映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

地獄に堕ちた勇者ども(1969年)

2016-01-28 | 【し】




 ナチスの台頭するドイツ。国会議事堂放火事件に端を発した、鉄鋼王一族エッセンベック家における、欲望剥き出しの権力闘争を描く。

   

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 あまりにも有名な本作ですので、内容の紹介はよそにお任せするとして、ここではただただ勝手な感想を書きます。

 ヴィスコンティの映画は難解だと言われることもあるようで、実際、私が見たことのある作品も、決して分かりやすいものはなかったように思います。何を見たかというと、『山猫』『郵便配達は二度ベルを鳴らす』『ルートヴィヒ』『ベニスに死す』くらいなんですけど。『山猫』なんて、もうあんまし覚えていない、、、。

 で、本作を見て思ったんですが、難解というよりは、“不親切”な映画なんじゃないかな、と。見る人の視点が欠けているというか。ヴィスコンティの頭の中では全て完璧に出来上がっているので、それをそのまま描いているんだけれども、見ている方はヴィスコンティと同じ脳の働きをさせるわけじゃないから、難解だと感じる、のではないか。

 例えば、序盤の、当主ヨアヒムが殺されるシーン。ヨアヒムはベッドで横たわっています。目は開いている。すると、「ぎゃーーーっ!!」という悲鳴が屋敷のどこからか聞こえる。ハッとなって上半身を起こすヨアヒムだけれど、また横たわる。、、、そして、その数シーン後に、ヨアヒムはベッドの上で血まみれになっている、、、。はて、じゃあ、あの悲鳴は何だったの? ヨアヒムのベッドでの一連の動きを見せるシーンは何の意味が、、、? なくても別に良いシーンでしょ。、、、とかね。

 ギュンターの大学での焚書事件のシーンもそう。学生たちが講堂に座って、その前に教授陣と思しきおじさん方が並んでいる。ヘレン・ケラーだのプルーストだのの名前が読み上げられている。次のシーンでは、何かが燃やされているんだけど、それが、その前のシーンで名前が挙げられていた人々の著書だなんて、パッと見じゃ分からない。セリフでも分からせるセリフがない。よくよく見ると、火に投げ入れられているのは本だと分かり、??何で本燃やしているのかしらん? あ、もしかして、、、? と勘の良い人や博識な人なら分かるけれど、凡人には難しい。、、、とかね。

 ま、挙げたらまだまだあるけど、とにかく、何を描いているのか、背景の解説を読めば、ああなるほど、と理解できるけれど、作品だけでは分かりにくい、ってのが多い。ほんのちょっと、セリフとか、カットとかで説明できることを敢えて描かない、省略の美、、、かなんか知らんが、だから、ヴィスコンティ作品を分かる=ある程度の知的レベル、みたいなイメージがある訳でしょう。

 ヴィスコンティ作品は、私は好きでも嫌いでもないですが(本作や『ルードヴィヒ』はまだそれでも分かりやすい方だと思いますけれど)、なんつーかこう、、、「分かる人には分かるんだよ、分かる? キミ」みたいな雰囲気は、どの作品にも感じて、正直、イケスカナイおっさんだなぁ、とは思います。

 醸し出す退廃とか、倒錯世界等の描写で緩和されてはいますけど、まあ、下世話な言い方をしちゃえば“お高く留まった映画”だと思います。三島や澁澤が好みそうなのも、だから正直すごくよく分かる気がする。単に耽美ってだけじゃなく、選民意識の匂いを嗅ぎ取るんでしょうなぁ。、、、って、穿って見すぎかしらん。

 、、、さて、本作で一番印象的だったのは2つ。2つだったら一番じゃないけど、どっちも甲乙つけがたいので。

 一つ目は、シャーロット・ランプリングの可憐さ、美しさ、です。私は彼女が大好きなんですが、私が見た彼女の出演作の中では、本作が一番お若い。そして、やはり若さが持つ輝きは、その一瞬を捉えたものだからこそ、輝きなのです。その後の出演作も美しいのですが、本作で見せてくれる輝きは、やはりこの時だからこそ映像に残すことの出来た輝きでしょう。もう、ひれ伏したくなる美しさです。

 もう一つは、ラストの、ソフィとヘルベルトの、死出の結婚式ですね。ソフィの顔の怖いこと。宣誓書に署名する際のソフィの表情、もう、この世の者とは思えない化け物です。自殺している2人の姿がものすごく絵画的で、脳みそに焼き付いちゃいました。

 ヘルムート・バーガーも、大物の中で存在感を発揮しています。冒頭のドラアグ・クイーンから、ラストはSSの将校まで七変化。頭は悪いけど、美しいマルティン。ピッタリです。

 ソフィを演じたイングリッド・チューリンが圧巻です。本作の主役は、一応、ダーク・ボガードになっていますが、実際の主役は彼女でしょう。存在感が違い過ぎです。まさに、ザ・悪女。哀しい末路ではありますが、ここまで自らの欲に忠実に、しかもその欲(権力欲だけじゃもちろんなくて、性欲も)が底知れぬ沼みたいなんですからね。マルティンの悲惨と予想されそうな今後を見ずに死ねたのは、まだしも幸せかもしれません。






