映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア(1994年)

2024-06-16 | 【い】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv10599/


以下、amazonの商品紹介よりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 現代のサンフランシスコ。街を見下ろすビルの一室で、インタビュアー(クリスチャン・スレイター)を前に美しい青年ルイ(ブラッド・ピット)が自らの半生を語り始めた。

 18世紀末、最愛の妻を亡くし、絶望の淵に沈む彼の前に現れた悪魔的美貌の吸血鬼レスタト(トム・クルーズ)。彼によって永遠の命を与えらたルイは、レスタトと共に世紀末の夜をさまよう。人間の命を奪うことをなんとも思わないレスタトに対し、人間の心を捨てきれずに苦悩するルイ。

 だがある夜、母の亡骸にすがりつく少女クローディア(キルスティン・ダンスト)と出会ったルイは、衝動的にその命を奪ってしまう。彼女をヴァンパイアの一族に招き入れるべく新しい命を吹き込むレスタト。しかし、それは思わぬ悲劇の始まりだった!

=====ここまで。


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 BSでオンエアしていたので、録画しました。公開当時、かなり話題になっていたけど、イマイチ興味が湧かずにそのままスルーしてしまい、その後、地上波でも何度かオンエアしていた気がするし、BSでもVHS時代に録画しましたけど、結局見ないまま上書きしたみたいで、とにかく縁のない映画でした。

 その後も、DVDを借りることもなく、気が付けば公開から30年(!)も経っていたのでした、、、ごーん。30年かかって、ようやく全部ちゃんと見ることが出来ました~。

 ちなみに、今さら名画シリーズにしようかとも思いましたが、見てみて名画とも思えず、世間の評判的にも名画として定着しているとも言い難い気がするので、やめました。


◆ゴシックが似合わないトムクル

 トムクル、、、どっから見てもアメリカンな男。役者として云々という以前に、彼が吸血鬼(ヴァンパイア)ってのは、ドラキュラ=中世~近世ヨーロッパ、っていう先入観がある者の目には、どうにも雰囲気的にミスマッチ感が拭えなかった。……といっても、原作者がアメリカ人だから仕方がないのだが。

 もちろんトムクルは頑張っているのだが、頑張っているのが画面からビンビン伝わってくるのがまあまあイタい。ブラピは、何だかやる気なさそうに見える。そういう役なんだよ、、、ってのは分かるが、終始“アナタ、嫌々やってるでしょ”、、、って感じだった。

 トムクルは原作者に痛烈ダメ出しされていたらしいし、ブラピはあんましこの役は乗り気じゃなかった(?)みたいだし。2人のそういう背景が映像からビンビン伝わって来ちゃうってのが、ある意味面白くはあるのだが。ブラピがあんましカッコよく見えなかったなぁ、、、全編通して。髪型とかメイクとかが合っていなかったのか、、、。トムクルはキレイだったが。

 ブラピが乗り気じゃなかったっての……、んまぁ、分かるよ、分かる。いくら原作小説がベストセラーでも、所詮吸血鬼モノだもんね。小説だから読めても、映像化した途端にバカっぽくなるもんね。


◆本作も例外ではなかった

 このブログでも吸血鬼映画を何本か取り上げているけど、「ダリオ・アルジェントのドラキュラ」(2012)にも書いたとおり、私には“ヴァンパイア映画≒バカっぽい”という思い込みがある。

 なので吸血鬼モノについては、感想も悪口が多くなってしまっている(唯一の例外は「ぼくのエリ 200歳の少女」(2008)だった)。本作は、文芸作品ぽい“本格派”を狙っているように見受けられるのだが、やはり“バカっぽい”路線に見えてしまった 

 ちなみに、本作との類似性(というか似過ぎやろ、、、としか)が言われているマンガ、萩尾望都の『ポーの一族』も、マンガとして読んでいて別にバカっぽいとは思わなかった。

 で、何で映像化するとバカっぽく見えるのかを真面目に考えた。

 まずは、おさらい。吸血鬼モノの主なお約束4か条。①人間の生き血を吸わないと生きていけない、②歳をとらない、③日光を浴びると死ぬ、④血を吸われた人間は感染して吸血鬼になる

 ついでに言うと、この4か条とお約束が似ているのが“ゾンビ”なんだが、ゾンビ映画を見ていてあんまし“バカっぽい”と感じたことはないのだよな、、、。もちろん、そんなにたくさんゾンビ映画見ていないので、ゾンビ映画を語れないのだけど。

 本作もこの4か条は全部守られている。もちろん「ぼくのエリ~」もそうだった。だから、バカっぽく見えてしまうのがこの4か条にあるのではないのだと思われる。

 ん~、色々考えても、これだ!という原因は思い当たらないのだが、強いて言えば、吸血鬼モノでは、吸血鬼が“葛藤”するんだよね。ゾンビと同じく、夜行性で人間の血(ゾンビは肉?)を吸わないと生きていけない“バケモノ”のくせに、自分が生きるために人を襲うことに罪悪感を抱いて“葛藤”している。ゾンビは葛藤なんかしないもんなぁ。

 ゾンビに限らず、バケモノ系映画でのバケモノって、自分がバケモノとして生きていることに葛藤なんかしていないんじゃないか? 人間が人間でいることに葛藤していない(まあ、中にはしている人もいるかも知らんが、一般論として)のと同じで。引き換え、知性や理性があることになっているのだ、吸血鬼は。

 本作でも、ブラピ演じるルイは、自身が生きるために生き血を吸うことに激しく葛藤している。一方の、トムクル演ずるレスタトは、人の生き血を吸うことに葛藤していない。それは、彼とルイの吸血鬼キャリアの長さが違うから、、、ってことかしら。レスタトも吸血鬼になったばっかの頃は葛藤していたのか?

 それを考えるのに役に立つのが、キルスティン・ダンスト演ずるクローディア。彼女はルイによって吸血鬼にさせられたのだが、吸血鬼になった直後から、あまり葛藤はなさそうであった。それは彼女が子どもだったからってこと? ん~、イマイチすっきりしませんな。

 いずれにしても、バケモノのくせに、ヘンに人間みたいな思考回路でウジウジ葛藤して、でも結局、人の首に吸い付いて「嗚呼、、、殺してしまった、、、ぅぐぐ、、、、」とかやってるのが、客観的に見て滑稽でしかない、ってことなのかも。

 とはいえ、あのフランケンシュタインに描かれる化け物も、最初はただのバケモノだったのが、だんだん知性が付いてくるとやはり“葛藤”し始めるんだよね。でも、フランケンシュタインの化け物を映画で見ても、別にバカっぽいとは感じなかったわけだから、この“葛藤”というキーワードが答えでもなさそうである。

 そもそも、吸血鬼モノがバカっぽく見えているのって、私だけなのかも。ネットでいろんな吸血鬼モノ映画の感想を拾い読みしても“バカっぽい”(orそれに似た形容)と書いているものは見かけないもんな、、、。

 吸血鬼モノに見られる“葛藤”には、バケモノより人間の方が上等だという感じがうっすらあるような気もするが、それは、私の潜在的な差別意識が投影されているだけかも知れず、何とも言えない。


◆その他もろもろ

 一番印象に残ったのは、首をザックリ斬られたレスタトがワニ池に投げ込まれるシーン。何でそんな中途半端な処理をするのか?ってね。私がルイなら、完全に首を切り落として、心臓に杭を打って、、、と、完全処理をするけどなー、、、って。

 トムクルはかなりダイエットしたというだけあって、顔も、顎が尖ったシャープな感じであった。原作者は、レスタトにジュリアン・サンズを想定していたというのだが、是非、ジュリアン・サンズで撮って欲しかったものだ。全然作品の雰囲気は変わっていただろう。ちなみに、レスタトには、DDLも候補に挙がっていたらしい。

 まあ、日本人から見ると、どうしたって『ポーの一族』と似ている、、、と思っちゃう。人物配置もほとんど同じだしね。でも、原作もマンガも、ほぼ同時代に、全く別の場所で生まれているってスゴい偶然もあるものだ。

 クローディアを演じていたキルスティン・ダンストは、当時12歳?くらいだったのだけど、すごい女優。12歳でこれって、ジョディ・フォスターも真っ青だね。子どもの頃の方が可愛い。

 ラストにリヴァー・フェニックスへの献辞が出て?となったのだけど、インタビュアー役を演じる予定だったのね。知らんかった。

 

 

 

 

 

 

この映画が話題になったのは主演がトムクル&ブラピだから?

 

 

 

 

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異人たち(2023年)

2024-05-11 | 【い】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv84006/


以下、公式HPからあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 夜になると人の気配が遠のく、ロンドンのタワーマンションに一人暮らす脚本家アダム(アンドリュー・スコット)は、偶然同じマンションの謎めいた住人、ハリー(ポール・メスカル)の訪問で、ありふれた日常に変化が訪れる。

 ハリーとの関係が深まるにつれて、アダムは遠い子供の頃の世界に引き戻され、30年前に死別した両親(ジェイミー・ベル&クレア・フォイ)が、そのままの姿で目の前に現れる。

 想像もしなかった再会に固く閉ざしていた心が解きほぐされていくのを感じるのだったが、その先には思いもしない世界が広がっていた…

=====ここまで。

 山田太一の小説を映画化。


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 公開前から話題になっていた本作。私としては、ジェイミーが出演するので楽しみにしていました。GWに入ってすぐ映画友と見に行って、その後、色々と考えるうちに確かめたいことが出て来てしまい、GW最終日に、再見しに行きました。


~~ネタバレしています。ラストに言及していますので、よろしくお願いします。~~


◆これはゲイ映画か?

 巷では、本作は“ゲイ映画”と言われているみたい(?)なんだが、私には、主人公アダムの、亡き両親との邂逅を通じた再生物語と感じた。……といっても、これは鑑賞直後のもので、その後、時間が経つにつれて、違った解釈もあり得るなぁ、、、と思うに至った(後述)。いずれにしても、ゲイ映画と括るのは違う気がする。

 原作が山田太一の小説で、主人公が情を交わす相手がケイという女性から、ハリーという男性に置き換えられたことで、やたらと“ゲイ”やら“同性愛”がフィーチャーされている感があるけど、原作を読んだ者の印象として、この物語の本質にさほど影響していないと思う。

 その本質とは、両親の突然の死によって封印せざるを得なかった少年時代の自身のアイデンティティとの対峙、である。

 本作は、主人公がゲイであるというれっきとしたマイノリティ要素が加わることで、より“葛藤”が生じ、アイデンティティとの対峙が原作よりもハッキリと輪郭を現した印象だ。

 アダムがしばしば“亡き両親”と会って会話を交わすが、それは、リアルに考えれば、アダムの妄想であり、もっというと、遠い昔に置き去りにして来た両親への思慕と理想がない交ぜになったもの。アダムが、母親に、父親に、それぞれ別々にカミングアウトするシーンは、アダムが脳内で想定している両親の反応であり、半面、願望でもある。

 「今、両親の物語を書いている」、、、とアダムはハリーに語っていた。生前の両親の写真や、少年時代の自身の写真、当時の家の写真などを見ているうちに、彼の意識が両親との邂逅を呼び寄せたのではないか。自分でも、妄想や脳内の物語には思えないほどリアルに感じ、両親の体温を肌で感じていた、、、のだろう。ある種のトランス状態というのか。

 そう考えると、そんな状況で情を交わすハリーの存在がリアルであるはずはないのだが、本作を見ていると(原作もだけど)、ハリーとの恋愛はリアルなお話かと錯覚してしまうし、人情として、そうであって欲しい、それでアダムが少しでも癒されて欲しいと思ってしまう。そうして、終盤で打ちのめされるのである。

 けど、原作は、ラストが主人公の未来を感じさせる、読後感が意外に爽やかなのに対し、本作は、打ちのめされたまま、さらに哀しい結末を予感させられて終わり、鑑賞後感は重く辛い。

 ……この違いは何なんだろう??


◆ラストシーン、、、え??

 鑑賞後、数日経ってから、妙に気になりだしたのがあのラストである。ベッドで、アダムと異人のハリーが抱き合ったまま星になる、、、というあのラスト。

 原作を読んでいたから、当初はそれに引っ張られていて、アダムはまた孤独に戻ってしまったのだな、原作よりさらに救いがないな、、、などと思っていたのだが、よくよく考えると、あのラストは示唆的だったのではないか、、、と。それで、本作の原題を改めて思い出し、やはり示唆的なのかも知れない、、、と。

 何を?

 つまり、アダムも異人である、、、ということ。

 本作の原題は“All Of Us Strangers”である。直訳すると“我々皆異人”。……はて???(朝ドラの影響じゃないですヨ) やっぱしそういうことじゃない?

