映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

ウーマン・トーキング 私たちの選択(2022年)

2023-07-12 | 【う】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv79885/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 2010 年、自給自足で生活するキリスト教一派の村で起きた連続レイプ事件。これまで女性たちはそれを「悪魔の仕業」「作り話」である、と男性たちによって否定されていたが、ある日それが実際に犯罪だったことが明らかになる。

 タイムリミットは男性たちが街へと出かけている2日間。

 緊迫感のなか、尊厳を奪われた彼女たちは自らの未来を懸けた話し合いを行う―。

=====ここまで。


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 何かの映画を見に行った際にポスターを見て気になって、チラシを見たら「実話モノ」。うぅむ、実話モノあんまし好きじゃないのだよなぁ、、、と思ったけれども、どうやらかなり脚色されているらしいとのことで、だったら見てもいいかな、と思ったのでした。

 が、その後、Twitterでフェミ界隈から本作の感想がちらほら流れて来て、何となくイマイチっぽい感じがして、またまた興味が失せかけたのだけれど、前回の記事で書いたファスビンダーの『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』上映時間がかなり遅くて、それまで時間があるので、だったら見に行くか、、、みたいなノリでふらりと見に行ったのでした。


◆思考力の育て方

 上記あらすじにある「男性たちが街へと出かけている2日間」というのは、レイプ犯たちの釈放を求めて村の男たちが出かけて行ったってこと。彼らの留守の間に、残された女たちは今後の身の振り方について話し合う、、、という設定なんだが。

 最初に白状すると、正直言って終始かなり退屈であった。基本、会話劇だし、色調をわざとモノトーンぽくしているから画面は暗いし、村のルールでみんな似たような髪型と服装だから見分けが付きにくいし、、、で、おまけに、構成もわりと単調なので、だりぃ、、、って感じになってしまった。本作を好きな方、すみません。

 ただ、設定にかなり違和感もあって、この村というか、コミュニティでは、女性に学問は不要ということで、ほとんどの女性は文字も読めないし、まともな教育も受けていない。なのに、結構ハイレベルなディスカッションをしているのだ。ハイレベルというとあれだが、好き勝手なことを言いたい放題ではなく、議論になっているというか。それって、ある程度ロジカルな思考訓練が出来ていないと難しいんではないか??と思いまして。

 学校にも10歳に満たないくらいまでしか行っておらず、教育はもとより、女性は家に閉じ込められているっぽいので社会の一員として生きることの訓練もあまりされる機会がないという環境で、いかにしてあのような思考の訓練がなされたのか、というのが根本的な疑問として終盤までずーーーっとあった。

 けれども、終盤で、女たちが皆で賛美歌(?)を合唱するシーン(しかも結構長い)で、何となくだけど、ちょっと疑問は解消された。私がディスカッションとして見ていたのは、ディスカッションというより、信仰について語り合っていた、仏教でいう禅問答みたいなもんだったのかなぁ、と。そういえば、男たちを赦すだ赦さないだというのも、結局のところ「天国に行けるか」が基準になっており、一事が万事、判断基準は「天国に行けるか否か」なのだ。それなら、別にロジカルシンキングなんか必要ないわな、、、と。


◆元ネタの話

 で、女たちは、最終的に村を去るという選択をする。で、確か13歳、、、いや10歳だったかな、それ以下の男の子たちは女性たちと一緒に村を去る(つまり女性たちが連れて行く)のだが、それ以上の男子は性衝動を抑えられるかどうか微妙だ、ということで村に置いて行かれることになる。この年齢の線引きも話し合いでされるのだが、その辺もちょっと??な感じではあった。

 じゃ、置き去りにされた男子たちはどーなるか、、、っていうと、女性たちの話し合いの場に書記役として居た唯一の男性オーガストが村に残って、その男子たちの教育をするというのだ。

 オーガストを演じていたのはベン・ウィショー。オーガスト、責任重大やん、、、。聖なる父ってか??と思って見ていたら、去って行く女性の1人に、「これを持って行け」といって拳銃を渡すのである。このシーンは私はイマイチよく分からなくて、単なる護身用なのか、それ以上の意味があるのか、、、。ちょっとダレて見ていたので、何か大事なことを見落としていたのかな。

 このコミュニティは、メノナイトというアーミッシュと似たような宗教集団なのだが、やはり、こういう作品をきちんと理解するには、ベースとなる宗教の知識と信仰の経験がないと難しいと思う。私のように無信仰な人間には、正直言って、彼らの言動はおよそ理解の範疇を超えている。だから、終盤で、前述のように、禅問答みたいに感じてしまったのだと思う。

 そんなわけで、まるでピンと来ないまま劇場を後にしたわけだが、その後、本作の元ネタとなった「実話」をネットで調べたら、本作とは比べ物にならないくらい陰惨かつ闇の深い話だと分かって慄然となった。そして、やはり本作中の女たちの話し合いは、ほぼ創作なのだろうと理解した。

 現実のコミュニティで、女たちは厳然とまだそこにいるし、性犯罪は依然として横行しているという。本作は、一見、フェミ映画に見えるが、実質は宗教映画であり、性暴力に遭った女性たちの今後に意味のある提示は何もなされていないように感じた。なされていないことが問題だと言いたいのではなく、現実のあまりの陰惨さに圧倒されて、本作の印象など吹っ飛んでしまったということ。

 フィクションとリアルは対立関係にないと思うが、本作と元ネタに限って言えば、フィクションの前に、リアルはあまりに無力であると感じた次第。

 

 

 

 

 

 


フェミ映画ではなく、宗教映画です。

 

 

 

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美しき冒険旅行(1971年)

2022-07-11 | 【う】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv41039/


以下、早稲田松竹HPよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。
 
 オーストラリアの都会に暮らす14歳の姉(ジェニー・アガター)と6歳の弟はある日父親とともに砂漠へピクニックに出掛けた。しかし父親が発狂、子供たちに発砲し、自殺した。

 広大な砂漠に取り残された二人は生き残るための旅を続けるが、水も食糧も尽きてしまう。

 そこにアボリジナルの少年(デヴィッド・ガルピリル)が現れ、二人を救う。以後、二人は言葉の通じない少年に手助けされながら一緒に旅を続けるが…。

=====ここまで。

 “ニコラス・ローグの最高傑作”だそうな。

 
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 早稲田松竹で上映されていたニコラス・ローグ特集に、映画友と行ってまいりました。本作と『赤い影』が2本立て上映。特集の初日だったけど、入りは半分くらいだったかなぁ。暑かったもんね、、、。


◆ゆめまぼろし、、、

 上記のあらすじにもあるけれど、冒頭で「父親が発狂」って、ホントに発狂なんだよね。唐突もいいとこ。オープニングから不穏といえば不穏なんだが、だからっていきなり我が子に向けて発砲し、焼身自殺って、、、飛躍が大き過ぎて頭が着いていかない。だいたい、ピクニックにあんな砂漠に行くって、、、。しかも風もかなり強いし、あれじゃあ、お弁当は砂まみれ。もうイロイロ???状態。

 でもまあ、とりあえずそこは脇へ置いて、続きに着いて行こうとどうにか頭と心を切り替える。

 姉は学校の制服?みたいな、白いブラウスに超ミニスカート、足元は革のローファーという、およそ砂漠をサバイバルするには不都合な格好。というより、ピクニックにだってあれじゃあね、という、、、。しかしまあ、サバイバルは予定になかったのだから仕方がない。ミニスカートから出ているジェニー・アガターのおみ足の美しいことよ……。

 砂漠のサバイバルウォークといえば、『眼には眼を』(1957)を見ているのでこんなもんじゃないだろ、、、的なツッコミを内心入れてしまうものの、日干しにならない程度のそこそこ厳しめ、ってのが絶妙。で、ギリギリのところで湧き水が溜まっている所に辿り着き、一息つく姉弟。いやしかし、これでも先はかなり絶望的だろ、と思う。

 ……ところへやってくるのがアボリジニーの少年。原住民の少年は、野生のカンガルーを狩り、解体し、姉弟に食料として分け与える。水の在りかを知っていて、姉弟を連れて行く。自然と共生している少年と出会ったからこそ、この姉弟は生き永らえたのだ。

 で、あばら家のような小屋に辿り着いた3人は、そこで共同生活のような状態になる。砂漠をサバイバルウォークしていたときは、ただただ生きるために3人が一緒にいただけだが、落ち着く場所ができた途端、3人の関係に変化が生じる。少年が姉に恋するのだ。恋するというか、まあ、性の対象になるのだね。

 少年としては当たり前の感覚で、アボリジニーの風習であろう求愛ダンスを姉に対して1日中踊り続ける。黒い肌に全身に施された白い模様(おそらく化粧のようなものだろう)がまた強烈なインパクトで、あれは都会しか知らない姉にとっては恐怖以外の何物でもないだろう。姉は全身で少年を拒絶する。

 拒絶された少年は絶望して、何と、翌朝、大木の枝からぶら下がっているのである。姉弟はその脇をかいくぐる様にして小屋から脱出するが、その画は、何とも言えないシュールさが漂う。

 結局、その後、2人は見つけた道路を辿って人気のない炭鉱の町へ出て帰還したようである。ようである、、、というのは、突然そこでシーンが飛ぶので詳細は分からないのよ。

 ラストは、冒頭で出て来たのと同じようなマンションの一室で、サラリーマンぽい男性(夫と思われる)と抱き合っている大人っぽくなった姉。砂漠のサバイバルウォークから数年後、ってことでしょう。そして、その姉の視線の先には、砂漠での3人の楽し気な様子が幻影として映っている、、、というもの。

 このシーンを、懐かしむ“回想”とする感想も散見されたが、これは回想ではなく、妄想というか幻想だろう。早稲田松竹のHPにも本作のキャッチコピーに「あの時、君が望みさえすれば‥‥。」とあるが、あのラストシーンは、彼女がそれを絶対に望まないことだからこそ抱いた幻想だとした方が腑に落ちる。


◆その他もろもろ。

 同時上映の『赤い影』でも感じたが、ニコラス・ローグって、かなり性的なメタファーが多い気がした。

 本作では、やたらジェニー・アガターの美脚を、それこそパンツが見えそうな角度で何度も何度も撮っているのが、かなり印象的だった。脚フェチというのとはちょっと違う気がするが、、、。

 また、途中ジェニー・アガターが全裸で泳ぐシーンもあり、このシーンがとても美しい。それこそ“幻想的”でさえある。もしかすると、この3人のサバイバルウォークが、そもそも姉の幻想だったのではないか、、、とも受け取れるかもね。

 少年が姉に求愛ダンスをするシーンは、正直言ってかなり不気味である。少年は大真面目で、風習に則ってそうしているのだろうが、これはまさにカルチャーギャップであり、同じアボリジニーの少女ならそれに対する応え方(イエスでもノーでも)を心得ているのだろうが、姉にしてみれば恐怖から逃げるの一択である。これは、双方にとって気の毒。

 それで、あの少年が自死を選ぶというのもまた飛躍が大き過ぎて理解が追い付かないのだが。というか、本作自体が冒頭から最後まで、理解が追い付かないともいえるわね。いきなりの父親の発狂に始まるわけで、、、。

 他のローグ作品を知らないので、これが彼の最高傑作なのかどうかは分からないが、確かに映像はとても美しい。さすが、『アラビアのロレンス』で撮影を務めただけのことはある。

 ソフト化されているみたいだけど、こういう映画こそ、スクリーンで見るべき映画だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

カンガルーの解体シーンなど、エグいシーンも結構あります。

 

 

 

 

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美しき小さな浜辺(1948年)

2022-04-30 | 【う】

作品情報⇒https://www.allcinema.net/cinema/90421


 ある雨の降る夜、浜辺の小さなホテルにやってきたピエール(ジェラール・フィリップ)。彼は、ホテルの女主人に、自分は学生で精神を病んで静養に来たと言う。そんな彼を、女主人の父親と思しき車いすの老人は凝視している。

 彼は食事もろくに取らないが、新聞記事を気にし、また、ある女性歌手のレコードをかけると過剰な反応を示した。ホテルの従業員であるマルテ(マドレーヌ・ロビンソン)がそんなピエールを気遣う。

 ホテルでは15歳の戦争孤児の少年が雑用係として雇われており、ピエールは、その少年がホテルの客の中年女と関係をもっているのを知る。

 ピエールはその孤児の少年にかつての自分を見出す。ピエール自身も孤児で、かつてこのホテルで働いた経験があるのだった……。

 
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 ジェラール・フィリップの出演作はいくつか見ているが、本作はタイトルも知らなかったのだけれど、TSUTAYAさんがオススメしてきてくれたので借りてみた次第。

 とにかく、終始雨が降っている。このホテルのある地域は雨が多い、ということらしいが、それにしても雨が降っていない時がない。四六時中降っていて、陰鬱そのもの。ここまで雨ばかりだと、気分的にもかなり落ち込みそうな気がする。

