映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

マイ ビューティフル ガーデン(2016年)

2017-04-30 | 【ま】



 ベラ・ブラウン(ジェシカ・ブラウン・フィンドレイ)は、生後まもなく親に捨てられた過去が原因なのか、予測不能なことが大の苦手である。物の並べ方や食べ物の配置、スケジュール通りの行動などにこだわり、規則正しいことで安心するのだった。図書館司書をしながら、童話作家を目指して童話を書く毎日であったが、正直なところ、こんな融通の利かない性格の自分を変えたいとも思っていた。

 そんなベラの最も苦手なものは、植物。植物こそ、予測不能な自然の営みであり、ベラにとっては恐怖でさえあった。今の部屋を借りる際、庭の手入れをすることも契約項目に入っていたが、全く契約を履行できていなかった。そのため、隣家の老人アルフィー(トム・ウィルキンソン)には文句を言われるわ、部屋のオーナーからは退去を命じられるわ、で、ベラはやむなく庭造りに取り組むことに、、、。

 庭造りを通して、内気で変人のベラが成長して王子様に出会うという、激甘ファンタジー。


 
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 劇場で予告編を見た際には、「潔癖症で、かなり屈折した女性が、ガーデニングに目覚めてその道を極めるハナシ」的なものだと思いました。病みかけた女性が、自分に合った道を見つけて、ひたすら極める(色恋ナシ)という、職業物語的な話は割と好きなので、見てみようと思い、劇場まで行きました。

 ……が。


◆シンデレラ物語

 正直、中盤辺りから、「なんだかなぁ、、、」という感じになってしまい、後半は少々拷問でした。

 後で気付いたんだけど、本作の宣伝キャッチには「ガーデニングから始まるシンデレラ物語」なんてのがあったのですね。これを知っていたら、わざわざ劇場まで行かなかったと思うなぁ。我ながら、読みの甘さにげんなり。

 何が嫌って、このヒロインは、周りの人にことごとくお膳立てされて、直面する問題が勝手に解決されていってしまうところ。まあ、シンデレラ物語ならそうなるわなぁ、、、と納得したけど。

 呆れるほどに予定調和な展開で、何のためにこの映画作ったんですか? と監督に聞きたくなる気分。ベラが追い詰められる状況が全くないんだもんね、、、。本作をぶっちゃけて説明すると、、、

 植物が嫌いで庭を放置していたけど、優しいおじさんとおじいさんのおかげで、庭いじりの楽しさを知りました。ついでに、イケメンの青年にも出会って、結婚相手を見つけることも出来ました! ヤッタ~~!!
 
 って感じかな。こんなん見て喜ぶの、結婚相手に白馬の王子様を待ち望んでいる“オメデタイ他力本願女”くらいなもんじゃないでしょーか?


◆ベラとG子

 そもそも、ヒロインのベラのこと、あんまし好きになれないんですよねぇ。

 ちょっとイラッとくるキャラだなぁ、と思いながら見ていたんだけど、特に、規則正しさが性癖であるベラが、遅刻常習犯という設定ってどーなの? 矛盾してないか? ……と思ったんだけど、見終わってから矛盾していないことに気付いたのでした。

 それは、職場に似た様な女性がいたからです。仮にその女性をG子とします。G子は、ちょっと病的なまでの几帳面さなのに、毎朝始業時間ギリギリか数分遅れてくるんです。そして、仕事も遅い。そーなんです。几帳面さと、時間のルーズさは同居し得る性質なんです。

 さらに、G子は、実はかなりの“面倒くさがり屋”であることも思い出しました。例えば、、、

① 職場の共用の紙タオルが切れていても、次の人のために補充しない。
② 自分がゴミ当番の日でも、誰かがやってくれないか様子見している。
③ 書棚の整理をする際に、古いものから順にまとめてしまうべきものでも、「どうせ使う可能性低いんだから、古い順に仕分けなくてもいいんじゃない?」と言う。
④ (③において)それどころか「いっそ捨てちゃえば」とさえ言う。
⑤ 自分が他部署の仕事を頼まれた際、第一義的な責任者は他部署の人なんだから、自分が「これはマズイ」と気付いたことにも、手を出したら面倒なことになるので見て見ぬふり、、、。

 等々。……で、ベラにもそれを感じたんですよねぇ。つまり、ベラは、身も蓋もない言い方をすると、極めて要領の悪い人間で、でも、自分の興味のあることは突き詰めることを厭わない。そして、それ以外のことは、彼女にとって“どーでもいいこと”なんだろうねぇ。だから、庭が荒れ放題でも、自分は困らないし興味ないからいいや、、、と。

 身近に、ヒロインのキャラを理解するのに最適な人がいたので、妙にベラに対してイラッとくることに納得してしまいました、、、ごーん。


◆その他モロモロ

 本作を見て喜ぶのは、他力本願女くらい、と書きましたが、それだけじゃないですね、そういえば。

 ガーデニングが好きな方は、楽しめると思います。私は、ガーデニングはあんまし興味ないけど、植物は好きなんで、アルフィーが庭造りや植物についてベラにアドバイスしてくれるシーンなどは、まあ面白かったかな。植物やガーデニングが好きな方は、もっと楽しく見られるんじゃないでしょうか。

 あと、アンドリュー・スコット演じる、ハウスキーパーのヴァーノンが作る料理が実に美味しそうなんです。料理の皿が出てくるシーンも楽しい。

 ……でも、見所はそれくらいでした、私には。

 ホント、ラストのラストまで予定調和というか、いがみ合っていたベラとアンドリューは仲良くなり、仲良くなったところでお約束、アンドリューは亡くなる。そして、実は、ベラの部屋のオーナーはアンドリューで、ベラに庭ごと部屋を遺贈する、アンドリューの家はヴァーノンに名義を書き換えるという、、、ベラとヴァーノンには、あまりにも分不相応すぎる棚ボタなオチに唖然としました。王子様はいらんけど、きれいな庭付きのステキな家を難なく手に入れられるなんて羨ましい。、、、ま、だからファンタジーなんですけど。

 ベラを演じていたジェシカ・ブラウン・フィンドレイは、「ダウントン・アビー」のシビル役を演じていたお方。シビルとは大分イメージが違います。本作での方がキレイに見えました。

 アンドリュー・スコットは、相変わらず上手いです。ベラにちょっと好意を抱きつつも、ベラの若い恋を応援する切ない役どころでした。エプロン姿が板についていて、さすがでした。







ガーデニングにご興味のある方はどうぞ。




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PK(2014年)

2017-04-26 | 【ひ】



 ある日、宇宙から地球に送り込まれた宇宙人。人呼んでPK(アーミル・カーン)は、地球に降り立った矢先に、宇宙船を呼び出すリモコンを人間に奪い取られてしまったので、リモコンを返してほしいと神頼みをするのだが、、、。

 方や、留学先のベルギーでパキスタン人青年に大失恋をして帰国し、TV局でニュース番組制作をしているジャグー(アヌシュカ・シャルマ)は、電車に乗っていて、駅で異様な風体をしてビラ配りをしている男(PK)を見掛け、番組のネタにと取材を試みる。が、その男は、自分を宇宙から来た生き物だ、と言う。しかも、何やら神様に殊に執着を見せている、、、。これは一体どういうこと……?