 本作の登場人物は、アダムとハリー、あとはアダムの亡き父母の4人だけである。明らかに異人として描かれているのが、アダム以外の3人。このほかにアダムが直接言葉を交わす人物はいない。つまり、本作内で、アダムがリアルの世界で交わっている人は、いないということになる。

 ……とまあ、普段はあまりやらない読み解きみたいな感じになってしまったけれど、あのラストはそういう風にも見えるよなぁ、、、と一旦思ってしまったらそれが頭から離れなくなってしまい、そうすると、細部がイロイロ気になってしまった。

 ジェイミー演ずる亡き父との最初の邂逅はどんな流れだったっけ? ハリーと2度目に会ったときはどんなだった?? とか。

 なので、2度目を見に行ってしまった。

 で、結論から言うと、アダムも異人と考えてもゼンゼン矛盾はないな、、、ということ。でも、アダムだけはリアルと見ても問題ない。ある意味、巧く作っているなー、と。

 個人的には、アダムも異人だとする方が何となく好きかな。んで、あのほぼ無人のタワマン自体が、実は虚構なのだった、、、と。というか、あのタワマン、よく見ると何となく牢獄みたいにも見える。アダムの心象風景と思えば、それも納得できる気がする。つまり、タワマンには本当は普通に人が住んでいるのだけど、異人が2人いた、、、とね。これって、もしかしてホラー??

 これは原作を読んだときも感じたのだけど、異人は、異人同士で「あいつは異世界の者だ」と分からないもんなのかね??ということ。で、原作は、そういう風にも読めるのだ。原作で、主人公が亡き両親との初めての邂逅を果たすのは、ケイが亡くなって異人として主人公と交流し始めた後である。そして、原作の主人公は、確実にリアルの人間である。だから、私は、勝手に、異人のケイから生きている息子を守るために、亡き両親が現れたのかも知れない、、、などとセンチなことを考えてしまったのだ。

 でも、本作は、亡き両親はハリーを見ても「良さそうな人」などと言っているだけである。……てことは、これは、もしかすると異人界の話なのではないか。登場人物全てが異人だと解せば、辻褄が合う。

 んで、そう考えれば、このラストはハッピーエンディングである。鑑賞直後の印象と180度変わってしまうが、それはそれで良いと思う。

 はたして、見た人たちはどう受け止めたのかしらん?


◆ジェイミーとか

 本作を見に行った最大の目的は、そらなんつっても“おっさんになったジェイミーに会いに行く”でありました。

 彼は「リトル・ダンサー」でデビュー以降、コンスタントに映画出演している。まあ、割と何でも出ている感があるが、本作のような味わい深い、地味ながら演技力を求められる良作にも出演している。

 本作でも、主人公より若い亡き父親を好演していた。自分よりおっさんになった息子に「何で部屋に入って来てくれなかったの?」と問われて「オレもお前がクラスメイトだったら、お前をいじめていたと思うから」(セリフ正確じゃありません)と答えるときの何とも言えない表情や、息子に詫びる前にレコードを止めて、「部屋に入らなくて悪かった。泣いていたのも知っていた」と懺悔するシーンは、2度見て2度とも号泣しました。

 思うに、本作を“ゲイ映画”と見るか“親子の物語”と見るかは、見る人の過去に大いに関係あると思う。

 私は、今さら両親と和解したいなどとは1ミリも思っていないけれど、アダムとは形は全く異なるものの、両親との関係が“断絶”していることは同じである。いくら好まざる親といっても、自分をこの世に生み出した存在と断絶しているという事実は重い。だから、アダムが、あのような幻影を見るまでに両親の愛を渇望している姿を見るのは、正直辛い。なぜなら、アダムは両親亡き後でもまだ、親の愛を期待しているからである。私のように、親への期待を捨て去った者からすると、それは、まさしく“青い鳥”以外の何ものでもないようにしか思えないのだが、しかし、そんなアダムを“イイ歳して、、、”と嘲笑する気になど毛頭なれない。アダムが両親と断絶したのは、12歳なのだから。それが例え、20歳でも、40歳でも、きっと同じだろう。親への期待を捨てることが、子にとってどれほどの痛みを伴うものかは、(この言葉はあんまし好きじゃないが敢えて使っちゃう)「経験した者にしか実感できない」はずである。

 なので、そんなアダムの青い鳥を、実在するものとして見せてくれたジェイミーの演技は、ジェイミーの長年のファンというのを抜きにしても、胸に刺さるものがあった。良い役者になったね、ジェイミー。遠縁のオババは嬉しくて涙がチョチョ切れたぞよ。

 主演のアンドリュー・スコットは、さすがの演技。ポール・メスカルも巧い。亡き母親を演じたクレア・フォイも良かった。邦画版で亡き両親を演じた鶴太郎&秋吉久美子も良かったが、ジェイミー&クレアも雰囲気は全然違ったけれど、素晴らしかった。

 最後に、ステキな画像をネットで見つけたので貼っておきます。

 


 

 

 

 

“Always on My Mind”(ペット・ショップ・ボーイズ)の歌詞が沁みる。

 

 

 

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異人たちとの夏(1988年)

2024-02-13 | 【い】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv17827/


 脚本家の原田英雄(風間杜夫)は、離婚し、仕事場として使用していたマンションの一室で生活するようになる。寝起きするようになった初めて、そのマンションのほとんどの部屋は事務所として使用されており、住んでいるのは自分と、もう一部屋だけらしいと知る。

 そんな部屋に旧知のプロデューサー間宮(永島敏行)が訪ねて来て「離婚されたのだから奥さんに近づかせてもらう」と宣言され、原田はショックを受ける。その晩、もう一部屋の住人と思われる女性(名取裕子)がシャンパンを持って訪ねて来るが、間宮の話で気分が悪かったため、女性を追い返してしまう。

 数日後、ふらりと生まれ育った浅草へと足を向けた原田は、そこで30年近く前に亡くなったはずの両親と出会う。その直後に、ケイと名乗る女性とマンションのロビーで再会したのを機に、深い仲になる。

 懐かしさのあまり、たびたび浅草の両親のアパートを訪ねる原田だが、周囲が心配するほどにやつれて行く。しかし、原田自身が鏡を見ても、以前と変わらない自分がそこに映っているだけだった。ケイに「本当に見えないの?」と驚かれ、もう両親に会ってはいけないと強く止められるが、再び、浅草へと原田は向かうのだった……。

 山田太一著の同名原作小説を映画化。


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 山田太一が亡くなりましたね、、、。彼の書いたドラマリストをwikiで見たところ、ちゃんと見たのは「ふぞろいの林檎たち」だけ。しかもこれパート4まであったんですね。3までは知っているけど、ちゃんと見たのは1だけかな。4はオンエアしていたことさえ知らなかった。あと、大河ドラマの「獅子の時代」(1980年)は最初の方は見ていた記憶が。

 彼のドラマは、セリフ回しが独特過ぎて、ちょっと苦手だったのもあり、あまり見たいと思えなかったのだけれど、先日、追悼企画でNHKが「今朝の秋」というドラマを放映していたので録画して見てみました。1987年オンエアだったようだけど、もちろん、知らなかった、、、。感想は、……あんましピンと来なかった。主演は、笠智衆。縁側で、加藤嘉と並んで座って喋っているシーンがあるんだけど、何とも言えない雰囲気でした、、、、ごーん。

 それはともかく。本作は、4月にアンドリュー・ヘイ監督によってリメイクされた「異人たち」が公開されるため、ちょっと見ておこうかな、と思った次第。ジェイミー・ベルが出るし。ついでに原作も読みました(1日で読めます)。


◆良い映画です、、、が

 終盤までは、かなり原作に忠実に作られた、しかも大林宣彦監督作にしては実に味わい深い真っ当な映画だったのだけれど、、、肝心のオチがっっっ!!(後述)

 というわけで、あのオチさえなく、原作に沿ったものにしてくれていたら、多分、の数はあと2個くらい増えたかもしれません。本当に、そこまでは良い映画だったのです、、、嗚呼。

 主人公の、ちょっとくたびれた脚本家・原田を演じるには風間杜夫は渋みが足りない感じもしなくもないけど、まあ許容範囲。彼は演技が上手いのか上手くないのか、、、イマイチ分からない。

 んで、原田が邂逅する亡き両親を、片岡鶴太郎と秋吉久美子が演じているのだが、この2人が実に素晴らしい。何か、本当に下町にこんな夫婦いそう、、、な感じ。

 鶴太郎氏は、本作での演技が好評で、本格的に俳優業に転じたとのこと。確かに彼は演技巧者だと思うなぁ。大分前に、大河ドラマで北条高時演じていたんだけど、すごく面白くて上手だった。めったにTVに出ている人を褒めない母親が「この人上手やなぁ」と感心していたのには驚いたけど。でも、ホントに良い演技をしていた、本作でも。

 秋吉久美子も、まだ若いお母さんのままで可愛らしさもありつつ、落ち着かない夫をどーんと迎える肝っ玉な感じもあり、おっさんになった息子に別れを告げられて涙するところは、こちらも泣けてしまった。

 ……という具合に、なかなか良い人間ドラマになっていたのに、、、、!!! やはり大林監督、やってくれちゃったよ、、、ガーン。

~~以下ネタバレです~~


◆大林監督の本領発揮

 原作では、名取裕子演ずるケイも、実は異界の人だってのがオチなんだが、その描写はさりげなくグロテスクで、怖ろしいというよりは、私は何とも言えない失望を覚えたのだった。……あ、小説に対してではなく、原田の置かれた境遇に、、、ね。

 離婚で、自覚している以上に精神的にダメージを受けていた原田が、亡き両親と邂逅したり、ステキな女性と新たに恋愛関係を築いたりして、どうにか立ち直りつつあったと思っていたら、それらは全部、この世ならぬものだった、、、なんて、あまりに残酷ではないか。それで、すごく落ち込んでしまったのよ。とはいえ原作の読後感は悪くなく(それはラストの原田の言うセリフが良いからなんだけど)、この辺は、さすが手練れの脚本家・山田太一だなぁ、、、と感じた次第。

 ……それなのに。それらをぶち壊すような終盤の展開は、ズッコケもいいとこで、ガックシを通り越して爆笑しながら見てしまった。なんじゃこりゃ、、、状態。

 詳細は書かないけど、早い話が、思いっ切りB級(いやC級かな)ホラーになっていた、ってことです。どんな風にB級かというと、名取裕子が宙に浮いたり、明らかに染料と分かる血のシャワーが飛び散りまくったり、それを浴びた風間杜夫と永島敏行が全身真っ赤っかになったり、、、と風情の欠片もないシーンでござんした。なんちゅうことしてくれんだ、大林監督は。

 あと、周りが引くほどやつれ行く原田、、、なんだが、風間杜夫の特殊メイクがあまりにも、、、で、これも、不謹慎ながら、ぷぷっと笑ってしまいました。いや、今のメイク技術と比べて、という意味ではなく、あまりにもやり過ぎというか。私が監督なら、風間杜夫に5キロくらい減量してもらうかな、、、と思った。もともと細めの人だから、5キロ痩せれば、かなり頬もコケてやつれた感じになるだろうし。そこでちょっとメイクしてヤバさを出せば十分だったんじゃないのかしらん。あれじゃ、お化け屋敷のお化けみたいだよ、、、。

 いやホントに、そこまでがすごくイイ雰囲気で来たのに、何か突然違う映画になったみたいでひっくり返りそうになりました。

 原作の描写どおりにしていれば、静かに怖い、、、大人の映画になったと思うのに、残念。


◆異界の人

 本作がどんな風にリメイクされるのか分からないが、原作を読んで感じたのは、死者との邂逅などという甘いノスタルジーではなかった。

 12歳で両親を亡くした原田にとって、両親への思いは言葉にできないものがあるだろう。小6なんて、まだまだ親に甘えたい年齢だ。でも、彼は親を亡くしてから泣いたことがないというくらい、自分を子供ながらに律して生きて来て、そのまま大人になったわけで、離婚して心が弱っていたときに、ふと魔が差したのだと思う。

 心が弱っているときって、本当に肉体的にダメージが大きい。肉体的というのは、まさに身体的な部分と、頭の働きの方と両方である。健康なときには考えもしないような思考に陥ることがあるのだ。私にも経験が有るのでよく分かる。きっと、原田はそういう状態だったのではないか。

 原田が亡き両親と邂逅したのは、ケイが原田に追い返されて自殺した直後である。思うに、亡き両親は、ケイから原田を守ろうとしたのかも知れない。原田があそこまでやつれたのは、生気を吸い取られていたのであり、それは、亡き両親と会っていたからではなく、ケイとしばしばセックスしていたからだろう。だからと言って、両親は何をできるわけでもないが、原田自身の潜在意識が、両親を見たのだと思えば、何となく腑に落ちる。

 ……というような考察も、本作の終盤では何の意味も持たなくなるのだが、まあ、あのB級ホラーチックな展開も、面白いと言えば面白いので、映画は映画として楽しめばよいのである。

 ちなみに、山田太一は、本作の終盤について「とんでもないことになっていた」と言っていたそうだが、それはそれで受け入れていたそうな。まあ、彼はプロだからその辺は十分承知しているのだろう。本作の脚色は、市川森一だが、ご本人が脚色しなかったのも分かる気がする。きっと、あのB級ホラー展開は、大林監督の趣味だろう、、、と思うことにしている。

 リメイク版も楽しみだ。ジェイミーは鶴太郎氏の役ですな。
  

 

 

 

 

 

 


亡き両親の暮らすアパートが風情があって素敵。

 

 

 

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生きる LIVING(2022年)

2023-06-09 | 【い】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv79969/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。
 
 1953年、復興途上のロンドンで公務員として働くウィリアムズ(ビル・ナイ)は仕事一筋で生きてきた。いわゆるお堅い英国紳士である彼は、仕事場では部下に煙たがられ、家では孤独を感じる日々を過ごしており、自分の人生を空虚で無意味なものだと感じていた。

 そんなある日、ウィリアムズは医者から自分ががんを患っていること、そして余命半年であることを告げられる。手遅れになる前に充実した人生を手に入れようと、彼は大きな一歩を踏み出す。

=====ここまで。


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 これも、前回の「ザ・ホエール」同様、見たのはGW中。オリジナルの「生きる」があんまし好きじゃないので、本作も本当なら見る気にならないはずなんだが、なんつっても主演がビル・ナイで、脚本がカズオ・イシグロと聞けば、まあ、一応見ておくか、、、という気になってしまった、という次第。

 でも、正直なところ、前半は退屈で睡魔に襲われそうになること数度。目覚めたのは、ビル・ナイの歌声。歌えるのは知っていたけど、やはり彼は芸達者な役者さんだ。

 オリジナルよりも全体に小奇麗になっていて、アクが抜けた感じだったけど、私は本作の方が好きだなぁ。

 それは、志村喬が苦手で、ビル・ナイが好きだからってのが大きいんだけど、不思議なのは、オリジナルで志村喬演ずる渡辺さんの変わり様にどうにも違和感が拭えなかったのが、本作のビル・ナイ演ずるウィリアムズの豹変ぶりには、ゼンゼンそういうのを感じなかったってこと。これも、単なるビル・ナイ効果か??