 そして、なぜかみんな外を歩くときに傘を差さないのね。ジェラール・フィリップ演ずるピエールもずぶ濡れであちこち歩いている。びしょ濡れのまま屋内に入って、着衣がびしょびしょのまま椅子に座ったりする。映画の内容以前に、そういうところが異様に気になってしまう。だって、あんな服着て部屋の中で普通に過ごすのってあり得なくない??ってね。

 割と序盤で、ピエールが女性歌手を殺したことが推測できる展開になっており、そういう意味では、サスペンス性は薄い。けれども、どうして彼がそんな罪を犯したのか、、、が徐々に明らかになって行くという構成になっていて、なかなか見せてくれる。

 ピエールがマルテと小屋で身を寄せ合って語り合うシーンがあって、ラブシーンが展開されるのかと思いきや、そうではなく、ピエールの鬱鬱とした心境が語られる。マルテに触れて、人肌のぬくもりを感じ、一瞬の安らぎを覚えるピエールの表情が何とも切ない。

 本作は、冒頭に「この映画は孤児を差別する意図ではない」といった趣旨のテロップが出るのだが、要するに、ピエールを始めとした戦争孤児たちの置かれた厳しさを静かに告発する映画なのだろう。制作年からいって、まだ戦争の影響が色濃かった時代だろうし、戦争孤児は社会問題でもあったと思われる。

 ピエールもかつてはこの陰鬱な場所でこき使われていたところ、女性歌手に拾われ、パリで燕としていい様に扱われていたというわけね。具体的に何があったのかは描かれていないが、堪りかねて女性歌手を手にかけてしまった、ということだろう。まあ、殺したくなる気持ちは分かる気がする。とはいえ、辛い思い出しかないこのホテルに、彼はどうしてやってきたのか、、、。ほかに行く所がなかったとはいえ、なぜこの場所、、、。

 終盤、孤児の少年に「自分も昔ここで働いていた……」と身の上話をして、少年を勇気づけようとするピエールだが、少年にはほとんど響いていなさそうだったのが、また哀しい。天涯孤独で誰からも尊重されないでいると、手を差し延べてくれようとする人に対してさえ不信感しか持てないのだよね。

 驚いたのはラストシーンで、“美しき浜辺”を、少年と関係を持っていた中年女夫婦が傘を差して歩いており立ち止まる。すると、カメラが一気に引き始め、カットなしで砂浜に跡もつかずに遠景まで引きの映像となる。今ならドローンで出来るだろうが、当時、一体どうやって撮影したのだろうか、、、と何度か見直してしまったけれど、当然、分からない。ネットで検索してみたけど、それに関する記述には行き当らなかった。

 本作は、ジェラール・フィリップ自らが資金集めまでしたという、彼の思い入れのある作品とのこと。彼の憂を帯びた表情はさすがの一言で、美しさがより哀切を増す。

 ストーリー的にはシンプルだけに、今リメイクしたら、誰が監督しても、誰が主演であっても、この雰囲気は絶対に出せないだろうな、、、と思う次第。

 

 

 

 

 

 

 

舞台はフランスのどの地方なのでしょうか?

 

 

 

 

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ウンベルト・D(1951年)

2021-09-10 | 【う】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv13110/

 

 年金生活者ウンベルトは、安アパートに愛犬フライクと細々と暮らしているが、あまりにも年金支給額が少ないために家賃も滞納する有様。年金増額デモにフライクと参加するものの、事態は変わらず。アパートの女家主に、滞納分を払えないなら出て行けと言われる。この家主は、ウンベルトの部屋を時間制の“売春部屋”にしていたのである。

 あれこれ金の工面をしようとするものの万策尽きたウンベルト。可愛いフライクを道連れに、鉄道自殺を図ろうとするが、、、。

 ヴィットリオ・デ・シーカお得意(?)のビンボー映画。


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 デシーカは苦手なんだけれど、、、、というほどデシーカ作品を見ているわけじゃないので、偉そうなことを言うつもりはないのですが、とにかく『自転車泥棒』(1948)がまるで合わず、『子供たちは見ている』(1944)もちょっとなぁ、、、という感じで、ネオリアリズモだか何だか知りませんが、あまり良いイメージはないです。『ひまわり』(1970)は好きじゃないけど良い映画だと思います。

 本作は、タイトルは耳にしていたけど、レンタルはできなさそうだし、ビンボー映画は見ていて暗くなることが多いので別にいいや、、、と思っていたのだけど、たまたま区の図書館の映像ソフトリストを見ていたら目についたので、借りてみることに。そして、、、やっぱりイマイチ合わなかったのでした。ごーん……。

~~結末に触れていますのでよろしくお願いします。~~


◆ウンベルトは愚かではない。

 私がこれまで見たデシーカ映画に共通するのは、出て来る大人たちがみんな、ものすごく“愚か”であるということ。貧すれば鈍する、とはいうけれども、そういうのともちょっと違うような気がする。『子供たちは見ている』は、別にビンボー映画じゃなかったし。でも、出て来る大人は“超”のつくバカ者たちだった。

 『自転車泥棒』は名画と言われ、みんシネでもえらく評価が高い。ネオリアリズモの代表作らしいが、私には主人公の父親の愚かさが度を超していて不快でさえある。愚痴はみんシネにいっぱい書いたので割愛するが、いくら貧すれば鈍するといったって、それはちょっと、、、???という描写が多過ぎる。

 ああ、あんな状況になったらそうなっちゃうよね、、、とまったく思えない。『子供たちは~』もそう。作為的に過ぎる。主人公を追い詰めるのは、シナリオのイロハだけど、やり過ぎというか、主人公をバカにしすぎというか、引いては見る者をバカにしているとさえ感じるシーンもある。当時の貧しさはそれくらい今の人間から見れば酷かったんだ、、、ということなのかも知れないが、『子供たちは~』は貧しさは背景にないからね。

 それに比べれば、本作のウンベルトは大分マシである。少なくとも、愚かだとは思わない。負のループにハマるというのはこういうことだ、、、と見ていて思える。

 ウンベルトは、虎の子の時計を売ったり、食費を浮かそうと入院を試みたり、果ては、物乞いまでしそうになる。さすがに、物乞いは一瞬手前で止めるのだが、、、。物乞いまでする気になるのに、「施設にだけは絶対入りたくない!」と言っている。恐らく、当時の施設の環境は劣悪で、それこそ現代を生きる私の想像をこえているのだろうということくらいは想像できる。ウンベルトの意識としては、物乞い>>自殺>>施設なのだ。

 結局、ウンベルトは物乞いをする勇気(というか、プライドがそれをさせないのだが)もなく、施設に入ることなどもってのほか、……というわけで、愛犬フライクを道連れに鉄道自殺を図るのだが、もちろん、未遂に終わる。

 で、その後のラストシーンは、愛犬フライクと楽しげに道を駆けていく、、、というもの。現実問題は何も解決していない。ウンベルトは、あの後、どうなるのだろうか。あれほど忌避していた施設に入ることになるのか、、、。

 物乞いをするくらいなら、施設に入れば……、と思わないでもないが、これはかなりビミョーな問題なのだと思うに至った。


◆理想の老い方・死に方

 つまり、この映画は、老いる、どう死ぬか、、、を嫌でも考えさせられるのだ。

 施設に入ったとして、自分の世話を自分で出来ているうちはまだ良い。自分の世話を自分でできなくなってからが問題だ。特に、排泄関係。考えるだけで憂鬱になる。

 まあ、認知症になってしまって、自分のアイデンティティとかなくなっちゃえば、そういうことも気にならないのか、とも思うが、いや、そういうのとアイデンティティとは別だろうとも思う。排泄を人の手を借りてすることに対する羞恥心等は、認知症になったからと言ってなくなるものではないのでは?

 ……とかイロイロと考えていると、確かに、ウンベルトが言うように「施設だけは絶対にイヤだ!」というのも理解できる。けれど、私は物乞いはもっとイヤだなぁ、というのが本音。嗚呼、、、これなら安心して老いることが出来る、なんていう道筋はないのだな、としみじみ思うのであった。

 やっぱし、社会保険料を払えているうちにお迎えに来ていただきたい。私には子供もいないし、いたところで世話になるのは憚られるが、ウチの人の方が私より長生きするのは心配でもあるし、、、。しかし、“どう死ぬか”ばっかりは自分の意思でどうにも出来ないところがツラい。病気になった場合も、他人様の手を借りなければならなくなるケースは大いにあり得る。

 そんなどよよ~んとした気持ちにさせられる映画ではあったが、犬のフライクが可愛らしくて救いだった。ウンベルトが入院している間に、女家主に追い出されて保健所送りにされるが、ウンベルトがそれこそ死に物狂いで救出に行く。でも、そんなにしてまで大切な愛犬を、鉄道自殺の道連れにしようとするのよね、、、。そのとき、フライクが怖がってウンベルトの腕から脱出するシーンは見ていて身につまされる。

 自殺が未遂に終わった直後は、フライクはウンベルトに対して警戒するんだけど、すぐに元通りになって、楽しげに駆けていく、、、というのが、前述したとおり、ラストシーンとなっている。でも、ゼンゼン見ている者は救われた気分にならないのがミソ。むしろ、さらにどん底な気分になる。

 ウンベルト役を演じていたカルロ・バティスティというお方は、学者さんで、役者としてはまったくの素人らしい。そうとは思えない演技で、驚き。ウンベルトに金を無心される旧知の紳士のあからさまな逃げっぷりとか、全編実に人間臭い映画である。『自転車泥棒』より、本作の方が秀作だと感じた次第。
 

 

 

 

 

 


部屋に侵入してきたアリの大軍を始末する方法にびっくり。
  

 

 

 

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海と毒薬(1986年)

2020-12-05 | 【う】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv17574/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです(長いので一部編集。青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 昭和20年5月、敗戦の色はもはや隠しようもなく、九州F市にも毎晩のように米軍機による空襲が繰り返されていた。F帝大医学部研究生、勝呂(奥田瑛二)と戸田(渡辺謙)の二人は、物資も薬品もろくに揃わぬ状況の中で、なかば投げやりな毎日を送っていた。

 当時、死亡した医学部長の椅子を、勝呂たちが所属する第一外科の橋本教授(田村高廣)と第二外科の権藤教授(神山繁)が争っていたが、権藤は西部軍と結びついているため、橋本は劣勢に立たされていた。橋本は形勢を立て直すために、結核で入院している前医学部長の姪の田部夫人のオペを早めることにした。簡単なオペだし、成功した時の影響力が強いのだ。

 ところが、オペに失敗した。手術台に横たわる田部夫人の遺体を前に呆然と立ちすくむ橋本。橋本の医学部長の夢は消えた。

 数日後、勝呂と戸田は、橋本らに呼ばれた。B29爆撃機の捕虜八名の生体解剖を手伝えというのだ。二人は承諾した。

 生体解剖の日、勝呂は麻酔の用意を命じられたが、ふるえているばかりで役に立たない。戸田は冷静だった。彼は勝呂に代って、捕虜の顔に麻酔用のマスクをあてた。うろたえる医師たちに向かって「こいつは患者じゃない!」橋本の怒声が手術室に響きわたった……。

=====ここまで。


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 『黒部の太陽』を見て、かなりイマイチだったんだけど、監督の熊井啓の作品をTSUTAYAで検索したら本作がヒット。しかも原作は遠藤周作。遠藤周作といえば、ちょっと前に見た『私が棄てた女』の原作者でもあり、そのあまりのマッチョ思想に驚愕したんだけど、本作は、あの悪名高い九大生体解剖事件がモチーフになっているとのこと、しかも、奥田瑛二と渡辺謙のW主演というので、見てみることにしました。


◆これって、、、、

 ううむ、、、もう何を書いても陳腐になりそうな、恐るべき話の映画である。

 これが戦争、戦争は人を人でなくする、、、などと本作の感想で書かれているのを目にしたが、そういうことなのか? 戦時中だから、彼らはこういうことをしたのだろうか? 平時ならそもそも軍から生体解剖の依頼そのものがないだろうと? いや、平時なら拒絶する判断力があったと? 

