河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

917- 読響の復習 チェリビダッケの再来日1978.3.17

2009-10-12 10:48:29 | コンサート

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昔聴いた演奏会より。1978年を書いてます。


前年の1977年に単身初来日して読響を振ったチェリビダッケが、この年、復習の確認のため再来日し、再び読響を振った。

1978年3月17日(金)19:00 神奈川県民ホール

モーツァルト/交響曲第41番

ワーグナー/トリスタンとイゾルデより前奏曲と愛の死
レスピーギ/ローマの松

セルジュ・チェリビダッケ 指揮 読売日本交響楽団

以下は当時のメモ書きより
今回の演奏は、演奏会そのものが音楽体験になったというより、一曲一曲がまさに記念すべき体験になり、一生忘れられないものとなろう。
最前列で聴きほれていた僕にとって、いつもは気になる周囲の咳払いやしぐさは、まるで視聴覚的にはいってこなかった。ひとりにさせてくれるそのありがたみ。
前回同様ピアニッシモから始まった。しかし今回はピアニッシモだけに終わるようなチェリビダッケではないことは予感していた。モーツァルトは別にして。

モーツァルト
本当はフルトヴェングラーはモーツアルトをこのように演奏したかったのではなかったか。と、演奏中にふと思った。フルトヴェングラーのモーツァルト40番は先を急ぐかのようにひた走りする。本当はいやなのにひた走りする。あのモーツァルトが自己最高の納得した表現だとは思わない。いや表現を抑えているのだ。
チェリビダッケは最高の解釈で進む。一流とは言えないオーケストラから、あのようなピッチのあった、気持ちの良いモーツァルトをきけるとは夢にも思わなかった。比較的ゆっくりと進み、音は風のように流れる。本当に軽い肌触りである。もうこれだけでまいってしまった。そして第2楽章、今にもとまりそうな遅さ。本当とまりそうだった。しかし明るかった。軽かった。
そして今日の演奏会、最高の出来栄えと思われる第3楽章。なんと快いことか。なんとさわやかなことか。もう音に浸るしかなかった。オーケストラ団員が演奏しているその喜びを僕は肌で受け取った。
第4楽章。これは迫力あるだけではなく、今日の後半のプログラムのプレリュードとなるに値するようなデーモンが乗り移ったような演奏であった。
全く素晴らしい、モーツアルトの音楽。再認識。

ワーグナー
これはこの演奏会のメインであり、チェリビダッケのメインである。醒めたワーグナーなど面白くない。この弱音の整った音楽から強音の荒れ狂う様はどうだろう。
前回、このオーケストラに教えたピアニッシモはこのワーグナーの前奏曲で最強音と化した。
荒れ狂う半音階。
いりみだれる音、音、音。
ワーグナー、ワーグナー。
完全なる悪魔の虜。
エクスタシー、震え、エロティックな感動。感動の震え以外なにもなかった。そして静寂から愛の死の高まりへと進む。しかし、前奏曲でのたかまりからは、もうひとつ退かなければならない愛の死のクライマックス。その完璧な表現。僕は音にむさぼり狂った。そして、もう一度、静寂がきたとき、このままいつまでも終わってほしくないと願っていた音楽が終った。チェリビダッケ最高の表現。

レスピーギ
おそらく、このオーケストラのフルメンバーでかかったと思う。音響は空前絶後であった。あのシカゴ交響楽団でも負けそうな雰囲気であった。それにチェリビダッケの指揮も、まるで魔物にとりつかれたような雰囲気であった。前回のピアニッシモと今回のピアニッシモとフォルテッシッシッシモ。今後またきたら読響はどうなるのであろうか。
僕は、しくじったけれどもあのピアニッシッシッシモに耐えたクラリネットに興奮した。よく頑張った。そして本当にきれいなオーケストラの音色の変化。指揮者ひとりでこうも変わるものなのか。
そして、そして、最後に、指揮者、オーケストラ、ともども狂いたけったアッピア街道の松に突入していった。あの超弱音から最後の最強音までの運び方。それに音色の変化。
チェリビダッケは狂っていた。あの三連符を振る時の棒の運び。狂気以外のなにものでもなかった。ただただ手をひたすら回すだけなのである。それについていった読響。僕も狂うしかなかった。その感激。何もかもはるかかなたに飛び去って行った。興奮。ラプトゥス、没我、狂気、あらゆるものが表現されていた。チェリビダッケよ。

チェリビダッケがいなかったら読響はあの最強音と超弱音は創設以来、今後も出せなかったであろう。そして異常なまでの音色の変化も。
チェリビダッケの演奏会で今回一番印象に残ったのは、ものすごいダイナミックレンジよりも、音色バランスである。あの弦だけしかいないようなモーツァルトにしても、異様に多彩な光をはなっていたし、ワーグナーにおけるバランス感覚も最高であった。レスピーギでは言うに及ばず。
最高の解釈者。
幸せな読響のメンバー。
この演奏会は精神的かつ肉体的な「体験」であった。
といった感想で、非常に興奮していた。ほかの聴衆がどのように感じていたかわからないが、演奏後の絶叫に嘘は無かったように思う。
おわり