映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

抱擁(2002年)

2022-11-27 | 【ほ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv33191/


以下、TSUTAYAの作品紹介ページよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。
 
 19世紀の桂冠詩人ランドルフ・ヘンリー・アッシュ(ジェレミー・ノーサム)研究のためロンドンにやって来たアメリカ人ローランド(アーロン・エッカート)はこの日、大学の図書館で、アッシュの蔵書の中に古い手紙が挟まれているのを発見する。

 やがてローランドは、それは愛妻家で知られるアッシュが同じ詩人でレズビアンのクリスタベル・ラモット(ジェニファー・イーリー)に宛てたラブレターであると確信する。それが証明できれば文学史を書き換える大発見となる。

 そこで彼はラモットの研究家で大学教師の女性モード(グウィネス・パルトロウ)に協力を仰ぎ、この詩人たちの封印された熱き愛の真相に迫るべく本格的な調査を始めるのだったが…。

=====ここまで。

 
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 BBCドラマ「高慢と偏見」でエリザベスを演じていたジェニファー・イーリーがステキだったので、彼女の出ている映画を見てみようと思いDVDレンタルしました。ダサい邦題が残念だけど、掘り出し物の逸品でございました。

 ……「高慢と偏見」についての感想は後日改めて書きたいと思っております。


◆図書館の蔵書から、、、?

 とりあえずツッコミから。

 ローランドは大英博物館の付属施設と思しき研究室にアメリカからやって来て研究活動(?)しているようなんだが、上記あらすじにもあるように、図書館で“たまたま”研究対象であるアッシュの自筆手紙を見付ける。……のだけど、こういうことって文学の研究しているとあり得る話なんですか? 図書館の蔵書にそんな重大資料が人知れず挟まっているということが、、、??

 図書館がどんな図書館なのかにもよるだろうが、上記あらすじには“大学の”とあるけど、イマイチ映像からはその辺がよく分からんかった。そもそも図書館の蔵書って、所蔵時にいろいろ図書館員の人々が調べるんでないの? 大学図書館ならなおのこと、専門家がいるでしょ? しかも、アッシュという著名な詩人の蔵書ともなれば、隈なく調べるでしょう? てか、専門家なら調べずにはおれんでしょう??、、、というのは素人考えなんですかね? いっぱい資料があり過ぎると、とりあえず所蔵しちゃって、調べもせずに外国人の無名の研究者にも貸し出しできるようにしちゃうんですかね?

 序盤で描かれるこのシーンがかなり引っ掛かる。しかも、その手紙は蔵書からちょっとはみ出すように端がペロンと出ていたし。おまけに、ビックリなのは、ローランドくん、その手紙をくすねるのだ。超一級品資料を。……まぁ、これは映画だから構わんと言えば構わんけど、それ、窃盗ですから。と、一応ツッコミ。だいたい、それがアッシュの自筆の手紙かどうかなんて、なんでローランドみたいな一介の研究員がパッと見ただけで分かるのよ?

 フィクションというのは、細部にウソがあってはダメだと思うんだよね。大きなウソだからフィクションなんだけど、だからこそ、設定に関わる細部にウソがあると白ける。……といっても、私は文学研究のプロではないから、こういう描写がウソなのかどうかも分からないが。これが、プロにとっての“あるある”なら別にいいんだけど。だったら素人にもウソ臭く見えないようにもう少し丁寧な描写が欲しいかな。……それとも、ここに引っ掛かったのって私だけなのか??

 とまあ、大きく初っ端から躓いたのだけど、それでも掘り出し物だと見終わって思ったのは、“文学史を書き換える大発見”である100年前のアッシュとラモットのお話の方がなかなか見せるものになっていたからでございます。現在の、ローランドとモードの話は、ハッキリ言ってどーでも良いというか。もっと言っちゃうと、アッシュとラモットの話だけの映画にしてもゼンゼン良かったんでないの? と。十分見ごたえある時代物ロマンスになったと思うのに。

 しかも、現在編でアッシュとラモットの関係について、ものすごく簡単にいろんな資料が見つかって謎が解けていくんだよね。そんなにスルスル都合よく行くか??という、またまたツッコミ。

 だからさ、現在編、いらんやろ、、、と。挙句、モードはラモットの直系の子孫というオチまでつく。出来過ぎとか超えている。やり過ぎ。


◆その他もろもろ

 ……とまあ、文句は書きつくしたので、以下は良かったと感じた点を。

 ジェニファー・イーリー、知的な品と色気があって、こういう役には向いている。「高慢と偏見」のリジーとしては、ちょっと大人しいかな、、、という印象だったけど(もちろん良かったのだけど)、こちらのラモット役はまさにハマリ役だと感じた次第。知的だけでも、色気だけでも、こういう役はダメだもんね。

 アッシュを演じたジェレミー・ノーサムがステキだった。大人しくて従順な妻を大事に思ってはいるが、打てば響くラモットとの刺激を受けてしまっては、そらしょうがないでしょう、ああなっても。知的な会話が成立する異性というのは、当時は今より希少だったろうし、ましてやあのように美しくて色気もある女性なら、いくら堅物の詩人でも、恋に落ちるのは、まあ致し方あるまい。

 やはり、いつの時代も、恋愛は“その人と話していて楽しい”ことがかなり重要なファクターなのだ。時には知的な会話も必要だし、笑いのツボや間の取り方が同じことも大事。趣味や嗜好が違っていてもあまり問題ないけど、会話のセンスがかけ離れた相手との恋愛は、まあ成立しにくいわね、多分。

 1か月の不倫旅行で盛り上がった2人は、ラモットの恋人が自殺したことで完全に終わってしまう。この恋人は絵描きのようだが、女性の絵描きも100年前はなかなか厳しい状況だっただろう、、、。その上、恋人にも裏切られては、絶望するのも分かる気がする……けど、自殺はちょっとね、、、。

 だが、実は、アッシュとラモットの間には娘がいた、、、。そして、その娘を養子に出し、自分は叔母として、娘の成長を母と名乗れず見守ることで自分を罰しながら生きていくラモット。アッシュの死に際に、それを知らせる手紙を出すが、アッシュの妻はそれを本人に見せず、アッシュは事実を知らぬまま死んだのだった。

 ……と、ここからさらにもう一展開があって、それは敢えてここには書かないが、なかなかよい終わり方だと感じた次第。

 ローランドを演じるアーロン・エッカートはどこから見てもアメリカ人。イギリス人には絶対見えない。何でだろう、、、?

 お相手のモードを演ずるグウィネス・パルトロウは、どう見ても博士(ドクター)には見えないオシャレ過ぎる姉ちゃんで、なんだかなぁ、、、と思ったけど、私は彼女のことあんまし好きじゃないが、本作ではあまり嫌味な感じはなく、珍しくちょっとキレイに見えた。……あ、いや、まあ美人なんでしょうけどね。彼女のお母さんの若い頃は、ホントにキレイです。

 ローランドの部屋とか、モードの部屋とか、インテリアが実に素敵だった。

 現在と100年前とを時間が行き来する描写も工夫されていて自然で分かりやすく、演出はgoo。つくづく、現在編が蛇足に思える。

 

 

 

 

 

 

 

アッシュは架空の人物(桂冠詩人といえばDDLのお父さんですね)

 

 

 

 

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ボイリング・ポイント/沸騰(2021年)

2022-08-10 | 【ほ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv77104/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 一年で最も賑わうクリスマス前の金曜日、ロンドンの人気高級レストランのオーナーシェフのアンディは妻子と別居中で心身共に疲れ切っていた。

 運が悪いことに衛生管理検査で評価を下げられるなど、次々とトラブルが起こる。気を取り直して開店するも、予約過多でスタッフたちは一発触発の状態に。

 そんななか、ライバルシェフのアリステアが有名なグルメ評論家を連れて来店し、脅迫まがいの取引を持ちかけてくる。

=====ここまで。

 全編ワンショット撮影の90分映画。

 
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 毎日暑い暑いと言っても仕方がないのに言わずにいられない、この災害酷暑。おまけにコロナは世界一感染者多発しているとか。そらそーでしょ、こんだけ無策なんだから。外国で経済活動が戻ってきているってのは、日本よりお手軽にPCR検査をして、感染を常時高確率でチェックできていて、感染後の医療システムが構築されているからですよ。引き換えこちら3年経って7回も大波喰らってこの惨状。何回同じ失敗すりゃ学ぶんですか、、、っての。我が国の学術レベルは低下の一途だというし、もうお先真っ暗です。毎日絶望しています。長生き、、、したくないです。

 というわけで、気晴らしに映画でも見に行きましょうよ、、、と言いたいところだけど、こんな状況でとても劇場に行く気にはなれず、、、。本作も、ここまで感染が酷くなる前に見に行って、感想を書く気にもならずに放置しておりました。感想を書く気にならなかったのは、もちろん、絶望的な世情だけのせいではありません。映画自体がね、、、ってヤツです。

 この映画を見に行こうと思ったのは、Twitterで“面白い”という感想が流れて来たから。おまけにカットなしのワンショットというので、ちょっと好奇心をくすぐられたのでした。

 レストランが舞台の話は映画でもドラマでもイロイロありますが、本作はちょっと『ディナーラッシュ』っぽいかなぁ、とスチール画像からイメージしておりました。

 ちなみに、私がレストランもので一番好きなのは、ドラマ『王様のレストラン』ですね。VHSを全巻揃えたくらいです(DVD化されたけど買っていません、、、ごーん)。三谷幸喜脚本の映像作品は苦手なのがほとんどですが、『王様~』はもう文句なしの傑作です。あのドラマだけで、三谷氏は天才の名にふさわしい脚本家だと思っています。あとは、大河ドラマは見られます。『新選組!』は途中脱落したけど、『真田丸』は完走したし、今作『鎌倉殿の13人』は継続中で多分完走できるでしょう。

 余談はさておき、本作は、ハッキリ言って“ワンショット”のウリがなければ、ただの凡作です。ワンショットであっても凡作だと思いますけど、まあ、ワンショットは大変だと思うので、その労には一応敬意を表したいというか、、、。

 ストーリーは、レストランのバックヤードのゴタゴタと、お店のキラキラの対比を描きつつ、人間ドラマも、、、ということなんだろうけど、どれも手垢のついた陳腐なエピソードばかり。ナッツアレルギーの女性が客として来たら展開が予想できるけど、まんま展開するしね。いや、ストーリーが陳腐でも、描き方で面白い映画はいくらでもあるから、問題はソコじゃないのだ。ワンショットに神経使い過ぎたんじゃないのか?

 何といっても、レストラン映画で見せどころは料理なのに、その肝心の料理がゼンゼン美味しそうじゃない。……どころか、不味そう、でさえある。お皿に盛った料理が美しくないのよ。彩りもよろしくないし、盛り方もアバウトというか雑というか。これじゃぁ、見ていてそそられない。ロンドンで美味しい食べ物にありつけた記憶がないけど、これは、この映画がイギリス映画だからか?などと邪推してしまったよ。

 バックヤードがゴタゴタでも、料理が美味しそうで美しければ、見ている方も楽しめるのだけど、これじゃあ、こんな店行きたくねーわ、、、で感想としては終わってしまう。

 正直なところ、わざわざ劇場まで行って見る映画じゃないですね。まぁ、鑑賞料金返せとまでは思わなかったけど、当然、パンフなど買う気にもならず。

 帰宅途上、『ディナーラッシュ』の方が面白かったよなー、と思いながらも、そう言えば内容ほとんど覚えていないなぁ、と思い至り、再見することにしました。……ので、次回の感想文は『ディナーラッシュ』です(予告する意味あるのか?)

