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質侶(しとろ)庄の経営

(第2東名の見える夕空)

(昨日の続き)
遠江国質侶庄は、1031年~1038年頃に遠江守の任にあった大江公資(きみより)が、その在任中に大井川下流右岸の質侶牧の地を私領とすることによって成立した。大江公資の夫人は「相模」という名前で百人一首に名前を連ねる歌人であった。藤原道長一族を本家として、預所職は代々大江一族に相続され、3代目で娘に相続されて、その嫁ぎ先の藤原一族に移る。

その後、藤原永範(ながのり)により、1128年鳥羽天皇の中宮で、崇徳・後白河天皇の母である、待賢門院藤原璋子(しょうし・たまこ)の御願寺、円勝寺に寄進された。その結果、円勝寺を経営する待賢門院庁を本所・本家、藤原永範を領家・預所とする院領庄園となった。円勝寺は六勝寺のひとつで、白河のほとりに建立され、1128年に落慶供養された。

質侶庄は質侶郷、湯日郷、大楊郷の3郷に分かれるが、藤原永範の三人の子供に分割して相続された。その中で湯日郷を相続した嫡女の遺児有夜叉(宗性)は藤原宗行卿の養子になった。質侶庄湯日郷の預所職が後鳥羽上皇に収公されてしまったことについて、預所職の回復を求めて、宗行卿が後見となって有夜叉は訴訟を起した。しかし訴訟に失敗し、後に東大寺別当となった宗性は訴訟に及んだ一連の書類の控え文書の裏を、修学のため経典を書き写すことに利用した。現在、それが「宗性自筆聖教并抄録本」として、重要文化財になっているが、その裏が往時の庄園経営の実態を示す資料として注目された。その紙背文書によって、質侶庄経営の実態が色々と分かった。庄園の実態が分かる唯一の例とされるのはそんな理由による。

宗行卿はその後、承久の乱に加担した廉で捕らわれ、鎌倉に送られる途中、質侶庄のすぐ隣の菊川宿で、わが運命を中国の故事になぞらえて漢詩を残した。処刑される運命を前にして、すぐ近くの質侶庄湯日郷が養子の所領になるはずであったことが、ふと脳裏に去来したことがあったであろうか。

質侶庄の庄域は島田市金谷、湯日、阪本、大楊一帯を覆う広大なもので、田畑山野など合わせて約1700町に及ぶ広大な所領であった。その四至は、北は大井河流・鷹駒(高熊?)、西は粟峰(粟ヶ岳)・宇那河(小鮒川)、南は坂口・中山・真野崎(?)、東は中河までということが、上記「宗性自筆聖教并抄録本」により判っている。

その後、庄園には鎌倉幕府による地頭職が置かれ支配形態がさらに複雑になるが、質侶庄には地頭職が罷免され隠岐へ流罪になったため、その後地頭は置かれなかった。室町時代になって質侶庄領家職の半分が清和院長老に寄進され、室町時代を通じて安堵されてきたが、この部分が後に金屋郷とよばれ、金谷の地名が出てくる最初になる。
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