映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

回転(1961年)

2017-01-30 | 【か】



 ギデンス(デボラ・カー)は、とある田舎にある屋敷ブライ邸に暮らすマイルズとフローラという幼い兄妹の家庭教師になって欲しいと、ある紳士に依頼される。その紳士は、マイルズとフローラの伯父に当たる男で、2人の両親は亡くなったのだという。紳士は「自分は彼らの後見人ではあるが、私には一切面倒を掛けないでほしい、全て君に任せる」とギデンスに言い渡し、ギデンスも不安を覚えながらもこれを受けることにする。

 しかし、いざ、ブライ邸に着いてみれば、素晴らしい屋敷と可愛らしい子どもたちに、不安は吹き飛んだ。子どもたちはあっという間にギデンスに懐くのだが、ほどなく、ギデンスは屋敷にいるはずのない男と女の姿を見るようになり、、、。

 原作はヘンリー・ジェイムスの名作『ねじの回転』。
 
 
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 『ねじの回転』は、確か高校生の時に読んでいるのだけれど、ほとんど記憶になく、このほど、再読してみた次第。読んでみて思い出したのは、高校生の私は、読了後、「……で?」と思ったことだった。それくらい謎めいた話という印象だったのだと思われるが、今回読んでみて、謎めいていることは確かだけれども、私なりに結構理解できた気がしたのでした。でもって、こんなに印象的なオハナシを、なんでこう、キレイさっぱり忘れてしまったのか、私の脳みそを改めて疑ってしまった。

 、、、読み終わったら、映画も見てみたくなり、本作と、その前日譚である『妖精たちの森』を同時に借りた次第です。まずは、本作の感想から。


◆本当の幽霊説 VS ギデンスの妄想説

 第一印象は、割と原作に忠実だなぁ、でした。ギデンスさんは、原作では、アラサーという感じですので、年齢がやや高い気がしますけれども、、、。デボラ・カーは当時40歳くらいでしょうか。美しいですが、さすがに若い女性家庭教師、というには無理があるかも、、、。

 本作は、ギデンスの見る幽霊が、本当の幽霊なのか、それとも彼女の妄想なのか、という部分で見解が分かれるそうですが、私は、“本当の幽霊”派です。というより、本当の幽霊の方が面白いなぁ、という感じ。そうあって欲しいというか。まあ、理屈で考えると妄想説が有力だとは思うんですけれど。それについては後述するとして、、、。

 なぜ、本当の幽霊の方が面白いと思うか、、、。まあ、真っ当な理由じゃないんですけど、そういう“屋敷ホラー”が、私自身好きだからなんです。

 ヘンリー・ジェイムズは『ねじの回転』以外にも、家にまつわる怪奇譚を書いていて、これも結構面白いんです。日本のホラー小説や映画にも、家そのものに原因があるオハナシって結構ありますよね。映画にもなった小野不由美さんの「残穢」は、家ではなく土地でしたけど、まあ、そういう不動産にまつわるコワいオハナシが結構好きなんです。

 だから、本作も、その方が個人的に楽しめるというわけです。実際、本作でもフローラが終盤、おぞましい言葉を狂ったように連発する(具体的描写はありません)シーンがあって、あれなんかは、幽霊が彼女にとり憑いた、という解釈もアリだと思いますし。

 あと、本当の幽霊説の無理矢理な根拠としては、マイルズとフローラの兄妹が、可愛くなくはないけど、ちょっとコワいところですねぇ。無邪気っぽくない感じ。これは多分、演出のなせる業なんでしょうけど、可愛さと怖さが共存している不気味さが実によく出ています。もし、ギデンスの妄想だったら、2人の兄妹をこんなふうに描く必要なはいんじゃないかなぁ、とか。

 、、、で、ここから先はネタバレです。

 本当の幽霊説の、極めつけの根拠は、やっぱしラストです。原作同様、映画も、ものすごい呆気ない幕切れです。マイルズにとり憑いていた幽霊を退治したと思ったら、ギデンスの腕の中でマイルズは死んでいた、、、というもの。これが妄想だったら、一体、どうしてマイルズは突然死したのか、、、。理由がつきません、、、と思うんですけれど、いかがでしょう、、、?


◆ガヴァネスゆえの妄想説

 ギデンスは、家庭教師=ガヴァネスですが、このガヴァネスという彼女の身分が、妄想説の有力な根拠になるんでしょうねぇ。

 家庭教師と言えば、知的な女性の職業のように聴こえますが、ガヴァネス(本作のセリフ中でも何度も出てきます)というと、どちらかというと憐れまれる対象というか、むしろ蔑みの目で見られることさえあったかも、という非常に微妙な立場なわけです。

 ガヴァネスとは、大抵の場合、学はあるけど金のない家の年頃(あるいは年増)の独身女性と相場は決まっており、彼女たちの未来は非常に暗いもの。厳然たる階級社会のイギリスにあって、身分のない学ばかりのある女は、上流階級の妻としても下層階級の妻としても役立たず、でしょう?

 で、妄想の最大の理由と思われるのは、このガヴァネスたちは、ほぼ100%の確率でバージンだということです。時代が時代ですから、結婚前の女性が男と肉体関係を持つなどはしたないこと極まりないわけで、プライドの高い彼女たちはそんな行為には、まあ及ばないでしょう。

 アラサーでバージンの何が悪い! という気もしますが、世間とは下世話なもので、そういう女たちってのは潔癖な反面、欲求不満の塊だ、みたいなイメージを抱くものなのです。ハッキリ言って、アラサーバージンの女性は、特別潔癖でも欲求不満の塊でもないと思います。ただ、ただですね、、、まあ、“男(とは限らないけど)と寝る”という経験は、ある意味、異次元の世界が広がるという部分もあるわけで(……え、ない? そんなの私だけ?)、その異世界を垣間見ていない女性に対して、どうもなぁ、、、という感じを抱いてしまうことは、確かにあります(スミマセン)。偏見でしかないのは重々承知ですが、でもやっぱし、「この人バージンだろうな」と思ってしまう妙齢の女性には、正直、時々でくわします。

 しかも、幽霊の正体であるブライ邸の元従者のクイントと、前任の家庭教師ジェスル先生ってのが、実は、亡くなる前に男女の関係にあって、それがいわゆるアブノーマルなものだったらしい、、、ということが匂わされます。これが、ますますアラサーバージンのギデンスを激しく刺激することになるというのも、説得力あるんですよねぇ。

