映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

関心領域(2023年)

2024-06-02 | 【か】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv85290/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 青い空の下、皆が笑顔を浮かべ、子どもたちは楽しそうな声を上げるなど、アウシュビッツ強制収容所の所長を務めるルドルフ・ヘスとその妻、ヘドウィグら家族は穏やかな日々を送っている。そして、窓から見える壁の向こうでは、大きな建物が黒い煙を上げている。

 1945年、一家が幸せに暮らしていたのは、強制収容所とは壁一枚で隔たれた屋敷だった。

=====ここまで。


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 公開前から話題沸騰(言い過ぎ?)な本作。公開してまだ10日なのに、既にネットには専門家から一般ピープルに至るまで、考察やらレビューやらが氾濫しており、内容については今さらなので、思ったことをつらつらと備忘録的に書き留めておきます。

 あんまし本作のストレートな感想文になっていないので、悪しからず。


◆描かないことで描く

 タイトルでもある「関心領域」は、アウシュビッツ収容所そのものを指すナチの隠語だったとか。そこで何が行われていたかを知ると、「関心領域」ってスゴい言葉だよなぁ。

 しかし、ヘスの妻ヘートヴィヒ(上記あらすじとは表記が違うけど、字幕では「ヘートヴィヒ」だったので、こちらを使用)にとって、夫の仕事場であり、夫の属する組織にとっての関心領域は、「無関心領域」だった。……まあ、敢えて無関心を決め込んだ、と言った方が正確か。

 序盤で、ヘートヴィヒが鏡に向かって口紅を試すように塗るシーンがあって、最初、ん??となったが、その口紅は収容所から“カナダ”に収められた収奪品であったと分かって、吐き気がしそうになった。本作とは全然関係ない映画だが、かつて「わたしのお母さん」(2022)という邦画の感想文の中で、私は「嫌いな人の口紅を、自分の口に直塗りするか、、、ってこと。しかも、新品でなく、使いかけのである。いくら親子でも、、、ナイわ~~、と思っちゃいました。」と書いたが、このヘートヴィヒの行動は、もう私の想像の範疇をはるかに超えており、本作のっけからKOされた気分だった。

 でもまぁ、本作の鍵となる“音”もそうだが、どんな非人間的な事象も、それが“日常”となると、人間、案外簡単に慣れるものなのかもしれない。私は本作を見ながら、あの環境で“臭い”はどうだったのだろうか?というのがずっと気になっていた。あれだけ、煙突から黒煙が上がり、川にも人骨灰が流れてきている環境で、全く臭いがしなかったとは考えにくい。

 けれど、臭いって一番慣れやすいのかも知れないと思い当たった。中学生の時にアメリカにホームスティしたのだが、ホストファミリーが農家で、飼っている牛を州の大きな品評会に出すとかで、その会場横に設営されていためちゃくちゃ大きな厩舎に牛と寝泊まりしたことがある。で、その厩舎に入った瞬間は、鼻がもげそうなくらい臭いが酷いと感じるのだが、30分もすると気にならなくなり、何かの用事で厩舎を出て戻ってくると、再度、臭いの酷さを実感したのだった。その時に、臭いってすぐに慣れてしまうのだな、、、何となく怖いな、、、とぼんやり思った。それを思い出して、ヘス一家も、臭いに慣れているのかも知れない、、、、私が子供心に「怖い」と感じたのは、こういうことだったのではないか、、、と思い当たり、ゾッとなった。

 とにかく、ヘートヴィヒにとっての無関心領域である「関心領域」を直截的に描かないことで、その存在感を圧倒的に描写するという、これまでにないホロコースト映画である。


◆“関心領域”で満たされていることに感謝しろ!

 本作が公開される2週間前の、某全国紙に、「世界の理不尽に我慢できない」というタイトルで50代男性の人生相談が載っていた。今、世界で起きているあれこれについて縷々述べた後「こうした報道に接するたび、激しい憎悪を覚えるとともに、その後にもたらされる世界の大混乱を思うと、絶望的な気分になり、夜も眠れません」と書いてあって、「今後、ますますひどい状況になることが想定される中、どのように気持ちを保っていけばよいか、アドバイスいただ」きたいという〆であった。

 この回答者が野沢直子(敬称略)で、これはその後プチ炎上したのでご存じの方も多いだろうが、正直言って、私は野沢の回答を読んで不快感を覚えた。まあ、相談者の文面もちょっと仰々しい感はあるものの、現状に憂えている人間は少なくないはずだ。

 で、野沢の回答である。回答のタイトルは「自分の目で確かめたらどうでしょう」で、出だしから「このお悩みを読んで、まず最初に思ったことは、そんなに心配なさっているのなら実際に戦場に出向いて最前線で戦ってくればいいのにな、ということです。」といきなりのカウンター。トランプ前大統領はそんなに酷い大統領じゃなかった云々が述べられた後「あなたがそこまで心配しているなら、その地に行って自分の目で確かめてくるべきだと思います。/おそらく、あなたは今、とても幸せなのだと思います。/人間とはないものねだりな生き物で、あまり幸せだと『心配の種』が欲しくなってくるのだと思います。失礼ですが、それなのではないでしょうか?」と、ホントに失礼なことを書き連ね、トドメは「世の中が酷くなるかどうかは誰にもわかりません。そんなことを嘆く前に、今自分が幸せなことに感謝して自分の周りにいる人たちを大切にしましょう。/いつも寄るコンビニの店員さんに声をかける、近所の人に挨拶をする。そんな小さなことから連鎖して、世の中は明るくなっていくと思うし、そんなに捨てたもんでもないんじゃないでしょうか。」である。

 これ、まさに「関心領域」そのものなんである。もう、まんま過ぎて呆れるくらいに「関心領域」だけで生きてろ!と。

 そら、世界中のあらゆる悲劇全てには誰もコミット出来ませんよ。アタリマエだ。でも、見聞きすれば、不安になったり、哀しんだり、嘆いたりはする。その度合いは人によるだろうが、この相談者のように「夜も眠れ」ないほどに考える人もいるわけだ。それを「てめぇの生存圏だけ見て生きてろ!」ってのは、そもそも回答になっていない。

 私が不快になったのは、野沢の回答だけではない。これを載せた編集者の感度の鈍さに対して、不快というよりは、嫌悪感を覚えた。半径数十メートルのことだけに満足して感謝していれば良いって、それがどういう結果を招いたか、少なくとも歴史を学んだものなら知っているはずである。ましてや、新聞社の編集者なら、自身の役割に自覚的であって然るべきなのに、まさしく「関心領域」を地で行く紙面に唖然とさせられた。

 野沢はこうも書いている。「報道されていることと反対側の考えにある人たちがいることを、いちいち想像していただきたいと思います。/ニュースというのは起きている事柄の紹介だけで、その裏にある人々の声や本当の感情というものを100%伝えきれているとは思えません。」そして、「あなたがそこまで心配しているなら~」につながっている。

 野沢には、だったら、関心領域が広い人がいて、そういう人のことも「いちいち想像していただきたい」と言いたい。少なくともあなたの回答は、相談者の感情を「想像していない」としか思えない。

 そして、新聞社には「ニュースというのは起きている事柄の紹介だけで、その裏にある人々の声や本当の感情というものを100%伝えきれているとは思えません」などと書かれていることを少しは恥ずかしいと思え!と言いたい。喜んで載せている場合か。

 本作が公開される折も折、こんな迷回答が全国紙に堂々と掲載され、無関心領域を広げることに一役買っているのが皮肉である。

 

 

 

 

 

タイトルに「ナチス」とか付いていないのが良い。

 

 

 

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枯れ葉(2023年)

2024-01-08 | 【か】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv84126/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 北欧の街ヘルシンキ。アンサは理不尽な理由で仕事を失い、ホラッパは酒に溺れながらも、どうにか工事現場で働いている。

 ある夜、カラオケバーで出会った2人は、互いの名前も知らぬまま惹かれ合う。だが、不運な偶然と現実の過酷さが、彼らをささやかな幸福から遠ざける。

 果たして2人は、無事に再会を果たし、想いを通い合わせることができるのか……?

=====ここまで。


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 カウリスマキ好きな映画友がオススメしてくれたので、本年の映画初めで劇場まで行ってまいりました。昨年末にアンサを演じたアルマ・ポウスティのトークショーに映画友は行き、彼女の人柄に魅了され、すっかりお気に入り女優の一人になった様でした。


◆カウリスマキ映画

 カウリスマキ作品は、『過去のない男』と『浮き雲』しか見ておらず、『過去のない男』はほとんど記憶にない、、、という有様。でも、本作を見て、やはりカウリスマキ調を感じた。『浮き雲』と、テイストは同じである。あまり多くない説明とセリフ、登場人物たちがあまり笑わない……というか無表情なところとか。

 普通は、こんな作り方をしたら、素人が撮ったのかと思うような作品になりそうだが、これが映画として成立しているのがスゴいというべきか。

 ストーリーも、シナリオスクールの“出会い”とかの課題で書いたら思いっ切りダメ出しされそうなベタな展開である。でも、映画になると、ベタがベタでなくなっているのが、やっぱりスゴいのか。

 本作は、「労働者3部作『パラダイスの夕暮れ』『真夜中の虹』『マッチ工場の少女』に連なる新たな物語」だそうだが、『浮き雲』を見たときも感じたけど、どこか、ローチ作品と通じるものがある。世の中の片隅でつつましく厳しい現実に晒されながら生きている人々にスポットを当てている点が。でも、本作も『浮き雲』も、ローチ作品のような“怒り”は全く感じない。どこか、達観した語り口である。

 こんだけスマホが普及した世の中で、最早“すれ違い”はドラマにならん、、、などと言われて久しいが、本作内では堂々と電話番号がすれ違いの鍵として使われているのが、ある意味斬新だ。で、ホラッパは、一緒に映画を見た映画館前でなら彼女に会えるかも、、、と煙草をスパスパ吸いながらアンサを待ち続けるのだが、諦めて帰ってしまう。一足違いで映画館前に来たアンサは、そこに打ち捨てられている煙草の吸殻の山を見て、ホラッパが自分を待っていたのではないか、、、と感じる…………って、どんだけ古風な男女のすれ違い描写やねん。

 でも、それもあまり古めかしく感じないのが不思議。流れて来るラジオニュースはロシアのウクライナ侵攻をひっきりなしに伝えているものの、どことなく風景や小物などから、一昔前の時代を感じさせるからかも知れない。

 社会から打ち捨てられそうになりながらもどうにか生きている男と女が、互いに出会いを拾い直して、ひっそり寄り添って行くのだろうと思わせるラストシーンだった。


◆その他もろもろ

 アンサを演じるアルマ・ポウスティは、『TOVE/トーベ』で主人公のトーベ・ヤンソンを演じていたお方。作品としても役柄としても、『TOVE/トーベ』より好きだなぁ。

 途中、ホラッパと2人で映画館で映画を見るシーンがあって、その映画が、ジャームッシュの『デッド・ドント・ダイ』なんだそうだが、私は未見なので分からなかった。カウリスマキとジャームッシュは親しい、、、というか盟友なのだとか。ただ、明らかにゾンビ映画であるのは分かるので、映画館から出る際に、他の客が「ブレッソンの『田舎司祭の日記』に似ている」とか言っているのは何となく可笑しかった。

 この映画館の前には、いろんな映画のポスターが貼られているのだが、それが渋いというか。『若者のすべて』とか『気狂いピエロ』とか、BBと思しき美女の映っているポスターもあったような。古い映画も上映している映画館みたい。

 また、終盤で、保健所に連れて行かれそうな犬をアンサが引き取るんだけど、その犬の名前はチャップリンとか。ところどころに古い映画へのオマージュ?っぽいのもあった。

 ただまあ、ホラッパはアル中から脱したいと思ってはいるようだが、アル中もあそこまで行くと、なかなか意志で克服できるレベルじゃないと思うので、アンサとしてはちょっと大変かもね。彼女はしっかり者だから、きっちり克服させるかもだけど。

 監督引退宣言を撤回してまで撮った作品。パンフの監督インタビューを読むと、ここまでグダグダ書いて来た古典的とも言えるファクターのあれこれは、当然織り込み済みであり、その上で、敢えてラブストーリーを書いたのだということを言っている。そりゃまぁそうだろう。こんな映画、カウリスマキでなければ映画として成り立たないはずだから。

 ラストシーンがね、、、イイです。実にさりげなくて。

 

 

 

 