 みんシネにも書いたが、オリジナルの渡辺さんが公園づくりに勤しんだのは、結局、自分のためにしか思えなかった。このまま無為に死を迎えたくねぇんだよ、オレは!!っていうね。そこに、たまたま公園問題があったから、これ頑張ってやって死のう、みたいに見えたのよ。住民のため、じゃなくてね。いや別に、結果として、住民の要望が実現したんだから動機が利己的だって別にええやん、という見方もあるし、そうだと思うけど。でも、志村喬の演技を見ていて、私は「ええやん」とはゼンゼン思えなかったわけです。

 翻って、本作でのウィリアムズ氏はどうかというと、まあ、動機は似たようなもんだし、背景もほぼ同じ。なのに、渡辺さんに感じた、「この人、どこまでも自己都合な人やね」というネガティブなイメージは抱かなかったというか、余命宣告されたら、ああいう風に変わるのもアリかもね、なんて思っちゃった。……やっぱり、ビル・ナイ効果かねぇ。

 あと半年しか生きられない、と分かったとき、自分ならどういう心境になるのかは、想像がつかない。どういう最期を迎えたいかとかも全く分からない。呆気なく死にたい、と思ってはいるが、こればっかりは自分の意志でどうにかなるもんでもない。ただ、私の友人のお祖母さんは、日頃から「ぽっくり死にたい」が口癖で、日々健康に気を使って暮らしていたそうなのだが、本当に「ぽっくり」亡くなったんである。訃報を聞いたとき「え?先月お会いしたのに、、、!」という感じだったのを覚えている。なので、日頃の心掛けも大事ではあるのだろう。

 オリジナルでの、渡辺さん亡き後の葬儀のシーンが、私はものすごく退屈でウンザリしたのだが、本作はその辺りは実にサラッと簡潔にされていて、それも好印象になった要因の一つ。オリジナルは、とにかく長過ぎる。出てくるのもほとんど、おじ(い)さんばっかだしね。


 

 

 

 

 

 

 

オリジナルより小奇麗なのは戦勝国だからかな。

 

 

 

 

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イニシェリン島の精霊(2022年)

2023-02-23 | 【い】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv78227/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。
 
 本土が内戦に揺れる1923年、アイルランドの孤島、イニシェリン島。

 島民全員が顔見知りのこの平和な小さい島で、気のいい男パードリック(コリン・ファレル)は長年友情を育んできたはずだった友人コルム(ブレンダン・グリーソン)に突然の絶縁を告げられる。急な出来事に動揺を隠せないパードリックだったが、理由はわからない。

 賢明な妹シボーン(ケリー・コンドン)や風変わりな隣人ドミニク(バリー・コーガン)の力も借りて事態を好転させようとするが、ついにコルムから「これ以上自分に関わると自分の指を切り落とす」と恐ろしい宣言をされる。

 美しい海と空に囲まれた穏やかなこの島に、死を知らせると言い伝えられる“精霊”が降り立つ。その先には誰もが想像しえなかった衝撃的な結末が待っていた…。

=====ここまで。


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 アイルランドが舞台、というだけで劇場まで見に行きました。死ぬまでに一度は行きたい、アイルランド、、、。

~~以下ネタバレしていますので、よろしくお願いします。~~


◆対人距離感がおかしい人。

 初めに言っておくと、面白かった! インパクトも大。いろんな意味で忘れられない映画の1つになるのは間違いない。

 でも、好きか? と聞かれると、あんまし好きじゃないかも、、、、。多分、自分にも似たような経験があるからだと思う(後述)。そのときの、何とも言えないイヤ~~~な感じを追体験させられたような感覚になったのだよね。

 さらに言えば、私はパードリック系の人が大嫌いなんだが、あんまりにもパードリックだけがめちゃくちゃ救いがないオチに同情してしまい、その「嫌悪」と「同情」という相反する感情が自分の中で収拾がつかない感じ。コルムは自らの意志でしたことだけど、パードリックは友人も妹もロバも、、、愛するもの全てを失ってしまうのだ。

 最初、コルムがいきなりパードリックを絶縁するのは、ちょっとあんまりやない??と思ったんだが、見ているうちに、こりゃ絶縁したくなるわなぁ、、、とコルムに激しく共感。だって、パードリック、バカ過ぎる。あれこそ“真正バカ”。もう、どうしようもない、手の付けようがない、修正が望めないバカ。そういう人には、ああやってコルムみたいにキッパリ・ハッキリ絶縁宣言せざるを得ないし、しかしバカはある意味怖いもんナシの人なので、コルムを逆に追い詰めることを平気でやってしまう、、、それくらい絶望的なバカなんである。

 「ここまでしてもダメなのか」とコルムが抱える絶望感は、私も経験者なので痛いほど分かる。私の場合、絶望した相手は、戸籍上の元夫だが。もうね、人との距離感ってのが、生まれつきヘンなんだよね。分からないの、言葉で言っても、ゼンゼン。宇宙人と話しているみたいな感じ。こっちは深く深く絶望の底なし沼へと落ちていくんだが、相手はこっちが何で絶望しているかが分かんなくて、挙句「言ってくれなきゃ分かんないよ!」と。だから言ってんじゃんよ、、、って。コルムと同じ。もし、私もコルムみたいに「今度やったら自分の指切り落とす!」と宣言していたら、私の場合は両手指10本全部失くしていたはず。

 とはいえ、あんなバカのためにそんな犠牲を払うのは、私はゴメンだが、コルムが指切り宣言してしまった気持ちはすご~~~~く分かる。“それくらい言わないとこいつはダメだ”と思って、“それくらい言えばこんだけバカでも分かるだろう”と考えたわけよね。でも、分からなかったんだ、パードリックは。

 一応、戸籍上の元夫の名誉のために言っておくと、彼は人を絶望させるバカだけどお勉強はすごーく出来た(多分)人だったんですよ。頭の良し悪しとお勉強の出来る出来ないは比例しないんです。パードリックはどっちもダメみたいだったけど。

 だから、私が人生でこれ以上ないほど嫌悪した人と同類のパードリックに同情を覚えざるを得ない展開のお話、、、ってのは、やっぱし好きとは言えない。


◆ネットの感想拾い読み。

 コルムがなぜ指を本当に切り落としたか、について、パンフの解説では「コルムは鬱だったのかも」みたいに書かれていた。

 まあ、そうかも知れないが、私は、パードリックへの見せしめだったのだと思っている。飽くまで正気。そうやって、自分がどれだけお前のことを嫌っているのかを分からせてやる!とね。正気じゃ出来ないだろう、、、と普通は思うし、私も前述のとおり、そんなヤツのために自分の身体を傷つけるのはまっぴらだが、正気でやることはアリだと思う。誰かを激しく嫌うと、自分に対する嫌悪感も増幅するので。

 希死念慮に囚われている、と書いている人もいたけど、私も、終盤でパードリックがコルムの家に火をつけたときにコルムが家の中で身じろぎもせずに座っているシーンを見て、ありぃ?このままコルムは死ぬ気なのか??とちょっと思ったけど、その後ちゃんと家から脱出していたので、やっぱり死にたいわけじゃないんだな、と感じた次第。終始、コルムに死にたい願望があるようには、私には見えなかった。

 別の人は、パードリックとの友情がそれだけ重みのあるものだった、、、と書いていたが、もちろん可能性はあるけど、多分違うと思う。理由は前述のとおりだが、ただ、あの閉鎖的な島という環境で人間関係が狭くて濃いので、重みがあるというよりは、逃げられないお隣さん的な圧迫感はあったと思う。いずれにしても、コルムが友情故に指を切り落としたとは考えにくい。

 後世に残る仕事をしたいから、という理由でパードリックに絶縁宣言したのに、フィドルを弾くために欠かせない指を切り落とすなんて矛盾してるだろ、という感想も目にしたが、矛盾だらけなのが人間ってもんだし、フィドルを弾けなくたって作曲はいくらでも出来る。

 男同士の、恋愛感情ゼロ関係での拗らせ話って、ビジネスも絡んでいないし、案外珍しいのでは? 男同士の友情がメインの話って、前向きで汗くさいウザ系が多い気がしていたんだけど、私の思い込みかしら。

 ……と思って、検索してみたら、「マイフレンド・フォー・エバー」「最強のふたり」を挙げている人が割といるなぁ。どっちも未見なんで分からない、、、。私の大好きな「きっと、うまくいく」を挙げている人もいる。あれも超前向きで、ウザ系といえばウザ系ではある。でも大好きだけど。「ショーシャンクの空に」「グリーンブック」も挙がっているけど、まあ、これらもザックリ括れば“良い話”よね。

 やはり、本作は、ジャンルでいえば珍しいと言っても良いかも知れませぬ。


◆その他もろもろ

 本作は全体に暗いのだけど、セリフで笑っちゃうのが結構あって、ブラックコメディと言っていいくらいじゃないかと思う。

 ちょっと知的障害のありそうなドミニクが時々言うことが笑えるというか、鋭いというか。パードリックが、「コルムに絶交された」と愚痴ると「何だソレ、12歳かよ」(セリフ正確ではないです)とヘラヘラ笑いながら言ったり。パードリックがバカにしているドミニクの方がよほど察しが良いし、道理が分かっているという皮肉。

 パードリックがいかにウザいかという描写としては、パブで酔っ払ってコルムに絡むシーンが秀逸。「俺が嫌いなものが3つある。1つ目は警察官。2つ目はフィドル奏者。3つ目は………(何だっけ)??」(セリフ正確ではないです)とヘラヘラ笑いながら繰り返して言ってるんだが、何かもう、、、ウザ度全開で笑っちゃいました。そら、嫌われるよ、あなた。

 結局、マトモな、、、というか、ちょっと知識欲のある人は、あの島での生活はかなり厳しいんだろう。まあ、分かる気はする。パードリックの妹シボーンは、コルムの絶縁宣言を理解できちゃって、結局、島での閉鎖的で保守的な生活に耐えられず本土へと出て行ってしまった。コルムも島を離れればよかったんじゃないのかとも思うが、年齢的に体力・気力が残っていなかったのかな。その割に、教会での告解シーンでは神父に笑える悪態ついていて、十分気力はあると見えたけどなぁ。

 コルムを演じたブレンダン・グリーソンのフィドルを弾く姿が実にナチュラルだったのが感動モノだったんだけど、パンフを読んだら、彼はプロ級のフィドル奏者だとか。……納得。

 本作は、アイルランド内戦のメタファーだとか、背景にあるとか言われていて、それはそうなんだろうけど、そういうことをゼンゼン知らなくても、映画だけで十分面白いし、イロイロ考えさせられる作品になっている。

 原題は“The Banshees of Inisherin”で、イニシェリン島のバンシー。バンシーってのがアイルランド語で直訳すると「妖精女」だそうな。アイルランドの妖精といえば、私の大好きな映画「フィオナの海」があるけど、あれはアザラシが妖精の化身とされていた。「フィオナ~」はまさに妖精譚でちょっとファンタジーな話だったので、本作とはゼンゼン違う。DVD化されていないのがなぁ、、、ホントに悲しい。

 また、アイルランドで妖精といえば、リャナンシー(パンフにも言及があって感激!)。リャナンシーはまさに音楽の妖精で、コルムが指の無くなった左手を振り回しているシーンを見て、リャナンシーのことが頭をよぎっていた、、、。みんシネにリャナンシーというHNのレビュワーさんがいて、ファンだったんだけど、もう10年以上書き込みがなくて寂しいなぁ。お元気かしら。

 

 

 

 

 

 


ロバのジェニーが可愛かったけど、、、

 

 

 

 

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イニシエーション・ラブ(2015年)

