ぎなのが鼻白んだのだけど、、、でもまあ、まだ、どんなオチをつけるのだろう、という好奇心で見ていることはできた。

 で、いよいよ、みさきの故郷、北海道で、家福とみさきが語り合う(多分、感動するシーンなのだと思うが)シーンで、頭を抱えてしまった。

 家福が涙目で叫ぶセリフ「僕は正しく傷つくべきだった。本当をやり過ごしてしまった。見ないふりを続けた。だから音を失ってしまった。永遠に。生き返ってほしい。もう一度話しかけたい」で、すみません、引きました。

 人は自分と向き合い「正しく傷つくべき」であり、現実を「見ないふりを続け」てはいけなかったのだ……って、これこそが、本作の主題でしょう。私、主題をセリフで回収するシナリオは嫌いなんですよ。そんなの、素人だってできる。

 一応弁解しておくと、小説ではアリだと思う、小説では。小説は、だって、ちゃんと文字に書かなきゃ読者に伝わらないもんね(まんま書かなくてもちゃんと伝えられる小説家の方が好きだけど)。原作でこのセリフがあったとしても、それはイイと思うのよ。

 けれど本作は、映画、映像作品でしょ。映像で見せてよ、と思うわけ。セリフで言っちゃっちゃぁ身も蓋もないというか、、、。そんなのセリフで言うんだったら、3時間もかけんでもええやん、、、と。引っ張った挙句、それかい、、、と、

 せっかく、味わいあるロードムービーになりそうだったのに、途中から脇道へ入って迷走してしまった感じだ。

 もっと言えば、ロードムービーのほとんどは、テーマが「きちんと自分と向き合うことの大切さ」を描いているのであり、そんな「太陽は東から昇るんだよ」なことを涙目で叫ばれてもね。いやだからさ、それをどうやって表現してくれるのかを見に来たんですけど、アタシは、、、と、スクリーンの西島さんに向かって私は心の中で叫んでおりました、、、ごーん、、、。


◆ハルキーは永遠なり。

 まあでも、やっぱしハルキー節はそこかしこに感じましたね。愛し愛されている(?)夫がいるのに浮気する女、とか。ベッドでシナリオのネタを語る女、とか。「もう一人子ども欲しかった?」と今さらなことを夫に聞く女、とか。

 これは好き嫌いなので、貶す意図は毛頭ないのだけど、村上春樹が描きそうな女性像。フシギちゃん系の女、男に都合の良い素敵な女。

 浮気する女のどこが男に都合の良い女なんだ?と言われそうだけど、この妻は、結果的に、命と引き換えに夫に「当たり前のこと」を教えてくれるという、これ以上ない献身を男にしているのだ。修羅場目前にして殺しちゃうところが嫌だよなぁ。なぜ、修羅場を書かない?

 もちろん、夫婦だからこそ言えないこと、言いたくないことがあるのは当然で、家福が音に浮気のことを問い詰められないというのは、分かる。

 浮気する女は、夫に気付きを与えるためにしているんじゃなくて、自分のためにしているのだよ、浮気を。寂しいとか、夫が嫌いとか、そりゃ理由はイロイロだろう。音だって、家福の気を引きたかったから浮気していたんだろう。そこを書けよ、と。何か重大な局面で、女を動かすんだよね、ハルキーは。男を主体的に動かすことがない。音なんか、殺されちゃったもんね。ひでぇ。

 もう、村上春樹の小説は何年も読んでいないので、好き嫌いを語る資格はあまりないのは自覚しているが、私の知っているハルキーの描く女が、やっぱり映画の中に現れて、そこはすごくイヤだった。

 そもそも、ドライブマイカーっていうタイトルもね。自らはハンドルを握らず女に運転してもらっている車に乗っているだけ。「マイカー」は人生だとすれば、自分の人生をドライブしているのは自分以外の人。自分でドライブしない、handleできない、まさにハルキー節ではないか。

 きちんと現実を直視すべきは、ハルキーよ、あなた自身なのでは。いつまで女(だけ)を動かして、現実から目を逸らすおつもりか。女は(特に素敵な女は)そんなに男に都合よく動かないよ。ファンタジーを描いているにしても、いつまでやってんだよ、、、。だから、私の周りでは、ハルキー好きは男ばかりなのだろうけど。


◆その他もろもろ

 西島さんは、一気に飛躍の作品となりましたね。あんまし演技巧者とは思えないけど、誠実そうな雰囲気と、家福のキャラがうまくマッチしていて良かったと思う。才能ある演出家、、、ってのは、ちょっと違うかなぁ、イメージとしては。もうちょっとパッションがあっても良いよね、演出家なら。

 岡田将生は、どんどん階段を上っている。見る作品、どれも良い演技をしていると感じる。作品自体はイマイチでも、彼は光っている。高槻と違って、彼は自分のキャリアを大切にする頭の良い役者だと思うから、是非とも、もっともっと上って行って欲しい。

 愛想のない運転手・みさきを演じていた三浦透子ちゃんにとっても、本作は代表作になるかも。歌も歌っているそうだけど、聞いたことないので、今度聞いてみよう。彼女は、それこそ実力派の、地に足の着いた役者さんになるに違いない。

 そのみさきが、本作のラストシーンでなぜか韓国にいるのだが、、、。ネットでもいろいろと読み解きがされているけど、私も見終わった直後は??となったけど、あんまし深読みする必要はないのかな、と思うに至った。

 家福が広島で滞在する島の家が、とっても素敵で、私もあんな古民家に滞在してみたいわ~、と思って見ていた。東京の喧騒も良いけど、根が田舎者である身としては、やっぱし自然豊かで静かな場所に心惹かれるのも事実。移住したいなぁ、、、などと、途中からそんなことも頭をよぎっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

オスカー獲れるでしょうか? 獲ったらまた大騒ぎですな。

 

 

 

 

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ハウス・オブ・グッチ(2021年)

2022-01-22 | 【は】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv74864/


以下、wikiよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 世界的ファッションブランド「グッチ」の創業者一族出身のマウリツィオ・グッチ(アダム・ドライバー)にとって経営参加は魅力的には映らず、経営権は父ロドルフォ(ジェレミー・アイアンズ)と伯父アルド(アル・パチーノ)が握っている状態だった。

 そんな中、グッチの経営権を握ろうと野心を抱くパトリツィア・レッジアーニ(レディー・ガガ)はマウリツィオと結婚し、グッチ家の内紛を利用して経営権を握っていく。しかし、一族間の対立激化と共に夫マウリツィオとの関係が悪化し、夫婦間の対立はやがてマウリツィオ殺害事件へと発展していく。

=====ここまで。


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 それにしても、ギャスパー・ウリエルの事故死ニュースには驚きました。20日の朝、職場でコーヒーを飲みながらネットをボケ~っと見ていたら、「ギャスパー・ウリエル氏死去」の文字に、思わず「えーっ!?」と声を上げてしまい、一気に覚醒しました。