 ……そうだろうか。

 これは、戦争云々というより、組織の問題だろう。大学病院という、上が「白」といえば、「黒いものでも白くなる」ような上下関係の絶対的な組織において、上から、非人道的な、あるいは違法な行為をしろと強要されたときに、下の者たちはどうするのか、その行為にどう向き合うのか、、、が問われているんじゃないのか。

 そう考えると、現在進行形で、同じことが起きているではないか。言論の府で公然と虚偽答弁をする上のために、下の人間一人が死んでも、その上と組織を守るために、資料を改ざんしたり廃棄したり、白々しい嘘の上塗りで庇ったり、真相に迫ろうという人間を恫喝したり、、、。本作で描かれている話と、どう違うというのか。構図は全く同じだろう。

 いや、生体解剖=人殺しと、たかが資料の改ざん・廃棄は質が違うでしょ、、と? どーだか。たかだが資料の改ざんも拒絶できない人間が、人殺しなら拒絶できるとは思えませぬ。

 思うに、こういう“上下関係絶対の組織”に、自ら進んで属することを選ぶ人間というのは、そもそも“隷属気質”がある気がする。でなければ、そんな組織にはいられない。やってられないからだ。私の場合、自らの進路として、そもそも選択肢になかったが、友人・知人にはそういう組織に一旦属したものの、離れた人は多い。

 しかし、そういう組織にどっぷり浸かると、組織の論理が全てになって、一般的な理屈は後回しになるのだろう。それはある意味、当然の成り行きで、そうでないと組織で生き残れないからだ。そうまでしてでも、その組織に居場所を確保するためには、“隷属気質”は必要不可欠だろう。元々持っているか、後天的に醸成されるかは分からんが。隷属気質は、言い換えれば、自らを思考停止状態にすることに抵抗がない、ということだ。

 そんなことを言ったら、役所なんか機能しないじゃないか、と反論されるかも。実際、軍なんかは機能しなくなると思う。駒になりきれる人間を養成する組織なんだから。でも、それ以外の組織は、そこに属する人間を思考停止させるものがあるのなら、その組織の在り方が間違っているのであって、断じて思考停止に抵抗することが間違っているのではない。

 本作での勝呂は、生体解剖に関わったことについて、「もうどうでもよか、考えてもしょうのなかことと、私一人の力ではどうにもならないんだと、自分に言い聞かせた」と、まさに「思考停止になっていた」と言い訳をしている。実際そうだったんだろう。

 一方の戸田は、そんな勝呂に「俺もお前もこんな時代の医学部におったから捕虜を解剖しただけや。俺達を罰する連中だって同じ立場に置かれたらどうなるか分からへん」とうそぶく。しかもこの戸田は「あの捕虜を殺したことで何千人もの患者が救えると考えたらあれは殺したんやない。生かしたんや。人間の良心なんて考え方でどうにでも変わる」とまで言っている。もう、思考停止を超えて、洗脳されているというか、生来の気質なんじゃないかとさえ思えてくる。

 結局、下々が思考停止している方が、上は組織を動かしやすいってことに尽きる。今の政府が、一億総愚民化しようとしているのもそう。まったく、バカほど人を強権支配しようとするという典型。この映画を見て、そんなことを考えてしまうなんて、、、、我ながらイヤになる。


◆クリスチャンであれば、、、??

 原作者の遠藤周作は、どういう意図でこの小説を書いたんだろう。 ……と思って、ちょっとwikiを見たら、「日本人には確とした行動を規律する成文原理が無く、(中略)クリスチャンであれば原理に基づき強い拒否を行うはずだが、そうではない日本人は同調圧力に負けてしてしまう場合があるのではないか──自身もクリスチャンであった遠藤がこのように考えたことがモチーフとなっている。」だそうだ。

 「クリスチャンであれば原理に基づき強い拒否を行うはずだが」って、、、そうなの?? 本作内では、それを思わせるのが橋本教授の妻・ヒルダなんだが、この人は、やたらと「神様」を口にして、他人を断罪するようなことを平気で言うドイツ人女性という設定になっている。しかし、ヒルダは夫がしている人殺しについては知らないままのようで、結局、彼女が夫の行為を知った後、どういう態度をとるのか、ということについてはノータッチである。だから、原作のテーマ性は、映画ではほとんど描かれていないのだと思われる。

 日本が同調圧力の強い社会、というのは確かにそうだろうが、クリスチャンなら毅然と拒絶できる、ってのには懐疑的だ。別に、心に神の存在などなくても、自分と向き合うことができる人間は普通にいる。神がいる故に面倒なことになる場面だって、映画ではいっぱい描かれてきているのだからね。信仰についてとやかく言うつもりはないが、とかく、信仰を持つ人は信仰を持たない人に批判的になることがあるが、それは、ある意味で信仰の自由にも反すると思うのだけどどうだろう?

 まあ、原作を読んでいないので分からないから、信仰云々については原作を読んで、改めて考えてみたい。遠藤がどれくらいマッチョなのか、他の作品も読んでみたいしね。


◆その他もろもろ

 奥田瑛二も渡辺謙も若い。二人とも、なかなかの熱演だったと思う。

 奥田瑛二は、ときどき、キムタクに似ているなぁ、、、と思うシーンも多々あり、若い頃は二枚目だったんだね、、、と認識を改めました。渡辺謙は、独眼竜政宗より前になるのかな。方言が怖ろしく下手というか、板についていなくて、聞いていていたたまれなくなった。

 しかし、そんな主役二人を喰っていたのが、看護婦長の岸田今日子。無表情なんだが、すんごい怖い。橋本教授に惚れているらしく、もう、盲目的に従っている。解剖を終えた捕虜の遺体を運んで、暗い病院の廊下を歩いているシーンなど、ほとんどホラー。

 成田三樹夫は相変わらず悪役が似合う。独特の声が懐かしい、、、。彼のような俳優、今、いないような気がする。

 田村高廣も権力欲に取り憑かれた老いぼれ、という難しいところを巧みに演じていた。根岸季衣は、途中、脱いでいたけど、彼女はやっぱり本当にイイ女優さんだと改めて思った。こういう屈折した役はハマるよなぁ。

 ……と、何気にかなりの豪華キャスト。このキャストで、こんなセンシティブなテーマの映画が、よく撮れたなぁ、と感心する。1986年というと、昭和61年。あの頃は、こういう映画が制作できて、賞ももらえるようなご時世だったんだ、、、。今じゃムリだろうなー。歴史修正主義者たちが湧いてきそう、、、。

 『黒部の太陽』より、断然本作の方が良い映画だと感じた次第。

 

 

 

 

 


全編モノクロなのは解剖シーンが多いから?

 

 


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美しい絵の崩壊(2013年)

2020-11-29 | 【う】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv55444/

 

 幼馴染みで無二の親友であるロズ(ロビン・ライト)とリル(ナオミ・ワッツ)は、長じて、二人とも結婚し、相前後して息子に恵まれた。リルはその後夫を事故で亡くすが、近所に暮らすロズの支えもあって、海を見下ろす家で暮らしていた。

 成長した双方の息子たちも幼い頃から親しく、ロズとリルは互いに第二の母親のような存在だった。

 リルの息子イアン(ゼイヴィア・サミュエル)は、以前からロズに思いを寄せていたと言って、ある晩、ロズに迫る。ロズは驚きながらも受け容れる。しかし、それをロズの息子トム(ジェームズ・フレッシュヴィル)に見られてしまう。トムは仕返しとばかりに、リルに強引に迫る。リルは最初は拒絶するものの、ロズとイアンが深い仲になったとトムから聞かされると、そのままトムを受け容れる。

 それから、互いの母親と息子が恋愛関係になるのだが、、、。


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 何かの予告編で見てDVDをリストに入れたらしい、、、。これ、2014年に公開されていたんですねぇ。知りませんでした。


◆親友というよりも、、、

 本作を見た後に知ったのだけど、監督がアンヌ・フォンテーヌという女性なんだが、私、この人の作品を見たの、これで3本目だったみたい。これまで見たのは『夜明けの祈り』(2016)『ボヴァリー夫人とパン屋』(2014)。どちらも、まあまあ悪くない印象の映画だった。

 でも、本作は、ちょっとね、、、という感じ。そもそも、親友同士が、互いの息子と恋愛関係になる、、、ってのが、あんましグッとこないお話よね(だったら見るな、って話なんだが)。まあ、実の息子と近親相姦じゃないだけマシだけど。

 ……ただ、その辺は、見ている過程で、ちょっと印象が変化していった。なんというか、ロズもリルも、息子たちを男性として愛している、というよりも、“親友の息子だから”好きなんだな、と。つまり、ロズもリルも、全然関係のない、例えば職場の若い男の子とかだったら、相手にしていなかったんじゃないか、ということ。

 オープニングは、子どもの頃のロズとリルの描写なんだが、少女の友情にありがちな同性愛的な印象があり、実際、大人になった2人も同性愛の疑いをかけられるシーンがある。ロズとリルが実際に肉体関係を結ぶことはないんだけれども、十分、プラトニックな恋愛関係が成立していると思う。

 それを一番感じたのは、リルが、ロズの息子トムに去られて悲しんで涙にくれるシーン。セリフよりも、その身体的な描写にね、、、。ロズが、リルを背後から優しく抱きしめるのだけど、もうほとんどそれは恋人同士のハグシーンだろ、って感じだった。このシーンを見て、私は、この2人は息子のことを愛しているんじゃなくて、その向こうに、互いの存在を感じているから恋愛関係を続けてきたんだな~、と感じたのだった、、、。

 しかし。それでもやっぱり、私の感覚では息子と同じくらいの年齢の男の子と深い仲になるってのは、ちょっと気持ちワルイので、この2人の女性にはゼンゼン共感できなかった。

 そこまで深くて強い友情ってのは、スゴいよね。私なんて、子どもの頃仲の良かった友人は、今や名前も思い出せないくらい。そもそも、協調性のない子どもだったので、親友と呼べる人はおろか、友人も少なかった。今も関係が辛うじて続いているのは、高校時代以降の友人ばかり。ロズとリルみたいに、ずーーーっと近所で住んで、同じくらいの時期に結婚して出産して、、、っていうのは、かなりレアでしょう。というか、そういう設定自体がもう、神秘的ですらある。この2人が分かちがたい、それこそ、魂の片割れみたいな存在、ということなのかもね。

 だとしても、それで息子や夫を巻き込むのは小説や映画だけの世界にしておいてほしい。友人に限らず、親子、兄弟姉妹でも、あまりにも結びつきが強すぎる関係ってのは、周囲に悪影響を及ぼすと思うなぁ。人間、やっぱり適度な距離が必要なのでは。プライベートでも、ソーシャルディスタンスは大事でしょ。


◆その他もろもろ

 ロビン・ライトもナオミ・ワッツも、40代半ばで、おキレイです。お腹も出てないし、お胸もお尻も下がっていない。あんなキレイな母親がいたら、息子たちからしてみれば、その辺のギャルがつまんないガキに見えるのも仕方がないかもねぇ。

 イアンを演じたゼイヴィア・サミュエルくんは、なかなかイケメンだった。トムのジェームズ・フレッシュヴィルくんは、まあ、、、好みの問題かな。一番可哀想なのは、ロズの夫だよねぇ。折角、お仕事で栄転なのに、家族は着いてきてくれないどころか、閉じた関係でよろしくやってるんだから。夫は完全に蚊帳の外。離婚して正解です。

 本作の邦題は『美しい絵の崩壊』なんだけど、この4人の関係は、結局崩壊していない気がするんだよね。ネットでは、この「崩壊」は、イアンのことだと書いている人がいたが、なるほどなぁ、、、と思った。確かに、この4人の中で、一番傷ついたのはイアンだろうから。そして、イアンは美しい(トムに比べると、、、という意味だが)。

 しかし、この4人はこれからどうなるんだろうか、、、。もういっそ、4人で楽しく暮らしたら?と言ってやりたくなる。だって、誰かが入っても、弾き飛ばされるだけなんだから。夫や、息子たちが結婚した相手の女性たちのように。誰も巻き込まないでください、って感じ。

 原作は、ドリス・レッシングの短編集『グランド・マザーズ』だそうだ。ドリス・レッシングなんて、初めて聞いた名前だが、ノーベル文学賞を2007年に受賞している。その経歴をざっとネットで読んだら、俄然興味が湧いてしまって、原作本を通販で早速ポチってしまった。おそらく原作小説の方が面白いとみた。もうすぐ本が届くと思うけど、読むのが楽しみ~♪

 
 

 

 

 

 

海辺の家が素敵。1週間くらいなら住んでみたい。

 

 

 


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家(うち)へ帰ろう (2017年)

2019-10-14 | 【う】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv66333/

 

 アブラハム(ミゲル・アンヘル・ソラ)は、ブエノスアイレスに住む88歳の仕立屋。息子や娘たちは彼の家を売った上、その金で彼を老人ホームに入れることに決め、いよいよ明日は引っ越しという日になった。老人ホームで自慢するため、家族の記念写真を撮りたいと言うアブラハムのために皆が集まるが、孫娘の一人は写真を撮りたくないと言い、娘には「(糖尿病で悪くした)脚を切断しろ」と言われる始末。

 皆が帰った後、家政婦が「これどうします?」と一着のスーツをアブラハムに見せる。そのスーツは以前、アブラハムが仕立てたスーツだ。それを見たアブラハムは、ある決断をする。

 息子や娘の誰にも告げず、一人で空港に向かったアブラハム。スペイン・マドリード行きの便に席があると聞いて、脚を引きずりながら乗り込む。……果たして彼の決断とは?

 

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 昨年、公開中に見に行けずに終わってしまったので、ようやくDVDで鑑賞。

 

◆アブラハムとは何者?