ワンコが可愛かった(カウリスマキのワンちゃんらしい)

 

 

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帰れない山(2022年)

2023-06-12 | 【か】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv80483/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。
 
 都会育ちで繊細な少年ピエトロは、山を愛する両親と休暇を過ごしていた山麓の小さな村で、同い年で牛飼いをする、野性味たっぷりのブルーノに出会う。まるで対照的な二人だったが、大自然の中を駆け回り、濃密な時間を過ごし、たちまち親交を深めてゆく。

 やがて思春期のピエトロは父親に反抗し、家族や山からも距離を置いてしまう。

 時は流れ、父の悲報を受け、村に戻ったピエトロ(ルカ・マリネッリ)は、ブルーノ(アレッサンドロ・ボルギ)と再会を果たした。

=====ここまで。


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 大分前にチラシを目にしたときから見たいと思っていた本作。なかなか上映時間と都合が合わずに、これはこのまま終映か、、、と諦めかけていたところに、たまたま運良く都合がつきましてようやくスクリーンで見ることができました。

 ……と思って見に行ったら、いきなり、あり~?と。だって、スタンダードサイズなんだもの。雄大な山の風景をワイドスクリーンで見られるのだとばかり思っていたので、、、。でもでも、そんなのは始まって数分もしないうちにどーでもよくなりました。それくらい、映像美と音楽、ストーリー、何より主演2人の素晴らしさに引き込まれたからです。


◆人生いろいろ、男もいろいろ。

 少年時代のピエトロとブルーノの交流が、汚れ切ったおばさん(私)の心を浄化してくれる。2人が互いに距離を測りつつ、少しずつ、、、いや、あっという間に親しくなる様が見ていて微笑ましい。

 ピエトロのお父さんと、少年2人の登山シーンがなかなかスリリング。クレバス(?)を越えるシーン。お父さんとブルーノは何とか飛び移るんだが、それもまあまあ怖いんだけど、ピエトロが高山病で息苦しくなって「ダメだ、、、」ってなる直前に頑張って飛び移ろうとするところなど、もう怖くて手に汗握ってしまった。私がお父さんだったら怖ろしくて「頑張って飛べ!」なんてとても言えないなぁ、、、などと思いながら見てたので、お父さんがピエトロに「大丈夫か?」と言って、ちゃんと引き返してくれたときは、ホッと胸を撫で下ろしました。

 これ見ていて、「プロヴァンス物語」をちょっと思い出していた。都会っ子マルセルが夏にやってくる山で少年リリと出会って、友情を育むお話。2人には哀しい未来が待っていて、映画ではそれはサラリと最後にナレーションで流れるだけだが、少年時代のキラキラとのあまりのコントラストに衝撃的で、鑑賞後感はかなり重かった。マルセルとリリを引き裂いたのは、その後の戦争なので、余計に辛い。

 一方、本作は、そういう不可抗力的な惨事には見舞われることはなく、成長過程で交流に中断はあるものの、再会後にすぐ友情は戻る。その、久しぶりの再会も何とも呆気なくて、それがまた良い。久しぶりだね、、、という感じでハグするだけ。

 チラシのスチール画像にもあった、2人が山で家を建て直すシーンはただただ作業している場面を見ているだけで楽しい。ブルーノが巧みに柱や梁を組んでいく様は見もの。

 その建て直した山小屋で、青年になった2人のそれからの物語が紡がれていく。ピエトロが人生に迷っているときに、ブルーノは山で生きる一択で迷いがないのだが、歳を重ねるにつれて、立場が逆になって行く。ブルーノはむしろ、一択だからこそ迷いがないようで、迷うのだ。それは、伴侶を得て、子供を持ち、自分一人の人生ではなくなったからだろう。そんなブルーノを見ていて、結局、伴侶は子どもと共に去って行く。

 一人になったブルーノは、やはり山に生きる一択の人に戻るが、それは伴侶を得る前の一人だったブルーノとは明らかに違っていて、それを定期的に会って目の当たりにするピエトロの気持ちが、直截的には語られないけれど、山と小屋の風景が雄弁に物語る。


◆幸せ~って何だっけ?

 最終的には、2人には哀しい結末が待っているのだが、「プロヴァンス物語」とは違って、鑑賞後感は悪くない。

 途中、ネパールから帰ったピエトロが「鳥葬」の話をするシーンがあって、それを聞いたブルーノの妻は嫌悪感を示すのだが、ブルーノは「それは理想的な埋葬だ」(セリフ正確じゃありません)と言う。そして、ブルーノの最期は、まさに「鳥葬」を連想させる描写で終わっているのである。

 ブルーノは、実の父親とは不仲だったし、妻子とも離れ離れになってしまったけれども、ピエトロの父親とは実の親子のように親しく交流していたし、ピエトロとも長く友情を保って、山にこだわった生涯を全うして理想的な最期を迎えた、、、と思えば、かなり幸せな人生だったと言っても良いのでは。

 ピエトロも、なんだかんだとあったけれども、好きなことをしながら才能を開花させることができたわけで、こちらもおおむね幸せだと言って良いだろう。

 だからおそらく「プロヴァンス物語」を見終わった後の悲壮感はないのだと思う。どんな人間関係にも必ず終わりは訪れるのであり、ピエトロとブルーノにもそれが訪れただけだ。ただ、少し早かったということ。

 こういう映画を良いと思うのは、やはり私が歳を重ねたからだろうなぁ、と思う。若い頃見たら、途中で爆睡していたかも、、、。いや、2人のイイ男を見ているだけで、バッチリ覚醒していたかもだけど。

 ルカ・マリネッリとアレッサンドロ・ボルギは、当初、互いに逆の配役の方が良いと思ったとか。でもまあ、これは作品となって見たからそう思うのかもだけど、やはり、ブルーノはボルギの方が合っていると思ったなぁ。パンフを読むと、ボルギ自身は「自分は誰とでもすぐ親しくなっちゃうから、ブルーノとは全然違うヨ」みたいなことを言っているのが面白い。
 
 このパンフが実にオシャレな作りだったので、画像載せちゃいます。表紙をめくると、あらお手紙? 入っていたのは……!!

 

 

 

 

 

 

モンテ・ローザ(居酒屋じゃないよ!)の美しさよ、、、!!!

 

 

 

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カサンドラ・クロス(1976年)

2022-10-16 | 【か】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv11531/


以下、WOWOWよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 テロリスト3人がジュネーブのIHO(国際保健機構)にある、米国の秘密生物研究セクションを爆破しようとするが失敗。

 危険な細菌に感染したテロリストのひとりが大陸横断列車に乗り、CIAのマッケンジーは列車に乗車していた著名な医師チェンバレンと連絡を取って、感染者を治療させる。

 だが、マッケンジーは細菌の秘密を葬るため、30年近く使用されていない“カサンドラ・クロス”と呼ばれる鉄橋に列車を誘導する策を取る。

=====ここまで。

 
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 なぜリストに入れたのか記憶にないDVDがTSUTAYAから送られて来ました。恐らく、コロナがらみで何かでオススメされていたのを見て、ポチッたものと推察されます。タイトルは有名ですが、今までほぼ興味の範疇外にあったので、、、。


◆感染症・閉じ込めパニック映画

 コロナも3年目が過ぎようとしているにもかかわらず、なかなか収束の兆しが見えない中で、各国は対策をどんどん緩和させており、我が国も同調している。アベもスガも後手後手で酷いもんだったが、岸田は、後手ですらなく、放置プレーで一貫している。何もしないもここまでくると、根性あるな、感心するわ。おまけに、遊んでて感染とか、総理大臣とは思えぬ所業にも唖然。相変わらずPCR検査体制は整っておらず、そのくせ岸田を始め与党の政治屋は症状が出ると即PCR検査を受けている。最早、棄民だろ、これ。

 ……という愚痴は、もう言い疲れたが、見たくなくてもネットを見ていると岸田の顔画像が目に入ってきてしまい、不快極まりない。アベスガよりマシかと思っていたが、勝るとも劣らぬ無能っぷりで、これが我が国のレベルを象徴しているのかと思うと絶望感しかない。これからを生きていかねばならない子供や若い人々が気の毒でさえある。どこまで落ちるのか、この国は。

 落ちるつながりで、この映画も、落ちるんですよ、ラストで。こっちは、文字通り「落下する」んだけど、列車が。

 これがハリウッドだったら、ギリギリのところで列車が落ちそうになって止まる、、、、ってパターンだと思うが、ヨーロッパは容赦しない。余部鉄橋にも劣らぬ高さと赴きある鉄橋は、列車が通った衝撃でもろくも崩れる。列車もおもちゃみたいにガラガラと落ちていく。車内の悲惨な状況は、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図。

 何でそんなことになっちゃうかといえば、車内にばら撒かれた細菌の情報を封じ込めるため。飽くまで感染拡大防止目的の“細菌の封じ込め”という名目でCIAは指令を出すが、実際は全員抹殺による“情報の封じ込め”なんである。まあ、これくらいは今のロシアならホントにやりそうである。

 でも、全車両が落ちないってのがミソ。主人公たちのいる車両は、ギリギリ手前でセーフ!! そこへ至るまで、あれやこれやと必死で動き回る人々を描く、パニックもの。まあ、パニックぶりだけでなく、乗客たちの人間ドラマも盛り込まれて単調にはなっておらず、見ていて飽きないのは良い。

 マッケンジーは無事に作戦が成功したと思い込んで、指令室を後にするが、どっこい、生存者が多くいる、、、というラストの波乱を予感させる終わり方も味があって良い。

 無残に落ちるのは前方の1等車両であるとか、車両の窓を外から覆ってしまいさながら貨物列車の様相でポーランドのカサンドラ・クロスへ向かうとか、乗客の一人がホロコーストの生還者とか、色々とメタファーが散りばめられてもいるが、あんましそういう要素は見ていてピンとは来なかった。


◆豪華キャストと感染症の行方

 ……というわけで、映画としては悪くないと思うが、ツッコミどころは満載。

 いっぱいあり過ぎるのでいちいち書くのはやめておくが、私が一番ツッコミたいのは、主人公の2人、医師チェンバレン(リチャード・ハリス)とその妻ジェニファー(ソフィア・ローレン)が、さんざん感染者と濃厚接触しまくっておきながら、感染しない、、、ってこと。もう、笑っちゃうくらいに2人は元気。感染対策も何もしていないで、いくら何でも不自然過ぎる。ほかの感染者は、ほんの少し接触しただけであっさり感染しているってのに。

 まあでも、1つの車両を感染者専用車両にしたり、透明シートで患者ごとに仕切りを作ったり、防護服を着た作業員たちがゾロゾロいたりする光景は、2020年2月のダイヤモンド・プリンセス号での状況を彷彿させるものであり、50年近く前にこの映像が撮られていたのかと思うといささか不気味ではあった。感染対策なんて、50年前から基本的には大して進歩していない、、、というより、それしかない、ってことなのかも知れない。

 とにかく、出演陣が豪華。

 上記お2人のほか、CIAのマッケンジー大佐はバート・ランカスター、IHOの医師にイングリッド・チューリン、列車の乗客には、エヴァ・ガードナー、マーティン・シーン、リー・ストラスバーグ、ちょこっとアリダ・ヴァリ、O・J・シンプソンも出ている。

 エヴァ・ガードナーが、最初分からなかった、、、。これは、割と晩年に近い出演作なのね。若いマーティン・シーンと恋人同士、、、というか、パトロンと若い燕、、、だったが、なかなか2人ともハマっていた。マーティン・シーン演ずる若き登山家の最期があんまりにも酷すぎて、ちょっと同情してしまった。

 で、感染症はどうなったかと言いますと、、、コロナと違って、わりかしアッサリ皆さん回復する。このあたりが、若干拍子抜けという感じもあるけれど、メインテーマは、“列車が橋から落ちるか落ちないか”なので、ま、良いんでしょう。

 列車を落としたって、生存者がいなくたって、事故処理に当たる人間が感染するかもしれないんだから、このCIAの作戦は杜撰極まりない、、、のだが、言うのは野暮ですね。

 

 

 

 

 

 

 

コロナもアッサリ収まって欲しい。

 

 

 

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帰らない日曜日(2021年)

2022-06-09 | 【か】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv76124/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1924年、初夏のように暖かな3月の日曜日。その日は、イギリス中のメイドが年に一度の里帰りを許される〈母の日〉。けれどニヴン家で働く孤児院育ちのジェーンに帰る家はなかった。