 スキー事故。確かあのシューマッハもスキー事故だったのでは、、、。しかも衝突した相手の方は無傷だったとか。相手の方もやりきれないでしょうね、、、。ウリエル氏はノーヘルだったと書いてありましたが、考えてみれば、スキーは生身の人間が時速数十キロで滑降しているわけですから、かなり危険なスポーツなのですね。スキーなんてもう何十年もやっていませんが、スキーでヘルメットなんてかぶっていた人、当時のスキー場ではほとんどいなかったと思います。当時は、スノボなんてなかったし、、、。

 ウリエル氏、フランスの映画界にとっては貴重な人材だったはず。残念です。彼の出演作をいくつか見てきた者としても、かなりショックです。もっといろんな彼の演技を見たかった。

 小さなお子さんもいたとのこと。亡くなるには若過ぎる。彼の映画デビュー作『ジェヴォーダンの獣』を見て、ささやかながら偲びたいと思います。

 ……で、本作ですが。大分前(調べたら98年だった)に、グッチ家の悲劇をNHKスペシャルの「家族の肖像」シリーズでオンエアしていまして、その内容がかなりショッキングだったのですね。番組は、本作のネタとなった事件の後日談で(三代目当主ロベルトのブランド再建の話)、本作で登場する人物はほとんど出てこなかったんだけど、あの番組の前提となった事件が描かれる映画ということで、劇場まで見に行ってまいりました。


◆グッチ家崩壊は既に始まっていたのだ。

 大体の筋は分かっているとはいえ、マウリツィオがあまりにも世間知らずのおバカで、終始、呆れて見ておりました。パトリツィアにとっては、彼を落とすことなど、赤子の手をひねるより簡単だったに違いない。

 一体、彼の父親ロドルフォはどういう教育をしてきたのか。金持ちのぼんぼんなら、処世術もある程度は教えておけよと。弁護士を目指していたそうだが、勉強ばっかりしていたのだろうか、、、。人を見る目って、育つ部分もあるけど、持って生まれた能力もあるから、親のせいばかりとは言わないが、無菌室からいきなり汚染地帯に放り出したら、そりゃああなるわね、、、としか。

 よくある三代目問題ですな。そして、やはり同族経営というのは限界があるんだろう。私の知り合いの会社も、創業者がすごい頑張って軌道に乗せて、息子の一人に社長を譲り、自らは会長だか何だかで院政を敷いていたんだが、経営陣にいた創業者の兄弟と揉めに揉めて、結局、創業者たちの方が会社にいられなくなり分裂していた。

 でも、お家騒動の一番の被害者は、そこに努める社員たちなんだよねぇ。騒動の当事者たちは勝手にやってりゃいいけど、社員たちにしてみりゃ、ホントいい迷惑だと思うわ。グッチの職員たちも、さぞや大変だったに違いない。アラブの富豪に経営権が渡ったのは、働く環境の安定という意味では、むしろ社員たちにとっては良かったのかも。

 マウリツィオの悲劇は、パトリツィアの本性を見抜けなかったことと、自身に経営能力がないことが分からなかったこと。でも、仮にマウリツィオが経営に携わらなかったとしても、グッチ家によるグッチの運営は早晩行き詰まっていたのは火を見るより明らかなわけで、グッチ家の悲劇は、マウリツィオとパトリツィアの結婚前から既定路線だったのだと思うな。

 とはいえ、マウリツィオが暗殺されたのは、確実に“パトリツィアと結婚したから”だけどね。マウリツィオにしてみれば、自業自得にしては、あまりにも代償が大き過ぎる。


◆豪華出演陣とか、、、

 本作では、グッチ家の崩壊の根源みたいな描かれ方をしていたパトリツィアだが、演じたのはレディー・ガガ。ガガ様の歌も演技も、私は全然知らないので、本作がガガ初見に近いのだけれど、なかなかの好演だったと思う。

 印象的だったのは、マウリツィオとの出会いのシーン。マウリツィオが自己紹介で「マウリツィオ・グッチだよ」と名前を言った瞬間のガガ様の目!!! ギラッ!!とロックオンした瞬間が実に見事だった。あと、殺し屋にマウリツィオ殺害を依頼するシーンの下品さ(というか、下劣さというべきか)全開なところとか。内面を演技で表現するって、まあそれが役者の仕事とはいえ、難しいと思うが、ガガ様、お見事でございました。

 マウリツィオと、自身の父親の会社の事務所でセックスするシーンとか、ほとんどコメディで苦笑してしまった。全然セクシーに描いていない。これが、彼らの結婚の本質を暗示しているようで、笑えるけど笑えないというか。傍から見れば、実に珍妙な結婚だったのだ、やはり。

 マウリツィオが父親のロドルフォとパトリツィアを会わせるシーンもねぇ。私でも見ればすぐに分かるクリムトの絵を「ピカソ?」とか言っちゃうパトリツィア。ほかにも教養のなさ過ぎなのを発言の端々で露呈させる。ジェレミー・アイアンズ演ずるロドルフォは、しかし、露骨に本人に嫌悪感を表すような無粋なことはしない。そして、彼女がいなくなった後の「トラック屋の娘だぞ!」とひどい侮辱の仕方。その対比が凄い。実際がどうだったのかなど知る由もないが、アイアンズのニヒルな雰囲気が、より一層違和感を物語る。

 アルドを演じているのがアル・パチーノだって気付いたのは、中盤になってからだった。それくらい、分からなかった。歳をとったとか何とかよりも、全体的な雰囲気が、何か別人やった。いきなり「コンニチハ! サイキン、ドオ?」なんて日本語しゃべりながら現れるから余計に、、、。このアルドというお方は、かなり早い時期から日本進出を考えていたそうな。ゴテンバなんて地名もセリフに出てくる。

 もっとビックリしたのが、アルドの次男・パオロを演じていたのがジャレッド・レトだったこと! なんと、私は後からネットを見て知りました! ガーン、、、、。だって、頭髪も顔もゼンゼンちゃうやん!! このパオロがまた、悪い人じゃないんだけど、悪いのよ、頭が。多分、実際よりおバカっぽく描いているのだと思うけど。ロドルフォに自身のデザインをダメだしされた腹いせに、ロドルフォお気に入りデザインのスカーフに小便を掛けるシーンとか、もう、見ていられなかった、、、。

 殺されちゃうマウリツィオを演じていたアダム・ドライバーは、序盤から人の好さそうなぼんぼん感を出し、後半パトリツィアを突き放すときも冷酷という感じでもなく、良くも悪くも“イイ人”。唯一、感情を露わにしたシーンは、経営権を譲渡するところだけど、それもこれも、自身の人を見る目のなさが招いたことなのよね。気の毒ではあるけど、あまり同情する気持ちにもならなかった。

 中盤以降は、パトリツィアの描写が減って、グッチ家のいざこざの内容も分かりにくくとっ散らかっている印象。パトリツィアとマウリツィオ夫婦から焦点をずらさない方が良かったのでは。