 アーミル・カーン&ラージクマール・ヒラニ監督の『きっと、うまくいく』コンビによる、大人のコメディ映画。


 
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 昨年の公開時に行きたかったけれど行きそびれ、、、。先週、早稲田松竹で、『きっと、うまくいく』と2本立てでリバイバル上映されていたので、見に行ってきました。


◆イノセントなるもの=宇宙人

 アーミル・カーンが、開始早々、全裸で登場。しかも、すごい鍛えたお体。『きっと、うまくいく』でも、20代の若者・ランチョーを演じて、ランチョーはここまでマッチョじゃなく、若々しい体つきだったけれども、本作は、まさにマッチョ。でも、彼はもともと小柄なので、マッチョでもそれほど威圧感はなく、アスリートっぽい感じで、マッチョアレルギーの私でも、それほど嫌悪感を抱かずにすみました。

 インドの様な他宗教国家で、宗教をテーマにした映画を作るなんて、かなりの覚悟を要したのではないだろうか、、、。宗教のいかがわしさ(と言ってよいのか)を白日の下にさらすには、“宇宙人”が主人公である、という設定は非常に上手いなぁ、と思う次第。やはり、人間であれば、宗教に対してイノセントな存在は難しい。宇宙人でなければダメだった、とも言えるかも。

 
◆信者でさえもいかがわしさを感じている。

 本作のキモは、ズバリ、“THE 宗教”なんだけど、そのアプローチが面白い。イノセントなPKが、我々地球人が日頃感じている“何かヘンだぞ、宗教!!”というところを、ズバズバと核心を突いて言語化して行ってしまう。傍で見ている地球人はヒヤヒヤもの。

 身なりで、その人の信仰を判別するシーンなどは、まあ、無宗教な私にしてみれば、「そうなんだよなぁ、、、何でそんなに格好に厳しい取り決めがあるの?」という疑問を見事にビジュアル化してくれているわけ。

 どうして神様がたくさんいるのか、というPKの素朴な疑問は、もう、まさしくこの問題の本質を突くもので、結局は人間がご都合的に作ったものだ、ってことにどうしたって行き着いてしまう。

 だからこそ、逆に、よくぞ、こんな直球描写の映画作れたなぁと思うし、作っただけでなく、インドでもヒットしたというのだから、彼の国にも、無宗教で宗教に懐疑的な私が抱く感覚に近い感覚を抱いているムスリムやヒンドゥー教徒や仏教徒が大勢いた、ってことだわね。それがまた、驚きである半面、いわばある種の健全性が示されたとも捉えることができ、ホッとする部分でもある。

 みんな、あやしげだとか、いかがわしいとか、思いながらも手を合わせたり祈ったりしているってことね。

 大分前に、新聞のインタビューで、塩野七生氏が「世界の大半は一神教の信者であり、国家であり、一神教は言葉は悪いが偏狭で寛容さがない(信仰を持たないことに対する偏見も含め)。そういう意味では、日本のような多神教国家は、多様性に根差す寛容さこそがその長所なのだ」みたいなことを言っていて、へぇー、と妙に納得した思いが半分、そういうものなのか?と懐疑的な思いが半分、という感じだった。

 が、世界情勢を見ていると、人間の社会活動と宗教は切っても切り離せない存在であり、それが、無宗教の私から見ればいささか滑稽にさえ思えるのだけれど、あちらから見れば、私なんぞは信仰を持たない不信心者で人間としてサイテーな存在である、と知って、グローバル社会とか、世界平和とか、まさしく理想論なのだなぁ、としみじみ思うのであります。ここまで、両極端な人間同士、しかも、信仰という、ある種の聖域において対極にある者同士、真に分かり合う機会さえなく、宗教について学んだところでそれは他宗教について理解したとは言いがたいわけで、、、。

 そもそも、不可侵な分野であまりにも乖離した場所にいる者同士、どうやって融和しろっていうのか。

 考えれば考えるほど、あり得ない、という結論に行き着いてしまう。そして、本作は、それを奇しくもコメディにして描いてしまっているのだから、恐ろしい。


◆結婚は人前でして良くて、セックスはダメ。

 (セックスパートナーを得ることが結婚で)結婚は皆の前で派手にお披露目してするのに、セックスは皆の前でしちゃいけないの?

 という、PKのセリフ(上記正確ではないです)がウケました。これも、私が若い頃から思っていたことズバリだったもので。結婚式で、金屏風の前に立つ新郎新婦を見て、どうして皆、「おめでと~~」なんて屈託なく言えるのか?? こんな破廉恥な催し物を、どうして誰も「ヘンだ」と思わないのか、ずっと疑問だったのです。

 新興宗教の“導師様”が言うお告げを、信者たちは金科玉条のごとく有り難がっているけれど、「妻が病気で困っている」と言っている信者に「2千キロ離れたヒマラヤへ拝みに行け」というのは非常識では? と言うPK。「本当の神様なら、妻の看病をしっかりしなさい」と言うはずだ、というPKの言い分は、イノセントすぎて笑えません。

 結婚式にしろ、怪しげな導師様の言いなりになることにしろ、まあ、これら全て、「そういうもんだから」という、思い込み、あるいは妄信、のなせる業ではないでしょーか。結婚の何がめでたいのか? 真面目に考えたら結構難しいと思うのですよ、答えるの。こういう、考えることを排除した言動ってのは、やっぱり何かこう、滑稽さを伴うのではないでしょーか。そこを一つずつ拾い上げていったのが、本作です。

 見る人の心に刺さるPKの素朴な疑問、必ず一つや二つはあるはず。


◆その他もろもろ

 そんなPKもジャグーに恋をするんだけど、これはかなわないまま終わります。でも、ジャグーのベルギーでの失恋は、単なる行き違い(この行き違いにも導師様の予言がジャグーに暗示を掛けたということで、序盤のシーンが伏線になっている)によるもので、パキスタン人青年・サルファラーズとの恋が実ります。PKの片思いは切ないけれど、ジャグーとサルファラーズの恋が復活するいきさつについては、まあ、ちょっとご都合主義っぽい感じはしますね。

 でも、ジャグーを演じたアヌシュカ・シャルマが、とっても可愛くてグラマーで魅力的だったので、ご都合主義でも何でも、サルファラーズとハッピーエンディングに落ち着いて、見ている方としてはホッとしました。いやホント、アヌシュカ・シャルマ、とってもステキでした。

 そのほか、『きっと、うまくいく』のキャストと結構被っていたので、そういうのを見つけるのも楽しかった。ジャグーのTV局での上司は、ICE工科大のヴィルス学長だし、ジャグーの父親役はファルハーンのお父さん、母親役はラージューのお母さんでした。新興宗教の導師様の手先みたいな男は本物のランチョーですね(ちょっと太ってた)。

 インド映画は、ものすごくこだわる部分は徹底的に時間を掛けて描くし、また、伏線がきちんと回収されるところも見事です。“あのシーン、結局何だったのさ”ってのが全くない、ってのがスゴイ。だから、長くてもゼンゼン長さを感じないし飽きないのです。

 もう一度、DVDできちんと見た方がよさそうです。





 
 



楽しい歌&踊りもちゃんとあります。




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午後8時の訪問者(2016年)

2017-04-25 | 【こ】



 若い女性医師ジェニー(アデル・エネル)は、町の診療所で研修医のジュリアン(オリヴィエ・ボノー)を指導しながら、老医者の代わりに診療所を切り盛りしていた。診療所の責任ある医師として、また研修医を指導する先輩として、いささか気負っていたジェニー。

 ある晩、診療時間が終了する午後8時を過ぎてしばらくしたところへ、入り口のインターホンが鳴った。ジュリアンは急いで出ようとしたが、ジェニーは「もう診療時間は終わっているんだから出なくて良い。患者に振り回されてはダメ」と制止する。その後も、ジュリアンに厳しく当たったことから、ジュリアンは突然仕事を切り上げ帰ってしまう。

 翌日、警察が、診療所の近所で殺人事件があったので診療所の防犯カメラ映像を提供してほしいと訪ねてきたため、ジェニーは快く提供する。すると、そこには、殺人事件の被害者となった若い黒人女性が診療所のドアを叩く映像が……。その女性こそ、あの、午後8時過ぎに訪ねてきた女性だったのだ。ジェニーがドアを開けることを制止したことで、彼女は殺人事件の被害者になったのではないか?