 そんな彼女のもとへ、秘密の関係を続ける近隣のシェリンガム家の跡継ぎであるポールから、「11時に正面玄関へ」という誘いが舞い込む。幼馴染のエマとの結婚を控えるポールは、前祝いの昼食会への遅刻を決め込み、邸の寝室でジェーンと愛し合う。

 やがてポールは昼食会へと向かい、ジェーンは一人、広大な無人の邸を一糸まとわぬ姿で探索する。だが、ニヴン家に戻ったジェーンを、思わぬ知らせが待っていた。

 今、小説家になったジェーンは振り返る。彼女の人生を永遠に変えた1日のことを──。

=====ここまで。

 グレアム・スウィフトの小説「マザリング・サンデー」の映画化。

 
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 原作未読。某紙の映画評が褒めていたので、コリン・ファースも出ていることだし、イギリスの階級モノは面白そうだし、、、と期待値高めで見に行ってまいりました。……が、これはかなりの期待ハズレでござんした。

 以下、本作がお好きな方はお読みにならない方が良いかもです。ネタバレもしておりますので、よろしくお願いします。
 

◆ラブストーリーか?これ、、、

 名家の子息を演じているのは、ジョシュ・オコナーくん。2年前にNHKでオンエアしていたドラマ「レ・ミゼラブル」ではマリウスを、『ゴッズ・オウン・カントリー』(2017)では一転、寂れた牧場の青年ジョニーを体当たりで演じていた。

 そのときも思ったけど、マリウスよりジョニーの方が全然彼には合っていたのよね、雰囲気とか。なので、ポールは良家のお坊ちゃんという設定なんだが、あんましそういう風に見えなかった、私の目には。ネット上では、ピッタリ!と感想を書いている人もいたので、これは好みの問題ですな。

 で、ジェーンとポールが身分違いの恋に落ちたいきさつが、出会った瞬間しか描かれておらずに全く分からない。気付いたら2人は素っ裸でベッドにいるんだもんね。まあいいけどさ。

 本作の予告編を見ても、キャッチコピーを見ても、“身分違いの恋”がメインストーリーかと思うじゃない? でも、違ったのだよ。これは、出自の分からない孤独な女性ジェーンが、階級社会のイギリスでいかに自立して生きていくこととなったか、、、という、女の駆け足一代記なのでした。……ごーん。

 それならそうと、それを匂わせるプロモーションをすれば良いのに、、、と思うけど、“フェミ映画”の烙印を押されるのを恐れたか。フェミ映画じゃ、観客動員は望めないもんねぇ。一応分かりますよ、配給会社の気持ちも。実際、フェミ映画ってわけでもないしね。

~~以下、ネタバレです~~

 HPの惹句にもある「人生が一変した日曜日」だけど、これは、この日曜日にポールとさんざんセックスし、その後、ポールが事故死しちゃった日、ということ。

 でも。ポールが生きていたらジェーンの人生はどうなっていたというのか。身分違いの恋が成就することなどあり得ないのだから、せいぜい妊娠するか、お払い箱にされるかだが、ジェーンはまあまあ賢い女性なので、そういう自分の先行きを早めに見通して、いずれにせよ自立の道を選んだのではないか、と思う。

 ……とすると、別に、ポールの死んだ日は、彼女の人生を一変させた日、というほどのことでもないのではないか。と思ったのだった。自立の日が早く来ただけ、、、と。

 好きな人、大切な人を突然失うことなど、人生において珍しいことではない。もちろん、それは悲劇的なことであり、受け入れがたいことには違いない。けれども、遺された者の人生に、第三者が勝手に何らかの意味付けをするのは違うだろう、とも思うのだ。遺された者がその事実をどう自分の人生に意味付けるかは、その者自身にしかできないはず。

 本作内でのジェーンは、哀しみと向き合い、人生の流れに逆らわずに生きているように描かれていた。だから、この惹句は、日本で勝手につけられたものではないか?と思ったが、英語版公式サイトにも“But events that neither can foresee will change the course of Jane’s life forever.”と紹介文にあるので、やっぱりそういうことなのかねぇ、、、。ま、いっか、別に。こだわるほどのことでもありませんね。


◆その他もろもろ

 ジェーンを演じたオデッサ・ヤングは脱ぎっぷりが良いのはあっぱれなのだが、一糸まとわぬ姿でポールの屋敷内を巡るシーンが結構長々と続き、見ていて、「寒いんじゃないの?」とか「でもこれ、スタッフが大勢いるところで撮ってるんだよね」とか、いらんことを考えてしまった。その姿のままモノを食べるシーンもあり、うぅむ、裸でモノを食べるってのは私的にはあり得ないので、かなり驚いた。これも文化の違いかしらん。

 それはともかく、主役で演技も良かったけど、脇を固めるオリヴィア・コールマンの存在感に圧倒されていた感じだ。コールマンの出演時間は短いけれど、インパクト大。「あなたは生まれたときから孤独。それがあなたの強みなのよ」(セリフ正確じゃありません)と、息子を第一次大戦で亡くした母親として、ジェーンがポールを失って悲しみに暮れているとは知らずに(ポールとジェーンの恋は秘密だったので)言葉を掛けるシーンが、本作での白眉でしょう。

 もし、ジェーンの人生を変えた一日、と敢えて言うのなら、コールマン演ずるニヴン夫人にこの言葉を掛けられたことではないか、と思う。ポールを亡くしたことよりも、私はこのシーンの方がジェーンにとっては重要だったと感じた次第。

 コリン・ファースは良いご主人様役。ジェーンが暇乞いしたときも、穏やかにそれを受け入れる。妻のニヴン夫人のエキセントリックさに疲れているけど、突き放しもしない。諦めているのかな、、、。

 途中で死んでしまうので出番は少なめだったジョシュ・オコナーくんは、有望株なのでしょうか。私的にはあまりピンと来ないけど、演技は良かったと思う。全裸で一物がモザイクなしで丸出しのシーンがあって、そこから服を着ていくんだが、上半身から着ていくのよね。いつまでたっても、あそこは出しっ放し、、、。一応、演出の意図はあるんだろうけど、私には分からなかったわ。早くパンツ履いてくれ!!と思っていた。

 ジェーンが裸で歩き回る屋敷の図書室が素敵だった。東洋文庫の図書室みたい、、、。

 

 

 

 

 

 


ザ・雰囲気映画。

 

 

 

 

 

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哀しみのトリスターナ(1970年)

2021-01-28 | 【か】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv12129/

 

以下、wikiよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 16歳で親を失ったトリスターナ(カトリーヌ・ドヌーヴ)は、老貴族のドン・ロペ(フェルナンド・レイ)の養女となる。若いトリスターナを、娘ではなく女としてみるようになるドン・ロペ。二人は事実上の夫婦となる。

 最初はドン・ロペの言うことを何でも聞いていたトリスターナだが、次第に自我に目覚めはじめる、そんなある日、トリスターナは若い画家オラーシオ(フランコ・ネロ)と出会い、恋に落ちる。

=====ここまで。

 ドヌーヴさま、27歳のときの作品です、、、。監督はブニュエル。3年前の『昼顔』と同じ顔合わせ。


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 フランス映画の古いのは苦手といいつつ、ブニュエル作品は何となく見ようかな、、、と思ってしまう。独特のヘンな感覚をまた味わってみたいと思う、不思議な監督だ……。


◆トリスターナの人生

 期待に違わぬヘンな映画ではあるが、でもまあ、これまで見たブニュエル作品の中ではかなりマトモな映画ではないかと思う。だって、一応ストーリーがあるもんね。

 ブニュエルの脚フェチぶりは本作でも健在。何しろ、トリスターナは脚の病気が原因で、脚を片方切断してしまうのだから。そして、その後、義足を付けたり外したりするシーンがあり、ときには、特に意味もなく外された義足が放置されているショットが映されているあたり、そこまで脚にこだわる理由は何ですか?? とブニュエルさんに聞きたくなるわ。

 おまけに、本作で義理とはいえ、娘を我が物にしてしまう狒々爺ィを演じているフェルナンド・レイは、『ビリディアナ』(1961)でも、若く美しい姪のビリディアナを薬で眠らせて犯そうとする伯父の役だった。またかよ、、、とフェルナンド・レイ氏はこの役をもらったときに思ったんじゃないかなぁ?

 『ビリディアナ』では、姪を犯すことをためらった伯父は自ら首を吊って死を選んだが、本作のドン・ロペは、厚顔無恥を地で行く狒々爺ィぶりで、見ていてキモいし腹が立って仕方がなかった。遺産を食い潰すだけで自らは何も産み出さず、エラそうに能書きを垂れながら、義理の娘を欲望の捌け口にしているという、文字通りのクソ爺ィ。

 しかし、この映画での面白さは、むしろ、トリスターナが片脚を失ってから、ドン・ロペとの力関係が逆転するところにある。この逆転ぶりが見事で、かつ鮮やかなんだが、それで見ている者が溜飲を下げることはなく、当然、カタルシスもない。なぜなら、トリスターナが本当に失ったのは、人を愛する心だから。タイトルどおり“哀しい”。

 終盤、トリスターナが、死にそうなドン・ロペを見捨てて、医者に電話をかけた振りだけするシーンを見て、『女相続人』(1949)を思い出していた。どちらも、尊厳を踏みにじられた女性の哀しい人生が描かれており、ラストは自ら孤独を選ぶ。それも、決然とね、、、。

 これを、トリスターナのドン・ロペに対する復讐と捉えるか、それとも、尊厳を取り戻すための選択と捉えるか。私は後者と感じたのだけど、それは、これまでのトリスターナの人生が急速巻き戻しのように映るラストで確信した。一瞬、ブニュエルらしからぬノスタルジーかと勘違いしそうになったけど、あれは、彼女の人生はこれしかなかったんだ、ということなんじゃないか。自分が非力だった一時期はドン・ロペの支配下に甘んじたけれど、その後、オラーシオと駆け落ちしたのも、駆け落ちからドン・ロペの下に戻ってきたのも、全ては彼女の意思で、ドン・ロペはあっけなく支配されることになった。トリスターナの人生に“もしもあのとき……”はないのだ。

 そういう意味では、こないだ見た『ラ・ラ・ランド』とは対照的。本作は“尊厳ある生き様”という人間の本質的な問いに切り込んでいると思う。


◆男の下半身問題。

 みんシネで本作の感想を読んだけど、『女相続人』でもあった「女は怖い」という文言が、本作でも書かれていた。

 書いている人は漏れなく男なんだが、この映画を見た結論が、「女」は「怖い」と感じる人って、単純に男の下半身の衝動に甘いだけでしょ。トリスターナがああなった理由を遡れば、ドン・ロペがあんなことを彼女にしたからなわけで。そこは棚上げで、トリスターナがドン・ロペを見捨てたとこだけを切り取って「怖い」だもんね……。中には、ドン・ロペの行為を「愛ゆえ」などと信じて疑っていない人もいて、そらそーゆー見方をする人にしてみりゃ、トリスターナは怖いでしょーよ、、、。

 そういう感想を抱く人たちには、あれが男女逆でも同じこと言えるの?って聞きたい。醜い老女が美少年を慰み者にし、美少年が長じた後、見殺しにされたとしたら? 老女の行為を「愛ゆえ」なんだから可哀想、、、と思うかしらね?