 グッチ家は、本作に対して抗議しているらしい。ま、そらそーでしょうな、、、。

 冒頭に書いたNHKスペシャルの「家族の肖像」では、ロベルト(パオロの弟)の娘(確か長女だったと思う)が修道院に入る話があった。一族の争いに絶望し、神に仕えることを選んだ、、、のだったと思うが、ロベルトが修道院にまで娘を訪ねて翻意させようとしたが、逆に娘の心情を聞いて、諦めるシーンがとても心に残った。娘の気持ちがすごく分かる気がして、胸が苦しくなったのを覚えている。自分の意思でどうにもならない事態に現実が動いて行ってしまうとき、もう残された道は俗世を捨てることしかない、、、というのは、私にもあったから。私は実行力がなかったので、現実に流されるままになってしまったけれど。父親の側から見れば、確かに悲劇的かもしれないが、娘さんにとっては唯一の生きる道だったのだと思う。

 もう一度、番組を見たいと思ったけど、簡単には見られそうもなくて残念。再放送してくれないかしら。とりあえず、番組を書籍化しているみたいなので、図書館で予約しました。

 

 

 

 

 

 

 


またセリフがイタリア語みたいな英語だった、、、

 

 

 

 

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返校 言葉が消えた日(2019年)

2022-01-20 | 【へ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv72461/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1962年、蒋介石率いる国民党の独裁政権下の台湾。市民は、相互監視と密告が強制されていた……。

 翠華高校に通う女子高生ファン・レイシン(ワン・ジン)が放課後の教室で眠りから目を覚ますと、何故か学校には誰もいない。校内を一人さ迷うファンは、政府から禁じられた本を読む読書会メンバーで、秘かに彼女を慕う男子学生ウェイ・ジョンティン(ツォン・ジンファ)と出会う。

 ふたりは協力して学校からの脱出を試みるが、どうしても外に出ることができない。それでも、消えた同級生や先生を探し続けるファンとウェイ。

 やがて、悪夢のような恐怖がふたりに迫るなか、学校で起こった政府による暴力的な迫害事件とその原因を作った密告者の哀しい真相に近づいていく……。

=====ここまで。

 2017年に発売された台湾の大ヒットホラーゲーム「返校」を実写映画化。


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 昨年の劇場公開時に見に行きたかったのだけれど、コロナとか何とかで、結局行けずじまい、、、。というわけで、DVDを借りて見ました。確かに、ホラーゲームっぽかった。

 この時代の台湾を描いた映画といえば『悲情城市』(1989)、『牯嶺街少年殺人事件』(1991)が有名なのだけれど、私はどちらも一応見たが、どちらも消化しきれていない。それはひとえに、私が台湾の歴史を知らなすぎるからだが、本作は、そんな私でも普通に楽しめるエンタメ映画になっている。

 目が覚めたら誰もいなくなっている、、、という始まりが、いかにもゲーム的。

 その後の展開も、道が壊れていてある場所から出られなくなっていたり、クリーチャーが出て来たり、よく知っている人がゾンビみたいになっていたり、、、と、ゲーム的要素満載だが、映画としてもなかなかのクオリティで見せてくれるのだ。

 何より、(これはゲームの出来が良いということなんだろうが)ストーリーが謎めいていながら適度に考えさせられて、最後には「ああ、そういうことか!」とオチもある程度分かるように作っている。全体に暗い画面が多いのだが画が美しいシーンが多く、制作陣の意気込みが感じられて、見終わった後、爽快とは違うが満足感は大きい。

 徹底的な言論統制下にあるチクリ社会。そんな中でも、やっぱりいるのが、反逆者たち。権力者たちの目を盗んで禁書を「読む会」なんてものをわざわざ作る。一人でこっそり読んでりゃいいものを。……まあ、一人じゃ禁書を入手できないという事情もあるんだろうけど。この舞台設定だけでホラーになる、、、というところに目を付けたのはゲーム開発者の慧眼でしたな。

 どんな社会でも根本的な人の営みは同じというか、、、。「欲」ですね、やっぱり。知識欲、性欲、物欲、支配欲、、、、挙げればキリがない。

 ファンは、禁書を読む会を主宰している教師・チャン先生に思いを寄せているのだが、行き違いから、チャン先生が読む会に属している女性教師と親密だと勘違いし、チャン先生と女性教師を引き離したいというだけの思いから、読む会の存在を密告してしまう。そこから壮絶な弾圧が始まるのだが、誰が密告したのかが、本作の鍵となる。

 チャン先生はじめ、読む会のメンバーは凄惨な拷問を受け、ウェイ以外皆殺される。そして、結局ファンが密告者であることも露見し、ファンは周囲から白眼視されるようになる。ファンの両親も不仲で、父親は汚職で逮捕され、家族崩壊に至る。現実の悲惨さに堪えられなくなったファンは、学校で密告のお詫びとばかりに首を括るのだが死にきれない、、、。

 なぜか、以前はなかったはずの墓が学校の中にあったり、終盤、読む会の部屋にファンが戻ろうとするシーンが、序盤でファンが目覚めた後に読む会の部屋に行くシーンにつながったりという辺りが、本作の謎解きのヒントですかね。

 中学生の淡い恋心がトンデモな事態を引き起こした、、、だけのオハナシといえばそれまでなんだが、独裁時代の史実を背景にして、サスペンスフィクションに仕立て上げたその構成力が素晴らしい。

 日本のホラーゲームも相当のクオリティなんだろうけど(最近全くゲームやっていないのでどんなゲームがあるか知らないのです、スミマセン)、こういうゲームあったら面白いのに。自国の黒歴史をホラーゲームに仕立てるというのは、それなりに文化の成熟が求められるので、今の日本ではムリかな。

 台湾の歴史について、せめて常識レベルには知っておきたいので、これからイロイロ面白そうな本を探そうと思います。 
 

 

 

 

 

 

 


ファン役のワン・ジンちゃんが可愛い。

 

 

 

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私は殺される(1948年)

2022-01-16 | 【わ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv10032/


 大手製薬会社の娘レオナ(バーバラ・スタンウィック)は心臓を患い寝たきりである。同社のNY支店長である夫のヘンリー(バート・ランカスター)が帰宅時間になっても帰らないため電話で夫の所在を確認していたところ、電話が混線し「今夜、11時15分にあの女をやっちまえ」という内容の会話が聞こえる。レオナは警察に知らせるが、警察は取り合おうとしない。

 その後も夫となかなか連絡が取れず、夫の秘書の話から、夫が夕方ロード夫人と名乗る女性と出かけたことを聞き、ロード夫人とはその昔、夫ヘンリーの恋人だったサリーであったことを思い出し、サリーからヘンリーを奪ったレオナは、夫に対する疑念を抱く。

 電話だけがレオナが外界とつながる唯一の手段だが、夫とはなかなか連絡がつかず、夫に対する疑念が深まる情報だけが電話を通じて入ってくる。そのうち、レオナは混線して聞いた殺人計画の話が頭をよぎるようになる。

 

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 先日、衝撃的なニュースが、、、。岩波ホール閉館。……ガーン。これはかなりショックでした。確かに、このブログでもしょっちゅう岩波ホールに人が入っていないことは書いて来ました。半面、あの劇場だけは何があっても採算度外視で運営し続けてくれるに違いない、、、という、勝手な思い込みがありました。このニュースを聞いたとき、やはりそんなはずはないよな、と当たり前の現実を改めて思い知りました。