 ジェニーは罪の意識に苛まれ、名前も身元も分からないという被害女性について調べ始める。果たして、事件の真相は、、、。


 
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 アデル・エネルが扉の隙間からこちらを見ているチラシの画像がとても魅力的な上、予告編を見て興味をそそられたので、劇場まで見に行って参りました。


◆久々のダルデンヌ兄弟監督作鑑賞

 ダルデンヌ兄弟監督作でこれまで観たのは『息子のまなざし』だけ。これが、良くも悪くも、私にとっては衝撃作で、正直なところ、その後、この監督作品はちょっと見る気になれませんでした。どう衝撃だったかは、いずれ機会があれば書きますが、みんシネにレビューを書けなかったくらい衝撃を受けたのでした、、、。

 でも本作は、なんとなくとっつきやすそうな感じがして。そして、その直感は当たっていた、、、というか、ちゃんと観ることが出来た、かな。

 ジェニーは、あの晩の出来事で、2つの罪悪感を抱いてしまったのよね。殺人事件の被害女性に対する罪悪感と、研修医ジュリアンに対する罪悪感。ジュリアンはその後「もう医者は諦める」と言って、田舎に帰ってしまうし、、、。

 あの晩は、もう一つ彼女にとって大きな転機になるはずの出来事があった。大きな病院で彼女のポストが用意されたことを祝うパーティに彼女は出席し、診療所の代理医師を切り上げてそちらへ移ることがお披露目されたのだった。

 でも、たった一晩で、彼女の人生は違う方向へ大きく動く。ジェニーは、名前も分からない被害女性のことを調べ始め、ジュリアンには翻意するよう話し合いに行き、診療所の老医師に「私がこの診療所を継ぐ」と宣言する。彼女は、あの晩の出来事を受けて、好条件の仕事を蹴ったのだ。

 ジェニーにとっては、生涯忘れられない、ある日の夜、になったのだ。


◆あの時、私がドアを開けていれば……。

 「彼女は償いをしたかったのです」と、リュック・ダルデンヌは言っている。確かにそれはそのとおりだけれど、ジェニーを見ていると、そんな単純な感情じゃないように思えたのよね。

 自分はどうしてあの時ドアを開けることを制止したのか、ジュリアンはどうして医師を諦めると言うのか、大きな病院に移ってどんな医師になりたいのか、、、そういう、医師としてのアイデンティティを問われることが、一時にドッと彼女を襲ったのだと思う。しかも、ゆっくり逡巡している時間はない。早く結論を出さなければいけない。

 ジェニーは、実に淡々と診察をする。無駄に笑顔を患者に見せないし、多くを語らない。一見、冷たくさえ見えるけれども、患者からすれば決してそんなことはないはずだ。それが証拠に、ジェニーの治療が終わる少年は、これからも往診に来てほしいと彼女に頼んでいる。

 そんな患者とのやりとりに、あの晩の後の数日で、彼女は何か手応えの様なものを感じたのではなかろうか。そして、その感覚が、一度に押し寄せてきた自らへの問いかけに対する、最大の答えだったのだ。

 だから、彼女は、診療所を継ぐと決心し、ジュリアンに医者への道へ戻ってほしいとはるばる田舎まで訪ねていって自分の思いを打ち明けるのだ。彼女の淡々とした仕事ぶりとは裏腹に、彼女には確固たる決意が芽生えたのだと思う。

 裏返せば、それくらい、彼女にとっては殺人事件は衝撃的な出来事だったということだ。それは、医師としての矜持を問われた事件だった、ということよりも、もっと根源的な「自分は何者なのか」という部分まで掘り下げるざるを得ない様なことだったのではないか。たとえ、警察官に、「あなたがドアを開けなかったことは正当です」と言われても、ドアを開ける開けないのレベルではなく、なぜあの時自分はドアを開けなかったのか、を考えるとき、自らと正面から向き合うことを余儀なくされたのだと思う。

 自らを許せるか、自らのプライドが許容できるか、、、。結局、人生とは自己満足の集大成だけれども、自己満足とは言え、そこには、自分に恥じない生き方であること、という最大の難関が立ちはだかる。傍からどう見えようが、一つ一つの言動が、自らに恥ずべきものではないか、、、。この問いかけは非常に辛く厳しいものだ。

 恐らくジェニーは、これまで分かったつもりになっていたこの辛く厳しいものから逃げてはいけないことを、実感を伴って体得したのである。

 人生には、誰しも、こういう出来事が若い時期のいずれかに訪れるものだと思う。そして、自分の甘さや醜さに直面し衝撃を受けるのである。でも、この経験を生かすも殺すも自分次第なのだ。

 少なくとも、ジェニーは、この先、生かすことが出来るだろうと思わせてくれる展開だった。


◆アデル・エネル

 本作については、昨今のフランス事情(移民問題や格差、分断等)が描かれている、というような論評も目にしたけれど、確かにそういう側面もあるだろうけど、前述の様に、人はどう生きるか、という人間としての根源的な問いを描いている様に感じた次第。

 なので、本作のサスペンス的な部分については、興味としては二の次だった。被害女性は誰だったのか、どうして殺されたのか、一つ一つ明らかになっていくけれど、謎解き的な描写ではないし、そこに比重が置かれているとも感じなかった。

 サスペンスとして見ると、もしかすると拍子抜けするかも。途中、ジェニーがヤバい人に追い掛けられたり、往診に行っていた家庭から「もう来るな」と言われたりするけれど、あくまでそれは従である(と思う)。

 ジェニー自身のバックグラウンドについても、ほとんど描かれていないので、彼女が何を志して医師になったのかも全く分からない。けれども、結局彼女の出した答えが全てなのだ、と思えば、そういう余計な描写は必要なかった、ということだとも言える。

 あるレビューで、「ジェニーが無表情で冷酷でムカつく、ラストの被害女性の姉とのハグも形式的で見ていて何の感動もない」というようなことが書かれていたけれど、そういう見方をする人もいるんだなぁ、と驚いた。どう見ようが正解はないけれど、あのアデル・エネルの演技からそんな風に感じるなんて、ちょっと信じがたい。

 それくらい、アデル・エネルの演技は素晴らしく、顔の表情が少ないのに、彼女の全身から彼女の感情が表れていることに感嘆した次第。この辺りは、パンフを読むと、ダルデンヌ監督は相当リハーサルを重ねたと言っているので、演出の素晴らしさでもあると思う。

 アデル・エネル、あの『黒いスーツを着た男』に出ていたのね、、、。あの映画はちょっと、、、、という感じだったけど。何の役だったんだろう? と思って公式HPを見たけど、主要キャストに名前なし、、、。で、wikiを見たら、なんと、主人公のアラン(ラファエル・ペルソナ)の婚約者の役だったのね~。えー、「アルの婚約者もイマイチ魅力に欠ける」と、私はみんシネに書いている……! そうか、、、そうだったのか。

 でも、本作での彼女は、本当に魅力的です。今や、フランスきっての人気女優だそうですが。彼女も最近、女性映画監督をパートナーにしているとカミングアウトしたとか。フランスには魅力的な女優さんがいっぱいいて羨ましいわ。



 



アデル・エネルに尽きる。




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未来よ こんにちは(2016年)

2017-04-20 | 【み】



 高校の哲学教師、ナタリー(イザベル・ユペール)は、時間を問わずに電話してくる老母の通い介護をしているとはいえ、家庭にも仕事にも恵まれ、そこそこ幸せな日々を過ごしていた。

 が、ある日、夫は「好きな人ができた」と言って家を出て行く。仕事では、手がけていた哲学書が廃版になることが決まるし、家庭では子どもは独立、老母は遂に亡くなる。

 そして、気がつけば、ナタリーは独りになっていた、、、。


 
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◆哲学者ならではの熟年離婚

 熟年離婚、、、て言葉、一時流行りましたよねぇ。渡哲也&松坂慶子のその名もまんまの「熟年離婚」なんてドラマも作られたりして、、、。正直なところ、夫がサラリーマンの専業主婦で熟年離婚に踏み切るなんて、ものすごく無謀だなぁ、という気がしたものです。そして、熟年離婚ブームで離婚を切り出すのは、大抵妻側だったような。今まで無神経で横暴な夫にガマンしてきたのよ、アタシ!! みたいな感じでしょーか。

 離婚ってのは、ものすごくエネルギーがいるもので、私の様に、実態のまったくない結婚生活がたった半年足らずだったケースでさえ、離婚はかなり消耗したわけで、何十年も一緒に暮らして子どもまでいる夫婦が離婚、なんて、考えただけでも卒倒しそうなくらいのパワーが要求されるはず。それでも敢えて離婚しようという妻は、ある意味、スゴイ。生きることに貪欲というか。夫は夫、アタシはアタシで、老後はそれぞれの生活を楽しめば良いじゃん、離婚なんかしなくてもさ~、、、という選択肢がない、ってことでしょ? どんだけ消耗しようが、アタシは自分の幸せを追求するのよ!! というのは、むしろ、夫に対してそこまでのある種の情熱があるからこそできることなんじゃない? 夫婦なんて何十年もやってりゃ、情熱の熱なんて自然冷却していて、情という欠片が残っているモンじゃない?