登場人物が皆、大汗かいているシーンが多いです。





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沈黙の官能(1976年)

2016-01-25 | 【ち】



 19世紀のローマ。フェラモンティ家は、家長の父親が吝嗇に励んで貯め込んだ甲斐あってかローマでも結構な金持ちになったのだが、2人の息子と1人の娘とは非常に折り合いが悪く、そこを、虎視眈々と金を得て成り上がることを狙っていた美女につけ込まれ、一家は崩壊に追い込まれる。

 そうして、美女は当初の目論見通り、フェラモンティ家の全財産を得ることになるのだが、、、。

 ドミニク・サンダ28歳の時の作品。美しいなぁ~~。、、、にしても、この邦題は何なのかねぇ。
  

  
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 もちろん、美女がドミニク・サンダ演じるイレーネです。先日の『サンローラン』が衝撃的だったんで、ちょっと、口直し、というか目直ししようと思って見ました。

 話としてはどーってことない話です。イレーネにフェラモンティ家の男どもは全員骨抜きにされ、結果的に、財産も全部持って行かれそうになったところへ、ただ一人の娘テータがその夫パオロとともに一発逆転、裁判で勝ち、テータ夫妻が全財産の相続人と認められる、というオチ。

 二男のピッポと結婚しながら、長男マリオとも関係し、挙句、父親のグレゴリオとも、、、。それもこれも全て、この家の財産をいただくためよ、ってことです。よーやるわ、、、と、関心というより呆れて開いた口が塞がらない、という感じ。まあでも、ピッポよりマリオの方がイケメンで、マリオと浮気するのはまだ分かる。いくら金が欲しいからって、老人の父親と、、、うぅ、、、。

 とはいえ、世の中、こういう女性も確かにいるでしょうし、別にそういう生き方ももちろんアリだと思います。私も、母親にしたくもない見合いを無理矢理させられていた頃、こんなことが続くのなら、いっそ出家して尼になるか、棺桶に首まで入っている死にそうな大金持ちの爺さんとペーパー結婚するか、どっちかしかもう生きる道はないかも、、、などと真剣に考えたものです。今思えば、なぜ「大金持ちの爺さん」でなきゃならんのか自分でも分からないのですが。わざわざ死にそうな貧乏爺さんとペーパー婚する意味なんかない、という発想でしょうね、多分。

 だから、イレーネのような生き方を、積極的に非難する気にはなれないのですが、ただ、本当に爺さんとセックスしちゃうのが、やっぱし信じられんのですね、オバハンになった今の私でも。、、、だったら、そこまでお金なくてもピッポと2人で楽しく生活した方がよっぽど良いわ! と思っちゃう私は、所詮、成り上がる器じゃない、ってことですな。

 本作を見て思ったんですが、ドミニク・サンダって、女優として演技力という点から見てどーなんでしょうか? 私は、正直、イマイチな気がしました。その現実離れした美しさで周囲を色んな意味で圧倒しているから、何となく見れてしまうけれど、どうもこう、、、日本で言うと、吉永小百合的な感じがしちゃいました。

 終盤、マリオに本音を吐いて罵倒するシーンがあるんですけど、あんまし迫力ないんですよね。あそこは見せ場の一つだと思うんですが。笑顔のシーンもちょっとありますけれど、全般に表情が同じで能面みたいな感じ。

 ファム・ファタールと言ってもイロイロで、イレーネは一見美しく可憐だけど見る人が見ればバレバレの性悪女で、そうと分かっていても騙される、というキャラだと思うんですが、イレーネを演じているドミニク・サンダはもう、どう見ても男を惑わす性悪女の面構えで、二面性というのがあまり感じられない。これって私が女だからそう見えるのかな? 男性には彼女が一見上品で可憐に見えるのか? いえ、決して彼女が品がないとか下品とかは思わないんですよ。ただ、品があるとも知性美があるとも見えないだけで。

 実はこれを感じたのは本作が初めてではなく『暗殺の森』でもちょっとそう思ったのでした。あの作品の方が、本作よりよほど難しかったと思いますけれども。

 でも、この作品で彼女はカンヌの女優賞を獲っているみたいなんですよね~。まあ、脱ぎっぷりは小百合さんなどお呼びでないくらい大胆だし、悪女の雰囲気は十分出ていましたが、それはだから、彼女にもともと備わっている雰囲気だと思うのですよね、私は。『やさしい女』でも、彼女の演じたのはやはり悪女だったと思うし。悪女を地で演じられるんでしょうね。小百合さんにそもそも悪女はムリでしょう。

 まあ、他の作品も見てみないとね。見ればまた見方も変わるかもだし。





悪女の条件=絶世の美女であること




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クリムゾン・ピーク(2015年)

2016-01-18 | 【く】



 英国から来た謎めいた貴族トーマス・シャープ(トム・ヒドルストン)に、アメリカ・NYの成金(?)のお嬢さんイーディス・カッシング(ミア・ワシコウスカ)は心を奪われ、2人は恋に落ちる。トーマスにはこれまた謎めいた姉ルシール(ジェシカ・チャスティン)がおり、2人の恋を歓迎しているようないないような、、、。