 昨年改修したばかりで、正直なところ、まさか……、という感じです。コロナの煽りをもろに喰らったということのようですが、文化芸術を軽んじる国に未来はないと思います。これから貴重で希少な映画は、どこで見られるのでしょうか。とにかく、今月末からのジョージア映画祭と、その次の『金の糸』は必ず見に行きたいと思います。

 本作は、ネットを見ていたら感想を書いている方がいて、面白そうだったので借りてみました。


◆レオナという女性、、、

 電話交換手がいる時代の、電話を使ったサスペンス。今なら、携帯で一発!というところが、なかなかまどろっこしく、そこがまたミソでもあります。レオナが電話でやりとりする中で回想シーンが挟まれ、ストーリーが展開していく。

 この手法も、最初は面白く見ていられるが、ワンパターンでだんだん飽きてくるのがちょっとね、、、。とはいえ、時系列が行ったり来たりする割には分かりにくさはなく、よくできたシナリオだと思います。

 レオナがベッドからほとんど動けない(一応、歩けるけど、モノにつかまりながら、、、という感じ)ってのもポイント。豪邸に住んでいて、その晩は召使も全員不在、夫もおらず、レオナ一人きり。ヒッチみたいな設定じゃない?

 しかし、このレオナの病気、実は心臓には何の異常もない、心因性の発作なのだ! これは、レオナの主治医がそう語っている。まあ、ヒステリーの一種でしょうな。確かにめっちゃわざとらしい発作で、でもレオナ本人は本当に胸が苦しいらしいのよね。

 このレオナという女性の人物像が、どこを切っても好きになれる要素がなくて、見ていて困りました。その昔、ヘンリーを、当時の恋人サリーから奪ったときの奪い方も、実に図々しく、タカビーそのもの。そんな女に簡単になびく男と結婚するという、絶望的なまでの男を見る目のなさ。結婚後もパパの威を借り、夫をコケにしまくる浅はかさ。ううむ、、、何でここまでヒロインのキャラが最悪なのか。

 終盤、自分が殺される対象だと気づいてから、ヘンリーに「何で素直に話してくれなかったの? あなたの力になりたかったのに! 愛してるのよ!!」とか涙ながらに訴えるシーンは、ちょっと見る者の同情を誘いはするものの、それまでがそれまでなので、何となく“自業自得”という言葉が浮かんでしまう。

 夫ヘンリーは、パパの会社から薬を横流しして売上金を横領していたのだけど、それが悪い奴らに利用されていたってんで、ややこしい事件に巻き込まれることになった、、、という終盤のタネ明かしは、正直なところ、あんまし面白くないしね。あの夫ならさもありなんで、意外性がない。

 けれども、ラストは本当にヤバい事態になって、見ていても一応ハラハラさせられるので、サスペンスとしては成立していると言えましょう。


◆その他もろもろ

 ヒッチみたいな設定と書いたけど、監督は、アナトール・リトヴァク。この方、ロシア人なのね、、、。『うたかたの戀』(1936)もリトヴァク監督作だった。

 ヒステリーのお嬢レオナを演じたのはバーバラ・スタンウィック。出演作を見るのは、多分本作が初めてではないかな、、、。いかにも、昔のハリウッド女優、という感じの美人なんだけど、中盤以降、だんだん追い詰められてくると、髪振り乱し、メイクも落ち、、、とかなり体当たり演技でございました。タカビー全開の超イヤな女が結構ハマっていたと思う。

 驚いたのは、アホ夫、ヘンリーを演じていた若きバート・ランカスター。私の知っているバート・ランカスターと、顔も雰囲気もゼンゼン違う!! ヴィスコンティの『山猫』とか『家族の肖像』とかの、あの知的なキャラとは対極にあるような、肉体派っぽいギラついた感じが、最後まで私の中でバート・ランカスターと認識できないままでした。

 まあ、、、確かに顔はよく見ればそうかなぁ、、、と思う(アタリマエか)けどね。映画友が言うには、『泳ぐ人』の彼が非常に良いらしいので、近々見てみようと思います。

 この邦題がネタバレだという指摘が結構あるけど、ネタバレではないような。原題の“Sorry, Wrong Number”の方が確かに謎めいてはいるけれど、、、。似たような邦題で『私は死にたくない』ってのがあるけど、これもかなり救いのない話で見ていて辛かった、、、。こちらの原題は“I Want to Live!”。何で「死にたくない」にしたんだろ、、、。余談でした。

 

 

 

 

 


“Sorry, Wrong Number”のセリフはラストシーンに出てきます。

 

 

 

 

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乳房よ永遠なれ(1955年)

2022-01-14 | 【ち】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv24413/


以下、早稲田松竹のHPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 下城茂との不幸な結婚生活に終止符を打つため、ふみ子は子供二人を抱えて実家に戻った。実家に戻ってからのふみ子は、母親たつ子と弟・義夫の許で幸福だった。ひと月ほど経った頃、仲人の杉本夫人がやって来て、離婚手続きが済んだが昇とあい子の二人を引き取ることは駄目だったと伝えた。断腸の想いで昇を下城の許に去らせてからというもの、ふみ子は母性の苦汁をなめさせられる日が多かった。

 下城家から昇をこっそり連れ戻し、親子水入らずて東京に職を見つけようと決意したふみ子は、この頃から自分の乳房が疼き始めるのを知った。その痛みはやがて激痛へと変わり、彼女はその痛みが乳癌からであることを知った…。

 31歳で夭逝した女流歌人・中城ふみ子の過酷な人生を綴った評伝を映画化。女心の機微に触れる女性監督ならではの演出が光り、哀しきヒロイン役・月丘夢路の熱演が胸に響く。

=====ここまで。


 どうでもよいが、上記リンクmoviewalkerのあらすじの最後の部分「支忽湖のほとりに昇やあい子と立った大月は、ふみ子のノートを(中略)湖面に投げるのだった」ってあるけど、支笏湖じゃなくて、洞爺湖だと思うよ??


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 邦画の古い作品はほとんど見ていなくて、小津作品とかもTVでオンエアしているのをながら見したことがあるくらいで、まともに見た作品は1本もないと思う。……と思って、みんシネの小津リストを見たら、『大人の見る絵本 生れてはみたけれど』(1932)は見たなぁ、、、大分前だけど。でもそれだけだった!