 ……なものですから、妄想説に一理ある、というのも分かる気がするのです。

 ギデンスが見る幽霊は、他の誰も見ていないのですよね、、、。長年、ブライ邸にいるメイドのグロースさんにも見えていない。フローラがおぞましい言葉を口にするのだって、クイントとジェスル先生は、愛欲にまみれた関係を子どもたちが見ている前で晒していたのだから、意味が分からなくても言葉を知っている理由はちゃんとあるわけです。

 と、書けば書くほど、妄想説が有力だよなぁ、、、。今回、原作を読んでみても、やはり妄想説に軍配な気がしましたし。


◆その他モロモロ

 でもでも! 冒頭にも書いた、本作の前日譚に当たる『妖精たちの森』を見るに至り、やっぱり本当の幽霊説もアリなんじゃないかと思えてきました。なるほど、『妖精たちの森』のような出来事があれば、本当の幽霊説はかなり有力かも!

 ……というわけで、次回は、『妖精たちの森』の感想文を書く予定です。

 本作の原題は“The Innocents”ですが、邦題は、原作からとったんでしょうね。ちなみに、なぜ、ヘンリー・ジェイムズが『ねじの回転』などという原題をつけたかということについて、訳者(南條竹則・坂本あおい)によれば、ねじった話という意味合いだそうで、まあ、捻りの利いたオハナシ、ってことなのではないかと思われます。

 映画の本作と回転という言葉は、正直しっくりこないので、原作にとらわれ過ぎずに邦題をつけた方が良かったんじゃないか、という気もします。

 デボラ・カーは、本当の幽霊説も妄想説も、どちらにも説得力のある演技で圧巻です。特に、燭台をかかげて暗闇の中を歩くシーンは、『クリムゾン・ピーク』によく似たシーンがあり、本作へのオマージュだったのかも? などと思っちゃいました。

 クイントの顔が夜の窓に映るシーンとか、遠目にしか見えないジェスル先生の幽霊とか、見せ方が工夫されていて、この辺りも楽しめます。

 あと、屋敷に人間の石像がいっぱいあるんだけど、あれが結構コワい。あんなの、夜、庭を歩いていたらかなり恐ろしいと思います。代々続く古い屋敷ってのも、何ともいえない不気味さがあります。

 まあ、ホラー映画というにはそれほど怖くはないですが、デボラ・カーのおかげで、品のある恐怖感がところどこでじんわり来ます。

 





じんわりゾクッときます。




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ナイル殺人事件(1978年)

2017-01-26 | 【な】



 莫大な遺産を相続した美女リネット(ロイス・チャイルズ)の下へ、遠縁(?)のジャクリーン(ミア・ファロー)が訪ねて来て、「アタシぃ、婚約したんだけど、婚約者が一流大学で経営学を学んだ男なのにプーになっちゃってぇ、超ビンボーなもんだから、この家のコンサルとして雇ってあげてぇ~~」とあつかましい頼みごとをする。

 そうして、ジャクリーンが婚約者であるサイモン(サイモン・マッコーキンデール)を連れて来てリネットに紹介した。が! なんと、サイモンはリネットに乗り換えて2人はとっとと結婚してしまうことに……!! ストーカーと化したジャクリーンは、サイモンとリネットのハネムーンを兼ねたエジプト旅行にまで着いてくる。そして、ナイル川下りの船に一緒に乗り込むことに、、、。

 その船には、様々な客が乗っていたのだが、事情を聴いてみると、皆、何かしらリネットと因縁のある人ばかりらしい。しかし、そんなことは気にせず、愛するサイモンと旅行を楽しむリネット。

 そして遂にそれは起きた。……リネットが頭を銃で撃ち抜かれた状態で死んでいたのである。果たして犯人は、、、?
 
 
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 以下、ネタバレバレなので、あしからず。


◆ミステリーとしていかがなものか。

 これは、私のような鈍くて推理力のない人間でも、序盤で犯人が分かってしまうという、お粗末極まりないオハナシなんですけれども、原作「ナイルに死す」もこうなんでしょうか? 原作は結構な長編で、そこそこ読ませる、と聞いたことがあるのですが。しかも、アガサ・クリスティ自身も、この原作が一番自著の中で気に入っていたらしいですし、、、。だとしたら、脚本化に難があったということになりますけれど。

 ピラミッドにまでジャクリーンがストーカーしてきたのを見て、こりゃサイモンとグルだろう、、、って、私でも気付きましたもんねぇ。

 それなら、倒叙ミステリーのように、いかにポワロが犯人にたどり着くか、その過程を見せてくれるのかと期待すると、それもかなり裏切られます。ポワロは、リネットが殺されて早いうちに犯人が分かったかのようなことを言っているのに、その後の連続殺人は防げないんですよねぇ。しかも、謎解きも、理詰めなわけではなくて、ほとんど勘であるところとか、うう~ん、という感じ。

 もし○○が犯人だったら、というポワロの推理に併せて、それを画で見せてくれるんですけど、これが結構イチイチ鬱陶しい。ハッキリ言っていらんと思うなぁ。これでかなり間延びした感じになったと思う。

 ミステリーの割に、全体に緊張感のない作品で、見ていて全然ドキドキしないのもね、、、。

 大体、船の乗客がみんなリネットに大なり小なり恨みがあって殺しの動機がある、ってのも不自然過ぎでしょ。それが仕組まれたことならともかく、必然性がまったく分からないんですもん。

 本作のストーリーというか、殺人の真相は、イロイロ無理がありすぎ、ツッコミどころが多過ぎな気がします。

 最初の、リネットを殺す計画だけでも、1発無駄打ちした弾が発見されたらオジャンです。それに、サイモンが部屋に1人きりになれる保証などどこにもないわけで、計画としても杜撰としか言いようがない。

 その後の、第二、第三の殺しに至ってはいわずもがな。特に、サロメ・オッタボーンが殺されるのなんて、いくらジャクリーンが射撃の腕前が良いからって、あれはないだろう、、、というテキトー(にしか思えない)な展開で、見ていてドン引きでした。あれも原作どおりなんでしょうか、、、?