 男だと愛になり、女だと好色になる、、、これいかに。

 大体、「女は怖い」って言うけど、男も十分怖いですよ。一体どれだけの女性が男の性欲の犠牲になっているのか。腕力・体力では、大抵の場合、女性は男性には敵わない。女性が夜遅く一人歩きしていて、どれだけ周囲に用心しながら歩いていると思っているのか。それで、性被害に遭えば「そんな時間に無防備に一人で歩いているのが悪い」と被害者が責められるのだからね。安易に「女は怖い」などと寝言を言っている暇があったら、男の下半身をコントロールする教育をしろ、って話。

 自活できないトリスターナに、養う側のドン・ロペが関係を迫れば、16歳で世間知らずのトリスターナは訳も分からず応じてしまう、この構図は、セクハラ、、、いや、性的虐待そのもの。このドン・ロペの行為が弁護される余地など1ミリもない。時代が違うなどは理由にならん、卑劣そのもの。

 あの歳までお気楽にやりたい放題生きられたんだから、ドン・ロペは十分幸せな人生だったでしょ。どこが可哀想なんだか(呆)。


◆その他もろもろ

 ドヌーヴさまは相変わらずの美貌なんだけど、さすがに16歳には見えない、、、。髪型とかで頑張っているけど、ちょっとなぁ。あと、痩せすぎかも。……でも、中盤からはその美貌が説得力を持ってくる。

 本作は、セリフが上からスペイン語で音声が被せてあるらしく、トリスターナのセリフはドヌーヴさまの肉声ではないみたい。確かに、ちょっと、ドヌーヴの声より甲高い感じがしたような、、、。

 あと、ところどころで、大きな鐘楼の鐘に代わってドン・ロペの首がゆらゆらと揺れているシーンが挟まれるのだが、あれがかなり気味が悪い。トリスターナの深層心理的なものだと思うが、つまり、若い頃から彼女はドン・ロペのことを嫌悪していたのだ。

 オラーシオを演じていたフランコ・ネロはちょい出だったけど、やはりオーラを放っていた。渋いイイ男。

 教会とか、結婚とか、、、一応、宗教関係の描写もあるけれど、ブニュエルにしては珍しくその色合いは薄い。だから、逆に私にとっては見やすかった。

 

 

 

 

 


『昼顔』より本作の方がグッとくる。
 

 

 


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彼女がその名を知らない鳥たち(2017年)

2020-08-19 | 【か】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv62444/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 十和子は8年前に別れた男・黒崎が忘れられないが、いまは15歳上の男・陣治と暮らしている。ある日、黒崎の面影を思い起こさせる妻子ある男・水島と出会い、深い関係に。

 そんなある日、十和子は黒崎が行方不明になっている事を知り、執拗に自分をつけ回してくる陣治が黒崎の失踪に関わっているのではないかと考えるようになる。

=====ここまで。


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 沼田まほかるの原作は大分前に読んでおり、映画化されたときに、主演が蒼井優と阿部サダヲと聞いて、うぅむ、、、ちょっと違うかも、と思ったので、原作はそこそこ面白いかなぁ、、、と思っていたけれど劇場まで行く気になれなかったのでした。でも一応気にはなっていたのかレンタルリストに入れていたらしく、この度送られてきたので、見てみました。


◆キャスティングにイチャモン。

 調べたら、何だかいっぱいいろんな賞を獲っている映画みたいなんだが、そっかーーー、これがそうなのかーーー、と邦画界に軽く失望する(以前から度々失望してはいるが)。まぁ、でも、確かに邦画の中ではなかなか見られる映画かも。

 原作を読んだのがかなり前なので、詳細はほぼ忘れたんだが、男の名前が“ジンジ”ってのが、何だかなぁ、、、と思って印象に残っている。ボサノバの歌詞で、空耳アワーじゃないけど、♪ジンジ、、、ジンジ、、、と聞こえる曲があって(タイトルが思い出せない、調べる気力もない。でも割とメジャーな曲)、それと被ったというか。おまけに、小説の中でのジンジの描写は、阿部サダヲどころじゃない不潔・醜悪で、ボサノバの曲まで一時的に勝手にイメージダウンしてしまったくらい。

 阿部サダヲは、原作のジンジよりもかなり“陽”キャラだよね。原作は、もっと陰気な感じだったように記憶している(、、、けど、違ったかも。もう忘れかけているので)。これは私の単なる好みなので、阿部さんには申し訳ないけど、私はどうも彼の演技が苦手なのよ。昨年の大河ドラマでもそうだったけど、何の役にしても、やたらハイテンション(に見える)で。……まぁ、モテない中年男という感じはよく出ていたし、卑屈で粘着質ってのもよく出ていた。彼の場合、恐らくあの声質がハイテンションなイメージにつながっているかも。やや高めで細くて、よく通る。ちょっと大きい声出しただけで叫んでいるみたいに聞こえるんだよなぁ。

 蒼井優は、うぅむ、怠惰で頭の悪い女を“頑張って”演じているのが伝わってきてしまって、見ていてちょっと辛かった。……だから、頑張っていたとは思うし、悪くはないのだが、どうもこう、、、原作の十和子のような骨の髄まで腐ったオンナ、って感じじゃぁないな、と。もう少し崩れた感じの女優さんって、今いないんですかね。……まぁ、パッと思い浮かばないからいないのか。

 みんシネに、“一昔前なら十和子は桃井かおりか大竹しのぶ、ジンジは火野正平かな”みたいなことを書いている方がいて、笑ってしまった。大竹しのぶは首肯できないけど、桃井かおりと火野正平ってなかなか良いのでは。中村晃子と平田満でも良いかな。

 ……と書いてきて思い浮かんだんだが、それこそ、寺島しのぶとか。蒼井優よりハマる気がするゾ。火野正平に匹敵するだめんず俳優が思い浮かばない。原作のジンジからイメージするのは、阿部サダヲみたいに丸い感じじゃなくて、痩せ型の、、、強いて挙げれば、痩せた浅野忠信とかかなぁ。

 いやいや、何の話だ。そう、要は、キャスティングがちょっとな、という私の第六感は、当たっていた(そういう先入観で見てしまったんだろうが)。つまりは、原作から受けた印象よりも、かなりキレイなのよ。もっと薄汚れてどよよ~~んとした感じが欲しいのね、この話には。


◆自己愛、、、この厄介なるモノ。

 キャッチコピーに、共感度ゼロみたいなのがあった気がするが、確かに、出てくる人物の誰にも共感はできない。けれども、十和子とジンジみたいなカップルって(男女逆バージョンも含めて)結構いるんじゃないのかな~、というのが私の率直な感想。あ、人殺し要素は抜きでね。

 十和子は、まあまあ怠惰な人間なんだろうけど、働いていたこともあるわけで、頭が悪いのはどうしようもないとしても、怠惰の極みみたいな生活をしているのは、ジンジという存在があるからこそだろう。ネットでは、ジンジが死んじゃったら、十和子は第二のジンジを探すんじゃないのかと書いている人もいたが、それは違う気がする。第二の黒崎or水島を探すことはあっても、ジンジを敢えて探すことはないだろう。だって、十和子はメン喰いだからねぇ。ジンジには粘着されて、多分、本気でウザかったんだと思う。

 十和子は、毎度同じパターンで騙されているんだけど、好きになった男のことを疑いたくない、という気持ちは分かる。自分が好意を抱いた相手に好意を示されれば、それを素直に受け止めたいと思うのが人情でしょう。そこで、そうは言ってもちょっと、、、と、頭の片隅にいる冷静なもう一人の自分が囁くのが、まあ凡人なんだけれども、十和子みたいに振り切れちゃっている人間は、そんなことでイチイチ立ち止まらないのだ。

 ネット上では十和子のキャラはメンヘラだの何だの散々な言われようだが、そこまでヒドいとも思わない。ああいう、男に依存しないと生きていけない女って、小説やら映画でウンザリするほど描かれてきたことを思えば、現実にもかなりの数が居るんだろう。幸い、私は直接出くわしたことはないけれど。

 というか、ある意味、男の願望なんじゃないの? という気がする。本作の原作者は女性だけど、そういう女に破滅させられるっていう、男が書いた小説、一杯あるじゃん。訳分からん女に振り回されてみたいんでしょ、少なからぬ男たちは。で、逆に、顔とセックス(だけ)が良い男に振り回されたい女もいっぱいいるんだろう。そういう“振り回されたい人たち”のオハナシなのだ、これは。

 つまり、自己愛が異様に強い人たちの話なんだよね。自己愛のない人間はいないけど、強過ぎると悪いことの方が多いだろう。十和子は、黒崎や水島にのめり込んでいるようで、裏切られたと知った途端相手をメッタ刺しにするところを見ると、それは相手への愛ではなく、紛れもない自己愛の塊だろう。ジンジにしたってそう。十和子のために自己犠牲を厭わないかに見えるが、結局は、勝手に自己完結して自殺してしまう。死ぬ前に、「オレを産んでくれ!」などと気持ちの悪いことを十和子に言って、まさに過剰な自己愛の表れ以外の何ものでもないでしょ。黒崎や水島もそう。自分のことしか考えていない、自己愛厨。

 そら、共感度ゼロでしょ。でも、よーく考えてみれば、自分にも断片的には思い当たる節がある、、、と思うよ、みんな。私は違う! と自信を持って言う人は、自分と向き合っていないだけ、多分。そんなこと堂々と言う人は、むしろ胡散臭いと思っちゃうが。


◆官能シーンは女優の演技に負うところ大。

 本作は、大胆な(?)濡れ場シーンも話題だったようだが、申し訳ないけど、ゼンゼンだった。松坂桃李クンはまあまあ頑張っていたけれども。ああいうシーンで、胸を隠す演出ってのは、サイテーだね。事務所都合なんだろうが、だったら、こんな役受けるんじゃねーよ、と、私が監督なら言うわ。

 あと、やたら、キスシーンとかでピチャピチャ音を入れるのも気持ちワルイから止めて欲しい。そうすればリアリティが増すと思っているのかも知らんが、芸がなさ過ぎ。

 官能シーンって、リアリティよりも何よりも、見ている者に“感じ”させることが大事なわけで、それは俳優たちの演技に懸かっているのだよ。そして、その大部分が女性側の演技にあるんだよな、これが。もちろん、相手役の演技も大事なのは間違いないが。『ブラック・スワン』で、ナタポー演ずるバレエダンサーがヴァンサン・カッセル演ずる演出家に「お前、色気なさ過ぎ」と言われていたけど、そういうこと。

 性欲の塊みたいな男と女のセックスシーンだよ? お互いすっぽんぽんでヤりまくる(下品でスミマセン)のが、リアリティでしょーよ。……そういうところもキレイにまとめちゃってる感の要因の一つだね、多分。

 ……でもまぁ、あれで“すげぇエロい”とか大騒ぎしている人もネットを見たらいっぱいいたので、あれはあれで良いのでしょう。オバサンの愚痴でした、すみません。 

 


 
 

 

 

 


久しぶりに原作を再読してみようかな。

 



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彼らは生きていた(2018年)

2020-02-19 | 【か】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv70358/

 

以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1914年、人類史上初めての世界戦争である第一次世界大戦が開戦。8月、イギリスの各地では宣戦布告の知らせと共に募兵を呼びかけるポスターが多数掲出され、志願資格の規定は19歳から35歳だったが、19歳に満たない大半の若者たちも歳をごまかして自ら入隊。よく分からないまま志願した者も多く、国全体が異様な興奮状態に包まれていった。

 練兵場での6週間ほどの訓練を経て、西部戦線への派遣が通達された。

 船でフランス入りしたイギリス兵たちは西部戦線に向かって行軍。イギリス兵たちは塹壕で監視と穴掘りに分かれて交代しながら勤務する。遺体を横切りながら歩き、ひどい環境の中、つかの間の休息では笑い合う者たちもいた。
 菱形戦車も登場し、ついに突撃の日。彼らはドイツ軍の陣地へ前進する。そこへ、突然に射撃が始まり…。

=====ここまで。


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 同じく上記公式HPの「イントロダクション」の全文を以下コピペします。

「イギリス帝国戦争博物館に所蔵されていた第一次世界大戦中に西部戦線で撮影された未公開映像を元に、ピーター・ジャクソン監督がモノクロの映像をカラーリング。3D技術を応用してリアルさを追求した。大戦当時は音を録音する技術がなかったため、音声は主に退役軍人のインタビュー音源を使用。一部の兵士の話す声や効果音などは新たにキャストを用いて演出し、今まで見たことの無いほどの鮮やかで臨場感あふれる戦争場面を復元。

当時の兵士たちの戦闘シーンだけでなく、休息時や食事など日常の様子も盛り込まれており、死と隣り合わせの状況でも笑顔を見せる兵士の姿が非常に印象的。異なるスピードで撮影されていた古い映像を24フレームに統一。戦士した仲間を埋葬するシーンや戦車の突撃、爆撃の迫力、塹壕から飛び出す歩兵たちなどを、アカデミー賞スタッフの力を総動員して、100年以上前の映像とは思えないほど緊迫感にあふれる映画に仕上げた。これまで、遠い過去の話としてしか捉えていなかった第一次世界大戦の戦場を、身近に、生々しくスクリーンに蘇らせることに成功。これぞまさに映画の力といべき、画期的な傑作ドキュメンタリー!」

 つまり、昔の早回しのコマ送りみたいな映像を、違和感なく見られる自然な動きの映像に修正し、彩色し、効果音を入れ、ナレーションを付け、ってことをして、現代人が見てもリアリティを感じられる映像に仕上げている。