 冒頭、アブラハムは息子たち家族に囲まれて記念写真を撮るシーンから始まるんだけど、ここで、孫娘とのちょっと変わったやり取りに、何となく、むむ?となって、気がつけば一気に引き込まれてしまっていた。

 どう変わっていたかというと、孫娘が写真嫌いだから自分は映りたくないけど、「iPhoneの最新機種を買うのに1,000ドルくれたら映ってもいい」と言う。で、そこからアブラハムと女の子の金銭交渉が始まるんだが、800ドルでお互い手を打つ。アブラハムが「バカだな、もう少し粘れば1,000ドル出してやったのに。200ドル損したな!」と言うと、孫娘は「バカはおじいちゃんだ。ホントはiPhoneは600ドル。おじいちゃんこそ200ドル損したね!!」

 で、アブラハム、悔しがるかと思いきや、「さすが私の孫だ、素晴らしい!」とご満悦なのである。

 なんちゅう家族、、、と思ったけど、これは後々、ああそうか、と思い至る。それは、アブラハムが突然マドリードに旅立った理由が徐々に明かされていくことで分かる。

 本作は、あまり予備知識なく見た方が良いのではないかと思うけど、知っていると面白くない、というわけではもちろんありません。以下、ネタバレですので、あしからず。

 アブラハムは、マドリードに行ったのではなく、その先に目的地があったのである。その場所とは、ポーランドのウッチ。アブラハムの生まれ育った場所だ。つまり、彼はユダヤ人で、ナチスの迫害を生き延び、第二次大戦後、アルゼンチンに渡ったのである。

 冒頭の孫娘との金銭交渉は、要するにアブラハム一族がユダヤ人であることを強調する描写だったのかなと。アブラハムには監督自身のお爺さんを投影させているという。監督がシナリオも書いているので、自虐ネタ的に、アブラハムがそうやって地球の裏側でユダヤ人社会を金だけを頼りに生き抜いたことを象徴するシーンかな、と感じた次第。

 

◆アブラハムは何故ポーランドへ?

 ~~以下、結末に触れています~~

 そんなアブラハムが、切断寸前の脚を引きずってまでポーランドへ行きたがった理由とは、旧い親友との約束を果たすため。その約束は「いつか君のためにスーツを作る」

 アブラハムの父親も仕立屋で、ウッチではポーランド人の使用人も雇ってそこそこ裕福な暮らしをしていたようだ。が、社会の風向きが変わり、一家は収容所送りになり、家はポーランド人の使用人家族に乗っ取られる。この使用人家族の息子ピオトレックが、アブラハムがスーツを作ると約束した親友。

 収容所から脱走してきたアブラハムを、元使用人は追い返そうとするが、息子のピオトレックは「お世話になった人の息子じゃないか!」と言って、アブラハムを地下にある以前の自分たちの家に匿う。ピオトレックに手厚く看護されたことでアブラハムは九死に一生を得、生き延びたというわけ。

 また、アブラハムには年の離れた妹がいた。当時10歳の妹はお話を創作するのが得意で、彼はこの妹をとても可愛がっていた。が、あと1か月で11歳だったのに、10歳だったから(?)妹は拘束され連れて行かれてしまい、トラックに乗せられる妹の姿がアブラハムの脳裏に焼き付いて離れない。

 こういう辛い過去の描写が折々に挟まれながら、あれほど嫌っていたドイツの地にも足を踏み入れ、恐らくベルリン駅で電車を乗り換える。その乗り換えた電車では、体調がさらに悪化したせいか、ナチスの兵士たちが列車に乗っている幻想を見てしまい、ぶっ倒れたりしながらも、どうにか目的地に辿り着き、かつて自分の住んでいた家、親友が助けて匿ってくれた家までやってくる。

 果たして、そこにピオトレックはいるのか。

 バッドエンドも予想できる展開だったので覚悟はしていたけれど、実にさりげなく、しかし感動的にピオトレックとの再会を果たすシーンでジ・エンドとなり、ホッとした。それまで抑制の効いた描写が続いてきたので、このラストはアブラハムの感極まる思いが溢れるようで感動的だ。

 そして、最後にピオトレックの言うセリフにジーンとなる。「家(うち)へ帰ろう」

 

◆素晴らしいシナリオ!

 アブラハムの人物造形が良い。偏屈爺ぃぽく見せているが、実はそうでもなくてユーモアがあって、おちゃめなところもある。だから、旅の途中で出会う人たち(1人を除いて皆女性ってところも笑える)に親切にされる。

 思わず笑ったのは、マドリード行きの飛行機内のシーン。

 アブラハムの席は、真ん中の列の真ん中だったが、左隣は空いていて、右隣に気の弱そうな男が座っている。アブラハムが度々話し掛けると、この男は明らかに迷惑そうにし、「ほっといてくれ」みたいなことを言う。アブラハムも「すまない」などと引くかに見せて、懲りずに話し掛けて男をウンザリさせ、挙げ句、男は席を移動する。男がいなくなると、アブラハムはニンマリして、3席我が物顔で横になって占領する、、、とか。でも、この男がマドリードでは親切にしてくれるのだ。

 あと、良いなぁと思ったのは、一貫してアブラハムを突き放した描き方をしているところ。これが、ラストシーンで効いているように思う。

 例えば、マドリードで泊まったホテルの主は、金にシビアで愛想のないマリア(アンヘラ・モリーナ)。でも、このマリアも意外に親切で、アブラハムが寝坊していると起こしに来てくれる。で、ここでマリアはアブラハムの腕に番号が刻印されているのを見てしまい、彼がホロコーストの生き残りだと分かるようになっている。

 また、アブラハムには実は絶縁した娘がマドリードにいて、そのいきさつをマリアに話すと、そのリア王みたいなエピソードにマリアは「自業自得ね」とバッサリ。有り金全部を盗難に遭ったこともあり、マリアに「(娘に)会うべきだ」と背中を押され、娘に金の無心に行くんだが、さしもの偏屈爺ぃも、ここでは過去の自分の愚かな行為を娘に素直に謝る。となると普通は、そこで父娘の涙の和解、、、的なシーンを描きそうなモノだが、この監督はそうしない。娘はアブラハムに素っ気ないが、アブラハムの腕に刻印されている数字と同じタトゥが娘の腕にあるのをチラッと見せる。お金をアブラハムに渡す描写もないまま、次のシーンではアブラハムは電車に乗る場面になっている。

 ベタな父娘の和解シーンは描かなくとも、娘の父に対する気持ちを見せ、お金を父に渡したことも分かるよう、最小限の描写に徹している。

 本来なら深刻になりそうなシーンも、コミカルに描いている。アブラハムは、「ポーランド」「ドイツ」という固有名詞を絶対に口にしたくなくて、パリで電車を乗り換える際も、駅のインフォメーションで「ポーランド」「ドイツ」と国名を紙に書いて「ドイツを通らずにポーランドに行きたい」と訴える。このシーンが結構可笑しい。……で、フランス人が理解できずにいるところへ、一人のドイツ人女性が彼に助け船を出すが、彼女がドイツ人と知ってアブラハムは、、、という具合に、ストーリーも重層的かつナチュラルに展開していくあたりは、素晴らしいシナリオだと感心してしまった。

 アブラハムを演じたミゲル・アンヘル・ソラが実に良い。アルゼンチンの名優らしい。一つ間違うと、ただの憎ったらしい爺ぃになりかねないところを魅力たっぷりに演じている。本作の味わい深さはこの方に負うところ大だろう。

 

 

 

 

 

アブラハムの脚は切断せずに済むことになりました。ホッ、、、

 

 

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ヴィクトリア女王 最期の秘密(2017年)

2019-02-24 | 【う】



 上記リンクからあらすじのコピペです。

=====ここから。

 インドが英領となって29年目の1887年、ヴィクトリア女王(ジュディ・デンチ)の即位50周年記念式典で記念金貨“モハール”を献上する役目に任命されたアグラに住む若者アブドゥル・カリム(アリ・ファザール)は、もう一人の献上役モハメド(アディール・アクタル)と共にイギリスへ渡る。

 18歳で即位してから長年女王の座に君臨してきたヴィクトリアは、最愛の夫と従僕を亡くし心を閉ざしていた。細かく決められたスケジュールをこなし、思惑が飛び交う宮廷生活に心休まらない日々を送るなか、金貨を献上しに現れたアブドゥルの、物怖じせず本音で語りかけてくる態度に心を奪われる。

 彼を気に入ったヴィクトリアは、式典の期間中、彼を従僕にする。ヴィクトリアはインド皇帝でもありながら現地に行ったことがないため、アブドゥルから言葉や文化を教えてもらい、魅了されていく。

 次第に二人の間には身分も年齢も越えて強い絆が生まれるが、周囲の猛反対に遭い、やがて英国王室を揺るがす大騒動を巻き起こす……。

=====ここまで。

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 『きっと、うまくいく』でジョイ・ロボを演じていたアリ・ファザールがジュディ・デンチと共に主演、脚本はあの『リトル・ダンサー』リー・ホールということで、見に行って参りました。


◆いきなりタージマハルが出て来て感激!

 アリ・ファザール演じるアブドゥルは、インドのアグラ出身。アグラといえば、タージマハル。本作のオープニングは、タージマハルを遠景にアグラの市街地をアブドゥルが歩くシーンでありました。まぁ、、、なんと、こないだ行ってこの目で見てきたばかりのタージマハルではないの!! 感激。

 で、アブドゥルがイギリスへ行き、ヴィクトリア女王に出会って、女王のお気に入りになって、女王が亡くなるまで側で仕えた、約13年間の出来事を描いているのが、本作であります。

 冒頭で、「この物語は事実です、そのほとんど(almost)において……」という字幕が出るんだけど、根本的に事実と異なるのは、もしかすると“アブドゥルがハンサムである”という本作の設定かも。というのも、エンディングの直前に出てくる実際のアブドゥルと女王の写真(絵かも)を見ると、あんましハンサムに見えなかったから。後からPCでもう一度その顔のアップや、他のアブドゥルの肖像を見ると、ちょっとでっぷりした感じだけど、顔の作りはまあまあなのか……?? とも思った。痩せたらもう少しイケメンに見えたのかもね。

 ……それはともかく。本作では、アブドゥルがハンサムだから女王の目に留まった、ということになっていて、史実はどうあれ、それはそれで良いと思った。ただハンサムだから目には留まったものの、その後、女王が彼のための部屋を宮殿にしつらえるまでに肩入れしたのは、アブドゥルがなかなか気が利く、頭の回転が速い青年だったからだろう。本作では、その切っ掛けになったのが、アブドゥルが女王の足下に跪いて、靴にキスをするというシーンで描かれる。これも実話かどうか知らないけれど、アブドゥルもなかなかのヤツだな、、、と感じた。

 こういう実話モノだと、ありがちなのが、寵愛を受けた者は野心など抱いておらず、純粋に女王のためを思ってひたすら尽くすパターンなんだけど、本作は、アブドゥルも野心家に描いているのが、逆に私には好印象だった。

 アブドゥルと共にイギリスに送り込まれた男モハメドは、アブドゥルが女王の従僕に引き立てられると、アブドゥルのお世話係にさせられる。モハメド自身は、イギリスを憎悪しており、早くインドに帰りたくて仕方がないのだが、アブドゥルは女王だけでなく宮殿や暮らしなどに魅力を感じて、宗主国に対する複雑な感情が見られない。その辺をモハメドにも非難されるが、アブドゥルはお構いなし。一番気の毒なのは、何と言ってもモハメド。彼はイギリスの気候が身体に合わず、ただでさえ嫌いな国にいるというストレスに加え、寒さと生活習慣の違いに衰弱していき、インドに帰ることなくイギリスで病死してしまうのだから。

 そんな現実がありながらも、アブドゥルは女王の側から離れようとせず、女王が死期を悟った際に「もうインドに帰りなさい」と言っても、「いいえ、私は最期まであなたの側にいます」と言って、実際、その通りにした。

 当然、女王の周辺者たちは、そんな状況を良しとせず、アブドゥルを排除しようと躍起になる。彼の目の前で彼を貶めるようなことを散々言われたりされたりしても、アブドゥルはめげずに、女王の側にいつづけるのだから、かなりの強者。

 したたかに居続けたアブドゥルだったが、女王が亡くなると、その息子エドワード7世にアッと言う間にインドに追い返され、女王の身の回りにあったアブドゥルに関する手紙類は全て焼却処分された。だが、最近になって、アブドゥルの遺品に彼の付けていた日記が発見されたことから、詳細が分かったということらしい。


◆モハメドの存在感

 本作は、序盤は、コメディタッチで、劇場でも所々で笑いが起こっていたが、中盤以降は結構シビアな展開になるのが意外だった。脚本のリー・ホールは、決して女王とアブドゥルの関係を好ましいもの一辺倒では描いていない。むしろ、中盤以降は批判的に感じる。それを象徴するのが、モハメドの存在。

 前述したとおり、モハメドはイギリスを嫌っていて、アブドゥルの言動にも批判的だ。しかし、女王の側近がアブドゥルを排斥しようとして、モハメドにアブドゥルの身上を聴取しようとするシーンが、この映画のある意味キモだと思う。

