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映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書(2017年)

2018-04-30 | 【へ】



以下、公式HPよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 国家の最高機密文書<ペンタゴン・ペーパーズ>。なぜ、アメリカ政府は、4代にわたる歴代大統領は、30年もの間、それをひた隠しにしなければならなかったのか―。

 1971年、ベトナム戦争が泥沼化し、アメリカ国内には反戦の気運が高まっていた。国防総省はベトナム戦争について客観的に調査・分析する文書を作成していたが、戦争の長期化により、それは7000枚に及ぶ膨大な量に膨れあがっていた。

 ある日、その文書が流出し、ニューヨーク・タイムズが内容の一部をスクープした。

 ライバル紙のニューヨーク・タイムズに先を越され、ワシントン・ポストのトップでアメリカ主要新聞社史上初の女性発行人キャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)と編集主幹ベン・ブラッドリー(トム・ハンクス)は、残りの文書を独自に入手し、全貌を公表しようと奔走する。真実を伝えたいという気持ちが彼らを駆り立てていた。

 しかし、ニクソン大統領があらゆる手段で記事を差し止めようとするのは明らかだった。政府を敵に回してまで、本当に記事にするのか…報道の自由、信念を懸けた“決断”の時は近づいていた。

=====ここまで。

 何やらもったいぶったあらすじですが、、、。やっぱし、スピルバーグはツボを心得ていらっしゃるねぇ。イヤミなくらい。

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 スピルバーグ&メリル・ストリープにトム・ハンクス、、、と聞いただけで、あんまし見たくなかったんだけど、昨今の(日本の)政治問題に絡めて、あちこちで取り上げられているのを見聞きして、何となく見てみようかなぁ、と思って劇場まで行ってしまいました。


◆肝心なことが描かれていない、、、と思う。

 なかなか面白かったです。色々と、へぇー、と思いながら見ていました。

 このペンタゴン文書を最初にすっぱ抜いたのはNYタイムズだったんですね。それを、ニクソンに潰されそうになって、ワシントンポストが引き継いだ格好になったと。

 ニクソン、、、って、もしかして一番映画化されている大統領じゃないですか? ケネディの方が多いのかな。調べてないので分からないけど、あんまりどれも良い描かれ方はされていない印象。まあ、辞め方がああだから致し方ないのかも知れないが、、、。『大統領の陰謀』でもそうだったし、ある意味、歴史に残る大統領には違いないわけで。

 本作でももちろん、ニクソン=悪人、みたいな感じです。たまに出てくるのはホワイトハウスで電話をしている後ろ姿だけなんだけど、それがまた、何となくよく似ている感じなのよ。

 まあ、あれがあってこれがあって、結果的に、ポスト紙が文書の内容の多くを暴露した、ということになり、メリル・ストリープとトム・ハンクスにとってはメデタシメデタシのハッピーエンディング。よござんした。

 私が一番不満に感じたのは、メリル・ストリープ演じるグラハムが、並み居る役員たちの反対を押し切ってまで社運を懸けてペンタゴン文書を掲載することを決意する過程。何が彼女を決意させたのかがこのストーリーでは一番キモになるはずなのに、そこが分からない。というか、ちゃんと描かれていない気がする。

 最初から、彼女には掲載する意思はあったように見えるし、確かに社運が懸かっているけど、そのことに対する怖れとか、さらにまた、極秘文書を載せることが起こす影響に対する畏れとか、あんまし感じられないんだよねぇ。役員たちに「掲載するわ!」と毅然と言い放つだけで、それで“彼女は歴史的偉大な決断をしたんだ!!”と言われても、、、。

 そもそも、このグラハムをイイ人に描きすぎなんだよね。人としてイヤらしいところがゼンゼンない。重要人物なんだから、もっと多面体で描いて欲しい。彼女は素人だけど色々頑張って、大きい決断したんだよ、偉いでしょ~。と言っているだけの映画な気がする。きっと、現実には綺麗事じゃすまない諸々のがあったはず。そういう汚い部分はぜ~んぶニクソンに押し付けて、ポスト紙の人々は皆善人で正義でございますよ、って言われても、私みたいなひねくれ者は、素直に感動できまへん。

 トム・ハンクス演じるベン・ブラッドリーが、「我々(メディア)は国民に奉仕しなくてはならない」みたいなセリフを言うんだけど、なんか、これもクサいというか。どっちかというと、反ニクソンだったんじゃないかね? 別にそれが悪いと思わないし、あまりにも正義の味方みたいな描き方もいかがなものか、と。

 まあ、とにかく、ちょっと食い足りない感は否めませんでした。


◆残念ながら、イマドキは文書くらいじゃ権力者は脅かせない。

 本作は、スピルバーグが、(現政権批判の意味合いを込めて)急いで作った映画らしいけれども、大体、自分に都合の悪いことはぜーんぶ“フェイクニュースだ!!”で済ませちゃうような人を相手に、いくら映画で批判したって、あんまし効き目なさそうだよね。そういう人種は、ある意味、無敵なわけで。真実を畏れるという感性は、やっぱりそれなりに知性と品性を持ち合わせていないと生まれてこないでしょ。バカは怖いモノなしってのは、世の常です。

 日本でもタイムリー、なんて言ったり書いたりされているけど、どうなのかね? 有名人のコメントとか、もろにそういうのもあるけど、正直、なんだかなぁ、、、と思う。だいたい、そう感じてもらいたい当の本人は、ゼンゼンそんなこと意に介してなさそうだし。蛙のツラに小便じゃない?

 昨今の文書関連の問題を見ていてつくづく思うのは、どんなに(権力者にとって)ヤバい文書が出て来たって、当人たちが「知らぬ存ぜぬ」を通せば、何だかんだ有耶無耶になってしまう、っていう素晴らしい前例が出来たなぁ、ってこと。のらりくらりかわせば、99.9%クロな出来事もなかったことにできる。これ、マジで、フェイクニュースだって喚いている人たちより、よっぽど質が悪いし、怖ろしいと思うねぇ。ウソも100回言えば、真実になることを証明して見せられたんだから。

 文書は、もはや印籠にはならない。だから、本作で描かれていることは、もう、今の日本じゃ通じないワケよ。文書くらいじゃダメってこと。

 じゃあ、何なら印籠になるのかね? 音声データ? それだって、「自分の声かどうか分からない」って言っちゃえば、有耶無耶になる。今時、動画だって簡単に捏造できる時代ですよ? もはや、権力者に突き付けて崩せる印籠なんて、あるんでしょーか?

 こんな映画作って“権力者に一矢報いた”などと少しでも制作陣たちが思っていたら、それは、大きな勘違い。……と思うが、それでも、アメリカは大手がこういう映画を作るだけ、まだ健全さが残っており、それはメチャクチャ羨ましい。日本では、大手は絶対手を出さないはずだからね。そもそも、日本のプロダクションは、日本人を信用しなさすぎだと思う。権力批判モノを作って、叩かれることばかり怖がる。しかし、市民は意外に冷静に受け止めるんじゃないかねぇ。それくらいにはこの社会も成熟していると思うよ? 自主規制ばっかしてバカみたい。

 そんなだから、権力者に舐められるんだよ。少し前なら、恥ずかしくてとっくに表舞台から降りていたはずの人々が、堂々と大手を振って歩いている。

 ノー天気映画ばっかり国民に見せているから、国民も総白痴化しているんだろうね、多分。何が思考力だよ、何が英語力だよ、バカバカしい。

 もし、今回の文書問題が日本で映画化されたら、今なら、かなりの確率でヒットするはず。儲かりまっせ。


◆その他もろもろ

 メリル・ストリープは、正直、もう見飽きた。他に優秀な役者さんはたくさんいるはずなんだから、もっと違う人を使って欲しいなぁ。トム・ハンクスは、『ブリッジ・オブ・スパイ』のドノバンと似た印象。このお二人、意外にも初共演だとか。

 個人的に印象的だったのは、バクディキアンを演じた、ボブ・オデンカーク。とても渋くてカッコ良かった。必死で文書を手に入れ、記事化することに心血を注いだ人。ベン・ブラッドリーよりも彼の役割の方がかなり大きかったような。