 第一次大戦時の映像なんて、モノクロで人間は皆チョコマカとした動きで、どうしたってそこには、“どこか異世界で起きていること”を見ている感じがあった。とても、身近に感じられるものではなかった。

 本作は、冒頭15分くらいはそういうモノクロ&チョコマカ映像が続き、突然、カラーになって動きも自然なものになる。その瞬間から、なにやら急にリアリティを感じて、異世界ではない、地続きな感じが迫ってくる。

 ネットの感想を拾い読みしたが、本作を「ドキュメンタリーというのはおかしい」「兵士たちを貶める行為だ」というようなことを書いている方がいた。映像は実際の映像を元ネタにしているとはいえ、ここまで加工したら、もうそれは創作だろうと。監督はピーター・ジャクソンなんだから、むしろフィクションにしちゃえば良かったのに、とまで書いている人もいる。

 ……まあ、それも一理あると思う。元ネタの映像には音は全く入っていなかったわけだから(同時録音技術はなかったから、らしい)、効果音もナレーションも後付けである。一応、口パクを読唇術でもって音声再現しているというが、そのシーンはあまり多くなかったように思う。ナレーションは、ゼンゼン別の機会に録音されたものだから、本来関係ない映像に合わせてナレーションとして使うこと自体、確かに創作になるだろうと思う。

 そういう意味では、本作をドキュメンタリーとすることに抵抗を覚える人がいるのも当然と言えば当然だ。

 でも、私は、本作が試みた一連の工程は決して貶める行為だとは思わないし、フィクションというのも違うだろうと思った。こうして、カラー映像になり、動きも自然な動きで見せられることで、それまでどこか異世界だった第一次大戦の塹壕戦が、ものすごくリアルに身近なものに感じ、えげつなさは今まで見たどんな映像よりも圧倒的だった。彩色や効果音によって、現実よりも誇張が起きていたかも知れないが、私にとっては、異世界の話でなくなったというだけでも意義深い。

 本作は、1月末から劇場公開されたが、それに先だって、ネット配信されていた。気にはなっていたけれど、ネット配信で映画を見たことがないのでスルー状態だったのだけど、劇場公開されたことで俄然見たいと思った次第。こういう映像は、やっぱりスクリーンで見た方が良いように思う。

 太平洋戦争でのガダルカナル戦などの米軍によるカラー映像は度々見る機会があって、あれも相当のおぞましさを感じたが、本作の場合、兵士たちの戦闘以外の時間の描写も多く、それによってより戦闘の場面はリアリティが増した気がする。米軍の映像もカラーでリアルだが、やっぱりあれもどこか別世界な感覚は拭えない。

 フィクションでは、もうさんざん悲惨極まりない塹壕戦描写は見てきているが、今回ほど何とも言えない気持ちになったことはないように思う。賛否あるとは思うが、私は本作の試みは良かったと思うし、今後、このように映像が修復&再構築される機会は増えても良いのではないかと思う。それによって、遙か遠くと思っていた出来事が自分と地続きで感じられることは、歴史や他文化を身近に引きつけて考えることに大いに助けになるはずだ。

 

 

 

 

 

原題は“They Shall Not Grow Old”。原題の意図が邦題では伝わらない気がする、、、。

 

 

 

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火宅の人(1986年)

2020-01-05 | 【か】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv17495/


 作家の桂一雄(緒形拳)は、妻ヨリ子(いしだあゆみ)と4人の子供があり、ようやく直木賞を受賞し、作家として足場を固めつつあったところで、若い女優志望の矢島恵子(原田美枝子)と出会い、“コトを起こした”。

 恵子と同棲生活を始めた一雄は、家に寄りつかなくなるが、恵子との生活にも疲れ、放浪の旅に出た先で、行きずりの女・葉子(松坂慶子)と関係を持つなどするが、結局、いずれも破綻し、家族の下へと戻るのであった。


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 今年の初レビュー。昨年末に見たのだけど、うだうだしていたら年を越してしまいました。


◆若い頃に見なくて良かった。

 この作品、公開当時に宣伝されていたのを何となく覚えているけど、モデルが檀一雄で、その女遍歴を描いた私小説を映画化したものだということは知っていたから、まだオコチャマだった私は“けっ、そんな恥知らずな話、よー書くわ、映画化なんてよーするわ、、、(軽蔑)”……みたいに思っていたのだった。檀ふみのことは結構好きだったから、“実の父親のあんな恥さらしな作品の映画に、何で出るのかね?”などとさえ思っていた。

 だから、当然、本作を見たのは今回が初めてで、原作の小説ももちろん未読。大分前に、沢木耕太郎が「檀」というノンフィクションを上梓したとき、当時は沢木のこと結構好きだったので、「何で彼が檀一雄のことを……?」と思ったけど、読もうとは思えなかった。その後、沢木のこともあんまし好きじゃなくなって、ますます彼の本を手に取る機会もなくなっていた。

 けれども、今回、本作を見て、原作も、沢木の「檀」も、読んでみようかという気になった。

 ……というのも、檀一雄、、、いえ、本作での桂一雄という男が、なんだか妙に人間臭くて愛嬌がある人だと感じたから。ここまで見事に愚かしさをさらけ出されると、却って好感を抱いてしまう。ヘンに取り繕うこともせず、まぁ、悪くいえば開き直っているとも言えるが、なんかそこまでの開けっぴろげさもない、ただただ、右往左往して成り行きに戸惑いながら、とりあえず今を何とか生きている“だけ”の醜態っぷりが突き抜けていて微笑ましい。実際、自分の夫があんなんだったら、微笑ましいどころの話じゃなく、殺意さえ湧くと思うが。

 実際はどうだったのかは分からないが、本作では一雄が恵子に走ったのは、二男の病気がかなり影響しているように見え、何となく一雄の心境も理解できないではない、、、という気がしてしまったのも事実。若い頃に見ていたら、全く違う感想を抱いたと思うが、これは歳を重ねて、モラルや正論では切り刻めないモノが人間にはあるということを身をもって知ったことが大きいのだろうなぁ。

 二男の後遺症で、ヨリ子さんが神頼みに走った心境も、また理解できる。何でもイイから拝みたい縋りたい、、、という気持ちになることが、人生には起き得る。夫の相手なんかしちゃいられない、とにかくこの子を何とかしたい、元通りにしたい、、、そういう母親の気持ち。私には子はいないが、想像は出来る。

 そんな妻と家に居場所を感じられなくなり、要は一雄は現実から逃避したんだわね。本作中で、恵子のことを「あれほど惚れ抜いた人」みたいに言っていたけど、実際惚れたに違いないだろうけど、逃避する場所(恵子)が都合良くすぐそこにあった、、、ってのが大きいんじゃないかなー、と感じた次第。実際、二男が亡くなると、恵子との関係も完全に終わる。そして、とぼとぼと、妻と子供の下へと帰っていくのだ、一雄は。それくらい、夫婦の間には、二男の病気というのが大きく横たわっていたのだと感じられた。

 みんシネでの本作の評価はかなり厳しくて、おおむね“底が浅い”という感想が主だったけれど、私は、そうは感じなかった。人間の営みなんて、あんな風に右往左往して、圧倒的な現実の前にただオロオロするしかなく、みっともないのが基本じゃないかしらね。それを“底が浅い”と感じるのは、多分、生きる意味とかを信じていることの裏返しなのだと思う。私は、生きることについての意味も意義も、とっくに放棄しているから、こういう愚かしい人間の有様をただ描いているだけみたいな作品が“底が浅い”とは思わない。


◆やはり緒形拳は名優。

 本作は、深作監督作品の中では“駄作”とも言われているらしいけど、深作映画をそんなにたくさん見ていないから何とも言えないが、決して駄作だとは感じなかった。

 何より、やっぱり緒形拳が素晴らしい。昭和のだめんずを見事に愛嬌ある男として演じていらっしゃる。ハッキリ言って笑っちゃうシーンが多々あり、そのほとんどが、一雄の愚かしさから来る行動に対して。何というか、基本的に憎めない男に描いているのだよねぇ。原作でもそうなのかしらね。

 一雄を取り巻く女性たちが豪華女優陣。原田美枝子も松坂慶子も美しく大胆な濡れ場シーンで眼福だが、私が一番印象に残ったのは、なんつっても、妻を演じたいしだあゆみ様。二男の回復祈願でヘンな宗教にはまって髪振り乱して拝んでいるのも鬼気迫るが、一雄を振り切って出ていくシーンなんか、思わず、ぷぷっ、と噴き出しそうになる。あんだけ「二度と戻りません」なんて啖呵切っておいて、戻ってきちゃったりとかも、なんか可愛い。そして、何だかんだ言っても、一雄のことはぜ~んぶお見通し、、、という不敵な笑みも怖い。

 警察で、恵子とヨリ子が鉢合わせになるシーンが面白い。恵子のおでこを、ヨリ子がペシッと叩くんだけど、それが「何よ、この女!!」という感じじゃなく、「めっ!!」という感じで、思わず笑ってしまった。それを横で見ている一雄の間抜けっぷり。警察官役の蟹江敬三もイイ味出している。

 恵子と一雄の壮絶な喧嘩シーンは、深作監督らしいバイオレンス調で、見応え有り。中原中也の真田広之は、ちょっと違和感有りだが、太宰と喧嘩した後で突然「汚れちまった悲しみにぃ~」とか大声で喚きだすのは、正直言ってドン引きというか、小っ恥ずかしいというか、、、いたたまれなくなってしまった。岡田裕介の太宰はまぁまぁ感じ出ていたかな。

 檀一雄の作品、一つも読んだことないので、ちょっと読んでみようと思います。ついでに沢木の「檀」も。

 

 

 

 

 


その後の檀家は、、、

 

 

 

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家族を想うとき(2019年)

2019-12-30 | 【か】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv68035/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 イギリス・ニューカッスルに住むリッキー(クリス・ヒッチェン)とアビー(デビー・ハニーウッド)夫妻の一家。

 マイホーム購入の夢を叶えるためにリッキーはフランチャイズの宅配ドライバーとして独立し、アビーはパートタイムで介護福祉士の仕事をしている。個人事業主とは名ばかりで、理不尽なシステムによる過酷な労働条件に振り回されながらも働き続けるリッキー。

 一方アビーも時間外まで一日中働いている。家族のために身を粉にして働くリッキーを、アビーや子供たちは少しでも支えようとし、互いを思いやり懸命に生きる家族4人。しかし仕事により家族との時間が奪われていき、高校生の長男セブ(リス・ストーン)と小学生の娘ライザ・ジェーン(ケイティ・プロクター)は寂しさを募らせていった。

 そんな中、リッキーがある事件に巻き込まれる……。

=====ここまで。

 やっぱり、ローチはまだ怒っている。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆

 
 ローチの最新作ということで、見に行って参りました。『わたしは、ダニエル・ブレイク』では怒髪天を衝いていたローチだったけれど、本作でも、まだかなり怒っている模様。ただ、今回は、そこに少し無力感が加わって、救いがないところが前作より辛いとこ。


◆美味しいとこどりの本部様

 日本でもUber Eats といい、コンビニといい、利益の吸い上げ時には「フランチャイズ」、損切り時には「個人事業主」と、都合良く使い分けて美味しいところだけ本部がかっさらって行くという、まぁ、自由経済社会だからってそこまでやるか、、、みたいな話があちこちで聞かれる昨今。本作でも、イギリスにおける同様の実態が容赦なく描かれる。

 リッキーとアビー夫婦は、かつて自分たちの家を持っていたけど、不景気の煽りを喰らってリッキーが職を失い、家を手放した様子。だから、借金もある。加えて、車は自前の宅配業に身を投じたことで、経済的にもだけど、物理的・精神的に一層厳しい状況になるという、、、。個人事業主だから、休む=無収入、となる。だから休めない。でもフランチャイズだから上納金は免れない。封建時代かよ、って話。

 私の職場近くでも、ちょっと前に某コンビニ大手のオーナーが過労自殺してニュースになった。ネットでその背景など詳細が書かれているレポを読んだけど、そりゃもう、悲惨極まりない話だった。ハッキリ言って、本作に勝るとも劣らぬえげつなさで血の気が引いた。何しろ、そのオーナーの息子さんもコンビニの手伝いをしていて過労自殺しているのだ。息子さんのときもニュースになり、驚いたが、その後しばらくして閉店騒動が起きた挙げ句の話だった。今は、その元店舗の前を通るのも憚られるので通っていない。少し歩けば同じフランチャイズのコンビニに2つ3つとぶち当たるのは、いくら何でも節操なさ過ぎな感じがする。