 終盤、乗客を一堂に集めてポワロが謎解きをするシーンでは、サイモンとグルであることを暴かれたジャクリーンがサイモンを殺して自殺しちゃうのを、ポワロが止められないところなんか、金田一耕助かよ、と思っちゃいました。

 まあ、そんなわけで、ミステリーとしてはダメダメと言っても怒られることはないでしょう。


◆アガサ・クリスティとポワロ

 もともと読書量も多くないけど、ミステリーはさらに読む機会が少ないもので、アガサ・クリスティの推理小説で読んだ作品、多分、ないと思います。

 彼女がメアリ・ウェストマコット名義で書いた作品(そもそも多くないけど)は全部読んでいますが、こっちはどれもかなり好きです。「春にして君を離れ」を読んだときの衝撃は忘れられません。

 アガサ・クリスティ原作の映画は、相性が悪いというか、、、。といっても本作で見たのは4本目なんですけど、『華麗なるアリバイ』『オリエント急行殺人事件』はまるでダメでした。『華麗なるアリバイ』は、ミステリーとしても映画としても見どころがないし、『オリエント急行殺人事件』は、トリックはともかく、ポワロを演じたアルバート・フィニーの演技がダメでした。

 唯一、『情婦』はまぎれもない名作だと思いますけれど。

 本作でポワロを演じたピーター・ユスティノフですが、アルバート・フィニーとは違う意味で、ちょっとダメだった、、、。フィニーのポワロは、なんというか、騒々しくて下品という印象を受けたのですが、ピーター・ユスティノフは愚鈍という印象で、見ていてどちらも嫌悪感を抱いてしまいます。これのどこが名探偵なのさ、とツッコミを入れたくなってしまう。

 私の中では、ポワロ=デヴィッド・スーシェなんですよねぇ。デヴィッド・スーシェのポワロは、性格は確かに嫌味なところもあるしステキとは言えないけど、何より知性があるし騒々しくもないし品がある。見ていて、この人なら難事件でも解決しそう、と思わせる説得力がある。

 でも、ピーター・ユスティノフにはそれが感じられない。人は良さそうだけど、それだけ。そもそも太り過ぎじゃない?


◆豪華キャストは楽しい

 このキャスティングでなければ、の数があと2つくらい少なかったかも。

 ベティ・デイヴィスとマギー・スミスとアンジェラ・ランズベリーが同じ画面にいるなんて、それだけでもスゴイ迫力!

 マギー・スミスがお若い。役柄のせいもあるけど、この頃の彼女は、こういう働く女性、強い女性、という感じの方が合うような。今、ドラマ「ダウントン・アビー」で貴族のおば様を演じていらっしゃいますけど、あれはあれですごいハマっているんですけど、本作の頃の彼女もキリッとしていて素敵です。

 ベティ・デイヴィスは、いるだけで怖い! あの顔のせいもあるけど、彼女がいると、それだけで何か事件が起きそうな気がしてしまう。本作では、最初から最後まで明らかに犯人圏外だったけど、それでも十分怪しかった!!

 何といっても食い入るように見てしまったのは、オリヴィア・ハッセーですねぇ。やはり美しい。アンジェラ・ランズベリーから、オリヴィア・ハッセーは生まれんだろ! とか内心ツッコミ入れて見ていましたけれど。彼女が演じるロザリーは、母親が殺されたってのに、ケロッとして男とラブラブで下船するという強者でした。いくらなんでもそらないだろ! と、これもまたツッコミどころですね。

 あと、本作のイマイチな原因の一つが、肝心のサイモンを演じたサイモン・マッコーキンデールがイケてない、ってこと。好青年な感じではあるけど、せっかくなら目を見張るような美青年が良かった。金はないけど頭は良くて野心家な男、、、というと『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンみたいですが、まあ、アラン・ドロンとは言いませんが、せめて美しくていかにも腹に一物ありそうなジェレミー・アイアンズくらいは起用して欲しかったところです、、、。

 そうそう、犯人のミア・ファーローは、相変わらずエキセントリックな役がハマっていてgooでした!
 



私でも先が読める推理モノって、、、




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女と男の名誉(1985年)

2017-01-24 | 【お】



 イタリア系マフィア・プリッツィ家のドンに可愛がられている秘蔵っ子、チャーリー(ジャック・ニコルソン)は、ある日、ドンの孫娘の結婚式で美女アイリーン(キャスリーン・ターナー)に一目惚れ。2人は意気投合し、恋に落ちるが、アイリーンは、プリッツィ家の大事な金を持ち逃げした男の妻だった……! が、テキトーな言い訳をするアイリーンを信じたチャーリーの彼女への思いは変わることなく、プロポーズしてしまう。

 でも、実は、アイリーンは、プロで一匹狼の殺し屋だったのである。プリッツィ家の金を横領したのも、夫ではなくアイリーン自身だったのだ! そうとは知らないチャーリーは、アイリーンと結婚してしまう。

 チャーリーには、実は過去に結婚を約束した女性がいた。ドンの孫娘メイローズ(アンジェリカ・ヒューストン)。メイローズはチャーリーとの婚約破談後にヘンな男と駆け落ちしたことを咎められ、一族から勘当されていたが、4年ぶりに勘当が解かれ戻って来ていた。チャーリーにまだ未練がある様子のメイローズは、彼がアイリーンと結婚したことが面白くない。そこで、、、、。

 邦題からだと、“名誉”は、チャーリーとアイリーンの名誉のことかと思うけど、見終わって、さらに原題を見て、それが間違いであったことを思い知る、、、、ごーん。
 
 
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◆名誉とは?