2022-06-23 | 【い】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv57021/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 1980年代後半の静岡。就職活動中の大学生の鈴木は友人に誘われて行った合コンで歯科助手のマユと出会い、恋に落ちる。

 時は過ぎ、就職した鈴木は東京の本社へ転勤することになり、マユを静岡に残して上京する。マユに会うために週末ごとに東京と静岡を行き来する鈴木だったが、会社の同僚の美弥子との出会いで心が揺れ動く。

=====ここまで。

 乾くるみの同名小説の映画化。

 
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 某全国紙で、書評家・斎藤美奈子氏が連載している「旅する文学」の静岡編で、原作本が紹介されており、そこで「ありがちな恋愛の顛末。/と見せかけて、この小説、じつは最後の2行で大逆転劇が起こるのだ。巧妙なしかけで読者を驚愕させた、平成のベストセラーである」などと書いてあって、著者名も小説のタイトルも初耳だったので、どらどら、、、と思い、図書館で借りて読んでみました。

 読んだのは上記記事を読んでしばらく経っていたので、「最後の2行で大逆転劇」ってのはすっかり忘れていて、何で借りたのか記憶もあやふやなまま読み始め、、、“ナニコレ、、、陳腐すぎじゃない?? これがベストセラーだったのか?”などとかったるく読んでいたのだけれど、中盤以降、所々でちょいちょい引っ掛かる文章もありながら、何となく読み進めて“なーんだ、ホントにただの青春小説やん”と最終頁まで来たのでした。

 そうして、ラストまで読み終わって、????は? となり、前に戻ってあちこち読み直す……というハメになりました。本当に「最後の2行で大逆転劇」だったのです。ちょいちょい引っ掛かった理由が理解できました。

 けれども、そのオチは“文章だから”できたことであり、それを映像化したというので、一体どうやって、、、?という興味だけでDVDを借りて見てみることに。

 で、本作の感想をあれこれ書こうと思うと、どうしたって原作の肝である“オチ”を書かざるを得ないのだけれど、ここでそれを書いてしまうのは、やはりちょっとルール違反な気がします、、、。ので、原作既読の方には分かるように、ネタバレしない程度に感想を書くことにします。


◆なかなか巧妙なシナリオ

 映像化するのに一番ネックだと思っていた部分を、どうやってクリアしたのだろう、、、と思って見ていたら、なるほど~、と感心。キーワードは“ダイエット”。これで、中盤から松田翔太が登場しても、原作を知らない人は違和感なく見られるのだなぁ、と。まあ、フツーに考えたらかなり無理があるのだが、、、。

 全般に、比較的原作に忠実にシナリオは書かれており、上記のネックが上手くクリアされていたので、原作を知らない人は、原作を読んだ者が味わった驚きを映画でも味わえたに違いない。途中で察しがつく人は、かなり察しの良い人だろう。それくらい、映像化は巧妙になされていると感じた次第。

 が。

 せっかく巧みに展開してきたのに、肝心のオチで観客を、え~~~っ!!と言わせてエンドマークにすれば良いものを、本作は、ご丁寧にその後、解説映像を流すのである。これは、興ざめ、蛇足の極みだと思うなぁ。

 原作は、最後の2行でバッサリ終わっており、え、、、どういうこと?どういうこと???となるのが良いのであって、それは映画にしても同じでしょう。どういうこと?と見た者に考えさせるように終える方が良かったと思うわ。そうすれば2回見る人も少なからずいたはずで、興行的にも儲かったかもしれないのに。商売下手やね。

 そのオチにもっていく展開は、原作とはかなり違っていて、やはり映像化に多少ムリがあったかな、と感じさせてしまっているのは残念(原作未読の人にはゼンゼン問題ないと思うが)。鈴木が、美弥子を振り切ってまで、マユのところに戻って来る、、、ってのは、松田演ずる鈴木のキャラから言って、ちょっと違和感あるよねぇ。原作では、美弥子と結婚しちゃう感じだったような(もう忘れかけているという、、、情けなや)。

 いやまあ、でも、あの原作を、よくぞここまで映像化したものだと、それは掛け値なしに感心致しました。


◆その他もろもろ

 正直なところ、原作のマユと前田敦子は、私の中では、あまりにもイメージが違い過ぎて、原作のオチが云々よりも、そっちの方が気になった。ただ、原作未読であれば、これも何ら問題はないことではある。

 原作のマユは、そもそもショートカットで色白の、前田さんとは見た目的にもゼンゼン違う。キャラも、前田さんはかなり天然に演じてはいたが、マユは天然そうでシタタカなので、前田さんのマユには、そのシタタカさがちょっと感じられなかった。もっと言っちゃうと、前田マユは、ただの緩い子に見えてしまうというか。

 その違いが、ラストのマユのリアクションに違和感を覚える結果となったと思う。まあ、松田演ずる鈴木のキャラ自体がちょっとズレてしまっているので、前田マユがああでも仕方がないというか、映画は映画だからね、、、という感じではあるのだが(原作も映画も知らない方には何のことやら、だと思いますがスミマセン)。

 まあ、原作とどう違う、、、と書き立ててもあまり意味がないので、これくらいでやめておきますが、原作既読の方でも、それなりに(オチを知っているからこそ)楽しめる作りにはなっていると思うので、気が向いたら見ても良いかも。

 ちなみに、原作小説は、本当に“オチ”だけがウリだと思うが、読者を騙しきって最後の2行まで読ませるその筆力と手管は素晴らしいと思います。著者の他の作品を読んでいないので、こんな感想でスミマセン。

 

 

 

 

 

 

 

 

静岡ローカル色強し。

 

 

 

 

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1秒先の彼女(2020年)

2022-04-01 | 【い】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv72553/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 郵便局で働くシャオチーは、仕事も恋もパッとしないアラサー女子。何をするにもワンテンポ早い彼女は、写真撮影では必ず目を瞑ってしまい、映画を見て笑うタイミングも人より早い。

 そんな彼女がある日、思いを寄せるハンサムなダンス講師から、バレンタインのデートに誘われる。

 念願叶ったシャオチーだったが、目が覚めるとなぜかバレンタインの翌日に。約束の1日が消えてしまった……!? 秘密の鍵を握るのは、毎日郵便局に来ていた常にワンテンポ遅いバス運転手のグアタイらしい。

 消えた“1日”を探すシャオチーが、その先に見つけたものとは……。

=====ここまで。

 
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 アカデミー賞、邦画の受賞ニュースも、現地じゃウィルのビンタ騒動で吹っ飛んでしまった様ですね。私はその瞬間の映像しか見ていないので、どの程度のジョーク(?)だったのか知りませんが、手を出した方が悪いになるのは当然でしょう。これでウィルが不問とされたら、鉄拳制裁が正当化されることになってしまう。そのジョークとやらを聞いていた人たちの反応はどーだったんですかね? 笑いが起きていたの? だとしたら、ジョーク自体よりそっちの方が罪が深い気がするわ。イジリって、ホント、悪質。一昔前の日本のバラエティ番組(最近のは見ていないので知らない)にはよくあったけど、ゼンゼン面白くなかったもんね。

 さて、、、。本作は、昨年の公開時に見に行きそびれ、ようやくDVDで見ました。

 ほぼ、事前情報はナシで、何となくビジュアル画像が可愛いな~、という程度で見たいと思ったのだけど、本作はアタリ!でした~。これから本作をご覧になるかも知れないという方々は、事前情報はない方が楽しめると思います。以下、ネタバレしておりますので、よろしくお願いいたします。


◆私のバレンタイン、どこいった……!?

 台湾では、バレンタインが夏、、、というか7月にあるらしい。七夕バレンタインだそうな。2月もやはりバレンタインらしいけれど、七夕バレンタインの方がメインイベントなのだそう。

 色恋に縁のない生活をしていたシャオチーにようやく“恋?”という相手・ウェンセンが現れる。七夕バレンタインを一緒に過ごそうと誘われ、ウキウキのシャオチーがかなり可愛い。

 このウェンセン、いかにも、、な怪しい軽そうな男。シャオチー、男見る目なさそう。デート中の話も「自分は身寄りがなくて、身寄りのない女の子の心臓移植費用を集めているんだけど足りないんだよ、どうしよう、、、」みたいなのだった。詐欺やろ、詐欺!! カネの話が出たら、逃げなさい、シャオチー! しかし、お人よしなシャオチーは、「じゃ、バレンタインの大会で優勝すれば賞金がもらえるよ!一緒に出よう!!」とかってなって、、、。はぁ??

 まあ、でも2人は盛り上がってラブラブっぽくなるので、それはそれでいっか、、、どうせこの後すぐに騙された!!ってなるんでしょ、、、とか思って見ていたら、想像の斜め上を行く展開に……。

 バレンタインの朝、シャオチーが目覚めると、、、、それはバレンタインの翌日の朝だった。。。。。は??なんじゃそら、、、ぽか~~ん。

 この、何でもワンテンポ早いシャオチーが1日を失い、何でもワンテンポ遅いグアタイは1日余分に得る、とかいう理屈は、理にかなっているのかどうか、私にはよー分からん。分からんが、まあ、一応そういう理屈があってのことなのね、ということで、とりあえず納得、良しとすることに(だって、そこで引っ掛かっていたら、置いてけぼりになってしまうんだもん)。

 このグアタイくん、ヤバい男と一途な男のボーダーくんだったのだ。


◆謎の1日を解明せよ。

 この謎の1日の間、シャオチーを含めてほとんどの人は時間が止まっている。時間が止まっている人たちは、動きも止まっている。だから、シャオチーも時間が止まった瞬間の姿のまま、固まっている、、、というわけだ。

 その、固まったシャオチーを、グアタイくん、バスで連れ回し、海辺で抱えてあれこれポーズさせて写真撮りまくり、最後は、シャオチーの自宅まで送り届けてベッドに横たえる、、、。これ、ヤバいでしょ。

 海辺で撮ったシャオチーの写真が現像されて、写真店のウィンドーに飾られているのを、シャオチー自身が見つけたことで、消えたバレンタインの謎が解明されていく、、、というわけ。

 詳細は敢えて書かないけど、実は、シャオチーとグアタイは、幼い頃に出会っていたのだった。私書箱を通じて、手紙のやり取りをしようと約束したのだけど、シャオチーはすぐに忘れてしまっていて、グアタイは律義に送り続けていた、、、。

 ……てなことが一つ一つ紐解かれていき、シャオチーもグアタイのことを思い出して、、、という具合に展開する。

 ラストは、ハッピーエンディングを予感させる終わり方。やはり、恋の話はこうでなくちゃね。

 謎解きのきっかけとして、シャオチーの部屋のクローゼットからオジサンみたいなヤモリが現れて、ある鍵を渡される、、、というエピソードがあるんだけど、これ、ピノキオのこおろぎを思い出してしまった。割と最近『ほんとうのピノッキオ』(2019)を見たからだけど。

 このエピソードに限らず、本作では、妄想だかリアルだかよく分かんないシーンが割とある。シャオチーのお父さんは10年前に失踪しているんだけど、時が止まっているときに、このお父さんは動いていて、グアタイと不思議な会話をする、、、とかね。

 でも、そういうエピソードも全部あちこちで繋がっていて、かなりよく練られたシナリオだと思う。しかも、これみよがしな謎ちりばめ系じゃなく、その辺の好感度も高し。

 ファンタジーというにはちょっとシビアな面もあるけど、シャオチーを演じたリー・ペイユーが可愛くて、見ていてほのぼのする。グアタイはちょっと変なので、好みが分かれるところだけど、ああいうのもアリだと思えれば、本作を楽しめるのでは。

 見て損はない、小粒で可愛いけどちょいピリリ映画です。
  

 

 

 

 

 

 

 


止まっているシーンの撮影はまんま実写で大変だったみたい、、、。

 

 

 

 

 

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生きていた男(1958年)

2021-08-17 | 【い】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv705/

 

以下、スターチャンネルHPよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 大富豪の父親の遺産を相続したキンバリー(キム)・プレスコット(アン・バクスター)はスペインのバルセロナにある広大な屋敷で優雅に暮らしていた。

 ある晩、見知らぬ男(リチャード・トッド)が彼女を訪ねて屋敷にやって来る。男はキンバリーの兄だと言い張るが、彼女の兄は1年前に死んでいた。拒絶しても屋敷に居座ろうとする男に困惑したキンバリーは警察署長パルガス(ハーバート・ロム)を呼ぶが、男は警察署長を前に次々と自分が彼女の兄だという証拠を見せる。

 次第に周りの者も男の言っていることを信じ始め…。

=====ここまで。

 「製作から半世紀を経た今もミステリーファンの間で高い評価を受ける幻の作品」だそうです。


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 大昔にリストに入れておいたらしいDVDが今頃送られてきました~。「え?ナニこれ??」状態で見始めたのですが、90分弱という短さもあって、面白く見ることが出来ました。

 見終わってから知ったのだけど、本作は、知る人ぞ知るサスペンスの秀作らしいです。

 たしかに、冒頭から余計な描写は一切抜きで、いきなりサスペンス色全開。死んだはずの兄を名乗る男、手伝いの女、使用人の男、みんな怪しい。頼りの地元警察署長もキンバリーの訴えを聞き入れない、、、。ううむ、これはどういうこと??