 本作でリッキーがフランチャイズ契約している配送業者もまったく同じ。とにかく数をこなして売り上げを増やす。売り上げに響くようなことは許されない。病気や家族の緊急事態で休もうものなら、代わりを探せとドヤされる。つまり、数をこなす代わりさえいれば、別にお前なんかどーでもええわ、って話。前述のコンビニオーナーの話でもそうだったが、多店舗展開すれば本部にとっては売り上げが増えるが、オーナーにとってはカニバリで売り上げが下がる。本部にとって、上納金さえ増えれば、オーナーの1人や2人どーなってもええわ、っていう経営方針を堂々と体現する恐るべき人権軽視企業。

 ……と分かっていても、そこにあればそのコンビニを利用してしまう私。ネットで頼めば届けてくれるなら、わざわざ店に行かないで宅配してもらっちゃう。それもこれも、あるから使う。なければ使えないけど、そこにあるんだもん。

 コンビニや宅配だけじゃない。とにかく、利便性の追求という名目で、あれもこれも過剰なんだよ。コンビニがもっと少なくても、宅配が時間指定なんかなくて盆暮れ休みでも、別に社会は困っていなかったのに。
 
 24時間営業を見直したり、年末年始を休業したり、、、という動きが少しずつ出て来ているのは非常に良いことだと思う。
 

◆ローチ作にしては、、、

 ローチは、これまでも、こういう社会の不条理を描いてきたが、シビアな描写の中にも必ず一筋の光明を見出すエンディングにしていたように思う。だが、本作は、最後まで救いがないのが、ちょっと驚きだった。

 あのまま、リッキーたち一家の厳しい日常は続く。何も改善の兆しがない。

 ローチはどうしてこういうエンディングにしたんだろう、、、? と、ちょっと考えてしまった。これは飽くまで私の勝手な想像だけど、さしものローチも、いささか無力感に苛まれたのではないか、、、という気がする。それくらい、現実が酷すぎると感じたのでは。ヘンに希望を感じさせる終わり方は嘘くさいと思ったんじゃないか、、、と。

 イギリスはそれでなくても、ブレグジット騒動で国全体が疲弊しているというし。しかし、マジでEU離脱後、あの国はどーなるのか?? 経済とかも気にはなるが、個人的には、北アイルランドがかなり心配である。また、紛争の地と化すのではないか、、、。ローチの懸念はいかばかりか。

 本作は、見ていて、リッキーがあの大事な端末をなくしちゃうんじゃないか、、、とか、疲れの余り居眠り運転で衝突しちゃうんじゃないか、、、とか、とにかく、下手なホラーやサスペンス映画よりもよっぽどハラハラ・ドキドキの連続である。でも、そんな分かりやすい追い詰められ方ではない、もっとじわじわと真綿で首を絞められるような追い詰められ方をしていくのだ。それが却ってリアルすぎて恐ろしい。

 家族との軋轢も実にリアル。父親不在で、母親も多忙となれば、家族はバラバラになりがちだ。長男セブの言動は、やや類型的かと感じたが、終盤、そのイメージは覆される。どうにもならなさが、分かりすぎて心が痛くなる。

 そんな中、母親のアビーが女神のように優しくて包容力のある女性で、感動的だった。介護の仕事でも、荒んだ雰囲気の父と息子が対峙する家庭でも、あんな状況で、あんな寛容な行動は、私には絶対ムリ。でも、アビーの寛大さには嘘くささがなく、彼女が真に心優しい寛容な人なのだと伝わってくる。そんな彼女が終盤、リッキーの上司に悪態をつくのは、むしろホッとする。彼女も、やっぱり人間だったんだなー、と。

 ローチと是枝監督の対談をTVで見たが、そこでのローチの言葉が印象的だったので、ここに記しておきます。

 「メディアにとって国益とは、富裕層や権力者の利益を意味します。だからこそ、何か問題があると、それは移民のせいだとか、労働者が怠け者だからだとか、様々な理由を示すのです」
 「私は、映画を通してごく普通の人たちが持つ力を示すことに努めてきました。一方で、弱い立場にいる人を単なる被害者として描くことはしません。なぜなら、それこそ正に、特権階級が望むことだからです。彼らは貧しい人の物語が大好きで、チャリティーに寄付し、涙を流したがります。でも、最も嫌うのは、弱者が力を持つことです。(中略)私たちには、人々に力を与える物語を伝えていく使命があると思います」

 

 

 

 

その後のリッキー一家がどうなるのかが気がかりだ。

 

 

 

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悲しみに、こんにちは (2017年)

2019-09-11 | 【か】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv65410/

 

 以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。 

 フリダは部屋の片隅で、荷物がダンボールに詰められるのを静かに見つめていた。その姿は、まるで母親(ネウス)が最後に残していった置物のようだ。両親を“ある病気”で亡くし一人になった彼女は、バルセロナの祖父母の元を離れ、カタルーニャの田舎に住む若い叔父家族と一緒に暮らすことになる。

 母親の入院中、祖母たちに甘やかされて育てられていた都会っ子のフリダ。一方、田舎で自給自足の生活を送っている叔父と叔母、そして幼いいとこのアナ。彼らは、家族の一員としてフリダを温かく迎え入れるが、本当の家族のように馴染むのには互いに時間がかかり・・・。

=====ここまで。

 

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 昨夏、公開中に見に行きたかったのだけれども、なかなかタイミングが合わず行けずじまいに。ようやくDVDで見ることが出来ました。いや~、やっぱしスクリーンで見たかった!

 

◆涙一つ見せない美少女フリダ

 原題は、『ESTIU 1993』で、“1993年の夏”というカタラン語(カタルーニャ語)。何で、『悲しみに、こんにちは』なのか分からないけど、、、まぁ、そこまでヒドい邦題でもない気もするが、ちょっと違う感じもするかなぁ、、、。タイトルって難しい。

 ストーリーは特になく、フリダが両親亡き後、叔父・エステバと叔母・マルガの家でどうやって生きていくことになるのか、、、を詩的に描いている。なので、セリフはあまり多くなく、大人たちのセリフで何となくネウスの亡くなったいきさつやフリダの置かれた状況が察せられる。

 フリダは、可愛らしいのだけれど寂しそうな目をしていて、ちょっと大人にとっては扱いが難しそうな雰囲気の少女、、、という雰囲気を、もうオープニングのシーンから醸し出している。

 寂しそうな目、というか、周りの空気を無意識に窺う目、と言った方が分かりやすいかも。かといって、物怖じする感じではなく、マイペースに見える。なかなかシビアな状況にありながら、フリダは涙一つ流さない。意志の強そうな口元が印象的だ。

 この涙一つ流さない、というのが、ラストシーンで効いてくる。

 

◆フリダが、、、

 以下、ネタバレです。

 あれがあり、これがありしながらも、最終的にはどうにかフリダはエステバとマルガ、アナと馴染んで、幸せそうなシーンが描かれる。色違いでアナとお揃いのパジャマを着てキャッキャ言いながら、エステバが「やめてくれ」と優しくたしなめるのを尻目に、ベッドの上でぴょんぴょんアナと一緒に跳ねている。幼い子供のいる家庭によくありそうな光景だ。アナも無邪気に笑っていて、エステバも何だかんだ言いながら楽しそうだ。

 が、その直後、フリダが火がついたように泣き出すのである。それまで、一度も涙を見せなかったフリダが。

 驚いた叔父と叔母がフリダを抱きしめなだめる。アナも心配そうにフリダを見つめる。……で、ネウスへの献辞が出てエンディングである。

 この幕切れが実に良い。ヘンに感動モノに仕立てることもなく、フリダが突然泣き出したその理由が、見ている者の心に直截的に迫ってくる。なだめている叔父と叔母も、どこかホッとしたような表情を見せているのも良い。一つ、自分たちとフリダの間にあったハードルを越えられたことを実感したに違いない。

 もちろん、これで今後全てが上手く行くとは思えないが、希望の持てるラストシーンで、見て良かったと思える映画になっている。

 実は、このときフリダとアナが着ているパジャマには伏線がある。このパジャマは、彼女たちの祖母がプレゼントしてくれたもの。しかし、フリダのはブルー、アナのはピンクだった。すると、フリダは、「私もピンクが良かった」と言って、ブルーのパジャマを投げ出すのである。それを拾った祖母が「じゃあ、変えてもらってくるよ」と言ってフリダの前に置くのだが、フリダは何とその脇にあったミルク入りのコップを倒して、ブルーのパジャマをミルクまみれにするのである。

 そんな“ワケあり”のパジャマを、ラストシーンでは屈託なく身に着けているフリダを見れば、フリダのわだかまりが一つ消えたことが分かる。

 

◆フリダがアナにする“いけず”なあれこれ

 フリダは、ミルクまみれにしたブルーのパジャマを自分で洗わされるのだが、そのとき、別の叔母・ロラに「私をメイドみたいにこき使うの」などと、マルガのことを言っている。マルガは別にこき使っているわけではもちろんないが、ある出来事からフリダと険悪な雰囲気になったことがあったのだ。

 ある出来事とは、自分に懐いてついて回るアナが何となくウザく感じたフリダは、家の近くの茂みにアナを連れて行って、「ここで私が戻ってくるまで待ってて」とか言って置き去りにするのである。しばらくしてマルガがアナを探し回り、結果、アナは手を骨折していたのだった。

 まぁ、フリダに悪気はなかったのだが、マルガにしてみれば怒り心頭もムリはない。

 その他にも、自分が持ってきたたくさんの人形を一つ一つ鞄から出して、アナに見せびらかし「絶対触らないでね!」と言ったりもする。

 フリダは、天使でもなく、邪悪でもない、どこにでもいる6歳の女の子。こういう多面体な描き方が、本作を“可哀想なフリダの映画”にしていない所以だと思う。下手すると、安っぽいお涙ちょうだいになりかねないが、一切、そういうセンチメンタルな描写はなく、あくまでもフリダの視点から描かれているところが素晴らしい。

 

◆フリダを取り巻く大人たち...etc

 フリダの母が何で亡くなったのか、直截的には描かれていないが、それを暗示するシーンはある。スペインでは1993年、「エイズ禍で騒然となった」とあるサイトにはあった。エイズは今でこそ制御できる病として認知されているが、1993年当時なら、まだ偏見にまみれていた頃だろう。

 本作のラストの献辞からも分かる様に、フリダは監督自身の幼少期がモデルになっている。監督のインタビューも読んだが、監督自身も周囲の好奇の目に晒されたことがあったらしい。

 そんな状況にあって、叔父と叔母は、フリダを引き取り、いろいろあっても愛情を注いで面倒を見ているというのは、私は尊敬してしまう。なかなか出来ることではないのではないか。祖父母や親戚たちも一様に優しくフリダに接するが、引き取った叔父と叔母にしてみれば、フリダとの生活が日常になるわけだから表面的な優しさだけでは成り立たない。フリダにとってもストレスフルな日々だったろうが、叔父と叔母にとってもかなり大変だったはずだ。

 その叔母・マルガを演じたブルーナ・クッシという女優さんが素敵だった。スゴい美人という感じじゃないけど、何かイイ。素敵な女性。

 アナを演じた女の子がまた、実に素晴らしい演技(?)をしていてビックリ。顔も可愛いんだけど、表情がとても良い。目がくりくりしていて、無邪気にフリダに懐いている姿は、見ているだけで頬が緩んでしまう。

 フリダを演じたのはライア・アルティガスちゃんという少女だが、笑顔が何とも言えず可愛らしい。ちょっとすきっ歯ぽいんだけど、それもまたご愛敬。口を真一文字にしている顔もいじらしい。ぽっこりお腹も少女らしい体型で可愛い。作中の登場人物とはいえ、彼女の今後の幸せを願うばかりだ。

 

 

 

 

夜中に家出を試みたフリダが「暗いから明日にする」と言って帰ってくるところが可愛すぎる。

 

 

 

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顔のない眼(1959年)

2019-08-18 | 【か】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv12922/

 

 自分の過失が原因の交通事故で、娘クリスティーヌ(エディット・スコブ)の顔面に大やけどを負わせてしまった高名な外科医の男ジェネシェ(ピエール・ブラッスール)。責任を感じるジェネシェは、過去に顔面皮膚移植を施して美しい顔を取り戻すことに成功した助手のルイーズ(アリダ・ヴァリ)に手伝わせ、クリスティーヌと同じ年格好の女性を拉致してその顔面から皮膚を剥ぎ、クリスティーヌに移植する手術を繰り返すが、毎回失敗に終わっていたのだった。