 3年前くらいにBSでオンエアしていたのをHDDに保存したままで、いい加減どうにかしなくては、、、と、やっとこさ見た次第。

 割と評判良いので長々とHDDに保存したまま消去しなかったのですが、まあ、見て損したというほどではないけれど、世間の評判ほど良いとも思えなかった、、、というのが正直なところです。ストーリー的には飽きずに見れましたけど。

 マフィアの幹部と、フリーの殺し屋が恋に落ちて結婚する。これで、何も起きない方がオカシイわけで、、、。チャーリーとアイリーンが結婚に至るまではかなり強引な展開だし、結婚後は、キツネとタヌキの化かし合いみたいな感じ。

 詰まる所、メイローズが裏で引いていた糸により、チャーリーとアイリーンは互いに殺し合うことになり、間一髪で難を免れたチャーリーとメイローズがイイ感じで電話しているところでジ・エンドとなる訳だけど、、、、。

 本作を見てグッと来なかった理由の一つは、多分、プリッツィ家が結局のところ「地獄の沙汰もカネ次第」を地で行くマフィアだったからかも。

 とにかく、何でもすぐに金金金! まあ、ヘンにヒューマンドラマを気取らないだけ良いのかな、という気もしますけれど。コルレオーネだってぶっちゃけそうだもんね。あっちの方が格調高い印象は定着しているけど、根っこは同じ。

 そうそう、本作の原題は、“プリッツィ家の名誉”なので、当然、チャーリーとアイリーンの名誉ではありません。強いて言えば、メイローズの名誉でしょうかね。あるいは、プリッツィ家の一番大事なものは金なわけですから、プリッツィ家の名誉=金、とも言えましょう。いずれにしても、プリッツィ家にとってアイリーンは目の上のたんこぶだったのでありました、、、ごーん。


◆ヤな女 VS イイ女

 正直、メイローズという女性が、私は同じ女としてキライです。だから、ラストでもカタルシスなど全然感じられなかった。何この女、ヤな奴! としか思えない。グッと来なかったもう一つの理由がそれ。

 チャーリーとの結婚が破談になって、当てつけみたいに駆け落ちしたり、チャーリーが結婚したらぶち壊そうと画策したり、、、。チャーリーを愛しているから自分のものにしたいから、、、ってことだろうけど、こういう“地球は自分中心で回ってる女”は、身近にいるともの凄くメイワクですよねぇ。自己完結してくれていればいいけど、そうはいかないんだよね、こういう人は。必ず回りを巻き込む。だって、自分の思い通りにならないと暴れるんだから。

 メイローズを演じたアンジェリカ・ヒューストンが、正直、怖い。顔もだし、人物造形も、、、かな。目の下にクマをわざわざ描いているシーンとか、怖すぎ。顔自体もインパクトあるから、余計にね、、、。

 一方のアイリーンは、愛すべきキャラじゃないですかねぇ。マフィア一家を笠に着ているメイローズと違って、自分の腕だけで生きて行くフリーの殺し屋ってのもカッコイイ。ホレた男と損得勘定せずに感情だけで結婚しちゃうところとかもgoo。そうはいっても、やはり、根は殺し屋。愛する男でも、自分を守るためなら殺すことも容赦しない、っていうドライさとかも痺れます。

 キャスリーン・ターナーって、やっぱりイイ女優さんだと思う。外見の変化が激しかったけれど、この頃は確かに美しいし、でも、どこか庶民的で、反面謎めいていて、、、と、とても多面体で、いろんな役をやるごとに違う顔を見せてくれる役者さんです。

 
◆その他モロモロ

 ジャック・ニコルソンとアンジェリカ・ヒューストン、私生活でも一時期パートナーだったとか。何か意外、、、。

 ジャック・ニコルソンが、本作ではあんまりイッちゃってませんでしたね、そういえば。なんか、フツーのおじさんっぽかったのが、むしろ特筆事項かも知れません。

 しかし、このあと、プリッツィ家はどーなるんでしょうか。あのボスも先は短そうだし、チャーリーはドンの器があるのでしょうか、、、。私にはあまりそのようには思えなかったんですけれど。

 アンジェリカ・ヒューストンは、監督ジョン・ヒューストンの娘さん。似てるかなぁ? ジョン・ヒューストン作品、実は、『アフリカの女王』くらいしか見ていないんですが、イーストウッド監督の『ホワイトハンター ブラックハート』は大昔に見て、うう~ん、って感じだったのはよく覚えています。もう一度見て見てみよっかな、、、。

 ジョン・ヒューストンは、私的には、『チャイナタウン』でのノア・クロスの印象が強いですね。彼の監督作品をもっと見れば印象も変わるんでしょうけれど。

 、、、グダグダな感想文ですみません。




金のためなら親でも子でも妻でも殺すのさ~




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ラブ・ザ・ハード・ウェイ~疑惑の男~(2001年)

2017-01-16 | 【ら】



 ジャック(エイドリアン・ブロディ)は、仲間とケチな詐欺を働いて巻き上げた金で生活していた。ある日、暇つぶしに入った映画館で、カウンターでアルバイトしていた女子大生のクレア(シャーロット・アヤナ)と偶然出会い恋に落ちるのだが、、、。

 割と王道なラブストーリー映画でそこそこ悪くない、、、んだけど、このサイアクな副題のせいでかなり損していると思われる。疑惑の男って誰よ!?
 
 
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 もともとエイドリアン・ブロディって、ゼニアのモデルをしていた頃から苦手な俳優だったんですが(あの顔がどうも、、、)、2年ほど前に『戦場のピアニスト』を見て、見方が180度変わり、さらに、昨年「午前十時の映画祭」で、スクリーンで3度も同作品を見たら、なぜかものすごくイイ男に見えてきて、“もしかして私、惚れたかも、、、”状態になり、突如、彼の出演作をイロイロ見たくなったという次第。

 で、なぜ本作からか、というと、特に理由はないけど、オスカー受賞する前の作品を見たいなぁと思いまして。本作とほぼ同時期の作品『ブレッド&ローズ』も良かったしね。

 まあ、オープニングからラストまで、ブロディは出ずっぱりなので、彼を鑑賞するには最適な作品でした。


◆不良青年と優等生女子、というテッパンな組合せ。

 ブロディ扮するジャックは、もう、言ってみれば、どうしようもないチンピラなんだけど、なにしろ、ジャックはカッコイイのですよ。

 いつも着ているのがヘビ皮のジャケットなんだけど、あんなジャケット着ている時点で、フツーじゃないのが一目瞭然。でも、恐ろしく似合っていて絵になるのだなぁ、これが。さすがブロディ、ゼニアのモデルやってただけのことはある。

 で、このジャック、実は、詐欺稼業の合間に、小説なんかも書いていたりする、、、ただのバカ一色のチンピラじゃないところがニクい。

 暇つぶしに入った映画館では、前の座席の背もたれに足を乗せて映画を見ているジャック。携帯が鳴ると、上映中なのに出る! 周囲に白い目で見られても平気。少し喋って、仕事の打ち合わせになったところでようやくロビーへ、、、とかいうこの辺の描写は、ジャックがどういう男なのかがサラリと、でも印象的かつ分かりやすく伝わってくる。