 グチばかりで感想文になっておりません。すみません。

 

 

 

 

 

 

人種差別丸出しの客が不快極まりなかった。

 

 

 

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ほんとうのピノッキオ(2019年)

2021-12-05 | 【ほ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv74354/


 
 以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 木工職人のジェペット爺さんは貧しい生活を送っていた。

 そんなある日、彼が丸太で作った人形が命を持ったかのように話し始める。彼はその人形に「ピノッキオ」と名前をつけるが、やんちゃなピノッキオはジェペットのもとを飛び出していってしまう。

 「人間の子どもになりたい」という願いを叶えたいピノッキオは、心優しい妖精やおしゃべりなコオロギの忠告に耳を貸さず、誘われるまま森の奥深くへ進んでいく。

=====ここまで。
 

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 原題は“PINOCCHIO”のところを、邦題でわざわざ「ほんとうの」と入れたくなる配給会社の気持ちは、おそらく、“ディズニーのあんなんはピノキオやない!”ってところですかね。まあ、ディズニーのピノキオは、私は知りませんが(見ていないので)、子どもの頃に絵本で読んだイメージからして、あの“When you wish upon a star”の雰囲気とはだいぶ違うんじゃないのか、、、という違和感はあったので、「ほんとうの」と入れたくなったのも分かる気がする。

 ……という個人的な感覚があり、また監督がガローネなので、さぞやダークファンタジーの世界が繰り広げられるに違いないと期待して、わざわざ劇場まで行った次第。


◆人間になったピノッキオは幸せになるのか?

 結論から言うと、思ったほどダークじゃなかったけれど、十分楽しめました。

 ピノッキオは子役の男の子(フェデリコ・エラピ)に特殊メイクを施している(詳細は公式HPをご覧ください)。最初は異様な見た目だと思ったが、見ているうちに慣れてきて、そこそこ可愛さも感じるように、、、。CGももちろん使っているが、基本、フェデリコ君という人間の子どもがピノッキオを演じているので、動きは人間そのもの。ただ効果音としてカクカク木のぶつかるような音が入っていて、それが意外に違和感がないというか、見ていて「ああ、この子は木の人形なんだな」なんて脳内補正してしまう効果がある。まさに効果音。

 ピノッキオは悪いことを悪いことと認識してやっているという感じではなく、好奇心の赴くまま、楽な方に流された結果、悪事を働いたことになる。嘘はつくし、誘惑には弱いし、何度言われても同じ間違いを犯す。“悪童”なんて言われてもいるが、子どもなんて大なり小なりそういう要素を持っているもんだろう。原作でのピノッキオはどれくらい悪童なんだろう??

 原作は未読だけど、絵本のほかにも少年少女文学全集かなんかでダイジェスト版を読んだ記憶があるが、子ども心に「木でできた人形がしゃべって動き回るなんて怖い」と思ったし、何よりラストで人間になって、それがハッピーエンディングというのがものすごーく違和感があった。人間になることがなぜ良いことなんだ??と。

 絵本ならではの教訓臭さがあったのかもだけど、本作の良さはそういう臭いは全くなくて、ピノッキオのまさに“冒険”を描いているところ。子どもだって純真無垢なわけじゃなく、狡猾さも当然あるし、心優しいところもある。騙されたり、殺されそうになったり、ものすごい不条理な目にも遭ったりもして、ピノッキオなりに色々考えるようになる、、、けれどもやっぱりまた間違えちゃう。

 冒険を続けていくうちに、ピノッキオの顔に傷が増えていくのも妙にリアル。特殊メイクの技術の凄さに感嘆してしまった。

 本作を見ても、私が子ども心に抱いた違和感が解消されることはなかったが、人間になったピノッキオがジェペット爺さんと抱き合って喜んでいるシーンを見れば、まあ良かったな、とは思いました。でも、あんなに貧しい、しかも高齢な爺さんの家で、果たして少年ピノッキオの行く末はどうなるのだろう、、、と心配もしちゃいますね。教科書を買うお金もない爺さんなんですから。……まあ、私が心配することもないんだが。


◆その他もろもろ

 『五日物語 ―3つの王国と3人の女―』(2015)といい、本作といい、ガローネの世界観はやはり好きだわぁ。基本的にとても美しく、少しダークさもあり、ファンタジーなんだけどリアルさもあるという、、、。彼の出世作『ゴモラ』(2008)は未見なんだが、『ドッグマン』(2018)も良かったけど、童話(といってよいのか、、、)原作を映像にするセンスが素晴らしい。

 ピノッキオが助けられる妖精の館とか、ホラーチックな感じで良いわ~。あの“かたつむり”はちょっと気持ち悪かったけど。

 本作を見て初めて知ったんだけど、妖精って、成長するのね? 原作でもそうらしい。最初にピノッキオを助けてくれたときは少女だったんだが、後半に再び助けられたときは大人の女性になっていた。それだけ、実は長い年月が過ぎていたということなのか? よく分からないけど、原作をちゃんと読んでみたくなった。

 ロベルト・ベニーニは、自身がピノッキオを演じた映画(『ピノッキオ』(2002))があるけど(未見)、本作ではジェペット爺さんを演じている。私はあんまし彼のこと好きじゃないんだが、序盤でジェペット爺さんがいかに貧しいかを描くシーンがあって、これがまた、ものすごくイラ~ッとさせられるシーンで、別にロベルト・ベニーニのせいでも何でもないけど、やっぱり彼のこと苦手だわ~、と思ってしまった。

 ピノッキオの映画化はこれまでもいくつかあって、ベニーニの02年の映画は、ピノッキオが老けすぎで評判がイマイチみたい。96年版のスティーヴ・バロン監督作は、劇場までわざわざ見に行ったんだけど、まるで覚えていない、、、ごーん。ビジョルドが出ていたから見に行ったんだと思うが、ここまでまるで覚えていないというのもちょっと哀しいなぁ。みんシネではえらく評判が悪いけど、画像とか見ると結構面白そうなんだよな。どんなだったか見たいと思っても、そもそもDVD化されていないみたいだしなぁ。パンフを買った形跡もないし。

 でも、スティーヴ・バロン作品を検索していたら、『アラビアン・ナイト』なんていう珍品を発見! 出演者も何気に個性派ぞろい!! 見てみよう♪
 
 
 

 

 

 


星に願いを、、、って感じじゃないよね、やっぱり。

 

 

 

 

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ポルトガル、夏の終わり(2019年)

2021-10-15 | 【ほ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv70854/

 
 以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 ヨーロッパを代表する女優フランキー。自身の死期を悟った彼女は“夏の終わりのバケーション”と称して、親友や家族をポルトガルにある世界遺産の町・シントラに呼び寄せる。

 彼女はそこで、自分がこの世を去ったあとも愛する人たちが平和に暮らせる段取りを整えようとする。しかし、それぞれが問題を抱えていたことで、彼女の計画が大きく崩れていく。

=====ここまで。
 

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 本作も、公開時に劇場に行こうかな、、、と迷っているうちに終映してしまいました。コロナ禍でなければ行っていたのかな。分からないけど、ユペール主演となれば、やはり気になるところ。やっとこさ、DVDで見ました。

 正直言って、見終わった直後は、ふーん、、、という感じで、感想を書くまでもないかな、と思っていたんだけど、数日経って、少し思うところもあり、書き止めておくことにしました。

 まず思ったこと。これ、タイトルに“ポルトガル”と入っているのだが、ポルトガルである必然性が分からん。フランキーの別荘があるから、らしいんだが、それだけみたい? 別に、ポルトガルでなくてもええやん? タイトルにまで入っているのだから、何か意味があるのかと思うでしょ、フツー。それとも私は何か大事なものを見落としているでしょうか? まあ、原題は“FRANKIE”だから、やっぱし邦題がヘンってことかな。

 舞台となったポルトガルのシントラは世界遺産にも登録されているそうで、本作でときどき映る風景の映像が美しい。でも、別荘周辺と思しき林道とか、海辺とか、城跡とかはポチポチと映るくらいで(それも美しいんだけど)、なんかこう、うわ~っ!っていう感激するような風景の映像は、ラストシーン以外なかった気がする。

 ……とまあ、それはともかく。

 フランキー、余命いくばくかになっても支配的な思考回路が変わらないのか、、、、と思って、じわじわとイヤ~な気持ちが広がって来ました。大女優で、しっかり生きた足跡を残してきた人だけど、それだけじゃ飽き足らないのかね。周囲の人をコントロールしようとするのって、基本的に欲求不満だと思うんだよね。フランキーでもそうなのか、、、と。息子を勝手に自分のメイク係とくっつけようとするとか、あり得ん、、、と思ってしまう。される側の気持ち、ゼンゼン考えないのね、この人。

 ユペール様、こういう役が多い気がする。『エル ELLE』(2016)とか『ハッピーエンド』(2017)での彼女もそんな役どころだったよなぁ。彼女の持つ独特の冷たい感じが、こういう役を呼ぶんだろうか。まあ、それがハマっているんだが。

 人生の終わりが見えた人間が、いざ幕が下りるまでどう生きるか、という映画はいろいろあって、私は、クロサワの『生きる』みたいに、それまでの人生をことさら大げさに反省していきなり善人になろうとする話は大嫌いなので、本作のフランキーみたいに、これまでの延長で残りも生きる人は、基本的に好感を抱くはずなんだけど、こういう支配的な人がそのままなのはイヤだなと。結局、自分の人生を生きていない気がするんだよね、そういう人って。そういう意味では、『生きる』の主人公と同じかな~、と思えて。

 ユペール様、冒頭、水着シーンがあるんだが、めっちゃスタイルが良くてビックリ。脚が長~い! まあ、高いパンプス履いているってのを差し引いても、すごい、、、。衣装もセンスが良くて素敵だった。あの歳まで体形が変わらないって、驚異的だわ。

 ……ゼンゼン感想になっていなくてすみません。

 

 

 

 

 

 

 

マリサ・トメイ、しばらく分からなかった……。 

 

 

 

 

 

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星の子(2020年)

2021-05-03 | 【ほ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv70187/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 ちひろ(芦田愛菜)の父(永瀬正敏)と母(原田知世)は娘にたくさんの愛情を注いで育てていたが、病弱だった幼少期のちひろを治した怪しい宗教を深く信仰していた。

 中学三年生になったちひろは、新任のイケメン先生に一目惚れする。しかし、夜の公園で奇妙な儀式をする両親の姿を先生に見られてしまう。そして、彼女の心を大きく揺さぶる事件が起こり……。

=====ここまで。

 今村夏子の同名小説が原作。

 

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 今村夏子の小説は、何と言っても『こちらあみ子』が衝撃的でした。芥川賞を獲った『むらさきのスカートの女』より、あみ子の方が断然好きだけど、むらさき~も、まあ今村カラーがかなり出ていましたね。

 余談だけど、あみ子って、以前NHKでドラマ化していませんでしたかね? なんか、少女が玄関先で土を盛ってお墓を作るシーンをビジュアルで見たような記憶がぼんやりあるんだけど、、、検索してもそれらしいものはヒットせず、、、。夢かな。というか、あみ子を読んだときに、映像で見た記憶があった、、、と言った方が正確なのかな。どちらが先か、もはや自分でも分からない、、、。

 それはともかく。本作の原作は未読で、映画になったことも知ってはいたけど、コロナ禍で劇場へ足を向けるまでの引力はなく、、、。最近DVD化されたのでこのほどレンタルして見てみました。見た後、これは原作を読んでからでないと感想が書きにくいかなぁ、、、と思い(理由は後述)、図書館で予約したらすぐに借りられて、昨日読了しました。……ので、原作の描写を考えつつ、映画の感想を書きます。


◆“ちひろ”という少女

 見終わった直後の感想は、うぅむ、、、という感じだった。というのも、親がヘンな宗教にハマって、子がマトモが故に葛藤する、、、って、題材としては珍しくない。宗教を、アル中とか家庭内暴力とかいろんなモノに置き換えれば、家族の葛藤話に集約されるわけで、、、。

 でも、終盤から何やら不穏さが漂い始め、ラストは不穏なまま終わったのだ。……と私は受け止めたのだが、ネットの感想を拾い読みすると、どうもほのぼの系の良いお話として終わったと見ている人が割と多くて驚いた。

 また、登場人物のキャラとか、俳優たちの演技とか、ところどころのセリフとかは良かったから、原作を読んでちょっといろいろ確認したい、と思った次第。

 で、本作はかなり原作どおりに作られていると分かった。特に大きな設定の変更もないし、ストーリーもほぼママ。ちなみに、原作は、あみ子やむらさきの~ほどあからさまではないが、やっぱりちょっとズレている人を独特のタッチで描いている小説だった。でもまあ正直なところ、面白さでは、あみ子に軍配かな、私的には。