 つまり、インドに帰りたいモハメドは、ここで側近たちの動きを利用し、アブドゥルを売るという選択肢もあったはず。でも、彼はアブドゥルと女王の関係について、ぶっちゃけて言えば「ざまぁ見ろ」的な言葉を側近に投げつけるのだ。お前ら偉そうにしているが、お前らの頭上に君臨している女王は、お前らが見下しているインド人を師と仰いでいるのだゾ、バカじゃねーの、、、、とね。そうして、自分がインドに帰る機会を潰してでも、インド人としての矜持を保ったモハメドの態度は、イギリスに憎悪を抱く者にとっては溜飲が下がることだろう。私は、当事国の人間でないけれど、このシーンは心に沁みた。
 
 こういう実話を単なる美談で描いてしまってはつまらない。これでも大分、キレイに脚色しているはずではあるけど、それでも側近たちの右往左往ぶりや、あからさまな差別発言などが容赦なく描かれているのは、結構なことだ。だからこそ、皮肉も効いている。

 また、ネットでは、女王がアブドゥルに恋愛感情を抱いたのではないか、そういう感情で他の人より寵愛を受けて優位になるなんて、、、というような感想があったが、所詮、女王も人間で女性だ。日頃、孤独で寂しい老女にとって、見目麗しい若い男が目の前に現れれば、心動かされるのは自然な成り行き。恋愛感情を抱いたって不思議じゃない。もちろん、女王の抱いた恋愛感情は、若い頃のそれとは質が違うはずで、肉欲より、精神的なつながりを欲するものだと思う。そういう感情すら否定するのはいかがなものか、と逆に思う。そして、見た目の良い人間が、誰かに寵愛されるのもまた、人の世の常ではないか。そういうことが歴史を動かしてきたなんてのはいっぱいあるのだから、それを否定してしまってどーする? とさえ思うのだけど。

 人間、そんな単純で潔癖じゃないのですよ。


◆ヴィクトリア女王って、実は、、、

 それにしても、この映画を見て、私は、ヴィクトリア女王って実はあんまし賢くなかったんじゃないかと思うようになった。長く女王の座にあったから、それなりに賢い人だと思っていたが、在位期間と教養・能力は、決して比例しないのではないかと感じる。

 なぜなら、彼女は、夫の死後、何度も身分の低い者を寵愛して周囲の反感を買い、トラブルを起こしているのである。アブドゥルが初めてではないのだ。自分のやることなすことが、どういう影響を及ぼすのか、ということを女王として自覚せず、学習せず、同じことを繰り返している。これって、ちょっとどーなの??と思うんだけど。

 ただの貴族の奥様なら別に構わないけど、女王だったら、その辺はもう少し自覚的に行動して欲しいと側近たちが憤るのも無理ないよなぁ、と思う。

 孤独な女王だから心の支えが欲しい、、、ってのは分かるけど、その心の支えを却って危機に陥れるような偏愛ぶりは、異常でさえある。実際、アブドゥルに爵位を与えようとしたときは、周囲に精神状態を疑われるが、これも致し方ないという気がする。

 wikiには、やはり女王がイマイチ賢くなかったことについて「人物」欄に書かれている。まぁ、所詮wikiなので話半分としても、決して思慮深い女性でなかったことは確かなようだ。

 その女王をジュディ・デンチが好演していた。彼女は女王役がよく似合う。大分お年を召したけれど、相変わらずの存在感だった。

 アリ・ファザールは、好青年で、野心家アブドゥルにしては、ちょっと可愛すぎる感じもしたが頑張っていたと思う。彼は今回、オーディションでこの役に選ばれたとのこと。『きっと、うまくいく』では悲劇的な青年役だったが、出番は少なかったけれど光っていたものね。これから世界的な活躍が期待できるかも。

 女王に「ろくでなし」呼ばわりされる長男バーティ(後のエドワード7世)を演じたエディ・イザードは、憎ったらしいオッサンを好演。首相のソールスベリーを演じたマイケル・ガンボンもすっとぼけた感じで、相変わらず素晴らしい。

 

 







アブドゥルはインドに追い返された8年後に46歳で亡くなったとのこと。




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ウインド・リバー(2017年)

2018-09-13 | 【う】



 以下、公式HPよりストーリーのコピペです(すんごい長いし分かりにくいのでちょっと編集しています)。

=====ここから。

 なぜ、この土地(ウインド・リバー)では少女ばかりが殺されるのかーー

 アメリカ中西部・ワイオミング州のネイティブアメリカンの保留地ウインド・リバー。その深い雪に閉ざされた山岳地帯で、ネイティブアメリカンの少女の死体が見つかった。第一発見者となった野生生物局の白人ハンター、コリー・ランバート(ジェレミー・レナー)は、血を吐いた状態で凍りついたその少女が、自らの娘エミリーの親友であるナタリー(ケルシー・アスビル)だと知って胸を締めつけられる。

 コリーは、部族警察長ベン(グラハム・グリーン)とともにFBIの到着を待つが、視界不良の猛吹雪に見舞われ、予定より大幅に遅れてやってきたのは新米の女性捜査官ジェーン・バナー(エリザベス・オルセン)ひとりだけだった。

 死体発見現場に案内されたジェーンは、あまりにも不可解な状況に驚く。現場から5キロ圏内には民家がひとつもなく、ナタリーはなぜか薄着で裸足だった。前夜の気温は約マイナス30度。肺が凍って破裂するほどの極限の冷気を吸い込みながら、なぜナタリーは雪原を走って息絶えたのかーー

 監察医の検死結果により、生前のナタリーが何者かから性的暴行を受けていたことが判明する。彼女が犯人からの逃走中に死亡したことは明白だが、直接的な死因はあくまで肺出血であり、他殺と認定できないことから、FBIの専門チームを呼ぶことができなくなったジェーンは、ウインド・リバーの事情に精通したコリーに捜査への協力を求める

 捜査を進めるコリーとジェーンは、鬱蒼とした森の中で白人男性の遺体を発見。彼の身元はナタリーの恋人で保留地近くの石油採掘場で働くマット・レイバーン(ジョン・バーンサル)だった。

 はたして事件当夜、人里離れた石油採掘場のトレーラーハウスで何が起こったのか。ついに明らかになる衝撃の真実とは……。

=====ここまで。

 実は、コリーの娘も、過去にナタリーと同じような目に遭って亡くなっています。

 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 見たい、見たい、と思っていながら、なかなか見に行けずにいたんだけれど、やっとこさ行ってまいりました。見てからもう3週間経つんですけど、ゼンゼン、インパクトも記憶も薄れない、衝撃的な作品でした。


◆先住民迫害の理不尽

 あまりに寒いと、呼吸によって肺に入った外気で肺が凍ってしまうとは、、、。それで、呼吸が出来なくなり、肺出血を起こしてしまうだなんて、聞いているだけで息苦しくなってくる、、、。

 そんなことが起きるような土地、ワイオミング州のウインド・リバーと呼ばれる土地は、先住民族の「保留地」。そういう土地があることは一応知っていたけれども、それが、17世紀から行われた国策である先住民族の強制移住によるものだったとは、恥ずかしながら本作を見て初めて知った次第。

 映画のパンフによると、「1830年にインディアン強制移住法が制定されると、ミシシッピ川以東に居住した部族は西武の代替地への移動を強要された。「涙の旅路」として知られるチェロキー族のケースでは、凡そ1,900キロの移動が強いられた。1840年代半ばまでに約10万人が移動させられたが、その行程は極めて過酷で多くのものが途上で落命している」とある。

 また、インディアン保留地とは、「ネイティブアメリカン部族の居住のために指定された地区。合衆国連邦政府から部族に信託された土地であり、一部を除いて州の権限が及ばない。保留地はミシシッピ川以西に集中しており、2015年時点で326存在する」とある。また、ネイティブアメリカンの約8割は保留地外に住んでいるらしい。

 そんな保留地では、「アルコール依存や薬物依存は保留地における深刻な問題」で、それらは、長年にわたりネイティブアメリカンの伝統・文化を徹底的に否定した“同化政策に基づく教育”が行われたことにより、自文化を否定され、ネイティブアメリカンのアイデンティティが奪われたことに遠因があるということのようだ。

 これらを読んで、私は、昨年見た『サーミの血』を思い起こさずにはいられなかった。あの映画に描かれていたサーミ人(作中では“ラップ人”とも呼ばれていた)が置かれていたのも似た状況だった。スウェーデン政府は、同化政策によって徹底的にサーミ人たちのアイデンティティを破壊する一方で、サーミ人を隔離し、サーミ人の世界に閉じ込めた。本作で、ネイティブアメリカンを保留地に閉じ込めているのと同じ。サーミ人も多くはスウェーデン社会に溶け込んで生活しているらしいが、一部ではサーミの習慣を守って昔ながらの生活をしている人もいる。

 日本でも、アイヌ等に対する差別が、ごくたまにメディアで取り上げられることがあるが、それらの話を聞くにつけ、どうして先住民が、後から来た入植者達に迫害される目に遭うのか、非常に疑問に思うのである。ジャレド・ダイアモンド著『銃・病原菌・鉄』を大昔に読んだときは、多少なりとも私が昔から感じていた疑問が解消されるかと思ったけれども、あの本はあまりにも多岐にわたっていて、単純に「ああ、なるほど」などとなるわけは当然なく、ただ、そのタイトルにもあるとおり、武器、病気に対する抵抗力、技術、こそが入植民たちを有利にしたということらしい、というぼんやりした輪郭が見えた、という程度で終わってしまった。

 あの本を読んで以降は、何となく分かった気になったけれども、それでも本作のような話を見聞きすると、あまりの理不尽さに、やはり疑問が頭をもたげるのである。ただ一つだけ確信するのは、入植者達は、自分たちの方が先住民達よりも“優れて”いて、“文明的”であって、“進んだ”人間であると勝手に思い込み、その間違った思い上がりが、迫害を引き起こしたのだろう、ということ。それは、つい先日、南米かどこかで未確認の先住民族が発見されたらしい、というニュースを見たときにも感じた。現代文明から取り残された人たち、というニュアンスで報じるニュースは、まさに、入植者達の目線そのものではないだろうか。

 本作のラストには、こんな字幕が出る。「ネイティブアメリカン女性の失踪者に関する統計調査は存在しない。失踪者の数は不明のままである」、、、この事実について、監督・脚本のテイラー・シェリダンは「こうした統計を取るのは国の仕事だけれど、国は自治権のある保留地については権限がない。だから統計を取る人が誰もいない」と語っている。本作は、事実に基づいたフィクションだが、非業の死を遂げた人たちが闇から闇に葬られている現実が、あのアメリカで存在している、という事実に、私は激しい衝撃を受けて劇場を後にしたのであった、、、。

 日本でだって、恐らく、闇に葬られている悲惨な事実はたくさんあるだろうけれども、もしかすると、もっと衝撃的な現実が人々の知らないところで蠢いているのかも知れないけれども、本作で描かれていることも、私には十分衝撃的だった。


◆映画として素晴らしいが、、、

 映画自体は、全体に緊張感が途切れることなく、といって奇をてらったエグいシーンがあるでもなく、非常にまっとうに、真摯に作られた逸品である。

 なぜナタリーが死んでしまったか、という謎解きを縦糸に、白人であるコリーの物語を横糸にして、ネイティブアメリカンの置かれた現状や様々な問題を浮き彫りにしていくという秀逸な脚本。アメリカの警察制度が独特で、保留地内の警察、州の警察、さらには連邦警察(FBI)と、複雑過ぎて、見ていてメンドクサイ。合衆国ならではのメンドクサさなんだろうな、、、。

 そんな中で、若いFBI捜査官ジェーンは、最初こそ頼りなげだったが、実に真摯かつ勇敢に捜査に当たり、見ていて頼もしい。ジェーンを演じたエリザベス・オルセンが、いわゆる“クール・ビューティ”でハマっていた。彼女の身体を張った、というより、命を懸けた捜査活動により、少なくともナタリーの死についての真実は、きちんと解明され悪事が暴かれた。

 コリー自身は白人で、野生生物局のハンターという、言ってみれば合衆国政府の人間。ただし、彼はネイティブアメリカンの女性と結婚し、娘をもうけたが、その娘は非業の死を遂げているという過去がある。だから、保留地に住んでいるとはいえ、保留地の外の人間であり、しかし、保留地の中の人間の気持ちも分かる、という非常に複雑な立ち位置。こういう人間を主役に据えたのが、本作のキモだろう。

 コリーは、ハンターとしての腕も素晴らしく、そのピカイチの腕前は、終盤緊迫したシーンでいかんなく発揮される。この辺の展開も上手いな~、と唸らされる。

 そして、ナタリーが死んだ原因の主犯ともいえる白人の男をコリーが冷徹に追い詰め、鉄槌を下す場面は、本来ならナタリーの仇を討ったのだから清清しそうなものだが、到底そんな気持ちにはなれない。コリーのやりきれない怒りが見ている者にひしひしと伝わってきていたたまれないのだ。

 ナタリーの父親マーティン(ギル・バーミンガム)が、娘を悼むために顔にペインティングをして庭に座り込み、コリーと哀しい会話を交わすシーンは、本作の白眉といっても良いと思う。ただただ胸苦しく、せつない。

 素晴らしい作品だけれども、鑑賞後感はむしろ最悪かも知れない。

 シェリダン監督は、脚本を担当した『ボーダーライン』も好評の様だが、監督としては、本作がデビュー作となるとのこと。『最後の追跡』と併せて、現代アメリカのフロンティアを描く3部作とのことなので、他の作品も見てみようと思った次第。









DVDでもう一度見るだろうな、、、。




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ヴィレッジ(2004年)

2017-04-12 | 【う】



 自給自足でそれなりに平和に暮らしている森の近くにある村。しかし、この村の住人は森に近づいてはいけないのだっだ。なぜなら、森に棲む怪物を怒らせることになるから、、、。

 とくれば、まあ、この森をいかにして抜けるオハナシか、ってことになりますね。タイトルは、どっちかというと、“イントゥ・ザ・ウッズ”の方が内容に近いんじゃない?


