河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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643‐静止状態のブルックナー4番 テンシュテット NYP 1983.11.15

2008-07-22 00:07:00 | 音楽

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1983-1984シーズンのニューヨーク・フィルハーモニック定期は、音楽監督がズービン・メータにもかかわらず、ラファエル・クーベリックにより開幕した。

メータは10月中旬にようやく登場。と思いきやまたいなくなってしまった。

今度はクラウス・テンシュテットだ。9回公演。

1983.11.910111215

1983.11.17181922

9回公演と言っても、プログラムは2本。

最初のほうはいつもの木金土火の4回公演に加え、水曜日も演奏している。

水木金土火の5回公演。

ブルックナーの4番を5回もやるといくらマイヤーズでも大変だろう。

19831115()7:30pm

エイヴリー・フィッシャー・ホール

10,305回コンサート

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モーツァルト/ピアノ協奏曲第21

  ピアノ、ブルーノ・レオナルド・ゲルバー

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ブルックナー/交響曲第4

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クラウス・テンシュテット指揮

ニューヨーク・フィルハーモニック

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静止。

ブルックナーは全く静止していた。ほかに言いようがない演奏。それに、この前(1983.11.1)聴いたフィラデルフィア管とのあまりの音の違い。

これらは、多かれ少なかれ指揮者のテンシュテットによっている。テンシュテットはテンポをあまり動かすことなく、また金管による絶叫にも、なにか節度が感じられた。

弦にしろ管にしろひとつの音をまんべんなく伸ばしていて、一つの音への配慮がよくいきとどいている。弦の音が特にいつもよりしっくりいっていたのはオーケストラの配置をかえていたせいかもしれない。これだけオーケストラのバランスがブルックナーにふさわしくなっていたのは、とりもなおさず指揮者の功績。

音楽がこのように落ち着いていると、第1楽章の幻想的な雰囲気の中で音楽が始まった瞬間から腰を落ち着けて聴きたくなる。原因と結果が逆になってしまった文章だが、実際、そのように感じたのだ。今日は演奏が始まる前から何かそのような気がしたのだ。だから演奏の素晴らしさにより、曲の構成に没入できるといった現象が発生したのだと思う。

たとえばブルックナーでも78番となってくると、いわゆる3主題形式の音楽様式がよく理解できるのだが、この4番は少し混乱するところがある。特に第1楽章は縁取りがあまり明確でない。展開部と再現部への、いりは明確だがほかの個所はすこしピンボケだ。

今日のテンシュテットの演奏を聴いていると結局、ブルックナーはこの曲ではまだはっきりとしたものをとらえていないのではないか、という説得力を感じとってしまう。

1楽章はこの点においてこのように弱いと思うが、それよりもむしろ、何か幻想的で魅惑的なものがあるから、このようによく聴かれるのであろう。

2楽章の音の絡み合いなどはヨーロッパ建築物そのものといった雰囲気があり、特に中間部から後半にかけての木管の素朴なアンサンブルは中世ヨーロッパの歴史そのもののような気がする。一見空虚に見えるがその実、よく見るとなるほどと思いたくなる。

テンシュテットの作りだすブルックナーは、このところブルックナーのレコードも出回っていて、その人気を裏付けるものがある。全くくずれがなく、プレイヤーも安心して身を任せているようであり、長身でなおかつあれだけ明快な指揮をしてくれれれば演奏もひとりでによくなるのであろう。また、このブルックナーに静止の印象を持ったと最初に書いたが、それが独立した印象をもたせることなく、注意力散漫といったことはまるでなかった。例えば、第2楽章の伴奏となるメロディーなどはっきりした意思を持ち、それが聴衆に容易に第3楽章のリズミックなものを想起させていた。また、第4楽章コーダにおいても乱れることなく最後まで3連符だらけのこの音楽の外枠を明確にしていた。やっぱりブルックナーは力のある人が演奏しなければならない。

また、この演奏で再認識したのは金管が非常に安定しているということだ。ホルンはフィリップ・マイヤーズの独壇場であり、出だしから最後まで完璧に素晴らしかった。特にピアニシモにおける抑えた表現が実に巧みであり、音がふらつくこともない。

またもう一人素晴らしいのがトランペットのフィリップ・スミス。何の苦もなくブルックナーのピアニシモ、フォルテシモ、それに複雑なリズムもピアニシモで軽々と吹きこなす様には唖然とさせられる。

金管が安定していないとブルックナーの名演もなかなか生まれてこないものなのだろう。

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さて、最初に演奏されたモーツァルトだが、これはゲルバーの軽いタッチにまず驚かされた。思い起こすにゲルバーは比較的聴くチャンスに恵まれていた演奏家の一人だが、モーツァルトは今まで一度も聴いたことがないような気がする。どちらかというとブラームスのような重い曲を聴いてきたような気がする。それだけにゲルバーからこのようにすばらしいモーツァルトが発生するなどとは思ってもいなかった。それは、はっとするほど軽いタッチで始まった。音自体も非常に鮮明であいまいなところがなくきれい。澄みきった演奏がひたすらホールのあちこちにちりばめられていく様子が手に取るようにわかり、音楽が天井から舞い落ちてくるとき、聴衆はそれに身を任せ、音楽の中にただひたすらうずもれるだけでよい。

テンシュテットは比較的小編成の曲では指揮棒をもたないが、全身これ指揮棒と言った感じで、こまごまとしたことよりも、全体の音楽の流れに気を配りながら包み込むような指揮姿であった。

上記公演は、WQXR1984.7.15オンエアされました。

おわり

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