 ……というのはさておき。

 本作のナタリーは、しかし、夫に別れを告げられるのです。「好きな人ができた」という理由で。

 そして、この事態に直面したナタリーが冷静に対処することが、特筆事項の様に本作の紹介でも感想でも書かれているものが多くて、私はそれが結構意外でした。

 なぜか。

 前述したとおり、情はあれども、もめるだけの熱は残っていないのが長年一緒にいた夫婦だと思うから。情があるからこそもめる、というのは、……そうでもないと思う。私がナタリーなら、やっぱり、いろんな感情が湧いては来るだろうけど、「あ、そう。さよなら」だろうな、と思う。もちろん、哀しいし、寂しいし、オイオイ泣くとは思うけれども、「ほかに好きな人がいる」に勝る別れの理由はないもんね。今さら、また私を好きになって、なんていう熱が私自身に残っていない。

 それに、ナタリーくらいの歳になると、現代人は若いとは言え、やっぱり嫌でも“死”を考える。残された時間を思えば、情のある男と泥沼を演じているのはもったいない、という気もするし、そもそも人は最期は独りで死んでいくのだ、とも思う。そうすると、何十年と連れ添った夫とは言え、所詮は他人、お互い好きな様に生きましょう、、、という選択は、私にはとっても共感できる。

 人の心は、本来自由なわけで、夫が他に誰かを好きになるのも、自分が夫以外の誰かを好きになるのも、自由なのよね。ナタリーが、ああいう対応になったのは、彼女が哲学者であることも大きいと思う。
 
 ナタリーが終盤、授業で朗読するルソーの一節が、本作のテーマでもあると思う。長いけれど引用しておく。

「欲望する限り、幸福でなくても済ませられます。幸福になるという期待があるから。幸福が来なければ希望は延び、幻想の魅力はその原因である情熱と同じだけ続きます。こうしてこの状態はそれだけで自足し、それがもたらす不安は現実を補う一種の享楽となります。現実以上の価値を持つかも知れません。もう何も欲望すべきもののない人は不幸ですよ。持っているものをいわば全て失っているのです。手に入れたものより期待するものの方が楽しく、幸福になる前だけが幸福なのです」


◆気になるシーンあれこれ

 印象的だったのは、ナタリーや、娘のクロエが、突然、泣き出すシーンがあったこと。どちらも、どうして急に涙したのか、直接的には描かれていない。

 でも、ナタリーの場合は、きっと、どこか寂しさやむなしさを感じたからだろうと、想像できる。猫アレルギーだったはずなのに、母親の可愛がっていた黒猫・パンドラを抱きながら号泣するのである。

 一方のクロエは、、、ナタリーが別れた夫、つまりクロエの父親のことを冗談でけなしたからだろうか。ナタリーは、クロエが突然泣き出したことに狼狽して、「冗談よ」と言って詫びていたけれど、、、。私には、あのクロエの涙の理由が今一つよく分からなかった。

 また、ナタリーと、元教え子のファビアン(ロマン・コリンカ)のやりとりもスパイスになっている。ナタリーは、元教え子という以上の感情をファビアンに抱いていたようだけど、そのファビアンに「あなたたちのやり方は甘かった」などと批判される。この後、ナタリーは理由をつけて自宅に帰ったりして、ちょっと我に返った感じになったように思ったが、どうだろうか、、、。

 確か、ナタリーの母親の葬儀が終わって、バスに乗っているとき、ナタリーは車窓から、元夫が若い現妻と歩いているところを目撃するシーンがあったんだけど、そのとき、ナタリーは笑うのね。こんなときに、こんなもん目撃するのかよ! みたいな感じだったのが、妙にリアルだったなぁ。


◆イザベル・ユペール

 それにしても、イザベル・ユペールはイイ歳の取り方をしている女優です。アンチエイジングなんてくそ食らえ、がごとく、しかし醜くなっておらず、経年変化を受け入れながらもカッコイイ。60代になっても、これだけ精力的に仕事をしているからこそ、なせる業なのかも知れないけれど、こんな風に凛として歳を重ねられたら理想的だなぁ、、、と溜息。

 ファビアンの山荘を訪れたときに、散策していたナタリーのワンピースがステキだった。かなり派手な感じなのに、彼女が着るとゼンゼン違和感がない。川で水遊びするシーンでも、水着になって岩場で寝転んでいたけど、あれも画になっていたなぁ、、、。

 彼女が途中でストーカーされることになる男の隣で見ていた映画は、多分、キアロスタミの『トスカーナの贋作』だと思う。一瞬だったから確証はないけど、多分間違いない。あの映画は私はイマイチだったけれど、なんだか、それをナタリーが独りで見ていたのがイイなぁ、、、と思った次第。何故イイなぁ、と思ったのか、自分でもよく分からないけど、、、。

 ミア・ハンセン=ラブ監督作品は、これが初めてだけど、30代で、こういう熟年女性の話を書いて撮れるってのが驚き。彼女の両親も哲学教師で、少なからず、ナタリーには彼女の母親像が投影されているそうだし、作中にも哲学者の名前がふんだんに登場するのは、そういう彼女の生育環境が大きく影響しているわけですね。末恐ろしいお方です。






黒猫に助演賞!!




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サラエヴォの銃声(2016年)

2017-04-17 | 【さ】



 オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナンド大公と妻のゾフィーが、セルビア人青年プリンツィプによって暗殺された“サラエボ事件”から、ちょうど100年の、2014年6月28日の、サラエヴォにあるホテルヨーロッパ。サラエボ事件100周年の記念式典が、このホテルヨーロッパで開かれようとしていた。

 ホテルの従業員たちは式典準備に大忙しだが、もう2か月も給料不払いが続いている。ホテル支配人は、フランス人VIPをスイートルームにホテルの自慢話を垂れ流しながら案内するが、光熱費や水道代も滞納し、従業員たちからはストライキを起こされそうになっており、なんとかして、式典当日の今日を乗り切りたいと思っていた。

 ホテルの屋上では、サラエボ事件について、テレビ局の企画番組が撮影されていた。女性インタビュアーがインタビューする相手は、あの暗殺犯、プリンツィプの子孫に当たる男性だった。

 果たして、今日、6月28日は無事に過ぎるのか、、、。


 
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 『汚れたミルク/あるセールスマンの告発』を見た後、どうしようかなぁ、、、と思っていたんだけど、新聞の評に、『汚れたミルク~』より面白い、というようなことが書かれていたので、パンフも2作で1部に編集されていることだし、まあ、見に行ってみるか、、、と思って、見た次第。


◆サラエボ事件100周年。……だから何?
 