 果たしてトーマスとイーディスは婚約するが、イーディスの父カーターはシャープ姉弟にどこか胡散臭さを感じたのか、探偵を雇って身辺調査をさせると、驚くべき事実が明らかに。カーターは、イーディスには内緒で、シャープ姉弟に金を握らせイーディスの前から消えろと命じ、姉弟はそのままアメリカを去ることに。

 しかし、シャープ姉弟がアメリカを立つ日、カーターはスポーツクラブの洗面台で頭を強打した無惨な死体で発見される。トーマスを追ってきたイーディスは、父の遺体と対面し、父の全財産を相続した身で、トーマスと共にイギリスへ渡る。

 アラデール・ホールと呼ばれるトーマスの屋敷に着いたイーディスだったが、そこは荒れ果てたまるで幽霊屋敷。実際、イーディスは何か不思議なものを屋敷の中で度々目撃し怯える。この屋敷のある場所は、実は、かつて自分が10歳の頃、亡き母の幽霊が現れて気を付けろと警告した場所「クリムゾン・ピーク」だったのである。なぜ気を付けろと母の幽霊は言ったのか?

 すべての謎が解けた時、イーディスは絶体絶命の危機にさらされる!!

  
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 思わせぶりなあらすじの書き方をしてしまいましたが、内容的には意外性はありません。な~んだ、って感じ。一応、ゴシックホラーという触れ込みだけれど、ホラーというほど怖くもない。ただ雰囲気はあります、すごく。

 10歳のイーディスの前に現れる亡きお母さんの幽霊ってのが、これが結構おっかない見た目で、あれじゃあ、いくら大好きなお母さんの幽霊っつったって、そら10歳の子には怖いわさ。何でもうちょっと普通な姿で出てきてあげないのかしら、、、と思ったけれど、イーディスの心にお母さんの警告を素直に届かせないためなのかもね。届かないからこそ、シャープ姉弟の屋敷がクリムゾン・ピークそのものだと知ることもなく行ってしまったのですからね。

 とにかく屋敷のセットが素晴らしいです。この世界観、好きだわ~。とっても絵画的。パンフによると、ギレルモ・デル・トロ監督はラファエル前派のミレー等からインスピレーションを得ているとか。と聞けば、なるほどねぇ、と言う感じです。なにより、屋敷全て実際セットを組んで、ほとんどCGはナシということで、それはそれは臨場感のある映像美を堪能できます。これを味わうだけでもスクリーンで見る価値アリでしょう。

 謎解きの小道具の数々、鍵の束、蓄音機のシリンダー、古い書物、古い写真、恐ろしい肖像画、、、と、見ているだけで楽しい。

 陰惨な事件を匂わせながら、絵画の中から飛び出して来た可愛らしい少女のようなイーディスが姉弟の隠された秘密を暴いていくという対比が、画的に見応えあります。

 ギレルモ・デル・トロ監督の『パンズ・ラビリンス』は、世界観はもちろん、ストーリーもなかなか噛み応えがあったので、割と好きなんですが、本作については、噛み応えはほとんどなく、ただただ世界観をリアルに再現したそのビジュアルを堪能するのが良いようです。

 途中、トム・ヒドルストンとミア・ワシコウスカのベッドシーンがありますが、トム・ヒドルストンはすっぽんぽんで立派なお尻をご披露されていましたが、ミアの方は脱ぎもせず、何だかなぁ、、、。だって、ようやく、ようやく結ばれた、っていうシーンなんですよ? そこでそれかよ、、、って感じ。脱がないから官能的じゃないとは一概に言えないけど、あそこは話の流れから言って、ほとばしる欲情のぶつかり合い!! のはずなわけで、やっぱし大胆に脱いでいただきたかったですね。脱がせないのか、脱がないのか知りませんが、裸体を出し惜しみする女優は、私はあんまし好きじゃないですね。

 あと、かなり全体に痛い映画です。ドンパチ系はわりかし大丈夫なんですが、刃物系は私ダメなんですよ。終盤の、「心変わりなど許さん!!」グサッ、グサッ、グサッ、グサッ、の連続はちょっと、、、。しかも、刺しては抜く、刺しては抜く、、、痛ぇぇぇ~~。正視できませんでした。ラストの、イーディスとルシールの一騎打ちも痛いけど、イーディスのデカいシャベルにはたまげました。もう、あそこまで行くと、何でもアリです。

 本作は、ゼッタイ劇場で見た方が良いです。DVDで見ても、多分、……え、それだけ?? となる可能性が高いので。

 



謎解きは、消化不良な部分も。




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誰でもない女(2012年)

2016-01-15 | 【た】



 以下、リンク先のあらすじのコピペです。

 第二次世界大戦時に企てられたナチスの人口増加計画、その負の遺産を継いだ東ドイツの秘密警察、ノルウェーの女性の悲劇をテーマに、繰り返されるフラッシュバックや謎の人物の登場など、目まぐるしい展開で綴られるサスペンス。監督はこれが長編第2作目となるゲオルク・マース。アカデミー賞外国語映画賞ドイツ代表作品。