 原作を読んでいて困ったのは、どうしても、作中のちひろが芦田愛菜ちゃんになってしまい、それを払拭するのに時間がかかった。後半でようやく小説の中だけのちひろになってくれたけれど、、、。

 これ書いちゃうと、身も蓋もないんだが、私が監督だったら、ちひろに芦田愛菜ちゃんをキャスティングしなかっただろうと思う。

 この話は“ちひろのキャラ”が全てと言ってもよいくらい重要な訳で、愛菜ちゃんが役者として良くないという意味では全くなく、原作のちひろとはかなりキャラに乖離があると感じた。本作のちひろは、マイペースながら分別のある少女になっているが、原作から受けるちひろの印象はちょっと違う。あみ子同様、あみ子ほどじゃないが、やはりズレているのだ、原作のちひろは。しかし、愛菜ちゃん自身の持つ雰囲気が、そもそもズレていないし、ズレを演じてもいない。

 原作に出てくるセリフを映画でもちひろは言っているし、ほぼ原作どおりのシーンがほとんどだが、やはり原作から受ける印象と、映画のそれはかなり違う。

 この話は、基本“ヤバい”話なんである。で、主人公のちひろは、あえてそのヤバい環境に自発的に身を置いているのだが、ちひろがどれくらいヤバさを理解しているかが明確でないところがキモなんじゃないか。映画では、そのちひろの心情が、家族を思う“純粋さ・無邪気さ”に回収されてしまっていて、“けなげ”な少女の物語になっている。

 つまり、監督は、ちひろがズレている子だとは感じなかったんだろうな、原作を読んで。それならば、マトモなちひろを愛菜ちゃんが演じることになるのも道理というもの。

 原作と映画は別物だから、原作に忠実である必要はないけれど、まあだから、冒頭書いたように、割とよくあるテーマの映画だな、、、と感じたのであった。


◆ラストシーンとか、岡田将生とか、、、。

 ただ、映画の終盤に不穏さを感じて、原作が今村夏子の小説だった!と改めて思い出したのよね。ストレートな家族の葛藤話を今村さんが書くかな、、、?という気がして。そこを、原作を読んで確認したくなった。

 終盤からラストのシーンはほとんど原作と同じだったけれど、原作の方がもっと不穏だった。私は、映画の終盤からも、この親子の関係性が崩れる予感を見て取ったのだが、原作の方はもっとそれを感じさせる。だから、原作を読み終えた直後は、映画の終盤から受けた印象は間違っていなかったんだ、と思って本を閉じた。

 けれども、やはり、原作の方も映画と同じで、この不穏そのものにしか思えないラストを「救いのある終わり方で良かった」と感想を書いている人が少なからずいるのだ。

 文庫本の巻末には、著者と小川洋子氏の対談が載っていたので興味深く読んだが、今村さんが最初に書いたラストは「あまりにも悪意が見えすぎている」と編集者に言われたのだとか。どんなラストかも書かれていたが、ここにはもちろん書きません。が、私は、最初のラストの方が好きかも。確かに、悪意があるし、解釈の幅が狭くなるかもしれないけれど。

 でも、「この小説では「この家族は壊れてなんかいないんだ」ということを書きたかったので……(以下略)」とも語っていて、これはちょっと意外だった。対談相手の小川さんもそれに対して「この両親には、娘に対して何ら悪意はない……(中略)でも、悪意のない家族だとしても、平和ではないということが残酷です」と言っており、まさにその通りだと感じた。小川さんも、不穏さを感じたと言っており、やはり解釈が分かれる原作なのだなぁ。

 本作のラストシーンも、色々と解釈ができる余韻があり、私はもともと不穏なのが好きなんで、不穏さを読み取ったクチだが、この終盤からラストがあったおかげで印象的な作品になったと思う。

 あと、忘れてならないのが、南先生を演じていた岡田将生ね。彼は、性格の悪い役を演じるのが実に巧い。あんなキレイな顔してイヤらしいってのがイイ。自分が不審者呼ばわりした男女がちひろの両親だったことが分かった時や、ちひろの描いている似顔絵が自分のではなくエドワード・ファーロングのだと指摘された時の一瞬の「マズい……」という表情が絶妙。どうでもいいけど、エドワード・ファーロングの現在と岡田将生じゃ、似ても似つかない、、、(唖然)。
 
 ラストの展開と、岡田将生の演技に1個献上いたします。

 

 

 

 

 

 

 


ちひろの親友“なべちゃん”がステキだ、、、。


 

 


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ホワイトタイガー ナチス極秘戦車・宿命の砲火(2012年)

2020-09-13 | 【ほ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv54943/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 第二次世界大戦末期のロシア戦線。劣勢のドイツ軍から突如現れた1台の重戦車“タイガーI改”が、ソ連軍を恐れさせていた。神出鬼没なその戦車は、従来型とは明らかに異なる高い戦闘力を持ち、ソ連軍の戦車一個部隊を全滅させては姿を消してゆく。

 白みを帯びた特異な外見から、ソ連兵の間で“ホワイトタイガー”と呼ばれるそれは、果たしてヒトラーの秘密兵器なのか? 大きな謎を孕みつつ進撃する怪戦車に為す術のないソ連軍。

 1台の戦車に苦戦を強いられる中、1人の救世主が現れる。それは、“ホワイトタイガー”の攻撃を受けて全身の90%を超える大火傷を負いながらも、驚異の回復力で前線に復帰した記憶喪失の戦車兵。“発見されたイワン”を意味する“イワン・ナイジョノフ”(アレクセイ・ヴェルトコフ)という名で呼ばれる彼は、失った記憶と引き換えに、ある特殊能力を身に着けていた。

 ナイジョノフは、ソ連軍が改良した装甲強化型“T-34/85”と、特殊能力を活かした最高の戦車操縦テクニックで“ホワイトタイガー”に挑んでゆく。

=====ここまで。

 アカデミー賞の外国語映画賞にロシア代表作として出品されたが、ノミネートには至らなかった。


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 またしても、なぜレンタルリストに入れたか覚えていないDVDが送られてきましたが、ロシアものなのでロシアに行く前後で入れたと思われる。タイトルからB級映画と思う方も多いでしょう。私も、独ソ戦ものか、、、程度にしか思っていませんでした。

 ……が!! これが非常に味わい深くて良い映画だったのです。鑑賞後調べたら、ノミネートこそ逃したものの、ロシア代表でアカデミー賞に出品していたんだと知り、納得。


◆オカルト!?

 本作の面白いところは、戦車ホワイトタイガーが、実在しているのかどうかがハッキリしない、というところ。もちろん、実在しているという前提で話は進んでいくし、戦闘シーンも当然あるんだけれども、どうも、その存在が何とも謎めいている。

 全身の90%もの火傷を負えば、普通の人は死んでしまうが、それを奇蹟的に生き延びたナイジョノフ。このナイジョノフの存在が、そもそもちょっとオカルトチック。瀕死の状態から生還したことで、“戦車の声が聞こえる”という能力を得た、という設定。……ね、オカルトでしょ。

 しかも、ナゾの戦車ホワイトタイガーは、本当に人が操っているのか??という疑いも生じる。ホワイトタイガー自身が意思を持っている、とナイジョノフは言うのである。

 このホワイトタイガー、いつも突然現れる。しかも現れるのは、必ず敵の背後。知らぬ間に背後を、このナゾの重戦車に取られ、いきなり速射砲でやられるのだ。その威力がまた怖ろしく強力。こんなのが戦場に現れたら、敵はひとたまりもない。

 そうやって、敵を一掃したかと思うと、アッと言う間に忽然と姿を消してしまう。周囲の林は沼地で、到底戦車が隠れられるような場所ではないのに、ナイジョノフは「ヤツはあそこに隠れている」と言い切る。それこそ、戦車の声が聞こえるかのように。上官が「あの辺り一帯は沼地だぞ」と言っても「あそこにいます。ヤツは待っているんです。我々が攻撃するのを」と言うナイジョノフ。

 正直、序盤から中盤くらいまでは、見ていて???な感じで、一体、どういう方向へ展開するんだろう? と戸惑ってしまう。しかし、中盤以降、ナイジョノフの操る戦車とホワイトタイガーの一騎打ちになり、さらにドイツが降伏して、、、という終盤に至り、なんとも不思議な感慨を覚える。

 本作が、オカルトチックなのにB級作品にならずにいる要素の一つとして、ナイジョノフの上官・フェドトフ少佐の存在があると思う。この少佐、ナイジョノフの言うことを「バカバカしい」と一笑に付すようなことをしない。信じがたいとは思っても、頭ごなしに否定しない。そして、実際に、ホワイトタイガーの姿を少佐自身もその目で確認する。こういう、脳ミソ筋肉系ではない、思慮深い軍人の存在というのは、優れた戦争映画には必須キャラだと思う。

 他にも、ミリオタの方々が見たら大喜びしそうな、本格的な戦闘シーンがかなりの時間を割いて描かれているのも本作の見どころの一つ。私は、戦車とか全く無知なんだが、そんな私でもあのホワイトタイガーがとんでもない戦車であることくらいは見れば分かる。戦場でホワイトタイガーに出くわすなんてのは、丸腰の人間が、巨大な野生のヒグマに出会ってしまったような感じだろう。ほとんど為す術ナシなんである。なのに、ナイジョノフの操る戦車は、ホワイトタイガーの砲撃をまともには喰らわない。それは、ナイジョノフが戦車の声を聞いて、的確に位置取りしているから。ナイジョノフがそう言うのだ。

 そうして、結局、ナイジョノフ VS ホワイトタイガー の闘いに、本作内では決着は付かない。それどころか、終盤、ドイツが降伏して戦争が終わるんだが、少佐がナイジョノフに会いに行くと、ナイジョノフは戦車の手入れをしていて「戦争が終わってもアイツ(ホワイトタイガー)との闘いは終わらない」と言う。少佐が「ホワイトタイガーはもういない」と言っても、ナイジョノフは「50年でも100年でもアイツは待っています」等と言うのである。

 少佐が仕方なく立ち去ろうとするが、ふと振り返ると、さっきまでそこにいた戦車とナイジョノフは、忽然と消えている。……え、、、??? となる。

 とにかく、B級オカルト映画になってもおかしくない素材なのに、むしろ味わい深い作品になっているのが不思議な映画である。


◆終盤、謎は深まる。

 で、上記のような終盤のシーンに至り、ようやく私にも本作の意図が何となく見えてきた気がした。

 ホワイトタイガーは戦争そのもののメタファーなのだ(と思う)。もちろん、メタファーとしてだけではないのだが、そういう要素が多分にあるのだろうな、と。というのもラストシーンがかなり意味深なんである。

 そこには、もう死んでいるはずのやつれきったヒトラーが出て来て、暖炉の前で誰かと2人で向き合って座り、話している。相手の顔は暗くてよく見えない。ヒトラーは、自分が起こした戦争について語っている。ちょっと長いけど引用すると、、、

「勇敢で完全無欠の我々が明解に宣言したのだ。皆、ユダヤ人を嫌い、ロシアを恐れた。あの陰気で不機嫌な国はヨーロッパではない。野蛮な怪物だ。私はこの2つの問題を解決しようとした。それは我々独自の考えだったのか? いや違う。我々は問題を明るみに出しただけなのだ。ヨーロッパ中が望んでいたことだ。寒さと暑さ、そして、嵐と日の光がある限り、人々や民族の間の争いは続く。人は天国に住むと破滅する。人類は争いのおかげでありのままの姿になった。戦争は自然でありきたりのものだ。戦争は常にどこかで起こる。戦争には始まりも終わりもない。戦争は生命そのものだ。戦争は原点なのだ……」

 このラストシーンの前には、ドイツの降伏に当たり、調印式が行われるんだが、そこに参加したナチスの上層部の面々が食事をとるシーンがある。この食事シーンもかなりのナゾシーンなんだが、見ようによってはこれは“最後の晩餐”とも考えられる。