 スピルバーグ作品は、やはりちゃんとエンタメとしてツボを押さえているし、こういう政治ドラマにしてはとても分かりやすいし、盛り上げ方も音楽など効果的に使っていて巧みだし、、、、。

 スピルバーグ&トム・ハンクスの『ブリッジ・オブ・スパイ』と同じで、どの要素もオールAだけど、A+が1個もない、という印象。ラストが、『大統領の陰謀』のオープニングにつながる演出は良かったけど。

 いえ、良い映画だと思いますよ、もちろん。見て損はないと思います。






厚顔無恥な人には文書も意味がないという現実が怖い。




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心と体と(2017年)

2018-04-28 | 【こ】



以下、公式HPよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 ハンガリー、ブダペスト郊外の食肉処理場。代理職員として働くマーリアは、コミュニケーションが苦手で職場になじめない。片手が不自由な上司のエンドレは彼女を気に掛けるが、うまく噛み合わず…。

 そんなある日、牛用の交尾薬が盗まれる事件が発生する。犯人を割り出すため、全従業員が精神分析医のカウンセリングを受ける事態に。すると、マーリアとエンドレが同じ夢を共有していたことが明らかになる。二人は夢の中で“鹿”として出会い、交流していたのだ。

 奇妙な一致に驚くマーリアとエンドレは、夢の話をきっかけに急接近する。マーリアは戸惑いながらもエンドレに強く惹かれるが、彼からのアプローチにうまく応えられず二人はすれ違ってしまう。夢の中ではありのままでいられるのに、現実世界の恋は一筋縄には進まない。

 恋からはほど遠い孤独な男女の少し不思議で刺激的なラブストーリー。 

=====ここまで。

 “刺激的”かどうかは意見が分かれそうなところ、、、。何で牛用の交尾薬が盗まれて、従業員の精神分析になるのかがナゾだけど、まあ、そこを突っ込むのも野暮ってもんでしょう。
 
   
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 新聞の評を見て、ちょっと見てみたくなりました。ハンガリー映画といえば、衝撃の映画『だれのものでもないチェレ』なんだけど、フランスやドイツと合作というと色々あるけど、ハンガリー単独制作で、ハンガリー語の映画(で日本公開されたもの)って、割と少ないような。大悲惨な『~チェレ』とは大違いで、本作は鑑賞後感は良いです。


◆同床異夢、、、ならぬ、異床同夢

 私は、ごくたまに、ゼンゼン意識の外にあるはずの芸能人が夢に出て来て、その日を境に、急にその芸能人のことが気になってしまう、、、という経験がある。

 一番最近では、数年前に、何故か夢に要潤が出て来て、具体的に何をしたかはさっぱり覚えていないが、目覚めたときに“要潤と夢で会った”という認識だけは明確にあるわけよ。多分、そのちょっと前に彼をTVか何かで見掛けたからだとは思うんだが、要潤には申し訳ないけれど、正直“何で要潤??”と思いつつも、数日ほど気になっちゃったりして。せいぜい数日くらいしか持続しない、ってところがミソなんだけど。

 同じ夢を見ていたことが分かっただけで、それまで同じ職場の人でしかなかった男性が、急に気になる存在になる、ってのは、私の“夢で要潤”体験と似ているのかなぁ、、、と、スクリーンを見ながらボーッと考えてしまった次第。

 一緒に寝ている男女が、それぞれ別の相手とセックスする夢を見るハナシならごまんとあるけど、別々に寝ている男女が、それぞれその相手とセックスするという同じ夢を見る、、、ってのが、ちょっと面白い。しかも、人間としてじゃなく、鹿だからね、鹿。ハンガリーでは、鹿は“神の使い”と言われているそうな。

 でもって、そんな彼らの働く職場は、食肉加工場。牛がされ、解体され、精肉されていく過程が、結構生々しく描写される。鹿はとても神聖な描写の一方で、牛は極めて機械的に解体されていく、、、同じ動物なのに対照的な描写であることが印象的。

 自分たちは夢の中で神聖な鹿となってめくるめくセックスに興じ、現実では牛を解体する、、、。なかなかシュールです。


◆オッサンと若い娘ってのがなぁ、、、。

 マーリアは清楚で美しいのだけれど、融通が利かないタイプで、職場でも摩擦を起こして浮いている。パンフを読むと、本作の監督イルディコー・エニェディは、本作を撮るに当たり「マーリアのキャラクターを『違う視点で世界を認識していて、孤独に慣れている、自閉症スペクトラムの女性にしたかった』と語っている」とある。そのほかにも、マーリアは恐るべき記憶力の持ち主だったり、一つのことに集中してしまって回りが見えなくなったり、という性質が描写されていて、彼女の不器用さが強調される。

 一方のエンドレは、疲れた感じのオジサンで見た目もごくフツー。バツイチで、今は女っ気のない日々。ただただ真面目に仕事をして、、、何かもう余生を過ごしている感じ。

 マーリアはそんなキャラだからバージンで、エンドレをどんどん好きになっていくんだけど、どうしても一線を越えられない。夢ではセックスして、恐らく幸福感を得たのだろう。だから、エンドレと結ばれることを望むんだけど、どうしても身体が拒絶する。で、彼女は、ポルノ映画を見たり、マッシュポテトを手でグニュッと握ってみたり、ぬいぐるみを抱いてみたりしながら、イメージトレーニングに励む。この辺の描写がちょっと面白いというか、哀しいというか、、、。

 そして、ようやく、今度こそ! とエンドレに迫ると、逆にエンドレに「もう終わりにしよう」なんて言われちゃってガ~~ン!! ショック!! もう生きていてもしょうがないわ!! と極端な思考に走り、バスタブで手首を切ってしまうと言う、、、。なんとも不思議ちゃんなマーリア。このとき、手首から血が鼓動と共にドクッ、ドクッって噴き出すんだけど、これがちょっと見ていてキツかった。

 で、ここでエンドレから電話がかかってきて、、、ま、最終的に2人は無事に結ばれます。めでたしめでたし。

 でも、、、私はひねくれ者なので、スクリーンを見ながら、これが、オッサンと若い女性の話じゃなくて逆だったらどーなの?? と考えていた。つまり、オバハンと若い青年のお話だったら? オバハンは見た目もフツーで、青年は美しい、という組み合わせで、このようなファンタジーは成立するんでしょうか? 現実には難しいんじゃないかねぇ。だからこそ、映画ではそういうところに挑戦して欲しいなぁ、と思ったのも事実。

 これじゃぁ、勘違いオヤジたちに無駄な夢を与えるだけで、今話題のセクハラの領域に勇み足してしまう輩も出て来そう。罪な映画だ。


◆その他もろもろ

 マーリアを演じたアレクサンドラ・ボルベーイは、楚々とした美人で、はまり役だった。ほとんど笑顔がないんだけど、終盤、エンドレと結ばれた後に見せる笑顔が素敵だった。

 エンドレを演じた男性は俳優さんではなく、物書きの方らしい。その割にナチュラルな演技だったのがオドロキ。まあ、正直言って、あんましときめくタイプではないけれど、渋いオジサンと言えなくもないかな、、、。好みの問題です、ハイ。

 私が気に入ったのは、精神分析をする精神科医を演じたレーカ・テンキという女優さん。ちょっとセクシー系で、ホントにドクター?? って感じだけど、分析は実に的確で、頭も良い、という役をとても上手に演じていた。真っ赤なルージュが印象的。

 鹿の演技(?)もなかなか見物。夢のシーンはとても映像が美しい。静謐な画面に、官能的な鹿の姿が描かれていて、この夢のシーンを見ていると、マーリアとエンドレの恋が成就するラストが予感され、その通りのハッピーエンディング。

 本作は、昨年のベルリン映画祭で金熊賞を受賞してるんだとか。ハンガリーでも大ヒットだったらしいです。









夢から醒めても愛は冷めなかった。




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女は二度決断する(2017年)

2018-04-22 | 【お】



 ドイツ人女性カティヤと、トルコ系移民ヌーリ、一人息子で6歳のロッコは、ドイツ北部のハンブルクで幸せに暮らしていた。しかし、ある日、ヌーリの事務所の前に仕掛けられた爆弾が炸裂し、事務所内にいたヌーリとロッコは即死した。