 
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◆ほとんど虚仮威し。

 『シックス・センス』が嫌いなので、本作はちょっと見るのをためらいましたけど、まあ、ブロディが出演しているので見てみることにしました。

 『シックス・センス』は、映画としてそれなりに楽しめるということでエンタメにはなっており、決してヒドイ作品だとは思わないけど、何にせよ、所詮は夢オチであり、クリエイターとしての志が感じられないので嫌いだ。『サードパーソン』でも書いたけれども、こういう、観客を欺くことに血道を上げた作品は、感心しない。心地良く裏切ってほしいとは思うが、最初から騙す気満々なストーリーテリングは、物語ではなく、ただの“間違い探し”であるとしか思えない。つまり、クイズである。ラストで答え合わせ。答えられない客を見てしめしめと思うなんて、何とも質の悪い根性だ。

 本作は、しかし、割と早いうちに展開が読めてしまう。19世紀の話と思わせておいて、実は現代だった、とまでは読めなかったが(だからといってそれがラストの大どんでん返しと言うには弱すぎる)、怪物の存在がヤラセなのとか、あの盲目のお姉ちゃんが無事に森を抜けるんだろうとか、手の内が丸見えなのは、こういう作風においては致命的ですらある。ここまで来ると、言葉は悪いがもはや“虚仮威し”である。

 これも、『サードパーソン』に書いたが、どうしてもっと正攻法で描かないのか。本作は、盲目のアイヴィー(ブライス・ダラス・ハワード)が、村のタブーを犯してまで愛する人のために命を懸けた行動に出る、という、ベタだけれども描きようによっては面白い作品になる縦糸のストーリーがあるのだ。そしてストーリーの横糸となる、村のタブーが実は村の長老たちによる自作自演であること(村の成り立ち)は、序盤から明かして行ったって別に良いと思うのだが、、、。縦糸と横糸をきちんと正攻法で織り込むことで、意義深いストーリーは編み上げることができるはずである。

 正攻法で見せては面白さが半減する、と考えているのであれば、そもそも監督は自身の能力を信用していないことになる。ただ、こういう騙し系が好きなだけ、というのなら、それはそれでアリだろうが、だったらもっと手の内が見えない様にやれ、と思う。


◆ユートピアはカルト村。

 この村は、まあ、現代日本でいえば、○マ○シ会みたいなもんで、イカレた思考に支配された人たちが運営しているカルト集団。

 しかも、そのカルト集団を結成した理由が、自分たちが犯罪被害者(の遺族)だから。犯罪のない世界を作るために、自分たちから世俗を離れて村を作った。言ってみれば、大がかりな集団引きこもりだわね。

 この手の話はよくあるし、今公開されている、ヴィゴ・モーテンセン主演の『はじまりへの旅』なんかも(未見だけど)同じ。現代社会は病んでいる、だから、健全な世界で生きるために自然の中に閉じた社会を作るんだ、、、。そして、結果的に、どっちが病んでんだか、って話になる。

 化け物の話を自作自演しなきゃいけないような空間が、そもそも病んでいる。そこに気付かない村の長老たち。……いや、気付いているのかもしれないけど、外界を死ぬほど嫌悪しているから、これくらいの病理はまだ健全だ、と思い込もうとしている。

 こういう、カルト集団を作ろう、という人って、どうして自分たちだけ、あるいは1人だけでやらないんですかね。自分たちだけで運営し、子孫なんか作らないで、自己完結していたらいいのに。あるいは、『はじまりへの旅』みたいに家族を巻き込まずに、たった1人で仙人みたいに暮らしたら? 自分の子どもらを巻き込むのは、結局、子どもへの虐待に等しいのでは。

 本作の村の長老たちも、結局、村を第二世代に渡って維持していくことを決めるけれど、森を抜けようとする若者は必ず次々に現れる。

 これは、言ってみれば、家族が抱える問題と同じかも。抑圧する親と、自己解放しようとする子の葛藤が、外からは見えないという構造。

 アイヴィーが盲目なのに森を抜けるなんて危険な行動に出るのを、彼女の父親であるエドワード・ウォーカー(ウィリアム・ハート)が許したのはなぜ? と思ったんだけど、盲目だったから許したんだねぇ、とラストで納得。

 森を抜けて、現代社会に出ても、アイヴィーには見えない。自分たちの村との違いが分からない。だから、お父さんは行くことを許したわけだ。

 知能に問題がありそうなノア(エイドリアン・ブロディ)も、森に近づくことが許されたのは、真実を目の当たりにしても意味が分からないから、と思われたのだろう。

 なんと恐ろしい大人たちのエゴだろうか。

 
◆その他モロモロ

 何で正攻法で描かないんだ、と文句を書いたけれど、まあ、確かに、ストーリーと言い、ネタと言い、既視感バリバリで、全うに勝負していたら、もっと駄作になった可能性は高い。特に、この監督の腕ならなおのこと。

 ブロディは、しかし、本作でも異彩を放っていたなぁ、、、。彼はホントに素晴らしい役者です。冒頭から、知的問題のあるキャラを一目で分かるように演じているあたり、さすが。何度も書くけど、あんな特徴のあるルックスなのに、毎回、ゼンゼン違う人物像に見えるところは俳優として見習うべき人が多いんじゃないですかねぇ。特に、日本の俳優さんたちは。

 アイヴィーは盲目にしては、全速力で足下の悪い野山を駆けまわり、森を駆け抜けと、とうてい見えない人とは思えない行動がイマイチですね。森の中で、穴に落ちかけた後、杖を捨てますが、あんなことの後だからこそ、普通は杖は手放せなくなるはずでは? だって、他にもどこにあんな穴があるか分からないじゃないの。もう少し、演出を考えていただきたかったところですな。

 ウィリアム・ハート、久しぶりに見た気がする(そうでもないか、、、)。シガニー・ウィーバーはすんごいガタイがよくて、衣装がパツパツだったのが印象的。

 アイヴィーを演じたブライス・ダラス・ハワードが、あのロン・ハワードの娘さんと知って、……ということは、つまりあのクリント・ハワードの姪御さんってことよね? いや、その割にずいぶんお美しくて驚きました。『デビルスピーク』のクリント・ハワードの印象が強いもので、、、。

 
 





黄色頭巾ちゃんは、割とあっさり森を抜けました。




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哥(1972年)

2016-12-15 | 【う】



 丹波篠山の旧家(?)森山家に妾腹の子として生まれた淳(篠田三郎)は、森山家の長男で弁護士の康(岸田森)夫婦の住む家に住み込みで下男として働いている。

 淳は、母親に「森山家をお守りしろ」と幼い頃から耳タコのごとく刷り込まれており、もう、体がその言葉を実践するようにできてしまっているかのような少年であった。毎日同じ時間に起き、同じ仕事をこなし、仕事を上がり、夜回りをする、、、。食べるものは米と味噌汁のみ、間食には麦こがしを湯で溶いてすするという成長期の少年とは思えぬベジタリアン。そして、熱中しているのが書。近所の墓石で拓本を取り、午後5時以降は書の練習に励むという、まるで仙人のような生活ぶりである。

 康夫婦は子がおらず、妻・夏子(八並映子)は欲求不満を抱えており、夫婦の間に流れる空気は微妙。また、康が雇っている書生の和田(田村亮)は一向に司法試験に受かる気配もなく女中の藤野(桜井浩子)と愛欲三昧の日々。そんな大人たちの欲望には見向きもせずに、黙々と下男として生活している淳。

 そんなある日、行方知れずだった森山家の二男で画家(?)の徹(東野孝彦)が、ある晩、ひょっこり康の家に現れる。これがきっかけで森山家に波乱の予感が、、、。そして、淳の行く末は、、、。


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 タイトルは「うた」と読みます。え? そんなんフツーに読めるわ? 恐れ入ります。私は読めませんでしたので、、、。


◆実相寺昭雄=「ウルトラマン」シリーズ、なんだよなぁ。

 篠田三郎出演作をコツコツ見て行こうと思いまして、今回は、『高校生心中 純愛』に続く第2弾。これは、かなり個性的な作品ですなぁ。こんな作品で主演していたなんて、意外でした。爽やか系のイメージが強いので。

 本作は、実相寺昭雄監督の『無常』『曼陀羅』に次ぐ作品として発表されたのだとか。『無常』も『曼陀羅』も見ていないのでどんなのか知りませんが、本作の方が前2作よりは分かりやすい、ということのようです。本作も、分かりやすいとは思いませんが、難解というほどでもなく、、、というか、ちょっとぶっ飛んでいる感じはありますねぇ。

 実相寺昭雄監督は、乱歩モノをいくつか撮っていますが、乱歩好きの私は、乱歩原作映画は怖くて見る気がしないので、どれも見ておりません。私的には、実相寺昭雄という名前は、ウルトラマンとかセブンのイメージが強いので、本作のような作品を撮っていること自体が新発見でした。他の作品も見てみたくなりました。


◆機械仕掛けの淳くん=篠田三郎

 さて、篠田三郎です。淳はおそらく、10代後半の少年という設定だと思われます。撮影時、篠田氏は、多分、23~24歳くらい? あの『高校生心中 純愛』の翌年制作となっているので、ほぼ同時期に撮影されたのでしょうが、ゼンゼン別人みたいに見えます。篠田三郎が演じていると知らなければ、淳を演じているのが誰か分からなかったかも、、、。

 淳くん、人間嫌いなのか、とにかく、必要最低限の言葉しか発しません。しかも無感情な棒読み。月並みな言い方だけど、ロボットみたいです。決められたルーチンは機械みたいに正確にこなすけれど、ルーチンから外れたことは頑なに拒み、もの凄い頑固というか、石部金吉で融通が利かないというか、、、。康が急な仕事で徹夜でこなさなければならない作業が発生しても、淳くん「5時以降は仕事はしとうないんです!!」と壊れたレコードのように繰り返す。

 その融通の利かなさは、森山家を守るという使命感の体現するシーンでもいかんなく発揮されています。夜中の12時に淳くんは一旦起きて、家の外と中を夜回りするのが日課なのですが、上記の徹夜仕事を康や和田らが必死でやっている部屋の前を懐中電灯を照らしながらパトロールするんですが、部屋の中から康や和田たちが窓越しに淳くんを見ている、淳くんにも彼らは見えているはずなのに、人間の顔には全く反応せず、家の外観ばかりを懐中電灯で念入りに調べる。「火事でも出したら大変なことになるんです!!」と言って、隅から隅まで見回るのに、窓から覗いている人の顔には目もくれない、、、。淳くん、君には彼らの顔は見えていないのか……?

 突如帰って来た徹に疎ましがられ、「飯を食うな」と言われたら、本当に絶食してしまう淳くん。ひもじくてのた打ち回るのに、食べない。口に入れるのは水だけ。そして、もう、力が入らず立ち上がることもままならなくなるという、、、。驚いた徹に「前言撤回する、食べても良い」と言われても、「一度口にしたことを取り消すとは何事か」(セリフ不正確です)とか言って絶食を貫く。ここまで来ると、なんかもう、勝手にしろ、って言いたくなるキャラです。背中にゼンマイついてんじゃないの?