 なので、田中絹代というお名前を聞いても、もちろん知ってはいるが、どんな女優さんなのかは知らなかった。で、少し前に『雨月物語』(1953)を見たときに、すごく印象に残ったのですよね。その後も、古い邦画はあまり見ていないけれど、田中絹代の印象はずっと残っており、この特集を早稲田が企画したと聞いたので、1本はぜひ見たいと思い、中でも評価が高いらしい本作をたまたま元日に上映していたので見てみた次第。

 本作の舞台は、戦後10年くらいの北海道。主人公のふみ子は、実在の歌人中城ふみ子がモデルとのことだが、中城ふみ子というお名前、本作で初めて知った次第。検索すると、wikiにはずいぶん詳しい記述があった。wikiを読む限りでは、割と実際のふみ子さんの人生をなぞって描かれていたみたい。

 まあ、戦後とはいえ昭和前半のオハナシなんで、女性にとってはなかなか厳しい時代。あんな使えないくせに横暴な夫でも、一応、夫である以上は妻としてかしずいているふみ子が痛々しい。でも、さすがに浮気の現場(こともあろうに自宅で)を目撃してしまったら、キレていたふみ子。そらそーでしょう。

 短歌の会の男性に恋したり、東京から来た若い新聞記者・大月に恋したり、恋多きふみ子。実際の中城ふみ子さんも、恋多き女性だったらしい。

 乳がんを患い、死期を悟って、もっと生きたい、、、というふみ子の苦悩、葛藤がよく描けていて、終盤はなんともやるせない。でも、決してふみ子を可哀そうな人として描いてはおらず、そのあたりに監督・田中絹代の意思を感じる。生前「女流監督と言われるのは嫌」「監督に女性も男性もない」と語っていたらしいが、本作を撮るときは「女性として感じることを女性として表現したい」とも言っていたそうで、なるほどなぁ、と思う。

 けれども、私はあんましふみ子に感情移入はできなかったのよね。一生懸命生きた女性だと思うし、子供がいても恋したって全然イイと思うし、あんましネガティブ要素はないのだけど、演じた月丘夢路の演技が私にはちょっとヘヴィでした。どうも芝居がかっていて、嘆き方、苦しみ方etc、、、が大げさに感じてしまい、大月に「抱いて……!」とか言う病院でのシーンは、ちょっとなぁ、、、という感じだった。私が大月だったら逃げたくなるな、、、というか。本作がお好きな方、すみません。

 シナリオ的には良いと思うので、このイメージは多分に月丘夢路に負うところ大ですね。

 余談だけど、wikiで読む限りでは、中城ふみ子さん、映画で描かれていたあのだめんず夫と親に見合いさせられて仕方なく結婚していたみたいで、まあ、ホントにお気の毒としか言いようがない。しかもその前には歯医者さんと婚約破棄しているらしいし。映画のふみ子もなかなか奔放だったが、中城ふみ子さんは相当の奔放ぶりだったようだから、そんな女性を、親の価値観で結婚させようとしたって、そりゃムリでしょう。それくらいの情熱がないと、あの抑圧された時代に、表現者として生きるのは難しかっただろうから。
 
 森雅之、大坂志郎、織本順吉とか、ものすごく若くて、特に大坂さんと織本さんは、ゼンゼン分からなかった。ふみ子が思いを寄せる堀卓(森雅之)の妻を演じたのが杉葉子さんというお方で、私は月丘夢路より、杉さんが素敵だな~と思った。当時としてはかなりの長身と思われるスラリとして涼やかな美しさが印象的。

 もう早稲田でのこの特集は終わってしまっているが、監督・田中絹代は今、再評価されているようなので、これからこういう特集は企画される機会が増えるかも。そうしたら、ほかの作品も見に行こうと思う。


 

 

 

 

 


田中絹代は日本の2人目の女性監督だそうです。

 

 

 

 

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ラストナイト・イン・ソーホー(2021年)

2022-01-08 | 【ら】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv74351/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 ファッションデザイナーを夢見るエロイーズ(トーマシン・マッケンジー)は、ロンドンのデザイン学校に入学する。しかし同級生たちとの寮生活に馴染めず、ソーホー地区の片隅で一人暮らしを始めることに。

 新居のアパートで眠りに着くと、夢の中で60年代のソーホーにいた。そこで歌手を夢見る魅惑的なサンディ(アニャ・テイラー=ジョイ)に出会うと、身体も感覚も彼女とシンクロしていく。夢の中の体験が現実にも影響を与え、充実した毎日を送れるようになったエロイーズは、タイムリープを繰り返していく。

 だがある日、夢の中でサンディが殺されるところを目撃してしまう。その日を境に現実で謎の亡霊が現れ始め、徐々に精神を蝕まれるエロイーズ。

 そんな中、サンディを殺した殺人鬼が現代にも生きている可能性に気づき、エロイーズはたった一人で事件の真相を追いかけるのだが……。

 果たして、殺人鬼は一体誰なのか?そして亡霊の目的とは-!?

=====ここまで。

 本作は、予備知識ナシでご覧になることをオススメします。
 

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 本作も元日に見ました。意外に人が入っていましたね。やはり話題作は、元日からでも入るのですね。夕方だったせいか、初詣帰りと思しき方々もチラホラ、、、。

~~以下、ネタバレバレなので、よろしくお願いいたします。~~


◆これはホラーか?

 序盤から前半にかけては、ホントにこれホラー??と思うほどにガーリーな雰囲気で、夢を叶えるために学校に入り、女子寮へ、、、という設定からして、『サスペリア』か!?と思ったけれど、まあ、ちょっと違いましたね。途中で女子寮出ちゃうしね。

 というか、本作は公式HPにも「サイコ・ホラー」とあり、ホラーにカテゴライズされているのだが、見終わってみて、ホラーというよりは、オカルト・サスペンスじゃないか、という気がする。

 女子寮を出て、一人暮らしを始めるアパートの部屋を見に行った時に、大家のおば(あ)さんミス・コリンズが「いろいろ思い入れがあるから改装していないし、売らない」と言うあたりで、こりゃ家モノのホラーか!とときめいたが、家モノともちょっと違って、ラストのオチは結構意外だった。

~~以下、結末に触れています!!~~

 エロイーズが借りた部屋は、まんま、多くの死体が遺棄されていた部屋だったのだ。だから、ミス・コリンズは改装することも売ることもしなかったのだ。もちろん、その多くの死体を遺棄したのはミス・コリンズその人。

 いやー、ラストのラストで、ミス・コリンズが打ち明け話をするところは、え?え??って感じで、怖いというより、スリリングであった。考えてみれば、「午後8時以降男子禁制」ってのも伏線だったのだね。

 つまり、夢の中のサンディは、若き日のミス・コリンズだったということ。エロイーズの夢の中でサンディは男に殺されたけど、実際は、サンディは自分を弄ぶ男たちを片っ端から殺していたのだ。若い娘である自分を、性の対象としか見ない世の男たち、そのことに何の後ろめたさも感じずに欲望をむき出しにしてくる男たち、食い物にすることしか考えていない男たち、、、お前ら一人残らず成敗してくれるっ!!……というところでしょうか。

 エロイーズにそんな怖ろしい夢を見させたのは、ミス・コリンズの怨恨と、数多の男たちの怨念だろうか。

 最終的に、ミス・コリンズは本性を露わにし、夢を通して過去の自分を垣間見たエロイーズを亡き者にしようと襲い掛かってくるが、絶体絶命のところで、エロイーズは命拾いをする。一応はハッピーエンディングである。ラストのラストで、おっ!というシーンがあるけどね。まあ、こういうラストは想定内です。


◆フェミコード的にはダメダメですけど、それがなにか??
 
