映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

子供たちは見ている(1943年)

2019-01-16 | 【こ】



 少年プリコの母親ニーナ(イザ・ポーラ)は、真面目な夫アンドレア(エミリオ・チゴーリ)がいながらロベルトという男と不倫している。ロベルトは、ニーナに駆け落ちを迫り、ニーナはプリコを思いながらも、ある晩、家を出て行く。

 しかし、プリコは母親が突然いなくなり、祖母宅へ預けられるなどして環境が変わったストレスからか高熱を出し、それを聞かされたのか、ニーナは再びプリコと夫の下に戻ってくる。夫は、プリコのためにもニーナとやり直すことを受け容れ、再び3人の平穏な生活が戻るかに思えた。が、ロベルトは執拗にニーナを口説きに現れ、プリコと夫の3人でバカンスに行ったリゾート地まで追って来る。

 ロベルトが来ているとも知らずに、一人先に帰った夫アンドレアだったが、アンドレアがいなくなった途端、ニーナの前にロベルトは現れ、執拗に口説く。最初は拒むニーナだが、次第に大胆になり、よりを戻してしまう。

 そんなニーナを見て、プリコは、また母親がいなくなってしまうのではないかと不安に駆られたのか、父アンドレアのいるローマに一人で線路伝いに帰ろうとする。プリコが行方不明になり大騒ぎになるが、無事プリコが保護された後、母親はやはりロベルトの下へと去って行く。そして、たった一人でアンドレアの待つ家に帰るプリコだったが、、、。

 ……『自転車泥棒』『ひまわり』ビットリオ・デ・シーカが監督。かなり初期の頃の作品。
 
 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


◆愚かすぎる大人たち

 デシーカ作品は、『自転車泥棒』『ひまわり』しか(多分)見ていないが、『ひまわり』は好きではないが非常に印象に残る良い映画だと思うけれど、『自転車泥棒』は見ていて非常にストレスが溜まる映画だった。なぜなら、あまりにも子供の親が愚かだから。そして本作、、、。

 『自転車泥棒』といい、本作といい、子供の親たちがあまりにも愚かで泣けてくる。

 子供の母親が夫以外の男と不倫なんて、、、という意味で愚かと言っているのではない。まあ、確かに賢い行動とは思えないが、人を好きになるのは理屈じゃないから仕方がない。夫アンドレアは真面目で誠実で一応優しいが、威圧的な感じで気難しそうだし、そもそも雰囲気が暗い。ああいう男と一緒に暮らしていると、ちょっとストレス溜まりそう。だから、かなり強引で男臭いロベルトが、ニーナの目に魅力的に映るのは分からないでもないのだ。

 何が愚かって、出たり入ったりを繰り返すところ。そして、子供の前で夫以外の男との情事を繰り広げるところ。これはさすがにダメだろう。

 子供がいようがいまいが、夫と愛人の下を行ったり来たりするのは節操がなさ過ぎる。そして、我が子の前で、その子の父親以外の男とイチャイチャしている神経が理解できない。もう、このダブルパンチの愚かな行動により、私はニーナを“おクズさま認定”いたしました(ちなみに、「おクズさま」とは、先日見ていたTV番組「ねほりんぱほりん」で山ちゃんとYOUがヒモ男のことをこう称していました)。

 というか、ニーナという女、あまりにも主体性がなくて、中盤以降バカ女に見えてくる。序盤はまだ、“主婦のよろめき”だろうと許容できていたけれど……。なんでこんなに彼女は主体性がない人間なのか。自分がどう生きたいのか、ということを“自分の頭で考える”という描写が一切ないのが見ていて辛い。ただただ愛人や現状に流されるだけ。下半身の緩い女という感じでもなく、緩いのは何よりも彼女のオツムであることが哀しい。

 それにしても『自転車泥棒』の父親といい、ニーナといい、デシーカはどうしてこうも愚かな大人を、主人公の子供の親として設定するのだろう。『自転車泥棒』の場合は、貧しさゆえ、、、という尤もらしい説もアリだが、本作の家族は中流階級で決して貧しくはない。上記リンクの本作の説明では「子供の眼を通して大人の世界を批判したものである」とあるが、批判するのなら、もう少しマシな大人を設定してほしいものだ。こんな、万人に愚か者の烙印を押されそうな大人、批判にさえなりゃしない。

 『自転車泥棒』は名作として名高いのだけれど、私は、どうしてもあの父親がダメで、名画とは思えないのであります、、、ごーん。

 本作について、ネットで検索してみたのだけど、ほとんど感想やらレビューやらがヒットしなかった。これ、最近DVD化されたんですかね? だからかな?? 実は、私自身、本作をなぜリストに入れたのか、まるで記憶にないのだけれど、、、。もしかして、新作の中にあったのかしら。

 本作について、wikiでは「ルキノ・ヴィスコンティの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』、アレッサンドロ・ブラゼッティの『雲の中の散歩(英語版)』と並んでネオレアリズモの嚆矢と見なされている」とあるけど、本作もやはり名作と言われているのかしらね?


◆唖然呆然な終盤の展開

 以下、結末に触れています。

 ちなみに、ニーナが再度夫アンドレアを捨てたことで、アンドレアは絶望し、プリコを修道院(?)に入れ、院長と思しき人に「あの子を我が子のように愛してください」というようなことを言い、プリコには今生の別れを言い、去って行く。そして、自ら命を絶ってしまうのである。

 え゛~~~!! と思ったのは私だけ???

 もうね、ここまで来ると、アンドレアも愚か者と言いたくなる。一人息子を残して、妻に逃げられたからと言って絶望して自殺。それは、確かに生きているのも辛いことかも知れないけれど、残されたプリコの気持ちを考えない父親ってのはどーなのか??

 それを聞いたニーナは、プリコのいる修道院に来て、涙ながらにプリコと再会するんだけど、プリコはニーナに駆け寄ることはなく、泣きながら立ち去っていく。……当たり前だろ。

 まったく……、子は親を選べないとはいえ、こんな両親の下に産み落とされたプリコこそ、絶望したくなる人生ではないか。

 こういう批判をして欲しかったのかしら、デシーカは。これほど究極の愚かな大人を用意してまで糾弾したかったことって何なのだろう。

 プリコのその後を思うと、もう涙も出ませんよ、マジで。ニーナが修道院に来たシーン、私は、ドン引きで見ていました。何なんだこいつら、、、みたいな。アンドレアにも、最後の最後で裏切られた思いで、全然同情できないし。せめて、アンドレアには父子2人でたくましく生きて欲しかった。そういうラストにしてくれても良かったんじゃないのかな。ここまでプリコをどん底に突き落とす話にする意味が分からない。

 今んとこ、デシーカ作品で良いと思えるのは『ひまわり』だけだ、、、。後は、映画として云々以前に、内容が到底、私の感性では着いていけない。『自転車泥棒』は、それでもまだ、ラストにちょこっと救いがあったように思うけれど。
 






これぞ究極の“絶望映画”




 ★★ランキング参加中★★

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« アイ・フィール・プリティ! ... | トップ | ある日どこかで(1980年) »

コメントを投稿

【こ】」カテゴリの最新記事