 ……なのだが、残念ながら、ものすごく鈍い私なんだけれども、これは中盤でオチが見えてしまいまして、、、。正確に言うと、オチが見えたというよりは「つまりその男は○○以外に考えられんでしょ~」ということになってしまうのだよなぁ。

 本作は、エンドマークの後でプロデューサー(監督かと思ったら違うみたい)と思しき男性が出てきて「結末は誰にも言わないでください」とわざわざ言うのよね。古い映画って、『悪い種子』(1957)もそうだったけど、こういう最後の最後にスタッフとかキャストが素で出てきて何か言う、、、みたいのがよくあるのかしらん? まあ、とにかく、わざわざそこまで固く口止めされているから、結末は書かないけど、どうして、それ以外に考えられん、となるかというと……

 例えば、邸内の兄の写真が全て見知らぬ男のものと変えられていたり、兄の腕にあった刺青がちゃんとあったり、兄の作るカクテルを知っていたり、、、ここまで兄の個人情報を知り尽くしている人と言えば、、、、そりゃ、あの人でしょ、ってならない?

 ただ、そうなっても、本作はラストまでちゃんと緊張感を持続させてみることが出来たのでした。一応、ドキドキ・ハラハラする要素はあります。ダイヤの行方とか、指紋を取れるかとか、、、。

 オチが分かる=サスペンスとしてダメ、とは私は思わないクチで、むしろ、どう面白くそのオチまで見せてくれるか、という方がポイントだと思う。キーマンは、警察署長のパルガスですね。彼が兄を名乗る男の言いなりになっているようであったり、キムの味方であるように見えたり、、、となかなか上手に狂言回しに使っています。最後まで彼の動きが効いている。

 ヒロインのアン・バクスターは美しい。モノクロのハリウッドスター。兄を名乗る怪しい男を演じているのはリチャード・トッド。ときどきユアン・マクレガーに似ている??と思ったけど、こちらの方がキリッとしているかな。パルガスのハーバート・ロムは、『ドリアン・グレイ 美しき肖像』(1972)でヘンリー役だったと知ってビックリ。どこかで見たかも、、、?とは思ったけど、あの映画でのヘンリーだったとは。

 本作は、ヒッチ作品や、クルーゾー作品と比較されることも多いみたい。たしかに、小粒でピリリだとは思うけど、ちょっと食い足りないかな~。あ、でも、結末を知っていてももう一度見ても良いと思える秀作であることは間違いないです。


 

 

 

 

 


ヒロインの住んでいるお屋敷がステキ、、、。
  

 

 

 

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異端の鳥(2018年)

2020-11-18 | 【い】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv70516/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 東欧のどこか。

 ナチスのホロコーストを逃れて田舎に疎開した少年は、預かり先である一人暮らしの老婆と生活している。しかし、のちに老婆が病死したうえに火事で家が消失したことで、身寄りをなくした少年はたった一人で旅に出ることに。

 行く先々で周囲の人間たちの心ない仕打ちに遭いながらも、少年は生き延びようと必死にもがき続ける。
  
=====ここまで。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 チラシや予告編を見たときから、これは劇場で見たいと思っていた映画。作品自体に興味を引かれたのもあるけれど、ジュリアン・サンズが出ているのも理由の一つ。若い頃は美しかったし、独特の妖しさもあって好きだったんだけど、その後、割とパッとしないから、あんまし彼の出演作は見ていなかったのでした。でもまあ、本作ではそれなりに重要な役を演じているようだったので、久しぶりにスクリーンで見たいかも、、、と思ったのでした。

 で、見てみたら、あまりの衝撃に、ジュリアン・サンズがどーのこーのというのは一瞬、吹っ飛んでしまったのでした、、、ごーん。


◆モノクロの意義を知る。

 本作は、全編モノクロなんだが、モノクロである意義をこれほど納得させられる現代の映画も珍しい。『シンドラーのリスト』もモノクロだったが、あちらはどうも映像の向こう側から“あざとさ”が時々顔を覗かせる気がしたけれども、本作は、モノクロでしか撮れないだろ、、、と見ている者が思う説得力があった。

 まあ、一つには“残酷だから”ということもある。カラーだったら、もうシャレにならないようなシーンが多々あるが、それをいうなら、『シンドラー~』も同じだろう。それに、『戦場のピアニスト』は、残虐シーンが多くてもカラーで撮った名作だ。

 本作の原題は「ベインティッド・バード」=色を塗られた鳥、である。それはとりもなおさず、主人公の少年のことなんだが、この少年は、肌と髪の色が独特だから、という理由で、ユダヤ人と周囲から認定されてありとあらゆる迫害を受ける。しかし、モノクロだと、その色の違いが曖昧になる。本作がモノクロで撮られた最大の理由だろう。

 監督自身は、「これは、基本的な物語のラインを正確に補強するためのモノクロだ。カラーで撮影していたら、まったく説得力も、真実味もない、商業的作品に見えてしまい、大惨事になっていただろう」とインタビューで答えている。

 とにかく、冒頭からエンディングまで、目も心もスクリーンに釘付けで一瞬たりとも油断ならぬ恐るべき映画。もう、見終わってグッタリ。しばらく椅子から立ち上がれなかった。

 構成として、「○○の章」というミニタイトルが何度か出てくる。この○○に入るのが、少年と成り行き上、深く関わることになる大人たちの名前。まあ、ヒドい大人たちが多いんだが、少年を助けたり、助けようとしてくれたりする大人も一応いる。いるんだが、結果として、少年が心安らげることにはならないから辛い。

 ちなみにジュリアン・サンズは、ガルボスという少年性愛者の役だった。一見、優しい良さそうな大人に見えて、実はトンデモ、、、ってやつ。この章は「司祭とガルボスの章」というミニタイトルで、司祭はハーヴェイ・カイテル。この司祭は、本心から少年を救おうとするんだが、ガルボスの正体を見破れず(というか、薄々気が付いてはいる)に、却って少年を悲惨な目に遭わせることに。しかも、司祭は途中で死んでしまい、少年は逃げ場がなくなる。もう、見ていて絶望的な気持ちになる。

 ある日、偶然にもガルボスから逃れることが出来るんだけど、その顛末ももう、、、ゾッとするような展開。なんだけれど、少年が無事に助かって、一瞬だけホッとなる。

 それまでも、その後も、少年にはこれでもかと過酷な出来事が降りかかる。序盤ではまだ表情のあった少年だが、中盤から終盤にかけて、どんどん無表情になっていく。しまいには、少年自身が無表情なまま、怖ろしく残酷なことをしたりもする。

 一体これ、どうやって収拾付けるんだ、、、? と見ていて思っていたら、唐突に終わりが訪れる。

 終章は「ニコデムとヨスカの章」というミニタイトルなんだが、この2人の名前の大人が一体どういう人なのか、、、は、敢えて書かないけれど、ここで、少年がこのような放浪を続けなければならなくなった理由が分かる。

 断片的な展開に見えて、実は全てがつながっていた、、、という見事な構成に脱帽。分かりにくそうな雰囲気だが、無駄なシーンが一つもない、実に緻密に計算されたシナリオだと思う。いやぁ、、、こんな素晴らしいシナリオの映画は、なかなかお目にかかれないだろう。

 ラストは、ハッピーとまでは言わないが、一応、心落ち着くエンディングとなっている。


◆遠くない昔、あるところに、、、。

 本作は、東欧のどこか、という設定で、どの国かは特定されていない。なので、セリフは、「スラヴィック・エスペラント語」という人工語を使用している。パンフに沼野充義氏の解説が載っているが、いくつかのスラヴ語を知っている氏には、この人工語は「聞いただけでもかなりよく分かる」と書いてある。もちろん、私にはまったく分からないが、英語話者であるジュリアン・サンズやハーヴェイ・カイテルが不思議な言葉を喋っているのは、何となく違和感があった。

 原作も国は特定されていないとのこと。原作者のイェジー・コシンスキ自身は亡命ポーランド・ユダヤ人で、この原作本は長らくポーランドでは発禁本だったそうである。著者自身も故国ポーランドに帰れない時期が長かったらしい。本作を見た後、すぐに、私は原作本をネットで予約してしまった(重版中だったので)。

 また、本作はモノクロの映像が実に美しい。水墨画のような画ではなく、輪郭がどれもクッキリと鮮明な、とってもクリアな映像。残虐なシーンと美しい映像、映画好きにはたまらない。

 私が一番印象に残ったのは、まさに“ペインティッド・バード”が描かれているエピソードとシーン。文字通り、鳥の羽に色を付けて、それを空に放つのだが、同じ仲間の鳥たちに“異端”とみなされ空中で仲間の鳥たちから総攻撃を受けて突き回され、しまいには地面にボトリと落ちてくる。これは、もちろん、少年の比喩だが、その後に出てくる、村人たちにある理由で惨殺される女性の姿でもある。動物も人間も行動原理が同じなんである。

 ジュリアン・サンズ演ずる性的虐待者からようやく逃れた少年が出会った女性ラビーナとのエピソードもまた、強烈。この経験で、少年は完全に人間性を失ってしまったかに見えた。……が、その後に出会うバリー・ペッパー演ずるミートカという軍人に出会うことで、少年の心に変化が見える。

 とにかく、本作に通底しているのは「差別(異端排除)と暴力と性」である。どれも、人間の本質的な性質に係るものだ。社会的性質と本能。これらが、一番醜い形で表出する様を、少年は大人たちに見せつけられ続けるのだ。ラストで救われなければ、あまりにも悲惨すぎる話でやり切れない。

 バリー・ペッパーが実に渋くて良かった。ステラン・スカルスガルドは苦手なんだが、セリフがほとんどない役で、表情だけの演技だったんだけど、さすがに巧かった。

 まあ、とにかく、いろんな意味で凄い映画です。今年のベストかも。

 

 


 

 

 

 

 

エンドロールの音楽が良い(サントラ欲しい)。

 

 

 

 


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イタリア式離婚狂想曲(1962年)

2020-09-12 | 【い】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv13125/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです(途中まで。なお長いので一部編集しています)。

=====ここから。

 フェルディナンド・チェファル(マルチェロ・マストロヤンニ)はシチリアの没落貴族で、結婚生活十二年の彼は、口うるさい妻ロザリア(ダニエラ・ロッカ)との息の詰りそうな毎日にあきあきし、当時十七歳だった美しい従妹アンジェラ(ステファニア・サンドレッリ)に年甲斐もなく憧れを抱いていた。

 彼女も秘かに自分を愛していると知って固く愛を誓ったものの、二人の恋に希望はなかった。この国では離婚出来ない上、落ちぶれたとはいえ古い家柄の彼はやはり人々の注目の的だからだ。罪に問われずにロザリアを殺す方法はないものかと毎日彼は妻の死を思い描いた。

 そんな時彼は“刑法五八七条自己ノ配偶者、娘、姉、妹ガ不法ナル肉体関係ヲ結ブトキ、コレヲ発見シ激昂ノ上殺害セル者ハ、三年以上七年ノ刑ニ処ス”を見つけて躍り上った。妻が不貞を働けば名誉を守るためなら殺しても軽い刑ですむのだ。彼は妻の浮気の相手に彼女の初恋の画家カルメロ(レオポルド・トリエステ)を選び、邸の壁画修理に名を借りて二人を近づけた。

 とうとう二人は駈落し、フェルディナンドは妻を寝取られた男として街中の嘲笑をあび……

=====ここまで。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 9月になったというのに、連日の酷暑。どーなってんの? おまけに、このクソ暑いのにマスクしなきゃならないし。あ゛ーーーー、コロナもイヤだが、とにかく早く少しでも涼しくなって欲しい。秋ちゃんよ、どこにいるんだい?

 そんなわけで、この夏は、休日はほとんど外出せずに巣穴に引き籠もり。まぁ、それ自体は全く苦にならないんですが、いかんせん動かないから身体が重い、、、。確実に太っている気がするけれど、我が巣穴には体重計がないので正確な体重は年一の検診でしか分からない。分からないが、大体分かる。……マズいなぁ。でも、今日も三越のジョアンで、あんドーナツ(あんドーナツをあれこれ食べ比べたが、ここのが一番美味しいと思う)とかクロワッサンザマンドとか、高カロリーパンを4つも買ってきてしまった。ウチの人は食べないから、この週末でこれ全部私が消費するんだろうなぁ、、、。大丈夫か、私、、、??

 さて、本作もリストに入れた経緯は忘れたけれど、送られてきたので見てみたら、、、意外に面白かった!!