 一人残されたカティヤは、検挙されたネオナチの夫婦の刑事裁判に参加する。裁判は、ネオナチ夫婦を有罪にできるかに見えたが、彼らのアリバイを証言する者が現れるなど、雲行きが怪しくなり、結果的に、夫婦に無罪判決が下る。

 再び絶望の底に突き落とされたカティヤは、ネオナチ夫婦のアリバイを証言したギリシア人の下を訪れ、その証言が偽証であることを突き止め、ある決意をするのだが、、、。
   
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 あちこちで紹介されていて、一応、見ておこうと思った次第。この結末を受け容れられるか否かで、本作品への評価も分かれるでしょう。ネタバレ満載なので、未見の方はご注意ください。


◆また出た、ポリティカル・コレクトネスを問う記事。

 なんだか言い訳みたいだけど、私はこの結末、頭では受け容れられないが、気持ち的には大いに共感できる。なので、股裂き状態なのだけれども、本作は良い映画だと思う。

 結論から言うと、カティヤは、このネオナチ夫婦の逃亡先まで出向いていって、彼らの暮らすキャンピングカーに自作の爆弾を抱いて乗り込み、彼らと共に爆死するのである。つまり、自爆によって、夫と息子の復讐を果たす、ということ。

 この結末に対し、某新聞で「「目には目を」の映画 いいのか」という見出しで、ファティ・アキン監督へのインタビューが掲載されていた。この記事を書いた記者(映画関連記事でよく目にするお名前で編集委員)は、明らかにこの結末に対し不満を持っており、というよりも、もっと言うと“間違っている”とさえ言いたげな書きっぷりであった。

 曰く「裁判をここまで感情的に描写すると、「推定無罪」など近代法の根本を否定し、時計の針を「目には目を」というハムラビ法典の時代にまで戻しかねない」、曰く「優れた映画は優れたプロパガンダになりうる。この映画も「裁判じゃラチがあかない」と思わせる破壊力を持つのでは?」、曰く「果たして芸術で優先されるべきは理性なのか、感情なのか」といった具合。

 記者の言いたいことは分かるし、私も、正直本作を見終わった直後、それは感じた。これでは、結局、何ら前向きな解決につながらないではないか、という感覚。

 でも、それは結局、ポリティカル・コレクトネスを創作活動に求めることに他ならず、非常に虚しいことである。そして、私は、その感覚以上に、カティヤの心情を考えると、むべなるかな、、、という感覚に支配されたのである。それに、映画とは、社会問題の解決策を提示するために撮るのではない。

 前述の記事で、アキン監督は「法律が人間の感情を満足させられないのも事実」と言っている。それはまさにその通りで、現実には法治社会に生きる人間として、法の裁きの不条理感や無念さを抱えながら葛藤して生きていくわけだが、出来ることならこの手で加害者に制裁を加えてやりたいと怒りを持ち続ける被害者や遺族がいるのは当然で、本作のカティヤはそれを実行に移してしまったわけだ。

 もちろん、賞賛されるべき行動ではないものの、カティヤの行動を正当性を盾に断罪することも難しい。私が彼女の立場でも、そうしたいと思うだろう。

 カティヤは、一度は、自分で作った爆弾を、ネオナチ夫婦のキャンピングカーの下に仕掛け、自分は安全圏に待避してリモコンのボタンを押そうとする。しかし、そこで思いとどまり、キャンピングカーの下から爆弾を回収するのである。このカティヤの行動が本作におけるキモだと思う。

 つまり、カティヤは自らも爆死することで、復讐と(殺人の)報いを受けるという両立を、彼女なりに果たしたということだろう。それで、彼女の犯した罪が消えるわけではないが、少なくとも、自分だけは安全な場所に待避し、憎むべき相手“だけ”を爆死させては、結局、自分のやったことがネオナチ夫婦と同じ次元に堕ちる、と考えたのではなかろうか。憎むべき人間と同類になるのは、それこそ死んでもイヤだったのだろう。

 自ら死を選ぶことが、彼女の罪に報いることになるとは言えないだろうし、絶望の底にいた彼女にとって自爆がむしろ救いになるかも知れないなど、議論の余地は大いにあると思うが、彼女なりの筋を通したのだ。


◆映画監督の矜持

 前述のアキン監督のインタビューで、私が最も共感を覚えたのは、記者に「この映画も「裁判じゃラチがあかない」と思わせる破壊力を持つのでは?」と聞かれたことに対する答えである。彼はこう言っている。

 「観客は我々の想像以上に成熟しているんです。この作品を見ても、『ネオナチをぶっ殺せ』という短絡にはつながらないと思いますよ」

 優れた映画監督というのは、観客に対する信頼が根底にあると、私は常々感じている。例えばハネケ作品を見ると、それは非常に強く感じる。優れた映画は、肝心なことを描かなかったり、省略したりするものである。そこは、観客の想像力で補わせようとするのだ。

 そして、実際にアキン監督の言うとおり、本作を見て、やられたらやり返しても良いのだ、と考える人は、皆無ではないかも知れないが、ほとんどいないだろう。この記者の問いかけと、監督の立ち位置は、あくまで前提条件が違うのである。創造とはそういうものではなかろうか。

 編集委員ほどのキャリアを重ねた全国紙の記者でも、そこを履き違えるものなのか。この記事を読んで、そもそもこの記者こそ、冷静さを欠いているのでは?と感じたのだが。監督はインタビューの冒頭でこうも言っている。「私自身がカティヤの行動に賛同しているわけではありません。賛同しないが、理解はしています。観客の皆さんもそこは同じだと思う」

 むしろ、アキン監督が本作を見てもらいたい人たち(思想の違いによる殺人を肯定しかねない人たち)ほど、本作を見ないだろう。彼らのアンテナに、本作の情報がポジティブに引っ掛かるとは到底思えない。なぜなら、本作はそれらの人たちを正面から否定しているからだ。そこは明快である。だから、それらの人たちは、本作を敢えて見る必要などないのだ。

 果たして、憎しみの連鎖は断ち切れるものなのか。断ち切るには、そりゃもう、この記者の言うとおり「理性を働かせる」しかないわけよ。そして、大半の人々はそうして、哀しみや怒りと葛藤しながら生きている。復讐譚は嫌いだとどこかでも書いたけれど、結局、連鎖するから嫌いなわけだけど、本作にはあまり嫌悪感を抱かなかった。それは明らかに犯人であるにもかかわらず無罪となった不条理が前提にあって、いわゆる“逆恨み”ではないと考えるからだ。

 私なら、やはり自爆するのは怖ろしさが先に立って、できないと思う。だから、きっと、自らの手で制裁を加えることもできないだろう。妄想は四六時中するだろうが。


◆その他もろもろ

 本作は、実際にドイツであったネオナチによる連続テロ事件に着想を得て撮られた映画とのこと。被害者がトルコ系の移民で、本作のヌーリもそうだったが、過去に麻薬密売に関わっていたなどの経歴から、仲間内の抗争事件との見込み捜査が展開され、ドイツ警察の戦後最大の失態といわれているそうな。初動を誤ったことにより、テロによる被害を拡大させ、大問題になったらしい。

 パンフで、ダイアン・クルーガーが語っているが、いまだに、金髪碧眼のドイツ人と、トルコ系の移民の結婚はタブー視されているとのこと。やはり、そういう民族感情というのは根強いものなのだ、、、。

 ヌーリの事務所が爆破されたとき、カティヤは友人とスパでリフレッシュしていた。それも、彼女の絶望感をさらに深めたに違いない。実際、2人の葬儀の時、ヌーリの母親に「あなたがロッコと一緒にいたら、孫は助かっていたのに」(セリフ正確ではありません)と言われ、彼女は更なる苦しみに苛まれるのだ。

 彼女を支えた弁護士のダニーロの言動にちょっと不可解な点もある。ヌーリとロッコが亡くなり、哀しみに打ちひしがれるカティヤに、ダニーロは薬物(大麻?コカイン?)を手渡すのだ。気分転換にと、、、。それで彼女は警察に調書を取られる。それが裁判に当然不利になる。また、ネオナチ夫婦のアリバイを証言する怪しいギリシア人の証言内容について、彼は現地に行って確かめることもしない。弁護士としてこれってどーなの?