 そしてクレアに出会うんだけど、出会いの会話は、定石通り、喧嘩(というか罵り合い)で終わる。ここでこの2人は先行きはキマりだわね。

 昔の少女マンガとかでよくあったような。こういう、ワルい男と優等生女子が惹かれ合う物語。大抵、男はクールを装って、女が積極的だったり、おせっかいだったりして2人の距離があっという間に縮まるパターン。本作もまさにそれ。クレアちゃんは、初めて出会ったであろう不良イケメンにイチコロだったのですね。

 2人は、一応(?)付き合い始めて、なかなか良い雰囲気になるのですが、ジャックは不遇な生い立ちのせいもあって、多分、特定の女性と長く深く関係を築いたことがないのだと思われ、クレアが学会の発表でしばらく離れている間に、詐欺仲間の女性と寝ちゃって、その現場をクレアに目撃され、、、。

 ……等々というあれこれが2人の間には起きまして、果ては、クレアが自殺未遂まで起こしたりしますけれども、ラストは元のさやに収まることを暗示するような終わり方で、ハッピーエンディングなんだと思います、多分。

 正直言って、ストーリー的には特筆事項はないような、、、。 


◆大した役者だったのだ、やはり彼は。

 本作がありきたりなストーリーな割に、さほど陳腐さを感じずにいられるのは、やっぱし、ジャックの描写が良いからじゃないでしょうか。つまり、ブロディの演技が素晴らしいってことです。

 ジャックも、不遇な生い立ち、特定の女と深入りしない、クールなチンピラ、イケメン、、、と、人物造形としてはありがちで、多分、大根が演じていたら見るに堪えない映画になっていた可能性が高いと思う。でも、やっぱりブロディはこの頃から大した役者だったんだなぁ、、、としみじみ思います。

 クレアに惹かれつつも、クレアを冷たく突き放したり、仲間が詐欺グループにクレアを引きこもうとするのを絶対に阻止したり、傷ついたクレアを自分もボロボロになりながら抱きしめたり、硬軟演じ分けが実に巧みです。

 これはもちろん、演出が良いというのもあって、ジャックのファッションもそうだけど、髪型も同様で、時々ものすごい寝癖が付いてるんだけど、それがまた実にジャックのキャラやその時の気持ちを表していて上手いなぁ、、、と思います。

 また、クレアを演じたシャーロット・アヤナがとても可愛く魅力的。大胆に脱いで、美しい裸体を惜しげもなく晒しているのもアッパレ。ラブシーンも独特の撮り方をしていて印象的です。美男美女のラブシーンは美しくて良いですなぁ、、、。

 まあ、とにもかくにも、本作は、ブロディあっての映画で、彼がジャックを演じたからこそ見るに堪える作品になったのだと思われます。

 余談ですが、ブロディは、『戦場のピアニスト』でも思ったけど、ものすごい痩せているように見えるけど、かなり鍛えられた体をしています。マッチョとまではいかないけど、腕もガッシリしているし。ま、マッチョは私嫌いなんで、あんくらいがちょうど見ていてもイイ感じです。


◆ブロディは詐欺常習犯には向いていないと思う。

 ところで、ジャックのやっている“ケチな詐欺”ってのは、ホテルの一室に仲間の女性がテキトーな客をみつくろって売春を手引きし、行為が始まる前に、警察官の扮装をしたジャックと親友チャーリーが乗り込んで、客のカネや貴重品を巻き上げる、、、という、実に実にみみっちいものです。

 そもそも、ブロディみたいな特徴のある顔の人間は、詐欺常習者には向いていないよなぁ。だって、被害者に顔を覚えられやすいから、すぐアゲられちゃうと思う。せめてメガネをかけるとか、付け髭つけるとかするならまだ分かるけど、警察官の制服着るだけじゃダメでしょ。プロとは思えぬ杜撰な手法。

 まあ、映画でさすがにそんなに早くは捕まりませんが、終盤でおとり捜査にハマってジャックとチャーリーは2人ともお縄となります。ま、トーゼンでしょう。

 ジャックやチャーリーが商売道具を入れて持ち歩いている大きい黒い鞄があるんですが、その鞄に何故か、「千 金 室」っていう漢字三文字が書かれているのが笑えました。何で、「室」なわけ? なーんて、日本人がヘンな横文字のTシャツ着ているのと同じですね。

 いやぁ、本作を見て、さらに、ブロディ君がイイ男に見えてしまいましたヨ。何でかしらん? 『グランド・ブダペスト・ホテル』ではゼンゼン気にも留まらなかったのに。

 この次は『ミッドナイト・イン・パリ』を見る予定です。またさらに赤マル急上昇(って死語?)するんでしょーか? 楽しみ
 







こないだまでイマイチだったのに最近どんどんイイ男に見えてくる




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若者のすべて(1960年)~その③~

2017-01-10 | 【わ】
 そののつづきです。


◆絆か呪縛か。

 本作の最大のテーマは、“家族”でしょう。

 311の震災の後、やたらと“絆”という言葉が世間に氾濫し、“家族の絆”がフォーカスされていたように思います。あれが、私には、鬱陶しくて仕方がなかった。家族が絆などではなく“呪縛”だった人間にとっては、ああいうポエム調のセンチメンタリズム、例えばNHKの「花は咲く」なんてのは鬱陶しい以外の何ものでもないのですよねぇ。特に、有名人たちが、なぜかガーベラを一輪両手で胸の前に持って、哀しげな顔をして歌う演出など、言っちゃ悪いが、あれこそ一種の「感動ポルノ」ならぬ「震災ポルノ」だろうと思っちゃう。24時間TVのことをよく言えたものだと、正直思いましたね。

 心底感動している人や励みになっている人もいるんだから、それはそれで良いのでしょうけれど。でも、あの映像のセンスは、やっぱり救いようがないくらいに悪いと思う。

 、、、それはともかく、家族に苦しんでいる人・苦しんだことのある人は、私に限らずもの凄く多いと思います。他人なら苦しまない。離れれば良いのだから。でも、家族はそうはいかない。絆という名の呪縛があるからこそ、苦しい。そして、たとえ呪縛であっても、それが解けることもまた苦しい。進むも地獄、退くも地獄、それが家族・血縁のなせる業。

 結局、本作は、シモーネやロッコのように家族が呪縛になってしまう人と、チーロみたいにゆるい絆を維持して我が道を行く人と、ヴィンチェンツォのように呪縛も絆もなく個を大事にする人と、同じ兄弟でのそれぞれの家族との距離の取り方を描いているとも言えるかも。

 家族、、、この言葉ほど、人によって受けとめ方の異なるものはないかもですね。ヴィスコンティにとっては、因果なものだったのかも。


◆パロンディ家は本当に崩壊したのか?

