河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1382- パルジファル初日、二期会、飯守泰次郎 読売日響、クラウス・グート・プロダクション2012.9.13

2012-09-14 02:00:02 | コンサート・オペラ

2012年9月13日(木)5:00-10:15pm
東京文化会館
クラウス・グート プロダクション

ワーグナー パルジファル

ティトゥレル 小田川 哲也
アムフォルタス  黒田 博
クリングゾル 泉 良平
グルネマンツ 小鉄 和広
クンドリー 橋爪 ゆか
パルジファル  福井 敬
以上in order of appearance

2人の聖杯守護の騎士 (略)
4人の小姓 (略)
6人の花の乙女たち(略)

二期会合唱団
飯守泰次郎 指揮 読売日本交響楽団


実測値
第1幕:1時間48分
第2幕:1時間10分
第3幕:1時間16分

オールジャパニーズキャストによる極めてハイ水準なパフォーマンスであったと思います。プロダクションのみドイツ人、クラウス・グート。演出がもし日本人であったならば、第1次世界大戦の時代設定の発想はあったかなかったか微妙なところです。

第1幕、長い前奏曲が終わる5分ぐらい前に舞台が出現、横長テーブルで3人の男が晩餐をしている。
真ん中にティトゥレル。テーブル左にはアムフォルタス、右にクリングゾル。
ティトゥレルが立ち上がりアムフォルタスに近づき、いい子だねと溺愛のパフォーマンス、それを見たクリングゾルはむくれて出ていってしまう。
そして第3幕エンディング少し前に出てくるクリングゾルの動機のところでそのクリングゾルが実際に見え隠れし、舞台転換したラストでは長椅子に座るクリングゾルにわき腹が癒えたアムフォルタスが近づき、二人並んで座り、クリングゾルがひそひそと耳打ちのような仲のいいしぐさでまるで兄弟のようなシーンで終わる。
つまり二人ともティトゥレルの子。ワーグナーのオペラにおける家族レベルのストーリー展開がグートの読みではこうなったのだろう、今回は。

舞台に直接映像が重なる。第3幕での映像が極めて重要な内容を含んでいて、それが一つのアクセントとなりラスト20分に向かうのだが、どうもアクセントにはなるがそれ止まりというか、映像後の展開では時代設定のことは忘れ去られているというか、あまり配慮が感じられない。過剰演出ワーグナー・プロダクションにありがちな策を弄してそれが当節流行りなのだからと。

最後の20分ぐらいでよくわからないことがたくさん出てきました。
一階の合唱を二階で指揮する奇妙な振付。(オケピットの指揮者との位置を考えると理にかなっているともいえる)
回り舞台がわりとめまぐるしく回ります。
第1幕で痙攣していた患者が、独り舞台で痙攣演技。
使わないでただあるだけの傷口治療ベッド。(第1幕では使った)
そもそもアムフォルタスの傷口に槍をあてることは無い。槍を持ったパルジファルがアムフォルタスを抱擁するだけ。
例のクリングゾルの動機で実際にクリングゾルが回り舞台で見え隠れする。
そして最後に、クリングゾルとアムフォルタスのひそひそ話で終わる。そこにパルジファルはいない。
なんだか、2001年宇宙の旅の最後の場面でわけのわからないことがたくさん出てくる。あれを思い出しました。一コマ一コマはあまり動かない場面、それらの回り舞台が連鎖して一つのストーリーを作り上げていく、そんな感じ。
但し、この舞台をしっかり眺めるにはセンター席に座るのが必須かな。
回り舞台は360度を大きく3つのパーツに分けている、さらに1階2階の設定があるので、雰囲気、6つの場面を見れる。それが隣同士、上下同士、連関している。構造物としてのつながりだけでなく、心理的な要素も醸し出している。例えば2階のクリングゾルが床下のクンドリーをコントロールする。
ついでに言うと、第2幕ではブランコ小道具が空中から降りてきたりするが、そのわりにクリングゾルの槍は浮遊停止しないでもったまま。ハープのグリサンドとともに浮いて止まって欲しかった。贅沢な願望かな。

演出者により時代設定が語られている。それによると、
第1幕が1914年つまり第一次世界大戦の勃発年
第2幕は第1次世界大戦後の復興期へ
第3幕ではナチによる権力獲得
舞台上には映像も付き、第1,2幕では歩く両足のみが紗幕や舞台装置そのものに映し出されパルジファルを想起させる。第3幕後半では戦争行為と傷ついた人々が映し出される。第3幕の時代設定と映像のミスマッチがあるような気がしないでもないが、戦争開始からの全体的な流れととらえればいいと思う。

第1幕の前奏曲はパルジファル全曲の長さにふさわしく十分長い。前奏曲終了の5分ぐらい前に前述した舞台が出現。このやりかたはワーグナーだけでなく、イタリアものでもやる。もったいぶったやり方で既に陳腐になりつつあるが、プロダクション自体初めて見るので新鮮味はある。家族レベルの含みであり、その意味では二つ目のストーリーの方が先に出てきてしまっている感がある。
前奏曲が済んで最初の声はグルネマンツである。第1幕で一番重要な声が、いろいろなことの語り部」兼、対話相手となる。
このグルネマンツの一声でこの日の成功は決まったようなものだと思いました。大きな声で前に出る声、なめらかで聴きやすい。グルネマンツという役はもしかすると歌いやすい帯域なのかもしれない。これだけ安心して身を任せられる歌もめったにない。秀逸。
グルネマンツのみならず舞台の2階で歌うケースが多く、聴いている方も席的には2階3階4階あたりのセンターがベストだと思います。