 まぁ、別に気にするほどのことでもないのだが。

 印象的だったのは、ネオナチ夫婦の夫のお父さん。このお父さんが、警察に通報したことで、彼らの検挙に至ったのだ。彼は、法廷でカティヤに哀悼の意を表わし、この瞬間だけが、本作で少し慰められるシーンかも。お父さんとカティヤは、法廷の外で短い会話を交わし、お互い出身地が近いことを知る。そしてお父さんは「いつか、コーヒーを飲みに来てください」と言う。彼がこう言った真意は分からないが、「お互い苦しいけれど生きていきましょう」ということだったのでは。このシーンは、結末から辿ると、非常に胸が詰まる。

 昨年、ベルリンに行った際、トルコマーケットを(駆け足だったけど)訪れた。たくさんの店がでていて、山のような商品が並んで、皆が楽しそうで、、、。それは、移民がベルリンという街に根付いて、社会を築いた象徴のように感じたのだが、それはベルリンだからだったのか。北部の街は、まだまだ保守的だったのだろうか。……いや、きっと、どこにでもネオナチ的な者たちはいるに違いない。けれども、本作のモデルとなった事件は、たまたま、その舞台が北部だったんだろう、、、。どの街にも、いろいろな側面があるのだ。

 ダイアン・クルーガーの出演作、多分これが初めてだと思うのだけれど、非常に正統派の美人で、なおかつ知的で品もあり、とてもステキな役者さんだと思った。他の作品も見てみたくなった次第。

 




やりきれなさに襲われる。




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ラブレス(2017年)

2018-04-15 | 【ら】



 モスクワで暮らすジェーニャとボリス夫婦は、そこそこ裕福だが、夫婦関係はとっくに破綻していた。お互い離婚の意思は一致しているものの、一つだけ問題があった。

 それは12歳になった息子のアレクセイをどうするか、ということ。なぜなら、ジェーニャにもボリスにも、もう恋人がおり、2人とも新しいパートナーと人生仕切り直したいと考えているからだ。新生活にアレクセイは、邪魔なのだ。そんな、自分を押し付け合い罵り合っている両親の大喧嘩を、アレクセイは聞いてしまう。

 一人哀しみ泣いていたアレクセイは、ある日、夫婦の前から姿を忽然と消してしまう。慌ててアレクセイを探す夫婦だが、息子の行方は杳として知れない。果たしてアレクセイはどこへ行ったのか、、、。 
   
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜

 衝撃的な予告編の映像にKOされて、迷わず劇場へ。……見ているのが辛かった、、、がーん。


◆顔も見たくない、声も聞きたくない、同じ空気吸いたくない!!!

 予告編を見てそそられたのもあるけど、本作の監督が、あの『裁かれるは善人のみ』と同じ人だと知ったから、ってのも見たいと思った一因。アンドレイ・ズビャギンツェフ、、、と、絶対覚えられないお名前。『裁かれる~』も、結構、見ていてしんどかったけど、本作はしんどいというより、辛い、キツい、という感じだった。

 というのも、内容が本作は子どもがいなくなっちゃう話だから、ってのが大きい。どちらの作品も、人間のエゴを描いているけど、本作の方がより直截的で辛辣。しかも、そのしわ寄せが幼い子どもに向かうという、最悪の展開。嗚呼、、、。

 寒々とした風景の描写とか、全体に暗い画面とか、でもとても美しい映像なのは前作と同じだった。前作は朴訥な語り口だったけれど、本作は淡々としていて、しかし、実にエグい描写が続くので辛いのよ。なんか、容赦がない、ここまで醜い描写って、怖い。まあ、確実に誰もが持ち合わせている嫌な一面を抉っていて、ある意味、破壊的な説得力を持っている。誰も、こんなことただの映画での話、なんて言えないはず。

 とにかく、ジェーニャとボリス夫婦が、互いにその存在がストレスの要因としかなっていないという、悲惨な関係で、それをまあ、これでもかこれでもかと描く。しかも、実にリアリティがある描写の連続。私も、実態のまるでない結婚生活数ヶ月での離婚を経験したが、この夫婦の、というかジェーニャの心理が手に取るように分かってしまうのが苦笑ものだった。同じ空間にいると衝突しか起きない関係。同じ空気を吸っているのも不快、相手のあらゆる言動が不快、もう理屈じゃない。とにかく、物理的に離れるしか解決策はない。

 夫婦関係がこじれたことのない人から見ると、何でジェーニャはあんなにボリスにすぐに突っかかった物言いをするのか、と不思議に思うだろうけど、あれはねぇ、ああなるのよ、マジで。しかも、このボリスという夫、ジェーニャ以上に身勝手。なぜなら、自分はアレクセイを引き取る気など1ミリもないくせに、ジェーニャには「母親が引き取るのが普通だ。施設なんかに入れたら母親が責められるぞ」とかほざくわけだ。こんな男だったら、穏やかに口をきく気にもなれないのはよく分かる。

 そして、夫婦が破綻して一番犠牲になるのは子どもだ。仮面夫婦を続けるにしろ、離婚するにしろ、子どもは計り知れない影響を受ける。

 序盤、ジェーニャのアレクセイへの態度は非常に憤りを覚えるものがある。いくら、夫が嫌いでも、思いがけず授かった息子でも、あれは母親としてはサイテーだ。

 ジェーニャがそんな風になったのは、ジェーニャ自身が母親と関係が悪かったから、ということになっている。母娘関係が悪いのは、確かに、娘の子育てに影を落とすだろうと思う。しかし、それはジェーニャの言動を正当化する理由には全くならない。

 作中、夫婦とアレクセイのそれなりに仲良さげな家族写真も出てくるので、恐らく、年中ジェーニャがあのようにアレクセイに接していたのではないだろうけれど、少なくとも、息子を押し付け合う夫婦の詰り合いを、息子に聞かれるかも知れない状況でしてしまうジェーニャとボリスは、親としてサイテーであることだけは間違いない。

 とはいえ、アレクセイは、夫婦が破綻していることをとっくに知っている。両親の仲が悪い家庭で育つ子どもは、早く大人になることを余儀なくされるのだ。アレクセイは少年だけれど、恐らく、相当に悩み、考え、精神的には両親よりも大人になっていただろうと思う。だからこそ、両親を早々に見限ったのだ。


◆ロクでもない大人たちと、ボランティアの人々。

 本作に出てくる大人は、ボランティアでアレクセイを捜索してくれる人たちを除いて、皆例外なくロクでもない人間ばかり。

 特に、私が嫌いだと思ったのが、ジェーニャの恋人であるオッサン。このオッサン、ジェーニャが、アレクセイを愛せない理由(母親に愛されずに育ち、ボリスなんて好きでもないけどたまたま妊娠したから産んじゃっただけで、妊娠さえしなきゃ良かった!!みたいな内容)を寝物語で語るわけだが、それをヘラヘラ笑って聞いている。そして、ジェーニャが「私ってモンスターかしら?」と言うと、そのオッサンは「世界一素敵なモンスターだ」とか言うんだよね。

 私がこのオッサンだったら、母親と仲が悪かろうが、夫を嫌っていようが、それはゼンゼン構わないが、我が子を産まなきゃ良かったと堂々と言う女のことは信用できないと思う。あまりにも無責任すぎるから。こういう女は、結局、どういう状況でも不満を探して文句ばかり言う女と相場が決まっている。そんなことに、イイ歳こいたオヤジ面下げて気がつきもしないなんて、頭が悪すぎると思ってしまう。

 まあ、そんなオッサンだから、ジェーニャなんぞに引っ掛かるんだろうけれども。

 ボリスの若い恋人も、ちょっとなぁ、、、という感じではあるけれど、まあ、ああいう女性は一杯いそうな気もする。ジェーニャの母親は、ロクでもないけど、ジェーニャが妊娠したときに「堕ろせ」と言ったというのは、ある意味、親として真っ当な対応だとも思う。子育ては綺麗事では済まないからね。

 『裁かれる~』に出て来ていた大人たちも、確かみんな自己チューだった。あちらは宗教がらみで余計に胡散臭さがあったけれど、こっちは、醜い人間性が全開になってこれでもかと描写し、こっちとしては自分の姿を見せつけられているような感じで、おぞましさに襲われる。