 このサラエボ事件について、初めて知ったのは、私の場合、今や絶版となった幻の少女漫画「キャンディ♥キャンディ」でなのです。この事件の号外が街角で売られ、それを見たキャンディが青くなる、、、というシーンがあります。小学3年生くらいだった私には、イマイチよく分かりませんでしたが、何やら大変な出来事で、しかもこれは史実らしい、ということくらいは分かりました。作中で、実際、その後第一次世界大戦が描かれていくからです。

 本作では、そのサラエボ事件を起点に、100年後の記念日に、ホテルヨーロッパの中で起きているイロイロな出来事を並行して描いているわけですが、、、。

 試みは分かるし、描きたいことも分かる気がする。、、、けれども、イマイチ、パワー不足感が否めず、正直なところ、あんまし面白いと思えなかったです。

 ホテルヨーロッパが、サラエヴォでも随一の高級ホテルという設定だとは思うんだけど、何しろ、全景の俯瞰映像が一度も出てこない(と思う)ので、どんくらいゴージャスなのか、どんくらい高級なのか、どんくらい品があるのか、分からない。やはり、ここは観客を威圧する様な全景の俯瞰映像を、バーンと出してほしかった。いくら、内部が高級ホテルっぽくても、説得力がゼンゼン違う。

 それでいて、実は、従業員たちはストライキを計画していて、経営も火の車、というそのギャップ。そこで生まれる人間ドラマが、歴史の一大事件なんかをよそに繰り広げられていく、、、という意図は分かるんですけどね、、、。

 従業員同士の間でもドラマがあって、親子や男女の問題が描かれています。サラエボ事件どころじゃねーんだよ、こちとら! ってなところでしょうか。

 テレビ隊の方でも、インタビュアーの女性と、プリンツィプの子孫の男性との間には、ロマンスらしきモノが芽生えている様子。インタビューでは、プリンツィプがテロリストが英雄かで、激しく対立していた男女なのに、、、。こちらも、サラエボ事件が何だってんだよ、て感じかしらん。

 どの小さなドラマも、あまり幸せな結末は待っておりません。非常にやるせないドラマが描かれています。


◆果たして本作は寓話か?

 『汚れたミルク~』は直球勝負でしたけど、本作は、かなり変化球というか、制作者の視点は非常に俯瞰的です。小さなドラマが並行して描かれてはいるけれど、ストーリーは特にないし。

 藤原帰一氏は、本作を“グランド・ホテル形式”の映画であるとして、こう書いています。

「この映画の場合、ホテルに集まるお金持ちばかりでなくホテルで働く人々の姿も捉えており、お客さまに向けられる外向けの顔と、なかで働く人にしか見えない内部の姿との間に開いた極端な落差も主題の一つになっています。その点に注目すると、外向けの顔しか出てこない「グランド・ホテル」よりも、ロバート・アルトマンが監督した群衆劇、特に「ナッシュビル」や「ゴスフォード・パーク」に似ているといっていいでしょう」

 ううむ。藤原氏はルックスもキレイなおじさんだし、新聞のコラムも面白いので、嫌いじゃないけれど、これはちょっと、、、。『ゴスフォード・パーク』を引き合いに出すのは、違うんじゃないか?

 『ゴスフォード・パーク』は、一見複雑な群像劇でありながら、実は、ああ見えて、きちんと骨格となるサスペンスのメインストーリーがあるわけで。しかも、作品として、本作とは比べようもないくらい毒性が強い。一度見ると中毒症状になるほど濃密な毒が仕込まれている秀作です。

 本作が、『ゴスフォード・パーク』的なものを目指して撮られたとは、ちょっと思えないのですよね。もっと、達観したというか、引いて見ている感じがします。

 歴史上の大事件を背景に、市井の人々の営みを淡々と描くことで、歴史とは、人々の営みの積み重ねによるものだということを描きたかったんじゃないのかな、と。その人にとっては、歴史の大事件よりも遙かに大事件な出来事。でも、歴史から見れば取るに足りない出来事。でもでも、それらの取るに足りない出来事が星の数ほど集まって堆積していくと、揺るぎない歴史になっていく、、、みたいな、大河的思想が根底にあるんじゃないか、と感じます。

 なので、アルトマンと、本作の監督ダニス・タノヴィッチがフォーカスしたかったものはゼンゼン違うと思うのよ。

 藤原氏の前掲の文章には、以下の文章が続きます。

「(中略)「ゴスフォード・パーク」はイギリスの貴族社会を裏から捉える試みでした。それで言えば、この「サラエヴォの銃声」はホテル・ヨーロッパのなかにサラエボ、ボスニア、さらにヨーロッパ全体という三つの空間を押し込めた寓話として見ることができると思います」

 ……なるほどね、そういう見方もあるのね。でも、私は同意できないな。ま、藤原氏の見方が正しいのかも知れないけど。これ、寓話、、、か???

 しかし、暗殺犯が、テロリストか英雄か、って、、、。どこでもやっているのね、何十年経っても。

 

 





隣席の女性は、最初から最後まで爆睡されていました。




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陰獣(2008年)

2017-04-14 | 【い】



 フランス人の小説家・アレックス(ブノワ・マジメル)は、日本の推理小説作家・大江春泥に心酔している。次作のプロモーションのために日本の京都にやってきたのを機に、大江に会いたいとテレビ番組で公言するが、大江からは「フランスへ帰れ」などと番組にかかってきた電話で一蹴される。

 そんなアレックスは、出版社の社員に連れて行かれたお茶屋で、フランス語がペラペラの芸妓・玉緒(源利華)に出会う。後日、その玉緒から手紙で呼び出されたアレックスは、玉緒から深刻な相談を受ける。「大江春泥にストーカーされているの、、、助けて」

 ……江戸川乱歩の「陰獣」を、フランスが映画化。原作の寒川光一郎をアレックスというフランス人に置き換えた。


 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜



 乱歩原作モノの映画は、乱歩好きからすると、ちょっと見るのが怖い。大抵、「なんじゃ、そら、、、」的なものになっているから。そんな中では、邦画の『江戸川乱歩の陰獣』は割と良い出来だと思うのだけれど、本作は、これまた何故かフランスバーション。一体、どんなん? と思いながらも、ブノワが結構好きなので見てみたいなぁ、と思って、大昔にレンタルリストに入れておいたのが送られてきたので見てみた次第。
  

◆序盤がイロイロ恥ずかしい。

 覚悟して見始めたんだけど、冒頭、いきなり???な展開。いきなり、首がボトッと落ちて血がドバドバとか、、、。京都府警の刑事役で西村和彦登場。でも、彼も、首撥ねられて死んじゃう。……え、これのどこが陰獣??

 とか思っていたら、これは劇中劇だった。なーんだ。

 本題はここから。ブノワ扮するアレックスは、おフランスの大学で日本文学の講義中。そこで、この劇中劇を見せていたのであった、、、。こんなもんが日本の代表文芸映画とか思われたらイヤだなぁ、、、とか、どーでも良いことが頭をよぎる。

 で、アレックスは売れっ子作家らしく、分刻みのスケジュールで日本へと旅立つのね。日本へ向かう飛行機で、彼は「人間椅子」の夢を見る、、、。ううむ、なんかちょっとチープな感じだなぁ、、、とか思う。

 日本では、テレビに出て、日本文学というか、大江文学について持論を展開する。が、しかし、このテレビの番組が司会者とかコメンテーターみたいのとかが、あまりにも馬鹿丸出しな発言で、見ていてだんだん恥ずかしくなってくる、、、。ううっ、辛いなぁ、これ。

 ダメ押しは、踊りが随一と言われている芸妓・玉緒の登場。え゛、、、それ日舞? なんか、動きがヘンなんだけど、、、。お世辞にも美しいとは言いがたいその舞に、さらに辛くなってくる、、、。

 ただまあ、日本でロケをしているだけあって、中国とごっちゃになっているニッポンとかはさすがに出てこなかったし、何より、玉緒さんがアレックスに相談事をしてからは、結構、見られる作りになっていて、気分もかなり挽回してきた。ちょっとホッとなる、、、。

 でも、オチを知っているせいもあってか、なんというか、アレックスが可哀想だなぁ、とか思って見ちゃって、あんまし作品に入り込んでいけなかった。、、、ごーん。


◆こんなん出ました~~。

 まあ、正直なところ、作品自体について書きたくなるようなことはあまりなくて、ブノワが頑張ってくれているのが嬉しいなぁ、くらいだったかな。

 本作を見ながら頭にあったのは、何で、この原作を、フランス人が映画化したいと思ったのかなぁ、、、ってこと。

 最後まで見終わって、、、きっと、乱歩の原作を気に入って、日本という謎めいた土地で撮影してみたい、くらいの、割とイメージ的な動機だったんじゃないかな、と感じた次第。