 カトリーネは、ノルウェー占領中のドイツ兵を父、ノルウェー女性を母として、第二次大戦中に生まれた。出生後は母親と引き離され、旧東ドイツの施設で育っていたが、成人後に命がけで亡命、母との再会を果たした後はノルウェーで母や夫、子供たちと共に暮らしていた。1990年にベルリンの壁が崩壊すると、カトリーネの元にスヴェンという弁護士が訪ねてくる。戦後にドイツ兵の子を出産した女性への迫害について、その訴訟における証人が欲しいというのだ。頑なに拒否したカトリーネはドイツに渡るのだが…。

=====コピペここまで。

 何気なく録画しておいたものが、思いもしない素晴らしい作品でした。衝撃、、、。残念なのはこの邦題。


 
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 またまたナチものです。なんだかんだ言っても、ヨーロッパ映画にはナチものがすごく多いですね。本作は、2012年制作だから、4年前の作品ですか、、、。

 さて、ナチスのレーベンスボルン(生命の泉)という単語は聞いたことありますが、内容はよく知りませんでした。日本の戦時下の“産めよ増やせよ”と同じようなものかという程度の認識でしたが、これがトンデモない大間違いだったことが分かり、衝撃的でした。本作の背景には、このレーベンスボルンにより数多引き起こされた悲劇がずしりと横たわっております。

 ノルウェーは、より純粋アーリア系というナチスの認識の下、SSは隊員とノルウェー人女性との間に積極的に子づくりをさせ、ノルウェーにもレーベンスボルンの施設を作って、そこでSSの子らを育てたわけですが、終戦とともにもちろんそれらは解体されただけでなく、ノルウェー政府によって、残されたノルウェー人女性たちは逮捕され、その子たちの多くは精神病院送りにされたという、、、。弁護士のスヴェンは、この時の政府の対応を糾弾しようとしていた様です。

 ただ、本作のカトリネ(字幕ではカトリーネではなくカトリネだったので、以下はカトリネで表記します)は、母親のオーゼがカトリネを出産後すぐに養子に出したため、戦後旧東独に連れ去られます。

 (ここから大いなるネタバレになりますのでご注意を)

 とはいえ、本作のカトリネですが、実はあらすじにある身の上話は別人のもので、彼女の本名はヴェラといい、旧東独の秘密警察、つまりシュタージのスパイだったのです。スパイとして、実在のカトリネの人生を乗っ取ったわけです。ヴェラ自身、東独で両親とは戦争による爆撃により死別し孤児院で育っており、孤児たちはシュタージに多くがスカウトされたようです。ヴェラもその一人だったということです。

 そして、旧東独は、スパイ活動の一環としてノルウェーの民家にスパイを潜入させたとか、、、。こわっ! しかも、レーベンスボルンで育った子どもを母親に返す、という名目で送り込まれた子もいたということで、ヴェラは、カトリネになりすまし、オーゼの前に「私があなたの娘、カトリネよ」と言って堂々と名乗り出たわけです。オーゼが信じ込むのもムリはありません。

 そして、カトリネになったヴェラは、潜り込んだノルウェー海軍で出会った男性と職場結婚し、娘にも恵まれ、オーゼとも良好な関係にあり、幸せな家庭を築きます。こうして、彼女のカトリネとしての人生を恐らく20年以上を積み上げてきたところから物語は始まります。

 要は、弁護士のスヴェンが、訴訟を進める過程でカトリネを名乗るヴェラの過去に不審を抱き、ヴェラの過去を明らかにしていくというのが、本作の筋立て。

 確かに、ヴェラのしたことは犯罪ですが、ヴェラ自身も戦争の被害者であり、旧東独という国家に翻弄された身です。すでに現実に夫と娘との家庭を築き、幸せな実人生を送って長い時間を経ている今になって、過去を暴き立てようというスヴェンが、私はヒジョーに憎たらしいと思いました。一体、アンタは何の権利があって人の人生をズタズタにするのさ、と胸ぐらを掴んで締め上げてやりたくなります。

 でもまあ、スヴェンにしてみれば、職業柄の正義感から、ヴェラのしたことが見逃せない、ってことでしょう。実際のカトリネは、不幸な亡くなり方をしており、それにはもちろんヴェラも絡んでいますし。

 しかし、それでもやっぱり、私はスヴェンの行為がムカツくのです。正義、ってのはね、もろ刃の剣なんですよ。正義を大上段に構える人間は、胡散臭いです。とにかくやり方が汚いんですよ。嫌がるヴェラを無理やり法廷の証言台に立たせたり、現在のカトリネがヴェラだという明らかな証拠をヴェラ自身ではなく、娘に見せたり。凄くイヤらしい。正義を通すのなら、現状を考えて、まずヴェラ自身と直接対決すべきでは。何でもそうだけど、私は、こういう外堀を埋めるタイプの人間は大っ嫌いです。

 スヴェンのしたことで、ヴェラの家族は崩壊、オーゼも放心状態となります。いくら真実だからと言って、こんな事態を引き起こす権利が彼にあったと言えるでしょうか。

 ラストは、衝撃的というか、予感したとおりというか。とにかく、最悪のバッドエンドです。と言って、鑑賞後感が悪いわけではありませんが、もの凄く胸が苦しくなるラストです。