◆濃い女房

 当時のシチリアでは、妻が浮気したら、その妻を殺しても刑が減軽されるなんてことになっていたのか、、、?  しかも「娘、姉、妹ガ」って、息子や兄弟はええんか?っていう、今のインドやパキスタン等で行われている“名誉殺人”と発想が同じ。

 で、これを悪用し、自らの欲望を全うさせようとするフェルディナンド。正直、これだけにフォーカスすると笑えないんだが、まあ、その辺はさすがにイタリア映画。かなりひねりが効いていて、ブラックコメディに仕上がっている。

 とにかく、フェルディナンドの、妻に不倫を仕向けたり、その証拠を確実に得ようとしたりという涙ぐましい努力が、乾いた笑いを誘う。こんな卑劣でちっちゃくてセコい男を、実にコミカルに演じるマストロヤンニの巧さが際立つ。顔の造作はイイのにすっとぼけたような、どこか間抜けな表情とか、ホントに巧い。

 さらに、強烈なのが、妻ロザリアを演じているダニエラ・ロッカ。この妻、設定上は、不美人で暑苦しい女、ということなんだが、確かに個性的な顔立ちだけど、不美人ではないし、単純な罪のない人である。ダニエラさんの眉が濃くてつながっている上、口元にはうっすら髭まで生えているという、“濃い”顔なのが、実にロザリアのキャラにピッタリ。

 このダニエラさん、すごく個人的な話で恐縮だが、学生時代のサークルの後輩(仮にD子とします)にソックリで、どうにも可笑しかった。何となくキャラも似ていて、私はD子がちょっと苦手だったんだが、同級生の男の子がこのD子に一目惚れしていた。サークルの勧誘に新入生D子がやって来たんだが、そのときD子を見た彼はフリーズし「すっげぇタイプ、、、」とボソリと呟いていた。私は、へぇー……? としか思わなかったが、その後、D子はサークルに入ってきて彼と付き合い、卒業後数年してお二人結婚なさった。

 ……いや、そんなことはどーでも良いんだが、とにかくD子のキャラはキョーレツで、サークル内でも何かと話題を提供してくれていた。そのほとんどは、彼女の独特の喋り方や、立ち居振る舞いに拠るもので、その雰囲気がこのダニエラさん演ずるロザリアにメチャクチャ被るのだ。もう、途中から、ロザリアがD子にしか見えなくなってしまって、終盤、フェルディナンドに射殺される辺りでは、見ていて困ってしまった、、、。

 ちなみに、D子と彼は、今じゃ4人の子の親である。ロザリアとフェルディナンドとは大違い。


◆離婚できないなんて地獄。

 世の殿方の大半は「あんな妻なら、殺したくもなるわ」ってなところじゃないですかね。でも、フェルディナンドは、当初の目的を達成し、無事にアンジェラと再婚を果たすんだけれど、それが波乱含みであることを予感させて、本作は終わる。このエンディングがイイ。

 そうなのだ。この妻がダメなんじゃなく、要はフェルディナンド自身がダメなんである。……そんなことは、本作を見ていればよぉぉく分かることだが、そうすると、殺されたロザリアはただただ気の毒でしかない。フェルディナンドに徹頭徹尾ハメられただけなんだからね。

 ……してみると、離婚できないという掟自体が、罪なのだよね。やはり、離婚は、できなきゃ困る。フェルディナンドも、離婚ができる社会なら、慰謝料がっぽり取られるくらいで、殺しなんかせずに済んだ。ロザリアも死なずに済んだ。

 今の日本でだって、離婚が法的に禁じられていたら、こういう事件が頻発するのでは。人生を豊かに暮らすには、合わない人間とはなるべく距離を保つことが必須だ。ウマが合う者同士だって、ストレスが全くない関係でいるのは不可能に近いのに、合わない者同士が一緒にいたら、人生真っ暗である。

 恐らく、遠くない未来、結婚制度そのものが破綻しているだろうと、私は思っている。そうすれば、本作のような設定自体が無意味になる。

 あと、フェルディナンドの父親もセクハラ爺で、お手伝いのお姉ちゃんのお尻や胸を堂々と触るのである。しかも妻がいる前で。妻も「もうしょーがない爺さんねぇ~」みたいな感じで咎めないし。この家のだめんずは血筋かもね。

 イタリア映画を見ているとよく感じるが、イタリア人ってあんなに騒がしいものなんだろうか。皆、ものすごくおしゃべりで、しかも声が大きい。人の話聞いていない。自分の言いたいことを、口角泡を飛ばして喋りまくる。、、、コロナが蔓延するのも道理かも。

 まぁ、あまり色々考えずに見て楽しめる映画だと思います。私は、何度か睡魔に襲われて、その度に巻き戻てしまったけれど、、、。  

 

 

 

 

 


フェルディナンドのその後はいかに、、、。

 

 

 


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イーダ(2013年)

2017-06-29 | 【い】




以下、Movie Walkerよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 1960年代初頭のポーランド。孤児として修道院で育てられた少女アンナ(アガタ・チュシェブホフスカ)は、ある日院長から叔母の存在を知らされる。興味を持ったアンナは、一度も面会に来たことのない叔母のヴァンダ(アガタ・クレシャ)を訪ねるが、そこで彼女の口から出た言葉に衝撃を受ける。

 「あなたの名前は、イーダ・レベンシュタイン。ユダヤ人よ」

 突然知らされた自身の過去。私は何故、両親に捨てられたのか?イーダは自らの出生の秘密を知るため、ヴァンダとともに旅に出る……。
 
=====ここまで。

 修道院の院長が、叔母に会いに行け、と言ったのは、アンナが修道誓願式を控えていたから。式を終えれば、もう引き返せない。だから、今のうちに、、、。

   
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 本作は、公開時に見に行きたかったのに、行きそびれてしまった作品。TSUTAYA DISCAS にはレンタルがないので、DVDを購入した次第。これは買って正解だったかも。

 イーダ=アンナ、なんだけれども、便宜上、ヴァンダに本当の名前を聞くまでをアンナ、その後をイーダとして書き分けます。


◆叔母ヴァンダ

 叔母のヴァンダは、どう見てもワケアリ。

 アンナが訪ねて行ったところの登場シーンが、はだけたガウン姿で、部屋の奥にはベッドに男が、、、。しかも、アンナに向かって「院長に何も聞いてないの? 私の仕事のこと」などと言うので、てっきり娼婦かと思ってしまった。

 が、実は、ヴァンダは判事。以前は検事でもあった。堅い職業の女性が、男をとっかえひっかえ自宅に引っ張り込んでいる……。まあ、判事だからって別に性生活がどうだろうが構わないという気もするが、若干の違和感は覚える。しかし、ヴァンダがこんな生活をしている理由はすぐに分かる。

 この時代のポーランドで、検事を務めていた、ということは、当然、共産主義に基づいて、罪なき人を罪人にした過去もあるはず。実際に、中盤、イーダに「前は検察官だった。大きな裁判で、死刑に導いたこともある。50年代初頭、赤いヴァンダよ」と言っている。また、判事に転向した現在の法廷でのヴァンダの姿を描くシーンもあるが、どこか虚ろな表情で、ぼんやりと検事の言葉を聞いている感じ。法廷の壁には(多分)レーニンの肖像画が掛かっている。自分のこれまでの仕事に虚しさを感じているのか。

 そして、次第に明かされるイーダの出生にまつわる事実とヴァンダの過去。

 アンナと顔を合わせた直後、ヴァンダは、アンナに「なぜ(私を)引き取らなかったの?」と聞かれ、こう答えている。「お互いにとって、幸せでないからよ」、、、そうして、アンナにその出生を伝えると、一旦は、イーダを追い返すのだけれども、駅の待合室にいるイーダを見つけて連れ戻す。この辺の描写も、ヴァンダの複雑な心情を表わしているかのよう。

 自宅に戻ると、実母の写真をイーダに見せ、そこには、幼いイーダと男の子が写っていたのか(映像には出ない)、イーダは「私には兄がいたの?」と聞くが、ヴァンダは「一人っ子よ」と言うのみで、その男の子については何も語らない。

 イーダが、両親の墓があるピャスキに墓参りをしたいと言うと、ヴァンダは「ユダヤ人の遺体はどれも行方知れず、森の中か湖の底かもね」と、にべもないのだが、イーダが現地で確かめたいとさらに粘ると、ヴァンダはこんなことを言う。

 「神など存在しないと知ることになっても?」

 一体、イーダの生まれ故郷に、何があるというのか、、、。敬虔なカトリックの修道女になろうともあろうイーダが、神を否定したくなる様な事実があるのか?? と、観客の興味を見事に引きつけ、ヴァンダの憂いの漂う佇まいがナビゲートしてくれる。


◆ポーランド人によるユダヤ人虐殺

 戦後の(戦中もだったらしいが)ポーランドでは、ポーランド人によるユダヤ人殺しも頻発していたらしい。最近、ポーランド関連の本を読んでいるのだけれども、ポーランドにはヨーロッパでもユダヤ人が特に多く住んでいたことから、ユダヤ人社会も発達していたが、同時に、ユダヤ人を嫌うポーランド人も多く、ユダヤ人差別はかなり強いものがあったらしい。

 そういう背景にあって、ユダヤ人であるイーダや母親たちは、とある寒村の農家に助けを求めて逃げ込んだようだ。農家の父子は、近くの森にユダヤ人家族を匿い、食料を運んだりして一時的には助けたらしいが、ユダヤ人を匿っていることが発覚するのを恐れたのか、最終的には殺してしまったのだった。

 十数年ぶりに、イーダと再会することとなった農家の父子だが、父は既に死の床にあり、息子は「これ以上関わらないでくれ、埋めた場所を教えるから」と言って、ヴァンダとイーダを森の中へと誘う。

 森の一角を掘り起こし出てくる人骨、、、。

 イーダは、「私はなぜ助かったの?」と聞く。息子が答えるには「幼かった。ユダヤ人と気付かれない。でも、少年の方は肌が褐色で、割礼していた、、、」

 ヴァンダはどうやら、自分の息子を、イーダの母親夫婦に預けて、“闘いに行っていた”らしい。ヴァンダ自身「何のために……、息子のこと何も知らない……」と悔恨の涙をイーダの胸で流している。ヴァンダは、恐らくパルチザンであったことが、ここからも知れる。


◆どうしてイーダは修道院に戻ったのか

 イーダの出生と、ヴァンダの息子の最期が明らかになり、果たして、イーダは「神など存在しない」と知ったのか。

 一旦、修道院にもどり、修道誓願式に臨もうとするイーダだが、思いとどまる。その直後に、ヴァンダは自室の窓から投身自殺。ただ一人の姪として呼ばれたのか、ヴァンダ亡き後のヴァンダの部屋にたたずむイーダは、修道服を脱ぎ、ヴァンダのドレスをまとい、髪も下ろす。

 その後、ヴァンダとの旅の道中でヒッチハイクした青年と再会して、イーダは修道女としての禁を軽々と犯すのだが、これらの一連のイーダの行動は、神に対するささやかな反逆なのかも知れないし、青年に対する純粋な愛情だったのかも知れない。

 ただ、これまでの展開を考えると、神の存在との関係を暗示していると見ても間違いじゃないと思う。

 私がイーダでも、同じことをするなぁ、、、と思ったし、その後、イーダは修道院に戻るが、私だったら「結婚しよう」と言ってくれている青年と駆け落ちするかも知れない。それくらい、今回の出来事は、自分の人生を根底から覆すものだったのではないか。

 イーダがどうしてラストシーンで修道院に戻ったのか、、、。まあ、いろいろ解釈はあるだろうが、私は、単純に、他に行き場所がないというところに考えが行き着いたからだと思う。いくら青年を好きでも、染みついた修道院での習慣や信仰心はそうそう簡単に拭い去れるものではないし、信仰を捨てる畏れもあったのか、と思う。

 でも、禁を犯した身体で、神を冒涜し続ける道を選んだ、という見方もできるかも。こっちの方が、私的には好みだが、、、。
 

◆その他もろもろ

 モノクロの本作は、全編にわたって、“静謐”という言葉が感じられる。途中、ジャズが流れるシーンや、一瞬の衝撃的なシーンもあるけれども、でもそれらも全て、静謐さの中にある感じだ。

 院長に言われるがまま、叔母に会いに行くアンナ。雪が降りしきる中、雪道を歩いて行くシーンは、それこそ、シ~ンという音が聞こえてきそうなくらいに静謐。アンナの心情を表わしているのか、一連の旅を終えて、ヴァンダに送られて戻ってきたときには、雪は降っておらず、地面の雪も溶けてなくなっていた。

 とにもかくにも、ヴァンダを演じたアガタ・クレシャが出色。彼女の方が、実質的な主役と言って良いかも。壮絶な過去を持って、それが故に、今を虚無の中に生きざるを得ず、そんな人生をどこか達観して眺めつつも、苦しみ悶えていた複雑な中年女性の役を見事に演じている。素晴らしい。

 アンナ=イーダを演じたアガタ・チュシェブホフスカも、楚々とした女性を好演。この後、女優を続けることはないと語っているらしい。もったいないような気もする。

 そして、音楽。モーツァルト、ジャズ、インターナショナル、バッハ、、、と、押しつけがましさのない選曲。ジャズには詳しくないけれど、コルトレーンの演奏シーンなど、見入って(聞き入って?)しまう。監督が、チャック・コリアやキース・ジャレットに影響を受け、一時期ジャズ・ピアニストとして活動していたというから、この選曲も納得。

 また、画面構成がものすごく特徴的。技術的なことはゼンゼン分からないが、スタンダードサイズの、下の方に人物を配置することが多い。しかも、割と顔だけを映しているシーンが多く、画面の上部4分の3は空だったり壁だったり、、、。この空間と人物の顔の配置のバランスが、絶妙な違和感と調和を成しており、不思議な感じを受ける。