 ストーリーは原作にかなり沿っているけど、映画として見れば表層的な作りだし、日本人の私から見ると、それほど新鮮味のある視点は感じられなかったから。

 何より、玉緒を演じた源利華さんの容姿を見て、やっぱりこれが日本の、、、というか、東洋の美女のイメージなのか、と。そして、アレックスはこの美女に騙され、ズタボロにされるんだけど、これが、多分、制作者の描きたかったイメージだったんじゃないかな、と感じたのである。

 結局、おフランス(ヨーロッパと言っちゃっても良いかも知れないが)から見た、極東の国・日本って、なんとなく掴み所のない、良くも悪くも神秘的なイメージなんだと思う。日本人から見たフランスだって、フランス人が見ればおかしいところだらけだろうし。どうしても、国に対する先入観はあるわけで。

 そういう、神秘的なイメージに触発されて作ってみたら、“こんなん出ました~~”ってのが、本作じゃないかしらん。


◆ブノワに日本語を習ってほしかったなぁ。

 しかし、ブノワは、どうして本作に出演する気になったんでしょうかね。この頃の彼は、まだ辛うじて美を保っているかな。お腹がちょっとヤバい感じだけど。彼は、日本文学に興味がある人なのかな。よく知らないんですけれど。

 ブノワというと、私はなんと言っても『ピアニスト』が強烈に印象にあるのですが、あの頃の彼は美しくてセクシーで可愛くて、しかもキレがあった。でも、昨年見た『太陽のめざめ』では、あまりにオッサンになっていて驚愕&ショックでもありました。でも、枯れたオッサンの美しさもあり、それはそれでステキだったんですけどね。

 ラストの方で、日本の刑務所に収監されているシーン、スポーツ刈りのブノワが「はい!」とか言って気をつけして立っているのが、あまりにもヘンで笑えました。あんなシーン必要? よく分からん。

 あと、玉緒が、フランス語ペラペラの芸妓、っていう設定がねぇ、、、。あまりにご都合主義で、ちょっと笑っちゃった。別にいいんですけどね。

 源利華さんは、日本人にしてはスレンダーで足も長く、和服の似合わない肢体でしたね。正直、あまりセクシーには見えませんでした、私には。でも、おフランスの方々から見ると、ああいう東洋女性がセクシーなんですかね? ま、松嶋菜々子とか菊地凛子とかよりは、よっぽど良いと思いますけど、、、。鈴木京香さんとか良かったのでは? 彼女は脱がないからダメか……。物語上、フランス語ペラペラである必要がないと思うけど、アレックスとあれだけやりとりするにはフランス語が必須だもんなぁ。アレックスが日本語ペラペラである方が、むしろ、物語的には自然じゃないか? ブノワが日本語しゃべるのは難しそうだけど。舞台は日本なんだから、やっぱ日本語ベースが自然でしょ。

 なーんて、野暮なツッコミでした。

 ま、邦画のあおい輝彦は、ちょっとお粗末だったので、ブノワが演じてくれただけでも良しとしましょう。香山美子さんに匹敵する女優が、今の日本にはいない、ってことですな、、、ごーん。

 





京都のシーンは金沢でのロケらしいです。




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ヴィレッジ(2004年)

2017-04-12 | 【う】



 自給自足でそれなりに平和に暮らしている森の近くにある村。しかし、この村の住人は森に近づいてはいけないのだっだ。なぜなら、森に棲む怪物を怒らせることになるから、、、。

 とくれば、まあ、この森をいかにして抜けるオハナシか、ってことになりますね。タイトルは、どっちかというと、“イントゥ・ザ・ウッズ”の方が内容に近いんじゃない?


 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


  
◆ほとんど虚仮威し。

 『シックス・センス』が嫌いなので、本作はちょっと見るのをためらいましたけど、まあ、ブロディが出演しているので見てみることにしました。

 『シックス・センス』は、映画としてそれなりに楽しめるということでエンタメにはなっており、決してヒドイ作品だとは思わないけど、何にせよ、所詮は夢オチであり、クリエイターとしての志が感じられないので嫌いだ。『サードパーソン』でも書いたけれども、こういう、観客を欺くことに血道を上げた作品は、感心しない。心地良く裏切ってほしいとは思うが、最初から騙す気満々なストーリーテリングは、物語ではなく、ただの“間違い探し”であるとしか思えない。つまり、クイズである。ラストで答え合わせ。答えられない客を見てしめしめと思うなんて、何とも質の悪い根性だ。

 本作は、しかし、割と早いうちに展開が読めてしまう。19世紀の話と思わせておいて、実は現代だった、とまでは読めなかったが(だからといってそれがラストの大どんでん返しと言うには弱すぎる)、怪物の存在がヤラセなのとか、あの盲目のお姉ちゃんが無事に森を抜けるんだろうとか、手の内が丸見えなのは、こういう作風においては致命的ですらある。ここまで来ると、言葉は悪いがもはや“虚仮威し”である。

 これも、『サードパーソン』に書いたが、どうしてもっと正攻法で描かないのか。本作は、盲目のアイヴィー(ブライス・ダラス・ハワード)が、村のタブーを犯してまで愛する人のために命を懸けた行動に出る、という、ベタだけれども描きようによっては面白い作品になる縦糸のストーリーがあるのだ。そしてストーリーの横糸となる、村のタブーが実は村の長老たちによる自作自演であること(村の成り立ち)は、序盤から明かして行ったって別に良いと思うのだが、、、。縦糸と横糸をきちんと正攻法で織り込むことで、意義深いストーリーは編み上げることができるはずである。

 正攻法で見せては面白さが半減する、と考えているのであれば、そもそも監督は自身の能力を信用していないことになる。ただ、こういう騙し系が好きなだけ、というのなら、それはそれでアリだろうが、だったらもっと手の内が見えない様にやれ、と思う。


◆ユートピアはカルト村。

 この村は、まあ、現代日本でいえば、○マ○シ会みたいなもんで、イカレた思考に支配された人たちが運営しているカルト集団。

 しかも、そのカルト集団を結成した理由が、自分たちが犯罪被害者(の遺族)だから。犯罪のない世界を作るために、自分たちから世俗を離れて村を作った。言ってみれば、大がかりな集団引きこもりだわね。

 この手の話はよくあるし、今公開されている、ヴィゴ・モーテンセン主演の『はじまりへの旅』なんかも(未見だけど)同じ。現代社会は病んでいる、だから、健全な世界で生きるために自然の中に閉じた社会を作るんだ、、、。そして、結果的に、どっちが病んでんだか、って話になる。

 化け物の話を自作自演しなきゃいけないような空間が、そもそも病んでいる。そこに気付かない村の長老たち。……いや、気付いているのかもしれないけど、外界を死ぬほど嫌悪しているから、これくらいの病理はまだ健全だ、と思い込もうとしている。

 こういう、カルト集団を作ろう、という人って、どうして自分たちだけ、あるいは1人だけでやらないんですかね。自分たちだけで運営し、子孫なんか作らないで、自己完結していたらいいのに。あるいは、『はじまりへの旅』みたいに家族を巻き込まずに、たった1人で仙人みたいに暮らしたら? 自分の子どもらを巻き込むのは、結局、子どもへの虐待に等しいのでは。

 本作の村の長老たちも、結局、村を第二世代に渡って維持していくことを決めるけれど、森を抜けようとする若者は必ず次々に現れる。

 これは、言ってみれば、家族が抱える問題と同じかも。抑圧する親と、自己解放しようとする子の葛藤が、外からは見えないという構造。

 アイヴィーが盲目なのに森を抜けるなんて危険な行動に出るのを、彼女の父親であるエドワード・ウォーカー(ウィリアム・ハート)が許したのはなぜ? と思ったんだけど、盲目だったから許したんだねぇ、とラストで納得。