建物は病院であろうか、負傷兵隊がベッドに多数寝ている。痙攣人間は注射を打たれるまで痙攣。
シチェーションとしては、トーキョー・リングを思い出してしまいました。あちらはあちらでリアリスティックな場面が多々ありましたけど、このパルジファルの第1幕も「血」が結構生々しくなまぐさい。
第1幕におけるパルジファルの声は無いようなもので、第2幕でクンドリーに名前を呼ばれて目覚めるまではこんな感じで、透明人間のように儀式を情景のように眺めている。また、儀式だけではなく、ティトゥレルとアムフォルタスの親子会話でも透明人間化している。パルジファルを通してこちらに語りかけてくる構成で、聴衆とパルジファルは双方同じことを理解するという構図。
これだけだとよくわかりませんが、パルジファルの声は個人的には好みではなく、のどが横に開きすぎのように聴こえパルジファルテノールの黒い艶のようなものがあまり感じられない。第2幕のクンドリーとの熱唱でもやっぱり、自分の持っているパルジファルイメージと異なりました。絶賛の嵐の中、不謹慎かもしれませんけど。
第1幕の映像はパルジファルの足、気配を感じさせるには効果的。

第2幕
色仕掛けの幕をはるかに越え、クンドリーの形相はクリングゾルのそれをはるかに越え、目玉が飛び出そうな体当り的演技はもはや演技を越えている。圧倒的な熱演でした。
クリングゾルもパルジファルもいましたけど、束になってもかなわないでしょうね。ど迫力の絶唱でした。
彼女はドラマチックでしたが、しっとりとした情緒性も素晴らしかった。何故か空中からブランコが下りてきて、母憧憬のシーン。歌詞だけみていたい。
しっとりとしたシーンの表現はいいものでした。全幕同じ舞台ですが、ここだけ床に緑の人工芝のようなものを敷き、昔の演出を垣間見た。
最後に槍が止まるぐらいの仕掛けもやろうと思えばできたのではないか。止まらないで本人が止まってしまうので印象としてはあまり動かない演出が冗長されただけでものすごいインパクトというのはない。ハープのグリサンドとともに(同じタイミングで)、なにかもう一工夫欲しかったですね。だって、観てる方もわかっているのでそれなりに期待してるんです。
オーケストラは第1幕は慎重だったと思います。それが良い方向に働いて、集中力が高く、素晴らしいハーモニーとなっておりました。第2幕もその流れ、柔らかく美しい。荒々しさがもう少しあればさらに表現に幅が出たと感じました。

第3幕
思ってもいない日にパルジファルが奪還した槍をもってくる。グルネマンツはなぜか、メモと鉛筆を取り出し、パルジファルの話の内容を書きとるしぐさ。あとでなにかに使うのだろうか。このタイトルロールは、外様の雰囲気モードです。あとで思えばここらあたりからなのかなと思います。ラスト10分でわけのわからないことがいろいろ出てきますけど、クンドリーは合唱のさなか、旅行バックをもって去ってしまう。そして、ラストシーンにパルジファルはおらず、兄弟会話で終わるわけですから。
みんな救済されたけど、元に戻った雰囲気になる。パルジファルがいつか主ではなくなったときに、歴史は繰り返される。そんなあやうさを感じました。
ラストシーンでクリングゾルに近寄るアムフォルタスは通常の大人の歩みで傷は癒えている。でもパルジファルがその槍を彼のわき腹にあてるシーンはありません。軽いハグだけです。象徴的な行為なのだからいいではないかと言われればそれまでですが、そうではないと思います。
時代設定をここで強く感じました。


2002年11月にアルブレヒト&読響はパルジファル公演を行いました。あのときはやたらと速かった。第1幕なんて1時間32分(たしか)ぐらいでしたから。それで、
飯守の棒はスローな感じは無く、棒をみていると呼吸を大事にしている。流れよりも流れへのはいり方への気配りがウエイト高い。第3幕聖金曜日やその後の最高の盛り上がりの部分でもこぶしを振り上げて赤く燃える感じは多少あるものの、彼の観点は別のところにある。入り重視でハーモニーが異様に丁寧で美しく響く。プレイヤーの初日の緊張感も良い方向に作用していたと思います。
フレーズ、メロディーラインの頭のバーが若干長めに感じる。響きを確認しあってから次に進むようなところがある。これは現代の機能的なスタイルとは一線を画す。
とはいえ、コクのある表現は味わい深く、彼の経歴から、バイロイトの空気を持ってきていると感じながら聴いているようなところもなくはない。

拍手は第1幕ザックリバランとしたもので、聖でもなんでもない。日本初演の頃とは隔世の感でしょうね。

第2幕もこれまたザックリバラン。両幕ともカーテンコールはありませんし、さっさと外の空気へといったところ。
思いはそれぞれの楽しみ方で。
おわり


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