 また、途中で2度、SSの将校がソ連の尋問を受けているシーンが挿入されているんだが、いずれのシーンでもSSの将校は、ホワイトタイガーを「実在しない」と言っているのだ。

 さらに、特殊能力を得たナイジョノフは、極めつけに「戦車の神様」等と言い出す。

 ううむ、、、そうなると、やはり、このホワイトタイガーは、ただの化け物戦車というだけの存在ではなさそうだ、となる。ヒトラーの持論展開ラストシーンで、ダメ押しという感じである。

 こういう、余韻があり謎が残る映画は、結構好き。単純明快もモノによっては悪くはないが、やはり、考えさせられる映画の方が、時間を割いて見た甲斐があるというもの。

 ミリオタの方々が書いている感想をいくつか読んだけれど、本作に出て来た戦車は、相当マニアックらしい。もちろん、私にはさっぱり分からないけれども、タンク好きの方をも唸らせる充実した作りになっているということで、ソフトもハードもイケてる作品と言えそうだ。

 ちなみに、ナイジョノフの上官・フェドトフ少佐を演じていたのは、あの『アンナ・カレーニナ ヴロンスキーの物語』でカレーニン伯爵を演じていたヴィタリー・キシュチェンコ。ロシアではきっと名脇役なんでしょう。少佐、なかなか渋くて善い人だった。彼がいなければ、ナイジョノフの活躍もないもんね。

 

 

 

 

 

 

 


もう少しこの邦題(特に副題)は何とかならなかったんだろうか、、、。

 

 

 


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ぼくのエリ 200歳の少女 (2008年)

2019-11-27 | 【ほ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv46441/

 

 12歳のいじめられっ子、オスカー少年。隣に引っ越してきたエリと、モールス信号で、壁越しに会話をするうち、オスカーはエリを好きになる。オスカーは、エリに思いを打ち明ける。

 それに対して、「私、女の子じゃないから……」とエリ。「別にいいよ」と返すオスカーだが、だんだんエリの様子が普通じゃないことに気付き始め……。 

 

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 先日見た『ボーダー 二つの世界』をすっかり気に入ってしまったので、同じ原作者である本作を見てみることに。“吸血鬼モノ”はなぁ……、という私の心配を吹っ飛ばしてくれる作品でありました。

 

◆バカ映画ではない吸血鬼モノを初めて見た。

 エリはヴァンパイア。つまり“吸血鬼”なんだが、吸血鬼モノで、私がこれまで見てきた映画は、どれもこれもバカっぽい、というかバカ映画ばかりだったので、本作の評判は耳にしていたものの、「でも、吸血鬼なんでしょ? つまりバカ映画でしょ??」と思って、手を出す気になれなかったのだ。

 バカ映画、というとアレだけど、中には作っている人たちはきっと大真面目で作ったんだろうと思う作品も、もちろんあるわけで、そういうクリエイターたちの汗と涙を無視して、バカ映画などと呼んでしまうことに多少なりとも罪悪感はないではないが、でも、「やっぱ、バカだもんなぁーーー」という感想が勝ってしまうのだから仕方がない。

 で。

 正直なところ、驚いた。なんだ、、、、吸血鬼モノでもバカ映画にならないこともあるんだ!!! と。

 とはいえ、本作は吸血鬼モノのお約束はちゃんと押さえている。①人間の生き血を吸わないと生きていけない、②歳をとらない、③日光を浴びると死ぬ、④血を吸われた人間は感染して吸血鬼になる、、、、etc。

 でもバカ映画になっていない。いや、それどころかヴァンパイアの悲哀とか苦しみとかがちゃんと描かれており、そういうことを描いていてもゼンゼン嘘くさくなっていないところがスゴい!!

 ……というか、むしろ、今までの吸血鬼モノがバカ映画になってしまっていた要因を探った方が良さそうだが、今はちょっとそういうのメンドクサイのでそれはまたいずれ機会があったら書いてみようと思う。

 まー、とにかく。エリは、ちょっと見た目がオスカーたちと違って、北欧というより、中東系の混じったような風貌なんだが、この風貌が本作では効いている気がする。つまり、“なんとなく周りと違う”というのが画的に印象づけられる。実際、違うしね。なんたって、ヴァンパイアなんだから。これは演じているリーナ・レアンデションちゃんがそうなのか分からないが、エリの瞳の色が何とも言えないエメラルドグリーンのようなパステルグリーンのような、、、複雑で美しい色をしているのだ。終盤、絶体絶命の窮地にあるオスカーを救った直後にアップで映るエリの瞳の美しさは、あらゆる理屈をねじ伏せる説得力がある。

 あんな瞳で射貫くように見られたら、、、、。オスカーがエリと二人で旅立ってしまったのも致し方なし、、、と思う。

 

◆エリの選択

 このラストシーンを見た私の脳内を簡単に言語化すると。

 恋物語が成就して良かったねぇ、、、、え、……いや、これってさぁ、、、つまりは、オスカーくん、エリのパパと同じ運命? 無限ループってこと???

 となり、エンドロールを見ながら、エリに対する感じが変わってしまった気がした。エリがオスカーを庇護者にしたのか、それとも結果的にオスカーがエリの庇護者になったのか。

 まあ、どっちも考えられる。エリは書き置きに「ここを去って生き延びるか、残って死ぬか」と書いているから、逡巡した挙げ句、オスカーに庇護者に“なってもらうことにした”のかも知れないし、逡巡している間にオスカーの方から庇護者になりに来てくれたのかも知れない。どちらにしても、この場合のエリは受動的だ。

 が、エリは少なくとも何回か庇護者を変えて、これまで生き延びてきたわけだから、“庇護者の代替わり”に起きることについては熟知しているはずである。そして、庇護者の末路も分かっている。

 ということを考えると、庇護者にふさわしい人間を物色し、オスカーが自分に好意を見せたことで狙いを定めた、、、という見方も出来る。つまり、能動的なエリである。

 ここで考えさせられるのは、エリに噛まれてヴァンパイア化してしまった女性が、自ら日の光を浴びて死を迎えたシーンがあったこと。こういう選択がヴァンパイアにはあるのだと、敢えて見せつけられる。それくらい、その瞬間のシーンは衝撃的な描写だった。

 でも、エリはそれを選択しないで、オスカーを庇護者に選んだ。自分が生きるために、オスカーが犠牲になることを是としたわけだ。つまり、やっぱり能動的だったんじゃないか、という気がする。

 エリが、オスカーをロックオンした瞬間は、そうするとどこなのか、、、と考えてみたが、多分、オスカーがいじめっ子に逆襲したシーンだろう。その前に、エリはオスカーに「やられたらやり返せ」と言っていて、それをオスカーは忠実に実行に移したということになる。あれこそが、エリのオスカーに対するリトマス試験紙だったのだ、、、。コイツは私の言いなりにできる人間だ、と。

 原作を読めば、この辺りのことはもう少し分かりやすく書いてあるのかしらね?

 まあ、どっちでも良いけど、エリは決して運命に翻弄されて人間界に漂う哀しいヴァンパイアではなく、生きるために人間を襲って生き血を吸うしたたかなヴァンパイアなんだと、私には見えた。

 

◆その他もろもろ

 オスカーを演じたカーレ・ヘーデブラント君、時折女の子みたいに見えたけど、なかなか可愛かった。白すぎる肌が、いかにも北欧。その真っ白ですべすべな頬に、ピシッと細い棒で叩かれた跡が残るのが、痛々しいが、肌の白さと赤い筋のコントラストが美しかった。……私もヴァンパイアの素質アリ?

 オスカーの離婚した両親だが、、、。父親はどうやらゲイらしい。なかなかイケメンで、オスカーにも優しいお父さんなのに、男友達が現れた途端、豹変するんだもんね。ああいう場面を経験することで、オスカーは、エリが「私、女の子じゃないから」と言っても、あまり違和感なく「それでもいいよ」となるのかなぁ、、、などと思ったり。

 エリの性別については、映倫の判断がネットでは不評だが、あの“ボカシ”は、あんまり私には影響はなかった気がする。だって、エリ自身が「女の子じゃない」と、何度も言っているし、何しろ、人間じゃないんだから、男か女かなんてもはや超越しているんじゃねーの??って感じなんですけど。何でみんなそんなにボカシに憤慨しているの? と逆に疑問。

 ただね、邦題の“200歳の少女”はダメでしょう。これはミスリードだし、本作の趣旨を歪めている。ヒドい邦題なんてわんさかあるから、これもその一つだと思えば、あーハイハイ、って感じだけど。何度も書いているが、邦題をつける人たちは、もう少し作品に対する敬意と愛を持っていただきたいものだ。

 ちなみに、原題は「正しき者を招き入れよ」という意味だそうな。これ、、、もの凄く意味深。そのまんま邦題にしてもよかったくらいじゃない? ずっと哲学的で大人な映画というイメージになる気がするんだけど。

 

 

 

 

 

 

ヴァンパイア映画としては稀なる逸品

 

 

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ボーダー 二つの世界 (2018年)

2019-10-20 | 【ほ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv67282/

 

 以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 スウェーデンの税関に勤めるティーナは、違法な物を持ち込む人間を嗅ぎ分ける能力を持っていたが、生まれつきの醜い容姿に悩まされ、孤独な人生を送っていた。

 ある日、彼女は勤務中に怪しい旅行者ヴォーレと出会うが、特に証拠が出ず入国審査をパスする。ヴォーレを見て本能的に何かを感じたティーナは、後日、彼を自宅に招き、離れを宿泊先として提供する。

 次第にヴォーレに惹かれていくティーナ。しかし、彼にはティーナの出生にも関わる大きな秘密があった――。

=====ここまで。

 『ぼくのエリ 200歳の少女』と同じ原作者の小説を映画化。“各国の映画祭で「ショッキング過ぎる」と話題になったシーンがあったが、製作者の意向を汲み修正は一切無し、ノーカット完全版での日本公開を決定。”とのこと。

 

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 『ぼくのエリ 200歳の少女』は未見なんだけど、“ヴァンパイアもの”ということは聞いていたので、見る気がしなかったんだが、本作を見たら、『ぼくのエリ~』も見てみようと思った次第。

 これから本作を見ようと思っていらっしゃる方は、上記あらすじ以上のことは知らずに見た方が面白いと思います。以下、ネタバレバレなので、よろしくお願いします。

 

◆「ショッキング過ぎる」シーンとは、どんなシーンか。

 チラシを見たときから興味津々、公開を待っていた本作。期待に違わぬ問題作で、私の想像のはるか斜め上を行く展開に唖然ボーゼンとなって劇場を後にいたしました。正直、こんな映画見たことない、、、という感じ。ホラーの名作なんかよりも衝撃度で言えば強いかも。

 いや、「ショッキング過ぎる」シーンがあるというのは事前に聞いていて、それが私の苦手な刃物でメッタ斬りとかの“痛い系”だったらイヤだなぁ、、、と思って、見ながら中盤まで“今か今か、、、”と身構えながら見ていたんだけど、そのシーンは思いがけずに展開し、ゼンゼン痛くないけど、確かにまぁ、え゛ーーーーっ!!て感じではあった。でも、その伏線は序盤にちゃんとあって予告されていたので、私としてはそのシーンのおかげで結構、いろんなことが腑に落ちたのでありました。

 ……て、本作を未見の方には“なんのこっちゃ?”でしょうが、こんなのを読む方は既に本作を見ている方に違いないと思うので、ここから先はぶっちゃけますのであしからず。

 つまり、ティナの股間から性器が伸びてきたのを見て、“ああ、そーゆーことか!”と。だから、ヴォーレは人間で言う女の身体の構造をしていたわけね、と。

 でも、だから本作が衝撃的というわけではない。本作から感じる衝撃は、人間だと思っていた自分が、実は人間じゃなかったと知る、、、という、アイデンティティを根底から覆されるところにある。しかもティナは人間で言えば40代くらいの年齢で、40年以上、“自分は〇〇だ”と思っていたことが、ゼンゼン違った!と突き付けられた衝撃は想像を絶する。