 ヴェラの夫がすごくイイ男なんです。ヴェラに全てを打ち明けられた後、怒りと衝撃で呆然となって海を見ていると、そこへ同じく全てを知った娘が来て言います。「憤りを感じない?」……するとこの夫は、当然憤りを強く感じているのだけれど、こう返します。「それでも君の母親だ」と。、、、泣けました。夫としては怒りを感じても、父親としてはやはりこれが本音でしょう。すごくジーンときました。

 この夫は、序盤でも、娘にイイこと言うんです。娘(どうやら未婚の母らしい)が「もうダメ、何もかもうまく行かない。カオスだ」と言って頭を抱えるんですが、そんな娘に対し「うまくやろうとするな」と言うんです。そしてこうも。「今の君に必要なのは恋人だ」とね。こんなこと言える親、世界で多分10人くらいしかいない(根拠はありません)と思いますよ。素晴らしいキャパの広さです。ヴェラは男を見る目はあったのですね。

 あと、過去のシーンが随所に挟まれるんですが、ここでヴェラの若い頃を演じている女優さんが、現在のヴェラを演じるユリアーネ・ケーラーにそっくりで、最初、私は本人が若いメイクをして演じているのだと思ったほどです。過去のシーンは、ちょっと画像を敢えて荒くした感じにしているので、余計にそう思いました。

 冒頭から緊迫感全開で息つく暇もない逸品です。見終わった後、もう一度見ると、色々と合点が行き、納得できます。私も、都合2回見ました。そして、また見たいと思います。なので、DVDに保存しました。こういう地味だけど、思いがけない掘り出し物に会うから、映画ってやめられないのよぉ、、、。





果たしてカトリネとしてのヴェラの人生は偽りだったのか、、、。




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ガタカ(1997年)

2016-01-09 | 【か】



 近未来の世界。人間はそのDNAによってあらゆることが決定づけられる運命にあった。それ故、誰もが自分と相手の優性遺伝のみを結合させた受精卵で我が子をこの世に送り出すことに血道をあげていた。

 そんな世にあって、前時代的に両親がセックスしそのまま妊娠した挙句に生み落されたヴィンセント(イーサン・ホーク)は、DNA的には適正でない「不適正者」として、宇宙飛行士(適正者しかなれない)になりたいという夢の前に、そもそも彼にはその扉さえ開かれていなかったのである。

 努力で実現することが絶対的に不可能な夢。しかし、ヴィンセントは諦めなかった。家族を捨て、ある手段により宇宙開発事業組織「ガタカ」に職員として採用されることに成功する。絶望的だった夢への扉は開かれたのだ。

 しかし、ある日、ガタカ内部で殺人事件が起きる。その現場で、「不適正者」のまつ毛が採取され、ヴィンセントは殺人事件の犯人、さらには不適正者という二重の容疑がかけられることに。

 果たして、彼の夢は達成できるのか。


 
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 評判が良いのは知っていたけど、なかなか見る機会がなかった本作。ようやくBSで大分前に録画してあったのを見ました。

 冒頭、白い大きな羽(?)みたいなものが一つ、二つ、、、と上から降ってきます。???、、、何だろう? 今度は、大きな管みたいの(?)が一つ、二つ、、、とまた上から降ってきます。?????、、、なんじゃありゃ? そう、これは実は、爪と毛髪だったのですね、、、。途中でようやく分かりました。

 これに続くシーンも謎めいていて、冒頭からいきなり好奇心を鷲掴みにされます。上手いな~。まんまとその手に乗っちゃったよ、私も。

 DNAを解析したら、たちどころにその人は何年くらい生きられるか分かっちゃう、なんてのは、今や現実になっていると言っても良いのでは? それで乳房摘出する人だっている世の中です。

 本作を見て、不謹慎ながら、私は競走馬の世界を思いました。あの世界は“血統主義”なのでしょう? 詳しくは知りませんが、とにかく、父馬は何で、母馬は何で、って、必ず紹介されますもんね。これだって、要はどんくらいスゴイDNA受け継いでいるかってのを原始的ではあるけど計っているわけです。でも、実は、その血統書が偽造された物だったら? そして、ゼンゼン駄馬の種の競走馬が、なんとG1制しちゃったら? みたいな話、小説でありませんでしたっけ?

 これと同じ話だなー、と。

 まあでも、精子バンクや卵子バンクを利用する人は、その提供者の容姿・IQ・学歴・性格等々のデータをきっちり選んでから受精させるわけだから、それともこれは同じ話でしょう。

 というか、今現在の世の中も、大差ないなー、と。生まれながらにしてどう逆立ちしたって就けない職とか、あるでしょ? 具体的に挙げると、ちょっと問題が多いのでやめときますが、性別、出自、容姿、、、その他、自分の責任とは全く無関係の所で既に選択肢がいくつも取り上げられているものなんてたくさんあります。

 本作でのヴィンセントは、後天的に身体が不自由になった元・適正者ユージーン(ジュード・ロウ)の人生を、手に入れます。ユージーンの生活を保障するという条件と引き換えに。もちろん、本来は不適正者なわけだから、人一倍、いや百倍万倍の努力をして、適正者としてガタカに勤務するわけです。