 監督のズビャギンツェフは、パンフのインタビューでこんなことを言っている。

 「私は悲観的なのではありません、現実的なのです。もし、このストーリーをもっと楽観的なものにしていたら、観客はきっと、悪いのは相手や状況の方で、自分が変わる必要はないと思うでしょう。私は、“これではいけない、自分こそが変わらなきゃいけないんだ”と思って欲しいのです」

 「他人への思いやり、共感、尊敬がいかに大事なことか。これこそが、人間性が失われつつある現代人への警告なのです」


 ……“人間性が失われつつある現代人”ってのは???だけど、確かに本作は現実的だし、周囲への思いやり・尊敬が欠けると、こうなるという悲劇の典型を描いている。

 本作で、アレクセイをボランティアで探索する人たちがいて、これは、実際にロシアにあるボランティア団体をモデルにしているそう。よくぞここまで赤の他人のために、、、と思うほど、その捜索ぶりは徹底している。そして、本作でもロシアの警察がいかに無能かが描かれており、このようなボランティアが生まれる背景となっている、ということらしい。

 監督の言葉は、自分のことしか考えないロクでもない両親やその恋人と、無私で他人のために動く、まさしく思いやりとを、対照的に物語っている。


◆アレクセイは帰ってくるのか?

 以下、盛大なネタバレなので、未見の方はご注意を。

 そう、見る人が全員気になる、“果たしてアレクセイはいずこへ?”である。

 結論から言うと、アレクセイは不明のまま、本作は終わる。アレクセイがいなくなったのが2012年、本作のエンディングが2015年だから、3年経っても行方知れずのまま、ということだ。

 私は、アレクセイは、最初から、もう戻ってこないつもりで家を出たのだろうと思う。だから、きっと、どこかでサバイバルしているはずだと、見終わってから思った。明確な根拠はないけれど、家を出る日の朝の、ジェーニャとの会話や、防犯カメラに映らないルートで行方をくらましていることなどから、帰らぬ意思を持っていたと感じたし、結果的に発見されなかったことで、さらにその感を強く抱いた次第。

 アレクセイという我が息子が不明となったことで、ジェーニャとボリスには、計り知れない罪悪感がのし掛かったのか、互いに新生活を始めてはいるが、どちらも決して幸せそうでない描写で本作は終わる。

 では、このアレクセイ失踪事件がなく、当初の予定通りアレクセイを寄宿舎に入れていれば、2人の新生活は幸せなものになっていたのだろうか?

 まあ、なっていたかも知れないが、多分、結果は同じだったろうと思う。何か上手く行かないときに、周りのせいにして環境を変えてみたところで、監督の言葉通り、自分が以前と同じ自分であれば、同じ結果しか得られないのだろう、と思う。

 アレクセイは、こんな愚かな両親から離れて正解だったのだ。きっと、どこかで逞しく自分の人生を切り開いているに違いない。そう思わなければ、あまりにも本作は報われない。


  






ラブレスというより、ナルシシズムだろうね、これは。




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聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア(2017年)

2018-04-07 | 【せ】


 

 心臓外科医スティーブン(コリン・ファレル)は、美しい妻で眼科医のアナ(ニコール・キッドマン)と、長女キム、長男ボブの4人で郊外の豪邸に暮らしていた。

 スティーブンは、マーティン(バリー・コーガン)という少年と時々外で会っており、食事をごちそうしたり、腕時計をあげたりと、面倒をみていた。スティーブンは、かつてマーティンの父親の主治医で、スティーブンの執刀した手術の甲斐なく、マーティンの父親は亡くなった罪滅ぼしの意識もあったのか、、、。

 ある日、マーティンを自宅に招いて家族に紹介した直後、長男ボブが立てなくなる。あらゆる検査を受けても異常がなく、原因は分からない。戸惑うスティーブンに、マーティンはこう言う。

 「家族のうち、あなた以外の誰かを1人殺さないと、あなた以外の3人とも死ぬ。立てなくなった後は、食べ物を受け付けなくなる。その後、目から血を流すようになるが、そうなったら数日しか生きられない。誰を殺すか、早く決めろ」

 そんな妄言をにわかには信じないスティーブンだが、数日後、今度は長女のキムが立てなくなる。マーティンの言葉は、単なる妄言でも脅しでもないと分かり、怖れるスティーブン。

 果たして、スティーブンの選択は、、、?


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 予告編にそそられて見に行きました。『ビガイルド』に続く、コリン&ニコ姐コンビだけど、ある意味、今度は立場が逆になったかな?


◆ハネケっぽさを感じたけれど、、、。

 まず、結論から先に言っちゃうと、正直、期待ハズレでござんした。いえ、面白かったんですよ、確かに。監督の志も感じられるし、役者さんたちは皆良い演技をしていると思った。それならなぜ期待ハズレなのか、というと、それは展開がもろに読めちゃうから、まるで意外性がない、ってことかなぁ。

 世間に公開されているあらすじを読んでも、大体の察しがついちゃうんじゃない? そして、スクリーン上で概ねその察しどおりにコトが運んでいってしまうのだよ。

 いや、だから、面白かったことは面白かったのよ。それに展開が読めても面白い映画は一杯あって、これもその一つに違いない。

 ……てことは、私は何を期待していたんだろう、と考えたんだけど、なんかこう、もっと、「あ゛っ!!!」と言わせて欲しかったんだろうな、、、と。

 で、思い当たった。もう、そういう「あ゛っ!!!」には、ハネケの映画で十分鍛えられており、本作程度の描写ではゼンゼン響かなくなっているんだ、、、てことに。

 ランティモス監督作品は初めて見るんだが、この監督がハネケ作品を意識したかどうかは分からないし、パンフに収録されている短いインタビューにハネケの名前はなかった。だけど、“不条理”かつ“暴力”というハネケ作品のキーワードは、本作にも通じるし、全編を覆う不穏な空気は、ハネケ作品と非常に似ている。何より、終盤のあるシーンは、ハネケの『ファニーゲーム』を誰もが連想するものだった。

 ただ、足りないのは、"毒"。そう、私は、この毒を期待していたのだと思う。だから期待ハズレだと感じたのだ、、、多分。
 

◆何故アナには症状が出なかったのか?

 そうは言っても、もちろん、見所はイロイロあったわけで、中でも「ぎょえー」と思ったのは、ニコ姐演じる妻・アナのセリフ。家族3人(妻と2人の子ども)のうち一人を殺さなければならないと知ったアナは、スティーブンにこうささやく。

 「殺すなら子どもよ。子どもはまた作れば出来る」(セリフ正確じゃありません)

 いや~、これにはドン引きだったよぉ。別に、母親に犠牲的精神を発揮して欲しいだなんて思わないが、このセリフを言うアナの表情は冷徹でまるで迷いがない。そして、このとき、スティーブンとアナの夫婦それぞれに浮かんだ“殺すべき子ども”の顔は違っていたはず。そう、スティーブンの脳裏にはボブが、アナの脳裏にはキムが、、、。これは間違いない。

 なぜなら、それまでの描写で、スティーブンはボブを、アナはキムを、それぞれ嫌っているのが分かるからだ。そして、スティーブンはキムを、アナはボブを愛しく思っているのだ。

 このとき、スティーブンは特にセリフを返さなかった(と思う)が、否定もしなかった。否定すれば、それは即ち、妻のアナを殺すという選択になるから安易なことは言えないにしても、だ。こんなことを企む夫婦が医者である、ってことが、もの凄い皮肉である。いや、むしろ、医者だからこその冷静な判断なのかも知れないが。

 でもって、スティーブンが、マーティンの父親の手術をしたとき、実は二日酔い状態だったことも判明するんだが、それが分かる過程が、スティーブンの友人にアナが問い質すんだけど、その友人は、自分の一物をアナにしごくように要求するわけ。で、車の中で、アナが必死にしごくシーンがあるんだけど、これって必要? なんか、ただの“やり過ぎ演出”と感じたんだけど。