 森を抜けて、現代社会に出ても、アイヴィーには見えない。自分たちの村との違いが分からない。だから、お父さんは行くことを許したわけだ。

 知能に問題がありそうなノア(エイドリアン・ブロディ)も、森に近づくことが許されたのは、真実を目の当たりにしても意味が分からないから、と思われたのだろう。

 なんと恐ろしい大人たちのエゴだろうか。

 
◆その他モロモロ

 何で正攻法で描かないんだ、と文句を書いたけれど、まあ、確かに、ストーリーと言い、ネタと言い、既視感バリバリで、全うに勝負していたら、もっと駄作になった可能性は高い。特に、この監督の腕ならなおのこと。

 ブロディは、しかし、本作でも異彩を放っていたなぁ、、、。彼はホントに素晴らしい役者です。冒頭から、知的問題のあるキャラを一目で分かるように演じているあたり、さすが。何度も書くけど、あんな特徴のあるルックスなのに、毎回、ゼンゼン違う人物像に見えるところは俳優として見習うべき人が多いんじゃないですかねぇ。特に、日本の俳優さんたちは。

 アイヴィーは盲目にしては、全速力で足下の悪い野山を駆けまわり、森を駆け抜けと、とうてい見えない人とは思えない行動がイマイチですね。森の中で、穴に落ちかけた後、杖を捨てますが、あんなことの後だからこそ、普通は杖は手放せなくなるはずでは? だって、他にもどこにあんな穴があるか分からないじゃないの。もう少し、演出を考えていただきたかったところですな。

 ウィリアム・ハート、久しぶりに見た気がする(そうでもないか、、、)。シガニー・ウィーバーはすんごいガタイがよくて、衣装がパツパツだったのが印象的。

 アイヴィーを演じたブライス・ダラス・ハワードが、あのロン・ハワードの娘さんと知って、……ということは、つまりあのクリント・ハワードの姪御さんってことよね? いや、その割にずいぶんお美しくて驚きました。『デビルスピーク』のクリント・ハワードの印象が強いもので、、、。

 
 





黄色頭巾ちゃんは、割とあっさり森を抜けました。




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NHK・ドラマ10「お母さん、娘をやめていいですか?」(全8回)を見終えて ~その⑤~

2017-04-06 | ドラマ
 そののつづきです。


◆顕子の今後を予想する。

 顕子は、マレーシアに行って、しばらくは頑張れるでしょう。でも、夫婦の関係を再構築することは、多分できないだろうと思います。

 なぜなら、それが顕子の性格、もっというと、思考のクセだからです。これについては後述します。

 そして、恐らく、顕子は一人で帰国してくるでしょう。浩司に彼女を引き留める力はありません。なぜなら、顕子は浩司を愛していないから。彼女が愛しているのは自分だけだからです。なので、美月と2人で強引に生活を始めることを画策するでしょう。

 ここで、美月がどう出るかが問題です。

 もし、松島と交際が続いていたら、顕子を振り切ることは出来るかも知れません。しかし、それもかなりの難行だと思われます。個人的には、ここで美月が踏ん張ってほしいと思うし、松島にも全力で踏ん張ってもらいたい。

 でも、もし、松島と別れていたら……。これは、顕子の力業で、美月は屈してしまうでしょうね。彼女の勤務先と、マンションが近すぎます。彼女があの女子校の教師を辞し、海外へでも行く勇気があることを望みますが、、、。

 いずれにしても、顕子は、あの最終回の展開では変わることはできません。娘に執着する母親は、実に実に手強いのです。

 顕子が変わるには、心の治療をするしかないのです。そこを、ドラマとはいえ、きちんと描くべきでしょう。もし、続編を作るとしたら、カウンセリングに通いながら苦しむ顕子の描写は必須です。というより、それがメインテーマになるはずです。


◆顕子的人間の“変われなさ”について。

 このドラマを見終わって、一番強く感じたことは、「自由を選択するには痛みが伴う」ということ。逆に言えば、「痛みさえ受け入れれば、自由になれる」ということ。

 顕子的人間は、痛みを受け入れる勇気がない、あるいは、痛みなど受け入れるくらいなら不自由で良い、ということです。

 制約の中で選択肢がない状況は、一見、不自由だけれども、いくらでも自分を甘やかすことの出来る状況です。つまり、決められたレールを進んで行き詰まった場合、そのレールの敷き方に問題があったのであって、いくら自分の人生というレールであっても自分には責任がない、と思える。レールを敷いたヤツが悪いのだ、と他者を責め立てていればそれで済む。自分には何の非もない。

 結局、自分でレールを敷くのはものすごい労力とコストもかかる上に、そのレールの先に自分の思い通りの結果が待っているとは限らない。というより、大抵は思ってもいないことが待っている。その際に、レールを敷くのに要した労力とコストを無駄と思うか、それを投資と思うか、その差ではなかろうか。

 無駄と思う人は必ず後悔する人であり、投資と思う人は絶対後悔しない人である。

 そして、必ず後悔する人は、無駄を承知で自らレールを敷くことはしない。だが、結局、自らがレールを敷かなかったことを後悔する。そこには、痛みを受け入れた人への劣等感もある。その後悔と劣等感のパワーが、娘の人生のレールを敷くことに向かうのである。

 しかし、レールのとおりに進んだからと言って、想像していた未来は待っていない。必ず破綻するのである。なぜなら、娘は意思ある人間だからである。どこまで想像通りになるかは人によるが、彼らが死ぬまで破綻しないケースは、ないと断言できる。

 破綻の度合いにもよるだろうが、そこでまた、彼らは後悔するのである。それも、「私の敷いたレールが間違っていたのだろうか」という後悔ではない。「どうして敷いた通りにレールを進まないの?」という後悔だ。自分のやり方が誤っていたのではないかという疑問には決して到達しない。

 それどころか、痛みを受け入れる覚悟をしている娘に対し、猛烈な嫉妬心を抱くのである。自分にはなかった、あるいは持てなかった勇気を持っている人に、メラメラと嫉妬心を燃やすのである。それはつまり、自分より娘が秀でることへの嫉妬である。

 だから、自力ではもちろん、身近な人たちの協力を得たくらいでは、顕子の様な人間は変わることがほぼ不可能なのです。

 このような人からは、逃げるしかありません。 


◆その他モロモロ

 美月の衣装の変遷が面白かったですね。

 顕子と蜜月だった頃は、花柄のワンピースとか、100%スカートを履いています。でも、家を出てからは、シンプルなコーディネートになります。でもまだスカートのまま。

 最終回、初めて、美月はパンツを履きます。ようやく、彼女は気持ち的に母親を振り払うことが出来たのかも知れません。

 あと、特筆事項としては、顕子の母親・玲子を演じた大空真弓さんですね。もの凄く久しぶりにテレビで見た様な気がしますが、相変わらずお綺麗でした。顕子には冷淡な母親で、孫の美月を手懐けることで、“玲子&美月VS顕子”という関係を作ろうとする邪悪さがゾッとするほど恐ろしかった。美月に死ぬ直前に懺悔していましたが、あれもどこまで本音なのか……。美月へのポーズだった、という解釈もアリだと思います。


◆最後に、僭越ながら。

 この種の問題で苦しんでいる方で、この駄文を読んでくださった方へ。

 あなたの人生は、一度きりです。今日という日は、二度と戻りません。誰も時計の針を巻き戻すことは出来ません。

 あなたは、あなたの人生を生きる権利があるのです。その権利を、自ら手放してはいけません。勇気を持って、その権利を行使してみませんか。

 親から離れることは、罪ではありません。あなたが、あなたの人生を生きるために必要なことなのです。

 痛みを受け入れることさえすれば、あなたは自由を手にできます。一番大きな痛みは罪悪感かも知れません。孤独感かも知れません。しかし、受け入れてしまえば、その痛みは、必ず沈静化していきます。永遠には続きません。

 後悔しないためにも、痛みを受け入れる勇気を持ってください。遅すぎることはありません。



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二重生活(2016年)

2017-04-03 | 【に】



 大学院生の白石珠(門脇麦)は、同棲相手でゲームデザイナー(?)の鈴木卓也(菅田将暉)との倦怠感漂う生活をする一方、修士論文に行き詰まって(?)いた。

 ある日、指導教官である篠原弘(リリー・フランキー)から、ソフィ・カルの「文学的・哲学的尾行」を実践し、それを修論にしてみてはどうか、と提案を受ける。興味を持った珠は、尾行対象として、自宅アパートの向かいの豪邸に住む出版社の名編集者でイケメンの対象者A(長谷川博己)を、ただ通りがかりに見かけただけの理由で選んで、尾行を開始する。

 すると、対象者Aは、理想の夫という近所の評判とは裏腹に不倫していることを珠は知ってしまう。そして、対象者A自身にも尾行がバレる。

 ……果たして、珠の修論は仕上がるのか!!