 アイデンティティの崩壊をテーマにした話なんてゴマンとあるけど、本作の場合、それがホラーとかSFとかファンタジーでなく、非常にリアルな世界と地続きに“トロル”という存在が提示されるところがすごく面白い。だから、タイトルの“ボーダー”が非常に効いていると思う。

 しかし、ティナのように、それまで生きにくさを感じ、何か周りと違う自分を自覚していた場合に、“実は〇〇じゃなくて、△△だったのだ”と分かると、衝撃を受けた後に、どこかホッとするというか、納得する部分もあるのではないか。

 ティナも、かなりの衝撃を受けてはいたが、案外、自身がトロルであることに納得した感じが見て取れた。自身がトロルと分かって以降は、以前は「気持ちワルイ」と言っていた“虫食”を自ら進んで実践していた。

 むしろ、彼女が受けた衝撃は、自身がトロルであったということよりも、自分の実の父だと思っていた男が養父であり、実の親は(恐らく)迫害を受けて密かに葬られていた、ということにあったようだ。自身がトロルであるとヴォーレに聞いたときより、養父に対する取り乱し様の方が印象的だった。養父はティナがトロルだと知っていて養女にしたのだろうが、迫害する側に加わっていた可能性は十分あるし、恐らくそうなのだろう。そうすると、ティナとしては自身のアイデンティティが股裂き状態となり、混乱するのは無理からぬ。

 トロルというとファンタジーっぽく聞こえるが、何年か前に見た『サーミの血』で描かれたサーミ人などの原住民の迫害と重ねると、これはかなり示唆的な作品だとも思える。終盤、ティナが両親の埋葬されたと言われる精神病院の裏にある墓地を訪れるのだが、その墓地の光景が、一目で両親が迫害されていたことを想像させる。

 

◆ボーダーレスからボーダーへ。

 本作では、幼児に対する性的虐待(幼児ポルノ)が横糸となっているのだが、これが結構効いている。ティナが嗅覚を発揮するのも、特にこの手の犯罪に対してである。しかも、その犯罪には同じトロルとして愛し始めていたヴォーレが絡んでいることで、ますます話は混沌としていく。

 ヴォーレは幼児ポルノのために、ヴォーレ自身が時々産み落とす無精卵ならぬ“無精児”を提供し、人間の幼児とすり替え(チェンジリング)てしまっているというんだが、この辺は非常におぞましい。ヴォーレは産み落とした無精児を箱に入れ、それを冷蔵庫に入れて面倒見ているという、、、その辺の描写も結構リアルで不気味。それを見付けてしまったティナの動揺もよく分かる。

 すり替えた人間の幼児がその後どうなっているのかは分からない(多分殺されているのだろう)。無精児の方は、もともと不完全な生き物だから長く生きられずに死んでしまうらしい。

 結局、ヴォーレは人間の幼児性虐待という犯罪を通じて、トロルを迫害してきた人間に復讐している、と言うのだが、この辺からティナのトロルとしてのアイデンティティも揺らいでくるのが、見ていて辛い。

 悩んだ挙げ句にヴォーレを警察に突き出すものの、ヴォーレはフェリーから海に飛び込み行方知れずに。その後、しばらくしてティナの下に送られてくるのは、以前ヴォーレが冷蔵庫に入れていた様な箱。開けてみればそこには、無精児ではなく、明らかにトロルの赤ん坊が入っている。つまり、ティナとヴォーレの子、ということだろう。ヴォーレは放浪のトロルであることを考えると、その箱に「1000個の湖がある国フィンランドへようこそ」と書かれた絵はがきが入っているのが暗示的。

 ティナはこれまで人間と同化してボーダーレスに生きてきたが、はたして、この赤ん坊を幸せそうに胸に抱いた後、彼女はこれからどうやって生きていくのだろう。前述の『サーミの血』で、主人公のエレはサーミと決別して生きたが、ティナはこれからトロルとして人間界とはボーダーを画して生きていくのか。

 考えてみれば、ティナは、コンプレックスに悩むという設定だけど、ちゃんと仕事もあるし、同棲するパートナーもいるし、ご近所とはうまくやっているし、人間社会においてはゼンゼン真っ当で、むしろ十分(嫌な言葉だけど)“勝ち組”なんでは? とさえ思う。ヴォーレとの出会いがなければ、そこそこ穏やかにこれからも生きていったのではないか、、、。

 ……まぁ、とにかく、見て損はない映画だと思います。  

 

 

 

 

 

 

ときどき出てくるキツネが可愛い。

 

 

 

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僕たちは希望という名の列車に乗った(2018年)

2019-06-30 | 【ほ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv66497/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 冷戦が続く1956年。東ドイツのスターリンシュタット(現在のアイゼンヒュッテンシュタット)にある高校に通うテオとクルトは、西ベルリンの映画館でハンガリーの民衆蜂起を伝えるニュース映像を目にする。

 ソ連の支配に反発したハンガリー市民数千人が死亡したといわれ、テオとクルトは級友たちに呼びかけ、授業中に2分間の黙祷を行う。自由を求めるハンガリー市民に共感した彼らのこの行為は純粋な哀悼であったが、ソ連の影響下にある東ドイツにおいて社会主義国家への反逆行為とみなされ、当局の調査が入り、人民教育相自ら生徒たちに一週間以内に首謀者を明かすよう宣告。

 大切な仲間を密告してエリート街道を進むか、信念を貫き進学を諦めて労働者として生きるか、生徒たちは人生を左右する大きな決断を迫られる。

=====ここまで。

 

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◆邦題が作品を冒涜しているの件。

 邦題がね、、、。予告編は面白そうだったんだけど、最後に出た邦題でガクッとなって劇場行きはナシだな、、、と思っていたんだが、割と評判良さそうだから、やっぱり見に行っておこうと思い直して劇場まで足を運ぶことに。

 私が予告編を見た際に邦題にガクッときたのは、内容を知った上でのことではなく、単純にダサいと思ったから。すげぇセンス悪い、、、と思っただけ。

 が、しかし。本作を見終わって、この邦題のセンスの悪さは、単にダサいにとどまらず、悪質だと感じた。

 ドイツ語の原題は“Das schweigende Klassenzimmer”で、静かな教室という意味らしい。英語版では“The Silent Revolution”で、やっぱり静かなる革命くらいの意味になっている。まあ、革命ってのはちと飛躍が大きい気がするが、それでも邦題よりナンボかマシだ。本作を見て、若者たちが乗った列車を、“希望という名の列車”と呼ぶとは、どうすればそういう思考回路になるのかナゾ。彼らはやむにやまれず列車に乗る選択をしたのであり、希望というよりは、祖国に対する失望と罪悪感を抱いて乗ったのではないか。

 それに、そもそも本作の主眼は“列車に乗”ることにはないし、それは追い詰められた挙げ句に手段として選ばれたわけで、結論でも何でもない。

 もちろん、タイトル=メインテーマ、である必要もなく、秀逸なタイトルというのは、必ずしも作品の内容を体現しているものではない。

 しかし、本作の原題は、静かな教室であり、本作を見れば、若者たちが抵抗した手段が“沈黙”であったことがキモであることは明らか。何より、彼らが西側行きの列車に乗ったことで全てが解決したと誤解している(と思われても仕方のない)頭の悪さがこの邦題には滲み出ていて、正直言って、何となく恥ずかしささえ覚える。

 邦題を誰がつけたのか知らんが、恐らく配給会社かその周辺だろうが、若者たちの葛藤と苦悩を踏みにじるに等しい、何とも愚かなことをしたもんだと思う。

 やっぱり、「沈黙の教室」でしょ。……ま、これだと、セガールの沈黙シリーズと誤解される、、、とでも思ったんかいな。分かるやろ、いくら何でも違うことくらい。それを懸念したのだとしたら、“欲望という名の電車”の安っぽい二番煎じになることをもっと気にして欲しかったよね。せっかくの良い映画なんだからサ。

 

◆独裁国家は右も左も結局同じ。

 ……とまぁ、文句はこれくらいにして。

 映画自体はなかなか良かったのよ。終始途切れることのない緊張感と、若者たちの青春ドラマが良い具合に絡み合って、秀作だと思う。

 誰が首謀者なのか、、、を執拗にあぶり出そうとするシュタージの手先みたいな女ケスラーが怖い。見た目も怖いが、高校生たちに厳しい心理戦を強いてくるあたり、やはり怖ろしさを感じる。

 私があの教室の1人だったら、ケスラーが怖ろしくてあっさり口を割ってしまいそうだと思って見ていた。というか、怖ろしさの余り、口には出さなくても、激しく挙動不審になり相手にバレてしまいそうだ。

 しかし、彼らは首謀者の名を絶対に口にしない。ケスラーの揺さぶりにも何とか耐える。大臣が来ても、動揺しながらも口を割らない。……スゴイ。

 なかなか事態が進まないことで、生徒たちの親も巻き込んでいく。親たちもいろいろな背景を持っていて、皆、この国での我が子の将来が心配なのだ。中でも首謀者クルトの父親は威圧的で、共産主義の権化みたいな人間だが、いざ我が子が西側へ逃げた際には、その行動を無言で後押しするのである。検問所でのこのシーンには胸を締め付けられる。

 ドイツは、敗戦により国が二分されたことで、同じ敗戦国でも日本とはまた違う意味で非常に複雑な感情が戦後人々の間に渦巻いたことが改めて分かる。やっていることはナチと大差ないのに、ナチを毛嫌いする共産主義国家。とにかく、矛盾だらけで、見ていて息苦しくなってくる。

 だからこそ、彼らが最終的に乗った列車が“希望”という名のものなどではない、と改めて言っておきたい。そんな甘っちょろい話じゃないのだ、この映画は。

 

◆その他もろもろ

 首謀者クルトを演じたトム・グラメンツ君よりも、その親友テオを演じたレオナルド・シャイヒャー君がイケメンで可愛かった! キャラ的にもクルトよりテオの方が魅力的。

 あと、テオのガールフレンド・レナを演じたレナ・クレンクちゃんが可愛かった。役のキャラはイマイチ好きじゃないけど。テオみたいなイイヤツが彼氏なのに、クルトと浮気しちゃうとか。……まあ、テオとは信条が違うから、、、ってことみたいだけど、なんだかなぁ。ただ、それがバレたあとのテオの言動がなかなか大人でナイスだったのもポイント高し。

 そんなテオの父親を演じていたロナルト・ツェアフェルトは、どこかで見た顔だなぁ、、、と思っていて、終盤気付いた。『あの日のように抱きしめて』でニーナ・ホス演じるネリーの夫ジョニーを演じていたのだった! でもジョニーはもうちょっとシュッとしたイケメンだった記憶があるのだが、もしかしてかなり太ったのかな、、、?

 しかし、大臣を演じたブルクハルト・クラウスナー、出番は少ないのにスゴイ存在感。怖い怖い。同じくらいケスラーを演じたヨルディス・トリーベルも怖い。とにかく表情がまったく変わらない。動じない。こういう人は怖いよね、、、。

 本作は、実話が元になっているとのことだが、実際には、4人を除いたクラス全員が、西側に逃れたのだとか。……でも、その背後には、東に残った家族がいるんだよね。だから、やっぱり、希望という名の列車なんかじゃなかったのだよ、彼らが乗ったのは。

 

 

 

 

 

自分の18歳頃と比べると、、、

 

 

 

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ホフマニアダ ホフマンの物語(2018年)

2019-04-21 | 【ほ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv67375/

 

以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 今や作家、作曲家として大成したエルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマンは、自分の人生と作品を振り返り、過ぎ去った日々を思い起こす。

 若い頃、ドイツの小さな町で裁判官見習いとして働き、質素な家の屋根裏部屋を借りて音楽家を目指していた日々。昼間は官庁で退屈な仕事をこなし、仕事の後は近所の居酒屋に足を運び、夜は芸術的な創作活動に熱中する。彼の目には、官庁の官僚たちが灰色で卑劣なネズミのように映っていた。まるで食べ過ぎで退屈な獣のような習性を持った心のない操り人形のように。

 そんな日々の中、突然、エルンストの目の前に開く空想世界アトランティス。そこでエルンストは、学生アンゼルムスに変身する。そんな彼を翻弄するのは、3人の若い女性たち。上流階級のヴェロニカ、無口で神秘的なオリンピア、そして美しいヘビ娘のゼルペンティーナ。どの女性も、それぞれアンゼルムスにとっては理想の姿を持っていた。

 アンゼルムスがニワトコの木の下で出会い、恋に落ちたヘビ娘は、若く美しいゼルペンティーナに変身する。だが、彼女の父親は現実社会では、枢密文書官サラマンダー・リントホルストだった。さらに、市場では年老いた魔女と出会い、砂男だと確信する父の友人の弁護士コッペリウスがエルンストの前に現れる……。

 上流社会の無関心、虚栄心の強い官僚たちの醜さ、偽物の美しさによる策略の罠と日々対峙するエルンスト。彼はそんな現実社会をアンゼルムスの純粋さと熱意によって切り抜けていくが……。

=====ここまで。

 あの『チェブラーシカ』のソユーズムリトフィルムによるパペットアニメ。制作に15年かかったとか、、、。

 

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 基本的にアニメはあんまり興味ないんだけど、なぜかパペットアニメは別。自分でも、なんで人形アニメになると俄然そそられるのか分からないけど、つい見てしまうのだよね。本作も、たまたまチラシで知って、上映期間が短いので、ヘロヘロな身体にむち打って(?)頑張って見に行って、大正解!