 地味で寡黙な作品だが、一見の価値はあると思う。


 





チェンクイエ=ありがとう。ドヴィゼニア=さようなら。
この2語だけ聞き取れるようになったポーランド語。




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イレブン・ミニッツ(2015年)

2017-06-10 | 【い】




 ポーランド・ワルシャワでの、ある日の午後5時からの11分間に起きた出来事を、時系列で多焦点から描き、最後の最後でそれらが1つの焦点で結ばれる。

 多焦点の主たちは……映画監督、女優、女優の夫、屋台のホットドッグ屋、その息子でバイクの宅配人、救急士、医師、、、他にもいたかも。ラストでパズルが完成します。
 

   
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 公開時、気にはなっていたものの、結局、見に行かずに終映。……まあ、見に行かなくて正解だった。


◆そんなこと今さら映画で見せてもらわなくても、、、。

 これは、私の嫌いな、観客を欺くことに血道を上げたセコい作品ではないけれど、こういうのも、あんまし得意じゃない……。ぶっちゃけ、「……だから何なのさ」と言いたくなるというか。

 『バンテージ・ポイント』は似て非なるものだけど、ラストの展開へ向けて、多方面からアプローチするという点では同じ。『バンテージ・ポイント』は、暗殺事件の裏側を“関係者”に的を絞って多角的にあぶり出そうとした作品で、記事にも書いたけれど、「三角だと思っていたものが、別の角度から見たら丸かった・・・」という狙いで描かれた映画だった。一方、本作は、まるで関係のない登場人物たちが、最後に“たまたま”ある同じ事件に遭遇することになった、というわけなので、別に、物事の多面性を描きたくてこういうシナリオを書いたのではないと思われる。

 恐らく、単純に言ってしまえば、「人間万事 塞翁が馬」とか「一寸先は闇」とか、そんなことを描きたかったんじゃないか。

 だから、正直なところ、“今さら感”が激しく、そんなことこんな手の込んだ作りにして見せてくれなくたって、骨身に沁みてますよ、と白けちゃう。311を経験した日本人は、みんなそうじゃないですかね。311に限らず、世界中どこでも、理不尽なテロや、事故、事件、、、あまたある不可抗力とか不条理によって、人生が激変した経験を持つ人たちにとって、こんな映画は、むしろ安っぽくしか見えないのではないかと思う。

 人生は一瞬で激変するその儚さ、、、なんて、言われんでも分かっとるわ!! ってこと。

 ホントに、スコリモフスキはそんなアタリマエ過ぎることを描きたかったんだろうか、と見終わってから2週間ほど悩んだけれど、まあ、やっぱりそうとしか思えない。

 そして、作品の公式HPにトドメを刺されちゃったよ。

人々のありふれた日常が11分後に突如変貌してしまうという奇妙な物語を、テロや天災に見舞われる不条理な現代社会の比喩として描いたこの映画は、個人の生や死がサイバー・スペースやクラウドといった環境に取り込まれていく未来を予見していると言えるでしょう

だって。ホントにそうだったんだ、、、。

 ……ガックシ。


◆パズルが出来上がってもカタルシスなし。

 本作を見終わってしばらくイロイロ考えているうちに、大昔に読んだ、村上龍の「五分後の世界」を思い出した。コンセプトも、内容も、まるで違うけれども、思い出してしまった。

 別に、本作の様に、5分後にどうなるか、が書かれている小説ではないのだけれども、スリリングな恐怖と、不完全で混沌としながらも不思議な幸福感が同居している、妙な小説でした。それはもちろん、作者の狙いどおり、時空間の歪みに見事に連れ込まれた証拠なわけですが、著者が「五分後の世界」とタイトルをつけた理由が分かる気がしたのです。

 それは、きっと本作と根底は同じ、「一寸先は闇」で、歴史はちょっとしたことで激変する、というものだと思う。その不条理感や儚さってのは、やはり、それでも著者が“こういうところへゴールを持って行きたい”という意図があって、読者には分からない様な計算された人物の配置と描写があって初めて、切実感を持って読者に伝わってくるものだと思うわけ。

 しかし、本作の場合、スコリモフスキが設定したゴールは、ただの事故であり、それこそが現実そのものだとは言え、あまりにも映画としては淡泊過ぎる。「サイバー・スペースやクラウドといった環境に取り込まれていく未来を予見している」なんてのは、日本の配給会社の余計なお節介であって、映画だけを見れば、そんなことはまったく触れられても匂わされてもいないわけです。触れずとも、匂わせずとも、それを指し示していることは、秀逸な作品にはあるけれども、本作からは感じられなかった。少なくとも、そんな意図が監督にあったのだとしたら、本作は失敗と言ってよいと思う。

 ただパズルが出来上がる過程だけを見せられて、観客が心動かされるだろうか? パズルのピース一つ一つの持つ意味が、最後に全て明らかになるのでなければ、パズルを作る過程を延々見せる意味がないと思うのだけど、どうでしょう??

 ……そんなわけで、スコリモフスキといえども、イマイチでした。




 


あの映画監督、サイテー。




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陰獣(2008年)

2017-04-14 | 【い】



 フランス人の小説家・アレックス(ブノワ・マジメル)は、日本の推理小説作家・大江春泥に心酔している。次作のプロモーションのために日本の京都にやってきたのを機に、大江に会いたいとテレビ番組で公言するが、大江からは「フランスへ帰れ」などと番組にかかってきた電話で一蹴される。

 そんなアレックスは、出版社の社員に連れて行かれたお茶屋で、フランス語がペラペラの芸妓・玉緒(源利華)に出会う。後日、その玉緒から手紙で呼び出されたアレックスは、玉緒から深刻な相談を受ける。「大江春泥にストーカーされているの、、、助けて」

 ……江戸川乱歩の「陰獣」を、フランスが映画化。原作の寒川光一郎をアレックスというフランス人に置き換えた。


 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜



 乱歩原作モノの映画は、乱歩好きからすると、ちょっと見るのが怖い。大抵、「なんじゃ、そら、、、」的なものになっているから。そんな中では、邦画の『江戸川乱歩の陰獣』は割と良い出来だと思うのだけれど、本作は、これまた何故かフランスバーション。一体、どんなん? と思いながらも、ブノワが結構好きなので見てみたいなぁ、と思って、大昔にレンタルリストに入れておいたのが送られてきたので見てみた次第。
  

◆序盤がイロイロ恥ずかしい。

 覚悟して見始めたんだけど、冒頭、いきなり???な展開。いきなり、首がボトッと落ちて血がドバドバとか、、、。京都府警の刑事役で西村和彦登場。でも、彼も、首撥ねられて死んじゃう。……え、これのどこが陰獣??

 とか思っていたら、これは劇中劇だった。なーんだ。

 本題はここから。ブノワ扮するアレックスは、おフランスの大学で日本文学の講義中。そこで、この劇中劇を見せていたのであった、、、。こんなもんが日本の代表文芸映画とか思われたらイヤだなぁ、、、とか、どーでも良いことが頭をよぎる。

 で、アレックスは売れっ子作家らしく、分刻みのスケジュールで日本へと旅立つのね。日本へ向かう飛行機で、彼は「人間椅子」の夢を見る、、、。ううむ、なんかちょっとチープな感じだなぁ、、、とか思う。

 日本では、テレビに出て、日本文学というか、大江文学について持論を展開する。が、しかし、このテレビの番組が司会者とかコメンテーターみたいのとかが、あまりにも馬鹿丸出しな発言で、見ていてだんだん恥ずかしくなってくる、、、。ううっ、辛いなぁ、これ。

 ダメ押しは、踊りが随一と言われている芸妓・玉緒の登場。え゛、、、それ日舞? なんか、動きがヘンなんだけど、、、。お世辞にも美しいとは言いがたいその舞に、さらに辛くなってくる、、、。

 ただまあ、日本でロケをしているだけあって、中国とごっちゃになっているニッポンとかはさすがに出てこなかったし、何より、玉緒さんがアレックスに相談事をしてからは、結構、見られる作りになっていて、気分もかなり挽回してきた。ちょっとホッとなる、、、。

 でも、オチを知っているせいもあってか、なんというか、アレックスが可哀想だなぁ、とか思って見ちゃって、あんまし作品に入り込んでいけなかった。、、、ごーん。


◆こんなん出ました~~。

 まあ、正直なところ、作品自体について書きたくなるようなことはあまりなくて、ブノワが頑張ってくれているのが嬉しいなぁ、くらいだったかな。

 本作を見ながら頭にあったのは、何で、この原作を、フランス人が映画化したいと思ったのかなぁ、、、ってこと。

 最後まで見終わって、、、きっと、乱歩の原作を気に入って、日本という謎めいた土地で撮影してみたい、くらいの、割とイメージ的な動機だったんじゃないかな、と感じた次第。

 ストーリーは原作にかなり沿っているけど、映画として見れば表層的な作りだし、日本人の私から見ると、それほど新鮮味のある視点は感じられなかったから。

 何より、玉緒を演じた源利華さんの容姿を見て、やっぱりこれが日本の、、、というか、東洋の美女のイメージなのか、と。そして、アレックスはこの美女に騙され、ズタボロにされるんだけど、これが、多分、制作者の描きたかったイメージだったんじゃないかな、と感じたのである。

 結局、おフランス(ヨーロッパと言っちゃっても良いかも知れないが)から見た、極東の国・日本って、なんとなく掴み所のない、良くも悪くも神秘的なイメージなんだと思う。日本人から見たフランスだって、フランス人が見ればおかしいところだらけだろうし。どうしても、国に対する先入観はあるわけで。

 そういう、神秘的なイメージに触発されて作ってみたら、“こんなん出ました~~”ってのが、本作じゃないかしらん。


◆ブノワに日本語を習ってほしかったなぁ。

 しかし、ブノワは、どうして本作に出演する気になったんでしょうかね。この頃の彼は、まだ辛うじて美を保っているかな。お腹がちょっとヤバい感じだけど。彼は、日本文学に興味がある人なのかな。よく知らないんですけれど。

 ブノワというと、私はなんと言っても『ピアニスト』が強烈に印象にあるのですが、あの頃の彼は美しくてセクシーで可愛くて、しかもキレがあった。でも、昨年見た『太陽のめざめ』では、あまりにオッサンになっていて驚愕&ショックでもありました。でも、枯れたオッサンの美しさもあり、それはそれでステキだったんですけどね。

 ラストの方で、日本の刑務所に収監されているシーン、スポーツ刈りのブノワが「はい!」とか言って気をつけして立っているのが、あまりにもヘンで笑えました。あんなシーン必要? よく分からん。

 あと、玉緒が、フランス語ペラペラの芸妓、っていう設定がねぇ、、、。あまりにご都合主義で、ちょっと笑っちゃった。別にいいんですけどね。

 源利華さんは、日本人にしてはスレンダーで足も長く、和服の似合わない肢体でしたね。正直、あまりセクシーには見えませんでした、私には。でも、おフランスの方々から見ると、ああいう東洋女性がセクシーなんですかね? ま、松嶋菜々子とか菊地凛子とかよりは、よっぽど良いと思いますけど、、、。鈴木京香さんとか良かったのでは? 彼女は脱がないからダメか……。物語上、フランス語ペラペラである必要がないと思うけど、アレックスとあれだけやりとりするにはフランス語が必須だもんなぁ。アレックスが日本語ペラペラである方が、むしろ、物語的には自然じゃないか? ブノワが日本語しゃべるのは難しそうだけど。舞台は日本なんだから、やっぱ日本語ベースが自然でしょ。

 なーんて、野暮なツッコミでした。

 ま、邦画のあおい輝彦は、ちょっとお粗末だったので、ブノワが演じてくれただけでも良しとしましょう。香山美子さんに匹敵する女優が、今の日本にはいない、ってことですな、、、ごーん。

 





京都のシーンは金沢でのロケらしいです。




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五日物語 ―3つの王国と3人の女―(2015年)

2016-12-06 | 【い】



 副題のとおり、3つの王国に住む3人(正確には4人)の女性たちの欲望が巻き起こす物語。 上記リンク先のストーリーを抜粋でコピペしておきます。

====ここから。

 不妊に悩むロングトレリス国の女王(サルマ・ハエック)は“母となること”を追い求め、魔法使いの教え通り、国王(ジョン・C・ライリー)の命と引き換えに得た怪物の心臓を食べて美しい男の子を出産する。やがて成長した彼は、同じ怪物の心臓のもと生まれた下女の息子と兄弟のような友情に結ばれながら親離れの年頃となるが、女王はそれが不満でならなかった……。

 人目を避けて細々と暮らす老婆の姉妹。好色なストロングクリフ国の王(ヴァンサン・カッセル)にその美しい声を見初められた姉は、不思議な力で“若さと美貌”を取り戻し、妃の座に収まる。しかし、見捨てられた妹もまた若さと美貌を熱望していた……。

 まだ見ぬ“大人の世界への憧れ”を抱きながら王(トビー・ジョーンズ)と共に城で暮らすハイヒルズ国の王女は、城の外に出ることを切望していた。そんなある日、王は、屈強で醜いオーガ<鬼>を彼女の結婚相手に決める。華やかな城から連れ出され、鬼の住処で過酷な生活に耐えながら、王女はそこから逃げ出す機会を伺っていた……。