 二日酔いの主治医に父親を殺されたと信じているマーティンは、とにかく容赦ない。マーティンは呪術師か何か知らんが、まあ、とにかく、不思議な力をお持ちの少年で、見るからに不気味そのもの。演じたバリー・コーガンは大したもんである。こういう、訳分からん設定、私は結構好き。別に、何もかもがロジカルである必要なんてない。映画なんだからサ。

 ……にしたって、マーティンは自分の腕を食いちぎったり、何だかなぁ、だった。そのマーティンの足下にひざまずいて、彼の脚にキスをするアナとか、何かもうあらゆる事象が狂っていく感じは、割と嫌いじゃない。

 ただ、不満なのは、アナに全く症状が出なかったことかな。アナも立てなくなって、いよいよ、、、というまでにスティーブンを追い詰めた方が面白かったんじゃないかなぁ、と思ったんだけど。実際、キムが寝たきりになった後も、スティーブンはアナに「ポテトが食べたいなぁ」なんて呑気なことを言って、アナに怒られたりしているわけで。その後、大逆ギレするスティーブンは、ただただサイテーだった。

 このスティーブンという男、私は嫌いだ。一見、良い夫で父親っぽくしているが、一皮剥けば権威主義のマッチョ男で、危機管理能力ゼロ。確かに、超常現象の前に為す術ナシなのは分かるが、マーティンにも「アンタの決断力の鈍さには呆れるゼ」などと言われる始末。

 アナに症状が出なかったのは、もしかしたらマーティンに正面から向き合ったからではないか、という気もする。スティーブンは、マーティンが何故そんな復讐の仕方をするのか、直接聞いていない。アナは聞いている。そのとき、マーティンはパスタをもの凄く気持ち悪い食べ方で食べながら、「自分だけが死んだ父親と同じスパゲッティの食べ方をする人間だと思ってたけど、みんな誰でも同じ食べ方をするんだ。その事実を知って哀しい」(セリフ正確じゃありません)みたいな訳分からん話をするんだけれども、その気持ち悪い食べ方と相まって、このマーティンの独白みたいな言葉が、アナに掛かる筈だった呪いを解いたのかも、、、とかね。それくらい、あのマーティンがパスタを食べるシーンは印象的だったから。何か意味があるとしか思えない。


◆果たしてスティーブンの選択は?

 で、スティーブンは結局どうしたのか。……ってことで、ここからはネタバレになります。

 スティーブンは、ロシアンルーレットばりの方法で、3人のうち一人を殺すことを決断する。つまり、妻、長女、長男の手足を縛って拘束し、さらに、頭から袋を被せて、リビングに3人をそれぞれ自分を中心にした円の弧上に座らせる。そして、その中心で、自分も顔まですっぽりニット帽を被って目隠しをし、手には猟銃を持ち、グルグルとその場で回りながら、しばらく回ったところで当てずっぽうに引き金を引くのである。

 ハッキリ言って、このシーンは、怖ろしいというより、バカっぽくしか見えず、私は笑いそうになるのをこらえるのに必死だった。"ニット帽ですっかり顔を覆ったコリンが猟銃を持ってグルグル回っているの図"は、可笑しい以外の何でもない。

 1発目、2発目は、3人の誰にも当たらない。そして、3発目。当たったのは長男のボブ。そうだろうと思ったよ。だって、スティーブンはボブを嫌っていたからね。ニット帽で目隠ししていたけど、ニットなんて隙間が一杯あるんだから、あれは見えていたんだよ、、、、と思う。たまたまボブに当たったのではない。意図的にボブを撃ったのだ。そして、自分の可愛い娘キムと、子どもを再生産するために必要な妻は残した。

 確かに、こういう結論に至ると、ギリシア神話っぽいよねぇ。

 ちなみに、本作はあちこちで解説されているとおり、「アウリスのイピゲネイア」にインスパイアされてのシナリオ、ということなんだって。生け贄は、ボブってことなのかねぇ。

 ラストシーンも何だかヘン。ボブが死んで3人家族になり、3人で、スティーブンとマーティンがよく来ていたレストランに行くと、そこにマーティンが現れる。離れた所に座ったマーティンを見ながら、3人はレストランを出て行く、、、。キムは普通に歩けるようになり、家族には平穏が戻ったということらしい。しかし、その様子は明らかにヘンである。家族に凶事をもたらしたマーティンは、哀しげな表情で3人を見送っている。……これは一種のハッピーエンディングってことなのかね? 奇しくも、ハネケの最新作もタイトルは『ハッピーエンド』だったけど。もちろん、関係ないだろうけど。


◆その他もろもろ

 スティーブンを演じたコリンが、妻アナを演じたニコ姐に銃口を向けるという意味で、『ビガイルド』とは攻守逆転でありました。

 コリン、どう見ても外科医に見えん。髭を蓄えて貫禄を出したつもりかも知れないけど、ちょっと方向性が違う気がする。呆れるほどに役立たずの父親を、とても情けなく演じていてgooでした。

 ニコ姐は、まあ、キレイだし裸体も美しいが、その乳房(後ろからチラッと見える程度だけどね)はどう見ても人工的で、ちょっとなぁ、、、と思ってしまった。コリンと夫婦役だったけど、2人が立って向き合ったり並ぶシーンだと、明らかにニコ姐がコリンを見下ろす感じになっていたのだけど、それも演出としての狙いなのかな、、、などと思ったり。

 長男ボブを演じたサニー・スリッチ君が、なかなかの美少年だった。終盤、目から出血するシーンは、目が痛くないのか心配になってしまったけど。手足を縛られ、頭から袋を被せられ、その袋の下から赤黒い血がTシャツを染めていくシーンは、ホントに『ファニーゲーム』そのものでゾッとなった。

 しかし、本作のMVPは、なんつってもバリー・コーガンでしょ。彼の独特のルックスと、秀逸な演技があってこそ、本作の不穏さは維持されていたのです。あのパスタの気持ち悪い食べ方、素晴らしかった。これからが楽しみな俳優ではないでしょうか。あまり、好きって感じになれないけど、注目したい若者です。

 あと、ちょっと音楽が過剰演出かな、、、と思う部分も。選曲は結構好きだけど。




 



鹿は出て来ませんので、あしからず。





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白い肌の異常な夜(1971年)

2018-04-03 | 【し】



以下、wikiよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 時代は南北戦争の末期、南部のとある森の中で深い傷を負い、友軍とも逸れてしまった北軍の兵士ジョン・マクバニーは、意識を失う間際に民間人の女たちに助け出される。

 彼女たちは森の中で自給自足の暮らしを営みつつ戦火を逃れていた女学院の教師や生徒たちであった。マクバニーはそこで手厚い看病を受けるが、やがてその傷も癒えたころ男子禁制の女の園の中に紛れ込んだ敵軍の兵士である彼を巡り、女たちの葛藤に火がついていく。

 男を恐れ、疑いながらも、次第に惹かれていく女達。女たちの魅力に囚われ、その嫉妬や憎悪に翻弄されたマクバニーは単独で脱出を試みる。 

=====ここまで。

 「単独で脱出を試みる」……ってのは、そうだっけ?? てな感じですが、まあ、こんなオハナシです。なかなかこえぇ~~、です。

 
   
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 ただいま公開中の『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』があんまりにもつまらなかったので感想を書く気も起きず、元ネタとなった本作を再見。ウン十年ぶりに見たけど、ソフィア・コッポラはかなり元ネタの展開をなぞってリメイクしたんだなぁ、と分かった。……が、それだけに、同じストーリーでも、こんなにも映画作品として差がつくということは、いかに、監督・演出が映像作品ではモノを言うかということを改めて物語る格好の比較対象作品である。


◆マッチョな地で行くイーストウッド

 イーストウッドは、代表作で演じたキャラのせいか男臭いイメージが強いように思うが、実生活での彼は複数の女性との間に何人も子を作り(ぶっちゃけて言えば、女好きの種蒔き男)、政治思想的には右寄りのマッチョなので、私が彼の監督作品の多くをあまり好きになれないのは、こういう彼の人間性が監督作には滲み出ている部分があるからかも知れないなぁ、、、などと時々思う。俳優イーストウッドは愛しているけど、監督イーストウッドは好きじゃないのよ。