 

◆気が遠くなりそう、、、。

 現実と妄想(というか、ホフマンの小説)を行ったり来たりする幻想物語なので、不思議な感じがするけど、ストーリー的には破綻もなく、このジャンルにしては分かりやすい方だと思う。

 ホフマンが書いた物で日本でもよく知られているものといえば、バレエにもなっている「くるみ割人形」の原作、「くるみ割り人形とネズミの王様」ですかね。私は、ホフマンについては全くの無知なんでここで解説を書くつもりはさらさらなく、詳しく知りたい方は、公式HPをご覧いただきたい。

 いずれにしても、本作は、そのホフマンが書いた物をいくつか融合させた物語が、エルンストの妄想として視覚化されているという、二重構造になっている。

 3人の女性が出て来て、そのうちの1人ゼルペンティーナと永遠の愛を誓っておきながら、上流階級の娘ヴェロニカに恋をしたことで、なんとアンゼルムスは瓶に閉じ込められてしまうという、、、。何か、夢野久作の小説みたいだと思ってしまった。

 おまけに、もう1人の女性オリンピアは、なんと人形なのである。パペットが、実は人形だった!なんて、なんかギャグみたいというか、シュールというか、、、。でも見ている間はまるで違和感もなく。人形は人形でも、人間みたいに自由に動く人形なのよ。まあ、AIアンドロイドみたいなものかしらね。しかもこの人形娘をアンゼルムスと他の男と奪い合いになって、挙げ句人形が壊れるという、、、。壊れるときも、オリンピアは無表情でね。まあ、人形だから当たり前というわけね。

 ちなみに、上流階級の娘ヴェロニカは、あっさり成金男と結婚しちゃうんだけど、その男が、まんま“馬”なんだよね、顔が。そのあからさまな風刺が笑っちゃったんだけども、後でパンフを読んだら、これはホフマンの実体験であるらしい。彼が恋をした名家の令嬢が、下劣な男と結婚しちゃったのだとか。……なるほどねぇ、こうやって、モノ書きは現実の憂さ晴らしをペンでしているのだね。こんな絵に描いたような馬キャラにしてもらって、さぞやホフマンもあの世でほくそ笑んでいることでしょう。

 エルンストは、アンゼルムスに自分の夢や希望を投影することで、現実をどうにかやり過ごそうとしているわけだけど、それはそのまま、ホフマンが小説を書いて現実をやり過ごそうとしていたことなわけで、そういう意味では本作は三重構造でもある。

 つまりこの映画は、エルンスト(=ホフマン)の脳内にある想像や妄想の映像化を試みた、とも言える。そしてそれは、成功していると思う。現実と妄想の危うい融合は、パペットアニメだからこそ出来たことかも。

 まあ、ストーリーというか、内容的にはそういうことだけど、本作の見どころは、やっぱりそのアニメーションと世界観でしょう。公式HPにはメイキングの動画もあるが、これを見ると、もう気が遠くなりそう。そりゃ、15年かかるわ。

 本作の監督スタニスラフ・ソコロフは本作についてこう言っている。

 「現実の人生のネガティブな側面を創造のエネルギーに変えること、下品さには高い芸術性で対抗し、富や権力を得ることよりも偉大な別の目標を自覚することです」

 

◆カップリング上映された作品について。

 ところで、本作の上映前に、こちらも人形アニメなんだけど、『マイリトルゴート』という作品も併せて上映された。これは、東京芸大大学院の卒業制作らしいが、これがね、、、何とも言えない作品で、正直言ってドン引きしてしまった。本作を見る前に、なんとも鑑賞意欲を萎えさせるアニメだった。

 10分くらいの小品だが、内容がエグい。児童虐待、しかも、実父による性的虐待を描いており、かなりグロテスク。グリム童話『オオカミと7匹の子ヤギ』をモチーフにしていて、襲われた子ヤギたちのパペットの造形も不気味そのもの。私は、かなり不気味なものや、エグい・グロいものに免疫がある方だと自負しているが、これは少々受入れがたいものがあった。

 私の理解力不足なんだろうが、残念ながら制作の意図が分からなかった。別に、虐待を茶化すようなふざけた作品ではもちろんないが、これは実際に虐待経験を持つ被害者が見たら、どう思うのだろうかといささか懸念してしまう。

 オオカミと虐待者を重ねているのだけど、それってどうなのか。オオカミは、生きるために捕食するのであり、それと虐待者を重ねるのは、私にはどうにも抵抗がある。『オオカミと7匹の子ヤギ』のオオカミは悪者扱いだが、それとて、本を正せば弱肉強食の自然の摂理に基づく行動であり、本来する必要のない行動を相手の弱さにつけ込んでする虐待とは次元の違うものではないか? まあ、オオカミ(とキツネね)は童話の中では大抵“悪者”扱いされているから、そんなに深い意味はないのかも知れないけど。

 この作品は、いろいろな賞を受けていて、海外でも評価されているらしい。なんか、それもビックリだけど、……まぁ、私が考え過ぎなだけなんだね、多分。制作者の他の作品もネットに上がっていたので(1作品のみ)見てみたが、そちらもあまりピンと来なかった。相性の問題かしら。

 

 

 

15年の制作期間に納得。

 

 

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ぼくの名前はズッキーニ(2016年)

2018-03-08 | 【ほ】



 絵を描くことが大好きなイカールは、大好きなママと暮らしていた。ママは、イカールのことをなぜか“ズッキーニ”と呼んでいて、イカールはその呼び名が大のお気に入りだった。でも、ママが好きなのは、ビールを飲むことで、ママがビールをたくさん飲むようになったのは、パパが“若い雌鶏”のもとに去ってしまったからだ。でも、ズッキーニは、ときどきママの癇癪に恐れおののきながらも、ママとの暮らしに満足していた。

 が、そんなある日、ハプニングでズッキーニのママは死んでしまう。そして、ズッキーニは、フォンテーヌ園という施設に預けられることになったのだが、、、。

   
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 予告編を見て、ちょっと不気味な人形が脳裏に焼き付いて気になっていたんだけれども、なかなかタイミングが合わず、どうしたものか、、、と思っていたところ、ようやっと先週、見に行くことが出来た次第。とはいえ、さほど期待していなかったんだけど、思いのほかグッときてしまった、、、。


◆嗚呼、ズッキーニ、、、。

 いきなり、ズッキーニのママが死んじゃうんだけれども、上記あらすじに書いた「ハプニング」ってのは、ズッキーニのしたことに原因があって、つまりは、ズッキーニがママを(もちろん故意ではなく)殺しちゃった、ってこと。がーん、、、。なんちゅう出だし。さすが、スイス・フランス制作、非常に毒のある展開。

 なので、ズッキーニはほんのちょっとだけど警察のお世話にもなるわけで、施設に連れてきてくれたのは、警察官のレイモン。このレイモンがイイ味出しているのよ。車中、寂しそうに、パパの絵を描いた凧を大事に抱えているズッキーニを見て、レイモンが「凧、上げて良いよ」というのね。すると、ズッキーニがちょっとこわごわ、車の窓から凧を出すわけ。短く持った糸の先に泳ぐパパの絵が描かれた凧。ううむ、、、もうここで既に涙腺が緩む。

 施設に着くと、先輩の子どもたちがお出迎え。ボス的存在がシモンで、いかにも一癖ありそうなキャラだけど、イイ奴だとすぐに分かる。その数日後に今度はカミーユという女の子が施設にやってくる。このカミーユが少し大人びたキャラでなかなかイケている。案の定、ズッキーニはカミーユに恋をするわけね。まあ、子どもたちのキャラ配置は、割とお約束に近いかも。

 でも、決して類型的ではない。

 とにかく、子どもたちの抱えている背景が、予想を上回る壮絶さ。父親が母親殺しちゃったり、親に性的虐待受けていたり、遺棄されちゃったり、親が移民で強制送還されて置き去りにされちゃったり、、、まあ、何でもありに近い。

 施設での描写がストーリーのほとんどを占めるんだけど、特段、何か事件らしい事件が起きるわけでなく、日常の生活の風景が丁寧に描かれ、その中で子どもたちが感受性豊かに成長していく様が実に素晴らしい。割と、性(セックス)についてのセリフや会話も多く、さすが、ヨーロッパだとその辺りは若干文化の違いを感じるが、でもそれがまたカギにもなっている。

 施設で働く大人たちの中に、一組の新婚夫婦がいて、彼らの愛情表現や妊娠・出産が、子どもたちの織りなすストーリーに寄り添うように語られる。これらを通して、子どもたちは、人間が生まれるということの神秘を知り、生まれたての赤ちゃんに触れることで、愛しく守りたい存在を実感するわけだ。自分たちは、親に必ずしもたくさんの愛情を注がれなかったけれども、愛しいという感情を抱くことで、少しずつ人を愛し愛されることも実体験していくということだろう。

 子どもの話だからといって、性をタブー視しないところはむしろ好ましく、日本でも今や小学生からあれくらいオープンな性教育をした方が子どもたちのためではないかとさえ感じさせられた。 

 強いて事件というと、カミーユが、叔母に養育費目当てにムリヤリ連れ帰られてしまうところ。ここで、子どもたちが協力し合って、カミーユを奪還するのだけど、なんとも微笑ましい。このときのキーマンが、実はレイモンだったりするのもツボ。この出来事を通じて、レイモンは、ズッキーニにとってカミーユが特別な存在であることを知り、その後、ズッキーニだけでなく、カミーユも一緒に引き取り、育てるという決断に至るわけだ。

 そのほか、施設でスキー合宿に行き、そのときの子どもたちの生き生きとした描写も素晴らしい。

 とにかく、ズッキーニの成長というタテ糸に、幾重にもヨコ糸が編まれていて、実に滋味深い、奥行きのある作品になっている。


◆ちょい不気味なのに愛くるしい。

 本作の特徴は、なんと言ってもその人形にある。特徴的な顔、……というより、とりわけ目が特徴的で、一見するとかなりヘンな目である。どの人形も、まん丸な目をしていて、目の回りをぐるりとラインが囲んでいて、瞳が完全にまん丸な状態で剥き出しであり、これ、かなり異様な造形である。おまけに、まぶたがまん丸な目の上側にちょっと重たく被さっていて、眠たそうな目になりそうなんだけれども、これがこの特徴的な目を怖くないようにしているんじゃないかなぁ、と感じた次第。

 あと、耳と鼻がちょっと赤い。これはキャラによって色も濃さも違うんだけれど。ズッキーニが一番赤いかな、耳も鼻も。

 パンフには、『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』のティム・バートンのキャラを思わせる、と書かれていたけど、私的には見ているうちに、どことなく、シュワンクマイエルのアニメと雰囲気が似ていると感じたのもツボだったかも、、、、。シュワンクマイエルほどぶっ飛んでいないし変態でももちろんないけれども、ちょっとグロテスクなところとか、世界観とか、通じるものがある気がしたんだよなぁ。