 この、適正者になりすますことを決意することとなった、アントン(実の弟で適正者)との水泳での競争シーンはグッときます。それまでずっと負け続けていたアントンに、彼は初めて勝ちます。そして、DNAは絶対陥落不能な砦でないことを自らも確信するのです。

 アントンとの水泳での競争シーンは、終盤にもう一度あり、そこでもヴィンセントはアントンに勝ちます。真正適正者であるアントンは、ヴィンセントに負けるはずなどないのに、二度までも敗北します。アントンは刑事になっており、ガタカでの殺人事件の捜査に当たりますが、ユージーンを名乗る男が実はヴィンセントだと分かり驚愕、自らの適正者としてのプライドを賭け、二度目の水泳競争に挑んだわけです。

 結局、本作は、適正者も不適正者も、非常に不幸な世界を描いていると思います。ユージーンは適正者であるが故に競泳選手として金メダルが取れないことに思い悩み自殺未遂し、挙句、足が不自由になります。アントンだって、結局、ヴィンセントに対し全てに勝っているべきという呪縛から逃れられません。もちろん、一番呪縛が強いのはヴィンセントその人です。

 いやしかし、不適正者は、それでもまだ「自分は不適正者だもんね~~、パッパラパ~」と諦念してしまえば、むしろ楽かもしれません。それこそ「置かれた場所で咲きなさい」じゃないけど、選びようのない与えられた状況で折り合いさえ付ければ良いのですからね。むしろ、適正者の方が辛い。あいつらに一つでも劣ってはならぬ、、、なんて。自殺したくもなるわ、そりゃ。

 実際、ユージーンは、ラスト、本当に今度こそ自ら命を絶ちます。その手段がまた、、、恐ろしいというか、何でそんな苦しい死に方選ぶの? と言いたくなるようなものでして。でも、ユージーンの選択は、確かにあれしかないだろうな、と、見終わってしばらくして合点がいきました。

 私は不適正者で折り合い付けちゃうクチですね、多分。ヴィンセントみたいには出来ないと思う。根性ナシなんで。そもそも、満足のハードルも相当低いし。ヴィンセントは、なるほど挑戦者で努力の人ですけれど、こんな苦しい生き方って幸せでしょうか。上ばかり向いて歩いている人生。彼はもちろん、足下も見て自ら努力したので良いのですが、現実社会では足下見ないで上ばっか見て歩いていたので転んじゃっている人、結構いません? それって、一度しかない人生なのに、どーなんでしょう? 七転び八起きとも言いますけどね。地道に歩いていたって転ぶのが人生なのに、上ばっか見て足下にあるキレイな花や犬のウンコに気付かないのは、やっぱしイヤかも。

 イーサン・ホークがジュード・ロウをお姫様抱っこするシーンがありまして、ちょっとドキドキしてしまいました。ジュード・ロウ、陰の主役で、なかなか素敵でした。ユマ・サーマンも若い!細い! 

 文句をつけるとすれば、まあ、色々ガタカのシステムは穴だらけで突っ込みどころ満載、ってのと、やっぱしヴィンセントがいかに人知れず努力しているかという部分がほとんど描かれていないことですね。セリフで説明しちゃってるのが興醒めというか。

 まあでも、イロイロ考えさせられる作品には違いありませんから、良い映画だと思います。





“育ちより氏”の不幸社会を、“氏より育ち”が喝破する。




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雨月物語(1953年)

2016-01-06 | 【う】



 上田秋成の「雨月物語」から、「蛇性の婬」「浅茅が宿」を下敷きにした物語。

 時は戦国時代、思いがけないことから欲をかいた源十郎(森雅之)は、ある日、不思議な姫・若狭(京マチ子)と婆やに誘われ朽木屋敷へと足を踏み入れる。そこは、何とも不思議な邸宅で、源十郎は、若狭たちに歓待され、すっかり夢心地に。若狭との享楽の日々に現を抜かす。

 が、源十郎は国元に妻・宮木(田中絹代)と息子を置いて来た身。ある日、買い物に出た折に出会った一人の老僧に「死相が顔に出ている。早く元の家に帰れ」と言われ、ふと宮木のことを思い出し帰ろうとするのだが、、、。

 京マチ子がキレイだが、かなりコワい。溝口健二監督作品の中でも随一と言われる名作。


 
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 雨月物語は、小学生の頃読んで(もちろん子ども用に書き直されたもの)、一時期、かなりハマった記憶があります。怖いけど面白い、ついつい読んでしまう、という感じだったかなぁ。もちろん、一番印象的だったのが、本作の基となった2つのお話。どっちも、あると思っていたものが、実はなかった、という幽霊譚。

 前半は、源十郎が若狭に出会うまでの、宮木との夫婦としての話で、割と長い。まあ、ここで、宮木の人となりをしっかり描いているのが、後半に効いてくるのですが。

 若狭の登場シーンですが。若狭の顔が、コワいです、マジで。なんていうのか、こう、、、こけしみたいで、およそこの世ならざるもの、という感じを、その1ショットで表しているのがスゴイです。