 俳優イーストウッド作品の中で、私が最も愛しているのは、『ダーティハリー』(2以降じゃなくて最初の“1”ね)であり、その次が『アルカトラズからの脱出』であり、他にも好きなのはあるけど、まあ、“アウトローの漢”を演じている彼が好きなわけ。

 でも、本来のイーストウッドに近いのは、本作であったり、 『恐怖のメロディ』であったり、『愛のそよ風』なんかで演じていたキャラなんじゃないかな~、と思う。つまり、女難系。

 だから、あんまし彼のインタビューとか、見たり読んだりしないことにしている。実際、彼の過去の発言には???となるものも結構あり、それが彼の人間性を表わすものかと思うと、正直、俳優イーストウッドだけでなく、ハリー・キャラハンまで嫌いになってしまいそうなのよねぇ。ハリー・キャラハンを嫌いになりたくないのだ。

 ……という、私のイーストウッドへの思い入れなどはどーでも良いのだが、とにかく、本作でのイーストウッドは、ただのアホなスケベ男を実にナチュラルかつ楽しそうに演じている、ということであります。


◆飢えた雌ライオンの群れが暮らす館へようこそ。。。

 『ビガイルド』が何であんなに面白くなかったのか、、、。それは、結局、“抑圧された女たち”を描けていなかった、ということに尽きると思う。全編ほとんど、コッポラの趣味の押し付けでしかなく、プロの映画監督としての志が感じられないのがイタい。少女趣味な世界観は別に構わないが、肝心の人間ドラマがスカスカでは、面白い映画になるわけがない。

 それに比べて本作はどーよ。女たちのエゴを、醜さを、エロさを、これでもか、といわんばかりに容赦なく描くその演出を見ると、監督のドン・シーゲルは非常に優れた観察眼を持った人なんだろうと分かる(あるいは、女が嫌いか憎いか、、、。でもそんな単純でもないと思うのよね、本作を見る限り)。

 コッポラ版をピンク色とすれば、本作はどす黒さの中に赤やら青やらがマーブル状に混じっている、って感じ(ウルトラセブンのオープニングみたいな)。人間とは、単色ではないのです、複雑怪奇なのです。

 女にも当然、性欲はあります。このような、“男子禁制”の不自然な環境に押し込められ、性欲を過度に押さえ付けられれば、反動で過激になるのは火を見るよりも明らかです。性欲・性の快楽=邪悪、というカトリック独特の教えの影響が本作でも全開に、、、。

 41歳のイーストウッドみたいな、男汁の滴る超イケメン負傷兵なんかは、言ってみれば、飢えた雌ライオンの群れに放り込まれた怪我したガゼルみたいなもんです。よってたかって貪り食われるのは、まあ、自然の摂理ですな。

 この、よってたかってマクバニーを貪る女たちの浅ましさよ、、、。下は10歳の少女から、上は40歳を超えると思しき校長まで。

 冒頭の森の中で10歳の少女エミーに助けられる場面で、南軍に見つからないよう少女の口を塞ぐために、マクバニーはためらわずに彼女にキスをする(今なら犯罪)。この長~いキスで、エミーは陥落してしまったんだわね。この子はこの後、展開上キーマンになるんだけど、なんか、いちいち言動が癇に障るというか、“ヤバいコ”なんである。コッポラ版には、そもそもそんなキスはないし、エミーのキャラも割とフツー。

 で、本作では、先生のエドウィナ(エリザベス・ハートマン)が良い。いかにも男性に免疫のない真面目そうな女性で、なおかつ確かに清楚な美しさもある。だから、百戦錬磨のマクバニーの「あなたのように美しい女性は初めて見た」などという甘言にあっさり騙され、簡単に性欲に支配されてしまうシーンを見ていても説得力がある。一方、コッポラ版でこの役を演じたのが、キルスティン・ダンストなんだよねぇ、、、。そして、コリン・ファレル演じるマクバニーは同じセリフを彼女に言うんだよ、これが。しかし、言われているこっちのエドウィナは、あのキルスティン・ダンスト。彼女の斜め横顔アップのロングショットが映るスクリーンを見ながらマクバニーのセリフを聞いているのは、ものすごい違和感しかないんだけど、これ、どーすれば良いのさ。キルスティン・ダンストを美しいと認識すべきのか、あるいは、マクバニーの見え見えの詐言と捉えるのか。……ううむ、分からん。

 そしてなんと言っても、コッポラ版では、ニコール・キッドマン演じる校長がゼンゼンつまんないキャラの女性だったのが致命的だ。本作のジェラルディン・ペイジの醸し出す恐ろしさなど、微塵もない。ただの厳格な先生。ちょこっと色っぽい葛藤をしている風な描写もあるけど、あれじゃなんだかさっぱり分からん。夫のいる妻が不倫願望と闘っているレベル。もっと悶々として校長自らが苦悩するからこそ、ドラマになるのに。本作のジェラルディン・ペイジは露骨ではないものの、マクバニーにだけは分かるように色目を使い、実にイヤらしい。ニコ姐の演技力なら、ジェラルディン・ペイジにひけをとらないヤバさを演じられたはずなのに、実にもったいない。あれじゃぁ、ただのオバサンだよ。

 しかも、マクバニーの脚を切断するに至るのも、本作は、校長がマクバニーに振られた八つ当たりという感じで、狂っているけど、コッポラ版のニコ姐は、冷静に医学的な見地から大真面目に切断する感じで、そこに意外さも怖ろしさもない。この話において、このシーンは最大の山場であり、いかにこのシーンを描くかで作品の善し悪しを左右するわけだから、コッポラ版はここでも愚かな選択をしたことになる。

 本作の校長先生は、おまけに過去にも何やら怪しい歴史(実の兄との近親相姦)をお持ちらしい描写がチラリチラリと挿入される。しかし、あれはホントに実の兄なのか? 私は違うような印象を抱いたんだけど、、、。まあ、これは分からない。

 あと気になったのは、コッポラ版では黒人の下女を配役から省いていたこと。本作ではハリーとしてかなり重要な役どころである。校長の兄に暴行されかけたことがあるような描写もあったし、マクバニーも彼女に食指を延ばそうとしていたのだ。この役は、南北戦争という背景があれば、結構重要だと思うんだけどなぁ。


◆イーストウッド vs コリン

 で、イーストウッドですが。

 ちょうど、ハリー・キャラハンを演じたのと同時期の作品なのだと思うと、感慨深い。精力的にお仕事していたのね。やっぱり、この頃のイーストウッドが一番カッコイイと思う。もっと若い頃は、カッコイイけどちょっと軽薄な感じがするし、もっと年取っちゃうと、カッコイイ爺さんではあるけど、やっぱしねぇ、、、。というわけで、この辺りが一番脂ののっていた年代と言ってもよいのでは。

 コッポラ版でマクバニーを演じたのは、コリン・ファレルだけど、私が女学生なら、コリンよりイーストウッドに闖入してきてほしいわ。コリンはイケメンには違いないけど、眉毛が濃すぎて暑苦しい。長く見ていたい顔じゃないのよねぇ、、、。ファンの方々、すみません。それに、コリンは、イーストウッドほど憎たらしくないから、脚切られちゃってものすごく気の毒に感じたのよ。ちょっとイイ気になっちゃったけど、イーストウッドほど悪党でもなかったもんね。

 本作のマクバニーは、女性たちの前では、自分のことを“気骨ある兵士”みたいに喋っていたけど、そこで彼が実際に兵士として何をしていたかという映像が流れて、ただのセコい一兵卒でしかなかったわけだ。そして、脚を切断された後の荒れ狂い様を見ていると(まあ、勝手に脚切られちゃ荒れ狂うのもムリはないと思うものの)、粗暴な一面もあったと思われる。さらに、あの女学園での見事な女たちの間の立ち回りを見れば、あの女たらしは彼の性質そのものと言える。おまけに、頭も悪そう。

 つまり、マクバニーは、セコくて粗暴で女たらしで頭の悪い、イケメンであることを除けば良いとこナシのろくでなし男なわけだよ。だから、エドウィナ先生は、あんなのと結婚しなくて正解だったわけ。