 ヴィスコンティ作品には家族の崩壊を描いたものが多いと言われていて、本作もその一つだそうですが、、、。パロンディ家は本当に崩壊したのでしょうか?

 私は、そうでもないような気がしました。ストーリーは悲劇的ですが、この後のことをちょっと想像してみると、、、。チーロは恋人と家庭を持つでしょう。子が自立して親元を巣立っていくのは当然のことで、別に崩壊でも何でもありません。

 問題は、シモーネとロッコですが、、、。私は、母親とこの2人の息子と末っ子ルーカは、南部に戻るのではないか、という気がします(借金はどーすんだ? という問題はありますが)。この2人の息子は、ミラノという都会に馴染めなかったが故に、苦しんだわけです。母親としては、シモーネは牢屋、幼いルーカの面倒をたった一人で都会で見続けるのはかなり難しいと思われます。なので、恐らくはロッコがそれを支えるのだろうけれど、それもシモーネが牢屋から出てくるまでの話。そして、南部の地で、ルーカが新たなパロンディ家の礎となるのではないかな、と。

 なぜそう考えたか、というと、ロッコはパーティの席で、故郷のことを懐かしんで語り、「故郷に帰りたい」とハッキリ言っています。シモーネも多分同類、、、だからあんなんになっちゃったんだと思う。そして、ルーカは、「ロッコが帰るなら自分も帰る」と言っています。シモーネとロッコは、ミラノでは生き続けられず、ロッコを慕うルーカはロッコと行動を共にする、、、のではないかな、と。

 なので、本当にパロンディ家が崩壊してしまったわけではないと思うのです。いくらイタリアの家族が濃いからといって、形はどうあれ、子はいつかは巣立つもの。真に家族が崩壊するというのは、皆がてんでバラバラになって、互いに消息も知れない、知っていても接触しない、、、という状態になることではないでしょうか。緩くでも、極細くでもつながっている以上、それは崩壊ではなく、変化に過ぎないと思うのですが。


◆ヴィスコンティ映画

 で、映画友の言葉に対してですが、、、。

 正直なところ、本作を見ただけでヴィスコンティの本質が分かったとは到底思えませんし、逆に言えば、私のこれまでのヴィスコンティ評が大きく覆ることもなかった、と言えましょう。

 映画作り、という側面から見れば、やっぱり、ヴィスコンティの作品は、意味がよく分からないシーンがかなりあります。 

 例えば、シモーネがジムの支配人(?)の男性に金の無心に行き、その支配人の部屋でのシーン。テレビに絵画が映っていて、支配人が途中でテレビを消すんですけれど、、、。その絵画ってのが、どれもこれも裸の人間のなんですよねぇ。これって、、、?? もしかして、シモーネと支配人の関係の暗示?? とか。、、、分からん!!

 ナディアがシモーネに殺されるシーンも分からない。シモーネにぐさぐさと刺されながらも、ナディアは「死にたくない~~!」と絶叫。でもそれまでは彼女は「もう死にたい」と散々言っていた。、、、んん~、いざ死に直面して、生への執着心が湧いたのか?? とか。

 別に、全てのシーンを理解できなくてもいいけど、なんだかなぁ、、、というのは、やっぱり本作でもありましたねぇ。観客の想像力に委ねる、って感じの分からなさじゃない所が好きになれない、というか。「これ分かる?」と試されているみたいな。

 まあ、映画友はヴィスコンティLOVEなので、今度、逆に、ヴィスコンティの何がそんなに魅力だと感じているのか、じっくり聞いて来たいと思います。聞けば、少しはなるほど、と思える部分もあるかも知れませんし。









正月早々、凹みました。




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若者のすべて(1960年)~その②~

2017-01-08 | 【わ】
 そののつづきです。


◆四男チーロの総括セリフでようやく謎が解ける

 ロッコの不可解さを引きずったまま、話は終盤へ突き進みます、、、。

 殺人を犯したシモーネを、たとえロッコや母親が許そうと、そうはさせじと立ちはだかった兄弟がいました。それは四男のチーロ。シモーネを匿おうとするロッコを振り切り、チーロは警察にシモーネの罪を告発する。当然、シモーネは逮捕されて牢屋行き、、、。

 チーロは、長男ヴィンチェンツォと同様、とても現実的な人です。夜学で勉強し、アルファ・ロメオに技師として就職、堅実な人生を送る道を選びます。そういう人間からすると、やはり、ロッコの言動は到底許容できないものだったのでしょう。

 彼が、ラスト近く、末っ子のルーカと話すシーンで、兄弟についてまとめてくれています。

 「シモーネは優しかったけれど、都会の毒に染まってしまった。ロッコの寛容さがそれに追い打ちをかけたんだ。ロッコは聖人だ。何でも許してしまう。でも世の中には許してはいけないことがあるんだ」(セリフ正確じゃありません)

 ……なるほど。このチーロの総括で、やっとこさ、ロッコの不思議過ぎる言動の謎が少し解けた気がしました。

 自分のせいでシモーネは罪まで犯してしまったと思い込んでいるロッコは、どこまでもシモーネを受容しようと決意した聖人なのだ、、、ってことでしょうか。


◆聖人も白痴も、神がかり的美男であるからこそ。

 果たして、ロッコは聖人になったのか、もともと聖人なのか、、、。私は、スクリーンに映るアラン・ドロンの顔を見ながら、ジェラール・フィリップ主演の『白痴』を思い出していました、、、。ドロンの美貌はジェラール・フィリップのそれとまるで醸し出す品性が違うけれど、、、。

 『白痴』はあまりにも昔に見たのでかなり忘れていますが、ジェラール・フィリップ演じるムイシュキンは、白痴というか、イイ大人なのに純粋無垢過ぎる人だった。不幸な人を放っておけない人だった、、、。ロッコと通じませんかね?