 まるで憑かれたように(って実際憑かれているんですが)、若狭の後を着いて朽木屋敷へ入って行く源十郎。そして、それに続く宴のシーン。若狭は謡とともに舞い、途中から謡に低い男の声が交じりだし、これの不気味なこと。正直、見ている方も最初は「え? 空耳?」という感じで、若狭も聞こえているんだかいないんだか、舞い続けていたかと思うと、突然、「はっ! この声は!!」みたいになって恐れおののく。その声は、無念の死を遂げた若狭の父なんですが、それを説明するときに映る鎧とか、映像的に非常に不気味です。

 一番怖かったのは、源十郎が夢から覚めて、朽木屋敷を出たいと若狭に言ったところ。若狭の御付きの婆やが、地獄の底から絞り出すかのようなしわがれた、それでいてドスの利いた声で、「妻子がありながら、なぜ契りを交わされた!」とかなんとか言って、源十郎をしつこくしつこく攻め立てます。「帰してください」と哀願する源十郎の背に「いいや、返さぬ!!」と唸るような叫ぶその声は、もう、おぞましいの一言。このシーンが一番怖かった。

 そして、何と言っても最大の見どころは、源十郎が宮木の所に帰って来たシーンでしょうねぇ。宮木と息子に再会し喜ぶ源十郎は、ようやく心安らかに床に就くけれど、翌朝目覚めればそこに宮木はおらず、、、。

 朽木屋敷でのことにしても、宮木との再会にしても、源十郎の妄想、幻想だった、ってことです。

 まあ、浦島太郎とも通じるというか、夢のような日々の後に待っている恐ろしい現実ってやつです。こういう幽霊譚でなくても、普通に我々も、もの凄く楽しくて幸福な時間を過ごしたかと思った直後に突き付けられる自分の置かれた状況、、、ってのは経験していますけれども。幽霊よりもそっちの方がコワい、とも言えます。

 みんシネにも書いたけど、ルイ・マル監督、ビノシュ&ジェレミー・アイアンズの『ダメージ』のラストで、アイアンズ演じる元エリート男が、思いがけず空港か駅かで見かけた、自らが身を滅ぼす原因となった、かつて狂うほど愛してしまった女(もちろんビノシュ)を「普通のオンナだ・・・」と思うシーンで、私はこの「蛇性の婬」を連想しちゃうのです。

 結局、夢心地なほどの幸せな満ち足りた時間など、幻想でしかないのが人生、というものなのでは。大体、人生でそんな風に感じる時間、てのは、仕事で成功したとか、何か必死で頑張ってきたことがようやく世間に認められたとか、そんな晴れがましい時ではなく、もっと本能的な、、、そう、つまり恋愛においてしかないんじゃないでしょうか。心底好きな相手と2人だけで濃密な時間を過ごしている時、まさにその時以外にないでしょう。でも、そんなのは、幻想でしかないんだよ、と。

 そして、それはある意味、真実だとも思うわけです。そんな陶酔にも似た心境は、そう、度々あっては困ります。そして長くは続かないものなのです。その後には、恐ろしいほどに冷徹な現実が横たわっているわけです。

 田中絹代って、決して美人ではないけれど、独特の雰囲気がありますね。一人息子を背負い、川岸でずーっと夫の源十郎を見送るシーンが切ないです。今生の別れとなることが暗示されているシーンのように思います。

 ほかにも、義弟の藤十郎夫婦の話とかもあるんですが、でもまあ、やっぱり、本作は、京マチ子と田中絹代、そして、魔物に憑かれて妻を失うことになった源十郎を演じた森雅之の3人が素晴らしいです。





また「雨月物語」読みたくなってきた。




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ドリアン・グレイ 美しき肖像(1972年)

2016-01-04 | 【と】



 あのオスカー・ワイルドの唯一の長編小説といわれる「ドリアン・グレイの肖像」が原作。稀代の美青年ドリアン・グレイを、ヴィスコンティの肝いりヘルムート・バーガーが演じる。小説の舞台は19世紀末だが、本作は舞台を現代に設定している。

 ロンドンの中堅画家バジルは、自他ともに認める美しい青年ドリアン・グレイの肖像画を描く。以前から描きたいと思っていた彼の肖像をようやく描いたところへ、バジルの友人ヘンリー・ウォットンが妹と訪ねてきて、ドリアンとその肖像画を見る。ヘンリーたちがドリアンの美を讃え、美しさこそが芸術の真髄だなどと陳腐な芸術論をぶった挙句「この絵に君の美しさは永遠に残された」という。しかし、すっかりヘンリーの言葉に惑わされたドリアンは思わずつぶやく。「逆ならば良いのに。私の代わりにこの肖像画が老いて行けば良いのに……」と。

 それを聞いたヘンリーは、「ならばこの絵は私が君に贈ろう」と、バジルから買い取ってドリアンに贈られる。ドリアンの家に持ち込まれた絵は、まさにドリアンの美しさを写していた。

 ヘンリーは享楽的、退廃的な道へとドリアンを誘い、ドリアンがそれまで結婚をマジメに考えて付き合っていた駆け出しの女優シヴィルとの関係を破綻させ、さらにはシヴィルを絶望させ自殺へと追い込んでしまう。ドリアンは罪悪感を感じながらも必死で打消し帰宅すると、自分の肖像画を目にして恐怖に呆然となる。肖像画の顔が醜く変貌していたのである!!