====ここまで。

 大人のおとぎ話、ダークファンタジー、などと謳っており、その宣伝文句にウソはありませんが、、、、。



☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 こういうの大好きなので、迷わず見に行きました。1日の映画の日、午前中に『戦場のピアニスト』、午後に本作。なかなかヘヴィなメニューだったかな。

 
◆ビジュアルで楽しめる
 
 ネット上で、“本年度最も底意地の悪いおとぎ話!女の性(サガ)を皮肉に描く”とか書かれているものだから、期待値は上がってしまうというもの。いわゆる“イヤミス”も“ファンタジー”も好きじゃないけど、こういうダークファンタジーは好きなんです。このジャンルは、世界観が大事だから、美術や衣装が凝っているケースが多く、視覚的に楽しいのですよね。演技がオーバーアクションなのも却って楽しめる。何でもアリな世界が面白いというか。

 本作も、ご多分に漏れず、やっぱり衣装も美術も映像もとっても美しいし、これはスクリーンで見る価値アリでしょう。CGももちろん使っているでしょうが、3つの国のお城はイタリアに実在するお城でロケしたとのことで、どれもこの世のものとは思えない造形美。ロケハンに苦労したのも頷けるというものです。

 3つのお城の中でも、特に私が心奪われたのは、ロッカスカレーニャ城。本作では、ストロングクリフ国の王の城という設定。ヴァンサン・カッセル演じるストロングクリフ国王が、もう、笑っちゃうくらいの好色狒々オヤジなんです。ロッカスカレーニャ城について調べてみたら、こんな記述に行きあたり、、、

 ~~11世紀~12世紀にかけ、敵からの攻撃を防御のために、断崖絶壁を持つ丘の頂上に建てられました。伝説では、16世紀コルボ家の伯爵は、村の結婚前の全ての女性に自分と一夜を過ごすことを命じていたとのこと。~~

 いやぁ、ストロングクリフ国王と見事に被っちゃってて、またまた笑える。

 でも、本当に、こんな断崖絶壁の上の城なんて、見ている分には美しいけど、中に入るのは怖いかも。だいたい、城まで崖を登るなんて、高所恐怖症の私には、考えただけでも卒倒しそう、、、。

 他の城、ドンナフガータ城(ロングトレリス国の女王の城)、デルモンテ城(ハイヒルズ国の王女の城)もステキでしたヨ。

 老婆の姉妹の姉が、美しい娘に生まれ変わる場所であるサーセットの森も、まあ、撮り方なんだろうけど、非常に幻想的な森に見えました。眩しいくらいの緑に、長~い赤毛の真っ白な素肌の美女がたたずむ画は、それはもう、絵画の様でありました。ストロングクリフ国王がその美女の姿に魅入られて妃に迎えるという展開になりますが、狒々オヤジでなくても、あの光景には魅入られてしまうのは無理もありません。


◆“底意地の悪いおとぎ話!女の性(サガ)を皮肉に描く”……?

 ストーリー的に、別に底意地が悪いとは思いませんでしたねぇ。

 冒頭に書いた「3つの王国に住む3人(正確には4人)」というのは、老婆姉妹が2人だからですが、4人の女性たちのエピソードは、確かに、それぞれ、“出産”“若さと美”“処女喪失願望”を表しており、まあ、女の性を描いているとは言えそうですが。

 ハイヒルズ国の王女以外の女性たちは、皆、バッドエンドですので、底意地が悪いって表現になったのかも知れませんねぇ。ハイヒルズ国の王女も、ラストこそ一応良い終わり方ですが、彼女の願望である“良い男と寝たい”はモノの見事に打ち砕かれるわけですから。

 でも、人生なんて、そんなもんじゃない? 思い通りにならないのが人生でしょう。

 最悪のラストを迎えたのは、恐らく、若返ってストロングクリフ国王の妃になった老婆姉妹の姉でしょうか。どう最悪かは、書くのはやめておきますが。確かに、この展開だけは、ちょっと意地が悪いかもね。ある意味、妃になった姉も悲劇だけど、一番のダメージは狒々オヤジであるストロングクリフ国王だろうね。正直、ちょっとザマミロ的な感じはあります。女を若さだけで品定めしているからそういうことになるんだよ、馬鹿め、って感じかな。

 私は、昔も今も出産願望が皆無の人間なので、サルマ・ハエック演じるロングトレリス国の女王様にはさっぱり共感できませんでした。おまけに、この女王様、息子を手なずけるのに必死で、子離れできない、母親としても最悪な人です。こういう人って、執着するものがないと生きて行けないのよね、きっと。自分に自信がないんだと思うけど、執着するものがあることで生きていることを実感できるのでしょう。本人も哀れだけど、一番気の毒なのは執着される人だわね。災難としか言いようがないけど、逃れるのが難しいから、人生を掛けて闘わないといけなくなるケースも多い。

 この女王様、最後は、執着の権化であるおぞましく醜いモンスターとなって息子に襲い掛かります。そして、当然、息子に殺される。残念でした、、、ごーん。殺されないと、殺さないと、こういうのは終わらないのよ。

 子どもに聞かせても問題ない童話となると、夢見る夢子なハイヒルズ国の王女のオハナシですかねぇ。あんな化け物と結婚させられて気の毒だけど、まあ、助けてくれた人たちを全員犠牲にしながらもどうにか脱出できたし、ちゃんとハイヒルズ国に戻って父王の後を継いだ、ってことで、自力で人生を切り開いた! ってとこでしょうか。このエピソードが一番どーでも良かったです、私には。

 ちなみに、本作は、オムニバスではありません。舞台はそれぞれ分かれていますが、地続きになっていて、一応、最後は1つにまとまる感じです。


◆嗚呼、ヴァンサン・カッセル、、、

 それにしても、ヴァンサン・カッセルです。なんなんでしょうか、あの地で演じているのかと思わせる狒々オヤジっぷりは。若い頃は、もうちょっとキレイで品があった気がするのですが、、、。いくら役の上とはいえ、卑しい顔つきになっていて、なんかちょっと哀しかったな~、昔を知っているオバサンとしては。ストロングクリフ国王が、メチャメチャ頭悪い人なんで、余計にそう見えたのかも知れませんが。そうであって欲しいなぁ。

 サルマ・ハエックは美しいですね。彼女の主演した『フリーダ』、未見なのです。フリーダ・カーロの絵は結構好きなので、映画も見たいなぁ、と思っているのですが、、、。化け物の心臓を口の回り血だらけにしてかっ喰らうシーンは、、、ゼンゼン気持ち悪くなかったです、残念ながら。かっ喰らい方がお上品過ぎです。

 本作の監督マッテオ・ガローネの他の映画、見たことないのですよねぇ。『ゴモラ』とか面白そうだけど、ちょっと敷居が高いというか。本作の世界観とかは好きですが、ストーリーに滲む監督の個性みたいなのは、あんましソソられないなぁ、、、。ま、食わず嫌いしていないで、見てみれば良いんですけどね。
 






原作を読んでみようかな、と思える程度には面白かったです。




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インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌(2013年)

2016-06-08 | 【い】



 1961年のNY、フォーク・シンガーのルーウィン(オスカー・アイザック)は、どんづまり。ライブハウスで歌うもののパッとせず、彼女(?)のジーン(キャリー・マリガン)には妊娠したと告げられ、何より“文無し&宿無し”で知り合いの家を泊まり歩く日々だった。レコード会社に印税を請求しに行っても無視を決め込まれそうになるが、どうにか40ドルをもぎとる。

 その日も、知り合いの大学教授の家に泊めてもらうが、翌朝、出掛けようとしたところ、教授の猫が玄関ドアからすり抜けてしまい、と同時にオートロックのドアは閉まってしまう。鍵を持たないルーウィンは、茶トラ猫を抱えて行動せざるを得なくなり、、、。

 究極のだめんずシンガー・ルーウィンが、自分の音楽と人生を見つめ直す旅に出て帰って来るまでのロードムービー。茶トラ猫のおかげで、幾分、悲哀がオブラートに包まれた味わい深い逸品。

 

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 ポスターに惹かれて公開中に劇場まで行こうと思いながらも行けずじまいになってしまった、、、。やっとこさDVDで見ました。


◆ルーウィンのぐたぐだな日々in NY

 どんよりとした灰色のNYの風景をバックに、根無し草のごとくフラフラと行き当たりばったり的に生きているように見えるルーウィン。カネ無し、宿無し、仕事無し、、、のないないづくし。

 背に腹は代えられないと、ルーウィンからすればおよそ受け狙いのダサイ歌のレコーディングに助っ人で駆り出されて応じることもある。ジーンには罵詈雑言を浴びせられ、姉にもロクデナシ呼ばわりされ、八方塞がり状態。

 とはいえ、シカゴへの旅に出るまでは、常に憂いをまとってはいるもののさほどの悲壮感はないように見える。


◆これでもか、これでもか、、、のシカゴ旅

 しかし、シカゴへの旅は、見ていてだんだんキツくなってくる。

 ほとんど喋らないでタバコばっかり吸って車を運転している男ジョニー(ギャレット・ヘドランド)と、後部座席に座る巨漢のジャズミュージシャンらしきローランド・ターナー(ジョン・グッドマン)は杖で助手席に座るルーウィンを小突いて人生論・音楽論をぶってくる。

 そしてこの巨漢との会話から、ルーウィンがかつての相棒を自殺で亡くしていたことが分かる。

 途中入ったトイレの壁の“What are you doing?”という落書き、シカゴで雪の塊に足がはまってびしょ濡れになる靴下、「金の臭いがしない」等と分かり切った評価をするプロデューサー、、、。これらはどれも、カネ無しよりも、宿無しよりも、仕事無しよりも、遙かに強力なボディブローとなってルーウィンを追い詰める。


◆再びのNY

 尾羽うち枯らしてルーウィンはNYに戻って来るが、もはや彼はフォークシンガーとして生きることを辞める決意をしていた。元の船乗りに戻ることを決めたのに、、、しかし、それすらままならない。

 もはや、進むことも退くこともできないルーウィン、、、。見ていて苦しくなってくる。


◆さまよえるミュージシャン

 人生には、“彷徨する時期”というものがあって、それがない人生などは実に味気ないものであり、彷徨い終わって一定の型 にはまることがまた良いことなのかどうかも分からなくなるときがある。多くの場合、彷徨う理由は、「どう生きたいのか」と「どう生きられるのか」という“理想と現実問題”に集約されると思われるが、大抵の人は、現実に理想を引き寄せる(=妥協する)ことで、どうにか折り合いをつける。

 だが、ルーウィンのように、意志によるものか否か関わりなく、現実に理想を持ち込む人(=夢追い人)もいる。どちらが苦しいか、惨めか、情けないか、などとは一概には言えない。

 本作でのルーウィンは、どこを切っても、どんづまりだけれども、作品全体には悲壮感はあまりない。灰色がかった画面と寒々しいNYやシカゴの光景は悲哀を感じさせるには十分だが、ルーウィンの歌う自作の歌とその声、そして何より茶トラ猫の存在が本作をじんわり味わい深いものにしているように思われる。


◆要所を締める茶トラ

 この茶トラ猫、終盤でその名前が「ユリシーズ」と判明する。しかし、本作ではもう一匹別の茶トラが登場している。ユリシーズももう一匹も、本作における茶トラは、ある意味、ルーウィンの理想(=フォークシンガーとして生きること)を象徴する存在のように思われる。

 序盤で、ルーウィンがユリシーズを抱えて公衆電話から教授に、ネコを連れていることを伝えようとするシーンが面白い。教授は授業中のため、受付の女性に言伝を頼むルーウィンだけど、そこで“Llewyn has the cat”と言うルーウィンに、受付の女性は“Llewyn is the cat”と復唱するわけ。笑っちゃいました。でも、これが後の展開でも効いていた。

 何といっても印象的なのは、シカゴへの道中、やむなくもう一匹の茶トラを置き去りにするシーン。茶トラと一瞬見つめ合う。そして、踏ん切りをつけるかのようにバタンと車のドア閉める。その一瞬の茶トラの表情に、何とも胸が締め付けられる思いがする。

 しかも、その茶トラ(と思われる猫)を、NYに戻る車を運転していて轢きそうになる。でも、NYに戻ってみると教授宅にはユリシーズが帰って来ていた。そして、ルーウィンは船乗りに戻れない、、、。


◆その他もろもろ

 猫映画というと、ロードムービーだと『ハリーとトント』が真っ先に思い浮かぶけれど、『ロング・グッドバイ』も印象深い作品。冒頭のマーロウとのやりとりだけで、心鷲掴みにされてしまう。犬も好きだけど、猫のあの気ままさ、人の思い通りにならなさは、本作ではまんまルーウィンのままならなさだったように思えて仕方がない。

 ユリシーズの名から、ホメロスの「オデュッセイア」云々については、語れるほどの知識もないので詳しいサイトへどうぞ。

 コーエン兄弟作品は、『オー・ブラザー!』『ノーカントリー』の2作し か見たことがなく、どちらもピンと来なかったので食わず嫌いだった感があるけれど、これから積極的に見て行こうかなと思った次第。






茶トラに最優秀助演賞!!




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