 そして、こういう人は非常に罪作りな人で、本人は純真無垢でも、周囲は大迷惑で大不幸に陥る、ってのも同じ。

 ムイシュキンもロッコも、あまりに美しいので、その言動が何やら説得力のあるもののように、はたまた、神がかっているように見えるだけで、彼らが並か並以下の容姿であったら、、、誰も相手にしないどころか、キレられるのがオチじゃないでしょうか?

 ヴィスコンティが、ロッコ役をアラン・ドロンに演じさせることに固執したのも、やはり、その神聖性に説得力を持たせるには、“美”の要素が不可欠だったからでしょう。しかも、並の美男子ではダメなのです。人間離れした美しさでないと。それでいて、ボクサーとしても才能を開花させる若い男、、、となったら、そら、肉体美も併せ持つドロンにこだわるのも当然と言えましょう。ドロンなくして、本作は成立しないのです。


◆ロッコにとって大切なもの=“信仰”と“家族”だけ

 ロッコの言動を思い返してみると、彼はチーロの言う“聖人”というよりは、何かこう、、、信仰で思考停止している人、、、と言いますか、とにかく、神が彼の精神性を支え、なおかつ、彼の行動規範は全て家族にある、という人なのではないか、、、と思い至りました。

 5人兄弟の中で、一番、家族基準で行動しているのは、どう考えてもロッコです。さらに、いくら神が自分の精神の支柱だからと言って、殺人まで犯した兄について罪人(つみびと)という認識をしてもよさそうなものを、彼は、シモーネを告発しようとするチーロに対してこんなことを言います。

 「誰もシモーネを裁いたり出来ない! 正義なんて信じない! 神のみがシモーネを裁けるんだ!」(これもセリフ正確じゃありませんが、、、)

 もうね、、、無宗教者で煩悩にまみれた人間からすると、「はぁ、、、???」なセリフでして。

 しかも、このセリフをロッコは、絶叫するんですよ、大げさな身振り手振り付きで。母親も一緒になって絶叫しています(セリフは忘れましたが、シモーネを庇うもの)。絶叫の掛け合いで、もの凄く深刻かつ重要なシーンであるにもかかわらず、もう滑稽すぎで、劇場内でも笑いがちらほら起きていました。それくらい、異様な光景なのです。

 シモーネみたいな兄がいるのは辛いけど、ロッコみたいな兄がいるのは辛いのではなく、厄介極まりないと感じました。

 いくら美しくて神の化身かと思われるほどの兄でも、私がチーロでも同じ行動に出たでしょう。そして、私はチーロと違って、ロッコも許せないと思うでしょう。もう、シモーネともロッコとも没交渉を決心するでしょうね。

 チーロが警察に告発した後、ロッコもシモーネも出てきません。シモーネは牢屋だけど、ロッコは一体どうなったのでしょうか……? ラストシーンは、末っ子ルーカとチーロの若干の希望を感じさせるものですが、、、。


◆本当の“生贄”はシモーネでもロッコでもない。
 
 ところで、ロッコだったか、チーロだったか記憶が定かじゃないんですが、「家族を作るには基盤としての犠牲(生贄)が必要だ」みたいなセリフが終盤ありました。セリフでは、犠牲とはシモーネのことと解しましたが、この“犠牲”は、本作において、本当にシモーネでしょうか? 私にはそれはちがうんでないの? という疑問が湧きました。

 本作で、パロンディ家の犠牲、、、というより生贄になったのは、間違いなくナディアでしょう。

 ナディアは、シモーネに衆目の中レイプされ、異様に執着され、挙句、刺殺される。心から愛したロッコには訳の分からない理由で別れを告げられる。しかも、ロッコは彼女と別れた後、実に呆気ないほどナディアのことを顧みようとしないのです。このサバサバっぷりには、怒りさえ覚えます。

 そんなに家族が大事なら、シモーネとの過去があるナディアと付き合わなきゃええやん、最初から。アニキの元カノなんて、アニキに知られたらヤバい、と分かるでしょ? でも、シモーネにばれた後、ロッコはこんな言い訳をするんです。

 「だって、もう終わったことだろ? 2年も前の話だろ?」

 極めつけは、あなたをレイプした男とよりを戻せ、とナディアに言い放つ。 

 、、、やっぱり、私は、ロッコは頭悪いと思いますね。いくら清らかな精神を持っているか知らんが、やはりムイシュキン同様、オツムが弱いとしか思えません。ここまで人の気持ちに鈍感になれるなんて、恐ろしいです。

 容姿が並以下でも、精神性が俗でも、私は頭の良い人の方が好きだわ。



(そのにつづく)





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若者のすべて(1960年)~その①~

2017-01-06 | 【わ】



 1955年の冬、南部から、主を亡くしたパロンディ家の母親と4人の兄弟が、貧しさから脱却するべく、北部ミラノに住む長男を頼って出て来た。

 しかし、同じ兄弟でも、故郷を捨てきれない者、都会に順応する者とに分かれ、また、子離れできない母親の激しい執着や、美しい娼婦との出会いや恋愛等が相まって、家族の間に亀裂が生じ、次第に埋めがたい溝となって行く。

 一家のミラノでの生活は決して楽にはならないばかりか、崩壊へと向かうのである。
 
 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 ちょっと、本作について書くには1回じゃ書き切れないので、3回に分けることにしました。


◆武蔵野館でのヴィスコンティ特集

 現在、「ルキーノ・ヴィスコンティ-イタリア・ネオレアリズモの軌跡―」と題して、新宿武蔵野館でヴィスコンティ特集を行っています。本特集で上映されるのは『若者のすべて』『郵便配達は二度ベルを鳴らす』『揺れる大地』の3作品。

 ちなみに、新宿武蔵野館は昨年の夏から秋にかけて一時閉館し、大規模改修を行っておりました。今回、どんくらい変わったのかしらん、とちょっと楽しみに行ったのですが、まあ、基本的な作り(スクリーンの配置や受付・トイレ等の配置)は以前と全く変わっておらず、内装が綺麗になって、劇場の椅子が新調されていました。しかし、いかんせん、座席の傾斜は以前のままなので、座る位置を間違えるとスクリーンが見づらいという点は改善されていなかったです。もう少し傾斜をつけてくれるとありがたいんですけどね、、、。まあ、あのビルの作りからいってそれはムリな望みなのは分かるんですが。一番大きなスクリーンの部屋は入っていないので分かりませんが、多分同じでしょう。


◆映画友の逆鱗に触れてしまった!
 