 そう、コッポラ版で唯一、本作より良かった点は、マクバニーが毒茸料理を食べるシーンで、エドウィナ先生がその茸料理を口にするところの描き方かな。本作では、エドウィナ先生が食べそうになったところで、校長先生が「ダメ~~~ッ!!」と絶叫するんだけど、コッポラ版では、女子生徒の1人が「先生、茸あんまり好きじゃないでしょ」とさりげなく彼女に食べさせないようにしていた。そして、女子生徒たちは、茸料理の入った大皿を黙々と回すシーンが、ほんの少しだけ緊張感を出せていた。……でも、ほとんどそれだけ、と言っても良いくらい。

 というわけで、コッポラ版をこき下ろすために本作の感想を書いたみたいになっちゃったけれど、イーストウッドが他人に殺される唯一の映画ということでも、一見の価値はあると思います。

 







 



ゲスの極みイーストウッド(マクバニー)。




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エスター(2009年)

2018-04-01 | 【え】



 3人目の赤ちゃんを流産したケイト・コールマン(ベラ・ファーミガ)は、悪夢にうなされる日々。夫のジョン(ピーター・サースガード)はどうしても3人目を欲しがっている様子。2人の間には、息子のダニエル(ジミー・ベネット)と、難聴の娘マックス(アリアーナ・エンジニア)がいたが、3人目の子どもを養子として迎えることを決める。

 孤児院に行ったケイトとジョンは、そこで9歳の少女エスター(イザベル・ファーマン)に出会う。夫婦はエスターを一目で気に入り、エスターを3人目の子どもと決め、家に連れて来る。

 しかし、エスターがやって来てから、家族の雰囲気は悪くなり、良くないことが続けて起きるようになる。そして、エスターも何か様子が変だ、、、。何者なの、この女の子!? ギャ~~ッ!!
 
   
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 前から気になっていた本作。何かジャケットの少女の顔がヤバいんだもの。……とはいえ、全く予備知識はなく見ました。ジャンル的にはホラーになっているけど、蓋を開けてみればサスペンスでございました。


◆なんだ、モンチャイものか……と思ったけれど、、、。

 そもそも、ケイトとジョンの夫婦は、2人の可愛い子どもがいるのに、何でわざわざ3人目を養子に迎えるのか、、、? というのが疑問なんだけど、まあ、その辺は文化の違いってやつかなぁ、、、と。アメリカでは、実子がいても養子を迎える家庭は珍しくないみたいだし。

 で、この夫婦、実は問題が。ケイトは以前アル中だった。で、酔っ払っているときに、娘のマックスが庭の池に落ちて死にかけたという事故があって、それがきっかけとなってケイトはアル中から脱したらしい。夫のジョンは、10年も前のことだけれども不倫をしていて、それが2年前にケイトにバレたんだとか。夫婦ともども脛に傷持つ身だけれど、何とか夫婦再構築を図っているところへ、ケイトの流産が起きた、、、ということみたい。

 それにしても、、、。この夫婦はあらゆる場面において非常に軽率で唖然となる。その最たるものが、エスターを養子に決める場面。孤児院で一目惚れ、、、は、まあイイにしても、エスターの過去には不幸が多いと分かっても、そのことをよく調べもせずに(孤児院の院長も詳細を把握していない様子)、「でも良い子そうだから! 可愛いから!」という短絡的な理由であっさり決めてしまう。

 ……とはいっても、仮に夫婦がもっと慎重に時間を掛けてエスターを観察したとしても、エスターの方がよっぽど賢いから、この夫婦をだまくらかして養子になることくらいはお茶の子さいさいだったろうな、とも思うが。

 中盤までは、モンチャイ(モンスター・チャイルドの略)ものかと思って見ていたんだけど、それにしたって、エスターの悪知恵の働かせぶりは子どもにしてはえげつなさ過ぎるよなぁ、、、と感じていた。車のギアをバックに入れてアクセル押して車を暴走させるなんて、ちょっと9歳のガキンチョが出来ることじゃないだろ、、、と。

 とにかく、普通、モンチャイものって『少年は残酷な弓を射る』みたいに不条理感炸裂で、親に同情しやすいんだけど、本作の場合、夫婦がマヌケ過ぎ(特に夫)なんで、不条理感より、イライラが募る。まあ、エスターを活躍させるためには、エスターを庇う存在(=夫)がいなきゃいけないのは分かるが、実子の言うことよりも、昨日来たどこのウマの骨とも知れないこまっしゃくれた娘の言うことを安易に信じる父親なんて、それだけで地獄行きだろ、、、(と思って見ていたら、ホントに地獄行きになる!)。

 そして、終盤に至り、本作はモンチャイものではないことが明らかになるのであった、、、ごーん。


◆エスターって何者??

 さて、ここからはネタバレですので、未見の方はご注意を。

 それでは、見出しの疑問について。

 そう、エスターはモンチャイなんぞではありません。立派な“大人のオンナ”だったんであります。どういうことか。

 つまり、エスターは病気(下垂体機能不全)で、身体の成長が止まってしまった。だから、外見的には9歳に見えるけれども、実際は、33歳の大人なのである、ということ。

 彼女の不幸な過去は、子どもの外見で大人の男を誘惑し、振られた腹いせに殺人を犯して来たことによるものだった、、、。

 ううむ、、、このオチには参りました。ゼンゼン想像していなかった。オカルト系に展開するのかと思っていたら、極めてロジカルな展開になっていくではないか。実際に下垂体機能不全というのは難病指定されているようで、エスターみたいになるのかどうかはともかく、彼女をただのエスパーではなく難病を抱えた哀しい背景があったという設定は、好感が持てる。

 このオチにつなげるために、上手く伏線が仕掛けられており、見終わって“なるほど、、、”となるのがニクい。伏線の一つは、エスターが決して歯医者に行きたがらないこと。そら行けないわな、33歳が9歳に化けてたんじゃ、、、とかね。他にもあるけどそれは見てのお楽しみ。

 そして、33歳の正体を現したエスターがこれまた怖い。特殊メイクで一気に老けたエスターが狂気を纏ってケイトに襲い掛かってくるわけ。ちなみに、地獄行きだと思っていたジョンは、エスターに滅多刺しにされて呆気なく絶命する。正直、ジョンのこと、ゼンゼン可哀想と思えなかった。

 エスターに焼き殺されそうになったダニエルは、多分助かったのだと思うが、最後までダニエルが元気になった姿は出てこなかったので、この辺は分からない。

 いずれにしても、なかなかよく出来たホラー・サスペンスだと思う。


◆その他もろもろ

 母親のケイト役が、またベラ・ファーミガか、、、とちょっと笑ってしまった。というのも、彼女は『ジョシュア 悪を呼ぶ少年』でもモンチャイの母親役を演じており、『ジョシュア~』のラストがどうなったかは忘れてしまったけれど、とにかく、彼女が演じていた母親が不安定すぎて、こんな母親じゃ、そら子どもはモンチャイにもなるわな、、、というような話だった気がする。

 『ジョシュア~』の母親役のイメージが結構強かったから、彼女はモンチャイもの専門か? なんて思ってしまった。『ジョシュア~』が2007年の制作だから、その2年後に本作ということか、、、。しかも2008年には『縞模様のパジャマの少年』を撮っている。こちらでも母親役で、しかもちょっとマヌケなおかーさんだった記憶がある。なんだかなぁ、、、。たまたま続いただけだろうけど、奇遇だね。

 しかし、本作は、なんと言っても子役2人の演技に尽きる。

 1人は、難聴の娘マックスを演じたアリアーナ・エンジニアちゃん。まあ、とにかく可愛らしい。喋れない役だから難しかっただろうに、実に表現豊かに演じていて素晴らしい。きっと演出が良いんだね。それは、エスターを演じたイザベル・ファーマンを見れば分かる。

 もちろん、もう1人は、そのイザベル・ファーマンなんだが、大人顔負けの下ネタを口にしたり、ジョンを誘惑したり、、、という子どもが演じるにはいささか無理がありそうなシーンも非常に不気味に演じていて圧巻。素のときの画像を見ると、ホントにフツーっぽい少女だけれど、それだけにこの変貌ぶりに瞠目である。その後、あまり出演作に恵まれていない様だけど、頑張って欲しいものです。
 








ベラ・ファーミガはモンチャイのママ役専門か!?




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