 何より、人形の動きがとっても繊細で感動的。手足の動きもだけど、やっぱりこちらも、目がポイント。この目(特に瞳)のちょっとした動きで、その心情まで見事に表現してしまう。これは素晴らしい。ズッキーニが絵を描くシーンがいくつも出てくるんだけど、これが何とも心に沁みる、、、。絵も可愛いしね。

 難癖を敢えて付けるとすれば、終盤の展開がやや甘いかな、というところ。一種のファンタジーになっているとも言える。……まあ、でも、私はそれでも十分、鑑賞後に幸福感に浸れたし、登場する子どもたち皆に愛着を感じられたので、ゼンゼンOKである。


◆トークイベント付きだった。

 見に行った回は、たまたま、上映後にトークイベントがあるとのことだった。エンドロールが終わって早々に、『この世界の片隅に』の監督・片渕須直氏と、アニメ特撮研究家・氷川竜介氏が登場。

 片渕氏は、本作のクロード・バラス監督とも対談されたそうで、その際のエピソードなどが披露された。ただ、トークを主導する氷川氏の合いの手を入れるタイミングがあまり良くなくて、片渕氏の話を途中で遮る形になるところが多々あり、本作に対する片渕氏の思いや視点など、もっと聞きたかったなぁ、というのが正直な感想。なので、トークの中身はハッキリ言って薄かった(残念)。

 劇場のホールに、ズッキーニの本物の人形が展示されていて、思わず写真撮っちゃったわよ。何かっていうとスマホ構えるの、正直言って嫌いなんだけど、こればかりは迷わず撮影。後ろ姿もキュートだったわ。思いのほか小さくて、ホント、繊細な扱いが求められそうな、、、。人間の子どもと同じだな、と思ったり。

 


 66分の作品。制作に2年を要したとか。むしろ、よく2年で作れたな、と思うほどの完成度。公式HPには、パイロットフィルも公開されていて、これがまたgoo。

 押しつけるのは主義に反するのだけど、多分、見て損はない映画だと思います。


 






施設に残ったシモンのその後がすごく気になる、、、。




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炎628(1985年)

2015-11-30 | 【ほ】



 第二次大戦下の白ロシア(現在のベラルーシ)で、とある村がナチスの特別行動部隊(アインザッツグルッペン)により全滅させられた。なぜなら、その直前、ドイツの偵察機が、村の少年フリョーラが機関銃を持って荒野にたたずんでいるのを見つけていたからであった。フリョーラは友人の少年と、村の長老に武器を掘り出すことを諌められるのも聞かず、機関銃を見つけて喜んでいたのだった。

 フリョーラは地元のパルチザンに入ろうとして、少年であるために隊から置いてけぼりを喰ってしまい、仕方なく自宅に戻って、村中の人々が惨殺されていたことを知ったのだった。自分のせいで村が虐殺の的にされたと知り、精神的に追い詰められるフリョーラ。

 その後、アインザッツグルッペンは、地元民を集めると、とある教会の中へ入るよう皆に命令し、地元民たちは続々と押し込まれていく。そして、扉が閉められ、、、。

 1943年3月、ハティニという村の住民149名全員が惨殺された事件を題材にした映画。タイトルの628は、ナチスによって焼き払われ、殲滅させられたベラルーシの村の数、だということです。
 
 
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 有名なトラウマ必至の戦争映画、ということで、今さらですが見てみることにしました。

 で、感想ですが、正直なところ私には、そこまで騒ぐほどトラウマ映画ではありませんでした。ホロコーストものなら、もうさんざん色々な映画を見ているので、衝撃には慣れてしまっているというのもあるかも知れませんが、ソ連がやったことをおぼろげながらも知っているので、あまり被害者側一辺倒になって見ることが出来なかった、というのもあるかも。いずれにしても、戦争映画の衝撃度でいえば、私は、『戦場のピアニスト』の方が遥かに大きかったです。

 本作の前半は、少々退屈。フリョーラがパルチザンに入り損ねて、自宅に戻ってくるまでの少女とのあれこれが、う~ん、という感じ。あの少女は、ラストでナチにレイプされて血まみれになっていた女の子と同一人物なんでしょうか? ちょっと、顔がよく判別できませんでした。であれば、あの長々としたシーンも多少は理解できますけれど。

 中盤からは一気に緊迫度が上がります。まず、フリョーラが自宅に戻った時の、その自宅の何とも言えない不気味さ。誰もいない、でも、ただの留守とは到底思えない不穏さ。それから後は、ひたすら地獄絵巻。もう、ひどいのなんの。でも、あれが実際にあった光景と大差ないのだろうな、と思います。

 そして、ラストの生きたまま地元民たちを焼殺するというおぞましい虐殺行為。何も言うことはありません。

 最初は、ごくごく普通の少年だったフリョーラですが、恐ろしい体験を重ねていくうちに、髪は白くなり、顔もどんどん皺が増え、最後には老人のような容貌になっています。特殊メイクだろうけれど、これが本作で一番印象的だったかも。

 あと恐ろしいのは、虐殺の後に、パルチザンに捕えられたアインザッツグルッペンの将校が殺されるのを目前に吐くセリフです。「子どもから始まる。だから生かしてはおけぬ。必ず殲滅する!」(セリフは正確ではありません)というもの。子どもは守るべき存在ではない。共産主義の子どもなど、世界の癌だというわけです。だから絶滅させなければ、と、信じていたんでしょうなぁ、あの将校さんは。

 ナチスは確かに子どももたくさん殺していますし、そもそも民族浄化というのは、ある民族を根絶やしにするわけですから子どもこそ殺さなければならない存在、という思想は、まあ、当然といえば当然です。あの将校も、金髪碧眼で長身のイケメンでした、そう言えば。

 別に、ソ連もソ連なんだから、こんな映画作って被害者面してんじゃねーよ、などという気はさらさらないし、いろんな立場の人がいろんな側面から物事を描くのは大切だと思いますので、本作に存在意義はもちろん十分あります。実際に、ナチスがこの地で行ったことはただの虐殺で、その思想だの大義名分だの、何の意味もなしません。

 ただ、場所が変われば主客転倒し、虐殺者は被虐殺者となり、被虐殺者は虐殺者となるのです。ですから、本作を見て思うのは、戦争とは、人間の理性をあっさり奪うものであり、人間とはあっさり理性を捨てられる愚かな生き物であるということです。それ以上でも、それ以下でもない。『ベルファスト71』を見た時も思ったけれど、戦争や紛争は、結局はただの殺し合いだってことです。どちらにも義はないよね、あると言うだろうけど、双方ともに。

 今、ISISを空爆していますけれど、あれも同じことですよね、結局。それで解決なんかしないと、みんな頭では分かっているのに、メンツが勝ってしまう。あそこで、今、本作で描かれていたようなことが現実に起きているのだと想像する方が、恐ろしい。恐ろしい、と言っているだけで、何もできない、しない自分も、確かにここにいるわけで。せめてアベベには、有志連合に参加するなんて勇ましいこと考えず、いかに戦力でない方法で解決の糸口を探るかを考えて我が国の立ち回り方を示していただきたいものです。ま、ムリでしょうが。

 





思ったほどの衝撃はなかったけど、悲惨な内容です。




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放浪の画家 ピロスマニ(1969年)

2015-11-24 | 【ほ】



 グルジア(現ジョージア)の画家ニコ・ピロスマニの半生を描いた作品。あらすじは、、、書き様がありません、悪しからず。

 1978年に日本で公開され、今回、グルジア語オリジナル版がデジタルリマスターされ、初公開時と同じ岩波ホールにて再上映されることに。

 余談ですが、貧しい画家と女優の悲恋を歌ったとされるあの“100万本のバラ”の歌のモデルが、このピロスマニだそうです。
 
 
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 初日の初回に行ったので、冒頭、支配人・岩波さんのご挨拶がありました。初日はこういうのがあるので良いですね。客層は、ハッキリ言って年齢高め。同い年の映画友と2人で行ったんだけど、私たちより若者と思しき方の姿がほとんど見当たりませんでした、、、。しかもかなりの人。初公開時にご覧になった方々が、リバイバル上映でいらしたんでしょうかね、、、。ま、余談ですが。

 しかし、、、なんかもう、画家の映画でハッピーなのって思い当たらないですけれども、本作も例外でなく、どツボな不幸映画です。

 ピロスマニ(本名はニコロズ・ピロスマナシュヴィリ)は、周囲からは“ニカラ”と呼ばれていて、彼は画家として一定の尊敬は集めてはいるのですが、何しろ、人間として不器用というか、正直すぎるというか、とにかく何かと上手く行かずに、どんどん孤独への道を歩んで行ってしまうのです。

 冒頭からして不穏さ全開。聖書の一節が読まれている声をバックに、美少女が病気なのかベッドに横たわり、奥の部屋には女性が3人座っており、一人は「姉同然に接して来たのに、、、」と言って、よよと泣いている。どうやら、この女性は、ピロスマニの義姉らしく、ピロスマニはこの家の養子だったということらしい。その義姉にラブレター書いちゃったんですね、彼は。で、家を追い出される。

 その後はまあ、あれがあってこれがあって、歌のモデルになった女優さんが歌って踊っているシーンもあり、その間、ピロスマニはどんどん風貌がやつれて老い、病的になって行き、終盤は穴倉のようなすまいで孤独に絵を描いて暮らしているところへ、馬車に乗った男がお迎えにやってくる、、、でエンドマークです。

 、、、え? これで終わり? 的な、バッサリ感。ひゃー、ちょ、ちょっと待ってよ、つまりあのお迎えは、本当の意味でのお迎えだったのか? ピロスマニは死んじゃったんですか? と思っている間に、エンドロールもなく劇場は明るくなってしまいました。古い映画にはこういう、バサッと終わるの、割とある気がしますが、、、。ものすごい置いてけぼり感、、、。

 彼の絵もふんだんに出てきまして、私の好きな感じの絵ではないけれど、面白い絵が多いなと思いました。特に、途中で、ピロスマニが友人と一緒に始めた乳製品のお店の看板に掲げられていた黒い牛と白い牛の対になった絵とか。砂漠みたいなところにぽつねんと立っているお店の建物に、その牛の2枚の絵が、入り口を挟んで向かい合って掛かっているのが、絵的にとても印象に残ります。

 ピロスマニ、良く言えばすごいマイペースなんですよ。というか、これは正確に言えば、ただの自分勝手。商い中に、店を飛び出していったかと思うと、干し草を買い込んできて地面に敷くと、そこに寝転がったりとか。、、、は? な描写が一杯。

 かと思うと、ピロスマニを支持していると思われる大男が店に入ってきて、ピロスマニを侮辱するようなことを言う人にブチ切れたかと思うと、いきなり店のテーブルをひっくり返すとか。、、、え、何で???そこで急にテーブル返し、、、?みたいな。

 説明シーンが一切ないので、予備知識がないと、ちょっと分かりづらいところは多々あるかなぁ、と思います。

 が、なんというか、作品全体を覆うどよよ~~んとした空気感と、ピロスマニの個性的でユーモアさえ感じる絵が、うまい具合にギャップを醸し出し、おまけに書いてきたように意味不明な唐突な展開のシーンが時折はさまれると、何だか、好奇心だけで最後まで見せられてしまいました。面白い、というのとは違うんだけど、何と言うか、“何なん、このピロスマニって人!!”という、おかしな感じに支配されました。

 まぁ、画家ってやっぱり、ちょっとヘンでないとなれないし、続かないんでしょうね。あらゆる方面の感覚がバランス良く育っていたら、画家になんてなれないんじゃないかしらん。どこか、尖がっているから人と違うものを見たり感じたりでき、それを絵に表現できるのだと思うので。そうしてみると、安定と平凡の上に成り立つ一般的な幸せ、なんてのは彼らの対極にあるわけで、どうしたって不幸映画にならざるを得ないんだよなぁ、、、と妙に納得したのでした。