 こんなクセモノ淳くんを、若い篠田三郎は、かなり巧みに演じています。こういう役は、大根が演じると目も当てられないので、とても難しいと思う。


◆ヤバい森山家の人々

 康はどうやら不能のようで(イマイチ明確には分かりませんが)、それで妻の夏子は欲求不満で、こともあろうに、寝ている淳くんの上に覆いかぶさって欲望を満たす、なんてこともしています。その時の描写がかなり笑えるというか、、、。淳くんは身じろぎもせず、、、つまりマグロ状態で、夏子さんは一人で喘ぎ声をあげているのですが、どう見ても気持ち良さそうじゃない。すごい、滑稽なシーンで面白い。

 そんな康なのに、夏子が淳くんと関係していると知ると、突然夏子の身体を舐めまわし、挙句の果てに、バイブを突き立てる。その後の、ぐったりと虚しげな表情の夏子が印象的。

 康を演じる岸田森がイッちゃってて面白すぎです。岸田氏は、ルックス的に腺病質っぽいのですが、それが如何なく康を演じるのには発揮されております。

 突如帰って来る二男の徹とか、もう、見るからにキモいオヤジなわけで、東野孝彦は実にハマり役。

 八並映子さんとか、桜井浩子さんとかは、見る人が見れば嬉しい女優さんだそうで。私はお二方とも今回初めて知ったんですけど、八並さんは非常に欲望に正直な気怠い感じがよく出ていたし、桜井さんはノーパン・ミニスカートの女中という面白すぎな設定で大胆に脱ぎまくり、田村亮との濡場もなかなかでした。

 まぁ、こんだけ濃いキャラをよくぞ1つの家の中に入れたもんです。そこに明らかに異分子の淳くんがいる。、、、ううむ。

 丹波篠山は保守的な土地柄なんでしょうか、映し出される景色や背景が、森山家という家の雰囲気を象徴している感じで、暗いし、ちょっと不気味。そしてあのラスト、、、。康と徹が、森山家の土地を切り刻んで我がものにしようとしていると知った淳くん、何とか森山家本家に知らせようと、力の入らないはずの身体で、本家前にある長い階段を匍匐前進(と言っていいのか?)で登り切ったかと思った矢先に階段上から真っ逆さまに、、、、。

 ラストショットは、血だらけになって白目を剥いている淳くん、、、。嗚呼。


◆見終わって書きたい感想がまるで浮かんでこない作品、、、

 本作は、モノクロなんですが、所々、画面が暗すぎてよく見えない部分もありました。

 面白くない訳じゃなかったんですけど、あんましピンと来なかったし、特に湧いてくる感想もない作品だったんですよね、、、。出てくる人物も、演じる役者も、皆、それぞれ魅力的だし、ストーリー的にもそれほどひどいわけじゃないんだけど、、、。

 こういう作品、たまに出くわすんですよねぇ、、、。そんなに悪い印象はないのに、なぜか書きたいことがゼンゼン浮かんでこない映画。感想がものすごく書きにくい映画。本作はまさにそれ。

 かといって、また見たいと思うわけでもないし。多分、もう二度と見ないとは思うけれど、記憶には残るでしょう。

 、、、というわけで、分かりにくい内容紹介と愚痴みたいな駄文を書き連ねてしまいました。、、、嘆息。







画面が暗すぎて見えないシーン多し。




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美しいひと(2008年)

2016-06-01 | 【う】



 ジュニー(レア・セドゥ)は、母親が亡くなったため叔母の下に預けられ、従兄マチアスと同じ高校(リセ)に通うことになった。そこで出会ったイタリア語教師ヌムール(ルイ・ガレル)と、互いに一目で惹かれ合うが、ジュニーがステディに選んだのは真面目な男子生徒のオットーだった。恋愛経験豊富なヌムールだったが身辺整理をしてまでジュニーに真剣な思いを寄せるようになる。

 ヌムールの思いを感じ、自身も彼に強く惹かれるジュニーだが、踏み切れない。ある日、高校の廊下でヌムールに抱き寄せられ迫られるジュニーだが拒絶する。しかし、それを目撃した男子生徒にその事実を聞いたオットーは2人の関係を誤解して絶望し、学校の廊下から中庭に飛び降りて自殺 してしまう。

 ジュニーがヌムールの思いを受け入れないのは、いずれヌムールが自分に飽きて去っていくことを見越してのことだった。オットーの死を機に、ジュニーはヌムールの下から去って行く。

 17世紀の恋愛小説「クレーヴの奥方」を原案に、舞台を現代の高校に移しての映画化。

 

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 アナイス・ドゥムースティエが出演しているので見てみました。つい先日『美しい人』という漢字か平仮名かの違いの別作品のレビューを書いたばかりですが、、、。


◆フランスの高校では、校舎内でディープキスが普通らしい

 アメリカのハイスクールもののバカっぽさも好きじゃないけど、フランスの高校生たちのマセっぷりもなんだかなぁ、、、と思っちゃいました。文化の違いといっちゃえば身も蓋もないけど、学校でブチュブチュってどーなんでしょ。学校全体の自由な雰囲気は良いなあ、と思いますけれど。それとも、イマドキは、日本の高校でもこういうの珍しくない光景だったりして、、、。私が知らないだけなのかしら。

 ヨーロッパでも、イタリアは日本みたいにパラサイトシングルが普通に見られ、いわゆる母子密着度が高い文化らしいんですが、フランスは母子密着度低そうだよなあ、確かに。子どもの4割が婚外子ということは、おそらく母親自身も精神的に非常に自立している人が多いと想像します。夫(パートナー)や子どもに女性が依存するケースが少ないのかも知れませんねぇ。そういう意味では、フランス人の子どもたちがもの凄く羨ましいですが、、、。

 精神的な自立を早く促されると、やはり恋愛も低年齢化するのは道理かもですね。でも、フランスの高校生をするのは、私には荷が重い、、、。


◆不倫でもないのに“してはいけない恋”って、、、なんじゃそら。

 さて、ジュニーの言動ですが、、、。皆さんは共感できるのかしら。

 「あなた(ヌムールのこと)はステキな人。でも、私と寝たら、あなたは確実に私に飽きて去って行く」(セリフ正確ではありません)

 、、、イラッとするわ~~。何となく、16歳というお年頃ならこういうことを言って一人でこじらせるってのはありがちだとは思うんですけれど、でもねぇ、、、。

 私だったら、自分が好きな人が自分を好きだと分かれば、後は野となれ山となれで暴走しますね、確実に。だって、そんな相思相愛が人生で起きることって、そう何度もないでしょう? ある意味、それって奇跡なわけで。そら、レア様なら掃いて捨てるほどあるかもしれないけど、、、いや、やっぱしレア様でも、そんなにはないでしょう。

 人生における奇跡を、みすみす見逃すなんて、もったいなくて出来ません。だいたい、不倫でもないのに、“してはいけない恋”なんて、頭でっかちもいいとこ。恋愛なんて、そこに飛び込んでみなけりゃ分からないことだらけでしょう。リスクを恐れていたら、悦びも味わえない。ものすごい痛手を負うかもしれないけれど、それこそ若さの特権で、歳とってからの痛手より痛くない。

 ま、原作が不倫モノで踏み込まなかったオハナシらしいから、こういうことになったんでしょうけれど。

 恋愛なんて踏み込んで、、、つーか、寝てみてなんぼ、ではないでしょうか。お下品でスミマセン。でもセックスはあくまでスタートラインだと思うのですよね、恋愛においては。その手前であーでもない、こーでもないと脳内だけで恋愛哲学しているのは好きじゃないわぁ。実践あるのみでしょ、実践。哲学はその後、あと!


◆アンニュイ&濃い濃い

 ジュニーを演じるレア・セドゥですが、ほとんど笑顔がありません。終始アンニュイな表情と 雰囲気。16歳でこれかぁ、、、。私も高校生の頃、「気だるそう」とよく言われましたが、それは基本的な性格が面倒くさがりで何をやるにも面倒くさそうにしていたために「覇気がない」ように見えたのであって、アンニュイに不可欠な色気とは対極なものでござんした。

 それはともかく、ジュニーは何でこんなにアンニュイなのか。もともとの性質なのか、あるいは生育環境とかに理由があるのかしらん。どっちでもいいけど、アンニュイの似合う16歳の少女、ジュニーです。レア様自身は、このとき20歳過ぎでいらしたみたいですが。

 つーか、そんな“してはいけない恋”だの何だの脳内哲学しているからアンニュイになるんだよ。だって、生きてる意味ないじゃないの、好きな人と恋愛もしないで。好きな人さえ見つからない人間も世の中にはたくさんいるのに。生き甲斐を自ら断ってりゃ、そらアンニュイにならざるを得んわな。

 レア様の出演作を見るのは、多分これが初めてです。魅力的だけど、好き嫌いでいうと、あんまり引力は感じなかったなぁ。私は、どちらかというとカワイイ感じの人の方が好きなので。でも、レア様は、違う役ではゼンゼン違う顔を見せてくれそうな予感がします。他の作品も要チェックかな。『グランド・ブダペスト・ホテル』にも出ていたなんて知らんかった。『アデル、ブルーは熱い色』は、ちょっと興味あるけれど。

 あと、ヌムールを演じたルイ・ガレル。彼の作品もこれが初見ですが、濃いわぁ~。すんごい濃い。私は東洋人なので、こういう激しく濃い系はちょっと苦手、、、。まあ、色気があるのでモテる役でも違和感はありませんが。

 この人、過去には、ヴァレリア・ブルーニ=テデスキさんと付き合っていたとか。かなりの歳の差カップルなのでは? 若くても大人な男なんでしょうな。まあでも、他の作品も見たい、って感じではないです、はい。


◆その他もろもろ

 高校生たちの服装が、皆さん、何気にオサレです。この辺、さすがおフランス、ってとこでしょうか。

 お目当てのアナイス・ドゥムースティエの出番はあんましなくてちょっとガッカリ。たばこをぷかぷか吸っていたのがけっこう衝撃的でしたけれど。

 リセでの外国語の授業は、英語はもちろん、イタリア語、ロシア語もありましたね。さすがヨーロッパ。日本の学校も 、英語の授業は全部英語でやればいいんですよ。今はそうしているのかも知れませんが、そうすれば、多少は話せるようになるんではないでしょうかね。先生の言うこと聞き取ろうと必死になりますから。耳がなくては喋れませんし。

 置き去りにされたヌムールは、トラウマにならないといいんですけどねぇ。ここは、小娘の恋愛哲学教室の講師をしてあげたんだ、くらいに割り切ってはいかがでせうか? ムリ?






恋愛は、哲学よりも実践が大事、、、と思う。




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美しい人(2005年)

2016-03-28 | 【う】



 1話につき1人の女性のある断片を描いた全9話のオムニバス映画。1話が大体10分程度。監督は、『彼女を見ればわかること』のロドリゴ・ガルシア。

 いろんな年代のいろんな境遇の女性のある断片を描いている、ということらしい。相変わらずヘンな邦題の作品て多いなぁ。

  
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 『彼女を見ればわかること』は、かつて見た記憶があるのですが、あんましグッと来なかったのか、内容を覚えていないのですよね、、、。正直、オムニバス映画って、あんまし得意じゃないかも。

 9人の女性は、まあ年齢層は10代~60代くらいまでと幅広いけれども、皆それぞれにイロイロ抱えているのでして、それは生きてれば当たり前な訳です。で、ほとんどがほぼ1カットで撮られていて、つまり彼女たちの人生のうちの、ほんの10分程度を切り取っただけなんだけれども、まあ、彼女たちの置かれた境遇がうっすら(あるいはかなりハッキリ)見えてくるのですから、これは監督+俳優たちの力のなせる業ってことで、素晴らしいと思います。

 ……ということは前提で言うのですが、なんというか、あんまし見て良かったと思えるエピソードが1個もないんだよね。どれもこれも暗いというか、過去に囚われた話ばかりで、この先への希望が感じられるエビソードが少ない(ないわけじゃない)。一応、希望がある話も、いわゆる鑑賞後感が良いというわけではなく、心は重いまま、、、。

 一つ一つのエピソードについて書く気にはならないんだけど、印象に残ったのをいくつか。

 2話(ダイアナ)と、6話(ローナ)は、昔の男絡みの話で、どっちの昔の男も「君が忘れられない、君がオレの運命の人だ」的なことを言うわけね、彼女たちに。そして、女たちは揺れる、、、。これって、男のロマンチシズムを凝縮した話じゃないか? ロドリゴ・ガルシアは、こういう願望があるのではないかと勘繰っちゃう。現実を共に生きるパートナーより、過去の女の方が良い、、、。はぁ、、、(嘆息)。分からんでもないし、女でも過去の男を忘れられないということはもちろんあるけれども、私はあんましこういう話は好きじゃないのよねぇ。かつての恋人との過去ってのは、濾過された思い出でできているものだと思うのです。だから美しく思えて当然。イイ大人だったら、それを弁えて、現実と闘って生きる方が素敵だと思う。過去の恋人と偶然再会しても、私の理想は、視線をかわすだけですれ違える2人。仮に言葉を交わしても挨拶だけ、そして「元気でね」と笑顔で去れる2人。そこで愁嘆話を展開させる2人だけには決してなりたくないのです。だから、ダイアナもローナも、私にはゼンゼン魅力的には見えないのでした。ましてやあんなこと言ってくる男はサイテー。、、、そんな風に思っちゃう私はロマンス度ゼロなんでしょうかね。別にいいけど、ゼロでも。