 昨年見た『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2020)と、テーマは被る。見せ方はちょっと違うが、ラストで男たちに鉄槌が下る展開は同じ。……と言う意味で、フェミやジェンダー界隈が注目しているみたい。

 そういう切り口で見ると、この映画はダメダメでしょう。そもそも、女性に対する暴力の告発にはなりきっていない。途中まではそう見えるが、エロイーズに襲い掛かるのは、被害者本人であったはずのミス・コリンズと、加害者だった男たちの怨念であり、これでは何が何だか、、、メチャクチャである。

 また、女性たちの描き方がすごく類型的なのも気になる。田舎から出てきたエロイーズはおぼこ娘、都会育ちの同じ寮生たちはオシャレ、、、とか。エロイーズが寮を早々に出るのは、寮生たちの嫌がらせ・イジメによるものだが、女同士なんてこんなもん的な視線が感じられるのは否めない。

 私が、え゛ー-っとなったのは、サンディがポン引きのジャックと結ばれるシーンで、その時点でジャックのことをポン引きとは認識していないサンディが「私、遊びは嫌なの」とか言うわけよ、ベッドインする際に。そもそも、出会って数日で簡単に店の男と寝るサンディに、本当の野心が感じられなくてガックシ(まあ、だから食い物にされるんだが)だし、このセリフは「結婚前提でなきゃセックスはしない主義なの」とかと同じで、結局、セックスを武器にしているんだよね。

 別にセックスを武器にしてもかまわないけど、本人がそのことに無自覚なのが痛々しい。セックスが武器になる時点でアウトという構造的な問題もあるが、そこまで映画に求めてもね。

 何より、結局、本作の終盤は、女性に対する暴力をエンタメに仕立ててしまっており、アニャ・テイラー=ジョイという“カワイ子ちゃん”がいたぶられている様の描き方は、控えめに言っても“男性目線”を否定できない。

 ……だけれども、私はあまりそこを突っ込もうとは思わない。もちろん、そこをしっかり突っ込んでいる評はいくつか目にしたし、それを否定はしない。けれど、本作は、映画として面白いか否かで見れば、私はまあまあ面白いと思ったし、少なくとも女性への性暴力に対し、明らかに鉄槌が下されており、そこは大目に見て良いのではないかと思う。

 あるフェミニストの批評家氏は、本作に否定的で、おおむね指摘はその通りだとは思うが、エロイーズが(もちろん夢の中でだけど)サンディがセクシーショーに出ているのを見てビビッて驚いているのはあり得ないとかなり批判しているのは違うだろうと思ったなぁ。あれは、サンディが歌手ではなく、安っぽいストリッパーみたいなショーで、しかも何人もいるバックダンサーの1人に過ぎない存在だったことにショックを受けて驚いていたのだと思う(私も驚いたもん)。歌手になる夢を実現させていくサンディに憧れていたのに、ゼンゼン違う!!何コレ!!みたいな感じだったんじゃないかね。

 という具合に、いろんな見方ができるように作られているという意味でも、本作はそれなりによくできた映画と言って良いと思う。少なくとも、この監督にとっては意欲作だろう。それは伝わってくる。全方位に気を配った映画なんて、そもそもムリだろう。

 

 

 

 

 

 

 


60年代のファッション・音楽が楽しめます。

 

 

 

 

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天才ヴァイオリニストと消えた旋律(2019年)

2022-01-07 | 【て】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv73101/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 20世紀、第二次世界大戦下のロンドン。同い年のマーティンとドヴィドルは9歳の頃に出会い、共に成長を重ねていった。しかし、将来有望なヴァイオリニストへと成長したドヴィドルが、いよいよデビューとなるコンサート当日に突然姿を消してしまう。

 35年後、マーティンはその失踪の真相を明らかにすべく、ロンドンからワルシャワ、ニューヨークへと真実を探す旅に出る。

=====ここまで。
 

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 本作は、2022年の劇場鑑賞第1作目でございました。

 元日の朝8:30からの1回のみ上映で、正直なところ「どーすっかなぁ、、、」と悩みましたが、元日は映画の日でもありお安くなるし、人もそんなにいないだろうし、見たい映画はいっぱいあるんだから行っとけ! みたいな感じで、初日の出前に起きて身づくろいして新宿ピカデリーまで行ってまいりました。


◆明かされた真相が、、

 だいたいこの邦題がダサいし、クラシック音楽ネタの映画は大抵ハズレだし、ナチものは食傷気味だし、、、なのに気になって見てしまうのが毎度の習性。

 で……。元日の朝イチで見に行ったことを後悔はしないけど、やっぱしイマイチだったな、、、というのが鑑賞後の率直な感想でござんした。

 イマイチの最大の理由は、結局ドヴィドルが姿を消した理由にパンチがないこと。これって、私が無信仰だからかしらん??ともちょっと思ったが、イロイロ考えてみても、やっぱりそうではない気がする。

~~以下、ネタバレですのでよろしくお願いします。~~

 なぜドヴィドルはコンサートをすっぽかしたのか。それは、本番前にふと“偶然”迷い込んだシナゴーグで、行方不明だった家族の消息を知ったから、、、であります。

 ユニークなのは、その消息を知った方法だけど、それはホロコーストで亡くなった人たちの名前を“詠唱”するというもの。いわゆる、オーラルヒストリー(口頭伝承)の一種ですかね。文字として記録に残せないので、ラビが歌にして記憶し、後世に伝える、、、ということらしい。このラビの歌うシーンは、NYのシナゴーグで“上級主唱者”を務めているお方が吟じておられるらしい。たしかに、この声と旋律は人の心を震わせるものがあるように思う。

 そこで、自分の親きょうだいの名前が詠われたのを聞いたドヴィドルは、もはやロンドンでイギリス人たちを前に(イギリスもユダヤ救済に積極的ではなかったから)演奏することはできなくなったということだろう、とパンフに音楽学者の樋口隆一氏が書いている。

 ……けれど、ドヴィドルがコンサートを開けるまでのヴァイオリニストになれたのは、ほかでもないそのイギリス人であるマーティンの父親ギルバートの手厚い支援があったがゆえである。このギルバートは、下手すると実の子マーティンよりもドヴィドルに対して愛情も資金も投資を惜しまなかったくらいだ。だいたい、ドヴィドルがすっぽかしたコンサートだって、ギルバートが奔走して開催に漕ぎつけたのだ。

 すっぽかした理由と、すっぽかしたという事実を天秤にかけたとき、果たして観客が「なるほど、それならば仕方がない」と思えるかどうかが本作のキモだと思うが、ここが弱いよなぁ、と。ギルバートはドヴィドルがすっぽかした数か月後、失意のうちに亡くなっているというのだから、見ている方としてはよりギルバートに情が傾いてしまう。

 ドヴィドルの行動がけしからんとまでは思わないが、本番前にバスでうたた寝して乗り過ごすとか、プロの演奏家としてどーなんだ?と感じるところもあり、どうもピンとこなかった。バスでうたた寝したのは、リハーサル後、ドヴィドルが冗談で「(本番までの間に)酒でも飲んでくるか」と言ったのに対し、マーティンが「女でも抱いて来いよ」と返した一言があったから。……しかも、このシーンが、ラストのとんでもないオチ(後述)につながっている。