 以前、『地獄に堕ちた勇者ども』の感想で、「お高く留まった映画」だの「単に耽美ってだけじゃなく、選民意識の匂いを嗅ぎ取る」だのと、罵りの文言を思うがままに書いたのですが、ほぼそれと同じことを、愚かにもヴィスコンティ好きの映画友に話したら、どうやら逆鱗に触れたようで「『若者のすべて』を見てから言え!」とぶった斬られました。

 映画友曰く、『若者のすべて』を見れば、自分のヴィスコンティ評がいかに浅薄で本質を見誤っているかが痛いほど分かるはずだ、とのこと。

 ……まあ、そこまで言われれば見ない訳にも行きません。素直に見てみることにしました、しかもスクリーンで。


◆けたたましくて恐ろしい母親

 映画友の言葉に対する自分なりの答えは後述するとして、まず内容に関する感想から。

 イタリアは、ヨーロッパの中でも母子密着が強く、マンマが強いらしい。うろ覚えですが、ヨーロッパでは、イタリアの引きこもり率が高かったはず。そもそも“引きこもり”が可能なのは、大人になっても親の家から追い出されずに住み続ける文化がある場合だそうで、早くに自立を促される国では引きこもりではなく“ホームレス”になるとのこと。そういう意味で、日本や韓国での引きこもりは非常に多く、ヨーロッパではイタリアに多い、という調査結果が出ているのだとか。

 本作を見て、その話が改めて説得力を持って私の脳裏に蘇りました。なるほどなぁ、、、と、パロンディ家を見ていて納得です。

 ミラノに出てきた4人の息子のうち、末っ子(五男)のルーカは子どもですが、あとの3人は(四男のチーロは夜間大学の学生)皆大人です。イイ大人が3人も母親と一緒の部屋で寝ているっていう光景だけで(家が狭いからというのもあるけど)、ちょっとギョッとなりました。

 母親のロザリアがですね、、、いろんな意味で怖いんです。とにかく、喋り方がけたたましい。声が異様に大きくて、まさしく機関銃のごとくまくし立てる。そんなにがなり立てなくても会話はできるでしょ、と言いたくなるけど、あれが多分彼女の普通の喋り方なんでしょう。正直、同じ空間にいるのが苦痛になりそうな女性です。

 ただ、この母親像は、長男ヴィンチェンツォの婚約者ジネッタのお母さんも非常に似ているので、マンマの割と普遍的な像が描かれているのかも、と感じましたが、どーなんでしょうか。

 仕事に行く大のオトナの息子たちに、やれ早く朝食を食べろだの、やれあの上着を着ろだの、とにかく世話を焼きまくる母親。その一方、ドアの呼び鈴が鳴ると息子に「ちょっと出て」などと言って甘える母親。

 ……嗚呼、子に母親が執着して、子が幸せになる話って見たことがない、、、、と序盤で既に先行きを想像して暗澹たる気持ちに、、、。

 序盤の想像どおり、最後まで、生活の全てが息子たち中心に動いていました、この母親は。他にはなーんにもない。ホントに何にもないのです。夫が亡くなって、なおかつ、そういう時代だったとはいえ、それがますます恐ろしい。


◆パロンディ家の三男ロッコ=アラン・ドロン

 本作の原題は、“Rocco e i suoi fratelli”。つまり、ロッコとその兄弟。

 そのタイトルにもなっているロッコとは、パロンディ家の三男で、演ずるのはアラン・ドロン。本作は、このロッコと、二男シモーネの話を軸に進みます。

 ミラノ移住後もなかなか定職が見つからない2人。ボクサーを目指すようになったシモーネと、バイト(?)するロッコですが、この2人が、時間差はあったとはいえ、一人の同じ女性を愛してしまうことから話がどんどん深刻な方向へ。

 その女性は、ナディア(アニー・ジラルド)という美しい娼婦。シモーネは適当に遊ばれて捨てられるのだけど、2年後に再会したロッコとは真剣に愛し合うようになるのですよ。で、それを知ったシモーネは激怒するというわけ。

 激怒して、シモーネがとった行動が、まあ一言で言えばサイテーです。ロッコとナディアのデート現場に手下数人を引き連れて踏み込み、ロッコの目の前でナディアをレイプする、、、んです。

 もうね、、、見てられません、このシーン。もちろん、レイプの凄惨さもあるけれど、ロッコのとった行動が???なんです。「やめろ~~!」って叫ぶけど、体当たりしてでも止めようとはしないのね。おまけに、この事件の後日、ロッコとナディアは教会の屋上で会うのですが、その時、ロッコがナディアに言う言葉が目(字幕)を疑うものなのです。

 「兄さん(シモーネ)はまだ君を愛してる。兄さんには君が必要なんだ。だからまた兄と一緒になってほしい。僕はいなくなるから」(セリフ正確じゃありません)

 私は、正直、ナディアがこの時、教会の屋上から飛び降りてしまうんじゃないかと冷や汗が流れてドキドキしながら見ていました。それくらい、ナディアを絶望させるロッコの言葉です。幸い、ナディアは飛び降りることなく、泣きながら走り去るだけでしたが、、、。

 シモーネとナディアは、肉体的・物理的にはよりを戻すのですが、ナディアの心はシモーネを絶対的に拒否し続ける。それが許せないシモーネは、遂に、彼女を刺し殺してしまう、、、。

  ロッコの不思議さは、その後の展開でさらに度を極めて行きます。際限なく堕落していくシモーネの姿に、そうさせてしまったのは元はと言えば自分のせい(ナディアと付き合ったこと)だと嘆き、とことんシモーネのために犠牲になる道を選びます。シモーネよりもボクサーの才能があったロッコは、シモーネの多額の借金を返すため、ボクサーとしてジムと10年契約を結ぶんです。10年間ボクサーが大金を稼ぎ続ける、、、あまりにも非現実的です。

 愛する女性を目の前でレイプしたシモーネを赦し、多額の借金をしてそれをロッコに肩代わりさせたシモーネを赦し、挙句の果てにはナディアを殺してしまったシモーネさえ赦そうとするロッコ。

 ……ロッコよ、あなたは一体、何なんだ? 白痴か神か。




(そのにつづく)




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