 、、、でも、これを書いていて思い出したのですが、今では没交渉の旧親友が、若い頃言っていました。「別れた後、(相手に)思いっ切り後悔させたい」と。誰と付き合っても、別れた後には、「あんなイイ女と別れるなんて、なんてもったいないことをしたんだ、オレは!」と思わせたいのだそうです。そう思わない? と彼女に聞かれたので、私は「ゼンゼンそんなこと思わない。なんであんな女に惚れてたんだ、と思われるくらいの方が良い」と答えました。これは今も変わらないです。旧親友的感覚だと、ダイアナやローナみたいに、揺れるんでしょうか、、、。

 あと、男がサイテーだと思ったのは、4話のソニアの夫ですかね。あれはもう、論外。どう論外かは、見ていただければ分かると思います。

 逆に、イイ男だと思ったのは、8話のカミールの夫。乳がんで乳房摘出前にナーバスになって荒れる妻を穏やかに見守る夫。あれは、できそうで結構難しいと思う。私も、あの夫の立場になったとき、あんな風にいられたら、、、と思うけれど。

 7話のルースを演じていたのが、シシー・スペイセクとは! 最初、分かりませんでした。よく見たら、確かに面影はありますが。いや~、隔世の感があります。相手役のエイダン・クインもすごくイイ味出していました。鈍い男を鋭く演じていて上手いなぁ、と感嘆。

 ロドリゴ・ガルシアは、あのガルシア・マルケスの息子だそうで。ガルシア・マルケスの「物語の作り方―ガルシア=マルケスのシナリオ教室」という本を読んだことがあって(完読はしていないけど)、映画学校での生徒とのディスカッションを採録したものなんだけれど、息子が映像の方に進んだのもむべなるかな、という感じです。でも、ガルシア・マルケスの小説とは、大分、趣が異なるように感じました。非常にリアリティのあるエピソードばかりでしたもんね。

 でもまあ、正直、エビソードによっては女にロマンスを抱き過ぎなのが感じられるのは、父親譲りかも。女は概して、計算高くて、たくましいわよ、しぶといし。



 
 


ラストのグレン・クローズが素晴らしい。




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ヴィオレット―ある作家の肖像―(2013年)

2016-02-19 | 【う】



 ゲイで作家崩れ(?)の男モーリスと夫婦を装って田舎の村で暮らすヴィオレット。2人はパリから戦争を逃れて来たのだった。が、偽夫婦とはいえ、ヴィオレットはモーリスに愛を求めて「抱いて!」と身を投げ出すものの、激しくモーリスに拒絶され、「そんなに苦しいなら小説でも書け!」と吐き捨てるように言われるという惨めな日々を送っていた。

 そして、モーリスは失踪。ヴィオレットは生活の糧にと闇の食品売買をしながら、心の隙間を埋めるべく、モーリスに言われたように小説を書き始める。そうして書き上げた作品を、なんと無謀にも、時代の寵児ともてはやされていたボーヴォワールに「読んでくれ」と押し付ける。

 しかし意外にも、その作品をボーヴォワールは高く評価し、ヴィオレットは晴れて小説家デビューを果たすのだが、処女作はまったく売れず、世間からは完全に無視された。絶望するヴィオレットに、ボーヴォワールはさらなる執筆を勧める。愛情に飢えるヴィオレットは、自らの骨身を抉るかのように書き続け、「私生児」でようやく日の目を見ることになる。

 それは、ヴィオレット自身について赤裸々に綴った小説であった。ボーヴォワールは、このときまで、ウンザリしつつもヴィオレットを生活面でも精神面でも支え続けたのだった。そして、「私生児」では序文も書いたのであった。
  

  
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 見に行こうと思いつつ雑事に追われ、ようやく終映ギリギリに滑り込みセーフで先週、見てまいりました。いつものことだけど、岩波ホールはガラガラでした。

 さて、正直な第一の感想は、「こんなオバさん、そばにいたらヤだ!」でございました。もうね、、、マジで、このヴィオレット、ヤバいです。今時の褒め言葉ではなく、本来の意味でヤバいです。

 処女小説「窒息」(・・・というタイトルだけでもコワい)が売り出された後、彼女は本屋に行きます。しかし、自分の本は置いていない。で、彼女は店員に「ヴィオレット・ルデュックって人の書いた『窒息』は置いてないの?」とキレ気味に聞きます。店員は著者名はおろか、本のタイトルさえ知らんという様子。するとヴィオレットはブチ切れ「この店は売れっ子の本しか置かないのね!!」と言って商品の本を手当たり次第店員に投げ付け、さらに「彼女(ヴィオレットのこと)は才能ある作家で、私は彼女の信奉者なのよ!!」と叫ぶのでありました、、、ごーーん。

 正直、このシーンで私は思わず声出して笑っちゃいまして、近くの人にチラッと「?」な感じで見られてしまいました。でもこれ、笑うところだと思うんですよ。

 だって、もちろん行動はエキセントリックで自意識過剰なんだけれども、ある意味、人間臭いというか、ものすごい正直な人間の行動じゃないですか。普通はこういう行動に出たくても出られないんですよ。誰だって、自分のデビュー作の扱いがどうなっているかは異常に気になるに決まっているし、それを、バレバレなんだけれども他人を装って書店に偵察に行っちゃう。行っちゃうだけじゃなくて、店員に八つ当たりして、著者の宣伝=過剰自己アピールまでしちゃうんだから、“痛い女性”と思うのを通り超えて、共感を覚えてしまったのです。ヴィオレットよ、あなたはエラい!! と。

 まあでも、最初に書いた通り、現実に身近にいたらイヤですよ、もちろん。だから、ボーヴォワールは凄いなぁ、、、と心の底から感心しました。彼女もヴィオレットのヤバさは十分分かっているし嫌悪しているのですが、半面、その文学の才能は冷静に評価していて、なおかつその才能の芽を摘んではならぬと、ヴィオレットの生活面も遠回しに支えるのです。

 本作は、ヴィオレットと母親、ヴィオレットとボーヴォワール、という2本の関係を軸に描かれているのですが、とにかくこのヴィオレット、母親を始め、ことごとく片想いなんですよねぇ、、、。これがちょっと切ないというか、あの性格じゃ仕方ないというか。あそこまでいつも一方通行の想いだと、愛を死ぬほど渇望してもムリないと思います。ようやく振り向いてくれたと思った男は妻子持ちだし、、、。

 母親に愛されなかったことに大きな意味があると本作は描いているように思いますが、愛されなかったこともそうだけど、ヴィオレット自身は自分の出自が私生児であることに強い負の拘りがあるように感じました。それと、容貌のコンプレックス。彼女にとっての2つの負の拘りは、彼女自身を追い詰める。何事もうまくいかないのをそのせいにする。そして、それは母親が悪いと。実際、私生児であることを母親に激しくなじるシーンがあります。

 ま~ねぇ、、、子は親を選べないから、言いたくなる気持ちは分かるんだけど。でも、それは言ってもしょーがないんだよねぇ。もう変えられない事実なわけで。

 思うに、ヴィオレットは、今でいうところのパーソナリティ障害の一種ではないかと感じました。実際、精神病院に入院するシーンもありますし。史実では本人も納得して入院した様ですけど。ホントに、壊れるか壊れないかの境界線上を常に歩いて生きている女性なので、周囲の人間は大変です。

 ヴィオレットを演じたエマニュエル・ドゥヴォスという女優さんは、付け鼻して特殊メイクで演じているそうですが、素顔も大して違わないような。ヴィオレットは常に口がへの字で、不平不満だらけなのを体現しています。容貌コンプレックスのせいか、服装はちょっとメルヘンチックで可愛さ追求系。そのアンバランスさがまた、この女性のヤバさを際立たせている気がします。

 ま、何であれ、彼女が自分の著作物で報われて良かったです。もし報われなかったら、本当に精神的に病んでしまったと思うので。身勝手なヤツだったけど、偽夫婦を演じていたゲイのモーリスは的確な助言をした、ってことですね。
 
 2時間超えの長めの作品ですが、割と長さを感じることなく見られます。




側にいたらものすごく困るオバサンのお話。




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雨月物語(1953年)

2016-01-06 | 【う】



 上田秋成の「雨月物語」から、「蛇性の婬」「浅茅が宿」を下敷きにした物語。

 時は戦国時代、思いがけないことから欲をかいた源十郎(森雅之)は、ある日、不思議な姫・若狭(京マチ子)と婆やに誘われ朽木屋敷へと足を踏み入れる。そこは、何とも不思議な邸宅で、源十郎は、若狭たちに歓待され、すっかり夢心地に。若狭との享楽の日々に現を抜かす。

 が、源十郎は国元に妻・宮木(田中絹代)と息子を置いて来た身。ある日、買い物に出た折に出会った一人の老僧に「死相が顔に出ている。早く元の家に帰れ」と言われ、ふと宮木のことを思い出し帰ろうとするのだが、、、。

 京マチ子がキレイだが、かなりコワい。溝口健二監督作品の中でも随一と言われる名作。


 
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 雨月物語は、小学生の頃読んで(もちろん子ども用に書き直されたもの)、一時期、かなりハマった記憶があります。怖いけど面白い、ついつい読んでしまう、という感じだったかなぁ。もちろん、一番印象的だったのが、本作の基となった2つのお話。どっちも、あると思っていたものが、実はなかった、という幽霊譚。

 前半は、源十郎が若狭に出会うまでの、宮木との夫婦としての話で、割と長い。まあ、ここで、宮木の人となりをしっかり描いているのが、後半に効いてくるのですが。

 若狭の登場シーンですが。若狭の顔が、コワいです、マジで。なんていうのか、こう、、、こけしみたいで、およそこの世ならざるもの、という感じを、その1ショットで表しているのがスゴイです。

 まるで憑かれたように(って実際憑かれているんですが)、若狭の後を着いて朽木屋敷へ入って行く源十郎。そして、それに続く宴のシーン。若狭は謡とともに舞い、途中から謡に低い男の声が交じりだし、これの不気味なこと。正直、見ている方も最初は「え? 空耳?」という感じで、若狭も聞こえているんだかいないんだか、舞い続けていたかと思うと、突然、「はっ! この声は!!」みたいになって恐れおののく。その声は、無念の死を遂げた若狭の父なんですが、それを説明するときに映る鎧とか、映像的に非常に不気味です。

 一番怖かったのは、源十郎が夢から覚めて、朽木屋敷を出たいと若狭に言ったところ。若狭の御付きの婆やが、地獄の底から絞り出すかのようなしわがれた、それでいてドスの利いた声で、「妻子がありながら、なぜ契りを交わされた!」とかなんとか言って、源十郎をしつこくしつこく攻め立てます。「帰してください」と哀願する源十郎の背に「いいや、返さぬ!!」と唸るような叫ぶその声は、もう、おぞましいの一言。このシーンが一番怖かった。

 そして、何と言っても最大の見どころは、源十郎が宮木の所に帰って来たシーンでしょうねぇ。宮木と息子に再会し喜ぶ源十郎は、ようやく心安らかに床に就くけれど、翌朝目覚めればそこに宮木はおらず、、、。

 朽木屋敷でのことにしても、宮木との再会にしても、源十郎の妄想、幻想だった、ってことです。

 まあ、浦島太郎とも通じるというか、夢のような日々の後に待っている恐ろしい現実ってやつです。こういう幽霊譚でなくても、普通に我々も、もの凄く楽しくて幸福な時間を過ごしたかと思った直後に突き付けられる自分の置かれた状況、、、ってのは経験していますけれども。幽霊よりもそっちの方がコワい、とも言えます。

 みんシネにも書いたけど、ルイ・マル監督、ビノシュ&ジェレミー・アイアンズの『ダメージ』のラストで、アイアンズ演じる元エリート男が、思いがけず空港か駅かで見かけた、自らが身を滅ぼす原因となった、かつて狂うほど愛してしまった女(もちろんビノシュ)を「普通のオンナだ・・・」と思うシーンで、私はこの「蛇性の婬」を連想しちゃうのです。

 結局、夢心地なほどの幸せな満ち足りた時間など、幻想でしかないのが人生、というものなのでは。大体、人生でそんな風に感じる時間、てのは、仕事で成功したとか、何か必死で頑張ってきたことがようやく世間に認められたとか、そんな晴れがましい時ではなく、もっと本能的な、、、そう、つまり恋愛においてしかないんじゃないでしょうか。心底好きな相手と2人だけで濃密な時間を過ごしている時、まさにその時以外にないでしょう。でも、そんなのは、幻想でしかないんだよ、と。

 そして、それはある意味、真実だとも思うわけです。そんな陶酔にも似た心境は、そう、度々あっては困ります。そして長くは続かないものなのです。その後には、恐ろしいほどに冷徹な現実が横たわっているわけです。

 田中絹代って、決して美人ではないけれど、独特の雰囲気がありますね。一人息子を背負い、川岸でずーっと夫の源十郎を見送るシーンが切ないです。今生の別れとなることが暗示されているシーンのように思います。

 ほかにも、義弟の藤十郎夫婦の話とかもあるんですが、でもまあ、やっぱり、本作は、京マチ子と田中絹代、そして、魔物に憑かれて妻を失うことになった源十郎を演じた森雅之の3人が素晴らしいです。





また「雨月物語」読みたくなってきた。




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