 少年時代のドヴィドルのヴァイオリンに対する姿勢は、確かに天才肌で、傲慢さを垣間見せながらもストイック。そんな少年が、デビューコンサートという重要な本番前に冗談でも「酒でも飲もうか」だの「女を抱きに行く」だのという発想にはならないような気がするんだよね。最も集中し、自分と向き合う瞬間ではないだろうか、本番前の時間って。

 彼がシナゴーグに行くまでの過程が説得力がないので、その後の展開に着いていけなくなった感じだった。


◆トンデモなオチにダメ押しされる。

 35年後に事実を知ったマーティンが納得したのかどうかも、イマイチ見ていて分からなかった。

 結局、ドヴィドルは、マーティンの意向に従い、35年前に開催されるはずだったコンサートの舞台に立ち、前半、35年前に弾くはずだったブルッフの協奏曲を弾くが、後半は本来のプログラムだったバッハではなく、自作の「名前たちの歌」という曲を無伴奏で弾く。そして、ドヴィドルに「もう二度と探さないでくれ」と置手紙をして、また姿を消す、、、。

 少年ドヴィドルがなかなか鮮烈な印象なので、この35年後の言動は同一人物とは理解しにくいものがある。けれど、35年という時間は、一人の人間を根底から変えてしまうには十分な時間でもあると思うので、やはり、映画としてそこの変化の描き方が弱過ぎるということだろう。

 私が決定的にイマイチだと思ったのは、最後の最後にマーティンの妻ヘレンが放ったセリフがちゃぶ台返しなオチだったから。

 ドヴィドルが再びマーティンの前から姿を消した後、ドヴィドルの置手紙を読んで放心しているマーティンに対し、ヘレンが「35年前、ドヴィドルが本番前に抱きに来た女は私よ」と明かすのだ。

 え゛、、、それ今言う?? 何なのこの人、、、。大体、マーティンと結婚したのはその後だし、何より、マーティンがドヴィドルの失踪で人生を支配されるほど苦しんでいるのを間近で見ながら、35年間ずー--っと黙っていて、それでも墓場まで持っていくならまだしも、この期に及んでそんなトンデモぶちまけ話するなんて、どういう神経しているんだ??

 このエピソードは完全に蛇足だったと思うなぁ。なくてもゼンゼン問題ない話でしょ。そのときのマーティンの反応も、別に、、、って感じだったし。普通だったら修羅場だと思うけどねぇ。


◆その他もろもろ

 鮮烈な印象を残す少年ドヴィドルを演じているのはルーク・ドイル君というイギリス人のリアル・ヴァイオリニスト。演奏シーンに嘘がないのは見ていてホッとする。その他のシーンでも映画初出演とは思えぬ、なかなかの演技っぷり。

 一方で、おじさんドヴィドルを演じたのはクライヴ・オーウェン。彼も演奏シーンがあって、生まれて初めてヴァイオリンを触ったにしては、なかなかの演技だったが、まあ、やっぱりイマイチなのは仕方がないよね。楽器の演奏シーンは全くの未経験者にはやっぱり難しいと思う。こういう、演奏シーンが肝になる映像作品の場合は、少しでも演奏経験がある役者を探した方がいいと思う。ほんの少しでも経験が有るかないかでは、雲泥の差だろう。

 余談だが『戦場のピアニスト』でポランスキーがブロディを主役に起用した理由の一つが、ブロディが過去にピアノを短期間ながら習っていたことがあったからだった。最も重要なシーンがピアノを演奏するシーンなので、演奏経験がない役者は難しいと思っていたと、ポランスキーも語っている。……そういうことよ、つまり。

 ラストに爆弾カミングアウトをするヘレンは、キャサリン・マコーマックが演じている。彼女は『娼婦ベロニカ』(1998)ではすごくかわいくて素敵だったのが印象に残っている。本作では、トンデモなオチ以外、存在感は薄い。『母との約束、250通の手紙』(2017)にも出てたんだ??

 おじさんマーティンを演じるのは、ティム・ロスだけど、彼の作品、ほとんど見ていない。35年後のマーティンもドヴィドルも、どうもパッとしない感じだった。イロイロあって冴えないおじさんなのは分かるが、やっぱりこれは脚本が悪いと思うなぁ。

 私が本作で一番良かったと思うシーンは、第二次大戦中のロンドンで、空襲時に避難している防空壕内で、少年ドヴィドルと、兄弟子に当たる少年ヨゼフがパガニーニの奇想曲で競演するところ。ヨゼフを演じた少年(名前が分からない)も、おそらくドイル君同様、リアル・ヴァイオリニストだろう。ちなみにこのヨゼフは、この後、精神を病んでしまう。

 ドヴィドルの実父(ユダヤ系ポーランド人)は、ナチスを恐れて、せめて息子のドヴィドルだけでも迫害を免れ世界的なヴァイオリニストになってほしい、という願いをこめて、ギルバートに大事な息子を託したのだ。そんな実父の思いも、育ての親のギルバートの思いも、ドヴィドルは結果的に踏みにじったことになる。

 いくら虐殺された親きょうだいのことを思って、、、とはいえ、結局ドヴィドルにとって音楽とはその程度のものでしかなかったということか、、、と非常に残念な気持ちにさせられる映画だった。世界的なプロは、何があってもやっぱり命がけで音楽に向き合っていると思うので。辛い過去を踏まえて、それでも命がけで音楽に向き合う真の天才の姿が見たかった。


 

 

 

 

 

 

 


原題“The Song of Names”が、どうしてこのヘンな邦題になるのか?

 

 

 

 

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世界で一番美しい少年(2021年)

2022-01-02 | 【せ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv75182/


  ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』(1971)で、あの美少年タジオを演じたビョルン・アンドレセンの、映画公開後から現在までの軌跡を追うドキュメンタリー。
 

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 新しい年が明けました。今年は寅年。トラといえば、大分前に流行った「動物占い」で、私はトラでした。その特徴やら気質やら書かれていることを読むと、まあ、割と当たっているかなぁ、、、と思ったものの、むしろ玖保キリコの絵が可愛くて、キャラとして気に入っていました。懐かしい、、、。

 今年はどんな年になるのやら。“疫病”は収まるのでしょうか。もはや、マスクが顔の一部と化している気がします。収束宣言が出て、マスク解禁になっても、マスクしないで出歩くことに、しばらくは抵抗がありそうです。もともとマスクは好きじゃないほうだったのに、習慣とは恐ろしい。

 何はともあれ、皆さまにとって良き年となりますように。

 本作は、大晦日に見に行きましたので、2021年の劇場鑑賞おさめ作品となりました。


◆罪深きヴィスコンティ 

 冒頭から、ホラー映画かと思うような不穏な映像と音楽で、こりゃヤバいかも、、、と思ったが、見終わってみれば、非常に真摯に作られた良作だった。

 序盤、ヴィスコンティが『ベニスに死す』に起用する美少年探しの映像が出てくる。それはそれは大勢の少年たちがゾロゾロと、、、。しかし、ヴィスコンティは「可愛い子ならいるが、美しい子は、、、」などと文句を言っている。