 結婚式のシーンがあるんですが、そこで老人がその体からは想像もつかない朗々とした声で歌を歌いだします。それに続いて奏でられる音楽はグルジア伝統のポリフォニーだそうです。この宴会のシーンが一番、平常心で見られたかな。後は、??か、!!の連続でございました。






画家映画は不幸映画。




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BOY A(2007年)

2015-10-03 | 【ほ】



 少年時に殺人事件を犯した「少年A」が、保釈されることに。ジャック・バリッジと名を変え、テリーという保護監察司の全面的なサポートの下、仕事にもつき、職場の友人にも恵まれ、恋人もでき、順調に社会復帰のスタートを切った。

 ・・・が、ある日、ジャックの過去が世間に明るみになる。仕事は問答無用で解雇され、職場の友人には去られてしまい、何より、どこもかしこもかつての自分の話題で溢れている。一体、どうしてジャックの正体がバレたのか。

 少年犯罪について考えさせられる作品。

 
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 上野千鶴子さんの「映画から見える世界」で紹介されていた一本。気が進まないなあ、、、と思いながらレンタルリストに入れておいたばかりにとうとう見る羽目に。

 こんなの、日本人なら誰だって“あの事件”を思い起こしますよね。特に、今年になってからは手記を出したり、HPを立ち上げたりと、話題になっておりますので(ちなみに、私は手記もHPも目にしていません)。イギリスでも、少年2人による凄惨な事件が起きたのは、まだ記憶している人も多いでしょう。本作は、その2つの事件を嫌でも頭の隅に置きながら見ることになります。

 で、見ていて思ったのですが、薬丸岳の小説「友罪」と似ているなぁ、と。小説を読んでから時間が経っているので細かいところは忘れましたが、保釈される少年A、監察司(ではなかったかも。とにかく少年Aの社会生活を支える人です)、監察司と監察司の子どもとの関係、あたりの設定がそっくりです。小説の方の監察司は女性でしたけれど。

 そしてさらに、ジャックが、途中で恋人に自分の過去を打ち明けたくなって葛藤する場面では、成瀬巳喜男監督の邦画『女の中にいる他人』とダブってしまいました。『女の中~』でも小林桂樹演じる主人公の中年男が浮気相手の女を殺してしまった(妻はそのことを知っている)ことを黙っているのが苦痛になり自首しようと葛藤するんですが、家庭と子どもの将来を案じる妻が断固自首を阻止します。

 どうしてそんな映画とダブったのかというと、ジャックが過去を打ち明けたくなったのも、中年男が自首したくなったのも、単に「楽になりたいから」に見えたからです。

 特に、ジャックの場合は、完全に過去を封印して別人を生きなければならないので、確かに苦しいだろうとは思います。しかし、そんな重大な過去を聞かされた人はどうすれば良いのでしょう。その人の抱える苦しみをまったく考えていないのですね。ジャックが苦しむのは当たり前です。それが自分の犯した罪の大きさと向き合うことであり、贖罪につながる第一歩であるのに、彼はそれを、まだ保釈されて日が浅い段階で、もう音を上げている。本当に自分のやったことの重さを理解していたら、殺された少女のことを真摯に考えたら、、、打ち明けて全て受け入れてほしい、などというのは甘い夢にすぎないと分かるはず。彼は、長く服役して好青年になったように見えるけれど、まだまだコトの本質を分かっていなかった、ということです。

 そう、世間はそんなに寛容じゃないのです。私も、ジャックの過去を知ったら、やはり受け入れられないと思うし。人殺しは、私の想像力の範囲を遥かに超えています。生理的にも受け付けない気がする。

 あと、本作を見ていてちょっと不快だったのは、ジャックがとても“かわいそうな子”と強調し過ぎな感じがしたからです。ジャック=エリック・ウィルソンの生育環境は確かに機能不全家族だったみたいだし、学校でも居場所がなくいじめられていた、、、。そして、そんなエリックがようやく出会った心許せる友が、フィリップという実の兄に性的虐待を受けた孤独で暴力的な少年だったのも必然と言わんばかり。でもって殺人に関しては、エリックはあくまで従犯であり、主犯はフィリップで、、、。しかも被害者の女の子は問題がある子のように描かれ、、、。つまり、少年エリックは大人や周囲の犠牲者、、、とでも言いたげなのです。そして、保釈後は人助けをしたり、真面目に仕事に励んだり、、、と、良い面ばかりが描かれる。ちょっと類型的過ぎで白けちゃう。

 かわいそう度でいったら、フィリップの方が遥かに上かも。フィリップは服役中に死んでしまっているんだけど(自殺とされているが実は、ムショ内でのリンチだったらしい)。まあ、フィリップは、到底、更生などあり得なさそうな子でしたが。だからむしろ、彼こそ大人の犠牲者なのでは?

 監督ジョン・クローリーは「人は変わることができる」というテーマで本作を撮影したとのことですが、、、。うーーん、「変わることができる」には賛成ですが、それなら、更生が難しそうなフィリップが変わるのを描いた方が、より説得力のあるものになったのでは?

 本作で唯一共感できたのは、ラストシーンです。あれしかないだろうな、と。ちなみに、『女の中~』の小林桂樹は、新珠三千代演じる妻に毒殺されます。不謹慎かもしれないけどハッキリ言って、溜飲が下がる幕切れでした。ホント、身勝手そのもののオッサンだったんで。、、、引き換え、本作は、後味は悪いです。

 監察司テリーを演じていたピーター・ミュランは、実の息子とはうまく行かない父親を相変わらず渋く演じておられました。この、テリーと息子のギクシャクが、ジャックの過去がバレることにつながったのですが・・・。

 ジャックのアンドリュー・ガーフィールドは、不安定な感じを上手く出していて好演です。『ソーシャル・ネットワーク』での彼とはかなりイメージが違っていてビックリでした。



 




同じ職場のあの人が少年Aだったら、、、




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ボヴァリー夫人とパン屋(2014年)

2015-09-07 | 【ほ】



 フランス・ノルマンディー地方のとある町で、長年勤めた出版社を辞め、父親の後をついでパン屋になったマルタン(ファブリス・ルキーニ)。

 ある日、マルタンの家の隣に、イギリスから若いイギリス人夫婦が引っ越してきた。夫婦の名前はチャーリー&ジェマ・ボヴァリー。マルタンは、勝手に小説「ボヴァリー夫人」とジェマ(ジェマ・アータートン)を重ねあわせて見てしまうのだった。

 そして、あろうことか、ジェマは、小説の中でボヴァリー夫人、つまりエマがしていたことと同じこと(=不倫)をしてしまっていることに驚いてうろたえる。このままじゃいかん、、、なんとかせにゃ、、、。

 フローベールの小説「ボヴァリー夫人」を下敷きに、パン屋という第三者の視点から見た、ゼンゼン別の物語が展開されるユニークな作品。

 
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 見に行こう、行こう、と思いつつ、なんやかやと先送りしているうちに、サービスデーで見に行ける時間の上映がなくなってしまった、、、。ので、夏休みをとって、ついでに美術館にも行って、ようやっと見た次第。大して期待していなかったけど、なかなか面白かったです。

 事前に『ボヴァリー夫人』の映画2本で予習しておいたのは、まあ良かったです。何も知らずに見たら面白いところが分からなかったと思うので。

 マルタンは、パリで出版社勤務の生活に疲れて田舎に引っ込んだんだけど、毎日毎日パンを焼くだけの生活に、ちょっとばかし飽きていたところへ、ボヴァリー夫妻が移住してきたわけです。マルタンの単調な日常は一転、刺激的な日々へ変貌します。

 隣人夫婦、特にジェマの行動が気になって仕方がないのですが、気になる理由はもちろん小説と夫婦の名前が一致するからだけはありません。ジェマの弾けるような若さ溢れるセクシーな魅力にKOされたからです。ジェマが散歩している後姿を見ながらの独白「この何気ない彼女の仕草に一瞬にして10年間眠っていた性欲が目覚めた」、って、、、。正直過ぎなマルタンです。

 もう、ここからはマルタン爺さんの妄想全開。別にボヴァリー夫妻は現実の生活をしているだけなのに、マルタン爺さんは、勝手に小説に当てはめて、勝手にコーフンしてるわけね。自分がジェマの相手になることがないのは分かってる。でも、ジェマのあんなことこんなことを妄想して、、、うひょ~!!みたいな。妄想しているだけなら良かったんだけど、なんと、マルタン爺さん、小説に重ね合せてジェマの不倫に介入しちゃう!! もう、ほとんど酔ってますな、妄想の世界に。

 途中、マルタンが、パン工房にジェマを案内するシーンがあって、そこで、ジェマに生地の捏ねを体験させてあげるんですが、演出がちょっとわざとらし過ぎで引きました。まず、ジェマの生地の捏ね方。もう、まんまセックスを思わせる触り方。でもって「ここ暑いわ」とか言って、ジェマはセーターを脱いだり、髪をかき上げたりするんだけど、その後、その手でまた生地を捏ねる。「汚ねぇなあ」と内心ツッコミを入れた人は私だけじゃないでしょう、きっと。マルタンとの官能シーンってのは分かりますけど、工夫がなさ過ぎ。あんなわざとらしくやらなくても、十分官能的なシーンになったのに、もったいない。

 元の『ボヴァリー夫人』みたいのを期待してしまうとトンデモ作品だけど、これは飽くまで、タイトル通り『ボヴァリー夫人“とパン屋”』で、“妄想爺ぃの覗き話”なのね。

 強いて元の『ボヴァリー夫人』に通じるところがあるとすれば、ジェマとエマに共通するキャラかなぁ。どちらも男に翻弄される人生、、、つまり、主体的に生きられない女、ですかね。

 こういう主体性のない(というか精神的に自立できていない)女性で、見た目が美しいと、悲劇だよねえ。美しいから男は寄ってくるけど、ロクなのがいない。男を自らの審美眼で主体的に選ぶということが出来ない。害虫ばっかし引き寄せちゃうアダ花みたいな、、、。

 とはいえ、私は、ジェマを演じたジェマ・アータートンが、さほど美しいとも思えなかったクチでして。テレンス・スタンプ主演の『アンコール!!』で見た時も、あんまし好きじゃないなぁ、と思ったんだけど、、、。顔も、まあキレイだけど、すごい美人じゃないし(と、作中でもマルタンの妻のセリフにある)、スタイルもセクシーだけど、私からすればちょっとゴツ過ぎ。私が最高にセクシーだと思う女優は、やっぱしモニカ・ベルッチなんで。細過ぎず、太すぎず、出るところは思い切り出て、くびれるところはしっかりくびれる、、、。そこへいくと、ジェマ・アータートンは、肩幅広くって寸胴で太いんだよなぁ。まあ、これは好みの問題なんで、別に良いのですが。

 でもって、ジェマの不倫相手の青年エルヴェを演じたニールス・シュナイダー。美青年という設定で、なるほどギリシア彫刻っぽい(実際、彫刻同様、全裸になっておられますし)けど、まあ、あんましそそられない、、、。うーーん、イマイチ。

 そうそう、イイ味だしていたのが、マルタンの奥さんです。イザベル・カンティエさんというらしい。マルタンがジェマに悩殺されてポカーンとなっても、呆れて見ていられる余裕のある奥さんです。嫌味を言ったりもしない。ジェマを「とびきり美人じゃない」と言うのも、別に嫉妬からじゃないのは明らかだし。きっと、奥さんの方が若い男にポカーンとなったら、マルタンは焼きもち焼くような気がしますけどね。でも、歳を重ねて、こういう夫婦になれるのっていいな~、と思います。

 それにしても、フランスのパンって、どれもみんな固そうですね。日本人はモチモチが好きだそうで、同じパンでもフランス人とはかなり好みが異なるとは聞いていましたが。捏ねたり焼いたりしているところは美味しそうなんだけど、出来上がったパンは、あんまし食べたいと思うものがなかったです。

 、、、と、ビジュアルでの文句ばかり書いているような。でも、ラストの意外性もなかなか(賛否あるとは思いますが)で、映画としてはかなり楽しめますヨ!






文学好き妄想爺さんの妄想全開なオハナシ。




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