河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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641- ミスターS ブルックナー8番 フィラデルフィア・サウンド カーネギー 1983.11.1

2008-07-18 00:17:21 | コンサート・オペラ





河童のいつもの昔話。1983-1984シーズン聴いた演奏。

ミスターSは昔、フィラデルフィア管弦楽団を振っていたことがある。
フィラデルフィア管弦楽団は、当地だけではなくニューヨークでもサブスクリプションをもつ。ボストンとかクリーヴランドとかも同じ。シカゴはプライドが高いのでたまにしか来ないが。
早い話、昔のビッグ5はみんな東よりにあるわけで、大がかりなツアーを組まなくてもお手軽に来られたわけだ。


1983年11月1日(火)8:00pm カーネギーホール

ブルックナー/交響曲第8番ハ短調

スタニスラフ・スクロヴァチェフスキー指揮
フィラデルフィア管弦楽団


聴く前から答えがありそうな雰囲気。

コーダにおいてブラスがアウフタクトからの全強奏を始めるとき、そこにはなんの思い入れもなく、マッシヴなフォルテシモがただひたすら流れるだけである。
存在するのはオーケストラそのものであり、ブルックナーの世界を感じとることはできない。
この前(1983.10.6)、つい一か月前にオイゲン・ヨッフムの指揮バンベルク交響楽団の演奏でこの曲を聴いたばかり、いろいろな意味での比較ができ興味深かった。
オーケストラに関して言えば、これはもう断然、フィラデルフィア管のほうが素晴らしく、ひとつのオタマジャクシに対する正確さが違う。もうほとんど完璧。特に金管楽器の正確さは耳に余るものがある。(!?)
金管といえばホルンはすさまじく、前後8本(+アシつき)。うち、ワーグナーチューバ4人持ち替えで、びくともしないあの威力はものすごい。
つまるところ、ブルックナーに持ち込まれたフィラデルフィア・サウンド。
このような、世界を圧するブラスの咆哮のすさまじさは例えばバンベルクが同じような吹奏をしたとしてもその感性位置はまるで対極のような気がしてならない。
指揮者によるところも大きい。ヨッフムの本当に精神的な没我をここに感じることはできない。特に第4楽章の単なる音の羅列と化したパレットには少々虚しさを感じた。音楽ではなく音のみがつながっていく。構造の連鎖をどのように感じていいかわからない。フィーリングとしては落ち着きのなさのようなものを感じてしまい、それはブルックナーに好結果をもたらさない。

そのときの感想はこんな感じで、実にあっさりと通過してしまった。
そのわりには、カーネギーホールのぼろい楽屋までいってサインのおねだりをしている。


今、メモを読み返すとどうしようもない文章が、日本人評論家に影響された言葉だけが単なる単語の羅列と化し虚しいパレットになっているようだ。
ただ、フィラデルフィア・サウンドというのは、当地と日本での意味合いがかなり異なるようだ。日本ではキラキラ輝く、音楽内容の理解とは別のところにある能天気なもの、といった雰囲気が昔はあった。これは誤りである。
フィラデルフィア・サウンドというのは、集中する音、である。ステージ上のオーケストラという楽器の中心になにか磁石のようなものがあり、楽器の音々がそこに向かっていくのである。ある個所に中心をもつ音が存在するオーケストラであり、非常に高密度で分厚く、くるいのないマッシヴなサウンド。ブラスもでかいが、かけ離れた感じはなくブレンドされている。ゴージャスというより芯のぶれない安定感が心地よい。ニューヨーク・フィルハーモニックの拡散系のサウンドとは異なる。日本人は拡散系のサウンド・オーケストラはあまり好きではないと思うのだが、昔から評論家はフィラデルフィアのなにを聴いていたのだろうか。

ということで、1983年といえば、ミスターS、60才。
フィラデルフィア管を完全にドライブするまでには至らなかったかもしれないが、自分のすべき曲はとうの昔に分かっていて、だからこのような選曲が双方からもたらされたのだろうと思う。聴くほうとしては曲の巨大さはその長さ、音の巨大さ、といったものに比例するような感じの理解であり、あまり深くはなかった。ミスターSのスタイルは昔と方向が変わったわけではない。

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