 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 昨年、少し気になっていた映画。劇場に行こうかどうしようかと思っている間に終映してしまったので、DVDを借りてみた次第。まあ、劇場まで行ってたら金返せレベルでしたね、多分。

 
◆あれは尾行ではなく、ただ後ろをついて歩いているだけである。
 
 なんか、珠さんが尾行するに至るまでの経緯があまりにも???で、序盤で気持ち的に挫折。「文学的・哲学的尾行」とやらがどんなものか全く存じませんが、作中でも何やら一節を読み上げているシーンがあったような気がしますが、意味不明、、、。

 でもまあ、本作の主題は、動機よりも尾行とその結果よね、と気を取り直し先を続ける。

 なんとも珠さんの尾行のお粗末なこと、、、。あんなの、思いっきり気付かれるでしょ、ってなもんです。まあ、奥行きは出しにくいのは分かるけど、だったら、もっと珠さんと対象者Aを離して撮れよ、と思う。あれじゃあ、せいぜい3メートルくらいしか離れていないようにしか見えない。しかも、物陰に隠れるとかほとんどしない。ただ、後をついて歩いているだけ。あれで気付かないなら、尾行されている方に何か問題があるとしか思えない。

 しかも、珠さんは、対象者Aの入ったカフェとかにもずんずん自分も入っていき、目と鼻の先の席に座る。目が合いそうになると、思いっきり不自然な感じで目を逸らし、前髪をいじったり本を読んでいるふりをしたりする。、、、見ていて、こっちが恥ずかしくなるくらいの稚拙な演出。もうちょっと何とかならんのか!!

 あんなにド下手な尾行なら、すぐに対象者Aに気付かれる展開にするんなら分かる。でも、なかなか気付かれないんだ、これが。

 その対象者Aは、昼間っからビルの谷間で浮気相手の女とセックス。その後、シレっと娘へのプレゼントにケーキなんぞを買って帰宅。別の日は浮気相手の女とホテルにしけ込み、出て来たら、オサレなフレンチレストランでその女と痴話げんかをおっぱじめる。しかも、そのレストランには珠さんも潜入する。対象者Aから丸見えな席に座る珠さん。

 ……とまあ、こんな具合に、尾行シーンにヒヤヒヤもドキドキもほとんどなく、見ていてバカバカしくなってくる。いくらフィクションだからって、もう少しマシな見せ方考えろっての。リアリティとかどーでも良いっていうんなら、こんな中途半端な映画作ってんじゃねーよ、と思う。


◆二重生活?

 正直、最後まで見終わっての感想は、結局何だったのか、この映画は、、、、である。

 珠さんは、修論で何やら結論めいたことを書いていたけれど、見ている者に何か伝わってくるものがそこにあるわけでなく、ものすご~く上っ面な文章がナレーションで読まれているだけ。あんなんで修士とれる大学院ってどんなん? 哲学ってあんなんなんですか? おいおい~~。

 ……とまあ、そんなマジメなツッコミは野暮ですね。

 尾行する珠さんの一挙手一投足をしつこく撮影するというこの映画。その趣向はまあ、分からんでもないというか、映像作家的にそそられるんだろうなぁ、とは思うけど、映画としてはこれだけじゃねぇ、、、。インスタントコーヒーにお湯を入れないで、「飲め」ってカップを出された気分だ。飲めるかこんなもん!!

 長谷川博己演じる浮気男は、まあ、ものすごく類型的だわね。一見エリートで幸せな家庭のパパ、でも浮気男。こんな男の尾行して何が面白いのさ、と思う。映画だったら、もっとぶっ飛んだキャラの尾行させてよ。大体、エリートである必要なんぞないだろう。昼間っからぶらぶらしてるやけにオシャレな男で、家族は普通に暮らしているみたいだけど、家はゴミ屋敷で、シャレ男の尾行したら、実は……!!!みたいなのとか。エリートの化けの皮でも何でもないでしょ、浮気男なんてさー。掃いて捨てるほど転がっているネタを今更やってどーする?

 浮気男の人物造形も、冷たくて、利己的で、妻が自殺未遂したらあっさり浮気女と別れて、、、とか、ゼンゼン魅力なし男。ううむ、、、なんでこんなつまらない設定を敢えて選んだのか。

 尾行をする意味が分からん、と思いながら見ていたら、対象者Aの尾行が強制終了してしまった後、篠原教授が「対象を変えて続けろ」といって、珠さんが教授自身を尾行し始めた辺りから、ますます???となり、珠さんの尾行から見える教授の生活と、実際の教授の生活実態は、全く異なるものだった、というところへ至って、鈍い私は、ようやく気付いたのであった。なーんだ、客体と主体ね、、、ガクッ。

 エリートで良きパパVS浮気男、妻と仲の良い夫VS派遣妻を雇って親を看取った男、修論に励む院生VS尾行にのめり込む女、、、、これって二重生活っていうのか? これはただの二面性であって、そんなの人間ならアタリマエのことじゃん。

 そんだけのことを描くのに、このもったいぶった描き方は、一体、、、。それとも何かもっと見るべきものがあったのかなぁ。ゼンゼン響かなかったんですけど、私には。

 リリーさんと西田尚美さんの偽装夫婦が、本当の夫婦より幸せそう、という感想を見たけれど、ある意味そんなのはアタリマエで、西田さんはオシゴトなんですからね。そして、まあ、本作はきっとそこが言いたいのかも、と思いました。つまり、現実はそんな絵に描いた様な単細胞なもんじゃない、ってこと。、、、ま、これは深読みですけどね。

 原作を読んでいないけれど、いずれにせよ、原作はきっともう少し奥が深い話なんだと思いたい。


◆その他もろもろ 
 
 門脇麦さん、何かのドラマでチラッと見た気がしますが、まともに見たのは本作が初だと思う。んーー、正直なところ、あまり上手いのかどうか、分からなかった。ほとんど笑わない役だったし、院生なのもあって、かなり暗~~い人というイメージになっちゃったかも。でも、違う役ではゼンゼン違う側面を見せてくれそうな感じもする。もうすぐ始まる舞台「フェードル」を見る予定なので、一応楽しみ。

 長谷川博己は、最近めっぽうご活躍だけど、私はあんまし好きじゃない。このツルッとした感じの、爬虫類的な肌触り感を想像させる雰囲気がどうもダメである。本作の様に、自己チューで冷酷な男はお似合いです。彼の出演作は漱石を演じたドラマを含めて数本しか見ていないけれど、割と、何の役を演じても長谷川博己な感じがする。漱石ドラマも、尾野真千子さんに完全に喰われてしまっていたし、、、。彼のファンの方すみません、、、。

 リリーさんは、私は俳優として決して嫌いじゃないけれど、本作でのリリーさんは、ただのキモいオッサンにしか見えなかった、、、。すんません。

 ううむ、何か、雰囲気は悪くないのに、完全に雰囲気映画で終わっちゃっている気がする。マズイのは、シナリオと演出だと思われる。ちょっと調べたら、この監督さん、NHKドラマ「戦後70年 一番電車が走った」の脚本・演出も手がけていたのですね。このドラマは見たけれど、正直、素材は良いのにドラマはイマイチ、と思ったのでした。やはり、この監督さんの感性は、私には合わないようです。








期待外れでした、、、ごーん




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