 恐ろしくなったドリアンは肖像画に布を掛けて隠し、自分の気持ちを紛らわすかのように、ますますヘンリーの誘う退廃の道を突き進んで行くのだが、、、。

 ラストの肖像画が恐ろし過ぎ。終盤はちょっとホラーっぽいかも!? 
 
 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 先日酷評してしまった『サンローラン』で、晩年のサンローランを演じたヘルムート・バーガーが、あまりにも、あまりにも、、、だったので、お口直し、というかお目直しのために、美しかったころの彼を見るべく本作を鑑賞いたしました。、、、が。

 あれを見た後にこれを見たのは、マズかったかも。なんか、見終わった後しばし落ち込みました、、、がーーーーーん

 本作でのヘルムート・バーガーは、なるほど美しいです。完璧な美、というより、ソソられる美、という感じでしょうか。いえ、私の好みではないんですけど。でも、一般論でいえば、人目をくぎ付けにする美しさであることは間違いないでしょう。

 もうね、シヴィルが可哀想で。原作を読んだ時もやっぱり可哀想だと思ったけど、突然の愛する人の心変わりほど辛いことはないでしょう。理由らしい理由もない、ただ飽きた、なんて。もちろん、ヘンリー卿が裏で糸を引いていた訳ですが。

 シヴィルの後にも、ヘンリー卿の妹グェンドリン(原作にはなかった存在だったはず)とか、ドリアンの友人の妻アリス・キャンベルとか、土地成金みたいな奥様ラクストン夫人とかと、ヤリまくります。本作は、もしかしたらヘルムート・バーガーをひたすら美しく見せることを第一義に作られた作品かも知れません。

 おまけに、ラクストン夫人以外の女優さんたちがもう、息を呑むほどの美女揃い。正直なところ、ヘルムートより、こちらの美女たちに目を奪われました、私。ホント、正統派のスゴイ美女!! こんな女優たちとの濡場シーンいっぱいでも、ヘルムートには大して有り難くもなかったんでしょうけれど。いやはや、、、これは凄いです。彼女たちを見るだけでも、一見の価値ある映画、とも言えるかも。言い過ぎかな。

 2009年に、ベン・バーンズがドリアンを演じた『ドリアン・グレイ』が制作されていますが、ベン版と比べると、本作の方がちょっと猥雑で淫靡な感じはありますね。舞台は、本作は現代(というか1970年代)ですが、退廃ムードは、原作どおりの19世紀末を舞台にしたベン版より出ている気がします。それは、やはりヘルムートの持つ妖しい雰囲気によるところ大でしょう。あと、前述の美女たちね。ベン版の女性陣は、もう、軒並み魅力ナシだったので。

 また、ヘンリー卿がベン版はコリン・ファースだったのですが、本作のヘンリー卿の方が原作にイメージは近いと、私は思いました。ベン版は、原作にないヘンリー卿の娘なんかを終盤に出してきて、ヘンリー卿のキャラがまるで違うものになっていたのが不満だったもので。本作のヘンリー卿は、ドリアンが堕ちるところまで堕ちていくのを、高みの見物している悪趣味なキャラがよく出ていてイイ感じでした。演じていたのはハーバート・ロム。元はハンガリーの人なのですね、、、。なかなか知的な感じのする悪人顔でハマっていました。

 そして、本作の見どころは、ラストのドリアンの肖像の変貌ぶりなわけですが、、、。ベン版のそれは、もう、CGを駆使したゾンビ映画みたいになっていてかなり興醒めでしたが、本作のなれの果ての肖像画は、、、、コワい!! というか、すんごい気持ち悪いです。ちょっと漫画チックな感じもするけれど、ベン版のよりは数段GOOD!! 

 ラスト、本作は原作と異なり、ドリアンは自分で自分の胸に刃を突き立てます。そしてその死顔は、醜くただれて、、、。私は原作の方が好きかな。やはり、あの絵が鍵な訳ですから、絵に刃を突き立てて欲しかった。それが本当の自分を殺すことなんですから。

 しかし、、、『サンローラン』で衰えたヘルムートをまじまじと見てしまっていたので、本作は、とてもじゃないけどただのちょっと不気味な作り話よね、などと流せる気分にはなれませんでした。

 人生の一時期、並はずれた美しさで世間を圧倒していた人は、老いるのが難しいのだなぁ~、と、ヘンに胸苦しくなったのです。容姿はどうしたって年月とともに衰えますから、美しければ美しいほど、衰えとの闘いになってしまうのでは、と。若い頃の美しさにしがみついているイタい大人は少なくないですから。

 、、、でも。本作と思わず重ね合わせて勝手に落ち込んでしまったけれど、そういう意味では、ヘルムートは衰えた自分を堂々と晒していて、むしろ、きちんと自分の老いと向き合えている人なのかも。ヘルムート自身、実人生とちゃんと折り合いをつけながら生きてきたんだろうなと思うと、何となく救われる気がします。

 、、、そうか、年齢を重ねるということは、見た目も含めて生き様が問われるのですね。

 駄文だけれど、レビューを書くことで、こういうもやもや感が整理できてイイこともあります。最後までお読みいただきありがとうございました。




美しい人って、大変。




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