 そして、クリスティーヌは移植が失敗に終わる度に「こんな顔になるなら、目も見えなくなれば良かったのに。死にたい」と絶望する。

 ある晩、またルイーズが拉致してきた女性エドナから、ジェネシェは再び顔面の皮膚を剥ぎ、クリスティーヌに移植する。突然、顔を失ったエドナは絶望し、ジェネシェの病院の上層階から飛び降り自殺してしまう。そして、今回の移植も、数日後にはまた失敗の結果が明らかになるのだった。いよいよ絶望を深くするクリスティーヌ。

 しかし、懲りずにルイーズはまた若い女性を拉致してくるが、運良く、皮膚を剥がされる前にクリスティーヌ自身の手によって解放される。それを見たルイーズはクリスティーヌを止めるのだが、、、。

 

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 ゴーモン特集で一番見たかったのは本作でした。TSUTAYAでDVDも借りられるみたいだけど、せっかくスクリーンで見られるのだからと、酷暑の中、見に行ってきました、、、。

 

◆思っていたよりグロい。

 クリスティーヌが普段着けているマスクが何とも不気味なんだけど、ネットで感想をいくつか拾い読みしたら、やっぱり同じある人の名前が浮かんだ人が多かった様子。もちろん私も。……その名は“スケキヨ”。まあ、スケキヨの方がより不気味だったような気もするが。

 一度だけ、クリスティーヌがマスクを取るシーンがある。映さないかと思って見ていたら映していて、もう楳図かずおのマンガそのまんま。心の準備が出来ていなかったので、思わず、うわっ、、、とのけぞってしまった。ま、映るのは一瞬だけど。しかも、ちょっと紗がかかっている感じで、そこまでグロじゃない。

 想像以上にグロかったのは、手術シーン。拉致してきたエドナからジェネシェが皮を剥ぐところを、かなりしっかり延々と描写するのだ。助手のアリダ・ヴァリ演ずるルイーズと2人がかりで、剥ぐところの輪郭をクレヨンで描いて、メスで切って、鉗子でもって剥いでいくという、、、かなりウゲゲなシーン。思いっきり皮が不自然な感じではあるけど、相当リアルで、CGの精密な映像を見慣れた眼にもグロく映ったので、公開当時に見た人たちはさぞやビビッたことだろう。

 ジェネシェが汗だくになりながら、そして、ルイーズがその汗を拭きながら、皮を鉗子とメスで剥いでいく。そして、その皮をクリスティーヌに移植する。移植直後、美しい顔を取り戻したクリスティーヌの素顔も映る。お人形さんみたいに可愛らしい素顔だが、ジェネシェはルイーズに「あれは失敗だ、、、」と言い、事実、その後、次第にクリスティーヌの顔は少しずつ皮膚が壊死して黒ずんでいき、最後には顔面が崩れる。その過程も描写される。

 何というか、この一連の「手術→美しい顔を取り戻す→少しずつ顔面崩壊」の過程を見せる辺りが科学番組みたいで、一瞬、自分が「何を見ているんだっけ?」みたいな感覚になった。それくらい、リアルな感じだったから。

 しかし、何度もそんなことを繰り返していられるわけもなく、女性の行方不明事件で警察が動き出すし、クリスティーヌ自身が事故前に婚約していた男性に恋しさが募って電話をかけてしまうし、、、。何より悲痛なのは、クリスティーヌ自身、父親が、今となってはクリスティーヌのためではなく、人体実験を繰り返すマッドサイエンティストと化してしまっていることに気付くのだ。

 まあ、終盤の成り行きは実際に見た方が良いと思うのでここでは書かないけれども、この話においてはこの結末しかあり得ないだろう。ラストシーンがとても幻想的で美しい。マスクを着けてネグリジェのまま森へとさまよい歩いていくクリスティーヌの後ろ姿は、もの哀しいけれども、神々しくもあった。

 

◆以下、余談。

 マッドサイエンティストといえば、Eテレで「フランケシュタインの誘惑E+」という番組がオンエアされているが、これがマッドサイエンティスト特集みたいな番組。

 以前「フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿」というタイトルでBSでオンエアしていたが、それを再編集したもの。BS時代から欠かさず見ていたけど、マッドサイエンティストと天才科学者は表裏一体なのだとつくづく思う。マッドと周囲の目に映るくらいに究めなければ、成し得ない研究は当然あるはずだ。

 名誉欲が探究心を上回ったとき、恐らく、マッドサイエンティストに豹変するのだろう。最初から名誉欲が探究心を上回っていた人も大勢いるようだが、、、。本作は映画だが、本物のマッドサイエンティストの物語は、もっとグロくて悲惨で哀しいものだ。

 そういう意味では、本作は、やはりマッドサイエンティストの物語というよりも、『顔のない眼』というタイトルが表わすとおり、顔を失うことの悲痛さを描いた物語として見るべきなのだろう。

   

 

 

 

 

 

タイトルが秀逸。

 

 

 

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母さんがどんなに僕を嫌いでも(2018年)

2019-06-19 | 【か】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv64869/

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 幼い頃から、美しい母・光子(吉田羊)のことが大好きだったタイジ(太賀)。しかし、家の中にいるときの光子はいつも情緒不安定で、タイジの行動にイラつき、容赦なく手を上げるのだった。

 そんななか、夫との離婚問題が浮上し、タイジの存在が不利になると考えた光子は、9歳のタイジを児童保護施設へ入れてしまう。1年後。良い条件で離婚した光子は、タイジとその姉・貴子を連れ、新しい家で暮らし始めるが、そこでもまた不安定な生活を送ることになる。

 17歳になったタイジは、ある日、光子から酷い言葉と暴力を受けたことをきっかけに、家を出ることを決意。ただ日々を生きていくだけのなか、タイジは幼い頃に唯一自分の味方をしてくれた工場の婆ちゃん(木野花)と再会、自分への強く優しい想いに心を動かされるのだった。努力を重ね、やがて一流企業の営業職に就いたタイジは、社会人劇団にも入り、金持ちで華やかだが毒舌家のキミツ(森崎ウィン)と出会う。そんな彼に戸惑いながらも、次第に打ち解けていくタイジは、会社の同僚・カナ(秋月三佳)やその恋人・大将(白石隼也)とも距離を縮めていくのであった。大人になって初めて人と心を通わせる幸せを感じたタイジは、友人たちの言葉から、自分が今も母を好きでいることに気付き、再び母と向き合うことを考え始める。

 そんなある日、長らく絶縁状態だった光子から連絡を受けたタイジは、光子の再婚相手の葬儀に出席するが、光子から冷たくあしらわれてしまう。だが自分から変わることを決めたタイジは、食事を作るため光子の家へ通い、もっと母のことを知ろうと叔母のもとを訪ねる。そこで、母の幼い頃の苦労を聞かされたタイジだったが、母が亡き夫の残した莫大な借金を背負っていることを知る。その借金を巡り、光子とタイジは口論。そしてまたも光子はタイジを拒絶するが……。

=====ここまで。

 コミックエッセイの映画化だそうな。もちろん、原作未読。

 

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 親子のゴタゴタ系は割と見てしまうので、これもついつい手を伸ばしてしまったけれど、いろいろ??なところがありすぎな上に、中盤で気持ち的に大コケしてしまって、もうあとはどーでもええわ、、、という感じだった。だから、別にわざわざ感想を書くまでもないかなぁ、という気もしたが、思うところあって書いておくことにしました。

 ちなみに、本作をお好きな方は以下お読みにならないでください。

 

◆この母親はマジで息子が嫌いなの。

 虐待という要素を除いても、この母親は、私からすれば異星人レベルに理解不能な思考回路である。

 例えば、離婚が成立して豪邸を手に入れたから、施設から帰ってきたタイジを待ち構えて一緒に連れて行く。大嫌いで産まなきゃ良かったとまで言っているタイジをだ。「アンタ連れてかないわけにいかないでしょ!!」とか言っているんだけど、なんで?? 施設にムリヤリ入れておいてそのセリフは何?? そして、包丁を突き付けて怪我させたりとか、、、意味不明。

 かと思うと、長らく音信不通だったタイジに、ある日突然電話してきて、「(再婚相手の)お通夜に出て。こっちの親戚誰もいなくてカッコ悪いから」などと言ってくる。毛嫌いしている息子にわざわざ電話してきて、自分にとっては短いながらも貴重な時間を共有できた最愛の男の喪の席に、その大嫌いな息子を座らせる、、、とか。

 他にもイロイロあるけど、、、多分、実際にこういう出来事があったんだろうけど、エピソードをただ切り貼りしただけでつなぎ目に気を配っていないので、なんかもう、支離滅裂なんだよね。人間は複雑な生き物だ、つったって、そういう問題じゃないでしょ、これは。

 一つだけ言えるのは、この母親はホントにタイジのことが嫌いだったんだな、ってこと。終盤で和解を臭わせるシーンがあるが、あれは母親が体力的に弱っていたから、もう息子を追っ払うのも面倒くさかっただけだと思う。あとは、せいぜい多少の罪悪感かな。

 それ以外のことは、全面的にこの母親の行動が謎です。

 

◆経験者の傷に塩を塗る無神経極まりない映画。

 それでもまあ、中盤過ぎくらいまではどうにか見ることが出来ていた。一気に萎えたのは、タイジに“おともだち”が言ったセリフだ。

 「気付いた人間から変われ。親に変わって欲しければ、まず自分が変われ」

 セリフ的には、もう少しソフトな言い回しだったけど、これはねぇ、虐待を受けた人にはある意味タブーに近い言葉です。これで良い方向に向かう人はいるかも知れないけれども、被害者に対して“加害者を受け容れろ”と言っているようなもんだからね。これは、私的には絶対にナシです。

 このセリフは、あくまで対等な人間関係において、話の通じる相手に対して有効なのであって、自分を虐待する親を対象にしたものとしては、サイアクです。

 親に虐待される子供は、十分、自責の念に苛まれているわけよ。自分が悪いから親を怒らせているんだ、、、ってね。もう何百回も思わされているのよ。その上でまだ、親との関係性において自分に何か責務があると思わされるのは、あまりにも酷な話。

 この映画を見た被虐待経験者が、ヘンに自分を追い詰めるような思考にならないことを願うばかり。もっと言えば、 「私が変わればあの親が変わってくれるかも」などという期待を持たせる非常に罪な映画である。親の虐待に苦しんでいる人がゴマンといる中で、こんなセリフをばらまくなんて、無責任だとさえ思うねぇ。

 本作を見て無邪気に「あなたが変われば親も反省するかもよ」などと、被虐待経験者にアドバイスなんぞすることは、もの凄く深刻なことをしてしまっているのだということだけは言っておきたい。

 こういう親は、“変わらない”と思っておいた方が良い。変わって欲しいと期待すればするほど、被虐待者の傷は深くなり、回復が遅れるだけだ。だから、「まずお前が変われ」などというセリフは無視すれば良い。

 レアな成功エピソードを大げさに三流感動映画に仕立てて、多くの傷ついた実体験者の傷口にさらに塩を塗るようなことをするな、と言いたい。あ、これは原作に対してのことではなく、映画に対してね。原作は読んでいないので知りません。

 ……というわけで、は1コです。ゼロでは出演者に対し、あまりに失礼だと思うので。  

 

 

 

 

 

見たことを後悔する数少ない作品となりました。 

 

 

 

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カティンの森(2007年)

2017-05-29 | 【か】



 夫はソ連軍の捕虜となり連れ去られた。それっきり妻(アンナ)の下へは帰ってこなかった。帰ってきたのは、夫が最期の日々を書き記したメモ帳。ある日を境に空白が続くそのメモ帳が訴えるものとは、、、。

 アンジェイ・ワイダ渾身の告発映画。

   
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 7月に海外へ行くことになり、コペンハーゲン→ベルリン→ワルシャワの予定で移動するため、関連する映画を見ている次第。今回は、ポーランド映画。ワイダ監督作は、『ワレサ 連帯の男』に続き(多分)2作目。来月公開予定の『残像』も見たいと思っているところ。