 が、ビョルンが現れると、ヴィスコンティは明らかに彼にくぎ付けとなり、それこそ“舐め回す”ような視線で彼を無遠慮に眺めまくる。「随分背が高いな」「美しい……」等と言いながらビョルンの周りをぐるぐる回ると、いきなり「脱げ」と命令口調で偉そうに言うヴィスコンティ。そのときのビョルンの表情は明らかに戸惑いが浮かび、不快感が現れている。「え、、、脱ぐ?」と何度か確認し、次の映像はパンツ一丁の姿になっている。それをしげしげと満足そうに眺めるヴィスコンティは、私にはただの“エロおやじ”にしか見えなかった。

 驚いたのは、『ベニスに死す』の男性スタッフのほとんどはゲイだから、彼らには「ビョルンを見てはいけない」というお達しがヴィスコンティから出ていたということ(そのスタッフの中にはヴィスコンティのお手付きが何人も居たのだろう。吐きそう)。そして、そのお達しは、「映画が公開されるまで」の期限付きであったこと。お達しが解かれた映画公開後、早速彼らに連れられて行ったゲイバーで、(明言はされてはいなかったが)ビョルンは彼らにレイプされたと思われる。しかも、そこにはヴィスコンティもいたのだ。「ルキノもいた」と、現在のビョルンが回想していた。

 私は、もともとヴィスコンティはその作品から彼の傲慢さが滲み出ている感じがして苦手だったが、このエピソードを聞いて、決定的に嫌いになった。『ベニスに死す』でキャスティングディレクターを務めた女性が言っていたが「子役を使うときは慎重にならなければならない」というのは本当にそのとおりだと思うが、いくらスタッフがわきまえていても、肝心の監督がアレでは、どうしようもない。

 ビスコンティにとって、ビョルンは一人の心ある少年ではなく、自身の作品のパーツに過ぎなかったのだ。一体、一人の人間を何だと思っているのだ。ビョルンに対する態度一つとっても傲慢そのもので、いくら歴史的名作を撮った監督だろうが、人間としてはまるで尊敬に値しない。映画友はヴィスコンティに心酔しているが、そういう人こそ、本作を見るべきだろう。

 『ベニスに死す』公開後は、ビョルン・フィーバーが世界各地で巻き起こったようだが、日本のそれはかなり異様である。来日時に日本語の歌謡曲をレコーディングさせ、そのミュージックビデオを、タジオみたいな衣装を着させて撮っている。ついでにその歌と映像は明治チョコレートのCMにも使用されていたとか。それをプロデュースしたのは、あの酒井政利氏だが、まあ、よくそんなバカ丸出し企画を思いついてやらせたもんである(ちなみに作詞は阿久悠)。そのときの映像を見ると、ひたすら痛々しい。こんなことを少年にやらせる日本の国民として、私は恥ずかしさを禁じ得ず、正視できなかった。

 世間知らずの少年ビョルンは言われたままにやるしかなかったのだが、現在のビョルンは(本音かどうかは分からないが)日本が大好きだと言っている。当時会った人たちはみんな親切だったと。本作の撮影の一環として来日したビョルンは、カラオケボックスでその曲を一人で歌っていた。酒井政利氏とも再会しており、生前の酒井氏はビョルンを目の前にして、当時のことを懐かしそうに良き思い出みたいに語っていたから、恥ずかしいとか、少年を食い物にして申し訳なかったとか、そういう感情は微塵もなかったのだろう。芸能界のプロデューサーって、ちょっと感覚がオカシイ人でないと務まらないってことかな。

 ちなみに、あの「ベルばら」のオスカルはビョルンがモデルだ、と、池田理代子本人がご登場でビョルンに話している映像もあった。


◆美貌ゆえ……に矮小化してはならぬ。

 この映画を見ようと思ったのは、『ミッドサマー』(2019)を見ていたから。『ミッドサマー』自体は好きでも何でもない(というか、むしろ嫌い)なんだが、あの映画の中盤で、老人が崖から飛び降りて死にきれず、カルト集団に顔を滅多打ちにされて死亡する老人役を、ビョルン・アンドレセンが演じているのよね。あの老人がビョルンであることは、クレジットを見て初めて知って、すごく驚いた。

 けれど、あの美貌の少年が、顔を滅多打ちにされる(しかもそのグロテスクな顔が結構なアップでモロに映るんだよね)というのに、何となく因縁めいたもの(もっと言えば、過去の美貌に自ら決別するためではないか)を感じていた。『ミッドサマー』を見ていなければ、本作にも興味を持たなかったと思う。

 ビョルンは生い立ちも複雑で、父親は今も分からないそう。異父妹がいるが、母親はビョルンが10歳のときに行方不明となり、その数か月後に森の中で遺体となって発見される(自死)。その後、彼らを育てた祖母が、いわゆる“ステージ・ママ”で、ビョルンの美貌を金儲けの道具にしたのだ。

 ビョルンは、ただただその美貌で映画に起用され、演技も何も特に技能を持ち合わせてはおらず、美貌が消費されつくしたらあっさり世間から放棄され、忘れられた。人気子役が、その後の人生で苦しむという話はよく聞くが、ビョルンのその後も、相当に苦々しい。彼の美貌が、彼の人生を狂わせた、、、という向きもあるようだが、それは違うと声を大にして言っておきたい。彼が苦しんだのは、彼の美貌ゆえではなく、彼の美貌を利用しただけの大人たちのエゴゆえだ。

 ただ、ビョルンは50年経った今、見た目は80過ぎの老人かと見紛う老け方をしてはいるものの、決して悲観的な感じではなく、これからの人生を実りあるものにしたいという意欲が感じられるのは救いである。

 パンフに芝山幹郎氏がそんなビョルンのことを「その後の彼も、特殊な技術を身につけてきたようには見えない。苦痛の痕跡は顔に刻まれているが、苦痛と戦い抜き、それを克服してきた徴候を見つけ出すのはむずかしい。(中略)アンドレセンは、意外に楽天的なのだろうか。あるいは、見かけによらずタフで、打たれ強い部分を秘めていたのだろうか」と書いている。

 苦痛と真正面から向き合い戦っていたら、彼はもっと大変な人生だったのではないか、、、と私は思った。彼が楽天的なのかタフなのかは分からないが、いずれにせよ、彼が荒波をくぐりぬけて現在も生きていることが何よりも重要だ。それに、彼が本作のオファーを受けた理由をこう語っている。

「映画業界において子供たちが搾取されている状況は受け入れ難いものがある/この議論がもっと広がることを願っているよ」
「僕はただの精神的な重圧を抱えた哀れな奴ではないんだ。もしこの映画が誰かにとっての重荷を軽くするものであるとしたら、単なる自己満足的なものというよりもむしろ役立つものになると思ったんだ」

 ビョルンの娘さんの言葉が印象的だった。「父に『脱げ』と言ったヴィスコンティに猛烈に抗議したい」という趣旨のことを話していた。私が彼の娘でも同じことを思ったと思うな。

 

 

 

 

 

 

 

彼の母親は“芸術家・ジャーナリスト・写真家・詩人・モデル”であった。

 

 

 

 

 

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