 本作は、公開時から見たい見たい、と思いつつ、結局今頃の、しかもDVDでの鑑賞と相成りました。


◆地図から消えた国

 冒頭のシーンが印象的。こちら側からあちら側に逃げようとする人々。反対に、あちら側からこちら側に逃げてくる人々。双方の人々が橋の上で交錯する。

 こちら側=クラクフ、あちら側=東側ソ連国境。橋=ヴィスワ川に架かる橋。アンナは、クラクフから橋を渡って東へ、大将夫人は東側からクラクフへ。

 大将夫人は、アンナに「クラクフに戻れ」と言う。しかし、東へ行くアンナ。2人の女性が橋の反対側にそれぞれ向かう。どちらも、逃げているのだ。それなのに、逃げる方向は正反対。

 そう、これは、当時のポーランドが置かれていた状況そのもの。この川を境に、独ソ不可侵条約においてポーランド割譲が密約されていたから……。どちらへ逃げても、安住の地には辿り着けないポーランド国民。

 ポーランドの歴史は、映画を通じてかいつまんでいる程度なのでほとんど無知に等しいけれども、地勢的に、両脇をソ連(ロシア)とドイツという、まあ、言ってみれば侵略国家に挟まれて、非常に厳しいものであったことくらいは何となくだが知っている。

 そういう、ポーランドの地理的な宿命を、見事に描いている冒頭のシーンは胸に迫る。この後、アンナたちはどうなってしまうのか、、、。

 そして、この冒頭にもう一つ印象的なセリフが。

 「私はどこの国にいるの?」

 このセリフを言った女性は、作品の後半、ソ連を告発する行動を起こすものの、案の定、ソ連に逮捕され、地下室へ連行される。多分、そのまま生きては帰れなかったんだろうな、、、。

 戦争自体が終わっても、ソ連統治による地獄は終わらなかったという、ポーランド(だけじゃないけど)の抱える不条理がしっかり描かれている。


◆カティンの森事件

 事件については、あちこちのサイトに書かれているけれど、ここでは、wikiにリンクを貼っておきます。

 で、事件を直接的に描写したのは、終盤の15分~20分くらいでしょうか。ほとんどセリフもなく、ただただ淡々とした描写。しかし、その内容は凄惨極まりない。

 その描写の詳細はここでは書かないけれども、あんなことをさせられた加害者側のソ連兵たちにとっても、相当の精神的ダメージではなかったろうかと思う。映画でたった数分見ただけで、これだけのダメージを受けたのだから、実際の現場を体験した者たちのダメージは想像を絶する。

 こういうダメージは、その場では分からなくても、じわじわと低温やけどの様に時間が経ってから症状が出てくるものだと思う。きっと、生きて帰ったソ連兵たちも、苦しんだに違いない。そんな事実は当然のごとく抹消されているだろうが、、、。

 そして、その終盤の凄惨なシーンを見ながら頭の中を駆け巡っていたことといえば、“ソ連は何でこんなことをする必要があったのだろうか?” という根本的な疑問だ。

 虐殺されたのが、ポーランドの知識階級の人々が多数を占めていたことから、国力弱体化を図るため、という解説を目にしたけれども、果たして真相はどうなのだろうか、、、。

 一人ずつ後ろ手に縛り上げて頭部を拳銃で撃ち抜くという、何という手間暇の掛かる殺し方。それを何万回と繰り返したその執拗さ。弾丸1発でも、何万人分ともなれば、決してそこに掛かる経費は安くないはずだ。もっと、安価で簡単に虐殺する方法はあったはずなのに、どうしてそんな執拗な殺し方をソ連は選んだのか、、、?

 しかも、銃殺は屋内で行われ、床に流れた大量の血を、1回1回、丁寧に洗い流すのである。何という、手の込んだ虐殺か、、、。

 この疑問に明快に答えてくれる情報には残念ながら、辿り着けなかった。虐殺の方法に良いも悪いもないものだが、ここまで執拗かつ残虐な手法をソ連が選んだ理由が、私にはどう考えても分からない。


◆映画作品としては、、、

 本作は、ある意味、終盤の15分が全てを語っていると言ってしまっても良いくらい、映画作品としてみれば、いささかバランスを欠く構成だった様に思う。

 登場人物が多いので、それぞれの立場が明確に分からない人もおり、後から何度か見直してみて、何となく分かったように思うけれど、、、。

 アンナが、国境からクラクフに無事に戻れるのも、イマイチ分からないけれども、恐らくその前のシーンでアンナ母娘を匿ったのがソ連の将校で、彼の助力があってのことだと思われる。実際にどんな助力だったのかは分からない。将校がアンナに(命を保証するため)偽装結婚を申し出ても、アンナは頑なに拒むわけで、その後、どうやってクラクフに戻る許可が下りたのかは描かれていない。

 主役は、夫を待つアンナであるけれど、同じように家族を失った人々が群像劇のように描かれるので、それぞれの立場を理解するのに時間が掛かるし、説明不足は否めない。もう少し、登場人物を絞って、視点を定めても良かったのでは、、、。

 とはいえ、ワイダ自身が、この事件の遺族であり、ポーランド人としてこの事件について描くことに執念を燃やしたのは、本作を見れば、痛いほどに分かるので、作品としてバランスが悪くても、瑕疵があっても、それを補って余りある価値が本作にあることは間違いない。

 映画は原則としてはエンタメだと思うが、こういう映画ももちろんアリだし、映画だからこそ出来ることだと思う。

 実話モノは受け止め方が難しいところだけれど、本作については、圧倒的な監督の熱量にねじ伏せられた感じがする。有無を言わせぬパワーに圧倒されるのも悪くない。


 






ソ連はやはり怖ろしい。




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葛城事件(2016年)

2017-03-16 | 【か】



 親から継いだ金物店を営む、葛城清(三浦友和)は、郊外に家を建て、妻・伸子(南果歩)と、2人の息子、保(新井浩文)と稔(若葉竜也)を養ってきたことを自負して、生きていた。

 しかし、家族を大切にし、男として一国一城の主として頑張ってきたはずなのに、なぜか家族はバラバラで、妻は自分を拒絶するわ、長男の保はせっかくまともな勤め人になったのに店を継ぎたいなどと言い始めるわ、二男の稔はバイトを転々としながら半ば引きこもり状態である。挙げ句、妻は二男とともに近所にアパートを借りて家を出てしまう、、、。

 どうしてこんなことになったのか、、、。そんなある日、保はリストラに遭っていたことを親にも妻にも言えずに自殺。稔は「いつか一発逆転してやる」と、棺桶の中の保に向かって誓う。稔の言う、一発逆転とは……、無差別大量殺人犯人になって世間の注目を浴びることだった。

 基は、同名舞台の戯曲だそうで。戯曲段階では、モデルは、あの宅間守の家族だったそうですが、映画化に当たり、他の無差別大量殺人犯の家族に材をとり、融合させたとか。
 
 
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 昨年、話題になっていて、気にはなっていたのですが、どうもスクリーンで見る勇気がないまま躊躇しているうちに終映してしまいました。まあ、スクリーンで見なかったのは、ある意味正解だったかも。


◆大嫌いな男の子どもを2人も産む伸子も相当ヤバい。

 ネットの感想を少しザッピングしてみたのですが、概ね「リアル」「自分も清みたいな部分があるかも」というようなものでした。

 確かに、清という男性は、その辺にいそうなオッサンです。昭和な親父とでもいいましょうか。平成の世でもフツーにいるでしょう。やたら身近に感じるキャラなので、見た人たちは親近感を覚え、「自分もこんな家族を作ってしまうかも、、、」という、妙なリアリティに襲われ恐怖を感じてしまうのでしょうねぇ、、、。

 まあ、重大な罪を犯した人間の育った家庭というのは、大なり小なり、何かしら病理を抱えている可能性はあるでしょう。裁判のニュースなどで「犯人の生い立ちには汲むべき事情がある、、、」みたいなフレーズをよく耳にします。

 だから、「罪人たちの育った家庭に問題があった」ということについては、誰もがあまり疑問を抱かないと思いますが、「問題がある家庭に育った人間は皆罪人になる」わけじゃない、ということは、アタリマエのこととして認識しておきたいものです。

 稔があんなことを起こしてしまったのは、清の父親としての振る舞いに根本的な原因があるかのように受け止められかねない本作の構成は、ちょっといただけません。稔だけに限らず、伸子がああなのも、保がああなのも、全部、この父親が原因なんだ、とでも言いたげな描写の数々は、いかがなものでしょうか。葛城家の人々は、清以外、皆、清の被害者、、、みたいな。

 私が一番、イヤだなぁ、と思ったシーンは、伸子が清を激しく拒絶したところです。拒絶したこと自体は構わないけれど、その後がね、、、。伸子は「アタシ、あなたのことが最初から嫌いだった、大嫌いだった。どうしてこんなことになっちゃったんだろう」(セリフ正確じゃないです)とか言って、ボロボロ泣くんですよ。そのシーンの南果歩の泣き顔がメチャクチャ醜く見えました、私には。このセリフは、自分に対して言っているように見えるけれど、違います。自分が可哀想で、伸子は泣いているのです。こういう、自己憐憫の涙を平気で流せる人間が、私は大嫌いでして、、、。

 大嫌いな人間との間に、なぜ、2人も子ども作ったんでしょーか、アンタは。大嫌いな人間との間に産み落とされた2人の子どもは、一体、何なんでしょーか? 彼らの気持ち考えたことないんでしょーか? 子どもたちに産んでくれって頼まれでもしたんでしょーか? 勝手に産んだのは誰でしょーか? 泣きたいのは子どもたちじゃないでしょーか?

 清に問題がないとは言いませんが、同じくらい問題なのは、この伸子でしょう。でも、ネットでの感想で、伸子を批判的に書いているものはあまり見当たりませんでしたね。何でなのかしらん、、、。

 親も人間だから仕方がない、、、。それはそのとおりです。だったら、伸子がああなのは仕方がないし、清がああなのも仕方がないんじゃないの?


◆食事で分かる家庭の病理。

 とはいえ、確かに、家族の誰か1人のせいで、家族全員に悪影響を及ぼすことはあります。また、どんなに劣悪な環境で育っても、罪人にならない人はならないのだと、全て自己責任論に帰結させるのも乱暴でしょう。

 いただけないと思う部分はありますけど、人間の嫌らしい側面を、決してわざとらしくなくサラッと描いているその腕は、素晴らしいと思います。

 中華料理店でのシーンなんて、もう、コントみたいに痛々しいけれど、ああいう人は確かにいる。それでいて、清が毎日店で座っている場所から見える景色は、店の棚がほとんどを占め、外はほんの隙間から覗いているだけ、、、という狭さを強調した画面とか。清という人間の卑小さ、それをカモフラージュするための尊大さ。万人が持つ人間の醜い部分を遠慮なく抉る描写。……、ああ、嫌らしい!! 

 葛城家の人たちがものを食べるシーンが多いのだけど、手料理が一つもない、ってのがまたねぇ、、、。宅配ピザ、コンビニ弁当、カップ麺、、、。こういうところの描写も、上手いなぁ、、、と。この家を象徴する描写ですもんね。


◆自己チューじゃない人なんているのか?
 
 稔と獄中結婚する女性・星野順子(田中麗奈)の存在が、非現実的だ、と書かれている感想がありました。でも、よくありますよね、死刑囚の獄中結婚。

 結局、順子も、稔のためだとか言ってはいるけど、ただの自己チューにしか見えなかったなぁ。独善、自己満足でしかないでしょ。

 つまり、本作に出てくる人たちは、皆、自己チューなんですよね。自分のことだけ。自分さえ良ければ良い。でも、自分が良くないから、良くないのは、自分じゃない何かのせい、、、。そういう思考回路な人たちな気がします。

 人間、誰しも自己チューで、私ももちろん自己チューです。でも、自己チューな人間が皆、病んでしまうわけじゃない。自己チューと、せめて自覚くらいはしておきたい。「あなたのため」なんて平気で言う人間にだけはならないぞ、と常に自分に言い聞かせていたい。自分の信念のために、自分以外の誰かの気持ちを踏みにじることをしないよう、気をつけなければいけない。

 こういう作品を見ると、人間は、結局、誰しも一人で孤独なんだな、、、ということを痛感させられますね。家族であっても、きちんと互いに自立し尊重し合える関係でないと、誰かが病んでしまうのだから。

 人間とは、なんて厄介な生き物なんだろう。漁港が見下ろせる、日当たりが良くて小高い丘になわばりを持つ野良猫に生まれたかったかも。に゛ゃ~~







三浦友和が圧巻。




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